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『翻訳の品格』 - 亀山郁夫批判
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投稿者 中川隆 日時 2016 年 1 月 27 日 09:22:17: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

2013-02-11『翻訳の品格』亀山郁夫批判
http://d.hatena.ne.jp/yumetiyo/20130211/1360578857


 私は学生だった頃、もう題名さえ忘れたが、あるロシア史の翻訳を買った。しかし、そこに次々と意味不明の文章が羅列されているのに驚いたので、原文を取り寄せ、比較対照した。意味不明の箇所はすべて誤訳だった。初歩的な誤訳が大半だった。そこで、全部ではないが一部分に限定し正誤対照表を作成し、詳しい解説も付け、出版社に送りつけた。これだけ狭い範囲にこれだけたくさん誤訳があるのだから、あとは推して知るべしという意味で送ったのだ。

 その原文はロシア語の新聞を読める程度の学力があれば十分訳せるような内容だった。それにもかかわらず、訳者は意味不明の文章を羅列していた。初等文法さえ知らないのではないのかと思った。しかし、その訳書の訳者として名前が出ていたのは、驚いたことに、学生の私でさえ名を知っていた左翼の著作家だった。しかし、じっさいに訳したのは別人であるらしく、高名なその訳者はあとがきである人物に翻訳に協力してくれたことを感謝していた。今となっては記憶が曖昧になってしまったが、だいたいそんな風だったと思う。

 結局、いくら待っても出版社から返事はこなかった。なぜ返事が来なかったのか。出版業界にはそういう慣例があるのか。いずれにせよ、それ以来、翻訳に文句を言うのは時間とエネルギーの無駄遣いだと思って、また、あとでも述べる理由のため、誤訳に満ちたロシア語の翻訳に出会っても知らぬ顔で通り過ぎるようになった。

 しかし、そのような私にとってさえ、このたびの亀山訳『カラマーゾフの兄弟』は知らぬ顔で通り過ぎることができないほど不愉快なものだった。このブログで批判してきたように、亀山は自分の好きなように原文を加工して訳している。亀山がドストエフスキーより自分の方が偉いと思っているのは明らかだ。というより、まず自分が大事で、ドストエフスキーなどどうでもいいのだ。不正確な記憶にすぎないが、ロレンスの『息子と恋人たち』を訳した本多顕彰という英文学者が、ロレンスは文章が下手くそなので私が直して訳してやっている、というようなことを述べているのを読んだことがある。それ以来、本多の翻訳はもちろん、エッセイも読むのをやめた。亀山も本多の同類だろう。こんな翻訳以前のデタラメが世間に通用しては困る、そう思って、このブログで亀山訳を批判してきたのだが、どこまで私の批判は読者に届いているのだろうか。

 ところで、亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』ほどデタラメではないが、私は以前から、ドストエフスキーの翻訳全般がそう質の高いものではないことは知っていた。日本語能力が高いため、世評では良いと言われていた江川卓の翻訳も世評ほど良くはなかった。無神論者の江川卓はドストエフスキーが理解できないため、肝心なところになると誤訳を犯している。これは他の訳者も同じだ。ドストエフスキーの翻訳には、江川以上にひどいものもあったが、私には他人の誤訳を批判する余裕などなかった。そんな余裕があるのなら、一円でも多く稼ぎ、家族の飢えをしのぎたいと思っていたのだ。

 言う必要もないことかもしれないが、明日どうなるかも分からない生活を送っている研究者に、誰かの翻訳が良いとか悪いとか言う余裕はない。ある程度自分の生活に余裕ができて初めて他人の翻訳を批判することができる。亀山のような人物が、出版社の営業路線に乗って、面白おかしく原作をねじまげて翻訳をしようが、卑猥なドストエフスキー論で若者の性欲をかきたてあざむこうが、そんなことはどうでもいい。生きているのが精一杯の研究者は、ペッと唾を吐き、「クソ野郎」とつぶやくだけだ。こういうロシア文学研究者は多い。なぜそう断言できるのかと言えば、私自身、定職に就くまでは、そうだったからだ。私が亀山の翻訳を批判できるようになったのは、定職につき、生活に少し余裕ができたからだ。

 それでは生活に余裕があるはずの、大学で禄を食んでいるロシア文学研究者たちはなぜ誤訳に満ちた翻訳、とくに亀山の翻訳のように誤訳という言葉では足りないほどひどい翻訳さえ批判しないのか。

 その理由は説明するまでもないだろう。このたびの東京電力の有様を見れば分かるように、日本的集団には自浄能力がないのだ。日本的集団内部の腐敗を正すのにはその内部に属さない第三者による批判が必要なのだ。これが丸山真男のいう日本的集団のもつ「たこつぼ」的性質だ。日本ロシア文学会もそのような「たこつぼ」のひとつにすぎない。

 この「たこつぼ」にもう一言説明を加えると、昔から不景気なロシア語業界で生きているロシア語およびロシア文学研究者は、大学で禄を食んでいる者を除けば(ということは、ロシア語およびロシア文学研究者の大半が)、今も一歩まちがえば路上生活者になるような生活をしているのだ。この生活苦が彼らの研究生活を不可能にし、ろくでもない翻訳を批判する意欲を削いでいるのだ。また、そのような研究者たちが師と仰いでいる、大学で禄を食む研究者たちも、自分の弟子の就職の妨げになるので、正面切って他人の誤訳を批判しない。そんなことをすれば、批判した人物に恨まれて、路頭に迷う弟子が増えるだけだ。

 もっとも、染谷茂のように中村融の誤訳をきびしく批判した研究者もいる。しかし、そういう批判は例外中の例外だ。木下豊房や私の亀山批判もその例外に当たる。したがって、このたび出版された『翻訳の品格――"新訳にだまされるな"』(藤井一行、中島章利[寄稿]、著者自家出版会、2012)もその例外のひとつであり、ロシア語およびロシア文学研究者のみならず、一般読者にとっても、きわめて貴重なものだ。しかし、この本は日本ロシア文学会という「たこつぼ」では無視されるだろう。

 さて、『翻訳の品格』で藤井氏が言いたいことは、次の一点に尽きる。


 もっとも望ましいのは、先行訳の有無にかかわりなく、はじめから自分の手で原文から訳出することであろう。結果として、あちこちで訳文が先行訳とまったく同じになることがあったとしても、それこそ偶然の一致だと胸を張って主張できるはずである。自分の訳業が完了した段階で、必要を感じれば先行訳を参考にすればいい。

 そもそも先行訳のあれこれの部分をそのまま自分の訳文として世に送ることに違和感を感じないものだろうか?文章を書く者には、それなりの文体も矜持もあるというものだろう。翻訳者といえども物書きのはしくれである。(『翻訳の品格』、p.195)

 藤井氏は『翻訳の品格』で、この基準に違反する「先行訳を下敷きにしただけの翻訳」を次々に挙げてゆく。要するに藤井氏が言いたいのは、先行訳を下敷きにした翻訳を出して恥ずかしくないのか、品格のある翻訳をしろ、ということなのである。詳しくは『翻訳の品格』を見て頂きたいが、藤井氏がこの本で挙げた例だけではもちろん足りない。これ以外に、このような例は無数にある。その一部はこのブログでも挙げた。先行訳の誤訳をそのまま踏襲した翻訳はロシア語の翻訳の世界ではしばしば出会う。

