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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その15)
http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/458.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 1 月 29 日 00:55:28: BW32mpuE76J86
 

 前回(その14)http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/266.html
 の続きで、一隅よりさんのご意見がもっとも本質的なものなので、今回は、Kakasiの考えを整理をしておきます。水掛け論や言いっ放しにならないように注意しますのでよろしく・・・・。
 前提が多いので厄介ですが、Kakasiたちは商品交換一般について
「市場で売買契約が成立すればすべて等価交換である」とは考えません。ということは労働価値説でなく、また等価交換を前提とする一般的な経済学の立場を批判するということですが、これを議論すると長くなるので今はやめます。

 さて、詐欺や脅しや不正取引は、違法であることがわかれば犯罪であり一般的にも等価交換とは言えませんが、市場経済は自由競争が前提であるため、不正や不等価が隠された交換が、日常的に行われています。不正で信用をなくすような取引は、競争で淘汰されるというのは市場主義者の言い分ですが、現実はそのように甘くありません。今日では多くの法的ルールが定められています。しかし、例を挙げるまでもないですが、道交法と同じようなもので、法の網の目をすり抜けようとするのが優勝劣敗競争の実態でしょう。派遣法のように同一労働差別賃金を法自体が認め、不正を容認しているのが現実です。

 一般に商業の譲渡利潤や独占市場の独占利潤、外国貿易等は不等価交換(交換の非対称性の典型)であるといわれています。Kakasiたちは資本主義のもとでの労働者の賃金(交換価値)も、原則的に資本家に有利な不等価交換になっていると考えます。だから労働者の低賃金(搾取)を、「再生産の費用」として合理化・正当化(不正でない)とするマルクスの考えは、人間としての労働者を抑圧するものとなります。

 Kakasiの考えは、マルクスや一隅よりさんのような「労働者が自己の労働力を手放すのは自身の交換価値(再生産費用)と等価な限りにおいてである」という前提を認めません。「等価でなくても」資本家に労働力を売らなければ、(人間らしい)生活ができないのです。つまり労働者の再生産費用(交換価値・賃金)は、資本家による労働者酷使の背景があった初期資本主義の時代だけでなく、今日においても、「正常なる生活状態を維持する足りる」ものとは言えない状態があるのです。どうして低賃金を労働者(人間)の再生産費用と等価であると決めつけられるのでしょうか。労働者は、本当に「再生産費用と等価な限りにおいて」自己の労働力を手放しているのでしょうか。

 マルクスは、労働者の「必要なる欲望の範囲」を、抑圧された状態での「歴史的産物」であり、「一国の文化段階に依存している」と述べています。マルクスにとっては、労働者(人間)が資本家(人間)並みの欲望をもたないものと前提しているのです。マルクスは、抑圧された社会での、不利な条件にある労働者の再生産費用(賃金)を、階級的に抑圧されたものと捉えずに歴史的に等価として与えられたものだから、「決して不正ではないduruchaus kein Unrecht」とするのです。これは皮肉ではなくマルクス的事実を端的に表現しているのです。

 労働者の賃金は、単に文化的に規定された労働者の最低限の再生産費用をまかなえるだけの交換価値分でいいのでしょうか。現在の再生産(必要なる欲望)をまかなえないからこそ我々労働者は、組合を作って賃上げを要求するのではないでしょうか。我々労働者は、人間だからこそ一日の労働力使用分にふさわしく、また人間らしい欲望を充たせる再生産費用(賃金)となるように賃上げを要求するのです。また最近では、不当に労働力の評価に格差をつけることにも反対しています。

 Kakasi的「経済上の事実」は、労働力(人間)の価値が、どの社会的状態にあっても、マルクスが考えるほど低くはないということです。なぜなら労働力とは、資本家に使用される間も単なる使用価値ではなく、人間の価値だからです。マルクスが等価と考える労働者の再生産費用(賃金)は、マルクスの時代であっても低すぎます。その意味で、マルクスは、一方では、使用価値の不正使用を告発して労働者を解放しようとする道徳的側面をもつのですが、他方で、交換価値の被抑圧的水準(低賃金)を歴史的に合理化(正当化)するという反道徳的・人間抑圧的性格を持つのです。彼は、交換の過程では等価なので不正はなく、労働力の使用価値の不正使用を創作して、搾取の不当性(とその隠蔽性)を暴露したことにするのです。

 マルクスは「(労働力商品は)価値の源泉であり、しかもそれ自身が有するよりもヨリ多くの価値の源泉であるという、この商品の特殊なる使用価値」という表現をしています。しかし、この意味深長な記述は、Kakasi的事実ではありません。労働力が価値の源泉というのは正しいとしても、労働力自身が有するよりも「ヨリ多くの価値の源泉」というのは正しくありません。資本家が使用する労働力は、人間的労働力に応じた量の価値の源泉です。この人間的労働力の価値を過小評価して、不等価で買おうとするのが資本家です。この資本家の詐術と欺瞞と致富欲が、剰余価値を産み出します。

 資本家の欺瞞性は、使用価値(労働力の使用結果)におけるマルクス的搾取にあるのではなく、交換(売買・流通・契約)過程における等価の欺瞞性にあります。その証拠にマルクス自身も、「不正ではない」としたそのすぐ後で、「我々の資本家には、彼を喜ばせるこの事情が前からわかっていたのである」と述べています。これはもちろん売買契約(交換価値の決定)の前に、労働力を搾取(使用)するとことがわかっていたということです。つまり、Kakasiの立場からすれば、マルクスは、労働価値説と等価交換の誤った前提のままに、交換過程でなく労働過程での労働者搾取を理論づける必要があったのです。

 マルクスの基本的な考え「等価が交換されるとすれば,剰余価値は成立せず,非等価が交換されるとしても,また何らの剰余価値も成立しない。流通又は商品交換は何らの価値を生まない。」(『資本論』第4章第2篇注31直前)というのは、利潤や剰余価値の捉え方、商業利潤の本質理解の限界を示しています。マルクスには、人間の価値の本質は労働であり、労働による生産と再生産が、所有関係を含むすべてを規定(自然と人間・社会を支配)するという『創世記』的前提があります。だから、交換過程よりも労働(生産)過程が重視されます。

