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他人の「施し」に頼って生きるのが恐ろしい結果を招く理由
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/559.html
投稿者 中川隆 日時 2014 年 12 月 23 日 13:53:35: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: ネパールのカースト制 投稿者 中川隆 日時 2014 年 12 月 06 日 19:44:02)


他人の「施し」に頼って生きるのが恐ろしい結果を招く理由 2014-12-23
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20141223T0532010900.html


インドはバクシーシという文化があるのだが、このバクシーシというのは、金を持った人間が、金を持たない人間に「施し」を与えるものである。

インドはカーストという身分制度が薄れてきたとは言えども未だに続いている国だ。今も貧困層の多くは低カーストか、もしくはカーストにも入れない不可触民(ダリット)である。

こういった貧困層はその身分制度があるが故に、その一生を貧困の中で暮らすことが多い。だから、彼らは金持ちから「施し」を受けるのは当然の権利であると考えている。

また金持ちも、こういった貧困層に「施し」をすることによって徳を積んで来世はまた良い身分で生まれ変われるという宗教観があるので、当然のように「施し」を行う。

こうした「施し」は実は身分制度を強化する役割もある。与える人間が、与えられる人間よりも下になることは絶対にない。

与える人間は、常に自分たちは上の階層であることを意識し、与えられる人間は自分たちは這い上がれない階層であることを意識する。

物乞いの人生が板に付き、抜け出せなくなる

「施し」を受けるというのは、自分が相手よりも下であるという意識を刷り込む行為である。

何度も何度も、哀れな表情を作って物を乞ううちに、本当に「物乞い」に相応しい態度、表情になっていく。物乞いの人生が板に付き、そこから抜け出せなくなってしまう。

最初は、物乞いを「演じて」いたかもしれない。ところが、それを続けるうちに「本当の物乞い」になっていき、それがその人の人生になる。

これも一種のピグマリオン効果である。

(一度堕ちてしまったら、もう初々しかった頃には戻れない)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20141221T0256220900.html


警官が警官らしくなるのは、そのように振る舞うからだ。軍事が軍人らしくなるのも、教師が教師らしくなるのも、社長が社長らしくなるのもそうだ。

毎日毎日そのように振る舞っているうちに、それが刷り込まれて自分の一部になっていく。最初は演じているつもりでも、それが自分そのものになる。

「施し」を受けるというのも、それを繰り返していくうちに、どんどん刷り込まれて「自分は施しを受ける側の人間だ」という意識になっていく。

物を乞う。乞うて生きる。それは、自立した生き方ではないのだが、そんな危険な状況が普通になってしまう。それが自分の人生そのものになってしまうと、どうなるのか……。

もちろん、抜け出せなくなる。それが恐ろしい。

そこには自尊心もなければ、人生の充足感もない。一生、自分らしい生き方ができなくなってしまう。


乞うて生きる。それは、自立した生き方ではないのだが、そんな危険な状況が普通になってしまう。それが自分の人生そのものになってしまうと、どうなるのか……。


生まれながらにして「物乞い」の生き方しか知らない

インドは長い身分制度の中で、貧困層の一部を「物乞いの人生」に追いやってきた。

生まれながらにして「物乞い」の生き方しか知らない人たちにとって、そこから違う生き方を模索するというのは、とても難しいことだ。

社会もそれを望んでいないし、本人たちも違う生き方を想像することができないので、いったん貧困層に生まれると、それは一生続いていく。

本人たちのせいではない。社会がそうした仕組みを作り上げて、それが文化になった。だから彼らの大部分は、金もなく、教育もなく、虐げられ、排除され、物を乞うしか生きられない境遇で一生を終える。

インドで施しを乞いながら生きている人たちを知っている。

物乞いをしている彼らが誰かにまとわりつくと、誰もが不機嫌な顔をして無視したり、「あっちに行け」と怒鳴ったり、あるいは嫌悪感を抱きながら金を払ったりする。

他人にまとわりついて「施し」を無理やりもらうというのは、言うまでもなく他人を不愉快にさせる行為なのだ。しかし、彼らは物乞いをして生きているのだから、朝から晩までそうやって他人に嫌悪され、罵倒されながら暮らしていた。