 ところで、言うまでもないことだが、誤訳を指摘するにはロシア語に対する広い知識が必要であると同時に、作品そのものを正確に理解していることが必要だ。批判する者がこの二つの条件を備えていないとすれば、それは単なる中傷に終わる。

 この意味で、藤井氏と中島氏が批判しているトロツキーの翻訳は、彼ら自身がトロツキー研究者であるため、批判は的確だ。たとえば、内村剛介訳の『文学と革命』に対する批判など読者にとってきわめて有益なものである。それ以外にも読むに値する批判が随所にある。ロシア語の新聞を辞書を引きながら読むことができる読者なら十分理解可能な内容だと思うので、自分に関心のあるところから読んで頂きたい。

 ところで、私は『翻訳の品格』の内容の大半には同意できるが、同意できないところもいくつかある。文学作品に関する批判にそれは集中している。そのすべてについて述べる時間はないので、いま、そのうちから二つだけ、取り上げる。

 ひとつは、誤訳そのものに関わる話ではなく、藤井氏が、ロシアで「最優秀翻訳賞」を受賞した望月哲男訳の『アンナ・カレーニナ』は賞に値しない翻訳ではないのか、と述べているところだ。

 藤井氏によれば、望月訳の『アンナ・カレーニナ』はかなり正確な訳だ。これは私自身、望月哲男の『白痴』の新訳(河出文庫)をかなり詳しく調べたことがあるので、この藤井氏の意見はたぶん正しいと思う。望月が亀山のようなデタラメな仕事をする人物ではないことは明らかだ。私の調べでは、望月訳の『白痴』では先行訳の誤りがかなり正されていた。それではなぜ藤井氏は望月哲男を批判するのか。それは、望月哲男訳の『アンナ・カレーニナ』訳が「最優秀翻訳賞」にふさわしい翻訳ではないからだ。藤井氏が列挙している望月訳の『アンナ・カレーニナ』の誤訳を見れば、そうかもしれないと思う。しかし、ここで批判すべきは望月訳ではない。誤訳のない翻訳などあり得ない。望月哲男の翻訳は良い翻訳の部類に入るものだと思う。だから、批判すべきは、ロシア科学アカデミーに「最優秀翻訳賞」の候補として望月訳を推薦した木村崇だ。木村のその推薦文はあまりにも不正確で大仰すぎる。横町一の美人を日本一の美人と言うのが仲人口というものだと言われれば、はいそうですか、と言うほかないが、これは嫁入り話ではない。選考するロシア科学アカデミーに嘘をついてはいけない。日本人研究者全体の信用にかかわる。だから、藤井氏は木村崇をきびしく批判するだけでよかったはずなのである。とばっちりを受けた望月こそ良い迷惑だろう。

 もうひとつの同意できない箇所を挙げると、これは誤訳そのものに関わる箇所だ。藤井氏が『カラマーゾフの兄弟』の「長老ゾシマの死の場面」の訳を誤訳であると述べているところだ。

 ここは米川訳では次のようになっている。


・・・静かに肘椅子から床へすべり落ちて膝まずいた。うつ伏しに顔を土にすりつけて両手を拡げ、歓喜の溢れるようなさまで、たったいま人々に教えた通り、大地を接吻して祈祷を上げながら、静かに悦ばしげに魂を神へ捧げたのである。(岩波文庫第2巻、2009、pp.227-228)(下線は萩原、以下同じ)

 この米川訳のあとに出た、原卓也訳では次のようになっている。


・・・静かに肘掛け椅子から床にすべりおりて、ひざまずいたあと、大地にひれ伏し、両手をひろげ喜ばしい歓喜に包まれたかのように大地に接吻し、祈りながら(みずから教えたとおりに)、静かに嬉しげに息を引き取ったのだった。(『カラマーゾフの兄弟(中)』、新潮文庫、原卓也訳、2010、p.154)

 原文はこうだ。


...он...тихо опустился с кресел на пол и стал на колрени, затем склонился лицом ниц к земле, распростер свои руки и, как бы в радостном восторге, целуя землю и молясь (как сам учил) , тихо и радостно отдал душу богу.

 藤井氏の疑問はこうだ。「床(пол)」にすべりおりたゾシマがなぜ「大地(земле)」にひれ伏し、「大地(землю)」に接吻できるのか、それは「床」であって「大地」ではありえない。米川訳にならって、原訳にも見られるように、後続の『カラマーゾフの兄弟』の訳者全員がすべて米川訳のように訳している。これは変ではないのか。「すべり落ちた」ところは「床」ではないのか、またそう訳さなくてはいけないのではないのか、というのが藤井氏の考えである。藤井氏のこの言葉を読めば、誰もが、なるほど、と思うだろう。

 藤井氏はこの自分の考えをさらに確固としたものにするため、ソ連の17巻本辞書を引き、「земля(大地)=пол(床)」という語義があるのに気づく。それを藤井氏は「大発見」だという。しかし、私見によれば、それは大発見ではない。理由は不明だが(たぶん辞書の編集者が先に出た辞書を引き写したのだろう)、岩波、研究社、三省堂の露和辞典がそろって「земля(大地)=пол(床)」というきわめて重要な語義を掲載していないだけだ。日本の辞書にはないその語義は17巻本だけではなく、ロシアで出た標準的な辞書、たとえば、私が愛用しているウシャコフやダーリには載っている。ダーリの辞書では次のように記載されている。「земля:地表、床、(演壇などの)板張りの台、舗装道路。その上を歩いたりその上に立ったりする平面あるいは表面のこと。:Не роняй хлеба на землю(назем).[パンを床に落とすな。]」

 従って、藤井氏が言うように、米川訳や原訳で「土」とか「大地」とか訳されている「земля」の意味が「床」であることは明らかだ。ここまでは藤井氏に私も同意する。 しかし、ドストエフスキーは、なぜ「床(пол)」という言葉を使い続けることをせず、「床(пол)」を「земля(土、大地)」に言い換えたのか。文章に凝って同じ言葉を使うことを避けたのか。ドストエフスキーはまずそういう小細工をしない作家だ。従って、そこには明らかにある意図があったと見るべきだろう。

 たとえば、このゾシマの死のあと、アリョーシャの回心の場面が描かれる。そこでアリョーシャは「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻する。その行為によってアリョーシャは自分をこの世界に送り出してくれた神に感謝している。なぜ「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻するのか。それは神の造った「земля(土、大地)」が自分を育ててくれたからだ。「земля(土、大地)」を抱きしめ接吻することによってアリョーシャは、神に感謝しているのである。このとき神の被造物であるアリョーシャは造物主と一体となり回心し、これ以降、彼の信仰は揺るぎのないものになる。

 ゾシマの死の場面は明らかにこのアリョーシャの回心の場面の予告になっている。アリョーシャはゾシマが教えてくれたように振る舞ったのだ。従って、ここは藤井氏のように、「земля(土、大地)」を「床(пол)」と訳してはいけない。ゾシマの祈りの対象は「床」ではなく、その先にある「大地」だ。われわれが家の中で祈るとき、天井を突き抜けた先にある天に向かって祈りを捧げるように、ゾシマは「床」の先にある「大地」に向かって祈りを捧げているのである。ここを「床」と訳すと、作者がこの場面にこめた意味が失われてしまう。

