★阿修羅♪ > 番外地6 > 557.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
縄文後期に「竪穴式住居や遺跡の数が急減」したのはなぜか?
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/557.html
投稿者 中川隆 日時 2014 年 12 月 18 日 23:01:36: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 松岡正剛の千夜千冊 小林達雄 縄文人の文化力 投稿者 中川隆 日時 2014 年 11 月 29 日 11:23:53)

◆ 縄文時代の後期(定説の謎) 2014年12月15日
http://openblog.meblog.biz/article/24407503.html


 縄文時代の後期は、寒冷化のせいで、人口や文化が低迷した、という定説があったが、否定されつつある。では、真相は?

 ──

 縄文時代の後期は、寒冷化のせいで、人口や文化が低迷した、という定説があった。

 縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に分けられる。このうち文化的なピークは火炎土器を生んだ中期で、そのあとの後期(約4500年〜3300年前)以降は生産力が限界を迎えたため、社会が行き詰まったというのが一般的考え方だった。

 きっかけと言われるのが中期末からの寒冷化だ。気候変動で日本では食糧資源の内容が急変。多くの人口が抱えられなくなり、稲作を導入する基盤となったとされてきた。
( → 朝日新聞 夕刊 2014-12-15 )


 しかしこの定説は、否定されつつある。学会で新たに、否定的な報告が出たそうだ。(否定的な実証を示す報告がいくつかある。上記の朝日記事に詳しい。詳細省略。)
 
 では、どう考えればいいか? 記事の続きを引用しよう。

 自然科学の成果と定説との矛盾をどう考えればいいのか。

 最近では、東京大学教授の横山祐典さん(地球化学・気候変動学)の研究で、考古学者が寒冷化の証拠としてきた海水面の低下も寒冷化以外の原因で起こっていた可能性も指摘されている。「現状では寒冷化が広い範囲で人々の生活に深刻な影響を及ぼしたとは考えにくい。それで文化が停滞したという考え方は見直すべきだ」と阿部さん。

 これに対し、東京大学教授の設楽博己さん(考古学)は「意見としては面白いが、縄文中〜後期にかけて、儀礼的要素の増加に代表されるような、集落や社会の構造的変化があったことはあきらか。その理由をどう説明するのか」と疑問を呈する。

 要するに、よくわかっていない。「寒冷化のせいで人口や文化が低迷した」という説は否定されたようだが、実際にはどうであったのかは判明していないことになる。謎が残ったわけだ。

 ただし、ヒントとなることもある。朝日の記事には、次の話もある。

 シンポを主催した明治大学先史文化研究所長の阿部芳郎さん(考古学)によると、縄文後〜晩期停滞説の根拠は、集落や竪穴式住居の数が中期を境に減ることだった=グラフ[下図]。

 このグラフをじっと見つめると、重要なことがわかる。以下で私見を示そう。

 ──

 最も重要なことは、次のことだ。

 「注記をピークに、後期や晩期ではあまりにも急激に低下している」

 仮に、これが人口を示すものだとすれば、このような人口を示すグループはとっくに絶滅しているはずだ。あまりも急激に低下しているし、変動の余地もなく一方的に低下しているからだ。

 一方で、この時代には、文化や食生活が大幅に向上したことが知られている。たとえば、製塩専業集団、塩媒介集団というものができている。これはもはや、文明と言ってもいいほどだ。

  → 縄文時代の主なできごと( Wikipedia )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3#.E7.B8.84.E6.96.87.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.AE.E4.B8.BB.E3.81.AA.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8


 このように文化的に発達した集団が、急激に人口を減らすということは、およそ考えにくい。「人口の急減はなかった」と考えていいだろう。

 ──

 では、人口の急減がなかったのだとすれば、上記のグラフ(竪穴式住居や遺跡の数の急減)は、何を意味するか?

