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日本の学校は地獄か…いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動 「いじめ自殺」多発にもかかわらず、学校の有害性が問われない
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/819.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2017 年 8 月 22 日 06:52:48: KqrEdYmDwf7cM gsSC8YKzgqKBaYKigWo
 

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52631

茨城県取手市・中3女子自殺事件【前編】
内藤 朝雄 明治大学准教授 いじめ問題研究

■いじめ問題、変わらぬ構造

いじめによる生徒の自殺が、次々報じられている。

学校でおきる残酷なできごとも、その報道のされかたも、同じことが繰りかえされているとしか言いようがない。

いったい、何がどうなっているのか。どうすれば解決できるのか。

まずは単純明快な正解を示そう。

日本の学校制度は何十年も変わっていないのだから、不幸な結果の生じやすさも同じである。学校制度を変えるほかに、有効な手立てはない。

しかし、いじめを構造的に蔓延・エスカレートさせる学校制度の欠陥を、メディアは問題にしない。
〔PHOTO〕iStock

日本の学校は、生徒を外部から遮断した閉鎖空間につめこみ、強制的にベタベタさせるよう意図的に設計されている。これは世界の学校のなかで異常なものである。

生徒を長時間狭い場所(クラス)に閉じこめ、距離のとれない群れ生活を極端なまでに強制する学校制度が、人間を群れたバッタのような〈群生体〉に変える。そして、いじめ加害者を怪物にし、被害者には想像を絶する苦しみを与える。

学校で集団生活を送りさえしなければ、加害者は他人を虫けらのようにいたぶる怪物にならなかったはずだし、被害者は精神を壊された残骸や自殺遺体にならずにすんだはずだ。原因は、学校のまちがった集団生活にある。

学校であれ、軍隊であれ、刑務所であれ、外部から遮断した閉鎖空間に人を収容し、距離をとる自由を奪って集団で密着生活をさせれば、それが悲惨で残酷な状態になりやすいのは理の当然である。こんな簡単なことが、教育評論家やテレビのプロデューサーたちには、どうして理解できないのだろうか。

いじめが起きていない局面でも、学校は、人間関係をしくじると運命がどう転ぶかわからない不安にみちた場所になる。

この不安(友だちの地獄)のなかで生徒たちは、多かれ少なかれ、付和雷同する群れに魂を売り渡し、空気を読んで精神的な売春にはげみ、集団づくりの共鳴奴隷・共生奴隷として生きのびなければならない。

学校は、人のことが気になりすぎて自分を失う怖い場所なのだ。

ここまで述べてきた学校の問題について詳しくは、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)をお読みいただきたい。


■なぜ加害者を非難できないか

報道では、いじめ加害者の責任を問うという声もない。

というのは、次のような、はっきり言葉にならないタブー感覚がただよっているからだ。それを露骨な言葉にしてみよう。するとこうなる。

たとえ法が責任能力を認める年齢(刑法では14歳以上、民法ではさらに幅が広い)であっても、中学生や高校生は人間であるまえに〈教育のもの〉であるから、それを頭越しに、法や正義や人間の尊厳にもとづいて本人の責任を問うことは望ましくない。

生徒はあくまでも教育の論理で扱うべき。学校に外の社会の価値観を入れることは、教育の敗北であり、なによりも神聖な教育に対する冒涜である。

このように、法や正義や人権よりも教育が上位の価値であるかのような感覚が、知らず知らずのうちに世に蔓延している。だから人間の尊厳を踏みにじって笑っている加害者をおおやけに非難することができない。

そのかわりテレビや新聞は、教育委員会の隠蔽体質を集中的に報道する。

これは、生徒を狭い人間関係に縛りつけて逃げられないようにする学校制度の問題、そして加害者の責任を、おおっぴらに報道できないことからくる八つ当たりではないだろうか。     

学校は変わっていない。学校と教育にかんする私たちの先入観も変わっていない。こうして学校では、人が人をおそれ、人が人をいためつける集団生活の地獄が、いつまでも続く。

ひどいことがいつまでも続くのは、人がそれをあたりまえと思うからだ。それがあたりまえでなくなると、問題がはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも「ひどい」と感じられない。

学校や教育の世界を、なにか聖なる区域のようなものとして扱い、それをあたりまえと思う私たちの習慣が、学校の残酷、理不尽、そして教育関係者の腐敗を支えている。

私たちは、この「あたりまえ」を、もういちど考え直す必要がある。教育という阿片に侵食された、思考の習慣を改めてはどうだろうか。

多くの人が学校がらみ、教育がらみの「あたりまえ」をあたりまえと思わなくなることによって、事態が改善し、不幸なできごとを減らすことができるからだ。


■学校は自殺の事実を隠した

この文章は、前回記事(日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50919)の第二弾である。

今回は、茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件と、教育委員会のふるまいに関する記事や番組をもとに議論を展開しよう。読者は、私たちが学校や教育について、どれほどまちがった認識をもっていたかに驚かれることだろう。

以下ではまず、取手市教委のふるまいに関する報道を紹介し、そこから私たちが教育について持っている困った先入観について議論を展開する。

次に、今回のいじめについての報道を紹介し、それを手がかりに日本の学校制度の問題を論じる。

教委のふるまいについて報じられたあらましは以下のとおりである。
朝日、読売、毎日、産経、日経、東京、茨城など、新聞各社の大量の記事をもとに、適宜、テレビや雑誌の調査報道を用いた。煩瑣な引用により文章が読みづらくなることを避けるため、新聞記事から引いたものは引用表記を省略した。各紙の文章をそのまま用いたり、合成したりした箇所があることをあらかじめことわっておく。もちろん紹介箇所のオリジナリティは報道各社にある。