 ちなみにAndrew.R.MacAndrewの英訳では「земля(土、大地)」は「ground」と訳されている。「ground」にはロシア語の「земля」と同様、「地表」という意味と同時に「床」という意味もあるので、「ground」という訳語を選んだのだろう。

 ところで、藤井氏はさらに、このゾシマの死の場面での「たったいま人々に教えた通り」という次の米川訳も間違いだという。原文の「как сам учил」の「учил」が反復を表す不完了体なので「常々教えていた通り」と訳さなければならないのに、そうはなっていないという。それだけではない。米川訳に続く翻訳も原訳の「みずから教えたとおりに」に見られるように、すべて米川訳を踏襲している。これもおかしい、と藤井氏はいう。

 この藤井氏の意見に私は半分賛成で半分賛成できない。なるほど、米川訳の「たったいま人々に教えた通り」の「たったいま」は、祈りを捧げるようゾシマはいつもアリョーシャたちに教えていたのだから間違いだ。これには賛成する。しかし、たとえば、原訳の「みずから教えたとおりに」について藤井氏が「〈教えていたとおり〉と不完了体の意義を生かしてほしかった」と言うのには賛成できない。その理由はふたつある。

 ひとつは、日本語には完了、不完了も含め、事態をあいまいなまま表現するという特徴があり、それを明確に表現すると、別の意味が生じることになるということがあるからだ。たとえば、「ごはん、食べたの」「うん、食べたよ」と、答えるところを、「うん、食べてしまったよ」と言うと、たとえば、自分が食が細いのを心配している母親を安心させるために、わざとそんな風に完了表現を使って答えていることになるかもしれない。これは不完了、つまり反復や持続を表現する場合も同じだ。たとえば、「きみ、きのう、勉強したの」と聞かれたときは、「うん、したよ」と答えるのが普通で、これを「うん、していたよ」と答えることはない。そう答えるのは、「きみ、きのう、勉強していたの」と、持続した行為を行ったかどうかを聞かれた場合だけだ。そして、この場合、問う者が、きのう勉強をしていたアリバイがあるのか否かというようなことを聞いている場合が想定される。

 以上から、どうしても反復や持続を表現しなければならないとき以外、日本語ではしいて反復表現を用いることはない。先のゾシマの場合もそうで、藤井のように、「常々教えていた通り」と訳すと、ゾシマの祈りに、「ほら、いつも教えていたように祈るから、よく見ておきなさい」というような押しつけがましい意味が付け加わることになる。だから日本語としては、原訳のように訳すのが正しい。

 もうひとつの「常々教えていた通り」という藤井氏の訳に賛成できない理由は、ロシア語動詞の不完了体は、反復を示す副詞(「しばしば」とか「常々」)とともに用いられない場合、反復ではなく、動作事実を表すのが普通であるからだ。つまり、ある動作があったか否か、ということを伝える場合、不完了体が用いられるのである。「ゾシマ長老、祈ることを教えましたか」「はい、教えましたよ」というような場合、ここの「教える」という動詞はいずれも不完了体を使う。要するに、ここではゾシマが祈ることを「教えた」という事実を述べているだけなのだ。

 これ以外にも納得できない箇所があるが、このような対話を行いながら『翻訳の品格』を読むのは楽しい。ロシア語・ロシア文学研究者諸君、さらにロシア文学の愛好者諸君、『翻訳の品格』を読もうではないか。『翻訳の品格』を購入したい方は、次のホームページをクリックしてほしい。

http://8913.teacup.com/naknaktono/bbs
 

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コメント
 
1. 2016年1月27日 10:20:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1066]
2007年7月27日 白痴の翻訳

カラマーゾフの翻訳におかしな言いがかりばかりつけて亀山先生に恨みでもあるんじゃないのと思われてもいけないので、白痴の翻訳にシフトして疑問点をあげてみましょう。

これはあれですよ、カラマーゾフみたいに行き当たりばったりにページを開いてネタ探ししたんじゃなくて、つまり、訳文を見て変だと思ってから原文を見直したものじゃなくて、原文を読みすすめてて変だと思った所ですからね、手間がかかってるんですよ。(だからといって正しいとは限らない。もっともこれは言わずもがなかな。皆さん私なんかより大家のおっしゃることを信用なさるでしょうからね。ま、参考までに、って意味で。)

私の手元にあるのは河出書房、世界文学全集、第45巻、ドストエフスキー・白痴、米川正夫訳、昭和46年発行のものです。(当時、米川正夫さんは既に亡くなっていらっしゃるようですので、その後の文庫本でも直ってないんじゃないんですか。それとも新たな発行者に修正する権利があるんでしょうか、そういうことも知りたいなあ。)とにかく、参考にさせてもらいながらけちをつけようってんですから、ふてえやつです。

しかしまあ、翻訳書ってのはどんなふうにしてできあがるんですか?編集者の方ってのは何をなさるんですかね。おかしいと思っても訳者に文句をつけることはできないんざんすか。例の有罪・無罪の問題にしても編集者の方はなんも思わなんだのじゃろか。

それから翻訳の作業には『下訳』とかいう方がいらして大家は原文なんか見ないってのはほんとでやんすか。こんなことを言うのもですね、どうしてこういう間違いがおこるんじゃろか、って不思議に思うことがあるんですよね。いや、間違ったわけは明白なんだが誰のせいなのかがどうも・・・つまりさ−−第二部一、エパンチン将軍夫人がベロコンスカヤ公爵夫人から手紙をもらうあたり。(以下、拙訳。)

しかしさらに一週間後、ベロコンスカヤからまた手紙を受け取ると、今度は将軍夫人も話をすることにした。彼女が厳かに発表したところによると、『ベロコンスカヤのおばあさん』(彼女は公爵夫人の噂をする時、決してこれ以外の呼び方をしなかった)がすごくほっとするような知らせをよこした。それは、あの・・・『変わり者よ、ねえほら、あの公爵のことよ!』

これが米川訳では−ーあの・・・『恋人さん、ほら、例の公爵のことに』ついて、−−

明白な取り違えがいつどのように起きたのか、(『さん』をつけた時点で少し変だと思っていらしたでしょうにねえ・・・)興味あるところですねえ。

それから今の部分のちょっと前のところ。米川訳:彼女(ヴァルヴァーラ)はなぜか急にエパンチン家の令嬢たちのもとへ出入りを始めたのみか、ほどなくリザヴェータ夫人と驚くほど、親密な間柄になったのである。(イタリックにした「と」は「も」が正解)。−−これはもう100%誤訳でなく誤植の類ですね。しかし、後の文と矛盾するのになぜ気がつかないんだろ。
http://coderachi.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_33bf.html


2. 2016年1月27日 10:34:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1067]

亀山郁夫訳『悪霊T』を検証する
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost136.htm

亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の翻訳の実態が、ミリオンセラーのうたい文句にもかかわらず、いかに多くの誤訳や文体改ざんを満載したものであるかを、5分冊のうちの第1冊に限ってにせよ、私たちはかなり詳しく「検証」、または「点検」し、このサイトで公開してきた。その後もマスコミ、マスメディアに度々登場し、ドストエフスキー翻訳・研究の第一人者のイメージを一般読者に広めてきた亀山氏の新訳『悪霊』の力量、実態はどのようなものか、『カラマーゾフの兄弟』検証時の出遅れを反省して、私は今回は早々と「検証」の試みに着手した。

