★阿修羅♪ > 昼休み53 > 887.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
在日朝鮮人は何をやるかわからない
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/887.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 11 月 28 日 11:22:53: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: グローバル経済では人間が商品として売買される 投稿者 中川隆 日時 2017 年 11 月 26 日 09:59:44)


在日朝鮮人は何をやるかわからない


朝鮮部落の朝は、酒の臭い。2011-01-03 | 日記

私は、この朝鮮部落に住んでもう8年ぐらいたちます。

あさは、ひとのさぐりあい、ひとのけなしあい、おまけに悪口大会、
そうして、つながりといえば、兄弟姉妹のセックス関係だけです。

あんまり近親相姦がおおいので、ちんば、いざりがたくさんいます。
それに、通名も当たり前で、年賀状も通名らしいです。

この朝鮮部落の臭いは、時にねこのしょんべんのにおい。
ときに、酒の発酵した、いやなにおい、または、たまに洗濯のいいかおり、

朝鮮人が昨年しんでいきましたが、内密に葬式をしたらしく、釣り目のあつまりはみれなかったです。

そのひとは、すこしおかしなひとでした。

いつも、のぞいてました、大家にうその通報はするは、本当にいやなひとでした。
「うえから、みえるんだろう」とか
「おいだしてやる」とか

困っていたら、しんでゆきました。北朝鮮のほうへたぶん灰はとんでいったのでしょうね。

朝鮮部落の若者は、結婚しませんというよりも、できません。
または、朝鮮部落同士まぐわります。

それで、ちかくにある産婦人科でおろします。
生めない子つまり、近親相姦のこどもだからです。

性の関係は、普通の人よりも、はるかにはげしいです。
結婚できないためなのか?

ストレスの多い環境のためなのか?
すごい、年齢まで、近親相姦または、デリヘルなどでやりまくりますね。

この町のいいところは、ひとのさぐりあいですので、
孤独死はありません。たぶん大家が勝手にさぐりますからね。

朝鮮人同士の仲のよさ、それはすごいです。
ほかのものをよせつけないし、臭い部屋でも平気ですね。

孫も、ちょうせんじんなら、かわいそうとしかいいようがないです。
人間のうじですね。

私の住む町は、●●朝鮮部落です。
しかし、みんなは、ひみつにしております。
http://blog.goo.ne.jp/ootomo0320/e/fc08fc45f24c9891f107bc50f2a03dd7

裏には裏の道があり  2011/2/25(金)

たまたま1月に新年のご挨拶ということで、工藤会系の事務所へ足を運んだ時、いろんな人と出会って話をさせてもらいました。その中にA氏はいました。


A氏は田川市の出身。部落差別の中で気が付いたら893のご職業をされているということだった。

残念ながら筑豊地方や北九州市内というのは無数の部落が存在している。15歳になって中学を卒業すると当たり前のように働きに出るのだが、もちろん仕事が無い。
部落出身ということを隠してうまく就職できても結局、後からバレてクビになる。

男性の場合はかなり働き口が狭いので、多くの人間が余ってしまう。それでしょうがないから裏社会へと入ることになる。

そちらのことはまた追々。今回は女の子の方の話。


とりあえず15歳になって中学を卒業したらお水商売の世界へ入るのが半ば、常識のようになってしまっている。在日の経営するパチンコ店などに働きに出るのもいいが、正直、稼ぎが段違いなのですぐに辞めてしまうという。


そのA氏は斡旋をする仕事をしてる。

中洲がもちろんメインではあるが、大阪の飛田新地、名古屋、札幌、東京などにも顔が広く通じていて、15歳になった女の子を広く斡旋しているということを話してくれた。


部落の地域だと常識なんて無い。 我々の考える常識とはかけ離れた世界がそこには存在している。暗く・・・絶望と悲観と・・・ 


A氏が、15歳になった少女と出会い、話を聞いてみると、

初体験は小学生の時で、部落の中でも何度も何度もレイプされたり、

時には父親にレイプされたり、祖父にレイプ、義父にレイプされたり、

さらにその全員に順番にレイプされたりして育つ。

ちょっとキレイめで可愛らしい子になると、15歳の時にすでに男性経験は500人というとんでもないのもいるのだそうな。


だから、中学を卒業したばかりの女の子に声をかけると、喜んでお水で働きたいと言うらしい。今までは襲われてもただ快楽を得るだけで、お金にはならなかったが、これからはセックスが金になると知って喜ぶのだそうだ。 私にはまったく信じられないが、それが部落の世界なのだそうだ。


15歳でいきなりソープデビュー。15歳という若さで本番ありということだから、料金は8万でも10万円にも設定しても客は殺到するという。ほとんど中学生のような少女と金を払えば合法的(?)にセックス出来ると聞いて金の使い道に困っている男達は群がる。1回10万円でも1週間に30回の予約を入れた強者もいたらしい。凄過ぎる。


本人の取り分は半額。それでも、中学を卒業したばかりの少女が1年でもの凄い金額を稼ぎ出す。


さすがにまだ本番までは抵抗があるという少女の場合はお触りだけのピンサロやキャバクラで働く。ソープにはかなわないが、やはり中学卒業したばかりの女の子がってことで固定客はいっぱい付くからなかなかの収入になるという。

入った金で整形をして綺麗にして、うまくいけばAVにでも出てまたそれなりのお金を稼いで部落出身の男と結婚してはすぐ離婚、また結婚してはすぐ離婚を繰り返す人生を送る。


娘が生まれると金になるってことで、金が欲しい父親は娘をレイプして子どもを産ませたりする。男の子だとガッカリし、女の子だと大喜びする。

私が出会ったことがある女性は、祖父との子どもを産み、義父との子どもを産んだことがあるって平気な顔で話してくれたから、驚いたことがありました。


精神病を患っている人も部落にはたくさんいて、産まれてくる子どももまた精神病に。


A氏が話してくれた悲惨な女の子の話。

産まれてすぐに精神病と分かり、父親が育児放棄。母親は自殺。

その後、祖父母が育てたが、小学校に行く頃からさらにおかしくなり、いつも下着姿でその辺を徘徊したりしてどうしようもなかったという。

で、部落の大人の男性たちが毎日レイプ。
集団で次から次へとレイプ。

中学生ぐらいの年齢の頃には2人の子どもがいたという。

そんな年齢でも服を着ないでその辺を徘徊しているものだから、男性が寄ってきては普通に道端でレイプされているとのこと。誰も止めないし、いつもの光景といった感じ。それで次から次へと精神病を患った子どもが出来たという話を聴いた。


A氏が言うには、その少女は部落の人間に毎日レイプされるためだけに生きている、とのこと。


なんだろうね・・・・悲惨を通り越して、言葉が出なかった。


A氏が言うには、そんな精神病患者でも植物を言われた通りに育てることぐらいは出来るのだそうだ。だから、大麻を育てさせては、少ない生活費を渡すということが行われているのも普通のことなんだそうな。たぶん、それが大麻だと知らずに育てるんだろう。育てるとお金がもらえるから一生懸命育てる。普通だったらおかしいと思うが、残念ながらそう思う回路を持っていない。


そんなことを繰り返しては、A氏は少女と大麻で組の中でものし上がっていったそうな。

やはり経済力を持った893は上からも当然重宝されるし、金を山ほど持ってる構成員は出世も早い。

「にいちゃん、金に困った時はいつでも電話ちょうだいな。金ならいくらでもあるからいつでも助けてやるわ」

って、にやっとしながら話してくれた。

「大丈夫、金には困ってないから」

そう伝えると、またにやっと笑いながら奥の部屋へ入っていった。
http://blogs.yahoo.co.jp/canon_beginner/64016850.html


韓国系の女が多い信太山新地 2011-03-03


15分7500円。

この数字が何を表しているかわかるだろうか?決してミリオンゴッドや吉宗の投資速度を表しているわけではない。

これは、チンコをマンコに入れるのに費やされる時間と金額である。日本国には、15分でセックスをさせる秘境が存在するのだ。

捜査当局がこの秘境の存在を知ったのは4年ほど前。関東の言葉を話す「アサノ」という男から仕入れた情報だった。リーガロイヤルホテルでアサノと会った私は当時まだ若輩であり、ヘルスでマンコを舐めているだけで幸せを感じることが出来る果報者で、好き好んで15分のセックスをしに行くアサノの意図がさっぱりわからなかったものだ。


時は経ち、マンコを舐める事に感動を憶えなくなった今、少しだけアサノの気持ちがわからないでもない。スペルマは溜まる。でもセックスするのは面倒くさい。それを手っ取り早く放出させる手段として利用していたのかもしれない。


時刻は14時。すっかり春の陽気の中、ゼファーに飛び乗り国道を南向きに走り出した。

現場はJRの駅のすぐ近くにあると聞いている。とりあえず、JRの線路は発見。線路沿いにゼファーを走らせる。途中の駅で運賃表を見て、現場最寄の駅を確認。順調な展開である。ターゲットは近い。


たぶんここらあたりか・・時速40kmでゼファーを走らせながら廻りを見回す。と、そこへ白い看板が視界に飛び込んできた。

迷惑駐車を非難する言葉が書かれたその看板には、小さく信太山新地を書かれている。

ビンゴ。いとも簡単に発見することが出来た。

近くの歩道に単車を停め、料亭が立ち並ぶ一角へと入っていく。あたりはいたって普通の南大阪の住宅街である。マンションやコンビに、スーパーもある。全てが日常の風景。もっとも、都人である私には南大阪や東大阪の空気はどうしても馴染めないのだが。

現場の規模自体は小さいのだが、造りは非常に閉鎖的に出来ており、細い道が出入り口となっている。存在を知らねば、間違って中に入ってしまうことは無いだろう。中に入ると、入り組んだ路地が続き、立ち並ぶ店は全てが料亭である。

雰囲気的には雄琴みたいな感じである。

玄関先にはやり手ババアが座っており、声をかけてくる。料亭だと思うのだが、玄関先には女の姿は無い。

恐ろしいことに、すれ違う人の数が尋常ではない。そこかしこの店から女や男が出てきて、そそくさと早足で歩いていく。どうやらかなり繁盛している様子。

建物は、南側一帯は総じてボロいのだが、北へ行くに従い、綺麗なつくりになってくる。

ひととおりの店を見て、一番高級感がある北の端にある店に入ることにした。一際目を引く、立派な玄関先でババアと話をする。

ババアはニコニコしながら、

「お兄ちゃん、○○に似てるねぇ」とサッカー選手の名前を口にする。

最近のババアはこんな営業トークまで用意しているようだ。

かなり的確な若者トークに私は驚いた。


玄関先で話をしていると、横からギャル風の女が入ってきた。

ミニスカートから伸びた足はムチムチで、かなりの太さである。「7番ね」というババアの呼びかけにダルそうにうなずき、奥へと消えていった。

すかさず私は「細身の子がいい」と、ババアに女をオーダーする。今の女と体も性格も正反対の子をチョイスしてくれと暗に言ったつもりである。

ババアは、「ふん、わかった。細い子な。いてるで。」と自信に満ちた顔で返してきた。

ここでプレイ時間を確認すると、「何処も一緒で、15分7500円」という答えが返ってきた。


靴を脱いで上がり、2階の「8」と書かれた部屋へと案内される。料金はここでババアに払う。ババアは2・5本だけを受け取り、「あとは女の子に渡してな」と言って去っていった。


料亭だと思っていたのだが、ここで初めて旅館であることに気付く。なるほど。女は旅館へ派遣される芸子という建前のようだ。

部屋のつくりは、ビジネスホテルのそれとそっくりで、小さな部屋に小さなテレビと週刊誌、そしてベットが置かれている。窓を開けてみたが、雨戸がしまっていて外は見えない。

適当に写メを取って、ベットに座ってぼ〜っと女を待つ。
5分ほどでノックの音があり、女が入ってきた。

ババアのヒアリング力と商品選定力に間違いは無かった。そこにはギャルとは正反対の位置にある細い女の子が立っている。ドラえもんの静香ちゃんが大人になったと言えばわかりやすいか・・。

女に5本のお金を渡すと、さっそくプレイが始まる。

お互い服を脱ぎ、裸になる。女は服を脱いだ後、自分のマンコにローションを仕込んでいる。

女はベットに仰向けに寝た私のチンコを口に含み、フェラを始めた。なかなかヘタクソなフェらである。でも静香嬢のイメージ的にはこれくらいヘタクソであって欲しいが。そして、こういう女を優秀なエロリストに育て上げるのが、捜査当局の仕事でもあるのだ。

しかし今日は時間が15分しか無い。いらぬ事は考えず、頭の中で卑猥なことを想像してチンコのやる気を高めていく。

しばらくしてチンコにコンドームがかぶせられる。これは正常位での合体になるかなと思ったが、女は自分から乗っかり、自分のマンコにチンコをあてがった。フェラからは想像できない、凄い高速ピストンが始まった。


し、静香ちゃん・・・・・・痛い。


乾いたマンコに入れてもまるで気持ちよくない。さ〜てどうしたものか。正常位にもっていっても、感じていない女の表情をみていると、射精できるかわからない。

少し迷ったが、「上になっていい?」と聞き、合体したままで正常位へ。なるべく女の顔を見ないように精神を集中させ、腰を使う。

ああ、時間があれば、この女と抱き合い、マンコをヌルヌルにさせて、髪の毛の匂いをかぎながら楽しいセックスが出来ただろうに。

私は女に「もうイクね」といい、下腹に力を入れ、発射。


世の中の沢山の男は、ヤリタイやりたいと騒いでいるが、セックスするのはこんなにも簡単なのだ。気持ちよくもないのに無理やり射精するセックス。出来ることならやりたがっている男と代わりたい。

ゴムを外し、濡れたチンコの先をウェッテイで拭う。

なんだかおもしろい女で、天然の会話を聞いていると静香ワールドに引き込まれていく。いわゆるコンパで2番目に人気の出るタイプですね。

以前に腰を痛めたとか言っていたが、そらあんなピストン毎日してたらいためますよ。お嬢さん。

意外と長かった15分。女に見送られ、部屋を出る。


1階に下りると、ババアが出てきて「どうやった?ええ子やった?」と聞いてきた。

私は軽く首を縦に振り、玄関先に積んであったお菓子を貰ってもいいかと聞く。長官へ証拠物件を提出しなければいけないからだ。

ババアは気を使ってくれたらしく、ザルに山盛りの飴を持ってきて、両手に溢れるくらいの飴を私のカバンに入れてくれた。

そして、私が玄関を出るまで「ほんま○○に似てるな〜。言われるやろ〜」と営業することも忘れなかった。


信太山新地。南大阪の秘境。

いつまでこの秘境は荒らされずに秘境であり続けるのか。
日本国で存在し続けるのか。

秘境である間に、チンコが立つ間に、アドベンチャーしたいと思う男は私だけだろうか。


案外有名なところらしいが、美人よりも韓国系の女が多いと思うが。
http://blog.goo.ne.jp/ootomo0320/e/dfe01c2c3bdf5cfe18de4b322086bb64?fm=entry_awp_sleep

在日朝鮮部落の性教育


ヤクザと風俗が在日朝鮮部落民の生業の定番ですが

風俗店を経営している父親から受けた異常な性教育 2013/11/12/ 02:57


我が家は変態家族です。

ネットを開けば、野外での露出やスワッピングなど、変態カップルや変態夫婦が溢れています。俺の両親は、スワッピングや乱交や野外プレイをこなしてきたタイプです。そして、俺はその変態夫婦の子供です(笑)。

両親が一番変態なのが、子供を巻き込む事に一切抵抗感がない事です。
普通はどんな変態夫婦も子供は巻き込みませんよね。

父は風俗嬢の母と結婚し、若くして脱サラをして風俗店を経営しています。
この状況だけでも一般的な家庭ではありません。
まさに変態のサラブレッドのように俺は育ってしまいました(笑)。

父は自分の店の風俗嬢に、最低でも1日1発フェラ抜きをさせている程性欲があり溢れています。
(10分位で済ませるが、1時間分の給金は出しています)

(普通の風俗店では、あらゆる理由から自分の店の風俗嬢とはしませんが、ウチでは男性店員もお金さえ払えばOKなんです)

そして、中出し大好きな変態夫婦(両親)は今時珍しく4人の子供を授かりました。
姉、姉、俺、弟の4姉弟です。そんな我が家の話です。

我が家では、10歳になると性教育との名目のプレイが始まります。
(もしかしたら両親は真剣なのかも…)
俺が10歳になった時、親父が、

「ママには絶対内緒だからな!」

と約束をさせ、俺を自分が経営する風俗店に連れて行きました。

そして、まず待ち構えていたのは勃起の能力の確認でした。

親父の事務室に入るとすぐにエロDVDを鑑賞させられました。

巨乳の女の子達が全裸で犯されながら口内発射されたザーメンを次々と飲んでいく内容を見せられ、すぐに勃起してしまいました。

父「ちゃんとチンコ硬くなったか?」

俺「硬いよ」

父「気分はどうだ?硬くなって気持ちいいか?」

俺「気持ちいいよ」

と答えると親父は店の女の子に電話を掛けました。

父「準備は出来てるから、教育の件今からお願いする」

するとすぐに事務室に下着姿のお姉さんが2人入って来ました。

親父に好きな方のお姉さんを選ばせられると、選んだお姉さんが服を脱がせてきました。

隣では父も服を脱いでいます。

エロDVDを見させられて既に勃起していたので、お姉さんが

「うわ〜っ(笑)」

と笑いました。

全裸になり、腰にタオルを巻かれると、4人でシャワー室に連れて行かれました。

シャワー室に入る時、2人のお姉さんはブラとパンツを脱いでプルッとしたオッパイを丸出しにしました。

この時、俺のペニスはビクビクと脈打っていました。

シャワー室に入ると父が

「即尺からいこっか」

と言い、父と横に並んで立っている前でお姉さん2人が屈み込んで俺の包茎のペニスをジュポジュポしゃぶり始めました。

よく家で母が父にフェラしてたので日常的な光景だったのですが、見るのとされるのは大違いでした。

父「皮を剥くって分かるか?俺と同じ形になるようにチンコをつまんで根元に皮を引っ張ってみろ」

親父は自分のペニスの皮を実際に動かして実演した。

お姉さんにフェラされながら真似して皮を剥こうとすると、キツくて最後まで剥けませんでした。

そして父は、もう1人のお姉さんにフェラを続けさせ、ペニスをわざわざ口から外してお姉さんの開けた口の中に向けてしごいて射精をしました。

父「これが射精な。大人になる為にお前もするんだぞ」

そしてプレイルームに移動し、フェラをされながら皮を剥くように引っ張る事を続けました。

それが毎日1時間です。

徐々にペニスの先の皮が緩くなり、4日目にはカリの半分まで剥けていました。


5日目、シャワー室に入ると父は俺の勃起したペニスを見て

「皮半分剥けてるな。今日全部剥いちまえ」

と言い、お姉さんがフェラを始め、俺のペニスが完全に勃起すると、父が俺のペニスの皮を摘んでゆっくりと強く剥いていきました。

皮が3分の2まで剥け、カリがお姉さんの口の中に触れる面積が増えていき、ゾワゾワした性感をカリが感じていました。

父が

「皮を摘んでしごいて、皮を全部剥いちゃって」

と言うと、お姉さんがペニスの先をしゃぶりながら俺のペニスの皮を摘んで皮を剥くようにシゴキました。

5分もすると皮がさらに緩くなり、お姉さんがフェラしながら皮を剥くようにシゴいていると、あまりにも気持ち良くてギンギンに勃起していました。

もう剥けそう…と思っていると、突然お姉さんの口の中で皮がズルッと全部剥け、カリ全体がお姉さんの口の中に放たれました。

皮が全部剥けた瞬間、また初めての性感を感じました。

お姉さん「全部剥けたよ〜(笑)」

父「じゃあ精通させて、フェラはゆっくりな」

お姉さん「はぁ〜い!」

お姉さんは強く吸いながらしゃぶりつきました。

横では父がもう1人のお姉さんに口内発射しています。

父「気持ちいいだろ?そのまま気持ち良くなっていくと精子が出そうになる感じするが、分かるか?」

俺「分からないけど、フェラチオ気持ちいい」

父・もう1人のお姉さん「ははは!(笑)」

父が、もう1人のお姉さんに俺に抱きついてキスするように言うと、俺はフェラをされながらお姉さんに抱きついてキスをしました。

お姉さんのオッパイが当たってきて、性感が一気に高まりました。

お姉さんに抱きついてオッパイを俺の体に押し当てていると、お姉さんの体気持ちいい!お姉さんの体気持ちいい!としか考えられませんでした。

そして、頭ではお姉さんの体しか考えられなくなり、今まで感じた事のないような込み上げ感が沸き起こりました。

とにかくペニスが気持ち良かったのを憶えています。

何も分からないまま、とにかくお姉さんの体で気持ち良くなっていると、しゃぶられているペニスが凄い勢いでビックン!!ビックン!!と動きました。

激しい快感に包まれ、ペニスがビックン!!ビックン!!と脈打つ度、尿道にゼリーのような物が通り抜けていくのが分かりました。

フェラしていたお姉さんは精液を口に溜めながらゆっくりしゃぶりついて来ました。

お姉さんが口を開けると、精液がタップリ入っていて、射精をした事を知りました。

父に、

「お姉さんが精液を飲んでくれるから良く見てるんだぞ」

と言われ、お姉さんがゴキュッと喉を鳴らせて精液を飲むのを見ていました。

抱いているお姉さん「うわ〜〜〜(笑)」

飲んでくれたお姉さん「あはは(笑)」

父に、

「おめでとう!大人の男だな!」

と言われて嬉しかったのを憶えています。

そして次は、連続で射精出来るようになるまで1週間毎日フェラ抜きをされました。

父にはオナホールとローションを渡され、

「家でも射精したくなったら使いなさい」

と言われ、お姉さんのフェラを想いながら1日に2〜3回射精をしていました。

初めのうちは射精した直後にペニスを刺激されるのは辛かったけど、すぐに慣れていきました。

3週間目には、3分も休めばすぐ次の刺激が出来るくらいになってしまいました。

そして、

「お姉さんに連続で射精してみろ」

と父に言われ、シャワー室で2回口内発射をしました。

さすがに父も

「これは凄いな(笑)」

とお姉さん達と笑っていました。

しかし、精通からひと月近く過ぎた頃の俺は、家での射精を含めると既に100回以上の射精をしており、射精欲が異常に強くなっていくのを感じていました。

そして父は、


「一緒に母に射精する」

と言ってきました。

翌日母はいつも通り、父に出勤前のフェラ抜きをしていました。

18時に部屋に来いと父に言われていたので、父の部屋に行くと父と母と姉2人が下着姿で揃っていました。

姉2人も性教育が済んでおり、処女のままバイブやローターでイク事を覚えていました。

姉2人はローターでオナニーをしていました。

母は既に下着姿で父のペニスをフェラしています。

2人の姉が隣の姉の部屋で毎日オナニーをしているのは知っていましたが、実際にローターでオナニーをしているのは初めて見ました。

異様なこの空間に入ると、風俗嬢のお姉さんの事が頭をよぎり、服を脱ぐ前に勃起してきました。

服を脱いで横になるように言われ、全裸で横になると、2人の姉が見ている中、父にアナルセックスされた母が四つん這いでフェラしてきました。

そして、父と母にフェラまで性教育された姉2人もオナニーをしながら交代でフェラしてきました。

母が父にフェラしているのは風呂場でもリビングでも日常でしたが、姉のフェラは初めて見ました。

この後仰向けに横になっている俺の上に母が乗って来て、母は俺のペニスをアソコに当てそのまま腰を下ろしました。

初めてのセックスです。

ペニスが女の中に入り、フェラとは違う快感が襲ってきました。

母が横になっている俺に抱きついてきたので、姉の体を見ながら母を抱き締めました。

そして父が再び母のアナルにペニスを挿入してきました。

母の膣と直腸の中で父とのペニスが当たり、父がアナルを突く度母の中でペニスが激しく刺激を受けました。

母は突かれる度に喘ぎ声を出しています。

俺は姉の体をオカズにして母の穴を下から突きました。

さすが元風俗嬢。

母は下からも突けるように腰を少し浮かせています。

2人の姉もオナニーが激しくなり、喘いではいませんが遠慮なくよがっています。

母の女の体を抱き締めたまま性感に身を任せていると、すぐに射精感が込み上げてきました。

現役で乱交やスワッピングに参加している母はピルを常用しているので躊躇なく母の体内で射精しました。

精通からひと月で母とのセックスを体験し、精液を母の体内に注ぎ込みました。

射精すると父と母に喜ばれ、女の体内に射精した快感に浸りながら、30分は父にアナルを突かれ、何度も射精されている母にそのまま抱きついていました。

次は姉のフェラ抜きが始まりました。

母がフェラで俺のペニスを再び勃起させると、父と母にローターでクリトリスを刺激された姉2人が交代でしゃぶりついて来ました。

姉の口の中で射精すると、近親相姦独特の満足感がありました。

精液を飲み慣れない姉はオナニーしながら一気に飲み込むと父にバイブでイカされました。

そして、射精したばかりの俺のペニスに母が再び勃起するように丁寧にしゃぶりつき、萎えなくなったところでもう1人の姉にしゃぶらせフェラを指導しました。

「彼氏も旦那もちゃんと朝夜抜かないと絶対浮気されるからね」

なんて母は言っていました。

バイブでイカされて抱きつきながらフェラしている姉に口内発射すると、やはりオナニーしながら精液を飲み込みました。

最後は母にフェラされ、2人の姉を抱き締め、姉のオッパイを感じながら無理矢理射精しました。

父が仕事に出た後も、母の

「無駄な浮気をされない為のフェラ抜き講座」

が続きました。

最初は初めて見る姉のエロい行為に引いてる部分も少しはありましたが、最後はワイワイとヤリまくっていました。

変態夫婦の息子の精通と初セックスの話です。
http://www.h-ken.net/txt/2478/
http://www.h-ken.net/txt/2478/page_1/

近親相姦家族カズの家の告白


僕が母と、妹が父と初体験した日

最初は、母が僕のオナニーを手伝ってくれることから始まりました。もちろん僕から言い出したわけではありません。オナニーをしている時に見つかってそれから手伝ってくれるようになりました。始めの時だけは手でしごいてくれるだけでしたが、次の日からはフェラチオをしてくれました。

すごく気持ちよくて、母の口の中に出したのですが、母が精液を飲んでくれたのでビックリしました。それからも毎日のようにお願いしました。驚いたのは、父が家にいるときでも僕の部屋にきて、精液を飲んでくれたことです。あとで聞かされたことですが、父と母の計画だったそうです。

ある日、まだ僕と妹がファミコンで夢中になって遊んでいる時に、両親の寝室から母のいやらしい声がしてきたのです。妹も聞こえたらしくて、気になったので妹とそおっと寝室に行ったのです。すると、ドアが15cmぐらい開いていたので覗き込むと、父と母がセックスをしている最中でした。妹も昔からエッチな事には興味しんしんだったので、恥ずかしがらずにのぞいていました。ドアからは、父のものが母の中に入っているのがよく見えました。

しばらくして、バックの体位になったのですが、母も父もドアの方に頭を向けたので「見えにくいなあ」と思った時に、父が、「和己も久美も入っておいで」と、びっくりすることを言いました。母もあえぎながら、「恥ずかしがらないでおいで」と言いました。僕も妹もビックリしたのですが、逃げると怒られそうだったので、中に入りました。

セックスを中断して父と母は、僕と妹にセックスは、愛し会う者同士の当然の行為だと言うことを説明してくれました。そして間違った知識でセックスをすると大変な事になることも聞かされました。話が終わって、父が続きをするので見ていなさいと言うので、見ることにしました。そのまえに母がみんな裸の方がいいというので、僕と妹も裸になりました。僕のものは立っていたのですが、父が立派になったなあと褒めてくれました。妹は僕と父のものを見比べていましたが、父のものは立っていなかったので、「お父さんもお兄ちゃんみたいになるの?」と言いました。父は「握ってみなさい」と言って、妹に握らせました。そして母から手の動かしかたを教わり、動かすと父のものも立ってきました。妹は無邪気に「あっ、大きくなってきた!!」と喜んでいました。

完全に立った父が僕のものとどっちが大きいか比べようと言いだしたので並びました。妹は「おとうさんの方がおっきいし、色が全然違う」と言いました。すると母が「今日の記念におちんちんの長さを計ったら?」といい、寝室を抜け出して手にノートとものさしを持ってきました。そのノートは僕が隠してあったやつなのでビックリしました。驚いて母から奪うと、母は「そのノートはお父さんも知っているわよ。」といいました。そのノートは、僕のものの長さを計って折れ線グラフにした成長記録と、オナニーの回数をつけたノートなのです。父が15cm、僕が13cmでした。記録係は妹で楽しそうにノートに書き入れていました。

そしていよいよセックスの続きが行われたのですが、その前に妹と僕にコンドームのつけ方を教えてくれました。妹は父のものにかぶせ、僕は自分のものにかぶせました。セックスが始まったのですが、体位を変えるたびに父が説明してくれました。いつの間にか興奮した妹は自分のあそこを触っていました。それに気付いた父が、妹とお互いに触わりっこしないさいというので、妹が僕のものを握り、僕は妹のあそことオッパイを触りました。僕はがまんできなくなって精液を出してしまうと、妹がコンドームを外してくれました。そして精液の入ったコンドームを捨てていいものなのか迷って、そのまま持っていました。

母が僕のものをきれいにしてあげるからおいでというので、母のそばに行くと、体位を変えて父の上になった母がフェラチオしてくれました。それを見た妹が「お母さんがお兄ちゃんのをなめてる!」といって驚いたのですが、母は「親子だから平気よ」と言いました。やがて父と母が気持ちよさそうな声をあげていってしまいました。父の精液の量は僕の半分くらいでした。母はコンドームに入った父と僕の精液を飲んでしまいました。妹がそんなの飲んで大丈夫なの?と聞くと母は、大事なお父さんと僕のだから大丈夫だといい、妹にも少し舐めてみることをすすめました。妹は少しだけ指先につけて舐めたのですが「変な感じ」とは言ったけど、嫌そうじゃなかったです。母が「そんなに嫌な味じゃないでしょ?」と聞くと妹は「うん」と言いました。父が「男って、精液を飲んでくれるとうれしいもんだぞ」と言うと妹は納得していました。

父と母のセックスが終わったので、もうおしまいと思ったのですが、父が「和己と久美はセックスしたことがあるのか?」と聞いてきました。僕も妹も「ない」と答えました。すると父が、ふたりとももう大きいのだからそろそろ体験しておいた方がいいよといいました。そして母が「そうしなさい、和ちゃんは私と、久美ちゃんはお父さんとしなさい」といいました。僕が「親子でセックスしてもいいの?」と聞くと、父が「セックスは子供を作る目的もあるけど、快楽を味わうゲームみたいなものだから、家族同士で楽しんでもいいだよ」といいました。僕は前から母にフェラチオしてもらいながら、母とセックスがしたいと思っていたのでオッケーだったのですが、妹の気持ちがわからなかったので、どうするのか心配だったのですが妹は「お父さん、優しくしてね」とあっけらかんに言いました。妹は隠し事をいっさいしないあっけらかんとした性格ですごく明るいのですが、エッチのことについても同じなのでびっくりしました。

妹は父に全身を舐められて、気持ちよさそうな声を上げました。僕は父のやっていることを見ながら母に同じことをしました。初めてなのでうまくできなかったはずなのに母はほめてくれました。そして母があえいでくれるとうれしくなってがんばりました。母が気持ちよくなったので今度は、フェラチオをしてくれる事になりました。あとから聞いた話では、妹にフェラチオの勉強をさせるために仕組んだそうです。ギンギンに立った僕のものを母が舐めはじめると、妹が「私もやってみる」といいだしました。そして父のものを口に入れて、母が僕を舐めるのを真似しはじめました。それを見て母が、ていねいに妹に指導しました。いつもならすぐに言ってしまうのですが、一度出していることと、母が説明するためにちょくちょく口を外すので長持ちしました。時には僕をほったらかしにして父のものを母と妹が交互に舐めたりもしました。

いよいよセックスすることになったのですが、最初は僕と母が父と妹に見られながらしました。体位は正常位しかしませんでした。何回か腰をふるととろけそうな感じになって、すぐにいったからです。妹が「気持ちよかったあ?」と聞いてくるので、すっごくよかったと言ってやりました。いったあとも立ったままのものを見て母が「まだできる」と聞いてきたので、何回でも出来ると言うと、「元気ねえ」と感心していました。

次に父と妹がセックスを始めました。入れる瞬間をジックリ眺めました。「痛い」と小さな声をあげましたが、痛みをこらえながらも父のものをしっかり受け止めていました。父と妹のセックスを見ながら、妹の処女が欲しかったなあと思いました。しばらくゆっくりと腰を動かしていた父ですが、妹を気づかって途中で抜いてしまいました。すると「父さんは出るのに時間がかかるから久美がかわいそう」だからということでした。母が僕に妹とセックスするように言うので、妹に入れようとしたのですが、うまくはいりません。さっきみたいに母が僕のものを妹のアソコにあててくれて入れることができました。妹の中は、母よりかなりきつかったので僕はすぐにいってしまいました。父は隣で母の中に出していました。

こんなふうにして、家族みんなでのセックスが始まりました。
http://www.kazunoie.com/memo/memo1.html

1999年夏ごろの日常風景

ふだんの日は、父が仕事で帰ってくるのが夜11時を過ぎるのでセックスするのは、母と妹と僕の3人です。でも毎日3人で一緒にするわけじゃないです。3人一緒にするのは、半分ぐらいです。土曜日の夜や日曜日は、最低でも2週間に1回は4人でします。3人でする時は、最近はジャンケンで順番を決めて順番の低いものが上のものに奉仕します。一番勝ったものは2人から奉仕されますが、1番まけたものは2人につくさないとだめです。

先週やった時は、僕が1番、母が2番、妹が3番でした。最初に要求したのは、服装です。3人とも裸じゃつまんないので、母には裸の上にエプロンを着るようにいって、妹にはスクール水着を着るようにいいました。最初は、全身を舐めるようにいいました。上から順番に舐めさせました。乳首を同時に舐められたときは気持ちよかったです。フェラチオもチ○ポと玉を同時に舐められるとすごく気持ちがいいです。チ○ポも交互に舐めさせました。一番負けた母はフェラチオするのが好きなので、あまり母にはなめさせずに妹に舐めさせました。チ○ポと肛門も同時に舐めさせました。妹がチュパチュパとおいしそうに舐めているのを見ながら、母がうらやましそうな顔で肛門と玉をいったりきたりしていました。

しばらくして、妹も母に奉仕される権利を主張したので妹のオ○コを舐めさせることにしました。妹は僕にフェラチオしながら母にオ○コを舐めてもらうことにしました。母はレズではないらしいですが、妹のオ○コはよく舐めています。水着を横にずらしながら舐めていました。母は妹の感じるポイントを十分に心得ているのと、指をつかっていかせてしまいました。妹のイク顔を見て、入れたくなったので水着をずらせて入れました。

僕が妹をズコズコついている間中、母は僕や妹とキスをしたり、ふたりの乳首をなめていました。正常位から、だっこして最後は正常位にもどしました。妹がいったので、出すまえに母に妹とつながっているところを舐めてもらおうと思ったのですが、水着姿の妹がすごくかわいいのでそのまま出すことにしました。妹が安全日だったので、ひさしぶりに中に出すことにしました。そのことを言うと妹は「飲みたいよ」というので、「久美は兄ちゃんに注文できないんだぞ」と言ってやりました。「でも」というので「わがままいうと抜くぞ」というと、「やんやん」と言いました。そして「いくぞ」と言って中に出しました。ひさしぶりに中に出したのですが、口の中に出すのも気持ちいいですが、あそこの中に出すのはやはり気持ちいいです。全部出たので、チ○ポをぬいて母に口できれいに舐めてもらいました。妹は1番まけた時も自分からおねだりするのに、母はさすがに大人で僕が命令しない時はおとなしく待っています。

母にきれいに舐めてもらっている時に妹が「出てきた」というので、いいことを思いつき、妹をまんぐり返しにしました。そして母に妹のからだを支えさしている間にキッチンに行ってストローをとってきました。「ジャーン」と言ってストローを見せると、母は「ストローはだめよ、久美のカラダに傷がつくわ」と怒られてしまいました。ほんとうなら母には発言権はないのですが、親としておこられると言い返せません。母はそういう時はマジな顔になります。でも数分後には淫乱女性の顔つきになるのが不思議です。アメリカのホームページにそういう画像があったのでやってみたかったのですが残念です。母はそういいながらも、妹をまんぐり返ししたままなので、精液をなんとかしないと行けないことはしっかり思っていたようです。

母を仰向けにして、妹に母の顔をまたぐようにいいました。水着を着たままだったので僕が水着をずらしました。垂れはじめは母の口の中にはいらないで顔にかかりました。途中から母が下から口をつけて吸出していました。母の顔にかかったものは妹に舐めるようにいいました。でも飲んでいいよとは言わなかったので、母も妹も口の中に精液を溜めていました。いろんなビデオを見ると精液がきらいな人がいて、すぐに吐き出そうとしますが、母も妹も飲むのが3度の食事より好きなので、すぐに飲ませると喜ぶだけです。かと言って、しばらく口にいれたままにするのも平気なので、口移しさせることにしました。母も妹もいろんな精液飲みのビデオをみているので心得ています。しばらく母と妹にぐちゅぐちゅやらせていました。つばで量がふえたので、飲ませることにしましたが、抽選することにしました。

母と妹は精液を半分ずつ口に入れたまま、僕がクジをつくるのをまっていました。2個だけじゃおもしろくないので、6個作りました。当たりは1個です。妹から交互にひかせたのですが2回戦で母が当てました。妹は残念そうな顔をして、母の口に自分の口の精液を写していました。そして母はゆっくり味わいながら精液を飲みました。感想を聞くと、「久美のお汁とつばと母さんのつばが混ざっていて、母親としては幸せだったけど、精液らしい味があまりしないわ」と言っていました。母には不満だったようです。

次に、妹に制服にルーズソックスをはくように命令しました。その間に母とセックスすることにしましたが、母がエプロン姿なのでキッチンですることにしました。普段よくするように母が雰囲気作りのために、冷蔵庫からキュウリを出してまないたの上に置きました。包丁は危ないので使いません。演技派の母が「今晩のおかずは、きゅうりしようからし、和己のおちんちんにしようかしら」といいます。すると僕は「比べて見る?」と言って、コンドームをかぶせたきゅうりをオ○コに入れ2、3回つきました。そして「母さんのオ○コさん、おいしいですか?」というと、母は「他も試食するわ」といいます。今度はチ○ポを入れて聞くと「これにするわ」といいます。

しばらく立ちバックで続けていると、妹が制服姿にルーズソックスをはいて、少し化粧までしてやってきました。妹もノリがいいので、演技に参加します。「母さん、そんなことしてないでゴハンつくってよ。学校に遅れるでしょ」と言います。あえぎながら母が「待ってなさい、もうすぐ牛乳ができるから」と言い返します。「牛乳だけなの?」と言うと、母が「好きなものにかけて食べなさい」と言ったので妹は冷蔵庫を開けていました。中からカップに入ったみつまめを出してきました。フタを開けて「ミルクまだかなあ」と言って待っています。

なかなか僕がださないので、「この牛さんはお乳をもんであげないと出ないみたいですね」と言って僕の玉をさわりに来ました。「揉むより舐められる方がいいみたいですね」と言って玉に舌を這わせてきます。いきそうになったので妹に合図するとみつまめを持って待ち構えます。母からチ○ポを抜いてみつまめに振りかけました。すると「おりこうさんですね、こぼれないで全部入りましたよ、ごほうびにきれいにしてあげましょうね」と言って、口できれいにしてくれました。妹は精液がかかったみつまめを食卓でおいしそうに食べていました。精液がとくに多くかかったところを眺めてから食べていました。

たべおわるのを待っている間は、母にフェラチオをしてもらっていました。食べおわったので、最後に母と妹を交互にせめようと思って、場所をかえることにしました。食卓の上に制服姿の妹を横になるように言って、チ○ポを入れました。それから妹を抱き起こして駅弁スタイルのままリビングに移動しました。そして、床に妹をおろしてつきまくりました。母と妹をバックにしたり、母と妹が抱きあっているところを交互につきました。

しばらくついていたら、父からの合図の電話がかかりました。ちょうど母の脚を肩にのせてついていたので、妹に電話に出るようにいいました。少し話したあとで、コードレスを母に渡しました。母は父と会話していました。「食事はどうするの?」とか聞いていました。妹に聞くと早く帰ってくるとのことでした。電話を切った母が僕につかれながら、「父さん帰ってくるから食事の準備するから、母さんもうやめるわ」と言いました。「母さんまだいってないでしょ」というと、「いいからどいて頂戴」というので、しぶしぶ抜きました。「2人でやってなさい」というので、妹に入れました。

制服姿の妹をいろんな体位でついていると、シャワーをあびた母がキッチンに行くのに横を通りました。「そろそろ終わりなさいね」と言いました。そのあとすぐに妹の口に出しました。ペロっと飲んだ妹が「私もシャワーあびる」と言って出ていきました。横になっていると母が料理をつくっている後ろ姿が目に入りました。やりたらなかったので、後ろから入れさせてもらおうと近づくと、母が手で自分のお尻を隠すようにしました。それでも近づいて行くと「いい加減にしなさい」と言ってチ○ポをきつく握ってきました。仕方がないのでその時はそれで終わりました。
http://www.kazunoie.com/memo/memo99.html


僕と母のSMごっこ

母とのSMプレイの話を書きます。SMプレイと言ってもほんとの遊びです。

その日は、僕が最初にSになりました。初めに母を縛りました。縛り方は父から教わって、母や妹で何度も練習したのできれいに縛れます。と言っても跡がつくと大変なので少しゆるく縛りました。そして母に、僕の全身をなめるように命令すると縛られて動きにくそうですが、一生懸命舐めてくれます。チ○ポはすぐに舐めさせません。母はフェラチオが大好きなので、すぐに舐めさせると喜ぶだけなのでいつもじらしていじめます。玉と肛門を先に舐めさせました。

そのあとで母を座らせておいて、母の口の前でチ○ポをぶらぶらさせて「舐めたい?」と聞いてやりました。すると母は、いつも言っているように「ご主人様のチ○ポをしゃぶりたいです」と言いました。すると僕が「みゆきのご主人様は、父さんのことじゃないのか?」というと、「違います。私のご主人様は、和己様です」といいます。今度は「みゆきは、自分が産んだ息子のチ○ポがないと生きていけないです。と言ってみろ」というと、「みゆきは、私が産んだ和己様のチ○ポがないと生きていけません」と繰り返しました。

僕が「じゃあ、父さんのチ○ポは久美専用にしてもいいのか?」と聞くと、今まで雰囲気を出していたのに、多少マジに戻って「それはこまります」というので、「母さん、そういう時は僕のチ○ポだけでいいですと言うんだよ」というと、「だって、ほんとに久美専用になったら困るわ」と言いました。「もう母さんったら、よくばりなんだから」と言うと、「父さんのチ○ポがあったから和己と久美が産まれたのよ。だから大切にしなきゃ」と意味不明のことを言いました。

少しさめてしまったので、母をバイブ責めにすることにしました。バイブは母専用なので寝室に隠してあります。バイブを取ってきて、母のオ○コに入れました。すぐに母は感じだして声を上げ始めました。そして1度母がイッてしまったので、今度はバイブを抜けないようにして、何度も何度もいかせました。

5、6回いったあとで母が「もうだめ、スイッチを切って」と言うので、「まだだめ」と言って、そのまま僕のチ○ポをフェラチオするように言いました。いじわるして母から少し離れたソファに座りました。母が懸命に立ち上がって、僕の所まで歩いてきてフェラチオを始めました。でも手が自由じゃないのでチ○ポが安定しないので、口の中に入れてじゅるじゅる舐めるという感じよりも、玉を舐めたり、チ○ポを舌で下から上に舐め上げるのが中心でした。

途中からは、大きく口を開けさせておいてチ○ポを突っ込んで自分で腰を動かして母の口の中をつきました。そしてそのまま母の口の中に精液をだしました。すぐには飲ませずに、舌の上で何回か転がすように言って、最後にコップに出すようにいいました。そのあとで僕のチ○ポをきれいに舐めさせました。精液は次の僕のSの番の時に飲ませようと思いました。

一度出したのでSとMが交代です。母は女王様の衣装に着替えました。それで、僕に全身を舐めるように命令しました。舐める前には必ず「みゆき様、乳首を舐めさせていただいていいですか?」と言わされました。母の全身を舐めたあと、最後にオ○コを舐めるのですが、僕が仰向けになって母が僕の顔に腰をおろしてきました。母が「舐めたいの」と聞くので「舐めさせてください」とお決まりのセリフをいうと、「いつも同じのセリフじゃ舐めさせてあげない」と言われたので、「僕が生まれてきた女王様の美しいオ○コをじゅるじゅるさせてください」と言いました。すると「いい子ね、じゃあ舐めていいわ」と許可がおりたので、舐めました。

しばらく舐めていると、「上手に舐めてくれたからご褒美をあげましょうか」というので、「ありがとうございます」というと、精液の入ったコップを持ってきて、「口をあけなさい」というので、「それは、次に使う分だよ」とあわてると、「奴隷が生意気なことをいうんじゃありません」と言いました。自分の精液だから抵抗はないのですが、予定が狂ってしまうのでこまったのですが、命令だから口を開けました。すると母が精液を僕の口に垂らしながら「飲んではダメよ」と言いました。全部口に入れると「私の口に垂らしなさい」というので、母の口に垂らしました。母が何度も口移しを要求するので、つばで量が増えて行きました。最後に母がコップに精液を戻し「女王様は今日は、たくさん飲みたい気分なの、だから奴隷は一生懸命出しなさい」と言いました。

そのあとで母が上に乗ってセックスしたのですが、僕がイキたくなったら母は腰の動きを止めました。何回もじらさせたあと、体位を正常位に代えて母の口に出しました。母は舌の上で精液を転がしたあとでコップに移していました。
http://www.kazunoie.com/memo/memosm.html

父と母の出会い

いつも読んでくださっている方からの質問で「父と母の出会い」と「母が近親相姦を知った時の事」を書いて欲しいというのをよくいただきます。母から取材をしたので書きます。

学校に行かなくていい日の朝、父と一緒に朝食を食べていたら母から「手伝って欲しいことがあるから家に居て」と言われました。いやな予感がしたけど家の用事が最優先なのでイヤイヤ「うん」と返事をしました。そこに制服に着替えた妹がやってきて父の膝の上に座りました。そして父の皿からリンゴをひと切れ取って食べました。僕は用事を妹にも手伝わせようと思って「母さんが用事手伝って欲しいそうだから早く帰ってこいよ」と言いました。すると母は「午前中で終わる用事だから久美はいいわ」といいました。

妹はその後、自分がお尻をこすりつけている間に父のチ○ポが立ってきたのでひっぱり出してフェラチオしようとしました。でもすぐに母から「遅刻するわよ」と言われてやめました。そして父と僕にキスをしてから「お手伝いがんばってね」と言って学校へ行きました。

全部終了して母の所に「終わったよ」と言うと、松山から僕あてに荷物が届いていると教えられました。開けて見ると、僕の大好きな栗と「栗んとん」というふざけた名前のお菓子とビデオテープが入っていました。再生すると従姉さんが美穂さんをいじめながら撮影したビデオでした。ほとんど美穂さんのアップで従姉さんは声ばっかりです。時々従姉さんが美穂さんにバイブを入れる所の手が写る程度でした。美穂さんは従姉さんに質問攻めに合っていました。僕はこのビデオを見ながら「母にもこの手でいこうか」と思いました。

ビデオカメラを持って、家事をしてた母の所に行きました。カメラを回しながら後ろから迫りました。母はカメラを見ると「ハメ撮りしたいの?」と聞いてきました。「ダメ?」と聞くと「化粧してから」ということなのでしばらく待ちました。

待っているとシャワーを浴びて化粧した母が裸でやってきました。僕のズボンを脱がせました。僕は「フェラチオしながら質問に答えて」といいました。母はパンツを脱がせてくれて僕のチ○ポを咥えました。

カメラを見ながら僕のチ○ポの裏筋を下から上に舐め上げている母に、「父さんと母さんってどこで知り合ったの?」と聞きました。母は「それは前に教えたじゃない」と言いました。僕はビデオ用に「ビデオ用に全部もう一度聞くので答えてよ」といいました。

母はチ○ポを舐めながら答えてくれました。父と母の出会いは「アイビー」がきっかけです。昔アイビー少年少女だった父と母は学生自分に別々のアイビークラブに所属していたそうです。その頃、アイビーリーグというのがあっていろんなアイビークラブが所属していてパーテイなんかも開かれていたそうです。そのパーテイで父と母は初対面したそうですが、そこでは何も起こらなかったそうです。

仲良くなったのはアイビーのファッションショーに出た時で、父と母がカップル役に選ばれて「金曜日のデート」というシュチエーションで手をつないだのがきっかけだそうです。最初のデートでキスをして、2回目のデートでHしたそうです。3回目のデートからは会うたびにHしたそうです。

母が僕の先ばしりの液を舌先ですくって舐めました。僕は「母さんのフェラって父さんが仕込んだの?」と聞きました。すると「母さんはね、父さんと知り合うまではお嬢さんだったのよ」と答えました。僕は久美のフェラチオの練習を思いだしました。久美は母が僕のチ○ポを舐めているのを見ながら父のチ○ポを舐めたり、学校から帰ってから僕のチ○ポを母とダブルフェラしながら練習していました。見る見る上達して父が悲鳴をあげたのを覚えています。でも母は見本が無かったのでどうしたのか聞いたら、言われるままにやったそうです。

母にフェラチオの素人の役をやってもらいました。母は僕のチ○ポを握りながら「どうやったらいいか教えて」と言いました。僕が「先っぽをソフトクリーム舐めるみたいにやってごらん」といいました。すると、いきなり根元から先っぽまで一気に舌を這わせました。僕が「それはお嬢さんじゃないよ」というと母は「ソフトクリームが垂れてきたのよ」とボケてくれました。

母が「そろそろ欲しい」というので入れることにしました。質問しながらハメ撮りするので騎乗位でしました。僕が横になると母はパンツを脱ぎました。「舐めようか」と言うと母は「ヌレヌレだからいいわ」と言って、チ○ポを掴んで自分で入れました。僕は下から撮影しながら質問を続けました。

次の質問は、父が近親相姦しているのを知った時の事を聞きました。結婚前に2人で見た映画に近親相姦の話があって、映画が終わってから「もし俺が近親相姦してたらどうする?」と質問されたらしいけど、「そんな事あるわけないわ」と思ってた母は、祖母がきれいな人だったので冗談半分で「あのお母さんなら、いいんじゃない?」と答えたそうです。

映画のタイトルを聞いたけど、母は「わすれたわ。それより、もういいでしょ。4日もしてないから母さんすっごくしたいのよ」と言いました。僕は仕方ないので先にやってから質問を続けようと思って「終わってからも付き合ってよ」といいました。すると母は「何回でも付き合うわよ。今日は何回する?」と言いながら腰を激しく上下しました。

僕はカメラを置いて、下から母のオ○コを激しく突きあげました。母は「アー、いいわ」と声をあげました。僕が下から母のオッパイを揉むと母はドンドン感じていきました。母は4日もしかなった日はめったにないので、いつも以上にすごく感じていました。母に「クリトリスさわってごらんよ」と言うと、カラダをそらせてクリトリスをいじりはじめました。母は「気持ちいい!!」と言いながら腰の上下とクリトリスいじりを同時にやっていました。

だっこちゃんスタイルになると、母は僕の口にむしゃぶりついてきて、よだれで僕の口まわりをべとべとにしてくれました。それから正常位になって母の足を肩にかついで激しくパンパンと突きました。すると母は「ダメダメ!!イク、イク!!」と言って、イッテしまいました。僕はチ○ポを入れたままで母の痙攣がおさまるのを待ちました。

もう一度カメラを持って、イッタ後の母の顔を映していると、トロントした目で僕を見たので「母さん、さっきの話の続き教えてよ」と言いました。すると母は「そんな事どうでもいいでしょ。もう一度して」といいました。僕は質問に答えてくれないのでいじわるしてチ○ポを抜いてしまいました。すると母は「抜かないで!!」と悲鳴のような声を上げました僕が質問に答えてくれたら入れてあげると言うと、母は自分の指でオ○コを開いて「わかったら、入れて」と言いました。でも僕はホームページのネタ作りのためにフェラさせながら答えてもらおうと思ったので「質問が先だよ」と言って入れるのを拒否しました。

母にフェラチオさせながらいろいろ質問しました。母は僕がしゃべっている間はチ○ポを舐めていて、答える時はチ○ポを握らせました。ビデオから音声だけ書き取りました。


僕「もっと、音を立てて舐めてよ」
(母が、激しく音を立てて舐めました)

僕「母さんがホントに近親相姦やってるのを知ったのっていつ?」
(チ○ポから口を外しました)

母「結婚してすぐよ」
(ふたたび口に咥えました)

僕「告白されたの?」

母「見たの」

僕「父さんとおばあさんの?」

母「そう」


全部書くと長くなるのでまとめますと、結婚後に松山の家で泊った時に父と愛しあっている所におじさんとおばさんが「仲良くやってるか?」と言って入ってきたそうです。母がビックリしていると、その横でおじさんとおばあさんがセックスを始めたそうです。それが最初に近親相姦の現場に触れた時だそうです。


僕「ビックリした?」

母「そりゃ、ビックリしたわよ」

僕「じゃあ途中でセックスやめたの?」

母「・・ううん」

僕「母さんの事だから、興奮したんでしょ」

母「わかる?」

僕「わかるよ。それで母さんは見てたの」

母「ちょっとだけね」

僕「どんな体位でしてたか覚えてる」

母「いきなりバックだったわ」

僕「おばあさん、気持ちよそうな顔してた?」

母「ニコニコしながら、母さんたちを見てたの」


そのあと、バックでやっていたおばさんが母のオッパイを舐めにやってきたそうです。その当たりからわけがわからくなって気がついたら、隣で父がおばあさんと座位でやっていたそうです。そして横になって見ていたら、おじさんがおばさんを連れてきたそうです。おばさんは妊娠8ヶ月目で大きなお腹をしていたそうです。


母「おばさんはね『私もビックリしたけど家系だから諦めちゃったわ』と言ったわ」

僕「意外にみんな認めてしまうもんなんだね」


父さんがおばさんに中だししたあとで、チ○ポを抜いて近づいてきた時に母はてっきり自分が後始末するもんだと思っていたら、父さんはおばさんとデイープキスをしてからゆっくり横にしてパンツだけ脱がせてチ○ポを入れたそうです。父はおばさんの大きなお腹に負担がかからないようにしてチ○ポをゆっくり出し入れしたそうです。僕はまだ妊婦としたことがないのでそのシーンを想像してすごく興奮して出したくなりました。


僕「母さん、出したいから舐めて!!」

母「待って、母さんの中に入れて」

僕「1回出してから」
(母が激しく舐めあげてくれて、僕は母の口に向けて発射しました)

僕「まだ飲まないで」

母「すごい、一杯れたわ」

僕「うれしい?」

母「うれひい」

僕「口を開けて」
(母が口を開けると、たっぷりと僕の精液がたまっていました)

僕「終わるまで飲んじゃだめだよ」

母「わかったわ」


精液を口に含ませたままで母に父とおばさんの続きをしゃべらせました。父とおじさんは正常位のままでやって最後におばさんの大きなお腹の上に射精したそうです。母は大きなお腹にの上に出された精液を全部舐め取ったそうです。舐めとっている時に後ろからお尻をつかまれたので振り返るとおじさんがいて入れていいか聞いてきたそうです。母は拒まないで受け入れたそうです。

その質問が終わって、精液を飲んでもいい許可を与えました。母はおいしそうに喉を鳴らして飲んでいました。僕はホームページ用のネタを撮り終えたので、母ともう一度することにしました。四つん這いにしてバックから激しく突きました。パンパンと音を立てて突くと母は頭をソファに乗せて、あえいでいました。母の片足を持ち上げて突くとすごく気持ちよさそうによがっていました。

僕は、一緒にイクつもりだったけど母が我慢できそうになかったのでバックのままでイカせました。僕はすぐにチ○ポを抜くと正常位に変えてもう一度バコバコ突きました。イキたくなったので最後のダッシュをかけて母と同時にイキました。チ○ポを抜いて母の口に向けて発射しました。全部出終わって母に最後まで吸い出してもらいました。
http://www.kazunoie.com/memo/memodeai.html

朝の僕と母と妹の3P

妹がボランティア活動先から大阪に戻ってきて最初の家族乱交のことを報告します。この日の朝、起きてすぐにトイレに行こうと下に降りました。すると、リビングで母と妹が全裸で、父は下半身だけ脱いでいて3Pをやり終えたところでした。父が四つんばいの母のお尻の上に射精したらしくて、妹が口で吸い取っている最中でした。父はチ○ポで飛び散った精液を集めて、妹が吸い取りやすいように協力していました。

父は、僕を見て「父さん、ゴルフだから後は頼む」と言いました。その声で思い出したように母が「お父さん、時間大丈夫なの?」と聞くと父は「あっ」とあわてました。「久美、先に父さんのチ○ポきれいにしてくれ」と言うと、妹は「お母さん動かないで」と言って、口に入れていた精液を母の背中に垂らしました。そして父のチ○ポをパクっと咥えて、オ○コ汁まみれのチ○ポをきれいに舐めました。妹が口をすぼめて何回もしごいたので、父は「またやりたくなるから、舌だけがいいな」と言いました。

チ○ポをきれいにしてもらった父はすぐにパンツとズボンを履いて出て行きました。妹はもう一度母の背中の精液を吸い取っていました。妹が吸い取っている間に、母が「カズちゃん、母さん欲しいから早くトイレに行ってきて」と言いました。僕は妹が父の精液を飲み込むまで見ていたかったけど、朝立ちでビンビンだったのですぐにトイレに行きました。便座に座って朝立ちしているチ○ポを押さえつけてオシッコをしました。

トイレから出ようとしたら母が僕をトイレの中に押し戻してパジャマのズボンをズリ下げました。そして僕を便座に座らせて、その上にまたがってきました。「母さんから先でいいの?」と聞くと、「お父さんが母さんのお尻の上に射精したけど、ほとんど久美ちゃんとやってたのよ」と言いました。母はチ○ポをつかんでそのまま腰を下ろしてきました。母のオ○コの濡れ具合からして、かなり我慢させられていたみたいです。チ○ポが母のオ○コの奥まで入っていく間「ハアー」と声をあげていました。

母は僕と軽くキスしてから、上下運動を始めました。「母さん、かなり我慢したでしょ」と言うと「そんなに濡れてる」と聞いてきました。「グチュグチュだよ」と言うと、「すぐにイキたいから激しくして」と言いました。僕の方からも下から激しく突き上げました。母は「いい、いいわ」と声を出しながら上下運動を続けていました。母の声がだんだん激しくなってきたので、そろそろ妹が乱入してくるかなあと思っていると、予想通り妹がやってきました。ドアを開けっ放しにしてやっていたので、丸見えでした。でも妹は「オシッコしたい」と言うだけで、僕と母のエッチに参加してくる様子じゃなかったので、「母さん、久美がオシッコしたいらしいからトイレからでよう」と声をかけました。すると母は「もうすぐイキそうなの。抜かないで」と言うので、チ○ポを抜かないように立ち上がりました。

すると妹が便座に座ったので、トイレから出ないで、母を壁にもたれさせて片足立ちにしました。妹が「邪魔」と言わなかったので、チ○ポを動かしました。母のあえぎ声と妹のオシッコの音が同時に聞こえていましたが、僕の耳は妹のオシッコの方を90%ぐらいのバランスで聞いていました。でも母がイキそうになっていたので、オ○コを突くスピードは落としませんでした。母は「アア!アア!」と叫びながら感じまくっていました。

妹のオシッコの音が止まったので、僕は妹の方にむかって「ウォシュレットで洗わないで」という意味で手を出しました。妹は意味がわかっていないみたいで、スイッチを入れてしまっていました。せっかくオシッコしたての妹のオ○コをきれいに舐めてあげようと思ったのですが残念でした。妹はオシッコが終わってもそのまま見学していました。母はそれから1分もしないうちに「イク!イク!!!」とイッてしまいました。

母がイクと妹が「お兄ちゃん、今度あたしだよ」と言うので、母のオ○コからチ○ポを抜きました。母は仲良く3Pしようと主張していました。それからもう一度リビングルームに戻りました。リビングルームに戻ったら妹は真っ先にソファに手をついて四つんばいになって僕にお尻を向けました。母が「久美ちゃんが先でいいから、少しだけ舐めさせてね」と言いながら僕の前にひざまづくと、妹が「あたしも舐める」と飛んできました。

最初はチ○ポの両側から舌先でチロチロ舐められました。次に妹が裏筋を舐めて、母が舌の裏でチ○ポの上側をすべらせるように舐めていました。そのあとは交互に口に入れてチュパチュパ舐めたり、思いっきり吸われたりしました。Wフェラが段々盛り上がってきて、妹が僕のチ○ポを握って母の鼻の穴に入れようと遊んだりすると、母も妹の耳の穴に入れようとふざけていました。それからもう一度、まじめにWフェラに戻って、チ○ポと玉を交代で舐めてくれました。仕上げはチングリ返しさせられて肛門を舐められました。

僕のチ○ポの先から激しく「第1チ○ポ汁」が出始めたので、二人並んで四つんばいになってもらいました。母のオ○コも妹のオ○コもかなり濡れていたので、「すぐ入れるよ」と言うと、ふたり同時に「入れて」と返事がきました。約束通り、最初に妹のオ○コにチ○ポを入れました。僕が妹のオ○コにチ○ポを入れ始めると母は「どう、気持ちいい?」と妹に声をかけていました。妹は「気持ちいい」と言っていました。根元まで入れてじっとしていると妹のオ○コが僕のチ○ポを締め付けてきました。やっぱり妹のオ○コが最高と思っていると、母が「お父さんみたいに味わってないで、動いてあげなさい」と言いました。妹は「じっとしてていいよ。でもお母さんが焦れてくるかな」と冷やかしていました。母は妹の乳首をつまんでいました。

それから妹のオ○コの感触を味わいながらゆっくり突き始めました。妹はすぐに反応して声をあげていました。母は四つんばいのままで僕の腰の動きを見ていました。少しだけサービスのつもりで妹のオ○コからチ○ポを抜いて、見せてあげると母が起き上がろうとしたのであわてて妹のオ○コの中に戻しました。母はそのまま僕と妹の結合部を覗き込んでいました。僕は母を意識しないで普段通りに妹を突きまくりました。すぐにはイカせないでおこうと思ったのでおもいっきり強く突くのは数回だけにしました。それでも妹はオ○コ汁を出しまくってチ○ポが白くなっていきました。

母は段々我慢できなくなってきて僕にオッパイを押し付けるようになってきました。仕方ないので「久美、母さんと少しだけするぞ」と言うと「いいよ」と答えてくれました。すると母は妹のオ○コに埋まっていたチ○ポを強引に引っ張りだして、チ○ポにむしゃぶりついてきました。チ○ポについた妹のオ○コ汁を舐めながら「おいしい」を連発していました。チ○ポを抜かれた妹は僕に唇を求めてきました。しばらくこのままの状態でキスをしていると、母が「入れて」と言いました。

母が四つんばいでお尻を突き出していたので、妹が「入れてあげる」とチ○ポをつかんで母のオ○コに当ててくれました。すると母の方から腰を押し付けてきたのでズッポリ入ってしまいました。母は「今日の母さん、すごくHしたい気分なの。だから用事なかったら1日中相手して」と言いました。用事はなかったのですが、妹が「お昼からお兄ちゃんと梅田に遊びに行くから翔ちゃんとして」と言いました。母は「遊びだったらいつでもいけるでしょ」と言おうとしました。でも僕が激しく突き始めたので、母はあえぎ声をあげるので精一杯になっていました。妹が「お母さんイカせちゃって」と耳元でささやくので、そのまま「パン!パン!」と音を立てながら突きまくりました。

母は「イッてもやめないで!」と言ったあとは「イイ!!アア!!アッアッ!!イキそう」と声をあげていました。僕もイキそうになってきたのですが、1発目は妹でと心に決めていたので耐えました。母がすぐにイッてくれたので耐えられました。「イク!!!」と叫んでお尻をピクピクさせていた母の腰を持ってじっとしていると、妹が「今度はお兄ちゃんを気持ちよくさせてあげる」と言って、僕の手を引っ張って仰向けになるようにいいました。仰向けになって母のオ○コ汁付きチ○ポをそびえたたせると、妹が騎乗位でまたがってきました。

「出そうだからゆっくりして」と言ったのですが、妹はいつもどおりの騎乗位を始めました。妹は僕が耐えている顔を見て「ほんとに出そうな感じね」と言うので「マジで出る」と悲鳴を上げました。目を閉じて耐えていたら母が顔を舐めながら「出したら」と言いました。妹も「出していいよ」と言うので、「中出しする」と言ってから妹のオ○コの中に射精しました。妹のオ○コの中に大量の精液を注ぎこんでいると、妹が「お兄ちゃんの耐える顔ってかわいい」と言いました。

精液が全部でききると、妹がゆっくり離れました。すぐに母が妹のオ○コに口を付けて精液を吸出していました。妹は僕のチ○ポの後片付けをしてくれていました。母は最初は妹を横向きにしてオ○コに口を付けていましたが、最後は母の顔の上に座らせて舐めていました。妹は僕のチ○ポをトコトンまで吸い出していました。玉を揉みながら「思い切り吸ったら、タマタマの全部出てきたら面白いのにね」と言いました。

いつまでも離れないので母が「口開けて」と集めた精液を妹の口に入れにやってきました。妹はチ○ポから離れて、母にむかって口を大きく開きました。母は「飲んじゃだめよ」と言ってから妹の口に精液を流し込んでいました。そして妹を仰向けにしてから最後の仕上げに妹のオ○コを舌全体で「ベロ〜ン」と舐めてきれいにしていました。

妹のオ○コをきれいにした母は妹の上にのしかかって行きました。そして妹に精液を口角から少しずつ出させて吸い取りながら、「このままでいいから母さんに入れて」と言いました。僕はすぐに上下に並んだオ○コの上側にチ○ポを挿入しました。母はオ○コにチ○ポがズッポリ入っても妹との精液の口移しをやめませんでした。しばらく僕はその様子を見ながら母のオ○コを突きました。1分ぐらい突いていると、「久美ちゃんと交互について」と言うので、母のオ○コからチ○ポを抜いて、下側のオ○コにチ○ポを入れました。妹は気持ちよさそうな顔をしながら母と口移しを続けていました。

1分毎の交代を3セットやったら、母が「あと2回出して」と仰向けになりました。そして妹には「お兄ちゃんの精液3回分まとめて味わいたいから飲んじゃだめよ」と言うと妹も賛成のようでした。母のオ○コにチ○ポを入れると今度は妹が上にまたがってきました。妹のオ○コを見ながら、母を突きまくりました。時々妹のオ○コに指を入れて感じさせたりしながらやったので、腰がおろそかになって怒られました。

母はイキそうになってきた時に「久美ちゃんの口に出して」と言ったので、母が一度イッたあとの2回目に一緒にイッて妹の口に射精しました。妹の口の中にはさっきの精液や唾液が入っているので量はわかりにくかったのですが、それなりに出ました。妹の口の中は2発分の精液と母と妹の唾液が一杯だったので、チ○ポの吸出しと後始末は母がやってくれました。母は少しだけ精液のまざった唾液を妹の口に流しこみました。

2発出したあとですが、チ○ポはビンビンのままなので、3発目はすぐに始めました。母が「こぼれるから母さんが口に入れるわ」と言って、口移しを要求したのですが「平気」と言って拒否して、口に含んだままで仰向けになりました。母は「何かの拍子に飲むことがあるからダメ」と言って、母が仰向けになって、オッパイの上に妹の顔が来るようにしてバックからやるように言いました。

言われた通りに、バックからチ○ポを突っ込みました。妹は口を開けることが出来ないので「ウウウ」と唸っていました。母に「この方が久美がこぼす危険性高いと思うなあ」と言うと「オッパイの上だったらいくらこぼしても大丈夫よ」と言いました。「母さんがああいうから、思いっきり突くよ」と言ってから妹のオ○コを突き始めました。

3回目なのでイクまで時間がかかりました。妹はその間に2回イッていました。でも唸り声だけなのでいつもと様子が違いました。僕が射精に向けて腰を早く動かしだすと、下から見学していて心配した母が「お母さんの口に垂らしなさい。思いっきり声あげたいんでしょ」と言って、母はカラダをずらせました。妹は母の口めがけて精液をドバーっと垂らしていました。

それからは今まで我慢した分、大きな声をあげまくっていました。すぐに妹が「またイキそう」と言ったので、「お兄ちゃん、もうすぐイケる」と言うと「一緒にイク」と耐えていました。そして妹と同時にイキました。今度も中出しでした。グッタリしている妹のカラダを支えて母の顔をまたがせました。母は指を入れて精液をかきだして口に入れていました。

3回分の精液と唾液の量は結構ありました。母と妹が口移しをしあっている間にグラスを取ってきてあげました。ケンカしないように半分ずつわけるためです。妹の口から2つのグラスに精液が入りました。半分ずつになるように分けました。妹からグラスを選んでふたり同時に精液を飲んでいました。
http://www.kazunoie.com/memo/memo3pka.html

母に口内射精×2+放尿+野外ゴックン

斉藤先生に、登校前に精液を飲ませようと予定していた日に、斉藤先生が都合でこられなくなってしまいました。前の日に、学校の用事で、僕の家のドアにタッチするぐらいしか時間がないと電話が入ったので、「じゃあ、溜まってる分全部、母と妹に出すよ」と冷たく言うと、先生は「行きますから飲ませてください」と言いました。

その日の朝、母が「もうそろそろ先生が来る時間でしょ。起きなさい」と起こしに来てくれました。そしていきなりパンツから朝立ちしてるチ○ポを引っ張りだして、「先生、忙しいんでしょ。先生が着いたらすぐに、射精できるように、お母さんが舐めてあげようか」と言いました。「舐めるだけだよ」と言うと「わかってるわよ。お母さんだって忙しいんだし、今日はかなり疲れそうだから、舐めるだけで十分よ」と言いました。

オシッコがしたかったので、先にトイレに行くと、ドアを開けたら母が待っていて、パンツの上からチ○ポを握ってきました。「先生に電話したら、あと3分ぐらいだそうよ。だから急いで」と玄関に引っ張っていかれました。母はすぐにパンツを脱がせて「味わってる暇なさそうね」とカポっと口に咥えました。軽く口を前後させてから、舌で全体を軽く舐めてから、口の中に戻して、前後運動を始めました。母は「先生を待たせすわけにいかないから、来るまでに出したくなったら出しなさい。口の中で預ってあげるから」と言いました。その時、ちょうど妹が外出するために、やってきて「お母さん、半分ぐらい飲むから出しちゃダメ」と言って、出て行きました。

妹が出て行った直後に、斉藤先生から電話が入りました。いつもと違う道で来たので、渋滞に捕まって僕の家に寄ったら授業を飛ばさないといけないぐらい遅刻になると言いました。「さっき3分って母さんから聞いたよ」「クルマ止めて走った方が速いんじゃないの?」と強引に越させようと思いました。でも母がチ○ポから口を外して「学校優先よ」と言いました。その声が先生に聞こえたみたいなので「先生が来たら、すぐに出せるように、母が舐めてくれてる」と言いました。母が電話を奪って「息子の精液なんて、いつでも飲めるんだから、今日は学校に行きなさい。ちゃんと言い聞かせるから心配しないで」と言いました。

結局、斉藤先生が来られなくなったので、母の手を退けてパンツを履こうとしまいました。母は「出そうになってたでしょ。飲んであげるから出したら」と言いました。僕は「瞳おばさんの下見に付き合うかも知れないから取っとく」と言うと、「それならお母さんに出しなさい」と履きかけたパンツを奪い取られました。母は「当分、姉さんとはエッチしないで。居候も禁止」と言いました。どこかの兄弟も仲が悪いですが、最近母と瞳おばさんが少しギクしゃくしています。原因は竹野のおじさんに再婚話が持ち上がってるからです。

母が少し機嫌が悪くなったので、母の口に射精することにしました。「じゃあ飲んで」と言うと、「いい子ね」と舌を絡めてきました。「さっきは、味わう暇なかったから、ゆっくりさせて」と言って、舌をねっとり絡めてきました。「ジュルジュル」「カポカポ」「チュパッ、チュパッ」と音を立てたり、チ○ポを持ち上げてタマにも舌を伸ばしてきました。タマを舐めながら僕を見つめてニッコリ微笑みながら「玄関で飲むだけのために舐めてたら、昔のことを思い出して来ちゃったわ」といいました。「高校の頃の話?」と聞くと、「そう。カズちゃんの全身に精液詰まってたころね。でもあの頃は、すぐ出してたわよね」と笑いました。

最初に舐めてもらった時は、気持ちよさもあったけど、母が僕のチ○ポを咥えているという光景に異常に興奮したのはあって、ほんとに一瞬で射精してしまいました。でもそれからは、我慢する訓練をしたので、少しづつ耐えられるようになりました。だけど登校前に射精したくなった時や、父や妹が家に居るのに出したくなった時は、我慢しないですぐに射精する時もありました。登校前は絶対に即射精してました。

母はチ○ポを舐め続けながら、「最後までしなくても、お口や手だけで処理してあげてるお母さんって、全国に何人ぐらいいるのかしら。そんな情報入ってこないの」と言いました。「入ってこないよ。体験者の人からメールが来るか、それともこの前みたいに苦情がくるかだよ」と言いました。苦情と言うのは、お母さんに迫った男の子がいて、追及したら僕の影響というので怒られました。母は「挿入は問題あるとしても、包茎と持続力は、母親が責任持って指導した方が絶対にいいわ。じゃあそろそろ面倒みるわね」と少し強めに舐め出しました。

母は、唇で締め付けながら前後にしごいたり、バキュームフェラしたり、チ○ポの先を舌で強めにレロレロしたりして、出させようとしてきました。僕は我慢しないでイクことにして「そろそろイクよ」と声をかけました。母は頭を前後に振り続けました。「イクよ!」と言って、母の口に射精しました。溜まっていたのでタップリ出ました。全部出来きると母は口を外して、精液を含んだままで「たくさん出たわね」と言いました。そして姿見で口の中を見ながら舌で精液を転がしてから、おいしそうに飲みほしていました。

母が精液を転がしている間に、僕はパンツを履いたのですが、チ○ポがビンビンのままなので、パンツが膨らんでいました。母は「1回で我慢出来るの?今日は口でしか相手してあげられないけど、午前中なら、昔みたいに好きなだけ出していいのよ」と言いました。「いいよ」と言うと母は少しがっかりした顔をしました。でも意外にあさり諦めて「朝ご飯食べる?」聞くので「食べる」と答えると、「すぐに出来るから」というので、キッチンに付いていきました。

母は、手際よく朝食を作ってくれて、僕の目の前に置いてくれました。そしてテーブルの下に潜り込んで、パンツの中に手を入れてきました。「もう出さないよ」と言うと、「お母さんもお腹空いたわ」と言いました。左手でチ○ポを抑えようとしたら、「食事中は、両手はテーブルの上!!」と怒りました。仕方ないので左手をテーブルに乗せました。母はパンツからチ○ポを引っ張り出しました。チ○ポがすぐに立ったので母は「まだ出したらないみたいね」と言いながら、食事が終わるまで揉んでいました。

食事が終わったので、食器を洗おうとしたら、「洗ってあげるから、もう一度だけ頂戴」と要求しました。僕が断ると「お母さんのカラダに飽きたのね」と寂しそうに言いました。「母さんのカラダは、飽きるとか飽きないとか超越してるよ」と言うと、「だったらもう一度いいでしょ。抱いてって言ってるわけじゃないんだから」と言いました。それでも渋ると「自分の子と毎日一緒のベッドで寝る母親(瞳おばさん)の方が魅力的なのね。」とチクチク言いました。

「ただ出すだけだったら面白くないから、町内さん呼ばない?」と言うと、母は「ほらあ、やっぱり飽きたのね」と言いました。「違うよ。母さんだって見せるの好きだろ」と言うと「まあね」と素直に認めて、町内さんに電話していました。でもパート中だったので諦めて、イスから立ち上がりました。母はひざまずいて、すぐにパンツを脱がせてチ○ポを握ってきたのですが、握ったままで少し考えごとしてから立ち上がりました。タレの容器が入っている棚を開けたので何をしたいのかすぐにわかりました。

母は「1発目も残しときゃよかったわ」と言いながらチ○ポを咥えました。10分ぐらいたっぷり舐めてもらってから母の口に射精しました。母は容器に精液を流しこみました。そして容器を眺めて「たったこれだけじゃあ面白くないわね」と3発目を要求しました。「出しても薄いから意味ない」と拒否したら諦めてくれました。その代わりに、オシッコを別の容器に入れて欲しいと頼まれました。自分で入れるのは情けないと言うと、母が尿道に容器を当ててくれました。すぐに一杯になったので残りは全部母が飲んでくれました。
http://www.kazunoie.com/memo/memo2gokkun.html

昼はホテルで母に2発、夜は妹に2穴

妹の友達に見せてしまってほんとに良かったのか悩んでいます。そのことを妹に言ったら機嫌を悪くしてしまいました。母は「2、3日したら機嫌直るわよ」と言ってくれたのですが、僕が機嫌を取らなかったので、なかなか直ってくれませんでした。でも今は直っています。だから今週の告白が書けます。

妹の機嫌を損ねて3日目、僕は修行先が休みでした。だから妹を連れて遊びに行こうと思っていました。前の夜にダメ元で父に「明日、クルマ貸して」と頼んだら、父は返事してくれなかったのですが、母に「今晩、付き合いがあるから電車で行く」と言って、クルマを置いていってくれました。母は父が家を出ると、すぐに僕を起こしにきてくれて、クルマのことを教えてくれました。すぐに妹の部屋に行ったら、妹は「ノックぐらいしてよ」と怒っていました。僕が高校生の頃に、全裸で押しかけたら良く怒られたけど、最近はノックもしないで入るのが普通になってたのでビックリしました。それ以上、誘えなかったので諦めました。

妹が外出したら、母が「せっかくクルマあるんだし、どこかドライブに連れてって。お母さん、もうすぐ捨てられる身だから、いいでしょ?」と言いました。僕は妹とのことで悩んでいても仕方ないので母と出掛けることにしました。母が化粧しに2階にあがっていきました。なかなか降りてこないので、露出プレイの用意でもしてるのかなあと思って、覗きに行きました。すると母は鏡台の前でケータイで会話をしていました。母が「うちの子が私とのデート、待ちきれないらしいわ。・・・・休みなの・・・・まだ決めてないわ・・・もちろんするわよ。真昼間だけどクルマの中でもいいかも。・・・・ちょっと待って」と電話の相手に言ってから、僕に向かって「お母さんがカズちゃんのおちんちん舐める音が聞きたいんだって。脱いで」と言いました。過去にも何回かこんなことしたことがあるので、電話の相手は聞かなくてもエアロビの先生ってわかってしまいました。母は「レロ、レロ、ジュルジュル、ちゅぱっ、ちゅぱっ、カポカポ」と音を立てながら、舌で亀頭を舐めまわしたり、裏と表を往復したり、唇でしごいたりしました。「うちの子、毛を剃っちゃたのよ、舐めやすくなっていいわよ」と言ってから、チ○ポを舐めながら、乱交パーティの相談をしていました。

「もうビンビンよ。W先生が見たらすぐに入れたくなると思うわ。・・・まだしないわよ。家の中だったらいつでも出来るわ。・・・たまには2人だけで楽しみたいし、体力残ってたら行くわ。じゃあ」と言って電話を切りました。エアロビの先生は、母が僕のチ○ポを舐めている音を聞いているうちにエッチしたくなって、今から乱交しないかと言ったそうです。母は「この前、浩樹君とほんとの初体験した人いたでしょ?今、ジムにいるらしいのよ。倉庫に連れ込むから来てって誘われたけど断っちゃった。久美ちゃんの機嫌取る方が先だからね」と言いました。

チ○ポをズボンの中に入れて、クルマで出かけました。母は僕のチ○ポをズボンの上から軽く揉んだり、赤信号で止まるとキスを迫ってきました。5回目ぐらいのキスの時に信号が代わったのにキスしてたからクラクションを鳴らされてしまいました。それから、母はまじめに座っていました。行き先は母の希望で京都でした。クルマをパーキングに入れて、母と腕を組んで清水寺から坂をくだって円山公園で少し休憩しました。母は修学旅行生がたくさんいたのにキスを求めてきました。僕が軽くキスすると、年齢差があるのでやっぱり不思議そうに見られてしまいました。

食事をしてから、河原町とか新京極通りで母の買い物に付き合いました。妹に下着を何回かプレゼントしたことのある店に近づいたら「お土産にプレゼントしてあげなさいよ」と言いました。母に連れられて店に入りました。母は店の中でも腕を組んだままで下着を選んでいました。僕が選ばうとしないで付いて歩いてたら「自分の好きなの選びなさい」と言うので、選びました。母は自分用の下着も僕にプレゼントしてと言いました。妹と母のブラとパンツのセットを買って店を出ました。そのまま歩いているとファッションホテルが見えました。母は「さっそく付けて見たいわ」と言って、ホテルの方に引っ張りました。

部屋に入ると、先に母と一緒にお風呂に入りました。母は家を出てからずっと僕に甘えていたので母から言われる前に、カラダを洗ってあげようと思ったら、「お母さんが洗ってあげる」と言って、手にボディソープを付けて、全身を手でやさしく洗ってくれました。チ○ポは、パイズリで洗ってくれてから、「久しぶりに壺洗いしてあげてるね」と言って、チ○ポをオ○コに当てて腰を降ろしてきました。「硬すぎるけど、ここでは壺洗いだけよ」と言いながら、腰をくねらせたり上下運動したりして、チ○ポを洗ってくれました。母は僕の表情を見ながら「感じたらだめよ」と言いながら、自分も感じないように我慢してるみたいでした。少しだけ下から突き上げたら「ダメ」と腰を浮かせて離れてしまいました。その次に肛僕を四つん這いにさせて、肛門を気合入れて舐めてくれました。肛門を舐めてる間、チ○ポも手で軽くしごいてくれていたので、母のオ○コに入れたくなってしまいました。母がお尻から手を離したので、僕は立ち上がって母の手を引っ張って立たせて、キスをしようとしました。でも母は「お母さん、まだ洗ってないわよ」と抵抗しました。僕は「早く入れたいからいいよ」と強引にキスしました。

母は抵抗をやめて僕の舌を受け入れてくれました。キスの刺激で母のカラダから力が抜けたので、母の片足を持ち上げて向き合ったままでチ○ポを入れようとしたけど、母は「せっかくホテルに来たんだから、ベッドで抱いて」と言いました。僕は諦めてバスルームから出ました。そして母をベッドに押し倒してもう一度キスから始めました。キスの後は母の耳とか首筋を舐めてから、乳首を丁寧に舐めました。母は「こんなに丁寧にしてくれるのって久しぶりね」と言いました。僕は「母さんは、丁寧にされるのと、犯されるようにするのとどっちの方がほんとは好きなの?」と聞きました。すると母は「両方とも好きよ。カズちゃんがじっくり気持ちよくしてくれるんだったらそれでもいいし、お母さんの都合無視して、入れたくなったら入れてもいいし、どっちでも好きよ」と言いました。僕は時間がたっぷりあるので、丁寧に舐めました。オ○コの穴にも舌を入れてきっちり舐めました。肛門もたっぷり舐めました。

母のオ○コが濡れまくってから下着のことを思い出しました。今から履いたら汚れるので「母さん、下着着けなくていいから入れるよ」と言うと、「せっかく買ってもらったんだから、付けさせて」と言いました。母はベッドから起き上がって、さっき買った下着を着けました。すごくエッチポイ下着でした。母は「やっぱり濡れちゃったわ」とパンツの股間を触っていました。僕は「着けたままやるよ」と母をベッドに押し倒しました。そしてブラの上から、オッパイを揉みまくりながらキスをしてから、パンツを少しずらせてチ○ポをオ○コに当てました。母は頭を持ち上げて股間を覗きこんで「すごくエッチな感じね。これ気に言ったわ。ありがとう」と言いながら、僕がチ○ポを母のオ○コの奥までゆっくり入れて行くのを見ていました。

チ○ポがズッポリ入ると、母はまたまたキスを求めてきました。僕は腰を動かしながらキスをしました。キスの最中に母がごろんと回転しようとしたので、そのまま上下逆になりました。母は僕のチ○ポをオ○コにガッチリ入れたままで僕の顔が唾液まみれになるまで舐めまくっていました。それから母は上下運動を始めました。母は「すごく硬いけど、出したかったら出してもいいのよ」と言いながら腰を動かしていました。すこしやばそうだったけど「大丈夫だよ」と言うと、母は「ほんと?」と言ってチ○ポを抜いてしまいました。母は今にもイキそうなぐらいにパンパンになっていた僕のチ○ポを見て「我慢しないで出しなさい。焦らせ過ぎてごめんね」と言って、もう一度騎乗位でチ○ポをオ○コに入れました。そして母は「出しちゃいなさい」と腰をくねらせてきました。僕は「じゃあ出すよ」と我慢しないで、母のオ○コに中出ししました。

母のオ○コの中にピュッ!ピュッ!!と精液をたっぷり出しながら腰をビクッビクッとさせていたら、上から僕の顔を見ていた母が「カズちゃんのイキ顔かわいい」と言いました。僕は「母さんのイキ顔もかわいいよ」と言うと「ほんとにそう思ってる?」と笑顔で言いました。「ほんとだよ」と言うと「じゃあ今度はお母さんもイカせてもらうわ」と、精液を入れたままで腰を動かし始めました。僕も下から母のオ○コを突き上げました。母は僕が攻めだしてからも腰を動かし続けていたので、僕は母のお尻をしっかり固定してバコバコ突き上げました。母は自分から腰を動かすのをあきらめて、僕に突かれて感じまくっていました。そのまま突き続けると「イク、イク!」と軽くイッてしまいました。

それから母はカラダを反らせて、自分の精液まみれになっているチ○ポが母のオ○コに入っている様子を見せつけてきました。「パンツにも精液ついっちゃってるよ」と言うと「あとで舐めてきれいにするからいいわよ」と言いました。そしてそのままゆっくり回転を始めました。180度回転したらカラダを前に倒して「見える?」と聞いてきました。パンツ脱いだ方が良く見えるので「脱いだ方がいいよ」と言うと、母はチ○ポを抜いて立ち上がりました。そしてパンツを脱いで、パンツに付いた精液をきれいに舐め取ってから、もう一度背面騎乗位でチ○ポをオ○コに入れました。そしてカラダを少し前に倒しながら腰を動かしてチ○ポをオ○コでこすってくれました。母のオ○コの中の精液も、チ○ポに付いた精液もふき取らないで再開したので精液でグチャグチャになっていました。

そのあとは、バックで母を突きまくりました。ゆっくり出し入れしたり、高速で突きまくったり、グリグリしたり、チ○ポを抜いて、チ○ポでクリトリスを擦ったりしました。バックで母をイカせたら、今度はオ○コと肛門に交互に入れました。僕が「さっき、オ○コに出したから今度は肛門に出す?精液飲んだら、全部の穴に入ったことになるからその方がいいでしょ?」と言うと、「そうして」と答えました。オ○コと肛門をだいたい30秒間ずつ突きました。母は「アアッ!アアッ!!」と叫びながら感じまくっていました。「両方の穴でイカせてあげるね」と言って、最初はオ○コを突きまくり続けました。母はすぐに「イク!イクウウウ!!」とイッてしまいました。

母のオ○コから精液とオ○コ汁のニオイでプンプンしたチ○ポを、肛門に入れました。そして射精するまで肛門にズボズボ出し入れを続けました。母はシーツを掴みながら「カズちゃんもイクの?」と聞きました。「もうすぐイク」と言うと、「一緒にイクわ」と言って必死で耐えていました。耐えている顔が今にもイキそうな顔だったので、僕もすぐにイケるように激しく動かしました。そして「イクよ」と声をかけました。その瞬間、母は「イグッーー」とイッてしまいました。僕は母の腸にめがけて射精しました。

母は余韻に浸りながら「気持ちよかったわ」と嬉しそうでした。そして手を伸ばして僕のチ○ポがまだ硬いままなのを確かめてから、「カズちゃんのおちんちんって、何歳ぐらいまで出しても硬いままでいられるのかな・・」と言いました。そのあと、チ○ポを抜きました。母が頭をあげて口を開けたので、僕は母の口にチ○ポを入れました。母は「恥ずかしいぐらい汚れてるわ」と言いながら、チ○ポを丁寧に舐めてきれいにしてくれました。そのあとは僕が母のオ○コと肛門に付いた精液を自分で舐め取って、母の口に入れてあげました。母は「ありがとう」と言ってから精液を舌の上で転がしてからおいそうに飲んでいました。

喉が渇いたので冷蔵庫からアミノ酸系ドリンクを出して飲みました。母は口移しで飲みたがったので、口に含んで飲ませてあげました。そのままキスしました。「今日、何回ぐらいキスしてるかなあ」と聞くと、母は「10回以上してるかなあ・・」と言いました。このままもう1発やろうと思ったので、舌を母の口に入れようとしました。すると母が「そんなことしたら、お母さんまた欲しくなるわよ」と言いました。僕は「3発出すつもりだったけど?」と言うと、「うれしいけど、下着プレゼントしてお礼に久美ちゃんが欲しがったらどうするの?」と言いました。素直に2発でやめて、もう一度お風呂に入って帰りました。

夜、妹が帰ってきました。買ってきた下着を渡して謝りました。妹は無反応で自分の部屋に入りました。母は「いつまでも怒る性格じゃないから、もう大丈夫よ」と言ってくれました。夕食は3人で食べました。妹は母とは会話したけど、僕を無視していました。でも目はあわせてくれて「イー」って顔をしてきました。今日もダメかなあと諦めたのですが、夜遅くに、妹が僕がプレゼントした下着を着けて入ってきました。そして「下着姿のあたしみながらオナニーできたら許してあげる」と言いました。僕はすぐに下半身だけ脱いでチ○ポを握りました。チ○ポがすぐに立ったので「反応よし」と妹が言いました。僕は妹の下着姿を見ながらしごきました。イキそうになってきたけど、機嫌が直りかけた妹に「飲んでくれる?」と聞けないので、ティッシュの方を見たら、妹は僕の前にしゃがんで口を開けてくれました。僕は、妹の口の中に射精しました。妹は「薄いけど、お母さんに2回で我慢したから許してあげる」と言ってくれました。妹は精液を飲んで部屋から出ていきました。

ほっとしたので、そのままベッドで眠ってしまっていました。気がついたら母がチ○ポを舐めていました。妹の部屋からは「アアン、アアン」と妹の声が聞こえていました。母は「早く、久美ちゃんの部屋に行きなさい」と僕を起こして背中を押してくれました。妹の部屋に行くと、父が正常位で妹のオ○コにチ○ポを突っ込んでいました。父は「やっときたか。久美、サンドイッチしたいらしいから」と言いながら、妹を抱いてひっくり返りました。妹の肛門は、さっきまで父のチンポが入ってたみたいな感じでした。僕はすぐに肛門にチ○ポを当ててゆっくり入れました。

この体勢で肛門を突きまくってイカせたら上下逆になりました。今度は父がオ○コを突きまくってイカせました。父がオ○コからチ○ポを抜くと母が僕のチ○ポを肛門から抜いて、妹のオ○コに入れてくれました。そして妹の手を引っ張って騎乗位にさせてから180度回転させました。父はすぐに妹のカラダを前に倒して肛門にチ○ポを入れました。父がいきなり激しく突きまくると妹は「アアアアアアアアーーーー」と声を上げていました。父は「肛門に出すぞ」と妹と同時にイッてしまいました。妹は僕の顔とカラダによだれを垂らしまくっていました。

母が妹の肛門をきれいに舐め終わるまで待ってから、座位になってキスしながらグリグリと動かしました。隣で母が父のチ○ポをもう一度たたせようと舐めていました。父はチ○ポが元気になると「お前も出すか?今日2回出したらしいな。3回出すなら出してもいいけど、疲れてたら、久美が失神するまでサンドイッチ続けて終わりにするからな」と言って、僕に立ったままやるようにいいました。父は立ったままの妹の足を持ち上げて肛門にチ○ポを入れました。妹は自分の力で立っていられなかったので、僕と父が無理やり立たせながらオ○コと肛門を突きまくりました。妹がイッた時は完全に足の力が抜けていました。妹がイッたので動きを止めたら、母が妹と僕と父の結合部にしゃがんで舌を這わせてきました。母は「洪水ね」と言いながら舐めていました。

射精したかったので、最後は1対1になって、妹をマングリ返しにしてオ○コと肛門を交互に突いてオ○コに中出ししました。母が精液を吸いだそうとオ○コに口を付けたら、妹はカラダを痙攣しながら「感じすぎるから指でかき出して」と母の舌をオ○コから離そうとしてました。母が「きれいにしてあげるだけよ」というと、妹はオ○コを舐めさせました。それから母は指を入れて精液をかき出す前に、クチュクチュとオ○コをこねくまわしてイカせていました。最後に妹は「死ぬかと思った」と満足そうに言ってました。
http://www.kazunoie.com/memo/memonakan.html


妹が種付け再開を宣言した日のこと

9月に入ってから、妹との種付けを再開しました。再開後の妹の方針は
1)まずはオ○コを時間をかけて舐めてイッてから挿入。
2)体位はバック、屈曲位、まんぐり返し突きで、チ○ポの先を子宮口に押し当てて射精すること。
3)射精後は30分間、染みこませること
この3つをしっかり守ること。そして種付け日記をつけると言いました。
これだけなら、大したことはないのですが、週に2回以上はこれを2セット(ようするに2発射精)やって欲しいと言いました。

初日のことです。僕と母と妹とミーちゃんと夕食を食べている時に、妹は「今日から子作り再会するから、お母さんとミーちゃんはお兄ちゃんとのエッチを控えてね」と突然言いました。すると母が「急に言われても困るわ。カズちゃんとはもう4日間もしてないのよ」と今日から子作りに入ることに文句を付けました。
「ミーちゃんは、おとついお兄ちゃんとエッチしてたから平気よね」
「・・・ハイ・・」
妹に睨まれたミーちゃんがしぶしぶOKすると、次は母に「祐君と春樹君のエッチで忙しくてお兄ちゃんとしなかったのはお母さんの勝手よ」と言いました。
すると母は、春樹君のお母さんが生理だから、オナニーさせるのは可愛そうとだし、春樹君が祐君のお母さんとエッチする日は、代わりに祐君を癒してあげないと寂しがるからと、自分の正当性を主張しました。
でも結局、妹が「妊娠するまでの短期間だけだから」と無理やり納得させてしまいました。

母が不機嫌そうに食事を取っていると、めずらしく妹の方から母の機嫌を取り始めました。一応、父は今でも、兄妹で子供を作るのはあまり薦められないと少し反対する気持ちを持っているので、母に協力してもらうために「お兄ちゃんに射精させたら困るけど、そうじゃなかったら10時迄ならエッチしてもいいよ」と言いました。
「ミーちゃんは、どうする?」
「エッチしたいです!!」
母は、ミーちゃんもエッチしたがってることがわかって、「一緒にしよう」と言いました。すると妹が「3Pは、ダメ!お兄ちゃんが出しちゃったら大変だから、別々にして」と言いました。
母も、妹もとりあえず、今日エッチしてイケたら3Pじゃなくてもいいからと妹の命令に従いました。

「両方の穴使いたいから、準備してこいよ」とアナルエッチ大好きなミーちゃんに言いました。ミーちゃんが「あと片付けしてからにします」と答えると、「今日は、サービスしてあたしがしてあげる」と妹が言いました。それを聞いたミーちゃんは、すぐにトイレとシャワーをしに行きました。
そして母が僕の手を握ると、リビングに移動しようとしました。
でも妹が「2階はダメだよ。あたしの見えるとこでして」と言うので、母は僕から手を離して僕を全裸にしました。そして自分もパンツを脱いでその場にひざまずいてチ○ポに顔を近づけてきました。そしてチ○ポの先っぽを軽く舐めながら「10時までは、久美ちゃんは絶対に参加してこないのね?」と聞きました。
「10時からお兄ちゃんにたっぷりしてもらうから、邪魔しないから安心して」と答えると、あと片付けを続行しました。
母は「ほんとに邪魔しないのかしら」と僕に言いながら、先っぽをチュパチュパしてから、チ○ポ全体を舐め始めました。僕のチ○ポはすぐにギンギンになったけど、母は自分の持ち時間の1時間をたっぷり堪能しようと、それから約15分間フェラを継続しました。

テーブルの上がきれいになると、仰向けに寝かされて母は玉舐めもやってくれました。玉舐めしながら母は、僕のチ○ポを軽くしごきながら第1チ○ポ汁をドクドクと出させながら、手のひらに取ってチ○ポ全体にこすりつけてきました。凄く気持ちいいので、舐め続けてもらっていたら、キッチンから一旦離れていた妹が「お母さんだめよ」と言いながら戻ってきました。
「そんなに第1チ○ポ汁出させてどうするのよ」と母の手を掴んでチ○ポから離させてしまいました。
「お兄ちゃんが射精しちゃったら、どうするのよ!!」と少し怒った口調で言いました。「わかったわよ。カズちゃん、もう入れちゃって」と、母はキッチンの床の上で四つん這いになりました。テーブルの上から降りると、フェラだけですっかり濡れた母のオ○コの穴の表面に浮出ていたオ○コ汁をチ○ポの先っぽで全体に伸ばしました。たっぷり伸ばしてから、そのままバックでチ○ポを入れました。
「アアーーー硬くて気持ちいいわあ・・」
背中をピーンと伸ばしながら、最初の刺激に感じた母が声をあげました。そして「今日は、何回もイッたら怒られそうだから、イカせてくれなくていいから、ずっとお母さんの中をゆっくりと擦って欲しいの」と言いました。
「まだ30分以上は、母さんとエッチできるけどいいの?」と聞くと、「いいの。30分間ずっと擦って、それから最後にイカせて」と言いました。

母の奥でじっとしていたチ○ポをゆっくりと動かし始めました。チ○ポの先っぽでオ○コの上側を特に強くこするような感じでゆっくりと擦りました。
「気持ちいいわ〜」
妹は母が気持ちよさそうな声をあげていても、おかまいなしに片付けとか、ミミちゃんや大和の世話をやっていました。
激しくピストン運動しているわけじゃないので、母はまったりと感じてるような声をあげていました。
それからほんとにゆっくりと擦り続けました。擦り続けながら、母のオ○コの構造をじっくりとチ○ポの先っぽでチェックしました。母がオ○コの中で一番感じるポイントをこすりながら、そこに何かあるのかじっくりと確かめました。普通のスピードとかゆっくりしたスピードのピストン運動では発見することが出来なかったのですが、この時は、3mm/s位のスピードでオ○コの上側を探りながら進んだので、オ○コの中の微妙な変化に気づきました。
オ○コの中にカメラを入れてもわからないと思いますが、その場所に当たった瞬間に母のお尻がブルッと震えるます。指で探ってもわからないのに、それより鈍いはずのチ○ポの先でオ○コの中の硬さが微妙に硬いのがわかりました。
たぶん、母のからだが年齢とともに衰えてきたのが原因だと思います。そのポイント中心に擦りました。

「うわああーー気持ちいいーーーー」
ちょうど母の頭の延長線上に妹がいたので、背中を反らせて、気持ちよさそうな顔を妹の方に向けて感じていました。
そのまま、バックで約10分間ぐらいゆっくり擦り続けました。そして後片付けが終わった妹がリビングのミミちゃんと大和のところに移動したので、僕と母は結合したままでリビングに移動しました。
リビングでは、母をソファに座らせて、そしてオ○コを擦りました。ミミちゃんが母の所にきたので、母はミミちゃんを抱きながら、チ○ポの感触を楽しんでいました。
両方の穴の準備が完了したミーちゃんが戻ってきたので、母のオ○コを擦りながら、ミーちゃんのクリトリスを指でいじったりもしました。

ずっと擦り続けて、最後にイキなりイカせるのはしんどいので、ラスト15分が過ぎてからピストン運動を開始しました。すると妹が「お兄ちゃんに余計な体力つかわさないで」と言いました。激しいピストン運動じゃなかったけど、母は「じゃあ。仰向けになって」と、僕に仰向けになるように言いました。仰向けになると、母は自分のオ○コ汁まみれのチ○ポを掃除してから、対面騎乗位でまたがってきました。母のオ○コの奥までチ○ポがズッポリ入ると、妹が勝手に「ミーちゃんはお兄ちゃんに舐めてもらったら」と顔面騎乗するように言いました。
ミーちゃんのオ○コを舐めながら、時々突き上げて母をイカせる準備をしました。そしてラスト5分になると、母が「久美ちゃん、最後はお兄ちゃんに奥深くまで激しく突いてもらいたいのよ。だめ?」と腰をくねらせながら言いました。妹は「お兄ちゃん、さっさとイカせちゃって」とOKを出しました。

そしてもう一度バックで母のオ○コにチ○ポを挿入しました。今度は挿入の瞬間から強くズボッ!!と突っ込んで母のお尻に下腹部を打ち付けました。
「ああーーきたーー!!・・キク!!気持ちいい!!・・そこそこ・・気持ちいい!!!」
母は自分からも僕にお尻をぶつけるように動かしていました。隣でミーちゃんがパンツの上からクリトリスを触っている様子が見えていたし、母も早くイクことを望んでいたので、スピードを緩めずに突きまくりました。
ゆっくりと擦っている時でも、オ○コ汁がドクドクと放出されていて、僕のチ○ポがかなり白くなっていて、擦るのを止めてオ○コ汁を乾燥させたら、母と僕が結合したままで固着されてしまいそうなぐらいでした。そんな状態から激しくピストンをしたので、雰囲気的には指マンで汁をピュッピュッ!と飛ばさせるぐらいの刺激になっていて、妹が「お母さん、濡らしすぎ」と注意を受けていました。

あんまり多いので、妹が「お兄ちゃん、ひょっとして出してないね?」と言いながら、僕と母の結合部に指を伸ばして、オ○コ汁をすくい取って味見していました。「お母さんの味がする」と安心していました。
それから僕は、母の手を取って後ろに引っ張りながら、バコバコ突きまくりました。
「ささる!ささる!!・・・アッ、だめだめ・・いっちゃういっちゃう、あっイク・・イク!!!」
母は上半身を浮かせたままで激しくイッてしまいました。ゆっくりと上半身を着地させると、母はいつもの倍ぐらいの時間、全身をピクピクさせていました。口をポカンと開けたままでヨダレを垂らしていました。
「お母さん、満足したでしょ?」
「気持ちよかったわあーーー」とピクピクしながら余韻に浸っていました。オ○コもぽっかり穴が開いたままになっていました。
母のオ○コ汁チ○ポを掃除させるつもりはなかったのですが、さっきから順番を待っていたミーちゃんがパクッと咥えてしまいました。そして、興奮しきっていたミーちゃんが、バキュームフェラを始めたので、暴発の恐れがあるので慌てて止めさせました。

チ○ポを少し冷ますために、オ○コと肛門をたっぷり舐めてから、まずはV字開脚させてミーちゃんの両足を抱えながら、オ○コに挿入しました。
「凄く硬いです!!」とチ○ポがズブッと入った瞬間にうれしそうな声をあげてくれました。そして奥深くに入れたままで、持ち時間の30分間をどんなふうにエッチしたいか聞きました。
「奥まですごく激しく突いて欲しいです」
「そんなことしたら、30分は我慢できないよ」
「我慢してください」
この言葉を聞いた妹が、いきなり結合部に手を伸ばして、ミーちゃんのオ○コからチ○ポを抜いてしまいました。
「久美さん、ごめんなさい」
妹がいきなりチ○ポを抜いた理由にすぐに気づいたミーちゃんは、妹に向かって謝っていました。妹は「お兄ちゃんとの種付けの前に特別にサービスしてること忘れないで。ミーちゃんがお兄ちゃんと種付けしてる時に邪魔しなかったでしょ!」と注意しました。厳重注意じゃなかったので、妹はチ○ポの先をミーちゃんのオ○コの穴に向けたので、すぐにオ○コに挿入しました。

「うれしいです!久美さんありがとう!!」と妹に感謝をしながら、目を開けて僕のチ○ポが自分のオメコに出入りする様子を眺めていました。
最初は普通にピストンしたけど、ミーちゃんが「お母さんと同じくらいゆっくりがいいです!」と言ったので、ゆっくりとオ○コの内部の構造を確かめながら出し入れを続けました。
挿入開始3分後ぐらいから、それまで余韻に浸りきっていた母が復活してきて、ミーちゃんとキスをしてからオッパイを舐め始めました。その様子を見ながら、15分間ぐらい出し入れを続けました。
それから対面騎乗位に変えて、今度はミーちゃんにゆっくりと腰を動かさせました。母は後ろに回って、ミーちゃんの肛門を丁寧に舐めていました。
「そろそろ、お尻にも入れてあげたら?」と母が言うので、ミーちゃんを四つん這いにして、バックで肛門にチ○ポをズズズーと入れました。
「ハアアアアアーーーーー」と肛門大好き妻のミーちゃんが気持ちよさそうな声をあげました。
肛門も同じようにゆっくりと出し入れしました。時々、ミーちゃんに腰を動かさせたり、肩を床に付け、顔を僕の方に向けるように命令して、そしてズボズボと少し強く肛門を突いて、気持ちよさそうに感じているミーちゃんの表情を眺めて楽しみました。