2015年11月10日、茨城県取手市、市立中学3年の中島菜保子さん(15歳)が自室で首をつっているのを、両親が発見。

翌日11月11日、菜保子さんは死亡した。

同日、学校は市教委宛に「自殺を図り」と記した緊急報告書をファックスで送り、市教委は臨時会合を開いた。そこで、生徒に自殺と伝えない方針が決まった。

2015年11月12日、校長は全校集会で、「思いがけない突然の死」と生徒に説明し、自殺の事実を隠した。

2015年11月13日、学校は、自殺ではなく「死亡事故」「事故者」と記載された緊急報告書を市教委に送った。この書類で学校は、臨時保護者会を開かない方針と、警察への口止め行為(「警察から報道(機関)に広報しないことを確認した」との文面)を市教委に報告した。

後に市教委は「子供の心を考慮し、遺族の意向もあった」と釈明するが、それに対し父は「そうしてほしいと頼んだことはない」と語る。学校側は、3年生の受験を理由に中島さんの死を「不慮の事故」として生徒らに報告したいと父に同意を求めていた。

同級生は当時のことを次のように証言する(いつのことか日付は不明)。教員が生徒たちに「中島さんがなくなりました。いじめはなかったですよね。皆、仲良くしていたので先生も残念です」と説明した。保護者にも自殺の理由について「家庭の事情で」と発表があった。(『週刊文春』2017年6月15日号)

2015年11月16日、両親が、菜保子さんの日記をみつける。そこには、いじめの存在を示す記述があった。

制服のポケットからは「くさや」と書かれた付箋が出てきた。

両親は学校側にこれを示し、菜保子さんが自殺した事実を生徒たちに伝えて真相を究明するよう求めた。

■市教委は無視し続けた

2015年12月。自殺があったことを生徒に隠したまま、学校は全校生徒にアンケートをし、市教委の担当者が3年生に面接調査をした。

アンケート調査の質問票は、いじめや自殺に触れていなかった。

面接調査で担当者は、「くさや」の文字を隠した付箋のコピーを見せるだけで、具体的ないじめについて質問をしなかった。それと対照的に、習っていたピアノのことや両親との関係など、菜保子さんの家庭事情については質問をしていた。

ある同級生は「(ピアノのことなどで)お母さんは厳しかったの?」と質問された。また別の同級生は、いじめと関係があると思った菜保子さんからの手紙を面接担当者に渡したが、すぐその場でつき返された。いじめがあったとはっきり証言したという同級生もいた(TBS「News23」5月29日(以下「News23」と略))。

生徒たちは菜保子さんへのいじめを目撃しており、何人かの生徒はすでにいじめについて教員に話をしていた。教員は「わかった」「そうなんだ」などと言っていたという(NHK「クローズアップ現代」2017年7月18日(以下「クロ現」と略))。

市教委は両親に「いじめは認められなかった」と報告した。

市教委の調査に疑念を抱いた両親は、菜保子さんの同級生二十人と会って話を聞いた。彼らは両親にいじめを裏付ける証言をした。以後、両親はいじめがあったと訴えたが、市教委はそれを無視し続ける。

翌2016年2月。両親は市教委に第三者委員会の設置を求めた。
〔PHOTO〕iStock

■「重大事態に該当しない」

同2016年3月卒業日。中学3年生になると卒業日に渡す個人アルバムを、1年間のいろいろな行事を書き加えてつくっていく。卒業式の朝、両親はアルバムを受け取った。そこには、「きらい/うざい/クソやろー/うんこ」などと書かれた菜保子さんに対する寄せ書きがあった。

「そのアルバムは自死から卒業式まで、学校側による調査があったにもかかわらず、ずっと隠されていたわけです。それで、いじめはなかった、という調査結果でした」(菜保子さんの母)。

2016年3月16日。市教委は前もって学校から重大事態発生報告書を受け取っていた(3月4日)。それにもかかわらず、市教委は臨時会を開き、「いじめがなかったとの判断」を示した(「クロ現」)。

そして、菜保子さんの死を「(いじめ防止対策法で規定された)いじめによる重大事態に該当しない」と議決したうえで、調査委員会の設置を決定した。この臨時会の議事録は大半が黒塗りであり、発言者の個人名が記載されていなかった(取手市議会2017年6月8日、染谷議員質問より)。

2016年6月、市教委は定例会で5人の調査委員を決定した。茨城大教授1名(教育学)、筑波大教授2名(精神科医と臨床心理士)、東京の大学教授1名(臨床心理士)、茨城県で開業している弁護士1名である。

2016年7月、調査委が調査を開始。

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■筋書にはめ込むための調査

調査委員の聞き取りを受けた同級生は、菜保子さんの家のことばかり聞こうとする委員の不審な言動について、次のように証言する。

「聞かれたのはそっち(いじめ)の方が少なくて、家のこととか聞かれた数ではそっちの方が多かった。ピアノの練習もきつくて死んじゃったとか、お母さんがピアノ厳しいから亡くなっちゃったんじゃないのかとか、なんでそんな話しになるんだろうと思いました」(「News23」)

翌2017年3月。調査委は両親への聞き取りをしようとしなかったので、両親は調査委がきちんと機能するよう文科省に訴えた(「News23」)。

同2017年4月、両親が文科省に訴えるとしばらくして、第三者委二人が両親に聞き取り調査を行った。このときの委員の不審な言動について両親は次のように証言する。

母:「食欲が落ちてませんでしたか、否定的な発言をしていなかった、とか、私たちの思春期の反抗期まで聞いてきたので、それがどういう調査に関わるのだろう」。

父:「いじめのことについては聞かれないんですかということを言いましたら、学校の調書があります、っていう回答が返ってきました」。「いじめのことに関しては、もう学校・教育委員会の聞き取った以上のものは何も調べないんだな。その流れを固めるためにそういうことを行おうとしているんだな、ということを感じました」。