 しかし、Kakasi的前提は、人間の生産する生産物や所有物(価値)は、誰から誰に移動するか、または交換されるかによって規定され、商品社会における利潤や剰余は、交換契約による所有移動であると考えます。『資本論』的に言えば、労働力の使用価値支配は、搾取的売買契約に始まり、労働過程における全人格的支配に終わるということになります。労働力商品に関しては、交換価値と使用価値は、人間の所有する一体のものであって労働過程においても分離することはできないのです。マルクスのように分離することによって交換価値の評価を低めることは、マルクスが意図しなかったとしても、人間労働者(の労働力)の価値を低め、自然史過程(自然必然性)の支配下に置き、人間的解放を抑圧することになるのです。

 ということで、長々と書きましたが、Kakasi的立場や、表題の意味は理解していただけるのではないかと思います。マルクス主義とは対立しますし、平行線に終わるだろうことも予想されますが、議論を続けることができれば何かが生まれそうな気がします。よろしく。  

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コメント
 
01. 2012年1月29日 09:12:59 : ZMELvM1Cw2
≫労働力が価値の源泉というのは正しいとしても

あなたはマルクスのオリジナルをつかんでいない。
マルクスは自然を源泉とし人間の感覚器官と合作すれば、と記しているのだ。
アジアが仏教に統一されてところと同じ感性なのだよ。
西洋においてもギリシャ、そしてシェリング、ゲーテと繋がっているんだ。
マルクスが苦労したのは思考以前の、無意識の輪郭を文字で汲み取ってもらうこと。
ビルマ、清、李それぞれ無理やり開国された。
当時、アジアにおいては資本主義でない選択肢を含んでいた。
あなたは、私たちが、なぜ、今、この地点に生きているのかが、わかっていない。


02. 2012年1月29日 14:11:18 : swsf4Tw1P2
マルクスと日本共産党とは本質的に無関係である。

名前が共通しているだけ。


03. 母系社会 2012年1月29日 16:29:02 : Xfgr7Fh//h.LU : 3JwV8BNo8Y
マルクスは、『資本論』で、いきなり自説を展開するような書き方はしていません。

なぜなら、いきなり自説を極力厳密に論証しようとすると、形式論理学の典型である
数学のように、まず、基礎的な概念(A)の定義を行い、それを用いて端初となる
独自の公理的な原理を設定して、その原理から理論を展開する演繹論的方法が考え
られますが、これでは必然的に独断論となるからです。

というのは、基礎的な概念の定義を行う場合には、様々な他の概念(B)を使って、
その概念(A)を定義するしかありませんが、その様々な概念(B)自体が本当に
正しい概念であるのか、吟味=検証せずに使用して基礎的な概念(A)の定義をする
しかないからです。

というのは、説明するまでもありませんが、その概念(B)自体も吟味=検証してから、
概念(A)の定義に使用するには、更に他の様々な概念(C)を使用して吟味しなけれ
ばならないので、これではA→B→C→D・・・と無限退行に陥り、最初の概念(A)
の定義ができなくなるので、概念(B)は正しいと仮定して使用するしかありません。

すると、一見、最も厳密な学問であるかのよに思える形式論理学(数学)の理論にも、
必ずその理論自体では論証はもちろんですが、言及さえもされていない暗黙の前提
=概念(B)は正しい=があることになります。

通常、こうした演繹論的方法論は、多くの人々から正しい方法論だと思われているし、
概念(B)も余りにも正しい概念なので、いちいち吟味する必要はないと思念されて
いるのですが、それは概念(B)は様々な小さなパラダイムに正当性を保障され
ながら、最終的には、我々の時代の大パラダイム=必ずしも統一された世界観という
わけでもありませんが=が正当性を支えている概念だからです。

しかし、ある時代の大パラダイムといえど、天動説が地動説に変ったり、また、この
地動説的世界観が洗練されてニュートン力学的世界観が生まれ、更に、それが相対性理論
的世界観に変ったように、我々が現在、絶対的に正しいと考えているパラダイムも、
将来は忘れさられて新しいパラダイムに変るかもしれません。

ですから、本当は概念(B)の「正しさ」や、大パラダイムではなくとも、概念(B)を
直接支えている小パラダイムぐらいは吟味=検証しなければ、自説を「論証」したことには
ならないのですが、基礎的概念(A)の真の意味での定立さえもが不可能なように、全て
の理論・命題・概念には、必ずそのもの自体では論証も、言及さえもされていない暗黙
の前提があることになります。

通常、論争をしようとしても、なかなかまともな論争にはならず、それぞれが自説を
一方的に述べるだけに終わるのは、こうした暗黙の前提にまで遡った論争がされないから
です。

ところで、ある理論を先ほどの演繹論的に主張するということは、たとえその主張自体
では直接批判しなくても、実質的には、他の理論を必然的に批判する立場になります。
まして、直接他の理論を批判したなら、批判された側が「前提が異なる」と反論すれば、
お互いに正当性が論証されていない前提に基づいている理論なので、この反論は権利的
には正当な反論です。

つまり、演繹論的に批判するのは独断論的批判=<外在的批判>=ということです。

反進化論者に対して進化論を主張する場合でも、演繹論的方法を採用した場合は無効で
あり、馬鹿馬鹿しい反進化論者の「前提が異なる」という反論であっても、是認する
しかありません。

そこで「資本論」では、マルクスはスミスやリカードらの古典経済学の継承者から、
「前提が異なる」という反論を防ぐために、一旦、最終的には批判する古典経済学を
受け入れる地点、つまり、古典経済学(近代経済学も同じ)は、資本主義社会の「常識」
=資本主義時代のパラダイム=に取り込まれた意識で構築された経済学ですから、
そうした意識の立場から捉えられた商品の概念の説明・論述から始め、そうした
資本主義に取り込まれた意識の商品観には疑問点・弱点があることを、少しづつ、
段階的に指摘して資本主義社会の「常識」から引き離し、徐々にマルクスの真の意識
に近づけてゆく手法=一般的に受け入れられている概念を端初に設定して吟味してゆく
マルクス的上向法=を採用したのです。