「お兄ちゃんの大事な正妻だから、両方の穴でイカせてもいいよ」と妹が言うので、まず最初に肛門をそのままズボズボ突き続けました。ミーちゃんは「気持ちいい!!気持ちいい!!」と連呼していて、すぐにイキそうな雰囲気だったのに、妹は僕の体力のことを考えたのか、もっと早くイカせようと思って、ミーちゃんのクリトリスをいじり始めました。でもミーちゃんは文句を言わずに、さらに感じはじめました。
「お尻気持ちいいです!!・・・アッアッ・・イキそう・・イキそう・・・イキます!!」とイッてしまいました。
ミーちゃんのお尻がブルブル震えている間、ずっと肛門にチ○ポを挿したままでじっとしていました。
「気持ちよかったです」と言ったので、ゆっくりとチ○ポを抜きました。すぐに母がパクッと咥えて、肛門に入っていたチ○ポの掃除を始めてくれました。
でも母は、ここぞとばかりに掃除というより、自分が楽しむためのフェラを始めました。ミミちゃんと大和の世話で忙しくなった妹は、母がかなり強めに吸いながら舌をからめてきたことにすぐには気づきませんでした。
気持ちよかったので、そのまま舐めてもらっていると、妹に気づかれないのが面白くない母が、徐々にバキューム音を立て始めました。
「お母さん!!そんなに強く吸わないでよ!!」とやっと気づいて、あわてて飛んできました。母は口をキュッと締めてチ○ポに吸い付いてきました。
妹に腕を引っ張られても頬を思いっきりへこませながら吸い付いていました。引っ張るのをあきらめた妹は、母のオ○コに指を2本入れて、激しく動かし始めました。
「アッアッ・・気持ちいい・・・」と言いながら、チ○ポを口の中から出しました。妹がオ○コから指を抜くと、「久美ちゃん、気持ちいいから、もっとして!!」と妹の手を取ってオ○コに戻そうとしました。妹は「自分でしたら」と逃げていきました。

母の強烈なお掃除バキュームフェラが終わったので、オ○コに挿入しました。今度は、最初から普通にピストン運動をしました。オ○コでイカせる時間がなくなったら、かわいそうなのでズボズボ突きまくって、最初から激しくあえぎ声をあげさせて、すぐにイカせました。

このあと予定より30分間長く休憩してから種付けを再開しましたが、初日のエッチは、報告して面白い内容じゃないので、今回はパスします。一応、2回中出ししました。
http://www.kazunoie.com/memo/memotanesai.html


ラブホで母に気持ちよくしてもらいました

会社の有給ノルマの消化が3月15日迄に迫っているので、有給を取って午前中はミミちゃんと遊びました。そして午後から用事をしに大阪市内に行く母の送迎に付き合いました。帝国ホテルでその用事は行われていて、1時間ほど終わるまで待ちました。そして母をクルマに乗せて家に向けて走り出すと「今日は暖かいから少し散歩しない?」と言ってきました。

橋を渡った直後で、ちょうどそこは、桜ノ宮のラブホ街のそばでもありました。クルマをとめて外に出ると、母がすぐに手をつないできました。そしてしばらく川のほとりを散歩しました。散歩中、母はラブホのことを全く口に出しませんでした。普段なら利用しなくても、フロントの部屋の案内を見に行ったりするぐらいなのに、この時は全く触れようとはしませんでした。でも1万回以上、母のオ○コに挿入した僕としては、母の本音はすぐにわかりました。
「このあと特に予定ないから、エッチして帰ろうか?」
僕の方から誘うと、母はニッコリ微笑みました。
「ちょうど僕も母さんとふたりだけでじっくりエッチしたかったところだから」
「うれしい。お母さんもカズちゃんにいっぱい突いてもらいたかったのよ」
「お尻も使うよ」
「浣腸持ってきてないわよ」
と話していたら薬局があったので、そこでイチジク浣腸を買ってからきれいで広々した感じのラブホに入りました。最初に良く名前のきくホテルを覗いたのですが、部屋が狭そうな感じがしたのでパスしました。というのも、僕と母のエッチは、ベッドの上だけじゃなくて、あちこちの場所でやるからです。

「わあほんとに広いわあ!!」
ラブホサイトを検索しても名前しか情報が載っていないホテルでしたが、部屋はきれいでウェルカムサービスもありました。用事の都合で昼食を食べてなかったので、メンバー登録して無料の食事を頼みました。そして食事の前に、浣腸して腸をすっきりすることにしました。まず母だけを全裸にして、浣腸をしました。全裸にしたのは、浣腸のあとに肛門を清掃するからと、そして食事が来たら全裸で受け取らせようと思ったからです。

肛門清掃が終わった母に、チ○ポを即尺を命じました。母は楽しそうな表情を浮かべながら僕のズボンを脱がしにかかりました。そしてパンツを脱がされかけた時に、チャイムがなりました。「母さん、裸で取りに行って」と命令しました。
母は躊躇なくすぐに飛んで行きました。
「もう置いて帰ったみたい」
食事を頼んだときに「カギは開けておいてください」と言われました。自動ロックしかかけてなかったので、係の方は食事を置いて部屋の外に出てからチャイムを鳴らしたみたいで、母の全裸を見せることに失敗しました。
失敗したのは残念でしたが、女性に女性の裸を見せつけても仕方ないので、そんなにガッカリしませんでした。
それからすぐに食事にしました。昔、エッチを覚えたてで母のからだを常に触っていたかった頃を思い出して、合体したままで食事をすることにしました。

「チ○ポがカチカチになったらご飯にするから」
「カチカチにしたら先に入れて欲しいわ」
「母さんとつながったままでご飯が食べたいんだ」
母は僕に向かって微笑むと、僕の足の途中で止まっていたパンツを完全に抜き取りました。そして僕の目を見ながらチ○ポに舌を伸ばしてきました。僕が母の目をじっと見ていたので、母は目をそらさずに亀頭と裏筋を舐めながら僕を見つめ続けてくれました。
1分ぐらい見つめあったから、母は目を外して玉を舐め始めてくれました。玉舐めは思わず声が出てしまうので、母は僕の声が好きらしくて念入りに玉を舐めてきました。食事のことを忘れて舐め続けてもらいました。
舌が玉からチ○ポの先っぽに戻った母は、第1チ○ポ汁を吸い取ったり、舌で亀頭中に広げたりしました。そしてイカせるためのフェラじゃなくて、チ○ポをいとおしむフェラをずっと続けてくれました。

15分間ぐらい舐めてもらった頃に、お腹が「グウウ」と鳴りました。その音を聞いた母はチ○ポを口に入れたままで「お腹空いてるんでしょ?ご飯にしようか?」と声をかけてくれました。
お皿の位置を結合状態でも取りやすいようにしてから、対面座位でチ○ポを入れるようにいいました。母は「カズちゃんのおちんちんをたくさん舐めたから恥ずかしいぐらい濡れてるわ」と言いながら、僕のチ○ポをオ○コに当てて、ゆっくり腰を下ろしてきました。母のオ○コの中は恥ずかしいぐらい濡れていて「ツルッ!ズボッ」と入ってしまいました。
母は「アーン硬い・・」と声を漏らしていました。
しっかり結合出来たので、一緒に食事をとることにしました。母は「食べさせてあげようか?」と言ってきたのですが、断って、自分で食べ始めました。でもふたりの間隔がそんなになくて食べづらいので、ひとりずつ食べることにしました。僕が注文した焼肉ピラフを母に渡すと、うれしそうにスプーンですくって、僕の口に運んでくれました。そして僕が良く噛んでいる間、母はオ○コをキュッキュッとうごかして僕のチ○ポを締め付けていました。そのおかけでカチカチ状態を継続することが出来ました。母も心配になったみたいで、僕が噛んでいる間、結合部に指を伸ばしたり、抜けない程度にチ○ポを引き出してどの程度カチカチなのか確かめていました。

焼肉ピラフも途中で飽きてきました。母が頼んだ海老ピラフが食べたくなったので、口の中でグジャグジャにした焼肉ピラフを母の口に入れました。「ありがとう」と母はグジャグジャの焼肉ピラフを飲み込みました。
「飽きたから半分ずつにしよう」
そう言うと、母は焼肉ピラフの皿をテーブルに置きました。そしてつながったままで海老ピラフの皿を取って、スプーンですくおうとしました。でもこのまま素直に食べても面白くないので、チ○ポをオ○コから肛門にチェンジすることにしました。
「今度は肛門に入れて」
「もうお尻使うの?」
「どこに入れようが僕の勝手だろ?」
「わかったわ」
母はゆっくりと腰を浮かせてオ○コにズッポリと飲み込んでいたチ○ポを抜きました。当然ながら母のオ○コ汁まみれのギンギンのチ○ポがビターン!!と僕のお腹を打ちました。母はすぐにチ○ポを握ると、肛門にチ○ポを当ててゆっくりと腰を降ろしてきました。オ○コのようにツルッとは入らないので、ゆっくりと押し込みました。
「ハアアーーーー」
肛門を全くほぐさずに入れたので、母は息を吐くようなあえぎ声をあげながらチ○ポを肛門で飲み込んでいきました。
「メニューがカレーじゃなくてよかったね」と僕が言うと、母は笑い声をあげました。
この体勢で海老ピラフを半分食べました。当然、その間も母は肛門でチ○ポを締め上げていました。

母の食事は、焼肉ピラフと海老ピラフをひとつの皿にまとめて、床に置いて四つん這いで手を使わずに食べるように命令しました。
「つながったままで食べないの?」と母が多少不満そうに言ったので、「ちゃんと入れるから。そうそう、オ○コに入れたら焼肉ピラフを食べて。肛門に入れたら海老ピラフね」と言いました。母はオ○コと肛門にチ○ポが入ってくることを知って安心していました。
ウェルカムドリンクは、アイスコーヒーとウーロン茶を頼んだのですが、僕はアイスコーヒーを飲みきってしまっていたので、ウーロン茶を飲みたかったのです。でも母の分を飲むわけにはいかないので、追加で頼むことにしました。
その前に、オ○コにチ○ポを入れました。チ○ポがオ○コの中に入り始めると母は焼肉ピラフを食べ始めました。最初の一口を飲み込むまでオ○コの中でじっとしていました。飲み込んだのを確認するとピストン運動を始めました。
「あん、動かしたらご飯食べられないわ・・ハアハア・・・」
母は早速感じ始めました。僕は母のオ○コの感触を楽しむようなゆっくりしたスピードでチ○ポを出し入れしながら追加でドリンクを頼みたいと言いました。
「冷蔵庫にないかしら・・」
冷蔵庫には当然冷たいものがあるのはわかっていましたが、どうせならさっき失敗したホテルの方との遭遇をやりたかったのです。だから、まずは母にフロントに電話をさせることにしました。
電話は ベッドの所にあるので、四つん這いでつながったままでベッドに移動しました。そして母が受話器を取って、「9」のボタンを押したことを確認すると、ピストン運動を開始しました。最初からかなり強めに突いたので、母の電話での第一声は「ダメ」と言う言葉になりました。
「すいません・・・ウーロン茶を・・ハアハア・・・お願いします・・・ハアハア・・・・はい」
注文が終わった母は、受話器を置くと「エッチ中なのがわかったかしら」と言いました。さっき失敗してるだけに、会話をしている暇がないのでオ○コからチ○ポを抜きました。
そして、ピラフの皿を持って部屋の入口につながるドアを開けて、床に皿を置きました。初めてのホテルだったので、母と僕の結合部をモロに見せ付けたらどんなことになるか想像できなかったので、母が僕にオ○コを突かれながらピラフを犬食いしている姿の上半身だけ見せることにしました。
下半身を隠れるような位置で四つん這いにさせて食事を再開させました。僕がまだオ○コにチ○ポを入れていないのに、焼肉ピラフを食べたのでお尻を叩いて注意しました。

それからすぐにオ○コに肛門を入れました。母は焼肉ピラフを食べ始めました。ウーロン茶が届くまでは、オ○コだけを使うことにしました。食事が運ばれてきた時のことを考えると、静かにドアが開けられるので、オ○コと肛門を交互に使っていた場合に、抜き差しの最中にドアが開いてしまったら面白くないからです。ウーロン茶を部屋の中に置いて出て行くまでに、10秒もかかりません。だから慌てて挿入してピストン運動を開始しようとしたころには出て行かれたあとになるはずです。3回目のチャンスはないので、じっとオ○コを突きながら待つことにしました。
待つこと3分後に、静かにドアが開く音がしました。僕はピストン運動のスピードをMAXまで上げました。
「アッアッアッアッ・・・」
「置いておきますね(バタン)」
一瞬で部屋から出て行ってしまわれたのですが、母のオ○コにチ○ポが入っていることは想像付いたはずです。じっくり見て欲しかったのですが、とりあえずは満足しました。

食事のあとは、まずは部屋のドアに手を突かせて、立ちバックでやりました。ドアの外を通る人に声を聞かせるためだったのですが、オ○コを突いたり、肛門を突いたりして声を聞かせることに成功したとは思うのですが、聞かされた人の反応がわからないので、すぐに飽きてベッドに戻りました。
ベッドでは、まずシックスナインから始めました。僕が仰向けで、母が上に乗ってやるいつものパターンですが、母はドアの向こうの人に声を聞かせて興奮していたみたいで、かなり激しくチ○ポを舐めてきました。それに負けないように僕も母のオ○コを激しく舐めまくりました。指も入れてグジュグジュと音を立てさせました。すると母の口の動きが止まりました。
「だめだめ、いっちゃいそう」
「今日はイキたい放題だからイッていいよ」
「アッ、イク、イク!!!」
母を指でイカせると、今度は肛門に指を入れました。肛門からチ○ポを抜いてからの時間がかなり経つので、普通の肛門に戻っていました。だからほぐすのを兼ねて指を入れました。
「そんなとこ擦ったら、お母さんまたいっちゃうわ」
「だからイキたい放題でいいよ」
「今度は、カズちゃんのおちんちんでイキたいのよ」
チ○ポを要求されてしまったので、僕の上になっていた母をごろんと横に回転させて仰向けにすると、まずはオ○コにチンポを入れました。オ○コに入れる前に肛門にチ○ポの先を擦りつけたので母は一瞬、肛門でチ○ポを飲み込む体勢を取ろうとしたのですが、オ○コに入れました。
「ハアアアア・・・」
気持ちよさそうな表情と声で僕のチ○ポが入って行く様子を見ていた母はズッポリ入ってしまうと「ほんとに何回でもイッていいのね?途中でいじわるしない?」
「いじわるしないけど、いじわるされるのは好きだよね」
「好きだけど、たくさんイッてからにして欲しいの」
「じゃあ、10回までは自由にイッていいから」
そう言うと、僕はまずV字開脚で腰を折り曲げながら、ズボズボと突き降ろしました。そしてさらに腰を曲げていってゆっくりとマングリ返し突きの体勢になりました。
「目を開けてちゃんと見て」
そう言ってから、母のオ○コの中に僕のチ○ポが激しく突き刺さる様子をじっと見るように命令しました。この時点で僕のチ○ポは母のオ○コ汁がベッタリ付いて糸を引いていました。激しくピストン運動をすると、糸を引く様子が良く見えないので、ゆっくりと出し入れしながら母にチ○ポに絡まって糸を引いているものは何かと質問しました。
「お母さんのお汁よ。カズちゃんのおちんちんが入ると、どうしても出ちゃうの」
「実の息子に向かって、こんなに濡らす母親っている?」
「お母さんぐらいよ。淫乱だもん」
母はそう言って自分で興奮していました。僕はさらに興奮させてイキまくらせようと、マングリ返し360度突きを開始しました。

「今日は、かなり小刻みに突き降ろすから、1周するまでに3回ぐらいイキそうかな?」
そう言いながら、まずはいきなりズドーン!!と突き降ろしました。その衝撃で母は「グッ!」と軽くイッてしまいました。母的にはそれは数に入れらたくなかったみたいで「今のはイッてないから」と強調していました。
それから僕は小刻みに念入りにマングリ返し突きをしました。感じまくっていた母は、1回突き降ろすたびにかなりこたえている様子でした。最初の45度に達するまでに10回近く突きおろしました。そしてそのあとすぐに母が「ダメ!イク!!」とイッてしまいました。イッた瞬間にチ○ポめがけてオ○コ全体から汁が放出された感じを受けました。
90度の頃には、母は頭を振りまくりながら「気持ちいい!気持ちいい!!」を連呼しながら激しく感じていました。
180度目に2回目をイッていました。かなり激しくイッたので、カラダが硬直する際にチ○ポが抜けないように必死でおさえました。そのあと300度あたりでもう1回イキました。そのあとは少し手抜きをして360度に戻りました。

1周したので、今度は肛門マングリ返し360度突きにチャレンジしてみました。袋に入ったローションがベッドの所にあったので、それを肛門に塗りこんでから開始しました。母は肛門の場合は奥の直腸のあたりで感じているみたいなので、なるべく奥深くまで突きいれるためにロングストロークで、ゆっくり確実に突きいれました。
「お尻気持ちいい!お尻いい!!お母さんうれしい!!」
母は大喜びでした。僕的には肛門の入口のきつさをチ○ポ全体で味わえたのでそこそこよかったです。オ○コの時のように小刻みに回転しなくて、ザクッと1周しました。1周が終わる直前に母はイッてしまいました。
「どうして今日は、こんなにイカせてくれるの?お母さんうれしいわ」
「どうしてってわけないけど、ラブホ代は母さんが払ってよ」
「わかったわ」
こんな会話をしながら肛門からチ○ポを抜きました。そして肛門が閉じるまで指で触りながら母とキスをしました。

この時のキスは10分ぐらいやってました。母が僕の唇をむさぼるように舐めてくるので、母が離れるまで付き合いました。キスされるとチ○ポがどうしても第1チ○ポ汁が大量に出てしまうので、そのあと母は舌先で糸ひかせながら第1チ○ポ汁を舐め取っていました。そのままフェラになって、そして玉舐めが始まったので僕は大の字になって、母の舌の感触を味わいました。
玉舐めはほんとに天国で玉ばっかり舐められても射精はしないけど、最高に気持ちいいので「ずっと玉舐めていて」と10分以上舐めさせました。僕は目を閉じて、たぶんだらしない顔になっていたと思うけど「母に服従します」というような顔をしたままで舐められていました。
10分以上経過した時に「今日はお母さんの口で精子搾り出したいの。いいかしら?」声をかけてきました。ちょうど僕も射精してもいいかなあって気分になってたので、楽して射精できるフェラで抜いてもらうことにしました。
「すっごく気持ちよくなって、たくさん精子出してね」
そう言うと母は、僕がさっきまで丁寧に攻めたお返しに、肛門の穴、玉、チ○ポの3点を念入りに舌を這わせてくれました。途中で母のオッパイで顔をたぷたぷしてもらっている時に、母はやさしくチ○ポをしごいていたのですが、ほんとに気持ちよくて、このまま漏らすように射精したかったぐらいです。でも我慢して、顔たぷたぷからチ○ポに戻ってもらって「そろそろ出すから」と宣言しました。
「たくさん飲ませてね」と母はチ○ポを唇でシゴキ始めました。そしてシゴかれて1分ぐらいで射精したい気持ちがグググと湧き上がってきて「出る!!」と母の口に思いっきり射精しました。すごっく気持ちいい射精でした。ドクドク出ているようで、なかなか射精がとまらなかったです。
ようやくおさまったチ○ポの先を軽く吸ってから母は口を外しました。精液を含んだ口で「たくさん出たわ」と教えてくれて、口を開けて精液を見せてくれました。
精液は予想より多く出ていて母の舌の上と舌と歯の間の隙間にたっぷりとありました。すぐに舌で転がして「今日のは特別プリプリしてる。すぐに飲むのはもったいないわ」と言いました。確かに精液がダマになっている部分が多くてプリプリという表現通りの感じの精液でした。
「もったいないけど飲むわ」
母は自分の唾液で味が薄まってしまう前に、僕の精液をおいしそうに飲んでいました。

精液を飲み終わった母は、まだビンビンのチ○ポに頬ずりしてからパイズリをして、そしてもう一度フェラを始めました。ねっとりと舐めあげてから、再び玉を舐めてくれました。特に玉の側面が気持ちいいので、玉舐めをして欲しいときは、足を大きく広げなくちゃ舐めにくいので、僕が自分から股を広げた意味を理解してすぐに玉舐めを開始してくれました。またまた凄く気持ちいいので、何回も声をあげてしまいました。10分以上玉舐めをしてもらって、第1チ○ポ汁を出しまくりました。
玉舐めに満足したのでそろそろ母のオ○コに入れたくなった頃に母が僕の気持ちを察知して、玉から口を外して、出まくっていた第1チ○ポ汁を指に付けながら「お母さん、さっき何回もイカせてもらったから、今度はカズちゃんを凄く気持ちよくしてあげるね」と声をかけてきました。
「うん。じゃあ今度はマグロでいい?」
「いいわよ。カズちゃんも好きなだけ出しなさい」
「射精はあとで母さんを攻めながら出したいから、寸止めぐらいにして。気持ちいい状態でずっと続けて欲しい」
「わかったわよ」
僕がそんな注文をすると、母は対面騎乗位でゆっくりとチ○ポをオ○コの奥深くまで飲み込んでいきました。母のオ○コはさっきよりかなり激しく濡れていました。ほんとならチ○ポで激しく突かれて何回もイキたかったはずですが、さっき何回もイカせたので、僕の言うことを聞いてくれました。

対面騎乗位で腰をいやらしくゆっくりとくねらせたり、くねらせながら上下にも動かしたり、前後方向だけに動かしたりしてきました。ゆっくりとまったりした動きだったので、チ○ポが凄く気持ちよかったです。母のオ○コの中で一番気持ちいい部分にまったりと擦られたので、全身が震えるぐらいの気持ちよさが味わえました。だからと言って、射精したくなったわけじゃありません。寸止めの少し手前ぐらいの快感がずっと続きました。
僕がほんとに気持ちいい時は、結構マヌケ顔になるのですが、母の前なので隠さずにマヌケ顔で感じました。
上半身を後ろに反らせた母が僕に結合部を見るように命令しました。いつもと逆で、命令通りに結合部を見ました。母のオメコの中から出てきた部分は、母のオ○コ汁で糸を引いてテカテカ光っていました。硬さはかなりギンギンに見えました。母は腰を戻してオ○コの中にチ○ポを全部しまったり、もう一度からだを反らせたりしてチ○ポを気持ちよくしてくれました。
そしてチ○ポを入れたままでゆっくりと180度回転しました。背面騎乗位になった母は腰をクイックイッと上下に動かして、オ○コから顔を出すチ○ポを見せ付けました。それからさっきと同じように前後に動かしたり、くねらせたりして気持ち良くしてくれました。
「これぐらいゆっくり動かしたら気持ちいいでしょ」
「すごく気持ちいい」
「寸止めよりこれぐらいがいいんじゃないの?」
「こっちの方がいいけど、母さん大丈夫?凄く濡れてきたけど」
「大丈夫よ。カズちゃんが全身で感じてる姿見てたら凄く濡れちゃっただけから」
「もう30分ぐらい経った?」
「まだそんなになってないわよ」
「疲れてない?」
「お母さん、カズちゃんより体力あるわ。特にエッチの時の体力は別腹かしら」
母がそう言ってくれるので、玉舐めを間にはさんでもらってから時間をきっちり計って15分間だけオ○コで気持ちよくしてもらいました。

15分経過してチ○ポを抜くと、第1チ○ポ汁がドクドクと溢れだしていました。母のオ○コ汁の量もハンパなくて凄く濡れていました。
そろそろ射精したくなってきたのですが、母を攻めながらイキたいと言った気持ちが吹っ飛んでしまって、マグロ状態から射精したくなりました。
「射精するまで続けて欲しい。あとでちゃんと母さんをイカせるから」
「気にしないで。お母さんだってさっきから何度もイキそうになったのよ。だからカズちゃんと一緒にイケると思うわ」
そして母はすぐに対面騎乗位でチ○ポをオ○コに入れてしまいました。これから最後までやるという意思表示の代わりに、母は僕にキスを迫ってきました。つながったままでキスをしてから「母さんの唾液飲みたい」と唾を垂らしてもらいました。
それから母は、腰をくねらせるスピードを上げてきました。トップスピードまではいかないと思っていたのですが、いきなりトップスピードまでイキました。それじゃイッキに射精してしまうので「待って」と止めました。
「もうイキそうになっちゃったの?」
「今度は寸止めを何回かしてから射精したい」
「じゃあ、今のが1回目ね。お母さんもイク都合があるから、あと何回寸止めしてからイキたいの?」
「3回ぐらい」
「わかったわ。イキたくなったら、次はイクって言ってね」
母は対面騎乗位オンリーで、腰を激しく動かしたりオ○コを締め付けたりしてきました。そしてすぐにイキそうになってきたので「母さんダメ!!」と寸止めしてもらいました。
「今度はお尻でね」
オ○コからチ○ポを抜くと、母は肛門にチ○ポを当てて降ろしてきました。そして肛門を締めながら上下運動してきたので、すぐにイキそうになって「ストップ!!」と叫びました。
「早すぎるわよ。次は射精にした方がいいんじゃないの?」
「オ○コの中で3分休憩してから動いて。あと1回寸止めして、その次に出すから」
肛門から抜け出たチ○ポを母のオ○コの中に入れてもらってから、チ○ポを覚ましました。そして最後の寸止めまで腰を振ってもらいました。3分覚ましたつもりだったけど、2分後にはイキたくなってしまいました。母のオ○コの動きを止めてもらうだけでは寸止めできない気がしたので、母の腰を持ち上げてチ○ポを抜いて、自分の手で押さえて耐えました。

そして射精するためのエッチを開始しました。「母さんも一緒にイッてね」と言うと、母は「凄く気持ちよくイケそうよ」と言いながら腰を上下させました。
母のオ○コが1往復するだけの刺激が凄く気持ちいいので出そうになりましたが、母をイカせないといけないので、耐えました。
「ゆっくりした方がいい?このままでいい?」
母が上下運動のスピードを聞いてきたので「このまま」と答えました。そして強い刺激を我慢しました。歯を食いしばって耐えている姿を見た母は「そんなに我慢しなくて出したら」と言いました。「母さんがまだ・・」と答えると、母は思わず早い展開だったので、自分でクリトリスを触り始めました。30秒あればチ○ポで母をイカせることが出来るけど、そこまで持たないと気づいた母は自分で僕にあわそうとしました。
「・・・か・・あ・・・さ・・・ん・・イクよ・・・」
「イッて!母さんもイク!!!」
「イクよ!!!」
「イクッ!!」
母のオ○コの中でチ○ポが爆発したんじゃないかと思うぐらいの勢いで射精しました。母もイッてしまいました。何回も寸止めした影響でドピュドピュと30秒間ぐらい精液が吹き上がっていた感じがしました。凄く気持ちよかったです。

そのまましばらくじっとしていました。そして母は腰を持ち上げてオ○コを手で押さえながら、お掃除フェラをしてくれました。母のオ○コの中の精液は僕が自分の口で吸い出しました。そして母に飲ませました。母は今度の精液もおいしそうに飲んでいました。
この日は、このあと15分ぐらい休憩してから、今度は僕が一方的に母のオ○コと肛門を攻めて、洗面所やソファやもう一度入口付近や床の上とかで、何度もイカせてから2発射精しました。
長い時間いたような気がしたのですが、まだサービスタイムの時間が余っていたので、母にチ○ポを舐めてもらいながら昼寝しました。母はシャワーを浴びる時間を計算して、きっちり僕を起こしてくれました。
凄く気持ちいい一日でした。
http://www.kazunoie.com/memo/memomagusaku.html


失業中の起床は母の担当

無職になったので、朝は自分の起きたい時間に起きるようになってしまいました。母は、僕の2人の妻に対して、そんなだらだらした生活を見せたくないと思っているようで僕を起こしにきます。だから、毎朝、僕はチ○ポに刺激を感じて目が覚めます。
今までも、たまにチ○ポの刺激で起きることはありましたが、毎朝起こされるのは高校生の頃以来です。高校生の頃は、前夜に何発射精しても次の朝には、ギンギン状態で朝立ちしていたので、そのカチカチチ○ポが大好きな母は味わいに来たのでした。

クリスマスの朝のことです。いつもは母の舌の感触で目が覚めるのですが、この朝は母のオ○コの中に入っている感じがしました。母の体重も僕の足にかかっていました。
前の夜に、母と父に子守りも任せて、妹とミーちゃんと3Pしたのです。妹もミーちゃんも何回もイカせたのですが、急に眠気が襲ってきたので僕は射精しないで寝たのです。このことを知っていたので、母は口ではなくて、オ○コでチ○ポの硬度を確かめようとしたのです。

母は、「ハアーー」と声を漏らしながらゆっくりと上下運動をしていました。僕を起こさないようにゆっくりと動きながら朝立ちでビンビンのチ○ポの感触を楽しんでいるようでした。
上下運動のスピードを変えずに動き続けた母は、腰をグルングルンとくねらせてきました。すごく気持ちいいので、チ○ポはさらにビンビンになったような気がしましたが、眠ったふりを続けました。すると、いきなり母の唇が僕の口にブチューという感じで押し付けられました。押し付けられながら「さっきから起きてるのはわかってるのよ」と言われてしまいました。

目を開けると、下半身だけ裸の母が「夕べは出してないんでしょ?出す?それとも、もう少し溜めとく?」と聞いてきました。
「出したら久美が怒るだろ?」
「大丈夫よ。ほら」
母はそう言うと、赤色のリボンを見せてくれました。「何?」と聞くと、妹が母へのクリスマスプレゼントとして、僕の朝立ちのチ○ポにリボンを巻いて、母に譲ったらしいのです。母はリボンを巻いたままでチ○ポをオ○コに入れようとしたそうですが、リボンがゴワゴワしているので、チ○ポとオ○コがリボンのエッジで怪我しそうなので諦めたそうです。

「じゃあ、射精したい」
僕がそう言うと、母は上下運動を一旦中止して、結合したままでキスしてきました。さっきはブチューというキスでしたが、今度はちゃんとしたキスですぐに母が舌を入れてきました。僕はフェラなみにキスが大好きなので、母の舌を吸ったり、絡めたり、お互いの唇を舐めまくったりしながら熱いキスをしばらく続けました。
いつも以上に熱いキスになって、母のヨダレで口の周りがべとべとになりました。そのヨダレを母が自分の舌で舐めたので、僕の顔はテカテカになっていたと思います。
母は口を離すと「カズちゃんのおちんちん、鋼鉄みたいに凄く硬くなったわよ」と言いながら、腰をくねらせてきました。
「上になろうか?」と聞くと、「硬いので、お母さんの奥まで突いてくれるの?」と聞いてきました。
「久美とミーちゃん公認なら、突きまくるよ」
母は腰を上げて、オ○コからチ○ポを抜きました。そして、すぐに上半身も裸になってから、手でチ○ポの硬さを確かめると、僕の腕を引っ張って、からだを起こさせてくれました。
立ち上がると、チ○ポが斜め45度を向いていたのを、母は下から仰ぎ見ていました。そして「少しだけ舐めさせて」と言うと、チ○ポをパクッと咥えました。唇で硬さを確かめるように軽くしごき気味に舐めてから、仰向けにねて膝を立てて股を開きました。

僕は母の両足の間に入って、チ○ポをオ○コに当てようとした瞬間、「オシッコ大丈夫?」と聞いてきました。
「大丈夫じゃないけど、母さんを1度イカせてからオシッコする」と言いました。「無理しなくていいわよ」と言うので、「オシッコ出したら、柔らかくなるかも」と答えました。
「じゃあ、我慢して」と母は挿入を望みました。そのつもりだったので、母のオ○コにチ○ポを当ててズズズと入れました。
チ○ポが入った瞬間、母は目をギュッとつむって「硬いわーーー」と声を漏らしました。僕は母のオ○コの感触を味わいながらゆっくりと動きました。もちろん母もオ○コの中のひだひだを全部使って僕のチ○ポの硬さを堪能していました。

少しずつピストン運動を早くしていきました。母は「気持いい!気持ちいい!!硬い!奥にズンと来る」と嬉しそうな声を上げていました。
母の腰を折り曲げて、両足を肩に当てるようにしながらズボズボと突いていると、妹とミーちゃんが、ミミちゃんと大和を抱いて部屋に入ってきました。
「お母さん、気持ちいい?」
「気持ちいいわよ。お兄ちゃんのおちんちん、凄いのよ」
「良かったね。お母さん、あたし達、町内さんと2時間ぐらい出かけてくるから、2回ぐらい出してもらったら」
「ありがとう。じゃあ、中と口に出してもらうわ」
「じゃあねーー」
この短い会話の最中に、大和が母のオッパイを触って、ミミちゃんが僕の背中を触っていました。

「2時間、イキたい放題だから、我慢しないでイキたかったらイッていいよ」と言うと、「わかってるわよ。オシッコ我慢しすぎたら、膀胱に良くないもんね」と言いました。
僕は、会話の最中に少し緩めたピストン運動を再び強く始めました。
「アッアッアッ・・・いい・・いい・・凄い・・・気持ち!!」
両足を降ろさせてから、母の気持ちよさそうな顔を見ながら、ピストン運動の角度やチ○ポの先っぽが当たる位置を いろいろ変えました。
「うわぁ、そこ!!」
僕は母のオ○コの構造の立体模型を作れるぐらい構造に熟知していることは、母が一番良く知っていますが、一番の感じるポイントにチ○ポが当たると、思わずいつもの「そこ!!」と叫びます。いきなり「そこ」を攻めるのは手抜きに思われるので、周辺を攻めてから「そこ」を刺激しました。オシッコがしたかったので、いつもより少し早めに「そこ」を刺激しました。
母の表情がイッキにイキそうな顔になりました。
「アッ、イキそう、イキそう、イク、イク、イクッ!!!!!」
イッキにイッてしまった母の表情を約15秒間ぐらい眺めてから「抜いていい?」と聞きました。母は甘い息を吐きながら、まだ余韻に浸っていましたが、オシッコのことを思い出して「ごめんね。お母さんも付いていくわ」と言いました。
「飲みたいの?」と聞くと「そう」と答えました。

僕は、トイレに行かずに、母を連れてバスルームに行きました。オシッコをチ○ポから直接飲ませるためです。膀胱に溜まっているので、チョロチョロ出すのは厳しいので、バスルームじゃなければ床が汚れます。
「膀胱パンパンだから、イッキにしか出せないよ。口から溢れても出すよ」と言うと、母は「溢れ出したら全身にかけて」と言いました。
すぐに母がしゃがんで口を大きく開けたので放尿を開始しました。すぐに母の口からオシッコが溢れてきました。僕はオッパイに向けてオシッコを続けて、母が飲み終わったのを見て、再度口にオシッコを流し込みました。
結局、母はオシッコの3分の1の量を飲みました。あとは首から下にかけました。
「母さんってどうしてそんなにオシッコ飲むのが好きなの?」と聞くと、母がお掃除フェラをしながら「だって、久美ちゃんもミーちゃんも、オシッコはあまり飲まないでしょ。だから」と答えました。
妹は昔は何回か飲んだことはあります。ミーちゃんも数える程度しかありません。最近は、ふたりには全然飲ませていません。
だから、ふたりが飲まないものを飲みたがっていることがわかって、可愛く思えました。

バスルームでオシッコまみれの母のからだをシャワーで流しながら立ちバックでエッチをしました。チ○ポの硬度に変化がなかったので、母はうれしそうに声をあげていました。
バスルームから出て、からだを拭き終ると、母を四つん這いにしてチ○ポをバックから突っ込みました。そして結合したままでリビングルームに移動しました。ソファでやろうとしたのですが、「だめよ。11時にはお客さんがくるわ」と言いました。仕方ないので、そのまま結合しながら僕の部屋を目指しました。何回か抜けたので再挿入しながら無事にたどり着きました。

そしてまずは、カーテンを開けて窓の下でバックから母を突きまくりました。四つん這いのままでチ○ポを激しく出し入れしたり、時々母のからだを起こして窓際に手を突かせて立ちバックでやったりしました。
この刺激で興奮していた母は、カーテンを締めてから連続で30秒間ぐらい突きまくると「イク!!!」とイッてしまいました。
この時、僕は余韻を与えずにチ○ポを抜きました。オシッコを飲ませた頃からは、母にマゾのスイッチが入ったからです。
僕はベッドに腰かけて「チ○ポ舐めてよ」と言うと、母は四つん這いで這ってきてチ○ポを舐めてくれました。最初は自由に舐めさせていたのですが、途中からは母の頭をガツと掴んで前後に激しく動かしました。

そしてベッドの上で、マングリ返し突きをしばらくやってからもう一度イカせてから、正常位で今度はイクのを我慢させながら同時にイッて中出ししました。
そのまま抜かずにすぐにエッチを再開しました。母はまたすぐにイッてしまいました。ここで喉が渇いたので、キッチンに移動しました。

キッチンでは、コーヒー牛乳をコップに入れさせて持ってこさせると、ストローを2本刺して、母と一緒に飲みました。先日、古い映画でそんなシーンがあったので、やってみたのですが、母は喜んでいました。
コーヒー牛乳を飲み終わると、テーブルの上に仰向けにしてチ○ポを突っ込みました。
「気持ちいい!!嬉しい!!気持ちいい!!」
凄く喜んでいる母は、この日、100回以上は「嬉しい」を連呼していました。こんだけ嬉しいと言われると、サービスしたくなってくるので、母の感じることを次々にやりました。

テーブルの上の次は椅子に座らせてやりました。2分ぐらいピストンしたのちに、今度は僕が椅子に座って、背面座位で攻めました。オッパイを鷲掴みにしながらガンガン攻めました。
シンクに手を突かせての立ちバックのあとに、対面騎乗位でやって、そして正常位でやりました。
最後は、口の中に直接出さないで、口の周りに顔射しました。母はこの時も「嬉しい」を連呼しながら、指で精液を集めて口の中に溜めて、最後にまとめて飲んでいました。

今年もありがとうございました。13年目の来年、2500万ヒットを迎えます。来年もよろしくお願い致します。
http://www.kazunoie.com/memo/memoasahaha.html


午前中からの妹との種付け

日曜日の午前中に、妹との第2子誕生への種付けをリビングでやろうとしていた時のことです。日曜日は妹の友達が午前中から家に来ると言っていたので、種付けは夜まで無いと思っていました。だから、土曜日の夜に秘密のパーティの主宰者に頼まれて32歳のバージンの女性に精液を2発飲ませてきたのです。バージンの女性と聞いて、最初の相手になれると思って行ったら、他にも僕ぐらいの男が3人居て、参加者の方のマゾ奴隷たちのオ○コを自由に使って、射精だけをバージンの方に口に出すというものでした。美咲先生が居たので、1発目は美咲先生のオ○コを借りました。2発目の時は美咲先生はオメコにも肛門にもチ○ポが入ってしまっていたので、別のマゾ奴隷のオ○コを借りました。だから、家に帰って妹が「予定変更!明日は朝から種付けして!」と言われて焦りました。
事前に申告しておけば機嫌は悪くなるけど許してくれます。今回はもちろん無断で2発も出してきたので、今さら申告しても遅いです。だから黙っておくことにしました

一応、ばれないために父が精液を増やすために飲んでいるエビオスを飲むことにしました。エビオスは父と母の寝室にあるので、妹がミミちゃんと眠りに付いてから、こっそりと取りに行きました。
寝室には、父と母とミーちゃんと大和がいました。大和はスヤスヤと眠っていて、母が面倒を見ている様子でした。
ベッドの上では、父が大の字になってミーちゃんに玉舐めされている最中でした。
「ミーちゃんとやりたいのか?」
父は、ミーちゃんを奪い返しにきたと思ったらしいのですが、僕は自分の用事だけを言いました。
「エビオスどこ?」
「飲まなくても大量に出るだろ?」
「もっとたくさん出したいからだよ」
僕の態度に不思議に思った母が、いきなり僕のチ○ポを掴んで揉み始めました。秘密パーティの射精は2発だったけど、状況的に結構疲れたのでチ○ポが反応が悪くて母に気づかれてしまいました。
「どこで出してきたの?」
「パーティに呼ばれたんだよ」
「何発出したの?」
「ミーちゃんもいるから内緒だよ」
「久美ちゃんには内緒に出来るでしょ?」
父の玉を舐めながらミーちゃんが、妹には内緒にすると言ってくれたので、2発を口に出してきたことを白状しました。
そしてエビオスをもらって、寝室を出ました。

次の朝、チ○ポの先っぽを「チョンチョン」と触られる感触で目が覚めました。朝立ちしてなかったらどうしようと思ったのですが、ちゃんとフル勃起状態でした。
「オシッコ飲みたい」
パンツの中からチ○ポを引っ張りだした妹は、僕のチ○ポを口に咥えました。僕はまだ仰向けだったので、こんな体勢ではオシッコ出来ないと言うと、チ○ポから口を外してくれました。そして立ち上がって体勢を整えてから妹の口にチ○ポを突っ込んでから放尿を開始しました。

こぼさないように少しずつ飲ませていると母が入ってきました。
「飲みきれないでしょ?お母さんが半分飲んであげようか?」
妹が飲みながら目で「うん」と表現しました。この日の朝一発目のオシッコの量は普段より多かったので、母と妹に少しずつ交互に出したのですが、ふたりともかなり飲みごたえがあったそうです。
だから、出し切ったあとの掃除は母ひとりでやっていました。
「おしまい」
チ○ポの掃除を念入りにやってくれた母は、フル勃起だったのに最後に玉舐めをしながら「たっぷり出るようにマッサージしてあげる」と言いました。母の顔が笑っていたので、前夜に出したことをチクられないかヒヤヒヤしていました。
妹がチ○ポに顔を近づけてくるまで、ずっと玉舐めを続けてくれました。
「今日はお母さんの分は無いよ」
「わかってるわよ」
種付日には必ず行われる会話をしてから、母は玉から離れて行きました。

母が離れると、妹が代わって玉舐めを続けてくれました。でもほんの軽くだけで終わってすぐにチ○ポに戻ってしまいました。

それから約10分間ぐらいチ○ポをねっとりと舐められました。少しでもチ○ポが柔らかくなったりしたら、妹に内緒で種付けの前夜に他人の口に2発射精したことがばれてしまうので、括約筋にギュツと力を入れ続けました。全然気づかない妹は、いつものフェラ笑顔を浮かべながら根元から先っぽまでじっくりと時間をかけて舌を這わせてきたり、チ○ポを奥深くまで咥えたままで頭を激しく振ったり、自分の唾液をダラーーとチ○ポに垂らしたりしてきました。
「お兄ちゃん、2回は出してよ」
「わかった」
妹に2発中出しの約束をさせられた時に、ミーちゃんがミミちゃんと大和を抱っこしながら入ってきました。それを見た妹はミミちゃんを抱っこして、ミミちゃんの手を握って僕のチ○ポを握らせようとしました。ミミちゃんは僕のチ○ポを握るのが結構好きなので、すぐに握ってきました。妹は握らせながらフェラを再開しました。でもほんの一瞬だけで、ミミちゃんが手を外したので、妹はミーちゃんにミミちゃんを託すと、すぐに仰向けになってオ○コを自分の指で広げると、舐めて欲しそうな顔をしました。妹のオ○コは舐める必要がないくらい濡れていたけど、ちゃんと舐めることにしました。


妹のオ○コのそばには、ボディペインティング用のペンで「お兄ちゃん専用」と書かれていました。筆跡はミーちゃんの筆跡でした。僕専用と書かれている理由は、最近、父が眠っている妹のオ○コにチ○ポを突っ込んだり、妹とミーちゃんがレズってる時に入れてくることがあるので、それを阻止するために書くようになったのですが、よく見かけます。
その「お兄ちゃん専用」という文字を消さないように、まずはクリトリスを後回しにして、ビラビラや穴周辺をたっぷり舐めたり、舌を穴に入れて舐めてからクリトリスを攻めることにしました。クリトリスはパンパンに膨らんでいて、すぐにイキそうな感じでした。
「ダメ!ダメ!!」
出産してから、ますます敏感になった妹は、自分からオ○コを舐めることを要求しておきながら、妹が一番感じるクリトリスの攻めるポイントを舌先で押しただけで僕の頭を押してオ○コから離そうとしました。無視してオ○コを舐め続けると、「あーんダメ・・ダメ・・・・イクッ!!」と30秒も経ってないのにイッてしまいました。
「お兄ちゃんは、もっとおまえのオ○コが舐めたいんだぞ」と言ったのですが、妹はクリトリスを自分の手で隠しながら「おちんちん入れて」と要求してきました。

仕方がないので、オ○コに入れることにしました。
「入れるから手を外せよ」
「おちんちんで擦ったりするでしょ?」
「外さないなら入れないぞ」
妹はゆっくりと手を離して、クリトリスを丸出しにしました。パンパンに膨れていたクリトリスを見て、チ○ポの先っぽで一突きするぐらいでイキそうな感じに見えたので、約束を破って突きたい衝動にかられましたが我慢しました。
「あん・・」
クリトリスから手は離したけど、僕が約束を破った時にすぐ対応できる位置で手をかまえながら、目をしっかり開けて僕のチ○ポが入ることを確かめようとしていました。
ビンビンのチ○ポの先をオ○コ汁がとろとろ垂れているオ○コの穴に半分だけ入れたところで止まりました。妹が腰を押し付けてきて、オ○コの奥まで入れて欲しそうにしたのでいじわるして抜きました。
「自分からオ○コ押し付けてくるなよ」
「だって、お兄ちゃん、先っぽ入れただけじゃあ、クリちゃんをおちんちんで弾いたりするもん」
「弾かないから、お兄ちゃんのペースでやらせろ」
そう言うと、もう一度チ○ポの先っぽをオ○コに近づけました。もちろん、穴を狙わずにクリトリスに向けました。
クリトリスにぶつけるつもりはなかったのですが、イッキにクリトリスから2cmぐらいの位置まで近づけようとしたので、危険を感じた妹が自分の手でクリトリスをカバーしました。妹も焦っていたので、防ぐ瞬間に自分の手でクリトリスを擦ってしまって「アッ!!」と声をあげて、カラダを硬直させてしまいました。

「自爆したのか?」
「お兄ちゃん、早く入れてよ!!」
妹が涙目で僕に訴えてきたので、意地悪しないで、ゆっくりとオ○コの穴にチ○ポを挿入しました。先っぽが入った瞬間に、オ○コ汁がジュワと出てきました。
「奥まで入れて」
妹は僕の腰を掴んで、自分から引き寄せました。僕はズーンと入れると奥に押し付けたままでグリグリと腰をくねらせました。
「だめ!!」
妹が上体を浮かせながら僕のグリグリ攻撃を阻止しようとしてきました。油断させようとグリグリ攻撃をやめて、ピストン運動を始めました。妹は「あんあん・・あーーん」と声をあげました。でもすぐにピストンをやめて、再びグリグリ攻撃を再開しました。
「突いて!突いて!!」
頭を激しく振りながら、ピストン運動を要求してきました。妹がそろそろ限界になってきているみたいなので、イキまくりモードに入らせてダウンさせることにしました。
そうした方が、種付け作業が中止に出来るので、精液の量が少ないことがばれなくなるからです。

まずは妹の希望通りに突きまくって5回ぐらい連続でイカせることにしました。
その前に一度、チ○ポを抜いてオ○コ汁の量を確かめました。オ○コからゆっくり引き出すと糸を引いたまま出てきました。当然、チ○ポが真っ白になるぐらいのオ○コ汁が付着していました。
ちょうどそこに、母が様子を見にきました。
「出したの?」
「まだだよ」
「凄く感じてるみたいね」
そう言うと母は、僕の前にひざまづいてチ○ポを握って「舐めさせてね」と言いました。「そんな暇、ないんだけど」と言うと、「お汁だけ味わったら止めるわよ」とチ○ポをパクッと咥えました。
妹は、母のフェラを阻止しないで、僕に話しかけてきました。
「イキまくってもちゃんと精子出してね」
「そんなの面白くないよ。種付けなんだから、久美の意識がないと出さないよ」
この会話を聞きながら、唇で締め付けながらゆっくりと頭を動かして、チ○ポにこびりついたオ○コ汁を剥がしていた母がチ○ポを口から外して言いました。
「久美ちゃんをしつこく攻めないで、さっさと出して終わりにしなさいよ」
母は、僕が射精を後回しにしようとしていることがわかっているのに、こんなように言いました。
「わかったよ。すぐに出すからあっちに行ってよ」
「ほんとに出すかしら??」
意地悪な目で僕を見ながら言いました。すると妹が種付け作業の中断を言い出しました。

「少し休みたいから、お母さんの中で休憩してて」
妹の言葉を聞いた母は、すぐにパンツを脱いで、四つん這いになってオ○コを見せ付けてきました。母のオ○コは、妹のオメコ汁付きチ○ポを舐めた刺激で濡れていました。拒否しても仕方がないので、母のオ○コの中で休憩することにしました。ギンギンのチ○ポをオ○コに近づけると母は腰をくねらせてきました。お尻をつかんで「休憩だけなんだからじっとしててよ」と言いながら母のオ○コに挿入しました。
入れた瞬間に、「ああん」と言うこととともに、ジュワッとオ○コ汁を放出してきて母のオ○コは、すぐに僕のチ○ポにうねうねと絡み付いてきました。そして、キューーと締め付けてきました。
「休憩だけなんだから締めないでよ」
「そんなこと言わずにお母さんだって気持ちよくなりたいわ」
「久美に出して、体力残ってたらイカせてあげるけど、今はオ○コの中で休憩するだけだから」
「そんなこと言っていいの?」
母は後ろを向いて、(そんなこと言うなら昨晩のことバラすわよ)みたいな目で僕をにらみながら腰をゆっくり前後し始めました。すると妹が「お兄ちゃん、出さないんなら先にお母さん、イカせちゃっていいよ」
「久美ちゃんありがとう!!」
妹にお礼を言った母は、すぐに腰を自分からぶつけてきました。
「気持ちいいわ!!」
ドクドクとオ○コ汁を放出しながら激しく腰を動かしていた母は、左手を僕の方に伸ばしてきて「突いてよ」と訴えかけてきました。その左手を掴んで、そして右手も後ろにひっぱって、上半身を宙に浮かせたままの母のオ○コをズボズボズボと激しく突きまくりました。
「アア凄い・・凄い・・・カズちゃん最高!!」
母は髪を振り乱したり、背中を思いっきり反らせたりしながら激しく感じていました。

母がイキかけたところで中断して、そのままの体勢で立ち上がりました。「早くズボズボ突いて」と要求してきたので、すぐに立ちバックで、さっきと同じように母の両手を後ろに引きながら突きました。
「凄い!凄い!!気持ちよすぎだわ!!いい、いいわあ!!アアーーアーー・・・イキそう・・イキそう・・イク、イク、ク、イク!!!」
この3日間、めずらしく誰ともエッチしていなかった母は、かなり溜まっていたらしくて、普段と同じ程度に突きまくっただけなのに、激しく感じていました。母も妹に負けないくらいの量のオ○コ汁を僕のチ○ポに付着させていました。
立ちバックでイッた母の膝から力が抜けてきたので、グッと持ち上げて、そしてチ○ポを奥深くまで入れなおして母のカラダを手とチ○ポで支えました。
「どうする?もうこのまま崩れて終わりにする?」
「もう少しだけイカせて欲しいわ」
精液を少しでも多く生産できるように、妹が何も言わなかったら母をイカせまくりたかったので、聞いてみました。3日ぶりの母はもちろん、もっと続けることを望んできました。妹は特に何も言わずに見ていたので続けることにしました。

その時、ふと窓が視界に入りました。春樹君のお母さんに見せつけようと思って母を腕とチ○ポで支えながら、窓のところに移動しました。そしてカーテンを全開にして、母に窓の桟をつかませました。
バックからのピストン運動を開始したのですが、ずっとバックで続いてきたのでやめました。チ○ポを抜いて、母に右足だけで立たせて、左足は高く垂直にあげさせました。ベランダ側ならオ○コが丸見えになるのですが、小さい方の窓なので微妙でした。
垂直開脚で丸出しの母のオ○コにチ○ポを挿入しました。母はすごっく興奮していて、チ○ポがオ○コに入った瞬間によだれを垂らしました。
少しでも長くこの体位を続けて、誰かが見てくれるまで続けたかったので、母のオ○コの感触を味わいながらゆっくりと出し入れを開始しました。
(母のオ○コは久美ほどの締まりはないけど、どうして気持ちいいんだろう・・)と思いながらオ○コの中をズリズリと擦りました。
「気持ちいい!!」
「春樹君のお母さんに見てもらえたら気持ちいいかな?」
「気持ちいいに決まってるでしょ」
母は、見られることを期待して興奮しだしたので、オ○コを強く突いたらすぐにでもイキそうな感じがしたので、しばらくの間、ズリズリと擦ることを続けました。

「あああーーー気持ちいい!!気持ちいい!!」
あえぎまくった母はオ○コ汁をドクドク出しながら、感じまくっていたので垂直開脚はすぐに断念しました。足を変えて、膝の下に僕が手を入れて持ち上げながら、さらにズリズリ続けました。妹は母が感じまくっている様子を見続けていました。
「お汁垂れてる!!!!」
母のオ○コから汁が垂れるのはいつものことですが、この時の妹の言い方がかなり驚いた様子だったので、亀頭だけオ○コ の中に残してチ○ポを引き出しました。チ○ポの上側にはかなりの量のオ○コ汁が付いていましたが、この程度なら良くある光景なのでビックリするほどじゃありません。
「お兄ちゃん、垂れてる垂れてる」
妹が僕のチ○ポの下に手を差し出して、オ○コ汁を受けるような動作をしたので、チ○ポの裏側に手を伸ばしました。すると、チ○ポから5cmぐらいまで下がった位置までオ○コ汁が垂れていました。確かに出まくり過ぎていました。
「春樹君のお母さんには、2回も見せ付けてるのに、まだ興奮出来るの?」
「春樹君もお母さんもいないのよ。いるのはお父さんと、なつきちゃん(春樹君のお姉さん)なのよ」
春樹君とお母さんは、お父さんに内緒で、木村さんの家で近親相姦しに行ったということでした。だから、母はお父さんかなつきちゃんに僕とのエッチを見せ付けられるチャンスが来たと思って興奮したようです。
だから、この日は僕と妹の種付け日だとわかっているのに、乱入してきて僕のチ○ポを求めたようです。

「お兄ちゃん、そろそろ来て」
「あーん、久美ちゃん、もう少し待ってよ」
「おじさんも、なつきちゃんも見てくれないよ」
「そんなことわからないわ」
「だめ!からだが受精しやすくなってきたから、お兄ちゃんに出してもらうの」
「あと30分経っても、窓から誰も顔を出さなかったら諦めるからお願い!!」
「いーや!!」
そう言うと妹は、母のオ○コからチ○ポを引き抜きました。そしてチ○ポをギュッと握ってベッドまで僕を引っ張っていきました。母はついに諦めてしまいました。
妹がベッドの上で、自分の指でオ○コを広げながら「お兄ちゃん、早く中に出して」と僕を求めてきたので、すぐにチ○ポを入れようとしたら、入れる寸前に「おちんちん、掃除してからにして」とチ○ポを掴んで、自分の口にチ○ポを引っ張ろうとしました。引っ張られるままに、妹の口の中にチ○ポを突っ込みました。妹はすぐに、激しく付着した母のオ○コ汁をきれいさっぱりに舐めつくしてしまいました。母も妹もふだんはお互いのオ○コ汁を味わうように舐め尽すのですが、この時の妹は、チ○ポを消毒するような感じでお掃除フェラをしていました。その様子を見た母は、黙って出て行きました。


ふたりだけになったので、窓を閉めようとしたのですが、「開けといて」と言ったのでそのままにして、種付け作業を再開しました。
休憩を入れた効果で、妹は完全に普通の状態に戻ったので、オ○コをズボズボと激しく突きまくっても我慢してくれるようになりました。
「お兄ちゃん、気持ちいい!!気持ちいい!!」
「すぐにイクなよ。今度は射精させろよ」
僕はこれ以上引っ張らないで、妹がイクのに合わせてさっさと中出しするつもりをしていました。だから、妹に余裕のある間に、射精したくなる直前まで高めようと、射精することを意識しながらM字開脚の妹を激しく突きまくりました。
「お兄ちゃん!凄く気持ちいい!!今日は妊娠しそうだよーー!!」
「もう少しだから我慢しろよ」
「・・・ううう・・・あっあっ・・ううう」
妊娠を意識した途端にイッキにイキそうになってしまったみたいで、突然我慢を始めました。相当ヤバイ状態になっていることはすぐにわかったので、僕はオ○コの奥をなるべく突かないように、入口付近にチ○ポを激しく擦りました。

目をギュッと閉じて、眉間にしわを寄せて、そして僕の腕を何度も握りなおしてきました。
「そろそろイクから」
妹は唇を噛み締めたままで、浮かせていた頭を何度も縦に振りました。
「イクぞ!!!」
射精の瞬間、チ○ポを思いっきり奥まで押し込んで、尿道を子宮口とピッタリ合った瞬間にドピュ!!ピュ!!と射精しました。
「イクッ!!!」
妹のイキ顔を眺めながらチ○ポを奥に押し付けたままで精液が出尽くすまで、搾り出しました。前の晩に射精した影響が全くないくらい大量に出た感じがしました。

妹のイキ顔が、気持ちいいという表情から幸せそうな表情に変化しました。軽くキスしてあげると、「お兄ちゃんの精子が、あたしの卵子にの中入った音が聞こえた」と言いました。
「じゃあ、明日からは種付けしなくてもいいんだな?」
「たぶん妊娠したけど、お医者さんに診てもらうまでは、種付け続けるよ」
「今日はもうおしまいだよ」
「ダメよ。染みこませたらもう1回出して」
妹の要求通り、そのあと30分間、精液をオ○コに染みこませてから、もう1回戦やりました。
http://www.kazunoie.com/memo/memo2ndtane.html

近親相姦見せつけブームの僕の家

近所の人で親しく付き合っている人は、ミミちゃんが僕と妹の間に出来た子だということは知っています。親しくない人は、噂として知っています。
実の兄が実の妹に子供を産ませたことに対して、誰も変な目で見るようなことはなくて、僕の家に遊びに来た時には、ミミちゃんのことも大和のことも可愛がってくれます。

家族が全員家に居た先日の日曜日の午前中のことです。妹が発情したので、ミミちゃんの世話は父と母に任せて、ソファの上で妹とエッチを始めました。
最初は妹が僕のチ○ポを凄く舐めたがったので、僕はソファに座って足を広げて、妹の舌づかいを堪能しました。最初は玉舐めから始めてくれたので、僕は第1チ○ポ汁を出しまくりながら感じまくりました。玉舐めを満足しきったころに妹は、舌先を玉からチ○ポの方に移動してきました。それから裏筋や亀頭を舐めまくられたり、バキュームフェラされたりしてチ○ポはギンギンになりました。

その次に今度は、僕が妹のオ○コを舐めまくりました。チ○ポを入れる前に、舌でイカせることにしました。じっくりねっとり舐めたり、高速でクリトリスを舐めたり、舌をオ○コの中に入れてピストン運動したりして感じまくらせると、約2分ぐらいでイッてしまいました。舐めている最中に、時々、母が僕のチ○ポをしごきに来ていました。僕は拒否せずに、そのまましごかれ続けました。

妹のオ○コから口を外して立ち上がると、母が僕のチ○ポに口を近づけてきました。でもチ○ポまであと10cmの距離に来たところで、インターフォンが鳴りました。母は「あーん」と言いながら立ち上がって、ドアカメラのモニターを見に行きました。
母は「ご近所さんよ。エッチしてても大丈夫よ」と言って、カギを開けに玄関に向かいました。僕は、妹をソファに浅く腰掛けさせると、チ○ポをオ○コの中に挿入していきました。当然ですが、妹のオ○コはしっかり濡れていて、「ああーーん」と甘い声を漏らしながら、チ○ポを受け入れました。
オ○コの奥深くまで入れてから妹とキスをしていると、「こんにちわ」「キャッ!!」と言う声がしました。僕は、近親相姦してることを知っている近所の人達だと思ったので、「キャッ」の声には驚きました。
ビックリして、そっちの方を見ると、隣の家のなつきちゃん、なつきちゃんのお母さん(春樹君のお母さん)、町内さん、舞ちゃん、祐君のお母さんがいました。なつきちゃんは手で顔を覆っていました。

僕はなつきちゃんがいるので、どうしたらいいのか、迷いました。オ○コの中からチ○ポを抜くと、なつきちゃんの目にチ○ポが見えてしまうので、とりあえずはオ○コの中でじっとすることにしました。
でも妹が「お兄ちゃん、動かしてよ」と言うので、ゆっくりとピストン運動を開始しました。妹は「あー気持ちいい・・・アハー・・・ン」と声を漏らし始めました。
なつきちゃん以外の全員は、僕と妹とのエッチから目を外すことなく、じっと見ていました。だから、このまま続けていいんだと思って、ピストン運動のスピードをゆっくりあげました。妹はなつきちゃんまでもそばにいる状況なのに、全然平気な様子で感じていました。
「気持ちいい!気持ちいいよ!!」
妹は全身ピンク色に染めながら感じていました。

母と目があったので、「このまましてもいいの?」と聞くと、「いいわよ。最後まで」と母が答えてくれました。だから、僕はさらにピストン運動のスピードを上げました。
「アッアッアッ・・・・イイ!イイ!・・」
妹は、なつきちゃんに遠慮することなくあえぎ声をあげていました。そのなつきちゃんは、母の説明を聞いていました。
「カズちゃんと久美ちゃんが近親相姦してる噂は、ほんとだったのよ。悪いことじゃないんだから、隠す必要ないから、来てもらったの」
僕達が近親相姦しているという噂はかなり広がっています。でも、不思議なことに蔑視されていません。なつきちゃんは、隣に住んでいるので、当然、その噂のことは知っているはずです。なつきちゃんからは、近親相姦の噂がほんとか嘘か尋ねられたことはありませんが、絶対に知っているはずです。
なつきちゃんは、幼い頃から、母や僕や妹に懐いていたので、なつきちゃんが近親相姦のことを不快に思うはずがありません。

なつきちゃんに見られながら、正常位で妹のオ○コをしばらく突くと、結合したままで妹を抱き起して、そのまま座位になりました。
「背面座位になって」
母が要求するので、一旦妹の腰を持ち上げてチ○ポを抜きました。そのチ○ポを見たなつきちゃんが「キャッ」と声をあげました。
結合中のチ○ポを見ても「キャッ」と声をあげなかったのに、妹のオ○コから抜け出てたチ○ポを見て声をあげました。
「ちょっと待って」
母が妹が後ろ向きになったところで、声をかけてきたので、妹は僕の上にしゃがむことをやめました。母が顔を近づけてきたので、チ○ポを舐めたくなっていることがわかったからです。
「なつきちゃんは、おちんちんを舐めたことある?」
突然、質問されたなつきちゃんはクビを激しく振ってフェラの経験がないことを表現しました。
「じゃあ、見てて」
そう言うと母は、チ○ポに顔を近づけてきました。妹は僕の首に手をまわしてキスをしてきました。

母のフェラが続いている間中、僕は妹と舌を絡め合っていたので、なつきちゃんがどんな反応したのかはわかりません。みんなが平然としているので、なつきちゃんは逃げて行くことなく、じっと見学していたようです。
「いいわよ」
チ○ポから母の口が外れたと思った直後、母は僕と妹のエッチを再開するように声をかけてきました。すると妹は背面座位になってチ○ポを掴みました。
「なつきちゃん、見てて。入れちゃうよ」
妹がチ○ポを握ってオ○コに当てて腰を降ろしてきた時に、なつきちゃんのお母さん(春樹君のお母さん)の方をチラッと見ました。迷惑そうな顔をしていたらどうしようかと心配になったのですが、どちらかと言うと笑顔でなつきちゃんの様子を見ていました。
春樹君のお母さんは、僕達の仲間になってからは、それまで味わったことのない快感を味わうようになったので、完全に僕達に洗脳されてしまったみたいです。

妹は背面座位の体勢で僕の方に背中を向けると、なつきちゃんに向かってVサインを送りました。
「ちゃんと見ててね。舞ちゃんには見てもらったんだけど、なつきちゃんに見せるのが一番最後になっちゃってごめんね」
なつきちゃんに声をかけた妹はチ○ポをオ○コに当てると、腰を降ろしてズニュッとチ○ポを咥えこみました。
「見えるでしょ?私とお兄ちゃんがつながってるところ」
「・・・・」
なつきちゃんは、目を反らすこともなしに、しっかり見てくれていました。妹はズッポリとチ○ポを飲み込んだ状態で、結合部の解説を始めました。
「こっちはお兄ちゃん。ここまでがお兄ちゃんね。ここからがあたし。お兄ちゃんもあたしも毛がないから良く見えるでしょ」
結合部を指先で触れながら説明した妹は、ゆっくりと上下運動を開始しました。
「アハーン・・ハアーン・・・見て、お兄ちゃんのおちんちんが出たり入ったりしてるでしょ。すっごく気持ちいいの」
妹はゆっくり上下運動したり、腰をぐるぐる回したりしました。そして、からだを後ろに倒してさらに結合部を見やすくすると、そのままで首をまわしてキスを求めてきました。キスをすると妹が舌を伸ばしてきたので、きびしい体勢だったけど舌を絡めました。
そのままでさらに妹がもっと後ろに反ってきたので、チ○ポが抜けてしまいました。
「抜けちゃった。お母さん、お兄ちゃんのおちんちんを中に戻して」
妹の要求に母がやってきてチ○ポを握りました。でも母はチ○ポをオ○コの中に入れずに、舞ちゃんを呼びました。
「久美ちゃんの中に戻してあげて」
あとで聞いた話では、母はなつきちゃんにチ○ポを妹の中に入れさせたかったみたいですが、さすがにいきなりは無理なので、舞ちゃんに手伝わせて、その様子をなつきちゃんに見学させて、将来自分も僕達の仲間になる可能性を感じさせようと思ったみたいです。
舞ちゃんは、母に言われて躊躇せずに近寄ってきて、チ○ポを握ってくれました。そしてすぐに、チ○ポの先を妹のオ○コの穴に挿しこんでくれました。興奮で激しく濡れていた妹のオ○コに僕のチ○ポが入った瞬間に「ズボッ」という音が聞こえたように思いました。
「舞ちゃん、ありがとう!!」
妹は、少し感じた声で舞ちゃんにお礼を言いました。この時、妹も「今度はなつきちゃんね」と言いたかったそうです。

妹はゆっくりと上下運動を開始しました。僕はオッパイを揉みながら妹のオ○コの感触を味わいました。
「もし、あたしとお兄ちゃんが兄妹なのに、こんなことしてるのがおかしいと思うんなら、帰ってくれていいから。お兄ちゃんのことが大好きだから、子供まで作っちゃった」
少し感じた声で、なつきちゃんに話かけました。なつきちゃんはもちろんこの場から立ち去る気配はありませんでした。だから僕は、安心して妹を感じさせることにしました。
まずは妹のクリトリスをいじりながら、軽く突き上げました。
「アアン、だめ、あああんあああん」
それからすぐに、妹の腰をがっしりと掴んで激しく突き上げました。少し離れていたなつきちゃんの所まで、僕のチンポと妹のオ○コが激しく擦れる音や、肉がぶつかり合う音がハッキリ聞こえるぐらいの強烈さで突き上げました。
「気持ちいい!!気持ち!!お兄ちゃん、いい・・ああ、もうだめイキそう・・・」
妹がイキそうと言い出したので、僕はオ○コを突きあげるのを中止にしました。いつもならサッとイカせてしまうのですが、なつきちゃんとの距離がありすぎたのです。

「ああーん、イキたかったのに・・・」
妹が腰を動かそうとしたので、「なつきちゃんの前に行く」と小さく告げました。なつきちゃん以外の人達には、自らの足で近寄ってきてもらって、間近で見てもらいました。なんとなく、呼びつけることに気が引けたからです。
僕は結合したままで、なつきちゃんの前に行こうと思ってたのですが、チ○ポを抜いて立ち上がった妹が先になつきちゃんの前に行って、仰向けになりました。僕は妹のオ○コ汁でテカテカ光ってビンビンのチ○ポを隠さずに移動しました。なつきちゃんは、もう顔を覆うことはしませんでした。

妹がなつきちゃんの前で仰向けになっていたので、正常位で結合することにしました。チ○ポをズボッと突き刺すと、すぐにピストン運動を開始しました。
「見えてる?あたしの中にお兄ちゃんのおちんちんが出入りしてるのわかる?」
妹に聞かれて、なつきちゃんはうなづいていました。妹は、すごく興奮していてオ○コ汁を出しまくっていました。
ピストン運動を強めにすると妹は「ああん、いい・・・気持いい・・アッアッアッ・・・見てて、ちゃんと見てて」と声をあげまくっていました。
そして妹が、なつきちゃんの方に手を伸ばしました。なつきちゃんは、どうしていいかわからないので困った様子だったので、「あと10分ぐらいで終わるから手をつないであげて」と声をかけました。するとなつきちゃんが妹の手を握りました。でも体勢的に厳しいので、なつきちゃんはソファから降りて妹の横しゃがみました。

それから僕は、妹の腰を折り曲げて、まんぐり返し突きを始めました。でも激しく突き下ろすことが目的じゃなくて、なつきちゃんに、僕のチ○ポが妹のからだを押しつぶすようにズボズボとオ○コに出入りすることを見せたかったのです。だから2秒に1回ぐらいのスピードで「ズドーン!ズドーン!」と突き下ろしました。
「アーーー・・・・アーーーー・・・」
突き下ろすたびに、妹は声をあげて、なつきちゃんの手をギュッと握りしめていました。
「久美が凄く気持ちよくなってるのがわかる?」
僕の質問に対して、なつきちゃんは少し遅れてうなづいてくれました。このあとは、いつものマングリ返し突きのスピードに戻して、妹のオ○コから汁が飛び出しそうなぐらいの強さで突きました。
「気持いい、気持ちいいよーーーー・・・・凄い、凄い、アアアアアアアーーー・・・イキそう・・・」
妹がまたまたイキそうになったので、チ○ポをサッと抜いてしまいました。

そして最後の体位で、妹を四つん這いにしました。
「最後はバックで出すからな」
「お兄ちゃん、出して、精子一杯、中に出して」
チ○ポをすぐに入れずに、お尻の割れ目で擦るようにしてなつきちゃんに、オ○コ汁付きチ○ポを見せつけてからゆっくりと妹のオ○コの中に侵入しました。
妹のオ○コの中は、なつきちゃんの目の前で僕の精液を受け入れることを想像して、激しく濡れていました。母は近親相姦見せつけが大好きですが、母の血をひいた妹も見せつけが大好きです。
「一緒にイクから、我慢しろよ」
「うん」
チ○ポをゆっくりと出し入れしながら、いよいよ射精までイクことを宣言しました。そして妹のお尻を軽く叩いてから、ピストン運動を開始しました。
なつきちゃんに真後ろからとか、他の人にやったように、仰向けになって結合部を真下から見上げてもらうのはやめました。
「あんあん、アッアッ、いい!いい!気持ちいい!いい!凄い凄い・・・」
僕は射精することに意識を集中しながら、妹のオ○コを突きまくりました。妹は激しく感じまくっていたので、必死でイキそうになるのを我慢しているみたいでした。

「そろそろイクよ」
「出して!中に一杯出して!!イク!!!!」
僕は妹の声に合わせて射精しました。溜まっていたので、妹のオ○コ全体に行き渡るぐらいの量を射精しました。中出し中に、妹は腰をビクンビクンさせながら、僕の精液をオ○コで味わっていました。
精液が全部出ききるまで、結合したままでいると、母が近づいてきて「もう全部出たでしょ」と言いながら、チ○ポを妹のオ○コから抜いてしまいました。そしてチ○ポをすぐにパクッと咥えるとチ○ポに張り付いた妹のオ○コ汁を舌先で剥がすように舐め始めました。
「世間では、兄妹でエッチしたらいけないことになってるんだけど、うちでは全然平気なのよ。ご先祖様から家族同士で愛し合う習慣が続いているのよ」
チ○ポをねっとりと舐めながら母がなつきちゃんに説明してくれました。

この日のなつきちゃんの見せつけは、これで終わりでした。このあと、なつきちゃんは何もなかったように、子供たちと遊んでくれました。
http://www.kazunoie.com/memo/memomisebu.html

女として大阪朝鮮部落で暮らす2

岸和田春木?在日3世の告白?! 2016-02-23 13:10:00 | 日記


http://tool-4.net/?id=pachirhin&pn=35よりそのまま転載
ある在日3世の告白

『あのさ、君達の大嫌いな在日だが俺在日3世だけど別に嫌われようが何されようがこっちはどうでもいいよw

日本という国における「楽して稼げる職業」は全て在日・帰化人が握ってるし(笑)金あるから在日でも日本人女とやりまくりwあと数年で日本の参政権も取得できるし(爆)俺達はもうお前達日本人みたいに毎日毎日仕事とか将来とか金の心配なんかしなくていいんだよw今俺達が考えてるのはもっと大きいこと。

いかにしてこの日本という国をボコボコにいじめ抜いてやるかってこと。つまり日本の中に、俺たち朝鮮韓国人の血を増やして在日を増やす。んで日本人を少数派にしてその日本人をいじめたおす。

んでこの国を乗っ取る。今はもうその最終段階に入ってるわけ。


平和ボケした危機感ゼロのアホ日本人は気づいてないがw

例えば韓流ブームやパチンコ産業や消費者金融あれは在日が作ったって知ってる?

あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は最強なんだよ。自分達を地獄に導いてるとも知らずに毎日毎日テレビで韓国やパチンコをヨイショしてくれる。パチンコにはまるアホ日本人のおかげでパチンコ産業は儲り消費者金融会社も潤った。

韓流ブームのおかげで韓国へのイメージもよくなったし韓国人や在日の男と結婚する日本人女も多くなった。つまりあと30年もすれば日本は在日主体の社会になるって事だよ。たった100万人の在日に使われる1億の日本人wお前ら糞日本人に一生地獄の生活を見せてやるよ。どう?ムカムカする?(爆)まあすでに我々はパチンコと消費者金融で糞日本人を奴隷にしていじめたおしてるけどなwほんとお前ら糞日本人見てると家畜の豚に見えるよwそうやってこれからも我々の為に尽くしてくたらいいよ(爆)』

岸和田市民掲示板より

『これからは我々在日コリアンの時代』

‖関西在住の在日三世ですがこの日を待っていましたよ。
‖我々は日本への帰化など望んでいません。
‖韓国国民としてのプライドと誇りがありますからね。
‖民団総連日本の市民団体の方々とともに手を組んで
‖我々寄りの議員をどんどん送り込んでいきますよ。
‖当然我々寄り議員は我々にメリットの大きい条例や法案を作ってくれるでしょう。
‖60万在日のパワーを見せつけてやります。
‖日本人に一泡吹かせるどころか
‖コリアン特区コリアン自治区を日本全国に広げます。
‖韓流ブームなんてのはそのほんの入り口の更に手前の門扉の前の石ころ程度のものですよ。
‖日本人は我々が大勢でちょっと大きな声をだしてやるだけですぐに動きますからね。
‖この条例成立がそれを証明しているでしょ?
‖まずはこの岸和田から。
‖あとは日本中の在日コリアンコリア系日本人を総動員し
‖日本中の都市街で投票条例を得、最後は参政権を手中に収めます。
‖必要があれば住民票を移したり引っ越しだってやりますよ。
‖我々にはそれを実現するだけのパワーがありますから。

ある在日の告白A
『今や創価学会や統一協会など宗教界や年間30兆円のパチンコ業界・消費者金融業界・風俗業界・ラブホテル業界を在日は掌握したよ。


全国の駅前も在日が握っている。

宗教やパチンコで儲けた金で駅前の一等地を買い制覇するつもり。

外国人参政権も達成する為工作しているよ。

日教組の上層部は我々在日が制覇して日本人の子供には我々の歴史観を徹底的に教育する。

日本海の名前も東海に変える。

靖国も徹底的に叩く。日

本の永住権取得も緩和させ移民を多く受け入れアホな日本人は30%ぐらいにする。

反対するなら差別!差別!と騒ぐ。

今の時代は戦争で侵略するような時代じゃないんだよ。

我々はあくまで合法的に日本を侵略してるんだ(笑)芸能界もほとんどが在日プロダクションだし新人なんか体売るか創価に入信しないと仕事は与えない。

もちろんテレビ局も我々の支配下にある。結局全ては金であり我々はテレビも政界も全て制覇したんだよ。芸能界は今後も在日芸能人をプロデュースしていく。

日本は最高だね税金のかからない宗教とパチンコ産業で我々は大儲け!こんなことアホな日本人の多くは知らない。まあ日本人の事はどうでもいいよ。政治や大企業や在日企業を守り日本を乗っ取るのが目的だから。

ほとんどのアホ日本人が我々を日本人と思ってる(笑)まあ知った所でお前らにはどうする事もできないけどな(笑)』

『悪い在日はごく一部』『良い在日もいる』などと言う純粋真っ直ぐで偽善的な日本人がいる。

自分は他人の悪口を言わない正しい人みたいな奴らを見ると吐き気がするが、その『ごく一部の悪い在日』が日本の中枢に入り権力を手に入れマスコミなどを支配し日本人愚民化をさらに進め、日本の国力を衰退させていこうとしているのだ。

上の在日は住民投票条例で定住外国人に投票権を拡大し、国内在住期間が三年を超える外国人に常設型の投票権を認めた大阪府岸和田市の市民掲示板に書き込みしていた在日。
日本に生まれ日本に育ち日本語しか話せないが、在日は反日教育を受けた反乱分子であるという事の証明だ。

奴らは戦後一貫して日本の国益に反する行動を取り日本人を苦しめ好き勝手に振る舞ってきた。
最近でも、あり得ないような通り魔殺人・強盗殺人・強姦・成人式煽動などの凶悪犯罪を起こし、罪なき日本人が被害者になっている。

だが問題の根は深い、在日の粗悪さ粗暴さは変わらないしそれに対する日本人の危機意識のなさも深刻だ。日本人一人一人が危機意識を持ちこの国が乗っとられる事を防がなければならない。その為にも我々が政治に関心を持ち、候補者が何を主張しているか選別し選挙に行なわなくてはならない。

☆これは、在チョんの本音だから、気をつけてね私は在日が恐ろしいのは知っていますからね。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/023b6b861a7417fdeaea1abd2eca308e

韓国人のキチガイじみた思考回路。生々しい実体験を紹介します。

―――「ついでにもう一つ聞いても良い?」

―――「もし韓国で日本女性がレイプ等されたらどうなるの?」

韓国人「仕方ないと警察も社会も思うだけ。裏では先祖の恨みを晴らしたとみんなが誉める。合法的に英雄だ。」

―――「ネットでもよくそう見るけどそれは本当なの?」

韓国人「うん。当然だ。それだけじゃない。AVを見て日本女性達をレイプする楽しさをもっと学ぶ。」


―――「何回も言ってるけど演出って分かる?」

韓国人「日本のAVは全て真実だ。AVから日本を学べばそれで良い。」


―――「演出って分かる?」

韓国人「とにかくAVを見れば日本女性のことは全て知ることが出来る。AVのインタビューでも、「私は有名銀行のOLで素人だけどAVに出たのは・・」等話してるじゃないか。AVの中で女優が逃げることもあるし。」


―――「それ前も言ってたけどね、素人物というジャンルは分かる?」

韓国人「とにかくAVは全て真実だ。女性が偉そうに言うな。とにかく「やめて。」と日本女性がAVの中で言うのがおもしろいし韓国男達は一番興奮する。日本女性をレイプしたらこんな反応してこんな痛そうな顔をするんだなと思う。AVは真実だから。」


―――「それ何回も言うけど女優の演技って分かる?」

韓国人「いや、「オーディションに来た女優を騙して撮影」等がタイトルになってるから。」


―――「あのさそれが演出って分かる?」

韓国人「うるさい!とにかくAVは全て真実だ。作品紹介でそう説明してある。近親相姦も。母と娘も一緒によくAVに出ているだろう!」


―――「AVで我慢する日本とAVを実践してその上レイプ大国の韓国とは一緒にして欲しくない。」


―――「もう一つ聞くけど、韓国人が日本で日本女性をレイプしても犯罪にならないと思ってる?」

韓国人「当然だ。俺達の祖先を拷問したからその報いだ。日本女性は罪を償えたと韓国人にレイプされても感謝するだろう。日本に旅行に行った時、韓国女達は美人ばかりだが日本女性は噂通り全員ドブスでかわいい人は一人もいなかったが、ドブスの日本女性が相手でも男性は我慢出来ない時もある。
日本女性を見たらとにかくレイプを想像。そんなものだ。

それから日本が韓国人の犯罪を日本のテレビ等で扱うのは許せん。韓国人の名誉が穢れるだろう。テレビの影響を考えろ。韓国人が日本で日本女性をレイプした等何で日本でニュースにするんだ。そのニュースを見る韓国人の気持ちを考えろ。」

(キチガイ過ぎる。)


―――「あなた本当にそう思ってるの?前から思ってたけど女性に対して正直に言い過ぎじゃない?本当にそう思ってるの?私への嫌がらせではなくて?」

韓国人「お前は韓国の真実をよく知っている。だから嘘をつかないだけだ。それから男性は正直に言うものだ。とにかく韓国では日本女性の印象といえばAVとレイプしかない。それが本音だ。日本男性の娘は全員AV女優だ!」


―――「ついでに聞くけど日本のことをどう思ってる?」

韓国人「日本は韓国に悪いことをした。拷問をして宮殿を公園にした。先祖の恨みを晴らさないといけない。

日本は完全な韓国のコピー国家。いつも韓国の真似をする。そして韓国人に嫉妬する。日本人男性は韓国人男性には絶対勝てない。弱い。

日本人女性はチマチョゴリを着て謝罪しろ。それと性のことでは韓国人男性に奉仕する義務がある。日本人女性に一番お似合いなのは韓国人男性に反省を捧げる生活だ。だから日本人女性を性暴行しても無罪だ。
俺はいつもお前にチマチョゴリを着せたい。買ってでも着せたい。でもここに売ってない。日本人に歴史を教えてやる。」


―――「そこまで言ったら私がドン引きするとは考えない?」

韓国人「だって本当のことだ。真実を言って何が悪い?日本人が受け止めるべき事実だ。」


迷惑な韓国^_^ 〜頭の中は24時間日本の限定でアダルトビデオだけの韓国人男性の皆様+本当の韓流について〜| ”韓国では日本人女性を性暴行しても罪には問われずに英雄だ!”by韓国人男性
http://realjapanese.blog.fc2.com/blog-entry-271.html


あまりにひどい。キチガイを通り越して殺意すら覚えます。

韓国人にとっては、日本人をレイプすることが名誉なのです。
親しい間柄とみられる日本女性にですら、ここまで酷いことを平気で口にするのです。


韓国人「日本女性を見るとレイプしか想像しない」
韓国人「ドブスの日本女性でもレイプしてやってんだぞ」
韓国人「お前にもチマチョゴリを着せてレイプしたい」


このブログ主の女性も被害に遭っているのかもしれません。


実際に韓国人にレイプされている写真を紹介しているブログを発見。

写真はAVではなく、ガチのレイプシーンのように見えます。
「人権法案が成立するとこうなる」と警告するための過激な表現とのこと。


良いんですか?あなたが下記の様に韓国男達・在日韓国男達から輪姦されまくっても・・性のこととなると隠される部分もあります。私は女性であっても、韓国男達の性に対する徹底的な執着とその異常性にはご存知の様に免疫があるのでもう慣れましたが、女性の皆様は下品だとは仰らずにどうか現実から目を背けないでください。

年上の方々年下の方々関係なく日本人の皆様が心配ではなかったら、こんな韓国男達の異常性(特に性のことに関して。)についてこの様なブログを書かないです。どうかご自身の身を法案阻止ということで守ってください。たとえ守ってくださる男性がおられても、お一人になる時間は絶対にどなたにもおありのはずですから・・


画像があなたかあなたのお嬢様等になると思ってください。韓国男達・在日韓国男達からこんなことをされていると。どうか法案阻止に向けて男性女性関係なく一緒に頑張りましょう!


南鮮人に輪姦された日本人女性たち

悪魔の強姦民族チョンと犯された50万人の日本人女性    レイプはチョンの国技! [ はやぶさUの万華鏡 ]
http://hayabusa2.blog.fc2.com/blog-entry-253.html


一番上の写真の男、笑っています。お望みの日本女性レイプで恍惚の表情か。
この写真は非常にショッキングですが、これを見て事の重大さを思い知るべきと言えます。


韓国人を一言で表現するならば
「対日本人専用殺人レイプマシーン」と言ったところでしょうか。
もはや人間としての感情が欠落した「機械」です。


女性を「産む機械」などと表現できるのは、自分が「ヤる機械」だからでしょう。


日本のAV産業が世界にもたらす効果

■日本女性をレイプシーンで徹底的に痛めつけ、韓国男を喜ばせる
■日本女性=淫乱、という認識を世界中に植え付ける
■日本=性産業=従軍慰安婦、とイメージを植え付け捏造史を正当化

こういう性産業が発展した結果

「日本女性は貞操観念がない」
「日本女性は海外でモテる。すぐやらせてくれるから」

となるわけです。
背後に必ずそういった残虐朝鮮人の策略があることを知らねばならない。


こんな国で修学旅行というのがどれだけ危険な行為か。伝わったでしょうか?
知らなかったでは済まされません。親として責任ある決断をすべきです。

レイプで済めばいい方です。
最悪の場合は肛門裂傷、膣破損、地獄の苦しみの末の死が待っているのです。
http://www.news-us.jp/article/296189391.html


在日の日本人への拷問 2016-01-18 17:25:43 | 日記

北九州監禁事件では


大便排泄を1日1回に限定し

全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した

勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた

言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った

一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ


朝鮮民族はこういうことを好むのである

ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります


朝鮮人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います

チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でした朝鮮人の李氏朝鮮もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります


殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、

ハンダコテで体中焼く、

尿道にマッチ入れて火をつける、

在日が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える

大小便を食べさせる


など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、

全身にピアスを通され

穴という穴は拡張され、


在日が起こした女子コンクリ事件では

鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です


在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁

少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます

何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります

尻の穴もそうなります、

栗には太いピアスがされるでしょう

SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、

厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします

【尼崎大量殺人】角田美代子4【コンク李ドラム缶死体】


角田美代子

これだけの凶悪事件を起こした重大犯罪人にしては、こいつの過去が一つも晒されていない。

犯人が日本人の場合は、親戚、何十年も前の同級生、会社関係、全てを晒して追及するハズ。

主犯格に韓国籍の李正則がいることから在日犯罪である事は間違いない。
報道機関、特にテレビメディアは印象操作や犯人隠避の罪で放送免許を剥奪するべき。

民事不介入を盾に見て見ぬ振りをしてきた警察もだらしないけど
所謂『被差別者』に対して強行な捜査をすると、人権派やマスコミがうるさいんだよね
こういう事件が発生するようなシステムが着々と作り上げられてきた


日本人なら微罪でも逮捕するのに、ZやBなら殺人などの重罪でも野放しって
なんかおかしくない?

この国は異常だと思う。


自分が住む部屋でよく殺すよなあ
その辺の神経がやっぱり日本人じゃないって感じ


一部報道では、女性親族が

「女の私からは言えないような猥褻な格好をさせられていた」

と言っていたな。


北九州監禁事件でも、松永太が、嫁の母親や、妹を 嫁の父や、妹の旦那の前で犯して、そのときに、

「私は、松永の性奴隷です。松永のチンポが欲しくてたまりません」

と何回も言わせていたらしいからな。

親族同士の暴力、性行為というのは、マインドコントロールの常套手段なんだろう。


尼崎のコンクリート殺人で捕まってだいぶたってるのに主犯の情報がほとんどでてこない

いつもなら犯人の過去を喜んで暴くマスゴミに在日か同和団体から圧力がかかってるのだろう

もう法律で本当の国籍、本名で報道するようにしないといけないな


☆在日につかまったら若い娘は、舌をかんで自殺するしかないのですね。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/96a6656d746c7425de9a2d31c0b09e19


北九州一家監禁殺人事件では、松永太が、嫁の母親や、妹を 嫁の父や、妹の旦那の前で犯して、そのときに、

「私は、松永の性奴隷です。松永のチンポが欲しくてたまりません」

と何回も言わせていたらしい。

親族同士の暴力、性行為というのは、マインドコントロールの常套手段なんだろう。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1350881970/


北九州一家監禁殺人事件 【監禁中の緒方一家、虎谷一家の待遇】


松永は精力絶倫。

一晩に三度、身体を求めるなどセックスが強く、女性器への入念な舌戯から多くの女性をセックスで溺れさせ、性奴隷にしてコントロールする才能を持つ。

きわめて強いサド志向 で、旦那の見ている前で人妻を犯すことが何よりの快楽。

抵抗できない旦那を前に、抱かれている人妻に何度も「松永の性奴隷である」と告白をさせ、また松永が 妻の媚態を指摘して、夫婦の絆・自尊心を崩壊させる。
また、家族間で近親相姦をするよう暗示(強要)して家族関係を崩壊させる。


・支配者・松永の武器は卓越した話術。相手を油断させ、信用させると同時に、恫喝する二面性によりマインドコントロール下におき支配する。

・ 支配するため「食事・排泄・睡眠・セックス」を重視した。通電により脳を空白にして新しい価値観を植えつける。それを持続させるには生理的欲求を管理・制限することが重要という結論を得たのであろう。

・食事は白米〜下痢便まで奴隷階層により違う。一例として、
食パンの耳だけ、
白米にラードまたは生卵、
具のない即席ラーメンだけ など。

・粗末な食事が日常化すると、おかずが一品増えただけでも感謝するようになった。

・食事は13分で食べ終えないと通電。

・最下層の奴隷に落ちると、下痢便を無理やり食べさせることもあった。

・排泄は一日一回。大便は便座に腰かけずに腰を浮かせて排泄。
小便はペットボトルに排泄。

・過酷な監禁生活が日常化すると、支配者・松永から優しい言葉をかけられると、奴隷たちは慰めになった。

・布団を与えず立ったままで寝かせる。

・家族間での会話は禁止。

・シャワー、歯磨きは何日も禁止。


・女性は松永と寝ると奴隷階層の地位が上がる(シャワー、歯磨き、ベットでの睡眠ができる)ため、自ら積極的に松永の性奴隷となった。

・近親相姦をさせ、行為中の写真を撮り、自尊心を剥奪する。特に主也は義理の母・静美、実 の娘・彩10歳とのセックスを強要された。


【監禁中の緒方一家、虎谷一家への虐待方法】

・ 主な虐待は通電。

コンセントからコードをワニクリップでつなぎ、性器・乳首に電流を流す。

通電されると、痙攣(けいれん)状態となり、ぐっ たりして意志がなくなる。

頭の中が真っ白になり、自分を失い、支配者の言いなりになる。

限度を超えると廃人寸前、糞尿の垂れ流し状態に なることも多々あっ た。


・常につま先立ちで深く腰を降ろす、土俵入りの力士の姿勢”そんきょ”を長時間にわたり命じられる。


【論告書より】

緒方一家の暮らしぶりは昼夜の逆転した生活。一家六人は台所で雑魚寝させられ、平均睡眠時間は3、4時間だった。

起きている間は台所に立ち続けなけていなければならない。

トイレの使用は松永の許可制で、しかも一日1回。

小便はペットボトルにさせられ、大便する際、便座に尻をつけることは許可されなかった。

食事はごく少量で一日1回。時間制限されたうえ食事する際は全員、床に尻をつけることも許されなかった。

違反すると通電暴行をあえて他の緒方一家の面前で行い、見せつけていた。

通電を受けているものをかばった者は松永の次なる対象とされた。松永は誉氏に塩を山盛りにした米飯を食べさせたり、優貴君をのぞく全員に対しサディズムの象徴ともいえる乳首や性器への通電行為を行った。


【緒方純子】

・1962年生まれ。元幼稚園教諭。短大を出て、1982年ごろから自宅近くの幼稚園に教諭として勤務。約3年で退職。

・松永より、胸に煙草の火で「太」と焼印を押し、太ももにも安全ピンと墨汁を使って同じく「太」と入れ墨を入れられた。

・松永と出会う前は、男性経験は一度だけ。男性が一方的に腰を振るだけで感じなかった。

・松永によりセックスに目覚める。以後、積極的に松永を求め、マインドコントロールとともに、 松永のセックスから逃れられない身体になる。

・悪質布団販売の事務員になり、この頃から従業員に通電など虐待に加担していた。


【緒方理恵子】

・98年2月10日(静美殺害から20日後)殺害。享年33歳。

・純子の妹。姉・純子より気が強く、美人。

・純子が殺人を犯したことを聞かされ、主也が交渉に乗り込む時には、すでに松永との愛欲に 溺れる身体になっていた。

・夫・主也が交渉に乗り込んだ際、逆に主也は松永に言いくるめられ、酒の勢いもあり、主也が理恵子を含む緒方一族の頭部を殴る。さらにその後、夫・主也は妹・純子、母・静江と共に 妻・理恵子の女性器に通電してしまう。

・酒に酔い、松永と意気投合した夫・主也に殴られ、通電に心が砕かれ、理性的で気丈な性格 が一転して松永に屈服し、さらに服従するようになる。

・ シャワー、歯磨きを許可され、優しく接してきた松永が寝室へ招く。主也のいる初夜の当初は夫への罪悪感、羞恥心から泣き震えていたが、やがて、女性器への舌戯の快楽に溺れるようになる。

妻の初夜の情事を目撃した主也はやめるよう反撃を試みるが、逆に純子に通電され主也は自尊心を砕かれる。快楽に溺れている中、そんきょの姿勢で見ている主也の前で自ら積極的に松永を求め、媚態をさらし、媚声を発するようになる。

・(主也のいる)初夜の後も、そんきょして屈服している夫・主也の前で、自ら松永を求める告白を何度もさせられる。

このように母・静美と同じ心理的変化を経て松永の性奴隷に変貌し、夫婦関係を破壊される。


・ 妹・純子、母・静美、少女A(仮称・虎谷礼子)はライバルとなり、互いに正妻の座を得ようとする。

正妻はセックスの前にシャワー、歯磨きを許可され、事後も殿様である松永とベットで睡眠。

側室に落ちると寝る場所がソファ、板の間、浴室、立ったまま寝ると、ランクが分かれる。 食事も差がつけられる。


・松永の指示で純子が母・静美、理恵子を全裸で仰向けに並べて寝かせ、同時に女性器へ通電されていた。


【少女A(仮称・虎谷沙織)】

・1981年生まれ。98年当時17歳。2010年現在29歳。

・小学生の頃から松永に犯され性奴隷に。そのため、緒方純子の虎谷沙織に対す る憎悪はすさまじく、最後まで最も仲が悪かった。

セックスに関しては松永の最もお気に入りだった。
https://docs.google.com/document/d/15THHgxepPxfB3ybRf3PWSJr0MA16MQGLq-jwZ651mMg/edit?pli=1&hl=ja


松永が特に好んだ虐待は通電である。松永は電化製品などに使われる電気コードを使う。途中で切った電気コードの被覆を剥き、その先端にワニ口クリップを付ける。そのワニ口クリップをターゲットたる人物の体に取り付け、電気コードをコンセントに抜き差しして電気ショックを与える。

手足の指が多かったが、何度も通電されることで常時火傷を負ったような状態になる。最初に殺された男性は肉が削げ、骨がむき出しになるような状態になっても繰り返し通電されていた。通電箇所は化膿し、体液がしみ出るなどして指同士が癒着して離れなくなったりした。


この通電でもっとも強力なのが、両乳首への通電と上下の唇への通電である。

両乳首へ通電すると、心臓にまで電気ショックが届き、心室細動を起こして心停止状態に陥ることがある。また、唇への通電は、湿った口内から脳幹、脳に電気ショックが伝わり、脳に異常を来すことになる。

最初の殺された男性、3番目に殺された緒方純子の母親は、腕が不自由になるほか、脳に異常を来し、正常な思考を保てなくなるばかりか、前後不覚の状態に陥ることになった。


この通電は、あらゆることへの罰として行われた。監禁している人間に与えられる食事は、1日1回、食パン8枚で、相撲のそんきょの姿勢を取って7分以内に食べなければならないなどというルールがあった。それを守れなければ通電だ。

また、松永は監禁して虐待している人に用便の制限をした。小便は決められた数のペットボトルに出し、大便は1日1回、松永の許しを貰ったときだけできた。万が一大便を漏らしてしまった場合、その大便を家族が見ている前で食べさせられ、汚れたパンツはきれいになるまで吸わされることになる。

それ以外にも、松永は就寝の自由も奪った。監禁されている人は狭い風呂場などに押し込められ、体育座りのまま寝かされた。
また、日中は全員台所に何時間も立たされた。


松永のその虐待は緒方純子の一家7人のうち、緒方純子の妹の4歳の息子以外に全て行われ、9歳の長女の例外ではなかった。

この北九州の監禁・殺害事件でもっとも忌まわしきところは、通電という恐怖で緒方の家族を支配した松永が、家族通しで殺人をさせたことにある。特に、緒方純子の妹の娘は、母親殺しと父親殺しにも荷担させられた。家族で家族を殺した後は、残された家族に殺された人物の解体をさせる。体を解体し、肉をそぎ落とし、内蔵を取り出してバラバラにした上で、人体を鍋で煮込んだりミキサーにかけるなどさせる。

このとき、松永は一切何も手伝わない。ただ指示をしているだけ。

ただ、なぜ一家が松永にいいように支配されたのかという疑問がどうしても残る。

きっかけは、松永と緒方純子の詐欺や暴行などの犯罪を隠すためであった。松永にいいように操られていた緒方純子が罪を犯したかのように松永に言い寄られ、いいとこの旧家である緒方家はそれをひた隠しにしようとして、松永に取り込まれた。

全財産を奪われた挙げ句に、金が調達できない用済みと見なされてからは、次々と殺されるハメになった。緒方純子の妹の夫は、元警察官であったにも関わらず、松永に支配され、洗脳され、奴隷となった。
http://subzero.iza.ne.jp/blog/entry/906887/


イラマチオによって私はヨシエさんの口の中に精液を放出しました。

ヨシエさんはその精液を喉奥でしっかりと受け止めると口を離してからゴクリと喉を鳴らして飲み干しました。そして私の方に向かうと静かに…

「ご主人様の精液…美味しかったです…。
 奴隷のお願いをきいて下さり…ありがとうございました…」

とベッドの上で私に平伏しました。

「ヨシエ、まだここで終わりじゃないんだよ」

私がそう促すとヨシエさんはふと思い出したように…

「あ、申し訳ございません。お掃除させていただきます」

と応えて私の股間に再び顔を寄せました。

「いいか、ヨシエ、掃除はフェラチオとは違うんだぞ」

「違うのですか?」

「そうだ。フェラチオは基本的にヨダレを出してヌルヌルするのが基本だ。
 だが、掃除はその逆だ。SEXやフェラチオでついたヨダレや精液、
 マ○コ汁をキレイにするのが掃除だ」

「あぁ、そういうことなのですね…」

「だから出来るだけ唾液は出さないことだ。わかったか?」

「はい。かしこまりました、ご主人様…」

ヨシエさんは合点がいったような表情で微笑んで答えました。

「では、最初はチ○ポを咥えて残った精液を吸い出せ」

「はい…かしこまりました、ご主人様…」

ヨシエさんは私に命じられると最初にペニスを咥えて強く吸いながら尿道に残った精液を吸い出しました。

「次はチ○ポについたヨダレや精液を拭きとれ。
 舌を出して丁寧に舐めとるんだぞ」

「はい…かしこまりました、ご主人様…」

ヨシエさんは命じられた通りペニスを持つと上下に舌を動かしながら丁寧に付着した粘液を舐めとっていきました。

「周りについているのも全部キレイにしろ」

「あぁ、はい、かしこまりました…」

ヨシエさんはそう言われて陰毛や陰嚢に付着した唾液や精液もキレイに舐め
丁寧に掃除していきました。

「よし、じゃあ最後だ。ついてこい」

「はい…かしこまりました」

私は立ち上がるとトイレへと向かい、そこで用を足し始めました。ヨシエさんは前回教えた通り私の横でメス犬のお座りの姿勢で待っていました。

放尿を終えてポタポタと小水の滴が落ち始めると、ヨシエさんは私を見上げ目配せしてからペニスを口に咥えました。そして尿道に残る残尿を丁寧に吸い出しました。そして、顔を離すとペニスについた唾液と尿を丁寧に舐めとりました。そして最後に…

「ご主人様、ありがとうございました。とても美味しかったです…。
 こんなにご奉仕することで興奮するとは思いませんでした。
 自分でも本当にマゾなんだなぁ…と改めて実感しました。
 ご主人様、本当にありがとうございました」

と微笑んで答えたのです。
http://ryoujokubanashi.blog75.fc2.com/blog-entry-749.html


「いいだろう。本当に出来るならやってみろ」

私は再びヨシエさんを見降ろしながら冷たくそう言い放ちました。

「あぁ…ご主人様、ありがとうございます。奴隷はちゃんと出来ます。
 ご主人様に命令されたことは…かならず出来ます…」

「わかったから、サッサとやってみろ」

「かしこまりました、ご主人様…。ありがとうございます。失礼します」

ヨシエさんはそう言うと股間に顔を寄せてきました。そして口を大きく開いて口に溜めた唾液を舌に絡めてから伸ばすとゆっくりペニスの裏筋に這わせ始めました。

「はうう…ご主人様…ありがとうございます…嬉しいです…
 ご主人様のオチ○チン…舐めたかったです…あうう…」

ヨシエさんは吐息混じりの声を洩らしながら丁寧に舐め始めました。

そして舌先で亀頭のつけ根から先端をっゆっくりと舐め上げると舌の腹を使って亀頭全体を包みこむように舐めました。ジュルッ、ジュルッという粘着質の湿った音と共に舌と口を動かしながらヨシエさんは愛おしそうにペニスをしゃぶり始めたのです。

「いいか、ヨシエ。よく聞けよ」

「はい、ご主人様…」

ヨシエさんは私に言われて私の方を向いて答えました。

「ホラ、誰がやめろていいと言った。命じられたらいいと言われるまで続けろ」

「あ、申し訳ございません…。んふう…あふう…んうんっ…」

ヨシエさんは再び唾液の絡んだ舌を差し出してペニスの筋を舐め上げては
そのまま亀頭を舐める行為を繰り返しました。

「いいか、ヨシエ、よく心得ておけよ」

「んふっ…ふぁい(はい)…」

「私は奴隷を感情や気分で怒鳴ったり痛めつけたりはしない。
 奴隷でも子育てでも部下でも叱られる時は決まりがある」

「んふっ…ふぁい(はい)…」

「それは出来ることをやらなかった時だ。覚えておけ」
「んふんっ…ふぁい(はい)…」

ヨシエさんはペニスを口に含んで飲み込みながら私を見上げて答えました。

「今日もそうだ。フェラチオの仕方は以前の調教の時に教えておいたはずだ。
 その時はお前はちゃんと出来ていただろう」

「んふっ…ふぁい(はい)…」

「そのやり方を思い出せるように教科書と教則ビデオを与えておいたのだ。
 前回ちゃんと出来ていたことを復習しておけば出来るはずだろう」

「んふんっ…ふぁい(はい)…」

「にも関わらず、お前は今日は最初は出来なかった。
 いや、出来るのにやらなかったというのが正しい。それはお前の怠慢だ。
 だから私に叱られた。出来ることせずを手を抜いたからだ。わかったか?
 以前にも言ったが、出し惜しみせず出来ることは全て出し切れ。
 今後もそういう時は容赦なく叱りつける。そう心得ておけ」

「んふんっ…ふぁい(はい)…」

ヨシエさんはそう言われて手と口の動きを更に激しくしました。

「一生懸命やるのは調教を受ける前にしてくることだ。
 私の前ですることではない。私の前に出る時は出来る状態になっておけ」

「んふっ…ふぁい(はい)…んふんっ…」

「私もお前が出来ないと思うことは命令しない。 お前になら必ず出来ると判断したことしか課題として与えない。 だからお前は私の前に出た時は命令されたことを100%出来るようにしろ」

「んふっ…ふぁい(はい)…はひほはりはひは(かしこまりました)」

「そうだ。お前は出来るんだよ。それをしなかったから叱られる。
 これからはもっと淫乱で変態のメス犬になり切れ」

「んふっ…ふぁい(はい)…あいがほうごはいはふ(ありがとうございます)」

私はそう言いながらフェラチオを続けるヨシエさんを引き離すと…

「いいぞ、次はメス犬になってみろ」

と命令しました。

「はい、かしこまりました、ご主人様…。
 いつも奴隷を躾けて下さり、ありがとうございます。
 メス犬になって…ご主人様に喜んでいただきたいと思います…」

ヨシエさんはそう答えると立ち上がって服を脱ぎ紅い首輪を巻いてから
私の前にメス犬の格好で座り、リードを咥えて差し出しました。
http://ryoujokubanashi.blog75.fc2.com/blog-entry-765.html
 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
1. 中川隆[-5793] koaQ7Jey 2017年11月28日 11:34:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

在日が起こした女子コンクリ事件では

鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です

在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁

少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます

何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります

尻の穴もそうなります、

栗には太いピアスがされるでしょう

SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、

厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします

_____

女子高校生コンクリート殺人事件

1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。

神作譲( 帰化人 犯行時は小倉譲 )
足立コンクリート惨殺事件犯人 
親は三郷在日部落の名主
http://mikosuma.com/google/zainiti.txt


東京都の朝鮮人部落 足立区

足立の三大名物は、総連、民団、創価で、鮮人一色である。

荒川の北側、足立区本木〜足立区関原周辺に朝鮮部落があり、北方向の西新井駅付近まで広がっている。

特に西新井病院周辺は危険。西新井病院の保養所は北朝鮮による日本人拉致事件の際にアジトとして使用された他、調剤薬局が北朝鮮に医薬品を密輸していた。
また、ここから東方向の綾瀬駅界隈や、南方向の北千住駅界隈にも朝鮮部落がある。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=718528608178292&id=100000634780717


そして、朝鮮部落というのはこういう世界なのですね:


386: 忍法帖【Lv=20,xxxPT】 :2011/06/26(日) 12:20:48.52 ID:bh5xfPAE0

ヤクザの8割が部落出身者
これだけで十分だろ


423:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 12:44:15.14 ID:s6SefZoz0

部落出身者と付き合うのは本当やめとけ
やーさんまがいの連中と繋がりあったりする


479:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/06/26(日) 13:42:31.41 ID:1r6sUsDL0

部落は川の傍に家がある
水のみ百姓と同じ原理ね。
川が氾濫して流されて
死んでも良いカスが住まわされてる。


指定暴力団の数:22

その内在日が代表を務める暴力団:8

暴力団の内、約4割が在日韓国朝鮮人に占められていることになります


元公安調査庁の菅沼光弘氏曰く

「ヤクザの6割が同和関係者、3割が在日韓国朝鮮人である」

という確かな情報もございますので、暴力団のほとんどを在日や同和などの犯罪者が占めていることは間違いないでしょう
http://asgijp.blog104.fc2.com/blog-entry-378.html


127. Posted by 以下、ゴールデン名無しがお送りします。 2008年11月06日 17:44

ヤクザの利点はただ一つ。落伍者のセーフティネットだよ。

自由競争?社会なんだから、ある程度落伍する人間は出てくる。ヤクザは落ちぶれて自殺しそうな人間を救う組織・・・だった、少なくとも江戸時代までは。

今は多分部落三割在日三割できな臭いから、本当に救ってるのかどうかは微妙だけど。

ヤクザは必要悪というより、必要な枠組みと捉えるべき。悪いと決め付けてるのは、単に恣意的な倫理観に過ぎない。

485 :少年法により名無し :04/07/29 22:44

事件当時の小倉一家は「貧乏人しか入れない」都営住宅に住んでいたんだよな。

それが事件直後から、マンションを購入したりと急に羽振りが良くなっているが、
金の出所はどこだ?