 不思議に思えるかもしれないが、論理的には、ただ一つしかあり得ない。こうだ。

 「竪穴式住居や遺跡を残さない住居が発達した」

 換言すれば、こうだ。

 「竪穴式住居という原始的な住居に住むのをやめて、もっとまともな文化的な住居に住むようになった。特に、床(ゆか)のある、断熱性に優れた住居に住むようになった」

 これを裏付けるのは、次のことだ。

 @ 竪穴式住居は、1万年ほど前の縄文早期からあるもので、あまりにも原始的すぎる。( → Wikipedia )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3#.E7.B8.84.E6.96.87.E6.99.82.E4.BB.A3.E3.81.AE.E4.B8.BB.E3.81.AA.E3.81.A7.E3.81.8D.E3.81.94.E3.81.A8


 A 竪穴式住居は、床がない。
(下図。出典:Wikipedia )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E4%BD%8F%E5%B1%85

※ わかりやすい参考図もある。 → イラスト
http://www.cwk.zaq.ne.jp/rekishi/kodomo-rekis/02-sro.htm

 ここで、「床がない」というのは、非常にまずい。というのは、土間で寝起きするのは、体温の維持に不都合だからだ。おそらくは、藁みたいなものでも敷いて寝たのだろうが、それでも土間の上に寝るのよりは、床の上に寝る方がいい。そして、床の上に寝るとしたら、床のある建物が必要だ。それはつまり、木造建築だ。

 では、縄文時代に、木造建築があったという証拠はあるか? 

あるわけがない。木造建築は、ただの木造物だから、証拠が残るはずがない。(何ら跡を残さずに消滅する。)

 逆に言えば、「竪穴式の住居の証拠がなくなった」(急減した)ということは、「木造建築が普及しつつあった」ということの間接的な証拠なのである。

 ──

 縄文時代には、たしかに、竪穴式の住居が急減していった。それを見て、考古学者は「そいつは人口が急減したことの証拠だ」と思った。

 しかし、そうではないのだ。1万年前からずっと続いていた旧式の住居が消滅していったということは、住む人がいなくなったということを意味するのではなく、新式の住居が普及していった、ということを意味するのだ。

 ただし、旧式の住居は、その旧式さゆえに証拠を残した。「縦穴」という証拠を。一方、新式の住居は、その新式さゆえに証拠を残さなかった。

 そして、後世の考古学者は、「証拠がないということは、人間そのものが減った」と考えて、「証拠を残さないものが増えた」とは考えなかったのだ。……ここに、謎が生じた理由がある。

 ──

 比喩的に言おう。

 二つの殺人事件があった。

 第1の殺人事件では、犯人は証拠を残した。指紋や凶器などの証拠を。それを見て、「証拠があるから、犯人がいたのだ」と人々は思った。

 第2の殺人事件では、犯人は証拠を残さなかった。指紋も凶器も残さなかった。それを見て、「犯人は証拠を残さずに殺人をしたのだ」と人々は思った。

これでいいはずだった。

ところが、考古学者だけは意見が違った。考古学者は、こう主張した。

「犯人が証拠を残さなかったということは、犯人は存在しなかったのだ。指紋も凶器も残っていないのだから、犯人という人間そのものが存在しなかったのだ」

 そこに、ヒゲもじゃの名探偵が登場した。

 「犯人が存在しなかったとしたら、誰が被害者を殺したんです? 

自殺は不可能だということが判明しています。

だとしたら犯人は存在したんですよ。

証拠が残っていないということは、犯人が存在しないということを意味するわけじゃないんです。犯人が存在して、証拠を残さなかった。それだけのことなんです。……

ちょうど、縄文時代の木造住居と同じでね。何ら証拠は残っていませんが、それはたしかに存在したんですよ。そうと考えなければ、合理的に説明がつかないですから。
論理的に言って、それ以外にあり得ないんですよ」


 すると考古学者が反論した。

「証拠がないのであれば、認められない! 

