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2012.6.20.14:50知りたがり伊藤アナ:三党合意が重かったなら政権交代選挙公約はより軽いのか??!!
http://www.asyura2.com/12/senkyo131/msg/677.html
投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 6 月 20 日 19:25:21: UiY46YlCu.Moc
 

伊藤淳夫と和田解説委員は同じ学習院大法卒同窓だった!司会者の伊藤アナが一番偏差値が高くズバリ慶応政治学科だ!!彼に政治解説頂きたい位だ。でも、最後数分しか見れなかった。それが掲題の『中間派には三党合意が重かったんですかね〜!』だった。それより政権交代選挙公約でしょう!!伊藤アナ!!政治学科でしょう!!フジだと言えないからアナ?解説委員長でもフジなら出来る!!

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信州では〜14:50までTV6で『大王四神記』の再放送が今日まで平日あり、極力、旅行も移動も控えていた。特に『西百済』が何処か気になっていた。今回、再放送で見えた。山東半島が西百済になっていた。黄海の対岸だった。

『日本=百済説』を読む以前から山東半島・遼東半島・韓半島・日本列島西部が倭人の土地だったと思っており、中学2年の歴史以来、邪馬台国は金海伽耶・釜山と博多の直線上の朝鮮半島南海の海の底に沈んでいると夢想し、地震沈下で日本列島西部に植民したと思っている。

今の韓国人が高句麗・百済をどう思っているか知りたかった。昔、兄弟国だと言った。『広開土王』もいつから見れるのだろう? 定年退職になったら、調査しに行きたいと思っていたら、そんなゆとりは無くなり、酷い21世紀になった。
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だから、大半は解からないが、この学習院・法のコンビに視聴者が毒されると大変だ!!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【和田 圭】(わだ けい、1952年9月13日 - )は、フジテレビ報道局解説委員。東京都新宿区出身。血液型はO型。〜〜〜〜〜〜現役・辰年〜〜〜〜〜
目次 [非表示] 1 来歴・人物2 エピソード3 出演番組4 担当した番組5 書籍6 同期入社
7 関連項目8 外部リンク来歴・人物 [編集]

学習院大学法学部法学科卒業後、1975年フジテレビに入社。学習院大学法学部の1期先輩には読売テレビ報道局特別解説委員の岩田公雄がいる。〜〜〜北海道のあ〜う〜熊〜〜〜
報道記者として、首相官邸・自民党・野党各担当キャップ、外務省・労働省(現・厚生労働省)担当等で政治分野を担当し、ニュース番組のプロデューサー・ニュースキャスターを歴任し、現在は解説委員。
元妻は元フジテレビアナウンサーの有賀さつき(2006年5月に離婚)。
「日本記者クラブ」の企画委員も務めている。
エピソード [編集]

『タモリ&安藤優子のSuperスーパーニュースSpecial』でタモリに「胸板が薄いという噂を聞いたのですが」と問われた際、「会社にこき使われたせいで今は細いですが、学生時代は体育会系だったんですよ」と自身の運動神経の良さを強調した。〜〜何部??〜〜
2005年7月24日の『FNS ALL-STARS あっつい25時間テレビやっぱ楽しくなければテレビじゃないもん!』で、当時妻だった有賀さつきと一緒にニュース番組をする企画「夫婦(めおと)ニュース」をプレゼンし、青木さやかから本格的なニュース番組を薦められる。
『ニュースJAPAN』の解説の中では、キャスターの滝川クリステルのいる前で、同僚の松本方哉に「松本さんも滝川さんが美しいことを認めるのはやぶさかではないと思いますが」と問いかけるなど、滝川に関する発言をくり返している。
キャスターなのでスーツ姿であるが、大方はダブル型スーツを着用している。
痩せ型体形の人物であったが、2008年ごろから激太りしだした。
出演番組 [編集]

情報プレゼンター とくダネ!(不定期)
知りたがり!(不定期)
FNNスピーク(不定期)
ニュースJAPAN(木曜・金曜コメンテーター)
各種報道特番(不定期)
担当した番組 [編集]