母:「いつ学校は向き合ってくれるんだろう。学校っていったい何なんだろうなあ」(「News23」)

第三者委について評論家の尾木直樹は、「ピアノの練習が厳しかったので虐待ではないか、など家庭に問題があったという筋書にはめ込むための調査≠セったと聞く」と証言している(『週刊文春』2017年6月22日号)。

■「弁解する余地ない」

2017年5月29日、両親が「中立性や遺族への配慮を欠く」として調査委の調査の中止と解散を文科省に直訴する。

翌日5月30日、市教委は文科省の指導を受けて臨時会を開き、「いじめによる重大事態に該当しない」との議決を撤回。また、これまでの「いじめがなかったとの判断」をおおやけに撤回した。

この突然の撤回に関して、市教委の教育部長は記者会見で次のような言動を示している。

記者:「お上に言われたからあわてて(臨時会を)開きました感が否めないのですけど、そのへん、いかがですか」

教育部長:「それについては、あの、もう、あえていいわけはしません。正直いって、私たち、弁解する気もないので、弁解する余地ないと思っとります。むしろ文科省も、この件に関しては、指導いただいてありがとうございます、というところでございます」。(この発言の際、教育部長の怒りにゆがんだ顔とにらむような目つきがテレビで放映される)(フジテレビ『とくダネ!』2017年6月1日)

■教委への「不信」「信頼の危機」

市教委は、調査委を解散してほしいという遺族からの要求を拒んだ。

2017年6月1日、市教委はまた文科省の指導を受けると、すぐに調査委を解散する方針を表明した。

市教委の教育長は、「両親の申し入れを重く受け止め、信頼回復しながら次に向かっていくために解散する方向で進めたい」と話した。

2017年6月9日、同教育長が市議会で「調査委員会の中立性を重視するあまり、一番寄り添う必要のあったご遺族の意向を聞くことをせず、さらに苦しめることになった。慚愧(ざんき)に堪えない」と謝罪した。

この事件の報道に際し、新聞各紙で教委への「不信」「信頼の危機」「信頼回復」といったたぐいの語が見出しや本文にあらわれるようになった。

2017年6月13日、調査委の解散をうけて、当該委員長は、新たな委員会にバイアスをかける(予断を与える)ことになるのを避けるために調査資料は全部消去すると話す。

以上、取手市教育委員会のふるまいについて、報道より概略を示した。

次回、これらの報道を前提に市教委の行動について分析を試みたい。

<つづきはこちら「『いじめ自殺』多発にもかかわらず、学校の有害性が問われない不可解」>

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52633

日本の学校からいじめがなくならないのはなぜか? それは有害な学校制度がいつまでも変わらないからである。茨城県取手市ではひどすぎるいじめ自殺事件が起きた。学校は事実を隠し、教育委員会は当初無視しつづけていた。いじめ研究の第一人者がこの事件を徹底分析する。

前編はこちら:日本の学校は地獄か…いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52631

■首尾一貫した隠蔽工作

茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件に関する市教委の行動を、「いじめがあった」とするのに役立つものと、「いじめがなかった」とするのに役立つものに分類すると、そのほとんどすべてが「いじめがなかった」とするのに役立つタイプになる。

逆に、通常であればしてもおかしくない行動のなかで、「いじめがあった」とするのに役立つ行動はことごとく選択されていない。

「いじめがあった」ということになりそうな調査を強いられる(あるいは、そうなることが予測される)場合は、調査の検出効力を最大限弱める努力がなされる。

さらに、これらの行動群の組み合わせに関しても、「いじめがなかった」とするのに役立つように、前の行動が後の行動の布石となっている戦略的コンビネーションを見出すことができる。

偶然の一致とはとうてい考えられない、上記のいちじるしい行動の偏りと組み合わせが、市教委の行動原理をくっきり浮き彫りにしている。教委の行動群は「いじめはなかった」と社会的現実を改変するための合理的戦略行動(隠蔽工作)として首尾一貫しすぎているのである。

さらにこれらは、嘘をつく、隠蔽する、誘導する、知らせない、調査の正確性を意図的に毀損する、といった職務に関する背任行為を多く含んでいる。

「いじめはなかった」とすることだけでなく、全般的に、利害計算が市教委の首尾一貫した行動原理となっている。

教委は利害損得によって行動しながら、なんとでも言える〈教育〉的なストーリーから都合のよいものを巧みに選択して「いいわけ」に用いている。

以上のことを報道に即して説明しよう。

■教員はいじめを知っていた…?

中島菜保子さんの自殺直後、学校と市教委は、生徒に「思いがけない突然の死」と説明して自殺を隠蔽した。書類には「事故死」と嘘の記載をしている。しかも生徒の証言によれば、すでにこの段階で一部教員は「いじめはなかった」とのアピールをしている。

学校が熱心に遺族にしたことは、自殺でなく「不慮の事故」にしてほしいという依頼だった。学校は保護者会を開かないことにし、警察に口止め工作をし、これを市教委に報告した。

市教委と教員は――通常の判断能力を有する社会の成員であれば明らかに意味が了解可能(わかるはず)であるという観点から――菜保子さんの日記を読み、「くさや」と書いてある付箋紙を見た時点で、いじめがあった可能性が高いことを知ったとみなすことができる。