 さすがに批判の目を気にしてか、『悪霊』では『カラマーゾフの兄弟』の時のような、恣意的な行変えやテキストを離れた目に余る改ざんはいくらか影をひそめている。とはいえ、それは程度の問題、量の問題に過ぎなくて、同じ性質の誤訳、改ざんの構造を引きずっていることには違いがなく、問題の本質は変わらない。

その代表的な例を分類して、幾つかを拾ってみよう。例文の最後の括弧内数字は、「検証」リストの番号に対応している。

1) ロシア語の読解力がある者ならば、犯さないような初歩的な誤訳。

 ○テキストではスタヴローギンに耳を噛まれた老人が、そのショックのために、「発作のようなものを起こした」と一回体の動作(完了体)で書かれているのに、亀山訳では、老人の身にその後、「何かしら発作のようなものが起こるようになった」と、反復性の動作(不完了体)に受け取れるように訳されている(15の項)

 ○足の悪いマリヤ・レビャードキナが教会に現れる場面で、「彼女の足がもう少し遅かったら」中に入れてもらえなかったろうと、動作の意味で訳すべきところを、亀山訳では「彼女がもうすこしでも遅れていたら」中に入れてもらえなかったろうと、遅刻の意味に取り違えている。これではマリヤが足を引きずっている情景が浮かばない。(40)

○レビャードキンがワルワーラ夫人に対して、「奥さまはこれまで苦しんだこと」がありますかと問いかけると、夫人がその質問の裏を読んで、あなたが言いたいのは、「あなた自身が誰かのために苦しんだとか、苦しんでいる」ということでしょうと問い返す。このくだりが亀山訳だと、「わたしが(つまり夫人が)だれのためにくるしんできたか、でなければ現にくるしんでいるか」を聞きたいのですか、ということになる。これはまるっきり主語を取り違えた訳で、「苦しんだ」「苦しんでいる」の動詞の語尾(2人称)を見れば初学者でも間違えようのない誤訳である。(43)

このようなきわめて初歩的な、信じ難い誤訳を目にすると、これはロシア語の知識のない人間が訳した(?)あるいは、先行訳を土台にリライトしたとしか考えられない。光文社亀山翻訳工房の無責任な集団的仕業ではないのかと勘ぐりたくもなるのである。

2) 自分の好みで構文を書き換えたり、訳文、訳語に過度の主観的ニュアンスを交える。

その幾つかの例:

○小説冒頭の数行からして、この手の恣意的な構文改ざんが行われている。語り手の私は、ステパン氏の身の上話から説き明かすにあたって、「自分の力不足で、いささか遠回りして話を始めなければならない」と、読者をいざなうための控え目の挨拶言葉の調子で「自分の力不足で」(副詞句)とのべているのに対し、亀山訳は、この副詞句のフレーズを勝手に切り離して、独立した文に仕立てて、係り受けを不明瞭にし、論旨からいっても、文体上から見てもはなはだバランスの壊れた訳文にしてしまっている。(「検証」1の項)

○「非常に驚いた」「ひどくびっくりした」程度の表現に「腰が抜けるほど驚いた」といった過剰なニュアンスをつけ加えている。(2、39などの項)

○ステパン氏の「人生に変化が生じた真の原因は」という語り手の中立的な表現を、「彼が人生の道を誤ったほんとうの原因は」と主観的な評価を交えて訳している。(3)

○ステパン氏が「夢」を気にするようになった、の「夢」を「夜見る夢」と勝手に語句をつけ足して訳している。午睡の習慣のあるロシア人にとって、夢は夜だけに見るとはかぎらない。(20)

○マリヤ・レビャートキナのシャートフに対するごく一般的な呼びかけ「ねえ、あんた」を「大好きよ」と訳している。(38)

○また作中人物カルマジーノフ(ツルゲーネフがモデルとされる)の作品に関連して、テキストでは「イギリスの海岸で遭難した」と記述されているのに、これを「ドーバー海峡あたりで遭難した」と勝手に改ざんして訳している。(25)

翻訳者の特権と勘違いしたこの種の、訳語の主観的な色づけ、歪曲は、改ざんは亀山訳の一般的な特徴といってよい。これに類した例は、この「検証」と同時に公開する森井友人氏の「アマゾン・レビュー原稿」でも取りあげられているので、ご一覧いただきたい。

3) 前後の文脈を考慮しない見当違いの訳

○語り手がのべるステパン氏の人物像で、亀山訳に「そういう彼も根は良心的といってもよい人物で(つまりときどきそうなるのだが)」というくだりがあるが、「根は良心的」と「つまりときどきそうなる」という叙述には論理的整合性がない。ちなみにテキストには「根は」と訳せる語はない。

○パーベル・ガガーノフという紳士に関して、彼の口癖「自分は他人に鼻面を取って引き廻させはしない(他人にだまされはしないの意)」の語義通りの意味に悪乗りして、スタヴローギンが公衆の面前で、この紳士の鼻面をつまんで引きまわすスキャンダルのエピソードはよく知られているが、亀山訳ではこのガガーノフのセリフを、「いいや、わしをだまそうったってそうはさせませんよ。洟もひっかけるもんですか」とすることによって、この紳士のセリフとスタヴローギンのスキャンダル行為の照応関係が見えなくなっている。これは小説のさわりにかかわる見当違いもはなはだしい訳であり、「洟もひっかけるもんですか」は「洟」と「鼻」を引っかけるつもりでつけ足したのかもしれないが、まったく意味をなさない。

4) 読み易さをねらって、と思われる構文、文体崩し

 いかにも読み流しに便利なように、ドストエフスキーの重層的、立体的な文章の構造を崩して、平面的に置き並べ、それを辻褄の合うように再構成しようとして、破綻し、論旨の重心を見失っている例。

○ロシア人の国民性のレベルを説明するのに、ドイツ語学校に在籍するロシア人がドイツ人教師に仕置きを受けながら教育される喩えを使ってのステパン氏のセリフの重層的な長い構文を崩して、亀山訳は喩えを羅列し、結果的にはこれが喩えなのか、ドイツ語学校の実態についてのくだくだしい解説なのか、文意の核心がすんなりとは読みとりにくいものになっている。(12)

○同時通訳式に頭から訳し下ろしをすることによって、全体の構造を見失い、語の間違った係り具合を放置しているケースも多い。(18) (30)(49)

その典型的な実例 

(亀山訳)「イギリスのある高名な家族を追い出したんですよ、つまり、文字通り、教会から」 

これは正しくは「教会から、文字通り追い出した」である。(18)

(亀山訳)「リプーチン、あなたはあまりに知りすぎている、ここにきたのだって、その類のくだらん話を・・・・それに輪をかけて悪い話を伝えるためでしょう!」

(試訳)「リプーチン、きみがやってきた唯一のねらいは、その種の何かいまわしい話….あるいはもっとひどい話をするためだってことを、自分自身よくよく承知してのことなんだろう!」(30)