ヤクザ?

それとも、まんまと罪をのがれた湊の家族?

いや、違う。
http://mimizun.com/log/2ch/4649/1231013534/


375 :名無しさん :09/12/17 22:27:50 ID:vfaVnrgE

被害者を家に帰そうと宮野が言ったとき、猛反対をしたのは小倉

宮野がいない時に、酷い暴行、強姦を加えていたのは小倉

湊、渡邉や下っ端不良に指示をだしていたのは小倉

「俺が主犯だった」と小倉自身が言っている


神作譲

「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」

「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。ホントは俺が主犯なんだよ。」

「俺は捕まったって怖くねぇし、同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」


そして、まだ続く独演会


「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346165087.html

468 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:29:14 ID:ESwy0TF30

少年達は床に全裸の順子を寝かせ膣にオロナミンCの空瓶2本を突っ込んだ。
そして3キロの鉄アレイを持ち出し順子の腹の上1メートルにかざした。
少年

「ここから鉄アレイ落としたら瓶が割れて膣の中がグチャグチャだぜぇ。ヒヒヒヒヒ」


順子
「いやああああ!やめて!やめて!」


少年
「やめなああいギャハ!」


鉄アレイは順子の腹へ落ちた。2本の瓶は割れなかったが鉄アレイとぶつかる音か甲高く響いた。


少年
「おもしれえ!おもしれえよおおおお!!」

少年
「おれにもやらせて!おれにもやらせて!」


少年達は何度も鉄アレイを落とし膣から鳴る音を聞いて笑い転げた。 やがてこの方法の虐待に飽きた少年達は別の虐待を始める。

そして膣に入れた2本の瓶は忘れ去られたまま順子は絶命しコンクリート漬けにされた。


467 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:24:28 ID:ESwy0TF30

AはCとDに対し「道具を万引きして来い」と命令。CとDはホームセンターへ向かい、ペンチや鉄アレイなどを調達。


C「いいものパクってきやしたぜ」

少年達は順子の服を脱がせ、CとDが両足を押さえ、順子の股を開かせた。
Bは電気ドライバーを取り出し、コンセントに差し込む。


B「グヘへへこれを入れてやるぜ」


順子は両足をバタバタさせたが、CとDはガッチリ押さえる。

ウイーンと電気ドライバーが回転する。そして電気ドライバーは膣に入った。
順子は痛がって大暴れするが、Bは無理矢理電気ドライバーを突っ込む。

悲鳴とともに膣が血が飛び散り、順子の膣は破壊されていく。


そこにAはペンチを持ってきて、乳首をひねり潰す。

乳首からも血が飛び散り、乳首も膣も使い物にならなくなっていった。


裁判記録から一部引用


お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊

(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。

重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、


●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 

●ライターのオイルで皮膚を焼いた 

●肛門に瓶を挿入し思いきり蹴った)

 

手足を縛り、

膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、点火し、燃やされ、
膣の中や裸体をライターで火あぶり、苦しさのあまり何度も気絶する。

その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する!

(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)

しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う

大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、

500ccの尿を飲まされた。

ゴキブリも食わされたそうである。

また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。

恐ろしい事に、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、誰も通報しない。

(死体が発見されるまで)そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。

(殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。

死体には髪がなくなっていた。

死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。

なお、死体は手足を縛られた状態であった。


◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。

◆ゴキブリを食べさせる。

◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。

◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。

◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。

◆小指の生爪を剥がす

◆左乳首はペンチのようなもので潰す。

◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。

◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。

◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。

◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。

◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。

◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。

◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。

◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。

◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。

◆遺体の乳房には20本位の裁縫針が入っていた。

◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。

◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。


初期

・強姦に加わった人間は100人超。強姦回数は400回を越える。

・全ての強姦が生。中出しに飽きると口内発射、顔面発射でフィニッシュ。

・過度の強姦で失神した場合は水をぶっかけ、息を吹き返させる。

中期以降

・膣にシンナーを入れ、キュウリやニンジンを出し入れする。

・肛門で爆竹や花火をして遊ぶ。

・床に複数のガビョウを置いて、その上に背負い投げやパワーボムで投げる。

・膣にオロナミンCのビンを入れる。破壊した肛門にもオロナミンCを入れる。

・膣に入ったオロナミンCの上に鉄アレイを何度も落とし、音を楽しむ。

・音楽に合わせてストリップショーをやらせる。

・ゴキブリ、ウンコを食べさせ、尿を飲ませる。

・体にオイルをまき、ライターで火をつけヤケドさせる。

・ヤケドでかぶれた肌を更に焼いたり、蹴ったりする。

・真冬に裸でベランダに出す。

・焼き鳥の串を肛門や膣に入れる。

・仰向けに寝かせて口の中に鎌や木刀を入れて顔を変形させる。

・裸にして竹刀や鉄の棒で毎日殴る。床に寝かせて竹刀をノドに押し付ける。

・膣を灰皿代わりにしてタバコを吸う。

・タバコの吸殻も膣に入れる。

・ハサミで膣に傷つけ大流血させる。

・乳房と乳首にマチ針を刺し、上から蹴りを入れる。

・乳首をペンチで潰す。


遺体の状況

・肛門と膣の中にはオロナミンCが入っていた。鉄アレイで割られた破片もあり。

・顔面は殴られた傷や腫れで識別は全くつかない状態。

・体中がヤケドとアザだらけで髪の毛はなかった。

・性器と肛門は完全に破壊。


現場検証の際、床、壁のみならず、天井にまで血が飛び散っていた。目鼻口の位置が判らぬほど膨れ腫上り、御両親でさえ判別しがたいほどに変わり果てていた。解剖の結果


頬骨・顎の骨が砕ける

ほぼ失明状態 片目においては完全失明

鼓膜が破損し、聴覚不機能

歯茎に付いている歯が一本もない

子宮・肛門は最も損傷が酷く、他の人体部より激しく腐敗、

文字通り完全に破壊され双方の壁は引き裂け、区別が無くなり、中にはタバコの吸殻、花火、瓶2本

頭髪は過度の恐怖により抜け落ちていた

脳が縮小していた(あまりの辛さに耐え切れず、脳自身が死を選択・命令する現象)

彼女が最後に言った言葉は「助けて下さい」ではなく「もう殺して下さい」であった


825 名前:可愛い奥様 [2007/07/09(月) 00:04:36 ID:YEn3APa60]

乳に針二十本くらい入ってた、は2ちゃんで最近知ったが
どれほど恐ろしいことをやらかしてくれたのかと唖然としたよ。


782 :可愛い奥様 :04/07/30 12:11 ID:jzYoiJZc

他板で、裁判で提出される陳述書(?というのかな、犯行の内容が記載され読み上げられるもの)の内容が当時、関係者の判断で大幅削除されていたという情報有り。 真偽のほどは分からないけど色々な板&スレッドに張り巡らされた、少女に対して行われた犯行を列記したコピペがあったでしょう。 あれ以上の凄惨なことが、山ほど行われていたらしい。

それを裁判ですっかり読み上げてしまうと、社会的に重大な影響があるとして削除した模様。

あれ以上って・・・ 何?

787 :可愛い奥様 :04/07/30 12:45 ID:lKdghwk/

いくらでも思いつくよ。

お尻にウイスキービンを突っ込んだとか(あまり書いてないけどこれは本当)

栗タンをハサミでちょん切ったとかビラビラを噛み切ったとか

指を包丁で落としたとか、

目にロウソクをたらすとか、ボールペンを突き刺すとか

乳首をかみそりで落とすとか 

体中を小刀で(死なない程度に)サクサク刺すとか

歯をひっこ抜くとか

膣に手を突っ込んで子宮口をこじ開けるとか


これって蛆がわいたとかのグロ系漫画ではよく書かれてること。
あいつらなら実際にやりかねんよ。

788 :787 :04/07/30 12:47 ID:lKdghwk/

つーかなにをしても良い 生餌が手に入ったなら787に書いたようなことをしない、と考えるのは変。 やってるだろう、って思うのが(グロマニアの)普通だ。

ただしあまり血が出るようなことはしていないはずだから(血の始末が大変なのと直ぐ死んじゃうから)四肢の切断は無かったと思う。

789 :可愛い奥様 :04/07/30 12:54 ID:s2tiwsxN (BR>>787

担当した検察官のインタビューによれば、事件の全貌は余りにもムゴすぎてその真実をすべて論告に記載することは社会的影響力が強すぎるため内部でもかなり揉め、かなりの部分を削除したらしい。

裁判資料をみれば判るが時系列に分析しても所々抜け落ちている期間や状況がある。 で、少年裁判であるということもあり、この内容でも十分に極刑で戦えるだろうという所まで削ってあるとの事。

解剖医学の人間も同様にコメントしており、裁判資料に書かれた発見時の少女の状況から推測すれば論告に書かれている以上の拷問を受けていたと考えられる、との事。


…相当酷い事してるのは確か。

そもそもタバコの火を押し付けた火傷が化膿して、腐敗臭が酷かったから少年達が辟易して強姦がおさまった(立たなくなった?)らしいし。 その後は暴行だけになったって陳述されてる。

http://2ch-library.com/news/concrete/ms/1089851471.html


・順子さんはフェ〇チオ行為に最適な様に前歯を全部抜かれていた
http://yomi.mobi/read.cgi/human7/human7_ms_1173571086/633


43 名前:マッチョ [2006/12/21(木) 02:34:00 ID:h2T1I9iXO]
>>13
歯茎の感触の為に、全部ぬかれるんだよな…
ひでぇ話だ


55 名前:ビッチ [2006/12/21(木) 02:47:24 ID:KbX735R+0]

歯茎フェラは最高らしい。
やくざの貢物女がされるとか聞いたことある。
http://yomi.mobi/read.cgi/anime/anime_news_1166634573

94名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/03(月)16:19:47 ID:cdN0qNtO

この事件、昔の知り合いが見てたらしい。 彼の方から話切り出してきたんだが、綾瀬だし、おそらくこの事件で間違いない。

彼が見たときは、プロレスごっこやってたらしい。犯人たちって格闘技が結構好きだったこともあるんだろうな。と言っても、女一人だから話にならなかったとは思うが。

ただ普通の技だけじゃなくて、がびょうや釘を床に置いて、合体パワーボムとか、背負い投げやってたって言うのが恐ろしかった(しかも上半身は裸)これって想像しただけでヤヴァイ。がびょうだぞ。

ハサミやドライバーで額を連打して流血させたとも言ってた。

ネタだと思ってたんだが、これって実話だったんかよ。

その後、女は死んだとか言ってたし。 ちなみに彼はレフェリーやっててふざけてカウント数えたりしただけだからパクられずに済んだとの話。

702 :可愛い奥様 :04/07/29 17:23 ID:+n16jRAd

確か肛門に花火入れられて火つけられて学園天国の曲に合わせて踊らせたんだよね。 本当鬼畜以外に言葉が見つからない。


213 名前:可愛い奥様 [2007/04/21(土) 19:36:52 ID:ZqugGkGj0]

被害者の遺体が性器にビンが二本刺さったままだったって話を読んで

あいつら生前の彼女の性器にロケット花火仕込んで爆発させたから括約筋が完全になくなって腸液が垂れるのをビンに入れようと思ったんだなと。

彼女の膿の臭いを嫌がり部屋にいつかなくなったといってたけど本当は膿の臭いより、尿や便の臭いが嫌だったんだなと・・・。


            ____
         __,,/  _, ----`ヽ  :.
     :.  / _     ___   、\
       / /   i      \   \\ :.
     :. ,'./       i  ヽ:.   ヽ:.:.. ヽ.ヽ
      ,'/    / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :.
     :. |i .i i  .i /  ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ}
       |i .i l  :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
    :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \  イjミトイイV :.  な…
       .|  :メヽ.', `ozZ}      izN。ハ::{     なんなんですか?
      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
      |  :.:_イ .:.ヽ.   (二フ , イ :.:.:!:.ヽ     なんであたし
   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:.   ここに居るんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
     ヽ! )人    : : :人      : : : / \! :.
      "  ヽ : : : : :/イ{     :.ノ: : : :.\ :.
       :.  \__///: :\______/: : : : : : : ヽ
           / //: : :|;|: : : : : : i: : : __: : : : ',
       :.     / 、 {;{   |;|   . : i/. : : : : : :|
          / `Y;{. . . .|;|. : : : /i: : : : : : : : :l

428 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:07:25 0

コンクリ事件。 ヤクザが最初から絡んでいたとして、実はスナッフフィルムの撮影をしていたとか。

そんなものを見て悦ぶ人間は確かにいるだろうし。

偏見かもしれないが、主な顧客は、金はあるが、劣等感と異常性愛を持ち合わせた、半島系が多そうだがな。 そして、今だに重要な資金源になっていたりしてな。

435 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:16:36 0
>>428
その、ビデオ撮影やってた有名な事件が、織原譲二がやったルーシー・ブラックマン事件じゃん。あいつは親族の中で唯一日本人だったらしい、不思議な人だったらしいな。


449 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:27:07 0

>あいつが在日だってのは有名だろ!

いや違う。正確には、あいつだけが親族の中で唯一、帰化して日本人になたから、正解は元在日。
http://ameblo.jp/jouhouwoatumeru/entry-10191211932.html

女子高生コンクリート詰め殺人事件

デヴィ夫人ブログ 12/25

「そして、私は聞いてしまったのです。  飯島愛にとんでもない事が巻き起こっていた事を・・・

 彼女は、何と申しましょうか、“遊び”が過ぎて、 知らずでか、わからずでか、 とんでもない事をしていた様です。

どの様な人達とお付き合いがあったのか皆目わかりませんが、 映像や写真を撮られ、所持していた人達にゆすられ、恐喝され、つきまとわれ、 公表の恐怖にさらされながら生きた心地もなく、暮らしていた様です。
 
 色々模索した結果、それを食い止めるには、 芸能界を辞める他ない、と心したのでしょう。」
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10183052427.html
http://sweet-pan.at.webry.info/200812/article_15.html

559 :名無番長:2009/01/01(木) 02:29:07 0

12/25付けデヴィブログから
>映像や写真を撮られ、所持していた人達に

この一文だけなぜかこっそり削られてるらしいな
やっぱなんかヤバい映像や写真があるんだろうなw
http://mimizun.com/log/2ch/4649/1230540801/

コンクリート事件のスナッフビデオ
足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。最悪な事件だったのはいまだ記憶に残っているが、20年たったいま、密かにその女子高生を殺害した模様を撮影したスナッフビデオが存在するという、噂が広まっている。実話系の月刊誌編集者が話すには

「うちにも売り込みというか、電話があって。話を聞いてみると自分の先輩が持っていたもので、現物があるので買わないかということなんです。」

そんなビデオが存在するならそもそも、警察が押収するはずだが。前述の編集者が受けた電話では

「その売り込み主が言うには逮捕された少年達の数倍は加害者がいるというのです。事件が明るみになって加害者がビデオに自分が写っていてやばいと、そのビデオテープを人づてに隠したというんですよ。」

セックスがしたいがためだけに、人間をおもちゃにして殺した最悪な事件。本当にビデオが存在しても、それを元に新たな逮捕者が出ることは、時効の関係でない。
http://spy.co.jp/modules/wordpress/index.php?p=286


飯島愛がコンクリート殺人事件に関与したと倉地明美が証言!


・ 飯島愛が綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件関係者に脅されまくっている

・ 倉地明美にも圧力がかかっているので有名なヤクザに守ってもらっている

・ 飯島愛の綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件を深く探った者は殺されている

・ 飯島愛の綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件との関与に関わる事を書くと命を狙われる。


・飯島愛ちゃんは、怖い人に守られている

・暴露本出したから脅された

・コンクリにかかわると死人が出る

・私はさらに怖い人をバックにつけてる
(コンクリ犯人達さえも圧力をかけられる程の大きなバックとは?)

http://unkar.org/r/4649/1231013534
http://ecoecofun.blog121.fc2.com/?mode=m&no=2
http://kdiary1.fc2.com/cgi-bin/d.cgi/freefreefree/


   (((((((( ;゚Д゚)))))))ガクガクブルブル


( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

差出人 : クラッチからのメッセージ

日 付 : 2008年04月19日 00時29分
件 名 : Re: わたし


飯島愛だって脅されまくっていて大変だと思うよ。

でも、自業自得。

あたしはもう飯島愛とは関わりたくない。

アイツだっていつまで命あるかわからないよ。

普通に考えてあんなに急に引退するのは変でしょ?

なべプロがお手上げになったんだよ。

かばいきれなくて。

じゃなかったら一応売れっ子だったんだから首にはしたくなかったと思うよ。
飯島愛も多分お金無いんじゃないかな。

昔の万引きじゃないからね、人の命の問題だから無理だよ。

出所してきた人もみんなヤクザだし。

あたしもおとなしくしていたい。

とにかくお互いにこれで終わりにしよう。

最後に聞く耳もってくれて良かった。

それだけ。

http://hidebbs.net/bbs/3free?s=t&n=42414014&m=5


           _ -―´ ̄ ̄ ̄`ヽ、
          ,/ ,===''⌒''== 、、
        / ,=          ヽ
       /  ,='  _  ∧_ _,,
      /,,_ {i ,〜 〜  /´ ハ^、_
        ヽi} / /   / ヽ_/ ヽ__,,\
         { | _|__,,/ /  ̄ \ヽ
         ヽ | _|∠_// ┬―ゥ ヽ
          |`、ヽ.__ノ    ヽ-‐' _/
  r"      | |{i t    _     / |
 (   =‐'  | | i} > 、___ヽノ_ ,ィ リ| l| |
  ゝ-'     // i} / }-‐斤ヒl、__| l| |
    r、   //,,i} //}} l|》o《|! {{`lヽ
   __ゝ |i}^V'' __/  }}  ハ  {{ |
   ヽ  ノ'  `j    }}  /X |  {{  |

組織の事を暴露しようとした飯島愛は呪われたものとなった

300 :名無番長:2008/12/28(日) 14:10:41 O

××が宮野に指示し拉致、監禁、撮影(写真、動画)、被害者を始末させた
取り調べの段階で宮野達は××や関係者達の名前を出したが地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

その後、飯島がTVで活躍、××、宮野達、関係者達が知る事になる

飯島が当時、所属していた事務所が、飯島が写っている写真、動画を買い取り口外しないことを約束させた しかし、それが裏目に出た・・


828 :名無番長[sage]:2008/12/29(月) 08:22:40 0

>取り調べの段階で宮野達は××や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

それに、これが事実なら「地元の暴力団、党員、創価学会など100人近くの関係者」のなかに有力者がいるっていうことだろ。


801 :名無番長:2008/12/29(月) 05:41:46 0

倉地がいうには、コンクリ事件をふかく探ろうとしてる奴は何人も殺されてるみたいだし、それだけ大きな権力・勢力が動いてるんだろうな


802 :名無番長:2008/12/29(月) 05:49:21 0

やはり、少年達が撮影したというビデオの存在が関係しているのか??

806 :名無番長:2008/12/29(月) 05:59:09 0

何となく思い当たるのはプチエンジェルだな、顧客が大物ばかりという。

コンクリ関係者が少女を顧客に売春させていた、つまり少女を提供する役目だった? 

プチエンジェルの黒幕が動いているなら納得できる。

飯島も脅しを受けて芸能人の少女たちを紹介してた可能性もあるね。

807 :名無番長:2008/12/29(月) 06:03:57 0

プチエンジェルの黒幕って何だろうね?

普通に考えれば暴力団なんだけど、暴走族に少女を集めさせて暴力団が仕切る……
だけど、それを暴力団にさせているのが顧客たち? 

つまり顧客たちが実際は仕切っているということになるのかな? 

政治家や医者、弁護士、会社役員の少女趣味の人たちの集団?
http://datlog.net/t/4649/1230372529/


綾瀬女子高生コンクリート事件


2.名無番長2008/12/27(土) 19:09:24 0

■差出人 : クラッチ〜(倉地明美からのメッセージ)

日 付 : 2008年04月19日 00時29分
件 名 : Re: わたし


飯島だって脅されまくっていて大変だと思うよ。

でも、自業自得。

人の未来を奪ったんだから。

あたしはもう飯島とは関わりたくない。

アイツだって
いつまで命あるかわからないよ。

普通に考えてあんなに急に引退するのは変でしょ?

なべプロがお手上げになったんだよ。

かばいきれなくて。

じゃなかったら一応売れっ子だったんだから首にはしたくなかったと思うよ。


3.名無番長sage2008/12/27(土) 19:09:58 0

飯島も多分お金ないんじゃないかな。

昔の万引きじゃないからね、人の命の問題だから無理だよ。

出所してきた人もみんなヤクザだし。

あたしもおとなしくしていたい。

とにかく
お互いにこれで
終わりにしよう。

最後に聞く耳もってくれて良かった。

それだけ。

Period:
この人は自称作家の倉地明美さんです
本当に怖い人です

しかし、彼女は飯島愛や綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人たちに怯えているようです

しかも飯島愛の暗殺まで予見してます

本当に別の殺人事件がおきているような気がします

4.名無番長2008/12/27(土) 19:10:35 0


↑直前で掲載中止になったという、飯島愛が「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件」に関与していたとされる記事


飯島愛引退騒動。その真相とは…。

〜以下、「サイバッチ」より〜〜〜〜〜


●飯島愛引退の真相 綾瀬・コンクリ詰め殺人と消えた1億円を追う!!

 握りつぶされたゲラをあえて公開する

本誌が主要マスコミ全社に張り巡らせた蛆虫ネットワークのある記者からとんでもない画像が届いた。掲載中止となった記事のゲラの一部だ。

残念ながら、ここでは、掲載予定日、媒体名など詳細は書けない。

今、言えるのはこの媒体が「ある巨大勢力」から圧力を受け、急遽、この記事の掲載中止を決定したということだけだ。ゲラまで作りながら、である。
そこに書かれていたのは、ある大物出版プロデューサーの「告発」。

……飯島愛が綾瀬・コンクリ詰め殺人事件への「関与」で脅迫されていた。
飯島は、昨年11月、ブログに「事務所経理担当者に1億円を持ち逃げされた」
と書いたが、この1億円は「ある巨大勢力」への口止め料だった、と。

今回は死人が出るかもしれません。


18.当時の綾瀬在住2008/12/27(土) 21:03:22 O

綾瀬では共産党も創価も在日も生活保護も普通だよ。
俺がガキの頃はゴミ屋も沢山あったしな。
あの事件を知ってる奴は、俺も含めて人前では語れないのが多いだろうな。
親にも言ってはダメだと言われてたしな。

700.名無番長2008/12/28(日) 22:51:42 0

東京都足立区:関原・本木一帯には、かつて荒川放水路の建設に徴用された労働者の飯場に起源を持つ朝鮮人集落が存在する。関原・本木の朝鮮人集落は俗にバタヤ部落と呼ばれ、古くから再生資源回収業者の街として知られていた。

その他の在日朝鮮人産業として、スリッパやサンダルなどの部品を家内工業で製造するゴム製品製造業が賑わったこともある。

関連施設として、在日本朝鮮人総聯合会足立支部は本木に事務所を置いている。
また、近隣地区に属する興野には東京朝鮮第4初中級学校がある。


598.名無番長sage2008/12/28(日) 19:10:15 0

おれも最初は飯島とコンクリを結び付けるのは荒唐無稽と思っていたんだが、
興味を持ったのは飯島は北朝鮮籍だったという説があると聞いてから

それならプラトニック・セックスで自ら明かしてる、家出中渡り歩いたという複数の男の連れや埼玉・八潮での同棲相手が在日系ないしはその周辺の人間でもおかしくないし、そいつらがコンクリ関係者と何らかの接点を持っていたとしてもむしろ自然なのかなあと

在日系の縦や横のつながりの強さはおれらには計り知れないと聞くからね

21.名無番長2008/12/27(土) 21:25:41 O

もし、飯島愛が16歳のときの同棲相手がどういう人物か知っていても、怖くて言えないわな
もし、その人物がコンクリート殺人にかかわっていたなら

だから、ソースなんてないんだよ
ソース提供者は間違いなくヤバいことになるからな

160.名無番長2008/12/28(日) 04:05:25 0

詳しい芸能リポーターと勝谷
裏社会の人間なら知っている事実だよ

コンクリの背後は893と半島関係者が多数関係してるし
これは、基本的に知ったからといって芸能人には何のメリットもない
ただ、この件には係わるなということだ。

164.名無番長2008/12/28(日) 04:17:18 0

このころ飯島はホステスやってて源氏名を名乗ってたってことかな?
だったら、つじつまが合うんだよね。

もともとビデオ回して立っていうからその瞬間もビデオに映ってる可能性が高いよね。

たぶんヤクザが保存してるんだろうし。

165.名無番長2008/12/28(日) 04:17:34 O
>>160
当時893などは全然絡んでねえだろが(笑)知ったか笑わすな


166.名無番長2008/12/28(日) 04:19:48 O
>>164
妄想で言うのやめな(笑)


167.名無番長2008/12/28(日) 04:21:09 0

全部見た?
勝谷の友人と言う人が書いたレス。
だって、あのビデオを売って儲けてたんでしょ?


171.名無番長2008/12/28(日) 04:22:49 0
>>165-166
なんで焦ってるのwww
なんか見えてきたね、死の真相w

798.名無番長2008/12/29(月) 05:18:53 0

意図的にコンクリート殺人と関連づけないように情報操作しているような印象さえ持つ。この国で最もタブーとされる皇室について、あれほど遠慮なく発言しているのに、なぜ飯島とコンクリート殺人に関しては触れないんだ?


799.名無番長2008/12/29(月) 05:26:57 0

自分がここに書きこむのは、コンクリ情報については最も裏が取れる板だと思っているからだ。

なのに、どうして関係者が書き込まないのか? 
それほどやばい話なんだろうか? 命の保証がない? 
飯島でさえも死ななくてはならなかったのだから相当の闇勢力なんだろうが……。

800.名無番長2008/12/29(月) 05:32:57 O
>>799

コンクリ犯の嫌がらせは凄いらしいぞ
某雑誌なんか家族迄嫌がらせされたらしいしな
本当に黒幕って誰なんだろな?

801.名無番長2008/12/29(月) 05:41:46 0
>>798
印象って言うか確実に工作してるよ。
こここ ◆DpT0MBDgjMなんて工作員丸出しだし、
在日と関連付けようとしてるのも工作員だな

倉地がいうには、コンクリ事件をふかく探ろうとしてる奴は何人も殺されてるみたいだし、それだけ大きな権力・勢力が動いてるんだろうな

802.名無番長2008/12/29(月) 05:49:21 0

やはり、少年達が撮影したというビデオの存在が関係しているのか??


319.名無番長sage2008/12/28(日) 14:27:01 0

工作員が隠したいのはこの部分かもな

>取り調べの段階で宮野達は加藤や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、創価学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

803.名無番長2008/12/29(月) 05:51:03 0
>>800-801
やっぱりそうなのか。既女の情報網は実はスクープ系雑誌の記者が情報を流していると言われてる。確かに凄い情報だし、納得できる。
それが今回に限っては見当違いすぎる情報しかないんだよね。

山口組や稲川会関係ですら、ここまで凄くない。それよりも凄い闇の
勢力って何だろう?


487.名無番長2008/12/28(日) 17:21:45 0

こここ ◆DpT0MBDgjM が出てきたっていうことは、飯島愛死亡に
バーニング・後藤組・創価が絡んでるっていうことでいいよね?

779.名無番長2008/12/29(月) 03:08:37 O

こここはなんか匂うんだよなあ
飯島愛に黒い付き合いがあるのは本人のプログからも明らか
恐らく調べればとんでもない事になるんだろう
一度、コンクリから離れるのが事件解明の近道だとおめこ

459.名無番長2008/12/28(日) 16:44:35 0

後藤組・バーニング・創価の関係
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/4649/1224498508/


53 名前:名無番長[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 04:35:26 0

後藤組:山口組系武闘派暴力団。

山口組の関東の出先....の筈だったが、覚醒剤取引で急速に力をつけた。
稲川会と山口組のパイプ役だった。層化学会の用心棒的役割を果たして
来た。学会の敵対者潰し・脅迫・買収などをやってきたが、いつの間にか
学会を操縦する側になった。今増えている北朝鮮の覚醒剤を一手に引き受けている。

バーニング:
後藤組のクライアント企業といわれている。
芸能界の覚醒剤汚染の鍵を握っている。シャブネタによる芸人コントロールが
お得意。(シャブ常習・レイプネタの揉み消しなど。)

後藤・バーとも警視庁赤坂署と裏で繋がっている。揉み消しには層化警察が
関与している。四谷署も層化の影響下にある奴らのシマ。


485.名無番長sage2008/12/28(日) 17:19:32 0

>。ヨ組織の統率力、経済力、構成員・準構成員数、どれをとっても山口組随一なのが後藤組だ」
>
>警察幹部はそう指摘する。


後藤組かっけー


464.名無番長2008/12/28(日) 16:50:19 O
>>459
後藤組はとっくに除籍や!ほんまは破門やったけど金積んで除籍にしてもらったんじゃ
それとアンタは知らんかも知れへんけど、別の宗教団体や上場企業とも関係あるで まぁネットで勉強してや


478.名無番長2008/12/28(日) 17:01:12 0

後藤組は山口組を除籍になったけど、創価・バーニングとの関係は
そのまま変わらずっていうことでいいのかな


497.名無番長2008/12/28(日) 17:31:35 O

後藤組は今はないよ
当時の組員はごよう会の預かりでしたが
今は元後藤組の若頭だった良知組に移籍してるよ


507.名無番長2008/12/28(日) 17:42:10 0
>>497
【堅気の】後藤組バーニング創価オウム【片腕を】
http://logmemo.org/changi.2ch.net/4649/1224498508/

875.名無番長2008/12/29(月) 12:07:45 0

監禁中の被害者を写したビデオが出回ったとか

660.アート藤2008/12/28(日) 21:27:50 0

>◆監禁中の被害者の様子が撮影された家庭用ビデオテープがある。

これは売れるよ絶対に、見てくて見たくてたまらんわ。


184.名無番長2008/12/28(日) 04:40:50 0

飯島が自殺までするなら、それぐらいインパクトがあるビデオだってこと。

他のスレでずっとビデオを回してて、強姦の部分はアダルトビデオとして売って稼いでいたとあった。

それもありだと思うよ。なぜ逃げなかったかもそれで理解できる。

ビデオで見張っていて、おかしな動き(部屋から出る)をしたら壮絶な暴力をしたんだと思うよ。その繰り返しで籠の鳥になってしまった……。


428.名無番長2008/12/28(日) 16:07:25 0

コンクリ事件。
ヤクザが最初から絡んでいたとして、実はスナッフフィルムの撮影をしていたとか。

そんなものを見て悦ぶ人間は確かにいるだろうし。
偏見かもしれないが、主な顧客は、金はあるが、劣等感と異常性愛を持ち合わせた、
半島系が多そうだがな。
そして、今だに重要な資金源になっていたりしてな。


435.名無番長2008/12/28(日) 16:16:36 0
>>428
その、ビデオ撮影やってた有名な事件が、織原譲二がやったルーシー・ブラックマン事件じゃん。あいつは親族の中で唯一日本人だったらしい、不思議な人だったらしいな。


438.名無番長2008/12/28(日) 16:18:36 0
>>435
織原譲二は在日だぞ。日本人にしないでねww


445.名無番長2008/12/28(日) 16:24:25 0
>>435
あいつが在日だってのは有名だろ!何適当言ってんだよチョン
元々がチョン特有のブサイク顔で白人にモテないからワザワザ日本人に見られる為に整形したんだってよ


449.名無番長2008/12/28(日) 16:27:07 0

>あいつが在日だってのは有名だろ!

いや違う。正確には、あいつだけが親族の中で唯一、帰化
して日本人になたから、正解は元在日。

436.名無番長2008/12/28(日) 16:16:58 0
>>428
本当の動機はその可能性がある。
初めは資金調達が目的だが歯止めがきかずエスカレートして殺害に至ったのかも知れない。


448.名無番長2008/12/28(日) 16:26:17 0
>>436
いや、むしろ、何故あそこまで惨たらしく被害者が殺されたのか、
その理由になるような気がする。

本当に少年たちだけで行った事件なら、そこまでやるだろうか?
40日間にも渡って。拷問の内容も鬼畜すぎる。


あるいは、犯行はあくまでこの少年らだけで行われたとして、
監禁、強姦され続けていた被害者に罵られ、途中から少年グループが激昂して拷問にいたったのか?
それにしても、宮野が自供しなければ発覚しなかったというのも不思議だ

460.名無番長2008/12/28(日) 16:45:34 0
>>448
犯行グループは殺しの指示を受け行ったのかも知れない
警察にパクられない保証付きでしかし蓋を開けてみたら実行犯だけパクられた・・てな感じ

その指示したヤツが飯島の男かも?


477.名無番長2008/12/28(日) 16:58:53 0
>>460
宮野がヘタレて自供しなければ、完全犯罪だったんだろ。
法廷で宮野が恐れていたのは、法廷ではなく裏社会だったんだろうな。


480.名無番長2008/12/28(日) 17:13:30 0
>>477
スナッフフィルムの撮影で拉致監禁し性的暴行は勿論のこと殺しのシナリオまで全て計画済みだろう。

中途半端に生かして帰したらパクるだろう
コンクリート詰自体やくざの発想だし。


489.名無番長2008/12/28(日) 17:24:13 0

スナッフ映像に飯島愛が映ってたなら十分脅せるな

506.名無番長2008/12/28(日) 17:41:55 0

スナッフじゃないにしても暴行を映した映像、デヴィ夫人のブログからすると
無いとも言えん。逮捕者に暴力団いるし。

806.名無番長2008/12/29(月) 05:59:09 0

何となく思い当たるのはプチエンジェルだな、顧客が大物ばかりという。

コンクリ関係者が少女を顧客に売春させていた、つまり少女を提供する役目だった?
プチエンジェルの黒幕が動いているなら納得できる。

飯島も脅しを受けて芸能人の少女たちを紹介してた可能性もあるね。

807.名無番長2008/12/29(月) 06:03:57 0

プチエンジェルの黒幕って何だろうね?

普通に考えれば暴力団なんだけど、暴走族に少女を集めさせて暴力団が仕切る……

だけど、それを暴力団にさせているのが顧客たち? 
つまり顧客たちが実際は仕切っているということになるのかな? 
政治家や医者、弁護士、会社役員の少女趣味の人たちの集団?


810.名無番長2008/12/29(月) 06:17:29 0

なんかさ、自分の頭の中で全部が結び付いた黒幕がプチエンジェルしか思い浮かばないよ。

暴力団や右翼、在日、部落じゃあ何となく約不足と言うか、そこまでの勢力だと思えないんだ。でもプチエンジェルの顧客が実質プチエンジェルを動かしている黒幕だと考えると、合理的に理解できる。

各方面でトップの人たちが集まれば……。それこそ暴力団、右翼、部落、医者、弁護士、裁判官、一流企業、マスコミ……すべてのトップ層の集まりだったら何でもできるから。

何をするにしても簡単だねwww

812.名無番長2008/12/29(月) 06:37:27 0

やっぱり、売春システムが裏にあるのかもな

コンクリ事件の被害者も犯人達が金とってレイプされてて、その客の中に今の政治家・権力者がいるとか

飯島がそれを知ってたなら、消されても不思議じゃない。

それに、小さな売春システムが明らかになれば、そこからもっと大掛かりな売春システムまでつながる可能性もある。

芸能界だって、枕営業しないと生き残れないとか、大きな売春制度みたいなもんだし、政界だってそれと無縁なわけはない。

そんなことが世間一般に知られたら、政界・芸能界は大激震で崩壊するからな


824.名無番長sage2008/12/29(月) 08:03:22 O
>>812
大物政治家がお忍びで綾瀬の湊ん家出掛けて買春してる姿想像して糞ワロタ

とてつもない妄想だな

828.名無番長sage2008/12/29(月) 08:22:40 0
>>824
「今の」って書いてるだろ。大物とも言ってない。

>取り調べの段階で宮野達は加藤や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

それに、これが事実なら「地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者」のなかに有力者がいるっていうことだろ。

850.名無番長2008/12/29(月) 10:25:46 0
>>824
そんなにハズレではないよ。
ヒント「裏」「海外」
少年法の盲点をうまく使って大金稼いだ黒幕。


872.名無番長2008/12/29(月) 12:01:38 0
>>850
コンクリの裏が存在しているとしたら莫大な金稼げたろうな

829.名無番長2008/12/29(月) 08:32:04 0

飯島は何かを暴露しようとしてたんじゃないか?
それが見つかって殺されたとか

981.名無番長2008/12/29(月) 18:08:25 0

飯島って政治家やヤクザに売春を斡旋してたんじゃないだろうか
そう考えると、飯島が政治家やヤクザにパイプがあったっていうのも納得できる

そして、それをほのめかす内容を暴露本に書こうとして消された
こうなると、コンクリート事件が関係なくなっちゃうけど・・


987.名無番長2008/12/29(月) 18:21:16 0
>>981
いや、繋がるよ。コンクリート殺人の犯人たちがそもそも売春のあっせん的
な役割をしていたと考えられるから。


988.名無番長2008/12/29(月) 18:25:56 0

赤坂プチエンジェル事件やら芸能界の枕営業の実態に繋がるとw


881.名無番長2008/12/29(月) 12:16:49 0

犯人たちの動機がないんだよね。
今まで輪姦事件は起こしたことあるやつらだけど、なんであれほど残忍に殺さないと
いけなかったのか。
世の中の金が余っている連中の中には、普通では見れないものになら大金払うヤツは
いるよ。

886.名無番長2008/12/29(月) 12:34:07 O
>>881
私もそれが気になる。

コンクリ実行犯→コンクリ黒幕→893→政治家や金持ち変態…

との繋がりがあるんじゃないかって。


890.名無番長2008/12/29(月) 12:38:22 O
>>886
政治家や金持ち変態→警察


までが絡んでたりして。


899.名無番長2008/12/29(月) 12:52:06 0

宮野たちは少年なので罪が軽く済んだ。ちゃんと黒幕いて捕まっていない。
少年法の盲点ついた犯罪で、シャバに出てきたヤツラは組でも特別扱いだしな。

ちなみに裏ものはほとんど海外へ。
http://datlog.net/t/4649/1230372529/

111 :納豆ウマ太郎 ◆UmaUmaRScc :2011/08/25(木) 19:30:09.83 ID:???

主犯格は創価学会幹部のセガレだよ、 もちろん朝鮮人。
韓国や朝鮮学校の反日教育が産み出した事件だよ。

153 :納豆ウマ太郎 ◆UmaUmaRScc :2011/09/18(日) 19:51:38.77 ID:???

周知の事実だよw
警察の現場検証で創価学会の弁護士が立ち会ってる。


226 :名無しさん?:2011/10/08(土) 01:19:30.67 ID:???
>>153
在日、共産党、創価の3つが絡めば被害者が不良になったり、Yahoo知恵袋では事件が抹消されたり。

神作譲(小倉譲)は確かに在日です。
しかし、湊伸治の両親は元共産党員です。そして宮野裕史の母親は創価学会員です。
http://bbs.jpcanada.com/log/6/3840.html
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/entrance/1304756575/

            ____
         __,,/  _, ----`ヽ  :.
     :.  / _     ___   、\
       / /   i      \   \\ :.
     :. ,'./       i  ヽ:.   ヽ:.:.. ヽ.ヽ
      ,'/    / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :.
     :. |i .i i  .i /  ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ}
       |i .i l  :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
    :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \  イjミトイイV :.  な…
       .|  :メヽ.', `ozZ}      izN。ハ::{     なんなんですか?
      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
      |  :.:_イ .:.ヽ.   (二フ , イ :.:.:!:.ヽ     なんであたし
   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:.   ここに居るんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
     ヽ! )人    : : :人      : : : / \! :.
      "  ヽ : : : : :/イ{     :.ノ: : : :.\ :.
       :.  \__///: :\______/: : : : : : : ヽ
           / //: : :|;|: : : : : : i: : : __: : : : ',
       :.     / 、 {;{   |;|   . : i/. : : : : : :|
          / `Y;{. . . .|;|. : : : /i: : : : : : : : :l

 


殺人犯 神作譲

「俺は人を殺したことがあるんだぞ」「人を殺すなんて簡単なんだからなー」

「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」


笑いながら自慢げに言う男 神作譲

「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。ホントは俺が主犯なんだよ。」

ゾッとする話を、何がおかしいのか下品に笑いながら言う神作譲。


飲み屋のネエちゃんはフリーズし、周りも引いている。

だが、露骨に冷ややかな目で見たら、今度は自分が何かされてしまうと思い

皆少しずつ距離を取ろうとする。


「俺は捕まったって怖くねぇし、同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」


そして、まだ続く独演会


「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346165087.html

報道ステーション2004年7月28日放送

女子高生コンクリ詰め殺人事件
「再犯」の加害者と母親


古館:こんばんは。皆さん、15年前のある事件を思い出してください。
そして、考えてみてください。ちょうど元号が平成にかわってまもない
1989年の1月、東京江東区の埋め立て地で一人の女子高校生の遺体が発
見されました。冷たい海風の吹くこの場所で、その女子高生はなんとコ
ンクリートに固められていました。世に言う女子高生コンクリート詰め
殺人事件です。なんと被害者は、犯人の家に40日間にも及んで監禁され、
筆舌に尽くしがたい蹂躙の末に殺害されました。実刑判決を受けたのは、
当時16歳から18歳だった少年4人です。そのうち、当時17歳だった準主犯
格の少年は8年間服役し、5年前に出所しました。しかし今年の5月です。
33歳になっていたその少年-男-はまた別な事件を起こしてしまいました。
今日その初公判が開かれました。その男はどうして、また再び犯罪を犯し
てしまったのでしょうか。我々のテレビカメラの前でその男の母親が語り
ました。長いVTRになりますが、どうか最後までご覧ください。なお、そ
の男の名前は、未成年時の犯罪を扱うため匿名とさせていただきます。

ナレーション(女):午前10時、東京地裁には朝から傍聴券を求める人が大
勢詰めかけた。


キャプション:傍聴席23席に126人が並ぶ

ナレーション(女):知人の男性を監禁し怪我をさせたとして、逮捕監禁致
傷の罪に問われた被告の初公判。頭を短く刈り上げた男は、法廷に入ると
一度傍聴席を見回した。そして、監禁はしておらず、話をしていただけだ
として起訴事実を一部否認した。男は1989年に東京都足立区で起きた女子
高生コンクリート詰め殺人事件で有罪判決を受けた準主犯格の少年だった。

ナレーション:あれから15年加害者の実の母親がカメラの前で語った。コ
ンクリート詰め殺人事件のことを。出所後の生活、再び罪を犯した息子に
ついて。

加害者母親(58):私にごめんなさいって一言・・・言っただけです。自分が出
たら(出所したら)(母親が)仕事をしなくてもいいように力仕事でも何でもす
るから、悪かった。顔は申し訳ない顔をしていました。私の顔を見るなり。

ナレーション:拘置所から届いた加害者の手紙。男が自ら語った事件とは。


ナレーション:5月19日午前2時、東京足立区に住む男性が自宅に戻った時
だった。一人の男が車から降りてきていきなり殴りかかった。

被害者(27歳):「女取っただろう、女知ってんだろう、隠してるんだろう、
やくざなめんなよ」って。でー、何十発か殴られて・・・

ナレーション:男性は男の車のトランクに詰めこまれた。

キャプション:約40分間走り回る

ナレーション:車が向かった先は埼玉県三郷市のあるスナック。

被害者(27歳):そこでは、もう誰もみていないわけで、何十発と殴られ続けて、
もう、「一人殺そうが二人殺そうが一緒なんだ」と言われた。人を殺す顔って
こんな顔なんだなって。

ナレーション:4時間後に解放された男性はその足で警察に駆け込んだ。およそ
2週間後男が逮捕される。

キャプション:6月4日逮捕監禁致傷容疑で逮捕

ナレーション:二人は知り合いで、男は被害者の男性にこう語っていたという。


被害者(27歳):一方的に何か話しし始めて、その綾瀬の事件を話し始めた。俺は
すごいだろうって、自慢するような口調で。


ナレーション:綾瀬の事件。それは女子高生コンクリート詰め殺人事件のこと
だった。1989年1月東京江東区(江東区若洲・遺体発見現場のキャプション)の埋め
立て地でコンクリート詰めされた女性の遺体が発見される。被害者は埼玉県三郷市
に住む17歳の女子高校生だった。逮捕されたのは当時16歳から18歳の少年(当時の映
像・変更現場などがながれる)。強姦目的で通りがかりの女子高生を連れ去り、40日
にわたり足立区綾瀬の自宅に監禁し殺したのだった。

キャプション:
主犯格A(18) 懲役20年
準主犯格B(17) 懲役5〜10年
C(16) 懲役5〜9年
D(17) 懲役5〜7年

ナレーション:裁判では4人の少年が実刑判決を受ける。準主犯格の少年は最終意見
陳述で涙ながらにこう述べた。「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛
かったか、一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい(キャプシ
ョンに同様の文面)」

キャプション:監禁現場(犯行現場の画像)

ナレーション:少年達はここで壮絶な暴行を加えていた。連日に及ぶ強姦、顔面や体
を殴りつける、ライターで皮膚をあぶる、食事をとらせない。そして、遺体をドラム
缶にいれて捨てたのだった。


スタッフ:謝罪とかですね、償いの気持ちとかっていうのは?

加害者母親(58):住所も・・・(被害者の遺族が)引っ越されてしまって。だから、気持ち
としてはいつも忘れることはできないけど、何もできない状態。自分の中では一生背
負っていかなきゃならない

ナレーション:更生を誓った息子が15年後再び罪を犯した。

加害者母親(58):ショックでした。なぜそんなことをやったのかなって。今更いい年な
のに、何でそういうことをしたんだろうっていうふうに感じました。

ナレーション:父親は3歳の時に愛人を作って家を出ていった。母親は二人の子供を育て
るために夜の仕事に就く。家族そろって食卓を囲んだ記憶はないという。

加害者母親(58):確かにお父さんがいなくてもお母さんがいなくても、よく育つ子はよく
育っているかもしれないです。でも、あの子には父親が必要だったんじゃないかなと思って
ます。

キャプション:奈良少年刑務所(画像も)

ナレーション:少年は奈良にある少年刑務所に収容された。更生に重点を置く少年院と違い、
少年刑務所は刑罰を与える場である。母親が差し入れたドストエフスキーを読んだり、被害
者の冥福を祈り写経をしていたという。


キャプション:男が装置された滋賀刑務所
       1999年8月3日出所

ナレーション:その後、成人の刑務所に移され28歳の時に出所。

加害者母親(58):(息子は)迎えに来ているとは思わなかったみたいですけど。もう、子供み
たいな感じで、(事件)前に戻ったような感じで。もう、はしゃいで出てきたっていう感じに
・・・・・・見えましたけど。

キャプション:首都圏の様々な会社に派遣される

ナレーション:出所してから半年後、男は弁護士の紹介でコンピュータ関係の派遣の仕事を
するようになる。更生に向けたスタートは順調かに見えた。

加害者母親(58):出る(出所する)前からいつ帰ってくるんだって、その、社長さんが待ってて
くださって。コンピュータの会社に行っている時もすごいまじめに行っていました。もう早く
ねて、自分は行かなきゃいけない。2時間くらいかかるんですよ。コンピューターの会社の仕事
にいくのに。大体遠い所が多いものですから。そうすると、本当に遅刻しないでまじめに行って
いた。やっぱし(刑務所で)ならってきたことでは自分が(能力が)足りなくて、自分なりに勉強
していました。本を買ってきて。


ナレーション:だが、母親にとってある不安が常につきまとっていた。

加害者母親(58):気というか・・・・・・張り巡らしました。だから、あの新聞か何かのニュースを見
ると、背格好、服装・・・・・・居ないとすごい心配でした。他の事件でも疑ってかかっちゃうことも
あります。

スタッフ:それは息子さんがやったんじゃないかと?

加害者母親(58):そうですね。そういう風に思ってみる時もあります。

ナレーション:4年前に母親を取材したときのノート。出所から1年、このときすでに母親は不安
を漏らしていた。


ノートに書かれた文章:
また事件をほじくったら元のもくあみにな
また何かやるかもしれない


加害者母親(58):事件ついても話はしていないです。お互いが暗黙の内の・・・・・・

スタッフ:それはどうしてですか?

加害者母親(58):息子にとっても自分の心の中で思っていることだと思いますし。私の中でも心で
思っていることもでもあって。言ってほじくり出して、まともな会話になる時もあるかもしれない
けど、やっぱり自分の言われたく時ってありますよね。


ナレーション:だが本人にとって事件は心の片隅にあり続けたようだ。

加害者母親(58):自分の事件の本を読んだりしてましたから。でなにか、あのぉ、ビデオが出たの
も見てますね。その事件のビデオが。ビデオショップから借りてきて、で、「内容は違うよ」って
一言いっていましたけど。

ナレーション:男は歌舞伎町の店で働いていた年上の中国人女性と結婚した。しかし、2年あまりで
破局。再び実家に戻る。

加害者母親(58):彼女と別れてかな、「結婚して子供でも作って普通の生活をしたら」って言ったら、
「事件の子供って言われるから無理でしょう」って本人は言ってました。

スタッフ:それに対してお母さんはどう返したんですか?

加害者母親(58)それっきり何も言えませんでした。

ナレーション:熱心に打ち込んでいた仕事も、あることが理由で辞めてしまう。出所後男と付き合い
のあった弁護士はこう話す。

キャプション:女子高生コンクリ詰め事件での男の弁護人

伊藤芳朗弁護士:やはり被害妄想だったかなと思います。といいますのは、そのー、本当は職場の人
たちは彼実状を誰も知らないはずなのに、自分のこと(事件)を知っているから、自分につらくあたる
んだというようなことを言って人間関係がギクシャクしてきたんですね。

キャプション:刑務所での拘禁反応が被害妄想の原因だった

ナレーション:10年に及ぶ刑務所生活で男には拘禁反応による被害妄想が現れていた。

伊藤芳朗弁護士:刑務所の中でキチンとした治療は受けさせてもらえませんでした。


ナレーション:2番目の職場を見つけるも給料の未払いというトラブルが起きる。その時、ある人物
との出会いがきっかけで男の人生は、再び大きくかわっていったと母親はいう。

加害者母親(58):S氏はヤクザだったんで、あたりのいい人だったんで、最初くっついて
行っちゃいまして

ナレーション:給料の未払いを聞いた母親が知り合いのH氏に相談。そのH氏が連れてきた
のが山口組系暴力団組長のS氏だった。男は次第にそのS氏と付き合いを深めていく。


       相談
   母親------------->H氏

付き合い
   男 山口組系3次団体
組長S氏

スタッフ:息子さんを止めようとはしなかったんですか?

加害者母親(58):私が止めても難しいなっていう、本人の判断に任せようという気持ちでいました。

スタッフ:事件のことについてはその人は知っていたのですか?

加害者母親(58):(息子)本人が言ったみたいです。本人が言ったところ連れ歩いているときに、
「こいつはコンクリの人殺したやつだよ」ってみんなに言いふらしていたらいしです。それは
本人がいってました。どこに飲みに行っても、そういう言い方をすると。


スタッフ:本人は嫌そうな感じでしたか?

加害者母親(58):はい。誰もいないから誘われるといってたみたいです。

スタッフ:誰もいないっていうのは?

母親(58):友達が誰もいないから。

スタッフ:友達っていうのはできなかったんですか?

母親(58):出来なかったです。

キャプション:
今年5月再び事件を起こす
出所から4年9ヶ月後のことだった---

母親(58):これは息子からきた手紙です。小菅(東京拘置所)に入ってから息子から来た手紙なんです。


ナレーション:15年前世間を震撼させた女子高生コンクリート詰め殺人事件。再び罪を
犯した男から母親あてに手紙が届いた。

手紙の内容:
前略、面会や差し入れありがとう。今回のことは本当に申し訳ないと思っています。他人
の責任で自分の仕事ができなくなる悔しさは私も十分にわかる。事件のことも考えている。
度が過ぎたことを後悔している。

ナレーション:男によれば、暴力団組長S氏の正式な組員になったのは去年の12月だという。
その後S氏が男に上納金を要求したことに反発。今年5月8日S氏を殴り組を抜けたとしている。
8日後の5月16日ある事件が起きる。浅草の三社祭で暴力団組長のS氏が喧嘩に巻き込まれた。
そのとき男は近くにいたが、組から抜けていたこともあり、S氏を助けるとはなかったという。
その際、今回の事件の被害者に男はこう言われたという。

キャプション:
「行けなかったじゃないですか」

ナレーション:行けなかったじゃないですか。つまり怖じ気づいたと揶揄されたというのだ。


男の手紙:
今回の被害者は(匿名)が面倒をみていた若い衆なんだけど、テキ屋だな。被害届けを出したくら
いから花屋の店員になっているらしい。

画面:傷の跡を見せる被害者

ナレーション:男は被害者の言葉がきっかけで思わず暴力を振るったとしている。しかし、被害
者も雇い主も男の主張を否定している、

被害者(27):なぜ行けなかったのですかとか、それはないですよ。だから、その見ていたとかと
いう話も、自分はその子供たちにラムネを分けてあげたりとか、ジュースを配ってあげたりだと
か、そういうことをしていたので、見てないんですよね。自分は花屋だったんで。なんで、自分
までヤクザ扱いするんですかって

ナレーション:男は面会に訪れた母親に対して訴えた。

加害者母親(58):「一人殺すも二人殺すも一緒だって」ってそんなことを言ったの?といったら、
「言ってないよ」って言っていました。

ナレーション:事件発覚後、母は自宅を出て知り合いの家を転々としている。


スタッフ:何が足りなかったと思いますか?

加害者母親(58):事件のことに触れなかったことが、私はそれが息子に対して・・・・・・わかっている
ことだと思ったんですが、それがまだわかりきってなかったのかなと感じます。

スタッフ:わかりきってないというのは?

加害者母親(58):自分の感情にふまえて自分を忘れちゃっていることを教えてあげないといけないなと。

スタッフ:どうすれば出来ますか?

加害者母親(58):どいうふう風にしたらわかる・・・・・・・どいうふう風に言ったらいいんでしょう・・・・・

スタッフ:亡くなられた被害者の方、あるいは遺族の立場になって考えてみたらどうですか?

加害者母親(58):遺族だったら「死んでもらいたい」というのが、それっきり思わないじゃないですか。
その子が帰ってくるわけじゃないですから。

スタッフ:また同じ被害者がでてきたり、あるいはまた事件を繰り返したりしたことに対して、
遺族がとても悲しんでいるとは考えないですか?

加害者母親(58):つらく思ってらっしゃると思います。これから事件を起こさないように、
自分を戒めていかなきゃならない、ではないかと思っています。


スタッフ:できますか?

加害者母親(58):やって・・・行こうと思ってます。

スタッフ:被害者の遺族に対して詫びるとしたらどういった言葉がありますか?

加害者母親(58):ごめんなさいの一言です。(むせび泣く?)


古館:この男を本気で更生させようと考えた人間がいただろうかと思います。中途半端な助け
では更生などできないと思います。加藤さん、あのー、再犯、出所して再び犯罪を犯してしま
うというケースですが、かなり多いというふうに感じるんですが。

加藤:そうですね。それで少年法の見直し論議も活発になってますよね。その論点の一つが加
害者の人権重視、その一方で被害者の事件はどうなっているのかというのがありますよね。

古館:はい

加藤:だから被害者側から、次の被害者を作らないでくれという切実な声もでてますよね。


古館:(おおきく頷く)ただ、あのー。もう一方で、この更生施設の問題。はたして本当の更生
できる確率がどのくらいあるかということも問題ですね。

加藤:そうですね。いまVTRみてて二つ、僕考えたんですけどね。一つは、罪が重かったから
少年刑務所行きましたよね。少年院なんかに比べると教育とか更生という面よりも、やっぱり
刑罰としての服役が重視されるところですよね。今後あのーやっぱり、少年刑務所でも更生プ
ログラムを強化充実する必要があるんじゃないかということが一つ。それと、更生で成果をあ
げた後にも問題がある。だから、戻っていくそこの環境がどうなのかっていうのが、ものすご
い重要だと思うんですよね。

古館:現実的にはよく言われるように、とにかく刑が終わって服したらすぐに出ていってもらう。
次なる犯罪者が入ってくるから。刑務所は満杯だ。よく耳にしますよね。そういう話をね。そし
て、もう一つ思うことは親と子供が逃げずに本当に向き合うということ。これが次に大切で難し
いんだとということも考えました。いったんコマーシャルです。
http://www.geocities.jp/sce_psp/houdoustation.txt

449 :名無番長:2013/02/01(金) 03:43:35.34 0

譲が再犯した2004年にコンクリート (映画)が公開された
映画は2つ見たけど内容は違うと譲は母親(悦子)に話してた

再犯した時に埼玉にあるスナックABC内で

『本当の主犯は俺だった、鼻にこうやってタバコを近づけ亡くなったのを確認したのも俺』

と男に話した

宮野は刑務所で最後のリンチには参加しなかったと誰かに語っていたらしい
それと譲のことを頭悪いとかも。

譲のせいで宮野の仮出所が延期されることになった。

502 :名無番長:2013/02/16(土) 19:37:21.64 0

2004年に再犯した時の週刊誌の記事
http://yoroz.s3.zmx.jp/con/sin.jpg

宮野がいない時に譲が先頭に立って指示を出して暴力&レイプをしてた

最後のリンチの時もコンビニで小倉ヨウカンを買い古田さんにヨウカンみせて

『これを何と言う?
小倉と呼び捨てにしたな?・・・
小倉ヨウカンにさんつけするな!!!』

などと言いがかりを付けて暴行


507 :名無番長:2013/02/18(月) 00:39:19.33 O
>>502
足を焼いたのもこいつだと云うし一番酷いことしたのこいつだろ。
自称主犯だし
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/4649/1348666771/


368 :名無しさん :09/12/15 22:07:43 ID:FCkU81Cv

黒幕(真主犯)は、宮野じゃなくて小倉だって友達が書き込んでンの見たことがあるな
宮野を恐れて逆らえずに事件が悪化したんじゃなく、小倉に逆らえなかっただけじゃないか?


371 :名無しさん :09/12/16 21:11:52 ID:iTE4i58B

宮野、湊、渡邉は反省しているけど、小倉は反省すわけ無いってことを奴らの友達らしき人物が書き込んでたのを見たことがあるよ

宮野と湊は、途中で被害者を帰そうとしたこととか
出所後、湊とは話したこととか
結構、詳しく書いていたけどな・・

どの道許せないが、友達からみれば、宮野達も小倉の犠牲者だと思っているのかもな
真実は闇の中だ・・・・裁判記録だけが真実じゃないしな


372 :名無し :09/12/17 19:40:28 ID:CYvoUVjJ

宮野が被害者に火をつけて火傷させたんじゃないの?なんでそんな事するのか
理解できない 宮野っていまどこでなにしてるの?


374 :名無しさん :09/12/17 22:21:28 ID:vfaVnrgE
>>372
宮野がいないとき、卑劣な暴行を繰り返ししていたのは小倉だよ
宮野は、久々に監禁場所に行ったら、被害者の変わりように驚いたといわれている
でも、他の奴ら(小倉、湊)に馬鹿にされたくないから、更に被害者に暴行を加えたってことになっているけどね・・・
被害者に火をつけたのが宮野かどうかは分からないよ


375 :名無しさん :09/12/17 22:27:50 ID:vfaVnrgE

被害者を家に帰そうと宮野が言ったとき、猛反対をしたのは小倉
宮野がいない時に、酷い暴行、強姦を加えていたのは小倉
湊、渡邉や下っ端不良に指示をだしていたのは小倉
「俺が主犯だった」と小倉自身が言っている


376 :名無し :09/12/18 01:50:44 ID:dgfOPlxz

なんで火傷させるの?理解できない。ガキが虫殺すのと同じなのかな?


377 :名無しさん :09/12/18 03:09:31 ID:hlrUq9hG

宮野は犯行時期、シンナーで頭が完全イカレテイタ
初公判の際、終了時に気絶をするって騒ぎを起こしている

自分の悪事をズラズラと述べられたら、誰だって気絶しそうになるだろう
しかも、あれほどの犯罪・・

でも、小倉は冷静に宮野のせいにしまくっていた・・友達曰く「卑劣な奴」
同じ中学の後輩らしき人物も、小倉とその母親は基地外だと書き込んでいる

宮野タイプは周りの影響で良くも悪くもなる奴だろう
でも、小倉は根本的な悪だ
近くにいる仲間が狂っているってゆーのは相当な奴だろう
    


378 :名無し :09/12/18 19:11:41 ID:dgfOPlxz

少しはかわいそうだと思わなかったの?


380 :名無しさん :09/12/19 01:48:42 ID:hgdQIHP5
>>378
「彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない」

って小倉のクソが言ってますよ
奴の脳を解体して、どうなっているのか教えて欲しい


381 :名無しさん :09/12/19 02:09:55 ID:hgdQIHP5

はじめ裁判記録を読んだ時、あまりの内容で感情で皆死刑にしてしまえ!!苦しんで死ね!!
っと思ったが(今も思っているけど)
何度も裁判記録を読んでいると、何でこんなどこにでも居る世間に排除された不良がこれ程の凶悪事件を起こしたのかが良く解らなかったが、仲間の書き込みを見て見えてきた

小倉ってゆー悪魔が絡んでいたからだよ・・・
小倉以外の奴らなら、この時代の私立・県立の中学出身者なら一人や二人は見たことがあるだろう

でも、小倉のような悪魔はない・・


397 :名無しさん :09/12/24 18:21:07 ID:0CqRE/Mn

皆、宮野が出所すると騒いでいたが、
本当の主犯は十年前に出所していた・・案の定、再犯を起こし、

「この程度の内容で、監禁・障害とは・・納得がいかない」

っととぼけた事をぬかしている。

そりゃー、以前の事件とくらべりゃーな・・あんだけの事をして十年だもんな

宮野は自分の犯罪をホボ全て認め、主犯として刑をマットウしようとした
親も、自分の家を売り払って被害者側に賠償金をしっかり払っている。

小倉の母親ババアは、なんだかんだ言って支払いをしていない。
しかも、馬鹿息子に車を与え、自分は犯行現場の近くに店を開き、豪邸を建てた。
これだけでも、どっちが主犯かはわかるだろう
小倉親子は、普通の人には絶対に理解は出来ない思考回路を持っている。
北九州拷問殺人の主犯、松永太と同類だろう
http://yy27.60.kg/test/read.cgi/cruel/1192761129/

宮野裕史はシンナーで頭がイカレテいない時はまともだった?

死体処理

宮野裕史はこのとき、当時人気のあった長渕剛主演のテレビドラマ『とんぼ』の最終回のビデオを探した。

それは、順子が拉致された日、『とんぼ』の最終回を楽しみにしていて、アルバイト先から家路に急いだが、その後、監禁されたために最終回は見ることができずに、そのくやしい思いを何度か口にしたからで、そのビデオも一緒に入れようと思ったからだった。

午前8時ころ、ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが、恐くなってしまい、その空き地にドラム缶を投げ出して帰ってしまった。
http://zero123456789.web.fc2.com/ohanasi/zatugaku/z_jkkonkurisatuzin.html


宮野裕史がオートバイの暴走行為でつかまり、他にもいろいろやっていたので少年院に送られたそうです。

宮野がそこである晩以来、毎晩毎晩、壁をひっかきだすのです。同房の人間がやめさせようとしても、その手を振り払って、がりがりがりがり、、、、。

と爪がはがれるほどひっかきつづけ、やがてそれは所内の職員のお偉いさんの耳にまで入ることになりました。

どうしてそんなことをするのか尋ねられ、宮野はぽつりぽつりと話し始めたそうです。

実は、人を殺したことがあって、その娘が壁の中から出してくれ出してくれって言うものだから、と。

 はじめは精神鑑定を受けさせよう(受けさせたのかな?)ということになったらしいのですが、どうも気が触れたにしても嘘をついている様子ではない。

供述された場所に行くと、本当に空き地があって、ドラム缶があって、中から遺体が出てきたという事です。
http://gossiper.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

71 :名無しさん :09/05/21 09:03:15 ID:IWpGy5B3
神作・・この異常な神経の図太さ・・

裁判記録を読み返しても、主犯の宮野より内容が酷い
多分、本物の主犯だろうな・・自分も言ってたようだが
神作がいなければ、ここまでの惨劇にはならなかったんじゃないかと思ってしまう。
もちろん加害者は全員許せないが・・


72 :名無しさん :09/05/21 22:36:07 ID:w1Zjb9vt
>>71
同意
年功序列で宮野が主犯
しかし全員同年齢なら神作譲が確実に少年Aだったね


「お願いですから家に帰してください」

と懇願する被害者に対し

A(宮野)「きちがいの真似をしろ」

被害者は懸命に要求に応じるが

B(神作)「本当にきちがいになれ」
とシンナーを無理やり吸引させ、更に焼酎・ウィスキーを一気飲みさせる

被害者を帰そうという意見が一時出ていたことがあったが
このときB(神作)だけが警察に事件発覚を恐れ猛反対

A(宮野) C(湊) D(渡邊)らに同意させる


ペンチで歯を引き抜いていたのもB(神作)

強姦した回数もB(神作)が最多であったとされている


77 :名無しさん :09/06/06 17:50:09 ID:pO3of3pd

>被害者を帰そうという意見が一時出ていたことがあったが
>このときB(神作)だけが警察に事件発覚を恐れ猛反対
>A(宮野) C(湊) D(渡邊)らに同意させる

この段階で、神作は被害者を殺害して証拠隠滅するつもりだったんだろうな・・
他のやつは神作の言葉で、ここまできたら・・殺すしかないって感じだろう・・

神作が宮野が怖くて逆らえなかったとか言っている内容を見て、こいつが「本物主犯」か??っと思ってしまった。

主犯の暴力+α暴力を犯していて、何いってやがるよ

説得力まるでなし・・

よく、宮野はこの言葉に反応しなかったのかが不思議・・
本人に聞いてみないと、分からないね・・

「コンクリート」とかくだらない映画を作ってるんなら、こいつらの裁判の内容を突っ込んだ映画を作ってほしいよ。


78 :名無しさん :09/06/06 23:51:43 ID:O3SzNZwS
>>72
監禁初期
Cの母(湊ます子)が被害者を帰すが
外で待ち伏せていたB(神作)とCの兄(湊恒治)によって連れ戻される


>>77
そうなのかもな...神作さえいなければ...

『今後再犯しても、実名報道されない神作譲』

2004年の再犯時(神作33歳)マスコミは実名を伏せて報道

これは初犯(コンクリ事件)が未成年だったための保護
もし神作が今後再犯しても、少年法が引きずり永遠に実名報道されないのか?
http://yy27.60.kg/test/read.cgi/cruel/1192761129/


神作譲

「俺は人を殺したことがあるんだぞ」

「人を殺すなんて簡単なんだからなー」

「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」


笑いながら自慢げに言う男 神作譲

「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。ホントは俺が主犯なんだよ。」

ゾッとする話を、何がおかしいのか下品に笑いながら言う神作譲。


飲み屋のネエちゃんはフリーズし、周りも引いている。


だが、露骨に冷ややかな目で見たら、今度は自分が何かされてしまうと思い

皆少しずつ距離を取ろうとする。


「俺は捕まったって怖くねぇし、同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」


そして、まだ続く独演会


「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346165087.html


バックに付いているのは創価学会? 統一教会?

スナッフ・ビデオで稼いでいるのは CIA だけどね。

ヤクザは唯の下請け。

ヤクザと創価学会と統一教会は在日と部落民が多いから怖いんだよね。
在日は非差別部落内に住んでるのが殆んどだし。

類と共を呼ぶという奴かな

女子高生コンクリ殺人事件でも少年達は単なる実行犯だったから刑が軽かったんだ。 黒幕まで捕まえると日本中大騒ぎになるからね:


暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、


アメリカ合衆国のマフィアにイタリア系や中国系のマイノリティが多いのと同様に、日本における暴力団の巨大化も、特定の社会集団に対する差別が原因の一つだという説がある。

猪野健治は、『やくざと日本人』の中で、昭和中期の関西や北部九州の部落の悲惨な現状を取り上げ、日本社会に「やくざとなるか土方になるか」しか、選択肢の無い若者が多く存在する事がやくざの温床であるという見解を示した。

また自身の取材から得た印象として、もとより体系的な統計があるわけではないが、と断りながらも、現在の暴力団員の半数は部落も在日朝鮮人も出自に持たない「市民社会からのドロップアウト組」だろうと推測している。

デビッド・カプラン(en:David_Kaplan_(author))とアレック・デュブロ(en:Alec Dubro)の共著になる『ヤクザニッポン的犯罪地下帝国と右翼』(第三書館。原書名は『Yakuza:The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld』)には、


「日本の最大広域暴力団・山口組の構成員2万5千人のうち約70%の者が部落出身者であり、約10%の者が韓国人等の外国人」


という記述がある。ただし、原書のみ。邦訳版では削除。加藤久雄・慶應義塾大学教授が、自身の論文の中でこのデータを引用した。

会津小鉄会長・高山登久太郎は講演で、

「ウチの組は同和が3割、在日が3割だった」

と発言したことがある。(彼の組は、会長が在日だったため、在日の割合が高かったと見られる。)

宮崎学は、大谷昭宏との共著、『グリコ・森永事件 最重要参考人M』で、

「関西に暴力団が10人おったらそのうち9人はマイノリティ」

と発言している。


元公安調査官・菅沼光弘は、2006年10月19日に行われた東京・外国特派員協会における講演で、山口組のナンバー2である高山清司から聞いた話として、

暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%である

という見解を示した。


山口組顧問弁護士を務めた山之内幸夫は『文藝春秋』昭和59年11月号に寄せた「山口組顧問弁護士の手記」において

「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」

「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」

と述べた。

ただし、2008年の政府公式統計によれば、その年に刑務所に入った受刑者のうち暴力団加入者の国籍別比率は、

日本国籍3191人で約97.7%、韓国・朝鮮籍63人で約1.9%となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E5%9B%A3

週刊アサヒ芸能 2004.7.22

女子高生コンクリ詰め殺人犯、再逮捕直前の「野獣捨てゼリフ」
逮捕監禁致傷容疑で、6月4日に警視庁竹の塚署に逮捕されたのは、自称・コンピュータ会社アルバイトの神作譲被告(33)。

実は、神作被告は15年前、少年犯罪史上に残る「綾瀬・女子高生コンクリート詰め殺人事件」のサブリーダー役として、世間を震撼させた人物である。犯行当時17歳だった神作被告はその後、懲役5年以上10年以下の不定期刑が確定した。ところが、刑期を終えた神作被告は、更正どころか、さらに凶暴性を増して地元に舞い戻ってきていたのだ。

今回の事件は、5月19日の深夜2時ごろに発生した。東京・足立区に住む被害者のAさんが語る。

「もともとヤツ(神作)は、私が働いている職場のお客さんの紹介で知り合ったんです。確か、去年の暮れごろでした。190センチ近くある長身で、派手な金髪に派手なジャージ。その筋の人という雰囲気があった。実際、ヤツは『オレはヤクザだ』と自慢げに話していたし、あまりかかわりあいたくないと思っていました」

しかし、神作被告は、Aさんと同僚のBさんを紹介されるやいなや、すぐに2人の携帯電話の番号を聞き出したという。

2人が、神作被告の“正体”を知ったのは、今年4月上旬のことだった。そのとき神作被告は、AさんとBさんが一緒に暮らす社宅の前で深夜、待ち伏せをしていた。Bさんが振り返る。

「ヤツは部屋に上がると、帰るまでずっと

『自分がいかに怖いヤツか』

という自慢話を繰り返した。最初に

『オレは10年間、(刑務所に)入っていたんだ』

と切り出すと、一気にまくしたてた。そして、

『10何年前にこの近くで起きた大きい事件って覚えているだろ。それの犯人はオレなんだ』

と、具体的な事件名こそあげないものの、あのコンクリート詰め殺人事件をにおわせていた。そして、事あるごとに

『わかるだろ』

とこちらに同意を求めるんです」


ちなみに「コンクリート詰め殺人」の発端となる事件が発生したのは、88年11月25日のこと。少年グループがバイト帰りの女子高生を拉致し、メンバーの少年の自宅2階に監禁。複数の少年がかわるがわる陵辱と暴力の限りを尽くし、約1ヵ月半後に女子高生を死に追いやり、死体をコンクリート詰めにして捨て去った―――。

このおぞましい事件の“真相”を神作被告は、時折笑顔を浮かべながら語っていたというのだ。Aさんが振り返る。

「アイツは、事件のことを得意げに話していました。

『女が死んでいるのを確かめたのはオレなんだ。タバコに火をつけて女の口に近づけても、タバコの煙がまっすぐ上っていった。それで死んだのを確認した』

とか、

『あのときに後輩を呼んだのはオレなんだ。だから本当はオレが主犯なんだ』

とまで言っていました。」


神作被告は、事細かに暴行現場の模様を話した。タバコを被害者の体に押しつけたり、髪の毛を切ったりといった、15年前の事件の記憶を鮮明に覚えている様子だったというのだ。そして、一とおり事件について話したかと思うと、

「あんときは楽しかった」

と、懐かしそうに振り返ったという。Aさんの話。


「ヤツは、

『オレは刑務所で悟ったんだ。警察や検察にしても、マスメディアも、ダマすのは簡単だ』

とうそぶいていた。そして

『マスメディアは自分の味方だ。警察や検察に対しても、自分を作り上げて相手を同情させれば、すぐに(刑務所から)出てこられる。精神病の振りをすればすぐに出られる』

と言って、まったく反省した様子はなかった」


そして事件前日の5月18日、Aさんの携帯電話に、神作被告から怒りの電話がかかってきたという。

「内容はよくわからないんですが、すごい剣幕で

『仕事終わったら電話しろ』

とどなっていた。そして、仕事が終わって深夜に帰宅すると、家の前に神作のセルシオが・・・・。おそるおそる近づくと、いきなり運転席から出てきて

『女、取っただろ』

と因縁をつけ、何十発も殴りつけてきたんです」(前出・Aさん)

事情のわからないAさんは、不意のパンチになすすべもなかった。一緒にいたBさんも茫然とするだけだったという。Bさんが話す。

「すぐにAの顔は血だらけになった。神作は

『オレの情報筋から入っているんだよ』

と叫びながら殴り続けた。そしてヤツはトランクから金属バットを出して威嚇すると、そのままAを車のトランクに押し込んで、あっという間に逃げてしまったんです」

一方のAさんは、生命の危険まで感じたという。

「前の事件の話も聞いていたので、殺されると思った。あるスナックの前で降ろされて中に監禁されてからも数十発殴られ、もうひたすら謝るしかなかった。服はもう血だらけ。神作は

『綾瀬の事件では1人殺しているんだ。1人殺しても2人殺しても同じだ』

と言って、路上でよりも激しく殴ってくるんです」


このスナックは、神作被告の母親が経営している店だった。そして朝7時ごろになってようやくAさんは解放された。しかし、Bさんに迎えに来てもらい帰路についたAさんに、神作被告から次のような脅迫電話がかかってきた。

「今回はこんなもんで済んだけど、今度はもっとエスカレートするからな」


すぐに、Aさんは最寄りの竹の塚署に駆け込んだという。

まさに野獣としか言いようがない言動ばかりだが、神作被告の暮らしぶりはどんなものだったのか。


「神作被告は服役中に両親が離婚したこともあり、姓を変更していた。そのため、周囲でも大事件の当事者としてあまり知られていなかった。約5年前に出所後、アルバイトをしながら母親と住み、埼玉県八潮市にある自宅1階の焼き肉店を手伝っていたようです」(社会部記者)

近所の住人が言う。

「地元では、あまり15年前の事件のことを知っている人もおらず、お店もまあまあ、はやっていた。男の子(神作被告)は派手な感じだったけど、礼儀正しかった」

ところが、母親が経営するスナックが繁盛し、人手が足りなくなった焼き肉店は数年前に閉店。神作被告はその後、職を転々とした。


捜査関係者が語る。

「神作被告はある広域組織に出入りするようになり、繁華街にワゴン車で乗りつけて、花やフルーツを販売する仕事をしていたようだ。また、15年前の事件についても、酒の席でたびたび周囲に話したりしていた」

事件直後には、被害者の女子高生の冥福を祈り、連日写経をしていたとも伝えられた神作被告。しかし、出所後の彼の行動からは、反省する様子はまったくうかがえない。

当時、コンクリート詰め殺人事件を取材したジャーナリストがこう証言する。

「逮捕された4人の少年のうち、主犯を除いた3人がすでに出所しましたが、神作被告以外は行方がわからない状況。ただ、監禁場所を提供した少年は、すでに地方で家庭を築いているという話はある。

また、別の少年は少年院のイジメが原因で引きこもりになり、彼らの消息を追った報道番組に出演後は、行方不明になっている。

主犯格の少年は逮捕当初こそ、被害者女性の霊におびえたりしていたそうですが、今では刑務所内でも、一目置かれる存在になっているとか。

少年の更正という点では、はなはだ疑問が残る状況です」


さらに地元関係者からは、こんな話も伝わってくる。

「当時、取り調べを受けたものの、逮捕されなかった少年が何人もいる。その中には、いまだに地元で当時の事件を自慢げに話したり、

『実はビデオまで撮影していた』

などとうそぶくヤツまでいる。これでは、惨殺された女子高生も報われません」


今回、暴行被害にあったAさんも怒りを隠さない。

「正直言って、神作には当時の事件に関して、まったく反省の様子が見えなかった。重大な犯罪を起こした少年が更正するなんて大ウソですよ。今度こそ、できるだけ長く社会に戻ってきてほしくない」

しかし、逮捕監禁致傷の罪では、最高でも懲役10年。“野獣”が再び放たれるのは、予想以上に早いのだ。
http://2ch-library.com/news/concrete/text/asahi-geinou.html


神作譲被告の母親の狡知さ 

平成16年7月28日、神作譲被告の初公判が行われた。

 これに合わせて、同日テレビ朝日の報道ステーションで、神作被告の母親のインタビューを収録したVTRが放送された。

 母親は形通りの謝罪をしたりするものの、なぜか心が伝わってこないのである。
 以前、東京・三軒茶屋の駅で、帰宅途中の銀行員の男性が少年2人に暴行を受け死亡する事件が起きた。

 少年たちは裁判の過程で、「一生をかけて償いたい」、「私という人間を根本から変えていきたい」と反省の言葉を述べたが裁判長には伝わっていなかったようである。

 判決時裁判長は少年たちに対して、「さだまさしの『償い』という歌を聴いたことがあるだろうか」と切り出し、さらに、「この歌の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君らの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と少年の心に訴えたという。

 私は母親のインタビューのVTRを見た時このエピソードが頭に浮かんだ。

 夫との別居(不幸な家庭境遇)、「遺族の方が引越されたので連絡がとれず、、」といった弁明、どことなく責任転嫁や自分も被害者みたいな姿勢が見えたからだ。
 神作被告の母親とはどのような人物なのだろうか。

 コンクリート事件当時、東京都A区の都営アパートに住んでいた母親は、高裁の判決が出る1ヶ月前の平成3年6月11日(登記簿上の日付)、約2,750万円の融資を受けて埼玉県Y市のマンションを保有した。

 今後損害賠償等の民事訴訟が起き、多額の補償をしなければならないかもしれない時期で、かつ高裁判決の前という時になぜマンションを保有したのだろうか。

 詳細は本人以外知る由もないが、判決の1ヶ月前といえば、判決文の土台もある程度出来上がり、よほど大きな問題でも起こさない限り、譲被告の情状面に不利に働くことはない時期である。

 その点を見越してのマンション保有だったのだろうか?

 高裁での審理時に、被害者のために161万円の積立をしてることが明らかになったが、家を売り約5,000万円の慰謝料を準備した別の加害者の親と比較すると、あまりにも低額である。

 この積立も事件直後からすぐに開始したのではなく、1審が始まった後の平成2年に始めたのである。

  平成3年7月12日、東京高裁で懲役5〜10年の不定期刑が言い渡され刑が確定した。

 母親はY市のマンションがあるにもかかわらず、平成8年10月4日(登記簿上の日付)、約4,400万円の融資を受け、同市(Y市)内にさらに店舗兼住宅を保有した。(神作被告が初公判の人定質問時、「住所」として答えた場所)

 購入の時期も、5年〜10年の不定期刑を終え出所する可能性のある頃というのも、被害者への補償よりも、帰ってくる息子のための準備が優先したのだろうか?とつい考えてしまう。

 今回の監禁事件の舞台となった母親経営のスナックがある埼玉県M市は、コンクリート事件被害者の方が拉致された場所や、自宅のあった場所である。

 そのような場所で、スナックを営業するということに何のためらいも感じなかったのだろうか。

 出所後にコンクリート事件関連のビデオを観たという神作被告もそうだが、母親の行動も理解に苦しむところである。

 「夫との別居」、「女手一つで」、「都営アパート暮らし」といった貧しいイメージを演じつつ、その裏側では、判決の1ヶ月前にY市にマンションを保有していた母親。
(ローンではあるが)いくつかの不動産を保有していた母親の姿を見ると、「被害者の遺族の方と連絡がとれないので、補償ができない」というのが、どれほど本当の気持ちなのか疑問が湧いてくる。

 母親には、真の意味で被害者の方に補償をしようという気持ちがあるのだろうか?
http://prayforher.client.jp/mother.html


神作譲

神作譲(かみさくじょう、1971年5月11日 - )は、女子高生コンクリ詰め事件を起こした性犯罪者。本事件当時の「少年B」本人であり、元の名前は小倉譲。少年グループ中、正式に本名が公開された唯一の人物。宮野とは中学時代からの先輩・後輩の間柄。年上の宮野の体格を上回る身長約180cmの体格と眉毛まで剃り落とした細いつり目の凶悪な顔つきが特徴であり、まじめに学校生活を送っていた頃の面影は皆無である。


かつてはまじめに学校生活を送っていた過去があり、高校在学中に部を掛け持ちしていた。試合中の事故で怪我をしたのを機に退部。後に不良化して校内暴力を起こし、退学処分となる。

高校中退後にアルバイトを転々とした後に宮野・湊・渡邉(それぞれ少年A・C・D)とともにヤクザの使い走りとなる。下部組織「極青会」の副会長(名目上の役職)だが前述の三人同様に大した扱われ方はされておらず、事務所やトイレの掃除・洗車・買い出し・構成員の手伝いなどといった格下扱いだった。

本事件での逮捕当時、出所したら少しでも(遺族に)償いたいと泣きながら言っていたが、これは彼の周囲の同情を買うための演技であり、実際は出所してもあまり償っておらず(しかも遺族に慰謝料を払ったのはとても愛娘を殺された遺族に対する慰謝料とは思えないくらいの少ない額であり慰謝料として払うはずのお金をなんと高級住宅やセルシオ(トヨタの高級車)の購入に使っていた)、セルシオを乗り回してドラ息子のような生活を送っていた。

また、かつての不良仲間も口を揃えて

「あいつ、刑務所行っても、全然懲りてねえぞ。」

と呆れ返っていた。後に知人を監禁、さらに暴行を加えた容疑でまたも逮捕される(この逮捕後に彼がコンクリ事件当時の少年B本人である事があきらかになった)。

コンピューター会社に勤めていた当時の勤務態度は非常に悪く、少年時代と素行の悪さは変わっていなかったため、彼をよく知っているヤクザからかなり怖がられていたようである。また、コンクリ事件を通報した(と思っていた)相手に逆恨みを抱いていた事から事件に対する反省のなさが窺える。

1999年8月、奈良少年刑務所を出所 中国人と結婚して、中国に行こうとするも離婚。

更正保護司の神作久子と養子縁組。(実態のない養子縁組は違法:刑法157条公正証書原本不実記載となる)

2002年、コンピューター関係の会社に勤めるも退職。 暴力団事務所に出入りをし出す。

2004年6月、埼玉県八潮市で逮捕監禁致傷により逮捕。(供述時にかつての「少年B」本人である事が明らかとなる)


神作語録

「オレは人を殺したことがあるんだぞ、本当に殺すぞ。」

「オレは10年間懲役を受けてきて、そこで警察や検事を丸め込むノウハウを学んだ。何があっても出て来られる。」

「アレはマジで楽しかったなあ。」

「サブリーダーとか言ってるが、オレこそ本当の主犯なんだよ。」

勤務したコンピュータ会社とは…Japan Media System(末広町)


準主犯格・神作譲(33)ほか “鬼畜”加害少年たちは今…(2004年)

「かみさくじょうです」。

名前を尋ねた裁判官に、180センチあまりの長身の男は答えた。7月28日に開かれた、逮捕監禁致傷事件の被告・神作譲(33)の初公判。被害者男性に東京・足立区内で暴行を加え、車に乗せて母親の経営する埼玉県三郷市内のスナックに監禁。

「俺の女を取っただろ」

とさらに殴る蹴るの暴行に及んだという事件である。

検察側は神作被告が、

『俺は人を殺したことがあるんだぞ。本当に殺すぞ』、

『俺は10年懲役に行ってきた。警察や検事を丸め込むノウハウを学んだ。何があっても出てこられる』

などと脅迫したと主張したが、被告はこれを否認。

「これだけで逮捕監禁とは、なんとも言えないんですけど」

と述べるなど、その姿に反省の色はなかった。


再犯経緯

「深夜2時ごろ、家の前に車が止まっていた。あいさつするといきなり

『テメエ、この野郎』

と殴りかかってきた」。

復讐を恐れ、法廷に用意された異例の衝立の中で証言するのは被害者、円山勝男(27)=仮名、以下同=の同居人、大木勇三。2004年5月19日、かねてから円山に「女を取った」と濡れ衣を着せていた神作は、計画的に円山を襲撃したのだ。

「右手をグーにして5、6発殴り、路上に血が落ちた。車のトランクを開け、金属バットを円山君の顔の高さぐらいまで上げて

『これで殴って殺すぞ』

と脅した。それで円山君はトランクに入り、連れ去られた」。


翌朝6時、大木の携帯に「迎えに来い」と神作から電話がかかる。神作は三郷市内にある母が経営するスナック内で朝まで円山を監禁し、リンチをしていたのだ。

その後、神作は「今回はこんなもんで済んだが、これからもっとエスカレートしていく」と2人に捨てゼリフを吐いて解放する。

「今度は殺されると思い、2人で警察に届けを出した」(大木)。

神作は逮捕監禁致傷容疑で再び警察の厄介になったのだ。

「殺される」と2人が思ったのはワケがある。神作はコンクリ殺人の前科を「実はオレが主犯だった」などと、あたかも輝かしい経歴として笑いながら自慢。そして「平然と『捕まっても警察をだますのは簡単だ』『簡単に刑務所から出れる。精神鑑定にひっかかるフリをすればいい』といっていた」(同)。

神作が豪語した巧みな法廷戦術。早くも公判で「人を殺したとは言っていない」と検察側の調べを一部否定してみせた。また、法廷に入る都度、裁判長と弁護士にキチンと頭を下げ「いい子ちゃん」ぶりをみせる。

「証人は行方不明です」−。心苦しそうに語るのは検察官。神作を追い詰めようと検察側が法廷で証言させる予定だった被害者、円山は「(復讐を)怖がっていた。ノイローゼ気味になり、8月なかばにいなくなった」(大木)。

被害者の蒸発という異例の展開。希代の犯罪者は、また何をしでかすかわからない。


女子高生コンクリート詰め殺人事件

神作被告がかつて起こした事件。それが15年前の、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」である。’88年11月25日、三郷市の高校3年生古田順子さん(当時17)はバイト先から自転車で帰宅途中に姿を消した。発見されたのは’89年3月30日。コンクリートを詰められたドラム缶の中の腐敗した遺体という変わり果てた姿だった。

宮野(当時18)、小倉(神作被告・同17)、湊(同16)、渡邉(17)の4人らは、順子さんを猥褻目的で誘拐して足立区綾瀬の湊の自宅2階に監禁し、41日間にわたってレイプや暴行を繰り返し殺したのだった。事件ではこの4人が起訴、ほか少年3人が少年院送致などされたが、その凄惨極まる暴力の内容は例えばこうだ。小泉今日子の『なんてったってアイドル』の曲に合わせて、「イエイ」と歌うたびに殴る。武田鉄矢の曲で「頑張れ」のフレーズに合わせてリンチを加え、女子高生は呟くようにしてその歌を歌っていた。50数キロあった体重は30キロ台に…。

また、監禁現場の目撃証言によれば、

「女のコが全裸で柱に縛りつけられ、部屋の中にはシンナーや酒がごろごろあって、もうひどかった」

という状況。まさに鬼畜の所業である。


’91年7月、東京高裁は宮野に懲役20年、神作被告に懲役5年以上10年以下、湊に懲役5年以上9年以下、渡邉に懲役5年以上7年以下を言い渡した。主犯格の宮野以外はすでに出所している。彼らの「今」を追った。


少年B=神作被告の出所後

神作被告は’99年8月に出所。4年前に中国人女性と結婚、昨年離婚していた。

「神作は日本では働けないと思い、中国で生活するために結婚したようだ。だが、離婚でそれは実現しなかった」

とは、さるジャーナリストの話だ。


出所後、一時コンピュータ関連の会社に就職したが、’02年ごろからは仕事に就かず、暴力団に出入りするようになった。同級生はこう語る。

「今回の事件報道を見て、仲間と連絡を取り合いました。みんな

『やっぱりあいつはダメだったなぁ。懲りないやつだよ』

と話していましたよ」。


母親と暮らしていたのは、埼玉県八潮市の木造2階家の2階。1階に入っている設備関連会社の関係者が言う。

「お母さんは髪が長くてちょっとハデめ。気さくでいい人だったんじゃないの。せがれは昼間からラフなジャージー着てて遊び人なんだなと思ったね」


向かいの商店主はこんな印象を語る。「息子さんは髪を金色に染めていました。『黄色くなっちゃったね』と言ったら笑ってましたよ。道の向こう側を歩いていても会釈するし、あの人が昔、人間とは思えないひどい事件を起こしていたなんて信じられませんでした」

母親のスナックで、ホステスを務める女性は今回の事件後、コンクリート殺人事件を知ったという。

「7月5日にテレビを見てたら、『元コンクリート事件の小倉』 だって出てて初めて知ったんです。ママからは、

『ばれちゃったね。今までずっとひた隠しにしてて、ただただ無理して明るく振る舞って生きてきたけど、もうどうしていいかわからない』

っていうメールがきました」。


神作被告にも前の事件の“後遺症”は出ていたようだ。ホステスが続ける。

「昼間でも『ギャー』とか、『ウー』とか叫び出すことがあったって。きっと感情を抑えられなくなるのよね。譲君は、

『おふくろ、俺の前にいないでくれ。いるとおふくろを殴ってしまう』

って言ってたらしい。譲君もママもずっと生き地獄なんだと思う。死刑になったほうがよかったのかもしれない…」


現在、母親は店にも顔を出さず、自宅にもいない。

「たぶん、車の中で寝泊まりしているんだと思います。最近、ママと会うといつも靴が同じなんです。お店に来る前にお風呂に入り、お店が終わってからもう一度入るような人ですから、靴が同じなんて考えられないんです」(ホステス)。


7月29日に母親に会った際、母親は神作被告から手渡された手紙を見せたという。

「『これからは警察の世話になるようなことは二度としないから、おふくろも心配しないでくれ。しばらくの辛抱だからしのいでくれ』

って書いてありました。

『そんなふうに言われると信じちゃうのよね』

ってママは涙を浮かべていました」(ホステス)。


一方、事件後離婚し、別の家庭を持つ父親は本誌の直撃に、「帰ってください」と繰り返し、玄関のドアを閉めた。
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BD%9C%E8%AD%B2

女子高生コンクリート詰め惨殺犯 小倉譲

綾瀬一帯の資産家の縁者である小倉譲は、昔から一族の恥さらしであった。
修徳高校へ入学し、部活動を掛け持ちするも怪我で堕落人生が始まる。
校内で暴力事件を起こし退学。

宮野や湊と知り合い、ヤクザの経営する花屋で飲み屋へ花の押し売りに行ったり電話番などの仕事をしヤクザのバシリ生活開始。

極青会なるヤクザのバシリ組を設立し、宮野が会長、小倉譲が副会長、湊が会計と自己紹介するも、実態は極東会のヤクザの洗車・電話番・雑用。
結局は、ただのパシリ。

パシリ生活にストレスを感じた宮野と小倉譲と湊は、強姦・輪姦・ひったくりなどを繰り返すようになる。

様々な問題や事件など起こすも、地元の権力者の縁者であることとヤクザのパシリであることをいいことに、さらに悪事を働かせることとなる。

この小倉譲の親戚、八潮市一帯にも力をもっているそうだ。
なので、出所後もあんな残忍な殺人事件の殺人犯であるのに平気な顔をして綾瀬や八潮市に住んだり、母親の小倉悦子がスナックを経営したりしていた。

また、一族の恥晒しなため、神作氏に数千万円の寄付金と称して金を渡し小倉譲を養子として改姓させている。

だが、ここの家系は頭が○いらしく、神作なんて珍しい苗字にしたら次回の悪事を働いた時に目立ってしょうがないということに気づいてなかったようだ。

また、服役中の作業で稼いで貯めた金を出所時に涙ながらに

「これで、被害者に賠償金を払います。これからは、被害者に償って生きていきます。」

と汚い泣き顔で刑務官や弁護士などに演技し騙したが、出所後は、その金と親族からの小遣いと神作氏が集めた募金とヤクザからのご苦労代で車(セルシオ)と家を購入している。


「人生なんてチョロイもん」

だとあの顔で得意気に語っていたそうだ。


ほんの少しの間だけ勤めていたが、勤務態度はいたって不真面目。

「こんなはした金のために毎日バカらしい」

と出勤しなくなり、結局ヤクザ事務所へ出入りするようになる。

それからは、あちこちで自分の犯した罪を武勇伝のように語り、

「あれは楽しかったなー」

などと得意気に語るクズである。

また、キャバクラに運転手付きのベンツで通うも、キャバクラ譲からは


「話はバカらしいし、口はくっさいし相手するのがツライ」

とか

「気前がいいからまだマシだけど、自分じゃ気づいてないけど内臓悪い臭いしてたまんないよねー」

と失笑されている。

とにかく口が臭いらしい。
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11348941864.html


小倉 悦子=神作(小倉)譲の母親
 事件当時生活保護を口実に約50万円を賠償しただけであったが、判決直後にはマンションを購入。

 以降の賠償額は80万円未満である。

 「息子は被害者のために運命を狂わされた」

と言い、被害者のお墓を壊す。


テレビ朝日のインタビューに


「被害者の分も息子が幸せになればいい」


と言った無神経クズ女。


被害者を惨殺したクズが幸せになる資格などない。

小倉悦子のクズ息子こと 神作譲が、呼吸をしていることさえ不愉快なのに、幸せだなんて滅相もない。


「息子は被害者のために運命を狂わされた」だと?


何も悪くない女の子を監禁・強姦・暴行・殺害しておいて、ふざけすぎている。

お前が世の中にろくでもないクズを放出しなければ、こんな惨事は起こらなかった。全てお前が悪いのだ。


まったく、身の程知らずの糞婆が、どの口からその言葉を吐き出したのか見たいものだ。


小倉悦子よ。お前の息子の運命が狂ったのは、お前の息子として生まれた瞬間からだ
お前のようなクズ女が無責任にガキを作るからいけないのだ。
まして、あんな顔に産んだから余計に狂ったのだろう。
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346810419.html


2004/07/28 「報ステ」女子高生コンクリ事件・加害者擁護?