さらに以前からいじめについて教員に話をしていたという同級生の証言にしたがえば、一部教員はいじめを菜保子さんの自殺以前から知っていたことになる(『週刊文春』2017年6月15日の記事によれば、担任教員自体が実質的にいじめグループの一員であった可能性がある。知らないはずがないともいえる)。


■自殺といじめにふれない調査の不可解

ここで、次のような仮説を立てることができる。

すなわち、自殺直後の段階で、学校と教委は菜保子さんへのいじめがあったであろうと考え、だからこそ、今後いじめ調査をしなければならなくなるときに備え、自殺の隠蔽を行った。

事前に自殺といじめを隠し、大多数の生徒を何も知らない状態にしておいたうえで、来たる調査でいじめを話題にしないでいれば、いじめがあったという証言は少なくなるはずである。

一部教員が「いじめはなかったですよね」とアピールしたのも、いじめを知っていて後に責任をとらされるかもしれないのが不安だったからではないか。

教委側の立場にたっていえば、案の定、遺族は調査を要求してきた。断ることはできない。ここにきて自殺直後からの、多方面への自殺の隠蔽、いじめ無視が、いじめをなかったことにするための有利な条件として効いてくる。

学校と教委は、アンケートと面接の双方で、自殺といじめにふれない調査をおこなった。

市教委は、面接調査で用いざるを得なくなったと思われる付箋紙から「くさや」の文字を消してコピーしたものを置いて調査をした。

「くさや」の文字がなければ市販の付箋紙の意味が生徒たちにわかるはずがないということを――通常の判断能力を有する社会の成員であれば明らかに意味が了解可能(りょうかいかのう)であるという観点から判断して――、教委は知っているはずである。

意図的に付箋紙が記憶のカギになる効果を失わせる加工をしつつ、付箋紙を用いた調査らしいことを形だけしたことにする、というのが最も整合性のある解釈である。

■公務員による露骨な背任行為

報じられた生徒の証言によれば、このとき、教委はいじめについて質問せず、「お母さんは厳しかったの?」といった誘導を積極的におこないながら家庭の事情について質問した。

また市教委は、生徒がいじめについて証言しても無視し、証拠を手渡そうとしたらその場で突き返した。当時学校は同級生の保護者に、菜保子さんが自殺した理由について「家庭の事情で」と嘘の発表を行ったという。

これらが報道どおりであるとすると、公務員による露骨な背任行為といえる。

遺族が第三者委の設置を要求すると、教委は上記の不正な調査を用いて、事務局として「いじめはなかった」との判断を示し、「重大事態に該当しない」と議決したうえで、第三者委の設置を決定する。第三者委のメンバーは5人中4人が地元茨城県の専門家である。

生徒の証言によれば第三者委はいじめのことはごくわずかしか聞かず、家庭のことばかり聞いてきたという。

そればかりでなく、ピアノの練習が厳しいから死んだというストーリーへの露骨な誘導を行ったと生徒に感じられ、「なんでそんな話になるんだ」と反感を持たれるありさまだった。

また調査委は最初遺族を無視していたが、それを文科省に訴えられてはじめて遺族に質問を開始し、そのときにも家族状況に関する質問ばかりし、いじめの質問はしないのかと問われると、教委の調書があると言う。

■巨大すぎるバイアス

父は、第三者委の調査は、家庭に問題があったというストーリーを固めるための中立性を欠いた調査であると判断し、文科省に調査の中止と調査委の解散を訴える。

文科省の指導が入り、第三者委解散が決定されると、第三者委は、報告書については、新たな委員会にバイアスをかける(予断を与える)ことになるので、調査資料は全部消去すると決めた。

これも、以前の行動と照らし合わせると辻褄があわない。生徒の証言によれば、聞き取りではいじめのことをわずかしか聞かず、家のことに偏った質問をしていた。遺族に対する調査も同様のものであった。

遺族には、いじめについてのソースは教委が調べたものしか使わないという。これは桁外れに大きいバイアスである。このように調査委は、本務ともいうべき調査活動で巨大なバイアスを入れておきながら、資料を消去するためのいいわけとしては、ほんのわずかのバイアスを気にするしぐさをする。

資料をあつかう専門家であれば、資料批判を当然の前提として、なるべくたくさんの資料を集め、自身の観点で評価しポイントを取捨選択する。それを考えれば大したバイアスにはならない。ある意味、バイアスがあるから消去するというのは、後続の専門家に対して失礼な行為でもある。

つまり第三者委は、聞き取り調査をするときは専門家としては考えられないような大きなバイアスを生む方法を用いながら、資料を消去するときはとるにたらない些細なバイアスを理由にしている。

上記2時点のバイアス感度が極端にかけはなれていて、辻褄があわない。

文科省の指導を受けた教委は、自分たちの利益のためにいじめはなかったと主張してきたのを、文科省から圧力を受けると同じ利害計算により、手のひらを返したように、そのストーリーを固める作業をあきらめる。

つまり、強者(文科省)からの圧力を、「いじめはなかった」とすることから得られる利益を上回るリスクとして計算に入れると、長期間主張し続けた「いじめはなかった」という判断を一晩で撤回する。

■強い方にしたがうだけ

ここからわかるのは、いじめを隠蔽することだけではなく全般的に、利害計算が市教委の首尾一貫した行動原理となっている、ということだ。

さらに、市教委が真実、あるいは真理というものを、どのように扱っているかを見てとることができる。市教委にとって「ほんとうのこと」は意味がないのである。

あるのは、利害と技術と上下関係が混合した職業上の生活様式だけである。このように考えると、市教委の行動様式を明確に理解することができる。

その行動様式を露骨に示しているのが、テレビで放映された教育部長の言動である。

それが真実であるかどうかではなく、強いもの(文科省)に言われると即座に従い、いじめがあったのかなかったのかという真実(ほんとうのこと)に関する判断を簡単にひっくり返したのはなぜかという質問(真実を尊重する立場であれば当然気になる質問である)には、怖い顔をして「あえていいわけはしません。弁解する気もないので」と言う。

