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常識
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投稿者 haru 日時 2023 年 1 月 12 日 17:13:52: tQR1Zy22P.JHM aGFydQ
 

先入観、固定観念。

人々は、教育によって自らの常識を疑わない。
彼らに教えられた常識を忠実に覚えることでその自尊心を満足させている。

それらの観念を全く疑うことがないから、矛盾に対しては目を瞑る、深く考えることはない。
もしかしたら、今まで知っていた常識は逆さまかもしれないと、気がつくこともない。  

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コメント
1. 偽装皇帝[3] i1WRlY1jkuk 2025年8月02日 12:07:23 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[3] 報告
<△29行くらい>
自分でスレ建てするのも面倒なので、コメントの少ない、そして元記事も短いこのスレッド(と言っていいのか?)を利用して、議論のネタに投稿する。まあ、議論にもならないだろうが、少しは「常識」の前提を考える土台になるのではないか。

(以下自己引用)

差別と区別を区別することの必要性
少し前に書いた、「美は差別が原則(土台)である」ということを言った人はこれまで私は見たことが無いのだが、それは「差別があるのが当たり前」というのが世界の大原則であったからだろう。だから、美の基本は差別にある、という当たり前の事実が水面上に出てこなかったわけだ。

これは「ミスコン」などが批判される前に、美そのものが差別が前提にある、という視点で論じるべきものだろう。とすれば、最初に結論を言えば、「差別が存在しない社会では美も存在しない」。つまり、みんな平等に美しいか、みんな平等に醜い社会になる、ということだ。まあ、美醜の観念が無くなる、と言うのが正確だろう。ということは、芸術も存在しなくなる、ということだ。あるいは善悪も存在しなくなるかもしれない。善悪も善と悪の差別に基づくからである。
いや、それは極論で、どんな社会でも善悪の「区別」が無いことはありえないだろう、と言うかもしれないが、それは「区別」があるだけで「差別」ではない。

ちなみに、差別と区別の違いを簡単に言えば、「差別は上下に分けること」で「区別は横に並べて分けること」と思えばいい。つまり、区別自体には「価値の優劣の判断」は無いわけだ。
とすれば、男女差別は許されないが、男女の区別はあるべきだ、というのは至極当たり前の論になるだろう。つまり、「自分は自分を女性だと自己認識している」と主張する男が、女子運動の大会に出たり、女性更衣室や女子浴場に入ることはおかしい、と見るのが当然なのだが、今はそういうキチガイ行為がLGBTとか何とかいう名目で行われたりするわけである。
この話は長くなりそうなので、いったんここで切る。

2. 偽装皇帝[5] i1WRlY1jkuk 2025年8月02日 15:50:29 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[5] 報告
<■65行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
私のブログ記事のひとつを転載。

(以下自己引用)

社会主義の本質は何か
このブログの中の「アリストテレスの政治原理」の最後の一段で、私が常々主張している「社会主義」が、まさにこれである。世界の不幸は、まさに一部の大富豪やその支配する政府による「黄金を人生の最重要物とする射利」を原因としている。
ついでに言えば、マルキシズムは資本家と労働者の闘争と革命を基本思想としたために、社会主義を世界の敵とし、本来の社会主義(マルクスやエンゲルスが「空想的社会主義」と汚名をつけた)までも汚泥に沈め、世界を悪化させたのである。つまり、マルクスは社会主義の破壊者で世界の破壊者、思想的テロリストだ。
マルクスが存在しなければ、世界は先進的な社会主義的経営者を見習って資本家が私利を抑制するようになり、労働運動が穏健に推移して資本家と労働者が関係を向上させ、20世紀のうちに人道的かつ平和的に繁栄する世界になっていただろう。まさに、「シオン長老の議定書」に言う「(我々ユダヤの使徒である)マルクス、ニーチエ、ダーウィンにお気をつけなさいww」である。

(以下自己引用)


8:アリストテレスは、政治上の公平と経済上の公平を並行させようとした。国家は多数の者に適度な富を所有させねばならない。と同時に、国家は個人の需要を超過する蓄財を抑制し、黄金を人生の最重要物とするような射利(利益追及行為)を禁圧すべきである。(注:これこそが、まさに私の言う「資本主義と社会主義の結婚」である。)

(夢人追記)これも「シオン長老の議定書」に付記した私の解説だが、上記記事本文の末段の解説として載せておく。


筆者補注:「ダーウィン、マルクス、ニーチェ」の教説がなぜ陰の支配者(と仮に呼んでおこう)にとって都合がいいのかを説明する。
まず、ダーウィンの進化論は「適者生存」の思想を人々の頭に植え付けた。つまり、生き延びた者は、生き延びるにふさわしい存在であり、滅びた者は滅びるのが当然の「無価値な」存在だったという思想である。これによって、たとえば欧米人種の行ってきた過去の悪行(他人種からの略奪行為や大量虐殺)も正当化される。弱い者、無能な者は滅びても当然であり、弱者への同情はセンチメンタルな感情でしかない、というわけだ。そして、もちろん、資本主義社会における様々な悪行(詐欺行為や非人間的な搾取)も正当化される。なぜなら、強い者が生き残るのは当然であり、資本家が金の無い人間に勝つのも「適者生存」だからである。
次に、マルクスの教説がなぜ陰の支配者にとって都合がいいのかだが、陰の支配者とは要するに、表舞台には出てこない大富豪や大財閥である。彼らは政治そのものを動かす力があるので、税金すら払わず、(いや、アメリカにおいては紙幣を印刷する権利すら持っているのだが)高額納税者(世間の人間は、これを大富豪と錯覚している)として公表されることはないために彼らの存在は世間には知られていない。しかし、誰かが搾取しているからこそ、大多数の人間は貧困から逃れられないのだと人々が思うことは避けられない。そこで、そのスケープゴートとして彼らが用意したのが表に出るレベルの富豪・資本家であり、「資本家対無産階級」という対立図式である。この資本家はあくまで世の法律に従って生産活動をする実業家に過ぎず、暴利をむさぼっているわけではない。しかし、彼らは目の前にいる、目に見える存在である。そこで貧民の憎しみは彼らに向けられ、陰の支配者の望む「混乱と無秩序」が作り出されるのである。その間に、もっと大きな金を動かして、投機市場を操作することによって、あるいは定期的に大恐慌を起こすことで低レベルの資本家の金はみな大富豪の手に入っていくのだが、それは庶民には見えないのである。つまり、マルキシズムの効用とは「分割して統治せよ」のパターンの一つなのである。
最後に、ニーチェの教説の目的だが、それはキリスト教の破壊である。キリスト教は本来、清貧と貧しい者への施しを教えており、資本主義にとっては都合の悪い思想だ。そこでカソリックやプロテスタントの中枢にスパイを潜入させてキリスト教を変質させると同時に、キリスト教の神自体をニーチェによって否定させたのである。ニーチェとはいわば、思想的テロリストである。アメリカ政府の中枢は一見、キリスト教信者が占めているように見えるが、それは、彼らが自分をキリスト教徒だと名乗っているからにすぎない。(多くの俗衆は、言葉を事実と誤認する、という「議定書」の嘲笑を見よ。)彼らの行為を見れば、それがキリスト教的精神からどれほどかけ離れているかがわかるだろう。

3. 偽装皇帝[6] i1WRlY1jkuk 2025年8月02日 16:04:39 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[6] 報告
<■146行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
一応、「(日本政治での)政治的常識」の無い人も多いかと思うので、このスレッドに載せる。維新、国民民主党、参政党はどれも同じ穴のムジナだということをはっきり認識しておくべきだろう。もちろん、自民も同じではあるが、安倍派の凋落で、だいぶマシになってきている。

(以下引用)

これが維新品質
「阿修羅」から転載。
維新の正体を見事に描いている、ある意味必読の文章である。

(以下引用)画像は転載できなかった。中一女子を強姦するトンデモ代議士はどんな顔か興味がある人は元記事参照。まあ、中年男とカラオケ店に行く時点でアホな女の子だとは思うが、子供なのであるからどうしようもない。親もそんな注意をする必要があるとは考えてすらいなかったのではないか。

(以下引用)

総選挙間近!? あらためて振り返る維新の会の正体【適菜収】
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/3135530/
2024.09.12 適菜 収 だから何度も言ったのに 第71回 写真:アフロ、産経ビジュアル BEST TiMES

兵庫県知事・斎藤元彦問題で、追い詰められた維新の会。さらにはカラオケ店で中学1年の女子生徒に性的暴行を加えたとして、日本維新の会の元衆院議員、椎木保が逮捕された。セクハラ・パワハラは維新の一丁目一番地。その背後には菅義偉や竹中平蔵といった日本凋落の元凶がいる。新刊『自民党の大罪』(祥伝社新書)で平成元年以降、自民党が急速に腐っていった過程を描写した適菜氏の「だから何度も言ったのに」第71回。


斎藤元彦

■兵庫県知事斎藤元彦に見る維新スピリッツの原点

 兵庫県知事斎藤元彦に対し、日本維新の会が辞職要求を突きつけた。2021年の県知事選で斎藤を推薦した維新は、これまで静観を貫いてきたが、批判の高まりで方針転換を余儀なくされた。

    *

 維新が態度を翻した理由は、大阪府箕面市長選で維新が公認した現職首長が破れたからだろう。要するに、追い詰められただけ。

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 斎藤の立ち居振る舞いに維新スピリッツの原点を見た。私は、当時大阪府知事だった橋下徹が、自分に批判的な大阪市の労働組合に対し、「政治活動に公務員が首をつっこんでくるのはおかしい。負けたときは一族郎党どうなるか。われわれが勝ったときには覚悟しとけよ」と発言したのを思い出した。

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 選挙で負け続ける維新。ではこの先、消滅に向けて進んでいくのか。あまり甘く見ないほうがいい。大阪ではカジノを含む統合型リゾート施設(IR)の開業がほぼ確実となった。維新の黒幕のうちのひとりである菅義偉は、総裁選で小泉進次郎を担ぎ上げている。

     *


菅義偉と竹中平蔵

 維新のバックには政商の竹中平蔵もいる。新自由主義的な政策により日本を解体し、構造改革利権にむらがる連中のさらにその下請け、鉄砲玉が維新である。馬場伸幸は、自民と維新の関係について「第一自民党と第二自民党でいい」と言い放ったが、まさに維新は第二自民党である。自民がダメだから維新に投票するというのは愚の骨頂。

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 日本の貧困と格差を拡大させた政商の竹中は、2012年、維新の最高顧問格とされる衆院選の候補者選定委員長に就任。橋下はネット番組で「基本的には竹中さんの価値感、哲学と僕らの価値感、哲学はまったく一緒」と述べている。竹中はその後、総務相時代の部下である菅の政権で、成長戦略会議のメンバーに選ばれ、岸田政権でも「デジタル田園都市国家構想実現会議」のメンバーになっている。20年近く前の小泉政権から日本を食い物にしてきた男が、今もまだ国の中枢に居座り続けている。

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 絶望的に古い体質・日本の闇を引き継いでいるのが維新である。IR、カジノ、万博、「都構想」の裏にいるのもこうした連中だ。万博は大阪府・市の特別顧問をしていた堺屋太一と橋下が寿司屋で酒を飲んでいるときに、堺屋が言い出したという。要するに、酔っ払いの与太。それを進めるために松井と橋下が安倍に酒を飲ませて、「気持ち良く」させ、密室で決めた。

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 「大阪都構想」と称する大阪市解体を巡る住民投票の糸を引いていたのも菅。菅は「大都市問題に関する検討プロジェクトチーム」の座長を務め、東京都以外の大都市が特別区を設置できるようにする大都市地域特別区設置法の成立を推進していた。また、官邸は維新を応援するため、住民投票に反対していた大阪府連に嫌がらせを繰り返した。