つまり、古典経済学の誤りに古典経済学者自身が気づき、自ら修正させる<内在的批判>
を目指したのです。

こうした弁証法的な方法論がわからない人は、マルクスの論述には矛盾があるとか、
的外れな初歩的マルクス批判をして、マルクスを批判した気になっています。

マルクスといえど、我々と同じように時代的制約の下で思考したのですから「誤り」
があるはずで、そうした限界性の問題はヘーゲル自身が既に気づき、マルクスも継承
していたので、マルクス理論を内在的に批判するなら、マルクス自身が大歓迎するはず
です。

日本共産党(不破氏)の理論をいくら批判しても、彼ら自身がマルクスを誤解している
ので、マルクスを批判したことにはなりません。マルクスを批判するなら、「資本論」
などのマルクスの著作自体を対象にして、しかも<内在的に批判>しなければ、マルクス
を批判したことにはならないのです。

ヘーゲルやマルクスが作り出した世界観は、現代思想自身が後追いしている状態であり、
まだ、誰も超えてはいません。是非、広松渉の著作を真剣に検討して下さい。

広松は現象学も批判しています。現象学をいくら批判しても、広松を批判したこと
にはなりません。

広松もマルクスと同じ歴史的相対主義の立場ですから、まともな批判なら、広松自身が
あの世で大歓迎するはずです。

とにかく、マルクスや広松を<外在的に批判>するのは止めて下さい。お願いします。


04. 一隅より 2012年1月29日 23:19:58 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
(以下では、〔>>03 母系社会さんのおっしゃるのもそこのところかもしれませんが〕、まずとりあえずは互いに皆の間でも通用する、できるだけ日常的な言葉で考えてみたいと思います。そうすれば水掛け論にはならないと思います。)

Kakasiさんが、利潤の源泉を「商品交換の非対称性」に求めるのは果たしてどうなのだろうか、質問してみようと考えていたところ、今回、先にこたえていただいたようです。
こう書かれています。
 ↓
労働者は、>「等価でなくても」資本家に労働力を売らなければ、(人間らしい)生活ができないのです。つまり労働者の再生産費用(交換価値・賃金)は・・・今日においても、「正常なる生活状態を維持するに足りる」ものとは言えない状態があるのです。


Kakasiさんは次のA,Bのうちどちらを問題に(どちらをより大きな問題と)しているのか。

この地球上にあってわれわれ人間に関わる「もの」(=精神的なことを除く)を、3つに分けます。
1.
はじめから誰のものでもなく「存在」して、いまも誰でも自由につかえるもの。
意外に少ない。太陽の熱・光と、空気、雨水くらいか。
2.
現在、誰かのものであって、人間の利用享受できるもの。
3.
上の1、2のものを用いながら人間が、2のものに『付け加えて』うみ出した(生産した)もの。

まず、この3が、利潤の源泉の問題です。A=「付け加えて」うみ出されたものはどこから来るか、です。
次に、B=この3、「付け加えて」うみ出されたものをどう分配するか、の問題があります。


Kakasiさんは、B=付け加えてうみ出されたものの分配を、その不公平・不公正を、主に問題にされているようです。

分配の不正義は、マルクスも厳しく指摘している。
しかしこの不正義=労働者からの「不等価・非対称」の収奪がされるのは、合理的な経済原理によってではない。
それは、経済外原理(要するに「強制」されて、あるいは騙されることもあるが)によってされる。

資本主義は、その「合理的」経済原理だけでは、永続的にはやっていけない。
そこで(ときどき)「経済外原理」(=経済外的強制や欺瞞・欺罔)に頼らなければならなくなる。
Kakasiさんも「その13」で、>労働者のように弱い立場の・・者は、交渉(取引契約)によっては、あからさまな損失・・を受け(る)、といっている。

富・財の移動移転の不合理=不正義のかたちはさまざまだ。
かつては帝国主義的侵略(=経済外的暴力だ)が、新大陸で、アジア・アフリカであった。

市場拡大先が狭くなってからは、恐慌や戦争によって、過剰になった生産力をムダに費消し(=労働者の負担において)、調整することが必要になった。
戦争はまた、もともと存在しない需要を人工的・強制的につくりだすことでもある。

もっと重要なのは、税だ。
徴税という権力的強制によらなければ資本主義はその維持費用をまかなえない。
だからときどき増税を必要とする。今の日本もそうだ。

日常的にいちばん重要なのは、労働強化=労働時間の収奪だ(裏返していえば賃下げ圧力だ)。
これが、労務管理、「合理化」という、経済外圧力でされていることは、日々体験する。
(派遣労働という安価労働力の確保も、その手段として大々的にやられている。)

このように様々なやりかたで資本主義は、その存続の費用のためにも、労働者から強制的にかき集める。
あるいは、労働者の損失・費用=犠牲で(=生産力破壊で)、何とか一息つく。
そうでなければやっていけないのだ。


Kakasiさんが問題とするのは、これらの点(とくに最後の、労働者からの「収奪」)ではないでしょうか。

たしかに労働者は、自ら働き生活する者たちは、「収奪」されている。
だから自ら働き生活する者たちは、さまざまな経済外圧力=強制=不合理・不公平とたたかっていかなければならない。
戦争にたいしては、平和運動で。国際連帯を求めて。
増税にたいしては、生活を守れと訴えて。
賃下げ・合理化にたいしては、賃上げ・労働条件改善を要求して。

しかし、これらは分配=利潤の取り分の調整、の問題(=B)だ。(A=利潤の源泉の問題ではない。)

Kakasiさんは、この公平公正な調整をどのようにして実現しようというのか。

いや、「どのように」=方法の問題の前に、まず「どのようなところに公平のラインを設定するのか」、聞いてみたいと思います。


私は、この公平公正のレベルの設定も、まず、A=利潤の源泉の問題から論じなければ答えは出ない、と思います。(これはまた後にします。)


05. Y. Kakasi 2012年1月30日 00:43:52 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
 皆さんコメントありがとうございます。

01)さん、難しくてKakasiの教養ではいまいち理解できません。
とても哲学的な内容なので、なぜ、今、この地点に生きているのか、
教えてください。とても興味があります。