施しを受けながら生きるというのは、それほど屈辱的な体験を毎日繰り返しながら生きなければならない。

彼らは罵倒されたり、無視されたり、時には手荒く扱われたりするのになれてしまったかも知れないが、見ている私の方が居たたまれなかった。

彼らの仲間はスラムに住んでいる。そのスラムには子供たちがたくさんいる。

屈託ない子供たちも子供のうちから物乞いをして暮らしている。この子供たちはどうなってしまうのかと考えると、とても重い気持ちになる。

生まれながらにして「物乞い」の生き方しか知らない人たちにとって、そこから違う生き方を模索するというのは、とても難しいことだ。


他人の施しに頼るのが当たり前になる人もいる

その点、日本は識字率も高く、義務教育も受けられ、努力する大切さも教育の中で教えられている国だ。しかし、それでも自立をあきらめ、親や行政にすがるしか生きられない人たちが出てきている。

人生に躓き、誰かに助けてもらう状況があったとしても、それは恥ではない。

人はいつも順風の中で生きているわけではない。時には手痛い失敗をすることもあれば、事故や病気などでどうにもならなくなる不遇の時期もある。

そういった不遇の境遇を何度も乗り越えて来た人が立派な人である。不遇は恥ではない。親に助けてもらうことも、生活保護を受けることも恥ではない。

ただ、問題がある。人間はとても弱い生き物で、自立しなくても生きていけると分かったら、自立する努力をしなくなってしまう人もいることだ。

自立するというのは、次から次へと迫り来る障害や困難やトラブルを、しっかりと受け止めて自分で解決して先に進まないといけないということだ。それはとても難儀なことである。

すると、一時的に親の庇護や生活保護に頼るだけだったつもりが、そこから抜け出せなくなり、依存状態になり、それに頼るのが当たり前の人生になる人もいる。それが問題なのだ。

一時的に不遇を乗り切るためのものが、それなしには生きていけなくなるほど依存すると、施しを受けるだけが自分の人生になってしまう。

自立して生きるというのは、とても大切なことである。そして、自立できているというのは、とても素晴らしいことでもある。自分の人生とは、自立するところから始まる。
 

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コメント
 
1. 中川隆[7427] koaQ7Jey 2017年3月31日 08:54:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7908]

子供の長い引きこもりを許して「生活無能力者」にするな
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2015/05/20150505T1921480900.html


仕事に就かず、学校にも行かず、親に面倒を見てもらって部屋に引きこもる若年無業者(ニート)は、2016年版「子ども・若者白書」によると約56万人になっていることが分かっている。

2012年までは60万人以上だったので減ったことは減った。しかし、2014年の「子ども・若者白書」で「景気が改善傾向にあるのでニートが約3万人減少した」と内閣府が分析を出して大炎上と大批判が湧き上がったのは記憶に新しい。

ニートの統計は「15歳から34歳の若年無業者」を対象にしているのだが、政府は「若年」というのを34歳までと決めている。35歳になると「若年」ではないので、自動的にニートの定義から外れる。