「ちりめん」様より、7月28日放送分「報道ステーション」のテキスト起こしをいただきました。「女子高生コンクリート事件」の主犯格の男性が先日、監禁暴行事件を起こしましたが、それについての特集です。


。。。。。。以下引用。。。。。。


ナレーション
「5月19日午前2時、東京足立区に住む男性が自宅に戻った時だった。一人の男が車から降りてきていきなり殴りかかった。」

被害者男性
「女取っただろう、女知ってんだろ、隠してんだろ。やくざなめんなよって。何十発か殴られて。」

ナレーション
「男性は男の車のトランクに詰め込まれた。(テロップ:約40分間走り回る)車が向かった先は埼玉県三郷市のあるスナック。」

被害者男性
「そこでは誰も見ていないので何十発と殴られ続けて、1人殺そうが2人殺そうが一緒なんだと言われた。まあ、人殺す顔ってこういう顔なんだなって。」

ナレーション
「4時間後に解放された男性はその足で警察へと駆け込んだ。およそ2週間後男が逮捕される。(テロップ:6月4日逮捕監禁致傷容疑で逮捕)2人は知り合いで男は以前被害者の男性にこう語っていたという。」

被害者男性
「一方的に話し始めて綾瀬の事件を話し始めた。俺はすごいだろって自慢するような口調で。」

ナレーション
「綾瀬の事件、それは女子高生コンクリート詰め殺人のことだった。1989年1月、東京江東区の埋立地でコンクリート詰めにされた女子高生の遺体が発見される。被害者は埼玉県三郷市に住む17歳の女子高校生だった。

逮捕されたのは当時16歳から18歳の少年。強姦目的で通りがかりの女子高生を連れ去り40日に渡り足立区綾瀬の自宅に監禁し殺したのだった。裁判では4人の少年が実刑判決を受ける。

(テロップ:主犯格A(18)懲役20年、準主犯格B(17)懲役5〜10年、準主犯格C(16)懲役5〜9年、準主犯格D(17)懲役5〜7年)準主犯格(B)の少年は最終意見陳述で涙ながらにこう述べた。」


最終意見陳述Bの言葉
「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛かったか、一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい。」

ナレーション
「少年達はここで壮絶な暴行を加えていた。連日に及ぶ強姦、顔面や体を殴りつける、ライターで皮膚をあぶる、食事を取らせない、そして遺体をドラム缶に入れて捨てたのだった。」

〜場面が変わり、ディレクター?と加害者の母親との対話(テロップが出ていましたが話し言葉で起こし)〜

ディレクター
「(女子高生の遺族に対して)謝罪とか償いの気持ちとかっていうのは?」

加害者母
「(被害者の遺族が)引越されちゃって、だから気持ちとして忘れることはできないですけど、何もできない状態、自分の中では一生背負っていかなければならない。」

ナレーター
「更生を誓った息子が15年後ふたたび罪を犯した。」

加害者母
「ショックでした。なぜそんなことをやったのかなって、今更いい年なのに何でそういうことをしたんだろうっていうふうに感じました。」

ナレーター
「父親は3歳の時に愛人をつくって家を出て行った。母親は2人の子供を育てるために夜の仕事に就く。家族揃って食卓を囲んだ記憶は無いと言う。」

加害者母
「確かにお父さんがいなくてもお母さんがいなくても、よく育つ子は育っていくかもしれないです。でも、あの子には父親が必要だったんじゃないかなとは思ってます。」

ナレーター
「少年は奈良にある少年刑務所に収容された。更生に重点を置く少年院とは違い、少年刑務所は刑罰を与える場である。母親が差し入れたドストエフスキーを読んだり、被害者の冥福を祈り写経をしていたという。その後、成人の刑務所に移され28歳の時に出所(テロップ:1999年8月3日出所)」

加害者母
「(息子は)出迎えに来てるとは思わなかったみたいですけど、子供みたいな感じで、事件前に戻ったような感じで、もうはしゃいで出て来たっていう感じに見えましたけど。」

ナレーター
「出所してから半年後、男は弁護士の紹介でコンピューター関係の派遣の仕事をするようになる。(テロップ:首都圏の様々な会社に派遣された)更生に向けたスタートは順調かに見えた。」

加害者母
「出所する前から、いつ帰って来るんだって社長さんが待ってて下さって(息子は)コンピューターの会社に行っている時も、すごいまじめに行ってました。もう早く寝て自分は行かないといけない。2時間くらいかかるんですよ、コンピューターの仕事に行くのに。大体遠い所が多いものですから。本当に遅刻しないでまじめに行っていた。やっぱり(刑務所で)習って来た所では十分足りなくて、自分なりに勉強していました本を買って。」

ナレーター
「だが、母親にとってある不安が常につきまとっていた。」

加害者母
「気というか張り巡らせていました。だから新聞か何かのニュースを見ると、背格好、服装―。居ないとすごい心配でした。他の事件でも疑ってかかっちゃうこともあります。」

ディレクター
「それは息子さんがやったんじゃないかと?」

加害者母
「そうですね。そういう風に思って見る時もあります。」

ナレーター
「4年前に母親を取材したときのノート。出所から1年母親はこの時から不安を漏らしている。(ノートの内容:また事件をほじくったらもとのもくあみ・・・。)」

加害者母
「事件については話をしてないです。お互いの暗黙の内の・・・。」

ディレクター
「それはどうしてですか?」

加害者母
「息子にとっても自分の心の中で思っていることだと思いますし、私の中でも心で思っていることであって、言ってほじくり出して、まともな会話になる時もあるかもしれないけど、やっぱし自分の言われたくない時ってありますよね。」

ナレーター
「だが、本人にとって事件は常に心の片隅にあり続けたようだ。」

加害者母
「自分の事件の本を読んだりしていましたから。で何か、あの〜ビデオも出たの、見てますね。その事件のビデオが、ビデオショップから借りてきて「内容は違うよ」って、一言いってましたけども。」

ナレーター
「男は歌舞伎町の店で働いていた年上の中国人女性と結婚した。しかし、2年あまりで破局。ふたたび実家に戻る。」

加害者母
「彼女と別れてかな、「結婚して子供でも作って普通の生活したら」って言ったら「事件の子供だから無理でしょう」って本人は言ってました。」

ディレクター
「それに対してお母さんはどう思いました?」

加害者母
「それっきり何も言えませんでした。」

ナレーター
「熱心に打ち込んでいた仕事もあることが理由で辞めてしまう。出所後男と付き合いがあった弁護士はこう話す。」

伊藤芳郎弁護士
「やはり被害妄想だったかなと思います。と言いますのは、本当は職場の人たちは彼の実情を誰も知らないはずなのに、自分のことを知っているから自分につらく当たるんだと言うようなことを言って、人間関係がギクシャクしてきたんですね。」

ナレーター
「10年に及ぶ刑務所生活で、男には拘禁反応による被害妄想が表れていた。(テロップ:刑務所での拘禁反応が被害妄想の原因だった)」

伊藤芳郎弁護士
「刑務所の中できちんとした治療は受けさせてもらえませんでした。」

ナレーター
「2番目の職場を見つけるも、給料の未払いというトラブルが起きる。その時、ある人物との出会いがきっかけで男の人生は大きく変わっていったと母親は言う。」

加害者母
「S氏はやくざだったんで当たりがいい人だったんで最初くっついて行っちゃいまして。」

ナレーター
「給料の未払いを聞いた母親が知り合いのH氏に相談。そのH氏が連れてきたのが山口組系暴力団組長のS氏だった。男は次第にそのS氏と付き合いを深めていく。」

ディレクター
「息子さんを止めようとはしなかったんですか?」

加害者母
「私が止めても難しいなっていう、本人の判断に任せようという気持ちでいました。」

ディレクター
「事件のことに関してはその人(S氏)は知ってたんですか?」

加害者母
「本人が言ったみたいです。本人が言ったところ連れ歩いている時に「こいつはコンクリの人殺したやつだよ」ってみんなに言いふらしていたらしいです。それは本人が言ってました。どこに飲みに行っても、そういう言い方をすると。」

ディレクター
「本人は嫌そうな感じでした?」

加害者母
「はい。誰もいないから誘われると行っていたみたいです。」

ディレクター
「誰も居ないっていうのは?」

加害者母
「友達が居ないから。」

ディレクター
「友達っていうのは出来なかったんですか?」

加害者母
「出来なかったです」

テロップ:今年5月、再び事件を起こす。出所から4年9ヶ月のことだった

加害者母
「(手紙を取り出し)これは息子から来た手紙です。小菅(東京拘置所)に入ってから息子から来た手紙なんです。」

(CM)

ナレーター
「15年前世間を震撼させた女子高生コンクリート詰め殺人事件。再び罪を犯した男から母親宛に手紙が届いた。」

手紙の内容
「前略。面会や差し入れ有難う。今回のことは本当に申し訳ないと思っています。他人の責任で自分の仕事が出来なくなる悔しさは私も十分にわかる。事件のことを考えている
度が過ぎたことを後悔している。」

ナレーター
「男によれば暴力団組長S氏の正式な組員になったのは去年の12月だという。その後S氏が男に上納金を要求したことで反発、今年5月8日S氏を殴り組を抜けたとしている。8日後の月16日、浅草の三社祭で暴力団組長のS氏が喧嘩に巻き込まれた。男は近くにいたが、組を抜けていたためS氏を助けることはなかったという。今回の事件の被害者に男はこう言われたという。」

テロップ
「行けなかったじゃないですか。」怖気づいたと揶揄されたという。

手紙
「今回の被害者は(空欄)がめんどうみていた若い衆なんだろ。テキ屋だな。
被害届けを出したくらいから花屋の店員になっているらしい。」

ナレーター
「男は被害者の言葉がきっかけで思わず暴力を振るったとしている。しかし、被害者も雇い主も男の主張を否定している。」

スタッフ
「行けなかったじゃないか、と男に言ったことですか?」

被害者
「それはないですよ、だからその見てたとか(ごにょごにょ)。自分は子供たちにラムネやジュースを配っていたのでみていない。自分は花屋だったので。なんで自分までやくざ扱い
するんですかって。」

加害者母
「「一人殺すも二人殺すも一緒だ」ってそんなこと言ったの?って聞いたら、「言ってないよ」と言っていました」

ナレーター
「事件後、母親は知人の家を転々としている。」

ディレクター
「何が足らなかったと思いますか?」

加害者母
「事件のことに触れなかったことが私はそれが息子に対してわかっていることだと思ったんですが、それがまだわかりきっていなかったのかなとも感じます。」

ディレクター
「分かりきってないと?」

加害者母
「自分の感情に踏まえて自分を忘れちゃってることを教えてあげないといけないなと。」

ディレクター
「どういう風にしたら分かると思いますか?」

加害者母
「どういう風にしたらわかる・・・。どういう風に言ったらいいんでしょう。」

ディレクター
「亡くなられた被害者の方の立場になって考えてみたらどうでしょうか?」

加害者母
「遺族だったら「死んでもらいたい」というのが、それっきり思わないじゃないですか。亡くなった子が帰ってくるわけじゃないですから。」

ディレクター
「同じ被害者が出たり、事件を繰り返したことに対して遺族がとても悲しんでいるとは考えないんですか?」

加害者母
「つらく思ってらっしゃると思います。これから事件を起こさないように自分を戒めていかねばいけないのではないかと思っています。」

ディレクター
「できますか?」

加害者母
「やって行こうと思っています。」

ディレクター
「被害者の家族に詫びるとしたらどういう言葉がありますか?」

加害者母
「ごめんなさいの一言です。(この後すすり泣き)」

(スタジオへ)

古館
「この男を本気で更正させようと考えた人間がいただろうかと思います。中途半端な助けでは更生などできないと思います。加藤さんあの〜再犯、出所してきて再び犯罪を犯してしまうというケースをかなり多いと感じてしまうのですが。」

加藤千洋
「そうですね。それで少年法改正の議論が活発化してると思うのですが、その論点の一つが加害者の人権重視、その一方で被害者の人権はどうなってるのか、いうのがありますね。被害者側からもう次の被害者を作らないようにという切実な声が出ていますよね。」

古館
「もう一方で更生施設の問題。果たして本当に更生できる確率がどれくらいあるのかというのが問題ですね。」

加藤
「まあVTRを観て2つ考えたんですけどね。一つは罪が重かったから少年刑務所に行きましたよね。ただ、少年院に比べると教育とか更生という命よりも、やっぱり刑罰としての服役というものが重要視されますよね。今後あの〜、少年刑務所でも更正プログラムなんかを強化充実する必要があるかと思います。そして、更正で成果を挙げたあとにも問題があると、戻ってくるそこの環境がどうだったのかが重要だと思いますね。」

古館
「現実的にはよく言われるように、とにかく刑が終わって服したらすぐ出ていってもらう、次なる犯罪者が入ってくる、刑務所が満杯になるとよく耳にしますよね。それともう一つ
思うことは親と子供が逃げずに本当に向き合うということがいかに大切で難しいことであるかがわかりました。」

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

古館と加藤のところは多少荒いかもしれません。このテキストを起こし終えたときに加害者ばかりが擁護されているようにしか感じませんでした。
特に、加害者であるBの母親は女子高生の両親に対して謝罪の念はないのでは?と思いました。

マスコミの人たちも、ライトの下で偉そうなことを言っていますが、結局行き着くところは社会システムが悪いだの、少年刑務所が悪いだので、彼が大罪を犯したことを本当に分かっているのか!!とちょっとキレそうになってしまいました。

最後に、本当に被害者のご両親は無念だったと思います。このような事件が2度と起こらないことを祈るばかりです。。。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/6112/nikkiokoshi-0407.html


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

2. 中川隆[-5792] koaQ7Jey 2017年11月28日 11:39:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017.1.20
韓国軍が数千人ベトナム女性を強姦し、慰安婦にしていた…米国メディア「日本より先に謝罪すべきだ」
http://www.sankei.com/west/news/170120/wst1701200001-n1.html


昨年末に韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦像が設置された一件についてです。

 ご存じの通り、日韓両政府は一昨年末の合意で慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決されたことを確認した」との認識で一致。

 日本側はこの合意に基づき昨年、元慰安婦支援などに10億円を拠出するといった合意内容を着実に履行しました。

 ところが韓国側はソウルの日本大使館前の慰安婦像は「地方自治体の責任」などと主張し、撤去に動かなかったどころか、釜山の日本総領事館前に2つ目の慰安婦像が設置されたことを容認したのでした。

 こうした韓国側の一連の行為や対応は、外国公館前での侮辱行為を禁じたウィーン条約を無視する立派な国際法違反に当たります、なので当然ながら日本政府は駐韓大使を一時帰国させるといった対抗措置に出ました。

 これに対し、当の韓国側や日本在住の反日勢力、そして、なんちゃって左翼の連中が、真面目に反論するレベルに至らない低レベル過ぎる屁理屈を並べ立てています。

 こう書くと反日勢力などから「偉そうなことをほざくな」と言われそうですが、当の韓国政府を含め、こうした連中は、この問題に対して意見できる立場にないのです。なぜか。理由は簡単。少しばかり世界の物事の裏を分かっている人々の間では既に有名な話なのですが、慰安婦問題について国際社会に深く深く謝罪せねばならないのは、実は韓国の方なのです。今回の本コラムでは、その理由についてご説明いたします。

■13歳少女をも韓国軍が強姦…“ライダイハン”混血児は約3万人

 今年1月で5年目に突入した本コラムのネタ探しで海外メディアの電子版を巡回していて、このニュースを見つけたときは、本当に驚いたのと同時に、自分のモノの知らなさに恥じ入ったものでした。そして“いつか絶対このコラムで書いてやる!!”と思っていたのですが、遂にその日が来ました。

 2015年10月13日付の米FOXニュースのオピニオン面(電子版)です。見出しはこうです。「朴(槿恵=パク・クネ)大統領は韓国がベトナムで行った性暴力について公に謝罪すべきである」

 どういうことかと言いますと、このFOXニュースのほかにもさまざまな欧米、そして当の韓国のメディアが報じているのですが、ベトナム戦争(1960年代後半から1970年代初め)時、米の同盟軍としてこの戦争に参戦した韓国軍が多くのベトナム女性を強姦(ごうかん)し、彼女たちを韓国兵のための慰安婦として強制的に働かせていたというのです。


前述のFOXニュースによると、約40年前、現(韓国)大統領の父親で(当時の軍の)司令官、朴正煕(パク・チョンヒ)は32万人以上の米同盟軍(つまり韓国兵のことですね)をベトナムに派兵したといい、この戦争の間、韓国兵は13歳から14歳(の女性)を含む数千人のベトナム女性に対し激しい強姦または性的暴行を行ったと明言。

 そして、強姦されたことによって多くの女性が妊娠・出産し、彼女たちが産んだ混血児が現在、ベトナムには5000人から3万人存在すると説明します。

 そして、韓国軍がベトナムで行ったこうした極悪非道な行為に対し<朴大統領は世界で最もパワフルな女性の1人である。父親が率いた兵士たちが膨大な数にのぼる罪のない女性たちに対し、犯した犯罪を公に謝罪することは、間違いなく彼女の権限の範囲内にある。なのに、そうした謝罪をしないで、日本に対し、第二次世界大戦時の韓国の慰安婦に対する性的暴力について謝罪を求めることは、朴大統領の道徳的権威を傷付けるだけである>と警告しています。

 平たく言えば“日本に謝罪を求めるなら、自分たちもベトナムでやらかした残虐行為について世界に向けて謝罪しろ”ということですね。

 ちなみにこのFOXニュースのオピニオン記事の投稿者であるノーム・コールマン氏(67)は2003〜09年に米ミネソタ州選出の上院議員(保守・共和党)を務め、現在、国家安全保障や外交政策の専門家らで組織する米のNGO(非営利団体)「米グローバルリーダーシップ連合(USGLC)」で要職を務めています。

■韓国軍は「トルコ風呂」という名の慰安所を

 そして、ベトナム戦争に従軍し、捕虜になったことで知られる保守・共和党の重鎮、ジョン・マケイン上院議員(アリゾナ州選出)が友人といい、この投稿記事でも<私の良き友人、ジョン・マケイン上院議員はベトナム戦争時、捕虜になった際の恐ろしい日々を振り返る際、戦争は人々の生活に深い感情的・物理的傷あとを残すとしばしば語っていた。韓国兵の手によって無垢(むく)を奪われた多くの(ベトナム人)女性たちは、ベトナム戦争における(誰にも)語られない大きな悲劇である>と記しています。

しかし、この投稿記事では、ベトナム人女性は強姦・性的暴行を受けただけのような書き方ですね。だがしかし。実態は違います。2015年に米国立公文書記録管理局(NARA)の公文書で明らかになったのですが、韓国軍はベトナム人女性を強姦しただけでなく、彼女たちを韓国兵のために設置した「トルコ風呂」(Turkish Bath)という名称の慰安所に集め、韓国兵相手に売春を強要していたのです。

 つまり、軍がむりやりベトナム人女性たちを慰安婦にしていたというわけですね。

 この件について、2015年4月25日付の韓国の左派日刊紙ハンギョレ(英字電子版)は「日本の反韓感情を鼓舞する主要な力のひとつ、週刊文春が4月2日の“春の特大号”で明らかにした。執筆者は東京放送(TBS)のワシントン支局長Noriyuki Yamaguchi(山口敬之氏、現在フリー記者)で…」とその内容や経緯を伝えました。

 そして、最後のくだりで、山口氏が文春で「慰安婦問題は国内政治や外交の道具としてではなく、人権問題として真剣に取り組んでいる」と述べた朴槿恵(パク・クネ)大統領がこの件で調査に及び腰になるなら、韓国は自国にとって不都合な真実を無視し、歴史と対峙(たいじ)することを拒否する国だと国際社会に証明することになる、と書いた一文を引用し、こう締めくくりました。

 <(朴大統領にとって、この一件の調査に乗り出すことは)恐らく不快なことであると思われるが、(文春の記事の)主張に反論するのは困難である。ベトナム戦争中に起きた民間人への虐殺だけでなく、韓国軍が(ベトナム戦争時の)慰安所の運営・管理に関与していたかどうかについて、韓国政府はベトナム当局と協力して真実を見つける時がきたのだ>

 韓国の大手左派メディアも「これ、さすがにシカトはマズイやろ」というニュアンスで伝えているわけです。

この問題に関しては、2012年に米多国籍バイオ化学メーカー、モンサント(欧米の左派系環境保護団体が目の敵にする企業のひとつ)を批判する公共広告キャンペーンを展開した米左派系NPO(非営利団体)「ネイション・オブ・チェンジ」(本部・ニューメキシコ州アルバカーキ)も、自分たちが運営する同名ニュースサイトで2015年12月11日に韓国政府を厳しく批判する記事をアップしました。

 「戦争の傷あと:ベトナムの慰安婦」と題されたその記事、なかなかに辛辣(しんらつ)です。

 <ベトナム戦争時、韓国軍の多くの部隊がベトナム人女性を強姦したり、農民や老人を虐殺するといった残虐行為に手を染め、多くの女性たちが韓国兵のための売春婦として強制的に働かされた…韓国政府は今日に至るまで、この問題をほぼ無視しているが、日本に対しては(当時の)慰安婦のための財政的補償を要求し続けている。(こうした)韓国側の行動は偽善的であり、慰安婦問題を政治的な道具に使っていると言うものもいる。事実、韓国側は日本(の動き)に対抗するため、米大陸で韓米による政治主導のキャンペーン隊を編成した>

 <ベトナム戦争中、韓国軍は反共勢力を支援し、自分たちの慰安所設置のため軍の部隊を送り込んだ。当初、韓国兵たちは多くのベトナム人女性を強姦し、その後、慰安所で働くよう強制した。多くの場合、強姦によって子供が生まれ、その子供たちもベトナムの慰安婦という性奴隷として働くよう強制された…ベトナムでの慰安所設置とベトナム女性への強姦に加え、韓国軍は非武装のベトナム民間人、主に女性と子供の虐殺という戦争犯罪も犯している。しかし韓国側は韓国兵による強姦で混血児が生まれたことも、性奴隷としてのベトナム慰安婦(の存在)も無視し続けている…>

<日本人の手にかかった(韓国の)慰安婦の命や苦しみを称える彫像が建てられている間、(韓国側は)日本が慰安婦に対する公的責任を負うよう圧力をかけているが、朝鮮戦争とベトナム戦争時に韓国(軍)に(モノのように)使われた慰安婦の窮状は、ほとんど無視されている>

 どうですか?。この左派系サイトも前述のFOXニュースのオピニオン記事と同様、日本に謝罪や補償を要求するなら、自分たちがベトナムで行った戦争犯罪を含む極悪非道の行為についてまず国際社会に謝罪すべきだと訴えているわけです。

 まあFOXはバリバリの右翼ですが、ハンギョレや、モンサントを目の敵にするネイション・オブ・チェンジといった、日本のなんちゃってではなく、バリバリのダイ・ハードな左翼までが、自分のことは棚に上げ、日本に謝罪を要求し続ける韓国の卑怯なやり口に愛想を尽かしているのです。

 しかし、韓国はこれからも自分たちがベトナムでやった悪行の数々については徹底無視を決め込むでしょう。2015年4月7、8の両日付のハンギョレ(英字電子版)によると、ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺事件の生存者を招いたイベントが、ベトナム退役軍人協会(VVAK)や韓国のエージェントオレンジ(枯れ葉剤)後遺症戦友会(KAOVA)といった団体の反発を恐れ、直前になって会場をキャンセルし、イベントを中止したのでした。その後、KAOVAのメンバー約300人が、当初予定されていた会場周辺でデモ行進し気勢を上げたのでした…。

 この問題について、韓国のソウル大学校国際大学院のパク・デギュン教授は2015年4月7日付ハンギョレ(英字電子版)に「自国のベトナム戦争問題を解決できなければ、日本との歴史問題を解決することはできない」と述べました。全くもってその通りです。

今回の韓国・釜山の日本総領事館前の慰安婦像設置問題について日本政府は、かつてない強行措置で徹底抗戦すべきだと思います。なぜなら、前述したネイション・オブ・チェンジの記事のコメント欄には、こんな書き込みがありました。

 「この記事は完全な作り事だ。ベトナム戦争時の韓国軍には慰安婦などいなかったし、韓国政府も(ベトナムの)女性を性奴隷になどしていない。この記事の執筆者が日本人なのは明らかで、自分たちが韓国の慰安婦問題で非難されないよう、こんな作り事を書いたのだ」

 こんな反吐がでるほど卑怯な連中には、常識は一切通用しませんからね。 (岡田敏一)

____


2017.4.6
慰安婦、虐殺、強姦…自軍の犯罪を隠す「韓国」 国定「被害者マゾ」歴史教科書、ベトナム激怒
http://www.sankei.com/west/news/170406/wst1704060007-n1.html

さて、今週の本コラムは、大変な反響をいただいた、あの韓国がベトナムで行った許し難い“戦争犯罪”に関するお話の続編でございます。

 今年1月で5年目に突入した本コラムですが、年明けの1月20日付のコラム「韓国軍が数千人ベトナム女性を強姦し、慰安婦にしていた…米国メディア『日本より先に謝罪すべきだ』」には、かつてない反響をいただきました。

http://www.sankei.com/west/news/170120/wst1701200001-n1.html

▼【関連ニュース】韓国軍が数千人ベトナム女性を強姦、慰安婦に…米国メディア「日本より先に謝罪すべきだ」

 2015年10月13日付のFOXニュース(電子版)をはじめ、欧米、そして当の韓国のメディアまでが報じているのですが、ベトナム戦争(1960年代後半から70年代初め)時、米の同盟軍としてこの戦争に参戦した韓国軍が多くのベトナム女性を強姦(ごうかん)し、彼女たちを韓国兵のための慰安婦として強制的に働かせていたというのです。

 この報道などについて詳しくご紹介したところ「アメリカから拝見しています。こういう記事を書き続けることは大切です」「素晴らしい記事でした」「韓国軍の狂気に晒(さら)されたベトナムの方々に心より救済を願いたい所存であります」「慰安婦像を設置するとされている世界中の対象都市の市長および有力紙のサイトに、こうした韓国兵の行状を知らせるべきです」「正しい事を勇気を持って記事にしてくださってありがとうございました」「おかださん、路線変更ですか? メタラー卒業ですか?」(するかい死ぬまで留年じゃ!)といった熱いメールやご意見を各方面からいただきました。本当にありがとうございます。

 そもそも、1月のこのコラムでも書いたように、きっかけは、週1回のこのコラムのネタ探しで海外メディアのサイト巡回中、偶然見つけたFOXのあの電子版の記事だったのですが、これほどの反響をいただいたからには、やはり続編の1本くらいは書かねばなりません。というわけで、今回の本コラムでは、この問題に関する韓国のさらなる不誠実ぶりについてご紹介いたします。


■韓国軍30万人が残虐、犠牲ベトナム人1万人…

 そもそもこの問題、ベトナム戦争終結からちょうど40年経った2015年から、欧米や韓国でにわかに注目を集め始めたようですが、当の韓国国内でも日を追うごとに、いつまでも“臭い物に蓋(ふた)”で済ますべきではないといった機運が盛り上がっているようです。

 実際、前回のコラムがアップされてから10日後の今年1月30日付で、韓国日報が発刊する英字紙コリア・タイムズ(電子版)も、韓国政府の“臭い物に蓋(ふた)”的姿勢を強く非難する記事を掲載しました。


韓国のメディアは右か左かという両極端な論調が多い中、韓国日報と系列紙のコリア・タイムズは中道やや改革寄りという割とバランスの取れた論調で知られます。そんなメディアまで遂に韓国政府の姿勢を批判し始めたというのは興味深いことです。

■「韓国政府いまだ公式に謝罪せず」

 そんなコリア・タイムズの記事ですが<ベトナムでの韓国軍部隊による殺人行為(が起こした問題の数々)は未だ解決されていない>との見出しで、<韓国人は、例えば、日本の帝国主義下での戦時中の性奴隷(sex slave=慰安婦)のように、通常、自分たちを被害者としてみているが、ベトナム戦争が終わって40年以上経ったいまも、(米同盟軍として)ベトナムに30万人以上を派兵していながら、この戦争における韓国軍の役割についてはいかなる罪悪感も感じていないようだ。そこでは1万1000人が命を落とし、未だに枯れ葉剤の後遺症に苦しんでいる人々がいるのに>と断罪。

 続けて<1980年代に公にされたベトナム軍の報告書によると、韓国兵はベトナムの民間人5000人を殺害した。複数の研究者は最高で9000人と推測している>と説明し<1966年12月3日〜6日、韓国の第2海兵師団は、ベトナム南部の(クアンガイ省)ビエンホアで約430人の(非武装の)民間人を殺害した。報告によると、犠牲者の半数以上が女性であり、うち7人は妊婦だった。さらに半数以上の166人は子供だった>という衝撃の事実を明かします。

 加えて、悲劇の部隊となった村には<(韓国軍が犯した)この罪は空に達するに十分であり、永遠に記憶されるであろう>と刻まれた記念碑があり、ベトナム国内に約80基ある記念碑が戦時中、韓国人が犯した戦時中の犯罪を思い出させる>としたうえで<(ベトナムの)学者やジャーナリストたちはこの悲劇について調査し、1999年のメディアの報道によって(この悲劇が)世に知らされたが、ソウル(韓国政府)は公式に謝罪していない>と批判します。


一方で<金大中(キム・デジュン)元韓国大統領は1998年、(ベトナムの)首都ハノイを訪問中、この悲劇に関し遺憾の意を表明したが、以来、進展はなかった><ベトナムでは、市民団体だけがベトナムで謝罪のための医療ボランティア活動を続けており、一部の活動家は、韓国人にこの問題を知らせるために博物館を建設するためのキャンペーン活動を行った>といった動きがあったことにも言及します。

 ところがこの後、とんでもない事実が明かされます。

 <しかし、韓国政府は最近、時計(の針)を逆進させた。朴槿恵(パク・クネ)前大統領が基幹政策のひとつ(として制定・導入を進めてきた)『国定歴史教科書』では、(ベトナム)反戦運動に関する記述を割愛し、国家として(ベトナム)戦争に参戦したことを正当化した。そしてほとんどの教科書は(ベトナム戦争で韓国軍が行った)虐殺については言及していない…そして、多くの韓国人は、自国の兵士が「加害者」であることに気づいていない>

 いちいち書くのも腹立たしいのですが、昔から韓国や中国は「日本の教科書は歴史を歪曲(わいきょく)している」といった非難を繰り返してきました。

 ところが当の韓国は、ベトナム戦争時にやらかした非武装の民間人の虐殺も、軍が女性を強姦し、慰安婦にしていた事実も教科書で完全シカト。“どの面下げて日本に文句言うとんねん”という話になりますよね。歪曲どころか、自分たちに都合の悪い過去を歴史教科書にも記述せず、完全になかったことにしているのですから…。

 この韓国の「国定歴史教科書」の件については、昨年の12月27日付の米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)も報じています。

 記事の主な内容は、昨年の12月9日に国会に弾劾(だんがい)訴追された朴槿恵(パククネ)大統領(当時)に対し、韓国の憲法裁判所が3月10日、罷免(ひめん)を宣告した一連の問題に絡むものです。

 このニューヨーク・タイムズ紙は、朴氏が弾劾(だんがい)訴追され、大統領の権限が停止されたため、朴氏の肝いりで進められ、2018年度から国内の中学や高校で導入予定だった「国定歴史教科書」を各校が使用する必要がなくなったと韓国政府が発表したと報じるとともに、この「国定教科書」の導入計画の経緯などについて説明。


 また、2015年に朴氏がぶちあげたこの「国定歴史教科書」の導入計画が最初から不評だったうえ、ここ数カ月間の朴氏をめぐる一連の腐敗スキャンダルによってますます支持されなくなったなどと背景を解説し、韓国の教育省が12月27日、学校側に対し「自立と多様性を確保する」との目的から、これまでの教科書を使い続けることができるといった考えを示したのでした。

 そして、その中で、朴氏肝いりの「国定歴史教科書」だけでなく、現在使われている複数の歴史教科書について、国内の保守的な考えの批評家たちが「マゾヒズム的な歴史的見解」の教科書は教室の外に置かねばならないと述べたと報じています。

 というわけで韓国側は、日本に謝罪は求めても、ベトナムに対してはベトナム戦争時、韓国軍が現地のベトナム人女性数千人を強姦し、彼女たちを韓国兵のための慰安婦として強制的に働かせていたうえ、非武装の民間人の虐殺という戦争犯罪まで犯していたことについては今後も絶対に認めず、謝罪するつもりもないようです。

 とはいえ、こうした問題に沈黙していた当のベトナムも、最近は考えが変わってきているようなのです。

 前述のコリア・タイムズによると、ベトナムはこれまで「過去の出来事は締め出し、未来に向けて(扉を)開こう」という考えだったのですが、これについて「この考えは過去の記憶を永遠に(心の中に)隠蔽するという意味ではない」というベトナム国立大学のKu Su−jeong(ク・スジョン)博士の声を紹介。

 そしてスー博士はコリア・タイムズに「とりわけ、(ベトナム側の)犠牲者たちが謝罪を要求しないからという理由で、(韓国政府が自分たちの犯した)悪行を認めないということは恥ずべきことである」との内容の電子メールを寄せました。全くその通りですね。

 この問題に関し、ベトナムでは昨年12月、国営放送局VTVがビエンホアの虐殺を題材にした「最後の子守歌」というテレビドキュメンタリーを放映し、称賛を得ました。

相変わらずマゾヒズム的“被害者アピール”で世界中にあの「慰安婦像」をどんどん建てようと画策している韓国ですが、ベトナム戦争時の軍による戦争犯罪の数々に加え、今回の「国定教科書」の一件も加わり、遂に沈黙していたベトナムも声を上げ始めました。自分たちのやらかしたことがいよいよブーメランになって帰ってきそうな気配です…。  (岡田敏一)



[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

3. 中川隆[-5791] koaQ7Jey 2017年11月28日 11:40:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

朝鮮人が集まると嫌な国が出来上がる
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/


(左: 「理想の美」を手に入れた朝鮮人モデル / 右: 自然な顔面を保つ朝鮮人娘)

  いつからか分からないが、テレビ局が来日外国人を捕まえて、日本の文化や名所、料理を絶讃させる番組が増えたそうだ。日本は高度な文明国家だから低俗な外国人が驚嘆してもおかしくはないけれど、もし一般の日本人が「日本の素晴らしさは?」と訊かれたら何と答えるのか。こんな質問を急に街頭で尋ねられれば、大抵の人は「う〜ん、そうだなぁ」と考えてしまうだろう。我々としては普段通りの生活をしているだけだから、一々外国の事情と比べて何が優れているのか、なんて調べない。応ずる人によって意見はまちまちだろうが、一つだけ簡単に述べれば、「日本人が住んでいるから」と言えるんじゃないか。確かに、我が国の自然環境も理由の一つになっているけど、究極的に日本の素晴らしさは日本人にある。

  ところが、近年、この“素晴らしさ”を台無しにしようとする動きがある。大手「口入れ屋」のパソナを背にする竹中平蔵たちが、少子高齢化と人口減少を口実に、安い外国人労働者を引き込もうとしているのだ。しかも、この大量輸入に加え、朝鮮半島から多くの南鮮人が移り住んでいるという。韓国移民政策研究院の調査資料(2017年度版)によると、過去10年間で大韓民国の国籍を放棄した者は、22万3千611人に達したそうだ。2007年に2万3千528人を記録した国籍放棄者は、2016年になると3万6千404人に増えたそうだから、さすが「地獄の朝鮮(ヘル・コリア)」である。その内訳を見てみると、国籍を棄てた南鮮人は主に米国に向かったそうで、アメリカ国籍を取得した者が9万4千908人と最も多い。多民族政策を取るカナダも人気が高く、3万2千732人の南鮮人がカナダ国籍を取得したそうだ。

Korean migrants to GermanyKoreans 3

(左: 半世紀前にドイツへ渡った朝鮮移民 / 右: 民族衣装を纏った朝鮮女性)

  問題なのは、日本を目指した南鮮人の方である。もう目が眩んでしまうけど、5万8千870人が日本国籍を取得したそうだ。(「韓国国籍放棄者が急増・・・・『国家競争力の損失』」 中央日報、2017年11月8日) 南鮮の報道機関は「国力の損失だ」と歎いているが、日本人からすれば「反日分子の到来」か「汚染被害の拡散」にしか見えない。あの“穢らわしい”半島から来日してくる連中が、立派で有能な人材なんて考えられないし、どちらかと言えば「棄民」じゃないのか。どうせ、南鮮国内にいたって大半が“穀潰し”か“半端者”なんだから、南鮮の政治家にとったら「日本に厄介払いが出来て良かった」という気分だろう。一方、日本人の南鮮移住者はいったい何名いるのか? 答えは、「分からない」というのが一般的。法務省は帰化申請をする外国人に関するデータなら持っているが、日本国籍を放棄し、南鮮国籍を取得した日本人については統計を取っていないのだ。つまり、祖国を捨てた奴らの行く先には関心が無いということである。

Korean & Black family 2Korean face 1


(左: 黒人と結婚した朝鮮人女性とその子供たち / 右: 朝鮮人の父親と息子)

  でも、日本人で“わざわざ”南鮮人になろうとする者は、“よほど”の事情を抱えた人物に違いあるまい。だって、普通の神経を持った日本人なら、朝鮮人にまで零落(おちぶ)れる道を選ばないだろう。一番考えられるのは、朝鮮人男性と結婚してしまった日本人女性である。例えば、日本に来た南鮮人留学生が日本人女性と恋仲となり、南鮮へ連れ出すというケースが考えられる。もちろん、嫁の両親は大反対。朝鮮という野蛮国に娘が住むなんて恐ろしいし、第一、日本人の誇りが許せない。でも、バカ娘には現実の厳しさが解っていないから、両親の説得にも馬耳東風。いくら鮮人に惚れたからといって、日本でヌクヌクと育った日本人に朝鮮での暮らしは耐えられない。しかも、南鮮の国籍を取得すれば、南鮮人が同胞となり、太極旗に忠誠を誓う破目になるじゃないか。

  ところが、悲劇はこれで終わらない。仲間となった鮮人からは「元日本人」とか「豚の足」と蔑まれ、夫の両親や親戚からも下女のように扱われるのだ。その上、自分の子供は「朝鮮人」として育てられるから、いくら日本語(母語)を話せても、実家の両親や兄弟たちとは違った人間になってしまう。それに、日本人の母親は南鮮国籍を取ったからといって、自分を朝鮮人とは思わない。さらに複雑なのは、劣等国の朝鮮に住むと、日本に居た時には思わなかった「日本人意識」が芽生え、「あんな人達とは一緒にされたくない !」と思うようになる。日本に居る友達にだって、「朝鮮人になりました」とは言いたくないし、格下の人種になったような気がするから、朝鮮での暮らしに嫌気がさす。パリとかロンドン、ベルリンなら、ちょっとした自慢になるけれど、朝鮮人だらけのソウルや釜山なんて格好悪いし屈辱だ。だいいち、チマ・チョゴリを着た姿なんて、恥ずかしくて人に見せられないから、友達に動画や写真を送ることはまず無いだろう。

  朝鮮人は日本人を嫌いなくせに、やたらと日本にやって来る。しかも、何食わぬ顔で帰化申請を行ったり、結婚を切っ掛けにして“いつの間にか”日本人になっていたりするのだ。南鮮に居る時には、やれ「日帝は赦せない !」とか「竹島は韓国の領土だ !」と叫ぶが、日本に移住するや、その威勢は消え失せ、「国籍や民族の違いを言い立てる人はレイシストです !」なんて言いやがる。中には、「私は元韓国人で、朝鮮人ではありません !」とほざく奴もいるから呆れてしまう。朝鮮人に説教しても仕方ないけど、彼らの中には堂々と「チョーセン人は差別用語だ !」と抜かす奴も居るから、その頭を広辞苑でひっぱたきたくなる。在日や帰化、南や北を問わず、日本に於いて朝鮮人は皆「朝鮮人」か、略して「鮮人」であり、我々がどう呼ぼうと我々の勝手である。テレビ番組で「韓国のかた」と馬鹿丁寧に呼んでいるアナウンサーほど、心の底で鮮人を「格下」に見ているはずだ。実際、在日米軍士官に対して反感を持っていているテレ朝の玉川徹だって、自分より劣っているとは思っていないから、「アメリカのかた」なんて呼ばないだろう。日本人ジャーナリストは西歐系白人に対しては遠慮が無い。“対等意識”を持っているせいなのか、アメリカ人にはズケズケと本音をぶつけることが出来る。

アジア人の子供を養う日本人納税者

  今月に入り、不吉な福祉制度が発表された。政府は大学などの高等教育と2歳児以下の保育園の費用について、住民税が課されない世帯(年収約250万円未満)を対象に無償化するとの方向で検討に入ったそうだ。(西村圭史 「高等教育などの無償化、住民税非課税世帯で検討」 2017年11月9日附「朝日新聞」) 安倍首相は、3〜5歳児は全世帯で幼稚園と保育園の費用を無料にし、高等教育と2歳児以下は低所得者世帯に限って無料にする、との案を述べていた。一般国民はこうした提案を聞くと諸手を挙げて賛成するが、その世帯はどんな人物で構成されているのか、とは考えない。「日本国民とは日本人」という定義は過去の話で、現在は帰化鮮人世帯とか支那人かタイ人を娶った混淆家庭、日本人の姦通相手から子供の認知を受けたフィリピン人母子家庭、パキスタン人やマレー人の夫を持つ日本人妻と混血児の家庭など、ゾっとするような世帯が増えている。

Filipino children 2Filipino children 3

(写真 / フィリピン人の子供たち )

  日系人の庶民は漠然と「我々の国民健康保険制度や年金制度、給食制度は大切だから、みんなで支えましょう」と合唱するが、その「みんな」にはアジア系帰化人が混ざっていることに気づかない。日系日本国民は明治や江戸時代、あるいはもっと遡って、室町や鎌倉時代から日本人なので、つい「日本国民」は総て「日本人」と思ってしまう。だが、裸踊りや酌婦を仕事にして来日したフィリピン人、中古車ディーラーのパキスタン人、民族料理店を営むトルコ人、単純労働や詐欺が専門の支那人などは、「昔ながらの日本人」ではない。朝鮮人はかつて「大日本帝國の公民」であったが、その大多数は敗戦後に帰国しており、現在居坐っている連中は密入国者かその子孫、あるいは仕事を求めての新参者かのいずれかである。現在の日本にある社会保障制度は、我々の両親、祖父母、曾祖父母が心血注いで築き上げた民族的「遺産」である、ということを忘れてはならない。我々は余りにも無頓着であるため、この貴重な相続財産を不注意にも、アジア系帰化人や永住外国人に与えている。これがもし、個人の遺産相続という場合なら、決して外人に分け与えることははないだろう。

Kids of Thailand 2Thailand kids 4

(写真 / タイ人の子供たち)

  考えてもみよ。近所をうろつく朝鮮人が、突然、我が家の庭先にダンボール・ハウスを拵えて住みついたら、どうするのか? たていての日本人であれば、腕ずくでもこの不逞鮮人を叩き出すだろう。ましてや、この朝鮮人を養子にしたり、自分の戸籍に入れるなんて事はまずあり得ない。だが、国家規模になると事情が違ってくる。短期滞在や永住外国人でも「国民健康保険」に加入できるし、在日朝鮮人でも生活保護がもらえたりする。また、不正入国の外国人でも日本で子供を出産すれば、我が子を公立学校に通わせることもできるし、その子供が成長してしまえば、たとえ「不正」がバレても、特別滞在許可をもらえたりする。つまり、ある程度の潜伏期間をじっと堪え忍べば、有り難い「ご褒美」がもらえるということだ。政府は低所得者の家庭に育児手当を与え、保育園や学校の費用を肩代わりしようとしているが、その「世帯」には支那人とかフィリピン人、タイ人の低所得者や母子家庭が含まれている。

Filipino girls 4Filipino girls 5

(左: フィリピンの若い女性たち / 右: ショー・パブで働くフィリピン人女性 )

  以前、市議会議員のフィリピン人妻が、スナックで働いていたにもかからわず、生活保護を受け取っていたという事件があった。役所にとって「福祉予算」というのは「他人のゼニ」なので審査が甘い。自分の銭なら100円だって惜しいのに、税金だと数百万円でも無駄にできる。例えば、1千万円の税金をドブに捨てても平気な役人でも、お昼の定食では節約するようで、食堂で注文する時、財布を“ちら”っとのぞき、850円のAセットを650円のBセットに抑え、赤提灯の酒代を計算しながらジっと我慢。節約精神が旺盛な役人だと、「今日は3千円の特上天丼にしようかなぁ」なんて考えない。だいたい、役人は税金を「予算」と呼んで、無駄遣いの正当化をしているんだから、国民は役所の「予算消化(与えられた税金を何が何でも使い切ること)」に目を光らせるべきである。筆者は以前、役所の「闇」を突いたことがあるが、その時、担当した「お役人様」は、筆者を共産党員か左翼オンブズマンと勘違いしたようだ。周りの若い女子職員は、「何か、いや〜な人がやって来た」という雰囲気を漂わせ、緊張した表情で黙々と仕事をこなしていた。後で議員にも直接苦情を述べたので、役所ではちよっとした騒ぎとなったそうだ。役人や議員を相手にする場合、なるべく具体的かつ緻密に、論理を用いて追い詰めることが肝要である。(断っておくけど、筆者は左翼活動家じゃないぞ。)

Thailand bar girls 2Thailand bar girls 1

(写真 / 酒場で働くタイ人女性たち)

  脱線したので話を戻す。帰化人家族とか永住者世帯には低所得者が珍しくなく、社会福祉金をもらっている人が多い。例えば、日本人の既婚男と不倫の末に身籠もったフィリピン人女性は、その姦通相手とは結婚せず、母子家庭のまま日本に住んだりするから、福祉依存者か生活保護の受給者だったりする。しかも、日比混血児が優等生になる確率はかなり低く、出来損ないか凡庸な子供といったところが関の山だ。規律や品格を示す父親が不在なうえに、だらしない性格の母親に育てられる混血児が、知的好奇心に満ち、自然界や宇宙の神秘に興味を抱くなんて思えない。国語さえ覚束ないのに、理科や数学で頭角を現すのか? まぁ、知的訓練を必要としないスポーツなら一番になれるかも知れないけど。一般の日系日本人は呑気だから、公金を使うのは日本人の子供を助けるためだと考えている。しかし、実際のところ、同胞とは思えない異民族の子供を養っているのだ。

Korean kids 4Chinese kids 3

(左: 朝鮮人の子供 / 右: 支那人の子供 )

  冷酷な現実に目を背ける日本人は、予想される悲劇を回避せず、事件が起きてから後悔することが多い。昼行灯(ひるあんどん)と左巻きが溢れる法務省は、毎日が節分のような役所で、帰化申請をするアジア人に国籍を気前よくばらまいている。日本国籍を与えるということは、日本国を支える正式メンバーを承認することであり、我々と対等な「公民」にするということだ。本来なら、帰化を許す前に、申請者の素性や経歴を一般公開し、全国民がその者を審査し、正当な反対意見があれば帰化申請を却下すべきである。例えば、在日朝鮮人やその子孫を「国家の成員」にするのであれば、国民投票にかけたっておかしくはあるまい。日本人は世間の常識で考えるべきた。例えば、ある片親だけの家庭で、妻を亡くした父親がいたとする。その鰥(やもめ)となった父親が再婚する際、いくら何でも一応、子供たちに話をつけるじゃないか。それをスキップして、いきなり父親が「今度、父さんはフィリピン出身の女性と結婚することにしたんだ。明日から、あの人がお前達の母さんになるんだよ」と言えば、息子だって「えっっ ! 何 ! なんで? 嫌だよぉ、そんな !! だってさぁ、いきなりあんな外人が母さんの代わりだなんてあり得ないよ。オレ、どんなことがあっても反対だからね !!」とヘソを曲げるだろう。一般の日系日本人も基本的に同じで、朝鮮人や支那人、フィリピン人、タイ人を日本国の「家族」とは思わない。

Filpino family 1Chinese migrants 2

(左: フィリピン人の祖母と孫 / 右: 支那大陸を去る支那人)

  日本人は日本人同士だから国民的・民族的絆を大切にするのであって、金銭や福祉、あるいは豊かな生活を目的にして帰化するアジア人は何時まで経っても「よそ者」だ。異民族がひしめき合う米国ですら、民族・人種での一体感は無い。例えば、先祖代々アメリカに住むイギリス系国民が、デンマークやスウェーデンからの白色移民を受け容れる事はあっても、皿洗いとしてチャイナタウンに潜り込む支那人とか、イスラム教を信奉する髭面のイラク人、難民枠で雪崩れ込むソマリア人、不法滞在でも永住権を求めるメキシコ人を「対等なアメリカ人」とは思わない。一般的にアメリカ人は団結力が強いと思われているが、それは各人が星条旗を前にするからで、お互いの顔を見つめ合うことで一体感を実感している訳ではないのだ。ハリケーンによる洪水とか土砂崩れで黒人が取り残されたって、一般のアメリカ白人が命懸けで助けることはなく、救助を「職業」というするレスキュー隊に丸投げ。ただ、災難に遭った黒人を哀れに思う白人も居るけど、それは被災者に同情する「自分」の姿に酔っているだけで、自ら進んで助けたいわけではない。(可愛い犬や猫なら別だけど。) 浸水した家に取り残された黒人は可哀想だが、その汚水には屎尿やネズミの死骸とか、犬の糞から大腸菌、未知のバイ菌が混ざっているから、自分の脚を濁流に漬けるのは嫌だ。黒人の災難はテレビで観るだけに限る。

日本国民の遺伝子プールに混ざる異質な精子

Asada 3Asada 12

(左: メダルを獲得した浅田真央 / 右: 民間企業のCMに出た浅田氏)

  我々は大量の朝鮮人が日本国籍を取得した世界を想像してみるべきだ。隣近所に不愉快な帰化鮮人が増えるだけではなく、自分の息子や娘の配偶者になるかも知れないんだから、考えただけでも恐ろしいじゃないか。箱入り娘の子宮に朝鮮人の精子が入って、腹が膨れてしまうなんて寒気がする。しかも、生まれてきた孫が亭主の朝鮮人にソックリとなったら気が滅入るだろう。日本社会は急速に変化している。スポーツ界ではこの傾向が強く、日本を代表して国際大会に出場する人物が、総て朝鮮系であっても不思議ではないのだ。例えば、フィギュア・スケートの世界大会で、南鮮のキム・ヨナが金メダルを取ったけど、もし彼女が帰化鮮人の娘であったたら、日本人は熱心に応援するのか? 帰化鮮人の子供は血統的に見れば「朝鮮人」であるが、書類上は「日本国民」である。したがって、キム・ヨナの如き朝鮮系スケーターであっても、成績が良ければ日本代表選手となってしまうだろう。そして、彼女は浅田真央の如き日系人選手と並んでオリンピックに出場することもあるし、場合によっては日系人選手を蹴り落として代表選手に上り詰めるという事態も起こり得る。(実際、短距離を得意とする陸上選手がほぼアフリカ系という未来はそう遠くない。) こうなった時、日系日本人は朝鮮系が独占するフィギュア・スケートの代表団を「日本チーム」と見なすのか? また、代表選手三名が揃って朝鮮系となってしまい、奇しくも金銀銅メダルを獲得した場合、素直に「やったー。すごい !」と喜べるのか?

Asada 5Asada 4Kim Yona 7


(左: ペットを抱く浅田真央 / 中央: 大会で演技を披露する浅田 / 右: 浮かない顔のキム・ヨナ)

  「親近感」というのは自分と同類の者、自分と似ている種族に対して強くなる。多くの日本人が浅田真央に期待を寄せたのは、彼女の才能が卓越していた“だけ”ではあるまい。彼女が見せる表情や、ひたむきに練習する姿、辛い事があっても、それを押しつけがましく視聴者に伝えない慎ましさ、失敗を犯しても他人のせいにしない潔さが好評だったからじゃないのか。彼女が見せる自然な謙虚さとか、成功した時の笑顔は素晴らしかった。日本人は浅田氏のような競技者が好きだ。一方、南鮮人のキム・ヨナはどうだったのか。報道によれば、世界大会に出場したキム選手の評判は芳しくなく、他国のスケーターは彼女に近づこうとしなかったそうだ。見るからに傲慢で、勝者としての品格も無ければ、人間的魅力すら無い。まぁ、下品でがさつな朝鮮民衆にとっては“おあつらえ向き”の選手なのだろうが、日本では歓迎されないタイプだ。ただ、栄華を誇る氷上の女王も、引退すれば徐々に曾ての人気は翳り、厭な側面しか残らないからピンチに陥る。金メダリストのキム(金)選手が頼りにするのは金貨くらいなものだろう。

  ここで再び、日本人は「なぜ朝鮮人は朝鮮を去るのか ?」を考えねばならない。朝鮮人が祖国から逃れるのは、畢竟(ひっきょう)、南鮮が朝鮮人によって構成されているからだ。朝鮮人が何千何万人集まっても、日本の寒村ほどの魅力を生み出すことはできない。朝鮮人は朝鮮人が嫌いで、支那人も支那人が嫌いだ。支那人とソックリな民族であるユダヤ人も同類で、ユダヤ人だらけの地域が嫌いである。彼らに共通しているのは、他民族から疎まれる鼻つまみ者で、その心がねじ曲がっているという点だ。それを民族性と言ってしまえばそれまでだが、できれば彼らとは接触したくない。ところが、現状は逆になっている。かつて日本人は心が清く立派な民族であったのに、朝鮮人を始めとするアジア人を包括したことで、劣化の道を選んでいるんだから自業自得だ。

Kim Yona 5Kim Yona 3Kim Yona 2

(写真 / 幼い頃と成人した時に撮られたキム・ヨナ)

  悪夢はそれだけではない。我々は朝鮮人でさえ嫌う朝鮮人の遺伝子を取り込もうとしている。最近、日本のマスコミがキム・ヨナ選手の肉体的変貌を伝えていた。報道によると、彼女の容姿が激変しており、キム氏を目にした記者の中には、「あの子誰?」と尋ねる人もいたそうだ。科学的証拠が無いので断定はできないが、一部には美容整形じゃないかという指摘もある。筆者は高須クリニックの高須克弥院長のような知識を持たないので自信がない。けど、キム氏の写真を眺めたところ、素人ながらも異変に気がついた。彼女が幼い時に撮られた写真と、花形選手になてからの写真を比べると月とスッポンだ。もしかしたら、南鮮の化粧品は皮膚や骨格まで変形させる超近代的劇薬が使われているのかも知れないぞ。朝鮮人女優なら特殊メイク無しで、映画の『Xメン』に出演できるんじゃないか。(ミュータントの「ミスティーク」を演じたレベッカ・ロメインRebecca Romijnは印象的だった。) それはともかく、南鮮では政府による公共投資額が少ないのか、民間人が自発的に顔面工事を施し、GDPを増やそうとするらしい。しかし、いくら国家主導のインフラ整備が足りないからといって、親からもらった容姿まで再開発しようとするんだから、南鮮人の「変革好き」には目を見張るものがある。

Rebecca Romijn 3Rebecca Romijn in X MenKorean face 6


(左: レベッカ・ロメイン / 「Xメン」でのミスティーク / 右2枚: 顔面工事を行った朝鮮人女性)

  こうした改造熱が南鮮国内に留まっていれば問題は無いが、大量の朝鮮移民が日本に雪崩れ込み、彼らの嫌うツングース的遺伝子が日本人の遺伝子プールに注がれたら堪ったもんじゃない。こうなれば、朝鮮人との混血は単に日系人の容姿を変えるだけでなく、祖先をも変えてしまうのだ。もし、ある日本人男性が朝鮮人女性と結婚した場合、二人の間に生まれる日鮮混血児は、少なくとも朝鮮人の祖父母二名を持つことになる。ただし、この混血児が持つ朝鮮人の肉親は、母方の祖父母に留まらない。伯父叔母、従兄弟、はとこ、曾祖父などに広がり、5代6代7代・・・20代・・・25代・・・50代と遡って、何百何千もの朝鮮人が祖先になってしまうのだ。これじゃあ、まるで天空を背負うアトラスみたいで、乞食より汚い朝鮮人が千人も自分の背中にのしかかっているようなものである。日鮮混血児にとって朝鮮史は「外国史」ではなく、「祖先の過去」となってしまい、自分のルーツを見つめる科目になるのだ。日系人の子供は鮮やかな日本史を学んで楽しいだろうが、日鮮混血児は暗くて“どんより”とした朝鮮史を意識する破目になり、陰鬱を通り越して悲しくなる。しかも、日本の敗戦後にのさばった朝鮮人は見るに耐えない。「日本人」でありたいと望む朝鮮系児童は、第三国人として横暴の限りをつくした不逞鮮人など知りたくはないだろう。だから、拙書『支那人の秘史 朝鮮人の痴史』を偶然手にし、第五章を読んだ帰化鮮人の親は烈火の如く怒るはずだ。たぶん、本をズタズタに引き千切って燃やしてしまうんじゃないか。在日朝鮮人には、何としても我が子に隠したい過去がある。朝鮮系帰化人の子供が増えれば、学校での歴史教育は、益々闇の中を彷徨(さまよ)うことになるだろう。それにしても、日本では歴史の授業が過去を忘却する教科になっているんだから腹が立つ。

Korean Park Min Young Plastic SurgeryKorean Actress, Park Min Young


(左: 生来の顔を持つ朴ミン・ヨン / 中央と右: 外科的変身を遂げ美人女優になった朴氏)

自由を失う日本人

  朝鮮人を始めとするアジア系国民が増えると、もう一つの災難、すなわち日系日本人が自国を失う破目になる。例えば、親子代々「日本人」である日系人が、アジア系帰化人や移民、難民の排斥を訴えると、「ヘイト・スピーチ(憎悪言論)」を行う“不届き者”として非難され、弱い者イジメをする“悪人”にされてしまうのだ。しかし、日系人にしたら、自分たちの祖国に闖入する不逞鮮人や支那人、あるいは売春婦もどきの東南アジア人を駆除したいだけで、ことさら外国人を排除したいわけではない。事実、ハイテク産業や投資会社に勤める西歐系ビジネスマンや在日米軍士官、オーストラリアやカナダからの白人ファッション・モデルを追放しようとする日本人はいないだろう。NHKやTBSは「外国人排斥の気運が高まって危険です !」と報道するが、その「外国人」の正体を具体的に説明しないのだ。例えば、「外国人参政権」を取り上げても、それを「在日鮮人参政権」とは評さない。また、観光地における外人トラブルに言及しても、それが主に支那人によるものとは明言しないし、支那人の仰天行動に不満を漏らすホテル従業員の本音もNGだ。電車内のマナー違反だって、大抵は沢山の荷物を持ち込む支那人観光客だったりする。

  日系人には「言論の自由」があったはずなのに、最近ではそれも怪しくなってきた。例えば、朝鮮人が“あちこち”に住みつく川崎市では、「ヘイト・スピーチ」規制の一環として、「外人排斥団体」に対し公園などの場所を貸さないようにするらしい。でも、どうして日本人が自分たちの郷里を守る為に蹶起(けっき)することが“いけない”のか? 不愉快な侵入者が増えてくれば、自衛意識が高くなっても当然じゃないか。NHKなどは偏向報道を糾弾する日本人視聴者を門前払いする一方で、新華社通信の支那人や民間人を装う工作員なら大歓迎だ。本来、日本は日本人の国というのが前提で、健全な公務員は日系日本人を優先すべきなのに、いかがわしい外国人や図々しい帰化人の方を重視する。もっとも、共産党や公明党、民進党系の左翼議員がアジア人の味方に廻っているので、公務員の中には良心の呵責を感じている者もいるだろう。とは言っても、左翼議員からの叱責が怖いから、厭でも従うしかない。

Koreans in Protest 8Blacks 2


(左: 朝鮮人の抗議デモ / 右: アメリカ黒人の抗議デモ)

  米国でも事情は同じだ。例えば、CNNやABCは大規模な街頭デモを報じるが、それを「怒れる若者たちによる抗議行動」とだけ伝える。しかし、実際の映像を観ると、デモの参加者たちは主に黒人であったり、先頭に立って煽るのが極左の活動家という場合が多い。主要マスコミは「黒人暴動」と言えないので、わざと「若者による抗議」と言葉を濁している。でも、これだと「嘘」にはならないから、「フェイク・ニュース」との批判を避けることはできる。しかし、本質的には「詐欺ニュース」に近い。アメリカは元々白人国家だったのに、大手企業が安い労働力を欲したため、移民規制を撤廃してしまい、有色人種が溢れる多民族社会になってしまった。かつて、イギリス系入植者は原住民のインディオを追い払って「少数派(マイノリティー)の土人」に貶めたが、今では自分が移民に押し込められ、「白人少数派」に没落してしまった。なんとも皮肉なものである。日本人は気付いていないが、米国に押し寄せる支那人は一度も発砲せずにアメリカを征服できるのだ。方法は簡単。支那人は“いつも”のように“支那人らしく”振る舞えばいい。つまり、街中で「ペッ」と痰を吐き、ガチョウのようにガァーガアァと喋り、アパートメントを支那人所帯で埋め尽くし、学校にも我が子を送り込めばいいのだ。そうすれば白人が自主的に領土を明け渡す。所謂「白人の逃避」である。

chinese 6chinese man 1

(左: 公害に苦しむ支那人 / 右: 貧困に喘ぐ支那人 )

  一般国民は薄々分かっていても口にしないが、アジアからの移民は日本を質的に向上させることはない。なるほど、大手の派遣会社は仲介手数料を取って儲かるし、コンビや介護施設は人手不足の解消となる。しかし、大半の日系国民にとっては、アジア移民は厄介者でしかない。日本人は日本人どうして暮らしたい。これが我々の本音だ。朝鮮人や支那人、フィリピン人と混じり合って暮らすのは最悪。彼らと付き合っても楽しくないし、不愉快な場面が増えるだけ。心が優しい日本人になると、劣等民族を傷つけないために、通常以上の気配りが必要となってくる。例えば、美白化粧品を愛用する日本人女性が、タガログ族系フィリピン人や茶色いインド人を前にして、「あの化粧品よかったわよぉ〜」なんて言えないじゃないか。また、黒人との混血児は日傘をさす日系人の母親を見て、「ボクのママには必要ないな」と思うから、周りの日本人は日焼けの話は避けるようになる。多民族幼稚園ではTVアニメ『ジャングル黒べぇ』のDVDなど厳禁だし、名作の『ブラック・ジャック』でも購入しないだろう。支那の名物料理、子供の小便を用いたゆで卵は香ばしいかも知れないが、幼稚園での再現は論外だ。イタリアでは人間の足が混入した支那料理が話題になったけど、日本ではこれから人間の指とか爪が発見されるかも知れない。(Julian Robinson,"Chinese restaurant is accused of serving human FEET to diners in Italy after gruesome image of rotting flesh is posted online by a waiter", Daily Mail, 13 January 2017 / 註 : 筆者はその写真を入手したけど、ライブドア社の検閲があるので載せられません。勇気のある方はネットで調べてね。) でも、支那人シェフなら、「ワタシの店ではそれが目玉料理よ !」と言うかも知れないぞ。実際、牛の目玉や金玉がスープの中に入っていたりしてね。

korean old man 3Koreans 1

(左: 昔の朝鮮人 / 右: 現在の朝鮮人)

  とにかく、色々な理由を述べることができるが、簡単に言って日本人は朝鮮人が嫌いである。朝鮮人は激怒するが、日本人からすると朝鮮人は下品で粗野。彼らは歴史的に支那人やモンゴル人、そして両班階級に弾圧されたり、理不尽な搾取を受け続けてきたので、性格が骨の髄まで歪んでいるのだ。その証拠に、彼らが集まった国を見てみれば解るじゃないか。自分たちが受けたと称する日帝からの屈辱と恥辱を西歐人にアピールし、白人からの同情を買うことで日本人への「当て付け」にしようとする。口にすることさえ忌まわしいが、「慰安婦問題」は典型的な対鮮トラブルだ。実際は醜悪な淫売女でも、朝鮮人は想像と妄想を膨らまして無垢な少女に変換し、米国にまで慰安婦像を造って設置するんだから、馬鹿というより気違いに等しい。日本の保守派は文大統領がトランプ大統領の歓迎式典に元売春婦の老婆を呼んできたことに驚き、その愚行を非難していたが、筆者から見れば、いかにも朝鮮人らしい行動に思える。アホの坂田師匠は「藝」として阿呆を演じているが、朝鮮人は“自然”にアホな行動を取っている。朝鮮人は野生動物や昆虫と同じだ。例えば、サソリに刺されたカエルが、「どうしてボクを刺すんだ?」と質問したとする。非難されたサソリにしてみれば、「刺したかったから」と答えるしかないだろう。だいたい、自分で自分の行動を反省できるくらいなら、あんな国家になっていない。

朝鮮人が集うと最低に

Koreans 008

(写真 / 日本のの恩恵を受ける前の惨めな朝鮮人たち)

  朝鮮人は「魅力」という言葉に無縁の民族である。南鮮にはクズ野菜を漬けたキムチくらいしか自慢するものが無い。余りにも貧しすぎたせいで工業技術すら発達しなかったし、貨幣経済も発展せず、他国民に披露できる文化にも乏しい。日本で育った朝鮮人の青年は、「アリランの詩(うた)」とか「パンソリ」なんて恥ずかしくて言葉に出来ず、「プク」と呼ばれる太鼓すら叩くのも嫌である。朝鮮人が口ずさむ民謡なんて陰気なメロディーで、日本人の友達には紹介したくない。以前、帰化鮮人歌手の錦野旦(あきら)が、歌謡界は朝鮮系歌手がいないと成り立たないと豪語していたが、朝鮮系歌手は日本で生まれ育ったから、有名歌手になれたのだ。朝鮮に住んでいたらデビューする機会さえ得られない。せいぜい一日中、空を眺めて屁をこいているだけの人生だ。例えば、和田アキ子は有名歌手になったが、それとて所属事務所のお陰だろう。彼女には作曲能力が無いから、他人が作った曲を歌っているだけ。もし、彼女が朝鮮で育っていたら、いま手にしている名声と地位は無い。1970年代や80年代の南鮮でも歌謡曲はあったが、それは片田舎の野暮天が夢中になる程度の代物で、日本人が聴いたら大爆笑。朝鮮人は先進国の日本に生まれ育ったから「著名人」になれたのだ。

K-Pop Star 3K-Pop star 4


(写真 / K-Popの人気グループ)

  もし、朝鮮の流行歌が素晴らしいのであれば、なぜ日本のレコード会社は朝鮮名曲集アルバムとか、1970年代南鮮ヒット曲といったCDを発売しないのか? 1980年代の南鮮人は日本の民衆文化に憧れており、こっそりと日本のTVドラマや映画などを観たり、歌謡曲やニュー・ミュージックのファンになっていたそうだ。今でも南鮮では、外国文化を輸入・盗作しており、「K-Pop」というのはアメリカ人歌手の猿まねに過ぎない。朝鮮人は三人寄っても「紛(まが)い物」しか産み出せず、せいぜい日本の文化を“さらり”と盗むだけ。日本人か馬鹿されれば、「何を言うか ! 日帝は我々の“国”を盗んだじゃないか !」と激昂し、羞じらいも無く開き直る。こんな連中が日本に押し寄せ、新大久保や川崎、大阪などに住みつく。かくて、朝鮮人が増え始めると、そこに住んでいた日本人が「よそ」へ引っ越すから、いつの間にか朝鮮人街の一丁出来上がりとなってしまう。

  西歐系白人が住む目黒とか麻布、青山の一等地なら「お洒落な街」となるのに、朝鮮人が棲息する新大久保は賤民のゲットーと化してしまう。現実はまことに厳しい。ナメクジみたいな顔附きの朝鮮人が携帯電話屋とか装飾雑貨店を営み、買い出しに来る客も朝鮮人だから、まともな日本人は目を伏せながら通りすぎるだけだ。(筆者はじっくりと現地の商店街を見物したことがあるので、今でもよく覚えている。) 住み慣れた街を朝鮮人に占拠された日系住民は悲惨なものだ。引っ越そうにも資金が無いし、朝鮮人が群集したことで店や家の資産価値も激減してしまう。「昔は良かった」と歎く高齢者は、朝鮮人の体臭を嗅ぎながら“お迎え”を待つしかない。それにしても、朝鮮からの「疫病神」に囲まれる日本人が、冥途からの「死神」を待ちわびるなんて憐れじゃないか。書店では亭主に不満を抱く奥様が『だんなデス・ノート : 夫の「死を」願う妻たちの叫び』を買っているそうだけど、これからは朝鮮人を呪い殺す『鮮人撲滅デス・ノート』が発売されるんじゃないか。筆者も小遣い稼ぎに一つ出版してみたいなぁ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

4. 中川隆[-5790] koaQ7Jey 2017年11月28日 11:42:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

【在日外国人の犯罪率の日本人との比較(日本人を1とした場合)】
外国人全体・韓国朝鮮人・韓国朝鮮人以外の外国人比較 (平成18年の国籍別犯罪比率の計算から)
http://web2.nazca.co.jp/midorinosono/#433

                         韓国朝鮮人
                         を除いた
  国籍・国   外国人全体  韓国・朝鮮人    外国人    日本人
 犯罪の種類
  刑法全体    1.5       2.9       0.7      1
 凶悪犯全体     1.8       3.2       0.9      1
    殺人    1.7       2.8       1.1      1
    強盗    2.4       4.5       1.1      1
    放火    0.6       1.2       0.2      1
    強姦    1.8       3.0       1.1      1
  粗暴全体    2.3       4.5       0.9      1
    暴行    2.2       4.1       1.0      1
    恐喝    1.6       3.6       0.4      1
    詐欺    1.1       2.4       0.3      1
    横領    0.8       1.9       0.1      1
覚醒剤取締法    2.5       5.0       0.8      1


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

5. 中川隆[-5789] koaQ7Jey 2017年11月28日 11:44:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

在日の実像、密航者が全体の過半数か


朝鮮戦争で密航してきた韓国人は10万人以上に達し、在日韓国人になった。
現在の在日韓国人の多くが、戦前からの密航者の子孫と考えられている
引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20170319/06/the-snark/27/59/j/o0600040813893261993.jpg


在日韓国人の半数は戦後の密航者?

在日韓国人いわゆる在日は1965年締結の日韓基本条約によって、1945年終戦までに日本に渡来した韓国人と定義されています。

日本政府は北朝鮮を承認していないので、北朝鮮国籍でも国内法的には韓国人になっています。

永住権があるのは1945年8月までに日本に居住していた人だけで、後日その子供(2世)が追加されました。

3世以降は永住権がないのだが、今日はその話ではなく、1945年8月16日以降に、日本に密航した人が相当数存在したという話です。

パチンコマXハンの創業者など、終戦後の数ヶ月にドサクサに紛れて日本に来た人が戦後第一弾の渡航者でした。

戦後初の国勢調査は昭和22年(1947年)なので、その頃まで政府は国内に何人の半島出身者が居るのか、把握していなかったと考えられます。


1948年までに帰国の勧告を受けて約150万人が韓国に帰国し、1955年警視庁調べでは約65万人の韓国人が国内に居住していました。

さらに警視庁によると戦前から居住していたのは55万人だけで、10万人は終戦後に密航してきたと書かれています。

ここからがおかしいのだが、戦前から居住していた韓国人は「北朝鮮帰国運動」などで10万人近く帰国しました。


韓国に帰国した人も居たので、戦前からの韓国人はどんどん減っていった筈でしたが、現在も約48万5000人の在日韓国人が存在しています。

別の資料では1974年法務省調査で、在日韓国人の85%が渡航年度不明であり、そう書いては居ないが密航者の疑いが強い。

密航者だから戦後とは限らず、戦前に密航してそのまま住み着いた韓国人は、相当数居たと考えられます。


韓国の大混乱期

なぜなら日本に渡航希望する半島人は現在の韓国南部と済州島が多かったが、半島で最も遅れた貧困地帯でした。

比較すると日本はソウル以上に発展した国だったので、貧しい農村や漁村から、密航船で日本に来る人が大勢居ました。

戦後密航者の一つのピークが1948年と1950年-1953年で、韓国では暴動や粛清、内乱で大混乱していました。


日本帝国から離脱し日本軍や日本の警察が引揚げた半島は無法地帯になり、独裁者の李承晩と金日成は戦争を始めました。

最初の混乱は日本軍引き上げと、入れ替わりにやってきた米軍占領で起こり、韓国各地で暴動や疫病が発生し、日本企業引き上げで経済破綻しハイパーインフレも起きました。

アメリカ軍が任命した李承晩大統領は不人気で、権力強化のために大粛清を始めます。


1948年に済州島四・三事件が発生し、1953年まで8年間の間に島民の人数が1割程度まで減少しました。

島民約30万人のうち6万人が犠牲になり、残りは半島や日本に逃げ出したと見られています。

その後に始まったのが朝鮮戦争で、李承晩の韓国軍と憲兵は、北朝鮮軍から逃走しながら「北のスパイ」として数十万から100万人を粛清したと推測されています。


混乱する韓国から逃げてきた人達

李承晩の韓国軍は釜山まで後退し、米軍と日本に支援されて38度戦まで押し返すのだが、負けたほうが韓国人には良かったかも知れない。

朝鮮戦争のどさくさで大半が闇に葬られているが、李承晩によって数百万人が犠牲になったという推測もある。

木村光彦や森田芳夫といった朝鮮研究者によると、朝鮮戦争前後に最大25万人が日本に密航した可能性がある。(送還された人数を除く)

済州島や半島南部の住民は我先にと日本への密航船に乗り込み、日本政府は人道的配慮から追放しなかったようです。


こうして1955年には10万人以上の密航者が居住し、1977人には85%も渡航年度不明の韓国人が居住していました。

そして人数は少ないものの、北朝鮮や韓国に帰国した元在日が、再び日本に舞い戻る「出戻り在日」も居住しています。

このように考えると現在日本に居住している在日韓国人で、日韓基本条約に定義された「戦前に正規の手続きで渡来した韓国人」など半分も居ないのではないかと考えられます。


むしろ過半数は戦前から朝鮮戦争前後に密入国してそのまま住み着き、戦後も親戚などのつてによって移住してきたと考えられます。

在日韓国人の著名人の中には、自分あるいは先祖は、密航者だからとても苦労したと苦労自慢している人を見かけます。

「俺は密航してきた」と堂々と自慢しても、一度特別永住者に認められると、日本政府は追い返したりはしていません。


ここで再度指摘すると、日韓基本条約で保護されているのは、戦前に正規の手続きで渡航した人だけです。
http://www.thutmosev.com/archives/73116331.html


韓国からの密航者が在日資格を得た方法

対馬は戦前から(縄文時代から?)中継地だったが、今でも「しょっちゅう来る」という
引用:http://madoka114.up.seesaa.net/image/78b26be4.jpg


在日韓国人はいつ、どうやって入国したか

2015年ごろに欧州にシリアなどからの難民が押し寄せ、この年だけで300万人がEU内に入ったと言われています。

日本でも難民問題が深刻化していて、2017年上半期だけで8561人が難民申請しました。

もっともこれは難民申請することで日本で滞在するのが目的と見られ、難民認定された人はたった3人でした。

ところが日本には、アジアや中東からの難民と同じように不法入国しながら、合法的に居住している人が数十万人存在します。

言うまでも無く在日韓国人で、彼らの入国記録からは8割以上の人が入国年度不明、つまり日本側に入国記録がありません。

日本と韓国は距離が近く、多くの貨物船が行きかっていて、戦前戦後を通じて密航船が公然と行き来していました。


戦後日本政府の調査では朝鮮戦争時に最小でも10万人以上、警視庁は最大25万人の韓国人が、不法入国した可能性があると書いています。

不法入国するのはおそらく難しくないが、問題は日本に入国した後で、どうやって彼らは在日韓国人として登録したのでしょうか。

日本政府は1948年、韓国が建国された事で、日本国内の韓国人全員を送り返す方針を決めました。


確かに1945年から1948年までに150万人の韓国人が帰国したが、国内にはまだ100万人ほどの韓国人が残っていたと考えられました。

その後も北と南に少しずつ帰国したが、1950年に朝鮮戦争が始まると、帰国どころか戦火を逃れて韓国人がどんどん日本に渡ってきました。

不法入国した日本人を長崎などの収容所に入れたところ、大村収容所などで暴動が起きたりし、大変迷惑しました。


韓国が受け入れ拒否で日本に定住

朝鮮戦争が始まると韓国政府は日本国内の韓国人受け入れを拒否するようになり、それどころか日本に密航した韓国人の送還も拒否しました。

増え続ける韓国人に日韓政府は1965年、日韓基本条約によって「終戦までに入国した韓国人には永住権を与える」事で合意しました。

だが1945年9月以降も、韓国人はどんどん日本に密航し、20万人以上が戦後に入国したと考えられています。


密入国した韓国人は同胞にかくまわれて3年ほど過ごし、密入国が時効になるのを待ちます。

時効によって密入国は罪に問われなくなるが、このままでは見つかれば韓国に強制送還されます。

そこで年頃の人は同じ在日韓国人や日本人と事実婚して子供を作り、それから日本政府に届け出ます。


あるいは既に永住権がある在日韓国人の養子になったりして家族になると、強制送還されません。

もちろんこうした事には、民団や総連といった支援組織が圧力をかけ、強制送還されないようにします。

北朝鮮とは国交がないので強制送還という制度もなく、韓国政府も多くの場合受け入れに難色を示します。


終戦から朝鮮戦争までに密入国した韓国人は「戦前に入国していた」「強制連行された」と言い張れば、おそらく通用したでしょう。

空襲や敗戦の混乱で、日本人ですら戸籍や住所が分からない人が居たので、朝鮮人の入国記録がなくても、密入国とは限らないからです。

終戦10年後の1955年までに入国した韓国人はドサクサに紛れて、戦前から住んでいた朝鮮人と一緒に扱われました。


密航自慢する大物も居る
images
引用:https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fblog-imgs-59.fc2.com%2Fd%2Fe%2Fl%2Fdeliciousicecoffee%2F20130711081657acc.jpg


永住権があるのは在日韓国人の一部か

1965年の日韓基本条約で、戦後の密入国者は送還する事になったが、またしても韓国側が受け入れ拒否したので、在日韓国人として一緒くたに扱われた。

こうして法的には強制送還される筈の、1945年から1965年までの密入国者は、在日韓国人として居住権を得ました。

彼らを日本政府が受け入れた最大の理由が実は、韓国政府が帰国を拒否して在日を捨てたからで、入管問題ではなく外交問題として強制送還できなかったのです。


こうした混乱期には、密入国してから在日の登録証を買って在日韓国人になった人達もいます。

昔ホームレスが戸籍を売るのが社会問題になったが、あれと同じで韓国人同士で登録証を売買しました。

こういう連中がいるので日本政府は1955年に指紋押捺制度を作ったが、2000年に差別的だというので廃止されました。


指紋押捺制度があっても拒否する人がかなり居たので、その後も密入国して登録証を買い、他人に成りすました人が居たかも知れません。

現在は日本で居住する外国人全員に、指紋押捺と写真撮影を義務化していますが、特別永住者は除外されています。

在日韓国人の永住権とは「終戦までに合法的に日本に入国した人」本人と2世だけに永住権が与えられている。


ところが実際には「戦前の密入国者」「戦後の密入国者」「永住権が適用されない3世以降」にも永住権があるかのように取り扱われています。

このように考えると日韓基本条約で定められた永住権が適用されるのは、在日韓国人のごく一部ではないかと推測します。
http://www.thutmosev.com/archives/73173663.html


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

6. 中川隆[-5788] koaQ7Jey 2017年11月28日 12:17:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

被差別部落民と在日韓人

132 :可愛い奥様:2012/11/11(日) 21:05:27.36 ID:MtxrTx2z0

素朴に聞くけど、朝鮮半島出身者が日本人被差別部落の中に混じって
生活する事は出来るのでしょうかね


153 :可愛い奥様:2012/11/11(日) 21:37:10.77 ID:Smf9sZV4O
>>132
尼崎の友達の朝鮮人は部落地域に住んでたよ
間違いなく朝鮮人が多かった
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1352608564/100n-


被差別部落民と在日韓人  −社会経済史的視点−
              
    河 明生(かわ めいせい 社会経済史、経営史)
友常 勉(聞き手=ともつね つとむ・地域研究


(『現代思想 特集 部落民とは誰か』第27巻第2号所収、平成11年2月、青土社)

(友常)今日は、『韓人日本社会移民経済史−戦前篇』(明石書店、1997)の著者・河 明生さんにお話を聞こうと思います。本書は、戦前の被差別部落民と在日韓人との社会経済的関係を明らかにしており、部落問題に携わる者として注目しておりました。今日のお話しの中から、これから私たちが、今後の両者のあり方を考えていくための指針を得ることができればと願っています。


(河)よろしくお願いします。

(友常)まず、本書の問題意識からお聞きしたいと思います。

(河) 社会は、マジョリティとマイノリティによって構成されています。ここでは、マイノリティを社会的権力をもたない異質な少数派と定義します。日本社会も例外ではありません。マイノリティが存在します。それは二つに分類できます。一つは、民族的マイノリティです。たとえば、韓人、中国・台湾人、アイヌなどです。もう一つは、非民族的マイノリティです。被差別部落民が該当します。その中、私が選んだ研究客体は、在日韓人です。

 在日韓人問題は、権力と反権力、差別と反差別、加害者と被害者という視角からの研究に偏在集中してきた感が否めません。それは史実ですし、評価すべき業績です。けれどもそれだけで良いのでしょうか。在日韓人社会は百年近い歴史があり、その間、日常生活を支えた労働がありました。それは人間の基本的な営みです。その解明なくして、在日韓人問題を理解することはできません。しかし、それを正面から論じたものは少ない。在日韓人問題の社会経済的活動実態が明らかにされていませんでした。それではいけない。日本の社会経済史や労働史などにおけるマイノリティ史の空白部分を補完したい、というのが執筆動機でした。

(友常) 従来、1939年から始まる「朝鮮人強制連行」以前の渡日者をどのように位置づけるのか、という問題がありました。河さんは移民とみなしていますが、その点はいかがでしょうか。

(河)日本では、移民というと自ら望んで郷里を捨て、中南米や北米などに移住するというイメージがあります。しかし、それは間違いです。ここではふれませんが、欧米での移民に相当する概念は多種多様です。

 在日韓人を移民労働者とみなした場合、二つの論点が生じます。第一に、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題です。賃金水準や雇用機会などへの影響はそれに該当します。第二に、韓人が、日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題です。

(友常) そもそもこういうテーマを選んだのは、河さん自身が、在日二世だということと関わりがあるのでしょうか。

(河) 関係があります。ただ、諸先輩方の関連研究を読みながら、研究を進めていく中で、自分の生い立ちを超えたいと思うようになりました。客観的論述に徹したいと。日本人研究者からすれば、当然のことです。しかし、被差別マイノリティ出身の研究者が、その出身母体を研究客体とする場合、自己の生い立ちを超えることは容易なことではない。どうしても被差別体験が、文章にあらわれてしまう。怒りのようなものでしょうか。これは世代的宿命なのかも知れません。私の論文にも、たとえば「差別」という概念は使用されます。けれどもその「差別」が不当であるか否かは、読み手が判断すれば良いと考えています。

このような感覚を持てたのは、私が上の世代に比べれば恵まれた環境で育ったからです。当然、それは日本社会、とくに日本人の若い世代の変化によってもたらされた環境です。学校で、金とか、李とか名乗っていると、かっこいいとか、個性的だとか、もてはやされる時代なんです。けれども、彼らですら、在日韓人問題については白紙に近い状態です。歴史教育が疎かにされているからでしょう。これからの研究者は、そういう若い世代に、なごやかに語りかけて行かねばならないと思います。

(友常) 被差別部落出身でない僕が、部落問題に出会うのは大学時代です。江原由美子さんがかつて「差別の構造」という論文を書かれましたが、差別されている側とマジョリティの間には対称関係はない、差別されているという体験において、マジョリティの側がその体験を知りようがない以上は、自分の基準で相手を比較したり考えたりできなくなってしまう。

ところが相手が知らないことについて、差別されている側は訴えるしかないわけですね。それを訴えても相手には絶対に通じないという非対称的な関係、それが差別の構造だというわけです。部落問題の研究を進めながら、実際の差別の話を聞いて、気づくのはそういうことです。そういう非対称的な関係は一体どういう状況で生まれてくるのかということを追求したいというのが僕の研究の動機です。それは確かに歴史的な出自を持っている。

たとえば近代社会とか、そういう方向での自分の中のモチベーションです。必ずしも実体化された倫理主義的な態度をとることはないと思いますが、差別−被差別という構図でなければ見えない、あるいは研究でしか摘出できないような研究の方法論とか問題の設定がありますから、そういうスタイルは間違いなくあるでしょう。多分そういうふうにいったからといって、河さんとはそれほど大きな違いはないのではないかと思っています。


朝鮮不熟練労働市場における韓人と中国人移民労働者との競合

(友常) では、具体的なご著書の中で、何が直接明らかにされたのかということに移っていきたいと思います。僕にとっておもしろかったのは、まず朝鮮で中国人労働者と朝鮮人労働者との間で葛藤がある。それに少なからぬ影響を受けつつ、在日韓人移民労働者が形成されたという。

(河) 被差別部落民と在日韓人との関係を考察する際、有用ですので、若干主題とははずれますがお話ししたいと思います。

 在日韓人形成の最大の要因は、日本による朝鮮の植民地支配です。従来、その形成史が日本と朝鮮という二国間関係だけでとらえられてきたのはそのためです。しかし私は、植民地支配以外の渡日要因を再検証すべきであると考えました。在日韓人形成史は、中国をも含めて考察すべきであると考えます。つまり、朝鮮下層労働市場に進出した中国人移民労働者の存在を忘れてはならないのです。


(友常)それはまったく新しい視点ですね。その根拠は何でしょうか。

(河)在日韓人の出身地の大部分は、農業の中心地であった朝鮮南部であり、前職は農民です。当時、朝鮮工業は朝鮮中北部において展開されました。離農間もない朝鮮南部出身者が、何故、陸路で移動可能なソウルや平壌などの朝鮮中北部への出稼ぎを選択しなかったのか。宗主国の日本に、海を越えて出稼ぎに行くというのは、心理的なプレッシャーがあったはずです。言葉も通じないのですから。そういう予想される不安や困難をこえて渡日したのですから、何か合理的な渡日理由があったんだろうと考えました。

それは、日本と朝鮮との賃金および雇用機会の格差です。第一次世界大戦による好況時に、紡績業などの日本企業が、人手不足を補うため、朝鮮で労働者公募を行いました。それに応じた韓人が、渡日して工業労働に従事しました。契約期間がきれたり、先祖の祭礼祭祀のために帰郷します。きれいな服を着て、お金やおみやげをもって田舎に帰ってくるわけです。農村の生活しか知らない朝鮮南部の人々にとって、それはまぶしい光景だったと思います。日本に行って働ければ金になる、ということになります。でも、もし仮に朝鮮に働く場所があって、日本の企業と同じ賃金がもらえるというのであれば、わざわざ渡日する必要はありません。朝鮮に働き場所が少なく、もらえる金も少なかったからこそ、日本への出稼ぎを選択したと考えます。もちろん、日本の賃金が高いというのは相対的なものです。むしろ朝鮮における「低すぎる賃金」に問題があると考えました。

 離農間もない韓人は、不熟練労働者です。たとえば、100人の不熟練労働者が同一労働市場に存在し、その中の10人が失業者や求職者であったと仮定します。この場合、少数派である失業者や求職者によって不熟練労働市場の賃金相場が左右されます。土方の相場が1円だとすると、失業者や求職者はとにかく働きたいわけですから、それを90銭でもやる人が現れます。1円で働いていた人は、失業の危機にさらされます。不熟練労働は代替が容易だからです。もともと1円で働いていた人が、90銭で働かなければ、就労を確保できなくなり、その賃金相場が下がる場合があります。そして再び失業者や求職者は、それよりもさらに安い労働力の提供者となって賃金相場を下げることが予想されます。結果、朝鮮労働市場での「低すぎる賃金」が維持・強化されたと考えます。

 この議論の前提となるのは、不熟練労働市場における失業者や求職者の存在です。それは、工業都市への人口集中や移民などによる過剰労働力を背景にしていると考えました。私が、注目したのは、植民地朝鮮に進出した山東省を出身地とする中国人移民労働者の存在でした。朝鮮総督府は、中国人移民労働者の朝鮮入国を規制しませんでした。1922年の朝鮮総督府調査では、在朝中国人人口は、約3万1千人です。それが8年後の国勢調査では、約9万2千人に増加しています。しかし、中国人移民労働者の実数は、正確には管理できなかったと思います。何せ陸路と海路から続々と入国してくるのですから。彼らの絶対多数は不熟練労働者でした。朝鮮総督府は、韓人は大日本帝国臣民なので、外国人である中国人の雇用が増え、韓人が失業するという状況を好みませんでした。だから、再三再四にわたり、在朝日本人経営者に中国人を雇ってはいけない、という通達を出したり、何人までは雇ってもいいといった割合を決めたりもしましたが、当局の思う通りにはなりませんでした。彼らが韓人よりも低賃金で働くからです。不平不満をいわずに。移民労働者の特性ともいえます。彼らには帰る郷里があるから、「低すぎる賃金」でも我慢して働くんです。食費などの生活費を抑えて残った金を郷里に送金したのです。低賃金を武器とする中国人移民労働者の朝鮮労働市場への進出は、韓人の雇用を脅かし、あるいは雇用機会の減少をもたらしました。とくに、その傾向は、離農間もない農民が就労可能な朝鮮不熟練労働市場において顕著であったと考えます。そのことが朝鮮の「低すぎる賃金」を維持・強化しました。結果、韓人の一部が相対的に高い賃金を求めて日本への出稼ぎを選択した、というのが私の仮説です。


日本不熟練市場での被差別部落民と在日韓人との競合

(友常) そういう要因が重なり合って在日韓人が形成されたのですね。そして日本の労働市場の中で彼ら自身の特性を形成していくことになるんだろうと思います。では、先程おっしゃった第一の論点、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題とは何でしょうか。

(河) 従来の定説を要約すると、戦前の日本における韓人の急増は、新たな労働問題を引き起こした。韓人が低賃金を武器としながら日本労働市場に進出したため、日本人労働者が失業の脅威にさらされたからです。日本人労働者が、自己の雇用を守るためには、低賃金や長時間労働を甘受しなければならなくなった。そのことが結果として、戦前の日本労働市場における低賃金の維持・強化につながった、というものです。

 しかし、韓人の日本労働市場進出によって失業の脅威にさらされた日本人労働者は、一部であって全部ではない。渡日した韓人の大部分は、工業労働経験が全くない不熟練労働者でした。能力的限界を否定できない韓人が、日本のあらゆる労働市場に進出することは不可能であったはずですし、日本人の熟練労働者が韓人の急増によって失業の脅威にさらされることは稀であったと考えます。

 戦前の韓人移民労働者問題は、日本における外国人労働者問題の嚆矢とみなすべき歴史的事例問題です。研究客体の特定なくして史実を明らかにすることはできません。そこで、韓人が進出した労働市場を下層労働市場と限定し、失業の脅威にさらされた日本人労働者は、いわゆる下層労働者、とくに被差別部落民であった、と主張しました。たとえば、1925年の中央融和会調査によれば、神戸の日雇い労働者の失業率は、韓人が24.3%であったのに対し、部落民はその二倍を超える52.8%でした。これは部落民が、韓人によって雇用機会を奪われた結果であったと考えます。

(友常) 近代の部落史の話の中で、先行研究の流れでいうと、たとえば、馬原鉄夫などがいった議論があります。部落差別は独占資本の形成過程の中で作られたもので、労働市場の中で低賃金構造のしずめ石として部落差別は作られている。おそらく同じような帝国主義下のしずめ石として植民地収奪にさらされて日本に強制的にあるいは半強制的に移住させられた韓人労働者がいる。それらが日本の資本主義の低賃金のしずめ石なるという研究の仕方は、60年代に支配的でした。そうではなくて、河さんの話ですと、下層労働市場だという限定がまずあるわけですね。全体の資本主義の構造というよりは、これは下層労働市場で発生している問題だ、そういうふうに問題を定義すると、戦後の移民労働者の問題にまでその視角というのは展開できるものだということになる。それは非常に重要な問題提起です。そのように、移民労働者の問題を考えるということが、同時に行動的特性の分析にもつながります。そこで研究客体としてのより踏み込んだ研究につながっていくと思います。しかしそういう意味で、移民労働者の問題を移動の合理性として立てていくのは、決してまだ支配的ではないですね。

(河) はい。少なくとも戦前の在日韓人を移民としてとらえるのは少数派です。また、在日韓人と被差別部落民とが、下層労働市場で競合したと言いきるのも、おそらく私が始めてではないかと思います。だからこそ、こうして私が、友常さんからインタビュ−を受けているんだと思いますが、いかがでしょうか。(笑)

(友常) おっしゃるとおりです。さて、被差別部落民と在日韓人との下層労働市場での競合の端緒は何だったのでしょうか。

(河) 中小零細企業が集積する工業地帯近隣の被差別部落での両者の混住です。ここからが第二の論点、つまり韓人が日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題となります。

(友常) 従来、韓人が住居を被差別部落や、その周辺に定着したことはよく知られていましたが、それも韓人の特性とみなしてよいのでしょうか。

(河) はい。一般の日本人下層労働者は、被差別部落には定住しなかったと思います。住所が被差別部落やその近隣だと部落民とみなされ差別される可能性があるからです。ただ、移民間もない韓人の場合は事情が異なります。日本の社会事情に疎いというか、被差別部落がどういう状況におかれているのかを知りませんでした。被差別部落やその周辺に定着することについて、一般の日本人よりも、抵抗感が少なかったと思います。たとえば、中央融和事業協会が、1925年から1935年まで、大阪府内の九ヶ所の被差別部落への新規移住者・約1千2百人の出身地を調査したところ、その七割強が朝鮮でした。

 被差別部落に移住した韓人古老に対して聞き取り調査を行ったのですが、自分は被差別部落だとは知らないで住んでしまった、気付いてみたら白丁がたくさん周りに住んでいた、というんですね。認識に若干ずれがありますが。(笑)だからといってそこを離れるわけではありません。その古老も、今日まで60年以上、そこに定住しています。

 問題は韓人の被差別部落流入経路です。韓人の目的は出稼ぎのための就労です。そこで彼らの就労経路から被差別部落流入経路を推論しました。戦前の京阪神行政調査によると絶対多数の韓人は、知人を通じて職場を斡旋してもらう個人紹介や個別的な就職活動による自己志願などによって就労しました。個人紹介は、紹介者と就労希望者とが同郷であるか否かという地縁を紐帯として実行されました。他郷出身者を紹介することが稀だったのは、出身地毎の反目や方言による言語の不通などが原因でした。済州島出身者は、とくにそういう傾向が強かったようです。

しかし、個人紹介は、移民当初から可能だったわけではありません。工場主の韓人紹介者に対する一定の信用に基づき成されたものであり、それは多くの場合、その工場での先駆的就労者=紹介者の就労実績によって培われたものであったと考えます。

(友常) 本書で先駆的就労者の就労経路を重視した理由はそこにあるのですね。

(河)はい。先駆的就労者の就労経路は、日本企業の朝鮮現地での労働者公募とそれ以外とに分類できます。朝鮮紡績と呼ばれた岸和田紡績は前者の典型でしょう。しかし、労働者公募は大戦後の不況により減少します。

 問題は後者です。就労先が定まらずに漠然渡日した無計画渡日者の就労経路です。彼らは時代が下るに連れ急増しました。山口県警特高課が、下関に上陸した韓人の所持金を調査したところ、約67%が五円未満の金しかもっていませんでした。次ぎなる行動は、労働予定地への移動ですが、彼らが購入した電車の切符を調べた大阪市調査から、その多くが京阪神に向かうことを知ることができました。阪神の企業による労働者公募が影響を与えていると思います。彼らが京阪神の目的地にたどりつくまで、小額の所持金は交通費や食費に費やされます。目的地に到着する頃には、無一文状態になりました。

 彼らは、住居と職場を確保しなければならない。両者は同時に併行して行われたと考えます。しかし、職場はすぐにはみつかりませんので、当面の雨露をしのぐ住居の確保が優先されましたが、所持金はすでに使い果たしています。しかも当時の京阪神大都市部の借家難は深刻でした。つまり韓人の大部分は、レイシズムニよる入居差別以前に無一文なのでまともな住居を借りることはできなかったのです。

 韓人の次ぎなる行動は大まかに二つに類型化できます。一つは、沿岸、河川、湿地などの公有地や更地の原っぱなどの私有地にバラックや堀立小屋を建てました。もう一つは、被差別部落やスラムへの流入です。私が、注目したのは、被差別部落に流入した韓人です。

 被差別部落には、韓人を新規の住民として呼び寄せる理由がありました。低廉な家賃です。日雇い労働に一日従事すれば払っていける額でした。しかも権利金も保証人もいりませんでした。被差別部落には、又借りや又貸しの習慣がありました。たとえば、六畳一間の賃貸物件を借りている部落民が、その中の三畳だけを他人に貸したり、納戸を貸していたのです。それは正常な労働市場から疎外されていた部落民が、低額所得者であったことと関係があります。部落民は又貸しすることにより家賃支出を軽減したのです。権利金や保証金が要求されなかったのはそのためです。また、被差別部落に住んでみるとスラムとは異なり食料品の物価が安いのも韓人にとっては魅力でした。商業者が部落民の低所得に合わせたからでしょう。

味噌、醤油、塩などの小売の量も低く設定されていたようです。さらに、被差別部落の周辺に屠場がある場合、日本人が食べなかった牛や豚の内臓をただ同然で譲ってもらえたと考えます。焼き肉のホルモンの語源が、ほおるもん、つまり捨てるものからきているという説もあります。このような経緯により韓人は被差別部落に移住しました。

(友常) それがどのように下層労使市場での部落民との競合と結びつくのでしょうか。

(河) 被差別部落内やその周辺に朝鮮部落が形成されますが、その形成には、ある条件が満たされなければならなったと思います。その近隣に不熟練労働者である韓人を吸収する下層労働市場が存在することでした。韓人無計画渡日者の最大の関心事は就職ですが、すぐには見つかりません。低賃金であろうがなかろうが、差別されようがされまいが、人は生きて行くために働いて金を稼がなければなりません。何のあてもない彼らは、住居近隣を徒歩で徘徊しながら、工場前に張り出された求人の張り紙を目安として、飛び込みによる自己志願を根気よく実行しました。ただ、そういう求職活動には体力的にはもちろん精神的にも限界がありますので、遠出は敬遠し、近隣の工場を物色したと考えます。

 韓人は工業地帯近隣の被差別部落に定着したのです。その近隣に下層労働市場が存在したからです。たとえば、ゴム靴工業の集積地・神戸市長田近隣の番町部落などです。また、中には、被差別部落そのものが、伝統的部落産業の集積地だった場合もありました。皮革業の集積地・大阪市の西浜栄部落はその典型でしょう。韓人不熟練労働者の就職活動にもっとも適したのが工業地帯近隣の被差別部落だったということになります。この条件を満たした被差別部落では、両者の混住が促進されました。そして被差別部落内やその近隣にいわゆる朝鮮部落が形成されていくのです。

(友常) 韓人が部落民が携わっていた労働のまねをする、つまり労働模倣が行われたという重要な指摘をなされていますが。

(河)私は、韓人無計画渡日者が、被差別部落に流入・定着した時点で、彼らの職業が決定されたと考えます。韓人が、先住部落民の生業を模倣したからです。つまり、先住被差別マイノリティの就労実績は、後からきた出稼ぎ目的の韓人に就労先の目安を与えたと考えます。少なくとも出自による差別が少ないということは解りますから。被差別者は就労の際、能力以前に出自による差別を受けるのではないか、という一種の恐怖感をもちます。出自を隠し通せれば良いのですが、現実は難しいようです。日本には、履歴書に書かなければならない本籍や住所から、出自を判断し差別するという悪しき習慣がありますので、被差別者は履歴書をできれば書きたくなかったと考えます。仮に、虚偽を書いたとしても本採用の際、戸籍謄本提出によって解ってしまいます。部落民はそういう事情にあったと思われます。韓人の場合は、本籍を日本本土に移すことを禁止されていましたから、「本籍 朝鮮」と書かなければならず、日本名を使い堪能な日本語を駆使して日本人を装ったととしても出自が解ってしまいます。また、履歴書を書くほどの経歴がないということや、無学のため漢字が書けないということも履歴書提出をためらった理由でした。

雇い主も彼ら被差別マイノリティがおかれている状況を知っていますから、本人が働きたいといえば、履歴書をださなくても、明日から来な、ということになります。被差別マイノリティにしてみれば、出自を理由として門前払いをくらわない、門戸が開かれた職場だったのです。韓人も例外ではありません。彼らの就労は、先住部落民の就労実績によって門戸が開かれていたのです。

 また、そこは彼らにとって働きやすい職場だったともいえるでしょう。同じ境遇の仲間がおり、差別されることが少ないという意味で一種の安心感のようなものがあったと思われます。余談になりますが、私は、阪神淡路大震災の直前まで、長田のゴム靴工業地域を調査していました。ある神父から聞いた話ですが、ベトナム難民が長田に定住し、ゴム靴の内職に従事していました。低賃金だし、一日中、部屋に閉じこもって不健康だからという理由で、神父が就職先を斡旋しました。しかし、みんなやめて、長田に戻ってきちゃう。みな一様にゴム靴の仕事がしたいという。どうしてだと神父が聞くと、月給になれていないので不安だという。ゴム靴の内職は、出来高制なので一日の労働量がわかりやすい。目に見える形で終われば、その場で金をくれる、というわけです。しかも同胞とベトナム語を話してベトナムの歌を歌いながら楽しく仕事ができる。疲れたら休めるのも良いということでした。まさにマイノリティ的感覚だとは思いませんか。移民当初の韓人は、同じ様な感覚をもっていたと思われてなりません。働いた分だけ金をくれるということが、魅力だったと思います。

(友常) 時間感覚につての階層差、近代的な時間というものを機械から疎外されているから長期的な展望で将来を考えたり、貯蓄したりする習慣を持たないからなんだと下層労働者をブルデューは説明するんですが、そういうふうにするよりもむしろ、不払いとか労働意欲の発生が感じられるような就業形態からの説明ができますね。

(河) 被差別マイノリティの立場からすれば、お金は嘘をつかないということになるでしょう。マジョリティと同じ権利行使を可能とする唯一の手段でした。被差別者として疎外感が強くならざるを得ない人間というのは、目に見えるものしか信じないという意味で実証的になります。毎日、働いた分だけの金をもらえるというのは、彼らに安心感と満足を与えます。月給というのは、移民間もないマイノリティには馴染まないですね。被差別マイノリティの生業が、現金商売に遍在集中するのは、そのためです。

(友常)水平社運動の昂揚も韓人の雇用を拡大したと指摘されていますが、その点いかがでしょうか。

(河)中小零細企業が部落民を低賃金および長時間労働で使用したのは、それが企業存立上の絶対条件だったからです。経営者からみれば、通常の労働市場から閉め出されている被差別部落は低賃金労働力の安定した供給源であり、しかも不況の際には容易に解雇できる従順な労働者とみなしていたと思われます。ところが、1920年頃から事情が変わります。労働運動が昂揚したからです。1922年には水平社が創立されました。それは、下層労働市場で低賃金を甘受させられていた部落民の労働者としての権利意識を高めました。逆に、そのことは中小零細事業者にとって、最大の不安だったと考えます。組織的な労働争議へと発展していきますから。けれども低賃金労働者は確保しなければなりません。

ちょうどその頃、比較的権利意識の低い新たな被差別マイノリティが、工場近隣の被差別部落やスラムに流入し、自己申込みによる就職活動を開始したのです。植民地民族の韓人は、中小零細業者から、部落民よりも低位な階層、従順なる低賃金労働者とみなされ代替労働力として利用されたと考えます。その目安になったのが、両者の労働運動に対する国家・社会的許容度だったと思われます。韓人による組織的労働運動は、朝鮮独立運動と結びつく可能性が高く、実質的に内政問題にとどまるものではありませんでした。内務省や特高によって徹底的に弾圧されたのはそのためです。もちろん水平社運動も弾圧されましたが、それは内政問題にとどまる性格上、ある程度は許容されていたと考えます。そのことは中小零細業者からすれば、彼らを雇い入れる際の判断基準になったと思われます。当時はいずれの工場においても労働争議は現実性を帯びていたからです。つまり、部落民よりも抑圧されていた韓人を雇うほうが、労働争議のリスクが少なかったのです。結果、部落民の雇用機会は減少し、韓人のそれは拡大されたと考えます。


京都における被差別部落民と韓人

(友常)その際の仕事をかなり詳細に調べられていますね。京都の場合だと西陣織と友禅染。それが在日韓人と部落民に多いと部分的にはいわれていましたが、河さんの本で論証されたと思います。

(河)京都は被差別部落が多い地域です。戦前の京都市調査によると、三條部落では、韓人排斥運動がおこり、彼らを新規の住人として受け入れなかったと報告しています。しかし、それは例外で、大部分の被差別部落では、韓人を新規の住民として受け入れました。

 戦前の在京韓人の典型的生業は、西陣織りや友禅染めなどの織物染色工、土方、ボロチャンサと呼ばれた屑生地回収業、その他となります。それらの生業は、韓人がいずれの被差別部落に流入・定着したかによって決定されたと考えます。たとえば、養正部落流入者は友禅染めに、崇仁部落流入者は土方に従事しました。それは韓人が、先住部落民の生業を模倣した結果であると考えます。一世による労働模倣は、二世、三世に引き継がれます。彼らは親や親戚、同じ地域に住む先輩や知人の生業に従事する場合が多いことが解りました。多くの場合、養正部落の二、三世は友禅染工業に、崇仁部落の二、三世は土方にそれぞれ従事したのです。

(友常) 友禅染工業での部落民と韓人との関係をどのようなものだったのでしょうか。

(河)京都の友禅染工場は、室町の問屋街に近い堀川を中心に集積していました。しかし、1924年に京都市都市計画により工業地域が指定され、友禅染業者は、移転せざるを得なくなったのです。しかし、工業地域ならどこでも良いということではありません。友禅染めの特徴は、織物生地への後染めです。多品種の染料によって染色し、蒸し箱に入れて密閉し、蒸気で蒸します。これを蒸しといいますが、夏は地獄の暑さだったといわれています。この蒸し業を担ったのが韓人でした。その後、染め生地の表面に附着させた色糊を流水で洗わなければなりません。これを水洗といいますが、川を利用して行われたため冬が苛酷でした。その作業には大量の水が必要です。

1920年の後半から、この水洗業を担ったのは韓人でした。日本人の心の故郷といわれる京都の風物詩として観光の目玉にもなっていた友禅流しを想起して下さい。それは、実は被差別マイノリティによって担われていたのです。また、友禅染めは生地が10メートルを超えるものもあり、水洗後にそれを乾かすために広い場所も必要となります。設備投資をせずに両方の条件を満たせるのが、川の側ということになります。堀川を追われた友禅染め業者が、太秦や高野・一条寺などの川の近隣に移動したのはそのためです。京都の場合、川の側には、被差別部落があります。その中の一つを調査しました。

(友常) 洛北と呼ばれる高野・一条寺近隣の養正・田中部落のことですね。

(河)はい。戦前に田中部落に移住し、戦後、友禅染めで成功した韓人古老は、1920年代後半には、すでに韓人の蒸しや水洗業者が存在したと証言しました。京都商工会議所による友禅染調査も同様の指摘をしています。問題は、彼らの就労経路です。京都の友禅染め工場が、朝鮮現地に赴き労働者を公募したことはありません。ただ、来京間もない韓人が、いきなり事業主になるとは考えられません。その先駆的就労者は、飛び込みの自己申込みによって友禅染め工場に就労した無計画渡日者であったと思われます。彼らは何年か勤務する過程でスキルとノウハウを修得し、独立したと考えます。

しかし、徒弟制度を採用している友禅染工業界では、最低でも三年間は、運搬や掃除などを担当する追い回しと呼ばれる下働きをしなければなりませんので、韓人の先駆的就労の嚆矢は、早くても1920年代前半ということになります。

私は、被差別部落に移住した韓人は、先住部落民の生業を模倣したという仮説を主張しています。その大前提となるのは、田中部落の先住部落民の洛北友禅染め工業への就労実績です。

(友常) 聞き取り調査から有効な証言を得られたのですか。

(河)だめでした。私は、聞き取り調査に関する限り、韓人問題よりも部落問題の方が困難だと感じました。とくに、一般日本人は口を閉ざします。たとえば、友禅染会館の職員に、韓人の友禅染工業就労について質問したところ、戦前の友禅染めには、半島の方が多く携わっていた、と躊躇なく答えてくれましたが、部落民はどうか、と質問したところ、一瞬顔色をかえ、忙しいので、といって逃げるように立ち去ってしまいました。

そこで京都部落史研究所などを利用して資料収集に尽力したところ、『大阪朝日新聞』や『京都日々新聞』などから、1930年頃、洛北友禅染工業界で起こった労働争議に、田中水平社が関係していたことを知りました。つまり、田中部落の部落民は、洛北友禅染め工場に就労していたのです。

次ぎに、問題となるのが部落民の先駆的就労時期でした。それは京都市民政局『友禅労働者の実態−京都市養正地区における調査』から、1918年以前であったと推論しました。つまり、部落民は、韓人よりも早い時期から洛北友禅染めに就労していたことになります。田中部落の典型的生業は、土方と廃品回収などでしたが、一部とはいえ、友禅染めに従事する部落民が存在したのです。就労者数よりも、部落民が皮革や靴などの伝統的部落産業以外の新しい業種に雇われたという就労実績が重要なんです。それは後身の被差別部落民の雇用機会の拡大をもたらしました。そういう状況下で韓人が田中部落に移住してきたんです。

彼らに、幸いしたのが、加茂川や高野川に近接する田中部落の自然環境でした。職を求めて転々としたであろう初期の韓人無計画渡日者は、加茂川や高野川で行われていた部落民による水洗作業を目撃し、その就労を知ったと考えます。部落民であっても出自を問われず採用されるという事実は、韓人に希望を与えました。彼らは部落民の生業を模倣すべく洛北友禅染工場に自己申込みを行い、その中の一部が採用されて先駆的就労者になったと思われます。戦前から田中部落に定住している元友禅染工の韓人古老に、その就労理由を尋ねると、家から近かったから、と答えています。つまり田中部落から、友禅染め工場が移転した高野・一条寺までは徒歩で移動可能な通勤圏だったのです。その古老は、無計画渡日者でしたが、職業に特別な希望をもっていたわけではありません。生きていくために、働き場所を求めて徘徊し、飛び込みによる自己志願を行ったのです。

(友常)西陣織りはいかがでしょうか。

(河)西陣織りには独特な賃機制度があります。西陣織手は、親方と呼ばれる家内工業者との間に徒弟関係を結びます。親方も織元に従属し、生産材料の大部分を依存しなければなりませんでした。移民初期の韓人は、住み込みの織手となり、宿舎と食糧を確保したと考えます。

 西陣は、商業資本家に支配されている囲いのない工場のようなものでした。そこには「出機有り」とか「織手募集」いう求人張り紙が出ていました。それを目安にした自己申込みによって先駆的就労が可能になったと考えます。西陣織手であった韓人古老によると、職を探して西陣を歩いていると「織手募集 但し内地人に限る」という張り紙に憤慨し、それを「織手募集 但し朝鮮人に限る」書き換えて乗り込んだそうです。親方は、彼を一瞥して張り紙を見なかったのか、帰れ、と怒鳴ったそうです。すると彼は、みてきた、と書き直した張り紙をつきつけました。親方は、あきれたようです。彼は、まじめに働くから、一度でいいから雇って判断して欲しい、と懇請したようです。

結局、親方がおれ、様子をみようということで、何とか、住み込みで働けることができるようになります。たとえ与えられた部屋が南京虫がたくさんいるせまくてきたない部屋であっても屋外よりはましだったのです。その古老は、はえのたかっている腐った飯を食わされたと証言しています。けれども飢えるよりはましだったのです。もちろん自己申込みを行ったすべての韓人が雇われたわけではありません。中には、すぐに辞めさせられる人もいました。しかし、辞めさせられなかった韓人は、親方との間に信頼関係を築いたようです。彼は先駆的就労者となり、同郷の韓人の就職を斡旋することが可能となります。親方は、朝鮮人だけどあいつが紹介するならまちがいないだろう、ということになったようです。このように、先駆的就労者の就労実績に基づいて次々に同郷の韓人が雇われて行ったのです。

(友常)不熟練労働者であったはずの韓人が、何故、西陣織りに従事できたのでしょうか。

(河)西陣織の技術は六ヶ月あれば習得可能な簡単なものだったからです。とくにビロ−ド生産は簡単でした。伝統的部落産業である下駄製造業者との関連が深まります。在京韓人は、下駄の鼻緒を作ることになったのです。奈良の被差別部落民の下駄業者との関係が深かったようです。

(友常)戦後も両者の関係は継続したのでしょうか。

(河)はい。敗戦直後、韓人は解放国民となり、いわゆる治外法権と類似の状況におかれました。たとえば、韓人が京都駅前のヤミ市で活動したとしても、京都府警はそれを取締まることはできませんでした。ヤミ市は、日本人、韓人を問わず野心的な人たちにとってまたとない経済的機会でした。部落民も同じです。物を作れば高値で売れるのですから。しかし、部落民は日本人ですので、警察に摘発されます。そこで部落民業者の一部は、韓人との関係を一層深めていったようです。西陣織手だった韓人古老によると、奈良の部落民下駄業者が、奈良県警に捕まった際、特別親しい関係でもないのに身元引受人として助けに来てくれと懇請され、助けてあげたそうです。


神戸における被差別部落民と韓人

(友常) 神戸の場合は、どうでしょうか。

(河)戦前の神戸市調査によると、韓人が流入した被差別部落は、葺合の新川部落と林田の番町部落です。新川部落の韓人は、土方や仲士といった屋外肉体労働従事者が多かったようです。新川部落民の生業を模倣したものと考えます。

 問題は番町部落流入者の生業です。もともと番町部落の生業は農業でした。それが神戸のマッチ工業の勃興により変化します。初期のマッチ工業は、かなり危険な作業で、囚人の労働としてスタ−トしました。やがて囚人による製造は廃止され、零細な民間業者が群生します。その際、重要な役割を担ったのは華僑商人でしたが、その説明ははぶきます。 零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもマッチ工業は労働集約型工業であり、利潤の根源である量産を生産手段の機械化に求めるのではなく、もっぱら低賃金労働力の確保に求めました。ですからマッチ業者の成功は、低賃金労働力の確保如何にかかっていたのです。そこで彼ら零細業者たちが注目したのが、番町部落の部落民でした。低賃金で雇えるからです。新興マッチ業者たちは、低廉な部落民労働力を求めて番町部落近隣に工場を建設したのです。そして部落民も、それに応えるかのようにマッチ工になりました。

(友常)マッチ工業は、神戸に限らず明治30年くらいから部落の生業となります。硫化硫黄を使いますので大変危険な作業でしたが、職業選択の自由を奪われ、生きて行くためにはどんな危険があっても、またどんなに安い賃金でも働かざるを得なかったと思います。