02)さん、でも不破さんたちは、マルクスをとてもよく勉強しておられます。どこがおかしいのでしょうか。

03. 母系社会さんの主張はよく理解できます。
でも、なかなか「阿修羅の世界」で<内在的批判>をするのは難しいです。またここは<内在的批判>をする場所でもなく、独断的な<外在的批判>こそが面白いのだと思います。

 広松さんを推奨されているようですが、Kakasiは、広松さんのように「近代的世界了解の先入観をしりぞける」(『世界の共同主観的存在構造』)ことだけでは、人間とその社会の本質を捉えそこなうと思っています。つまり、ギリシアに始まる西洋的合理主義の批判的解明(言語論の革新)が必要という独断的主張になります。

 今日の認識論の探求では、言語の役割が注目されていますが、広松の「言語的世界の存立構造」では、近代的認識論の限界を超えることはできません。彼の独断的な「言語の四機能説」は、ヴィゴツキーやルリヤの解明した「内言」の機能を取り入れていません。言語には、自己と対象をどのように合理化するか、というような言語による思考や自己規制の機能もあるのです。

 広松自身が自らのことを述べているように、彼の理論は「所詮プレルディエンたるにすぎぬ」ということなのです。
 内在的批判らしきものは、次のweb sitteへよろしく。
 →http://www.eonet.ne.jp/~human-being/purato.html

05一隅よりさん、独断的な主張の投稿にも拘わらず、丁寧でわかりやすいコメントにいつも感心しています。「日常的な言葉」はとても大切です。
マルクスが日常的な言葉ではないので、つい難しくなります。
気をつけますので時間をください。


06. 2012年1月30日 08:34:32 : rPadd1o9PI
>>05

「とても哲学的な内容なので」
マルクスの核心は1、感性それ自体を思考の対象にすること(個別性)、
2、社会は個別性から感じると、偶然的、抽象的、平均的で個別性を奪われること、です。

「なぜ、今、この地点に生きているのか、」
就職して、同じ仕事でも会社に賃銀が違う状態。
自分の肉体とこころを再生産するにしても資産によって住居にかかる費用は違う。
結婚して子どもができても、育てるのに所得によって割合が違う。
自分や子どもを育てるにしても社会的位置によって社会的協働が違う。
 すべて市場を通して個人の責任で要求を充足することになっている。
しかし、その個人の前提が社会的位置で違うだろう。


07. Y. Kakasi 2012年1月30日 21:41:56 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
06)さん、やはり難しいです。
「個別性」というのは、平田清明氏による「個体的所有の再建」という、マルクスの『資本論』解釈についての話題でしょうか。
 また「個人の前提が社会的位置で違う」というのは、マルクスに対する批判でしょうか。マルクス理解が浅いと言うことでしょうか。

★一隅よりさん、
 商品交換における利潤には、二つの源泉があると考えます。
@ 商業利潤:安く買って、高く売る。
 この利潤は、買いと売りにおける二つの非対称性が利用されます。
 1)空間的・時間的非対称性:場所と時間の違いによる価値の違い
 2)欲望・効用的非対称性:価値の主観性による評価の違い

A 産業利潤:安く買い、安く作って、高く売る
この利潤は商業利潤に加え、機械と労働者を使って価値を付加します。
1)機械は技術革新によって労働を集約し、さらに価値を増大させます。
2)労働は機械と共に集約化され、生産コストは低減されます。

 利潤(価値・富の移動・集積)は、買いと売り(流通・売買・交換)の過程で発生するのが原則となります。しかし、生産過程では、労働と技術革新による商品生産の集約(低コスト)化と価値の付加によって、飛躍的な利潤の増大が図られます。

 次に、交換と分配について、もう少し時間をください。


08. 2012年1月30日 22:46:19 : zXyYNsJYbo
>>07
『「個別性」というのは、平田清明氏による「個体的所有の再建」という』
私は平田は知らない。
「個別性」とは、私やあなたのことですよ。
あなたや私は個々感性が違うだろう。
しかし、お金を通すると、現象的にその違いの「差が消え」てしまう。

『「個人の前提が社会的位置で違う」というのは、マルクスに対する批判でしょうか』
マルクスの批判ではない。
今の社会は個々の感性の違いの「差が消えて」しまい、しかも要求の充足が政府が設置する市場を経由になっている。
個体の要求の実現が社会的位置、つまり資産などでによって違うだろう。
なにせ個人の責任で市場を通さないと要求が充足されないようになっている。
資産がない私などは自分の感性と異なるものを代用させて充足させる状態である。

マルクスはブルジョア社会は個別性の個体と、その個別性の個体を奪う社会とのアンサンブルと記しているよ。


09. Y. Kakasi 2012年1月30日 23:15:18 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
>>08
早速の返信ありがとうございます。

ようやくよくわかりました!!

でも今度の後半は、平田の主張とよく似ていますね。感謝!


10. 2012年1月30日 23:51:55 : zXyYNsJYbo
>>09
マルクスのオリジナルの一つは、私が自分の感性に働きかけて感性を変えることにある。
マルクスの個体の把握はシェリングやゲーテの「感受性、被刺激性、再生」である。
マルクスの感性は冒険心、不安であった。
ただ発見したテーマをまとめるまでには、例えば「資本論」第1巻の出版までにエネルギー発散のために、無駄遣いや、資料をノートに写すことが必要だった。
「資本論」第1巻まではイェニ―、エンゲルスの組み合わせでマルクスの感性が伸びた。
さらに「資本論」第1巻の出版で数年後に印税が入り、生活が楽になると、マルクスの衝動の素である冒険心や不安が薄くなったので、人生の後の10年は体が錆びついた状態となった。
マルクスの主張は、個体の感性が要求が実現できて、自分も他者も成長に喜びを感じられて、自由自在に動けることに快感が感じられる個体と社会の再建をめざした。

11. Y. Kakasi 2012年1月31日 22:43:23 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
>>07 の続きです。

04)>>Kakasiさんは、この(分配=利潤の取り分の)公平公正な調整をどのようにして実現しようというのか。いや、「どのように」=方法の問題の前に、まず「どのようなところに公平のラインを設定するのか」、聞いてみたいと思います。
→ということについて、

 地上の1)自然的富と2)人間の生産的富がどのように、@所有され、A収奪され、(B交換され、)C分配され、(D消費され)るか、一隅よりさんが@ACについて素描されていますが、よくわかります。