この類の亀山訳がいかに杜撰なものであるか一目瞭然であろう。

5) あまりに違和感を感じさせる表記

○パッサージュ(通廊式のマーケット)を「勧工場」と訳し、「パッサージュ」とルビを振っているが、新訳ならば、いまさら古めかしい「勧工場」はないだろう。その一方で、「古物市場」を「リサイクル市場」と訳す感覚は場当たり的なものを感じさせる。(11)

またピョートル・ヴェルホーヴェンスキーが「誰かから個人的な重大な依頼を受けて」という個所を、「だれかに個人的ながら重大なミッションを託され」と訳し、リーザが出版の「経験がまったくないので」協力を必要としているというくだりを、彼女には「ノウハウがまるっきりないこともあって」と訳すなど、亀山訳のカタカナ表記の使用には、時代背景から見ても、無定見ぶりが感じられる。(34)

以上、特徴的な例を拾ってみた。そのほかの誤訳、不適切訳については、以下の「検証」を通覧していただきたい。私がこの「検証」でとりあげた問題個所はおそらく全体の何分の一かに過ぎないであろう。私自身今後もリストを補充する可能性があるし、また同憂の士による別稿の形で公開することもありうることを予告しておく。

ロシア語原文はアカデミー版30巻全集第10巻からの引用、亀山訳は光文社古典新訳文庫、米川訳は河出書房新社全集第9巻、小沼訳は筑摩書房全集第8巻、江川訳は新潮文庫からの引用で、各引用文前後の数字は引用元のページを示す。

なお亀山訳の最後尾「読書ガイド」で、「シベリアでの十年間の苦難を経て、転向の書とされる『地下室の手記』を書いた後は、みずから主宰する雑誌をよりどころに、「土壌主義」と呼ばれる右翼的なイデオロギーを公にし、ロシア国内の革命運動に対してつねに厳しい態度をとってきた」(502頁)とのべられているが、これは粗雑な、間違った記述である。まず「土壌主義(ポーチヴェニチェストヴォ)」を一概に「右翼的なイデオロギー」ということはできない。確かにシベリアから帰還後、ドストエフスキーはネクラーソフ、サルトィコフ=シチェードリンの「現代人」誌一派やチェルヌイシェフスキーなど、より左翼的な陣営とは論争関係にあったが、カトコフなどの保守派とも同調せず、その中間者的立場ゆえに、カトコフ一派から背後を刺される形で、みずからの雑誌「時代」の発禁処分に追いやられたのである。1860年代のドストエフスキーの思想的立場を「ガイド」のように単純化することは、読者を正しいドストエフスキー理解に導かない。

また「転向の書とされる『地下室の手記』」という暗示的ないい方も問題で、このネーミングは昭和9年に日本で、『悲劇の哲学』と題して翻訳された、レオ・シェストフの『地下室の手記』論を含む一冊が当時の左翼知識人の転向に深い影響をあたえたことと関連している。「転向」という言葉自体、日本的な「表現」であって、『地下室の手記』をも含めて、複雑な語りの構造を持つドストエフスキーの作品の解釈に安易に関係づけられる概念ではない。



3. 2016年1月27日 10:35:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1068]

亀山郁夫訳『悪霊』U「スタヴローギンの告白」における重大な誤訳 2011・4・30)
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost136b.htm

亀山訳『悪霊』Uが2011年4月20日付で出版された。この原稿をアップする4月末現在、私はまだ全体を検証するには至っていない(いや、『カラマーゾフの兄弟』から『悪霊』へと、亀山訳の欠陥のパターンを通覧してきた現在、引き続き「検証」作業を続けることの虚しさを感じる。願わくば、一般読者には、メディアによって作られた亀山神話から早く目を覚ましてもらいたいものである)。

ただこの巻に収録されており、この巻の目玉ともいえるスタヴローギンの告白の章「チーホンのもとで」の翻訳に、黙過できない重大な誤訳があることを、とりあえず報告しておきたい。この告白の章は、周知のように、2010年4月増刊「現代思想」にすでに掲載された。それに目を通した時、幾つかの問題点に気づき、チェックしておいた。そのテクストでも、『悪霊』Tの検証ですでに私が指摘したような、ごく基本的な文法的誤訳、場違いなカタカナ語の運用、訳語への余分なニュアンスの付加などが目についた。あれから1年以上経ってこのたび刊行された決定訳『悪霊』Uで、それらはどのように訂正されたのか、されなかったのかが、まず私の注目するところであった。

 亀山訳のこの巻は一つのセールスポイントとして、アカデミー版「スタヴローギンの告白」初訳をうたっている。これは何を意味するか? 「告白」のテクストにはドストエフスキーが出版者カトコフの雑誌「ロシア報知」に印刷を予定していていた「校正刷り」版と作家死後、アンナ夫人が作成した「筆写」版があって、しかも出版者の意向によって未発表に終わった「校正刷り」版には、作者自身の手による削除や訂正が入り組んだ形で残されていた。日本語の先行訳者達(米川、小沼、江川)は1922年刊の「校正刷り」版を原本としながら、米川訳は削除の個所を省略した形で、小沼、江川訳は注で復元するという形で公刊してきた。

ところがアカデミー版30巻全集第11巻(1974)では、「校正刷り」を主体としながら、作者による削除個所も復元して一本化した形でのテクストが掲載された。その結果、日本語先行訳(小沼、江川)では注として巻末で処理されていた個所が、アカデミー版では、テクスト上、同じ平面に地続きで、表に出てきてしまった。したがって、このテクストを原文とした亀山訳がアカデミー版「スタヴローギンの告白」初訳とうたうのも、間違いではない。しかしこうした複雑な経緯と入り組んだ構成のテクストを翻訳するからには、万全の注意が必要であったはずである。私が重大な誤訳としてとりあげる個所は、まさにこの微妙な問題にかかわる。まず亀山訳の問題個所を見てみよう。

「私は目の前に見た(ああ、現うつつにではない!もしも、もしもそれがほんものの幻であったなら!)、私は、げっそりと痩せこけたマトリョーシャを見たのだ。熱に浮かされたような目をし、私の部屋の敷居に立っていたあのときと寸部違たがわない、顎をしゃくりながら、私に向ってあの小さなこぶしを振りあげた、あのマトリョーシャを。私にとって、あれほど苦しいことは一度もなかった!私を脅しながら、(何によって? あれで私に何ができたというのだ?)、むろん自分だけを責めさいなんだ、まだ分別もできていない、無力で、十歳の生きもののみじめな絶望! 一度として、まだ私の身にそのようなことが生じたことはなかった。私は身じろぎもせず、時を忘れ、夜ふけまで座っていた。それが良心の呵責、ないしは悔悟と呼ばれるものなのだろうか? 私にはわからないし、今なお答えようにも答えられない。<私にとっては、ことによると、あのしぐさそのものの思い出は、今にいたってもなお、さほど厭いとわしいものではないのかもしれない。もしかしたら、あの思い出は、今も何か、私の情欲にとって心地よいあるものを含んでいるのかもしれない。いや ― たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ。>いや、私が耐えがたいのは、ただあの姿だけ、まさにあの敷居、まさにあの瞬間、それ以前でもそれ以後でもない、振りあげられた、私を脅しつけるあの小さなこぶし、あのときの彼女の姿ひとつだけ。あのときの一瞬のみ、あの顎のしゃくりかた。それが私には耐えられないのだ。」

(亀山訳『悪霊』U、p.579-580)

  