(河)このような経緯により、林田はマッチ工業の集積地となります。番町部落の生業にマッチ工業が加わったのです。少数ながら韓人のマッチ工も確認されています。部落民の生業を模倣したと考えます。

 しかし、大戦終了後、スウェーデンマッチが市場を席巻し、日本のマッチ工業は苦境に立たされます。とくに、零細業者が多かった林田のマッチ工業は深刻でした。大部分が廃業に追い込まれます。当然、部落民の失業者も急増しました。この苦境を救ったのが、新たな産業として台頭したゴム靴工業でした。その嚆矢は、奈良の部落産業で修業した後、林田にもどって開業した部落民業者であったと私は考えています。前述したように、零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもゴム靴工業は、マッチ工業同様、労働集約型工業です。当然、新興のゴム靴工業者は、低賃金労働力を希求します。林田にゴム靴工場が群生したのは、衰退したマッチ工業から大量の低賃金労働力を吸収することができるという目論見があったからだと思います。また、マッチ工場からゴム靴工場に転業する業者もあらわれました。結果、マッチ工から、ゴム靴工へと転職する部落民が続出したのです。

 ちょうどその頃、番町部落には新たな被差別マイノリティが増加していました。韓人です。番町部落に流入した韓人無計画渡日者は、近隣の林田ゴム靴工業地域、現在の長田を徘徊し、求人の張り紙を目安に飛び込みの自己申込みを行ったと考えます。そしてその一部はゴム靴工業に就労しました。それを容易にしたのは、番町部落の先住部落民が、すでにゴム靴工業に就労していたからだと考えます。


大阪における被差別部落民と韓人

(友常)大阪はどうだったのでしょうか。

(河)大阪は日本有数の工業の中心地ですが、中小零細企業の比重が高いことでも知られています。そのことは、大阪が潜在的に低賃金労働力需要が高いということを意味しています。1930年の第三回労働統計実施調査によると、被調査工場の六割にあたる562工場が韓人を採用しています。しかし、この調査は韓人の主たる就労先であった零細企業を調査しておりませんので、実際の韓人採用工場はそれ以上だったと考えます。韓人はありとあらゆる工場労働に進出しました。とくに、ガラス工業の窯業への就労は顕著でした。大阪市内の窯業労働者の3人に1人は韓人だったと報告されています。

 また、戦前の大阪は、スラムや被差別部落などの不良住宅地が多いことでも知られています。そこは京都や神戸同様、韓人の移住先となりました。京都や神戸と異なるのは、大阪の工場労働に積極的に従事したのが済州島人だったということです。済州島人は、朝鮮本土の人たちからは差別されていました。朝鮮本土の韓人は、彼らを作業服と比喩したといわれています。そういう人たちが大阪に一極集中し、工業労働に従事したのです。

(友常)部落民と韓人とはどのような関係だったのでしょうか。

(河)京都や神戸と似ています。まず、大阪の韓人も被差別部落に移住しました。そこには保証人も権利金もいらない廉価な借家があったからです。また、被差別部落内やその近隣には、韓人を容易に雇ってくれる下層労働市場が存在しました。そして韓人は、先住部落民の生業を模倣したのです。たとえば、西浜栄部落と三開部落の部落民が従事する職業には必ず韓人が従事しており、中には、その従事比率が部落民を上回るものもありました。とくにこの傾向は、工業において顕著でした。西浜栄では17業種中、10業種において、三開では18業種中、11業種において韓人の従事比率は部落民のそれを上回ったのです。先住部落民の職業模倣は、何も市内に限ったことではありません。たとえば、大阪府泉北郡信太村と八坂町の被差別部落に移住した韓人総世帯の三割に当たる80世帯が、部落民の生業であった人造真珠工業に従事しました。


韓人が就労した工場労働の共通点


(友常)韓人が就労した工場労働の共通点は何でしょうか。

(河)第一に、その大部分が一般の日本人が忌避する低ステ−タス産業だったということです。たとえば、京都の友禅染めといえば、百貨店で展示された高価な高級品というイメ−ジがあります。しかし、旦那衆と呼ばれた商業資本家や先生と呼ばれる図案作成者を除けば、生産者のステ−タスはそれほど高くはありません。戦前の韓人の場合、追い回しの奉公が終わると、蒸しと水洗の職人見習いになったようです。蒸しも水洗も工賃が相対的に安いわりには重労働なので、いやがられる仕事でした。何らかのアクシデントにより、完成品の色が落ちたり、傷ついたりした場合、職人がペナルティーを課せられ買い取らされるんです。さらに、戦前の京都では友禅染めに限らず、職人は極道商売といわれていました。たとえば、職人間の博打が盛んだったようです。花札はもちろん、シラミを走らせて早さを競わせたりしたようです。親方が賭場を開いて職人の賃金を巻き上げるということもよくありました。

(友常) 低ステータス産業だったいうのがポイントなわけですね。それは部落民と韓人とが競合する仕事にも共通しているように思います。

(河)第二に、工程作業が複雑で機械化に適さない労働集約型工業でした。また、季節や流行によって需要が左右されるため、大量生産にも限界があり、多品種少量生産にならざるを得ない工業でした。つまり大企業が参入しにくい業種です。そのためその生産を担うのは、中小零細企業ということになります。これら業者は資本力に限界があり、商業資本に従属せざるを得ません。商業資本主導により、生産工程毎の分業が促進され、小さな零細事業者が増加します。分業の促進は、作業を簡易化します。不熟練労働者であっても比較的短期間でその生産技術の修得を容易にしました。不熟練労働者であった韓人が雇われたのはそのためです。

 そして地域全体があたかも囲いのない工場になりました。京都の西陣、神戸の長田、大阪の西浜栄などはその典型でしょう。零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。分業が促進されて零細業者が増えれば増えるほど低賃金労働力需要が高まります。韓人は、その低賃金労働力需要に適応したと考えます。

韓人は、何故、被差別部落民との下層労働市場における競争に勝利できたのか


(友常)1920年代の段階で、被差別部落は収入が非常に不安定になっているという調査があります。不熟練労働に従事する部落民の構成比の変化も現れています。それは河さんの結論、つまり韓人労働者が京阪神下層労働市場において部落民と競合し、それに勝利したということです。それはいかにして可能となったのでしょうか。

(河) 戦前の韓人は、同種の労働に従事した日本人労働者よりも相対的に低賃金でした。にもかかわらず、戦前の行政調査は韓人の一部に余剰金が生じていると報告しています。それを郷里に送金したり、貯蓄したというのです。余剰金の多寡よりも、出稼ぎ労働者としての目的を達成できた人々が存在したという事実に注目しました。彼らの大部分は、単身渡日者だったと思われます。

 低賃金労働者であった彼らが、如何にして余剰金を生じさせたのかが問題となります。行政調査では、韓人の生活費が低いから、それが可能になったと推定していますが、それよりは、むしろ移民労働者となった彼らが、植民地朝鮮に進出した中国人移民労働者同様、生活費をあえて抑制したと理解すべきです。在日韓人の大部分は、日本に永住するために渡日したわけではありません。そこが部落民と違うところです。部落民は日本人ですから日本以外に帰るところはないんです。ですから生活費支出を抑制するにも限界があります。しかし韓人は、苦しくても、それは一時的なものであって、帰れる郷里があると考えたはずです。彼らは郷里の家族のために送金しなくてはいけない。だから日本での生活を切り詰めたと考えます。生活レベルに対する欲望は、在日歴が長くなるに連れ、徐々に芽生えてくると思うんです。それは定住によってもたらされた同化の所産です。

 韓人は多くの場合、下層労働市場での部落民との低賃金競争に勝ちました。大阪の西浜栄や三開の事例を見てみましょう。そこは、部落産業の皮革・製靴工業の中心地であり、その従事者の大部分が部落民でした。皮革・製靴工業は一般人の就労が稀であったという意味では、閉鎖的な労働市場を形成しており、そのことが部落民の雇用機会を保障したともいえるでしょう。ところが、相対的低賃金を武器とする韓人の登場はその状況を変えました。つまり、韓人移民労働者の皮革・製靴工業への就労によってもたらされた直接的効果は、相対的高賃金であった部落民の失業や雇用機会の減少だったのです。それが可能であったは、韓人が生活費の支出を押さえることができたということにつきると思います。移民労働者である韓人の行動的特性といえるでしょう。その際、重要な役割を担ったのが、韓人が経営した下宿業でした。たとえば、1923年の大阪市調査によれば、韓人下宿業は、一畳当たり2.17が住んでいることになり、押入も、縁縁も、台所も韓人であふれていたと報告しています。大阪市調査では、被差別部落民の密住実態が指摘されていますが、韓人は、それよりもさらに密住の度合いが高いことが判明しました。たとえば、1929年に実施された調査によれば、東成区中浜町の韓人の一戸当たりの平均居住者は、22.5人です。1928年11月の大阪市の一戸当たりの平均居住者が4.3人ですので、雲泥の差といわねばなりません。

 大阪市の西浜栄部落と三開部落でも比較しました。いずれにおいても部落民より韓人の方が密住の度合いが高かったのです。たとえば、西浜栄部落の場合、一人当たりの畳数が二畳以下の部落民世帯は、部落民世帯総数の35.○%であるのに対し、韓人は韓人世帯総数の62.7%でした。三開部落の場合、部落民世帯は41.3%であるのに対し、韓人は71.6%となります。このように、韓人は、混住者である部落民よりも、住居費支出を抑制していたのです。

(友常)その指摘も従来見落とされていた視点だと思います。本書では、生活費支出の抑制を韓人の行動的特性とみなしており、それを実行しうる者だけが、下層労働市場における低賃金労働力需要に継続的に適応することが可能であった、と主張されていますが、それはどういう意味でしょうか。

(河)求職出稼ぎを目的とする韓人は、何よりも就職を優先しなければなりません。彼らが進出できたのは、下層労働市場でしたが、その雇用は不安定なものでした。わずかな付加価値しか生まない不熟練労働は、新たな低賃金労働者の出現によって容易に代替されるからです。新たな不熟練労働者として、既存の韓人就労者の脅威となったのは、実は、新規渡来の韓人だったと思われます。彼らが就労を優先するあまり、すでに就労している韓人よりもさらなる低賃金を武器とし、その下層労働市場に進出しようとしたからです。日本政府が、中国人移民労働者の内地への入国を規制していたこともそういう状況をもたらした要因であったと思います。日本には、朝鮮不熟練労働市場で韓人離農者の前にたちはだかった中国人移民労働者というライバルが存在しなかったのです。

 雇用を脅かされた韓人の一部は、労働争議によってこれに対処しました。しかし、それは全部ではありません。既存の韓人就労者の一部は、生活費支出抑制に慣れていましたから、余剰金の形成にこだわらなければ、自己の低賃金をさらに低下させても生活することができました。つまり余剰金の額を一定の目安として、賃金をさらに下げることにより、その雇用を確保したのです。この韓人間のいわば生存競争が、その下層労働市場における低賃金のさらなる低下を促進しました。これが日本下層労働市場における低賃金構造の維持と強化をもたらした要因であったと考えます。そのことが結果として、韓人よりも相対的に高い賃金で、生活費支出の抑制に限界のあった日本人下層労働者、とりわけ部落民を失業の脅威にさらしたのです。


部落民と韓人との反目と今後の課題

(友常) 内部の識別についてはどうでしょうか。非常にインフォーマルな交渉関係があって、それは杉原達さんの『越境する民』でも指摘されている「対面関係」という視点にかかわります。河さんが指摘されているおもしろい問題としては、初期のレイシズムというものが近代社会で支配的になるとして、対面関係によるマイノリティ同士のレイシズムはイデオロギーとしてのあるいは公的言説としてのイデオロギーと少し違う。

 杉原さんが紹介されている例ですと、代書屋の例がでてきまして、済州島出身者を相手に代書屋が商売するということですが、やりとりがうまくいかないと、韓人が変な言葉を発して逃げていく。それはていねいに分析していくと、実は済州島の方言だったということがあります。これは落後の話なんですね。そのような形での対面関係が発生していた。先ほどのお話でも、内地人に限るというビラを書き換えていきますね。ねばり勝ちなのかもしれませんが、それでも発生する関係ですが、市場をめぐっては厳しい対立関係があったけれども、またそういう関係もあったということですね。その中で説明はされなくても、あいつは部落出身だとか、どこの出身だとかいうことがお互いにわかってしまう。そういうものが発生している空間は・・・・・・。

(河) 被差別マイノリティは敏感です。とくに、普段、出自を隠している人はその傾向が強いと思います。わかるんですね。相手の出自が。それを説明するのは難しい。感覚的なものだと思います。たとえば、西陣織り業者の中には、韓人もいれば部落民もいます。在日韓人業者は日本名を使っていますし、二世以降になると京都弁もうまいので、識別は困難です。部落民は出自を公表しません。ですからマジョリティの業者にはわかりません。けれどもマイノリティ同士は意識しているのです。交流はないんだけど、お互いの出自を知っているんです。

(友常) 京都では部落問題と在日韓人問題との一つの接点として「オールロマンス事件」というのがありました。ここでは触れませんが、当時の韓人と部落民とはどのような関係だったと考えますか。

(河)両者は基本的に避けていたと思います。喧嘩はしないんですけども、お互いに見下していたと思います。一部の人は連帯したかも知れませんが、それは少数派です。韓人、とりわけ一世は自分のことを両班の末裔だと信じていました。今は没落しているが血統的に正しいという確信があります。一世は、朝鮮の被差別民衆・白丁を部落民におきかえながら、乱暴な言葉を使えば「あいつらと自分は違うんだ」という優越感をもっていたと思います。部落民の方も乱暴な言葉を使えば「あいつらは植民地民族の二等国民だ」という優越感をもっていたのかも知れません。しかし、両者は反目していても社会経済的には結びついていました。このインタビュ−でふれたとおりです。

 また、両者は混住したのですから、生活面でも何らかの結びつきをもっていました。たとえば、田中部落出身の二世の韓人は、父親が食用の赤犬を捕また際、自分で殺さなかったといいます。部落民の屠殺業者に金を払って依頼したそうです。赤犬は彼の目の前で屠殺されました。その光景は、今でも忘れられないと証言しています。関西地域の被差別部落やその近隣で生まれ育った韓人は、多かれ少なかれ、そういう体験をしているようです。

(友常) 政策的な契機が入ってきて発生するイデオロギーがあると思いますし、またそれが介在しないである種やったりやられたりというルールがある世界では差別があっても、競合しても、共存する関係が対面関係の論理だと思います。差別があるわけだけれども、実体的にレイシズムになっていくということとは少し局面が違うということです。それ全部を同じ差別、レイシズムだと考えるとちょっと問題がありますね。

(河)在日韓人問題に関する限り、レイシズムのみを強調すべきではありません。在日韓人は差別されているといいながらも、実は、経済的活動は許容されていました。そうでなければ、ロッテ、大和製罐、平和、モランボンなどの企業は存在していません。もちろんそれは組織的闘争により勝ち取った権利です。けれども経済的活動すら保障されていないマイノリティが世界には存在します。韓国の被差別マイノリティ・華僑はその典型です。在韓華僑は、約1万8千人です。彼らは経済的活動を法制度的に規制されています。しかし、民族教育は保障されています。在日韓人とは対照的です。日本政府は、在日韓人子弟に対する韓民族的教育の保障には消極的です。基本方針が同化だからです。逆に、韓国政府は、在韓華僑子弟に対する漢民族的教育を保障することにより、同化を阻止しようとしています。中国人で中国語ができれば、海外で生活できるだろうということで民族教育を保障しているわけです。そのかわり華僑の経済的活動は規制します。日本とは逆なのです。彼らは韓国政府の思惑通り、海外に移住します。行く先は台湾が多いようです。しかし、台湾でも韓国語訛の中国語をしゃべるという理由で疎外されるようです。横浜中華街周辺にもそういう事情で日本にきた華僑がいます。

(友常) その視角はかなり有効だと思います。先ほどの「対面関係」という領域を設定されたということが河さんの議論で重要なところだと思います。エティエンヌ・バリバールなんかがいっているレイシズムというものとは違う差別の論理はあるんだけれども、共存関係の領域を設定できるということは、一枚板で差別を語るのではなくて、杉原達さんの議論でいうと、帝国主義国家をどう考えるのか、こちらからどう構成するのかということです。マイノリティに対する差別があるということが当たり前のことであって、それとどういうふうに向き合ったり、つきあったりしていくのかというとで問題を立てると、全く違うようなアイデンティティの取り方とか、マイノリティにとっての社会という考えがでるんではないでしょうか。
最後に、被差別部落民問題と在日韓人問題との方向性について、どのようにお考えですか。

(河) 被差別部落問題と在日韓人問題とは、それぞれの研究者に別次元の問題とみなされ、乖離してきたような気がします。それぞれの差別改善運動も同じ状況にあります。しかし、それは改善すべきです。両者は、日本における被差別マイノリティという点で、歴史を共有しているからです。とくに、過去の両者の歴史は総括しなければなりません。部落民や韓人、そしてそれを支えてきた日本人も、差別はいけない、差別をなくせ、と主張してきました。しかし、両者は、一部とはいえ、お互いを差別してきたと思うんです。

差別は誰にでも味わえる快楽です。自分が受けた差別を他人に転嫁することほど、気持ちの良い行為はないのかも知れません。また、両者には感情的にしっくりいかない事件があったはずです。田中部落で生まれた在日二世の人は、部落民は許せないといいます。彼が子どもの頃、同和事業の一環として田中部落に市営住宅を建設することになりました。そこに混住していた両者は、一時立ち退きの条件として市営住宅への優先的入居権を連帯して主張し、京都市と交渉したようです。彼はきれいな家に引っ越せると親から聞き楽しみにしていたそうです。しかし、彼の期待は裏切られました。市営住宅建設後、部落民は約束通り入居できたのですが、韓人は外国人であることを理由に入居を拒否されたのでした。結局、彼の一家は田中部落を離れました。彼は引っ越しのトラックの中で両親に、きれいな家に引っ越せないのは何故かと尋ねたそうです。すると両親は、白丁が裏切ったからだ、と答えたそうです。真偽はわかりません。しかし、少なくとも彼は傷ついたようです。そういう体験は、部落民の方もあるかも知れません。

ある韓人古老は、子弟教育のために、部落民の子女と同じ学区にならないよう引っ越したと証言していました。結婚の場合も反対されることが少なくありませんでした。このような関係は残念です。両者の歴史を総括した上で、お互いの差別意識に基づいた不幸な歴史を清算しなければいけません。そのためには、両方の研究者が共同で「在日マイノリティ史」なる歴史書を作成していく作業が必要です。難しいことですが、やらなければいけない課題であると思います。

(友常)聞き手としての私は今日は本当に勉強させていただきました。河さんの研究を踏まえて、部落問題と移民労働者問題の共同研究が確立できるといいと思います。本日はあがとうございました。
http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

7. 中川隆[-5787] koaQ7Jey 2017年11月28日 12:19:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

コリア・タウン
1)東京都


・台東区:上野駅の南東と南西には、それぞれ小規模なコリア地区がある。

終戦後、上野より在日韓国系・在日朝鮮系の闇市を合法的に締め出す目的で官民足並みを揃えて建てられた(当時としては)近代的ショッピングモール「近藤産業マーケット」に対抗する形で、韓国系の飲食店や商店が集まり形成された「国際親善マーケット(キムチ横丁)」という通りが上野駅南東の東上野にある。

また、在日韓国・朝鮮人が多く経営しているといわれるパチンコ産業の関連会社(遊技台メーカー等)も多い。ここは、戦前から続く在日韓国・朝鮮人の集住地区でもある。

上野駅南西の歓楽街「仲町通り」のあるブロック(上野二丁目)の中ほどには、韓国系飲み屋が集中している路地がある。こちらはニューカマーによって作られたものである。キムチ横丁の在日韓国・朝鮮人と仲町通りのニューカマーとの間では、近接しているにもかかわらずあまり交流がない。

浅草二丁目13・14番地にも古くから韓国系の焼肉店が固まる路地が存在することが知られている。この界隈は浅草六区と呼ばれ、国際劇場の賑わいを目当てに数多くの在日韓国・朝鮮人が商店や飲食店を開業した。そのなごりで現在でも定住者が多いことは一部で知られている。その後、日本人に帰化した人も多い。


・新宿区:大久保や百人町を中心に、戦後のニューカマーにより形成されたコリア・タウンで、「大久保通り」から「職安通り」にかけては沢山の韓国系商店が軒を連ねている。

東京最大、日本でも有数のコリア・タウンといわれている。2002年の公式統計によれば、東京都在住のコリアン人口は約8万人で大阪府に次いで2番目に多い。

新宿区民に占める在日コリアンの比率は3.063パーセントで、東日本では最高である。2010年の統計によると、23区で最も在日コリアンの数が多いのも新宿区である。


・港区:麻布十番一帯は近隣に韓国大使館や韓国中央会館(在日本大韓民国民団本部)があることから政府関係者や在日韓国人が多く訪れる場所であり、それらをターゲットにした韓国料理店が多い。成り立ちが新しい事や、周辺に高級住宅街が控えている為、高級店が多いのが特徴である。


・荒川区:三河島駅あたりは戦後、工場街となった際に朝鮮人が出稼ぎにきたことで、周辺は東京有数のコリア・タウンとなった。済州島出身者を中心としたコリアンが多く居住し、朝鮮学校や在日韓国・朝鮮人団体の支部が置かれている。


・足立区:関原・本木一帯には、荒川放水路の建設労働者の飯場に起源を持つ朝鮮人集落が存在する。

関原・本木の朝鮮人集落では、スリッパやサンダルなどの部品を家内工業で製造するゴム製品製造業が賑わったこともある。関連施設として、在日本朝鮮人総聯合会足立支部は本木に事務所を置いている。

また、近隣地区に属する興野には東京朝鮮第4初中級学校がある。

東京23区中、在日朝鮮人の人口が最も多いのも足立区とされた時期がある(2010年の統計によると23区では新宿区に次いで2位である)。


・江東区枝川:戦前の旧東京市による東京オリンピックと東京万博の開催権の返上を行った翌年(1941年)、「環境整備」を目的として簡素なバラックを建設し、主に旧深川区内に不法住宅を構えて居住していた朝鮮人約1000人の移住によりコリア・タウンが形成される。

コリアンタウンというほどではないが塩浜地区も定住者が固まった一角が存在する。

また、同じ理由にて台東・墨田・江東区に住んでいた数千人規模の在日朝鮮人も強制的に移住させられた。


・中央区湊


2)神奈川県

・川崎市:戦前から在住する在日韓国・朝鮮人が多い町で、2005年の統計では、川崎市全体で7357人の在日コリアンが住み、そのうち4275人を川崎区と幸区の両区が占める、関東では東京に次ぐコリア系住民の集住地である。

在日本大韓民国民団の支部が全国に先駆けて設置された。

川崎区浜町3丁目、4丁目の通称「セメント通り」入り口には、「川崎コリアンタウン」と銘打ったゲートが建ち、韓国料理店、焼肉店が集積している。なお、幸区戸手4丁目の多摩川右岸河川敷にあった集住地は、度重なる洪水後の治水工事と大規模マンション建設により、2007年初頭には完全に姿を消した。


・横浜市中区:中華街とその周辺はコリア系住民の集住地でもある。

横浜橋通商店街をはじめとして伊勢佐木町北側、京急本線日ノ出町駅から黄金町駅にはタイ人街と隣接して韓国人街があり、在日本大韓民国民団の横浜支部もその中にある。なお山手町に大韓民国総領事館がある。


・小田原市板橋:板橋の早川河川敷にはコリア系住民の集住地があった。

現在も民団湘南西部支部が所在するが、住民の多くは転出し当時の面影は余りない。


3)千葉県


・千葉市:戦前に千葉市随一の繁華街であった中央区栄町を中心にコリア系の風俗店や飲食店が集中している。

戦後、千葉空襲で焼け野原になった栄町、及び旧初代国鉄千葉駅(約700m程離れた現千葉駅へ移転後、跡地には千葉市民会館立地)周辺に在日朝鮮人が住み着いたところからコリア・タウンが発生したが、現在栄町の韓国人はニューカマーが中心となっている。

2009年4月から12月の千葉県警による風俗浄化で摘発された110人のうち、57人が韓国籍であり、不法滞在や不法就労助長、偽装結婚、偽造旅券所持などの闇ビジネスが韓国人社会に根付いていることが明らかにされている。


4)埼玉県


・川口市・蕨市:隣り合う西川口駅から蕨駅にかけて多くの外国人が住んでおり、ハングルの看板が多数存在する。


・さいたま市:かつて大宮区の東南部に屠場があり、当時従事していたコリアンが飯場として集住していたと思われる地域がある。付近には朝鮮学校が所在している。

その他、旧浦和市南部地域である南区の軽工業地区周辺に多く住んでいる。


5) 愛知県


・名古屋市:中村区の名古屋駅西側の通称「駅裏地区」にはコリア系の住民や店が多く、中部地方最大のコリア・タウンを形成している。

また港区や南区といった南部の工業地帯にも、戦前から軍需工場などが集中していた関係でコリア系住民が多数生活しており、彼らが経営する飲食店などが集中している。

他には春日井市や小牧市、豊川市などにも工廠など歴史的経緯からコリア系住民が多く住んでいる。


6) 大阪府


・大阪市生野区:戦前からのコリアンの集住地で、大阪市内には生野区西部地域を中心に現在83,432人(2009年現在)が居住し、日本最大のコリア・タウンを形成している。

住民に占める在日コリアンの比率も15.486パーセントで、日本のあらゆる自治体の中で突出して最も高い数値を示している。

近鉄・大阪環状線の鶴橋駅周辺には、韓国・朝鮮系の商店が大規模な市場をなしており、鶴橋駅周辺は済州島出身者・もしくはその子孫が多い。

大阪市に編入された1925年以降、それまでの農村地帯や住宅地から中小企業の密集地帯へと発展して行くが、同時期に大阪 - 済州島間の直行便が就航したためと平野川分水路工事の際に、働き口を求めて済州島から渡航者が殺到したという背景がある。

生野区コリア・タウンの中心部は旧猪飼野地区で、朝鮮式楼門を備えた御幸通商店街が異彩を放つ。御幸森小学校はコリアン児童の比率が日本人児童を超えている。

戦後は、鶴橋・猪飼野という旧来のコリア・タウンの周縁部にあたる寺田町、巽、小路地区へとコリア・タウン化が拡大し、特に旧遊廓の今里新地地区は新大久保に似た新興コリア・タウンと化しつつある。

隣接する東成区、平野区、東大阪市の他、浪速区、西成区などにもコリアンが多い。


7) 京都府


・京都市:南区東九条や右京区西院など、旧朝鮮籍系の住民や店が多い地区がある。東九条は映画『パッチギ!』の舞台となった。

宇治市:伊勢田町。詳細は、

ウトロ地区
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%AD%E5%9C%B0%E5%8C%BA

を参照。


8)兵庫県


・神戸市:長田区や中央区東部(旧葺合区)、「モトコー」と呼ばれるJR東海道線の三ノ宮−元町の高架下商店街は当初はコリア系住民の商店が大半であった。

長田区は、全国有数の焼肉店激戦地区で、本場韓国の味を再現した店も多い。

一時期、長田区にコリア・タウンを神戸市の手で作る計画が存在したが、防災上の区画整備に激しく反対していた中で阪神大震災が起こり、住宅地として整備されてしまったため、頓挫したものと思われる。


・高砂市:木曽町周辺

・三木市:志染町広野(神戸電鉄広野ゴルフ場前駅周辺)

・加古川市:別府町


中国・四国・九州地方

戦前において、山口県の下関港は関釜連絡船(現在の関釜フェリーの起源)が就航していたところであって、また、福岡県の筑豊炭田では多くの在日韓国・朝鮮人が労働に従事していた。終戦を迎えたとき、下関港や博多港は在日韓国・朝鮮人送還の主要な出発港となったが、様々な原因によって在日韓国・朝鮮人が帰還できない・しない事態が発生したため、山口県(特に西部)や福岡県に多くの在日韓国・朝鮮人が滞留することとなった。

現在では、韓国との間に毎日就航のフェリー(下関港・博多港 - 釜山港)、高速艇(博多港 - 釜山港)、航空路線(福岡空港 - ソウル・釜山)があり、空路・海路を通じて沢山の韓国人が降り立っている。以上のような背景から、山口・九州に在日韓国・朝鮮人、ニューカマー、韓国人観光客の三者が入り乱れることとなり、コリア・タウンの定義が難しい地域となっている。


また、九州地方は温泉地を中心に韓国人観光客にとって人気となっている場所が点在しており、特に宿泊設備の整ったハウステンボスなどではいつでも沢山の韓国人がいるような状況になっており、文化的にコリア化していないが韓国語が飛び交う「擬似コリア・タウン」となっている。


9)広島県


・広島市:戦前軍都だった広島には多数のコリア系住民が集住し、戦後も多くの人々が重工業や商業に従事して生活している。主に広島駅前(南区)や中区、西区などに多い。


10) 山口県


・下関市:下関駅北側一帯に多数の在日韓国・朝鮮人またはコリア系日本人が居住する。

下関駅の北向かい側のグリーンモール商店街は下関市におけるコリア・タウンの中心となるエリアであり、在日コリアンの経営する韓国の食材・雑貨を扱う店や焼肉店が多く軒を連ねることから「リトル・プサン」とも呼ばれ、毎月第三日曜日には朝市、毎年11月23日には「リトル釜山フェスタ」が開催されている。また、商店街内の一部店舗では韓国ウォン紙幣(1000、5000、1万ウォン)が使える。


11) 福岡県


・北九州市:下関市と隣接しており戦前から広島市と並ぶ軍事都市、工業都市だった北九州市も小倉を中心にコリア系住民の住居や商店が並ぶ。


・福岡市:博多区千代町地区や東区浜松町団地はコリア系住民の住居や商店が多い。
2000年頃、市民団体を中心に福岡市の博多ふ頭に九州初のコリア・タウンを建設しようとする署名運動が行われたが、頓挫している。


12) 大分県


・大分市:大分駅西側を中心にコリア系住民や食材店等が存在する。


・日田市:中心部から南地区にかけてコリア系集落が点在する。


13) 熊本県


・熊本市:かつての万日山(熊本駅西側)には麓から頂上付近までコリア系住民によるスラムが密集していた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3

大阪市内朝鮮部落。2011-04-13

■大阪市北区 兎我野町(通称:トキノ):古代朝鮮の都祈野(ときの)から名付けられました。

■大阪市中央区 久太郎町(通称:百済町):百済町と書いたのを後世に久太郎町とする。

■大阪市中央区 高麗橋(通称:コマ):朝鮮国使来朝のために架けたといわれる。橋の東端に難波高麗館がありました。

■大阪市中央区 難波(通称:ナルニワ):朝鮮語の「ナルニワ」が訛りナニワ、「日の出」る聖なる場所という意味。

■大阪市中央区 心斎橋(通称:新羅橋):心斎橋は昔、新羅橋だった。織田信長軍、石山本願寺軍攻撃配置図にも記載あり。

■大阪市鶴見区 鶴見区(通称:ツルミ):ツルミとは朝鮮語で鶴。古朝鮮語ではツル及びツルミで山を表した。

■大阪市小橋町(通称:オバセ):新羅系渡来人の小橋氏が由来。小橋でオバセと読みます。

■大阪市生野区(通称:イクノ):古代新羅系渡来人の生野長者が由来。

■大阪市生野区 林寺:古代このあたりに百済系渡来人である林史氏が居住しており、彼が立てた寺もありました。

■大阪市平野区 杭全(通称:クマタ):中世このあたりは杭全荘とよばれ、百済系渡来人の子孫である坂上広野麻呂の荘園であった。

■大阪市平野区 加美鞍作(通称:カミクラ):河内国渋川郡賀美郡といい、鞍作氏はじめ百済系渡来人が栄えた場所。

■大阪市東住吉区 百済貨物(通称:クダラ):生野区のあたりを古代、摂津国百済郡と呼び、百済系渡来人が多く住みついた。

■大阪市西成区(通称:ナル):東西に分かれる前は単にナリと言った。ナリはナルの転訛であり朝鮮語で太陽の意味。

■大阪市西成区 岸里玉出(通称:タムデ):古代新羅渡来系氏族の難波吉士(なにわのきし)の居住したところで、吉士が岸となる。

☆いまは、いろんな人が住んでいますが、過去は歴史あるところなのです。
http://blog.goo.ne.jp/ootomo0320/e/dca9e8ae1a642d4dfd36d73a412f6cb7


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

8. 中川隆[-5786] koaQ7Jey 2017年11月28日 12:25:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2010年4月27日
なぜ芸能界に「在日」が多い?

 昔から公然の秘密として言われる「なぜ芸能人に在日コリアンが多い」かだ。
 なぜだかは薄々知っていたが、上手にまとめてあるサイトがある。
 「日の丸君の日記」
http://hinomarukun.com/

 の「芸能界には昔から公然の秘密として、在日コリアンが多い。

なぜだろうか。」というホームページがある。 ここでは、


 1「実力世界説」 2「芸能身分説」 3「暴力団関与説」の三点に分けている。

 この区分が一番わかり易いと思われることと、意見がほぼ一致するので整理しながら引用させていただく。

http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/04/26/13.jpg


 特に「芸能身分説」の項にあるが、在日コリアンの殆どが朝鮮半島では最下位層(奴隷)の白丁(ペクチョン)、広大(大道芸人)・男寺堂(放浪芸能)出身だということだ。

 当然のことだが在日コリアンは、自称・両班(貴族)階級が多い韓国民からも「白丁」(奴隷)とみられているという。

 これは日本人より階級制度の実情に明るいのだから仕方ないことだ。
 韓国民からすれば、在日コリアンは全員奴隷階級と思っているのだろう。

 生粋の朝鮮半島人が、日本人以上に在日コリアンを嫌う理由がここにある。
 そして、「在日」が戦後帰国しなかった最大の理由もこれだと言う。

 白丁(ペクチョン)は帰国して、元の階級に戻るのはイヤだと思っただろうし、
 それより、差別の少ない日本で威張り散らしていたほうが楽と思ったことや

 密入国者だった(殆どが密入国と言われている)

 本貫(日本の戸籍のようなもの)が奴隷なのでない、

 徴兵制度から逃れたい。

 という、日本人には理解し難いいろんな理由があったようだ。

http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/04/26/min01_2.jpg


 朝鮮半島では、労働を貶める劣化儒教では、芸能関係者は白丁と並ぶ最低ランクの身分とされていた。

 白丁は、本来「白い服を着た人」のことで傘をかぶった姿を記録写真などで見ることが出来る。

 また最近の韓国ドラマ『テルン選手村』にも「白丁」という言葉が出てくる。

 韓国民の約四分の一は「白丁」だったといわれ、ドラマにも登場することは自然なことだ。「白丁」が登場するドラマは、「林巨正」、「白丁の娘」Min01_2、「茶母」、「張吉山」、「土地」は白丁が主人公で白丁の人生が題材らしい。

 よって、白丁と言っても差別とは言えないことを指摘しておく。
 朝鮮半島では、日常的用語だという。

 例えば「林巨正」の映画宣伝に、16世紀の朝鮮に実在した人物で、白丁と呼ばれる賎民階級の出身。 白丁は主に屠殺業に従事していた。

 波乱万丈の生涯を描いた歴史大作とある。 


 つまり在日コリアンの芸能人は、芸能という「遺伝子」DNAが、子、孫に引き継がれ、異国の地・日本で花開いたと見れば分かり易い。

 歌や踊りの能力は、見よう見まねもあるかも知れないが遺伝すると言われている。

 沖縄出身者の芸能人が多いことと、根底は同じと見ている。

 琉球王国でも、衣服や「ハチマチ」 の色などを定めた厳しい身分制度があった。
 中国や日本に気を遣いながら国を維持して来た琉球は、芸能で賓客をもてなす必要があったと言われている。

 なお歌手の和田アキ子は、1949年4月10日、大阪市東成区生まれ。本名は金福子(通名・金海福子(かねうみ ふくこ))で、父親は済州島から渡ってきた金基淑(金海基淑)氏、母親は慶尚南道からやってきた金海森子氏であるという。

 2005年週刊文春の取材に答えている。

 なお1968年、「和田アキ子」としてデビューするため、先に帰化した叔父の「和田忠浩(金和淑)」の籍に入って和田姓を名乗る。

 和田忠浩は「ミナミの帝王」のモデル。

 それから、済州島出身の二世ということは、両親は1948年に発生した済州島四・三事件からの難を逃れるために、日本に密入国したと推測される。

 この事件は韓国政府の「赤刈り」とも言われ、済州島民が大量虐殺されている。
 数年続いたという。

 当時、この島から日本に密入国した島民は5〜6万人とも言われている。

 そして大阪では鶴橋、東京では三河島にコミュニティーを作った。
 隠れ家だ。

 それから、済州島は朝鮮半島の流刑地であり、最下層の白丁が大量に住んだ島だ。

 韓国の大学でも、在日は白丁が移民したのだと教えており、よって、本国の朝鮮人は奴隷である在日朝鮮人と一緒にされるのを嫌がる。

 つまり、自分の出身国からも軽視されているのだ。
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-fae1.html


在日 有名人(中川隆 註 真偽不明の噂です)

土井たか子(李高順)
福島瑞穂(趙春花)
筑紫哲也(朴三壽)
佐高信(韓吉竜)
山田花子(金花子) 
原田泰造(金泰造)
安田成美(鄭成美)
マッハ文朱(李文朱)
大山倍達(尹泰植)
力道山(金信洛) 
岩城滉一(李光一)
ジョニー大倉(李雲煥)
田中麗奈(鄭麗奈)
都はるみ(李春美)
松任谷 由実(金 玉子) 
星野真里(李真里)
後藤真希(呉真希)
松宮貴至(生野巽)
沢田研二(李研二)
金子鎮宇(李珍宇)
安川正義(孫正義)
立原正秋(金胤奎)
布袋寅泰(混血)
吉川晃司(レコード会社発)
篠原涼子
中村あずさ
八代亜紀(琉球と半島の混血) 
浅野温子
池山隆寛
達川光男
金村義明(キムギミョン)
金本知憲
光山英和(この名字に倭人を知らん)
伊集院静
太平かつみ
神保美喜
杉原輝男
大原麗子
安原麗子(ex少女隊;やまとの歌謡曲タブーの韓国でオンステージって間違いなくその筋)
松本伊代(今後アイフルのCMに出てくるタレントは在日)
aiko(柳井愛子,父親は総聯地方幹部)
EPO(佐藤榮子)
MAIKO(栄舞子,ZONE)
MEGUMI(山野仁,仁でめぐみと読む) 
misono(神田美苑)
MIYU(長瀬美夕,ZONE)
Reina(宮内玲奈,MAX)
YOSHIKI(林佳樹,X-JAPAN)
YOU(松岡ユキコ)
YUKI(北村夕起,TRF)
赤井秀和
アンリ菅野(梅山静子)
いしだ壱成(星川一星,half)
いしのようこ(石野陽子)
石野真子
いっこく堂(玉城一石)
うつみ宮土理(井川三重子)
ウド鈴木(鈴木任紀)
ガクト(岡部学,混血)
加勢大周 
かたせ梨乃(杉田典子)
かとうれいこ(横尾房江)
川島直美
神田正輝
小西真奈美
島袋寛子(混血:沖縄・鮮人)
スガシカオ(菅止戈男)
すぎやまこういち(椙山浩一)
せんだみつお(中野光雄) 
つかこうへい(金原峰雄,金峰雄,)
つのだじろう
つんく♂(寺田光男)
トミーズ雅(北村雅英,母親・北村金子)
とよた真帆(青山真穂)
ドンドコドン山口
名高達郎(名高達夫)
なべおさみ
なべやかん
にしきのあきら(錦野旦)
西田尚美 
西村ひろゆき(2ちゃんねる管理人)
ピエール瀧(瀧正則)
びびる大木・ヒロミ(小園浩己)
ベンガル(柳原晴郎)
ポール牧(榛沢一道)
ホンコン(蔵野孝洋)
モト冬樹(武東裕男)
モンキッキー(大森明)
もんたよしのり(門田頼命)
米倉涼子
ラッシャー板前 
りゅうこうじ(笠浩二,C-C-B)
愛内里菜(垣内里佳子) 
安めぐみ
安岡力也
安原麗子(少女隊)
安西ひろこ(安西紘子)
伊集院静
伊藤英明
伊藤美咲(安斎智子)
井出らっきょ(井出博士)
井上晴美(北村仁絵)
井上和香(新村直子)
井川遥(井川秀恵,趙秀恵)
井沢八郎(工藤金一)
井筒仁康
一色紗英(畠山紗英)
引田天功(板倉満里子)
宇多田ヒカル(岩下光)
永井真理子
永山藍子
永瀬正敏
永島敏行
永島暎子
永六輔(永孝雄,台湾人か)
円広士
園まり(薗部毬子)
園原佑紀乃(園原ゆかり)
奥菜恵(三桝貴恵)
奥田瑛二
押尾学岡
安由美子
岡江久美子
岡崎友紀(岩倉友紀子)
岡田可愛
岡八郎(市岡輝夫) 
岡本夏生(金村幸子,李夏生,李幸子)
沖雅也(日景城児)
沖田浩之(置鮎広之)
下川辰平
加護亜衣(B&K)
夏川結衣(宮川美紀)
河合奈保子(金原奈保子)
河合美智子(鈴木一栄)
河島英吾 
火野正平(二瓶康一)
花咲まゆ(井沢由美)
華原朋美(下河原朋美)
角川博
角田ひろ 
叶恭子(小山恭子,混血:鮮人とフィリピン)
叶美香(玉井美香,混血:鮮人とフィリピン) 
舘ひろし(舘廣)
吉井怜(飛知和怜) 
吉岡秀隆(川口,蕨界隈)
吉岡美穂(焼肉屋の娘)
吉幾三(鎌田善人)
吉川ひなの(高田愛)
吉川晃司 
吉田日出子(平松日出子)
吉野きみ佳(吉野公佳)
丘みつ子(森田光子)
久本雅美 
及川光博
宮下順子(金英姫)
宮川大助(松下孝美)
宮内淳 
宮迫博之
宮本信子(池内信子)
玉置なみ(玉置成美)
玉置浩二 
玉木宏
玉利かおる
桑名将博
桂木文
原久美子(北原久美子)
原口まさあき(原口晶匡)
原史奈
原田伸郎
原田美枝子
原田龍二
五木ひろし(松山数夫,混血:同和・鮮人)
倖田來未(神田來未子)
光浦靖子
光本幸子
工藤静香
工藤夕貴
幸田シャーミン 
広末涼子
江角マキコ
江波杏子
香坂みゆき
香山美子
高岡早紀(高岡佐紀子)
高橋克典(梅宮の親戚)
高見恭子
高樹澪(貞谷油佳里)
高倉・高知東生(大崎丈二)
高島礼子
高嶋ちさ子(盛田知佐子)高品格
高峰美枝子
高木美穂
黒沢優(混血:母・林寛子)
黒谷友香(日韓合作ドラマ出演)
佐藤絵梨子(佐藤栄利子,崔江利子)
佐野元春
坂田利夫(地神利夫)
坂東英二(満州?) 
坂本九
坂本冬美
崎谷健次郎
桜金造(佐藤茂樹)
桜庭あつこ(金成亜希子)
三崎千恵子(宮阪トシ)
三田佳子(高橋嘉子)
三田寛子
山根元代 
山咲千里(杵村千里)
山崎まさよし
山田雅人
山田邦子
児玉清(北川清)
寺島純子
鹿賀丈史(勝田薫且)
篠田三郎(大塚晴生)
篠田正浩 
柴咲コウ(山村幸恵,千川部落)
手塚さとみ
酒井若菜(酒井美幸)
酒井美紀
酒井法子(高相法子) 
樹希樹林
出川哲郎
春一番(春花直樹)
春日八郎 
勝俣州和
勝呂誉 
小坂一也
小松千春(小松崎千春)
小川菜摘(夫・浜田雅功) 
小泉今日子(厚○市文化会館/温水方面の農村)
小倉優子
小沢健二 
小池栄子(下北沢パチンコ屋の娘)
小柳ユキ(黒柳りん)
小柳ルミ子
小林幸子(焼肉屋)
松浦亜弥(松村亜由美,皮屋の娘,BK混血) 
松岡きっこ(岩谷紀公子)
松岡充(SOPHIA)
松岡俊介
松下由樹(松下幸枝)
松金洋子 
松坂慶子(高内慶子,父親が鮮人,戦中長崎から海路脱出 
松坂沙良
松山三四郎(秦光秀)
松山千春
松村邦彦 
松村雄基(松村憲幸)
松嶋尚美(オセロの白、西成部落) 
松嶋菜々子(座間出身,父親は倒産した某金属係企業)
松本紀保(藤間紀保子)
松本莉緒(金野恵)
笑福亭笑瓶(渡士洋)
上島竜兵(上島龍平)
城戸真亜子
常盤貴子(尼崎潮江出身,自称横浜)
森下愛子
森口博子(花村博美)
森口瑤子(坂元陽子)
森高千里(父親が森高・母親が高森)
森次晃嗣(森次浩三)
森進一(森内一寛,母親が鮮人)
森川美穂(榎並美穂)
森田健作(鈴木栄治)
真行寺君枝(大口君枝)
真中瞳(小林真知子,焼肉屋の娘) 
神戸一郎
神保美喜
神野美伽(荒木美佳)
村春子(石山春子)
杉本彩(パチンコ屋の娘)
杉本哲太(杉坂哲太)
菅原都々子
成宮寛貴
星由里子
清岡純子
清水健太郎(園田巌)
西山浩司
西川のりお(川西康成)
西村和彦(伏見茶屋 仁志むら亭)
西村知美(西尾知美)
西田ひかる(西田光)
青江三奈(井原静子) 
青田典子
斉藤陽子
石橋陵(石橋秀樹)
石原さとみ(石神国子)
石川ひとみ(山田ひとみ)
石川秀美
石川梨華(揚梨華,父親は全国朝鮮総聯幹部)
石塚英彦
石田ひかり(訓覇ひかり)
赤木春恵
千秋(藤本千秋)
千堂あきほ(先名iu晃穂)
千葉真一(前田禎穂)
川村ひかる(篠崎由希恵)
川中美幸 
浅香光代(北岡昭子)
浅香唯(西川亜紀)
浅野ゆう子(赤沢裕子)
前田吟(前田信明)
倉田まりこ
相田翔子(千川部落周辺,鈴木敬子)
相本久美子(倉内久美子)
草笛光子(栗田光子)
村上遥(安保由里子)
太田光
大原かおり(大原香織)
大杉漣(大杉孝)
大谷直子
大塚寧々
大鶴儀丹
滝沢秀明(旧姓・指田)
宅麻伸(詫摩繁春)
沢口靖子
淡路恵子(井田阿紀子)
池宮彰一郎(池上金男,池金男)
中山美穂(辻美穂,宋藍姫,選択屋)
中森明菜(B&K,肉屋)
中川安奈(栗山安奈)
中村あずさ
中尾彬
中野英雄
仲根かすみ(植可澄美)
朝丘雪路
長瀬愛
長瀬智也
椎名詰平(岩城正剛)
椎名林檎(椎名裕美子)
辻仁成
辻沢杏子
堤大二郎
東ちづる(東智鶴)
藤原紀香(尼崎潮江朝鮮部落)
藤原竜也(藤原竜也)
藤村志保(静永操) 
藤谷美紀(金谷満紀子)
藤本美貴(尹美貴,混血(母親)離婚,朝鮮総聯,北海道の焼肉屋) 
洞口依子(葛西依子)
奈美悦子(並川悦子)
内山理名(玉井杏奈,南足柄のK部落) 
内村光良
内田裕也(内田雄也)
内藤剛志
内藤洋子
内藤陽子 
内野聖陽
南こうせつ(南高節)
梅宮アンナ
梅宮辰夫(梅宮辰雄) 
萩原聖人
柏木由紀子(大島由紀子)
柏木礼音(涼柴央)
白石美帆(阿久津桜)
白川由美(二谷安基子)
白都真理(白木真理)
白竜(田貞一)
畑野浩子
畠田理恵
八乙女光(佐々木光) 
八代亜紀(混血:沖縄・鮮人)
飯島愛(石井光子)
樋口可南子
美木良介(寺田良介)
氷室恭介(寺西修)
浜崎あゆみ(浜崎歩)
浜田雅功
富司純子(寺嶋純子) 
布施明
布袋寅泰(父親が鮮人)
風吹ジュン(川添麗子)
平山あや
片瀬那奈 
保坂尚輝(保阪尚希)
宝生桜子(山本絵里歌)
宝生舞(北村麻衣)
宝田明 
豊原功輔
豊川悦司
北原賢治
北原三枝
本田美奈子(工藤美奈子)
本木雅弘
麻木久仁子(松本久仁子)
網浜直子(秦直子)
木ノ実ナナ(池田鞠子)
柳ジョージ
柳沢慎吾
柳樂優弥
優香(岡部広子,呉広子) 
有馬隼人(TBSアナウンサー)
由紀さおり(安田章子)
由美かおる(西辻由美子) 
遊井亮子(金井亮子)
余貴美子
揚原京子
揚田あき
葉山レイコ(栫美保子)
遥洋子
隆大介(柳明男)
龍円愛梨(テレ朝アナウンサー)
龍田梨恵
涼風真世(森永佳奈女)
鈴木京香
鈴木紗理奈(宗廣華奈子)
和央ようか
眞鍋かをり
池田大作
浜崎あゆみ(濱崎歩)=父は朝鮮半島から来たヤクザ 
和田アキ子(金現子,飯塚現子)=大阪の在日スラム地区のキムチ商人の娘、従兄弟は金海道場というテコンドーの道場を開いている 
ソニン=もちろん在日、高知県の国際スクール出身 
倉木麻衣(青野麻衣)=父は在日 西条秀樹(李龍雄)=韓国、斉州島出身
松田優作=父は日本人、母が韓国人、つまりハーフ 
北野武=クオーター(4分の1朝鮮人の血が入っている)
金子鎮宇(李珍宇)


光高姫安金赤白青黄柳竜龍英栄永東西南北希穂春夏秋冬玉明花美が姓名に入っていることが多い。
http://blog.goo.ne.jp/ootomo0320/e/3edd743746d41ba98b0d1c653e72699d?fm=entry_awp_sleep


「朝鮮人認定」のいい加減さ

議論で反論できなくなった場合には、相手を「朝鮮人認定」さえすれば、論破したと判断してくれる時代になった


インターネットに氾濫する差別主義的な発言 「朝鮮人認定」の効果
https://kuantan2007.wordpress.com/2009/09/29/%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%bc%e3%83%8d%e3%83%83%e3%83%88%e3%81%ab%e6%b0%be%e6%bf%ab%e3%81%99%e3%82%8b%e5%b7%ae%e5%88%a5%e4%b8%bb%e7%be%a9%e7%9a%84%e3%81%aa%e7%99%ba%e8%a8%80%e3%80%80%e3%80%8c/


人権や平等を擁護するような主張をすると「お前は朝鮮人だから」「在日の利害から」などと勝手に決め付けて来る者がネットには多い。

たとえば、タイヲタ右翼(右よりのタイ偏愛者)連中は、海外旅行の掲示板などに巣食っていて、長年「タイが嫌いだというやつは朝鮮人だ」、「タイを批判するのは朝鮮人だ」というレッテル貼りを続けている。その根拠といえば、「タイは親日国だから」とか「朝鮮には王室がないから王室や皇室がある国を嫉妬しているのだ」というような荒唐無稽で下品なものばかり。彼らはおそらくタイ旅行関係の業者だと思われるが、「朝鮮人認定されたくない」という一般の意識を利用してタイに対するネガティブな書き込みを一切許さないようにしようとする。(彼らのタイ美化の情熱もカルトめいている)。

一度「朝鮮人認定」されてしまうと実際に面倒なことがある。たとえば、タイでは他の国ではめったに見ないようなひどい白人崇拝や人種差別を見ることが多いが、そういうことを指摘すると、「朝鮮人認定」されている場合には、「それはお前が朝鮮人だから、朝鮮人はタイでも嫌われているからだ」といわれて終りである。これでは議論にならないし、実態を知らない人はそういうものかと思ってしまうだろう。このように、「朝鮮人認定」というのはネット言論では実際に効果を発揮することがあるのである。議論にもならなくなるから、誰でもできればデタラメな朝鮮人認定はされたくない。

「不用意な発言をすると朝鮮人認定される」という雰囲気を掲示板やブログの世界に作り出すことによって、「朝鮮人認定されるようなことは言わないほうが良い」という自己規制を利用して、ネットの言論を誘導し操作しようとしてきた連中がいるのも確かだろう。

ネットで「朝鮮人認定されると発言の信憑性が薄くなる」という現実自体、差別的な意識の現われといえるが、インターネットを熱心に利用して世論を作ろうとする人々には、それ以外の人々に比べて差別主義的な人間が多いのも事実なようだ。

なお、「朝鮮人認定」の問題は、実名か匿名かの問題とは関係がない。プライバシーをさらけ出している有名人でさえデタラメな「朝鮮人認定」「在日認定」を受けているのである。Googleで有名人の名前をランダムに検索してみればわかるだろう。


____


インターネットに氾濫する差別主義的な発言 「朝鮮人認定」

在日認定とは、ある人物が在日コリアンであると一方的に認定することである。


一部の日本人の「こんなおかしな奴は日本人じゃない。きっと在日だ」という発想から、親韓だったり、反日的な言動を取る人物によく認定される。

インターネット上で不人気の著名人(特に芸能界)の多くは、真偽の検証をされる事無く、同和か創価学会員か在日かのどれか(或いは全て)であると言われる。上記の韓国人による認定を真に受けるケースもあり、芸能人は無条件で在日認定がされる事も多い。

例として、以下のような人物が挙げられる。


内柴正人
小沢一郎
菅直人
土井たか子
福島瑞穂
池田大作
島田紳助
井筒和幸
清原和博
草なぎ剛
松井玲奈
山本彩
野々村竜太郎


この他、凶悪犯罪者や大阪・愛知・福岡・広島など地方都市の人間は些細なきっかけでも在日認定されがちである。

また近年では、容疑が固まっていなかったり、罪状が軽微である事件など、何らかの理由で実名報道されない容疑者全員を在日認定する者する者もちらほら見かけられる。これは、反日と認定している新聞紙等が「在日韓国人であることを理由に氏名を伏せ、悪い印象を与えないように情報操作している」という根拠の無い思い込みから来ているものである。

この場合の在日認定における「在日」とは、国籍や血筋が韓国・朝鮮系であるかということよりも「その人自身の思想や言動、倫理観がどうか」を問うていることが多いため、日本人でしかあり得ない家系や職業に就いている者であっても(皮肉や遊び半分で)在日認定されることはよくある話である。ゆえに、在日認定されている者のことを本気で血筋が韓国・朝鮮系であると確信してしまうと誤った認識に陥りやすいので、注意する必要がある。

中にはあまりにも繰り返し在日認定されることを理由に、自分自身が出演しているテレビ番組「せやねん!」(毎日放送)の生放送中に在日説を否定し、日本人であることを公言したトミーズ雅のような例がある。

「見た目それっぽい・大阪市生野区出身(人口の約20%が在日韓国人という地域)・北村姓(在日韓国人が通名として使う例が比較的多い)」という3連コンボが一見成立しているかのように見えるが、雅の父親が兵庫県北部出身で母親は大阪市内の菓子問屋のお嬢さんであった、という反証材料(両親が韓国籍とは縁遠い地域や家柄の出身)があり、一見それらしき事実を並べ立てただけでは断定できないことを如実に物語っている事例であると言えよう。

ちなみにこのとき雅は創価学会員説も同時に否定している。

また、苗字が韓国性に似ている、通名で多用される(金、林、張など)、苗字が左右対称であるという理由で在日認定されてしまうことも多いが、例えば金姓などは金子や金丸など日本に古くから存在する姓名も多く(日本が黄金の国と呼ばれていたように一時期は金銀の算出が世界でも群を抜いており、鉱山関係者や勘定奉行など金に関わる姓名は非常に多い)、また特定の苗字に在日が多いというイメージも都市伝説であり、著名な在日に目立つという程度の印象だけで、統計的な根拠があるわけではなく、実際に在日の名乗る苗字はもともと日本に多い苗字(佐藤とか鈴木とか)を筆頭に、分散しているので「〜という苗字に在日が多い」というのは意味のない推論であると言わざるを得ない。

(苗字その真実)http://michiroku.atwebpages.com/

他に「金」と書いて「こん」と読んだり、「李」と書いて「すもも」と読んだりする姓の日本人も居るため、字面だけで判断しないことも大事である。[1]

[2]


脚注1.*
ちなみにナチス前夜、ナチス下のドイツにおける反ユダヤ主義においても、名前が「ユダヤっぽい」という理由で「ユダヤ認定」がなされた例は数多ある。


脚注2.*
反ユダヤ新聞シュテルマー主筆のユリウス・シュトライヒャーは、ニュルンベルク裁判においてアメリカ人検察官ロバート・ジャクソンを指して「彼はジャクソンと名乗っているが、私に言わせればジェイコブソン(ユダヤ名)でありユダヤ人だ。

外見を観察していれば解かる」とユダヤ人認定をしたり、かのラインハルト・ハイドリヒは祖母の再婚相手の性が「ユダヤっぽい」ことでユダヤ人混血であることを疑われ、そのコンプレックスの反動から、激烈な反ユダヤ主義に傾向していったとも言われている。


___


更には、最近では創作分野における在日認定もあり、けいおん!、ローゼンメイデン、アマガミ、じゃりン子チエなどの一部登場人物も「名前がそれっぽい」「顔がそれっぽい」といった理由で在日認定される事があるが、大半の場合はネタの領域でいじられているに過ぎない。[3]


脚注3.*

秋山澪(けいおん!)→チェ・サンジュ

金糸雀(ローゼンメイデン)→キム・シジャン(김 사작) 

暁美ほむら(まどマギ)→ヒョ・ミヨム

塚原響(アマガミ)→顔がそれっぽい

じゃりン子チエ→出身地がそれっぽい


__


企業の在日認定

「データセンターを韓国に作った」「韓国企業と提携した」など、韓国や北朝鮮に対して有益な行動を行っているという推測から、法人そのものが在日・反日認定される事がある。人物同様、他の先進国や途上国と関わりを持っても、在日認定を受けることは滅多にない。ごく稀に、財務省や文化庁など、日本の省庁も在日認定をされることがある。


在日認定を受けた事のある企業

ソフトバンク
花王
ドコモ
電通
ソニー
吉本興業
ロート製薬
サントリー
キリンビバレッジ
ヤマダ電機
アサヒビール
エイベックス
イオン
マスコミ四媒体に属する各企業(フジテレビ、毎日新聞など多数)

インターネットに氾濫する差別主義的な発言 「朝鮮人認定」

チョンノート〜在日認定リスト〜
http://iroiro.alualu.jp/sekaisi/zainiti_nintei/zainiti_nintei_index.html


チョンノートルール


○有名人はすべて韓国系である。

○本人が否定しない場合は在日認定。

○本人が否定した場合でも韓国系と明かさない場合があるので在日認定。

○帰化していても少しでも韓国人の血が混ざっていれば韓国系とし在日認定できる。

○外国でもこの法則は適応される。

○韓国系ということが確認されなければ韓国系である。

○本人が韓国系であることを否定しない限り韓国系である。

○韓国系であることを強く否定すると回避できる。

○韓国人に嫌われると回避できる。


 在日認定とは?
 日本人には冗談みたいな話だが・・・

 韓国では『日本で活躍する人はすべて在日韓国人、もしくは韓国系である』という妄想がある。

 その妄想はネットの噂から新聞報道までいろんなところで語られているのだが、

 中には『おいおいそりゃないだろう('A`)』と言うのがたびたび登場し、笑いを提供してくれるのだ。

 その多くが本人に知られないまま、いつのまにか韓国での常識としてなってしまう場合も多い。

 え?あの人が?え?この人も?嘘か誠か在日認定の数々。


日本女子フィギュアスケート公認ブック2007-2008 安藤美姫 (あんどう みき)

本名:安藤 美姫
生年月日:1987年12月18日
職業:女性フィギュアスケート選手
ソース:朝鮮日報
  名字の「藤」の字を取り、韓国語読みすれば「安美姫(アン・ミヒ)」という韓国人風の名前になるため、韓国人なのに名前をひそかに日本式にしたのではないか、というもっともらしい説も流れた。本人も否定したが韓国系だとしても明らかにしなかった可能性もあるので在日認定(丶`∀´>ニダ


乃木希典―高貴なる明治 乃木希典 (のぎ まれすけ)

本名:乃木 希典
生年月日:1849年12月25日
職業:軍人
ソース:神戸新聞
 東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。日露戦争・旅順攻略戦が有名。乃木希典の祖先が、城崎郡城崎町の野木谷に住んだ朝鮮人捕虜だったというこれまで公になることがなかった説があるのです。否定する根拠がないので在日認定(丶`∀´>ニダ


米田哲也 (よねだ てつや)

本名:米田 哲也
生年月日:1938年3月3日
職業:野球選手
ソース:スポーツ2.0
  『韓国系に化けた稲尾和久』記事内で「日本のスカウトから「阪急ブレーブス(オリックスの前身)に入団した米田哲也も韓国系」という言葉は聞いた記憶がある」と在日認定。「米田は死ぬまで自分が韓国系なのか否かを言わなかった。」と記事にはあるが本人はまだ生きている。そんなことはケンチャナヨで本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


神様、仏様、稲尾様 稲尾和久メモリアル 稲尾和久 (いなお かずひさ)

本名:稲尾 和久
生年月日:1937年6月10日
職業:野球選手
ソース:NAVER/OSEN
 稲尾氏が亡くなったときに『稲尾さんに関して韓国系という噂が流れ、本人がこれを正式には明らかにしなかったが、骨格やスタイルから見て韓国系だと誰も分かっていた』と在日認定。しかし後日作る会のメンバーだと解ると『韓国系に化けた稲尾和久投手』と在日説を否定する報道をした。アイゴー!!作る会のメンバーが在日のはず無い(丶`Д´>ニダ


真説「たけし!」―オレの毒ガス半生記 (講談社プラスアルファ文庫) ビートたけし (ビート たけし)

本名:北野 武
生年月日:1936年2月20日
職業:お笑いタレント
ソース:スポーツ韓国
 本人が勘違いしてクォーター発言。後に母自ら否定し、間違いだったと雑誌などで証言するも、『韓国系であるキタノ・タケシ(北野武・60)監督が日本を代表する文化人に選定された』などの報道がされている。 本人が否定してるが、強く否定してないのでいないので在日認定(丶`∀´>ニダ


21世紀への伝説史 長嶋茂雄 長嶋茂雄 (ながしま しげお)

本名:長嶋 茂雄
生年月日:1936年2月20日
職業:野球選手
ソース:ヘラルド経済
 ミスタージャイアンツこと長島茂雄も韓国系という説が公然の事実として知られていると報道。他の記事などでも多く見られる。本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ

金田 正一 (かねだ まさいち)

本名:金田 正一
生年月日:1933年8月1日
職業:野球選手
ソース:ヘラルド経済
 『日本プロ野球を振る韓国系選手たち』という記事で、日本プロ野球通算最多勝記録保有者である金田正一が代表的な韓国系選手だった。韓国名はキム・ジョンイルで去る1969年引退した。と報道。本人も認めているので当然在日認定(丶`∀´>ニダ


林 昌範 (はやし まさのり)

本名:林 昌範
生年月日:1983年9月19日
職業:野球選手
ソース:ヘラルド経済
 『日本プロ野球を振る韓国系選手たち』という記事で、イム・チァンボムという韓国名を持つことが知られた林はハンサムな顔で、韓国でもすでに多くのファン層が形成されている。 と報道。本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


金本知憲 祝!2000本安打達成(仮) 金本 知憲 (かねもと ともあき)

本名:金本 知憲
生年月日:1968年4月3日
職業:野球選手
ソース:ヘラルド経済
 『日本プロ野球を振る韓国系選手たち』という記事で金本知憲の親はどちらも在日韓国人、韓国名キム・ジホンだ。と報道。他にも朝鮮日報などで『金本は両親が韓国人である韓国系3世で、日本のマスコミにも自ら韓国系であることを明らかにしてきた。』と報道されている。帰化しているようだけど本人も認める韓国系なので在日認定(丶`∀´>ニダ


金田 政彦 (かねだ まさひこ)

本名:金田 政彦
生年月日:1969年4月30日
職業:野球選手
ソース:ヘラルド経済
 『日本プロ野球を振る韓国系選手たち』という記事で金田政彦の韓国名はキム・ジョンオンだと韓国系と紹介。 本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


ホームランアーチスト 清原和博 500本塁打の軌跡 清原 和博 (きよはら かずひろ)

本名:清原 和博
生年月日:1967年8月18日
職業:野球選手
ソース:ヘラルド経済
 『日本プロ野球を振る韓国系選手たち 』という記事で韓国系と紹介。本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


シンプル・リーダー論―命を懸けたV達成への647日 (文春文庫) 星野 仙一 (ほしの せんいち)

本名:星野 仙一
生年月日:1947年1月22日
職業:野球選手
ソース:OSEN/Yahoo!Koreaニュース
 Yahoo!ジャパンプロ野球・知恵袋に『星野監督が韓国系だという話があるが本当か? 本当なら、日本代表チーム監督として韓国戦は情が入り込んで不安だ』という質問を『星野が韓国系だという話は、これまで常に申し立てられてきた』と報道。その後、朝鮮日報でも『韓国系として知られる星野監督』と報道するも、こちらは数時間で削除された。本人もそうではないと否定しているが、強く否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


レッドソックス・松坂大輔 2008年カレンダー 松坂 大輔 (まつざか だいすけ)

本名:松坂 大輔
生年月日:1980年9月13日
職業:野球選手
ソース:ボストン・レッドソックス掲示板
 松坂がボストン・レッドソックス移籍した際に 『なぜ松坂はコリアンなのか?』の理由を5つ上げて韓国系とした。 1.イチローは韓国野球を軽んじたが松坂は何も言わなかった。2.彼はキムビョンヒョンを尊敬している。 3.日本人女性のほとんどが韓国人と結婚したがっている、そして松坂の妻は日本人だ。 4.松坂の祖父は強制連行で日本に来たと聞いたことがある。 5.アジアでは優秀な人は全て韓国人の子孫だ。松坂は優秀なので韓国人。この理由を見たアメリカ人からも『それはおかしい』と言われるも本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


孔子の一生 孔 子 (こうし)

本名:孔子
生年月日:紀元前551年
職業:春秋時代の中国の思想家
ソース:ソウル大学教授
 孔子の生地とされる現在の中国・山東省曲阜が、韓国によれば、かつての韓国領だった。さらに朝鮮で最初の国家と思われている『箕子朝鮮』の王・箕子と孔子が同じ血脈だったので在日認定。そもそも箕子が中国・商王朝の王族、すなわち中国人であることを無視し、箕子が韓国人の始祖ならその箕子と孔子を同じ血脈にすれば孔子も韓国人だ、という実に無茶苦茶なこじつけだが、否定する証拠がないので在日認定(丶`∀´>ニダ


サムシング~オリジナルアルバム 原 辰徳 (はら たつのり)

本名:原 辰徳
生年月日:1958年7月22日
職業:野球選手  
ソース:スポーツソウル
 漢字氏名「原辰徳」を韓国の発音でそのまま読めば「ウォン・ジンドク」となるという理由から韓国系との噂が広がる。巨人の選手として契約したイ・スンヨプが本人に確認するも「違う」と否定されるが、もちろん韓国系だとしても明らかにしなかった可能性もあるので在日認定(丶`∀´>ニダ。


卓上 斉藤和巳(ソフトバンクホークス) 2008年カレンダー 斉藤 和巳 (さいとう かずみ)

本名:斉藤 和巳
生年月日:1977年11月30日
職業:野球選手  
ソース:スポーツソウル
 日本プロ野球ソフトバンクのエース斉藤和巳(29)が歴代11番目の投手四冠王(平均自責点、最多勝、奪三振、勝率いずれも1位)とる際に紹介した記事にて、『2003年帰化した韓国系選手として知られている』と報道。
そんな事実を知られているわけではないがご本人が否定していないため在日認定(丶`∀´>ニダ。

森本 稀哲 (もりもと ひちょり)

本名:森本 稀哲
生年月日:1973年10月25日
職業:野球選手  
ソース:スポーツソウル
 コナミカップアジアシリーズに出場する日ハムの警戒バッターを紹介する際、韓国式氏名そのままである‘フィチォル(稀哲)’と表記して日本式発音は‘ヒチォリ’だ。と報道。
在日韓国人の父と、日本人の母を持つため、韓国系で間違いない(丶`∀´>ニダ。

小笠原 道大 (おがさわら みちひろ)

本名:小笠原 道大
生年月日:1973年10月25日
職業:野球選手  
ソース:スポーツソウル
 コナミカップアジアシリーズに出場する日ハムの警戒バッターを紹介する際、2004アテネオリンピック予選直前に日本へ帰化して日本代表チームに加わった。と報道。
本人が否定していないため在日認定(丶`∀´>ニダ。

安倍晋三物語 安倍 晋三 (あべ しんぞう)

本名:安倍 晋三
生年月日:1954年9月21日
職業:政治家  
ソース:プレシアン
 陶磁器宗家を成すまでになった沈寿官家門の14代子孫が佐藤栄作から壬辰の乱以後日本に渡って来た韓国系であることを直接告白したため安倍も在日。証拠などなく又聞きの話だが本人の否定がないので在日認定(丶`∀´>ニダ。
ただし、安倍氏は靖国問題などで半島に強い態度をとっていたためそれほど一般的ではないようだ。

中田英寿 鼓動 (幻冬舎文庫) 中田 英寿 (なかた ひでとし)

本名:中田 英寿
生年月日:1977年1月22日
職業:サッカー選手  
ソース:朝鮮日報(スポーツ朝鮮)
 朝鮮日報(スポーツ朝鮮)がW杯日本代表の中田英寿を韓国系3世と報じる。その後『噂の真相』が「朝日新聞と週刊ポストがこの"事実"をつかんでいたが結局ボツにした」という"スポーツジャーナリスト"氏の証言を使い、国籍タブーの偏見を追及した記事にしたが、そもそも『中田英寿を韓国系3世』と言うのが捏造記事のため「スポーツ朝鮮」「噂の真相」ともに訂正記事が載ることになった。


2000 BEST 山口百恵 ベスト・コレクション 山口 百恵 (やまぐち ももえ)

本名:三浦 百惠
生年月日:1959年1月17日
職業:歌手、女優  
ソース:聯合ニュース
中国の黒竜江日報が発行する「生活報」が『山口百恵は韓国人の父を持つ韓国系だ』と紹介した。と報道。
本人の否定がないので在日認定(丶`∀´>ニダ。


駅 STATION 高倉健 (たかくら けん)

本名:小田 剛一
生年月日:1931年2月16日
職業:映画俳優、歌手
ソース:掲示板など
  日本を代表する映画スターのひとり。名前に「高」が付くため在日認定するも、江戸時代末期に『東路日記』を記した、筑前の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたるためその可能性は低い。 しかし本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2007 Baby’s breath 松田聖子 (まつだ せいこ)

本名:蒲池 法子
生年月日:1962年3月10日
職業:歌手、女優
ソース:掲示板など
  1980年代を代表するアイドル歌手の一人。デビューから四半世紀を過ぎ、結婚、出産、二度に渡る離婚を経てもなお、「アイドル」というスタンスを保ち続けている希有な存在である。実家の蒲池家は地元で数百年続く家のためその可能性は低い。 しかし本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


DA・DI・DA(ダ・ディ・ダ)/松任谷由実 松任谷由実 (まつとうや ゆみ)

本名:荒井 由実
生年月日:1954年1月19日
職業:シンガーソングライター
ソース:掲示板など
  数々の名曲を生み出したシンガーソングライター。愛称はユーミン (Yuming)。実家が八王子の老舗「荒井呉服店」のため在日の可能性は低い。しかし本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


MLB イチロー ~シアトル・マリナーズ~ イチロー (イチロー)

本名:鈴木 一朗
生年月日:1973年10月22日
職業:野球選手
ソース:朝鮮日報など
  驚異的にヒットを量産することから「安打製造機」と称される。数々の記録を名選手。メジャーリーグに挑戦する頃から言われてきた。イチローは韓国料理が好きで最多安打更新という偉大な記録には「韓国パワー」も大きな役割を果たしたなどの記事を掲載していたがWBC(ワールドクラシックベースボール)にてイチローが「今度のWBCで、戦った相手が“向こう30年は日本に手は出せないな”という感じで勝ちたいと思う」と言う発言がなぜか『事実上、韓国に向けての発言と受取られる』と考えられ在日説はなくなった。 こんな発言する奴が在日のはずない(丶`Д´>ニダ


ONE LIFE 倉木麻衣 (くらき まい)

本名:倉木 麻衣
生年月日:1982年10月28日
職業:歌手
ソース:掲示板など
 1999年に17歳でリリースしたデビューシングル『Love, Day After Tomorrow』が売上140万枚の大ヒットとなり、一気に人気アーティストとなった。 在日コリアンの青年五団体が主催するイベントに参加していたことから在日認定。本人も否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


石川梨華写真集「風華」 [DVD付] 石川梨華 (いしかわ りか)

本名:石川 梨華
生年月日:1985年1月19日
職業:歌手
ソース:掲示板など
 ハロー!プロジェクト所属の女性歌手グループ、女性アイドルグループの美勇伝のリーダーで、元モーニング娘。の第4期メンバー。某掲示板などで在日認定されるもミュージックステーションでパスポートを公開した際は日本人だった。しかし、韓国系である可能性は否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


YOUR SONGS4 矢沢永吉 (やざわ えいきち)

本名:矢沢 永吉
生年月日:1985年1月19日
職業:歌手
ソース:掲示板など
 広島県広島市出身のロックミュージシャン。インタビューにて在日と答えたという噂が広がるもソースなどはいまだ出されていない。しかし、本人が否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


松井稼頭央 2005年度 カレンダー 松井稼頭央 (まつい かずお)

本名:松井 稼頭央
生年月日:1975年10月23日
職業:野球選手
ソース:掲示板など
 走攻守に優れたスイッチヒッター。西武で活躍後メジャーリーグに挑戦。『稼頭央』という珍しい名前のため在日の噂が広まった模様。2004年アテネ五輪日本代表メンバーに選出されたことからも日本国籍であることは間違いないが、韓国系であることは否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


C’est joli 石田ゆり子 (いしだ ゆりこ)

本名:石田 百合子
生年月日:1969年10月3日
職業:女優
ソース:掲示板など
 『101回目のプロポーズ』、『Dr.コトー診療所』など出演した女優。妹は石田ひかり。父親の仕事の関係で台湾に在住していたこともあり中国語が話せることから在日認定したようだ。小学生時代水泳でジュニアオリンピックに出場しているため在日ではないが韓国系であることは否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


ゆり子・ひかり きせき 1987‐1996 石田ひかり (いしだ ひかり)

本名:石田 ひかり
生年月日:1972年5月25日
職業:女優
ソース:掲示板など
 『あすなろ白書』、『ひらり』など出演した女優。姉は石田ゆり子。父親の仕事の関係で台湾に在住していたこともあり中国語が話せることから在日認定したようだ。姉が小学生時代水泳でジュニアオリンピックに出場しているため在日ではないが韓国系であることは否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


エッセンシャル・ベスト布施明 布施明 (ふせ あきら)

本名:布施 晃
生年月日:1947年12月18日
職業:歌手
ソース:掲示板など
 紅白の常連歌手。代表曲は『シクラメンのかほり』『君は薔薇より美しい』など。オリヴィア・ハッセーとの結婚により在日の噂が広がる。本人も否定していないので在日認定(丶`∀´>ニダ


全曲集 スーパーヒットコレクション 五木ひろし (いつき ひろし)

本名:松山 数夫
生年月日:1948年3月14日
職業:歌手
ソース:掲示板など
 紅白の常連の大物演歌歌手。代表曲は『よこはま・たそがれ』『長崎から船に乗って』など。韓国でのイベントに参加していたことから在日の噂が広がる。徹子の部屋で息子は日本とアルゼンチンのハーフと発言したことからも日本人だと考えられるがが韓国系の可能性は否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


美空ひばり (みそらひばり)

本名:加藤 和枝
生年月日:1937年5月29日
職業:歌手
ソース:掲示板など
 数々のヒット曲を歌い銀幕スターとして多数の映画に出演した昭和の歌謡史を代表する日本の歌手であり、女優。 弟の暴力団とのいざこざが原因(?)で在日の噂が広がる。両親とも日本人とのことだが韓国系の可能性は否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


Reading 『椿姫』with 草g剛 [voice] 〜私が愛するほどに私を愛して [CD付き] 草g 剛 (くさなぎ つよし)

本名:草g 剛
生年月日: 1974年7月9日
職業:歌手
ソース:掲示板など
 男性アイドルグループSMAPのメンバー。日常会話に不自由ないほどレベルの韓国語を話せ、チョナン・カンとして韓国デビューをしたことがあるなど親韓的なことから在日の噂が広がる。草gの”g”の文字は帰化人では使えない文字なので日本人には間違いないのだが、韓国系の可能性は否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


稲本潤一 1979‐2002 稲本潤一 (いなもと じゅんいち)

本名:稲本 潤一
生年月日: 1979年9月18日
職業:サッカー選手
ソース:掲示板など
 大阪育ちのサッカー選手。日韓W杯で活躍後は海外に移籍した。日韓W杯では得点を上げる活躍をしたことにより在日との噂が広がる。両親ともに国体に出場した経験があるため日本人であるが、韓国系の可能性は否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


大相撲 秘蔵映像で綴る、伝説の名勝負・名力士全集(2) 貴ノ花 (たかのはな)

本名:貴ノ花 利彰
生年月日: 1950年2月19日
職業:元大相撲力士
ソース:掲示板など
 青森県弘前市出身で二子山部屋所属の元大相撲力士。若乃花と貴乃花の父。中学時代水泳で全国選抜水泳大会で記録を更新しオリンピックの候補に選ばれているため日本人と思われるが、韓国系の可能性は否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


ロングバケーション 木村拓哉 (きむら たくや)

本名:木村 拓哉
生年月日: 1972年11月13日
職業:俳優、歌手
ソース:掲示板など
 男性アイドルグループSMAPのメンバー。根拠はないもののSMAPのメンバーの中でも一番の人気を誇るため在日との噂が広がる。弟はフットボールの日本代表でW杯に出場してるため日本人だと考えられるが、韓国系の可能性は否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


椎名桔平―新世紀のスピリチュアル・アクターズシリーズ (キネ旬ムック―アクターズ・ファイル) 椎名桔平 (しいな きっぺい)

本名:岩城 正剛
生年月日: 1964年7月14日
職業:俳優
ソース:掲示板など
 三重県出身の俳優。主な出演作品は『いつかまた逢える』、『BLACK OUT』、『Age,35 恋しくて』など。顔が半島系などの理由で在日との噂が広がる。高校時代サッカーで国体に出場しているので日本人だと思われるが、韓国系の可能性は否定できないので在日認定(丶`∀´>ニダ


デビット・ベッカム サクセスストーリー【1991-2007】 デビッド・ベッカム (デビッド ベッカム)

本名:デイヴィッド・ロバート・ジョセフ・ベッカム
生年月日: 1975年5月2日
職業:サッカー選手
ソース:朝鮮日報?
 イギリス(イングランド)出身のサッカー選手。妻は元スパイス・ガールズのヴィクトリア・アダムズ。精度の高いで鋭く曲がるFKを持つ世界屈指のプレースキッカー。日韓のW杯の時には甘いマスクで日本の女性からも大人気となった。ベッカムという名前はイギリスでは珍しいと言うことで在日との噂が広がる。実際に記者が聞いたところ否定しなかったことからも在日認定(丶`∀´>ニダ


画像なし カール・ルイス (カール・ルイス)

本名:フレデリック・カールトン・“カール”・ルイス
生年月日: 1961年7月1日
職業:陸上選手
ソース:前田日明のおばあちゃん
 アメリカの陸上選手。オリンピックには4大会連続で出場し、通算10個のメダルを獲得。そのうち9個が金メダルというゴールドメダリスト。在日と明かしている前田日明がインタビューで「うちのおばあちゃんはカールルイスは在日だ」と話している。本人が否定したという話を聞かないので在日認定(丶`∀´>ニダ


画像なし キモラ・リー・シモンズ (キモラ・リー・シモンズ)

本名:Kimora Lee Simmons
生年月日: -
職業:モデル
ソース:ネーバーニュース
 アメリカの美女モデル社長。彼女のミドルネームが”リー”のことから韓国系との噂が広がる。本人が否定したという話を聞かないので在日認定(丶`∀´>ニダ


  Λ_Λ    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 (丶`∀´> ( 日本人の起源は韓国人なので
 (    )  │すべて在日とも言えるニダ
 | | |   \__________
 〈_フ__フ

http://iroiro.alualu.jp/sekaisi/zainiti_nintei/zainiti_nintei_index.html

韓国人認定された人物一覧

韓国人認定の事例は数え切れないほどあるため、ここでは代表的な事例の一部を紹介する。


東郷茂徳

A級戦犯の一人だが先祖が秀吉の朝鮮出兵で捕虜となって連れて来られた陶芸職人であり、かつ戦争終結に尽力した形跡があるため、戦犯でありながら韓国人から韓国人認定されることが多い。戦犯のお墨付きを与えたアメリカ人は「まるで理解できない」と言及している。


王貞治

在日台湾人が在日韓国人に認定された稀有な事例である。


氏名が左右対称の文字で構成されている人物、姓に「金」が入っている人物

金田某さんや金山某さん、森田某さん、高田某さん、米田某さんなどが認定されている。

この伝で行ったら青木功や小林某さん、小川某さん、山口某さんに土田某さん、山田某さんに真田某さんに平山某さん、金田一某さんに山本某さん、大山某さんに田中某さんに谷口某さん、ロッテ会長・社長と同姓の重光葵も認定されなければおかしいのだが。この調子で言い続けると平清盛や森蘭丸や真田幸村まで韓国系扱いにされるのは時間の問題であろう。


笛木優子

女優。流暢に韓国語を操る上、「ユミン」というハングルの芸名を通し続けたため、近年覆面を取るまで生粋のコリアンだと信じられて来た。


日本人の凶悪犯罪者

前述のとおり、「善良な日本人がそんな凶悪な犯罪を犯すわけがない」からだそうで。


原辰徳

認定者いわく「この名前をそのまま韓国読みすると『ウォン・ジントク』になるため、名前だけ見ても彼が韓国系なのは明らかだ」。
ちなみに、韓国に「原」という姓はない。


秋山 澪(あきやま みお)

在日認定されたアニメキャラの代表例である。
認定者によると、彼女の本名(韓国名)は「秋 山澪(チュ サンジュ)」とされている。彼女が認定された理由は、その短気さとツリ目によるものとみられる。しかし、アニメ2期27話にて日本のパスポートを取得しているため、彼女の在日疑惑は公式に否定された。


イギリス人

韓国人認定の最たる一例である。認定者によると「イギリス人の起源は韓国人である」とされている。イギリス人そのものをも韓国人認定してしまうその神経に、世界があきれ返ったのは言うまでもない。


中田英寿

苗字が左右対称だから…というわけではなく、1998年3月に韓国スポーツ紙は「中田英寿は韓国系3世」と報じた。しかし翌月「噂をもとに、作成した推測記事だった」という電波民族らしい謝罪訂正を行う。2002年には韓国紙のインタビューで中田氏本人から韓国人認定を否定され、2009年にも、インターネットメディアで中田氏本人からまたまた韓国人認定を否定されたにも拘らず、編集者の注釈で勝手に韓国人認定をされている。懲りない電波民族である。
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E8%AA%8D%E5%AE%9A




[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

9. 中川隆[-5785] koaQ7Jey 2017年11月28日 12:26:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「朝鮮人認定」のいい加減さ 2

御用学者 渡部昇一に朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一

朝鮮部落なんか存在しない伊那の田舎出の本多勝一を在日朝鮮人とか、笑っちゃうね

本多勝一みたいに体制側に都合の悪い真実を明らかにすると、何一つ反論できないから朝鮮人認定して真実を否定しようとするのですね:


【南京大虐殺を捏造した】本多勝一は在日です【在日確定】日本の国難は全部朝日新聞のデマから
2014年09月22日

【新春特別対談】渡部昇一氏に聞く[桜H26-1-2] - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=axqdVqS1SLw


2014/01/02 に公開

安倍政権発足から一年を経て国全体に明るい兆しも見えてはいるものの、「戦後日本」からの脱却はなお容易ではなく、草莽一人ひとりの覚悟がますます問われている。これから日本は何処へ向かうのか?真に国を想うその信念に従い、政治家として日々奮闘している国会議員諸氏と、優れた洞察力で時代を先見し、有為な視点を示してきた保守の重鎮達それぞれにお話を伺う新春特別対談です。

ゲスト:渡部昇一(上智大学名誉教授)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)

※チャンネル桜では、自由且つ独立不羈の放送を守るため、『日本文化チャンネル桜二千人委員会』の会員を募集しております。以下のページでご案内申し上げておりますので、全国草莽の皆様のご理解、ご協力を、何卒宜しくお願い申し上げます。


「私の友達が調べたんですが、本多勝一は在日です」

渡部:朝日新聞は文化大革命を人類の壮大な実験なんて評していました。
人殺しが実験なら苦労しません。

不思議なことに朝日新聞が反省している様子がないんです。
僕はね朝日新聞の中に反日勢力が入っているんじゃないかと思います。

日本を苦しめた国難みたいに、従軍慰安婦問題と南京大虐殺があった。
両方ともいんちきなことは日本人は良く知ってるんですよ。しかし世界中では
南京大虐殺があったと思ってるし、従軍慰安婦も日本人がやっていると思っている。
  
しかし、発火点は全部朝日新聞なんですよ。南京虐殺のことを盛り上げた、
爆発させた本多勝一は、私の友人の調査によれば、在日です。

それがうまく当時の「自分の先祖が中国である」ということを言ってる
朝日新聞の広岡知男社長がやらせたという感じです。
  
そして従軍慰安婦問題も朝日新聞の記者が韓国人と結婚して、
その女性のお母さんが反日家で、その反日家が言っていることを持っていって
デスクがよく調べもせずに記事にした。

だから、日本の国難ということは、全部朝日新聞のデマから出てるんですよ。
しかもデマの発祥地は反省しない。
http://hosyusokuhou.jp/archives/40319566.html


朝日の「南京大虐殺」説は“朝鮮人”記者が書いた? 2011-07-14


朝日新聞に「南京で捕虜・市民30万人が日本軍に虐殺された」と虚偽を書いた本多勝一、本名は崔泰英


生年が著書により1931年、1932年、1933年と3通りある不可解さ

著書名 記された生年月日

「中国の旅」1933年生まれ
「殺される側の論理 」1933年生まれ
「南京への道」1931年生まれ
「裁かれた南京大虐殺」1933年生まれ
「天皇の軍隊 」1932年生まれ
「南京大虐殺の研究」1933年生まれ
「貧困なる精神Z集」1932年生まれ
「ジャーナリズムと歴史認識」1931年生まれ

他に生年月日抜きで発表されたのは「中国の日本軍」
「南京大虐殺否定論13のウソ」

この本多勝一、 本名は崔泰英 としてあちこちで目にします。
(じっくり調べてみます。諸説あり、いまだ確定には至っていません)

仮に事実なら、朝鮮人記者が朝日新聞という中国密着新聞に中国共産党の言うまま、検証も無しに記事を掲載、 「南京大虐殺」の「広宣流布」に大きな役割を担ったということですが。

もし日本人だとしてもその精神性に於いて大いなる疑義を抱かざるを得ません。
虐殺30万人が真実なら報道されることになんの異議もありませんが
さまざまな角度から検証してみるに、まずもって「物理的に無理」が結論です。


【この事実に注目】

日本の中学校教科書に初めて「南京大虐殺」が記述されたのは、
昭和53年(1978年)。

しかし中華人民共和国の教科書には「南京大虐殺」の記載はこの時点でも無かった。

  「南京大虐殺」の1937年から実に43年間、中共の教科書にさえ記載されていない、
という事実に着目。  

「南京大虐殺」は「朝日新聞」(1987年)の虚構報道により、更に広く日本国民に「事実」として
認識され、中共に利用されるに至りました。

もう一度言います。 「南京事件」の1937年から実に43年間、中共の教科書にさえ載ってはいません。事実なら、あの中共が43年間もこの事件に触れないでいるでしょうか。

場合によったら、ですが日本人のふりをした朝鮮人によって捏造された事件を中共が利用し始めて現在に至るという

構図ではないでしょうか。南京大虐殺館建設にお金を出したのも極左の日本人・元日本社会党委員長、田辺誠です。
その物理的出自のいかんを問わず彼らは「日本人ではない」。少なくともこの日本を護る立場には
あらず何らかの理由で毀損に走った人物だと思われます。

「30万人は学術的に根拠はなく、中国の研究は、日本で高まった南京事件否定説に対抗するイデオロギー的なもので、
自分が当館を経営していれば、この数字は使わない」(張連紅・南京師範大教授)

【備考】南京重慶に従軍していた父を持つ方のレポート。

父が南京重慶方面に従軍しており、話を聞いております。 あまりに捏造なので代わって抗議します。
 これだけの人数を銃殺処分するとなると当時は、英国などの記者も­沢山在所していたので、
川に流したとしても絶対に写真が海外に出­る。 写真がないのは事実がないからだ。 

川辺は沼地状態で万単位の捕虜を確保はできない場所で、多くの住­民が目撃可能な場所だ。 
この話が本当の話なら、そんな危ない街の南京の人口が数ヶ月で何­故急増したのか? 
馬賊も出没しなくなり、安全になったからだ。 
また、この元兵士の「日記」だが、このような詳細な軍行をしかも­いち兵隊が書いて残していたら、
憲兵に発見されたら軍律違反で銃­殺もの。 

もっと云えば、引き揚げ上げ時には身体検査があり、絶対に持ち出­せない筈。
 若い人達はテレビにウソばかり教えられている。 ウソである。 
この兵隊も本当なら実名で名乗れる筈だ。 また連体は2000人前後の旅団で65連体など存在しない。 
当時の出兵記録を調べたら分かる 以上 

「反日グループ」週刊金曜日のメンバーとしても本多勝一は名を連ねています。

石坂啓 永六輔 中山千夏 落合恵子 佐高信 椎名誠 (故)筑紫哲也 本多勝一 石倉直樹

*筑紫哲也も朝鮮名がしきりに出まわっていますが、こちらも未確認です。諸説あり。
最近、その遺産隠しが露見して修正申告(という名の)“脱税”が報じられました。

動画で見る本多勝一

本多勝一さん週刊金曜日創刊のころ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=9e6O49Q4LsI


こいう講演をわざわざ聴きに行き、なごやかに笑っている人たち、何者。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/819f12c54bc6165c57fa69c51a35e248


本多勝一を応援する読者会のページ
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/


本物のプロの取材方法とは

 本多勝一氏の取材方法は、ひたすら歩いて、見て、聞いて、ノートを取る。

インタビュー相手の話が脱線しても、既知の話題が出ても、相手を遮ることはせず、とにかく聞く。

はっきりとしない部分は通訳を通じて何度も聞き直す。そして写真撮影。


本多勝一氏と巡るハーレム 32年振りの再訪
http://www.nybct.com/2-62-honda.html


 今から32年前の1969年。当時、朝日新聞の記者だった本多勝一氏は、アメリカの主に黒人とネイティブ・アメリカンをルポするために単身渡米し、ハーレムや南部を半年に渡って取材。その記事はまず朝日新聞に連載され、後に1冊の本にまとめられて「アメリカ合州国」として出版された。当時、アメリカの黒人社会にここまで深く潜入して書かれた本は、日本ではほとんど出版されておらず、大きなセンセーションを巻き起こした。


 その本多氏が2001年にハーレムを再び訪れた。あれから32年、その間にハーレムの何が変わって、何が変わらずにいるのかを取材するために。前回の取材時はハーレムに住む“ブラウン君”という黒人青年がガイド役を務めているのだけれど、そのブラウン君の行方を探すことはもはや不可能で、今回、私がブラウン君に代わって本多氏を案内することとなった。


・・・・・


 本多勝一と言えば、まさに硬派ジャーナリストの代名詞のような存在。かつては敏腕新聞記者として世界各地を巡って数々のルポを書き、それらは今も書店の棚に並んでいる。また戦争やジャーナリズムについてなど、議論を呼ぶこと必至の著作も多く、論争や非難の渦中にあったことも数知れず。さらに朝日新聞を退社後は「週刊金曜日」という、これもまた硬派な週刊誌を立ち上げ、そこからは「買ってはいけない」のベストセラーも出ている。


 ところが、ハーレムにほど近いホテルの朝食ルームでお会いした本多氏は、いたって温和で物静か。取材用のノートとカメラを肌身離さずに持ってはいるものの、とても辣腕ジャーナリストには見えない。「初めまして。本多といいます。今回はよろしくお願いします。ところで、どこかカバンを買えるところはありますか? カメラを入れるカバンを成田で買おうと思っていたんですが、時間がなくて …」と、本多氏はケースにも入れていない、剥き出しのカメラを携えて丁寧な挨拶をされた。


・・・・・


 32年前、本多氏はハーレムYMCAに宿泊して取材をしたと「アメリカ合州国」にもある。今回の取材では、そのYMCAも含め、前回訪れた場所を再訪したり、現在のハーレムを良く知る人たちをインタビューして1969年のハーレムと、2001年のハーレムとの比較にポイント置いているとのことだった。


 本多氏の取材方法は、ひたすら歩いて、見て、聞いて、ノートを取る。インタビュー相手の話が脱線しても、既知の話題が出ても、相手を遮ることはせず、とにかく聞く。はっきりとしない部分は通訳を通じて何度も聞き直す。そして写真撮影。


 数日間に渡るハーレムの取材を終えた本多氏は、通訳兼アシスタントの“カズ君”と共にアメリカ南部の取材へと旅立って行った。この一連の取材の成果は「週刊金曜日」に連載されるとのことなので(時期は未定)、ハーレムの変化に興味のある方は「アメリカ合州国」と読み比べてみられてはいかがでしょうか。


●本多勝一「アメリカ合州国」朝日文庫 ¥544
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E5%B7%9E%E5%9B%BD-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/402260803X


1969年に単身アメリカに渡った本多氏が、ハーレムやアメリカ南部諸州をまわり、主に黒人の生活や人種差別の実態について書いたルポ。ハーレムではYMCAや廃虚のようなアパートに暮らし、人は良いけれどお金にだらしのない“ブラウン君”と共にハーレムを取材。南部紀行では、自身が激しい人種差別に遭遇。また戦後に黒人兵と結婚して渡米した日本人女性も取材している。なお、ハーレムの章の写真撮影は、氏の友人でもある吉田ルイ子氏。


●今回、プロのジャーナリストである本多氏の取材に同行できたことは、とても幸運でした。何よりプロの取材方法を真近で見ることができましたし、ハーレムを案内しているあいだに、私自身がハーレムの“今の姿”を再認識できました。

今、南部を旅行中の本多さん、どうもありがとうございました。また今回、私を本多氏に紹介してくださった中澤まゆみ氏にも感謝いたします。中澤さん、どうもありがとうございました。
http://www.nybct.com/2-62-honda.html


チャンネル桜が本多勝一が在日朝鮮人だというデマを流したのは この本を読まれると困るからだね:

中国の旅 (朝日文庫) 本多 勝一
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4022608056/ref=cm_cr_dp_synop?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=0&sortBy=recent#R2NV3WY7ECK8F2


本多勝一は、ベトナム戦争に従軍し、精力的に記事にした。そこでは、南ベトナム軍も民族解放軍も、更には米軍でさえ虐殺していた。ならば、中国で日本軍は何をしたのか?

投稿者イエスちゃん!2015年5月2日


本多勝一は、ベトナム戦争に従軍し、精力的に記事にした。敵の北ベトナム側にも取材に行っている。

そこでは、南ベトナム軍も、反政府・民族解放軍ベトコンも、更には米軍でさえ、膨大な農民、老人、女、子供を虐殺していた。

それならば、先の日中戦争では、中国において日本軍は何をしたのか?に、記者として関心が高まった。

ベトナム戦争において、多数の証言者に対して、証言者の内容が信頼できるかどうか、吟味する方法を習得していった。

実際に本人が体験した証言と、単に人から聞いた証言・うわさ証言では、明確に差が出て来る。

証言者は多くは農民で、初めての取材であり、慣れていない。順序だって論理的に時系列で話す訳ではない。

最初に、自分の伝えたいことを先に話し、証言はいろいろと脇道に飛び、発生した時間の流れを前後する。

その膨大な部品・ピース・断片を、本多勝一は、自分の頭の中で、整理して、全体を再構成する。

そこで、まだ聞いていない部分・空白の部分を、何度も質問して、少しづつ埋めて完全に近づけていく。

もしも、証言者が自分の体験ならば、まだ話していないだけで、いくらでもその事について詳細に証言できる。

この過程で、記憶があいまいな証言者は、記事として使えないとして、外していった。

つまり、新聞記者のプロの眼で、情報の確度の選別、吟味をしている。
(なお、北ベトナムでの取材でも、共産主義の国だから、証言者は北ベトナム政府が、記事の希望に沿って、探し出したものである。)

結論から言って、日本軍も、中国において、多くの虐殺を行っていた。
この事実を認めることから、和解と再発の防止ができる様になる。
是非、多くの日本人に読んでもらいたい。


● ● ●

なお、平頂山事件は、精神的に異常な一人の軍人が起こした虐殺事件である。

(妻の自害の真の理由が不明、自分の為に死んだ妻の葬式も出さずに満洲に)
『撫順の守備隊の<一大尉>が、匪賊を匿うたとの廉で、部落の『婦女子』を集めて機関銃で掃射鏖殺したとのことであった。

この事件のあった少し前、内地の一新聞に満州へ出征した一大尉の夫人が、夫君に後顧の憂いなく御奉公するようにとの遺書を残して白装束で自害したとの記事があり、戦時婦人の典型だとて評判になっている旨を伝えていたが、件の大尉こその婦人の夫であった。』
(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀--外交官の回想』)

それに対して、戦後、蒋介石の戦犯軍事裁判で、無実の撫順炭鉱の所長が、でっち上げ冤罪で、死刑にされた。

(この真の戦争犯罪者・軍人は、当時、満洲にはいなかった。戦後も、日本にて、生きながられた。運命は不公平である。)

この死刑は、復讐そのものであり、別の新しい犯罪行為である。中国側は、このことも知る必要がある。
両方とも追及・糾弾して、再び起こらない様にする必要がある。
https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4022608056/ref=cm_cr_dp_synop?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews&showViewpoints=0&sortBy=recent#R2NV3WY7ECK8F2


1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った言葉です。


”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。

本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。

問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。

日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。

今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”

朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より  

チャンネル桜は南京大虐殺が捏造だというデマを必死に流していますが、
当時の記録がちゃんと残っているので30万人虐殺は絶対に否定できないのですね:


30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報

【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。

犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。

電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。

電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。
2002/12/21 09:31 【共同通信】


南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。

日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)

電文の内容は

「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」

というものだ。張生教授は

「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」

と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日


ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。
この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に

「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」


と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。

事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3


当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、

「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

嗚呼、之が皇軍か」

と記述している。

※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)
http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html


日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少 2014年01月08日


吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。

同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。

 同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。

 1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。

 今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。

 1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集NA)

 「人民網日本語版」2014年1月8日
http://j.people.com.cn/94474/8507124.html

【拡散】南京大虐殺を捏造した朝日新聞の本多勝一は【 在日 】確定!!! 2014.09.21


「俺は知っている。やつは在日だ。」
で、なんの証拠も提示しないというw
渡部もこのサイトも訴えられればいいよ。
Posted by 名無し at 2014年09月22日 10:05


○○は在日詐欺もう飽きた
つか、明確なソース無しかよ
Posted by 名無し at 2014年09月22日 11:31


権威のある人の意見を鵜呑みにして、無条件で信じてしまういい例だと思います。

教授も「友人が調べたら在日らしい〜」と言ってる時点で、ソースが不確かな情報でしかないと言い様がありません。

別に自分は本多勝一を擁護するつもりは一切なく、単に間違っているのではないかと思うのでから書かさせてもらいます。

本多勝一は日本人です。
ソースは小学生の頃、本多勝一と同級生だった自分の父親。

自分の父親は昭和6年生まれで、信州伊那谷のとある町の出身。

本多勝一が子供の頃に在日だからいじめられていたという事実は一切無いそうです。
いじめられていた理由は、妹が障害者であったため、それが原因でいじめられていた事はあったそうです。

戦前の生まれで、排他的な地域の出身である事を考えると、在日である可能性は極めて低いです。

ちなみに親父の実家周辺がどれくらい排他的な所かと言うと、自分が25年ほど前レーサーレプリカのバイクで皮つなぎを着てツーリングがてら親父の実家に立ち寄った事があったんですが、それを見た近所の人が「○○の家にチンピラが来た!」と、その後に噂になったと、祖母から文句を言われました。
Posted by 在日じゃない at 2014年09月22日 08:06


父親が本多勝一の同級生で、彼を日本人だと書いた者です。

自分の父親が本多勝一と同級生であったと言うソースは父親の証言だけでなく、以前に父親が出席した同級会から帰ってきた折、

「おまえ本多勝一って知ってるか?」

と聞いてきたので、自分が知ってるという旨の発言をした所、おもむろに同級会で貰ってきたお土産の中から「六十歳の記念に登った山山 本多勝一著 悠々社」の本を取り出し、

「こいつ同級生で、同級会でみんなにこの本を配ったんだよ」

と見せてくれました。

その本には、直筆サインと本多勝一の落款が・・・って落款押してあるって・・・。

これこそ父親と本多勝一が同級生だった事を思わせる一品だと思います。

今も自分の手元にあるので直筆サインと落款に興味がある方がいたら写真に撮ってどこかにうpしてもいいかなw
Posted by 在日じゃない at 2014年09月22日 20:10
http://www.news-us.jp/article/405772710.html


____


土井たか子元衆議院議員に対する在日認定


訴訟の原因となったのは、元産経新聞編集部長の花岡信昭が論壇誌 WiLL 2006年5月号に寄稿した「拉致実行犯辛光洙釈放を嘆願した“社民党名誉党首”」と題する記事である。

記事の中で花岡は

「土井たか子は朝鮮半島出身で本名は『李高順』である」

と土井に対する在日認定を行った上で、

「そのことが土井の拉致事件を見る目を曇らせたのか、すべて知った上で政治的演技をしていたのか」

と論じ、祖国・北朝鮮の利益を図るために日本の利益を蔑ろにしたのだと土井を婉曲的に糾弾した。

戸籍謄本および改製原戸籍謄本の記載によると土井は日本人夫婦の次女として兵庫県神戸市に生まれており、花岡による在日認定は事実に反していた。

また花岡は土井に対する取材等の裏付けを全く行わず、インターネット上で流布されていた情報のみに基づいて在日認定を行っていた。

これに対して土井は記事によって名誉感情や信用を含む人格的権利を侵害されたとして、2007年4月18日、WiLL を出版するワック・マガジンズと同社代表取締役(当時)の花田紀凱、記事を執筆した花岡の三者を相手取り、1000万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求める民事訴訟を起こした。

神戸地裁尼崎支部は 2008年11月13日、記事はあたかも土井が朝鮮人であるがゆえに日本以外の本国の利益を優先して、日本国民の安全などの利益を蔑ろにするという日本の政治家としてあるまじき行為をしていたかのような印象を与えるものであり、土井の社会的評価を低下させたとして名誉権の侵害を、

また虚偽の在日認定について以下のように述べて名誉感情および人格的利益の侵害をそれぞれ認め、被告らに対して200万円の賠償を命じた。

謝罪広告については記事の影響力の小ささを理由に退けた。


被告らは判決を不服として大阪高裁に控訴したが棄却され、さらに最高裁に上告したものの、2009年9月29日に上告を退ける決定が下された。

これにより神戸地裁の判決が確定した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E8%AA%8D%E5%AE%9A

2007/06/03 筑紫哲也(朴三寿)というデマ
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-76.html


2chで以下のような真偽の定かでないマルチコピペを見たことある人は多いと思う。


池田大作(→父:ソンジャンチョク、帰化人) (在日への選挙権推進、韓国での反日活動の実績)

土井たか子(→李高順(帰化前の本名)北朝鮮に親族多数

五島昌子(土井の秘書)本名、渡辺昌子は通名、つまり、在日朝鮮人(元社青同活動家の話より)

辻元清美(帰化人、赤軍派)

筑紫哲也(→朴 三寿:元朝日記者、共産キャスター)

本多勝一(→崔 泰英:「南京大虐殺」虚報の中共工作員記者)

佐高信 (→韓 吉竜:極左評論家)

福島瑞穂(→趙 春花、帰化前の本名:中核派)

永六輔(帰化人。反日活動、言動多し)


例えばこの中の

■土井たか子=李高順 説は?

月刊WiLL2006年5月号で元産経新聞記者・花岡信昭が、土井たか子=李高順という2chで流されたデマを事実のように書き、土井は花岡の記事を「事実無根の捏造 (ねつぞう)記事で、土井氏に対する取材に基づかない一方的な推測で作成したもので,名誉を毀損された」として、2007年4月18日、全国紙への謝罪広告の掲載と損害金1万円を求める訴えを神戸地裁に起こしている。


つーことでこの件はデマ確定 調査終了


■次に、筑紫哲也=朴三寿 説は?