橋下徹

■選挙直前になると組織的にデマを流すのが維新

 総選挙のときの参考になるように大事なことを言っておく。維新は選挙や住民投票直前になると、組織的に嘘、デマを社会に垂れ流す反社会集団であるということだ。

    *

 第1回目の住民投票直前に橋下が何を言っていたか思い出したほうがいい。「都構想の住民投票は1回しかやらない」「賛成多数にならなかった場合には都構想を断念する」「今回が大阪の問題を解決する最後のチャンスです」「衰退する大阪を変える最初で最後のチャンス」。維新の公式HP、街頭演説、タウンミーティング、在阪民放5局の大阪維新の会のCM……。ありとあらゆる場所で、橋下は「これが最後だ」と繰り返し、否決後3ヶ月もしないうちに、再び「都構想」をやると言い出した。

     *

 2020年の2度目の住民投票で否決されると、吉村洋文は3度目はないと明言したが、しばらくすると「大阪維新の会として都構想の看板を下げているわけではありません」と手のひらを返した。

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吉村洋文

 吉村も絵に描いたようなデマゴーグである。吉村は街頭演説などで、昔の大阪市は大赤字でそれを立て直したのが維新市政だったという趣旨の発言を繰り返してきたが、これも大嘘。大阪市のホームページには21年度一般会計決算について、《平成元年度以降三三年連続の黒字となりました》とある。2022年の参院選の政見放送で松井一郎は大阪の私立高校の入学金が無償である旨の発言をしたが、これも完全なデマだった。

     *

 衆院選の公示日を2日後に控えた2021年10月17日、馬場はNHK『日曜討論』に出演し、「私立高校も、大阪では完全に無償と」と維新が組織的に流しているデマを繰り返した。その後、会見で記者が嘘を指摘すると馬場はこう答えた。

「言いぶりというのはありますよね。選挙の時ですから。私がそれ国会で、公の場で質問したりとか、そういうことをしているということであれば大問題ですけれども、もちろんカッコ書きの中に所得制限はありますけれども完全に無償化してますと、該当者の皆さん方には完全に無償化していますという意味合いでね、言ってるんです」

 要するに、選挙の際には嘘をつくと言っているわけだ。

     *


馬場伸幸

 馬場は応援演説でもデマを流している。2017年の堺市長選では、「大阪市は既に水が余っています。大阪市は40%近くの水を廃棄しているんです。捨てているんですよ」「これを堺に引っ張ってきたら水道料金は下がるんです」と発言。給水量は水道局が日々調整しており、多いときには翌日に量を減らしてコントロールしているため、余った水を捨てることはありえない。大阪市水道局はこれを否定した。

     *


日本維新の会。左から馬場伸幸, 足立康史, 梅村みずほ(元)

■犯罪のデパート、不祥事の見本市、それが維新

 何度も同じ詐欺にひっかかるのはやめよう。選挙後に維新の事務所に警察が踏み込むのはもはや風物詩となっている。赤木正幸、田坂幾太、上西小百合、桜内文城、升田世喜男、足立康史、石関貴史……。ちょっと調べただけでも、連中の運動員、元秘書らが公選法違反容疑で逮捕、書類送検されてきた。

     *

 維新には犯罪者が多い。これは客観的事実である。不正受給、公然わいせつ、児童買春、児童ポルノ所持、飲酒ひき逃げ、パワハラ、ストーカー、署名偽造、療養費のだまし取り、殺人未遂、迷惑動画の撮影、年金未払い、女子中学生を恐喝、市駐車場私物化、人件費の二重計上、政党交付金で借金を返済、政治献金という形のキックバック、架空のビラの印刷代金を政務活動費に計上、IRに関し中国企業から現金を受領……。犯罪のデパート、不祥事の見本市、それが維新である。維新に関しては、政治家が犯罪に手を染めているのではなくて、犯罪者が政治に手を染めていると言ったほうが適切だろう。

     *


カラオケ店で中学1年の女子生徒に性的暴行を加えたとして、日本維新の会の元衆院議員、椎木保が逮捕

     *

 維新の最終目的は何か。維新の政治提言である「維新八策」(2023年版)には、「将来的な首相公選制・一院制の導入を視野に、積極的な議論と検討を開始します」とある。橋下はかつて大統領制の導入を唱えていた。それが何を意味するかは普通に考えればわかるだろう。皇室の解体である。

     *

 つい先日、吉村は「自民党が本気で変わる、新しくなると口だけじゃなく言うんだったら、首相公選制を公約にするくらいの人が自民党総裁になってもらいたい」とツイート。

     *

 馬場は、テレビ番組で司会者から「総理大臣になったら何をしたいか」と聞かれて「同じ日本という名前であっても中身が全く違う国になるぐらいの大改革を、私が総理になればぜひやらせていただきたい」と答えている。

     *

 維新が拡大したら「同じ日本という名前であっても中身が全く違う国になる」。維新を完全に駆除しない限り、日本に未来はない。

文:適菜収

適菜 収 てきな おさむ
1975年山梨県生まれ。作家。ニーチェの代表作『アンチクリスト』を現代語にした『キリスト教は邪教です!』、『ゲーテの警告 日本を滅ぼす「B層」の正体』、『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』、『ミシマの警告 保守を偽装するB層の害毒』、『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?」(以上、講談社+α新書)、呉智英との共著『愚民文明の暴走』(講談社)、中野剛志との共著『思想の免疫力 賢者はいかにして危機を乗り越えたか』、『遅読術』、『安倍でもわかる政治思想入門』、『日本をダメにした新B層の研究』(KKベストセラーズ)、『ニッポンを蝕む全体主義』『安倍晋三の正体』(祥伝社新書)など著書50冊以上。「適菜収のメールマガジン」も好評。https://foomii.com/00171

4. 偽装皇帝[7] i1WRlY1jkuk 2025年8月03日 14:16:09 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[7] 報告
<△26行くらい>
「プランB」を嫌悪する国民性

「プランBなきデスマーチ」
日本人というのは、「失敗して当たり前」という思考法が心底苦手なのではないだろうか。だから、入学試験で失敗したくらいで人生に絶望したりする。
組織なども同じで、何かの計画を立てる時に、「それが失敗した時」のためにプランBを用意するという習慣がない。「何が何でもこの計画(プランA)を成功させるのだ」と「全社一丸となって」奮闘努力する。しかし、馬鹿な人間が集まって立てた計画など、失敗するのがある意味当然なのであり、プランAが失敗した後には死屍累々ということになる。
なぜ、「プランB」を予め考え、その準備をしないのか。剣豪じゃあるまいし、いつもいつも「一撃必殺」で済むわけがない。考えることには何のカネもかからないのに、なぜプランBを考える手間を惜しむのか。いや、プランAに決定するまでは一応考えるのだろうが、プランAに決定した後には、他のプランはまるで「これがあると予め失敗を予定しているみたいで縁起が悪い」とばかりに見捨てられるのである。昔、某作家が言っていた「言霊思想」の同類である。

なお、会社や組織の「計画」とは別の話になるが、ある時期から私は「人生に失敗など無い」という思想になっている。何かの目標が達成できなくても、それは「その後の人生への有益な情報」をたくさん与えてくれた経験であり、つまり失敗でも何でもない「有益な体験」なのである。そういう意味では、私生活においてはプランBを考えるまでもなく、「行き当たりばったり」で生きても、さほど悪い人生ではないのではないか。どうせ先の運命など分からないのだから、悩むだけ無駄だ、とも言える。(ちなみに、「悩む」ことと「考える」ことはまったく別であり、たいていの人は、特に私生活面だと、考えているつもりでただ悩んでいるだけのようだ。)

5. 偽装皇帝[8] i1WRlY1jkuk 2025年8月05日 06:13:27 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[8] 報告
<■155行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
私の「前のパソコンが使えなくなり、継続不能になったブログ」の中の記事を転載する。ここに書いたのは「常識」的思考、あるいは「思考法」の事例である。

(以下自己引用)

日本の新しい社会システムへの道(3)全体のまとめ

前回が「中仕切り」だのに、いきなり最終回だが、思考テーマを4つに分けたものを眺めていると、それが根が同じで、基本的にすべて「日本の貧困」に原因があると思ったから今回が最終回になったのである。つまり、第一回で、言うべきことのほとんどは言っているのだ。
私はデカルトの思考法である「分析と総合」が大好きで、つまり「問題を分けて考察し、それをまとめて結論を出す」わけだが、実はその「分ける」事自体に陥穽があるようだ。たとえば、生きた蛇を頭と体(体全体が尻尾のようなものだが)に分けると、それをもう一度つないでも生きた蛇には戻らない。問題解決の場合、分けた部分と部分とのつながりが見えなくなるわけだ。
今の状況で、日本の貧困問題が解決しても、はたして若者は結婚し、子供を作るか、と言えばそれは怪しいだろう。つまり、「日本の少子化の傾向は止まらない」というのが冷静な判断なのではないか。そして、移民を入れれば、日本とは別の国になるだけだろう。もちろん、明治期に日本に来た外国人たちのように優れた知性と教養を持ち、日本の文化の底上げをした人々と、単なる「労働者」として日本に来る貧しい移民とは区別したほうがいいと私は思っている。ただし、それらの人々の子供や孫が日本文化の中で育てば、それは「日本人」になるだろうが、労働移民の性急な導入は、日本社会の軋轢を生むと思う。
さて、なぜ若者が結婚しなくなるか、と言えば、「コンビニとスマホ」のためである、と言えば極論に聞こえるだろうが、現代文明は「結婚することのメリット」をどんどん失わせているのである。結婚しなくても快適な生活が送れるなら、いろいろと束縛の多い結婚に踏み切る若者が少なくなるのは当然である。しかし、それは老後というものが彼らには見えないからだ。単なる性的パートナーは、相手が性的魅力を持つ間だけしか意味はないのである。結婚という制度は、いわば「生涯保険」のようなものである。
結論を言えば、「日本の少子化は止まらない」つまり「日本の人口はどんどん低減し、やがて日本人は消滅する」となるだろうが、まあ、それはかなり先の話だ。ケインズの名言を借りれば「長期的に見れば、我々はみな死んでいる」のである。何百年後のことを考えても無意味だろう。ただ、現在の我々と接する人々の時代のためには、第一回に書いた「日本の貧困からの脱却」案は有意義だろうと私は信じている。
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酔生夢人 2022-08-19 06:14 日本の少子高齢化と新しい社会システム CM(0)

日本の新しい社会システムへの道(2)*中仕切り

また、長い間が空いてしまった「思考課題」だが、別に急ぐ旅ではないから、ゆっくりと考察していく。
極端に難しい問題を解決するのに、ふたつの方法があって、これはどちらも根本は同じだが、やり方が違う。根本が同じというのは、どちらも「問題そのものを消す」方法だからだ。
ひとつは「暴力的に問題を無くす」もうひとつは「問題の自然消滅を待つ」で、後者は多くの人が意識的・無意識的に採っている方法である。前者はアレクサンダー大王の「ゴルディアスの結び目」のように英雄視されることもあるが、ヒトラーの「ユダヤ人問題解決法」のように永久的な悪名となることもある。私はだいたい後者の方法(問題の自然消滅を待つ)を採る。世の中のほとんどの事は、机の引き出しの底の書類のように、どんどん時間の経過で見向きもされなくなるのである。つまり、我々の生活はそういう些事をまるで国家の命運を決める大問題のように大騒ぎしているわけだ。そういう意味では私は(親近感があるせいか)岸田的「その場しのぎ」手法をあまり悪く思えないのである。もちろん、政治では、時間の無駄のために多くの人命が失われ、多くの人が困窮し、不幸になるので、庶民生活と同一視はできない。

さて、前回の考察からだいぶ時間が空いたので、問題自体を再度載せておく。で、4の考察の一部も載せる。

(以下自己引用)