 一隅よりさんの質問は、Kakasiの立場からすると、「利潤の取り分の公正公平な調整」は、「C分配」という概念だけでなく、「B交換」という概念を必要とします。というのも、労働者の賃金は、等価交換の場合、利潤でなくコストで計算されますが、私の場合マルクスの剰余価値(利潤)分もコストに算入されるべきであるという考えです。

 また企業の利潤だけでなく、税金を含めれば国民経済の総生産物が、家計(個人)と企業と国家(自治体)でどのように交換、分配(再分配)されるかという問題を含んでとても複雑になります。

 そこで、企業の利潤とされる分は、資本家(株主)、経営者(役員)、労働者(従業員)にどのように分配されているのか、また労働力は、賃金(報酬)としてどのようにコスト評価され交換されているかを考えます。公平公正の原則は、同一労働同一賃金ですが、賃金コストは労働者にとって低すぎる、または、格差がありすぎるというのが実態です。

 かつての労働者(の労働力)は、ほとんど人間的欲望を充たせない低賃金のコストでしか評価されませんでした。しかし今日では、利潤が多い場合には、多少はボーナスとして人事管理上の格差をつけて分配されます。問題は、生産コストとしての労働者の賃金は、公平公正な評価基準にもとづいて労働力と交換されていないということになります。

 利潤だけで言うと企業格差、賃金格差、財産格差、学歴格差、男女格差等々、不公平不公正な格差社会の現状を考えると気が滅入るし、政治の貧困に腹立たしくなることは共有できると思うので止めて(ネットで見ていることにして)、端的に「公平のライン」を考えます。そのためには、人間の欲望と感情の理解を前提に、人為的な能力・努力差、平等性、競争、福祉政策等の原則を考慮する必要があります。しかしこれらもスルーして・・・・・。

 ずばり、道徳的に公平の基準はどうなるかという立場からすれば、もちろん独断的に考えて、次のようなラインはどうでしょう。現在の修正資本主義の下で、生涯所得を考慮しながら、平均年収400万円とすると、企業経営者で上限5倍の2000万円(×80年分として生涯収入16億円)、芸能スポーツなど全面的に個人の能力によって評価される場合でも10倍の4000万円(生涯所得32億円)を越えることが妥当だとは思えません。更なる公平化を図るためには累進課税や、株の配当や財産等の譲渡所得など「不労所得」に相当する分には相応の課税が必要でしょう。

 理由は、いかに能力や努力によって社会的に支持され評価されても、平均的人間の能力や努力の10倍を超えることはないということです。ほとんどの優れた能力は、社会的歴史的条件によって恵まれたものであり、また他人との競争的勝者として評価されているものだからです。つまり、社会的責任を果たすより、自己の利己的利益のためのみ考え、弱肉強食で他人に能力的に勝とうとすることは、反道徳的だと考えるからです(逆に道徳的勝者は、それにふさわしい精神的評価が与えられるでしょう)。

 例えば、ゴーン氏の収入は従業員の切り捨て(合理化)によるところ大ですし、イチローの年俸は野球ファンあってのものだから、多すぎることは反道徳的だと言えます。一般に一部の人間の高収入は、多くの人間の犠牲やメディアによって作られた宣伝・人気・支持によるものであり、社会の価値観が変われば変わるものだからです。

 資本主義の下における格差的報酬は、社会的責任を果たした結果というよりも、利己的欲望のために他者の犠牲の下に得られた高収入であり、社会的責任があらゆる分野で言われるのも、資本主義的利潤の追求が反道徳的な本質をもっているからです。人間の生産労働や社会的活動の多様化を考えれば、マルクスのように労働時間のみによって労働力や人間の価値を決めるのは評価を誤ることになるでしょう。

 長くなりました、資本主義社会では、交換や分配は、出発からして不公正で不平等、格差だらけから出発しています。やはり革命的・根本的な「調整」がなければ正義は実現されないと思います。
 十分答えられていないと思いますが、今回はここまでにします。よろしく。


12. 母系社会 2012年2月02日 18:21:21 : Xfgr7Fh//h.LU : Vq8Rd7Li6A
独断論であることを認めるということは、「いいがかり」であるという
ことであり、反マルクスの政治的プロパガンダであるということを認める
ということですよ。

阿修羅は、単なるプロパガンダの場ではありませんよ。現在の日本でも、
最高の知性が集まっている場の一つです。

それは、小沢氏に対する冤罪攻撃の本質を、多くの阿修羅人が認識している
ことや、原発のカラクリも認識していることからもわかります。

●マルクスは『資本論』第三巻第十章で、「商品の交換価格がそれの価値
とほぼ一致する条件」、つまり<価値法則>がほぼ実現する条件として、
三条件を提示しています。

@は、商品交換が、「偶然的・臨時的な交換ではなくなること」、Aは、
商品の生産が需要とほぼ一致していること、Bは、自然的な、人為的な
独占で「取引当事者の一方が価値よりも高く売ることができたり、価値
よりも安く手放さざるをえないとかいう事情がない」ことの三条件です。

Y. Kakasiさんは、主にBの件を取り上げているのだと思いますが、この
ように、この不公平な取引の問題は、既にマルクスやエンゲルス自身が
見聞きしていて、理論的には検討済みの問題なのです。

そうでなければ、この問題をこの三条件の一つとして、取り上げるはずが
ありません。

マルクスが生きていたころは、既に資本主義がかなり発展した段階であり、
「平均利潤の法則」に媒介されて市場価格が形成され、生産価格も形成
されていた時代ですから、生産価格が商品交換を規制する原理になっていた
ので、<価値法則>が平均的には実現されていた時代は終わっていました。

ですから、<価値法則>が商品交換を直接統制・規制していた時代の
商品価格は、生産価格の先行者であり、マルクスの時代には、過剰生産
による恐慌が起きていたことからもわかるように<価値法則>の時代は
終わり、<価値法則>は生産価格を形成する要因の一つに過ぎず、不完全
な形で、屈折した形でしか実現されていないことは明らかで、その点は
二人とも認識していました。