【筑紫】 朴 三 寿 【哲也】(魚拓)より以下、抜粋する。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1127868368/


28 :文責・名無しさん:2005/11/15(火) 22:46:50 ID:d3V7cvUI
朴三寿ってのはオレが数年前にメガBBSに書いたネタだった思う。
確か「有名人の本名を晒そう」みたいなタイトルのスレだった。
他にも本多勝一や佐高信なんかの韓国名もでっちあげてやったんだ。
まさかこんなところでお目にかかるとはなw


30 :28:2005/11/16(水) 22:54:24 ID:rInX2H7E
http://www.megabbs.com/cgi-bin/readres.cgi?bo=perform&vi=1027871248

元ネタはこのスレの124だ。
よく見たら数年前じゃなく去年だったが


(※ちなみに、これがリンク先)


筑紫哲也=朴三寿という在日認定を2004/06/04以前にしているブログが一切無いことから、これが元ネタとみてまず間違いない。

↓以下は同スレより筑紫哲也が在日ではないことを補足する書き込みを抜粋する。


54 :文責・名無しさん:2006/03/18(土) 11:45:56 ID:hUhDYHbR
代々、九州の医者の家系で滝廉太郎の親戚とか言うけど
実は筑紫の故郷には筑紫という姓の人間がいない
つまり架空の日本名をこしらえたってことさ


58 :文責・名無しさん:2006/03/21(火) 23:37:20 ID:iPNZ4lbX
>>54
筑紫姓はいるよ。

筑紫氏
筑紫君、筑紫国造、筑紫連、筑紫史、藤原秀郷流武藤氏族、
清和源氏、桓武平氏等。


62 :文責・名無しさん:2006/03/22(水) 12:58:26 ID:s1CTwA8y
>筑紫の大伯父は滝廉太郎だから

ソース出せや


64 :文責・名無しさん:2006/03/22(水) 20:08:57 ID:VPz1iqiD
>>62
国際メンデルスゾーン基金の公式サイトより
http://www.mendelssohn-kikin.jp/frmset_taki.htm

>嘱望を受けながら留学した瀧廉太郎は、留学中に病(結核)におかされ、
>翌1992年に青雲の志空しく帰国した。 帰国後は、故郷の竹田市で療養後
>100年前の1903年に23歳10ケ月で没している。療養した家は、「瀧廉太郎
>記念館」として公開されている。同記念館は、瀧廉太郎の姉の孫にあたる、
>筑紫哲也が名誉館長である。


89 :文責・名無しさん:2006/04/16(日) 21:33:55 ID:jxI3E12R
滝廉太郎の妹トミは筑紫の祖母って書いてるぞ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%BB%89%E5%A4%AA%E9%83%8E

何か見た目や思想だけで言ってるだけだろ。


115 :文責・名無しさん:2006/05/19(金) 23:45:22 ID:GxkkCoNF
>>113
筑紫哲也は瀧廉太郎の姉の孫で、その縁で 「瀧廉太郎記念館」の名誉館長だ。
下記のページに電話番号が載っているから、嘘だと思うなら聞いてみなよ。
http://machi.goo.ne.jp/snd/spotID_%20TO44000491/leisure/details.asp


122 :文責・名無しさん:2006/05/21(日) 08:20:56 ID:Ubf6/77H

メンデルスゾーン基金のサイト情報が一番確かだな。
当人も日本名を名乗っているし、万が一彼が朝鮮人の妾の子だったとしても、
日本人であることにかわりはない。
そもそも朝鮮人の血などそれほど「濃い」ものではないだろ?
名前からして基本は中国式だし、それが日本式の筑紫哲也に変わっただけだ。(笑

俺自身は、筑紫の政治観は幼稚だと思っているがね。


156 :文責・名無しさん:2006/07/08(土) 12:15:25 ID:Sbii/mJV
先祖は大分県・日田藩。漢学者の広瀬淡窓が開いた咸宜園で学んだと聞いた。広瀬の子孫が今のテレ朝会長、大分県知事の兄弟。


95 :文責・名無しさん:2006/09/11(月) 15:42:20 ID:kSuz5YS6
大分県日田市に筑紫姓があるのかどうかだが、
>>58のソースは「日本の苗字7000傑」というHPから。
その中の"筑紫国造"の中に"筑紫国造磐井"という人物がいる。
この人物は(大分県がある)九州北部の有力者と「Wikipedia - 磐井の乱」に書いてある。
だから、筑紫哲也の祖先はこれと思われる。
ちなみに、「岩戸山古墳−筑紫国造磐井の墓−」というHPには、
"筑紫国造磐井"を含む「筑紫の君」一族は渡来人の末裔ではないか
と書いてある。


96 :文責・名無しさん:2006/09/11(月) 17:26:05 ID:kSuz5YS6
つまり、筑紫哲也のルーツとは、

筑紫国の「筑紫の君」一族の末裔で、
筑紫国は、後に筑前国・筑後国に分割された。
このことは「Wikkpedia - 筑紫国」に書いてある。

そして筑紫哲也の出身地である日田市は、
筑後川水系にあるため、筑前・筑後と歴史的につながりが強い。
このことも「Wikipedia - 日田市」に書いてある。

結論 「筑紫哲也は帰化人ではない。しかし、祖先は渡来人の末裔である。」

これで解決したな。

(以上)


つーことでデマ確定 調査終了 


このように少しググっただけで、土井たか子と筑紫哲也は確実に在日ではなく、本多勝一、福島瑞穂、佐高信もおそらく違うだろうな、ということがわかる。

にもかかわらず、情報元を確認することすらしないリテラシーの低い、嫌韓・ネトウヨ厨は、今だに訂正すらせずにブログ上で事実として取り上げている。

例えば「筑紫哲也 朴三寿」で検索すると約9,350件ヒット、「朴三寿」では約11,100件もヒットする。

デマだとわかっても訂正すらしない確信犯的なデマブログの1つに、ランキング偽装疑惑のある「博士の独り言」がある。


2006/12/01(金)「博士の独り言」より以下一部抜粋する。
http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-asyuracom-221.html

この集会で挨拶した本多勝一(本名・崔 泰英)、司会を演じた佐高信(韓吉竜)の2名はいずれも在日朝鮮人。永六輔は半島からの帰化人。関与した矢崎泰久、中山千夏は、昭和52年に、ばばこういちを中心に結成した「革新自由連合」の仲間であり、新左翼系の自称・文化人である。

良識以前に、最低限度の人倫すら問われるこの「芝居」は、これらの人物の「日本に対する怨念」が凝縮されている。それほど日本が恨ましいのであれば、日本にいていただいても百害千害万害を垂れ流すだけである。日本から出て行け!
---------- ---------- ----------
【筆者記】
なりすましのメディア人、文化人、政治家の言動にはおぞましいものがある。上記の他に、朴三寿(筑紫哲也)、社民党の李高順(土井たかこ)、趙春花(福島瑞穂)等々。実に紛らわしい。反日活動においては、通名ではなく、本名を名乗るべきである。

(ここまで)


いい歳こいたおっさんが、左翼=在日=朝鮮人で思考停止か


ダッセーなぁ。。。恥辱まみれなデマ博士


あんた、マジかっこわりぃYO!


土井さんが党首の時に社民党に質問したんですよね。
そしたら丁重な回答が寄せられました。

曰く事実無根なんだそうです。

とにかく、気に入らないのはみんな朝鮮人にするんだから困ったもんですよね。
ただ、朝鮮人といわれて名誉毀損てのはどうなんでしょうね。

朝鮮人が悪い連中だと土井さんが認めた事になるんじゃないでしょうかね。
朝鮮人が何故怒らないのかが判らないですね。


土井たか子の家系についてはすでに共同通信の田中章記者が取材ずみ。

それによると、祖父は広島県の土井好太郎、父はその次男で仁良市、現京都府立医大卒、母は京都の職業軍人の長女で貴代、姉は和賀子、妹が睦子で武蔵野音大、弟が良博、顕とのこと。

父は内科小児科を神戸市長田区野田で開業していた開業医であった。


ハッキリと否定しないの筑紫氏だけでなく上記に名前のあがっているサヨク全般に言えるでしょうね。まぁ、くだらな過ぎて相手にしてないんだと思います。

それと、そんなに疑う理由がよくわかりませんが、このエントリーを書いたとき週刊金曜日の方に連絡したんですが、石坂啓、落合恵子、佐高信、椎名誠、筑紫哲也、本多勝一は在日ではないとハッキリ言われました。


本多勝一さんは日本人
本多さんの友人と親しいし、会ったこともある。

長野県飯田市に行って調べれば直ぐに分かるよ。旧制飯田中学-->飯田高校。


悪魔の証明

言い出しっぺの在日朝鮮人で"ある"と言っている側には信用できる証拠を全く求めずにコピペを垂れ流し、在日朝鮮人で"ない"と言っている側にだけ「もっと信用できる証拠」を出せと言い続けるネトウヨの論理性には苦笑してしまう。
http://dj19.blog86.fc2.com/blog-entry-76.html


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

10. 中川隆[-5784] koaQ7Jey 2017年11月28日 12:41:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

アメリカが在日を使って日本を支配している件 2012 年 5 月 02 日
http://www.asyura2.com/11/hihyo12/msg/867.html

?????????????????????????????????????
?      ?アメリカが在日を使って日本を支配している件?      ?
?????????????????????????????????????

http://www8.atwiki.jp/youtheshock/pages/118.html

今回の震災・原発報道では皆知っての通り、かなり偏った報道がなされてきました。

そこで今回は日本のタブー、闇、そして真実について話したいと思います。
少し長いですがお付き合い下さい。

まず、なぜいつも偏った報道になってしまうのか、その仕組みを紹介しましょう。
東電は当然CM等でテレビの大スポンサーであるから、ある程度の根回しは簡単でしょう。

しかし、もっと大元を探ると、メディアの最大のタブー・電通の存在があります。
知ってる人も多いとは思いますが、電通とは国内最大の広告代理店であり、日本で取り扱う広告のほとんどを独占している。

戦後からはいくつものテレビ局の創設にも関わり、テレビの普及に努めた。
アニメの製作費も20%流れるしCDの再販制度に噛んでたりオリコンチャート、視聴率、CMまで総て電通だ。

これだけ見ても相当メディアを自在に動かせそうだが、こんなものでは済まない。
電通の傘下には共同通信と時事通信が存在する。

ニュースみてたらわかるが、テレビや新聞で流すニュースはほぼ全てが共同通信とロイターで構成されている。

ロイターについては後述するが、共同通信は地方含めすべてのテレビ・新聞・ラジオと契約または加盟している。

つまり、共同通信が情報を発信、論調の統一を実行していて少しでも反抗すると何故か右翼が速攻で嫌がらせをしてくる(後述します)
つまり、電通がメディア界総てを支配していて思い通りに操れるのだと考えて下さい。

時事通信の方はというと、傘下に創価学会と統一教会が存在します。

さて、ここまで話すと「電通ってすげぇな〜」で終わりそうですが、真の闇はここからです。

電通最高顧問は誰だと思いますか?

成 田豊という人物です。


では創価学会名誉会長は?

成 太作です。

ソフトバンク社長は?孫(成) 正義です。

ん?成?

実はみんな在日コリアンです。
彼らは日本の通り名を使うのでたまに日本人に間違われます。

日本には在日韓国人からなる組織・韓国民団と、北朝鮮からの在日朝鮮人の組織・朝鮮総連があります。

パチンコ業界の7割は韓国民団と朝鮮総連だと以前書いたが、警視庁・民主党・自民党らはパチンコ業界からの献金や天下りにより癒着が激しい状態。

サンキョウ・アルゼ・マルハンなどが在日パチンコ企業として有名。

鳩山由紀夫の妻、幸夫人の実父が朝鮮総連の創始者であり、鳩山由紀夫本人も統一教会(朝鮮系のエセキリスト教)に所属していて、民主党とは深いつながりがある。

また、以前北朝鮮が日本人拉致指令書を朝鮮総連に送っていたことを加藤昭氏がスクープしている。

そんな朝鮮総連の傘下には朝鮮学校があり、金日成への忠誠と反日教育が日々行われている。

そして多くの卒業生が反日マスコミ業界に進出している事を鈴木琢磨氏が暴露している。

あと国内の覚醒剤の半分以上は北朝鮮からの輸入であり、朝鮮総連から日本の暴力団に流れているのは明らか。

というか、日本の暴力団の3割は韓国民団と朝鮮総連が占めている現実もある(極東や稲川会の組長が在日、山口系にも多数)

ソフトバンクは在日韓国人のための超格安プランを提供したり、YahooBBに至っては売上を朝鮮学校の支援に使うなどあからさまな様子。

叙々苑(焼肉協会)、安楽亭、トラジ、ラブホテル業界、貴金属に至っては国内の7割が韓国人技術者の手により作られている。

アイフル・武富士・アコム・プロミス、サラ金もすべて在日だ。
スポーツ界にもロッテ、読売、ソフトバンクなど俺が知らないところにも経営人に在日は存在するという。

街宣車で騒音をまき散らす右翼団体。

彼らも皆在日コリアンでありエセ右翼なのだ。
奴らは国民の愛国心を無くす為日々右翼のイメージダウンに勤しんでいる。
実際天皇が右翼使って大日本帝国の復活みたいな悪だくみしてると思っている人も多い。

つまり、総て在日コリアンというキーワードで繋がっているのだ。

彼らは政界にも太いパイプがあり(何千億と献金したりして飼っている)自分たちに有利な法律が多々ある。(在日特権)

日本で稼いだ金は免税、通名(ペンネーム)を本名の様に身分証や口座の発行、特別永住権など盛りだくさんだ。

ホンダ、日本マクドナルド、日本コカコーラ、TSUTAYA、セブンイレブン、サークルKサンクス、歌広場、カラオケ747、リーブ21・・・在日の侵食の手はとどまる事を知らず、ほぼ完全に日本を支配している。

さて、在日の総本山・電通の報道統制に話を戻そう。

以前、朝青龍が些細な事で引退させられたのにはワケがある。

ある日韓国人記者に「キムチ野郎」と発言したことに対して、多くの右翼が激怒し次々と決起。

その後、相撲協会を抗議、脅迫して大問題になった。
当然在日傘下のメディアは総バッシング、引退に至った。

また、韓国のK-POPは電通の総力をもってして日本に進出、韓流ドラマやアイドルなどテレビで垂れ流し、韓日友好ムード作りに貢献。

在日がメディアを統治している証拠はたくさんある。たとえば住所の重複だ。

読売新聞東京本社  〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
韓国日報       〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F 

朝日新聞東京本社  〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2
東亜日報       〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2

毎日新聞東京本社  〒100-8051 東京都一ツ橋1-1-1
朝鮮日報       〒100-0004 東京都一ツ橋1-1-4F
 
産経新聞東京本社  〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
京郷新聞       〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2

東京新聞       〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
中日新聞東京本社 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
大韓毎日 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13 4F

NHK放送センター    〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社       〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1 NHK東館710-C

フジテレビジョン      〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国文化放送(MBC)  〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F

TBSテレビ         〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 
韓国総合TVNEWS 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6  

じゃあ、すべての害悪は韓国だな!韓国うぜぇ(`・ω・´)タヒね
・・・と思ったら大間違い!

ナゼここまで韓国が暗躍できている?日本をがんじがらめに支配できた?
全ては敗戦後、GHQにより日本解体後、アメリカ(CIA)が在日コリアンを政財界や電通など次々に送り込んでいた事が原因だという。

つまり、アメリカが朝鮮人を使って日本を支配しているのだ!

直接的に支配してしまうと、日本には反アメリカという憎悪が根深くなってしまうだろう。

そこで日本に占領されたりして恨みが強い韓国に目をつけた。

かつて大英帝国が少数民族の華僑を使ってアジアを統治していたやり方と同じ 。
これを間接統治または分断統治という 。

アメリカの忠実な家来として韓国があり、アメリカ・韓国の家畜として金を搾り取られる為に存在する日本人。

徹底した情報統制とくだらんバラエティー、ゆとり教育などで日本を無力化、バカばっかりにして暴動や革命を起こさない様にしているのだ。

アメリカの奴隷である自民党、最大の敵小沢つぶしの総攻撃、民主党の崩壊と今後の政権交代。

アメリカと韓国の利害を考えながら報道を見れば少しは実態がうかがえるのかもしれない。

今回在日韓国と在日北朝鮮の関係はよくわからなかったが、ここまで徹底的に支配されている現実を国民は知っておくべきだ。

ロイターについては、やはり全ての日本の記事を使っているわけではなく、ちゃんと電通に管理されてる様ですね。


もっと詳しく知りたい人は、こちらに情報のってます!
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/45.html?pc_mode=1


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

11. 中川隆[-5809] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:11:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

在特会が流した「朝鮮進駐軍」のデマ


在特会が広めた朝鮮進駐軍のデマで問題にされた事件の被害者は在日朝鮮人だけだった


浜松事件は死者数人・負傷者約300人
それも日本のヤクザ「小野組」が朝鮮人を挑発したのが原因

主犯は県議会議員となった服部治助の跡を継いでいた「小野組」小野近義

在特会の「朝鮮進駐軍」デマを検証してみた

レイシスト、ファシスト集団である「在特会」が、最近のデモ行動のなかで撒き散らしているらしいビラ「『朝鮮進駐軍』をご存知ですか?」を、ネットで目にした。


在特会サイト
http://www.zaitokukai.info/modules/wordpress/index.php?p=170

を開き、最初の「朝鮮進駐軍をご存知ですか?」の上のURL
http://www.eonet.ne.jp/~hi-kitty/hirakatakyuhu.pdf


をクリックしてください。

1945 年(昭和20年)以後に、現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または、半島に帰国した朝鮮人によって作られた犯罪組織を指します。 終戦後彼らは、日本各地で婦女暴行・窃盗・暴行・殺人・略奪・警察署や公的機関への襲撃・土地建物の不法占拠・鉄道や飲食店での不法行為など様々な犯罪を引き起こしました。 自称「戦勝国民」であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り、各地で徒党を組んで暴れ、凶悪事件を起こしました。 GHQ(連合国総司令部)の資料にあるだけでも最低4千人の日本人市民が、朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされています。

3万人もの朝鮮進駐軍は戦後の混乱を利用し、旧日本軍から盗んだ銃や日本刀で武装し、軍服を着込み全国で組織化を行いました。 「在日朝鮮人連盟総本部」(上写真)は後の「在日本朝鮮人連盟」で、更にこれが「在日本大韓民国民団」と「在日本朝鮮人総聯合会」に分かれ、これが現在の「民団」と「朝鮮総連」となります。
当時の日本は、戦場に男が駆り出され男手不足であったり、都市部でも疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いており、警察も武器の使用が認められないという、戦後特有の制限が有りました。 目の前で白昼堂々、日本人婦女子が暴行を受け助けを求めていても、銃で武装する彼らには警察すらも成す術が無かったのです。

「おれ達は戦勝国民だ! 敗戦国の日本人が何を言うか!」と小突き回され、暴行され瀕死の重傷を負った警官も数多くおられました。

戦後に朝鮮人犯罪が増加の一途を辿った背景には、この様な、犯罪に対する抑止力の空白化が背景に有りました。略奪・窃盗・密売・土地の強奪等にも組織的に関与しており、一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後パチンコや、サラ金、風俗行(ママ)などへの資金源として利用されていきました。

「生田警察署襲撃事件」「長崎県警察本部襲撃事件」「「首相官邸襲撃事件」」「阪神教育事件」など様々な凶悪事件を日本各地で起こし、とうとうGHQのマッカーサー最高司令官は、「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり。」と発表し、軍を出し日本の警察と合同で鎮圧に当たりました。

その後、余りに危険な「在日朝鮮人連盟総本部」は解散させられるのですが、その後「総連」と「民団」に姿を変え、今なお組織ぐるみで、理不順(ママ)な「在日特権」を要求し続けているのです。


_______


「朝鮮進駐軍」なるものが存在したなどということは初耳で、どうせ在特会が言うこと、「デマに間違いはなかろう」と思って、いろいろ調べてみた。

「朝鮮進駐軍」で検索をかけると、出てくるのは排外主義者どもの差別サイトばかり。

頭の先から足の先まで「朝鮮人憎し」しかない、「妄想」と「憎悪」だけがすべての思考や行動の源となっている陋劣なヤカラが、日本人のなかに、これだけもいるという情けない事実に、絶望的になるだけだった。

やはり、いくら探したところで、「朝鮮進駐軍」の実在を示す客観的な資料は出て来ず、デマとファシストの親和性を、あらためて確認した次第である。


しかし、この「朝鮮進駐軍」、最近までwikiにその項目があったようである。
以下はその内容。長いので、HTMLファイルとしてアップしてみた。

http://blog-imgs-32.fc2.com/e/i/j/eiji008/koreaArmy.html


wikiでこれだけのものを読めば、いかにも「朝鮮進駐軍」というものすごい、極悪非道の武装犯罪組織が実在しているように思うだろう。後半に列記された事件の多さに圧倒され、誰しも「事実」と信じてしまうに違いない。

しかし、これらの事件が起きた時期を確認すると、日本が敗戦した年から翌年にかけて集中していることに気づく。あとは1952年まで散発的に、年に2〜3度、起きているに過ぎない。

それぞれがどういう事件だったか、ひとつひとつ検索すれば、たいがい、wikiにその項目がある。植民地従属国である朝鮮の民衆が、祖国で食い詰め、あるいは強制的に「徴用」されて日本に渡ってきて、過酷な労働や差別に耐えながら戦時下を生き抜いてきた。それが日本の敗戦で解放され、それまでの鬱憤を晴らそうと、一部がアウトローのならず者となって、非道なことを仕出かしはじめた。

それが、闇市の利権をめぐる抗争であったり、密造酒を作るところを摘発に来た官憲との闘争であったり、逮捕された仲間の釈放を要求する集団抗議行動であったり、要するに列挙された事件はそういうものであり、背後に「朝鮮進駐軍」なるものが存在し、組織的、系統的に「指導」していたなどということの根拠を示す事実は、なにも提示されているわけではないのだ。

さすがに、問題が多いとの声があり、このwikiでの「朝鮮進駐軍」の項目は、当然のことながら、削除されてしまった。


「朝鮮進駐軍」なるものをネット検索してもヒットするのはいわゆる嫌韓厨といわれる面々によるプロパガンダサイトのものばかりで、百科事典記事作成に当たって信頼に足る情報源が見当たらない。

参考文献節に列挙された文献で「朝鮮進駐軍」を表題に掲げたものはなく、全体が[1]の丸写しであり、本記事執筆のIP:122.27.1.205(会話 / 履歴 / ログ / Whois)はWikipedia:削除依頼/122.27.1.205氏による外部からの持込で対象とされた記事も同じ外部サイトから丸写ししており、IPの記事作成の傾向からして記事解説記述が参考文献節の文献を参考にして作成したとは到底考えられない。

朝鮮進駐軍を「戦後日本の混乱期において朝鮮民族が自称していた犯罪(武装)集団の名称」とあたかも在日朝鮮人全体を包含した代表組織のような定義しているが、このような事実はない。

構成員を現在日本国内に居住する朝鮮人に結びつけた定義を展開しているが、これも前述のとおり根拠不明なトートロジーに過ぎない。

「朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)」は後の在日本朝鮮人連盟の前身であると記述しているが、「在日朝鮮人連盟総本部」なる組織の存在は確認できず、これが後継組織に引き継がれたとも立証されない。

「組織では…各地域ごとに部隊名をつけ」とあるが、参考文献があると称するにも関わらず具体的な部隊を挙げていないなど、事実に関して出典による証明が無い。

当時の在日朝鮮人が暴力事件を起こし、それを進駐軍にならって例えたというような事実はあったかもしれないが、それすら出典付きで記述できていない。そればかりか、意見・解説の類にも個々に出典は無く、{{独自研究}}状態に終始している。
朝鮮人による犯罪節と主な事件一覧節に列記した事件で朝鮮進駐軍により組織的に引き起こされたと断定されたものがない。


以上、記事全体を通じて事実であることが証明されないばかりか、あまつさえ虚偽や誹謗に類することを並べたてており、Wikipedia:削除の方針#ケース E: 百科事典的でない記事の「本文が検証可能性を満たさない内容に終始している場合」「独自の研究結果の発表」「広告またはスパム(嫌韓厨プロパガンダ)」「完全に異質な記事」に該当する。

 (wiki「朝鮮進駐軍」ノート)  


「4000人の日本人が犠牲になった」とされるGHQの資料は提示されず、「白昼の路上で日本人婦女が暴行された」という「事実」の唯一のソースが、山口組三代目、田岡一雄の自伝のみという体たらくでは、朝鮮進駐軍が存在したという話は、到底、信じられるものではなく、それが常識というものだろう。


そこで、最初に掲げたビラにある写真をもう一度見てほしい。

在特会サイトを開き、最初の「朝鮮進駐軍をご存知ですか?」の上のURLをクリックしてください。

とくに2枚目の写真にこういう解説がつけくわえられている。

「朝鮮総連本部を警備する短銃を所持する在日朝鮮人警備隊」

「朝鮮進駐軍」とは、こういう警官みたいな制服を着ていたのか!?

そう驚く者もいるだろうが、マトモな思考能力と感性を持った者はこう思うだろう。

 「これって、日本の警官じゃん!」 

残念ながら、そのとおりであったようだ。
以下は毎日新聞の報道写真を売るサイトのようだが、

https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php
(「朝連」で検索して、いちばん右下の写真をクリックしてください)

その最後の写真が、このビラの2枚目に使われた写真であることは一目瞭然である。
朝連本部を「平穏に接収」するのは、日本の警官隊が行ったことである。

こういうペテンをするようなビラに書かれた内容が、寸毫も信用できないことは、いうまでもない。
http://eiji008.blog19.fc2.com/blog-entry-129.html


「朝鮮進駐軍」のまぼろし
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/07/221030


代表的な嫌韓デマのひとつである「朝鮮進駐軍」。

はすみ本では「オレたち朝鮮進駐軍」と題してイラストとデタラメな「解説」が掲載されている[1]。


『いわゆる「朝鮮進駐軍」とは、敗戦直後に在日朝鮮民族(敗戦直後その時点では、まだ国籍は日本)によって結成された犯罪組織のことである。日本各地で暴行、略奪、殺人など凶悪犯罪を繰り返し、多くの日本人が虐殺されたという。この時機に財産を築いた在日は少なくなかった。駅前一等地にパチンコ屋が多いのは、そういう理由もあるという。』


このデマは、最初は山野車輪あたりが言い出したらしいが、その後、ヘイト集団「在特会」がデモで悪質なアジビラを撒き、ネットにも掲載したことで一気に広まった。在特会のアジビラにはこう書かれている。


『1945 年(昭和 20 年)以後に、現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または、半島に帰国した朝鮮人によって作られた犯罪組織を指します。

終戦後彼らは、日本各地で婦女暴行・窃盗・暴行・殺人・略奪・警察署や公的機関への襲撃・土地建物の不法占拠・鉄道や飲食店での不法行為など様々な犯罪を引き起こしました。

自称「戦勝国民」であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り、各地で徒党を組んで暴れ、凶悪事件を起こしました。

GHQ(連合国総司令部)の資料にあるだけでも最低 4 千人の日本人市民が、朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされています。

3 万人もの朝鮮進駐軍は戦後の混乱を利用し、旧日本軍から盗んだ銃や日本刀で武装し、軍服を着込み全国で組織化を行いました。 「在日朝鮮人連盟総本部」(上写真)は後の「在日本朝鮮人連盟」で、更にこれが「在日本大韓民国民団」と「在日本朝鮮人総聯合会」に分かれ、これが現在の「民団」と「朝鮮総連」となります。』


敗戦直後の混乱期、警察力の弱体化に乗じて、旧来のヤクザや愚連隊、さらには敗戦に伴う価値観の急変で居場所をなくした特攻隊の生き残り(いわゆる「特攻くずれ」)などまでが、毎日のように盛り場で暴れ回り、闇市の利権を争っていた。その中に一部の在日もいたことは事実である[2]。


『公平を期すために付記しておくと、終戦直後に一部の在日コリアンがアウトロー化したのは事実である。私は彼らの手による犯罪がなかったなどと言うつもりはまったくない。実際に、終戦直後の日本では、国内各地でヤクザ組織と朝鮮人との間で職烈な縄張り争いがあった。

朝鮮半島にも日本社会にも基盤を持たない外国人は、とりあえず、いまいる場所で、拳を使って生き抜くしかなかった。なかでも徴用によって各地の炭鉱、鉱山などで働いてきた朝鮮人労働者にとって解放は、同時に失職をも意味したのである。

(略)

 この時期、愚連隊と化した一部の朝鮮人・台湾人と日本のヤクザとの抗争は常態化していた。東京渋谷では台湾人組織とヤクザが銃撃戦を展開、日本人警官1名、台湾人7名が死んでいる。

また、新潟県直江津では列車内のトラブルから、闇米ブローカーの朝鮮人3人が日本人乗客の1人をスコップで殴り殺した「直江津事件」も起こっている。これらの事件は、“在日事件史”の重要なファクターとして、在特会などもしばしば取り上げる。』


しかし、在特会が言うような、「朝鮮進駐軍」を自称する大規模犯罪組織など、どこにもなかった。山野や在特会がでっち上げたマボロシなのである。ビラが根拠だと主張する「GHQの資料」なるものも実在しない。また、ビラでは軍服のようなものを着た集団が民族団体本部を守っているかのように見える写真を掲載して事実らしく見せかけているが、これは実際にはまったく別の写真を転用したものである[3]。


『在特会サイトを開き、最初の「朝鮮進駐軍をご存知ですか?」の上のURLをクリックしてください。

在特会
http://www.zaitokukai.info/modules/wordpress/index.php?p=170

とくに2枚目の写真にこういう解説がつけくわえられている。

「朝鮮総連本部を警備する短銃を所持する在日朝鮮人警備隊」

「朝鮮進駐軍」とは、こういう警官みたいな制服を着ていたのか!?

そう驚く者もいるだろうが、マトモな思考能力と感性を持った者はこう思うだろう。


 「これって、日本の警官じゃん!」 


残念ながら、そのとおりであったようだ。

以下は毎日新聞の報道写真を売るサイトのようだが、

https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php

(「朝連」で検索して、いちばん右下の写真をクリックしてください)


その最後の写真が、このビラの2枚目に使われた写真であることは一目瞭然である。

朝連本部を「平穏に接収」するのは、日本の警官隊が行ったことである。

こういうペテンをするようなビラに書かれた内容が、寸毫も信用できないことは、いうまでもない。』


注:

毎日フォトバンクのサイト
https://photobank.mainichi.co.jp/php/KK_search.php

を「朝連本部」で検索すると見つかる4枚の写真のうち、真ん中の2枚が在特会のビラで使われたものである。


なお、このアジビラ(またはその元ネタ)を作った本人は、なにしろわざわざ日本の警官隊が写っている写真を入手して、それにインチキなキャプションを付けて転用したのだから、「朝鮮進駐軍」などデマであることを知っていたはずである。嘘だと分かっていてデマを拡散する。実に悪質な差别扇動行為である。

はすみがやっているのは、山野が持ち出し、在特会が拡散したヘイトデマを、とっくにその嘘がバレた今になって再拡散しようとする行為だ。周回遅れのちんけなプロパガンダなのである。


[1] はすみとしこ 『そうだ難民しよう』 青林堂 2015年 P.15

[2] 安田浩一 『ネットと愛国』 講談社 2012年 P.219-220

[3] 世に噛む日々 『在特会の「朝鮮進駐軍」デマを検証してみた』 2010.5.24
http://eiji008.blog19.fc2.com/?q=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D&charset=utf-8


http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/07/221030


在特会支部の宣伝における朝鮮進駐軍

団体等規正令に基づき朝連ビル(在日本朝鮮人連盟中央総本部)が強制捜索された際に入り口を封じる警視庁予備隊、1949年9月8日。

在特会のビラには本写真が“朝鮮進駐軍の部隊”として例示されている。


右派系市民団体「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の「大阪支部」は、

「『朝鮮進駐軍』をご存知ですか?」

というチラシを配布し、その中で3万人の朝鮮人からなる犯罪組織「朝鮮進駐軍」「祖国防衛隊 (在日朝鮮人団体)」が、戦後の混乱期に強姦、殺人、公的機関への襲撃、不動産の不法占拠などの犯罪を起こし、「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料」にあるだけでも4,000人以上の日本人が殺されたとしている[5]。2009年に在特会が起こした京都朝鮮学校公園占用抗議事件では、これを「(学校の土地は)朝鮮人に奪われた」

というアジテーションの根拠としている。ビラの配布のみならず、インターネット上では、会の活動を支持するブロガーらによりブログや電子掲示板などで流布が行われた。

しかし、4,000人以上の日本人が殺されたとする「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の資料」の出典は明かにされておらず、朝鮮進駐軍を写したと言うチラシの写真は、新聞社が1949年に撮影した朝鮮人団体の本部の捜索を行う日本の武装警察官の写る写真に、「武装集団在日朝鮮人集団」「短銃を所持する在日朝鮮人警備隊」といったキャプションをつけたものであった。

朝鮮進駐軍が起こした凶悪事件として例に挙げられているものには、1946年の首相官邸デモ事件と1948年の阪神教育事件のような実在の確認できるものあるが、どちらも大規模なデモ行進が騒擾事件に発展した政治的事件である。

首相官邸デモは「在日朝鮮人生活権擁護委員会」、阪神教育事件のデモは「在日本朝鮮人総聯合会」(在日朝鮮統一民主戦線)が開催したもので、朝鮮進駐軍なる組織ではない。

事件の犠牲者についても、首相官邸デモ事件では死者は出ておらず、阪神教育事件では犠牲者は出たが、それは在日朝鮮人側の少年であり、主張されるものとは大きく異なるとされる。

元副会長の川東大了は自らが広めたたデマであると発言している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D


「朝鮮進駐軍」なるデマビラについて 2010年5月23日 (日)


 去年あたりから「在日特権を許さない市民の会」なる差別排外主義・レイシズムを煽る一種のネオナチが台頭し始めた。その手口は有りもしない「在日特権」なる物をでっち上げフィリピンから来日した夫婦の子供(中学生)を対象に露骨なヘイトスピーチを行い、朝鮮人学校の小学生に脅しをかけるという非常に醜いもので、「右翼」や「保守」の間からすら批判の声が高まっている。

年明けくらいには拙ブログにも「朝鮮進駐軍を知っていますか」なるトラックバックを送ってきた。そもそもの切っ掛けはWikipediaに掲載されていた「朝鮮進駐軍」なる項目が出典も一次史料も二次史料も示すことが出来ず、Wikipediaの編集方針に反するために削除されたことに拠ると思われる。

 こんなことを書くと常連のROM人さんあたりが噛み付いてきそうなので予め言っておくと、南京大虐殺や戦時性奴隷(従軍慰安婦)など左右の間で論争となる歴史的事実の殆どは被害者の証言もそれを裏付ける各種公文書、当時の報道などが実在する。論じられているのは規模の大小であったり軍部が関与したかどうかなどである。

ネトウヨなどの歴史修正主義者は実在を抹殺するために躍起となっているが、ナチスによるユダヤ人虐殺、アメリカ合州国によるネイティブアメリカン虐殺・ベトナム戦争当時のソンミ村虐殺、ソ連スターリン主義によるカチンの森虐殺、中国スターリン主義によるチベット民族抹殺政策同様否定できない事実である。矮小化の努力は常に為されているが。

 加入しているmixiのコミュニティーに「『在特会』を許さない市民の会」と言う物があって、そこで1週間ほど前から「罪特デマビラ『朝鮮進駐軍』」と言うトピックスが設けられ批判・検証が行われている。公開されいるためにザイトク会副会長なる人物や支持者とおぼしき輩も登場して来るのであるが、彼らは「朝鮮進駐軍」が実在したという歴史的事実を示すことが出来ていない。

唯一山口組三代目田岡組長の「自伝」的映像の中に使用されていたというのが根拠である。どうやら東映ヤクザ映画に影響され、それを真実だと思い込んでしまったらしい。[追記]約1000のコメントに対して私の書き込みは10ほどである。ザイトクを追い込み、ついにはデマであったことを認めさせたのは多くのコミュ参加者の功績による。

 私の父方の祖父は新潟出身で越山会会員、父は祖父の後を継いで土建屋を営んでいたため熱心な自民党支持者であった。子供の頃に見るテレビと言えば戦争映画・西部劇映画にアニメではテレメンタリー「決断」。尊敬する人物は山本五十六(連合艦隊司令長官)・山口多聞(第二航空戦隊司令官)・坂井三郎(台南航空隊を経てラバウル入りをし、生涯撃墜機数64のエースパイロット)というバリバリの右翼少年であったのだが、その私が全く知らずに来た「事実」である。

更に言えば中学くらいから更正して左翼になっていくが、二十歳の時に全学連と接触し、反戦青年委員会を経てマルクス主義青年労働者同盟に加入し20年ほど活動歴がある。その私が論敵である右翼・保守の連中から「朝鮮進駐軍」なる単語を唯の一度も聞いたことがない。

 では以下に「罪特デマビラ『朝鮮進駐軍』」トピで論争になった出来事を、コミュ参加者の中で同意を得られた方と、本来存在証明を果たす責任・立証責任があるザイトク会及びその支持者の引用を交えて紹介したい。

 ザイトク支持者は戦後革命期に行われた様々な闘争や闇市を巡る日本各地での抗争に在日朝鮮人が参加していたことをもって「朝鮮進駐軍」が存在したと主張する。

「3 2010年05月17日 10:02 打倒人民解放軍@京香

主な事件一覧

朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。

* 大阿仁村事件(1945年10月22日)
* 生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
* 直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
* 富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
* 長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
* 富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
* 坂町事件(1946年9月22日)
* 新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日〜29日)
* 首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
* 尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
* 阪神教育事件(1948年4月23日〜25日)
* 評定河原事件(1948年10月11日〜12日)
* 宇部事件(1948年12月9日)
* 益田事件(1949年1月25日)
* 枝川事件(1949年4月6〜13日)
* 高田ドブロク事件(1949年4月7日〜11日)
* 本郷村事件(1949年6月2日〜11日)
* 下関事件(1949年8月20日)
* 台東会館事件(1950年3月20日)
* 連島町事件(1950年8月15日)
* 第二神戸事件(1950年11月20〜27日)
* 四日市事件(1951年1月23日)
* 王子事件(1951年3月7日)
* 神奈川事件(1951年6月13日)
* 下里村役場事件(1951年10月22日)
* 福岡事件(1951年11月21日)
* 東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)
* 半田一宮事件(1951年12月3日〜11日)
* 軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)
* 日野事件(1951年12月18日)
* 木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日〜23日)
* 姫路事件(1952年2月28日)
* 八坂神社事件(1952年3月1日)
* 宇治事件(1952年3月13日)
* 多奈川町事件(1952年3月26日〜30日)
* 田川事件(1952年4月19日)
* 岡山事件(1952年4月24日〜5月30日)
* 血のメーデー事件(1952年5月1日)
* 上郡事件(1952年5月8日)
* 大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日〜25日、11月9日〜12日)
* 広島地裁事件(1952年5月13日)
* 高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
* 奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
* 万来町事件(1952年5月31日〜6月5日)
* 島津三条工場事件(1952年6月10日)
* 醒ヶ井村事件(1952年6月13日)
* 葺合*長田事件(1952年6月24日)
* 吹田*枚方事件(1952年6月24日〜25日)
* 新宿駅事件(1952年6月25日)
* 大須事件(1952年7月7日)
* 舞鶴事件(1952年7月8日)
* 五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日〜26日)

参考文献

* 法務研修所編『大須騒擾事件について』1954年
* 横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
* 篠崎平治『在日朝鮮人運動』1955年
* 大阪市行政局編『大阪市警察誌』1956年
* 新潟県警察史編さん委員会編『新潟県警察史』1959年
* 名古屋市総務局調査課編『名古屋市警察史』1960年
* 瓜生俊教編『富山県警察史 下巻』1960年
* 山形県警察史編さん委員会編『山形県警察史 下巻』1971年
* 宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
* 大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』1973年
* 警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
* 兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
* 愛知県警察史編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年
* 青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 下巻』1977年
* 坪井豊吉『在日同胞の動き』1977年
* 警視庁史編さん委員会編『警視庁史〔第4〕』1978年
* 思想の科学研究会編『共同研究 日本占領研究事典』1978年
* 仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
* 長崎県警察史編集委員会編『長崎県警察史 下巻』1979年
* 李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
* 福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
* 山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史 下巻』1980年
* 警察文化協会編『戦後事件史』1982年
* 日本国有鉄道公安本部編『鉄道公安の軌跡』1987年
* 講談社編『昭和・二万日の全記録 第9巻』1989年
* 朴慶植『解放後 在日朝鮮人運動史』1989年
* 百瀬孝『事典・昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年
* 金慶海、堀内稔編『在日朝鮮人・生活擁護の闘い』1991年
* 荒敬『日本占領研究序説』1994年
* 百瀬孝『事典・昭和戦後期の日本 占領と改革』1995年
* 竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
* 『秋田魁新報』1945年
* 『神奈川新聞』1951年
* 『西日本新聞』1951年
* 『中部日本新聞』1951年、1952年
* 『大阪新聞』1952年
* 『京都新聞』1952年
* 『神戸新聞』1952年
* 『山陽新聞』1952年
* 『中国新聞』1952年

こんな感じですよ。。 皆様。。」

 図書館に足を運んで調べる余裕がないので列挙された事件をWikipediaで調べてみたのであるが、どの事件にも「朝鮮進駐軍」なる単語は登場しない。組織的関与も記載されていない。勿論在日朝鮮人による犯罪がなかったなどと言うつもりはない。更に言えば戦後革命期に日本「共産」党の様々な闘争を最も献身的に闘い抜いたのは朝鮮人党員であるから、逮捕者が多数いるのは当然の出来事である。

「92自分のコメントを削除する 2010年05月17日 21:38 アッテンボロー

「朝鮮進駐軍」なる有りもしないデマを信じる単純なお嬢さん、戦後革命期の朝鮮人の闘いがどの組織によって行われていたか、歴史的事実を勉強してね。

「自主独立の党」である日本「共産党」はコミンテルン(国際共産党)日本支部として結成されました。当時コミンテルンは「一国一党」という方針から日本の植民地である朝鮮には支部を認めず日本支部の一員として活動するように指導した。

民族独立を願う朝鮮人共産主義者達は最も英雄的に日本国内で反戦運動や労働運動に取り組んだ。宮本賢児(「顕治」が正しい)など日本「共産」党指導部は危険な任務の殆どを朝鮮人党員に命じた。中野重治(詩人・「共産」党員で後に共産主義者たらんとして離党だか除名)の詩にも「日本革命の前盾、後ろ盾」なる語句が有り、日本「共産」党による利用主義の顕れとして社会主義者・共産主義者・ブルジョア民主主義者らから批判の対象となる。

戦後朝鮮人は「朝鮮人民共和国」を建国する計画を持っていたが、大日本帝国陸軍の管轄を元に三十八度線の南には朝鮮軍に代わり米軍、北には関東軍に代わってソ連軍が駐留する。

当時坑日パルチザンなどの戦いの影響で統一選挙をすれば親ソ政権誕生が有力視されていた為南で単独選挙を強行し、反共主義者である李承晩を大統領とする大韓民国を成立させる。これに対抗しソ連は北に朝鮮民主主義人民共和国を建国し何処の誰か知らないが「金」姓の党員に坑日パルチザンの英雄「金日成」の名を襲名させて総書記とする。

お嬢さんの言う太極旗引きずり下ろしは坑日パルチザンの中の一部である「金日成」派やソ連の影響を受けない大部分が何もしなかった李承晩ら親米派より支持されていた背景無しには考えられない。ソ連軍占領下の北でも同様な引きずり下ろしが有ったかどうか? 少なくともソ連は亡命政権を承認しており、戦後処理の会議に参加する事を了承していた。アメリカ合州国政府の反対により出席できなかったのだ。

つまり当時は朝鮮を戦勝国とする国々も存在していた。

中国の国共内戦における中国「共産」党の勝利と中華人民共和国成立や朝鮮戦争前夜のGHQの方針転換により戦争犯罪人の公職復帰とレッドパージが行われると日本支部は朝鮮人党員を追放し、同時に団体規制令に従い党員名簿を政府とGHQに提出して弾圧回避を狙う。

ソ連及び中国の「共産」党が朝鮮労働党の半島統一戦争を支援したのに対し、この頃から「自主独立」路線が芽生えていた日本支部は朝鮮戦争反対をスポイルした。後方支援基地である日本全土が軍事監獄と化す中で反共労働運動として組織された総評が「鶏からアヒルへ」と呼ばれる路線転換を行い、引きずられた社会党が左傾化する。

朝鮮戦争後ソ中両党に軍事組織も無く軍隊工作もせず武装闘争もしない事を批判されるや「山村工作隊」「中核自衛隊」を編成し火炎瓶闘争などを行う。

お嬢さんらが信じた「朝鮮進駐軍」なるデマは日本「共産」党による武装闘争や植民地支配に対する個人的反発、生きるために日本各地が闇市を巡る抗争に明け暮れていた時代の一勢力に過ぎない在日朝鮮人を一緒くたにして妄想に浸る行為だよ。

ついでに言うと、日本「共産」党からは大歓迎される主張だろうね。彼らは六全協で武装闘争路線を放棄し、今は「暴力反対」を唱えているから武装闘争の全てを朝鮮人のした事に出来る。」

 ザイトク支持者は盛んに朝鮮人が戦勝国を僭称したと言うのであるが、大韓民国臨時政府(1919年に上海で設立された大韓帝国の亡命政府)が組織した韓国光復軍(1940年に重慶で創設)が連合軍の一員として米政府の一機関による訓練を受けていた事実は知らないらしい。更に言えば抗日パルチザンなどの一連の独立闘争が存在していた。ただし大韓民国臨時政府を枢軸国・連合国共に国家としては承認していない為、朝鮮人の連合国の一員であり「戦勝国」であるとの主張に食い違いが出る。「 大韓民国臨時政府対日宣戦声明書 大韓民国臨時政府主席 金九と 外務部長趙素昴名で大韓民国 23年12月10日に宣言したが、日本政府に布告文書は通達されておらず、実効性は皆無。」(Wikipedia「大韓民国臨時政府」の項目の脚注より引用) 米帝が南米でコントラなどの反共勢力に軍事援助や資金援助をを行っていたのと同様で、朝鮮人からすれば亡命政権が承認されていたと錯覚するのも当然である。第2次大戦中のシャルル=ドゴールの「自由フランス国民委員会」の例も有る。

 ザイトク支持者の主張によると「朝鮮進駐軍」なる言葉は在日朝鮮人が作り出したもので日本人の感覚からは生まれるはずがないとのことである。そもそも「進駐軍」なる言葉は「占領軍」と言う言葉を嫌った日本政府の造語であるという事実を知らないらしい。

「1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織」(2010年05月17日 10:01 打倒人民解放軍@京香 )

 まずここで事実誤認が甚だしいのは国籍が韓国の人については「特別永住権」であるが朝鮮籍の人の場合は「協定永住権」と言う。これは元々敗戦まで日本国朝鮮・日本国台湾という行政区分の土地、つまり旧植民地出身者の日本国籍を1952年のサンフランシスコ条約による日本の独立回復と同時に剥奪した(昭和27年4月19日法務府民事局長通達 民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)際に勅令で永住権を定めたことが発祥。

「戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本空軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。」(2010年05月17日 10:01 打倒人民解放軍@京香 )

 戦後しばらくは帰還兵などが持ち帰った銃器や軍刀は至る所に存在していたし、旧軍の物資を盗んだのは日本人も同じ。山口組や稲川会・住吉会が武装していたのはどこから入手したのか? 日本人の多くが武器を所持していた。更に歴史上日本に空軍は存在しない。「さて、お嬢ちゃんに対する指摘として、「日本空軍」なる物も未だかつて存在したことはないと言っておこう。事実上の日本空軍である航空自衛隊の創設は1954年7月1日で当初は陸軍航空隊と海軍航空隊との混成。当然皇軍、天皇の軍隊は「帝国陸海軍」しか存在していない。デマ情報仕入れる前にせめて防衛省や航空自衛隊のサイトくらい見ようね。

 それから闇市で「空軍の軍服」を来た人々が暴れていたことだけど、「飛行服」を着ていると、死をも恐れぬ特攻隊帰りと言うことで幅を利かせることが出来たし、実際特攻隊帰りの中には自暴自棄になって暴れるのがいたからね。ただし比率は圧倒的に日本人だよ。大山倍達(おおやまますたつ 極真空手の創始者)の様に植民地出身の特攻隊帰りもいたのは事実だけど。」(2010年05月17日 23:37 アッテンボロー)

「この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。」(2010年05月17日 10:01 打倒人民解放軍@京香 )と有るのだが、植民地出身者の殆どが創始改名によって、或いは右翼の主張では皇民化教育により自ら進んで日本名を名乗っていたのであるが、敗戦直後に民族名を名乗っていたという根拠は示されていない。ついでに言えば日本国民として戸籍に記載されていたのであるから、1952年の国籍剥奪までは「通名」ではなく本名である。

 さて、進駐軍である米軍などによる強姦などの婦女子暴行は日常茶飯事であったし。様々な横暴な行為を働いた。

「「慰安所」の設置 [編集]
終戦直後の8月18日に、内務省は全国の警察に対して連合国軍の将兵向けの慰安所の設置を指令し、8月20日には近衛文麿国務相が「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。「(連合国軍の将兵による)性犯罪から子女を守るため」という大義名分を基に、日本各地に慰安所が設置された。」(Wikipedia「連合国軍最高司令官総司令部」より) この「慰安所」の発想やノウハウがどこから出てきたかは言うまでもない。

「318 2010年05月19日 11:38
打倒人民解放軍@京香 朝鮮進駐軍と言う名前は、朝鮮人の発想からしか生まれません。。」

 1871年に(明治4年)8月28日の太政官布告(解放令)が出されると解放令反対一揆というのが散発したのであるが、今まで差別視したり格下扱いしていた人々が解放されることに対して差別者の側は「増長」と感じる。単純に対等に近くなるだけだが、その事が在日朝鮮人をまるで「朝鮮進駐軍」だと日本人が表現した可能性は考えられる。少なくともザイトク会及び支持者の根拠ならざる「根拠」は東映ヤクザ映画しか例示されていない。

 ザイトク支持者に対して「512自分のコメントを削除する 2010年05月19日 22:17 アッテンボロー  騙されやすい京香お嬢ちゃん、お嬢ちゃんが今までにだらだらとコピペした様々な事件の調書を読んでみたらどうかな? 僕はお嬢ちゃんほど暇ちゃうからわざわざお子ちゃまの為に調べて引用してやる無駄な時間はないから。ここまで散々みんなが事実の調べた方や立証方法などを親切丁寧に教えていても、学習能力のないお嬢ちゃんには理解できないみたいだから。

 で、ヒントだけ。犯罪報道などで「自称○○こと××」とか有るだろ。報道機関が独自に調べることは殆ど無くて警察発表の垂れ流しだから。

 裁判になっている以上、逮捕されたり起訴されたりした人間の調書が警察・検察・裁判所に公文書として存在している。もし本当に「朝鮮進駐軍」なる組織が実在した場合必ず記載がある。お嬢ちゃんが騙されている様に「3万人」規模の組織が存在したのなら載っていないはずがない。ヤクザや右翼の場合構成員が一人であっても「暴力団○○組構成員××」とか「在特会構成員京香」とか証明してくれるよ。」

 裁判資料などは極普通に公開されているのだが、ザイトク会及びザイトク支持者は調べて根拠を示す能力がないらしい。日本政府の公文書あるいは米政府の公文書で公開されている物は少なくない。国立国会図書館で閲覧・コピーを取ることも出来るし、それらを第一次史料として使用した文献やサイトなども有るだろう。

 ザイトク会及びザイトク支持者自らが「朝鮮進駐軍」が存在しなかったと表明していることを引用しておく。


「100 2010年05月17日 22:50
打倒人民解放軍@京香
朝鮮進駐軍ってものは本来は無いし、、
昔の誰かがこの様な犯罪者民族につけたんでしょ。。
それが広まったんではないのかな〜。。
そして、犯罪者集団南北朝鮮人は、我々は朝鮮進駐軍だといえば、怖がられて脅しにでも使っていたんでしょうね。。 」

「276 2010年05月19日 10:09
打倒人民解放軍@京香
当たり前でしょ。。
朝鮮人は進駐していないんですから、警察は進駐軍などと言うはずはないでしょ。。
朝鮮人が嘘をつき、朝鮮進駐軍と名乗って 暴れていた証拠。。だと言うこと。。」

「2010年05月19日 10:35
打倒人民解放軍@京香

>その事件の過程において、警察署に乗り込んだ朝鮮人が自分たちのことを「進駐軍だと言った」のですか?それともあなたの推測ですか?
憶測? 

キミの方が憶測でしょ。。 これだけ犯罪履歴を出してもいいえと言っているんですから。。
>日本の警察は「朝鮮進駐軍」という「犯罪組織」が存在したことを認めてないってことですね?
当たり前。
朝鮮人が自ずから戦勝国民だ。我々は進駐していると警察に言っても、キチガイ扱いですよ。。 」

「326 2010年05月19日 11:48
打倒人民解放軍@京香
(一部ハンドルネーム削除)
朝鮮進駐軍という名前の組織ではなく、、
各自で、朝鮮進駐軍と名乗って、警察署襲撃や婦女暴行、強盗、殺人、窃盗、などをしていたんでしょ。。 」

「346 2010年05月19日 12:23
打倒人民解放軍@京香
>そんなものは一度も出ていません。

ごまかさなくてもいいよ〜
http://www.tamanegiya.com/tyousennjinntohann19.11.26.html
文句を言いたければ神戸にGO〜。 」

 上記のURLをクリックしてみると
「戦後、朝鮮人がやっていたこと 「田岡一雄自伝」より

平成19年11月24日土曜日晴れ ××××

 手元にある「田岡一雄自伝 電撃篇」(田岡一雄 一九七一年初版 徳間書店)よりの引用

 (その日のうちに神戸は修羅場と変貌した。

 敗戦の報に茫然自失する市民とは対照的に、これまで過酷な労働で軍部から抑圧されてきた第三国人たちは欣喜雀躍とし、略奪、報復の火蓋をきったのである。
 その日の午後七時。徒党を組んだ三国人は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪。これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件を起こし、婦女子を暴行し、わがもの顔に跳梁しはじめた。

 終戦当時、国内には二百万以上の三国人がいたが、とくに兵庫に多く、昭和一八年に一三万五千人、四八都道府県の七%強を占め、大阪、東京につぐ三位という勢力をもっていた。

 略)

 三国人たちは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街をのし歩いた。

 通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ半殺しにし、 無銭飲食をし、白昼の路上で見境なく集団で婦女子を暴行する。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

彼ら不良三国人は旧日本軍の飛行服を好んで身につけていた。 袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って町をのし歩いた。

 腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげ、略奪、暴行をほしいままにした。

  警官が駆けつけてきても手も足も出ない。

「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」

  警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、 街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 >p一九〇〜十九三

 (昭和二〇年八月末、わたしは所用の帰途、女の悲鳴をきいた。人通りもすくない東山病院の裏手である。白熱の太陽がキナくさい焼跡に照りつけていた。
 一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。

「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」

少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。

「ここにいるんやで。ええな」
私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服の、三国人の男たちだった。
 彼らは不適な薄ら笑いで女の手足をおさえつけ、一人がその上に乗っている。女は狂ったように絶叫していた。
(汚ねえ・・・・>
 うめくと、わたしは遮二無二彼らに突進していった。>p一九四

(昭和二一年二月、神戸生田署の岡政雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され、同年四月、須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された。
 そればかりではない、警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった。すなわち不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃し、署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである。>p二一四

 田岡氏の著書に出てくる「三国人」とははほとんどが朝鮮人です。
それは、下記のような箇所の記述からわかります。
(朝鮮人同盟からの果たし状だ>P二一二
(やはり三国人との抗争事件で丹波篠山へ朝鮮人征伐にでかけた>P二二六

 差別だ、差別だ、と騒いでいる朝鮮人がどのようなことをわが国で戦後やってきたか。一つの事例です。

 ちなみに、この本には、田岡氏の昭和二一年夏の山口組三代目襲名式には当時の自民党代議士・佃良一氏が出席(P二三二)と記されているが、自民党は昭和三〇年(一九五五年)に自由党と日本民主党が合併してできたものですから、昭和二一年当時は自民党がまだないので、自由党か日本民主党かの間違いでしょう。」とある。[追記 pippoさんの指摘ではザイトク会及びザイトク支持者が羅列した一連の事件の中には含まれていない「国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪」なる事件が登場している。北海道深川市にある深川駅なのか、滋賀県甲賀市の深川駅(現甲南駅)なのか、熊本県水俣市にあった肥後深川駅なのか? はたまた神戸にも「深川駅」が存在したことがあるのか?  広島県安佐市の下深川駅・中深川駅・上深川駅なのか? 一応Wikipediaで近畿地方の廃駅まで調べたが神戸には「深川駅」なる物はなかった様だ。私鉄・市鉄にも無かった。文脈からすると1945年(昭和20年)8月15日に神戸市内に「深川駅」が存在しないといけないから自伝の記述その物の信憑性が低下する。また「闇市を掌握」していたのは山口組ではなかったのか? 「旧日本軍の飛行服」は京香が誤読した部分である。更に「不良三国人三百余人は兵庫警察署を襲撃」と有るがWikipediaにはそのような事件は記載されていない。生田警察署襲撃事件は有るが、こちらは襲撃者の規模が1回目1945年12月24日「50名を超える」2回目、1946年1月9日「30〜40人」となっている。]      

 唯の一言も「朝鮮進駐軍」なる言葉は出てこない。寧ろ文末の自民党についての記述にある様に田岡の自伝がキチンと当時の時代背景を記述していない事が明らかである。例えば山口組最強の殺しの軍団である柳川組が在日朝鮮人で組織されていたことなどはここでは触れられていない。(右翼やヤクザに詳しいアンチザイトク会コミュ参加者の方による)

「386 2010年05月19日 13:38
打倒人民解放軍@京香
>そういえば、闇米食べなくて餓死された方いましたよね。
人のものを強奪したもので生き恥をさらすのはいやだったんでしょうね。。
闇米=泥棒もの。。 日本人らしいひとですね。。 」

 ここでも無知がさらけ出されている。食管法による統制から外れて流通した米は全て闇米だった。田舎に住む親戚や知人に分けて貰った場合でも供出されていない以上それは闇米である。

「408 2010年05月19日 14:12
打倒人民解放軍@京香
配給米で生きている状態のどの辺が「普通」だよ
泥棒米で足元見て高額なお金を要求していたことが普通なんでしょうか〜。。」

 一行目はザイトク支持者に対する批判を引用符を使わずに地の文と同じ書き方で掲載しているので分かりにくい。年配の方や戦中戦後の歴史を少しでも知っている人であれば「竹の子生活」という言葉を知っているはずである。着物や宝石を米など僅かの食料品と交換して糊口をしのいだ事である。日本の都市住民と日本人農民との間で行われた不等価交換であり、小作農から自作農になった戦後の農家が経済的に豊かになったきっかけの一つでもある。

「534 2010年05月20日 10:31
打倒人民解放軍@京香
>立証から逃げてる人間が、デマじゃないという資格はないですね。
朝鮮人の犯罪≠朝鮮進駐軍の存在
という図式なんですから、いくら「日本国内朝鮮民族の犯罪履歴」を調べたところで、
過日のリスト程度しか記録がないようですし、「朝鮮進駐軍の存在」は立証できないと思いますけどね。

だから 朝鮮進駐軍と言う言葉はあるといっているじゃん。。
日本人はこんな馬鹿げた言葉は使わないの。。
李承晩が勝手に戦勝国民だと騒いでいただけ。。
それをバカ在日が聞き、戦勝国民だ 我々は進駐軍だといってやりたい放題したわけ。。
わかる李承晩って言う人? 超反日民族活動家。。 」

 またしても引用中の一行目から五行目までは他者の引用であるが区別を付けずに地の文と同じ表現をしている。このザイトク支持者は殆どの場合引用と自らの文章との区別を示す書き方が出来ない。因みに隣国の大統領を名指しして「超反日民族活動家」とのたまう。李承晩は反日の民族主義者であるが同時に熱烈な反共主義者でもあり韓国民衆を大量殺戮した。今現在の韓国における評価がどの様になっているか知らないが少なくとも日本の左翼の間では批判の対象であり、李承晩を打倒した1960年の4・19学生革命が日本の安保闘争に与えた影響は絶大である。闘えば勝てるという自信に繋がり岸内閣を退陣に追い込んだ。

 問題なのは「だから 朝鮮進駐軍と言う言葉はあるといっているじゃん。。 」と言う部分である。当初は「朝鮮進駐軍」なる3万人を組織する武装組織が存在し日本人4000人を殺害したと主張していたのであるが、いつの間にやらそれは「朝鮮進駐軍」と称する朝鮮人の犯罪があったとなり、ついには「言葉はある」となっている。これは自らが「朝鮮進駐軍」の存在を否定したと捉えて良いだろう。

「542 2010年05月20日 12:47
pippo
>>534 京香ちゃん
>日本人はこんな馬鹿げた言葉は使わないの。。

おやや
ここMixiでは、
京香ちゃんが一番熱心に
「朝鮮進駐軍」この言葉をつかってるんだけど。

あと、こんな馬鹿げた言葉「朝鮮進駐軍」を熱心に使っているのは、

高槻で 中曾千鶴子(おつる日本シルクロード科学倶楽部会長)
神戸で 望月紀李(そよかぜ関西会長)
姫路で 荒巻靖彦(全主権回復関西支部会計)
東京で 桜井 誠(全日本在特会会長)
大阪で 川東大了(全日本在特会副会長・全関西支部長)

罪涜界では、偉い身分のヒトが多いんだね。

京香ちゃんがユカイユカイなのは
こういう楽しいことも言ってくれるからだ。

>李承晩が勝手に戦勝国民だと騒いでいただけ。。
>それをバカ在日が聞き、戦勝国民だ 我々は進駐軍だといってやりたい放題したわけ。。
>わかる李承晩って言う人? 超反日民族活動家。。

そうすると、
君の言う「朝鮮進駐軍」とは、
朝鮮戦争前後に米軍やGFQにベッタリだった
反共南朝鮮系団体のことなんだね

北朝鮮系の在日朝鮮人連盟(朝連)は何も関係ないんだ、
そうなんだ、へぇ
京香ちゃんの説だとそうなる(笑)
京香ちゃんが最初の方でズラズラと列挙した
事件の数々も全て関係ない、と。

京香ちゃんは分かってるのかなあ、
南の大統領李承晩は北の主席金日成と犬猿の仲、
朝鮮戦争で互い指導者として、死に物狂いで闘い合ったということを。
その時の日本政府、吉田茂内閣が
米軍や李承晩を応援したことも。

おじさん、心配になってきちゃったよ。

でも、学校の歴史の時間では、
なかなか教えてもらえないからなあ、
しかたないのかも。

今は、総連と民団が喧嘩腰じゃあないから、
戦後直ぐから仲が良かった、と京香ちゃんは思いこんじゃったんだね。
嫌韓流に進駐された脳みそで考えると、そうなるのも
仕方ない、しかたない。

(「在脳嫌韓流進駐軍」ってか)
543 2010年05月20日 12:53
pippo
訂正
全関西支部長→前関西支部長
GFQ→GHQ」

 引用にあたりpippoさんには事前の了承を得ている。

「555 2010年05月20日 16:15
打倒人民解放軍@京香
(ハンドルネーム削除)
イースンマン?
これは南鮮人が使う言葉だね〜。。
私たちと同じ??
私たちからすれば左派じゃん。。 極左、、 超反日。。 
バカじゃないの。。 あんた。。 チンカスヤロウ。。」


 読み方が分かれば朝鮮や韓国や中国の要人をその言語に習って表記するのは普通である。私が中学の頃は「りしょうばん」と習ったが、今はイスンマンと呼ぶことが多い。ザイトク支持者はアメリカは日本に勝ったのであるから強姦などの婦女子暴行をしたって当たり前という趣旨のことを書き込んでいるが、アメリカ合州国で日本人女性が「イエローキャブ」と揶揄されるのもむべなるかな。日本政府自体が明治以来パスポートなどで氏名の表記を名前を先に書く欧米言語に従うのだからしょうがないか。

「746 2010年05月22日 16:17
群青
■□◇■とりあえず、自分の結論■◇□■

1、
「朝鮮進駐軍」はよくわからないが、戦後の混乱期に様々な衝突はあった。
 朝鮮人や台湾人のアウトローが暴れ、日本人ヤクザと衝突した。一般人を巻き込んだ悲惨な事件もあっただろう。

2、
 しかし過去の事件を口実に、当事者世代ではない人間を追い詰めるのは、最低の人間がやることである。
 そういうやり方は、右も左ももうやめようぜ。

3、
 一方的で卑劣な集団暴力は、朝鮮人主体のものであれ、日本人主体のものであれ、許さない。
 つまり、「朝鮮進駐軍」のようなものが現在あれば、日本人も朝鮮人も、俺たちは一緒になって反対する。
 在特会に対しても同じ。日本人と朝鮮人が一緒になって奴等と闘う。」

「788自分のコメントを削除する 2010年05月23日 00:10
アッテンボロー  

未だに恥知らずな京香嬢ちゃんが彷徨いているね。いい加減立証責任果たしたら。
「朝鮮進駐軍とやらが実在したのなら証拠を示せや。ここは「朝鮮進駐軍」と言うザイトクのデマを検証するトピなんだから。戦時性奴隷=従軍慰安婦問題にすり替える卑劣な手法はいい加減に日本人の恥だから止めてね。」

「792 2010年05月23日 00:16
打倒人民解放軍@京香
アッテンボロー
まだ 屁理屈捏ねてるんだ〜。
あんたに恥と言われる筋合いは無い。。
誰も摩り替えてないよ。。 朝鮮進駐軍はあったと言って田岡さん自伝の映画も以前に紹介してあげたでしょう。
それに、日本人は朝鮮人を進駐軍と認めておりませんので、日本人が使う言葉ではないといってますけどね〜。。 」

「803自分のコメントを削除する 2010年05月23日 00:49
アッテンボロー  
お嬢ちゃんの書き込みに「朝鮮進駐軍」の実在を示す証拠が何一つ無いけど。
 証拠を示せ、と言うのが「屁理屈」なんだとしたらお嬢ちゃんの知的水準は幼稚園児並なんだね。ザイトクはこんなんばかりなんだ。
 ご愁傷様。」

「806 2010年05月23日 00:58
打倒人民解放軍@京香
アッテンボロー

>お嬢ちゃんの書き込みに「朝鮮進駐軍」の実在を示す証拠が何一つ無いけど。

田岡さんと言う証言をしている人のビデオ載せているでしょ。。
嘘だというなら山口組に抗議したらとまで言ってますよ。。私。。」

 「朝鮮進駐軍」が存在したと主張するザイトク支持者に対して立証を求めるのが屁理屈だそうである。当人が有ったと信じ込んだ時点で客観的な証拠は必要なくなると言うのが彼女の主張である。一種の宗教だね。一般人に害を為す犯罪組織である山口組からすれば田岡が脚色したのか東映が脚色したのか知らないがイメージアップのために利用するだろう。問題なのは田岡自伝の中に「朝鮮進駐軍」なる言葉が登場するのかどうかである。有れば引用して貰いたい物だ。


「813自分のコメントを削除する 2010年05月23日 01:11
アッテンボロー  
○○○○○さん、了解です。幼稚園児や保育園児に失礼でした。京香の知的水準は2〜3歳児程度ですね。

 ひょっとしたら争点をすり替える手口だけはザイトククオリティーで大人並みなのかも知れませんが。

 で、お嬢ちゃん。田岡の自伝しか「根拠」が無いんだろ。「自伝」ってのは歴史資料の中でも最も信憑性が低い類だよ。

 そもそもお嬢ちゃんはザイトク会が提示した「血のメーデー事件」など数十件の歴史的事件を根拠に出してきたよね。その史料中に「朝鮮進駐軍」なる語句が唯の一つも存在しない。

 要は有りもしない「根拠」を提示し、その原史料ないしは二次史料に触れた人々によって嬢ちゃんが信じるザイトクの主張に何ら根拠が無いことが立証されたわけだ。

 極論で言えば、自伝ってのは言い訳の羅列なんだよ。

 裁判で被告人がいくら無罪を主張してもそれを証明できない限り日本の裁判制度では無罪にならない。お嬢ちゃん達は無罪を立証することが出来なかった。以上でアンタらの敗北決定。」

「881 2010年05月23日 02:47
打倒人民解放軍@京香
○○○○さん
朝鮮進駐軍という言葉について、私は全く持ってデマだとは思っていないからここにコメントさせていただいてます。。
上にも書いたように、私の意見として話しているんです。。
あなた方は全く無いと否定しますが、それも根拠の無い事ですよ。。 」

「朝鮮進駐軍という言葉について」である。組織についての立証は何もない。

 最後にトピ主さんのまとめを引用しておく。

「913 2010年05月23日 06:41
pippo
====================
「朝鮮進駐軍」という言葉の出典について
====================

>>782ヨンミー さん

>「朝鮮進駐軍」という言葉は田岡一雄自伝が出典であるとのことですが、本当ですか?
本当ではないでしょう。田岡一雄自伝に「朝鮮進駐軍」という言葉があるというWEB上の書き込みすらみつかりません。田岡一雄自伝に「朝鮮進駐軍」という言葉があれば、喧伝するはずだと思います(笑)?

いまのところ、田岡一雄自伝のヒデオ?からそう感じた、と「京香」が言ってるだけです。

>ここを見ると「(当時を生きた北斗星さんの談話>一部略」というパートが田岡一雄自伝にあるように思えるのですが、

ありえないと思います。まったく同じ内容が、(当時を生きた北斗星さんの談話>ではなく、(別人>による(聞き書き>としてそれ以前に登場しています。ブログで詳述するつもりです。

http://specific-asian-flash.web.infoseek.co.jp/kyouseirenkouuso.html
>ここには「北斗星さんの談話」は日本会議メンバーのHPに載せられていた取材記録とあります。

「日本会議メンバーのHPに載せられていた取材記録」は不正確です。そのサイトはおそらく伝言ゲームの末端ではないかと思います。

実際は、2000年のはじめ、あるMLへのある人物の「聞き書き}がある掲示板に転載されたもの、それがいまのところ最古です。それが、数ヵ月後に日本会議掲示板に「北斗星さんの談話」として、模様替えされて再登場しています。もともとが創作物でソースなき「怪文書」だからだと思います。「何か文章」を切り取ったもので、ソースである「何か文章」の出自を示したくないもののようです。別途詳述します。

「朝鮮進駐軍を自称する朝鮮人が犯罪を犯した」ということについても、その「自称現場」事例を記したソースは、いまのところありません。 上記「怪文書」の切り取られて外された前段は見つかりません。(見つける責任は在特会にあるのですが〜笑)
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2010/05/post-d6fc.html

____


終戦直後、進駐軍(在日米軍)による犯罪が多発した。

日本人がこの時期「売春」について,本気で論議した。

占領軍が,略奪,強姦をするのは歴史の常である。

これに終戦後の闇市に「暴力団と朝鮮人の勢力争い」が実際にあったことから,進駐軍の犯罪に朝鮮をくっつけて,朝鮮進駐軍という架空の団体を捏造したんだろうね。


在日米軍の在日特権が,「在日朝鮮人の在日特権」に化けたり,

在日米軍の犯罪が   「在日朝鮮人の犯罪」に化けたり,

在日米軍のレイプが, 「在日朝鮮人のレイプ」に化けたり,

(米兵によるレイプは沖繩で多発したんだよね)

「アメリカの女性議員が,私個人は死刑反対論者だが,
                       
この事件については死刑を求刑したい。」と述べるなど全世界のアメリカ軍兵士が,謹慎したぐらいに大きな問題となった。


ネット右翼って,学歴社会の日本人にあって,学歴がない

        仕事社会の日本にあって,仕事をしていない

・・・・・これって結構きついんだろうね。

だから,自分たちよりも更に下層にある,「恐ろしく低知能で,恐ろしく人格障害で,恐ろしく法律を無視する」’空想上の朝鮮人’をつくり出し,それを必死に攻撃している。

・・・・・そうしないと,自分が逃げ場のない劣等感だらけの人間,になってしまう。


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

12. 中川隆[-5808] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:13:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

関東震災後の日本人による朝鮮人虐殺の真相


関東震災後の朝鮮人虐殺の黒幕は警視庁だった


■「虐殺」という表現について

 関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……

身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、

という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。
(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm

〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待


荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。


 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。

西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。

1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。

それからひどくなった。

四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。

なかには女もいた。


女は……ひどい。

話にならない。

真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)


 これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。

これは例外的な事件ではない。

女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。


 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件

 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。

しかも妊婦である。

正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)


 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。

この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。

その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。

赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)


 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。


その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。

なんという残酷さ、

あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」

(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)


 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味


 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。

このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。

それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。

その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。

吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。

(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)


 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。

(山田昭次、立教大学名誉教授)

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm


関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為


 当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。

 本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。

警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。

しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。


 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。

さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。


これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。 


この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。

けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。


第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。


 関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。


裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する

 1) 殺人行為の様子

 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。

朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。

この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。

 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,

「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」

「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」

と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。

ある意味でこの考えは理の必然でもあった。


 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。

こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。


さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。

 「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。

その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。

まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。

これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。

     

 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。

前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。

 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。

警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。


「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。


 2) 裁判の様子

 さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。


 a) ある被告の答弁。

裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると

「そうです。そうですが首は落ちませんでした」

といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。

満廷もクスクス笑う。

事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。


 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。

「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。

〇〇万治は

「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」
(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。


 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,

裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。

また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。


 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。

一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』

とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。


それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。


 そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。

したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。

 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。

しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。


 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。

そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。

これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667

歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。

日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。

それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。

しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。


震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、

1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、

さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。


中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。

しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。



朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。


竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……


阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。



「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。

数は二百五十ほど。

ノドを切られて気管や食道が見えている人、

首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、

無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人…


なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」



以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。



「旦那、朝鮮人はどうですい。

俺ァきょうまで六人やりました。…

天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。…

電信柱へ、針金でしばりつけて、…

焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。


そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。



けさもやりましたよ。…

奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…

みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。


ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。

しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。

そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…

舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。

トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」


『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。



サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。

大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。



日本のばあいどうか。


虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。

いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。


「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。
http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html

震災当時、修羅の巷と化していた東京近郊では、もう一つの惨劇が発生していました。

事実無根の流言蜚語に踊らされた人々が、次々に無辜の朝鮮人を虐殺していったのです。


 元来、巨大地震などの激甚災害襲来直後には、情報の空白が生まれ、その中でさまざまな流言蜚語が生まれるといわれています。

関東大震災の時にもやはり、根拠の定かではない怪しげな噂が東京周辺を駆け巡っています。

最初は巨大地震再来や大津波襲来、富士山大噴火の噂が流れました。

これら自然の脅威に関する噂は、震災の記憶が生々しい間には威力を振るいますが、事態が小康を得るにつれ、次第にフェードアウトしていきます。

これに取って代わるように頭をもたげて来たのが、世情不安に絡む諸々の噂です。

地震によって刑務所から放たれた受刑者たちが暴動を起こすと言う噂、平生の世の中に不満を持つ社会主義者たちが混乱に乗じて暗躍すると言う噂…。


そして、日本社会で虐げられてきた朝鮮人が、震災を千載一遇のチャンスとばかりに日本人に対する逆襲を行うと言う噂です。

世情不安型の噂の中でも、朝鮮人に関する噂に対する反応は、前二者に比べてひときわ鋭敏だったようで、つまるところそれが虐殺に結びつきました。


 当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。

背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。


そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。

その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。

しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。

日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。

小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。


 惨劇を招いた流言はどこから発生したのか。

噂・流言研究の題材としては定番中の定番ともいえるようなこの関東大震災時流言ですが、実のところ最初の流言が、いつ、どこで発生したのかについて、はっきりとしたことは分かっていないようです。

確認できる範囲でもっとも早い段階の事例だと思われるものは、地震が発生した9月1日当日の夕方、横浜市本牧町あたりのもののようです。

実際には、似たような噂が同時多発的に発生していたと見るのが自然でしょう。

最初に囁かれた噂は、「地震の混乱に乗じて朝鮮人が放火を行っている」という様なものです。


噂は夜を越えるうちに、朝鮮人による強盗、強姦、殺人、井戸水への毒の投げ込みという形へ発展していきました。

噂の伝播・変質をもっと長いスパンで捉えた場合には、「朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んで地震を起こした」というような突飛なものまでも発生したようです。


 井戸水へ毒を投げ込まれるという毒水流言は、古くその歴史を遡る事ができ、決して関東大震災に特有の珍しいものではありません。

中世ヨーロッパでは、(大正期日本における朝鮮人と同じように差別待遇を受けていた)ユダヤ人が井戸水にペスト菌を投げ込むと言う噂が流れた事があります。

日本国内の酷似した事例では、明治19年、愛知県下之一色村(当時。現在の名古屋市中川区下之一色)での出来事があります。

当時、全国的にコレラが流行しており、下之一色でも患者が発生しました。

そこで官憲が公衆衛生維持のために井戸水へ消毒薬を投げ込んだのですが、これを見た村人たちは「住人を殺害するために毒薬を投入した」と誤解し、竹槍や鎌で武装して暴動を起こしました。

そして鎮圧に動いた官憲と衝突、双方に死者を出しています。

若干余談になりますが、この名古屋の事例からは、人間には自分の命を脅かす者を容赦なく殺す部分があることをうかがえます。

虐げられた朝鮮人の存在は、震災時に毒水流言の真実味を補強する材料となりましたが、虐殺という行為に直接つながったのは、民族差別とは別次元の要素なのかもしれません。


 地震によって井戸水が濁るのは良くあることです。

関東大震災の時も上野でこの現象があり、知識のない一般人にとっては、これが毒水流言の真実味を補強する材料となりました。


 東京帝国大学教授・吉野作蔵の調査によると、

「朝鮮人はもともとテロ活動を目論んでいたが、震災の破壊と混乱を千載一遇のチャンスとして蠢動しはじめた」

という見方が、数多くの流言の底流にあったと思われる節があります。

そう考えた人たちにしてみれば、「火災被害の拡大も朝鮮人の暗躍のせい」となりました。


 また偽情報の傾向を追っていくと、朝鮮人の襲撃は神奈川方面から東京を目指して行われると考えられていたようです。

あるいは、噂の伝播の傾向と一致するものなのでしょうか。

 このように流言蜚語による混乱が生じた場合の対処には、正確な情報の周知徹底が必要である事は論を待ちません。

現代的な感覚で言えば、行政の広報や、各種マスコミが正しい情報を発信する役割をになう事になります。

では関東大震災の時、各種情報インフラはどのような状態だったのでしょうか。


 当時まだテレビなど存在していなかった事は言わずもがなですが、大正12年にはラジオの放送も行われていませんでした。

NHKによるラジオ放送開始は、震災から2年後の1925年(大正14)の話です。

この時代の情報伝達の手段としては、電信・電話網が重要な役割をになっていたようですが、これも被災して壊滅状態。

在京各社の新聞報道も社屋の被害により停止状態。

復旧が順調だった東京日日新聞の場合で、新聞の発行が再開されたのは5日の夕刊から。遅いところでは19日になるまで新聞記事を発行する事ができませんでした。


これに対し、震災の被害を被らなかった地方新聞は、流言の内容を真に受け、そのまま報道するという失敗(脚注参照)を犯しています。

また地震により発令された戒厳令の関係で、官憲による情報管制も敷かれました。


 その官憲は、早い段階においては流言の内容を信じ、むしろ自分が朝鮮人虐殺に加担していたと言われています。


官憲は自分自身が流言情報の権威付けを行った上でこれを民衆に向けて発信し、そこから跳ね返ってきた情報を自分で受信してそれを信じ込むという過ちを犯してしまったようです(脚注参照)。


官憲による虐殺は、関連資料の多くが隠蔽されたため、実態が良く分かっていません。


そもそも、この流言の発生源が、他ならぬ官憲であったとする陰謀論の見方も根強く、これが一定の説得力を有しているようです。


亀戸事件・甘粕事件など、憲兵隊は流言による混乱に乗じて、日ごろから自分達が不穏分子と見なしていた集団の「粛清」を行ってもいます。

マッチポンプの可能性すら疑われている憲兵に比べ、警察や震災を受けて発足した戒厳令司令部は、比較的早い段階で流言はあくまで流言に過ぎないことを看破し、事態の収拾に向けて動き出しています。


 日本では伝統的に隣組的な組織が存在しており、その点で自警団の結成をうながす素地はあったと言えます。

関東大震災時に結成された多くの自警団も、もともとは朝鮮人に限らず火事場泥棒に対し、また、地震被害に対処するために自然結成されたものでした。

自警団に参加していた人の言によると、飢餓と流言が自警団を虐殺行為へと駆り立てたという実感があるようです。

また、民衆の中でも流言が流言である事に気づいている人が少なくなかったのかもしれません。


しかしながら、そのことに気づきつつ、これを積極的に吹聴した者もいました。

また、内容に不信を持っていても、頭からそれを否定するような事をしにくい空気があったようです。


噂を否定する事で回りから浮き上がってしまう恐れもあったのでしょうし、万一の危険の可能性を見逃してしまう事を恐れたからなのかもしれません。


ある種の使命感に駆られて積極的に言いふらした者もいたようですが、不思議なもので、事実かどうかは怪しいことを自覚しているはずの情報も、「事実である」と言う触れ込みで吹聴して回っているうちに、話者の中で次第に紛れもない事実であると認識されれるようになっていくようです。


 自警団の活動は、流言が盛んに飛び交い始めた前述の1日夜を越えたあたりから始まりました。

手近で武器になりそうなもの、中には銃や日本刀で武装した彼らは、中世ヨーロッパの魔女狩りを彷彿とさせる朝鮮人狩りを開始しました。

外見上では日本人との明確な差異を認められない朝鮮人を識別するために用いられた方法の代表的なものが、「十五円五十銭」と発音させてみる方法です。

朝鮮人には、「チュウゴエンコチュッセン」としか発音できない人が多いそうです。


この方法は官憲も用いていました。


これ以外の識別法としては、「教育勅語の暗誦」「座布団と言わせる」「歴代天皇の名前を答えさせる」「ザジズゼゾ、ガギグゲゴを発音させる」「君が代を歌わせる」「いろはカルタを言わせる」などといったものがあったようです。


もちろんこの方法は、簡易ではあるものの確実な識別法ではなく、勘違いから日本人や中国人も殺害されています。


被害者数は調査主体でまちまちですが、「朝鮮人231人、中国人3人、日本人59人」(内務省警保局調査)、「2711人」(吉野作造調査)、「6415人」(独立新聞調査)などの数字があがっています。内務省警保局の算出した数はあまりにも少ないと言えます。


事後の事務処理を簡略化するため、「虐殺」の認定条件を極端に厳しくしている可能性があるようです。

その反面、独立新聞=朝鮮人側の新聞が提示した6000人超と言う数字も、他の事実との整合性に問題があるために絶対的に信頼の寄せられるものではありません。

政治的思惑がもっとも薄いと思われるのが、吉野作造による調査結果ですが、組織力=調査力において他の二者に見劣りする感が否めないのも事実です。

なお、この件に関する犠牲者をもっとも多く出したのは、神奈川県ということで間違いないようです。


 最終的に事態が沈静化に向かったのは、民衆が警察などが発信する情報を受け入れて冷静さを取り戻したためではなく、自警団が軍による力での押さえつけに屈したからだと見るのが妥当なようです。

民衆が理性的な判断を行ったのは、力で行動を押さえつけられ、文字通り手も足も出なくなってからの事でした。

なお余談になりますが、当時の警察は、人員数はもちろん、そしてその武装の内容においても、自警団に劣っていたため、最終的には軍部の軍事力を背景にして事態の沈静化に乗り出さなければならなかったようです。


■各地方紙の誤報 ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P61より抜粋


「朝鮮人大暴動 食糧不足を口実に盛に掠奪 神奈川県知事よりは大阪、兵庫に向かひ食料の供給方を懇請せり。

東京市内は全部食料不足を口実として全市に亘り朝鮮人は大暴動を起こしつつあり……」(河北新報、九月三日)


「歩兵と不逞朝鮮人戦斗を交ゆ 京浜間に於て衝突す 

火災に乗じ不逞鮮人跋扈 近県より応援巡査派遣……」
(福島民友新聞、九月四日)


「放火・強盗・強姦・掠奪 驚くべき不逞鮮人暴行 

爆弾と毒薬を所持する不逞鮮人の大集団二日夜暗にまぎれて市内に潜入 

警備隊(自警団のこと)を組織して掃討中……」(河北新報、九月四日)


「不逞鮮人凶暴を極め飲食物に毒薬や石油を注ぐ 

彼らは缶詰に似た爆弾を所持しつつあり」

(北海タイムズ、九月五日)


■官憲の主な動き(時系列) ※『関東大震災と朝鮮人虐殺』P66より抜粋

九月二日十四時ごろ:内務省警保局長より呉鎮守府、地方長官宛電報。

東京付近ノ震災ヲ利用シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不貞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、朝鮮人ハ各地ニ放火シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ。

スデニ東京府下ニハ一部戒厳令ヲ施行シタルガ故ニ、各地ニ於テ十分周密ナル視察ヲ加エ、鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締ヲ加エラレタシ。


九月二日夕刻:警視庁、戒厳令司令部に、朝鮮人による火薬庫放火計画があると報告。

同    :警視庁菅下各警察署に通達。
 
鮮人中不逞ノ挙ニツイテ放火ソノ他凶暴ナル行為ニイズルモノアリテ、現ニ淀橋・大塚等ニ於テ検挙シタル向キアリ。

コノ際コレラ鮮人ニ対スル取締リヲ厳ニシテ警戒上違算ナキヲ期セラレタシ。


 九月三日十六時三十分:海軍省船橋送信所所長電信発信(独断)。全国で受信。

船橋送信所襲撃ノオソレアリ。至急救援頼ム。騎兵一個小隊応援ニ来ルハズナルモ、未ダ来タラズ。


九月四日八時十分:船橋送信所電信発信。

本所(船橋送信所)襲撃ノ目的ヲ以テ襲来セル不逞団接近、騎兵二十、青年団、消防隊等ニテ警戒中、

右ノ兵員ニテハ到底防御不可能ニ付約百五十ノ歩兵ノ急派取計イ度ク、当方面ノ陸軍ニハ右以上出兵ノ余力ナシ。


■不逞鮮人

 震災当時の政治用語。抗日的な運動を行う朝鮮人に対し、官憲が用いた呼称。

この言葉にも当然、「朝鮮人」と同じ問題が付きまとう。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。

 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、

一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……


身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。

実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。

そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、

その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、


という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。


なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。

したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。

(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


 魔女狩りを彷彿とさせる、集団ヒステリーが生んだ狂気か。


 この「虐殺」に関する話は、関東大震災を起源とする「防災の日」の各種行事の場面などでも、滅多に触れられる事がないのだという。

この種のイベントは専ら自然災害としての地震の恐ろしさに対する啓蒙を目的に行われるものらしく、天災から派生した人災についてはほとんど言及しないのだそうだ。そして、その現状を無念に思う韓国人・朝鮮人は多い。


参考文献
山岸秀 、2002年、『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』、早稲田出版
http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm

1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。
この時政府の宣伝


「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」

に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。

9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。


 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。

これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。

しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。


 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。

幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。


 これに関連して福永操は次のように述べている。

「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。

なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。

事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。

労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。


 以下、検証する。 


【関東大震災発生】

 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。

地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。

焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。

これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。


 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。

この日、後藤新平が内務大臣に就任している。

 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について


 正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。

同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。

「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。

正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。

同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。


【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】


 直後、

「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」

との噂が飛び交い始めた。

発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。

9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。


 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある


 「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。

夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。

帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。

そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。

石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。


 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。

間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。

その部下が言うには、正力から、

『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。

君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』

との伝言を託されてきたというのである。


 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。

下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。

『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。

予期していれば、こんなことになりはしない。

朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。

流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。


 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。

正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。

いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」


 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、

「こうなったらやりましょう」と息まいている。


この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。


 正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、

[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している]

と結論づけている。

更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、


「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」

と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。


【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】


 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、

「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、

「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」

という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。


 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。

自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。

無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。

 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。


【関東大震災時事件そのA、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】


 9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。


 9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。

これを「亀戸事件」と云う。

 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。

古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。

 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。

遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。

田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。

 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。

「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。

妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。

共産党に入党したのだ」、


「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。


【関東大震災時事件そのB、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】


 この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。

死体は切り刻まれて川に捨てられた。

警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。


 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。

中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。

警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。

結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。


【関東大震災時事件そのC、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】


 9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。

享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。


 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。

一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。


午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。

大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。

続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。


 ちなみに甘粕のその後は次の通り。

大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。


 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。


【官房主事・正力松太郎の暗躍】


 この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。

これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。

後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。


 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。

船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。

今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。

内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。


この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。

つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。


 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

 9.11日、更に、正力官房主事名で、

「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令


が発せられている。

 研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。

自身も「悪戦苦闘」という本で、

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。

当局者として誠に面目なき次第」


と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。

 この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、

「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」

と示唆されたことを明らかにしている。

しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。


「正力の胡散臭さ」について

 後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。


関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。

こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。

その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。

しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。

新聞でさんざん戦争を煽った。

これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。

しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。

「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」


 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。

日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。
http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm


 正力松太郎の生態はもっと研究されて良いように思われる。
内務省特高課(戦前日帝の諜報・弾圧機関)の創設者にして終始黒幕で在り続けた後藤新平に見出され、米騒動、関東大震災時の「暗躍」で「血塗られた強固な同盟」が確立する。以下、この関係を追跡する。


【後藤新平の履歴(1857〜1929)】


 岩手県水沢市の小藩出身。

幕末の蘭学者高野長英の親族。

須賀川医学校を卒業して医師となりも愛知県立病院長を経て内務省に入る。

1892年衛生局長(現在の厚生省事務次官)。

その間ドイツに留学し、プロイセン国家の統一ドイツ建国過程をつぶさに見て、ビスマルク政治に憧憬したと伝えられている。

1895年日清戦争で台湾を割譲させたが、4代目台湾総督になった児玉源太郎が後藤を見出し民政長官となって赴任。


後藤は、「アメと鞭を併用した辣腕政治」で判明するだけで抗日ゲリラ1万1千余名を虐殺している。

結果的に「台湾島民の鎮圧と産業開発で名声を高めた」。


 後藤は、台湾総督府初代民政長官を皮切りに、以後、

1906年満鉄初代総裁、1908(明治41)年桂太郎内閣の下で逓信大臣兼鉄道院総裁、1916(大正5)年寺内正毅内閣の下で内務大臣、

続いて1918(大正7).4.23日外務大臣、

山本権兵衛内閣の下で内務大臣再任を歴任し、晩年に伯爵の位を得ている。


植民地政策の統合参謀本部・満鉄調査部を設置したのも後藤である。

未解明であるが、阿片政策にも手を出しており、その収入が機密費として縦横に駆使された形跡がある。


 その政治的軌跡は、伊藤博文の後継者。後藤は言論統制に著しく関与している。

 1919(大正8)年、後藤は、寺内内閣の総辞職を機会に欧米視察の旅に出た。

訪問先はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、オランダ。

帰国するやいなや、「大調査機関設立の議」建白書を政府に提出している。

これは、アメリカのCIA(中央情報局)のような強力な組織を設立せよという構想であった。


【内務省】


 内務省は、一口で云えば「天皇制警察国家」と呼ばれる当時の大日本帝国の最高官庁であった。

要するに内政にかかわる一切の行政権を一手に握っている中央官庁であった。

現在の機構に当て嵌めれば、国家公安委員会、警察庁、公安調査庁、消防庁、自治省、厚生省、労働省、建設省、農林省の一部、法務省の一部、文部省の一部的機能を持つ官庁であった。

全国の知事と高級官僚は、内務官僚が任命し派遣するというシステムで、地方行政は市町村議会の監督権まで含めて内務省が握っていた。

内務官僚は、天皇直属であり、平常時の警察機構、緊急時の法律に対抗する緊急勅令権、警察命令権を握っており、いわば万能であった。


 大逆事件の年の1911(明治44)年に高等課特高係(特高)が新設され、後に特別高等部に昇格し、得意な指揮系統を持つ事になった。

新聞の統制など言論動向の調査は特高の中の検閲課の任務であり、更に全国の警察機構の元締め内務省警保局の図書課でも行われた。

両者の関係は、図書課が本庁であり、検閲課は出先機関となる。


 内務省本省の図書課は、後藤新平内務大臣時代の1917(大正6).9月、直接の声係りでロシア革命への対応を意識して拡張された。

同時に警視庁の人員増強も要請され、当時の6000名が6年後には1万2000名に倍増された。特高も同時期に12名から80名へと約7倍化している。


【正力松太郎の履歴(1857〜1929)】

 1885(明治18).4.11日、富山県の土建請負業の旧家に生まれる。

青春時代を柔道に打ち込む。

 1911(明治44)年、東京帝国大学法科大学独語科卒業(26歳)。

翌年に内閣統計局に入り、高等文官試験に合格し、1913(大正2).6月、警視庁に雇用される。

直ちに警部となり、翌年に警視、日本橋堀留署長となる。


 1917年、第一方面監察官。

 1918(大正7)年、米騒動鎮圧に一役買い、勲章を貰う。

 1919(大正8)年、刑事課長。

 1920(大正9)年、普通選挙大会の取締まり、東京市電ストの鎮圧。

 1921(大正10)年、警視庁で警視総監に次ぐbQの位置とされる官房主事となり、高等課長を兼任(36歳)。


本人自身が「私ほど進級の早いのはいません」(「週間文春」1965.4.19日)と語っている。


 1923(大正12)年、正力の警視庁官房主事、共産党の猪俣津南雄宅にスパイを送り込み、早稲田大学研究室の捜査、6.5日、第一次共産党検挙を指揮した。

 「米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、

読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、

軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った」。


 「関東大震災時の暗躍」


 1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。


 関東大震災の翌9.2日急遽、後藤新平が内務大臣に就任し、非常事態に備えて軍は戒厳令司令部を、警視庁も臨時警戒本部を設置した。

この時、正力は官房主事であったが、特別諜報班長になって不穏な動きの偵察、取締まりに専念した。

後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。


 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。


「不逞鮮人暴動」に如何ほどの根拠があったのか不明であるが、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。

こうして、内務省が流した「朝鮮人暴動説」が全国各地の新聞で報道され、この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。


 後藤−正力ラインが警戒したのは、社会主義者の動きであった。

9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。

9.11日、正力官房主事名で、「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令が発せられている。


 後藤−正力ラインはこうした通達のみならず、実際に迅速に先制的官憲テロをお見舞いしていった。


@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の多数虐殺、

A、川合義虎らが虐殺される亀戸事件、

B、中国人留学生・王希天虐殺事件、

C、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件)


等が記録されている。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告がある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。

いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


関東大震災に便乗した治安対策


陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒

 正力が指揮した第一次共産党検挙が行われたのは、一九二三年(大12)六月五日である。

 それから三か月も経たない九月一日には、関東大震災が襲ってきた。

このときの警視庁の実質的な現場指揮者は、やはり正力であった。

この一九二三年という年は、日本全体にとっても正力個人にとっても激動の年であった。

月日と主要な経過を整理し、問題点と特徴を明確にしておきたい。


 六月五日に、第一次共産党検挙が行われた。

この時、正力は官房主事兼高等課長だった。

 九月一日に、関東大震災が起きた。正力の立場は前とおなじだった。

 一二月二七日には、虎の門事件が起きた。この時、正力は警務部長だった。

 虎の門事件の際、警備に関して正力は、警視総監につぐ地位の実質的最高責任者である。

警視総監の湯浅倉平とともに即刻辞表を提出し、翌年一月七日に懲戒免官となった。

ただし、同じ一月二六日には裕仁の結婚で特赦となっている。


 以上の三つの重大事件を並べて見なおすと、

第一次共産党検挙と虎の門事件の背景には、明らかに、国際および国内の政治的激動が反映している。

その両重大事件の中間に起きた関東大震災は、当時の技術では予測しがたい空前絶後の天災であるが、この不慮の事態を舞台にして、これまた空前絶後で、しかも、その国際的および国内的な政治的影響がさらに大きい人災が発生した。

朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件である。


 さて、以上のように改めて日程を整理してみたのは、ほかでもない。本書の主題と、関東大震災における朝鮮人・中国人・社会主義者の大量虐殺事件との間に、重大な因果関係があると確信するからである。

そこで以下、順序を追って、虐殺、報道、言論弾圧から、正力の読売乗りこみへと、その因果関係を解き明かしてみたい。


 どの虐殺事件においても明らかなことは、無抵抗の犠牲者を、陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが、一方的に打ち殺したという事実関係である。

正力は、当然、秩序維持の責任を問われる立場にあった。

正力と虐殺事件の関係、正力の立場上の責任などについては、これまでにも多数の著述がある。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-1.html


「朝鮮人暴動説」を新聞記者に意図的に流していた正力


 正力自身も『悪戦苦闘』のなかで、つぎのように弁明している。

「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。警視庁当局者として誠に面目なき次第です」

 これだけを読むと、いかにも素直なわび方のように聞こえるが、本当に単なる「失敗」だったのだろうか。

以下では、わたし自身が旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆に当たって参考にした資料に加えて、それ以後に出版された新資料をも紹介する。

いくつかの重要な指摘を要約しながら、正力と虐殺事件の関係の真相にせまってみる。

 興味深いことには、ほかならぬ正力が「ワンマン」として君臨していた当時の一九六〇年に、読売新聞社が発行した『日本の歴史』第一二巻には、「朝鮮人暴動説」の出所が、近衛第一師団から関東戒厳令司令官への報告の内容として、つぎのように記されていた。

「市内一般の秩序維持のための〇〇〇の好意的宣伝に出づるもの」

 この報告によれば、「朝鮮人暴動説」の出所は伏せ字の「〇〇〇」である。


伏せ字の解読は、虫食いの古文書研究などでは欠かせない技術である。

論理的な解明は不可能ではない。

ここではまず、情報発信の理由は「市内一般の秩序維持」であり、それが「好意的宣伝」として伝えられたという評価なのである。

「市内一般の秩序維持」を任務とする組織となれば、「警察」と考えるのが普通である。さらには、そのための情報を「好意的宣伝」として、近衛第一師団、つまりは天皇の身辺警護を本務とする軍の組織に伝えるとなると、その組織自体の権威も高くなければ筋が通らない。

字数が正しいと仮定すると、三字だから「警察」では短すぎるし、「官房主事」「警視総監」では長すぎる。「警視庁」「警保局」「内務省」なら、どれでもピッタリ収まる。

 詳しい研究は数多い。

『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編によれば、すくなくとも震災の翌日の九月二日午後八時二〇分には、船橋の海軍無線送信所から、「付近鮮人不穏の噂」の打電がはじまっている。


 翌日の九月三日午前八時以降には、「内務省警保局長」から全国の「各地方長官宛」に、つぎのような電文が打たれた。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、

すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」


 正力の『悪戦苦闘』における弁解は、「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました」となっていた。

では、この「虚報」と正力の関係、「失敗」の経過は、どのようだったのだろうか。


 記録に残る限りでは、正力自身が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」の噂を一番最初に、メディアを通じて意識的に広めようとしたのは、なんと、正力自身なのである。


 シャンソン歌手、石井好子の父親としても名高かった自民党の大物、故石井光次郎は、関東大震災の当時、朝日新聞の営業局長だった。

石井は内務省の出身であり、元内務官僚の新聞人としては正力の先達である。

震災当日の一日夜、焼け出された朝日の社員たちは、帝国ホテルに臨時編集部を構えた。

ところが食料がまったくない。

石井の伝記『回想八十八年』(カルチャー出版社)には、つぎのように記されている。


「記者の一人を、警視庁に情勢を聞きにやらせた。当時、正力松太郎が官房主事だった。


『正力君の所へ行って、情勢を聞いてこい。

それと同時に、食い物と飲み物が、あそこには集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい[中略]』といいつけた。

それで、幸いにも、食い物と飲み物が確保できた。

ところが、帰って来た者の報告では、正力君から、


『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』


と頼まれたということであった」

 ところが、その場に居合わせた当時の朝日の専務、下村海南が、「それはおかしい」と断言した、


予測不可能な地震の当日に暴動を起こす予定を立てるはずはない、

というのが下村の論拠だった。

下村は台湾総督府民政長官を経験している。

植民地や朝鮮人問題には詳しい。

そこで、石井によると、「他の新聞社の連中は触れて回ったが」、朝日は下村の「流言飛語に決まっている」という制止にしたがったというのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html


東京の新聞の「朝鮮人暴動説」報道例の意外な発見


 ただし、石井の回想通りに、朝日が「朝鮮人暴動説」報道を抑制したのかどうかについては、いささか疑問がある。

内務省筋が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。


『大阪朝日』は九月四日、「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると」、という書き出しで、さきの船橋送信所発電とほぼ同じ内容の記事を載せた。

『朝日新聞社史/大正・昭和戦前編』には、震災後の東京朝日と大阪朝日の協力関係について、非常に詳しい記述があるが、なぜか、大阪朝日が「朝鮮人暴動説」をそのまま報道した事実にふれていない。


『大阪朝日』ほかの実例は、『現代史資料(6)関東大震災と朝鮮人』に多数収録されている。

この基本資料を無視する朝日の姿勢には、厳しく疑問を呈したい。


 東京の新聞でも、同じ報道が流されたはずなのであるが、現物は残っていないようである。

わたしが目にした限りの関東大震災関係の著述には、東京の新聞の「朝鮮人暴動説」の報道例は記されていなかった。

念のためにわたし自身も直接調べたが、地震発生の九月二日から四日までの新聞資料は、実物を保存している東京大学新聞研究所(現社会情報研究所)にも、国会図書館のマイクロフィルムにも、まったく残されていなかった。


 たしかに地震後の混乱もあったに違いないが、そのために資料収集が不可能だったとは考えにくい。

報知、東京日日(現毎日)、都(現東京)のように、活字ケースが倒れた程度で、地震の被害が軽い社もあった。

各社とも、あらゆる手をつくして何十万部もの新聞を発行していたのである。

各社は保存していたはずだから、九月一日から四日までの東京の新聞の実物が、まるでないというのはおかしい。

戒厳令下の言論統制などの結果、抹殺されてしまった可能性が高い。


 ところが意外なことに、『日本マス・コミュニケーション史』(山本文雄編著、東海大学出版会)には、新聞報道の「混乱」の「最もよい例」として、「九月三日付けの『報知』の号外」の「全文」が紹介されていた。

要点はつぎのようである。


「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」


「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」


 同書の編著者で、当時は東海大学教授の山本文雄に、直接教えを乞うたところ、この号外の現物はないが、出典は『新聞生活三十年』であるという。


 実物は国会図書館にあった。著書の斉藤久治は当時の報知販売部員だった。

同書には、新聞学院における「販売学の講演」にもとづくものと記されている。

発行は一九三二年(昭7)である。のちの読売社長、務台光雄は元報知販売部長で、同時代人だから、この二人は旧知の仲だったに違いない。

ところが、この二人が残した記録は、肝心のところで、いささか食い違いを見せるのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-3.html


号外の秘密を抱いて墓場に入った元報知販売部長、務台光雄


 務台の伝記『闘魂の人/人間務台と読売新聞』(地産出版、以下『闘魂の人』)には、務台が、震災直後から一週間ほど社の講堂で寝泊まりしたことやら、その奮闘ぶりが克明に描き出されている。

「活字が崩れてしまったので、大きい活字を使って、号外のような新聞を、四日には出すところまでこぎつけた」ということになっている。

ところが、『新聞生活三十年』には、「写真1」のような「九月一日」付けの報知号外のトップ見出し部分のみが印刷されているのである。

「四日」と「一日」とでは、この緊急事態に際しては大変な相違がある。


 謎を解く鍵の一つは、まず、『別冊新聞研究』((4)、77・3)掲載、「太田さんの思い出」という題の、務台自身の名による文章である。

そこでは、「直ちに手刷り号外の発行を行う一方、本格的新聞の発行に着手、まず必要なのは用紙だ」となっている。

地震で電気がこないから、輪転機が動かせない。

輪転機用の巻紙もない。

だが、活字を組んでインクを塗れば、「手刷り」印刷は可能だった。

しかも、「手刷り」には、もう一つの手段があった。


 さきの『新聞生活三十年』を出典とする「朝鮮人暴動説」の号外は九月三日付けだが、「写真2」のようなガリ版印刷である。

本文中には、「汗だくになって号外を謄写版に刷る」という作業状況が記されている。


 務台のフトコロ刀といわれた元中部読売新聞社長、竹井博友の著書、『執念』(大自然出版局)によると、電気がこないので九月九日まで、「四谷の米屋からさがしてきたガス・エンジンでマリノニ輪転機を動かして」いたという。

普段よりは印刷能力が低かったので、手刷りやガリ版印刷で補ったのであろう。

晩年の務台から直接取材したという『新聞の鬼たち/小説務台光雄(むたいみつお)』(大下英治、光文社)では、震災当日に「手刷り」と「謄写版」の号外を出した事を認めている。

つまり、務台自身が、段々と真相の告白に迫っていたのだ。


 もう一つの手段は、近県の印刷所の借用である。

斉藤久治の表現によれば、「報知特有の快速自動車ケース号(最大時速一時間百五十哩)」で前橋の地方紙に原稿を届け、九月七日までに、「数十万枚を東京に発、送し、市内の読者に配ることに成功した」という。

 さて、そこからが一編の歴史サスペンスを感じさせるところである。

『新聞生活三十年』の本文には、問題の号外の文章は復原されていない。

そのほかにも本文には、「朝鮮人暴動説」報道に関しての記述はまったくないのである。

 「写真2」は同書の実物大(WEB上の注:87ミリ×53ミリ)である。

もともとのガリ版が乱筆の上に、かなりかすれている。

しかも、極端に縮尺されているから、拡大鏡で一字一字書き写してみなければ、判読できない状態である。

結果から見て断言できるのは、「写真2」のガリ版号外が、『新聞生活三十年』の本文の記述を裏切っているということである。


奇妙な話のようだが、当時の言論状況を考えれば、真相は意外に簡単なことかもしれない。

著者の斉藤が、手元に秘蔵していたガリ版号外の内容を後世に伝えるために、検閲の目を逃れやすいように判読しがたい状態の写真版にして、印刷の段階で、すべりこませたのかもしれないのである。