1:少子化問題の解決法
2:高齢社会の諸問題とその解決法
3:生産年齢人口減少とその解決法
4:日本の貧困化の解決法

この中で一番重要なのは4の「日本の貧困化の解決法」だろう。それも基本は簡単なのであって、「日本人からカネを収奪する存在への『献金』をやめればいい」だけだ。ただ、それだけだと経済自体の活性化や進歩はあまり無いだろうから、そこから考えてみる。

(引用終わり)

自己引用の中で、4の考察の一部を載せたのは、「日本人からカネを収奪する存在への『献金』」が、安倍元総理の死で政治的問題とされ、安倍的手法も批判対象となる可能性が出てきたからだ。もちろん、統一教会への協力だけでなく、米国政府への「兵器購入」などの形での献金、あるいは「思いやり予算」などの献金、あるいは米軍基地の存在そのものによる米国への「奉仕活動」など、統一教会と同じことである。要は、その事実を日本国民が意識し、問題化するかどうかだけである。今のままだと統一教会だけが問題視され、安倍的な「売国」自体は意図的にスルーされそうな気配がある。
私は共産主義は好まない(というか、非現実的なファンタジーだと思っている)が、「勝共連合」的な思想や活動が世界を毒してきたことに比べれば、その害悪の度は比較にならないとも思っている。ウクライナ戦争も土台には勝共連合的な「ロシア嫌悪」「ロシア恐怖」があるわけだ。統一教会と勝共連合は同じ盾の表と裏というか、シャム双生児なのである。だが、本題から離れすぎた。本題に戻る。と言いたいが、長くなりすぎたので、この一文はここで終わり、全考察の「中仕切り」としておく。と思ったが、思いついたことだけ追記する。

2の「高齢化社会の諸問題とその解決法」については、偶然だが、このすぐ前の記事でその方向性を示している。言い方には難があるが、「老廃人間(痴呆高齢者)処理法」を検討することだ。この「処理」は安楽死から老人ホームの改革、あるいは老齢年金の増額や高齢者の家族への金銭的援助など、残酷な印象のものから完全に福祉政策的なものまで含んでいる。まあ、私としては「国立老人ホーム」を作り、入所を望む老人(ボケ老人については家族の希望次第で。)は無料で入所できるようにするのがベストだと思う。介護職は「公務員」になるわけである。それくらいのカネは、政府の無駄遣いをやめれば簡単に捻出できるだろう。「処理」という言葉が難ありだろうから「対策」でもいい。「痴呆高齢者対策法」である。「痴呆」がダメなら、お好きなように。


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酔生夢人 2022-08-11 04:11 日本の少子高齢化と新しい社会システム CM(0)

日本の新しい社会システムへの道(1)

宿題にしていた問題だが、まだまったく展望も構想も無い。
例によって、書かないと頭も働かないのである。
まず、問題を再提出しておく。で、考えやすい問題から考えてみる。これは仕事の基本だ。やりやすい仕事をやっているうちに「やる気スイッチ」が入って頭が働きだすのである。

1:少子化問題の解決法
2:高齢社会の諸問題とその解決法
3:生産年齢人口減少とその解決法
4:日本の貧困化の解決法

この中で一番重要なのは4の「日本の貧困化の解決法」だろう。それも基本は簡単なのであって、「日本人からカネを収奪する存在への『献金』をやめればいい」だけだ。ただ、それだけだと経済自体の活性化や進歩はあまり無いだろうから、そこから考えてみる。
最初に指摘したいのは「IT化は国を豊かにしない」ということだ。IT化によって音響機器などさまざまな旧来製品やその関連産業が潰れていったのはご存じの通りである。IT化で栄えるのは情報産業だけであり、それは娯楽産業に近い。もちろん、情報伝達の簡便さや速度によって多少は経済にも寄与するが、それは一部の話だ。つまり、人間が生きていく上で必須の産業ではないということだ。
あるいは、他の工業や工業製品(たとえば自動車や電車、あるいは家電)のように生活を本質的に便利にし、行動可能性を高め拡大するものでもない。逆に、新コロ騒ぎで分かったように、「リモートワーク」が拡大することで、人間の「独居性」を昂進するものであるわけだ。スマホで連絡していれば実際に会う必要もないし、暇な時間はスマホひとつで暇つぶしする。そんな社会がスマホとコンビニ弁当以外に何が必要だろうか。それで少子化が進まないほうがおかしい。
つまり、我々の世界はすでにヴァーチャルリアリティ化が進行しているわけである。
ただ、ゲームの世界に閉じ込められた人間と違って、我々は飯も食えばウンコもする。病気になれば薬を飲み手術をする。つまり、「生物である」という事実からは逃れられないわけで、そこに今の社会の閉塞状況や「非人間化」「非現実化」から逃れる道があるだろう。

人間の生活の基本とは何かと言えば、「自己の生命の維持」と「他者との関係」だろう。「食」と「住」は前者であり、「衣」は後者に関わる。もちろん、衣は体の保護や体温の維持の意味もあるが、南国では基本的に裸でも生きていける。そして「ファッション性」は完全に「他者との関係」で必要なものだ。バルザックが言うように、「身なりに構わないのは社会的自殺である」わけだ。葬儀や婚礼にポロシャツや半ズボンで行くわけにはいかない。
さらに、住には「利便性」の要素が出て来る。屋根と壁があるだけでは駄目で、電気や水道やガス設備が必要になる。これらは大きく言えば「自己の生命の維持」だが、生活を「快適にする」という面も出て来るわけだ。風呂に入らなくても生きていけるが、入るほうが快適な生活が送れる。その方が異性にも好まれるだろう。つまり、住の中にも「他者との関係」の要素はあるわけだ。豪邸のほうが掘っ立て小屋よりは住むのも気持ちがいいだろうし他者の評価も高くなるだろう。
まあ、要するに「衣食住」に関連する産業は今後も衰退することは無い。建築物などは、新しく作る仕事が衰退しても既にあるものを維持保全する仕事がでてくる。つまり、毎日消費するものもあれば、長期的に価値が減衰して修理するべきものもある。
で、「衣食住」に関する産業の衰退は、作る側の問題よりも「売り方」の問題が大きいのではないか。簡単な例で言えば、昔は「魚屋」「肉屋」「八百屋」「衣料品店」「靴屋」は別々だったが、デパートが現れてそれらの店は潰れていった。ところがそのデパートもスーパーマーケットやコンビニの登場で衰退したわけだ。そのスーパーやコンビニもそのうちアマゾンやウーバーイーツのような「宅配業」に駆逐されるかもしれない。
これらの変化は消費者がより簡便に利用できる方向へと進化して生じたもので、好ましい変化であることも多いが、人間をどんどん怠け者にし、独居性を高めるもののようだ。
まあ、便利さの進歩は人類を「その場から動かない」「脳だけの存在」に近づけると言っても良さそうだ。便利さとは「動き(行動や過程)を省く」ことが基本だからだ。

6. 偽装皇帝[9] i1WRlY1jkuk 2025年8月05日 14:46:30 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[9] 報告
<■105行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
これも私のブログ(名前は別である)記事のひとつで、「西洋近代思想」の根底である「合理主義」への疑問を書いたものであり、日本人は西洋人のようにすべてを「イエスかノーか」で割り切ることはしなかった。そこにこそ日本的思考の素晴らしさがあったのではないか。(言い換えれば、西洋人は「知情意」の「情」を切り捨ててきたのである。)毎度言うが、整数と整数の間には無限の数が存在しているのであり、整数的合理主義こそが「不自然」なのである。

(以下引用)

「近代の超克」と「西洋の超克」
「近代の超克」座談会で出席者たちがのぼせ上ってキチガイじみたたわごとを言っているという批評自体はおそらく事実を指摘したものだろう。(私自身はこの座談会の筆記録を読んでいないが、軍国主義時代の国威高揚気分の最中の座談会だから当然そうなると推定できる。)
しかし、では、彼らが論じた「近代の超克」あるいは「西洋の超克」の基本思想は間違いか、と言うとそうとも言えないのではないか。すべてを国粋主義や軍国主義に結び付けるほうが間違いなのではないか、というのが私の疑問である。
というのは、下の記事に書かれた「三つの要点」に私はすべて賛同するからである。
で、私は反軍国主義であり、絶対平和主義であり、そして国粋主義者でも何でもない。むしろコスモポリタン(世界市民)思想家だということは何度も書いている。
要は、はたして「西洋の超克」は悪なのか、間違いなのか、ということである。今の世界を見て、「西洋の超克」を否定するのは西洋人とその隷従者だけではないか?

(追記)おそらく、西洋人は自然を克服すべき敵と考え、日本人は人間は自然の一部であり、自然を母なる存在、あるいは畏怖し尊重し愛するべき存在だと考えているところに両者の文明の本質的な違いがあり、西洋近代は合理主義によって世界の自然や無数の「生命ある存在(異人種や異民族含む)」を軽視し、収奪し、蹂躙して、それを「合理主義」としてきたのではないか。再度言うが、理論(合理主義)とはデジタル的思考であり、そこから抜け落ちる無数の存在を無視して成立するのである。そこに近代が超克されるべき理由があり、このままでは人類は自然に復讐されるだろう。それは宮崎駿が「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」で舌足らずに描いたテーマだ。

(追記2)参考までに「西洋的合理主義思考」の陥穽を小林秀雄の「対話集」から引用する。これ(西洋的思考)は、「最初から結論ありき」の思考であり、西洋人が議論(ディベート)に強い所以である。苫米地英人も、「先に結論を決め、その「論拠」を三つ考えてから議論しろ」という趣旨のことを書いている。そして、それは「考えること」とは別の「思考操作」でしかない。だから相手の話を上の空で聞きながらでも議論できるわけで、真摯に考えるなら、思考の結果として答えが出たり出なかったりするはずだ。つまり、議論に負けることがある。それが当然であり、それこそが「建設的な議論」なのである。むしろ誠実な方が議論に負けたりするから、判定者は見かけの勝敗に誤魔化されないようにするべきだろう。

田中(美智太郎)「数学的に考える場合は、シンボルで考える。しかし数学者なんかでも案外ものを考えてないのじゃないですか」
小林「数字にたよってね」
田中「ホワイトヘッド(注:数学者で哲学者)がそういうことを言っていました。数学は思考の練習になるというが、そんなことは嘘だ。ただシンボルを操作しているだけで実際は考えていないことが多い……。」
小林「そういうことはたしかにあるね。”数学者が実はものを考えていないのだ”というような言葉は、なかなかわかりにくいのじゃないかな。つまり合理的に考えようとすることは、極端にいえば数式に引っ張られている状態になるわけで、ほんとうの考えというものは、合理的にいくものではないんじゃないか、というようなことを私はよく考えますね。」

(以下再引用)赤字と太字は酔生夢人による強調。「デモクラシーの超克」は「デモクラシーの欺瞞性の超克」と言い換えるべきだろう。現在、デモクラシーが機能している国は無い。

そこで廣松は、視点をこの座談会を超えて、もっと広いところに向ける。この座談会とほぼ並行する形で、京都学派のメンバーによる座談会が中央公論誌上で展開されたが、それに目を向ける一方、京都学派の個々の論客の思想の変移をたどり直しながら、京都学派に共通する反近代・反西洋の要素を剔抉しようとするのである。

それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。その合理化はけっして外在的な理由にもとづいたものではなく、京都学派に内在する論理の必然的な展開であった、と位置付けるわけである。

このように、この本の中で廣松が主に行っているのは、京都学派の思想の特異性である。しかし何故廣松は、彼らの思想を改めて問題にしたのだろうか。廣松がこの論文を雑誌に連載したのは1974〜75年のことである。その時点で京都学派とそれが代表する反近代の思想を改めて問題化する必要があったほど、世相に逼迫する理由があったのだろうか。