この言葉の意味は、真実をめぐる対話には答えない、力と力のぶつかりあいで強い方にしたがうだけだ、という本音であると理解できる。

力と力のぶつかりあいのなかで、都合のよい意味づけを成功させる戦略として、とってつけたような〈教育的〉ないいわけを饒舌にくりかえしてきた市教委にとって、真実のありか(ほんとうのこと)を主題とする質問に答えることの方が無意味な「いいわけ」なのである。

■教育委員会に真理はない

おそらく教育委員会自体が、そのような上には卑屈、下には尊大で、真実は無意味、力関係とそれに応じた欺瞞のアートがすべてという職業的生活習慣の上に運営されてきたのであろうと考えられる。

一言でいえば、教委に真理はないのである。

力関係のなかで利害損得に従って仮象をはりあわせて演劇的に生きる者に、記者は手練手管とは別の真理(ほんとうのこと)という生活習慣によって応答することを求めた。強者である文科省であれば、何を要求されても教委はひたすら平伏する。

しかし、たいして強者とも感じられない記者からそのようなことを要求されると、教委は怒る。教委は、教育的な仮象をはりあわせるいいわけを繰りかえしてきたし、これからもそうするであろう。

しかし、真理を要求されても、生活習慣上、真理の言葉など出しようがない。別種の生き物のしぐさを要求された動物のように、怒りしかでてこない。相手がムチを手にした(と教委が思う)文科省であれば必死で真理のふり(もっとも苦手な芸)をしてやってもよいが、たいした強者でもない記者ごときに、そんな芸当はしてやらない。

これが、怖い顔をして「あえていいわけはしません。弁解する気もないので」と言う教委の真意(非真理の反応)である。真理の言葉こそが、教委にとって最も意味のない「いいわけ」なのだ(この考察に際しては、哲学者ニーチェの著作群を参考にした)。
〔PHOTO〕iStock

■学校制度の有害性

ところで、このような世界の住人たちが、学校で道徳教育をし、情意評価で成績をつけ、高校入試の内申点によって生徒の将来を左右している。

こういう者たちに、生徒はへつらって生きるしかない。こういった学校制度の有害性が社会問題にならないのが不思議である。

「内申や推薦や情意評価といった制度は、卑屈な精神を滋養し、精神的売春を促進し、さらに課題遂行という点では人間を無能にする」(拙著『いじめの構造』)。

教員に生徒の態度や道徳を評価させ、成績をつけさせると、醜悪きわまりない人格支配が蔓延する。

特に「おまえの運命はおれの気分次第だ。おれはおまえの将来を閉ざすことができるんだぞ。おれのことをないがしろにしたら、どういうことになるかわかっているだろうな」という高校入試の内申制度は、青少年の健全育成にとってきわめて有害である。即刻廃止しなければならない。

■つくられたストーリー

話を元に戻そう。

教委が用いるストーリーやいいわけは、利益追求のために都合良く貼り付けられる。

さまざまな時点の言動を照らし合わせることによって、その特質があきらかになってくる。

ここで、教委が遺族に行ったことを観測のための一つの定点とすることができる。生徒の証言によれば、学校は同級生の保護者に、自殺の理由について「家庭の事情で」と発表した。

教委による聞き取りと、第三者委の聞き取りの双方で、いじめについての質問をしない(あるいはほとんどしない)で、「家庭の問題」というストーリーへの露骨な誘導をともなう質問を繰りかえしていた。

これらの行動は、「いじめはなかった」ことにしたい自己利益のために、菜保子さんはいじめではなく、あたかも「親が厳しすぎたせいで、つまり親が虐待したせいで自殺した」かのようなフィクションをつくりだし、それを公的なものとして固めようとする政治的な行動であると考えるのが最も整合的で自然である。

筆者は報道された同級生と遺族の証言から、以下これを前提に論を進める。

■極端なまでに辻褄があわない

遺族はわが子を失い、その直後から、教委・学校関係者が一丸となって「親が虐待したせいで子が自殺した」という社会的現実を、同級生たちが証言するような中立性をいちじるしく欠いた調査によってつくりだしていく。

これは、愛するわが子を失った遺族に対して、これ以上の残酷なしうちがないと言ってもよいような非道な行為といえる。

市教委が手を染めたのは、寄り添いとか、信頼とかが問題となる次元を超えた、いじめの隠蔽から得られる利益のためには両親の人間の尊厳をくつがえす、いわば遺族を虫けらあつかいするような行為である。教委が遺族にしていたことは、けたはずれに陰惨な行為といえよう。

また、いじめを無視し、家族の落ち度ばかり拾おうとした調査は、意図的かつ極端なまでに調査の中立性を破壊して利益追求を図ったものであるといえる。

その同じ教委が、文科省から指導を受けて立場が悪くなった2017年6月9日の市議会で、「調査委員会の中立性を重視するあまり、一番寄り添う必要のあったご遺族の意向を聞くことをせず、さらに苦しめることになった。慚愧(ざんき)に堪えない」と発言している。

この発言と最初に遺族にしていた陰惨な行為とは、極端なまでに辻褄があわない。この2時点間の言動の極端な食い違いから、次のように考えることができる。

■オウム真理教と同じ?