FNNモーニングコール(メインキャスター、1988.4〜1989.3)
FNN NEWSCOM(プロデューサー)
報道2001(プロデューサー)
ニュースJAPAN(プロデューサー)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【伊藤 惇夫】(いとう あつお、1948年 - )は、日本の政治評論家(政治アナリスト)。神奈川県葉山町出身。〜〜〜〜〜〜何月生まれ。4〜5年年長・先輩らしい。ピラミッド校舎でコンパクト、小人数。麻生・吉田も学習院。吉田の東大卒は学習院大学閉鎖期間中に転学出来た異例措置??吉田茂を東大法学部卒にする為の大久保一族の計略臭い。是非、ウイキペディアご参照下さい。略〜〜〜〜〜〜
目次 [非表示] 1 人物2 発言3 著書4 出演番組人物 [編集]
 ̄〜〜〜〜〜〜〜何浪か?何留か?不明。団塊世代でワザと隠している。〜〜〜〜〜〜
学習院大学法学部卒業後、出版社へ就職した後、1973年、時の総理・総裁田中角栄に誘われ自由民主党本部事務局に勤務。自民党では広報を担当し、1989年からは自民党政治改革事務局主査補として政治改革大綱を取りまとめる。その後、自民党を退職し、1994年末から新進党総務局、1996年12月から太陽党、1998年1月に民政党、4月から民主党の事務局に勤務。太陽党以後は、いずれも事務局長を務めた。〜〜〜誰の代表時代???〜〜〜
新党の結成に次々と立ち会ったことから「新党請負人」の異名を持ち、豊富な政治経験、約30年に渡る永田町生活を活かし、2001年12月に民主党を退職し、政治アナリストとして独立。執筆業の他、ニュース番組やワイドショーなどでコメンテーターとして活動。2004年現在、学習院大学、明治学院大学、日本大学法学部並びに大東文化大学非常勤講師を務める。
発言 [編集]

西松建設事件が発覚した際、かつてスタッフの一人として仕えた小沢一郎に関して「頭は革新的、首から下は古い自民党政治家そのもの」と述べている(スーパーモーニング出演時の発言)。
新党請負人として名高い半面、関係した新党がいずれも(民主党を除いて)姿を消していることから「私の場合は失敗だった」とも述べている(スーパーモーニング出演時の発言)。
最も敬愛している政治家は奥田敬和であり、奥田と共に自民党離党した小沢や羽田孜、渡部恒三らへの評価がいささか甘い一方で、1990年代前半の政治改革論議に必ずしも熱心でなかった小泉純一郎、村山富市(自社さ連立政権の首相)、橋本龍太郎(同じく自社さ連立政権の首相)、森喜朗(奥田の中選挙区時代の対立候補で森奥戦争繰り広げたライバル)らに対しては厳しい言葉を用いている。小泉に関しては、テレビ番組太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。(日本テレビ)の中でいわゆる郵政解散を憲法違反と断じている。
2009年の年明け頃から、連立与党(当時)の公明党は衆議院の解散を早めるため麻生内閣に対し挑発的な動きをしばしば見せていた。この時期伊藤は「自民党、民主党は分裂。公明党がキャスティングボードを握る形での政界再編」を予想している(FNNスーパーニュース出演時の発言)。しかし実際には衆議院選(8月30日)は民主党の一人勝ちとなり、自民党と公明党は一野党に転落した。
普天間基地代替施設移設問題等で発言がブレた鳩山由紀夫首相に関して「宇宙人の空中浮遊」(宇宙人は鳩山のニックネーム)と批判している(FNNスーパーニュース出演時の発言)
〜〜〜〜〜「国民との契約」たるマニフェストにはこだわらなくてよいなど民主党寄りの発言をすることが多く、その一方で自民党に対しては、民主党のマニフェスト批判をしてきたのに、マニフェスト違反を批判するのはおかしいなどと揚げ足取り的な言説が目立つ(くにまるジャパン出演時の発言)〜〜〜〜〜〜誰の毒饅頭?〜〜〜〜〜
著書 [編集]