つまり35歳以上の無業者は「若年無業者」の統計に統計に含まれないのだ。

この統計の対象となった2013年の時点で3万人減ったというのは、ニートが高齢化して35歳以上の方に移行しているからだ。景気の改善はまったく何の関係もない。

それを隠して「景気の改善によって減った」と分析したので、政府は批判を浴びた。減っていなかった。ただ統計からカウントされなくなっただけだったのだ。

長い引きこもりで完全に「生活無能力者」になる

兵庫県明石市二見町で、76歳の母親が49歳の長男に殴り殺された事件があった。

この長男は仕事もしないで家の中でぶらぶらして過ごし、母親の年金に寄生して生きていた。

早い話がこの男も「ニート」と同じようなものだが、政府の定義では「ニートは34歳まで」だから、ニートに含まれない。単に「無職」である。

この49歳の働かない息子は、「食事を作らなかったので腹が立った」ので、76歳の母親の顔を拳で殴った。

働かないでぶらぶらしている息子が食べさせてもらっている母親を殴るのだから、頭がどうかしている。結局、それが元で母親は死亡した。

ところで、その1ヶ月前にはよく似たような事件があった。

奈良県香芝市で起きた事件だったが、81歳の母親の年金に寄生して生きていた55歳の男が、死体遺棄の疑いで逮捕されていたのである。

81歳の母親が台所で倒れて死んだのだが、55歳の無職の息子はそれをそのまま5日間放置して暮らしていた。

この男も引きこもって母親に食べさせてもらっているニートのような存在だった。しかし55歳なのでニートの定義からは外れ、単なる無職である。

55歳にもなった男が、死んだ母親をどうしたらいいか分からずに5日間も放置していたのだから、異常極まりない。

長い引きこもりで完全に「生活無能力者」になっていたことが分かる。実は、何をどうしたらいいのか分からずに逃げたという事件は大阪市西淀川区でも起きていた。

81歳の母親が布団の中で死んでいたのだが、無職の51歳の男は「どうしたらいいのか分からなかった。動転した」として、放置したまま逃げていた。


親に依存したまま30代を迎える人たちが珍しくない

2017年3月6日の茨城新聞は「引きこもりの3割が40代、初の県調査、10年以上は4割」と記事を出している。

ニートが高齢化している。20代のうちに生活を成り立たせる仕事や収入を得ることができず、そのまま親に依存したまま30代を迎える人たちが今や珍しくなくなった。

日本は1990年のバブル崩壊を経て、急速に就職口が減っていったのだが、それが深刻化したのが2000年代に入ってからである。

企業は正社員として若者を採用するのをやめて、どんどん非正規雇用を増やしていったが、それによって若者たちは安い給料で時期が悪ければすぐに見捨てられる「使い捨て要員」にされてしまった。

最初から仕事が見付からないまま、親に面倒を見てもらうしかない若者がまずニートになり、次に非正規雇用で働いていて契約が切れ、次の職場が見付からない若者がニートになった。

小泉政権が終わった後、自民党政権は大混乱して総理大臣が次から次へと替わっていき、政治の混乱は経済の停滞となって、ますます若者を追い詰めた。

不幸だったのは、この混乱をさらに加速させる民主党が2009年から2012年まで政権を取ったことだ。

日本史上、類を見ないまでの無能政党と言われた民主党は、異常な円高を放置して日本企業が破滅していくのを知らん顔をして見ていた。

そのため、雇用環境はさらに悪化して、若者の貧困は決定的になってしまったのである。最初は正社員になれれば何とか勝ち組だと言われていたが、その正社員ですらもリストラで放り出される恐怖の時代と化した。

そんな厳しい社会の中で、次の仕事が見付からない若年層も中高年も次第に心を病んでいき、気が付けば引きこもりになっていく。

茨城新聞の圏内調査では引きこもりになった「きっかけ」が、
「就職していたが失業または離職した」と「就職できなかった」
で計38・4%であったことを報告している。


自立しない子供を守るのは、本当に愛なのか?

就職氷河期だった2000年初頭に20歳だった若者は、2017年に入った現在は35歳以上になっているはずだ。

2000年代に仕事が見付からないでニートになってしまった若者は、「若年無業者」の定義である34歳を超えても、まだ仕事が見付からないまま、親の家の部屋の一室に引きこもっている可能性は高い。

こうした若者は今は親が必死で支えているが、その親もまた日本経済の衰退で疲弊しているわけで、以前にも増してニートをめぐる環境は厳しくなっていく。

親としては厳しい社会に叩きのめされている我が息子を必死で守っているのかもしれないが、グローバル化がより強烈に進んでいく現在にあって、子供を守るには子供を自立させる以外に方法はない。

IBMの創始者トーマス・ワトソンが好んで話していた教訓は、今の日本人が知るべきものかもしれない。自立しない子供を守るのは、本当に愛なのか……。

「湖のほとりに、ひとりの老人が住んでいた。ある年、湖が寒波に見舞われ、多くの野鳥は食べ物がなく飢えた。老人は哀れに思って野鳥にエサを上げるようにした。野鳥は老人のエサを待つだけになってしまった。ある冬、老人は死んだ。何もできなくなってしまった野鳥たちも飢え死にしてしまった」

