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原発事故避難者mikoさんの証言 福島に居ながら子供達を守る事は出来ない 感覚を信じて行動していい
http://www.asyura2.com/13/genpatu34/msg/587.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2013 年 11 月 08 日 08:01:28: KqrEdYmDwf7cM
 

(回答先: フクシマ関連ドキュメンタリーがグアム国際映画祭でグランプリを受賞 日本では来春公開予定 福島の子どもたちの放射線による 投稿者 てんさい(い) 日時 2013 年 11 月 07 日 21:38:40)

https://twitter.com/cmk2wl/status/398495684376006657
【拡散希望です】福島避難者の証言映像UPしました、是非ご覧ください。311から二年半、一体どんなことが起きているのか、ありのままの証言です。英語字幕付き

http://youtu.be/TlWslcjHlPo
公開日: 2013/10/30


原発事故後、2人の子供を連れ福島県から北九州市へ
避難した塚本神子(Miko Tsukamoto)さんに、
311当時のこと、さらにはそれ以降2年半余りを経過した
現在(2013年10月)に至る迄、福島を離れ遠く九州で
避難生活を送る中、体験した様々な事、突きつけられた事実を
ありのまま簡潔に、証言していただきました。


テレビ、新聞等一般のメディアが決して触れない''現実''
無視され隠蔽され続ける、信じがたい事実。
話しにくいこと、プライベートなことも、敢えてお話戴きました。


今、彼女のような避難者に起きていることは
じつは日本人全てに起きていることなのではないかと思います。


また避難者の方々のありのままの証言は、
311その後の真実を導き出す道標であるとも思います。


偽りのない情報を通じ、おのおのが知り、依存を捨て、
偽旗に誤魔化されずにそれぞれが自立思考し行動するための
ひとつの手掛かりになればと願います。


今回、協力者の方に英訳をして頂き、映像に英語字幕を
付けましたので是非外国人の方へも映像をご紹介下さい。


・・・尚、こちらの証言は今年6月に糸島で行われた、
避難者お話会で話されたものと同じ内容です。
北九のこどもを守るネットワークブログに全文記事が
ありますので、あわせてご覧ください。
★日本語→http://ameblo.jp/kitakyu-mamoru/entry-11559344816.html
★In English→http://ameblo.jp/kitakyu-mamoru/entry-11615553186.html


≪関連証言≫※福島(伊達)から北九州への避難者kaoriさんのお話※
http://ameblo.jp/kitakyu-mamoru/entry-11615566572.html


●関連映像●2013年6月・糸島にて行われた避難者お話会の記録
@http://youtu.be/fGjtI6yXo10

Ahttp://youtu.be/nQwdVJS40Rg

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・­・・・・・
〜From miko〜
You have my consent to translate [my story] into English.
I try to limit myself to describing what I personally saw,
experienced, or what I talked about with another person.
So it's rather low-keyed.
Honestly, I can go on forever about the kind of
health issues that require medical treatment.
For example, the cousin of my acquaintance had a baby
several months after the earthquake
-- this baby was born with a hole in the heart.
Or that an acquaintance, my sister and her husband,
and another relative were all diagnosed with cancer
and had to undergo surgery.
And there were nearly 20 cases of "Nii-bon" last year.
(*The first summer "Bon" service held after death.)
There are similar episodes to share,
but I omit them on purpose -- or else people will treat me
like I've been 'mentally affected' by radiation.
I can't talk about them even if I wanted to.
That's the tragedy of Fukushima.


Miko Tsukamoto
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・­・・・


grassroots NET九州 @k
2013年9月 北九州市にて撮影


糸島お話会 kaoriさんの話を手記にしました。
http://ameblo.jp/kitakyu-mamoru/entry-11615566572.html


2013-09-17 09:52:10
テーマ:フクシマを知る
以前紹介したkaoriさんのお話を書き起こしではなく、手記にして頂きました。


http://youtu.be/fGjtI6yXo10


http://youtu.be/nQwdVJS40Rg
----------------------------------------------------------------------------------------------


3・11のちょうどその時は一番下の息子と福島市のドラッグストアで買い物をしていました。
息子を買い物カートに乗せ、レジでお会計の最中に14時46 分になりました。
地面がガチャガチャとゆすぶられるような感じ。地球が壊れる!と思いました。
レジの台の下の50センチ四方の場所に、息子を押し込め、空いたスペースに頭を入れて凌ぎました。お店の入口の一面がガラスが割れたらもう終わりだと、本当に怖かったです。結果割れませんでした。地震の影響でレジの電源が落ち、買い物はできませんでした。一番大きな揺れが収まったので、店員に促され外に出ました。