等価交換の議論がある第一巻の最初の部分の商品は、資本主義以前の単純
商品だとか、昔から様々な議論がありましたが、この商品は、資本主義に
取り込まれた意識から見た商品、つまり大部分の読者がイメージしている
古典派経済学の商品であり、マルクスは、これを暫定的に肯定するところ
から議論を出発させているのです。

とりわけ、第一章の「商品」の狙いは、資本主義的商品の価値とは何かと
いう問題を解明することが趣旨の議論ですから、この部分では等価交換の
問題には触れていないのです。

マルクスは、<価値法則>が貫徹していた社会は理論的想定であるばかり
ではなく歴史的事実でもあると考え、そうした社会は独立自営農民が社会の
大部分を占める社会=労働者が生産手段を所有していた社会とマルクスは
述べています。

つまり、資本主義的意識では、労働者は労働力という資本を持つ一種の
資本家=独立自営民と見なしていて、「賃金奴隷」とは考えず、資本家とは
対等の存在と考えているわけです。ですから、労働力の売買も等価交換と
見なすわけです。

ご存知のように、エンゲルスは有名な共産主義者でしたが、一方で、
先進的経営で非常に成功した工場経営者でもあり、マルクスはエンゲルス
からビジネス界の様々な最新情報や実態を聞いていたので、その成果が
『資本論』にも取り入れられているのです。

Y. Kakasiさんが指摘する事態は確かに沢山起きていて、現代の日本でも
時々は「優越的地位の濫用」=不公平取引として「独占禁止法」が適応
されていますが、この三条件に取り入れられたので、当時から起きていた
のです。

従って、どの記述を根拠にマルクスは「市場で売買契約が成立すればすべて
等価交換」と主張していたと Y. Kakasiさんが断定するのかわかりませんが、
誤解だと思います。明確なのは、<価値法則>が実際に機能していたのは
せいぜい初期の資本主義時代までであり、その後は、平均的にさえも機能
していないとマルクスは考えていました。

資本主義の神話には、資本主義のイデオローグたちが創りあげた資本主義的
意識・価値観などもありますが、人類史的なレベルでの、非常に強固な神話
もあり、古典派経済学には様々な欠陥がありますので、実際問題としても、
一つ一つ取り上げて、批判するしかありません。

ですから、最初の部分では問題とはしていないだけであり、また、そうした
ものを前提としても、価値の秘密を暴露できるからですが、その意味で、
暫定的に認めているのでと思います。


●古典派経済学の商品論を暫定的に肯定するところから議論を出発させて
いる理由は前回書きましたが、その理由は『資本論』が弁証法で書かれて
いるからです。

マルクスは、自身も含めて人間が真理と確信することも、一方では、人類
の意識の弁証法的な変化史の一部でしかないということ、そして、人間の
意識は、人間の対自然的、対社会的諸関係の対自化=自覚化なので、現在
なら資本主義という歴史的制約や社会文化的制約(この制約をするものが
いわゆるパラダイムであり、マルクスの言葉では「支配的思想」)がある
こと、そして、そもそも、人間が考えることは、その時点での<過去の
総括>でしかないこともヘーゲルから学び、知っていたのです。

ですから、学問である以上、あくまでも普遍性を目指すのですが、一方で
そのような宿命的制約を帯びてしまっていることも自覚して論述しなけれ
ばならないということ、つまり・・・

ヘーゲルが弁証法的理論は「自分で自分を吟味し、自分自身に即して自分
の限界を規定し、自分の欠陥を指示していかねばならない」と述べたよう
な理論でなければならないと言ったことを継承しています。

ですから、誤った認識でも頭ごなしに否定するような乱暴なことはしません。
なぜなら、妄想の類は別ですが、誤った認識でも、その前提が正しいと仮定
した場合には、部分的には正しい面も含んでいるからです。ですから、その
前提の必然性次第で、後に否定しますが、暫定的にマルクスは認める態度で
書いています。

それは、徐々に変化してゆく読者の意識を想定し、それに寄り添いながら、
ともに進むスタンスで記述しているからです。自分で自分を吟味しながら
論述しているとも言えます。

マルクスは一人二役とか、三役とかを演じているのであり、その意味で、
様々な人々の対話を論文に直しているとも言えます。

それで『資本論』には、資本主義に取り込まれた見地からの認識が書かれて
いる部分があり、その都度、論理的にはそうした認識への疑問点・限界性が
提起され、そうした疑問に答える次のステージに導かれ、更にそこでも別の
疑問点が提示され、単なる認識の修正ではなく、悟性的認識自体に疑問が生
じるように教導しているのです。

ですから、『資本論』の登場人物はマルクスだけではないので、まずは、
誰から見た事態の記述なのかを見極めないと理解できません。古典経済学者
なのか、読者なのか、あるいはリンネルの所有者なのか、上着側か、あるい
は世人=世間一般の人々や、マルクス自身なのかです。更に、たとえマルクス
自身のコメントでも、最終的評価とは限りませんので間違いやすいのです。

●一例をあげれば、『資本論』(国民文庫版)の第一巻の第一章「商品」の
第四節「商品の呪物的性格とその秘密」には、ストレートに「客観的な思想
形態」と評価してその思想の「正しさ」を認めずに、「社会的に認められた、
つまり客観的な思想形態なのである」(P141)というような奇妙な、
まわりくどい表現をしているところがあります。社会的に認められていても、
誤りであることは多いのですから、この評価は奇妙です。

実は、これは古典経済学のカテゴリーへの評価ですから、当然にもマルクス
の最終的な評価では「誤り」であることは明白です。しかし、そうは言っても、
全くの妄想でもなく、資本主義という社会の内側で生きている人には、その
思想形態が正しいように見えるそれなりの「必然性」=カラクリ=があるので、
古典経済学者やその支持者(読者)が真実と見なしてもやむを得えない面があ
り、「誤りだ」と頭ごなしに否定するような批判はせずに、むしろ、そうした
カラクリを前提とすれば「客観的な思想形態」だと、暫定的認めています。

また、第二節でマルクスは、「社会的実体」という形容矛盾した造語を使用
しています。「実体」という言葉は、通常は物質的な存在、自然的存在を
指し示す言葉ですが、それに「社会的」という相矛盾する形容詞を付け加えた
のが「社会的実体」という奇妙な言葉=実体主義に妥協した便宜的な言葉=
を創りだして、非実体主義的発想法を理解させようとしたのです。