それが科学というものだ!」

 しかし、ヒゲもじゃの名探偵はこう説明した。

「『証拠がないという証拠』があるんですよ。いいですか? ここでは何一つデータがないわけじゃない。竪穴式住居が急減したというデータがある。

これこそが最も重要な証拠なんです。竪穴式住居が急減したが、人間そのものが急減したわけではない。とすれば、竪穴式住居ではない住居が取って代わったということになります。しかも、それは、証拠を残さないものです。……

ここまで考えれば、それがどんなものであったか、わかるでしょう?」


 ヒゲもじゃの名探偵は、最後に付け加えた。

「目に見えるものばかりを見ていてはダメです。目に見える何かが減ったのならば、その分、目に見えない何かが増えたのです。そこでは、目に見えない何かとはどんなものか……と想像する力が大切なんですよ。

(後期の)縄文人は決して、未来の考古学者のために生活していたわけじゃない。彼らは未来人がわかるような証拠を残すために生活していたわけじゃない。彼らは彼ら自身のために生活していた。それがどんなものであるかを想像するべきなんです。

そのためには、どうするべきか? 

彼らを『愚かな原始人』というふうには考えず、『現代の我々と同様に、日本語を話す文化的な集団』と考えるべきなんです。とすれば、竪穴式住居なんていう原始的な住居に住んでいるはずがない、と理解するべきでしょう」
 


 [ 付記 ]

 「縄文人は原始的な非文化的な人々だったが、弥生人は発達した文化をもつ先進的な人々だった」

 という対比がなされたことがあったが、近年では否定されている。縄文人(特に後期)は、稲作こそしなかったものの、文化的にはかなり発達した生活をしていたことが、すでに判明している。
 


 【 追記 】

 「木造建築とはどんなものか?」

 という疑問があるだろう。それに答えよう。

 はっきりしたことは言えないが、おおざっぱにヤマカンふうに推測を付けると……
 当時は鉄器がなかったので、工具もなく、木材を加工することはできなかった。とすれば、木造といっても、かなり原始的な建築であったことになる。「ほぞと穴」のような構造もできなかっただろう。

 そこで最も容易に想像できるのは、こうだ。

 「すでにある森の中の樹木を利用して、それを柱のかわりに使う」

 これならば、竪穴式住居の柱のかわりに、天然の柱が存在するのと同じことになる。しかも、あとには遺跡などは残らない。

 縄文後期では、複数の柱の間に結びつける「枝の壁」のようなものを作る方法が発達したのだろう。それはたぶん「縄」のようなものだ。丈夫な植物の繊維としては、麻がある。これで縄を作っていたことは、「縄文時代」という名称からもわかる。

  → 麻の歴史(前篇)
http://www.asabo.jp/museum/museum_sub08_01.html


 なお、床があったかどうかというと、この方法では床は作れそうにない。かわりに、ベッドまたは大型台のようなものは作れただろう。それを床のかわりにすることはできたと思える。(なお、その構造材は、たぶん、竹だろう。竹で籠のような家具を作ることができる。)
  → 竹の家具(画像)
https://www.google.co.jp/search?newwindow=1&client=firefox-a&hs=LyO&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&biw=903&bih=834&tbm=isch&sa=1&q=%E7%AB%B9%E3%80%80%E5%AE%B6%E5%85%B7&oq=%E7%AB%B9%E3%80%80%E5%AE%B6%E5%85%B7&gs_l=img.3..0l2j0i24l3.2416.4969.0.5644.6.6.0.0.0.0.124.561.0j5.5.0.msedr...0...1c.1.60.img..1.5.556.5Xb4S3spGFA


http://openblog.meblog.biz/article/24407503.html  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2014年12月18日 23:07:31 : b5JdkWvGxs


縄文期の寒冷化なかった? 「定説」に一石の最新研究 2014年12月15日15時48分


 のべ1万数千年に及んだ縄文時代。しかし、その間には「栄枯盛衰」があり、縄文中期(約5500〜4500年前)を最盛期に、その後は気候の寒冷化が進んで人口が減り、文化も停滞に向かったというのが定説だった。だが、先頃開かれた研究会で、前提になる寒冷化の影響の有無について疑問が示された。

 11月中旬に東京都内で開かれた公開シンポジウム「縄文文化の繁栄と衰退」。7時間に及ぶ討論の締めくくりとして、「現状では縄文時代の後〜晩期に寒冷化の影響を認めることはできません」という結論が示されると、会場に驚きの空気が漂った。