老人がしたことは、正しかったのかどうか。いつまでもエサを与え続けることは良いことだったのかどうか。誰かに依存して生きる方法は正しいのかどうか。

本当に子供のことを思っている親は、恐らく親を頼ってくる子供を突き放す。それは非情に見えるかもしれない。しかし、その非情は大きな目で見ると正しいことだ。

寄生させないというのは、相手にとっても自分にとっても正しいことなのである。


「湖のほとりに、ひとりの老人が住んでいた。ある年、湖が寒波に見舞われ、多くの野鳥は食べ物がなく飢えた。老人は哀れに思って野鳥にエサを上げるようにした。野鳥は老人のエサを待つだけになってしまった。ある冬、老人は死んだ。何もできなくなってしまった野鳥たちも飢え死にしてしまった」


2. 中川隆[-6618] koaQ7Jey 2017年8月21日 21:43:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

支援すると、意図的に弱い立場に固執する人が生まれてくる


2017年7月。国連難民高等弁務官事務所は世界の難民が過去最多の2250万人になったことを報告しているのだが、これに避難民を入れるとさらに4310万人近く増大し、6560万人が避難生活を余儀なくされている。

凄まじい数であり、危機的な数でもある。国際社会は必死で支援しているのだが、支援を続けることによって今度は新たな問題が発生するようになっている。

支援は絶対に必要だ。しかし、多くの難民が保護キャンプに集まって支援を受けるようになったとき、支援漬けになって自立ができなくなる現象が徐々に問題化している。

コンゴの人々、ソマリアの人々、そして南スーダンの人々。難民キャンプに生きる人たちはみんな自立を忘れて、支援を受けるために生きるようになる。

アフリカ難民だけではない。アフガニスタン難民でも、シリア難民でも、同じ問題が発生している。難民キャンプで、何もしなくても食料が得られるようになると、働くことを忘れ、ただ無為に時間を過ごすだけになる人も多い。

アメリカでも、フードスタンプの生活に落ちると、それを当てにして逆に自立ができなくなるという。インドでも貧困層の支援が始まると、働いていた人たちも働かなくなってしまったという例がある。

意図的に弱い立場に固執する人たちが生まれてくる

ヨーロッパの移民支援もまた同じだ。

移民の支援は移民がその国に慣れるまでの最初の間だけのものだが、支援にどっぷりはまってしまうと、支援に依存してそこから抜け出せなくなる人が出てくる。

日本の生活保護にも同じ問題がある。

一時的に生活が困難になった人を保護するのが生活保護だが、いったんそこに落ち込むと、精神的にも隷属が生じて抜け出せないのである。

弱者支援のボランティアに関わる人たちがいる。彼らは最初、希望に燃えて運動に身を投じている。しかし、やがて割り切れない思いを持って現場から去る人も出てくる。

なぜか。援助に依存して、まったく自立しようとしない人たちがいることに違和感を感じ、ある日その現実に耐えられなくなってしまうからだ。

支援されることに甘え、支援者に寄りかかり、もっとよこせと要求する人たちが出てくる。その姿に幻滅して、現場を去っていく。

支援を受ける側は、意図的にそれを悪用しようとしているわけではない。ただ、少しでも有利に、そしてたくさん支援を受けようと思っているだけなのだ。しかし、それが支援の隷属につながっていく。