柄谷行人は、60年代に「近代批判」運動が盛り上がったことを引き合いに出しながら、そこでの論脈が戦前の「近代の超克」のなかで論じられていたことをすこしも超えていないと感じた廣松が、戦前に溯って近代批判を検証しなければならないと感じたのではないかと推測しているが(講談社学術文庫版解説)、あるいはそうかもしれない。

ヨーロッパにおいては、近代批判という現象の波が歴史の節目節目で現れている。ロマン主義の運動や、ニーチェの近代批判などはその典型である。西洋人が近代を否定する場合には、自分自身が生み出した文化が否定の対象になるわけだから、それは内在的な否定の形をとる。ところが非ヨーロッパである日本において近代批判が問題となるときには、その近代とは西洋とほぼ同義であると考えられるケースが多い。そのように考える人々にとっては、近代の超克即西洋の超克とならざるを得ない側面がある。しかし、20世紀の時代にあって、その西洋文明を否定してどのような文明を立てようというのか。単に日本人としての先祖返りでは、我々は痴愚蒙昧の世界に逆戻りするということになりかねない。そんな風に廣松は思っていたに違いない。そこで世の中で近代批判の声が高くなってくるたびに、その批判の内実を批判的に検証する必要を感じる、というのが廣松の本音だったのではないか。そんなふうに受け取れる。

柄谷行人がいうとおり、この本は廣松が日本の哲学および批評について書いた唯一の本である。その唯一の本で廣松がとりあげたものが、日本の思想における近代批判の流れであったわけだ。そういう点でこの本は、80年代以降に更なるアクチュアリティを持つようになったとの柄谷の指摘は正しい。80年代以降になると、日本にもポスト・モダニズムの思想が輸入されて、日本の思想業界においても近代批判が声高く叫ばれるようになるが、そのような時代においてこそ、近代批判の視座を問題とするこの本は大きな意味を持つようになるのだと思うからである。

7. 偽装皇帝[12] i1WRlY1jkuk 2025年8月11日 13:21:40 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[12] 報告
<■62行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
「常識」以前の問題として、我々は「言葉」や「誰かの説」をかなりいい加減に扱っているということを、「朱子学」「格物致知」を例にして論じた(批判した)私のブログ記事を転載する。
ちなみに、多くの論者の「儒教批判」は、「論語」を読んだかどうかも怪しい論説に思える。その批判された部分(主に忠孝思想)は、「古代に社会秩序を作るための手段」であり、現代に合わないのは当然だ。だが、それによって「論語」という思想書自体が無意義だとするのは暴論だろう。たとえば「仁(仁慈)」こそが社会道徳の基本であることは言うまでもない。
そして道徳の存在しない社会はほぼ地獄であるはずだ。
世間の「通俗道徳」批判も、道徳そのものの消滅を招きかねない。
どのような道徳が「通俗でない道徳」とされているのか。私は見たことがない。「立身出世主義」が批判の対象なら、そう言えばいいのである。つまり「通俗道徳」という言葉自体が曖昧化を生むのである。こうした「言葉の曖昧化」は大きな問題だろう。

(以下引用)


「朱子学」は存在しない(朱子批判と「格物致知」批判)

まず、なぜ「朱子学は存在しない」と言うかというと、朱子は自分自身のオリジナルな思想があるのではなく、それまでの儒学を体系化し、「四書五経」を選定し、「四書」を「五経」の上に位置づけ、さらに、「論語」を四書のひとつと位置づけることで孔子や「論語」を格下げし、「四書」の順序を「大学」「中庸」「論語」「孟子」とすることで、「大学」や「中庸」は「論語」以上の価値があるという「無意識を操作した」のである。
そういう意味では朱子は孔子の「敵」とも言えるだろう。
ただし、「大学」や「中庸」の持つ、一種の見かけの「論理性」は、こけ脅かしには最適のもので、それだけに「政治教科書」や「公務員教科書」としては使用しやすかったわけだ。

その「論理性」が見せかけのものだ、ということを「格物致知」を例にして説明する。

最初に、その「格物致知」がどういうように登場するかを引用する。

「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、まずその身を修(おさ)む」
「その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。知を致すは物に格(いた)るにあり」(大学・経一章)

まあ、セールスマンの早口トークを聞いているように催眠術にかけられそうなセリフだが、このどこにも論理性は無い。
念のために、どこでもいいから「なぜ?」という言葉をはさんでみるがいい。「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む」「なぜ?」

国を治めるという「君主にしか通用しない話」を、なぜ「公務員」が学ぶのだ?

つまり、ここですでに「朱子学」の欺瞞性が見えるのだが、末尾の「格物致知」が気になる人のために説明をする。

「格物致知」を「物に格(いた)り、知を致す」と読ませる漢学者が多いと思うが、それは習った通りに言っているだけだろう。この「格」は「いたる」ではなく「きわめる」と読むべきである。ちゃんと漢和辞書に「格:きわめる」の意味が載っている。そもそも、「物に至る」では意味不明だろう。「物」とは何か。
この「物」とは「あらゆる物」である。あらゆる物の性質や特質を「極める」のが「格物」なのである。だから、その作業によって「知を致す(知に至る)」わけだ。
だが、その結果が、国を治め、明徳を明らかにすることとどう結びつくのか。物理学者や科学者でないと君主になるべきではないのか。それとも公務員すら学者でなければならないのか。
ここに「公務員教科書」としての朱子学のインチキさがあるわけだ。この公務員を「士大夫」としても「武士」としても同じことだ。要は、「小人閑居して不善を為す」から、「道徳的で難解な教科書でも勉強させておけ」と言う話である。

私なら「その国を治めんと欲する者は、先ずその知を致す」でこの長々しい文章を一文にするところである。そうすれば「君主用教科書」にはなる。だが、あまりにも当たり前の言葉なので、誰も感心しないだろう。それを長々と尻取り文を続けることで、聞いている方は意味が分からなくなり、深遠な思想だ、と思い込むわけである。

8. 偽装皇帝[14] i1WRlY1jkuk 2025年8月13日 08:31:44 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[14] 報告
<△21行くらい>
とある政治関連動画のコメントだが、非常に面白く、「思考の指針」となる言葉である。
私はいつも自分の頭脳の固定化を懸念して、問題を柔軟に考えようと気をつけているつもりだが、ネトウヨ的な「歴史捏造」(彼らにとっては「正しい歴史」)を軽蔑しているので、左側陣営が彼らの歴史捏造を「歴史修正主義」と非難するのも当たり前のように感じていた。しかし、下のコメントに言うように、歴史の真実は常に新たな研究で発見されるものであり、また「現在の学説」の多くは学会の権力争いの結果で固定されてきたものだというのが事実だろう。となれば、「歴史修正主義」こそが正しい姿勢である、というのはまさに真実でありながら、それが「右側陣営への悪口」「レッテル貼り」になっているのは大きな問題ではないか。
ちなみに私は「量子論」も「相対性理論」も信じていない。自分に理解できないのに信じるほうがおかしいのではないか?wwww いずれ「光速を超える速さ」が常識になると思っている。ついでに言えば「宇宙は真空ではない」と思っている。そもそも無数の天体があるし、光が波動性を有するなら、それは「波」の媒体があるはずだからだ。

(以下引用)


@バロン-h8h
6 か月前


歴史は量子物理学と一緒で、観察者と対象物の関係でしかない。
正しい歴史、真実の歴史は無い。
歴史修正主義は、理想的な態度。
歴史固定主義こそ、誰かの見方を強制する危険な考え。


9. 偽装皇帝[15] i1WRlY1jkuk 2025年8月14日 08:45:09 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[15] 報告
<▽35行くらい>
「思考停止的思考」の好事例として、例の「悪の凡庸さ」から挙げておく。ついでに言えば、この「悪の凡庸さ」という言葉自体が思考停止的に使用(引用)されがちである。これは「凡庸さ」という訳語に問題があり、「平凡さ」、つまり、「誰でもそうなるのだ」ということであり、思考停止への批判である。つまり、「天才的な悪」と「凡庸な悪」を対比したものではない。あなたも私もアイヒマンになる可能性はあるということだ。

(以下引用)


ユダヤ人たちは数百万人もの同胞を強制収容所に移送させたアイヒマンのことを悪魔の化身のような極悪人だと思っています。テレビに映し出された平凡な彼の姿や言動をみても猫被っているだけだと考えています。ハンナ・アーレントはむしろごく平凡な役人がなぜ残虐な任務を遂行し続けたのかを考えていきます。

悪の陳腐さ

映画では友人と交わされる対話やゼミ室で行なわれた「全体主義の起原」についての講義を経て「8分間のスピーチ」といわれる大講堂での講義で彼女がたどり着いた考えを講義します。実際には講義のスピーチは時間を計ってみると7分弱でしたけれど。
その考えとは、普通の人が行なう悪についてです。アーレントは普通の人が行なう悪のことを「悪の陳腐さ」と名付けています。英語で「the banality of evil」という言葉ですが映画では「悪の凡庸さ」と訳されています。悪の陳腐さがもたらすものは、人間であることを拒否すること、即ち「思考停止」であり、思考停止することで残虐行為が可能になると考えました。具体的に照らし合わすと、ごく凡庸な役人であるアイヒマンは人間であることをやめて思考停止することによって大虐殺を可能にしたという考えにたどり着いたのです。
では、どうすればいいのか。
思考停止をやめ、思考するのだといいます。”思考の風”を吹かせなければならない。”思考の風”がもたらすものは知識ではなく、善悪や美醜を見分ける力である、と。
考えもなしに行動することは陳腐であり、それが悪となることがある、ということなのです。
現代社会に置き換えると、上司がやれと言ったからやる、とか誰かが言っていることだから賛成するとか、内容をよく吟味しないでSNSで「いいね!」を押してしまうとか。自分の思考を介在させないことは、悪である、と言っているのです。
そういう意味で考えない者は人間ではないと言い切ります。

(映録助氏のブログから転載)映画「ハンナ・アーレント」について


10. 偽装皇帝[24] i1WRlY1jkuk 2025年8月19日 13:57:06 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[24] 報告
<■81行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
私自身のブログ(自称、酔生夢人)の過去記事からふたつ引用する。これも「まだ常識になっていない常識」だろう。
私自身は社会主義者だが、「天皇という存在を政治に活用できないか」と考えている。簡単に言えば、「国会決定に対する差し戻し権」を天皇に与えることだ。(差し戻しは一回だけで、同じ決定を国会が繰り返したら国民投票で決定する。)これによってたとえば「国会による戦争推進」を阻むことも可能だろうし、その天皇の意思は、カネで買われた国会議員の群れより国民の意思に近いはずだ。おそらく、カネで動かすことが不可能なだけの権威を天皇という存在は日本の伝統として有していると思う。

(以下自己引用)

「民主主義」が「巨大戦争を生む」原理

私は山本七平の「ユダヤ思想への肩入れ」に反発する者だが、氏の書いた文章の中には有益な思想の引用も多い。たとえば、『小林秀雄の流儀』の中に引用された文章を知らない人が多いのは残念なことである。その幾つかを孫引き引用する。文語表記は私が口語表記に直してある。

下の最初の引用文章の「一世紀も経たぬうちに」とは「フランス革命から一世紀も経たぬうちに」ということ。「道徳の根本の基礎」はキリスト教信仰、「社会的理想に関する抽象的公式」は、たとえばフランス革命の「自由、平等、友愛」など。

(以下引用)