『政党崩壊』〜〜〜〜自分が民主党・政党を潰させて良く言うよ!!〜〜〜〜〜〜
『永田町権力者たちの情報戦争』
『永田町「悪魔の辞典」』
『政治の数字』
『永田町の回転ずしはなぜ二度回らないのか』
『民主党 〜野望と野合のメカニズム〜』新潮新書290 ISBN 978-4-10-610290-5
 その他
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【伊藤 利尋】(いとうとしひろ、1972年7月22日 - )は、神戸市須磨区出身のフジテレビアナウンサー。身長176cm。〜〜〜〜〜TVでの目印身長だから背筋伸ばして!!〜〜
目次 [非表示] 1 来歴・人物2 現在の担当番組2.1 不定期3 過去の出演・担当番組
3.1 テレビドラマ3.2 映画3.3 テレビアニメ3.4 ゲーム4 競馬GI実況歴5 同期アナ
6 関連項目7 脚注8 外部リンク来歴・人物 [編集]

兵庫県立長田高等学校・〜〜〜慶應義塾大学法学部政治学科〜〜〜〜卒業後、1995年入社。
海外在住経験があり、英語が堪能。F1中継の提供読みでの「PASSION for EXCELLENCE」(ブリヂストンのキャッチコピー部分)で流暢な発音を披露し、実況中英語を訳しながら伝えている。
愛称は「アミーゴ伊藤」または単に「アミーゴ」(『めざましテレビ』での1つのコーナー、アミーゴ伊藤シリーズ(「−のがんば〜れ!元気王」から始まり、「−のはらぺこうマイレージ」)まで続いたが、現在は終了している)。「アミーゴ伊藤」の前は「チェックマン伊藤」であり「チェッキー」とも呼ばれていた。ちなみに、とんねるずの石橋貴明からは「悪いMr.Bean」と言われたことがある。
2008年7月6日から2010年3月28日までは『サキヨミ→サキヨミLIVE→情報エンタメLIVE ジャーナる!』を担当していたため、週6 - 7日制勤務になり(隔週土曜日に『ネプリーグ』の収録があるため)、日曜日は泊まり勤務(翌日、『めざましテレビ』のオンエアがあるため)であった。
2010年3月29日から放送が開始された『知りたがり!』(2012年3月までは10・11時台、同年4月以降は14・15時台)では総合司会を務めている。このため、平日は『めざましテレビ』終了後に約2時間、間を置いてから『知りたがり!』と午前中に2本の番組に出演していた。さらに、2011年11月4日から12月2日の平日(11月23日を除く)は、『知りたがり!ワールドカップバレースペシャル』が15:57 - 16:53に放送となった上、2011年11月2日から2012年3月31日まで『めざましテレビ』代理司会(病気休養に入った当時当時『めざましテレビ』司会の大塚範一の代理)も担当し、2011年12月2日まで平日の3番組・計5時間、帯番組のメインキャスターを務めた格好となった。これについて、「他の同僚や後輩に適任者が存在せず、〜〜〜〜〜器用でソツのない伊藤に仕事が集中したため」との見方がある[1]。〜〜〜〜〜〜〜
主にバラエティ・情報番組を中心に活躍するほか、競馬・F1グランプリなどのスポーツ実況も担当、選挙特別番組等の『FNN報道特別番組』にも出演する、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ニュースも読めるオールマイティプレイヤーである。〜〜〜〜〜〜〜〜〜

競馬のGI初実況は2006年の第1回ヴィクトリアマイルであり、2007年も実況している。また、本命印を「重たい印」と表現するのが特徴であったが、2008年以降は競馬実況からは離れている。
『とんねるずのみなさんのおかげでした』内の「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権1」で『どうぶつ奇想天外!』のナレーションを読む小島一慶の物まねをしたことがあるが、とんねるずの木梨憲武に「こういう所来んな!」と突っ込みを受ける。しかし、とんねるずには気に入られており、とんねるずの事務所アライバルに「フリーになれば1億」と誘われていることを番組内で暴露された。石橋貴明と飲んだ際、自分の悩みを聞いてもらう途中で寝てしまったことも番組内で暴露された。
2010年9月28日、『知りたがり!』内で、同年10月1日から、タバコが値上がりする記事で、自ら喫煙者である事を打ち明けた。『とんねるずのみなさんのおかげでした』内のコーナーで禁煙を誓約させられた。
2012年5月14日東京都内での路上で車を運転中、歩行者の30歳代の女性と接触する事故を起こした。「接触した認識はありませんでした」と警察に事情を説明した。自身が司会を務める情報番組「知りたがり!」内で謝罪した[2]。 
現在の担当番組 [編集]