駐車所に行き車に乗っても大きな余震が何度も来るので、乗ったり降りたりを繰り返して全く走らせる事ができずにいました。携帯で主人に連絡を取ると、一度だけ話ができました。仕事場から少し抜けさせてもらい、小学校に二男と三男を迎えに行くと言ってくれました。
大通りの車の流れには乗れないと思い、裏道を行きました。でも、裏道はブロック塀や瓦が散乱していて帰るのにとても時間がかかりました。お店はほとんど閉まりました。


私の住んでいた伊達市は停電しました。すぐ隣の福島市は、山間部等の電線の被害等のあった地域以外は県庁があるので停電していなかったです。
断水は福島市も伊達市もしました。停電しても、ガスを引いている家庭は料理が出来ました。
私の家はIHだったので、出来なくなりました。
暖房器具はほとんど電気に頼っていたので、電気がないと何もできない家でした。


長男が石油ストーブを借りてきてくれたので暖房器具としてまた、上に鍋やヤカンを乗せて使いました。しばらくは冷凍ご飯を使って雑炊を作ったりしましたが、それがなくなると、米を炊く事ができず、炊飯器にお米をセットして、橋を渡って福島市へ行き、見ず知らずのお宅に伺ってコンセントをお借りしてご飯を炊かせて頂く事もありました。


ご近所の奥さんが「お子さん多くて大変でしょう」って卵やウインナーなんかを下さいました・・感謝でした。


停電の間は、日の出と共に起き、日没と共に寝る生活でした。生まれて初めての体験で
私はこの時、頭の中が静まりかえった感覚になりました。震災前はいつも何かを考え、情報で一杯にしていたと。この話の先は長くなるので今回は省きます。


灯油の残量を思うと、何度も、家にあるバーベキューセットを出してお湯を沸かしたり、料理をしたりしたい衝動にかられました。しませんでしたけどね。
停電も断水も5〜7日くらいだったと思います。とても長く感じました。


原発が爆発したという話を聞いたのは、14 日(月)の午後でした。(爆発は12日)


午前中だけ出勤になった夫が会社でみんなが騒いでいたと話していました。
家にはラジオがなく、今回の事で手巻き式のラジオ兼懐中電灯を買いました。
主人の仕事も長男も仕事も15日からありましたし、ガソリンもわずかでした。
コンビニもスーパーもいつ開くのかわからない状況でした。
いろんな情報が流れて不安になりましたが、この時は自分自身に放射能の知識がなく、こんな時に家族がバラバラになる事が私は怖くて、主人には「春休みの間だけでも実家に帰るか?」と聞かれましたが、「行けない」と思いました。


原発が爆発したと聞いても、どのくらいの危険さなのか、避難しなくていいのか?
そういう知識が全くありませんでした。ただ、「ここは60 キロくらい離れているから大丈夫じゃないか・・」というような会話を夫婦でしました。


ガソリンの供給がままならない状況の中、いつどこでお店が営業するか判らない状態でしたから、夫には自転車で営業している探しに行ってもらいました。
停電が解除され、携帯やPC が使えるようになると別々のお友達から同じ内容のチェーンメール?が届きました。3 月22 日くらいです。


内容は↓


「知り合いの看護師さんが送ってくれました・・。県立医大の放射線科の医師、宮崎先生からのメールです。貴重で重要な情報と思い、皆さんにも転送します。


宮崎先生から・・


この一週間は大学で生活していたようなもんです。最長は災害による患者さんの対応に始まり、後半は放射能との戦いでした。特に極めて少ない放射能が子供に与える影響をどう判断するか、について。(現状のレベルでは大人には何も影響しません。飲料水も含めて。水曜日〜金曜日まで、沢山の人が頭を振りしぼって考えた現時点での結論は、少なくとも福島県中通りでは「逃げなくてもいい」「ヨード剤の服用も必要ない」です。これは私個人の意見ではなくて、福島医大や長崎大のスタッフ全体の総意です。まだ、公にはなっていませんが。ただ、爆発や新たな放射能漏れがあれば話は別ですから、注意は必要です。爆発した場合は家の中に居る事で劇的に放射能を下げる事ができます。その時には、またアドバイスできる時間はあるともうので・・。(爆発の可能性は限りなく低い、とも考えられていますが)また、子供については、長期間国による健康フォローが必要と考えています。(すでに働きかけが始まっています)今はむしろ、希望を持って仕事をしていますよ。なんせ、子供達を守るための仕事をしていますからね。すべての事故が収まったのに20 年後には子供がいなかった、なんてのは願い下げです。このメールは、必要であれば各所に転送してもらって・・というより転送お願いします。