教委は、遺族のことを「一番寄り添う必要」がある存在と思っているはずがない。

「慚愧に堪えない」はずがない。当時教委は、いじめをなかったことにするのにやっきになっていて、調査の中立性を率先して破壊していた。中立性を重視していたとは考えられない。

市議会での発言は、利害情況に応じて組み立てたいいわけであるとわかる。

まず利害があり、それに応じて〈教育〉の世界で多用されるストーリーのなかから便利な素材が選び出され組み立てられる。

これは、オウム真理教の教祖が、教団にとって都合の悪い人物を殺害することを命じるときに、魂を高いところに引き上げてあげるのだと意味づけたり、性的な劣情にかられて教団内部の女性と好きなように性交することを、ヨーガの修行を助けてあげていると意味づけたりするのと同じである。

しかし、決定的に違うところがある。オウム真理教の教祖のいいわけは社会からまったく受け入れられないが、教委や学校関係者のいいわけは受け入れられてしまう。
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■教育に侵食された日本社会

これは、私たちの社会に、教育に関しては、他のジャンルであれば許されないようなことを、あたりまえと感じて受け入れてしまう思考の習慣がいきわたっているからである。

教委や学校関係者はそれにつけこんで、他の業種であればとうてい許されないようないいわけを通してしまう。私たちの社会自体が、教育という阿片におかされているのである。

重要なのは、特定の教委がどうであるということではなく、その類のものを受け入れてしまいがちになる(教育なるものに侵食されがちな)日本社会のありかたである。  

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コメント
 
1. てんさい(い)[697] gsSC8YKzgqKBaYKigWo 2017年8月22日 06:57:24 : 0kUGInjLpY : VLecBnM2280[361]
日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50919

だから子どもは「怪物」になる
内藤 朝雄
明治大学准教授
いじめ問題研究

最近、また「いじめ」が大きなニュースとなっている。なぜいまだに根本的な解決にいたっていないのだろうか。

いじめは80年代なかば以降、人びとの関心をひく社会問題になったが、いじめ対策は効果をあげていない。

それは、学校に関する異常な「あたりまえ」の感覚が一般大衆に根強く浸透してしまっているからである。マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者や評論家や芸能人たちがでたらめな現状認識と対策をまき散らし、一般大衆がそれを信じ込んでしまうためでもある。

私たちが学校に関して「あたりまえ」と思っていることが、市民社会のあたりまえの良識を破壊してしまう。この学校の「あたりまえ」が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる環境要因となっているのだ。

■きわめてシンプルな「いじめ対策」

いじめを蔓延させる要因は、きわめて単純で簡単だ。

一言でいえば、@市民社会のまっとうな秩序から遮断した閉鎖空間に閉じこめ、A逃げることができず、ちょうどよい具合に対人距離を調整できないようにして、強制的にベタベタさせる生活環境が、いじめを蔓延させ、エスカレートさせる。

対策は、次のこと以外にはまったくありえない。

すなわち、@学校独自の反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会のまっとうな秩序で運営させる。A閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする。

このことについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を読んでいただきたい。これを読めばいじめについての基本的な認識を手にすることができる。

まず、本稿執筆時に注目を浴びたいじめ報道を手がかりに、私たちが学校という存在をいかに偏った認識枠組で見ているかを浮き彫りにしていこう。

福島原発事故のあと横浜に自主避難していた子どもが、何年にもわたって学校でいじめを受けていた。そして何年ものあいだ、教員たちはいじめを放置した。その経緯のなかで150万円もの金をゆすられたと保護者は訴えた。金を払ったのはいじめから逃れるためだったと被害者は言う。いじめ加害者たちはおごってもらったのだと言う。

メディアはこれを報道しはじめた──。横浜市の岡田優子教育長が、「金銭授受をいじめと認定できない」と発言したのに対し、被害者側が「いじめ」認定を求める所見を提出したのが報じられると、世論が沸騰し、さらに報道が大きくなった。

「横浜いじめ放置に抗議する市民の会」は金銭授受を「いじめ」と認めるよう、2千人ほどの署名を添えて市長と教育長に要望書を提出した。これと連動して、他の地域でも原発避難者の子どもが学校で迫害されたという報道がなされた。

学校のような生活環境では、ありとあらゆることがきっかけとして利用され、いじめが蔓延しエスカレートしやすい。原発事故からの避難者にかぎらず、学校で集団生活をしていれば、だれがこのような被害をこうむってもおかしくない。

問題の本質は、学校が迫害的な無法状態になりがちな構造にある1。

1もちろん原発事故の問題が根幹にあるのではないかと疑われるケースもある。たとえば以下は、保護者が実名で訴えたものだ。
福島第一原発に近い地域で被曝をさけようと給食を食べない生徒に、他の生徒たちが暴力を含むいじめをした。暴力を止めさせるよう親が申し入れをしたところ、教員は「安全」な給食を食べろと圧力を加えるのみで、暴力を放置した。
このことを保護者が訴え続けてもメディアは取材すらしない。保護者はYouTubeで英語字幕をつけて発信し、これには海外からの英語コメントがたくさんよせられた(この件に関してメディアは取材をして、事実関係を調べるべきではないだろうか)。

■いじめは教育の問題なのか?