知りたがり!(月 - 金曜、総合司会、2010年3月29日 - )
ネプリーグ(天の声担当)
体育倉庫〜ジムくんとゆかいな仲間たち〜(2009年7月 - 8月、2010年6月 - 10月、2011年7月- )キン役[3]
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【東 祥三】(あずま しょうぞう、1951年5月1日 - )は、日本の政治家。学位は経済学博士(創価大学・1983年)。衆議院議員(5期)、衆議院安全保障委員長。
内閣府副大臣、外務政務次官、衆議院石炭対策特別委員長、衆議院経済産業委員長などを歴任した。
公明党出身の民主党代議士は極めて珍しい[1]。
目次 [非表示] 1 来歴1.1 生い立ち1.2 公明党1.3 公明新党1.4 新進党1.5 自由党
1.6 民主党2 政治資金をめぐる不祥事3 発言4 略歴5 脚注6 関連人物7 関連項目
8 外部リンク来歴 [編集]

生い立ち [編集]
1951年、東京都新宿区に生まれ板橋区で育つ。1970年、東京都立板橋高等学校卒業。
1975年、創価大学卒業。創価大学大学院を経て、1980年から8年間国際連合工業開発機関の職員や国際連合難民高等弁務官事務所の職員として活動。
公明党 [編集]
1990年2月、第39回衆議院議員総選挙(東京6区)公明党から出馬し初当選し、以後連続当選4回(同じ90年公明党新人代議士に北側一雄、山口那津男)。市川雄一書記長の下で副書記長に就任。1993年、宮沢内閣への内閣不信任決議案の可決がきっかけとなった第40回衆議院議員総選挙で自由民主党が過半数割れで政権交代が実現。8月の細川内閣の発足で羽田孜外務大臣の下で外務政務次官に就任。
公明新党 [編集]
1994年、公明党は解散した。同党に所属していた衆議院議員や、1995年に改選を迎える参議院議員らと、公明新党を結成する。1994年12月、公明新党から新進党の結成に参加。
新進党 [編集]
1995年12月、新進党党首選では小沢一郎幹事長を支持。1996年10月、衆院選に比例代表東京ブロックに新進党から出馬し再選。1997年、小沢党首の自民党との保保連合路線を巡り、旧公明党出身内でも親小沢派と反小沢派に分裂、親小沢派として翌年の自由党結党に参加。
自由党 [編集]
1998年1月、小沢党首が結成した自由党に参加。同年の第18回参議院議員通常選挙では東京都選挙区では小沢自由党は候補者を立てず公明代表浜四津敏子を推薦。同年11月の公明党再結成には参加せず自由党残留。
1999年1月 小沢党首が小渕恵三首相との自自連立政権に合意。10月、自自に公明党が加わっての自自公連立政権誕生の際、河野洋平外務大臣の下で外務総括政務次官に就任。
1999年3月、統一地方選挙東京都知事選挙に自由民主党衆議院議員の柿澤弘治が立候補するため衆議院議員(東京都第15区)を辞職。東は小選挙区当選を目指して補欠選挙に鞍替え立候補する意向を表明したが、元々比例現職議員の小選挙区鞍替え立候補には批判があり、更に東が辞職すると当時マスコミを賑わせていた野村沙知代が繰り上げ当選することになるため障害が多く立候補を断念。補選には与党統一候補として自民党都議会議員の木村勉が擁立された。
2000年4月、小渕首相との党首会談で自由党が連立政権から離脱すると、連立維持派は離党して保守党を結成。このときは自由党に残留し、小沢一郎、藤井裕久らの連立離脱派と行動を共にする。2002年9月、小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問し金正日が北朝鮮による日本人拉致を認めた事で西村眞悟と共に拉致問題に取り組む。
民主党 [編集]
2003年9月、自由党は、民主党に合流する。11月、第43回衆議院議員総選挙で東京都第15区から出馬するも、出身の公明党は自民党の木村勉を支援し、また反公明をアピ−ルする柿沢弘治に苦戦し落選する。2005年9月、返り咲きを目指した、第44回衆議院議員総選挙で東京都第15区から民主党公認で出馬するも、自民党の木村勉(当選)に敗れる。
2009年8月、第45回衆議院議員総選挙で東京都第15区から民主党公認で出馬し、自民党の木村勉を破り当選、国政復帰を果たす。
2010年9月、菅第1次改造内閣にて内閣府副大臣に就任した。金融、郵政改革、国際平和協力、拉致問題、防災、原子力安全を所管した。また、2011年1月、菅第2次改造内閣でも引き続き内閣府副大臣に就任した。東日本大震災が発生すると東日本大震災現地対策本部長に任命された。
内閣総理大臣の菅直人の政権運営に不信を募らせた民主党議員たちが菅内閣の退陣を求めると、東もこれに同調して、鈴木克昌、三井辨雄、内山晃、樋高剛らの閣僚と一緒に内閣府副大臣の辞表を提出し、内閣不信任案に賛成する意向を示した[2]が、菅と民主党執行部の強力な巻き返しにより、倒閣運動は頓挫し、6月2日に提出された内閣不信任案は否決された。翌日、菅は東ら辞表を提出した閣僚を首相官邸に呼び出して、辞表の撤回を求めると、東は辞表を取り下げた[3]。
2011年9月、野田内閣にて、衆議院安全保障委員会委員長に就任。 同年11月、小沢グループの一つ一新会の顧問に就任。
2011年12月、新しい政策研究会の事務総長に就任[4]。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用終わり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今日はバッシと言ってくれたか解かりません!!顔に合わせて時には怒鳴って下さい!!
でないと、姑息伊藤淳夫にボソボソやられますよ!!  