本来は必要最小限の支援を受けて、元気になったら自立のために行動すべきなのだが、それをしないで、より支援を受ける方にエネルギーを注ぐようになる。

そして、それが長く続くことによって自立の芽が枯れ、人に頼らないと何もできない人間になっていく。人間は弱く、安易な方向に流される。

支援を受けなければならない弱い立場のままでいて、それで長く支援が受けられると分かったら、「意図的に弱い立場に固執する」人たちが生まれてくるのだ。


何もしないで温かいスープが飲めるシステム

生きるか死ぬかの地獄に突き落とされた人を助けなければならないのは当然だ。それに疑問はない。

いかなる理由があっても、飢饉や内戦や極貧で苦しんでいる人を放置するのは人間的ではない。誰もが、何とかしないとならないと思う。

だから、そういった活動に従事するNPO団体や国連の職員は、人類で最も崇高な仕事をしていると言える。

実際、そうした人道援助で数百万人、数千万人もの人々が助かっており、その功績は政治家がもらうノーベル平和賞よりもずっと価値がある。

援助が自立を奪ってしまうという現象があっても、それで支援する側を責めるのは間違っているし、彼らの行為を汚すものではない。

かと言って、支援を受けている人たちが、自立心を失ってしまったとしても、それで弱者を責めるのもなかなか難しいものがある。

ただ何もしないでいたら温かいスープが飲めるシステムになっていたら、誰でも何もしないでじっとしている。

人は環境に依存する生き物であり、支援で生きられる人がそれに依存するのは、環境に最も適応したサバイバル能力の強い人であると言うことも可能だ。

しかし、支援に依存して生きるのが間違っているというのは、それではいつまで経っても、自分の人生を自分で生きることにならないからだ。

それの何がまずいのか。

仮に支援する側が、理不尽なことを求めてきたらどうなるのか。強制労働を求めればどうなるのか。性的交渉を求めてきたらどうなるのか。

「支援してやるから俺の奴隷になれ」と言われたら、支援に依存が強ければ強いほど拒絶できなくなる。支援のワナというのは、そこにある。人生を支援者が支配するのである。


自立の本当の意味とは何か知っているか?

ところで、「自立」とは何かというのを、深く考えたことがあるだろうか。「自立とは、自分の収入で生活ができることである」というのは、ほぼ合っている。

しかし、完全に正しい答えではない。

もし、自分が収入を得ている所属先から切られたら、もう生きてはいけないという状況になっているとき、それは自立していると言えるだろうか。

「この仕事をクビになったら生きていけない」
「この旦那と別れたら生きていけない」
「この人に見捨てられたら生きていけない」

自分で働いている場所や人から切られたら生きていけないという状況になると、それは、そこに隷属してしまっているということでもある。

他人に隷属するというのは、他人の支配や理不尽を受け入れなければならないということでもある。何を言われても、何をされても、黙って耐えて耐えて耐え続けるしかなくなる。

なぜなら、どんなに罵倒されても嘲笑されても、そこから逃れられないからである。たとえ、暴力を振るわれても耐えなければならない状況に陥るかもしれない。

それは、自立している状態と言えない。

本当の意味で自立しているというのは、他人からの隷属を離れていつでも独り立ちできるということだ。つまり、政府にも会社にも個人にも、誰にも頼らないで生きられるというのが自立しているということなのだ。

これは、誰もが一生を賭けて追求するに値するものだ。それが成し遂げられたとき、人は心からの自由を手に入れて羽ばたくことになる。

自立。自由。他人に依存しないで生きることができるというのは、とても素晴らしいことだ。

多くの人が自立を成し遂げられ、自分らしく生きることができるようになるのを、私は心から願う。自立するために、戦う価値はある。


本当の意味で自立しているというのは、他人からの隷属を離れていつでも独り立ちできるということだ。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/08/20170821T1732270900.html


3. 中川隆[-6049] koaQ7Jey 2017年10月23日 06:45:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

 女に食わせてもらうためにやっている男たちの手口とは?