 縄文時代は草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に分けられる。このうち文化的なピークは火炎土器を生んだ中期で、そのあとの後期(約4500年〜3300年前)以降は生産力が限界を迎えたため、社会が行き詰まったというのが一般的考え方だった。

 きっかけと言われるのが中期末からの寒冷化だ。気候変動で日本では食糧資源の内容が急変。多くの人口が抱えられなくなり、稲作を導入する基盤となったとされてきた。

 だが、動植物の遺存体などに関する最近の研究では、後〜晩期に海水温などが下がった証拠は見つかっていない。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


2. 2016年4月26日 11:19:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2465]

縄文人の人口減は偏食原因か 食の多様性失い変化に弱く

京都新聞 4月24日(日)20時44分配信


三内丸山遺跡の近くで出土した約5300年前の土器の破片を手にする羽生教授。土器が作られた年代によって型式は異なる


 日本の人口減少が課題となっているが、実は約4300年前の縄文時代にも大きく減った。日本における「最初の人口減少」とも言われ、気候変動による寒冷化が原因とする説が有力だ。しかし、総合地球環境学研究所の羽生淳子教授は「縄文人が採取する食物が偏った結果、わずかな環境の変化に対応できなくなったのが原因」という仮説を提唱している。人間は縄文時代から、炭水化物に大きく依存して食の多様性を失わせ、その弊害を被っていたというのだ。

 羽生教授は青森市の三内丸山遺跡など縄文時代の遺跡を研究している。同遺跡は約5900年前から1600年続いた集落だ。最盛期には数百人が暮らしたという説もあり、縄文時代では最大級の規模だった。

 「遺跡の人口を詳細に検討すると、寒冷化より前に既に人口が減っているんです」。羽生教授は指摘する。住居跡から推測すると、同遺跡の人口が減り始めるのは約4900年前と、寒冷化が始まったとされる時期よりも600年ほど早い。人口減少の理由は、気候変動だけでは説明がつかないというわけだ。

 羽生教授は、出土する石器に注目した。獲物を捕まえる弓矢の矢尻に使った石ぞくや植物をすりつぶした磨石(すりいし)など、石器の出土数から当時の食生活が推測できる。食生活と人口には相関があるという。

 約5600〜5200年前の同遺跡からは、磨石や石ぞくなどが満遍なく出土し、人々が動物も植物もよく食べていたと推測できる。この間の住居は約30軒を超えなかった。その後、出土する石器の大半を磨石が占めるようになり、クリやトチの実など植物を多く採取したと考えられる。住居は増え始めて人口増加をうかがわせる。

 しかし約60軒以上の住居のあった人口最盛期の4900年前になると、出土する石器は石ぞくが多くなり、狩猟で動物を仕留める機会が増加したとみられる。周辺の木の実の収穫が減って、炭水化物を主食にできなくなったと推測できる。その後の100年で住居跡は十数軒まで急減し、人口減の局面を迎える。羽生教授は「食の多様性が失われ、わずかな気候の変動でも食物確保をできなくなり、一度は最盛期を迎えた人口も減少してしまった」と考える。

 縄文時代には、人口の大半が東日本に偏る一方、約5千年前の人口は26万人に上るという推定もある。数百人規模の同遺跡の分析をそのまま日本全体に当てはめることはできない。しかし羽生教授は

「三内丸山は当時の最大級の遺跡。東日本で起こった出来事を推測する大きな鍵」

と話す。その上で

「食料の単一化傾向が、縄文時代の人口減少の原因だとすれば、品種の多様性が問題となる農業にも参考になる」

と語り、縄文人の生活史が現代の課題に通じると強調する。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160424-00000018-kyt-sctch


  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:

この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。) ★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
  削除対象コメントを見つけたら「管理人に報告する?」をクリックお願いします。24時間程度で確認し違反が確認できたものは全て削除します。 最新投稿・コメント全文リスト

▲上へ      ★阿修羅♪ > 番外地6掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
番外地6掲示板  
次へ