まともな市民社会の常識で考えれば、他人をいためつけ、おどして、その恐怖を背景に金をまきあげれば犯罪である。「おごってもらっただけだ」という言い訳は通用しない。

たとえば、暴力団が何年ものあいだいためつけ続けた被害者に対して、恐怖を背景に大金を「おごり」名目で巻き上げた場合と同じことが、いじめの加害者たちについてもいえる。

学校をなんら特別扱いしないで見てみよう。すると、地方公共団体が税金で学習サービスを提供する営業所(学校)内部で、このような犯罪が何年も放置されたということが、問題になるはずである。

しかも公務員(教員)がそれを放置していたことも重大問題である。公務員は、犯罪が生じていると思われる場合は、警察に通報する義務がある。知っていて放置した公務員(教員)は懲戒処分を受けなければならない。

このような市民社会のあたりまえを、学校のあたりまえに洗脳された人は思いつきもしない。ここで生じていることは無法状態であり、犯罪がやりたい放題になることである。これは社会正義の問題である。

ここで「いじめ」という概念の使い方について考えてみよう。

筆者は「いじめ」という概念を、ものごとを教育的に扱う認識枠組として用いていない。人間が群れて怪物のように変わる心理-社会的な構造とメカニズムを、探求すべき主題として方向づける概念として「いじめ」を用いている。

それに対して、誰かに責任を問うための概念としては、「いじめ」という概念を使うべきではない。責任を問うために使うものとしては、侮辱、名誉毀損、暴行、強要、恐喝などの概念を使わなければならない。

だが、多くの人びとは「いじめ」という言葉をつかうことでもって、ものごとを正義の問題ではなく、教育の問題として扱う「ものの見方」に引きずり込まれてしまう。市民社会のなかで責任の所在を明らかにするための正義の枠組を破壊し、それを「いじめ」かどうかという問題にすりかえてしまう。

そして悲しいことに、学校で起きている残酷に立ち向かおうという情熱を持っている人たちも、そのトリックにひっかかってしまう。 

認定すべきは、犯罪であり、加害者が触法少年であることであり、学校が犯罪がやり放題になった無法状態と化していたことだ。そして責任の所在を明らかにすることだ。

警察が加害少年を逮捕・補導する。犯罪にあたる行為を行った加害者が責任能力を問えない触法少年であれば、児童相談所に通告し、場合によっては収容する。

被害者を守るために加害者を学校に来させないようにする。放置した教員を厳しく処分する。加害者の保護者は、高額の損害賠償金を被害者に払う。学校が無法状態になりがちな構造を制度的に改革する。

それにしても、公的に責任を問う局面で犯罪認定すべきところを「いじめ」扱いでお茶を濁すこと自体が不適切なのに、さらにそのなけなしの「いじめ」認定すら教育長はしない。その意味でこの教育長は解職すべきであるし、市長が動こうとしなければ次の選挙で落とすべきである。

もちろん起きていることは、責任を問う局面で犯罪であり、かつ、場の構造を問う局面で「いじめ」である。これが「いじめ」でなくて、何を「いじめ」というのかというぐらい、「いじめ」である。中井久夫氏がいうところの透明化段階にまで進行した「いじめ」である(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』(みすず書房)所収)。

もっとも重要なことは、加害者たちは学校で集団生活をおくりさえしなければ、他人をどこまでもいためつけ、犯罪をあたりまえに行うようにはならなかったはずである、ということだ。

つまり、学校が人間を群れた怪物にする有害な環境になっているということが、ひどいいじめから見えてくる。これが根幹的な問題なのだ。

外部の市民社会の秩序を、学校独自の群れの秩序で置き換えて無効にしてしまう有害な効果が学校にはある。これは、たまたまいじめが生じていない場合でも有害環境といえる。

■「学校とはなにか」─それが問題だ

最も根幹的な問題は、「学校とはなにか」ということであり、そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じる。

わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、どこまでも、どこまでもエスカレートする。

先ほど例にあげた横浜のいじめが、数年間も「あたりまえ」に続いたのも、学校が外の市民社会とは別の特別な場所だからだ。社会であたりまえでないことが学校で「あたりまえ」になる。

学校とはどのようなところか。最後にその概略をしめそう。

日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。

これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。

たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになる。

「わたしたちの学校らしい学校がこわされされる」
「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」

というわけだ。

そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。

この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人一人の人間は重要ではない。人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。

多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴(めいちょう)するためであれば、長時間労働をいとわない。

その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする。

ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたという(見て見ぬふりをされた本人(現在大学生)の回想より)。こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。

こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要がある。

さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。

学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。

この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだす仕組みに、私たちはなかなか気づくことができない。

しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。

市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。

たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。

逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。

正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。

こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。

■全体主義が浸透した学校の罪と罰

学校は「教育」、「学校らしさ」、「生徒らしさ」という膜に包まれた不思議な世界だ。その膜の中では、外の世界では別の意味をもつことが、すべて「教育」という色で染められてしまう。そして、外の世界のまっとうなルールが働かなくなる。

こういったことは、学校以外の集団でも起こる。

たとえば、宗教教団は「宗教」の膜で包まれた別の世界になっていることが多い。オウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。

また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年あさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、同じかたちの膜の世界がみられる。

そこでは、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」、「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。

学校も、オウム教団も、連合赤軍も、それぞれ「教育」、「宗教」、「共産主義」という膜で包み込んで、内側しか見えない閉じた世界をつくっている2。そして外部のまっとうなルールが働かなくなる。よく見てみると、この三つが同じかたちをしているのがわかる。
2漫画家・エッセイストの田房永子は「膜」という語を用いて痴漢や強姦者やストーカーなど個人の独善的で歪んだファンタジーと行動様式を描く。筆者が難解な用語を用いて理論的に探究してきた心理-社会現象を、「膜」という直感に近い語によって、一般向けに平易に説明できることに気づいた。田房氏の卓越した言語感覚に敬意を表したい。
http://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/08/19/entry_005292.html

このようにさまざまな社会現象から、学校と共通のかたちを取り上げて説明するとわかりやすい。あたりまえすぎて見えないものは、同じかたちをした別のものと並べて、そのしくみを見えるようにする。たとえば、学校とオウム教団と連合赤軍をつきあわせて、普遍的なしくみを導き出すことができる。