この世には、女たちの肉体を食い漁る男とは別に、女たちに寄生して吸血コウモリのように「金」を吸い続ける男たちの存在がある。

あるデリヘル嬢と、こうした男たちのことを話していた時、彼女はこのようなことを言った。

「優しく金を巻き上げるのがホスト、暴力的に金を巻き上げるのがDV男、寄生して金を巻き上げるのがヒモ……」

彼女に言わせれば、この中で一番最悪なのがDV男(家庭内暴力を振るう男)なのだが、「優しいお客さんと結婚した風俗嬢はたくさんいるんだけど、結婚したらみんなDV男になってるの」と私に言った。

風俗嬢が好きになるのかホスト、好かれるのがDV男、付き合ったらヒモになるということだ。

風俗嬢は金を稼ぐ。金を稼ぐところには悪人が寄ってくる。売春地帯やセックス産業は、本当に真面目で清廉潔癖な男は近寄らないので、男たちを分類すると悪人の比率が高い。

風俗嬢と結婚する男が家庭内暴力を振るう男の比率が高いとしても、それは驚きではない。アンダーグラウンドとはそんな世界だ。

男たちは言葉巧みに愛を囁いたり君臨したりして、女たちが稼いだ金を毟り取っていく。その手口は一様ではないのだが類型パターンもある。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20171022T0237210900.html

他人の稼ぎに寄生して自由が得られるわけがない理由とは?

アンダーグラウンドには、自分で働くよりも稼いでいる女性に寄生して金をとことん吸い取る生き方をする人間が少なくない数で存在する。

だから、女に寄生するための方法のようなものが人知れず伝授されていたりする。

(女に食わせてもらうためにやっている男たちの手口とは?)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20171022T0237210900.html

こういった男のことを、夜の女たちは「ストロー」と呼ぶこともある。男がストローのように自分の稼ぎをみんな吸い取ってしまうことからきている。

夜の世界では、誰が信用できて誰が信用できないのか分からない。心がすり切れてしまうような殺伐とした世界だ。

その中で生きている女性の寂しさや隙を突いて、このような男たちが金目当てに寄って女性に取り付いていく。

では、他人に寄生して生きるのは良いことなのか。もちろん、それは良いことではない。道徳的に反しているし、何よりもそれは女性を疲弊させ、女性の心身を消耗させ、女性の人生をも破壊してしまう元になる。

それは持続不可能なライフスタイルである。そして、いずれ自分の人生を縛るワナになる。

寄生をやめたら金が入らないので、やめられない

他人の稼ぎにべったりと寄生して生きているジゴロやホストやヒモのような人間たちは、とても要領良く生きているように見えるかもしれない。

それは「自由な生き方」のようにさえ見えるかもしれない。憧れる男もいるはずだ。

しかし、本当にそうなのだろうか……。

それをうまくやれば「楽な人生」に見えるのだが、実際には楽なわけでも自由なわけでもない。自由どころか、自分を束縛する生き方になる。

なぜ寄生が自分を束縛することになるのかというと、常に相手にべったりとくっついて生きなければならないからである。

離れてしまえば寄生ができない。だから、自分で自分の自由を束縛して、ひたすら宿主に付いてまわる。その結果、自分の行動範囲が極度に狭まる。

好きな時に好きな場所にいくような自由はない。自由が欲しければ寄生をやめるしかないが、寄生をやめたら金が入らないので、やめられないのである。それが寄生者の人生だ。

さらに、宿主に付いてまわるだけではなく、常に宿主の顔色を窺いながら生きなければならない。切られないように顔色を窺い続けなければならない。

つまり寄生者は、うまく宿主を操っているように見えても、常に宿主に翻弄され対処を余儀なくされる。寄生しているのだから強いように見えて、その立場はとても脆弱だ。

寄生されて自分の稼ぎがストローで吸われるのを好ましく感じる宿主はどこにもいないので、その関係は常に緊張をはらんでいる。

宿主が放逐を決めたら、寄生は突如として中断される。また宿主が倒れれば自分も路頭に迷い、次の寄生先が都合よく見つかるとも限らない。


「借りる者は貸す人の奴隷となる」という現象

それはうまくやっていても、限りなく不安定極まりない生き方である。

寄生とは依存の一種だ。

寄生する方法を磨くというのは、他人に依存して生きる能力を磨いているわけであり、決して自立に向かっているわけではない。自立に向かわない生き方は、結局は最後に自分を奴隷的な立場におとしめる。