問題なのは、上掲、引用文中の<黄色マーカー>の個所である。小沼訳、江川訳では共に、巻末に注の形で以下のように訳され、「校正刷り」版では削除されていることを明記している。

小沼訳:<「ひょっとすると、この自分の行為についての思い出が、いまにいたるまでそれほどいまわしものではなかったのかもしれない。ことによると、この思い出はその中に現在でも、私の情欲にとってなにかこころよいものを含んでいるのかもしれないのだ」の一文が校正で削られている。>

             筑摩書房全集8『悪霊』注 p.702

江川訳:注65 <「私にとっては、ことによると、あの行為そのものについての思い出はいまもってなお嫌悪感のないものであるかもしれないのだ。ことによると、この思い出は、いまもなお、私の情欲にとってある種の快感めいたものを宿しているかもしれないのだ」抹消> 新潮文庫『悪霊』下注 p.724 

 緑色マーカーの個所の訳語が亀山訳と小沼、江川訳では著しく異なっていることに、読者は気づくであろう。原文はсамыйサームイ поступокパストウーポク(行為、振舞そのもの)で、このくだりはスタヴローギンが自分の行為を振り返っていると解釈するのが自然である。これはスタヴローギンの地下室人的な意識を物語るもので、これより前の「告白」の個所で、すでにこう述べていることに照応する。

「私の人生でたまに生じた、途方もなく恥辱的な、際限もなく恥辱的で、卑劣でとくに滑稽な状態は、いつも度はずれた怒りとともに、えもいわれぬ快感を私のなかにかき立ててきた」(亀山訳p.554)ついでに、この訳で、灰色マーカーの個所は重複しており、あまりにずさんな校正ミスである。

 マトリョーシャのイメージによってスタヴローギンが苦しめられる叙述の流れの中に、もともと「校正刷り」で抹消された個所がアカデミー版では地続き挿入されてきたとはいえ、самый поступок (行為そのもの)を、マトリョーシャの「しぐさ」と訳すのは、あまりに軽率な誤訳、もしかしたら意図的な誤訳ではないかとすら疑われるのである。

 そもそも亀山訳で「しぐさ」の訳語が出てくるのは、マトリョーシャが自分で命を絶つ前に、こぶしでスタヴローギンを脅しつけるような「身振り」(江川訳)「動作」(小沼、米川訳)をする場面であって、原文は движениеドヴィジェーニエ(動き)と記されている。か弱い少女のこのような身振り、動き(движение)を「行為」(поступок)の意味に当てはめて拡大解釈するのは、明らかに牽強付会である。私は念のために、友人であるモスクワのドストエフスキー研究者パーヴェル・フォーキン氏に、ロシア人の感覚でどうなのか、メールで質問してみた。その答えでは、もちろん、スタヴローギンの「行為」以外の意味には読みとれないといことであった。

こうなると、『カラマーゾフの兄弟』の「検証」、「点検」以来、私たちが散々問題にしてきた、訳者の語学力へのあらためての疑問と同時に、彼の主観的な思い込みによる、意図的なテクスト改竄の疑いが起きてくる。亀山は「現代思想」での解説では、作者ドストエフスキーの性的嗜好(「少女陵辱」、「足フェチシズム」など)についてあれこれ言及し、スタヴローギンにその反映を見ている。私が亀山批判のスタートを切るきっかけとなった彼による少女マトリョーシャ解釈

 http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost118a.htm

以来、亀山はサド・マゾの観点に固執し続け、サディスト・スタヴローギンにとっての哀れな少女マトリョーシャの煽情性をクローズアップしないではおれないのが本音ではないのか。

翻訳者でありながら、原文を読めない読者に対して、原作者を僭称しかねない振舞を亀山がしてきているのを、私たちは『カラマーゾフの兄弟』訳で見て知っている。

コーリャのせりふ:「人類全体のために死ねたらな、って願ってますけどね」を受けたアリョーシャのせりふ(「コーリャ君は先ほどこう叫びましたね、『すべての人達のために苦しみたいって』」)を「コーリャ君は『人類全体のために死ねたら』と叫びましたが・・・」と意図的に改竄したのはその前例である。詳しくは、次のURLで参照されたい。

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost120e.htm

今回の場合、上記の亀山訳の引用文中、ピンクマーカーの個所は原文にはない、まさに捏造されたフレーズなのである。こういう作為をしてまで自分の思いこみによる誤読に原文を従属させて、不案内な読者をリードしようとするところに、亀山のテクストに対するアナーキズムが感じられてならない。

そのほかに気づいた問題の個所を一、二挙げておく。

曖昧で不正確な訳

亀山訳:―地面を見つめ、深いもの思いにふけりながら通りを歩きだしたが、ほんの一瞬顔をあげ、ふいに何かはっきりしないながら、強い不安にかられたような様子を見せた―(527頁)

原文: «По улице шел, смотря в землю, в глубокой задумчивости и лишь мгновениями подымая голову, вдруг выказывал иногда какое-то неопределенное, но сильное беспокойство»

試訳:―地面を見つめ、深いもの思いにふけりながら通りを歩いていったが、時たま、ほんの瞬間、頭をあげては、ふいに何かしらはっきりしないながら強い不安な様子を見せるのだった―

コメント:亀山訳では主人公が通りを歩きながらの、「時々」の反復行為のイメージを伝えきっていない。動詞=不完了体、完了体の基本的な読み取りが出来ていないせいである。先行訳では米川訳を例示するが、小沼、江川訳とてもこのポイントに曖昧さはない。

米川訳:―彼は深いもの思いに沈んだ様子で、地面ばかり見つめながら往来を歩いて行った。ただときおり、瞬間的に顔を上げて、急に漠とした、とはいえ、烈しい不安のさまを示すばかりであった―(443)

異和感のある訳語

 

亀山訳:―「四年前にこの修道院に来た覚えなどありませんけど」スタヴローギンは、何かしら荒々しいほどの調子で言いかえした。「ぼくがここに来たのは、ほんとうに小さいころでしてね。あなたはまだ影も形もありませんでしたよ」―(533)

原文:- «Я не был в здешнем монастыре четыре года назад» - даже как-то грубо возразил Николай Всеволодович, - «Я был здесь только маленьким, когда вас еще тут совсем не было» -

コメント:チーホンに対してスタヴローギンが初対面でいうせりふ。マーカーの部分は、「あなたはまだここにはいらっしゃいませんでした」(存在の否定―否定性格)の意味であるが、否定を強調するсовсем(緑マーカー)にこだわるとするなら、「あなたのお姿はまるでありませんでしたよ」程度の意味。

「影も形もありませんでしたよ」というのはオーバーで、不必要なニュアンスをつけくわえている。

亀山訳:―「わたしが言っているのは、ピユアな心の持ち主のことではありません。ピュアな心の持ち主であれば、おぞけ立って、わが身をせめることでしょう。でも、彼らが人目につくことはありません」―(592)

原文:- « Я не про чистые души говорю: те ужаснутся и себя обвинят, но они незаметны будут.  »