以上」


というものでした。これを読んで、私は更に「避難はしない」という思いが強まりました。
PCも使えるようになったので、もっと情報を集められたのですが、読んでいると怖くて見ていられなくなっていました。


「大丈夫と思いたい」「家族バラバラは嫌」「行政を信じたい」
そんな心境でした。今思うと、大変な思い違い、依存的だったなと思います。


幼稚園は自由登園から春休み、小学校は休校からそのまま春休みになりました。
3 月末に那須塩原まで新幹線が通ったと聞いて、実家へ行き、3泊ほどしました。


両親と話しましたが、両親も「避難区域でもないし、本当に危ないのなら、国からお達しがあるはず。50 キロ以上も離れているから大丈夫だと思う」という見解でした。


私も転校を少しだけ考えてみましたが、4 月3 日から始業式との連絡があり、福島に返りました。4 月は小学校も幼稚園も行かせました。
マスクをさせ、登下校時以外は、ほとんど外に出ない、出さない生活をさせました。とても不自然だと思いました。でも怖いので仕方なかったです。


テレビのテロップでは毎日放射線量が出ていました。震災直後で福島市は21(μ㏜)くらいだったと記憶しています。伊達市はそれより低かったです。生活圏が福島市だったので、福島市ばかり見ていました。


4 月に入ると積算値を考えるようになりました。この時も毎朝テレビでは原発事故の事が話題になっていました。


見るたびに不安が増しました。
少しでも被ばく量を増やしたくないと思い、いろいろな情報を探しました。


その時はまだ借り上げ住宅の措置がされていない時期でおおくの場所でそれまでの避難所がありました。私達のような避難区域ではない者も受け入れてくれる場所を探しました。
私は幼稚園のママ友と新潟の湯沢町で、あるNPOにお世話になり、宿泊施設に滞在しました。新潟の方は親切で暖かく接して下さって、今でも感謝しています。
その時は子供達の様子かおかしくなり、本当は7 月の夏休みまで居られたらと思っていましたが結局は5 月の一カ月だけ新潟に滞在した形になりました。


6 月に福島に戻ると、私もですが、子供達の体調に異変がありました。


元々二男は喘息持ちでした。3 男も軽い気管支炎にはなった事はありましたが、3 人共喘息と診断されるような症状で、6 月の一カ月は週に2〜3 回は通院していました。私は咳が止まらず、一緒に通院しました。新潟と福島の気候の違いもありますし、6 月は梅雨で喘息はでやすい時期です。なので、放射能のせいとはいいきれませんが、この状況はとても怖かったです。


家の放射線の数値は家の中で0.2〜0.3(μ㏜)二階のベランダで0.7(μ㏜)くらい
玄関の外から門のあたりは0.5〜1(μ㏜)前後という感じで出ていました。ただ、コケや芝生や隅の方の地面はもっと高かった所もあったと記憶しています。こうやって点在しているのに、正確な数字など、測れれるのか?という疑問がいつもありました。


御存知の方も多いと思いますが、モニタリングポストの数字はそこに限った数字というだけで、決して平均というわけではないと思います。1 メートル先はわからないのです。


少なくとも私の周りの友達や知り合いは皆その事を承知していました。
そこだけをきれいにして測ればその時はそうなる。と認識していました。


自治体によって除染方針は違います。
因みに、私の家のある地域は伊達市や福島市の中ではかなり低いと認識されている地域です。伊達市の除染は段階に分かれており、うちは自分達で除染をしてわからない事は専門家に相談しながらやって下さい。という場所です。


福島市は市が全域を除染する事になり、進めていますが線量の高い地域では1(μ㏜)を目指そうと言って除染しています。


それで、私の地域では「家の周りは低い」という認識になってしまうのです。


除染の仕方、土は削り敷地内に置く。屋根は効果がないとわかったのでやらないと。壁やコンクリート部分は高圧洗浄です。


生活の話にもどりますが、結果的に福島に戻ってからは小学校の行事、給食、地域の行事、その度にどうしようと悩みながら選択していました。とても居心地が悪かったです。私は元々、みんなと違う行動をとる事が苦手な人間でしたから。今も少しそうですが・・。


給食は季節の食材が使われます。震災後だからと言って特別な事はないのだなと思いました。秋にはキノコ類のメニューが多く出ていたと思います。お米は震災前は地元産だったのが、会津のお米に変更してくれていました。それが、去年の5 月の連休明けから地元産のお米に戻します。とお手紙がきていました。