その他、『資本論』には、注意して読むと暫定的評価であることがわかる
書き方が沢山あります。そもそも、第一行からして、「一つ一つの商品は、
その富の基本形態として・・・現われる」と書いていて、「である」とかの
表現は避けています。これでは誰に対して「現れる」のかわかりませんが、
良く読むと、資本主義に取り込まれた人、つまり、古典経済学者やその支持者
の読者の意識に対して「現れる」と書いていていることがわかります。

つまり、彼らの目に映る商品を、そのまま記述することから出発しています。
ですから、まずは、読者は無理なく同意できる商品論となっています。
マルクスは、最終的にはそうした商品概念を否定したい立場なので、
「である」とは書きませんでした。

●『資本論』は、何しろ、人類史と同じくらい長い間、実体主義的世界観を
信じてきた人類に、関係主義=非実体主義的世界観を理解してもらうために
も書かれた書であると思います。なぜなら、それが理科できないと、「資本」
とは何かが理解できないからです。

ですから、人類史的レベルで取り扱われるべき画期的な文化革命的事業の
「書」であり、しかも、そうした事業を、実体主義的意味・概念媒介する言語
を使用して行うしかないのですから、更に一層困難です。

そうした意味でも、いきなり独断論的に非実体主義を提示するのは、キリスト
教徒に、いきなり仏教の教義を提示するようなもので、誰も理解できません
から無意味です。

そこで、実体主義的世界観を信じている読者の意識を、それから引き離し、
中間的な意識レベルへと教導し、最終的に第四節で、大どんでん返しが
行われて、商品の秘密を明かされる構成になっています。

マルクスには、ヘーゲルやエンゲルスなどがいて、しかも、西欧理論哲学の
成果がありましたが、釈迦はほぼ同じ事業を、約2400年前にインドで行
おうとしたのですから、驚くべきことです。

その意味で、マルクス主義には、ほぼ同じ世界観を持った仏教徒という非常
に巨大な仲間がいるのだと思います。

ですから、両者が手を結べば、<<世界革命>>も夢ではなくなるでしょう。


13. 2012年2月02日 21:21:28 : J2M3s4zCN6
>>12
「その意味で、マルクス主義には、ほぼ同じ世界観を持った仏教徒という非常
に巨大な仲間がいるのだと思います。」
賛成です。

マルクスの言う「主体」と釈迦の言う「島」と同じである。
Kakasiさんは例えば、○○さんは当事者と言う意味で「主体」を使われている。
この使い方は西洋哲学の一つの流れである。
マルクスの「資本論」第1巻を日本語で読むと、「現象」や「あらしめている」「現れる」と読める個所が幾つもある。
西洋の労働者は背景に仏教がないから核心を掴むのに難儀をしたのではないだろうか。


14. 2012年2月03日 11:18:17 : GTYYDZv9UM
>>12
「ですから、『資本論』の登場人物はマルクスだけではないので、まずは、
誰から見た事態の記述なのかを見極めないと理解できません。古典経済学者
なのか、読者なのか、あるいはリンネルの所有者なのか、上着側か、あるい
は世人=世間一般の人々や、マルクス自身なのかです。更に、たとえマルクス
自身のコメントでも、最終的評価とは限りませんので間違いやすいのです。」

「資本論」第1巻を読むさいの面白さですね。
マルクスは「実体主義」ではないので、主語を使っていないのです。
主語を立てると、読んでいる人にマルクスの主張が入っていかないからです。
それは読んでいる人自身に考えてもらうためのサデスションを挿入しているからです。

Kakasiさんは「実体主義」的傾向があるので、薄くするともっと能力を発揮できますよ。


15. Y. Kakasi 2012年2月06日 23:01:21 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
12) 母系社会さん 長文のコメントをありがとうございます。
13)、14)さんの賛同意見もよくわかりました。

 Kakasiたちの考えは、関係主義的ではなく実体主義にもとづいています。私たちの実体主義では、人間の本性は、欲望と感情を持ち、言語を用いて自己と対象を認識し意味づける「生命言語」的存在であると考えています。従って、商品や貨幣・資本を分析する場合も、それらを作り出してきた人間の本性から分析します。
 つまり、人間を規定しているのは何なのか、人間自身と人間社会を認識する方法はどのようなものか、商品を生産する労働とは何か、労働は人間と社会の発展にとって何だろうか、また、商品交換を規制する貨幣は、人間または人間社会にとってどのような意味を持つのだろうか。そもそも商品交換社会は人間にとってどのような意味を持っているのか、等々のように人間を主体的実体として考えます。

 マルクスの場合、おそらくそれらのことを考え、基本的には人間を労働や生産という自己対象的・発展的存在と考えています。その上で労働生産物である商品を、資本主義的生産様式の社会の中に関係づけ、それを自然史的運動法則の弁証法的過程として描写します。
 マルクス的社会認識は、西洋的思考様式の限界とりわけ弁証法的認識の限界に制約されています。ヘーゲルの場合は、世界を概念(精神の所産)の自己運動として構想描写しました。これに対し、マルクスの場合は、これを転倒させ、資本家的生産様式を労働(生産力)の自己運動として構成描写しました。

 弁証法的自己運動は、人間の認識主体にとっては、受動的な「現れersheinen」という表現になります。商品も人間関係の所産ではなく、逆に人間の関係性を支配する、労働の自己運動的「現れ」として捉えられます。商品交換の成立すなわち「結果としての等置」が、当事者の非対称性(不等価性)を平均化して「等価」とみなします。等価交換の内在性を検証すれば、交換の不等価性を見いだせるのですが、マルクスは古典派経済学の欺瞞性を継承して、結果として、等置の商品は等量の労働を含み「平均的に等価である」(労働価値説)とします。

 市場の商品等置を等価とみなす傾向は、労働価値説をとる古典派経済学だけでなく、欲望や効用を重視する近代経済学においても引き継がれます。つまり経済学的認識では、商品交換の行われる市場の合理性=交換結果としての等価性は、学問的前提とされているのです。しかし市場の実態(実体)は、今日明らかにされているように、不正と欺瞞と不平等の温床となっています。これは今も昔も変わりません。景気の変動は、金融危機や自然災害、政治的不安定性、暴動や戦争等々による交換の非対称性を拡大させる事象の影響を強く受けています。