「ヨーロッパは、外的現象に救いを求める人に満ちている。道徳の根本の基礎が、もう崩壊しているのだから、社会的理想に関する抽象的公式が、幾つも叫ばれれば叫ばれるほど、事態は悪化するのだ。一世紀も経たぬうちに、彼らはもう二十回も憲法を変え、十回近くも革命を起こしたではないか。総決算の時は必ず来る。誰も想像できないような大戦争が起こるであろう。私は断言してはばからないが、それはもう直ぐ扉の外まで迫っている。君は私の予言を笑うか。笑う人は幸福である。神よ、彼らに長命を与えたまえ。彼らは自分の眼で見て驚くだろう。」(小林秀雄「政治と文学」に引用されたドストエフスキーの文章。)

(以上引用)


私(夢人)の感想だが、世界的大戦争は二度とも「民主主義の時代」になってから起こったのが面白い。なぜか。それは、次のヒトラーの思想で分かる。同じく小林秀雄の文章中のものだ。

(以下引用)


「彼の人生観を要約することは要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。(中略)獣たちにとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しないはずがあるか。」
「大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何もかも君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が耐えられよう。」(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」より)

(以上引用)

なお、小林秀雄は、日本中がヒトラー賛美に浮かされていた頃(日独伊協定の頃か)に、ヒトラーの「我が闘争」を読んで、彼の精神を見抜いていたことが、(引用は略すが)同書の中に書かれている。

「民主主義」は「国民主権」なのだから「戦争はほぼ国家総動員になる」わけだ。戦争に国民が賛成するなら国民全員が戦うのが当然だろう。(多数決なのだから、戦争反対派も動員される。)ところが、現実には主権者であるはずの国民の中の下層国民が戦わされ、上級国民は後方で金儲けをし、人生を楽しんでいる。相手国も同じである。それが二度の世界大戦である。


ついでに、山本七平氏自身の証言も書いておく。これが軍隊の実相である。

(以下引用)

「日本にはヒットラーはいなかったが、民衆はいた。昭和十七年、私が軍隊に入って何よりも驚いたのは軍人の地方人(民間人)蔑視であった。流行のナチスばりに似せようとした軍服の青年将校が音頭をとって歌わせる『昭和維新の歌』には『盲目(めしい)たる民、世に踊る』という一句があった。」

(以上引用)

さて、盲目(めしい)て、世に踊っていたのはどちらだろうか。軍人のおおはしゃぎ、夜郎自大が日本を地獄へ連れていったのではなかったか? 
そしていまだに、西田某のような大馬鹿発言をする政治家は絶えない。高市もその同類だ。彼らには、戦争が起こったら、銃を取って最前線で戦ってもらおう。年齢も性別も関係ない。銃後でも無数の幼児や子供や老人が死ぬのである。

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酔生夢人 2025-05-30 01:36 随想(政治・社会) CM(0)


日本という国における天皇の存在の意味

何度か引用した山本七平他の「日本教の社会学」の小室直樹と山本の対談が非常に面白く、啓蒙されるところが多い。その中で明治維新について論じた部分の一部を転載する。
これと同じ趣旨のことを司馬遼太郎も言っていたと思う。
この「天皇の威力」あるいは「権威」というものの力を現代の日本人は軽視しすぎているのではないか。面白いのは、江戸時代末期には天皇には何の「権力」も無かったという事実である。
下の出来事は、世界史の上でも唯一無二の奇跡だろう。
江戸末期の天皇は、いるかいないかも分からないような存在だったはずである。それが、いざという時に、これほどの力を持っているというところに日本という国、日本人の特殊性もあると思う。

(以下引用)

山本「明治維新というのは、革命としては、まさに他に例をみないほど、徹底したものだったんですね。」
小室「そうですよ。当時、そのありさまをみた英国公使パークスは飛び上がらんばかりに驚いた。一片の天皇の命令だけで、近代国家が一夜にしてでき上がる。天皇はまさに神である。ヨーロッパでこんな革命を遂行しようと思ったら、何千回も戦争をして流血の惨事を繰り返しても困難だろう、とね。」


11. 偽装皇帝[29] i1WRlY1jkuk 2025年8月20日 08:52:59 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[29] 報告
<▽47行くらい>
私自身のブログの過去記事の一部を転載する。私は「防衛戦争」すら否定する絶対平和主義者である。それが単に私が低脳であるための思想かどうか、下の記事をお読みいただきたい。
要するに、私は「諸国民の信義に依頼して」日本を永久的戦争放棄国家とし、軍備もゼロにするのがいいという思想である。すべての国が軍備を完全放棄すれば戦争は起こらない。起こりようがない。

(以下自己引用)

戦争という最大の愚行


ウクライナ戦争の教訓は、「戦争ほどの愚行はない」ということだ。
私が前々から言っている、「国土が侵略されたら即座に降伏するのが最善の策だ」ということをこれほど明確に証明した戦争は空前のことだろう。で、それが絶後ではないだろうと(残念ながら)私は推測する。

ウクライナへのロシアの「特別軍事作戦」が始まった時に、ウクライナが即時降伏していたとして、国民にとって何か不利益なことがあったか? しかもその時にはロシアは「停戦交渉」を求めていたのである。それをキエフ政府が拒否して戦闘が始まったわけだ。その後も何度か交渉の機会はあったが、その度にキエフ政府(その背後の英米政府)が停戦交渉自体を拒否してきた。その結果がウクライナの現在の惨状だ。
さて、それと比べて、戦争開始直後にウクライナが降伏していた場合、どうであっただろうか。

もともとウクライナとロシアは兄弟国家であり、文化も近いしロシア語話者も多い。東部地区と西部地区の違いはあっても、ロシアがウクライナをたとえ併合してもウクライナ国民にとっての不利益はほとんど無く、むしろ、盛運に向かいつつあるロシアの一部としてその恩恵を得られたのではないか。つまり、ロシアとの停戦を拒否したのは単にキエフ政権とそのネオナチグループと米英政府の利益のためだったのである。ここで、私が毎度言う「政府と国家は別だ」という話になる。
政府とは、正常でインチキの無い民主主義的手続き(選挙)で選ばれない限り、「上級国民や外国勢の所有物となる」のである。繰り返すが、「政府=国家」ではないし、「政府=国民」ではまったく無い。政府による決定が一般国民にとって害悪であるという事例は数えきれないほどあり、日常茶飯事と言っていい。日本も同様だ、ということに賛成する人は多いのではないか?

さて、ここでモデル思考によって戦争とはどういうものか、考えてみよう。

A国とB国が戦争をして、両者の戦力通りに戦争が推移し、A国の国民の9割が死亡して、B国の10割が死亡して戦争が終わったとしよう。(通常はそこに行く前に戦争は終わるが、ここではモデル的に考察する。)すると、A国はAB両国の国土を手に入れるが、その国土は現在の兵器の破壊能力からして両国の国土のインフラをほとんど破壊し、土地の生産能力も極限まで下がっているだろう。で、その広大な土地を、誰が耕し、誰が工場を作り、誰が働くのか。A国の残った1割とはつまり「上級国民」である。彼らが百姓仕事をし、工員として働くのか? よそから他国民を輸入して働かせるか。それなら、死んだAB両国の国民はこの戦争で得たのは墓穴だけ、となる。

これが、私が戦争とは最大の愚行であるという所以である。

DSの地球人口削減計画は(自分たちを削減対象に含めず、下級国民だけを削減すると妄想している点で)これによく似ている。いかにも西洋人的、あるいはユダヤ的思考である。

12. 偽装皇帝[55] i1WRlY1jkuk 2025年9月04日 09:47:16 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[55] 報告
<▽41行くらい>
私自身のブログのひとつである「酔生夢人ブログ」の過去記事だが、やや文学的、あるいは哲学的な内容の文章で、暇な人の「思考の柔軟体操」としては面白みのある文章なのではないか。

(以下自己引用)

生と死、善と悪


知人から定期的に古本を貰うのだが、貰う本は私の好みで選ぶので、筒井康隆の初期短編集が多い。もちろん、昔読んだのが大半だが、私は速読の悪癖があり、理解困難な部分は昔はあまり考えないで飛ばし読みをしていた。だから、昔読んだ本でも、そういう部分をちゃんと考えながら読むと、十分に面白く、たくさんの発見があるのである。
たとえば、「東海道戦争」所収の「群猫」の中に、

「花の死体」

という表現がある。
この作品はかなり詩的な表現が多いのだが、地下深くの下水道の中に棲む群れ猫の「意識」まで書いてあり、難解な表現も出て来る。その中では「花の死体」というのは分かりやすいが、少しどきっとする表現だ。
実際、我々が目にする「切り花」は、あれは花の死体なのであり、床の間や玄関にきれいに飾られた生け花は「生け花」の名に反して「花の死体」の集まりなのである。
それを我々がなぜ「花の死体」と感じないのかと言えば、我々には花がいつ死んだのか、認識できないからである。実際には、切られた瞬間に花は死んで、後は枯れていくのだが、動物の死体のように腐敗せず、枯れるだけなので、我々は花の死を死だと感じないのである。

それから、

「彼はいま、願望に自我を強化させ、闇の中に意識を発散させている」

という表現があるが、「彼」とは、地下深い下水道に棲むめくら猫である。この一文の中の「願望に自我を強化させ」というのが興味深い。我々の自我は願望によって強化されるというのは、これまで誰も言っていないのではないだろうか。
我々が自分の自我を意識するのは願望が存在することによってではないか、という思考をこの一文はもたらす。別の言い方をすれば、願望(欲求)が無ければ自我も無いし、自我ゆえの苦悩も無い、ということで、それは仏教の思想に近いと思う。ただし、これを突き詰めると、欲望を捨てた人間は死体と同じ、となる。欲望はあらゆる悪の根源でもあるのだから、それが自我の根源でもあるなら、悪は人間存在の土台だ、というとんでもない結論になるが、まあ、それは言い過ぎで、いつもの私の「極限思考」の癖である。
要するに善とか悪とかいうのは便宜的な観念であり、社会秩序の土台として重要ではあるが、実は実存するものではない。まあ、商品の値札のようなものだ。値段をつけるのは売る側の勝手である。パリコレで売る(アピールする)ファッションをまったく無価値と思う者がいてもおかしくはない。犯罪者にとっては法律は悪の存在だろう。だが、善悪の観念(人間性の値札)の無い社会は野獣の世界になるわけである。社会の成立とモラルの成立はほぼ同期しているはずである。


13. 偽装皇帝[59] i1WRlY1jkuk 2025年9月12日 05:30:58 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[59] 報告
<■182行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>

これも私のブログ(今は更新不可能)からの転載で、若い人の「常識」となっていい考えだと私自身は思っている。すくなくとも、思索のヒントにはなるだろう。まあ、読み物としてもある程度の面白さはあるのではないか。

(以下自己引用)


一億総貧乏人国家の「国富」とは何か


「徽宗皇帝のブログ」に載せてある「新国富論」の後半である。これは鳩山小沢民主党が自民党を倒して政権を握った直後に書かれたものだというのが最後の一節から分かる。だが、その後に起こった「官僚の裏切り」と「マスコミのデマ作戦」と「民主党内部の裏切り」で民主党は倒れ、それ以降は「悪夢の民主党政権」というレッテル貼りで民主党は徹底的に葬られたわけだ。

(以下引用)


7 欲望というエンジン



 「起きて半畳、寝て一畳」という言葉がある。人間が生きるにはそれだけのスペースがあればよい、ということだ。それは勿論、他の生活物資でも同じことで、人間がいくら頑張っても、一度に飯を10杯も食うのは難しいし、できてもそれは快楽ではなく拷問にしかならないだろう。いくらきれいな衣服が好きでも、一度に服を10枚も着る馬鹿はいない。高級なホテルが好きな人間でも、ベッドで寝ている間は自分がどこにいるのかという意識さえもない。つまり、一日三食喰えて、夜寝るための住居があれば、人間、本当はそれ以上の金はほとんどいらないということだ。だが、それでは資本主義は成り立たない。Aの商品よりはBの方が高級で、Cはそれよりも高級だ、という序列を消費者にマスコミと宣伝を通して「教育」し、彼らに常に消費の欲望を掻き立てる。物を得るには金がいる。金が欲しいから他人と競争して、その競争に打ち勝って出世する。そして高給を得て高級な商品を購入する。これが資本主義社会の庶民の姿である。もちろん、出世競争に敗れた人間は「下流社会」行きだし、能力があっても不運な人間も同じことだ。