私は全部の期間ではありませんが、数か月お弁当を作っていました。給食のメニューとなるべく同じものにしてほしいと先生からはお願いされましたので、頑張りましたが、スーパーでそろえる事が本当に大変でした。宅配で西の食材を手に入れても、メニュー通りになりません。本当にお金がかかりました。そして、学校では子供同士で言い争いになってしまいました。


この子のお母さんは給食は安全と言う。
でもこの子のお母さんは心配だから弁当を持たせる・・。


学校の先生は、できる限りの配慮をしてくれたと思っています。でも、先生方の出来ない事が学校にはあると思います。特に放射能から子供を守るなんて先生に出来ないと思いました。家の子達なんて、登校時にしていたマスクを下校時につけていた事なんてほとんどありませんでした。でも、言いつけもちゃんと守ってなのか、一日中マスクを着けて、体育の時もマスクしながらマラソンしているお子さんも見かけました。私も暑くて苦しいとマスクを外してしまう事は日常的でした。


今は放射能の授業があると福島市の友人から聞きました。


夏には北海道の保養に参加したり、実家に滞在したり、岡山にも行かせていただきました。
特に岡山の保養へ行った時は移住を考えましたが、主人と話すと「家のローン、仕事」となって、もうそれから先は前向きな考えは出ませんでした。


もう、こうやって悩むのは終わりにしたくて「これからは保養と食生活で排泄しながらここで頑張って行こう」と思うようになりました。


元気のない時は「感覚がマヒしてもいいや」と思うような時も多くありました。


主人と言い争いになりたくないとも思っていました。


さて、11 月か12 月に入ってから回覧板で「ゴミ出しに土や木は入れないで下さい。草や枝等は一回のゴミ出しにつき各家庭一袋までにしてください」とありました。


その後、震災後からずっと無かった地域の掃除が再開されました。伸びきった雑草、落ち葉、苔等、共通の道路だけでも沢山のゴミが出ました。


でも次の日の月曜日に収集されるはずのゴミの中の、お掃除で出たゴミだけが収集されませんでした。
夜に班で召集がかかって「収集車の線量計が鳴ってしまったので、途中で収集を止められた」との事でした。


持ち帰って各家庭で家庭ごみに分けて少しずつ出して下さい」との事でした。もちろん、地域の掃除はまた無くなりました。


このあたりから、不安と疑問が私の中にありました。線量は一向に下がらない。


草木をゴミに出して燃やせば放射性物質は永遠と循環するんじゃないかって。


捨ててはいけない切った木を縛って大量に軽トラに積んでいく車も見かけました。


でも、ここで生きるって決めたのに、突き詰めて考えても不安になって、自分が壊れていくのがわかったので、それ以上は考えないようにしていました。


その後の年末から年明けに小学校と未就学児の甲状腺のエコー検査がありました。
ホールボディーカウンターもあり、それはすぐ結果がきて「問題ない」と出て、この分だと、エコー検査も大丈夫じゃないかって、少し安易になっていました。
2 月は幼稚園の近くの小児科で成長フォルモンの血液検査をしてくれると聞いて受けました。お友達のお子さんのほとんどが「問題なし」の結果でしたが、私の子達は要経過観察と言われました。多分アレルギーがあるとかかな、と思っています。


そして、3 月にエコー検査の結果がきました。結果は2 男3 男が「A2」4 男はA1の問題なしでした。子供が喘息がひどい。血液検査が経過観察、甲状腺のエコー検査がのう胞あり。家の子達は確率的に非常にやばいんだと思いました。もう、私の力で福島に居ながら子供達を守る事は出来ないと自分に断言しました。私の頑張りでは到底無理だと。


何とか家族みんなで、この家で元気にくらしていきたいと思っていましたが、諦めました。


主人とは別居になるけど、仕方がない。実家は拝み倒せばなんとか住まわせてもらえるだろう。長男と主人でこの家に住んでもらおう。とにかくここから離れよう。


で、すぐ夫に検査結果をメールして、話があるからって入れました
主人が帰宅してからの話は、ケンカになるどころか、一緒に福島を離れる決断をしてくれました。
その後、引っ越しに向けての準備にとりかかりました。いろんな人のおかげでここにこうしています。


近所の方々には「転勤で引っ越しします」と挨拶しました。皆、放射能から離れたいという思いからの行動だと理解しているようでした。でもその先の深い話はしませんでした。
住んでいるときの心境は「放射能の話をした所で、この先もずっとここで暮さなきゃならないのに、気分が落ち込むだけだ」って思うのです。誰かと話してスッキリするのは初めだけだったように思います。