 マルクスを含めた諸経済学の原理論が、今日の経済情勢を分析するのに有効性を失っているのも、交換・流通・貿易(つまり市場)の非対称性・不等価性の事実の認識・分析を怠っていることが原因の一つです。そしてそれらの非対称性の中で、労働力商品についての階級的非対称性=有産者と無産者の間の非対称性をめぐる不等価交換(低賃金・劣悪な労働条件)の人間抑圧性・道徳的不正を合理化し、隠蔽して、階級闘争と歴史の必然性に解消しようとしたのがマルクスなのです。

 だから、『資本論』が、関係主義=非実体主義的世界観で「資本」を解明したものならば、それは西洋的思考様式の限界を抜け出しておらず、また人間と人間が造りだした資本の本質を正しく実体的に解明できていないと言うことができます。そればかりでなく、商品も貨幣も資本も剰余価値も、実体概念である人間から解明しないと、自己の理論を絶対化して神話化し、理論のために人間を抹殺してもそれを正当化するような「理論崇拝」「理論による自己疎外」を引き起こす人間を作ってしまうのです。

 補足です。@“「誤りだ」と頭ごなしに否定するような批判はせずに”A“彼らの目に映る商品を、そのまま記述する”B“マルクスは「実体主義」ではないので、主語を使っていないのです。”@については、まずマルクスの前提としている「労働価値説」「弁証法的認識論」を批判・吟味することが必要。Aは、西洋的偏見の目に映る商品は、人間を主語にして批判吟味することが必要。Bは、「生命言語説」の立場は「実体主義」なので、言語で認識・思考する人間と生命を主語としてすべての理論を構成します。

 残念ですが、立場や見解の相違は認めざるを得ません。立場の違いから何かを学ぶことは必要ですが、以上のことを再認識しました。とても勉強になりました。ありがとうございました。

○仏教については下のサイトを見てください。
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/subgendaika.html#bukyouge


16. 2012年2月07日 08:25:02 : WMkw86onhg
Kakasiさんたちへ
01です。
マルクスについて書かせて頂き、こちらこそありがとうございます。
さて、私は若いころマルクスは仏教の勉強をしたかな、と思っていました。
生まれも育ちもトリーアでゲーテやシェリングは、マルクスの親父の世代なんですよ。
シェリングなどの人間観は仏教の異体と同体における用(ゆう)・体関係ですよ。
もろ関係主義です。
西洋でも実体主義が多数で主流を占めているのは、たかだか「人間復興」以後です。
日本なんかでも共産党や左翼で表現している人などは実体主義者です。
実体主義で生きていると疲れますよ。
ではまた。

17. Y. Kakasi 2012年2月10日 21:31:28 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
 Kakasiも仏教は大好きです。しかし、大乗の非科学的なところは克服するべき限界があります。仏教は科学的に、臨床心理学的に現代化することが可能だと思います。

 実体主義でも疲れない方法があります。大乗仏教よりも、より深い悟りを得ることです。そのためには知恵と悟りの本質を、実体的につかむことです。まず、生命とは、言語とは何か、から始めようとしています。探求の苦しみを越えると持続的な心の平安が得られるのではないでしょうか。


18. 2012年2月11日 08:02:16 : qZQEQz3Uag
 Kakasiさんたちへ
16です。
返事ありがとうございます。
あなたがたにとり「科学的」とは、とても意味があることなのでしょうね。
「大乗の非科学的なところは克服するべき限界があります」とは、あなた個体のとっての限界ですか。
それともあなたの個体を離れての大乗なのでしょうか。
あなたの体を離れて「法」の現象があるのでしょうか。

 さてわたしは言葉を「本当も言えるし、嘘も言える」と感じています。
一方お釈迦様は「中州=島」に依拠して生きろと、教えています。
だから私=自分の言葉をよく聞く必要があると思っています。
ではまた。


19. Y. Kakasi 2012年3月10日 00:07:13 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
18)さん 返答を忘れておりました。 
大乗の限界については、Kakasiの個体を離れての限界です。 というのも、「大乗非仏説」というのをご存知でしょうか。
 釈尊(ブッダ)は、主に出家した修行者の教育・指導にあたり、また出家を勧めました。在家信者にたいしても「法」を守り、自らを律することを求めました。
 後の大乗仏教は、在家信者への配慮(妥協)から、「法」よりも菩薩の救済に依存させるようになりました。
 しかし、釈尊の本意は次のとおりだと思います。
“この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。”
“感受について感受を観察し、心について心を観察し、諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。”(『ブッダ最後の旅』中村元訳)

20. 2012年3月18日 11:08:55 : OVcZVsC2RA
Y. Kakasiさん
18です。
ご返事をありがとうございました。
私の書き方がY. Kakasiさんの感受に適していなかったようです。
でも、「大乗の限界については、Kakasiの個体を離れての限界です。」の書き方で
Y. Kakasiさんの実体主義的把握が分かりました。

以下、余談を書きます。
釈尊の「自らを島とし」の「島」とは、潜在意識のことと把握しております。
「自らをたよりとして」とは、現在意識が潜在意識に働きかける関係ではないのでしょうか。
「法を島とし」との「島」とは「川」を語つているのではないでしょうか。
それは、「川」が個々の潜在意識をつなげているのだと思います。
「川」とは、自然のことです。
自然(川)が個々の潜在意識(島)を通して、感受性に現れることではないのでしょうか。
釈尊のころの感受性の主だった特長は「本能的」に釈尊の「正しい、正しくない」が分化したのでしょうかね。
それが「好き、嫌い」「こだわる、こだわらない」に分化し、マルクスの時代に「損得」にも分化したのでしょうか。
マルクスは、感受性は結果だと述べています。
と、すると感受性は働きかけ=方向性を決めることをすれば、どんどん変化するのでしょうね。

もうY. Kakasiさんたちの感受性がわかりましたので、返事はいりません。


21. Y. Kakasi 2012年6月02日 14:58:23 : BW32mpuE76J86 : dvldzIXlGA
投稿は(その16)に続きます。

http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/892.html


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