 「象箸」という言葉がある。ある王様が象牙の箸を作らせたのを見て、その臣下が暇を願って他国に行ったという話だ。なぜ、と聞いた知人に、その男は「象牙の箸を使いだしたら、他の器もそれにふさわしい器にしないと気が済まなくなるものだ。当然、それに入れる食物も、それにふさわしい美味珍味になるだろう。それは食事だけにはとどまるはずがない。やがて生活のすべてが贅沢品で満たされ、その費用をまかなうために国民から苛酷な税を徴収することになり、国民から恨まれて、他国のつけいる隙をつくり、この国は滅びるはずである」と答えたという。まるで、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話だが、象牙の箸一つから国が滅びるというのは面白い。だが、ここでの意図は、実はこの象箸の話の中に、資本主義社会の欲望の原理があるからだ。それは、欲望は無限連鎖であり、かつエスカレートしていくという原理である。


 我々は、かつてはクーラーの無い社会に生きていた。夏は暑いのが当たり前で、時々涼しい風でも吹けば、それでよかった。だが今、我々はクーラーの安楽さに慣れて、それ無しでは生活もできないような気分である。身の回りのあらゆる品々はそうである。我々の年代では、電化製品など無いのが当たり前で、テレビも冷蔵庫も無かったのである。せいぜいがラジオくらいか。しかし、ラジオしか無かった時代の我々には、未知の世界への畏怖と憧れと夢があった。要するに、贅沢品など、無ければ無いで、実はやっていけるのである。ところが恐ろしいことに、贅沢には薬物中毒と同じ禁断症状がある。いや、薬物依存症よりもたちが悪い。なぜなら、麻薬なら、次から次へと新製品やら一段上の高級品が出てくるわけではないが、贅沢品は常に「ワンランク上」の商品を餌に我々を生存競争の渦の中に投げ込むからである。それこそ、「死して後已む」というか、「馬鹿は死ななきゃ治らない」というか、死ぬまでこのレースは続くのである。そうした下等動物の生存競争のエネルギーを利用して金持ちは一層金を稼ぎ、またこの奴隷たちが購入する商品によって一層懐を豊かにする。


 いや、私は金持ちの存在自体を否定しようというわけではない。自分が彼らの立場なら、同じようにする可能性も十分にある。だが、悲しいことに、彼らは自分が稼いだ金の使い方を知らない。彼らが、世界中の文化や芸術や科学の発展のために、あるいは人間全体の幸福度を増すために金を使ったことなどない。慈善事業への寄付行為も、節税対策か、別種の金儲けの布石でしかないのである。つまりは、彼らもまた一種の依存症なのだ。金の魔物に取り付かれた精神異常者でしかないのである。私が金持ちを批判するのは、その一点においてである。そう、彼ら自身も不幸な人間なのである。本当は、彼らは不幸なのだが、自分たちを幸福だと信じている。それは、より幸福な状態を知らず、物質的な幸福こそが幸福だと信じているからである。他人の不幸の上に成り立つ幸福など、本当は幸福などではないのだが。


「起きて半畳、寝て一畳」という言葉を彼らは馬鹿にするだろう。王侯貴族の生活も知らない貧乏人が何をほざく、と。


 しかし、たとえば日本なら、毎年3万人から4万人の自殺者が出るが、その死体の上に自分の豪華な生活があると知りながら、平然としていられる、そうした神経は、600万人のユダヤ人を虐殺したとされているヒトラーよりも病的だと私は思う。あるいは、平和なイラクに戦争を仕掛け、その国を破壊しつくして、国民のそれまでの生活のすべてを奪って平然としているその神経も、同じである。つまり、日本であれ米国であれ、「自分の金儲けのためなら世界中の人間が死んでも平気だ」という連中が世界を動かしているという、この事態が私には不愉快でならないのである。だから、せめてはできるだけ多くの人々が、そうした世界の裏の姿を知って欲しいと思う。




8 自由主義とは何か 



 さて、政府の仕事とは何だろうか。それは、放っておけば放埓な「自由」のはびこる社会に、「正義による秩序」を与えることである。言葉を変えれば、弱肉強食の世界に法的な規制を加えて人間らしい生活秩序を与えることである。放任状態での「自由」とは、「力ある者にとっての自由」でしかない。そこに「道義に基づく規律ある自由」を打ち立てるのが政府の役目だと言ってよい。


 昔の西部劇でよくあったシチュエーションだが、まだ法の支配が及ばない西部の町では、地方ボスがその町を支配するという状況が生じる。そこで、町の大多数の合意で保安官を雇うことにして、その保安官によって町に秩序が確立するのである。これが「法の支配」の原型である。こうした状況で、「それは自由への干渉だ」と言う批判が成り立つだろうか。


 最近は露骨な欲望肯定の発言が幅を利かせており、「正義」という言葉は偽善扱いであまり評判が良くないが、社会的な意味での「正義」とは、「公正」のことである。政府の役目は、社会を公正なものにすることだと言っていい。では、「公正」とは何か。


 よく、「機会の平等」と「結果の平等」という区別が論じられる。社会主義や共産主義は「結果の平等」であり、「悪平等」だ、というのが右側の論者によくある発言だが、そのような発言は、資本主義社会あるいは自由主義社会において本当に「機会の平等」があるかどうかという部分を見てから言うべきだろう。もちろん、機会の平等など存在しないのである。機会の平等を言うなら、あらゆる青年は義務教育を終了した時点で同額の金を与えられ、そこから人生にスタートするべきだろう。その原資となるのは、もちろん、全国民に対する100%の相続税である。死ぬ時点で親が子供に金を残すまでもなく、子供には政府から均等な金が与えられるのだから、遺産はすべて国庫に納入すればよいのである。


 もちろん、そんな政策など永遠に実施されることはないだろう。人間というものは、自分の「稼いだ」金を子孫に残したがるものなのである。つまり、金持ちは永遠に金持ちで、貧乏人は永遠に貧乏人であるというのが、金持ちの理想とする社会なのである。これがつまり「保守主義」という思想を経済的に見た時の実体だ。もちろん、保守主義とは文化的伝統を守ることだ、という考えもあるだろうが、現状を維持するとは、実際には身分と財産の固定化のことなのである。


 そして、本題の「自由主義」だが、自由とは誰にとっての自由なのかが問題だ。貧乏人や下層階級の人間に、どのような自由があるというのか。はたして「やりたいことができる」のは誰なのか。言うまでもなく、権力を持つ者である。かくして、カール・マルクスの名言「自由とは、何よりも権力である」という言葉が妥当するわけだ。それも知らずに、下層階級の連中が、「自由主義」を擁護するという喜劇が行われているのである。その自由は、「君たちの自由」ではないよ、と誰かが言ってあげるべきだろう。


 つまり、自由は確かに理想ではあるが、「(経済的)自由主義」とは実は、強者(富者)のための自由を法的・政治的に保障させるための口実なのである。言い換えれば、「俺たちがどんな悪事をやっても、政府はそれに対して口を出すな」というのが経済的自由主義の意味だ。皆さんは、そういう意味の自由をお望みだろうか?


 「では、お前は、自由の束縛を望むのか?」とお尋ねになる向きもあるだろう。その通り、私は束縛を望む。ただし、それは私への束縛ではなく、「経済的犯罪者」への束縛なのである。つまりは、自由の束縛の中にしか、社会正義は存在しないと私は考えているわけだ。法律にせよ道徳にせよ、束縛以外の何だろうか。束縛を拒否する人間とは、つまりあらゆる法律と道徳を自分に適用することの拒否を主張しているのである。もちろん、だいたいの「自由主義者」は、そこまでも考えず、ただ幼児的な欲望のままに自由をくれ、自由をくれと叫んでいるだけなのだが。


 もちろん、ここでは経済論としての自由を論じているのであり、たとえば冤罪で投獄された人間や独裁国家で自由の束縛に苦しむ人々の場合は、話がまったく別である。


 要するに、「経済的自由主義」とは資本家や大実業家が、自らの犯罪的収奪の隠れ蓑としている思想だという、私にとっては常識にすぎないことを改めて主張しているだけである。



9 国富とは何か。



 ある中国の古典の中に、「政府がいくら金があっても、国民が貧しいなら、それは豊かな国ではない」という趣旨の言葉があったが、私がここまで論じてきたのも、結局はそれに近いことだ。ただし、それに加えて、「国民のわずかな一部だけがいくら金を持っていても、国民が全体として貧しいなら、それは豊かな国ではない」という言葉も入れよう。


 たとえばアメリカは世界一の貧乏国とは言えないまでも、相当な貧乏国なのである。かつてのアメリカの繁栄を知る者は、なぜアメリカが今のような状態になったのか、信じられない思いがするだろう。だが、1960年代の繁栄の前に、1930年代の大不況と貧困の時代がアメリカにもあったのである。その大不況の反省から、アメリカは投資銀行と貯蓄銀行の分離を行い、金持ちのマネーゲームが庶民生活に影響を及ぼさないようにした。その結果、金持ちは他の金持ちから奪う以外に資産を増やす手段がなくなり、金融が庶民生活を破壊することはなくなったのである。そして、高い累進課税と高い労働分配率によって、庶民の資産はどんどん上昇した。これが1960年代までのアメリカの繁栄の原因である。だが、レーガン以降の(民主党大統領も含め)ほぼ全大統領による金持ち優遇政策により、労働分配率はどんどん低下し、庶民の税金は上昇し、その一方で金持ちの資産は数倍に膨れ上がった。これが現在のアメリカの貧困の姿である。


 要するに、国富の総量は決まっているのである。したがって、政治と経済の課題は、その分配をいかにすれば、国民が全体として幸福になるかということなのである。これはべつに共産主義の勧めではない。ほとんどの企業人は強欲という病に犯されている。それが政府や法律まで味方につけたなら、国民の大半が貧困のどん底に陥るのは当然だということなのである。


 幸いなことに、世の中には金持ちより貧乏人が圧倒的に多い。これは何を意味するかと言えば、彼らが選挙での投票の権利を正しく使えば、今の状態を変えることは簡単にできるということなのである。口先だけではなく、実効性のある庶民のための政策を主張する政治家に投票することで、今の状態は変えられるのだ。


 そういう、投票の威力を前回の衆議院選挙で国民はやっと分かったはずだ。後は、現在の世の中の不合理や不平等、不公平がどこに起因しているかについての理解を国民一人一人がすることである。


 この一文も、そのための一助になれば幸いだ。


                            2010年1月9日


14. 偽装皇帝[63] i1WRlY1jkuk 2025年9月17日 11:37:03 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[63] 報告
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私の旧ブログ(現在は書き込み不可能だが読むのは可能)所載の「高校生のための『現代世界』」の一節である。
政治の基礎知識の不十分な人に一読をお勧めする。

(以下引用)