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コメント
 
01. 2012年6月20日 19:39:16 : opuSlfFAh2
【吉田 茂】(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、 第一復員大臣(第2代)、 第二復員大臣(第2代)、農林水産大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。
目次 [非表示]
1 概要2 生涯2.1 生い立ち2.2 学生時代2.3 外交官時代2.4 第二次世界大戦後
2.4.1 内閣総理大臣就任2.4.2 第2次、3次吉田内閣2.4.3 サンフランシスコ平和条約2.5 内閣総辞職後3 人物3.1 尊皇家・臣茂 3.2 辞めたくなったら…
3.3 吉田学校・ワンマン体制3.4 孤高のサイン3.5 マッカーサーとの関係
3.6 ユーモア3.7 言行・逸話等4 年譜4.1 選挙歴5 栄誉・栄典6 一族6.1 家族・親族6.2 系譜7 脚注8 参考文献9 近年刊行の伝記・研究10 関連項目11 外部リンク
概要
1953年12月、談笑する吉田
東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日〜1947年5月24日、および、1948年10月15日〜1954年12月10日まで在任した。
優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。
政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学にて総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。
なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人である。
生涯

生い立ち
1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)[1]に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった[2]。〜〜〜実母の身元はいまでもはっきりしない[2]。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ[2]。〜〜〜〜〜
吉田の実父と義父は若い武士として1868(慶応四、明治元)年の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった[3]。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった[3]。
小学時代の吉田茂
1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。〜〜〜ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という[4]。〜〜〜
〜〜〜養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている[5]。〜〜〜
学生時代
少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、〜〜〜10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶応義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。〜〜〜1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に学習院高等学科【23歳】を卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、〜〜〜〜〜〜〜〜〜大学科閉鎖に伴い??????????????1904年(明治37年に26歳!!)同年9月に東京帝国大学法科大学に移り、?????〜〜〜〜〜〜〜1906年(明治39年ニ28歳!!)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格する。ちなみに合格者11人中、首席で合格したのが広田弘毅だった。〜〜〜〜宮崎哲弥並みの学歴ロンダリング判明!!〜〜〜〜
外交官時代
当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる[6]。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離」論を支持。1928年、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務事務次官に就任する。
但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた[7]。二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣・内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。
太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)[8]。40日あまり後に不起訴・釈放となったが[9]、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる[8]。


02. 2012年6月21日 23:57:45 : opuSlfFAh2
日本の新聞者論説委員・政治評論家、今まで軽く聞き流していたが、経歴や発言を今回の消費増税の三党合意談合に合わせて聞くと、酷いのが多いと日本民主主義の危機だと痛感した。

岸井は親父が労働運動の活動家だ、それなのに自分は慶応でパワーエリートの令息と勘違い?保守反動のボスになったのか!


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