コメント:このカタカナ表記の単語は「清い」「純粋な」の意味で、「純粋な精神の持ち主」(小沼訳)、「心の清い人」(江川訳)が自然である。チーホン僧正のような隠遁者で古色をおびた人物に、こうしたカタカナ語を使わせる必然性がどこにあるのか?ちなみに、文庫版では訂正されているが、「現代の思想」掲載のテクストでは、スタヴローギンによる「告白」の公表を懸念するチーホンのせりふに、「キャリア」という言葉が次のように使われていた。―「あなたがもし、この文書を公にされるなら、あなたの運命は台なしになります ・・・・・たとえば、キャリアという点から見て、それに・・・・ほかのすべての点から見て」

 「キャリアですって?」スタヴローギンは不快そうに顔をしかめた。―

ロシア語ではкарьера(カリエーラ、出世、昇進)で、英語のcareer(経歴)と同じ語源であるが、このカタカナ語を僧正にはかせるのはあまりに軽薄と気づいたのか、文庫版では「あなたの将来」という訳語に訂正されている。

 そのほか、不必要に余分のニュアンスをつけくわえた訳語や、文脈にしっくりこない訳語が散見されるが、見解の違いという強弁を許す余地もあるので、大目に見て、この際、省略する。



4. 2016年1月27日 10:41:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1069]

東京外国大学の亀山郁夫氏は、ムイシュキン、ロゴージン、ナスターシャの3人は童貞と処女であり3人の間には精神愛しか無かった。

とその著書「ドストエフスキー 謎の力」(文芸新書)の中で述べているが、

ムイシュキンはともかくとして

ロゴージンを宗教上の「去勢派」の一人であって、幼い頃に去勢されており性的能力は無かったといい、

ナスターシャを処女であったと言うに至っては「白痴」を本当に読んだのだろうかと疑ってしまう。

ロゴージンが「去勢派」の一人であったなどとは本文の中にはどこにも書かれていない。

ナスターシャにいたっては養女となり長じてトッツキイの妾になった、と、はっきり書かれており、トッツキイはそのための賠償金まで用意しているのである。ナスターシャ自身もそれを認めているのである。

ロゴージンには性的能力が無かったというに至っては生理学的に言ってもおかしいのである。去勢された動物は人間でも、猫でも犬でも中性的になり異性に対する興味を失うのである。

ローマ法王の中には性的煩悩から自らを解放する為に去勢するものもいると言う。
ロゴージンのような、たくましい男は存在し得ないのである。

亀山氏には最初に自分の意見アリで、本文中都合の良いところだけを抜き出して作品を歪曲しているのである。

『白痴』は人間愛とは何かと問う作品であり、この観点を見失ったとき『白痴』という作品の中で揺れ動く男女の行動の謎を解き明かすことは出来ないのである。
http://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/3433ee4a0ad4029659c158ecb482c70e


5. 2016年1月27日 10:51:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1070]

亀山郁夫訳『悪霊』に対するいくつかの批判を読んで


私の住んでいる街には分館や閲覧所をふくめると合計13もの市立図書館がある。
先日そのホームページにアクセスして亀山郁夫訳ドストエフスキーの『悪霊』が入庫しているかどうか検索してみたところ、全館でゼロであった。

じつは1年ほど前にも同じことをやってみて、そのとき『悪霊』は米川正夫訳と江川卓訳が数点あり、亀山訳はないことを確かめていたのだが、ただ当時は亀山訳『悪霊』は刊行途中だった(3巻中の3巻目はまだ刊行されていなかった)ので、今後まとめて入るようなことがあるかも知れないと思っていた。しかし現在『悪霊』刊行は完了しており、それからすでに半年以上が経過しているので、今後図書館側がこの本を購入することは何かよほどのことがないかぎりもうないように思われる。

ついでに、ドストエフスキー作品に対する亀山氏の最初の翻訳であった『カラマーゾフの兄弟』とその次の『罪と罰』についても検索してみると、前者は6点、後者は3点の在庫状況である(ただし、紛失などによるものか、欠け落ちている巻もそれぞれ1、2冊ずつあるようだ。)。


図書館が亀山訳『悪霊』を一冊も購入していない理由を考えてみるに、図書館側がこの作品の刊行を知らなかったということは普段の書籍購入状況から推察してまったく考えにくい。おそらくは意識的に購入を控えた、見送ったのではないかと推測される。

そして購入見送りの理由としては「翻訳に問題がある」という判断がなされた可能性が高いように私には思える。

『悪霊』は蔵書として米川正夫訳、江川卓訳が数冊ずつ現存しているのだから、新訳に瑕疵が大きいと判断したならば、わざわざお金を出して購入する必要はないわけである。

もちろんこの推測が当たっているかどうかは分からないが、ともかくこの措置はよかった、見識であったと私は思う。


とこのように言っていながら、私自身は亀山訳『悪霊』は読んでいない。その前の『罪と罰』も。

『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて亀山氏の翻訳の文章にほとほと懲りたのだ。

古典は丁寧に読み、熟読してこそその良さが理解でき、味わいが感受できると思っているが、亀山氏の翻訳にはそもそも熟読を困難にするところ、丁寧に読めばそれだけ苛立ちが募っていくというところがあるように思う。

その原因は、まず日本語の文章として意味が通じない箇所が多いからである。

「亀山訳はわかりやすい」というのが出版社サイドの売り文句だったようだが、亀山訳を読んだ人にはぜひ機会と時間をみつけて他の人の翻訳も読んでみてほしいと思う。

『カラマーゾフの兄弟』以来、亀山訳の検証をつづけておられる木下豊房氏のサイトを拝見すると、

「亀山郁夫訳『悪霊』U「スタヴローギンの告白」における重大な誤訳」

という記事のなかに、「『カラマーゾフの兄弟』から『悪霊』へと、亀山訳の欠陥のパターンを通覧してきた現在、引き続き「検証」作業を続けることの虚しさを感じる。」との記述がみられるが、一読者の立場からみても、この感慨にはまったく同情の念を禁じえない。

『悪霊』に関する木下氏と森井友人氏の文章を読ませていただき(お二人には多大な労に対しあらためて「お疲れさま」とお伝えしたい。)、つよく感じたことがいくつかあるのでその点を記しておきたい。

木下氏の文章においては、特に次の部分が印象深かった。

「…… 私にとっては、ことによると、あのしぐさそのものの思い出は、今にいたってもなお、さほど厭わしいものではないのかもしれない。

もしかしたら、あの思い出は、今も何か、私の情欲にとって心地よいあるものを含んでいるのかもしれない。

いや ― たったひとつ、そのしぐさだけが耐えられないのだ。

いや、私が耐えがたいのは、ただあの姿だけ、まさにあの敷居、まさにあの瞬間、それ以前でもそれ以後でもない、振りあげられた、私を脅しつけるあの小さなこぶし、あのときの彼女の姿ひとつだけ。

あのときの一瞬のみ、あの顎のしゃくりかた。それが私には耐えられないのだ。」
(亀山訳『悪霊』U、p.579-580)


詳細についてはぜひ上に記したサイトをじかに見ていただきたいのだが、亀山氏は他の翻訳者(米川・小沼文彦・江川氏など)の訳では明確に「(スタヴローギンの)行為」と訳されている箇所を、「あのしぐさ」とすることで、これが「スタヴローギンの行為」ではなく、「マトリョーシャの行為」であるかのように訳しているのである。