 まず、経済学上の自由主義とは、あらゆる経済活動に対する政府の干渉を極力排除し、自由な経済活動を行なおうというものです。アダム・スミスなどの「(神の)見えざる手」によって経済活動は自然に適切化されるという考えは、自由主義的経済学の思想です。これは、君主政治による政府の国民生活への干渉を念頭に置いて考えられており、その当時は正しかったが、時代的限界を持った考え方で、古典派経済学と言われます。
 これに対して、社会主義とは、一般的には、「資本主義を批判し、生産手段の社会的所有に基づいて平等な社会の実現を目指す思想」とされていますが、むしろ、政府が市場経済に介入し、コントロールすることを社会主義と見なすべきだと私は考えています。つまり、全体(社会)の利益を(一部の、あるいは特定の)個人の利益に優先させる思想です。これは、だいたいにおいて金持ちから貧乏人へ所得を移転する政策となりますから、経済界や金持ちからは嫌われますし、一般国民にとっても「自由の拘束」のように思われて不人気です。しかし、あらゆる福祉主義的国家活動は、社会主義的なのです。ケインズの公共事業による不況脱出なども、一種の社会主義です。アメリカで民主党が金持ち階級に嫌われるのは、民主党の福祉中心の政策が社会主義的だからです。大きな意味では、「世界がぜんたい幸せにならないうちは、個人の幸せは無い」という宮沢賢治の思想に代表されるのが、この思想なのです。
 社会主義の本質は、全体の福祉の向上にある、というのが大事なところです。しかし、これは理想にしかすぎず、ソ連の崩壊に見られるように、経済思想としての社会主義は、その非効率性のために自由主義経済に敗北しました。なぜなら、国家による計画経済を中心とする社会主義には、人間を労働に駆り立てるインセンティブ(動機)が欠けているからです。自分が働いた分だけ自分の生活水準が向上するという動機が無いと、人間は働くものではありません。そして、労働の結果の平等な分配は、これに反するものです。かつての社会主義国家の中国などは、今では所得の不平等を公認し、国民の労働意欲を高めようとしています。そのため、貧富の差の激しい「資本主義社会」に変わっていますが、国民にとってどちらが幸福か、今後を見守るべきでしょう。
 資本主義とは、政治的思想でもある自由主義を、より経済的側面で表現した言葉だと言えるでしょう。「資本家(要するに、金持ち)が、労働者を雇って商品を生産させ、その利益を得ることを経済の基本とすること」が資本主義です。その意味では確かに先の「生産手段の国有化」を基本とする社会主義と対立するのは資本主義だと言えるでしょう。しかし、資本(家)の存在とは、要するに、私有財産の肯定であり、私有財産の否定を本質とする共産主義こそが資本主義には対比されるべきでしょう。
 共産主義と社会主義の違いは簡単です。社会主義は「生産手段の国有」までで平等を実現しようとするのに対し、共産主義は、さらに過激に「私有財産の否定」までを主張するものです。これが、あらゆる資本家、金持ち、権力者にとってどんなに恐ろしい思想かは想像がつきます。だから、常に共産主義は弾圧され、社会秩序の破壊者として迫害されてきました。しばしば、共産主義者は、犯罪者として扱われてきたのです。それを表すのが、「アカ」というレッテル貼りによる差別と迫害です。
 実際には、共産主義は空想的であり、実現不可能な思想であるというだけのことであり、それを危険思想視するのは、現在の世の中から利益(甘い汁)を得ている人々だけで十分なはずですが、反共プロパガンダ(宣伝)の偉大な力は、あらゆる資本主義国家で、庶民や貧民に至るまで根強いアンチ共産主義体質を作り上げています。
 共産主義がなぜ空想的思想であるかというと、要するに、人間は完全な平等など実現できるはずがないということです。働こうが働くまいが平等に報酬が与えられるなら、あなたはそれでも真面目に働きますか? 芸術やスポーツに優れた才能を持っていても、その報酬が努力もしない他の人間と同じ僅かなものなら、その才能を伸ばすためにあなたは苦労をしますか? いったい、種類や性質の異なる労働に対して、平等な報酬はありえるでしょうか? 誰がそれを判断するのでしょうか?
 共産主義は、そうした人間の本質的欲望、人間性の真実を無視した思想であるために、実現不可能な思想だと私は言っているわけです。しかし、資本主義社会における非人間的な搾取や過度な競争、不当な利得、極端な経済的不平等がいいはずはありません。
 おそらく、この問題の解決は、昔からの智恵である「中庸」にあるのでしょう。つまり、財産や利得に上限を設けた、制限つきの資本主義、自由主義と社会主義の混合が、その答えです。そのいい例が、前の章に書いた、経済発展と福祉政策が程よく結びついた高度成長期の日本なのです。

15. 偽装皇帝[82] i1WRlY1jkuk 2025年9月26日 16:55:44 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[82] 報告
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コメント13への補足として「酔生夢人ブログ」所載の「鳥尾子爵論文」を転載する。原文は強調点で赤字や青字が使ってあるが、この欄ではそれは不可能なので、元記事を参照していただけたら幸いである。

(以下引用)

鳥尾子爵論文という、驚異的慧眼の文章

目覚めの床で、寝床の傍らの本棚からたまたま手に取った「小泉八雲集」を読んでいると、その中に素晴らしい一節を見つけたので、その一節の(全体の転記が面倒なので)さらに一部を転記することにする。全日本人に読んでほしい文章だ。その文章は、八雲が「日本人の微笑」という小論の中に引用している鳥尾子爵(鳥尾小弥太)の論文の一節である。(この「日本人の微笑」そのものが素晴らしく面白いものなので、一読をお勧めする。私の持っているものは上田和夫訳の新潮文庫のものである。この中にはほかにも魅力的な作品がたくさんある。)鳥尾子爵のこの小論が書かれたのは1890年らしい。実に、その慧眼に驚く。その後の西洋や日本の闘争主義や資本主義的堕落を完全に予測している。

(以下引用)論理が引用(文章抜粋)のため不明確になった部分だけ私が少し変えた。引用冒頭の一文の最初にあった「皮相な見地からすると」を、それが意味上修飾する言葉の前に持ってきた。また、適宜段落分けをした。


西洋流の社会形態は、古くより人間の欲望を自由に発達させた結果、華美と浪費をきわめ、皮相な見地からするとはなはだ魅力的である。要するに、西洋で一般に行われている物事の状態は、人間の利己心の自由な活動にもとづいているから、そうした特質をじゅうぶんに発揮することによって、はじめて到達されるのである。社会的混乱など、西洋ではほとんど注意も引かない。が、そうした混乱こそ、そのまま現在の悪しき社会状態の証明であり、またその要因でもあろう。……西洋かぶれの日本人は母国の歴史を、西洋流に書くつもりでいるのか。彼らは、本気で自分の国を、西洋文明の新しい実験の場にしたいと考えているのであろうか。……
 東洋では、古来、一国の政治は慈悲心にもとづき、国民の権利と幸福の確保に向けられていた。どのような政治的信条も、弱者や無知な人間を搾取するために知力を磨くべきであると考えたものはかつてなかった。……(中略)
 人間社会にあって、その存在を労働に負うていないものはありえない。ところが、一人の贅沢な人間の欲望を満足させるためには、千人の労苦を必要としているのである。労働によって、彼らの文明から快楽を提供されている連中が、労働者のおかげであることを忘れて、あたかも彼らを、同じ人間でないかのように扱っているのは、まことに奇怪といわねばならない。しかし、西洋流の解釈にしたがえば、文明は、大きな欲望をもつ人たちを満足させるためのものにすぎない。大衆にとってなんの利益もなく、ただ野心家たちが、その目的を果たすために競う制度にすぎない。……
 西洋流の制度が、一国の秩序や平和を途方もなく乱しつつあることは、目のある人には見え、耳のある人はこれを聞いている。そうした制度の下における日本の将来は、まことに憂慮すべきものがある。
 倫理も宗教も人間の野望に奉仕するように作られた原理に立脚した制度は、当然、利己的な個人の欲求と一致する。自由や平等という近代的な公式に具現された理論は、すでに確立している社会的諸関係を壊滅させ、礼儀作法を無視する。……絶対の平等、絶対の自由など得られるはずもないから、権利・義務によって規定された制限がいろいろ置かれることになっている。しかし、だれもが、多くの権利をもとめて、義務はできるだけ少なく負おうとするから、結果は、果てしない論争と法的な争いに終始する。自由と平等の原理は、国家の組織を変え、社会階層の正当な区分をくつがえし、あらゆる人びとを一つの名目だけの水準に引き下げることに成功するかもしれない。しかし、冨と資産の平等な分配は決して達成できない。アメリカを見よ。……もしも、相互の人権や身分が、財産の程度に応じてあたえられるなら、国民の大多数は、財産などあるはずもないから、権利を確立することができない。これに対し、資力のある少数者は、みずからの権利を主張し、社会の承認のもとに、人間愛と慈悲の命ずるところを無視して、貧者に圧倒的な義務を強要するであろう。こうした自由と平等の原理を日本で採用するならば、わが国の良風美俗はたちどころに損なわれ、国民の気風を冷酷無情なものとし、ついには一般庶民に災厄をもたらす要因となるだろう。(夢人注:青字は夢人による強調。これが当時もそうだったが現在はそれ以上に激烈になったアメリカ資本主義、あるいは新自由主義の姿であり、そして日本で現在進行中の状況であることは言うまでもないだろう。)
 一見したところ、西洋文明は、利己的な欲望を満足させるのに適しているから、いかにも魅力的に見えるが、しかし、人間の欲望が自然の法則をつくるという仮説を基にしている以上、究極するところそれは、失望と堕落に終るにちがいない。……西洋諸国は、最も深刻な闘争と幾多の消長をへて、今日の有様となった。だから、闘争を続けるのが彼らの運命なのである。今のところ、動機となる要素はいくらか平衡を保ち、社会状態もだいたい安定している。しかし、こうしたわずかの平衡も、かりに乱されることがあれば、新たな闘争と苦難の一時期をへてふたたびつかの間の安定が得られるまで、またもや混乱と変化の淵に投げ込まれるであろう。今日の貧しい無力な人びとは、将来の富裕な強者になるかもしれず、その逆もまた同様である。永遠につづく混乱こそが、彼らの宿命なのである。平和な平等は、滅亡した西洋諸国の廃墟と、絶滅した西洋人の死灰のなかに打ち立てられるまでは、決して達成されまい。(夢人注:赤字は夢人による強調)


 

16. 偽装皇帝[91] i1WRlY1jkuk 2025年9月29日 03:50:36 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[91] 報告
<▽42行くらい>

「蚊居肢」の新しい記事が、かなり重要な「常識」の問題を扱っているので、その一部を転載する。それは「愛国主義(パトリオティズム)」と「国粋主義(ナショナリズム)」の違いであり、この両者が実に混同されがちで、その混同や混乱が政治的に利用されがちである(高市や参政党などがその例だろう)ことに気づいていないか軽視している人が(政治的玄人の中にも)あまりにも多い。
プーチンの「ナショナリズムはナチズムへの第一段階である」という言葉はすべての人が心に銘記すべきだろう。

真の愛国者(パトリオット)は自国の政府やその背後組織の不正には批判し攻撃し、改正と改革を求めるのである。それを「左翼、パヨク」と呼ばわる連中こそがナチズムの精神的継承者であるのは自明だろう。
彼らは「国民であることの利権を異民族や異人種に侵害されること」に不快感を持ち、自分の成果でもない人種的優越感に寄生しているだけである。(とは言っても、私も国家破壊的で無思慮な「移民推進政策」には批判的である。)

(以下引用)


◼️プーチン、於「教育マラソン「知識。最初のもの」」2025年4月30日

ナショナリズムはナチズムへの第一段階であり、最初の一歩です。なぜなら、ナショナリズムは単に自らの民族の代表者への愛だけでなく、他者への憎悪に基づいているからです。それがナショナリズムの本質です。パトリオティズムは全く別の問題です。祖国を愛することは、他者を憎むことではない。

Nationalism is the first stage towards Nazism, it is the first step. Because nationalism is based not simply on love for representatives of one's own ethnic group, but on hatred for others. That is the essence of nationalism. Patriotism is a completely different matter. Loving one's homeland does not mean hating others," Putin said at a meeting with participants of the educational marathon "Knowledge.