 わたしは、このガリ版号外の件を『噂の真相』(80・7)に書いた。

読売の役員室に電話をして務台自身の証言を求めたが、返事のないまま務台は死んでしまった。

あの時代の人々には、この種の秘密を墓場まで抱いていく例が多いようだ。残念なことである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-4.html


「米騒動」と「三・一朝鮮独立運動」の影に怯える当局者


「朝鮮人来襲の虚報」または「朝鮮人暴動説」の発端については、発生地帯の研究などもあるが、いまだに決定的な証拠が明らかではない。

軍関係者が積極的に情報を売りこんでいたという報告もある。

民間の「流言」が先行していた可能性も、完全には否定できない。

しかし、その場合でも、すでにいくつかの研究が明らかにしているように、それ以前から頻発していた警察発表「サツネタ」報道が、その感情的な下地を用意していたのである。


いわゆる「不逞鮮人」に関する過剰で煽情的な報道は、四年前の一九一九年三月一日にはじまる「三・一運動」以来、日本国内に氾濫していた。

 しかも、仮に出発点が「虚報」や「流言」だったとしても、本来ならばデマを取り締まるべき立場の内務省・警察関係者が、それを積極的に広めたという事実は否定しようもない。「失敗」で済む話ではないのである。

 さきに紹介した「内務省警保局長出」電文の打電の状況については、「船橋海軍無線送信所長/大森良三大尉記録」という文書も残されている。

歴史学者、松尾尊兌の論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」(『思想』93・9)によると、

大森大尉は、

「朝鮮人襲来の報におびえて、法典村長を通じて召集した自警団に対し四日夜、

『諸君ノ最良ナル手段ト報国的精神トニヨリ該敵ノ殲滅ニ努メラレ度シ』

と訓示したために現実に殺害事件を惹起せしめ」たのである。


 九月二日午後八時以降と、一応時間を限定すれば、「噂」「流言」、または「好意的宣伝」を積極的に流布していたのは、うたがいもなく内務省筋だったのである。

 なお、さきの船橋発の電文例でも、すでに「戒厳令」という用語が出てくる。

「戒厳」は、帝国憲法第一四条および戒厳令にもとづき、天皇の宣告によって成立するものだった。

前出の『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、この経過をつぎのように要約している。


「一日夜半には、内相官邸の中庭で、内田康哉臨時首相のもとに閣議がひらかれ、非常徴発令と臨時震災救護事務局官制とが起草された。

これらは戒厳に関する勅令とともに二日午前八時からの閣議で決定され、午前中に摂政の裁可を得て公布の運びとなったのである」


 前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」によると、この戒厳令公布の手続きは、「枢密院の議を経ない」もので「厳密にいえば違法行為である」という。

ただし、このような閣議から裁可の経過は、表面上の形式であって、警視庁は直ちに軍の出動を求め、それに応じて軍も「非常警備」の名目で出動を開始し、戒厳令の発布をも同時に建言していた。


 戒厳令には「敵」が必要だった。

警察と軍の首脳部の念頭に、一致して直ちにひらめいていたのは、一九一八年の米騒動と一九一九年の三・一朝鮮独立運動の際の鎮圧活動であったに違いない。

 首脳部とは誰かといえば、おりから山本権兵衛内閣の組閣準備中であり、臨時内閣に留任のままの内相、水野錬太郎は、米騒動当時の内相だった。

その後、水野は、三・一朝鮮独立運動に対処するために、朝鮮総督府政務総監に転じた。


 震災当時の警視総監、赤池濃は、水野の朝鮮赴任の際、朝鮮総督府の警務部長として水野に同行し、一九一九年九月二日、水野とともに朝鮮独立運動派から抗議の爆弾を浴びていた。

 震災発生の九月一日、東京の軍組織を統括する東京衛戍司令官代理だった第一師団長、石光真臣は、水野と赤池が爆弾を浴びた当時の朝鮮で、憲兵司令官を勤めていた。

 つまり、震災直後の東京で「市内一般の秩序維持」に当たる組織の長としての、内相、警視総監、東京衛戍司令官代理の三人までもが、朝鮮独立運動派から浴びせられた爆弾について、共通の強い恐怖の記憶を抱いていたことになる。

さらに軍関係者の方の脳裏には、二一か条の要求に反発する中国人へのいらだちが潜んでいたにちがいない。

 その下で、警視庁の実働部隊の指揮権をにぎる官房主事、正力は、第一次共産党検挙の血刀を下げたままの状態だった。

正力自身にも、朝鮮総督府への転任の打診を受けた経験がある。


 かれらの念頭の「仮想敵」を総合して列挙すると、朝鮮人、中国人、日本人の共産党員または社会主義者となる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-5.html


戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺


 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。

前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ

『こうなったらやりましょう』

といきまき、阿部信行参謀をして

『正力は気がちがったのではないか』

といわしめたと語っている」


 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。

これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。

正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。

「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。


森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。


だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。

だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。

警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。

その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-6.html


「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁


 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。

 第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。

前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。

背後には日本の最高権力の意思が働いていた。


 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。

日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。

朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。

社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。

これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。

その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。

上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。


 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。

 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。

警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。

軍の方が虐殺業務の下請けなのである。

当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。

全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。


『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。

「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、

『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』

という通牒を出した。

さらに十一日には、正力官房主事名で、

『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』

という命令が発せられた」


 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。

ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-7.html


「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力


『関東大震災と王希天事件/もうひとつの虐殺秘史』(田原洋、三一書房、以下『関東大震災と王希天事件』)では、川合義虎ら八名の社会主義者が近衛騎兵によって虐殺された「亀戸事件」の経過を細部にわたり、「時系列にしたがって検分」している。

 かれら八名の社会主義者が

「三日午後十時ごろ、理由も何もなく、狙い打ちで検束されてしまった」

時点では、十一日の「検束」命令どころか、五日の「監視」通牒さえ出ていなかったのである。


 亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。

署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。


古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。


 社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。

「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」

 つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。

『20世紀を動かした人々』(講談社)所収の「正力松太郎」(高木教典)には、正力が亀戸事件について語った当時の新聞談話が収録されているが、つぎのような説明ぶりで、古森署長の行動の後追い弁護になっている。


「実際、二日、三日の亀戸一帯は、今にも暴動が起るという不安な空気が充満し、二日夜も古森署長は部下の警官を集めて決死の命令を下す程、あたかも無警察の状態で、思想団、自警団が横行していたそうで、

軍隊の力を頼んで治安維持を保つべく、ついにこうしたことになったのであるが、

今回の事件はまったく法に触れて刺殺されたものである。

警官が手を下したか否かは、僕としては、軍隊と協力、暴行者を留置場外に引き出したことは事実であるが、刺殺には絶対関与していないと信ずる」


 この新聞談話から、社会主義者にかかわる部分を抜き出して、検討してみよう。

 まずは、「思想団」が「横行していたそうで」というが、そのような事実があったと主張する歴史書は皆無である。

つぎには、「法に触れて刺殺」と断定していうが、せいぜいのところ、留置場のなかで抗議の大声を挙げたり、物音を立てたぐらいのことであって、

そのどこがどういう「法に触れ」たのかの説明がまったくない。

「暴行者を留置場外に引き出したことは事実」としているが、これも同じ趣旨である。

正力はいったい、どの行動を指して「暴行」だと断定しているのだろうか。


 最後の問題は、「[警察側が]刺殺には絶対関与していないと信ずる」という部分にある。

正力としては、虐殺の責任を「軍隊」になすりつけ、監督責任を逃れたかったのであろう。

だが、すでに指摘したように、当時の制度では警視庁の要請で軍が動くのであった。


『関東大震災と王希天事件』には、古森署長がみずからしたためた「第一次亀戸事件」に関する報告が収録されている。

警視庁が編集した『大正大震火災誌』からの引用である。

引き渡しの理由は、「兵器ヲ用ウルニアラザレバ之ヲ鎮圧シガタキヲ認メ」たからだとなっている。

古森は、「兵器」による「鎮圧」を予測しつつ、または希望しつつ、反抗的な自警団員四名を軍に引き渡したのだ。

結果は、違法なリンチ処刑だった。


 この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。

警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。

留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。

「結局、軍・警察の処置は妥当と認められ、四人は死に損となった」とあるが、リンチ処刑が「横行」するような「無警察」状態を演出したのは、いったいどちらの方なのだろうか。

 しかも、『関東大震災と王希天事件』ではさらに、この四日夜の「第一次亀戸事件」を、川合義虎ら八名の社会主義者の虐殺、いわゆる「亀戸事件」への導火線になったのではないかと示唆している。

反抗的な自警団員四名の引き渡し以後、留置場内は「前にもまして騒然となった」のである。そこで「古森は、ついに五日午前三時」、川合らを騎兵隊に引き渡した。同書では時系列の記述の最後を、つぎのように結んでいる。

「古森は『失態』を告発する恐れのある川合らを抹殺した。

両次亀戸事件の犠牲者十四人の死体は、こっそり大島八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」


 同書はまた、この「両次亀戸事件」に、中国人指導者王希天虐殺事件と大杉栄ら虐殺事件に共通する「パターン」を指摘する。

「法にしばられる警察は、自ら手を下さずとも、戒厳令下で異常な使命感と功名心に燃え狂っている中下級軍人を、ちょっとそそのかすだけで、目的をとげることができた」のである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-8.html


留学生で中華民国僑日共済会の会長、王希天の虐殺事件


 さらに重大な問題は、すでに何度か記した在日中国人の指導者、王希天の虐殺事件であった。

 ここで「さらに重大な問題」と記した意味には、虐殺そのものとは別の側面も含まれている。

この事件は、読売の紙面が輪転機にかける鉛版の段階で削除されるという事態を招いていた。

つまり、この事件は、本書の主題の読売の歴史に、深い影を落としているのだ。


 元警視庁警務部長が、こともあろうに首都の名門紙に「乗りこむ」という事態は、一種の政治犯罪を予測させる。

だが、およそ重大な犯罪の背景には、間接的または一般的な状況だけではなくて、直接的な契機、または引くに引けない特殊な動機があるものである。

とくに、一応は正常な社会人として通用してきた人物を「重大な犯罪」に駆り立てるためには、それだけ強力で衝動的な動機が必要である。

わたしは、この事件の真相を知ることによって初めて、長年の、もどかしい想いの疑問の核心部分に達したと感じる。

読売の紙面の鉛版削除という稀有な事態を招いたこの事件こそが、正力の読売「乗りこみ」という、これまた稀有な事態の直接的な動機だと、確信するに至ったのである。


 関東大震災と朝鮮人・社会主義者の虐殺の関係は一応、一般にも広く知られている。

 だが、虐殺の被害者の中でも「中国人」の三文字は、これまで付け足りのようだった。

とくに知られていなかったのは、王希天虐殺事件そのものと、その国際的な重要性であった。

中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生、王希天は、陸軍将校から斬殺されていた。

「行方不明」と発表されていた王希天の捜査、調査活動は、当時の政界、言論界を揺るがす国際的な大事件に発展していたのである。


 一九九五年には、さまざまな角度から日本の戦後五〇年が問われた。

試みに、その年の暮れの集まりで会った在日朝鮮人の研究者と、駐日特派員の中国系ジャーナリストに、「王希天虐殺事件を知っていますか」という質問を向けてみた。

案の定、二人とも、まったく知らなかった。

詳しく話すと、真剣な表情で耳を傾けてくれたのちに、「大変に貴重な情報を教えていただき、ありがとうございました」と、ていねいにお礼をいわれた。

その後、何人かの日本人ジャーナリストにも同じ質問を向けてみたが、やはり、王希天の名を知っている人は非常に少ない。

ただし、わたし自身も数か月前に知ったばかりで、自慢などできる立場ではなかった。「五十歩百歩」そのものである。


 王希天が代表としてノミネートされる中国人の大量虐殺事件については、いまから七三年前の一九二三年(大正12)、関東大震災の直後に、中国政府が派遣した調査団が訪日している。

日本政府が対応に苦慮した国際的大事件である。ではなぜ、そんな大事件が、いまだに広くどころか専門家にさえ知られていないのだろうか。


 中心的な理由は簡単である。

当時、日本政府首脳が「徹底的に隠蔽」の方針を決定し、全国の警察組織を総動員して、新聞雑誌(放送は発足前)報道をほぼ完全に押さえこんだからである。

基本的には、そのままの言論封鎖状況が続いているのだ。


 王希天は、関東大震災の直後、亀戸署に留置されたのち陸軍に引き渡され、以後、警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」となっていた。

陸軍当局も、当時は警視庁官房主事兼高等課長の正力松太郎を実質的責任者とする警視庁も、王希天殺害の事実を知りながら、国際的追及の最中、必死になって、ひた隠しにしていた。

実際には王希天は、陸軍の野戦重砲第三旅団砲兵第一連隊の将校たちにだまされて連れ出され、背後から軍刀で切り殺されて、切り刻まれて川に捨てられていた。

事件そのものは、当時の日中の力関係を反映し、最後には、賠償問題さえうやむやのままに葬り去られた。


 象徴的なドラマは、「支那(ママ)人惨害事件」と題する読売新聞(23・11・7)の社説および関連記事の周辺に展開された。

同社説(別掲)と記事をそのまま載せた地方向けの早版は、少部数だが輪転機で刷り出され、発送まで済んでいたのだが、急遽、検閲で不許可、発売禁止となり、各地で押収されたのである。

同時に、その問題の紙面には、「写真3、4」のような鉛版段階での削除という稀有の処置が取られた。


 関係資料は十数点ある。

戦後最初の大手メディア報道は、毎日新聞(75・8・28夕)の「『王希天事件』真相に手掛かり/一兵士の日記公開/『誘い出して将校が切る』」だが、同記事の段階ではまだ、王希天殺害についての証言は、所属部隊の一兵士の「伝聞」にしかすぎない。

以後、日本の研究者、ジャーナリストらの招きで、王希天の遺児が来日した際に、数件の報道があった。

しかし、残念ながら、それらの報道の中には、当時の言論弾圧状況の紹介がなかった。

 専門雑誌の記事、少部数の単行本、断片的なマスコミ報道、それだけでは世間一般どころか普通の企業ジャーナリストの目にさえ、「事件は存在しない」と同様である。

わたしが湾岸戦争以来、「マスコミ・ブラックアウト」と名付けている現象である。

王希天事件の場合には、この現象が意識的かつ政治的に作り出され、しかも、約四分の三世紀にもわたって続いていることになる。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-1.html


「震災当時の新聞」による偶然の発掘から始まった再発見


 おおげさなようだが、わたし自身も、この問題に関する「マスコミ・ブラックアウト」の被害者の一人である。

というのは、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』執筆の際、わたしは王希天について何も知らなかった。

正力と関東大震災後の虐殺事件の関係を調べるために、何冊かの関係書に当たったが、そこには王希天のことは書いてなかった。

実際には、すでにそのころ、雑誌論文や何冊かの単行本に、王希天に関する研究が発表されはじめていたのだが、わたしの資料探索は、そこまで達していなかったのである。


 旧著の発表後にも、つぎつぎと新たな資料が発表されていた。

 前出の『関東大震災と王希天事件』の終章の題は「事件発掘史」となっているが、それによれば、王希天に関して戦後に最初の国内論文が発表されたのは一九七二年である。

 関西大学講師の松岡文平は、『千里山文学論集』(8号)に「関東大震災と在日中国人」を発表した。

その研究の発端の説明は、「震災当時の新聞に、王の『行方不明』が大きく報じられているのに疑問を抱き」始めたからとなっている。

つまり、当時の新聞を調べていたら、偶然、「王希天」というキーワードに突き当たったわけである。


 一九七五年に出版された『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会)には、松岡論文を米軍押収資料など裏付け、さらに発展させた横浜市立大学教授、今井清一の研究が収められている。

だが、その時点では、王希天虐殺の事実については、つぎのような推測の範囲にとどまっている。

「野重[野戦重砲第三旅団砲兵]第一連隊の将校が、おそらく旅団司令部の意もうけて人に知られない時間と場所とを選んで殺害したのであろう」


 『甘粕大尉』の著者、角田房子は、一九七九年に同書の中公文庫版の「付記」として、つぎのように記している。

「『甘粕大尉』執筆中私は、関東大震災直後のドサクサの中で惨殺された王奇天を調べたが、努力の甲斐もなく確かな資料を見つけることが出来なかった。

 本書初版は昭和五十[一九七五]年七月二十五日に出版された。それから一ヵ月後、八月二十八日の『毎日新聞』夕刊に『「王奇天事件』真相に手掛り/一兵士の日記公開』という記事と、王奇天の経歴が発表された。関連記事は九月一日夕刊にもあった」

 角田は「希」を「奇」と誤記している。わたしの旧著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社、79刊)は、この『甘粕大尉』の「付記」が書かれたのと同じ年の、一九七九年に出版されている。そのころまでは、こんな状況だったのである。

 さきの毎日報道から七年後、『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋(よう)は、王希天を殺した本人の「K中尉」こと、元砲兵中尉(のち大佐)の垣内八州男を探し当てた。

垣内は、拉致された王希天の「後ろから一刀を浴びせた」ことを認める。

「[殺害を指示した佐々木大尉]は、上から命令を受けておったと思います。……

後で、王希天が人望家であったと聞いて……驚きました。

可哀そうなことをしたと……[殺害現場の]中川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ」、

などと、その後の心境を、ポツリ、ポツリと告白する。


『将軍の遺言/遠藤三郎日記』(宮武剛、毎日新聞社、86刊)は、毎日新聞の連載記事をまとめたものである。

のちに紹介するが、遠藤は当時、垣内中尉の直属上官だった。

 つい最近の一九九三年に発行された『震災下の中国人虐殺/中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか』(仁木ふみ子、青木書店、以下『震災下の中国人虐殺』)には、「日本側資料について」の項目がある。

それによると、「軍関係資料」の内、参謀本部関係は米軍による接収以前に処分されており、防衛庁戦史資料室には皆無である。

警視庁関係は米軍に接収され、現在は国会図書館と早稲田大学で一部のマイクロフィルムを見ることができる。

一部の、しかし、きわめて貴重な資料が、外務省外交史料館に、「一目につかない工夫をして保存」されていたようである。

『関東大震災/中国人大虐殺』(岩波ブックレット、91刊)の著者でもある仁木ふみ子は、以上のような資料探索の結果、ついに、外務省外交資料館に眠っていた「まぼろしの読売新聞社説」までを発見した。

 これだけの材料が揃っているのを知ったとき、とりわけ、「まぼろしの読売新聞社説」の「発見」について、最初に『巨怪伝』の記述を目にしたとき、徐々に、そしてなお徐々に徐々に、長年の疑問と戦慄の想いが、わたしの胸の奥底からこみ上げ、背筋を走り、全身に広がり始めた。

これらの発見は、わたし自身にとっても、大変な半生のドラマの一部だったのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-2.html


「相手は外国人だから国際問題」という理解の重大な意味


 以上の資料に接するより一六年前、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』の仕上げの段階で、わたしは一応、国会図書館のマイクロ・フィルムで当時の読売の記事を検索していたのである。

そこには明らかに、輪転機にかける鉛版の段階での削除と見られる紙面があった。だが、その時には、それ以上の詳しい追及をする時間の余裕がなかった。

そこで旧著では、「なお、読売新聞の紙面そのものの細部にわたる調査も必要である」という心覚えを残し、つぎの点だけを中間報告として記しておいたのである。

「実物をみると、関東大震災の記事に、相当量の、鉛版段階における全面削除がみられる。一部の残存文字から察するに、震災時の朝鮮人、社会主義者に関する記事であることに間違いない」

 ところが、「間違いない」と断定的に書いた記事内容の推測は、不十分であった。

まずは「中国人」が抜けていた。

拡大した「写真5」で見れば、全面を削り取られた一九二三年一一月七日の読売記事の残存文字のなかには、明らかにルビ付きで「王希天氏(おう き てん し)」とあるのだが、その意味が、当時のわたしには分からなかった。

その左隣の、やはりルビ付きの「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」の方だけに気を取られて、王希天を朝鮮人だと思い込んでしまったのである。

残念といえば残念だが、わたしは、長年の戦慄の想いに終止符を打ち、この訂正と調査不足の告白を余儀なくしてくれた諸氏の研究に感謝する。


『関東大震災と王希天事件』の著者、田原洋の場合には、わたしとはまったく逆で、偶然の機会に王希天事件の存在を知り、それから追跡取材を開始した。

 念のために田原本人にも直接聞いて確かめたが、田原は別の用向きで、元陸軍中将の遠藤三郎と会った。

話がたまたま関東大震災当時におよび、遠藤が、当時は大尉で、江東地区の第一線の中隊長だったと語った。

田原が「大杉栄が殺されましたね」と相槌を打つと、遠藤は意外なことを語りだした。

 正確を期すために、田原の著書の方から引用すると、遠藤は、「大杉栄どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。

「オーキテンという支那人(原文傍点有り)労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。

朝鮮人(原文傍点付有り)とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(いんぺい)したんだ」

 文中の支那人(原文傍点有り)と朝鮮人(原文傍点有り)の傍点は、田原が付けたものである。

遠藤が育った時代の用語そのままだから、別に他意はないと思う。

最大の問題は「相手は外国人」の部分にある。

 わたしの場合、この部分を自分のワープロで入力した時に、初めて、その意味の重大さに気付いた。


それまでの頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」を、関東大震災の際の「虐殺被害者」という項目で一括して考えていたのである。

「虐殺」を告発する立場の人々の多くは、わたしと同じ錯誤に陥っている可能性が高いと思う。

ところが、立場が違えば、同じ物が別の角度から見える。時の権力の頭の中では、「朝鮮人・中国人・社会主義者」の三者は、まったく別の項目で整理されていたのである。

とくに「中国人」は、別扱いの「外国人」だった。

監督官庁としても外務省が加わるから、行政上では決定的な違いが出てくる。


 震災時の朝鮮人の大量虐殺事件も、もちろん重大であるし、国際的にも非難を浴びた。

しかし、当時の国際法の秩序からいえば、植民地保有とその支配自体は非合法ではない。

許しがたいことではあるにしても、いわゆる欧米列強の帝国主義国を中心とする国際外交上で考えるかぎりでは、日本人の社会主義者の虐殺問題と同様の国内問題である。

ところが、中国人の虐殺となると、当然のことながら、明確に外国人の虐殺であり、国際外交上の問題とならざるをえない。

だから遠藤は、「大杉栄どころじゃない」と語ったのである。


 しかも、当時の日本は、満鉄の利権拡大を中心に、中国東北部への侵略の意図を露骨にしていた。

第一次世界大戦中の一九一五年(大4)には、火事場泥棒で奪った旧ドイツ領の青島に増兵を送って威圧を加えながら、対中国二一ヵ条要求を突き付け、その内の一六ヵ条を承認させていた。

中国の内部での反日運動も高まっていたし、国際的な批判も日を追って増大していた。

だから、「中国人指導者・王希天」の虐殺は、現在の日本人が感じるよりも、はるかに重大な国際問題だったのである。


 その後の資料探索で、田原は読売の紙面の削除を知り、紙面の検索をしている。田原は、事前に、その削除された紙面の執筆者が、中国通の著名記者、小村俊三郎だということまで知っていた。

「中国問題に詳しい小村俊三郎」については、『読売新聞百年史』にも非常に簡単ながら、その「入社」が、松山社長時代の項に記録されている。それだけのキャリアが認められる人物だったのである。

しかし、削除された紙面の内容については、まだ、残存文字という手掛りしかない。田原は、非常に残念そうに、つぎのように記していた。

「削除された記事は、いまとなっては復原の方法はない。

『読売』のバックナンバーは、削られた白紙のままだし、小村も記録は残していない」

 田原はさらに、つぎのような想像を付け加えていた。

「そこで推測するしかないが、この記事の筆者は小村俊三郎記者であった。

彼は期するところがあって、ある“過激な”記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って『鉛版』をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。

が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった。

鉛版工のベテランが、指定された記事に削り(のみを使う)を入れる。……

と、そのとき、小村が必死の形相で近より『ここだけ削り残してくれ』と耳打ちする。

あるいは何らかの方法で、小村の“頼み”が伝えられた。

残せといった文字は『王希天』の三文字であった。

この三文字が残っていれば、何が書かれていたか、およその察しはつくのである」

 田原の想像は、おそらく「当たらずといえども遠からず」であろう。

さきにも記したし、「写真3」で明らかなように三文字のみではないが、「王希天氏(おう き てん し)」と「震災當(しん さい たう)時鮮人(せん じん)」という決定的に重要なキーワードだけが、なぜか明瞭に残っているのだ。

とうてい偶然の結果とは思えない。

戒厳令が敷かれていた当時のことだから、その鉛版がはまっていた輪転機の側には、警察官、それもかなり重要な地位の検閲のベテランが、にらみを利かせていたのではないだろうか。

そうだとすれば、まさに、その目の前で、緊迫の鉛版削りのドラマが展開されていたことになる。

 この想像のドラマの緊迫感が、わたしの全身に、いい知れぬ戦慄を走らせるのだ。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-3.html


「まぼろしの読売社説」の劇的発見! 分散して資料を温存か?


 さて、それだけのドラマを秘めた削除紙面の実物が、また、なんとも劇的なことには、その後に発見されたのである。

削除は二か所にわたっていて、二面は社説、五面は関連記事であった。

「写真6、7」の「要保存/発売禁止トナレル読売新聞切抜」がそれである。

 発見者の仁木は、元日教組婦人部長である。

会ってみると、かつてのいかめしい肩書きとは違って、優しい教師そのままの気さくな人柄だった。

「定年後に時間ができて、ただただシラミ潰しに探し回っただけのことですから……」と、静かにほほ笑む。

とくに事前にお願いしたのでもないのに、貴重この上もない発見資料のコピーをも用意してくれていた。

わたしは、それを押し頂いて、発見の経過をうかがった。


 仁木は、『震災下の中国人虐殺』の中で、つぎのように記している。

「これは『要保存、発売禁止となれる読売新聞切抜』と墨書されて、外務省外交資料館にひっそりとしまわれていたのであった」

 この「ひっそりと」という表現の裏にも、おそらく大変な戦慄の人間ドラマが潜んでいたようなのである。

仁木は、「人目につかない工夫をして保存」されていたという表現もしている。

くわしくは同書を参照していただきたい。

何か所にも分かれて外務省外交資料館の資料管理状況が記されている。

とりあえず簡略に要約紹介すると、「書類を分散させて一見関係なさそうな項目の下に配列し」てあったのである。

最後には、つぎのように謎を解く鍵の人名が出てくる。


「だれがこのような文書配列をしたのであろうか。

事件の結末に何とも納得できなかった一青年事務官が、歴史の検証の日に備えて、暗号のように分散させ保管したのではなかったか。

かれの名は多分守島伍郎である。後の駐ソ大使、戦後は自由党代議士一期。

日本国連協会専務理事、善隣学生会館理事長をつとめ、一九七〇年、七〇歳で亡くなった」


 田原によれば、守島は、「同じ外交出身のワンマン吉田茂(一八七八〜一九六七)とは一定の距離を保ち、『オレは社会党から出てもおかしくはない』と語ることもあった」という。

いわゆるリベラル派であろう。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-4.html


中国側の調査団は「陸軍の手で殺されたと思う」と語って帰国


 さて、以上はまだ、王希天虐殺事件をめぐる緊迫のドラマの導入部にしかすぎない。

もう一度、物語の主人公を紹介し直し、この事件の国際的および国内的な位置付け、引いては歴史的な意味を確認し直したい。

 王希天は、当時はエリートの留学生で、その後に満州国がデッチ上げられる中国東北部の吉林省から来日していた。

推定二七歳。東京中華留日キリスト教青年会の幹事、および中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった。


1948年、東京にて、前列右から周恩来、王希天
写真提供:仁木ふみ子


 事件発生当時においても、日本国内の報道よりも中国での報道の方が早かった。

『中華日報』(23・10・17)の社説では、「共済会長王希天が警察に捕らわれたまま行方不明」という事態を「故意の隠蔽」と疑い、「軍、警察の手」によって「殺された」可能性を指摘していた。

仁木はさらに、王希天の出身地、長春、吉林省の新聞、『大東日報』(23・11・1)の記事から、つぎのような憤激の呼び掛けの部分を紹介している。


「本件発生につき考うるに彼等は吾に人類の一分子と認めざる方法を試みたるものなり。

吾々もし放任し、彼等を問罪せず黙認せば吾々は人間にあらざるなり。同胞起きて醒めよ」


 情報源は、捜索に当たった王希天の友人の留学生や、震災発生後、上海に送還された中国人労働者たちだった。

上海や吉林省などの現地の憤激を背景にして、北京政府も調査団を日本に派遣した。

日本側当局は事実の隠蔽に終始したが、中国側代表団は帰国する前に日本の外務省書記官に対して、「王希天は大杉栄同様陸軍の手で殺されたと思う」と語っていた。

『震災下の中国人虐殺』では、「まぼろしの読売新聞社説」という小見出しを立てて、つぎのように指摘している。

「十一月七日、『読売新聞』の朝刊は発売禁止となり、二面の社説と五面の記事を削りとって、この部分は空白のまま発行された。

政府に強烈なインパクトを与えたといわれる『まぼろしの読売社説』は復原すると次のようである」

 以下、二面の社説、「支那人(ママ)惨害事件」の全文は、巻末(367頁・WEB版(15)資料)に小活字で紹介する。

とりあえず要約すると、「惨害」の犠牲者を「総数三百人くらい」としている。

「支那人労働者の間に設けられた僑日共済会の元会長王希天も亀戸署に留置された以後生死不明となった事実」を指摘し、「重大なる外交問題」の真相を明らかにしないのは、「一大失態」だと論じている。

 結論部分は、「本事件に対する政府の責任は他の朝鮮事件、甘粕事件同様、我が陸軍においてその大部分を負担すべきはずである。[中略]

故に吾人は我が国民の名において最後にこれをその陸軍に忠言する」となっている。

 仁木は、この「まぼろしの読売新聞社説」を、つぎのように評価している。

「戒厳令下の執筆であるが、実に堂々たる論調である。[中略]

一本の筆に正義を託す記者魂が厳然とそこに立つ」


 同時に鉛版から削除された五面の記事は、

「支那政府を代表し抗議委員が来朝する/王氏外百余名の虐殺事件につき精査の上正式に外務省へ抗議申込/我態度を疑う公使館」

という三段大見出しで、本文約八〇行である。

これは、もしかするとわたしの新発見なのかもしれないが、削除された二面の社説の下のベタ記事を眺めていたら、「虐殺調査委員/支那から派遣する」という本文七行の「北京四日国際発」電が残っていた。

いずれも記事の本文では「調査委員」または「特別委員」となっているのに、見出しで「抗議委員」または「虐殺調査委員」と表現している。

社説の題にも「惨害」とある。

当時の読売新聞のデスクの、この事件に対する判断基準が伝わってくるような気がする。

 読売の全面削除された社説は当然、王希天その人と中国側の動きを知り、その惨殺の事実を知るか、またはその事実にせまりつつあったジャーナリストの存在を示している。

 全面削除の社説を執筆した小村俊三郎(一八七二〜一九三三)は、「外務省一等通訳官退職後、東京朝日、読売、東京日日など各新聞社で中国問題を論評、硬骨漢として知られる中国通第一人者」だった。

王希天事件については、その後も独自の調査を続け、外務省に「支那人被害の実情踏査記事」と題する報告書を提出している。

 しかもこの小村俊三郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結で有名な小村寿太郎と、祖父同士が兄弟の再従兄弟の関係にあった。

いわば名家の出でもあるし、もともと東京の主要名門紙に寄稿するコラムニストなのだから、顔も広い。

政府筋が個人的に攻撃すれば逆効果を生み出しかねない。

当時の松山社長時代の読売には、そういう人材が集まっていたのである。

『巨怪伝』では、当時の読売の報道姿勢を、つぎのように指摘している。

「大杉栄殺害の事実を、時事と並んでいち早く号外で報じたことにも示されるように、関東大震災下に起きた一連の虐殺事件の真相と、政府の責任を最も鋭く追及したのが読売新聞だった」

 もしかすると、内務省関係者は、田原が想像したような、「王希天」の三文字をかすかに残す印刷現場でのひそかな抵抗のドラマにも気付いて、警戒の念を高めていたのかもしれないのである。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-5.html


九二四件の発売禁止・差押処分を大手紙の社史はほぼ無視


 さて、ここで愕然とせざるをえないのは、日本の三大新聞、朝日・毎日・読売、すべての社史に、ほぼ共通する実情である。

王希天虐殺事件はもとより、関東大震災下の言論弾圧に関しての記述が、あまりにもお粗末なのである。

 まずは前項の「まぼろしの読売社説」の件であるが、『読売新聞百二十年史』を最新とする読売の社史には、たったの一行の記述もない。

それどころか、関東大震災後に報道規制があったことすら、まったく記されていない。

改めて呆れはしたが、読売のことだから、さもありなんと諦めた。


 毎日新聞はどうかというと、『毎日新聞七十年』にはまったく記載がないが、最新の『毎日新聞百年史』には、つぎのように記されている。

「新聞は“大杉栄殺し”を直感したが、戒厳令下、報道の自由はなかった」

 ただし、これだけでは、陸軍憲兵隊による社会主義者大杉栄の一家惨殺事件のみが、報道規制の対象になったかのような、誤解が生れかねない。

「王希天」の三文字はもとより、「朝鮮人」という単語も、「中国人」という単語もない。

 朝日の場合も、『朝日新聞の九十年』には確かに、「惨禍の中で特報や号外を連発」の見出しはある。

「『大阪朝日』数十万部を増刷して、船と汽車で東京に送」ったことなどの奮闘の経過は、八頁にもわたって克明に記されている。

だがやはり、報道規制の「キ」の字も出てこないのである。

 朝日は『百年史』を発行せずに、「百年史編修委員会」名で、創立から数えると一一一年目に当る一九九〇年から『朝日新聞社史』全四巻の社内版発行を開始し、一九九五年から全巻を市販している。

本文六五九頁の第二巻、『朝日新聞社史/大正昭和戦前編』には、つぎのように記されている。

「震災直後の流言からおこった社会主義者や朝鮮人の陰謀騒ぎで多数が殺された事件の実態は、九月二日に出された戒厳令によって報道が差し止められ、東朝[東京朝日]は十月二日になってその一部の報道が許された」

 ここでかろうじて「朝鮮人」という単語が、報道差し止めとの関係で登場する。

しかし、「中国人」も「王希天」もない。


 この状況は、いかにも不自然であり、不都合なのである。

国際的にも評判の「横並び」方式による隠蔽工作が、いまだに継続されているのではないかとさえ思えるのである。

 歴史的な資料がなかったわけではない。

さきに挙げたほかにも、たとえば、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』(現代史出版会、75刊)では、これらの一連の虐殺事件に関する「ジャーナリズムの沈黙と右傾化」と、それを促進した権力の「強圧」を指摘している。

出典として『災害誌』(改造社編)などを挙げており、当時の新聞統制の模様を、つぎのように要約している。

「甘粕事件、内鮮人殺害、自警団暴挙に関する差止事項を掲げた日刊新聞で、発売頒布を禁止されたものは、寺内内閣当時の米騒動の際における処分に比すべきものと見られ、

新聞紙の差押えが、十一月頃まで殆ど三十以上に及び、一新聞紙の差押えが優に二十万枚に達したものがあった」


 ただし、ここにも「中国人」が登場しないという弱点があるし、さらには、この数字でも実は、まだまだ控え目だったようなのである。

おそらく、ここでいわれている「米騒動の際における処分に比すべきもの」という水準をはるかに越えていたに違いない。

日本の言論弾圧の歴史上、最大規模の問題として根本的な見直しをせよ、日本のメディア史の研究をやり直すべきだと、強調せざるをえないのである。

『関東大震災と王希天事件』の著者、田原は、当時の内務省警保局図書課の秘密報告を入手し、「表1」の「(秘)震災に関する記事に依り発売禁止並びに差押処分に付せられたる新聞件数調」を作成している。

「総件数」は、なんと、さきの『災害誌』の「三十以上」という数字を一桁以上も上回り、「九二四件」に達しているのである。

その内、「亀戸警察署刺殺事件に関する記事」(王希天行方不明記事を含む)と分類されているものだけでも、「三〇件」である。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-6.html


後藤内相が呼び掛けた「五大臣会議」で隠蔽工作を決定


 これだけの言論弾圧を行った当時の内務大臣は、いったい誰だったのであろうか。

 おりから新内閣の組閣中で、

関東大震災発生の九月一日までは留任中の水野錬太郎(一八六八〜一九四九)、

二日からは再任の後藤新平(一八五七〜一九二九)だった。

つまり、内務大臣としては水野の先輩に当る後藤が、この激動の際に、二度目の要職を引き受けていたのである。


 後藤が果たした役割については、『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』に、つぎのように記されている。


「一〇月中旬に王希天の行方不明が報道され、同二〇日に中国代理公使から王の殺害について抗議をうけると、日本政府も対策の検討をすすめた。

内務省当局では大島事件、王希天事件を両者とも隠蔽する意見で、

一一月七日には閣議のあと後藤内相、伊集院彦吉外相、平沼騏一郎法相、田中陸相、それに山本首相も加わって協議したうえ、

『徹底的に隠蔽するの外なし』と決定し、中国がわとの応対方法については警備会議に協議させることになった」


 この「閣議のあと」の「協議」については、『関東大震災と王希天事件』にも『震災下の中国人虐殺』にも、さらに詳しい記述がある。

内務省や外務省の関係者の記録が残されているからである。

「協議」の場は「五大臣会議」と通称されている。

 本稿の立場から見て、もっとも重要なことは、この「五大臣会議」が行われた「一一月七日」という日付である。

つまり、「まぼろしの読売社説」を掲載した少部数の早版が、輪転機で刷り出されてしまい、その後に急遽、鉛版が削られた日付なのである。

日付の一致は偶然どころではない。

これこそが「協議」開催の原因であることを示す明白な記録が、すでにたっぷりと発掘されているのである。

 閣議後に協議を呼び掛けたのは後藤である。

だが、内務大臣の後藤が「五大臣会議」を発案したという経過の裏には、なにやら、ご都合主義の謀略的な臭気がただよう。


 本来の建て前からいえば、内務省は、犯罪を捜査し、処罰すべき主務官庁である。

ところが後藤個人は、すでに簡略に紹介したように、外務大臣時代に推進したシベリア出兵とそれに続く米騒動に際して、外務省の霞倶楽部の記者たちと紛争を起こしたり、報道取締りの先頭に立ったりしていた。

メディア界の進歩的勢力とは激しい対立関係にあった。

すでに紹介したように「新聞連盟」結成工作、ただし時期尚早で実らず、などの「新聞利用」なり「新聞操縦」政策を展開していた。

ラディオ放送の支配に関する構想をも抱いていたはずである。

後藤は、しかも、首相の座を狙う最短距離にいた。

その機会に備えて、メディア界の敵対分子を排除したいと腹の底で願っていた可能性は、非常に高い。

当の読売社説の内容自体も重大な問題ではあったが、それを逆手を取って政府部内の主導権を握り、一挙に、かねてからの狙いを実現しようと図ったのではないだろうか。

 政府部内の主導権を握る上では、王希天の虐殺事件は絶好の材料だった。

後藤と田中陸相とは不仲だったというし、外務省は国際世論上、日頃から言論統制には消極的だった。

ところが、この際、後藤と相性の悪い陸軍は加害者であり、被告の立場である。

外務省は国際世論対策で四苦八苦である。

いまこそ特高の親玉、内務官僚の出番であった。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-7.html


「荒療治」を踏まえた「警備会議」と正力の「ニヤニヤ笑い」


『関東大震災と王希天事件』では、関係者が残したメモ類を多数収録している。

その日の午後五時から開かれた「警備会議」の冒頭で、岡田警保局長は、つぎのような発言をした。

「本日、急に五大臣会議を開いたのは、今朝の『読売』のためであります。

相手の出方を待つ姿勢で、政府がふらふらしていると、新聞に対する取締まりも徹底を欠くし、むずかしい。

今朝は、

危いところで削除 → 白紙のまま発行

という荒療治になってしまったが、今後は隠蔽の方針も定まったことであるし、お互いに緊密なる連携のもとに、ことを進めたいと思うので、よろしくご協力をお願いします」

 早版地区に送られた少部数の「削除前」の読売は、配達直前に押収されていた。

「五大臣会議」の決定は、あくまでも政府段階での正式決定であって、内務省はすでに隠蔽工作を実施していた。

検閲の実務担当者たちは、「まぼろしの読売社説」を目にした時、冷汗三斗の思いだったに違いないのである。

「警備会議」は、実務担当者による実行手段の相談の場である。

そこには、なんと、小村寿太郎の長男の小村欣一が、外務省情報部次長の立場で参加していた。

読売社説の執筆者、小村俊三郎は、東京高等師範学校に在学中、寿太郎の邸宅に書生として住み、この欣一の家庭教師をしていた。

岡田警保局長が、小村たちに事情を話して隠蔽の「諒解を求むる」という方針を報告すると、欣一は、小村たちについて、「主義上の運動者」だから「諒解を求ることすこぶる困難なるべし」という意見をのべ、「考慮を要する」と注意した。

 いやはや、こうなると最早、何ともものすごい接近戦である。

敵味方入り乱れての白兵戦の様相である。

関係者たちは、上を下への大騒ぎ、という感じがしてくる。

 警視総監の湯浅倉平は「すこぶる沈痛なる態度」であった。

以下、関係者のカナまじりのメモに残された湯浅の「熱心説述」を、ひらがなで読みやすいようにしてみよう。


「本件は、本官のいまだ際会せざる重大問題なり。

本件は実在の事件なれば、これを隠蔽するためには、あるいは新聞、言論または集会の取締をなすにつきても、事実においてある種の『クーデター』を行うこととなる義にて、誠に心苦しき次第なり。

また本件は必ず議会の問題となるべきところ、その際には秘密会議を求め得べきも、少くとも事前あらかじめ各派領袖の諒解を求めおく必要あり。

 さればとて、本件の隠蔽または摘発、いずれが国家のため得策なるかは、自分としては確信これ無く、政府において隠蔽と決定したる以上、もちろんこの方針を体し、最善の努力をなすべきも、自分の苦衷は諸君において十分推察されたし」

 この「苦衷」を訴えた警視総監、湯浅倉平は、その後、正力松太郎とともに虎の門事件で責任を追って即日辞任届けを提出し、のち懲戒免官、恩赦となる。

警視総監になる以前に岡山県知事、貴族院議員になっていた。

虎の門事件の恩赦以後には、宮内相、内相となっている。

 湯浅の発言のあとには、「北京政府が派遣する調査団および民間調査団の調査にどう対処するか、新聞取締などが話題」になった。

新聞取締に関する警保局長の提案は、つぎのようであった。

「適当の機会に主なる新聞代表者を招致し、大島町事件は厳密調査を遂げたるも、結局事実判明せず、

ついては事実不明なるにかかわらず揣摩(しま)憶測して無根の記事を掲載するにおいては、厳重取締をなすべき旨を告げ、

もって暗に発売禁止の意をほのめかせば、効果あるべし」


 この発言内容には、当時の言論弾圧の実情が露骨に表れている。

警保局長はさらに、「新聞取締の必要上、戒厳令撤廃の延期」まで提案したが、これには同意者が少く、そのままとなった。

 この時にはまだ官房主事兼高等課長だった正力松太郎は、職責からいえば、当然、右の「警備会議」に出席しているはずであるが、以上に挙げた資料の「警備会議」の発言者の中には、正力の名はない。

まだ位が低いのである。

もちろん、研究者たちは、正力の存在を十二分に意識してきた。

 田原は、遠藤元中将から直接の証言を得て、詳しい経過を記している。


 正力は、遠藤を警視庁に呼び出していた。

「ニヤニヤ笑いを浮かべ」ながら、「聞き込みも一応終わっています」などと脅しを入れた。

すでに後藤と「五大臣会議」の間にただよう「臭気」を指摘したが、この件で、正力または内務省勢力は、陸軍と対等に取り引きができるネタを握ったわけである。

その強みが正力の顔に表われていたのではないだろうか。

田原はさらに、その後の読売への正力の乗りこみと、小村俊三郎の退社との因果関係をも指摘している。

『将軍の遺書』の方には、つぎのような日記添付「メモ用紙」部分の記載がある。

「佐々木兵吉大尉、第三旅団長の許可を得て、王希天のみをもらい受け、中川堤防上にてK[垣内]中尉、その首を切り死がいを中川に流す。[中略]

正力警備課長[警視庁官房主事の誤記]は、その秘密を察知ありしが如きも深く追及せず」

 以上、概略の紹介にとどめるが、いやはや、驚くべき本音の記録の連続である。

これらの発言記録を発見したときの、田原ら先行研究者の興奮が、じかに伝わってくるような気がするのである。


 事件の翌年、一九二四年(大13)二月二六日に、正力は読売「乗りこみ」を果たす。

 同年一〇月四日、読売記者の安成二郎は、築地の料亭で開かれた前編集長千葉亀雄の慰労会での会話を、あとでメモし、「記憶のために」と注記しておいた。

本人が三六年後に自宅で再発見したこのメモは、『自由思想』(60・10)に発表された。

内容のほとんどは、大杉栄ら虐殺事件の関係であるが、その最後の短い(三)は、つぎのようになっている。

「(王希天はどうしたんでせう、軍隊では無いでせうが……)と千葉氏が言うと、

正力氏は(王希天か、ハハハ)と笑って何も言はなかった」


 この正力の「ハハハ」という笑い声は、どういう響きのものだったのだろうか。

壮年期の正力の声については、『経済往来』(10・3)に、「男性的で丸みがあり、声量があって曇りがない」と記されている。

六尺豊かの大男が、柔道で鍛え、警官隊を指揮してきたのだったから、それだけの迫力のある声だったに違いない。

だが、「虐殺」の話題で出た「ハハハ」という笑い声には、いわゆる「地獄の高笑い」のような、真相を知りつつとぼける不気味さが、漂っていたのではないだろうか。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-8.html


戒厳令から治安維持法への一本道の上に見る正力の配置


 軍や警察当局が恐れていたのは、新聞報道の内容や新聞そのものだけではなかった。

小村欣一の発言にもあったように、「主義上の運動者」の動きもあった。

すでに「警備会議」の「話題」にものぼっていた「民間調査団」がある。

そこには、読売の小村記者以外に、東京日日(毎日系)、大阪毎日、東京朝日の記者が参加していた。

かれらは中国から来日した宗教家の調査団と接触する一方、吉野作造邸で協議をしていた。北京政府が派遣した調査団も、吉野作造邸に立ち寄っていた。


 吉野作造(一八七九〜一九三三)は、東大法科卒で、同大教授として政治史を講義していた。

デモクラシーを「民本主義」と訳したことでも知られている。

東大新人会の総帥でもあり、いわゆる大正デモクラシーの理論的主柱ともいうべき存在であった。

後日談になるが、関東大震災の翌年に当たる一九二四年(大13)には、朝日新聞社論説顧問に迎えられ、五か月あまりで退社した。

退社の原因は、「五ヶ条のご誓文は明治政府の悲鳴」という講演内容などを、右翼団体が「不敬罪」として告発したためである。

『朝日新聞の九十年』でも、退社の経過について、「検察当局の意向もあり」と記している。

「不敬罪」の告発自体は不起訴となったが、この件でも朝日は「白虹事件」の時と同様、右翼と検察のチームプレーに屈服したのである。


 さて、以上のような状況を背景にしながら、強権の発動による王希天虐殺事件の隠蔽工作が行われたのだが、それはまず戒厳令下にはじまっている。戒厳令は約二か月半も続いた。

解除は一一月一六日である。『歴史の真実/関東大震災と朝鮮人虐殺』では、戒厳令の解除後に「かわって憲兵が大増強され、警察官もまたピストルまで配備された上に増員された」と指摘する。

 戒厳令下、および以後の虐殺問題報道の全体像をも、調べ直す必要があるだろう。

田原は、王希天虐殺事件の隠蔽工作と大杉殺害事件の関係を、つぎのように示唆する。


「王希天事件は『行方不明』扱いで、十月十七日から二十日にかけて、各紙に掲載された。

『殺害』をにおわせる記述は厳重にチェックされたので、さりげない震災エピソード風に受けとめられ、やがて“関係者”以外には忘れられた。

大杉栄殺害事件で、甘粕らがスケープゴートとなった意味は、単に『犯人』を買って出ただけでなく、報道操作の陽動作戦に必要な犠牲バントとしての役割もあったのである」

 大杉栄殺害事件の軍法会議の進行は、非常に早かった。

戒厳令下の一〇月八日に第一回、以後、一一月一六日、一七日、二一日の四回で結審となり、一二月八日には、甘粕に懲役一〇年などの判決が出ている。

この間の新聞報道は、シベリア出兵以来の「反ソ」キャンペーンとも呼応している。

社会主義者への世間一般の反感をも土台にして、甘粕らに同情的な風潮さえ作り出したようである。


 その後、甘粕はたったの三年で釈放され、満州国の黒幕となる。

緊急事態を根拠にして公布された「治安維持勅令」は、そのまま法律化され、翌々年の一九二五年(大14)に制定される治安維持法への橋渡しの役割を果たした。

このようなドサクサまぎれの突貫工事によって、外にはシベリア出兵、内には米騒動、関東大震災という人災、天災のはさみうちの混乱のなかで、昭和日本の憲兵・警察支配、治安維持法体制は完成を見たのである。


 わたしは、正力の読売「乗りこみ」を、以上の政治状況と深くかかわりながら企まれた一大政治謀略に相違ないと確信している。

 さらにさかのぼれば、当時の読売が「出る釘は打たれる」のたとえ通りの襲撃目標に選ばれた理由には、まさに日本のメディア史の矛盾を象徴するような典型的経過があったというべきであろう。

 第一の理由は、その明治初年以来の歴史的ブランドである。

第二の理由は、「白虹事件」残党を中心に形成されつつあった大正デモクラシーの「メディア梁山泊」としての位置づけである。

最後の第三の理由、すなわち、「まぼろしの読売社説」をめぐるオロドオドロの衝撃ドラマは、それらの歴史的経過の必然的な帰結であった。

読売は、日本の歴史の悲劇的なターニング・ポイントにおいて、右旋回を強要する不作法なパートナー、正力松太郎の、「汚い靴」のかかとに踏みにじられたのである。

 日本の最高権力と、それに追随する勢力は、関東大震災という天災を契機として、大量の中国人とその指導者を虐殺し、卑劣にも、その事実の徹底的な隠蔽を図った。

この虐殺と隠蔽工作とは共に、以後ますます拡大される中国大陸侵略への狼煙の役割を果たした。

 正力社長就任以後の読売新聞は、最左翼から急速に右旋回し、「中道」の朝日・毎日をも、さらに右へ引き寄せ、死なばもろとも、おりからのアジア太平洋全域侵略への思想的先兵となった。

正力の読売「乗りこみ」は、いいかえれば、この地獄の戦線拡大への坂道を転げ落ちようとしている日本にとって、雪だるまを突き落とす最初の、指のひと押しの位置づけだったのではないだろうか。

 正力本人は、戦後にA級戦犯として巣鴨入りした。

だが、この時も、アメリカの世界政策上の措置によって、その罪は裁かれずに終わってしまった。

今こそ改めて、多数の中国人労働者と王希天の虐殺事件とその報道状況とを、日本のジャーナリズムの歴史の中央に位置づけ直し、事実関係を確認し直すべきなのではないだろうか。

自社の歴史を正確に記して過去を反省するか否かは、また、メディア企業の決定的な試金石でもあろう。

 わたしは一応、読売新聞広報部に電話をした。本書に記したような事実を読売新聞は把握しているか、今後の社史などで明らかにする予定があるか、などを問いただした。

しかし、「お答えすべき筋のことではないと思う」という、番犬の唸り声のような返事だけだったので、この件について、本書を「公開質問状」とすると告げた。
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-9-9.html



[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

13. 中川隆[-5807] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:19:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

戦争中に強制連行した朝鮮人と中国人に日本人がやっていた事

旭川 中国人墓地 心霊スポット - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%A2%93%E5%9C%B0+%E5%BF%83%E9%9C%8A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88

旭川 中国人墓地(上川郡)

とても有名な心霊スポット。

日本人に強制連行され労働させられ死亡した中国人たちのお墓が密集している。とある一つの墓にある裏にある文字を読むと死んでしまうという。

墓の入り口にはなぜか倒れてる地蔵が放置されていてこれだけならよくある心霊スポットなのだが、この中国人墓地が恐ろしいのは目撃した人の多数いることだ。
https://matome.naver.jp/odai/2141196042705461601/2141207737036401203


日本の最怖心霊スポット、旭川『中国人墓地』には「お前ら行くな!」
http://ranpo.co/article/6063688203414540289


いわゆるホンモノです。

心霊スポットは、全国各地に数多く点在します。オカルト好きは、廃墟や廃病院などに肝試しに行ったこともあるでしょう。

しかし、数ある心霊スポットの中には”ガチ”で行ってはいけないスポットがあります。

その1つは、北海道の「中国人墓地」です。

北海道旭川市近郊にある中国人墓地。地元の方も避けるようなこの場所は、正式名称を「中国人殉難烈士慰霊碑」と言います。

日本に強制連行され、過酷な状況の中労働させられていた中国人のお墓です。


彼らは日本人に強い怒りや憎しみを持ちながら亡くなっているので、特に日本人が軽い気持ちで肝試しに行くのは危険すぎます。

実際に、中国人墓地に肝試しに行った方が多数被害に遭っています。
行ってはいけない‼多数の被害

1.車に白い手形がビッシリとついた
2.肝試しに行った日、夢の中で中国人に追いかけられた
3.肝試しに行ったメンバーが行方不明になった
4.撮影していたスマホが突然故障した
5.肝試しに行った帰りに交通事故に遭った


また一部で、墓石にすがる霊や夜に行くと錯乱状態になるなどの話も実しやかに囁かれています。

ここまで見ると「よくあるパターン」と笑ってしまうかもしれません。しかし、軽い話で済まされません。

なぜ、中国人墓地に行ってはいけないのか、それは大きな事件を引き起こした事実があるからです。


極秘情報 中国人墓地にまつわる事故

中国人墓地は、旭川市近郊の上川郡東川町にあります。

地図
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92071-1471+%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E4%B8%8A%E5%B7%9D%E9%83%A1%E6%9D%B1%E5%B7%9D%E7%94%BA%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%B3/@43.6625413,142.5913463,12z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f0cd9f2b6fe409f:0x4492a267c5a4f525!8m2!3d43.6640765!4d142.6600564?hl=ja


この東川町というのは、本当にド田舎。都会に住んでいる方が想像もできないような場所なのです。

このような場所は、若者たちにとって格好の遊び場。それは、危険な無謀運転でドライブを楽しむのにピッタリです。

そして興味本位で「このまま肝試しに行くか!?」なんて話もよくあるパターン。

当時、旭川市ではけっこうな話題になったのですが、5年くらい前に大きな事故がありました。若者たちが定員オーバーの状態でドライブし、事故。そして全員死亡。

ニュースで画像も出ていましたが、車は悲惨な状態でした。
奇妙な噂と口を閉ざす地元民
実は、この事故には噂がありました。

それは、中国人墓地に行った帰りの事故、だということ。

当時、事故を目撃した地元の方の話によると、絶対にあり得ない事故、だそうです。

確かに定員オーバーでスピードも出ていた。しかし、ブレーキ痕などからわかる状況としては、死亡事故にまではいたらない。また、運転手が運転をミスした理由が曖昧なのだそうです。

しかし、それ以上に話を地元の方から伺うことはできまでした。皆一同に口を閉ざすのです。詳しく話を聞こうとしても地元の方は……

「ごめん、ご遺族のためにもこれ以上は話せない…K察にも口止めされてるんだ」

それはつまり、中国人墓地に行った若者がありえない状況での事故で亡くなった、ということではないでしょうか。

全国各地にある心霊スポット。興味本位で遊びに行くことも、若気の至りであることでしょう。しかし、中国人墓地だけはやめたほうがいい。これが本音です。
http://ranpo.co/article/6063688203414540289


北海道中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭in旭川


2016年7月7日、北海道旭川上川郡東川町東14号共同墓地で、第44回中国人強制連行事件殉難烈士慰霊祭が行われました。

資料: 中国人強制労働による殉死の墓

戦時中、いわゆる1941年11月政府閣議決定にもとづき、中国人を日本国内に強制連行し135事業所で、強制労働にしいられ、多くの中国人がたえられぬ労働とリンチによって死にいたった事であります。

1944年、東川のこの江卸事業所も例外ではなく、338名の中国人が連行され、遊水地工事のために苛酷な強制労働をしいられたのでございます。バラ線の張った高いヘイ、明かりのない窓、見張所が作られ、監獄部屋と同じになってしまったバラックの収容所。

うす氷のはりつめる初冬から真冬に近い季節というのに、ヨレヨレの夏の国防服一枚に、ワラで作ったツマゴグツをはき、ワラの手袋をつけ、忠別川の川底の石を素手でかき集めて運ぶ、手足が凍傷にかかり指がちぎれたり、くさったり、それでも奴れい的作業はつづいていました。

戦時中なので日本人の食糧が不足であったという事で、中国人には、小麦粉のだんごや、野さいのおかずだけ、しかもわずかな量でした。いつも空腹にたえなければならなかったのです。

しかも夏は午前6時より 日が暮れるまで、日本人監視のもとに一寸の休みも認められず、針金や丸棒のムチで打たれながら強制労働をさせられていたのでございます。

残酷なリンチに苛酷な労働は、栄養失調と過労の肉体を自然にむしばみはじめ、病人は食べるものも満足にあたえられず、ただ部屋の中のうすい毛布でうずくまっているだけでした。

こうした強制労働とリンチの悲惨な結果は多くの犠牲者を死にいたらしめてしまい、戦争の悲劇はここにもあったわけです。その殉難者は88名にもおよんでいます。

戦後、多くの人々や心ある人達によって何回かの大法要がおこなわれ、特に東川町はこうした行事にも力を入れまして、昭和47年7月7日、旭川市の日中友好協会の方々と共に「中国人強制連行事件殉難慰霊石碑」を除幕するに いたったのであります。

そして遊水地は今もなお東川町、旭川市に及ぶ美田をうるおし、農産業に多くの貢献をにない、日中の友情と平和のちぎりをむすんでいるのであります。
http://www.tao-clinic.com/blog00.php?cat=4&id=1494


旭川中国人墓地


昔、中国から強制連行されてきた労働者の墓がある。
戦前に一家惨殺された家族の墓がある。
車に無数の手型がつく。
白い車が特に狙われる。
車の上に無数の幽霊が見える。など。


地図
https://mapfan.com/map?c=43.65136515839951,142.58872269128318,15&s=std,pc,ja


この地図のおおむね中心付近にあります。

 
北海道旅行の「目玉」として、北海道内有数の心霊スポットといわれる中国人墓地を選んだ。

私は行くのが怖かった。なぜなら・・そう・・・
私は白い車に乗っているのだ!!
それゆえ、もしかしたら狙われるのかも・・・と心配していた。
しかし、自分の車がまさかあんな姿になろうとは・・・・

8月1日
内地(爆)では猛暑だと言うのに
この北海道では相変わらず涼しい
私とSKYLINE氏は中国人墓地の正確な場所を割り出すため、
東川町にある、北海道ローカルコンビ二【セイコーマート】にて
詳しい場所を聞くことにした。
ちなみにこのセイコーマート、茨城にも多数ある・・・

コンビニの店員曰く、

この中国人墓地は「東8号の第3小学校付近だったと思うのですが・・」

我々は早速、現地へ向かった。

しかし、それらしいものは何処にも無い。
その代わり、なぜかヘリコプター十数機が保管されている
ヘリコプター基地にたどり着いてしまった。
これは見たい!!見なければならない!!
早速車から降り、ヘリコプターを見物しようとしたそのとき!!

『ごるぅぁぁああああ!!!!』

天地を揺るがす雄叫と共に突如、前方の扉が開き、
中から怪物が飛び出してきた!?
これはもしや?北海道名物「クマ!?」


驚いた私は「スイマセン!スイマセン!」と平謝り・・・

出てきた熊・・・ではなく警備会社のオッチャンに
事情を説明したところ、ヘリにいたずらする奴がいるため警備中との事だった。
早速オッチャンに中国人墓地の場所を聞くと
山の上で、なおかつ隣町の東神楽に近いところだと言う・・
ちなみにヘリは農薬散布用とのこと。

我々は早速東神楽へ向かったが、それらしい場所は無い。
やっぱり夜に探すのは厳しいのか!?
我々はいったん撤収し、明日昼間に探すことにした。

そして次の日、
旭川ローカルデパート「マルカツ」にて1/25000地図を購入。
東川の墓地という墓地をすべてチェック、
しらみつぶしに探す作戦に出た。


【小高い丘、峠道、東神楽の近く】
事前情報からこの3つの条件をみたす墓地を探すことにした。

一つ目、二つ目ははずれだった・・・

そろそろガソリンも無くなって来たので
ガソリンを入れるため北海道ローカルGS【ホクレン】にて給油することにした。

給油中、私は「北海道大学 歴史研究会」を名乗って
店長らしき人物に中国人墓地の場所を尋ねる。
すると、


店長:「ああ、あそこね・・・あんまり遊び半分で行かないほうがいいよ・・
中国人の慰霊碑と、あと【一家惨殺の墓】があるんだよ・・・
行くんなら、道わかんないだろうから、後ついてきて・・」

とのこと。
早速我々は店長の車の後をつけた。
交通量の多い(北海道にしては)道道(=県道)から、
丘の上に登っていく狭い(北海道にしては)道を進むと
店長は車を停め、我々の方へ向かってきた。

そして右手の細い(本当に)砂利道を指差し、

店長:「この先が墓地だから。あんまりふざけた気持ちはもたないこった」

と言い、再び車に乗ると、細い砂利道を進んでいった。もちろん我々も後に続く。

細い森の中の道を100mくらい進んだところに墓地があった。

店長:「これが中国人の慰霊碑で、こっちの7つの地蔵が一家惨殺の奴ね・・
じゃあ、気ィつけてね・・・」

そして、店長は去っていった。

我々は墓地を一通り見た後、帰る事にした。
特に、霊的にヤバイ感じは無かったが、
車のリアガラスを見た我々は凍りついた!!

 沢山の手形が着いているではない
か!!!!!

私は恐怖と共に車のリアガラスを見つめると

「ポタッ、ジワ〜」
「ポタッ、ジワ〜」

なんと手形の正体は上の木の枝から落ちてきた雨水であった・・・

ボンネットを見ると、確かに雨水が無数の「手形」を作っている。
確かに噂どおり、水垢がつきやすい「白い車」のほうが手形は目立つだろう。
そして夜ならば夜露が雨水の代わりをし、同じように手形を作るに違いない。

でも、夜なら夜露が手形を作る瞬間は暗くて見えないだろうし、
帰ってからこの手形を見つけたのではビビるのも無理は無かろう。

ふと、ボンネットに目をやると、エンジンの熱で温められ、白い湯気が立っていた。

「なるほど、これが幽霊か・・・・」

幽霊の正体を暴いた我々は、意気揚揚と引き上げ、そして夜にもう一度行くことにした。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/4641/page013.html


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (1) [北の街] 2005-10-14
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14

 旭川市から南東(空港から少し東側方向)に向かうと東川町があります。市から外れるとすぐ穏やかな田園が広がっていて車で走っていても心が和む場所です。

 ところが、そこは戦前戦中をとうしてや朝鮮半島から、騙されたり、強制的に連れてこられた人が過酷な労働を強いられて、多くの人が命を落とした所でもあります。その人たちは、ある所では石炭掘り、山林の伐採などをさせられました。

 そしてここでは、田んぼに必要な水を溜めておく遊水池を掘らせれていました。また、それに必要な道路整備やその水を市内に流す放水路作りにも強制的携わらせられたのです。その過酷さは、聞いただけでも見もよだつ思いです。さぞや辛かったろう、さぞや日本人を憎んだろうと思わせます。

 その一つの証言を紹介します。そのTさんは、その当時中学生ぐらいでした、御年77歳になります。学徒動員でその年なりの仕事をしたいたそうで。そのとき見た光景は今でも脳裏から離れずに記憶は鮮明に残っているそうです。

 何があったのか!!その頃は何につけ「兵隊のために」が合言葉のようになっていました。ここは農地ですので当然お米の生産に全力を上げていました。お米には水が欠かせません。それには雄大な大雪から湧き出る水やつき解けで流れる水をどこかで堰き止め、溜めておく必要があります。

 そこで遊水池が必要になったわけです。働き盛りの青年や成人の男どもは戦地に持っていかれていますから、残っているのは一部の兵隊さんと農家の女性と子どもしかいません。そこに、連れてこられたのが中国人や朝鮮人の人たちだったのです。その過酷さは次で紹介します。

このに見える放水路がその一つです
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-14


旭川市郊外にある「強制連行」の跡標 (2) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


 今回は、過酷な労働から出来た遊水池について。では一見分かりづらいのですが、池はかなり深く掘られています。

 それはこの辺一帯の田んぼを潤す水を蓄えるわけですから、当然でしょう。同じような池がこの他にもあり、それが中国人や朝鮮人を連れてきて掘らせたわけです。Tさんはこう話してくれました。

 「真冬なんてかわいそうなもんだった。布で作った靴しか与えられなくてな、そんなの何回も土を運んでいるうちすぐ穴が開いてしまうわ。足の指真っ赤に腫らしてな、凍傷なんていうもんじゃない、半分腐っていたもんもいたさ。ずいぶん酷いことしたもんだ。見ていられんかったもんな」

 「ずいぶん堤が高いしな、土は他の所へかなり運んだんだけれど、手が間に合わなくて土手に積み上げたんだ」

 堤が高いということは、かなり深くまで掘った土を、掘った人間が上まで運んだということです。当たり前と思うかも知れませんが、現代のようにユンボがある訳もなくすべて手作業です。ましてや、鉄製のも使わせなかったと聞いています。と言うより、鉄が戦車や鉄砲を創るため、拠出させられていたので、鉄そのものが無かったのだと思います。

 それだけを考えただけでも、どれほど重労働だったか推し量れます。

この写真が強制連行にあったことを物語る跡標です。 

これが遊水池です。今でも水が満々としています。
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17


旭川市近郊にある「強制連行」の跡標 (3) [北の街]
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24

 ここまで酷いことをするのか、人間は出来るのかとーー

 国が違う国を支配する。そうするとこういうことが、何の躊躇もなく行なわれてしまうのかと考えてしまいます。Tさんの話を続けます。

 「冬になっても足には草鞋しかはかせないで、素足のままだ。凍傷になって足は真っ赤に腫れ上がっていた。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ。可哀そうにな」

 「戦争が始まった頃、道路拡張の工事があってだいぶん進んでいた頃なんだわ、こっちの方がもっと悲惨だったんじゃないかな」と話します。

 「強制労働者は、天秤棒を担がされて、その両端には砂袋だ。それに掘り起こした土を詰め込んで運ばされていたんだ。一日に何回も往復させられていたさ。それを続けて何日もやらされるもんだから、肩は真っ赤に腫上がって水脹(ぶく)れになっていた」

 「そりゃ毎日だからな、水脹れが破れて中の肉がでてきてただれてしまっていた。そりゃ酷いもんだったさ。それでも天秤棒を担がされてな、血がたれていたよな」

 そこでも、日本の軍人はただ命令するだけで、誰一人として助けようとはしなかったのですか、と聞くと、「それどころか、その赤く腫れあがったところに、煮えきった油をかけていたのさ。酷いなんちゅうものじゃなかった。そうしたほうが、その水脹れが早く治るっていうんだと言ってな」

 彼らは、その繰り返しだったらしいのです。当然長くは続けることは困難でした。

 「菌が入ったらもうおしまいだ。そうなったら長くはもたんな。当然死ぬよ。死んだら穴を掘って捨てるように埋めていた。まったく酷いことをしたもんだ」。 T さんは「可哀そうにな」と、今でも思い出さない日はないと言います。

 今では、「中国人殉難裂士」の慰霊碑が建てられています。しかし、ここには「観音堂」があったらしいのですが、Tさんは、今はどこへ行ったのか分からないそうです。

 そして、そこから細い道を登っていくと、中国人墓地があります。ひっそりと静まり返っています。林の中に、ぽつんと墓石が立てられているだけです。もう私たちの記憶の中から、忘れられています。

 そう言う私も、昨年Tさんから話しを聞くまでは、「中国人墓地」があるのは聞いていました。ただ、それはにある外人墓地的な感覚でした。連れて行ってもらって、始めてそこに何故「中国人墓地」が存在するのかを知りました。

 またその先には、今は日本一の設備を有するのではないか、と言われている忠別ダム工事が行なわれています。その先に見えるのが、今まで旭川を含めて近郊の電力をまかなってきた、忠別発電所があります。

 そこでは、強制連行されてきた朝鮮人の人たちが、中国人強制労働者と同じような犠牲を強いられてきていた過去があります。 

 どんな戦争でも、領土の奪い合いは民族間の支配関係を露わにします。支配する側は、支配される方を奴隷同様の扱いをし、自らの国家を「神の国」扱いにしたがります。だから、お前らは俺達の言うことを聞けと。

 しかし、歴史を見ても、たとえ一時それが最頂期を迎えたとしても、いずれは廃れます。そこに、また新しい怨念の連鎖が始まるだけなのです。

 3日にわたって、旭川の近郊で起きたことを書きました。是非、戦争の悲惨さを若い人に伝えたくて書きました。今、イラクでも同じようなことが起きています。


中国人殉難裂士慰霊碑                           

忠別発電所

中国人墓地
http://55-marku.blog.so-net.ne.jp/2005-10-24


朝鮮人強制動員被害のはなし 過酷なタコ部屋は 11カ所あった - 東川町
https://town.higashikawa.hokkaido.jp/living/.../2010-12-06KYOUSEI_ROUDOU.pdf
太平洋戦争前の戦前から戦後にかけて、忠別川流域の東川町内であったといわれる朝鮮人強制労働の実態解明調査を行っている「江卸発電所・忠別川 遊水池・朝鮮人強制連行・動員の歴史を掘る会」(近藤伸生代表)は昨年 10 月、掘る会メンバー6人と、東川町から企画総務課長も同行して慶尚南道に 調査へ行きました。


タコ部屋近くに住んでいた方、仕事 でたこ部屋に出入りしていた方からの 証言では、東川町内 11 カ所、旭川市東 旭川忠別地区遊水池の近く1カ所、東 神楽町3カ所の存在が今までに明らか になっている。およその位置は以下のようだった。

@東9号第一遊水池側(東川の方の証   言)


A東8号第一遊水池の向かい(同)   遊水池工事は、中国人を強制連行し てくる前は朝鮮人が働かされていた。 韓国で聞き取りの中でも当時朝鮮から 動員された方が証言している。


B東6号南(同)   第2頭首工から東川の 第2遊水池に向かう用水 路の一部では朝鮮人が働 かされていた。当時、中国人や朝鮮人がとてもひ もじそうだったので、工 事現場近くの農家の方が 日本人監督の分も含めて かぼちゃ、じゃが芋を蒸 かしたものを鍋に入れて人数分用意し、 そっと差し入れしたこともあった。


C志比内橋のふもと、東川寄り(元忠   別村の方の証言)   鉄条網を周りに張り巡らし、逃亡を 防ぐため囲いの中に犬が放されていた。 複数の方から犬と金網の証言が出てく る。江卸の工事現場から逃げ出した朝 鮮人を探すため、山狩りにはよく犬が 使われていた。

D熊の沢つり橋の手前(東川の方の証   言)


Eピウケナイ取水口の近く=2つたこ   部屋(同)


Fノカナンの沢取水口(同)


G小桧山温泉近く=ノカナンの沢の奥 (同)


H旧江卸発電所放水路の上(札幌市内   在住の方の証言)   学徒動員の学生と発電所技術者用の 小屋、その隣に朝鮮人のたこ部屋があ った。当時現場で学徒動員の学生と朝 鮮人が一緒になることはなかった。


I旧江卸発電所放水路の下(東川の方   の証言)


Jノカナンの沢と忠別川の合流点そば (元忠別村の方の証言)  


ノカナン、ピウケナイから出た土砂 で大きなずり山ができている。忠別湖畔の散策広場から対岸のずり山が見え る。親からは工事でなくなった朝鮮人 もあの中に埋まっていると聞かされた ことがある。  

当時、忠別村には江卸発電所の工事 現場から逃げてきた朝鮮人が何人もい たようだ。戦後、村の中で戦時中のこ とを自由に話せるようになって、初め てかくまって逃がしていた家が何軒もあったことが分かったという。

この村 では、朝鮮人が逃げてきたという密告 は一件もなかった。  

戦後しばらくたってから、

「逃げてきた人にご飯を食べさせ、母親が夜なべしてその人に合うように父親の服を 縫い直して着せて逃がした、というこ とが数回あった」

と親から聞いて当時 の事情を初めて知ったという人もいた。 逃がした朝鮮の人が、戦後お礼にやっ てきたことがあったという。   逃げてきた朝鮮人も、逃がした日本人も命がけの時代だった。  

母親から

「やせてシラミだらけの服 で命ごいをする朝鮮人を見て、『人間 をこんなにまでして』と思うと、とて も警察に突き出すことはできなかった」

と聞かされた。


江卸発電所・忠別川遊水池・朝鮮人強 制連行・動員の歴史を掘る会 代表 近藤伸生 


北海道で行われた強制労働について 2011年06月19日


 北海道は今やクルマ社会であるといえるが、かつては、鉄道があちこちに張り巡らされて、道路が完全に整備されていなかった昭和30年代頃までは、鉄道が地域住民の足として機能していた。その鉄道建設工事の影には、たいてい強制労働がつきまとっていた。

 ここでは、北海道の強制労働の歴史について触れながら、私が入手した資料と現地で見聞きして得た、強制労働の実態を取り上げるものとする。

 北海道は、明治時代になって本州から移住民による開拓が行われるようになった。だが、未開の地であった為に道路がなかったので、まず囚人を使って道路を敷設する事にした。

 小樽から札幌の北を経て旭川方面に至る道路、旭川から北見峠を越えてオホーツク海の湧別・網走に至る道路、更に網走から標茶を経て釧路に至る道路等は、囚人の手によって造り上げられ、開拓民や屯田兵は、囚人の造り上げた道路を使って奥地を開拓し、入植をしていった。

 また、北海道の森林資源や鉱石・石炭資源が着目されて、鉱山等でも囚人労働が行われ、あらゆる土木工事で囚人労働が行われるようになった。

 ここで、鉄道トンネルに人柱が立てられた石北本線の常紋トンネル付近の鉄道工事がいかに過酷であったか、湧別線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …奔無加上生田原間ハ北見国常呂、紋別両郡境前後ノ深山幽谷ナルヲ以テ分水嶺ニ延長千六百六十余呎ノ隧道ヲ穿チ上リ下リ共四十ノ一乃至五十分ノ一ノ急勾配ヲ設クルモ尚ホ高築堤、深切取ヲ要シタル

此ノ区間ハ密林鬱蒼トシテ昼尚ホ暗ク時ニ猛獣出没スルアリ
人跡未タ至ラス固ヨリ既成道路ノ材料ノ運搬ニ特別ノ考慮ヲ要シ工事施行上困難ヲ極メタリ…

 この強制労働で使われた囚人は、明治政府の方針に反対して捕らえられた政治犯が多かったという。鎖に繋がれて死ぬまで労働をさせるので、死刑よりも過酷であるこの刑には反対の声が上がり、また、土木工事での労働力の不足から、明治中期には囚人労働はなくなった。

 しかし、未開の地であった事から、人を募集しても人が集まらない事は目に見えていたし、途中で脱落者が生ずる事も考えられた。また、公共の職業斡旋の形態ができあがっていなかった事もあり、民間業者が労働力をかき集めてある場所に幽閉し、劣悪な労働環境下で酷使する、いわゆるタコ部屋労働が行われるようになった。

 本州でも、タコ部屋労働はあったが、北海道では未開の地であった等の理由で労働者が敬遠する為に、後々まで行われたのである。

 民間の職業斡旋業者が、騙したり強引に連れ去ったりして確保したタコは、土木業者に引き渡されて、監獄のように鉄格子を窓にはめ込んだ建物に閉じ込められた。

 このように、強制労働は、囚人を使った囚人労働から、騙す等の違法な手段によって集めて働かせたタコ部屋労働へと変貌していったが、これだけでは終わらず、ついに外国人を強制労働に使うようになった。

 タコ部屋労働に使われた外国人は、朝鮮人を中心に、中国人や連合国捕虜も含まれている。日韓併合によって「日本国民」にされた朝鮮人の場合には、朱鞠内歴史保存委員会のパンフレットによると、昭和14年09月に「募集」、昭和17年02月には「官斡旋」という名目で強制連行され、更に昭和19年09月には「国民徴用令」を朝鮮半島に適用して強制連行が行われたらしい。

 いずれにしても、タコとされた労働者は、粗末な食事で長時間労働をさせられて、過酷な労働に耐え切れずに逃亡を図ったり、不満を言った者には、管理者である世話役や棒頭から激しい暴行を加えられた。

 このような光景を目撃した地元住民も多く、警察は事実を知っていても表沙汰にする事はほとんどなかった。そればかりか、警察が逃亡したタコを追跡する事例があったらしい。

 暴行を目撃したり苛酷な労働を目撃した地元住民にとっては、この世の光景でなかっただろう。中にはこのような事実を話したくない方も非常に多いに違いないが、このような事は、今後絶対にあってはならないのだから、後世に語り継ぐ必要がある。

 私は、そのような思いで、鉄道の跡地の探索の時間を削ってでも聞き取り調査を優先している。ここで、私が実際に聞いた目撃談を2つ紹介する。


北海道河西郡更別村 国鉄広尾線鉄道工事現場における事例

 この辺りでもタコ部屋労働が行われ、労働者には朝鮮の人も含まれていた。朝、小学校に通学する際に、仕事場へと向かう労働者(7時位から仕事をしていたらしい)とすれ違っていたが、10月(※当時 現在の十勝地方の11月位の気温に相当か?)なのに衣服は赤い腰巻だけであった。

 この付近の工事は難航し、南4線川になかなか橋を架ける事が出来なかったので、とうとう6人の人柱を立てる事にした。人柱は、橋の台座へお経を唱えられながら埋められた。また、この付近の工事では死人が続出したので、そこいらに穴を掘って埋めてそのままにしていった。

 広尾線が開通し、戦争もたけなわになって村から多くの男子が兵士として出征していった頃の事、駅長が終列車に老男性が乗っていたのを見たはずなのに実際には乗っていないとか、終列車の後に線路の点検をしながら歩いていると、火の玉を見たり足音を聞いたりしたとか、変な事が立て続けに起こった。

 あまりにもこのような事が続いたので、当時の更別駅長が地元の方々に慰霊碑の建立を依頼してきた。そこで、ささやかな祠を建立したところ、このような事はなくなった…。


北海道宗谷郡猿払村 旧軍浅茅野飛行場建設工事現場における事例

 当時は重機もないので、飛行場の滑走路は人の手で土を運んで均していった。この作業は真冬でも除雪しながら行われたが、彼らの服装は、むしろ(?)を体に巻きつけただけで、裸足(?)のままで作業を行った。

 滑走路は複数用意しようとしたらしく、滑走路が1本完成したのに続いてもう1本着工したが、完成までには至らなかった。

 今回聞き出した事例は、暴行の事例ではなかったものの、季節に関係なく服装が粗末であった点が共通している事から、タコ部屋労働は劣悪な環境であった事がうかがえる。実際、雨竜ダム建設工事を始めとするタコ部屋労働における犠牲者の死亡原因は、ビタミン不足が原因で起こる脚気が多かったらしい。

 空知民衆史講座のパンフレットによれば、胆振縦貫鉄道(→国鉄胆振線)建設工事では、温泉がある大滝村北湯沢の熱湯の湧き出すトンネル工事で1時間に50人の朝鮮人労働者の突入を繰り返した事例があったそうだ。

 「人柱」の事例は、科学が発達していなかった迷信や神仏が信じられていた時代ならともかく、人類が空を飛ぶ20世紀になって「人柱」がまかり通っていた事実は信じ難い。

 人柱に関する情報として、国鉄瀬棚線の建設工事では、花石〜北住吉間の鉄橋(一説には、第一白川橋梁)に人柱が埋められたという噂がまことしやかにささやかれているが、既に撤去された今となっては、確認のしようがない。

 また、前出のパンフレットによれば、自衛隊の矢臼別演習場の前身である陸軍種馬場建設工事で、朝鮮人労働者を人柱にした等の残虐な行為があったらしいし、北海道雨竜郡幌加内町の雨竜ダム建設工事では、コンクリートに埋め込まれた人もいるとの証言がある。

 さて、住民から国鉄広尾線建設工事のタコ部屋労働の事例をとりあげてみたが、広尾線建設概要では当該工事現場を含めて全ての工区で犠牲者が出たとか工事が難航した事は書かれていない。という事は、故意にとりあげなかったのではなかろうか? ここで、タコ部屋労働が行なわれた国鉄瀬棚線の鉄道建設工事について、瀬棚線建設概要から漢字を平易化して抜粋する事にする。

 …国縫起点自三一粁五○○米至三二粁,自三五粁七○○米至三六粁三○○米,自三六粁六七○米至四五粁二○○米附近の場所は何れも泥炭地帯にして築堤の沈下を見又三三粁○五○米附近の切取箇所は流水甚しく工事の進捗を阻ぐるものがあつた

殊に大正一五年一一月一四日本線二粁四○○米附近の切取に於て又同年一二月十二日五粁八○○米附近用地外土取場に於て更に昭和二年四月十二日二粁三○○米附近用地外裏込石採集場に於て何れも岩石崩壊し之が為め前後三日を通じ人夫三名の死者と重傷者二名を出した事は昭和五年九月四日二五粁五七○米附近「下ハカイマツプ」川橋梁四○呎四連の架渡工事中桁転落の為め職員一名即死人夫二名の重軽傷者を出した事と共に本線建設工事の一大犠牲であつた…

 この文書を単純に読むだけでは、鉄道工事が容易ではなかった事しか読み取れないだろうが、瀬棚線の工事現場は凄惨を極めた。

 昭和50年代後半から本格的に始まった国鉄赤字ローカル線の整理に対して、瀬棚線を守る住民会議が設立された際に、住民会議の事務局の仕事をしていた方がタコ部屋労働に関する噂を聞きつけ、工事に従事したり工事に関係した人達を探し出して、当時棒頭をしていた方からやっと聞き出す事ができた工事の実態は、ひどいものであった。

 何でも、1号トロに3分間で1.5リューベ積みこむ、今の10倍位の労働であったそうで、少しでも遅れれば殴られた。また、労働時間は06時から18時までという名目であったが、実際には03時から始められたそうだ。

 また、逃亡者が多くタコ5人に棒頭が1人ついていたそうで、逃亡してもすぐに捕まって、見せしめとして派手に暴行を加えられて、大怪我を負って働けない状態になっても翌日には現場に連れて行かれたそうだ。

 そればかりか、逃亡に失敗して捕まったタコを首だけ残して埋められた実例がいくつかあり、実際に、証言者は首だけ残して埋められたタコを足蹴にしたという。

 囚人労働でとりあげた湧別線建設概要の本文やタコ部屋労働でとりあげた瀬棚線建設概要の本文でわかるように、公文書では、往々にして自分達に都合の悪い事はほとんど触れないようなので、文章の背後に潜む事実を推測する必要があるかも知れない。

 いずれにしても、北海道では、日本が太平洋戦争で敗北するまで、鉱山や土木工事等ではタコ部屋労働が日常的に行なわれ、満足に栄養が与えられず劣悪な衛生環境でかつ、劣悪な工事環境で、利潤を生み出す「道具」として長時間働かされて、多くの犠牲者を出した。

 私は、戦前に着工されていた北海道の旧国鉄路線では、たとえ記録として残っていなくてもタコ部屋労働が行なわれたと思っており、特に、戦争中に何らかの工事が行なわれていた国鉄路線では、必ずタコ部屋労働が行なわれたと確信している。

 また、工事の際には人柱もあちこちに立てられたと思っている。人柱が立てられるようになった歴史的経緯を考えると、鉄道工事では地形の険しい箇所の長大トンネル工事や主要橋梁に人柱が立てられたのではなかろうか。

 過去に自分が体験した事が余りにも荷が重過ぎるかも知れないし、タコは親不孝者や怠け者の成れの果てと教え込まれて無意識のうちにタコの話をしたくない方もいるかも知れない。タコ部屋労働が過ちであったと思う気持ちが少しでもあれば、今からでも遅くはない。誰かに伝えるべきである。

 過ちを過ちと認めないのは愚かな事であり、同じ人間なのに人格を否定されてタコとしてむごい最期を遂げられた労働者がいつまでも浮かばれない。もし、今からでも歴史の過ちを後世に伝える気持ちがあったら、情報をお願いします。

 ささいな情報でも構いません。あなた自身若しくはあなたの先祖が見た光景が、歴史の重要な証言となります。

 最近、後世に「負の歴史」を伝える行為を「自虐的」であるとする風潮があるようだが、私は決してそのように思わない。

 人間は高度な知識と知恵を有する動物だが、人間がとる行動は全て正しい訳ではない。長い間生きていれば失敗する事も必ずある。過去の失敗を振り返って反省する行為は、人間がより賢くなろうとする純粋な行為であり、決して恥ずべき行為ではないと確信している。
http://blog.goo.ne.jp/80k700/e/0285e5b12f4510db384f391e977c8287


【笹の墓標】

戦前、北海道の雨竜ダム建設工事で亡くなった強制労働犠牲者の遺骨発掘に参加した神沼公一郎は、作業中に腐乱死体を発見。

遺体はなんと神沼の元恋人で、東京で変死した葦原奈美のいたクラブ「銀馬車」の従業員・上月良彦だった! 

道警の星野と宮川は「銀馬車」の顧客リストを捜査、その中に、強制労働に関係し、奈美とも接点を持つ北海道政財界の大物三人の名を発見した! 五十数年前の悪夢と現在を結ぶ忌まわしい過去とは? 時間と空間を超えて投影された運命の非情を描く森村文学の神髄!


序章

 深夜、山の方角の中腹に火が見えた。通常、火を焚く場所ではない。

 火が見える夜は、工事現場や飯場に死者が出たときである。労働者たちは、あそこで死体が焼かれているのだと噂し合った。だが、噂の真偽を確かめた者はいない。労働者たちは、自分がいつ、
あの火の燃料にされるのかとおののいた。

 宿舎の格子窓が白むころ、労働者は叩き起こされる。

「起きろ。働け」

 棒頭や取締人と呼ばれる班長が、六角棒を手に容赦なく労働者を叩き起こす。中にはせんべい蒲団をまくられ、六角棒で叩かれても動かない者がいる。ほとんど虫の息になっていて、動きたくとも動けないのである。時には、夜のうちに死んでいる者もいた。

 土工夫(労働者)たちからタコ部屋と呼ばれている宿舎は粗末な仮小屋で、逃亡を防ぐために窓には鉄格子がはめられ、夜間出入口には閂がかかる。板張りの床には筵が敷かれただけで、冬は容赦なく吹き込む隙間風が筵を吹き上げた。

 タコ(強制)労働者と強制連行された朝群人労働者の宿舎は分けられているが、実態はほとんど同じである。

 宿舎は中央の土間を挟んで左右両翼に分かれる。左手が親方や棒頭の個室、右手が労働者の寝室に当てられていた。

 前日の重労働が重く澱んでいる睡眠不足の身体を無理やりに奮い立たせ、洗面器1杯の水で何人もが顔を洗う間もなく、「飯上げ」(朝食)の号令がかかる。

 食事の内容は米3、麦、芋等7の割合の飯盛り切り1杯、味噌2、塩8の味噌汁1杯、漬物2切れ。弁当は前記割合の握り飯1個である。労働者たちはいずれも栄養失調で、腹が脹らんでいた。

 食事も食物を味わう余裕などはない。ただ、最低限の生命を維持するためだけに動物の餅にも劣るような粗食を大急ぎでかき込む。労働実績のよい者は上飯台と呼ばれる部屋で食べ、中程度の者は中飯台と称するテーブルに座って食べ、最下級の老は下飯台と呼ばれ、立って食う。

「おれはもうだめだよ」

 朝鮮の郷里から騙されて連行されてきた李景信が、朴命水に力なく言った。

 李は48歳で、この朝鮮人部屋では最年長である。李の衰弱は最近とみに著しい。李は風邪をこじらせ、熱があった。だが、そんなことは仕事を休む口実にはならない。

 高齢に、粗食と重労働を重ねて、もはや李の身体は使いものにならなくなっていた。これまで若い朴が庇ってきたので、辛うじて今日まで生きてこられたのである。

「李さん、なに言ってるんだ。そんな弱音を吐いちゃいけない。頑張れ。生きてさえいればチャンスはある」

 朴は李の耳に口を寄せて励ました。

 朴は信用人夫と呼ばれる自由契約の労働者であるが、タコ部屋に入れられて、信用人夫もタコ労働者もほとんど差のないことを知った。信用人夫は契約であるから、いやならばいつでもやめられるはずであるが、そんなことを言い出そうものなら、棒頭のリンチが待っている。

 今日は労働者がアヒルと呼んでいる水中作業である。厳寒期の水中作業で、李の足は凍傷が悪化して肉が崩れ、足の指の骨が見えている。骨が露出した部位に藁を巻きつけて作業現場まで這いずるように歩いて行き、水中に入るので、凍傷は悪化する一方である。

 厳寒期にもかかわらず、衣類はジュート麻の生地で、豆や米を入れる南京袋の繊維である。保温性はきわめて低い。ジュート作業衣をまとったタコ労働者が並んで歩いていると、南京袋の行列のように見えた。

 李景信は朴命水に担がれるようにして、とにかく作業現場まで行った。

 現場に着いたところで、李の体力は尽きた。身体は高熱を発して燃えるように熱い。

「この身体ではアヒルは無理です」

 朴は棒頭に訴えた。

「なんだと、この野郎。ふざけやがって。仮病をつかってサボろうとしやがっても、そうはいかねえぞ。立て。働け」

 労働者たちから鬼頭と呼ばれて恐れられている北山という棒頭は、持っていた鞭で李を殴りつけた。だが、李は動けない。棒頭はますます激しく殴りつけた。

「棒頭、李さんが死んでしまいます」

 朴は鞭を振るう棒頭の手を押えた。

「この野郎。きさまも痛い目を見てえのか」

 棒頭の容赦ない鞭が朴の顔面を打った。火を当てられたような苦痛に耐えながら、

「李さんの分まで私が働きますから、休ませてやってください」

 となおも訴えた。さすがの鬼頭も死なせてはまずいとおもったらしく、舌打ちをして、

「きさま、いまの言葉を忘れるな。その役立たずを小屋に運んで、2倍働け」

 と朴に命じた。

 宿舎に担ぎ込まれた李は、奄々たる気息の下から言った。

「朴さん、おれはもう助からない」

「なにを言うんだ。ちょっと熱が出ただけだよ。すぐ元気になる。2人で一緒にこのタコ部屋から逃げようと言った約束はどうしたんだ。頑張れ」

「おれはもう約束を果たせない。あんた1人で逃げてくれ」

「おれが李さんを残して逃げるとおもっているのか」

「一緒に行きたいが、おれはもうついて行けないよ。頼みがある」

「1人で逃げろと言ったって、だめだよ」

「おれは遅く結婚したので、郷里に今年10歳になる娘がいる。娘の名は貞媛。あんた、このタコ部屋から逃げられたら、おれの郷里へ行って、娘にこれを渡してくれ。娘にいっぱい土産物を買って帰ろうとおもっていたが、これしか買えなかった」

 李は1本の赤い珊瑚の櫛を差し出した。

「李さん」

「世話になった。あんたに会えてよかった。あんたは若い。こんなタコ部屋で死んじゃあいけないよ。あんた1人ならきっと脱走できる。この戦争は間もなく終わる。平和になったら、あんたのような若い力が必要になる。あんたの活躍をあの世から見守っているよ」

 朴の手を握った李の手が急速に弱くなった。李はその夜死んだ。

 死体は近くの寺の本堂に一夜仮安置された後、いずこかへ運ばれて行った。

 翌日の深夜、朴は山の方角の山腹に火を見た。その火を見つめながら、朴は、

「李さん、許してくれ。あんたと一緒に逃げるという約束を守れなかった」

 と涙をこぼした。闇の奥の火がまたたいた。朴にはそれが、

「約束を守れなくなったのはおれのほうだよ。許してくれ」

 と李が答えたようにおもえた。

 朴は幼いころ両親に連れられて来日した。23歳のとき、横浜で沖仲仕をして働いていたが、仕事がなくてぶらぶらしているとき、1人の男から肩を叩かれた。

「兄さん、閑そうだね。いま、なにをしているんだい」

 一見40代の上等な服を着た羽振りのよさそうな男が問いかけてきた。

「べつになにもしていないよ」

 朴が答えると、

「北海道へ来ないかい。いい仕事を世話してやるぜ。1日5円、働きぶりによっては8円、10円も稼げる。いま北海道は人手が足りないから、いい金になるよ」

 当時、公務員の初任給が75円の時代である。庶民の食べ物であるカレーライスも20銭から30銭である。

「1日5円から10円だって」

 朴は目を丸くした。

「そうとも。それもうまい飯付きだ。白い飯を腹一杯食って、肉や魚や酒も付くぞ」

 男は甘い餌を、仕事にあぶれていた朴の前に並べ立てた。朴はその場で男と1年の契約をした。

 だが、男に北海道の雨竜ダムのタコ部屋に送り込まれた朴は、男に騙されたことを知った。1日5円どころか2円50銭。しかもその日給から食費、蒲団代、地下足袋代などを差し引かれると、ほとんど手許に残らない。前借りのある者は利子を差し引かれるので、必死に働いても賃金が利息においつかない。朴は契約して出稼ぎに来たつもりであったのが、朝鮮人狩りに引っかかったことを悟った。

 朴が送り込まれたのは、北海道北部山間の雨竜発電所工事現場であった。この工事は陸海軍の拠点飛行場建設にも匹敵するような、北海道最大の土建工事である。折から戦時下の労働力不足もあって、大量の人間が朝鮮や東北地方、また京阪の都市部から「人間狩り」と言えるような募集によってかき集められてきた。

 朴は契約労働者であったが、李景信は郷里の朝群南部の村から北海道北部の工事現場に強制的に送り込まれたのである。工事を担当した元請けの下に、下請け、孫請けと多数の業者が犇めき、人狩り屋(周旋業)と提携して不法に集めた労働力を確保していた。

 雨竜ダム工事の飯場に送り込まれた朴と李は騙されたことを悟り、逃亡の機会を狙っていたが、監視が厳しく、果たせないでいる間に、李は死んでしまった。

 飯場からの逃亡者はあとを絶たなかった。厳しい監視の目を潜って逃亡しても、たいてい警察や憲兵、棒頭や犬の追っ手に捕まって連れ戻された。強制連行労働者の5分の1は逃走を図ったが、北海道の逃走成功率は全国平均の半分以下で、極めて逃走が困難である。逃亡を企てた者は見せしめのために凄まじいリンチに遭う。

「お国のための工事から逃げようなんて、太え了見だ。その根性を叩き直してやる」

 棒頭は全労働者の見守る中で、連れ戻された労働者を六角棒や鞭で殴りつけ、気を失えば水をかけ、水を一杯に入れた洗面器を捧げ持たせてコンクリート床に正座させた。姿勢を崩すと、また六角棒や鞭が飛ぶ。あまりの苦しさに自殺を図る者もあった。

 逃亡を決意した朴に、朝鮮人の強制労働者が耳打ちした。

「旭川手前の近文にあさひ屋食堂といううどん屋がある。そこは夕張炭鉱に連行された朝群人たちが結成した救援委員会の出先だ。そこへ逃げ込めば、逃走の手引きをしてくれるぞ」

 朝鮮人労働者の救援委員会があるということは密かにささやかれていたが、具体的な出先を聞いたのは初めてである。仲がよかった李に死なれて、朴は逃亡の意志を固めた。この飯場から逃亡に成功した者はほとんどいない。

 飯場の監視に油断はなかった。脱走の機会をつかめぬまま、朴に過酷な日々がつづいた。

 起床は夏が午前5時、冬は5時半、食事は常に下飯台で立ったまま。6時ごろから日没まで重労働を強いられ、夜は垢と脂でてかてかに光る、綿が団子のように固まったせんべい蒲団にくるまって眠る。いつも腹をへらし、番犬の飯を盗み食いした。

 冬は寒さに耐えられず、労働者同士で衣服を盗み合った。稀に許される入浴も、衣服を盗まれるので入らない。枕にする四寸角の木材も暖をとるために燃やしてしまい、枕なしで眠る。人間性を無視した最底辺の環境でも、労働者は生きていた。

 ようやく長い冬が終わって、北辺に短い春が訪れると、労働者はほっと一息つく。ともかく寒気という最強の敵から逃れた。

 だが、春から夏にかけては逃亡が多くなるので、監視も厳しくなる。逃げるとすれば冬季以外にはなかった。凍死は免れたものの、また次の冬がくるまで自由は遠ざかる。

 現場で作業開始に際して、棒頭から言い含められた上飯台が立ち、

「シャツを脱げ。ズボンを取れ」

 と命じて、褌1本でしばらく働いた後、

「褌を取れ」

 と号令が下る。全裸の異様な男の集団がスコップを振るい、土を運ぶ。疲れてくると、棒頭の合図によって、

「気合いを出せ」

 と号令がかかる。労働者たちは一斉に、えいえいえいと掛け声を発する。全裸ならば逃亡できない。人間性を無視した牛馬に劣る労働であった。

 異様な労働者の集団が泥塗れになって働いているかたわらを、若い女子作業員が通り過ぎて行くことがあった。近くの女学校から動員された女子奉仕隊である。若い娘の群は面を伏せて、強制労働者の方を見ないようにして通り過ぎて行ったが、朴にとっては全身が震えるような屈辱であった。

日が没して飯場へ帰る途中、数人の動員女子奉仕隊が歩いていた。

 まったく女っ気のないタコ部屋労働で、若い女性と遭遇して、労働者たちの心は久し振りに和んだ。南京袋ながら、いまは衣服を身に着けている。緑濃い山のかなたにまだ夕映えが残り、湖の方角から涼しい風が吹いてきている。

 そのとき前を歩く娘たちが新聞紙の包みを落として行った。なにかとおもって棒頭の目を潜って拾い上げた朴たちが、新聞紙を開いてみると、中から握り飯が出てきた。朴たちが夕闇の中に遠ざかる娘たちの一群に、感謝の意をこめて手を振ると、娘たちも手を振って応えた。

 そんなことがあってから、娘たちはときどき新聞紙に包んだ握り飯を落として行ってくれた。言葉こそ交わさなかったが、強制労働者と若い娘たちの淡い交流であった。

 強制労働者にまた恐ろしい冬がめぐってきた。女子奉仕隊も帰ってしまった。山は雪に覆われ、ダムにせき止められて出現した湖が氷結した。だが、朴にとっては待ち望んでいた冬であった。

 朴は春から秋にかけて逃走路を充分に研究していた。

 まず、南方の深川の方へ逃げる。追っ手を躱すために道路は避け、山を越えて行く。雪中の厳しい山越えとなるが、朴は体力には自信があった。安全圏にたどり着いたところで列車に乗る。深川まで行けば成功の確率は高くなる。

 朴は脱走に備えて、密かに食糧を溜めた。飯や握り飯を少しずつ残して団子をつくり、雪の中に隠しておいた。食糧は約3日分備蓄した。

 飯場に送り込まれてから爪に火を灯すようにして25円はど貯めた。このころは上野・青森間が7円25銭であるから、列車に乗りさえすれば交通費は充分である。

 南京袋の作業衣ではすぐ露見してしまうので、飯場に送り込まれて来たとき着てきた私服を、この日のために隠し持っていた。

 朴は脱走に備えて、棒頭や取締人に気に入られるように従順に、熱心に働いた。日本語も自由に操れるので、彼は棒頭や取締人の信頼を得ていた。

 若いながら上飯台に昇格した。鬼棒頭も朴には心を許し、上飯台の上の模範台への昇格をほのめかした。

 模範台になれば食事内容も幹部並みになる。平土工夫のように泥に塗れてスコップを振るい、もっこを担ぐこともない。入浴や洗面も頻繁に許される。なによりも監視の目が緩む。棒頭や取締人も、まさか模範台侯補者が脱走の機会を狙っているとはおもわない。そこがつけ目であった。

 冬は監視が緩むといっても、厳寒期は無理である。山に雪は残っていても、気温の緩む3月下旬から4月上旬にかけてが狙い目である。このころになると、厳寒期のような凄まじい風雪はなくなる。

 4月5日の夜、飯場が寝静まったのを待って、朴は便所へ行くふりをして、便所の窓から宿舎を抜け出した。便所の窓の格子を1本、用便の都度緩めておいた。外から見ただけではわからないが、はずせるようにしておいた。抜け出した後、格子は元どおりにはめた。

 最も恐ろしいのは犬であるが、平素から犬を手なずけておいた。番犬も朴が手を出すと舐めるまでに懐いている。

 首尾よく宿舎を抜け出した朴は、雪明かりを頼りに山中へ入った。途中まで雪の解けた道を歩き、足跡をたどれないようにする。これまでの経験からこの天気が2、3日つづくことを知っている。

月はないが、雪明かりで充分明るい。

 おそらく明日の朝の起床時間までは時間を稼げるであろう。その間にできるだけ遠方まで距離を稼ぐ。もし脱走に失敗すれば、尋常のリンチではすまないだろう。鬼頭が信頼していただけに、裏切られた怒りがどんなものか、描まったら命はないものと覚悟しなければならない。

 朴は歩きに歩いた。私服の上にジュート麻の作業衣を重ね着していた。零下に冷え込んでいるにもかかわらず汗にまみれるほどであった。

 かなり距離は稼いだが、道路や集落に出るのは危険である。朴は食糧のつづくかぎり、3日間山中で過ごす覚悟であった。

 これまで飛びっちょ(逃亡者)が出ると、駐在所に通報すると同時に、作業を中止して、上板台2、3人を留守番に残して、棒頭以下、全員が捜索に出る。3日間探して見つからないと、あとは警察や憲兵に委ねて、作業へ戻るのが常であった。

 警察や憲兵は不審の者を見かければ、尋問したり捕えたりするが、積極的に捜査をするわけではない。3日間逃げ延びられれば、まずは第一関門はクリアしたことになる。

 山中を3日間歩き通して4日目に、朴は疲労でふらふらになりながら里へ出た。農家の納屋から作物を盗んで胃袋を騙し、4日目の早朝、駅の待合室に入った。ジュート麻の作業衣は山中に脱ぎ捨てたので、一般人と変わりない服装になっているが、そのぶん寒い。

 駅の待合室にはまだだれもいなかった。下りの1番列車が間もなく来る時間である。駅員が出札口のカーテンを開き、窓口に眠そうな顔を見せた。ちょうど折よく1人の老女が待合室に入って来た。朴は咄嗟におもいついて、老女に5円札を渡して、

「お婆ちゃん、悪いけど、稚内まで1枚切符を買ってくれないかな」

 と頼んだ。これまでの逃亡者のほとんどは、駅までたどり着いても札幌方面へ逃げる。朴は逃亡先を隠すために、故意に逆方向の稚内までの切符を買ってもらった。

 老女はなんの疑いも持たず、稚内までの切符を一緒に買ってくれた。

 1番列車が白い蒸気を吐きながらホームに入って来た。脱走後最も緊張する瞬間であった。車内に追手が待ち構えていたら、万事休すである。だが、追っ手らしい気配はなく、朴は無事に乗り込んだ。

 客室内にいるのは危険なので、便所に隠れていた。早朝の車内は乗客はまばらで、追っ手が来れば一発で捕まってしまう。

 幸いになにごともなく、救援委員会の出先があるという近文駅に降りた。あさひ屋食堂は駅の近くの狭い路地にあった。早朝であったが、起きている気配であった。

 朴が表のガラス戸を叩くと、戸が開かれて、若い娘が顔を出した。

「あっ、あなたは」

「あのとき握り飯の新聞包みを落としてくれた」

 顔を見合わせた2人は、同時に声を発した。若い娘は作業現場で出会った女子奉仕隊員の1人であった。

 娘は朴を見て、直ちに事情を察したらしく、周囲に目を配ると、家の中に招き入れた。彼女の両親もすでに起きていて、飢えて冷えきっている朴のために、温かいうどんをつくってくれた。

 肉と野菜をたっぷり入れた熱いうどんを、朴はつづけて3杯おかわりした。朴は生まれてからこんなにうまい食物を食したことがなかった。細胞の1つ1つに沁み渡っていくような味であった。

「ゆっくり食べなさい。まだいくらでもあるよ」

 娘の父親が言った。

 ようやく人心地ついた朴に、娘の父親は、

「私はこの娘の母親と結婚して、日本人の名前を名乗っていますが、じつは徐東雲という朝鮮全羅

南道の出身者です。妻は清美、娘は朝子と申します」

 と徐東雲は自己紹介を兼ねて、妻と娘を朴に引き合わせた。

「申し遅れてすみません。私は朴命水と申します。両親と一緒に横浜に住んでいましたが、人買いに騙されて雨竜ダムの飯場に送り込まれました。飯場で仲間から密かに救援委員会のことを聞いて、逃げてまいりました。お嬢さんと飯場近くの路上で出会って、握り飯を何度かもらいました」

「ここへ来たからには、もう安心です。安全なところへ逃がしてあげますから、うちでゆっくりと疲れを癒やしていってください」

 と徐はいたわるように言った。

 地獄の飯場から決死の雪中脱走を試みて、ようやく救援委員会の徐の許にたどり着いた朴は、ほっとすると同時に緊張が解け、これまでの疲労がどっと発した。彼はそれから死んだように眠った。

ときどき朝子に起こされて食事を摂ったが、また昏々と眠り込んだ。

 2、3日眠ったかとおもわれたところで、朴は激しく揺り起こされた。

「朴さん、すぐ逃げてください。どうやらうちが目をつけられたらしいの。朴さんが捕まったら命はないわ。警察が来る前に、これを持って逃げて。ひとまず北竜の本島組の現場を頼って。本島組の親方は救援委員会の1人よ」

 と朝子は慌しく告げて、握り飯の包みといくばくかの金を渡した。

「金はあるよ。それより、朝子さんやお父さんはどうなるの」

「私たちのことは心配しないで。お金はいくらあっても邪鹿にならないわ。さあ、早く行って」

 そこへ徐東雲が来た。

「朴さん、すまないね。もう少しうちで休ませてあげたかったが、ここも安全ではなくなった。どうやら協和会に嗅ぎつけられたらしい。本島組を頼れば大丈夫だ」

 と徐東雲は言った。

 朴は事態の深刻なことを悟った。もし朴がこの家で捕まれば、徐東雲一家は言い逃れができなくなる。救援委員会は貴重な拠点を1つ失ってしまう。

「お世話になりました。このご恩は一生忘れません」

「礼などいいから、早く行きなさい。協和会にはくれぐれも気をつけなさい」

 協和会とは、朝群人でありながら同胞をタコ部屋に売っている人狩り屋である。

「元気でね」

 朝子が言った。

「また機会があれば、お会いしたいとおもいます」

「朴さん、絶対捕まらないでね」

 朝子がすがりつくように言った。

「捕まるもんか。またきっと会いに来るよ。この戦争は間もなく終わる。それまで皆さんも元気で」

「待ってるわ」

 朴は徐東雲一家3人に見送られて、あさひ屋食堂を去った。

 間一髪で協和会に先導された警官隊があさひ屋食堂に踏み込んで来た。

 そして50数年が経過した。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~mo0405/s/16.htm


野添憲治  地崎組東川事業場――北海道上川郡東川町・東旭川町・東神楽町
2007年10月27日

北海道の大雪山の麓には、入植者たちが労苦を重ねて開拓した広大な水田がひろがっている。だが、上川郡東川町・東旭川町・東神楽町の約八〇〇〇ヘクタールの水田は、灌漑の源流忠別川が北海道の屋根といわれる大雪山の雪溶け水や岩清水を集めて流れ下るので、「水流は火山帯・函廊下・峡谷を奔流する急流のため、温度の上昇する区間がなく、ほとんど地下水融雪水そのままの低温を持続して流下する(略)ため、水温上昇を阻止している有様であった。したがって冷害による深刻な凶作の経験をなめてきた」(『東川村史』)立地条件のところである。

こうした悪条件のなかへ、さらに忠別川の上流に江卸発電所の建設が決まり、水温の低下にいっそう拍車をかけることになった。しかも太平洋戦争のまっただなかで、農民たちは国から食糧増産を要請され、厳しい労働に明け暮れていた。

そこに発電所の建設問題が起きたため、コメがさらに減収になるのは目に見えていた。農民たちは驚き、関係官庁に陳情をはじめた。食糧不足が深刻になっていたので政府は、食糧増産のため発電所の下流に遊水池の建設を具体化し、一九四三年から地崎組東川出張所が工事を請負った。しかし、戦争で労力や資材が不足しており、新しく集めることが出来ない地崎組では、鴻ノ舞鉱山で強制労働をさせていた朝鮮人連行者を、東川・東神楽の両遊水池工事にまわした。それでも労力が大幅に不足し、翌年までに遊水池を完成させるメドがつかないため、中国人連行者を三〇〇人導入する契約をした。

第一次連行は一九四四年九月に二九七人が塘沽から乗船したが、船中で一六人が死亡、大阪に上陸して東川出張所に着くまでに一七人が死亡している。補充の第二次は一〇月に四一人が塘沽から乗船し、船中で一人が死亡し、四〇人が東川出張所に着いたのが二五日だった。三〇四人の中国人は、入所していた朝鮮人を移したあとの東川収容所に入所した。

「それまでは逃亡を防ぐためのへいもなかったが、高いへいが収容場所を囲い、さらにそのへいの上にはバラ線まで張りめぐらされ、窓という窓はすべてタルキをうち、監獄部屋と変わった」(『中国人強制連行事件』)。

内には鍵がかけられ、旭川警察署から来た四〜五人の特別駐在員が見張所に配置された。収容所の中の床板の上にはムシロを敷いてあるだけで、風の強い日はムシロが吹き上げられた。風の強い冬になるとムシロを通して、床板に雪が飛んでくることもしばしばだった。

中国人が東川事業場に到着した時は、北海道はもう秋であった。だが、中国人が着ているのは破れて体が見える、国防色の汚れた夏服一枚の人が多かった。栄養失調で体が浮腫になっていたり、目がへこんでいる人も相当いた。やせてふらふら歩く人もいた。大陸での収容所生活と長期の輸送の疲れが、体全体をおおっていた。

遊水池づくりの作業は、スコップ、ツルハシで平地を二メートル掘り下げた。土や石はモッコに入れ、二人でかつぎ上げた。土を掘るのも、モッコをかつぐのも重労働だった。疲れているうえにろくな食事もとっていないので、ちょっと休んだり、モッコをかついで転んだりすると、八番線ぐらいの太い針金で殴りつけた。

遊水池を掘る工事のほかに、池に水を出し入れする入水溝と排水溝をつくる仕事もあった。土が崩れないように斜面に蛇籠を並べたが、蛇籠につめる石は忠別川に入って集めた。すでに冬が訪れ積雪も深くなった季節に、ワラで編んだワラジで川に入り、素手で石を拾って川岸に運んだ。寒さで手がしびれ、石を落としたりした。中国人の五人がひと組になり、日本人指導員や警察の監視のもとで働いた。石をそりに積んで運び蛇籠につめたが、全身水びたしになって震えながら働いた。

冬は寒さが厳しいうえに重労働で、しかも食糧が少ないので、次々と死んでいった。少しでも生きのびようと、逃走する人が多くでた。六人が集団逃走した時は、地崎組の幹部や警察、村の警防団も駆り出されて翌日に捕らわれた。宿舎の庭に座らされ、「警官が彼らの首をしめて仮死させる。するとカツを入れて蘇生させるのだった。これが何回となく繰り返された。六人共青い鼻汁を出して死んだようになっていた」(佐藤幸子)と目撃した人は語っている。十代の時のことを思い出すと、いまも胸がつまって涙がこぼれるという。

二回にわたって塘沽から乗船した中国人連行者は、船中で一六人、上陸後に東川事業場に着くまでに一八人、事業場では中国へ送還されるまでに五四人の総計八八人が死亡した。事業場死亡者の大部分の死亡原因は「栄養不良兼胃腸カタル」で、事故死はいない。事業場での死亡者は火葬のうえ、法城寺に保管したことになっていた。ところがこの遺骨は一九五三年に慰霊祭

ののち、中国へ送還することになった。在道華僑連合会で遺骨の有無を確かめたところ、寺からは預ってないと回答があった。しかし、地崎組ではトラックで八八の遺骨を札幌駅に運び、そのまま列車と船に積まれて中国に渡った。ところが翌年に五体の遺骨と多数の残骨や遺品が工事現場の裏山で発掘され、前年に送還した遺骨はニセ物の疑いがでた。この問題を国会に持ち出す動きもあったが、円満裏に解決する方向に向かい、中国紅十字会に陳謝のうえ、発掘した遺骨は送還され、ニセ物問題は明らかにされなかった。

中国人・朝鮮人を酷使し、多くの生命を奪って造った遊水池の用水で、いま豊かな農業を営んでいる。だが、『東川村史』『東旭川町史』『東神楽村開基六〇年史』『上川開発史』などの関係史誌には、この事実が全く書かれていない。
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2843&syosekino=52




[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

14. 中川隆[-5806] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:21:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

朝鮮人戦時労働動員
著者:山田昭次、出版社:岩波書店

 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。

 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。

下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。
農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。

1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。

 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。

すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。

 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。
京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、
列車で500人ほどを連行してきたというのです。

三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、
なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。
亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。

ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。


昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。

「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。

 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。

つまり、日本の責任は重いということです。

 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。

 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。

 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、
家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。

その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。


貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。

そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。

 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。

朝鮮を日本の植民地としていた。

植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。
日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
http://www.fben.jp/bookcolumn/2007/02/post_1347.html




[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

15. 中川隆[-5805] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:23:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

朝鮮人が日本に移民してきた理由 1 _ 飢餓輸出させた


日本で米が足りなくなったのは日清戦争がきっかけでしたが、それが日露戦争のとき顕著になったと東京外語大の大月先生は語っていました。

   それ以降は米不足が慢性的になり、1918年にはそれが頂点に達し「米騒動」が起き政権が揺らぎました。

この時、政府は次の三つの対策案を練りました。

 1。タイなどから外地米を輸入する。
 2。国内産の米を増産する。
3。朝鮮や台湾など植民地で米を増産する。

第1案のタイ米はパサパサしてまずく評判がさんざんで話になりませんでした。

私も数年前にはタイ米をけっこう食べましたが、カレーやチャーハンにでもしないとなかなか箸が進みませんでした。

   第2案ですが、内地米の増産はその余地があまりなく効果は期待薄でした。

そこで結局、第3案の植民地での産米増殖計画が本格的に採用され、1920年から始まりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。

また米の品種も、早神力など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。(早神力を番組では「わせしんりき」と発音していました)


こうした努力の結果が、朝鮮の食生活を少しでも豊かにしたのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら忘暮楼さんの指摘通り、米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。

   その実状を、番組は具体的にある農家の回想をとりあげ紹介していました。

秋に農民が米を70俵収穫しても、水利税や肥料代などもろもろ差し引かれ手元には15俵くらいしか残らないそうでした。

   しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうでした。

   これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の中に埋めたり隠したりしたのですが、冷酷な借金取りもさるもの、針金で地面をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。

   このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本の農家をも苦しめました。

安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm007.html#No.61


当時の生活しやすさの基準として「米」の消費量を取り上げるのが最適と思われます。

米はいうまでもなく日本・朝鮮ともに主食で、当時は白米を食べることが「ごちそう」でした。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバロメータになるので、この統計をみることにします。

         朝鮮の米穀輸出・消費量

年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版


この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。

これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定されました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。

  日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。
それに加え、タイなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。

  こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億8500万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしんりき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さらに栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しました。

   こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、かの江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考えをある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。


こうした日本の収奪政策のもと、朝鮮農民は窮乏化していき、わずかばかりの土地を持っていた農家も次第にそれを手放さざるを得ませんでした。

その実体を表すのが次の表です。これは米どころの全羅北道において、土地所有が産米増殖計画による水利組合の設立の前後でどのように変化したかを示すものです。


          全羅北道、五水利組合の土地移動
                       (単位は町歩)
      日本人所有  朝鮮人所有   その他    合計
 1920年    3,674    4,181    2,694    10,549
 1931年    8,999    3,545    7,292    19,836
(東畑精一「朝鮮米穀経済論」)

  この表のなかで、その他としているのは東拓など日本人の土地会社などを含みます。東拓とは1910年代、「土地調査事業」で国有地とされた土地を総督府から安く払い下げてもらって成長した国策会社です。

  この表からすると、朝鮮人所有の土地は減っても、逆に日本人の土地は倍増以上の伸びを示しました。朝鮮全体でみても、1920年から1927年にかけて日本人の土地所有は25万町歩から40万町歩へと、1.6倍に増大しました。

  灌漑施設やインフラなど朝鮮の富は増えても、その恩恵に浴するのは支配者である日本人であり、それとは対照的に多くの朝鮮農民はやせ細っていったのが植民地の現実でした。
http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.187

要するに、日本人が酷使する農奴の数が増えただけ.