亀山氏の訳語「しぐさ」が「マトリョーシャの動き」を指していることは、その次に出てくる「そのしぐさだけが耐えられないのだ。」という文中の「しぐさ」が、紛れもなくマトリョーシャの動きであることを見れば間違いのないことなのだが、しかし「あのしぐさ」の箇所は本来「スタヴローギンの行為」以外の何ものでもないことは前後の文脈からいってあまりにも明白である。

もし亀山氏の訳のように、スタヴローギンにとって「今にいたってもなお、さほど厭わしいものではないのかもしれない」ものが、「あのしぐさ」、すなわち「マトリョーシャの行為」を指しているということになるのであれば、『悪霊』という作品は何が何やら意味不明、作品全体が支離滅裂なものということになってしまいかねない。

それほどまでにこの誤訳は無視することのできない、重大な語訳であると思う。

しかもこれは単なる誤訳というより、木下氏が疑念を表明されているように、亀山氏のある思惑、少なくともある強烈な思い込みが作用しての結果ではないかと思われるのである。

これはちょっとある種の恐怖をさえ感じずにいられない出来事である。


森井友人氏の文章

「亀山郁夫訳『悪霊1』アマゾン・レビュー原稿 新訳の読みにくさ・文脈の誤読 ―ドストエフスキー・ファンの願い―」

は、亀山訳『悪霊』のなかで日本語として文脈が読みにくいケースを丁寧に指摘した後、「訳者がそもそも文脈を誤読している」ケースの指摘がなされている。

その例として挙げられているのが、「ステパン・ヴェルホーヴェンスキーの物語詩が外国の革命的な文集に無断で掲載された時の当人の反応を描写する箇所」である。


「外国から送られてきたその文集を手にした彼は(……)毎日どこからか祝電のようなものが送られてくるのを待ちわびながら、そのくせ人を見下すような外面を装っていた。祝電は一通も送られてこなかった。そこでようやくわたしと仲直りしたわけだが…」(亀山訳p.22)

森井氏は、「この「祝電」が誤訳であることは、文脈から見て取れる。」と述べ、以下のような指摘をされている。

「そもそもステパンは、反体制の進歩的知識人として扱われることに自分の存在意義を見いだしている人物である。だからこそ、語り手の「私」が

「この詩も今となってはまったく罪のないものだから出版してはどうか」

と主張した時に不満の色を見せて拒絶し、よそよそしくなったのだし、また、だからこそ、この件で彼は慌てふためきながらも、内心気をよくしているのである。」


「「祝電」を送られるようでは、自分の詩が今となっては罪のないものでしかないことを証明することになってしまう。そんな事態をステパンが待ち望むはずがない。

待っていたのは、この件で身に降りかかるかもしれない危険(例えば弾圧等)について警告するような内容の電報、つまり、自分が今も当局に一目置かれる反体制の進歩的知識人であることを傍証してくれるような電報のはずである。

したがって、ここに「祝電」などという言葉が使われているはずがなく、原文に単に「電報」とあったのを訳者が勝手に「祝電」と「意訳」したと推測がつく。

実際、Web上の原文を見ると、単に「電報」と書かれているだけであり、江川訳ほか先行訳でもむろんそのまま「電報」と訳されている。」

森井氏のこの指摘と解釈は正しいと思う。

この場面は作品のごく最初のほうにあり、ステパンがどのような人物なのか、このとき読者にはまだよく理解がおよんでいない。だからステパンが待っている「電報」がどのような意味合いのものなのか、瞬間多くの読者が理解に戸惑う個所ではあると思う。

実際、初読(江川訳)のとき私もここを読んで即座にはステパンの心理をうまく把握できず、文脈を理解するために前に戻って二度、三度と読み返してみたものだった。そうして初めて森井氏が述べているところと同様の理解に至ったのだが、この挿話にはステパンという人がどういう性格であり、どういう主義主張の傾向や特徴をもった人物なのかが最も鮮やかに現れているように思う。森井氏は

「亀山訳を信じて読んだ場合、その脈絡が不明となるだけでなく、ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。」

と述べているが、まったくそのとおりであり、「誤訳」として見過ごすにはあまりに重大な翻訳上の過誤だと思う。

特に、「ステパンの心理と人物像の理解にも支障をきたすことになるだろう。」との指摘は重大であると思うが、上述した「あのしぐさ」の場合においても木下氏が同様の指摘をされている。

ロシア語を知らず、したがって原作を読めない読者は亀山氏のこの訳によってスタヴローギンおよびマトリョーシャの人物像についてとんでもない誤解をさせられることになるのだ。そしてこちら(「あのしぐさ」)の誤訳のほうがステパンの場合より問題はよりいっそう深刻だと思う。


森井氏は文章の最後を

「まずは大量誤訳を指摘されている『カラマーゾフの兄弟』に立ち戻り、その間違いを徹底的に正すところから再出発していただきたい。

――読者のためにも、そして、何よりドストエフスキーのためにも。

/これが一ドストエフスキー・ファンの心から願いである。」(/は改行)


と締め括られている。

もっともな発言だし、私もそう願いたいと思う。

でも、光文社にしろ亀山氏にしろ、『カラマーゾフの兄弟』の「間違いを徹底的に正す」というような誠意(と能力)がこの人々に望めるのであれば、あれだけ数々の批判を受けた後で『悪霊』をこのような姿かたちで出版するようなことはできなかっただろう。

『悪霊』に関して木下氏と森井氏が誤訳、不適切訳として数々指摘されているうち、「あのしぐさ」と「電報」のたった2点の誤訳にかぎっても、どちらも決定的と言えるほどに深く作品の本質に関わる問題なのは明らかであり、それがこのような有様ではこの新訳はドストエフスキー作『悪霊』の翻訳と口にするのは憚られるレベルのものではないのかと思う。

このような本に対しては、原則として私の街の市立図書館のように「購入しない」という処置をとること、どうしても購入する必要がある場合は古本を買うことなどの対抗措置をとることにしよう。

それにしても自ら翻訳も手がけているある人物が

「翻訳はひとつの形式である。そう把握すると、原作に立ち戻ることが重要になる。」

と述べているのを読んだことがあるのだが、亀山氏の翻訳ぶりをみると、この言葉がいかに正確に翻訳の核心をついているか、実感的に理解できるように思うのは皮肉なことである。
http://yokoita.blog58.fc2.com/blog-entry-209.html


6. きむ やんそん[1] gquC3oFAguKC8YK7gvE 2018年6月02日 09:48:17 : K7y0jFa5jg : L40Xowzet3U[1]
目下、米山正夫、江川卓、亀山の対訳を読みながら『カラマーゾフの兄弟』に悪戦奮闘中、対訳なしには読みこなせない私でも、首を傾げる箇所は多々あります。
亀山氏より江川さんの方に、「上手の手から水が漏れる」訳を見ます。
両氏にお会いしたことはないのですが、一度、江川さんにケアレスミス程度の誤訳を、手紙で指摘し、丁寧な返信を頂いたことがあります。
お目にかかれずじまいに終わったことが、残念でなりません。
亀山訳が江川訳を下敷きにしているのはあきらかで、格調高い江川訳をタメ口にしたまでのことです。但し、江川訳で分からない箇所が、亀山訳で分かるのも事実で、若い読者が飛びついたのも理解できます。
『カラマーゾフの兄弟』の亀山氏の誤訳を読みたいのですが、資料になるものを教えていただけませんか?
宜しくお願いします。

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