放射性物質が無くなるまでに何十年、それ以上の期間がかかるものに囲まれて「今、耐えれば希望がある」なんて誰も思いませんよね。


私は福島に住んでいる時は避難できないと思っていたので、福島で、必死に家族をまもろうと生活している時に、ネット等で避難しない人に対しての言葉を見る事が本当に怖かったし、傷つきました。私が直接言われているわけではないのに、罪悪感ばかり募りました。


私は保養しながら福島に住んでいましが、離れる事を選びました。今も福島には沢山の人が住んでいます。その方達は「福島で生活する事を選択した」その事実があるだけです。


これは避難区域にならなかったけれども汚染されている地域の現実です。
国の方針が原因で、今の状況が結果ですね。


これは、福島や他の汚染されたといわれている地域だけの問題ではない、どこの県でも市でも起こりうる事だと思います。


国が守るのは経済であって人の暮らしではないという今の日本の動きを変えていけるのは、政治でも行政でもなく、一般の微力な私達一人ひとりの意識と行動だと思うのです。


福島には7 年と3カ月住んで、そのうちの5 年は新築した家にすみました。今は人に貸しています。成人している長男が、福島市で一人暮らしをしています。
一緒に来ないかと話したけど、福島に残りたいそうで・・無理やり連れてくる事はしませんでした。


私が思う私の理想は、どんどん行動を起こして矛盾や葛藤もなく潔く生きていく事でした。でも現実はこんな感じです。
ただ、今は「もっと自分の感覚を信じて行動していいのだな」と思うのです。それが間違いでも、失敗でも体験してでしか得られないものがあると。


誰かの言う事を鵜呑みにするのではなく、自立して考えて動いて自分のものにする。誰かの意見にぶら下がっているとそれは自分の経験ではない、他のだれかの考えの元に体験がないまま、誰か別の方の思い通りになってしまう危険があると思うのです。


例えばデモ等はその一つだと。デモに参加する事自体、自分の意思の表現だと思うのですが、今はさらに先に行動を起こす時なのかなと思うのです。


必要な知識を調べ身につけ、行動する時期なのではないかなと思います。
・・と言いながら私は大した事はしていません。mikoさんのお手伝い的な事しかできていないので、私自身もこれからなのですが・・


少し正しい事を言っている人がいても、全てそうなのか?調べてみる必要があるし、調べるにしても知識も身につける必要も出てきますよね。


法律を勉強したりするのは面倒だけど、
一人一人がそういった働きかけをして行く事が、同じ間違いを起こさない、今のような不自然な流れを変える力になると思うのです。



 

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コメント
 
01. 2013年11月08日 12:45:26 : ZRdJxdCUk6
判断するための情報を政府も官僚もマスコミも隠匿し医師も沈黙した。
多くの家庭で夫婦間や家庭の中で意見が分かれたのではないだろうか。疎開のために母たちは戦った。福島のことは、日本中原発がある限りどこでも起きる可能性があるし、日本だけではない。

02. 2013年11月08日 15:18:30 : asQab0oZ5c
mikoさん子供さんの健康にはいつまでも気を付けてあげてくださいお願いします。

03. 2013年11月08日 15:54:03 : asQab0oZ5c
こうじょうせんのあれはいっしょうがいつづくから

04. 2013年11月08日 22:02:41 : d0FNn9S7Ms
「原発・放射能」に関しては、日本は中国以上の情報統制の、えげつない鬼畜国家ですね。。

05. 2014年2月05日 20:54:14 : iNgwztzmzg
北九州マラソン、フルなど4種目…来年2月

 北九州市は17日、市制50周年を記念して来年2月9日に開催する「北九州マラソン2014」の概要を発表した。フルマラソン、2人1組で42・195キロをリレーするペアリレーマラソン、3、5キロの計4種目で、総事業費は約3億円。フルマラソンは市役所をスタート。八幡東区のスペースワールドを経由、門司区の門司港レトロ地区で折り返し、小倉北区の北九州国際会議場前でゴールする。制限時間は6時間で、1万人の参加を見込んでいる。

 北橋健治市長は「初のフルマラソン大会で北九州市の魅力を全国に発信する絶好の機会」としている。盛り上がりなどをみて大会を継続するか検討する。

 フルマラソンの参加資格は5時間50分以内に完走できる人で参加費は1万円。同市在住者、市内へ通勤、通学する人は24日から先行受け付け(定員2000人)、7月22日から一般募集。申し込み多数の場合は抽選。問い合わせは、北九州マラソン実行委員会事務局(093・533・9323)へ。

(2013年6月18日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/running/news/20130618-OYT8T00256.htm
http://mainichi.jp/area/fukuoka/news/m20140122ddlk40050305000c.html


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