こうして考えてみると、学校について「今まであたりまえと思っていたが、よく考えてみたらおかしい」点が多くあることに気づく。

これらのポイントに共通していえるのは、クラスや学校のまとまり、その場のみんなの気持ちといった全体が大切にされ、かけがえのないひとりひとりが粗末にされるということだ。全体はひとつの命であるかのように崇拝される。

この全体の命がひとりひとりの形にあらわれたものが「生徒らしさ」だ。だから学校では、「生徒らしい」こころをかたちであらわす態度が、なによりも重視される。これは大きな社会の全体主義とは別のタイプの、小さな社会の全体主義だ。

大切なことは、人が学校で「生徒らしく」変えられるメカニズムを知ることだ。それは、自分が受けた洗脳がどういうものであったかを知る作業であり、人間が集団のなかで別の存在に変わるしくみを発見する旅でもある。

ある条件のもとでは、人と社会が一気に変わる。場合によっては怪物のように変わる。この人類共通のしくみを、学校の集団生活が浮き彫りにする。

学校の全体主義と、そのなかで蔓延しエスカレートするいじめ、空気、ノリ、友だち、身分の上下、なめる-なめられる、先輩後輩などを考えることから、人間が暴走する群れの姿を明らかにすることができる。学校という小さな社会の全体主義とそのなかのいじめを考えることから、人間の一面が見えてくる。

わたしたちは長いあいだ、学校で行われていることを「あたりまえ」と思ってきた。あたりまえどころか、疑いようのないものとして学校を受け入れてきた。

だからこれを読んだ読者は、「こんなあたりまえのことをなぜ問題にするのだろうか」と疑問に思ったかもしれない。だが、その「あたりまえ」をもういちど考え直してみることが大切だ。

理不尽なこと、残酷なことがいつまでも続くのは、人がそれを「あたりまえ」と思うからだ。それがあたりまえでなくなると、理不尽さ、残酷さがはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも、「ひどい」と感じられない。歴史をふりかえってみると、このことがよくわかる。

これを読んで心にひっかかっていたものが言葉になったときの、目から鱗が落ちるような体験を味わっていただければと思う。もっと知りたいという方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』を手に取ってください。
https://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4062879840/asyuracom-22


2. 2017年8月27日 22:24:32 : vWDUY6Eicg : jRfm_20hOyM[1]
 
この民主主義が未成熟な国においては、
大津市教育長をハンマーで襲った義士が2・3人続かないと、
腐りきった教委の保身・隠蔽体質は根本変わらないのではないか、
そう思うとります。
 

 


3. 2017年8月30日 18:37:07 : aDnSvZ9mUA : eeYmw@idcu8[-1258]

>>2

一番効果あるのは教員教委や官僚寄りの役人のガキや孫を公立に強制入学させて事件が起きること

そうまでしないと奴らは本気出さないから

事実、死刑反対していた日弁連の役員は自分の妻が殺されてから掌返して死刑賛成にまわったからそれくらいでないと

今後も同じ様な不祥事は続いていくばかりだからね

[32初期非表示理由]:担当:ネトウヨ論法多数のため全部処理 http://www.asyura2.com/17/senkyo225/msg/687.html#c28

4. 2017年10月29日 16:05:50 : bTYJDOxhIc : BQ_mvGifOXQ[18]
イジメがなくならないのは親が子供を守ろうとしないからではないでしょうか?

もちろんイジメにも程度の問題がありますが、
自殺が取りざたされるほどの深刻なイジメがあるのなら、
親は子供を守るために、さっさと転校させてしまうのが簡単だと思います。
またひどい状況なのに教師が真摯に対応していないなら、
いじめられている子供以外の親も、子供を転校させた方がいいでしょう。
そんな環境で子供を教育しても、子供に悪影響を与えるだけでしょう。

まともな子供達がみんな居なくなって、イジメっ子と無責任教師だけが残すように
すればいいのではないかと思います。


5. 2017年11月07日 03:03:33 : SHqK28lYEU : zf4NDhHNGKo[344]
>>4

必ず通わせることを前提とするんだな

官僚や教員委員会の子や孫を見てみろ?

奴らの殆どは公立学校へ通わせていない事実がある

これくらい分からないようじゃ転校させても結果は同じだろうな!


6. 2018年2月23日 09:58:19 : SHqK28lYEU : zf4NDhHNGKo[840]

2018/02/23(金) 00:57:50.20 ID:Q01XU4su0.net

基本的に教師って、自分が学生時代に学校でイヤな思いをしたことがない人間がなっちゃうんだよね
学校嫌いな人間がわざわざそこを職場にしようとは思わないから
そうするとイジメだとかそういう自分が体験したことのない学校生活の暗い部分に初めて接することになるから見て見ぬ振りとかしてしまう
イジメられてる側のこともイジメてる側のことも理解できないからね

:2018/02/23(金) 01:24:21.48 ID:pGCJ6eJ50.net
>80
わかる
またはいじめてた側かもね
だから学校の教師っていじめ主犯側の味方してるんだと思う

いじめられたことがあったりオタク趣味とかでカースト3軍に追いやられた経験がある人は
まず教師になろうとか思わないよね

2018/02/23(金) 00:56:48.51 ID:tbMiYDhE0.net

こういう時にこそ人権屋が動いてくれればいいんだけどあいつら金が絡まないとなんもしないからなあ

2018/02/23(金) 00:56:24.58 ID:+doPy2dZ0.net

教員に管理能力ないんだったら学校内に監視カメラつけて第三者に巡回させたら?



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