ーーApril 30 by Russian President Vladimir Putin at a meeting with participants of the educational marathon "Knowledge. The first ones."

なお米国のような移民国家、ロシアのような多民族国家におけるパトリオティズムと、日本のような単一民族幻想を抱えた国におけるパトリオティズムは異なる。日本の場合のパトリオティズムはおそらくナショナリズムにいっそう容易に侵食される。

パトリオティズムとは、幼少期より自然に形成された具体的な郷土への愛着のことである。これに対して、ナショナリズムとは、全ての人民による、抽象的な政治的共同体すなわち国家への一体的な忠誠心のことである。両者の関係は複雑である。なぜなら、後者のために前者は郷党根性などとして否定されうるが、同時に、空疎となるおそれのある後者の補完として前者は利用されうるからである。(橋川文三『ナショナリズム その神話と論理』1968年)

17. 偽装皇帝[93] i1WRlY1jkuk 2025年9月29日 04:45:15 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[93] 報告
<■53行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>

これも「常識」の話かと思うので、「儒教とはどういうものか」についての私自身のブログ(酔生夢人ブログ)の過去記事を転載する。なお、記事中の「墨子」は私が東洋思想家の中でもっとも好きな哲学者である。(実践者でもあったようだ。)

(以下引用)

東海アマ氏の「儒教批判」への疑問

「東海アマブログ」記事の一部だが、アマ氏ははたして「論語」を読んだ上で、下のような発言を繰り返しているのだろうか。
いや、私自身、昔は漢文などを子供に教えたりしたが、論語をきちんと読んだことはない。だが、学校教科書程度の浅薄な知識の私から見ても、アマ氏の発言はどうも、非常に怪しいもののように感じるのである。
確かに、孔子は「礼」を重んじ、礼の根本は長上、つまり地位の高い人や年長者を尊敬することなのだが、それは、そうしないと社会が無秩序になるのが論理の基本にあるからだ。
だが、「礼」と同時に、孔子は「仁」を非常に重視したのであり、それは基本的に弱者や社会下層の人々への思いやりである。つまり、社会下層の人は上層に礼をもって接し、上層の人は下層に対し仁慈の心で接する。それで社会秩序が保たれる、という構造である。
それでは社会の変革が起こらず、社会は永遠に上層と下層が乖離したままだ、というのが孔子より後の時代の思想家たちの考えで、彼らの中には「革命」を正義とした者もいる。いわゆる易姓革命である。徳を失った王朝は倒されてよい、むしろそうすべきだ、というわけだ。だから中国では頻繁に王朝が交替する。しかも、その度に前の王朝の関係者は族滅させられるわけだ。
はたして、それが好ましいのかどうか、私は疑問に思っている。
いずれにせよ、儒教は孔子の教えとその後の儒教思想家(孟子や荀子など、あるいははるか後代の朱子など)ではそれぞれに違いがあり、それらをひっくるめて「儒教思想」だとするのは無理があるわけだ。少なくとも、孔子が言っていないことまで「儒教思想だ」として孔子を罵るのは孔子には迷惑なことだろう。
私の考えでは、原始的社会において社会秩序を作る上では儒教の「礼と仁」というのは非常に合理的かつ穏健な思考装置で、だからこそあれほど長期にわたって中国やその周辺国家(日本含む)で受け入れられたのだと思っている。それを(たとえば)「民主主義」ではないから、邪悪な思想だ、と言うのは、キチガイ沙汰だと思うわけである。
ちなみに、日本国憲法9条は、孔子より少し後の人だと思うが、墨子の思想にそっくりである。物事は新しいか古いかで価値が決まるとは限らない。

(以下引用)

 戦後自民党は、戦前の「日本を優秀な国にする」という排他的価値観を延々と共有してきた。というより、日本人全体が、皇族を頂点とし、犯罪者・部落民を底辺とする序列主義の価値観に洗脳されきってきたというべきだろう。
 今行われている総裁選で、高市早苗が「日本を世界のてっぺんにする」と主張したのも、「優秀なものだけに価値がある」という優生保護思想の延長なのである。
 https://www.youtube.com/watch?v=jHkDcBY2ozA

 戦後日本人を強烈なストレスの泥沼に投げ入れ、たくさんの自殺者を出した学歴社会を作り出してきた価値観の正体も、人間に序列をつけて、「優れたものを目指す」という優生思想が生み出しているものだ。

 これは、元々、2500年前、春秋時代に孔子が産み出した儒教思想の影響によるものだ。
 儒教は、「支配者や長老を無条件に敬え」という序列最優先の価値観だったので、ほとんどの権力者が国家思想として採用したのだ。
 日本でも、家康が朱子学として採用し、全国の藩校や寺子屋で強要した。その影響は未だになくなっていない。

18. 偽装皇帝[97] i1WRlY1jkuk 2025年9月29日 12:27:23 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[97] 報告
<△24行くらい>
マッドサイエンティスト井口博士のブログの一節だが、科学における「常識」も、ある日突然、それまでの常識が間違いだったとなるのである。
私などは自分のブログで「進化論」「ビッグバン説」などは間違い、あるいは信頼できない説だと書いてきたが、現代科学は既に私の判断が正しかったことを認めつつあるようだ。さらに、私は「相対性理論」も怪しいし、「光を超える速さはない」という説も怪しいと書いてきた。さらに「量子コンピューター」などは不可能、あるいはナンセンスであり、もともと量子説も怪しいとも書いてきた。
そのあたりは「徽宗皇帝のブログ」や「酔生夢人ブログ」あるいは「アンファニズム」という娯楽ブログに載せてある。(ほかにもふたつブログがあったが、今では見ることができなくされている。)

(以下引用)

また10数年前までニコラ・テスラはマッドサイエンティストの代表だった。

キチガイ科学者の定番が雷放電だ。

しかしイーロン・マスクがニコラ・テスラを英雄視するようになり、人々の認識が逆転した。

いまやニコラ・テスラはトーマス・エジソンより格上の発明の大天才ということになった。

それゆえマスクは自社名にテスラを採用した。

これまたNHKはいまだ謝罪なし。


こういった例からも分かるように、新しい事実が蓄積するとそれまでの思想が逆転することは頻繁に起こるのだ。

ならば科学分野とて当然同じことが起こる。

20世紀の超天才アインシュタインが地に落ちることもあり得るのだ。

あるいは量子力学さえ危ない。

いまやロジャー・ペンローズさえ、量子力学は間違っていると言う始末だ。


果たして来るべき物理学や生物学はどういうものになるのか?

19. 偽装皇帝[109] i1WRlY1jkuk 2025年10月02日 06:17:17 : 26yoYpJi4o : NlFmV2daQmlPZlE=[109] 報告
<■73行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>

「常識」の話になると、書きたいことがたくさん出てくるのでコメント欄独占状態になって申し訳ない。まあ、高校生くらいの人で(老人でもいいが)、世界や社会について考えてみたいという人が最初に陥るのが、学校教育で教えられたことや新聞・マスコミで作られた「常識の嘘」という罠だから、常識についてはいくらでも書きたいことはある。

今回の内容はGDPという詐欺的指標のことである。

(以下「in deep」最新の、GDPについての記事の抜粋である。)

今日は政治的な話は書かない。ただ、私が記憶している限り、 歴代大統領の政権は皆、 米国の国内総生産(GDP)こそが経済全体の健全性を評価する上で最も重要な指標だと主張してきた。

つまり、GDP が高ければ高いほど、ホワイトハウスは経済状況が良いと評価する。もちろん、これは彼ら自身の政策と決定のおかげだ。

でも、それは本当だろうか? 今日は GDP の概念について探り、この数字があなたにとってどれほど重要か、ご自身で判断していただければと思う。

GDPの数字には何が含まれているのだろうか?

GDP は経済活動の指標だ。米国内で消費されたすべてのドルを合計することで算出される(より専門的な GDP の定義はこちらにあるが、正直なところ、定義のすべてを知る必要はない)。

GDP を計算する式は次のとおりだ。

(消費者支出)+(政府支出)+(投資支出)+(輸出-輸入)= GDP

内訳は次のとおりとなっている(2024年の政府の数字)。

・68%:消費者支出 先ほども述べたように、消費者支出が最大の構成要素だ。ヘアカットから住宅、ハワイ旅行まで、お金を使うものすべてが GDP を押し上げる。

・18%:国内投資 国内投資とは、建設、機械購入などの資本投資、企業在庫(例えば、ディーラーの駐車場にある売れ残りの車など)などを含む事業分野だ。 これは、経済全体の生産性を高めるという観点から、全体として最も重要な分野だ。

・17%:政府支出 政府支出も重要な要素だ。インフラ、防衛、そして連邦政府職員と請負業者の給与への政府支出だ。

・-3%:輸出-輸入 米国の輸入が輸出を上回っ ているため、商品とサービスの純輸出はマイナスとなっている。

これを見ると、まず、「消費」が圧倒的に多いカテゴリーであることがわかる 。

これは厄介な問題だ。なぜなら、 ほとんどの消費は経済的に生産的ではないからだ。 必要ではあるが(例えば食料や燃料)、生産的ではない。

国内投資には、新工場の建設、既存の組立ラインの設置または近代化などが含まれる。 これは、将来の経済成長にとって最も重要な分野だ。

しかし、GDP の計算で最も心配なのは、 債務の相殺がまったく行われていないことだ! まったくだ!

新築住宅や連邦政府による新たな建設計画など、借金による購入は GDP を押し上げる。発生した借金を返済しても、 GDP は減らない。 いつ返済しても変わらない。

言い換えれば、 GDP は買い物にいくら使ったかだけを示し 、その後のクレジットカードの請求書は無視するのだ。

GDP が実際に何を意味するのかがわかったので 、最新の GDP レポートをもう一度見てみよう。

現在の GDP 統計が本当に示していること

最新の統計によると、GDP は成長している。ロイター通信によると、

「米国経済は第2四半期に予想を上回る成長を遂げた」とのことだ。GDPは年率換算で 3.8%成長した。

何が変わったのだろうか? まあ、輸入は約 9%減少したが、輸出は約 1%と、それよりかなり少ない減少だった。

言い換えれば、全体として私たちは海外で買い物をし、 販売を控えたため、 結果的に GDP にとってはプラスとなるのだ。

これは私にとって驚くほど逆効果に思える…どうすれば、ビジネスを減らすことが勝利につながるのだろうか?

例えば、あなたが自動車販売店を経営していると想像してみてほしい。工場から 5,000台の車を仕入れたが、実際に売れたのは 4,500台だけだったとする。

・これは、あなたにとって、売れ残った車は頭痛の種であり、需要の危険信号だ

・しかし、GDP 統計学者にとって、それらは「生産」の兆候なので、成長としてカウントされる。

これは一体どういう意味を持つのだろうか?

混乱するかもしれないが、GDP レポートと経済に関する個人的な経験の違いを理解するのに役立つ。

この GDP サプライズはアメリカの家庭にとってどのように映るのだろうか?

しかし、GDP だけでは分からないのは、GDP の上昇が平均的な家庭にどのような影響を与えているかということだ。 労働統計局(BLS)によると、牛ひき肉の価格は 過去 5年間で約 65%上昇した。

電気などのその他の必需品は、 2020年以降わずか 36%しか上昇していない。

驚くべきことに、生活費が上昇すると GDP も上昇するのだ! そう。生活費の上昇は「経済活動の活発化」を意味し、多くの場合、 景気の好調と解釈される。

食料品店での買い物に 2020年よりも 25%も費用がかかると、より裕福になった気分になるだろうか?

現実はこうだ。GDP の上昇と繁栄にはほとんど相関関係がない。生活費の実世界の変動を見れば、私たちは 5年前と比べて決して 豊かになっていないことがわかる。

(その期間に GDP がどれだけ増加したかに関係なく)

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