だから、それは正しい生き方ではない。自らを依存体質にして、最終的には奴隷的な立場に自らを追いやる。自分で自分を奴隷に追いやる生き方なのである。

こうした依存体質の人間を好きな民族はどこにもないはずだが、特に他人に依存したり寄生したりして生きるのを嫌うのは伝統的なユダヤ人であると言われている。

ユダヤ人は旧約聖書を、人生を貫く軸として繰り返し読み起こし、自分の血肉になるまで反復する民族だ。その旧約聖書の箴言の22章にはソロモン王の箴言が重々しく刻まれているのだが、その中にある言葉が記されている。

「借りる者は貸す人の奴隷となる」

他人に依存して生きるというのは、それが「借り」となってどんどん相手に束縛され、遂には奴隷のようになり果てるとユダヤ人は激しく自分の民族に警鐘を鳴らす。そして、他人に経済依存して生きることを厳しく戒める。

この「借りる者は貸す人の奴隷となる」という現象は、彼らの経典であるタルムードにも繰り返し言葉を変えて警告されている。

なぜ、ユダヤ人は他人に束縛されて「奴隷のようになり果てる」のをそれほど強く自分の民族に警告を発し続けたのか。それは、ユダヤ人のアイデンティティは「奴隷」から始まっているからである。

自分たちの祖先は「奴隷」だった。ユダヤ人は国を失い、他国を流浪し、差別されながら生き延びてきたのだが、だから再び奴隷になるというのは民族的トラウマのようになっている。

それ故に、誰かに依存して「奴隷のようになり果てる」ことに対して、激しく警鐘を鳴らし、そうならないように経済的な自立を成し遂げるように強く説いているのである。


「労働こそ人間生活の基礎」と説いたユダヤ人

キリスト教徒は労働を「神からの呪いである」と解釈した。

「エデンの園でアダムとイヴは労働をすることもなく本能の赴くがまま楽しく生きていた。しかし、神との約束を破ったためにエデンの園を追放され、苦しい労働をして生きなければならない運命に落ちた……」

そのようにキリスト教徒は考えた。

しかし、「奴隷」から民族の起源が起こされたユダヤ人は、奴隷に戻らないためには、経済的な自立が必要であり、それが成し遂げて初めて人格的自由も得られると考えたので、労働を呪いのように思うことはなかった。

たとえば、イスラエル建国の父であるベングリオン首相は「労働党」右派の出身であり、建国前の演説でこのように言い切っている。

「肉体労働は人間の崇高な機能であり、人間生活の基礎であり、人間生活の中で最も崇高なものだ」

そしてベングリオン首相は自らパレスチナの砂漠を開墾して水を引く労働で晩年を過ごした。なぜ、ベングリオン首相はそこまで労働を重視したのか。

言うまでもなく「労働こそがユダヤ人の経済的な自立を成し遂げるもの」だと確信していたからだった。

ベングリオン首相は、ユダヤ人を救うのは他人のおこぼれや慈悲に依存して生きることではなく、労働で勝ち取ることであると身を持って示したのである。

ユダヤ人の多くはこの「労働こそ人間生活の基礎」というベングリオン首相の言葉を継承し、迷うことなく労働で経済的な自立と自由を勝ち取っている。寄生や依存ではなく、労働を選び取ったのだ。

日本も1945年の敗戦によって国が焼土になった時にどうしたのか。

日本人は他国の慈悲にすがって支援や援助を口を開けて待つような生き方を選ばなかった。あるいは「謝罪しろ、賠償しろ」と他人を恨んで生きる愚かな道も拒絶した。

日本人は、焼土と化した国を「自らの労働」で建て直すことを選んだのだ。

他人の稼ぎに寄生して生きるのが自由になるのではなく、自らの労働が自由を生み出すというのを日本人は知っていた。泥臭く愚直に生きるのは、いつの時代でも正解だ。

依存ではなく、労働が身を助けたのである。


イスラエル建国の父ダヴィド・ベングリオン首相。とても特徴的な髪をしている。音楽は、映画『栄光への脱出』のテーマソング。この映画はベングリオン首相がまさにイスラエルを建国しようとしていた時の激動を描いているものだった。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20171023T0223000900.html


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