できた米はすべて日本に持って行かれる.

李朝時代は独立農だったのが食うや食わずになった.

感謝するバカは一人もいない.


_________


朝鮮人が反日になった理由 2 _ 農民の土地を奪った


1910年の併合強行後、日本は朝鮮の植民地化を進めるが、その第1歩は、
土地の所有権の確定を目的とした土地調査事業であった。

国内における地租改正がそうであったのと同じように、それは植民地財政の基盤を固める意図からでたものであったが、その過程で耕作関係があいまいな多くの土地が、総督府に奪われることになる。

国有地に編入された耕地面積は朝鮮域内の全耕地の20分の1に達し、その多くは日本人に安価に払い下げられ、大規模な日本人地主が誕生した。

土地を失った朝鮮の民衆は、小作農化するか、あるいは日本や中国大陸へと流失していく。

民族の自立を損なう弾圧的な植民地か政策の展開は、第一次大戦後になると、
激しい独立運動の展開による抵抗に遭遇することになった。

1919年3月1日に朝鮮では独立を宣言して蜂起した民衆運動によって、それまでの植民地支配の枠組みを見直さざるを得なくなる。

 歴史上、「文化統治」への転換と評される斉藤総督の統治政策は、一方で「同化政策」を柱とする「民族としての抹殺」を意図するものであると同時に、農業振興政策による民衆生活の改善によって、日本による支配への不満を融和させようとするものであった。


朝鮮からの人口流失    人  

  日本へ 中国へ

1914 4,179 10,631
1915 5,046 13,281
1916 7,225 13,501
1917 17,463 18,911
1918 27,640 36,627
1919 35,975 44,344
1920 40,759 22,210


産米増殖計画の推進には、日本市場に適した品種の米を生産するという、輸出志向型の農業への切り替えが必要であり、この品種転換の強制と輸出志向は、朝鮮域内での食糧供給の不足、つまり「飢餓輸出」に帰結する。

日本国内では、1920年代に入って、つまり産米増殖計画が軌道に乗って、日本向けの米の輸出(移出)が増加しはじめるころには、当初の思惑とは異なって米の価格は低迷していたからである。

こうした農業振興政策の展開は、植民地を日本経済の一環に組み込み、日本への食糧供給基地化するという役割を果たすものであった。

しかも、このような飢餓輸出を生むような食糧供給基地化は、代替的な食料としての粟や高梁などの供給を、満州に求めることによって、東アジアにおける独自の経済圏を形成させることになる。
http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~takeda/gyoseki/GAKU00-06.htm


1918年6月18日は、朝鮮総督府が植民統治の基盤を固めるために
1910年から8年間にわたり全国を対象に行った土地調査事業が終わった日だ。

同事業で大韓帝国の皇室と政府が所有する土地、村または門中の公有地、
そして荒蕪地はすべて総督府の所有になり、土地を奪われた農民ら数百万人は小作農に転落した。

大地主になった総督府は土地を東洋拓殖株式会社をはじめとする不二興業など土地会社と移住者に安価で譲った。

官吏の制帽と圓衫(韓国女性固有の礼服)で身を装った年老いた新郎・新婦(写真=独立記念館所蔵)は、当時朝鮮に渡って大地主になった日本人夫婦だ。

2人は伝統的な両班(ヤンバン 朝鮮時代の特権的な官僚階級)の地主とは異なる顔の「吸血鬼」だった。

当時の日本による帝国主義は領土を略奪したドラキュラだったというのが、韓国市民社会の普遍的な歴史の記憶だ。

ドラキュラに吸血されていなければ一世紀前の開化期にすでに自力で近代化を成し遂げたはずなのに、
日本の帝国主義のために実現できなかったということだ。
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116883&servcode=100§code=140


日本の土地調査事業であぶり出された農民たちが職を求めて日本へ渡った。
具体的にはこの政策で新しく地主になった日本人の所有する鉱山や工場の労働者としていったり、先に渡って生活基盤を作った親戚を頼って渡った。

世界史で習った土地の「囲い込み政策」を。あれとほぼ同じ現象だ。

日本に来るきっかけとなった「土地調査事業」は、明治43年に朝鮮を植民地にした日本が、その直後から朝鮮全土で実施した、地形、所有権、地価などについての調査である。それまで朝鮮には土地の登記制度が確立していなかった。そこに登記制度を導入し、税収入の増加を狙ったのである。

 朝鮮の村では、共同所有地など所有権がはっきりしない土地が多く、急に登記せよといわれても無理だった。

また、手続きは複雑で、農民が自分で申請することは難しかった。
登記をしなかった土地はすべて、朝鮮総督府のものとなった。


耕していた農民は、追い出されるか、高い小作料に泣かされることになった。
多くの農民が、貞鎬さんの父母のように生活に困り、日本へ出稼ぎに行くことになった。

総督府に取り上げられた土地の多くは、後で国策会社である東洋拓殖株式会
社に払い下げられた。

東洋拓殖はさらに、日本からの移住者に土地を売り、日本の農家の二男、三男らがこの土地を買って、農業を始めた。

朝鮮の村には日本人の地主が増え、土地を取られた朝鮮人が日本人を恨み、今も消えない根強い反日感情が残った。

 朝鮮では、明治43年の日韓併合から、昭和5年までの20年間に、人口
が約30%増えた。土地調査事業と人口の増加により、慶尚南道など南部の人
を中心に、日本に出稼ぎに行くようになった。その数は昭和五年までで40万
人近くにのぼる。

総督府に接収された土地は、山本有造『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会)によれば、約12万町歩に及ぶ。又定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないため接収された耕地が約2万7千町歩あり、接収された耕地は合計14万7千町歩である。当時の全耕地面積は 450万町歩であり、約3%である。

 これに正当な売買により取得した土地を加えた、1922年(大正11年)末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5千町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5千町歩で、全耕地面積の6%弱である(朝鮮総督府『調査資料2ー7朝鮮における内地人』)。


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

16. 中川隆[-5804] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:27:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

朝鮮人が日本に移民してきた理由 3 _ 朝鮮の財産をすべて奪った

1910年に朝鮮は完全に従属させられた。
公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。


_____


昔の日本はアメリカ並みのあくどさ:

1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


第二次世界大戦後、日本に進駐して来た米軍GHQには、冶金(やきん)課という部署が設けられた。金塊を生産する国ではない日本に、金塊、貴金属を扱う専門部署が設けられた事は、極めて奇妙であった。

 日本軍は第二次大戦中、中国大陸や朝鮮半島で中国、朝鮮の人々を多数殺害し、その財産を略奪し、また中国においてアヘンを密売し、その莫大な利益を蓄積していた。

 戦争終結間際、日本軍はその莫大な利益を金塊、プラチナ、ダイヤモンドに代えて飛行機で日本本国に持ち帰っていた。その莫大な貴金属は日本各地に隠され、また日銀の地下金庫に保管されていた。

 その隠された財産を摘発、没収するため、GHQには貴金属担当の専門部署が設けられていた。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49605569.html


遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。

植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html


日本が35年間にわたって行った朝鮮統治によって、本当に得をしたのは誰なのか?

“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る。

過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、皆さんはどのように答えるだろうか。

「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。


「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。

満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。


すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。


もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。

確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html

要するに、当時の日本の政治家もやはりアメリカの手先で、朝鮮統治政策はアメリカの指示通りだったのですね。


96:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/09(月) 17:01:24 ID:CJqAHY/N0

李氏朝鮮は1895年清国冊封体制から離脱により、迎恩門での土下座の礼拝は終焉した。

その後、列強各国は利権を求め李氏朝鮮に殺到した。


1900年頃の李氏朝鮮が奪われた利権


ロシア (金鉱採掘権、石炭採掘権、森林伐採件、海関管理権、捕鯨権)

アメリカ(ソウルー仁川鉄道施設権、金鉱採掘権、電車、電燈、水道経営権)

イギリス(海関管理権、金鉱採掘権)

ドイツ (金鉱採掘権)

日本  (ソウルー釜山鉄道施設権、金鉱採掘権、漁業権) 


当時独立は風前の灯火、史実は日本による併合(植民地ではない)

列強に対して独立を保つ事は現実不可能と思える状況なんだが

いったい李氏朝鮮はどこに支配されたかったんだ。
http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


李朝末期には森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に奪われてしまい, 財政が破綻し破産状態でした:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

________

日本人が絶対に歴史から消し去りたい真実 2


大野「現代の農業問題の原点は大正時代の米騒動にあると思っています。はじめてその頃、日本で食糧問題が出てきました。1918年の米価高騰は、凶作と買い占めが原因で、帝国内自給といって、朝鮮半島、満州、台湾でジャポニカ米を作って、本土に持ってきました」

大野「朝鮮の農民に対する“コメの強制連行”とも言われ、技術と品種を持っていき、韓国に農地試験場を作り、食料の本格的な国家統制が始まったのです。『稲もまた、大和民族なり』と言う言葉がありました。コメが植民地支配の尖兵だったと言えます」

大野「朝鮮の在来品種を作っていたら、引っこ抜かれ、日本が奨める品種の栽培を強制されたと言われています。満州事変のあと、満蒙開拓として、日本の失業者を大陸の農村に押し込んで、土地も強奪し、入植した、ということです」
http://sun.ap.teacup.com/souun/16641.html


朝鮮人が食っていけなくなったのは搾取だけが原因ではない _ 換金作物を作らせると餓死者が続出する


朝鮮で飢餓が起きるのは毎年決まった時期だったから、日本統治以前はみんなそれを計算に入れて生活していた:


朝鮮では三月から六月までは食糧が不足する春窮期である。

春窮期を迎えると、朝鮮人は朝鮮総人口の約六割が山野で草根樹皮を採集して
食べる習慣であった。
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


朝鮮には春窮という言葉があるようです。秋に収穫した米、トウモロコシ、芋などの食物を冬のうちに食べつくし、春になると餓死者が出るようです。中世の言葉と思いきや、北朝鮮では今でも現実のようです。

 どこの国でも収穫の季節はあるものです。逆にまったく収穫の期待できない土地なんて、人はほとんどすんでいません。収穫があるということは年中飢えているわけではなく、収穫があって数ヶ月は食料があり、それを食べつくしたころに飢餓が起きるのが通例ではないでしょうか?
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3998244.html


要するに、戦争や伝染病や特別な事態が起きない限りは春窮位はなんとか凌げるので、それ程は困らなかった。

それから、李朝末期は森林伐採権・関税徴収権・漁業権・鉱山採掘権・鉄道敷設権などあらゆる利権を欧米に押さえられたので、そういう特別な事態が起きていた時代でもあった:


1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権 豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権

1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権

1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権

1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権

1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権

1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:3EzcXDEIEAEJ:mobile2ch.net/news2/1114521477/%3Fguid%3DON+%E6%98%A5%E7%AA%AE&cd=27&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


しかし、それらの中でも特に困まった事態が日本の朝鮮統治だった訳で、それで朝鮮人は日本の統治時代には春窮を越せなくなった:


日本の施策によって農民が収奪された日本の朝鮮統治時代


当時の大半の農家は小作農です。

つまり販売する以前に小作料を取られます。

で、日本の統治時代の朝鮮では小作料で生産量の5割を取ることがまかり通っていたそうです。

そして手元の半分の米のうちいくらかを売り、それで来期の籾を買う。残った米ではとうてい生きていけないので、春窮となる、故郷を捨て流浪するという例がいくらでもあります。


朝鮮半島全体の春窮農家戸数については1930年、朝鮮総督府編「朝鮮の小作慣行」(1932)によると、

自作農   92(18.4)
自小作農 323(37.5)
小作農  838(68.1) 千戸(全体の割合)

で全体の48%以上が春窮だそうです。

日本の統治時代はまともな治世では無いですね。


次に、では小作農以外はどうだったかと言いますと、次の情報をご覧ください。

農民の戸数とその層の割合を示したものです。値は%です。

全体で100%にならないのは兼業農家がいたためです。

また、地主1は自分で小作を行わない地主、2は一部を自作する地主です。

自小作農は、自作と小作の兼業をしている農家です。


年  農家戸数 地主1 地主2 自作農 自小作 小作農 火田民
1918 2,652,484  0.6  2.5  19.7  39.4  37.8
1920 2,720,819  0.6  2.8  19.4  37.4  39.8
1922 2,712,465  0.6  3.1  19.7  35.8  40.8
1924 2,704,272  0.7  3.1  19.4  34.6  42.2
1926 2,753,497  0.8  3.1  19.1  32.4  43.3  1.3
1928 2,799,188  0.7  3.0  18.3  31.9  44.9  1.2
1930 2,869,957  0.7  2.9  17.6  31.0  46.5  1.3
1932 2,931,088  1.1  2.4  16.3  25.4  52.7  2.1


見てわかるとおり、自作、自小作が減り小作農が増加しています。

日本の統治時代の朝鮮では自分の土地を手放さざるを得ないほどの状況だったのがよくわかります。

さて、この人々は何が原因でそうなったのでしょうか? 

貴方が何度も示しているように米は十分に生産していたのですよね? 

なら豊かになるのではないでしょうか?


問題ない生産を行いながら貧しくなるとするなら、それは生産に対して正当な対価が支払われなかったことを意味します。当然ですね。


つまり

「当時の朝鮮の農家は日本の施策により米を収奪された」

というのを共通理解としてよろしいですね?


また、自小作農とありますが、終戦直後1945年の韓国のデータによると、

自小作農は716,000戸、そのうち耕地の50%以上を小作で行っている、

つまり実質的に小作に近い農家は378,000戸となっています。


完全自作農と自作の割合の方が多い自小作農は全体で3割程度。


当時の食料消費量の変遷について、単位は石(全体からの%)、

元データは朝鮮総督府農林局編「朝鮮米穀要覧」だそうです。


年平均  米      麦      粟     豆類    その他   合計
1915-18 0.70(35.6) 0.42(21.2) 0.28(14.4) 0.26(13.2) 0.31(15.7) 1.9766
1921-24 0.64(31.6) 0.42(20.6) 0.36(17.9) 0.26(12.9) 0.35(17.1) 2.0211
1926-29 0.51(28.1) 0.40(21.8) 0.37(20.2) 0.23(12.7) 0.31(17.2) 1.8163
1931-34 0.44(26.7) 0.42(25.2) 0.31(19.1) 0.21(12.5) 0.27(16.5) 1.6487


輸入していても消費量は見事に落ちていますね。

米の消費の割合が落ちている(それだけ貧しくなった)のも顕著です。


「日本の政策のもと、当時の朝鮮半島の農家は飢餓に苦しむほど困窮していた」で共通理解として良いですね?


参考資料:
朝鮮における産米増殖計画 河合和夫著
朝鮮食料品史 朴容九著


おまけ

穀物の輸入出

年,輸出(石),輸入(石),
1915-1919,3467857,387670,5年平均
1920-1924,5147524,1370072,5年平均
1925-1929,6284434,3649237,5年平均
1930-1936,11734219,2875314,7年平均
1937,8601017,2369537,
1938,12505611,1454957,
1939,8120099,2453789,
1940,1665637,3456780,
1941,4831000,1107000,
1942,7032000,786310,
1943,1576000,2048620,総督府資料に基づく
1944,4486000,1927166,朝鮮食料品史 朴容九著より

食品生産量
,米,麦,豆,小豆,粟,キビ
1919,12057,7270,3281,460,3816,538
1929,13702,7212,3990,810,5244,91
1939,14356,7570,2333,419,5029,89
1944,16052,7672,2696,605,3916,47


単位は千石 朝鮮食料品史 朴容九著より,,,,,,
http://www.han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=one;no=1586;id=


植民地下の朝鮮は8割以上を農民が占めていました。

日本の植民支配は軍と警察による力の統治でした。

日本人地主と朝鮮人地主の権力は日本より強固で多くの小作人を支配する農村の社会構造でした。

日本の支配下に年々自作農は少なくなり、小作農が増大しつづけたのが基調でした。

朝鮮農村社会は小作農が52%、これに火田民、農業労働者を入れると57%の人々が土地を全く持たない農民でした。

これに自小作農24%をプラスすると81%の人が小作をしたいたといいえます。

自作農は19%弱に過ぎませんでした。(1939年現在)

また、小作農といっても零細な農家が多かったのです。

朝鮮南部では人口が増加し零細農民が増加する要因になっていましたが、基本的には地主からの高小作料徴収などが農民を没落させていました。


総督府はこうした地主制を維持し、支配の基盤としていました。

農民の多くが食べることが出来ませんでした。

端境期には食べるものがなくなる人が多くなり、総督府はこれを「春窮民」といいました。

総督府は春窮が毎年の年中行事のようにあることを認めていました。

「草根木皮」を食べて暮らさなければならない農民が小作農の大半になっていました。

農民の多くは動物性のタンパク質は採ることが出来ずに、たまにミョルチ(日本のにぼし)を食べれれば良い方でした。

タンパク質はテンジャン(味噌)から得ていました。

こうした食の状況から起きた総督府支配下の朝鮮農村の社会現象を取り上げてみましょう。


その一つは子供の死亡率が著しく高くなっていたことです。                          

 高い乳幼児死亡率

 京城帝国大学医学部教授水島治夫の論文によれば朝鮮人の1歳から5歳までの死亡率は38%にも達していました。

日本人も低い方ではなく21%になっていますが朝鮮人は日本人の2倍弱になっています。

統計に出ない子供の死亡を含めて言えば40%の子供が生き残れなかったのです。

乳幼児の死亡率が高いために朝鮮人の平均寿命は37歳前後となっています。

日本人に較べると約10年の差があります。

栄養状態が悪く一番弱い子供達が多く死亡しました。

多くの死亡原因は食糧不足から来る栄養不良でした。

子供達だけでなく青年達の身長も年々低くなっていました。

特に下層農民の青年の体位の低下が大きかったのです。


子供の高い死亡率と青年たちの体位低下は総督府の政策下に起きていたことです。

窮迫する農家に救済政策がなかった、あるいは役立たなかったことを示しています。

典型的な事例を挙げておきましょう。


 朝鮮に於ける行路死亡人数

 行路死亡人は路傍、畑などで死亡し多人々をいいますが、ここで取り上げるのは

死亡した人たちの内、身元の分からなかった人を引き取り手を捜すために朝鮮総督府官報に掲載された場合に限って取り上げてみます。

官報に掲載された、公認された場合のみを取り上げていますから、実際に身元が分かり、あるいは引き取り手があった場合は官報に掲載されません。

したがって、実際の死亡者はもっと多かったと想定されます。

行路死亡人を取り上げるのは農村社会を象徴するような出来事だったからです。


 朝鮮農村では窮迫した小作農が小作地のみでは暮らしていけなくなり、他の小作地に追い出される人が多かったこと、自然災害などで小作地を失ったりしたこと、などの要因で土地を追われる人が多かったのです。

一部は満州に、一部は火田民として、あるいは都市の下層民として暮らすことになりましたが、落ち着くまでに食糧がなくなり、家族とも離れてしまうことも多かったのです。

農村から離村し、流浪することになります。

ついには路傍で死亡してしまう人も多かったのです。


行路死亡者数一覧  
       
年代 男 女 計 一日あたり死亡者数 行路病人死亡者数 計
1939 4039 669 4708 12.8 866 5574
1940 3863 662 4485 12.3 894 5379
1941 2708 514 3222 8.8 1913 5135
1942 5271 612 5883 16.1 680 6563

  15,881 2,417 18,298 12,5 4,353 22,651

※女性の数が少ない
         

 1939年は旱害があり、離村、流浪する農民が多く、死亡者も多くなっていますがこの4年間の合計で18,298人の人が死亡しています。

死因は餓死、栄養不良がもっとも多く凍死、病死と続きます。

1940年3月1日付けの朝鮮総督府官報には46人の死者が掲載されていますが24人が餓死と栄養不良、8人が凍死、6人が病死などと記録されています。

一日あたり20人以上が死亡している年もあります。

行路病人とは一応の救済施設があり収容されたが死亡した人を言いますが、これも行路死亡人として考えると実数は更に多く22,651人になります。

官報に搭載されていない人を含めれば更に多くなります。

家族が同行していて死亡した場合は官報には掲載されていませんから更に大きな犠牲者が存在したと考えられます。


日本人の行路死亡者数と比較すると官報掲載者のみでも朝鮮のそれは実に15倍(人口比)にもなるのです。

小作地を奪われたり、生活が出来なくなった農民たちは死を覚悟して流浪せざるを得なかったのです。

これが植民地統治の実体です。


 更に強制連行との関連で戦時下朝鮮農村の重要な問題を取り上げておきたいと思います。

朝鮮社会を深刻な状態に追い込んだ米の徹底的な供出政策です。


 農民から米を奪う

 日本と総督府は朝鮮の戦時体制下の要求として労働力と米の供出を求めていました。

戦時下の日本では米が主食でしたが特に軍の食糧は白米中心でした。

朝鮮では1939年に大旱害があり米の減産があり、40年は2100万石、41年は2400万石ほど収穫がありましたが、42年からは16百万石前後に落ち込んでしまいます。

42年から45年まで3年間は大凶作でした。

理由は天候も関係しましたが農村から男子労働力が動員されたこと、肥料不足等を揚げられますがなによりも米の供出が強化されたために起きたのです。


深刻な米不足のなかで1945年には200万石の日本への移出を実施しています。 

供出は愛国班(日本の隣組のような相互監視組織)に割り当てられ、愛国班長の家の庭で警官、面の職員、郡の督励員が立ち会って割当量を集めた。

これに従わない者は罰せられ、検挙されました。

割当量は多く、自家消費量を超えて供出しなければなりませんでした。

また、供出割当の定量に達しない者の家は家宅捜査が行われ、あらゆる所を検索し、発見すると容赦なく供出させた。

生産した物を消費できない農民が多くなりました。

たりない分は満州雑穀を配給しましたが大豆粕などで肥料用に農家に配給した物を代用したのです。


小作農民は農業をしても生産した作物を満足に食べられなくなったのです。

また、米の統制が厳しく自由に売買が出来ず、食糧不足を激しくしました。

米以外でも農民が自分で作った作物を消費できないような統制 が実施されたのです。

これに加えて供出米の代金から自動的に愛国貯金などが差し引かれ、物価は上昇し農民の困窮が一層進んだのです。

農民は農業で食えず、生産する気持ちも萎えてしまっていました。

農業より賃金を得る労働者になれば配給米を受け取れるので下層民ほど離農する人が増加しました。

農民が生産意欲をなくしたのが米の生産減少の最大の要因といえます。

そうした人を高賃金で家族に送金できると説明し、日本に大量に動員したのです。

日本への募集に応じたのはやむを得ないこうした理由が背景がありました。


 この他にも戦時下の朝鮮での暮らしはそれまでにはない困難な条件が多くありました。

例えば経済統制で綿花の作付け統制が実施され、全量供出となり、自家消費が出来なくなり高い衣料品を買わねばならず、白衣の実質的な禁止やもんぺの普及が進められました。

住宅不足も深刻になり暖房も「低温生活」が進められました。


 戦時下の朝鮮では基本産業の農業が疲弊し、統制が強められ暮らしが困難の度合いを深めていました。

 こうした朝鮮社会で賃金をくれて、食事も保障され、家にも送金できるなどというふれこみで募集が始まったのです。

朝鮮人にとって生死ををかけたような植民地支配が存在した中で募集に応じたのは自由意志と言うより、それ以外の道がない閉塞状況が朝鮮社会に存在したということです。

そのようにしたのは日本の植民地支配です。

そうした状況の中から労働者を連れて来るというのは「連行」そのものではないでしょうか。

「強制連行はなかった」論の虚構は植民地支配の悲惨ともいえる農民生活の実態を無視した議論です。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data2/data2-2.html


日本統治前の朝鮮人が毎日大食らいできた理由:


イザベラ L ハード「朝鮮紀行」 P203〜P204より

大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。

ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもっぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。

裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。

わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンドはゆうにある肉を食べるのを見たことがある。

「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。

一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。

赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのはまちがいない。

朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。
http://kukkuri.blog58.fc2.com/blog-entry-573.html


要するに日本人はアホだから歴史に学べないだけ:


仙台藩の主な産物は米である。

江戸時代には、北上川流域の湿地帯の開拓などの新田開発によって実高100万石とも言われるほどに多くの米を収穫できるようになった。

また、買米制と呼ばれる事実上の専売制度が導入されていた。

その米を東回り航路で江戸に運んで大きな利益を得た。

一時期、江戸に流通する米の半数は仙台米と言われた時期もあった。

そのため、石巻はこの航路の拠点として大いに発展した。

また、一部の米は海産物とともに大坂にも運ばれ、上方との交流も盛んであった。

これによって藩財政・農民の暮らし共に潤った時期もあった。


ただし買米制にも凶作に弱いなどの弱点があった。


ひとたび、凶作が起きると領内は大変な食料不足に見舞われ、農民だけではなく武士階級の者までがバダハタと餓死した。

これは他の藩には全く見られない現象であった。


現米収入のみに限定しても楽に100万石を超え、表高で上回り幕府に融資を行うほどであった加賀藩・寛永の大飢饉などにより江戸時代初期から貧乏で幕末に殖産興業に成功してようやく好転した薩摩藩よりも当初から財政的に豊かであり、政宗の時代にはローマへ単独の藩で使節を送るほどの力を有していた。

江戸時代末期の九州人の安井息軒の読書余滴に「二百万石余」、同じく江戸時代末期の九州人の帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。

ただし、東潜夫論は、佐渡12万石(1万7,000石)、隠岐6万石(5,000石)と、太閤検地の10倍表示されており、注意を要する。

佐渡国の佐渡金山についても触れており、米の生産量以外の豊かさも含んだ指標として石高が使用されている。


だが、米に頼りすぎた経済は藩に他の産品の開発の動機を失わせ、藩財政は米の出来・不出来及び米相場の状況によって翻弄され、不安定であった。


凶作が起きれば藩は大借金を抱え、豊作でかつ米相場が高値推移の年には積年の借金が一気に返済できてしまうといった具合である。


まさに「農業は博打である」という格言を地で行く藩経営であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9


小規模自作農で飢饉に強いのは、日本じゃ、アホみたいに、戦前まで米以外に粟や稗を作付け、農作物を多様化している農家だった。


ただ、これをやると農家は基本、貧乏だ。

換金作物を作らず、そのスペースで粟とか稗とか作り、穀物の来年の収穫の見通しがつくまでは新米には絶対に手をつけない用心深い農家だった。

もうけは出ないが、生産量が安定するから飢饉にも強い。

農業経済では、農民が貧困だが安定的な状態ってのが存在していて、うちのご先祖の相模農民なんかは、典型的な貧乏だけど飢饉には強い農民だった。

二宮尊徳のエピソードで、ナスを食べたところ、夏前なのに秋茄子の味がしたことから冷夏となることを予測。

村人に冷害に強いヒエを植えさせた。

二宮の予言どおり冷夏で凶作(天保の大飢饉)となったが、桜町では餓死者が出なかった(実際には、数年前からヒエを準備させていたことが分かっている)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3


用心深い農民ってのは、別に二宮に言われずとも、昔っから、保険として粟とか稗を作付けするもんだったの。


ただ、仙台藩のように、換金作物である米をひたすら推進し、他の産品の開発動機を失わせる農業経営をやっちゃうと、儲かる時は凄く儲かるけど、飢饉になると破滅的な影響がでてしまう。

典型的なギャンブル農業でね。

仙台藩は天候に左右されやすい米みたいな作物を冷害が多発する地方で主要作物にして代替的に推進したせいで、飢饉になると破滅的な影響をうけてしまった。


人口増(子供への医療品の配布)と換金作物推進(農業生産性と収益性の増加)っていうのは、日本の仙台藩の経営と同じだから、素人にはお勧めできない。

というか、仙台藩ならまだいいけど、日本でもっとも一揆が多発した飢饉超発生地帯、盛岡藩になったら悲惨すぐる。
http://d.hatena.ne.jp/pal-9999/20091101/p1


これが飢餓輸出の実態:


天明大飢饉は人災だった
 

 日本の【飢餓】を心配される方が多い原因に、江戸時代の飢饉が誤って伝えられていたこともあるかと、最も酷かったとされる【天明の飢饉】について書かせていただきます。

 結論を先にいっておきますと、これらの飢饉は【人災】でした。

日本中で何百万人も犠牲になったなどということはありません。

江戸では風のたよりに知る程度でした。

もちろん食料は例年と比べかなり不足しましたが、全体としては、それほどのことはありませんでした。

もちろん総論の結論です。

 

 天明に入ると、農作物の収穫が減少しましたが、特に【天明三年】は異変の年で(1783)浅間山が大噴火を起こし、この火山灰による大洪水や山崩れなど大規模な自然災害が発生します。 

 また異常気象が目立ち、海外ではアイスランドのラカギガルム火山が大爆発、また同地のグリームスヴォント火山も大爆発、テムズ川もセーヌ川も凍りついたと伝わります。

 ヨーロッパは冷害となり、このときの飢饉が【フランス革命】のきっかけとなります。地球全体が火山灰の微小粒子に覆われた結果とされています。


 国内の気象は、浅間山爆発の天明三年の冬は異常な暖かさ、年が明けても変わりません。雨はほとんど降らず、その後、雨が少し降ったので五月に田植えが始まりましたが、逆に冷気がつづき、夏になっても綿入れを着るほどの低温だったといいます。このため稲は青立ち(穂が出ないこと)となり、他の作物もほとんど結実せず、大凶作となり関東から東北地方にかけて被害を受け、北に行くほど酷いものでした。

 三月、四月になると冷雨が続き、雨の降らぬ日は七日だけ、それもうす曇で晴天の日は一日もありません。五月六月も同じで、雨の降らぬ日はそれぞれ四日、六日という有様だったといいます。


 「春頃には麦の作柄が例年になく良いと予想され、農民たちは喜んでいたが、雨続きのため麦の刈り取り期にはまったく結実がなかった」といいます。

「稲、大豆、ヒエなどは作柄が良いと見込まれ、経験豊かな老農たちも秋の豊作は間違いないと予測した。しかし異常な天候不順で、七月下旬になっても穂は出ず、わずかに出た穂には実が入っていなかった」とあります。

「八月十三日夜の厳しい寒気で霜が降り、大豆、粟、ヒエ、そば等は全て【穂なし】となり、前例のない大凶作となった」と続きます。

 
 飢饉が予測された津軽藩では、藩主・津軽信寧(のぶやす)は参勤交代で江戸にあり、側用人の大谷津七郎が、藩政を掌握、さまざまな飢饉対策を行っていましたが、

藩は長いこと藩財政が苦しく、大阪商人に借りた借入金が返せず、京坂の商人に代理返済して貰っており、この年にはどうしてもコメを京・大阪へ送らねばならない事情がありました。


【お救(たす)け小屋】の準備をしながら、前年農民から藩に上納されたコメ、「四拾万俵」をすべて大阪と江戸に送り換金しました。


飢えの恐怖におののいている領民の見守るなか、四十万俵のコメを積んだ船が通り過ぎていったと伝わります。

このため領内のコメは尽き、よって農民たちは、飢えの恐怖が現実になり衝撃を覚えます。

 
 「穀物の価格は高騰し、さらに金を出しても買えなくなり、飢えにさらされた領民たちは山菜の根をあさり、そば、大豆の【殻:カラ】までも口にした。

飼料が尽きたので牛や馬を飼うこともできず、すべて捨てて、牛馬が原野を歩きまわった」との記録があり「牛馬を食料にすることは食習慣になかったが、これらを殺して食うものが増した。

また口べらしのため子供を川に流すものが数知れず、大百姓をふくめて多数の農民が田畑、家を捨て、家族とともに【伊勢参り】をよそおって、碇ケ関から秋田藩領へのがれた。世をはかなんで深い森に入り首をくくったり、石を抱いて川に身を沈めたりする者もいた」とつづき


 「このような中で強盗、追剥(おいはぎ)が横行し、盗みに入った者が家に火をつける例も多く、火災が頻発した。天明三年九月から翌年六月まで、津軽藩領では男女八万千七百二人が餓死した」

との記述が残っています。また人間だけでなく「馬一万七千二百十壱頭」と記録にあったといいます。

 

 南部藩(八戸藩・七戸藩)でも被害は甚大でした。

【久慈街道】という八戸市と久慈市を結ぶ街道があり、途中にウミネコの繁殖する島、蕪島(かぶしま)があるというところから、たぶん海沿いの国道45号線のことかと思いますが、十里ほどの道程で途中に新井田村があり、ここの【対泉寺】には天明飢饉を悼む石碑があり、このうちの四文字が素人と思われる手で削られているとか。

そこには【人を食った記述】があったと郷土史家の【中里さん】が語った」と、東北文庫の【久慈街道】に小説家の故井伏鱒二氏が書いています。

 

 人肉の話は事実だったようで、『街道をゆく』の司馬遼太郎氏は確か『久慈街道』で、「これ以上の惨状を書くのは忍びがたい」としていますが、吉村昭氏はそのまま記しています。

両者とも【高山彦九郎】の詳細な日記を引用しています。現在は山門脇に【餓死供養塔】があり、詳細も記されているとか。筆者は中間というか、皆様があまり不快になりそうな表現は避けています。

 

 「野草の類も食いつくすと、人々はイノシシ、シカ、イヌ、ネコ、ウシ、ウマも食いあさり、それらも絶えて人の肉を食うようになった。

親が死ぬと子はそれを食い、子が死ねば親が食う。さらに山中や野外に捨てられた人の死骸も、彼らの食欲の対象になった。

その頃、人の肉を食った村人に聞くと、馬の肉の味はサルやシカのそれよりまさり、さらに人肉のそれは、ウマの肉より優れている、と語ったという」


とあり「村内で人肉を食ったものは、それがたたったらしく十人中七人は死んだ」と記されています。

 

 このような残虐な例は今まで読んだ限りでは、津軽・南部藩(八戸藩・七戸藩)に限られるようです。


津軽は【財政破綻に瀕した好例】であり南部藩は【行政の大失敗】があるようです。


原因のひとつに、この藩には資本主義が日本で最後に入った場所、人々は馴れていないため、商人貸し付けの金銭返済ができず、田畑や家屋などが質流れし、ほとんどの百姓が商人の奴隷となり、百姓から年貢が取れない藩は、百姓の富を奪っていた商人から、無理矢理に金銭を取り立てました。


(たしか戦後、当時の学者で、安藤昌益という今でいう共産主義者が発見されもてはやされましたが、それなりの風土がありました。)
 
 天明三年の大飢饉の際にも、他藩のほとんどは、まさかに備えて十分な準備をしており、特に有名なのが米沢藩、白河藩でした。

このとき、ただ一人の餓死者も出さなかったと伝わります。
 
http://hoihoihoi.iza.ne.jp/blog/entry/1654370/


要するに、東北でやっていたのと同じ悪事を朝鮮でも繰り返した訳ですね。  



[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

17. 中川隆[-5803] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:28:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

李氏朝鮮はそんなにひどい国家だったのか?


嫌韓バカや歴史捏造ウヨクが、よく使うロジックとして「李氏朝鮮の暴虐と悪政」というのがあります。

この「李氏朝鮮の暴虐と悪政」というマジックワードは、様々な自慰史観を正当化するのに利用されてます。

例1)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「韓国併合した日本は朝鮮人を助けてやったのだ!」

例2)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「朝鮮人が駄目な証拠、差別されて当たり前!」

例3)「李氏朝鮮の暴虐と悪政」→「朝鮮人が残虐な証拠、南京虐殺も朝鮮人がやった!」*1

こんな感じです。


実際には、江戸時代日本と大差ないんですけどね。

嫌韓バカが強調する李氏朝鮮の暴虐の事例など、ほとんどは江戸時代日本で同様の事例を見出すことが出来ますし。


では、その事例を見て行きましょう。


人口問題

韓国の歴史歪曲検証:人口増加ベースに見る日帝の暴虐と搾取の虚構性

(間違った論証の例)


日本が直接的に朝鮮を収める1905年までの朝鮮の人口増加ベースは、上記からも分かるとおり1850年の李朝末期を基準にとると1906年の日本の保護国なった翌年までの56年間に30%程度の増加ベースでしかない事が分かる。

そして1906年より日本の敗戦の前年1944年までの38年間の人口増加ベースは、156%という驚異的な増加ベースを辿っている。

さらに上記で注目されるべきは、1753年の朝鮮半島内の人口730万人が約100年後の1850年の時点でも750万人にしか増えていない点である。

これは李朝時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを李朝政府が行ってこなかったことの動かぬ証拠である。

データを見るにおいて、日本が朝鮮半島に直接関与し始めた1905年以降とそれ以前の人口増加ベースを比べれば、朝鮮で日本が「史上最悪の暴虐と搾取」を行っていないことが確信できるのではないだろうか?
http://konrot.at.infoseek.co.jp/rekisi02.htm


こちらは人口の推移をもって、李氏朝鮮の悪政を糾弾しているわけですが・・・

ここで挙げている1753年から1850年の人口推移を日朝で比較してみると・・・


時期 年 日本の人口*2 増加率 朝鮮の人口(推計) 増加率 朝鮮の人口(嫌韓提示ママ) 増加率
I 1600年(日本)・1592年(朝鮮) 1227万人 39.2% 1192万人*3 74.5% - -
II 1756年(日本)・1753年(朝鮮) 3128万人 - 1600万人 - 730万人 -
III 1841年(日本)・1850年(朝鮮) 3230万人 103.3% 1650万人 103.1% 750万人 102.7%

なお、増加率は「1756年(日本)・1753年(朝鮮)」を基準として計算した。

参考として1600年頃の人口も付加しましたが、これについては後で考察。


さて、1750年頃から1850年頃までの100年間の人口推移を日本と朝鮮で比べてみると、ほとんど変わりないことがわかりますね。

何の事はない。この時期はこういう時代だった、というのが適切な評価でしょう。

まさか100年間でわずか0.2%に過ぎない差を誇ったりするほど厚顔無恥な人はいないと思いますが。


で、

李朝時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを李朝政府が行ってこなかったことの動かぬ証拠

とか言うのなら、

「江戸時代の悪政と貧困そして飢餓対策・医療体制の確立などを江戸幕府が行ってこなかったことの動かぬ証拠」

ということになりますね。嫌韓バカはこれに同意せざるを得ないわけですが・・・


ま、とにかく、人口が大して増加しなかったからといって、取り立てて酷い政治が行われていたとは言えないというのは確かでしょう。


ちなみに日本でこの時期、人口が停滞した直接的な理由として、少子化・晩婚化の傾向があったことが知られています*4。

若者の都市への出稼ぎが晩婚化をもたらした他、意図的な人口抑制として、陰惨な方法としては間引や堕胎、それ以外に禁欲や授乳期間を長く取ることによる次の子の妊娠を遅らせるなどの方法がとられていたそうです。


また、そもそも14世紀末から19世紀半ばまでは「小氷期」という地球規模で冷え込んだ時期なのは良く知られています。

このため、日本でも度々飢饉がおきているわけです。

日本よりも高緯度にある朝鮮も当然その影響を受け飢饉が頻発しています。

1850年ごろまで人口が停滞したのが、別に政治のせいとばかりは言えないわけです*5。


1600年の人口も含めた仮説


では、1600年頃の人口を含めた考察をしてみましょう。

1600年頃の人口は、日本も朝鮮もほぼ同じくらいでした*6。

これが150年後には大きく差が開きます。

人口が急激に増加する要因としては、それまで戦乱が続いたことによる人口抑制と、戦乱期に蓄積された人口増加の潜在力が、戦乱の終結に伴い枷が外され、人口爆発になるというモデルが考えられます。

現在の人口を見ても、もともと日本の国土が養える人口は、朝鮮の国土が養える人口より多いのではないかと思いますが、1600年時点で日本と朝鮮の人口がほぼ拮抗していたのは、日本が1467年*7以降ほぼ150年にわたった戦国時代を経験していたのに対し、朝鮮は1392年の李朝建国以降おおむね平和が続いた点にあるといえるでしょう。

朝鮮は、15世紀前半の世宗の時代に国力が最も充実し、同時期に戦国時代に突入した日本と違い、人口を抑制させるような社会要因は少なかったと言えます。

このため、朝鮮の人口は15世紀前半から16世紀後半まで安定的に増加したと考えられます。


実際、15世紀前半については、耕地面積や戸数が増加したといいます*8。

もちろん、権力闘争はありましたし、倭寇の襲来や倭寇討伐、対馬侵攻などもありましたけど、日本の戦国時代や後の秀吉の朝鮮出兵や清の朝鮮侵攻に比べるべくもありません。


したがって、15世紀から18世紀にかけて朝鮮の人口が抑制させられる要因となったのは、秀吉の朝鮮出兵と清の朝鮮侵攻であってこの影響を受けていた時期の人口が約1000万人であったということになります。

朝鮮の戦乱がひと段落した17世紀後半から人口が再度増加を始め、18世紀半ばには1600万人にまでなったというところでしょうか。

しかし、朝鮮の戦乱より遥かに長い期間、人口抑制の要因となる戦乱が続いていた日本の場合は、戦乱終結後の人口爆発は朝鮮よりも激しく、16世紀末から17世紀半ばまでに人口は1200万人から3000万人にまで倍増したのでしょう*9。


___________


*1:南京虐殺も朝鮮人がやった!」*

ここまでの馬鹿はそうはいないと思うが、いることはいるんだよね。

ちなみに南京事件のあった当時、朝鮮人は徴兵もされてないし、志願兵も募集されていない。

旧大韓帝国軍からの継続として極一部の朝鮮人将校がいたに過ぎず、兵士としては日本人と結婚・養子縁組などして日本人戸籍に入った朝鮮系日本人がいたくらいだろう。

いずれにしても日本軍全体から見て例外的な事例に過ぎない。


_________

*2:「人口で見る日本史」より

*3:「朝鮮の役」参謀本部より、日本が予測した朝鮮の石高より推定

*4:「人口で見る日本史」P88-103

*5:むろん、飢饉対策などは政治の責任だが


*6:ただし、朝鮮人口は日本による朝鮮の予測石高に基いた推定。

予測精度の問題の他、石高計算は純粋な食糧生産以外も含む場合もあり、実際の人口はこれより少なかった可能性は高い。

丙子胡乱で虜囚となった朝鮮人60万人の苦難 | Chosun Online | 朝鮮日報によると、1630年ころの朝鮮の人口は1000万人程度という。


*7:応仁の乱の勃発年。ただし関東などではそれよりも早くから戦乱が勃発している。


*8:「朝鮮」金達寿、岩波新書、P83 や、「入門韓国の歴史 国定韓国中学校国史教科書」石渡延男監訳、三橋広夫共訳、明石書店P167


*9:ただし、1600年の日本の人口については、1500万人という説もある。また、この頃実施された検地による石高は1800万石で、これには畑や屋敷地などが含まれている
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20081102/1225647411



[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

18. 中川隆[-5802] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:29:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

悲惨な朝鮮農民の生活 投稿者:まっぺん 投稿日:2010年 7月29日(木)10時53分19秒  

あ呆は「人口増加」を朝鮮人の米消費減少の「原因」とする。
では実際に統計数字を比べてみよう。

以下は朝鮮総督府の調査結果を基にした資料だが、次のようになっている。


年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版

次に当時の朝鮮人の人口増加についての調査資料だ。

1717年 1500万人(朝鮮政府統計683万口からの推計)
1753年 1600万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)730万人からの推計)
1777年 1804万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1850年 1650万人(嫌韓提示資料(朝鮮政府統計?)750万人からの推計)
1877年 1689万人(崔基鎬による韓国教科書からの引用)
1906年  980万人(警察調査まま)
1910年 1631万人(警察調査1313万人からの推計)
1915年 1703万人(警察調査1596万人からの推計)
1920年 1763万人(警察調査1692万人からの推計)
1925年 1902万人(警察調査1854万人からの推計)
1930年 2044万人(警察調査1969万人からの推計)
1935年 2221万人(警察調査2125万人からの推計)

1877年までの調査はすでに説明したように人口戸主の数であり女・子どもの数は含まれていないので、そこから推計している。

その中で明らかに1906年のデータはおかしい。これは当時、朝鮮全土で義兵がおこり、抵抗闘争の中での調査であったため、まともな調査ができなかったと考えるのが妥当だ。

なお、「1石」とはひとりの人間が1年間に食べる米の量とされているから、
日本へ輸出した米の量を「人間の数」に置き換えることができる。
人口増加率と比較すると次のとおりになる。


年次 日本に輸出した米の量  前回と比較した増加量      人口の増加

1912 │ 291万人分
1915 │                           5年で 72万人
1917 │ 129万6千人分  5年で-161万4千人分
1920 │ 175万人分    3年で+ 45万4千人分    5年で 60万人
1922 │ 331万6千人分  2年で+156万6千人分
1924 │ 472万2千人分  2年で+140万6千人分
1925 │                           5年で139万人
1926 │ 542万9千人分  2年で+ 70万7千人分
1928 | 740万5千人分  2年で+197万6千人分
1930 │                           5年で142万人
'31-34 │ 845万6千人分  1〜4年で+105万1千人分


以上は「米の増加量と人口の増加量を比較したものだ。

ふたつの資料の統計年がちがうので完全に同じ比較はできない。

また1912年には大量に輸出しているので5年後の輸出量は減少となっていることは考慮しなければならない。

緊急対策として大量に送ったのだろう。

また、この米輸出の統計資料が、毎年輸出されている中から一部を抽出した数字なのか、それとも2〜3年毎にしか輸出されなかったのか不明だが、もし2〜3年毎なら1912年から34年まで(31年から34年は毎年輸出され、その平均値)を合計すると6065万2千人分の米が日本に輸出された事になる。

これは25年間で約500万人増えた人口と比較すれば、ほぼ同等の数字となる。

またその間に増産運動が行われ収穫量が約2倍となったと記録されていることからも相当の増産となったことが窺われる。

しかしそれでは朝鮮人の米の摂取量の減少を説明できない。

したがってこの数字は毎年の輸出の中からの抽出と考えるのが妥当。

そこで輸出量の伸びを見れば、人口の伸びは5年ごとに60万〜142万人であるのに対して米の輸出量の伸びは2年〜3年毎に45万〜197万人分。5年毎で比較するなら200万〜300万人分も輸出量が増え続けている。

もしも米の増産がそれを上回っているのなら、朝鮮人の米消費量が減少するのはつじつまが合わない。

したがって、朝鮮人の米の消費が減ったのは「人口増加が原因」とする「あ呆説」はデマ。

飢餓輸出が原因という事になる。

なお、朝鮮農民の当時の生活についてNHKの番組を見た半月城さんが以下のように解説している。

これをみても、「農民が自主的に換金用に食べる分以上の米を売った」などというあ呆の妄想には根拠がなく、むしろむしり取られていった朝鮮農民の姿が浮かび上がる。


   そうした歴史を、数年前の米騒動の時、NHKがTV番組「米に揺れた
日韓近代史」と題して放映していました。

番組では産米増殖計画の歴史的背景
や実施状況などをつぶさに検討し、あわせてこの政策を直接体験した農家の窮
状を具体的に紹介していました。

  それによると、農民が秋に米を70俵収穫しても、水利税や肥料代なども
ろもろ差し引かれ手元には2割の15俵くらいしか残らないそうでした。

   しかも、これはかなりましな方で日本人の金融組合などに借金のある人
は高利のかたにお米をとられ、手元にはせいぜい2、3俵しか残らないそうで
した

   これではとうてい食べていかれないので、農民は知恵を絞って米を土の
中に埋めたり隠したりするのですが、冷酷な借金取りもさるもの、鉄棒で地面
をつついてまでそれを見つけだし有無を言わせず持ち去ったとのことでした。

   このように、朝鮮の農民を苦しめた「産米増殖計画」は勢い余って日本
の農家をも苦しめました。

安くてしかも品質の向上した朝鮮米の大量導入は内地米の暴落を引き起こし、これに世界的な恐慌が重なり農村では深刻な「娘の身売り」や、はては新たな植民政策「満蒙開拓団」を生み出しました。
http://8816.teacup.com/mappen/bbs/20127



[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

19. 中川隆[-5801] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:31:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

1. これが右翼の朝鮮支配正当化の論理


朝鮮半島のほうが日本より平地割合が低いらしい。
朝鮮半島では日帝支配以前の主食は米飯ではない。
さらに、1人当たりの米消費量は、おそらく単純に収穫量/人口を出したものなのでは?

これを、朝鮮人の口に入った米の量で考え直すと、こうなる。

年次|人口|朝鮮人一人当たり|朝鮮での
  |  |米消費量(仮)石|米消費量
1906| 980|        |
1910|1312|        |
1912|1318|0.7724     |1071.937
1917|1577|0.7200     |1135.656
1920|1691|0.6301     |1065.499
1922|1746|0.634      |1107.2148
1924|1802|0.6032     |1086.846
1926|1857|0.5325     | 988.959
1928|1913|0.5402     |1033.187
1930|1968|        |

04の数字だけで「飢餓輸出が原因という事になる。」というのは阿呆の戯言である。
そもそも、米消費量が少ないだけで飢餓輸出であるならば、現代日本は米消費量0.4石で日帝時代の朝鮮より飢餓状態なんだが。

朝鮮には主食として高黍換金作物として有利であるから、米が輸出されただけと考えるのが妥当であり飢餓状態であったというのは悪質な嘘。


_________
_________


2.こっちが真理


朝鮮半島南部では古来より、米が食べられています。豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、当時の日本式の栽培方法が伝わったという記録もあります

朝鮮半島にも古代に中国から日本を経由して、稲作は伝わり継続されています。日本の水田跡の遺跡は最古のもので3,800年ほど前、韓国では2,000年ほど前です。

朝鮮半島北部の主食は日韓併合以前は高黍(別名モロコシ)でしたが、併合後は稲栽培を伝授されて、米に変化しました。

要するに、それまで常食にしていた高黍に代えて日本人の食べる米を強制的に栽培させられて日本にすべて輸出させられたから朝鮮人には食べるものがなくなったのです.

これが飢餓輸出の意味なのです:


朝鮮半島北部は気温が低いため、米は栽培されていませんでした。
高黍(タカキビ)・粟などの雑穀が主食でした。

朝鮮半島南部では古来より、米が食べられています。
豊臣秀吉の朝鮮出兵のときに、当時の日本式の栽培方法が伝わったという記録もあります。
朝鮮半島ではその後日韓併合まで、品種改良や栽培方法の変化はなかったと思います。
日本に併合され、日本式の栽培方法や日本の品種が伝わり、現在も食べられていると思います。

日本の指導により単位あたりの収穫量は大きく伸びました。
また現在では日本で戦後開発された品種が、食されているかもしれません。

朝鮮半島にも古代に中国から日本を経由して、稲作は伝わり継続されています。
日本の水田跡の遺跡は最古のもので3,800年ほど前、韓国では2,000年ほど前です。

元来朝鮮半島の農民の主食は雑穀かもしれません。
併合中も米を日本に出荷し、その金で生活用品を整え、自分たちは雑穀を食べていたとの記録もあります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1135908896


現在の朝鮮半島の主食は米である。

しかし、本来の朝鮮の主食は高黍(別名モロコシ)という雑穀で、粥にして食べていた。

稲栽培における、灌漑技術、肥料、耕作方法などは日本の統治時代に日本から伝えられたもので、当時植えられた稲はコシヒカリの先祖にあたる「亀の尾」という品種であった。

元々は雑穀を食べていたが、日本の統治下で米食に移行、伝統食文化は失われた。
http://www.wdic.org/w/CUL/%E4%B8%BB%E9%A3%9F


今の韓国・北朝鮮では主食は日本と同様、米(ジャポニカ米)である。

現在は白米だけの炊飯で食されるが、日本と同様に、玄米の状態の炊飯や雑穀の入った炊き込みご飯を食べていた時期もあった。

韓国の料理にはビビンパやクッパなど米を他の食材と混ぜ食べるものも多く、かかせないものである。

一方北朝鮮は、現在の食糧難から米が十分に食べられず、トウモロコシやジャガイモを主食にしている国民が多いものと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E9%A3%9F


170:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/18(月) 23:53:15 ID:yf2dtPr70

イザベラ L ハード「朝鮮紀行」 P203〜P204より

大食ということに関しては、どの階級も似たり寄ったりである。食事のよさは質より量で決められ、一日四ポンドのごはんを食べても困らないよう、胃にできるかぎりの容量と伸縮性を持たせるのが幼いころからの人生目標のひとつなのである。

ゆとりのある身分の人々は酒を飲み、大量のくだもの、木の実、糖菓を食間にとるが、それでもっぎの食事には一週間もひもじい思いをしていたかのような態度でのぞむ。

裕福な家では牛肉と犬の肉は大皿に盛る。また客のごちそうは銘々膳で供されるので、もてなす側は特別大事な客にはふんだんにふるまい、ほかの客には最小限度に抑えておくことができる。

わたしは朝鮮人が一度の食事で三ポンドはゆうにある肉を食べるのを見たことがある。

「一食分」が大量なのに、一日に三食か四食とる朝鮮人はめずらしくなく、一般にそれを慎む人々は好きなように食事もできないほど貧しい人と見なされかねない。

一度の食事で二〇個から二五個のモモや小ぶりのウリが皮もむかれずになくなってしまうのはざらである。

赤ん坊にまで食べさせる莫大な消費量の赤トウガラシがこの大食ぶりを助けているのはまちがいない。

朝鮮人には消化不良のたぐいの疾患が多いというのもうなずける。
______


181:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/19(火) 21:40:24 ID:cYc2nMmu0

人口増加ってのがあるけど、あれは豊かになったから人口が増加するのではなく、
貧しいからこそ人口が増加するんだよな。

 人口爆発を起こしている国々をみてみると、かつて先進国の植民地となり、なかば強制的に換金作物(お金に換えるための作物。例えばコーヒー、紅茶、ゴムなど)を栽培させられた経験のある国々だということがわかります。

この換金作物こそが人口爆発の原因を探る大きな鍵となります。

 かつてこれらの国々が自給自足を行っていた頃は、貧しいながらも人口は安定していました。

食糧の供給量以上に人口は増えることができなかったからです。

しかし先進国の登場によって換金作物の栽培が始まると、換金作物を売ることで一時的には食料の供給が増えて人口が増加します。

人口が増えた結果、再び食料が不足しますから、作物の収穫量を上げるためにさらに無理な生産をします。

けれどもそのために地力が落ち、次第に人口を養うだけの作物が収穫できなくなり、不自然な人口爆発だけが残されるのです。


_______


朝鮮人の米消費量、食習慣、などから考察すると、産米増殖計画によって、朝鮮人の大食習慣が失われ、人口増加による貧困の増加、米消費量の低下(途中で改善はされてはいるものの)、結局 朝鮮農民は飢餓線をさまよう状態になった。


184:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/20(水) 01:49:49 ID:5/Okf5Sz0
その増えた人口の面倒を見切れず、数十万の朝鮮人が半島外へ流出

http://2chnull.info/r/history2/1150845121/1-1001


米はいうまでもなく日本の統治時代以降は朝鮮でも主食になりました。したがって、米の消費量は当時の生活水準のバロメータになるので、この統計をみることにします。

         朝鮮の米穀輸出・消費量

年次 日本に輸出 朝鮮人一人当た   日本人一人当た
    (1000石) りの米消費量(石) りの米消費量(石)

1912 │ 2,910 │ 0.7724 1.068
1917 │ 1,296 │ 0.7200 1.126
1920 │ 1,750 │ 0.6301 1.118
1922 │ 3,316 │ 0.6340 1.100
1924 │ 4,722 │ 0.6032 1.122
1926 │ 5,429 │ 0.5325 1.131
1928 | 7,405 | 0.5402 1.129

'31-34 8,456 0.4059 不明 (年平均)*

資料は、飯沼二郎著『朝鮮総督府の米穀検査制度』(未来社)、ただし
  *印は『朝鮮米穀統計要覧』1936年版

  この表から、朝鮮人の米消費量は年々減る一方で、逆に日本人は人口増加
にもかかわらず朝鮮米輸入のおかげで僅かずつ増加傾向にあることがわかり、
植民地経営の恩恵に浴しているのが歴然としているのではないかと思います。

これからもうかがえるように、植民地の政策はほとんど日本内地本位で決定さ
れました。その典型的な例が1920年、朝鮮での「産米増殖計画」でした。

  日本内地では1918年の米騒動や、1923年の関東大震災など米が慢
性的に不足し、米価の値上がりが社会不安になっていました。それに加え、タ
イなどからの米の輸入は貿易収支の悪化を招きました。

  こうした事態を打開する政策として、朝鮮での産米増殖計画を本格化し
「更新産米増殖計画」として、1925年から10カ年計画で資本金2億85
00万円を投下し約30万町歩の土地改良を行い、農事改良により800万石
の米を増産するというプロジェクトにとりかかりました。

朝鮮総督府は巨費を投じ、ダムや灌漑設備をつくったり、輸送用の鉄道
や港湾などインフラの整備を始めました。また米の品種も、早神力(わせしん
りき)など日本人好みのものを奨励し、あわせて化学肥料を勧めました。さら
に栽培技術も「正条植え」による田植えなどを巡査を動員してまで指導しまし
た。
   こうした努力の結果が、朝鮮の春窮・絶糧農家を救ったのであれば、か
の江藤元長官の問題発言「日本は植民地に少しは良いこともした」という考え
をある程度私も認めたいところです。

   しかし、事実は残念ながら米の生産量は増えても朝鮮人一人当たりの消
費量は逆に減り、「飢餓輸出」の現実が朝鮮農民を苦しめました。
http://www.han.org/a/half-moon/hm023.html#No.187

即ち、日本の搾取がなければ朝鮮人が食ってけなくなって日本に移民してくる事もなかった。


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

20. 中川隆[-5800] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:31:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本人はアホだから、美味しい所はすべて英米に持って行かれた


“朝鮮統治”という1つのビジネス・モデルこの問題は余りにも複雑であり、単純化して述べてしまってはその本質を見誤る危険性がある。

しかし同時に、あくまでも冷静に、普通の目線で当時の朝鮮における“日常”を見つめることで、新たな発見をすることが必要でもあるのだ。


たとえば、過去における朝鮮統治の問題を考える時、次のような質問をされたならば、読者の皆さんはどのように答えるだろうか。


「日本による植民地統治下にあった朝鮮半島で、石油を売っていたのは誰なのか。

そこにも日本人による現地住民に対する“搾取”という絵柄が見て取れるのか」。


恐らく答えに窮する読者が多いに違いない。

「第2次世界大戦へと突入する直前まで、朝鮮半島で石油を独占的に販売していたのは、日本勢ではなく、英米勢だった」

というのが、この問いに対する正解なのである。


朝鮮統治が行われた1910年以降の大部分の時期において、現地での石油販売を独占していたのは米系のスタンダード社、そして英系のライジングサン社(後のシェル)なのであった。

なぜこれら2社が朝鮮マーケットを独占できたのかといえば、これらいわゆる「外油」に対しては、輸入に際して特例関税が課されていたからである。

具体的には、当時、日本のいわゆる「内地」に石油を輸入するにあたっては高額の輸入税が課せられていたのに対し、朝鮮という「外地」については消費者に安い石油を使わせるべしという理由で、無税に近い税率が設定されていたからである。

そのため、外国から輸入した石油を朝鮮へと転売する日本の石油企業は著しく不利な立場に置かれていたわけなのだ。


満州(現在の中国東北部)における鉄道などについてもいえるのだが、日本の大陸進出を巡るビジネス・モデルには、常にこれと全く同じ1つのパターンが見え隠れする。

すなわち、表向き「進出」していくのは紛れもなく日本である。

だが、その一方で目立たないが重大なセクター(インフラストラクチャー)で広く、着実に収益を上げていたのは米国勢、そして英国勢なのであった。


もちろん、第2次世界大戦の足音が響き始めると同時に、これら英米勢は駆逐され、日本勢が代わりに入っていくことにはなる。

しかし、だからといって「朝鮮統治」というビジネス・モデルは日本が単独で担ったものではなく、むしろステルス(透明)で、より狡猾な形でそれによって莫大な利益をあげていたのは他ならぬ英米勢だったのである。

そして問題なのは、こうした単純な「史実」であっても、私たち=日本人が学校で学ぶ機会はほぼ100パーセント無いという現実なのである。


確かに、過去の一時期において「不幸な出来事」が日朝間で生じたことは否定できない。

しかし、だからといって朝鮮統治というビジネス・モデルの展開によって現地が被った全ての償いを日本に対して求める一方、いわば“本当の黒幕”だった英米に対しては何も問わないという主張は、全く肯んずることはできないのである。

そして、こうしたダブルスタンダード(二重の基準)自身に見え隠れする虚構こそ、今の日本、そして東アジア・マーケットを見る私たち=日本の個人投資家の眼を曇らせる最大の要因でもあるのだ。
http://money.mag2.com/invest/kokusai/2009/03/post_105.html


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

21. 中川隆[-5799] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:32:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本統治のせいで朝鮮の古き良き文化が堕落した

淫売婦が日本の最大の輸出品となっているのは、衆目の認めるところである。日本人の行くところ、いかなる土地でも売淫の市が開かれないところはないが、わが国においてはとくに甚だしい。その淫風は、わが国古来の礼俗を破壊し、わが人命を害し、風紀を乱すことこのうえないものになっている。
[朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年]

日本国内どこの大衆浴場でもみられる風景を、はじめて見る韓国人が驚くことがある。日本の銭湯の番台は、男女に分かれている脱衣場のどまんなかの高台で両方を眺望することができるからである。われわれの知る「男女七歳不同席」の儒教の原則は、日本では通じないのだ。
[朝鮮日報編『韓国人が見た日本』1984年]


日本のテレビでは、昼間でも女性の裸が見られる。それどころか、主婦向けの朝の番組でも、女性の上半身ヌードをよく見かける。(略)

夜11時過ぎると、成人用ビデオ女優がパンティー姿で現れ、服を着た男性タレントとセックスする素振りを見せる。

ただそのものズバリを見せないだけのことで、これではまるごとポルノ映画だ。むしろポルノ映画以上のいやらしい身の動き、そして水準以下の幼稚なセリフがテレビには溢れている。
[田麗玉『悲しい日本人』1994年]

この地球上、女性を裸にして金を儲けようとしない国は一つもないといっても、いいすぎではない。(略)だが日本の場合は、その異常さに問題がある。

彼らが好む対象は幼児であったり、体の一部に支障のある女だったり、あげくには知能の低い白痴女だったりする。一言でいって、社会的、精神的意味で徹底的に弱い者をセックスの対象と考えるのだ。

セックスに異常な関心をもっている日本人は多くのマスメディアを通して、女性をただのおもちゃとして売り、買い、もてあそぶ。そんなものを見る時私は日本社会独特の非人間性に怒りを感じる。弱者を残忍かつ執拗にもてあそぶ日本の一面を見たような思いがするからだ。[同]


(日本という)出版大国の底辺にはものすごい量の低質、ポルノ本が乱舞している。(略)以前、韓国のスポーツ新聞がこのような方向に流れたと言って物議をかもしたことがあるが、日本のスポーツ新聞を見ると本当に韓国は道徳君子の国だということを再度感じる。
[金永明『日本の貧困』1994]

日本女性の多くが韓国の女性に比べて顔がまずく、特に歯並びが悪い女性が大部分で、これは日本の風土病の一種ではないかと思われる程である
[シン・ピョン『日本の地、日本の風』1990年]


我々と異なり、日本人には歯並びがひどく悪い人が多い。専門分野ではないから確言はできないが、先天的に我々より歯並びが悪い民族であるようだ。
[金燦「一事一言」朝鮮日報 1994年11月8日]

日本が三国の圧力に屈服すると、朝鮮では明成皇后[閔妃]を中心に日本の勢力をくいとめるためにロシアに接近する動きがあらわれた。これに日本は、彼らの勢力をばんかいするために軍隊を先頭にして宮中に侵入し、明成皇后を殺害する野蛮な行為を犯した。これを乙未事変という(1895)。
[中学国史 1996年版]


刺客は、各部屋をすみずみまであまねく捜索し、ついに王后を刺して弑逆した。遺体は緞衾につつみ、松坂の上に安置し、殿庭から鹿園の林の中に運び出し、遺体の上に薪をのせて油をそそぎ、これを焼いた。
[朴殷植『朝鮮独立運動の血史』1920年]


八月二十日、ニ、三十人の日本の大陸浪人が、景福宮の閔妃の寝所に踏み込んで斬殺した。それは三浦の命令であった。一国を代表する公使が、外国の王妃斬殺計画の首謀者になるとは、世界史でも稀な事件である。しかも、斬殺した屍体に石油をかけて、王宮の庭で焼いてしまうという蛮行を重ねた。
[金両基『物語韓国史』1989年]


少女の柳寛順は日本の警官や憲兵の銃剣の前にたってもひるまず、後に韓国のジャンヌ・ダルクと称えられた。彼女は水原の警察でひどい拷問にあいながら、「独立万歳」を叫びつづけ、殺されていった。[同]

ソウルで独立運動が展開された日、まだ年のいかない女学生が、右手に国旗をもち「万歳」を叫んだ。

日本兵は、剣をもち、その右手を切りおとした。女学生はさらに左手で旗をあげて「万歳」を叫んだ。

日本兵はまたその左手を切りおとしたが、女学生はなお「万歳」の連呼をやめなかった。
日本兵はその頭をつき刺してこの女学生を殺した。[同]

日本兵二名が左右にあって、一人は女学生の手をきつくにぎり、一人は竹針をたばねて頭に刺した。しかし、それでもなお屈服せず、激烈となり、かえって日本人を怒りののしった。

日本兵はいよいよ怒り、刀をぬいて唇をさこうとしたが、長官が引きとめ、「顔の表面は傷つけてはいけない」と言った。[同]


日本の野蛮人どもは、女学生のうち美貌の者何人かをえらび、輪姦をかさねた。(略)

日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて盧永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(苽)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。

そこでまた他の十字架にうつし、四肢と頭髪など五ヵ所を縛り、天空に架けて仰臥させ、膏薬を火に溶かしたものを頭髪と陰門と左右両腋とにねばりつけ、冷却させた後に強い力で急に引っぱった。髪の毛も皮膚もともに剥げおちて、血があふれるように流れ、大地を染めた。

日本の野蛮人どもは、大笑してこの残虐を楽しんだ。[同]

平壌では、拘留され入獄した女学生に対し、日本の野蛮人どもは、焼きごてをかの女らの陰部にあて、「男は何人いるか」など質問し、拷問を加え、いいしれぬ恥辱を与えた。[同]


朝鮮人女子は、監獄に入るとかならずはだかにされて訊問を加えられた。すでに判決をうけた女学生も、かならず日本人の姦淫暴虐をうけた。(略)

女子をはだかで仰臥させ、その腋毛、陰毛をぬいた。

また膏薬を煮解かし、女子の陰部にそそぎ、冷却して固まってから、いきなりこれをぬきとった。その陰毛はことごとく脱落した。[同]

1942年から始まった朝鮮での徴用の無慈悲さに就ては今更に喃々喋々を要しないであろう。戦時中朝鮮の官憲は日本への食糧供給を確保する為の「米穀供出」に狂奔し農家の糞溜の底まで目を光らした。

「労力供出」も之に劣らない方法、例えば市場とか村落をトラックを以て急襲して手あたり次第に捕えては頭数を揃えるとか、徴用逃亡者の為に山狩りをするとか等々の奴隷狩りを彷彿させる方法が取られた。
[朴在一『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』1957年]


とくに大陸侵略と太平洋戦争の時期にいたって、日本帝国主義は戦時労働力の不足を打開するために、朝鮮人民を強制的に大量徴用した。

日本帝国主義は当時朝鮮人を連行するにあたり、夜中に農家を襲撃し、白昼にトラックを横付けして畑で働いている朝鮮の青壮年たちを手当たりしだいに拉致していくなど、文字どおりの「朝鮮人狩り」をおこなった。
[朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』1965年]


日帝が太平洋戦争末期の一九四五年、教師らを動員、一二歳の国民学校少女までも挺身隊に引きずっていった事実が一国民学校の学籍簿で確認された。

この学籍簿には七六年に廃校になったバンサン国民学校(戦前の京城第二公立小学校)六年制の担任だった池田正枝(六八・日本生駒市居住)氏が過去、子供たちを挺身隊に送った後、良心の呵責を感じて昨年八月、日本フジテレビの取材チームとともにバンサン国民学校卒業生学籍簿を保管中だったソウル江南区逸院洞永禧国民学校を訪問し発見した。

一四日、永禧国民学校が公開した池田氏が直接作成した学籍簿には、池田氏が担任だった六年生四班(女学生班)生徒七〇名余りのうち一名が四四年二月二五日に、五名が七月二日に富山不二挺身隊として出発したと記録されている。[朝鮮日報 1991年1月15日]

私自身が絶対に許せないのは、その悪の制度化だ。人類の残酷な歴史の中でも、女性を戦場に連行し娼婦役を強要した国はこの地球上で日本しかない。

強姦が犯罪なら、日本は集団的強姦を制度化したまれな国である。

私は、従軍慰安婦というのは日本がわが国の女性の全てを集団で強姦したようなものだと思う。おそらく日本はその血の代価をこれからずっと払い続けねばならないだろう。
[田麗玉『悲しい日本人』1994年]
http://www7.plala.or.jp/juraian/panil.htm



[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

22. 中川隆[-5798] koaQ7Jey 2017年11月29日 07:34:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

天皇家の教育を任されていた福沢諭吉一派は朝鮮人を人間だと思っていなかった:


福沢諭吉の実像は、日本の民主化への貢献というよりは、軍国主義を煽ったことの方にありました。


「時事小言」の社説で、


「印度・支那の御(ぎょ)し方を英人に見習うのみならず、その英人をも苦しめて、東洋の権柄を我が一手に握るべし」


とか


「滅亡こそ朝鮮人民の幸福」


などという非常識で勇ましい文章を書きなぐっていました。(このことは安川寿之輔氏の研究に詳しく書いてあります。)


この福沢の実態の見落としは、単なる軽率と済ませられるものではなく、丸山思想の根本的欠陥と見るべきと考えます。


福沢諭吉が日本の侵略主義を煽ったのは、自分の国は自分で守る気概を持った国民を作ること、つまり国民国家を作るためでした。こういう「国民」を作り出すためには、民族の一員としての平等感と国政への参加意識を持たせる必要がある、と考えました。

これが人民主権(民主主義)の思想の役割でした。

福沢にとって独立日本国を作ることが第一義で、民主化はそのための方便という二義的な意味しか持っていませんでした。


ところが丸山は「国民国家を作るための民主主義」という思想構造を理解できなかったために、福沢の民主主義の部分だけしか見えず、一方では福沢が重視した侵略思想の方を見落としたものです。


しかしながら福沢のこの思想は、福沢の性格のゆがみとか間違いというような個人的なものではなくて、明治期の時代の空気であったことに留意する必要があります。


この侵略思想は、自由民権運動の中にも顕著に現れていることは、板垣退助、大井憲太郎などの過激な侵略思想を見れば明らかです。福沢や民権派の運動の効果もあって、この思想が順次政府によって実行されて、挙句の果てに昭和の戦争を招いたものであり、長い眼で見れば、彼らは昭和軍国主義の先駆者ということが出来ます。


しかし福沢や民権派の人々が、この日本近代の侵略主義を作りだしたと言ってしまっては、彼らの力の過大評価になります。

彼等はこういう日本の近代化の時代の空気を代表して表現しているに過ぎません。

問題は日本の近代化という大きな流れの方にあるといえます。

この時代の空気を丸山は分析的に見ることが出来なかったのですから、思想家としては失格だったと言えます。

結論として、丸山は近代化の持つ暗黒面に気がつかなかったという意味で、「近代と言うものが理解できなかった近代主義者」だった、と言えます。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-79b8.html


岩上「続いて、福沢による他民族差別の言説を見て行きたいと思います。清国に対して、『チャンチャン』『豚尾』『豚尾児』『豚屋』『孑孑』などと、ヘイトスピーチの限りを尽くしています」

杉田氏「当時の辮髪を差して、『豚』と呼んでいるわけですね」

杉田氏「福沢の場合、こうした言葉が、漫言だけでなく、新聞の社説や著書にも出てきます。『豚尾の兵隊』『豚尾児』『豚尾奴』『豚尾兵と名づくる一種の悪獣』といった表現が出てきます」

岩上「他にも、中国人に対するヘイトスピーチはたくさんあります。『流民乞食』『彼(=支那)の国民の骨に徹したる淫欲の余毒』『半死の病人…豚狩り』などなど」

杉田氏「福沢は他の所で『こんなこと言ってはいかん』と、なんの反省もなく自己合理化しています」

岩上「朝鮮人に対するヘイトスピーチもたくさんありますね。『儒教主義に飽満して腐敗を致したる』『上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆』など」

杉田氏「朝鮮人に対しては、一貫して『腐儒』という言葉を使いますね。福沢の底流には儒教主義があるのですが」

岩上「こういう言説を見ていると、明治の時代精神とはこんなものなのか、と暗澹たる気持になります。


杉田氏「福沢が朝鮮や中国、台湾に対してどのような態度を取ってきたか、見ていきたいと思います。金玉均らが起こした甲申政変に、福沢が関与しています。しかし福沢はその後、この事実を執拗に隠すんですね。しかし、福沢が援助した事実が残っています」

岩上「金玉均や朴泳孝による甲申政変に関して、『自ら進んで役者を選び、役者を教え、また道具立其他万端を差図せられた事実がある』という文言が残っているわけですね。他国の政変を工作するなんて、とんでもないことです」

杉田氏「武器まで提供しています」

杉田氏「金玉均は、日本に来て福沢に対し『誠に申し訳ありません』と謝っています。福沢の期待通りに事を運べなかったことに対し、謝罪しているわけです。このことからも、どれだけ福沢が甲申政変に深く関与していたか、分かるかと思います」

杉田氏「甲申政変の段階で、井上馨による外交交渉が行われているなか、福沢諭吉は『我政府に於ても、止むを得ず曲直を兵力に訴るの外なかる可し』と、戦争を仕掛けろ、と鼓吹しています。日本人が殺されたことの弁償をしろ、という理屈です」

杉田氏「自分で仕掛けておきながら、支那と朝鮮が加害者だ、と福沢は言います。さらに、『御親征の挙、断じて行う可きなり』と言います。天皇が自ら乗り込んで戦争しろ、ということですね」

杉田氏「有名な『脱亜論』はこの時期に書かれます。この論説で明瞭なのは、列強によるアジアの分割に加わるべきだ、ということです。アジアの土地を奪え、遠慮はいらない、といった調子ですね」

岩上「次が台湾です。台湾に対してはよりあからさまです。『一人も残さず殲滅して』などということを書いています」

杉田氏「台湾で次から次に抵抗運動が起こります。そのたびごとに、台湾人を殺戮するよう煽る文章を発表しています」

杉田氏「時事新報に『雑報』という欄があります。この中に、『自分が見切れないで、とんでもないものが出てしまった』と書いています。しかし、台湾人の殺戮を煽っているような文章は、社論として書いています。平山洋さんが言うように、弟子が書いたものではない」

視聴者からの質問「福沢諭吉は病んでいるとしか思えない」

杉田氏「福沢としては、貧知者が生まれないように、かなり自覚的に差別を行っているのだと思います。それは、アジアに対しての視線でも共通しています」

岩上「最後に、日清戦争後に日本が膠州湾を租借した後の福沢の言動を見ていきたいと思います」

杉田氏「支那人の支配には日本人が最適だ、ということを言います。日清戦争の時にいかに日本が手際よく清国を倒したか、ということを強調しています」

岩上「今日の安倍政権が、改憲の動きや戦争法案の制定に動き出しています。さらに、安倍総理は『ポツダム宣言』は読んでいない、と」

杉田氏「これは、表立って否定する段階ではまだない、ということだと思います。すぐ、次の段階がくるでしょう」

杉田氏「集団的自衛権も含めて、かつての自民党ができなかったことを次々とやれるようになってきています。『ポツダム宣言を読んだことがない』というのも、かなり意識的に言っているのだと思います」
http://sun.ap.teacup.com/souun/17437.html

福沢諭吉は朝鮮や台湾の人びとのことをどう述べているか:


「朝鮮……野蛮国にして、……我属国と為るも……」、

「台湾蛮人……は禽獣……人の二人や三人を喰い殺すは通常……

朝鮮人は唯頑固の固まり」(本書121頁)


朝鮮は、野蛮な国であり、朝鮮人はただ頑固なだけであり、台湾人も野蛮で獣と同じなのだから、日本人が支配してあげるのが正しいことなのだ、という理屈であろうか。


「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」……

「朝鮮……人民は牛馬豚犬に異ならず。」……

「土人を銃殺……狐と思ふて打殺したり」

「島民が反抗……一人も余さず誅戮(ちゅうりく)して醜類を殲(つく)す可し。」……

「支那兵……恰も半死の病人……之と戦う……豚狩の積りにて」

(本書160−161頁)


なんという人種差別か。 このような読むに耐えないようなアジア蔑視を披露している。……甲申政変の際にさえ


「京城の支那兵を鏖(みなごろし)に」


と発言した諭吉は、……日清戦争では中国兵や台湾住民の「皆殺し」「殲滅」「誅戮」をくり返し呼号するようになる。したがって、日本の兵士が平然と「殲滅」作戦を担えるようにするためには、中国人・兵は「チャンチャン」「孑孑(ぼうふら)」「豚犬」「乞食」「烏合の草賊」の類であると教え、殲滅への抵抗感・抵抗意識を解除するマインド・コントロールを用意することも必要であった。(159頁)


中国人は人間以下の動物だから、皆殺しにしてしまえ、というのだ。


なんという怖ろしい「啓蒙思想家」だろう。戦争にあたって、相手国の人間を、人間以下に描き出すことは、侵略する側のひとびとが決まって行なってきたことである。かつてアメリカも、日本と戦争をするにあたって、日本人がいかに「人間以下」であるかをさまざまな方法でアメリカ国民に対して啓蒙した。

それにしても、これらの発言は、福沢に対するイメージを一変させるのではないか。


「目に付くものは分捕品の外なし。

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替までも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、凱陣の上は参謀本部に御払下を出願して一儲け……」


という私有物の強奪の勧めを書いた。さらに


「生擒(いけどり)」にした捕虜の「老将」軍を「浅草公園に持出して木戸を張り……木戸銭」をとり、

老将軍に「阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します」


という慰み物にして金儲けをする提案までした。」(163頁)


目についたものは、すべて分捕ってくるといい、などと言っている。 しかも、捕虜にした中国の老将軍を、浅草公園に連れてきて、見世物にしてしまおう、と言っている。 ここに見られるのは、「啓蒙思想家」としての姿ではなく、強盗・殺人を奨励する単なる「極悪人」の姿である。


「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

こんな言葉で知られる福沢の思想は、決して日本の民主主義の立役者でも何でもなかった。


「天」に代わって日本「人の上に」天皇制と「帝室の藩屏(はんぺい)」としての華族制度をつくりだした福沢諭吉は、

その日本「人の下に」被差別部落民の存在する事実になんらこだわることなく、

『東洋政略論』で日本「人の下に」アジア諸国民を置き、

百篇をこす論稿で男性「の下に」女性をおく家父長制的女性論を体系化し、

金持ち「の下に」貧乏人を位置づけた教育論を構築した。


たとえば、「今の世」で「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」という考えに基づき、

“貧智者”の出現阻止のために官立大学を廃止して私学に改変することを主張したり、

学問・教育も一種の商品だから


金持ちが「子の為に上等の教育を買ひ」中等は中等の教育、貧民は下等の教育を購入する


という貧富に応じた複線型学校論を主張し、それを合理化するために、


豪農・豪商・旧藩士族の「良家の子弟(男子)は「先天遺伝の能力」をもつ


という遺伝絶対論も主張した。こうした貧民無視の罪滅ぼしに、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」


と言って、貧民を宥(なだ)め眠らせるために、自らは信じない宗教の振興論を百篇以上書いた。(235頁)


筆者は、福沢諭吉を、「近代日本のアジア侵略思想とアジア蔑視観形成の最大の立役者の一人」と結論づけている。福沢諭吉を1万円札の肖像に使うことは、どのような意味を持つのか。日本人が、いまだに、侵略戦争・植民地支配を真に反省していない証拠である。 福沢諭吉は、いまも、アジア蔑視の差別意識を、金銭の欲望とともに、日本全国に流通させている。
http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200804/article_14.html


福沢諭吉のアジア認識 安川 寿之輔


1.戦後福沢諭吉研究のいい加減さ−「民主主義の先駆者」の虚像


 1万円札の肖像、慶應義塾の創設者、『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉は前向きのイメージで見られ、国民作家、司馬遼太郎の「明るい明治」の歴史観とも重ね合わせて、偉大な啓蒙思想家として教えられています。しかし、アジア諸国からは侵略主義者とみられ、たとえば台湾では「最も憎むべき民族の敵」と呼ばれているのも事実です。

実は、民主的啓蒙思想家のイメージは、丸山眞男ら戦後の民主主義を追求をした学者たちが、福沢諭吉全集から自説に都合のいいところを、福沢の文脈とは無関係に抜き出して作り上げた虚像なのです。

たとえば、丸山さんは福沢の天皇制論を「天皇は政治に関与してはならないと主張し、生涯それを貫いた」と述べましたが、


福沢は朝鮮の甲申政変の時は天皇の「御親征」を主張、

日清戦争の時は大本営を旅順に移し天皇の「海外出陣」さえ要求したのです。


天皇は「正宗の銘刀」であるから「深く鞘に収め」と言ったのは、抜きっぱなしでは効用がないから日常的には政治に関与すべきでないという意味でした。


また、『学問のすすめ』の

「一身独立して一国独立する」

は、

「個人の自由が確立しなければ国の独立はない」


と解釈されましたが、これは福沢研究史上最大の誤読です。


理想はそうだが、国の独立が最優先課題であるから民衆の自由の確立は「他日為す所あらん」、すぐにはできないと言ったのであり、やがて「自由民権運動」に出合うと「一身独立」は放り投げ、逆に封建的な制度を擁護する側に回ったのです。

さらに、福沢は無神論者でしたが、民衆に対する啓蒙を放棄するや、


「馬鹿と片輪に宗教、丁度良き取り合わせ」、


すなわち民衆の支配には宗教が有効だとして、「経世の要具」としての宗教の必要性を100編以上の論説で主張したのです。丸山さんは福沢を「原理原則がある哲学をもった思想家」と最大限に持ち上げましたが、上の例から福沢は原理原則に筋を通す思想家などではないことがわかります。


 なぜこのようないい加減な福沢研究が学問の名の下にまかり通ったのか。それは戦後の研究者たちが、民主主義の追求に目を奪われて、昨日まで続いていた日本の侵略戦争、植民地支配の責任を放置し、日本にも「明るい明治」期には福沢のような先駆者がいたのだと、福沢を民主主義のチャンピオンに仕立てたのです。戦後の学問のいいかげんさは戦争責任を忘却したことの結果であり、その罪は重いと言わねばなりません。


2.福沢諭吉の国際関係認識−侵略路線への逸脱


 福沢の幕末維新期の国際関係認識は「国家平等観」に立脚していたというのが定説ですが、これは丸山さんらが、福沢が建て前論として言った部分のみを取り上げて導いた結論です。

福沢は国際関係を「傍若無人」、「切り捨て御免」、「無情残酷」、「パワーイズライト」と認識していました。

また同じ時期の、「台湾出兵」について


「こんなにお祝いすべきことはない」、

「そもそも戦争は国の栄辱の関する所、国権の由て盛衰の致す所」


と述べ、「江華島事件」では


「小野蛮国」の朝鮮が「来朝し、我が属国になるも我の悦ぶに足らず」


と述べました。先行の研究者たちは、こういった不都合な記述を全く取り上げることなく「国家平等論者」だと結論したのです。


 福沢は国際帝国主義の時代状況を「弱肉強食」の関係だと認識すると、『文明論之概略』の中で、自国の独立確保を至上最優先の課題に設定し、『学問のすすめ』の中では


「一国独立」は「国の為には財を失うのみならず、一命を擲ても惜しむに足ら」ない「報国の大義」だ


と書きました。上述したように丸山さんらは「一身独立して一国独立する」を読み間違えたのです。

さらに国の独立確保を最優先するためには

「…、君臣の義、先祖の由緒、上下の名分、本末の差別のごとき…文明の方便」

であるから積極的に活用しなければならないと、日本の近代が封建的なさまざまなものを取り組んでいく道を提示したことも極めて重要です。


 中期以降、先進資本主義国が社会主義や労働運動に直面し、「狼狽して方向に迷う」という現実認識が加わると、「富国強兵」ではだめで「強兵富国」でなければならないと唱え、「軍備拡大」、「対外侵略」路線へと踏み出して行きました。そして歴史的現実主義という名の「清濁併呑」路線、すなわち


「世の中そんなに急に変わらないから、民衆があほなら民衆のあほに依拠してやっていく」、


また「権謀術数」的な「内危外競」路線へと傾斜していきました。何よりも見事なのは、天皇制を「愚民を籠絡する詐術」、馬鹿な国民をたぶらかす政治装置だ、と見抜いたことです。その一方で、軽率にも日本人は「完全な文明開化人」になったという宣言をし、「文明史観」の下での対外侵略の合理化を行い、同時代人から


「法螺を福沢、嘘を諭吉」


と非難されました。元外交官の吉岡弘毅からは、「我が日本をして強盗国に変ぜしめんと謀る」道のりは「不可救の災禍を将来に遺せん事必せり」と厳しくも適切な批判を受けたのです。


3.日清戦争と福沢諭吉


 この時期、朝鮮の背後には中国がいるという理由で、一気に北京攻略まで要求し、あまりに激烈な開戦論のために、『時事新報』の福沢の社説は2度検閲で削除され、さらに『時事』は発行停止処分まで受けました。

リベラルなイメージから良識派と考えられがちですが、実像は明治政府を戦争へと誘導、先導する立場だったのです。

 「日本は日清戦争を経ずに近代化の路線を歩むことはできなかったか?」というのは大変に重要なテーマです。実は、当時の権力中枢、山縣有朋や井上毀らは、直接朝鮮半島を支配する野望は持っていたけれども、国際関係等からいきなりは無理であろうから、暴力的にではあってもスイスのように「永世中立国」にすれば、朝鮮を中国の支配からは離脱させられるという考え方をもっていました。日清戦争開戦1ヶ月前の閣議まで、日本が選びうる3つの選択肢の中には「朝鮮の中立化」は存在していたのです。ところが


福沢は日中両国が違いに連携することなど「空想」だと切り捨て、終始一貫、対支強硬論と軍備拡大要求を続けていました。

明治政府よりも右よりで開戦へと誘導・先導する立場だったのです。


4.丸ごとのアジア蔑視と『暴虐のすすめ』


 福沢は侵略合理化のために「文明」という言葉を論説で乱舞させました。すなわち


他国の「国事を改革」したり「国務の実権」を握ることは内政干渉ではない、


「あいつらはばかだから、がつんとやらないとわからないのだ」


という厚顔無恥そのものの論理です。同時にアジアへの蔑視・侮蔑・マイナスの評価はこの時期から悪化の一途をたどりました。初期にもアジア蔑視観は出ていますが、たとえば中国の民族的英雄林則除を「アヘンを焼き捨てた、思慮のない短気者」と侮辱したように、個々の政策を批判するだけだったのです。ところがこの時期になると、中国は、朝鮮はと、丸ごと総体的に侮蔑する言葉を垂れ流すようになりました。


「朝鮮人…上流は腐儒の巣窟、下流は奴隷の群衆」、

「朝鮮は国にして国に非ず」、

「朝鮮…人民は牛馬豚犬に異ならず」、

「朝鮮人 南洋の土人に譲らず」、


朝鮮人は豚や犬だというのです。


「支那兵…豚狩りのつもりにて」、

「チャンチャン…皆殺しにするは造作もなきこと」、


中国人をやっつけることなど簡単なことだとはっきり書いています。後に日本軍はその通りのことをやったわけです。


中国人を「チャンコロ」呼ばわりすることを、彼は4回書いています。


このような聞くに堪えない侮蔑の言葉を垂れ流すさまは痛々しいとすらいえます。 『時事』の『漫言』では兵士に向けて


「…目につくものは分取り品の田無、なにとぞ今度は北京中の金銀財宝を書き更え…一儲け」


と戦時国際法が禁止する私有物略奪を呼びかけました。 「三光作戦」の勧めです。


 この時期、広島にあった大本営で90回におよぶ御前会議に立った明治天皇を賞賛し、福沢は海外出陣の可能性を提言しました。史実はその4ヶ月後に陸軍内で大本営を旅順に移す案が出て、明治天皇も了解したのですが、知恵者の伊藤博文の反対で流産しました。また「靖国」の思想も先駈けて打ち出していました。


「死を鴻毛より軽しと覚悟」する「軍人勅諭」の「大精神」が勝利の「本源」
であり、

「…益々この精神を養うことこそ護国の要務にして、これを養うには及ぶ限りの栄光を戦死者並びにその遺族に与えて、もって戦場に倒るるの幸福なるを感じせしめるべからず」


と書きました。


 「朝鮮王宮占領事件」、「旅順虐殺事件」、「閔后殺害事件」、「台湾征服戦争」など日清戦争の不義・暴虐を象徴する事件について、ジャーナリストとしての福沢は終始隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を行いました。

私たち「南京大虐殺」を追求する者にとって重大な意味をもつ「旅順虐殺事件」はアメリカやイギリスの新聞に大きく報道され、何よりも『時事』の特派員報告でも出たのでした。しかし、日本が「文明の戦争」ということで世界に登場しようとしていた時期に、市民を含む2万人近い無抵抗の中国人を殺害したことは、伊藤首相と陸奥外相の判断で不問に付すことになったのです、

福沢は虐殺を「実に跡形も無き誤報・虚言」と切り捨て事実隠蔽のお先棒を担いだのです。

その「結果、日本軍の軍紀には覆うべからざる汚点を生じ、残虐行為に対する罪悪感は失われ、その後この種の事件を続発させることに」なったと『日清戦争』の藤村道夫は述べています。すなわち「南京大虐殺」にいたる道が敷かれたわけです。


5.「日本の近代化=アジア侵略」の「お師匠様」


 福沢は有名な『自伝』の中で、「明治政府のお師匠様」を自負していましたが、彼は「明治政府」に止まらず、アジア太平洋戦に至る日本の近代化の道の総体にわたる「お師匠様」と位置づけるのが正しいと思います。アジア太平洋戦争の有名なキャッチフレーズ「満蒙は我生命線」は後の外相松岡洋右の演説ですが、その先駈けになったのは福沢の「今、日本島を守るに当たりて最近の防御線は朝鮮地方たるや疑いを入れず」です。これは山縣有朋が同じことを主張するよりも3年早くなされたものでした。日本が大東亜共栄圏の盟主だということも福沢は明確に主張しています。

 家永三郎は名著『太平洋戦争』の中で、「日本の民衆が15年戦争を何故阻止できなかったのか」の重要な要素として「隣接アジア諸民族への謂われのない区別意識」を挙げていますが、この蔑視感の形成の先頭に立ってきたのが福沢だったわけです。そしてこの蔑視感は今の日本の有り様にも繋がっております。自分では「偽りにあらずして何ぞや」と冷静に認識しながら、天皇制を「愚民を籠絡するの詐術」と見抜くと、


天皇崇拝は「日本人固有の性」、


「一般の臣民…雖も帝室の為とあらば生命を惜しむ者なし」


とうそぶくしたたかさを持っていました。その福沢諭吉の力もあって「愚民を籠絡する」天皇制は日の丸・君が代とともに今なお健在です。このしたたかな福沢諭吉にどう対抗し乗り越えるのか、それが私たちの課題として問われています。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/news10-3.html


◆私は、十五、六歳のころ、「何になりたいか」と兄に聞かれて、「日本一の金持ちになりたい」といった(「福翁自伝」).


 金持ちになるためには、国民をだまして「金と命を出させて、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化財を奪うことが必要だ」と考えた.

 そのためには、教育と報道で世論をつくることが必要であった.教育では慶応義塾を、報道では時事新報を創設した.

 そして台湾・朝鮮半島・中国全土を植民地化するためには、戦力を持ち、「国権を皇張すること」が必要と宣伝した.(1881「時事小言」)

 それが成功して、日清戦争(1894-1895)では、台湾の植民地化を達成し、同時にそれを報道した「時事新報」の発行部数を伸ばして、「金持ちになる夢」に大きく近づいた.


諭吉は、天皇家の先生だった!


昭和天皇は、皇太子(2009年3月現在の天皇)の教育に小泉信三をあてました(1946年4月〜1958年).

小泉信三は、福沢諭吉の「帝室論」を教材に、青年時代の現天皇の教育をおこないました(小泉信三「ジョオジ五世伝と帝室論」).


皇太子の家庭教師役を任命されたとき、小泉信三は慶応義塾の塾長(1933年〜1947年)でした. 彼の父親も、慶應義塾の第二代の塾長(1887年〜1890年)でした.慶応義塾は、諭吉が創設し、第1代塾長は諭吉でした.
彼は、「政府の影のお師匠様」(注)であり、天皇家の先生でもあったのです.


(注)「福沢諭吉全集」(第20巻414頁)


「立君の政治」は「人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)


小泉信三は、「そう指摘されたら、どう答えるか」を若き現天皇に教えていたのです.(注)

現天皇は、皇太子に何を教えたのでしょうか?


(注)

「福沢諭吉の『帝室論』を読むために、殿下も私も、それぞれ福沢全集の一冊をこの一隅に持ち込んだこともある」
 
「部屋の大きさは二十畳ぐらい」

「両陛下がお出ましになったときにもここへお通りになる」

「壁に寄せて直立ピアノが置いてある」

「皇太子殿下は主にその二階にお住居になっている」

(小泉信三「ジョオジ五世と帝室論」)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html


天皇制は「支配者が愚民を篭絡するの一欺術」


(天皇制は「支配者が、バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)
(1882年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)

天皇を頂点とする利権・既得権益の体系、それが「天皇制」の本質ではないか?

それは、天皇制を支持する人びとを見ればわかる.彼らは、何らかの権益をもっている.(反論できる人はいないようだ)

もう一つの証拠は、昭和天皇だ.彼は、終戦の詔勅(ラジオ放送)で、「ここに国体を護持し得て」といった.

天皇制の維持・存続の希望を出し、結果として戦争責任から逃れ、「日本国憲法」第1章に「天皇」を書き込ませたのだ.歴史に残る戦略家というべきではないか?

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_7753.html


「馬鹿と片輪(かたわ)に宗教、丁度よき取り合わせ」

靖国神社が作られた頃の諭吉の文章です.
(福沢諭吉全集 第20巻232頁)

諭吉は、靖国神社の本質をよく理解していた


「国民はだまされて、国のために死んでくれ!」

その諭吉を、一万円札の肖像として毎日拝ませる人たちがいる!

日本の「文化と伝統」は、「だまされること」ではないはずです!

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_14.html


「天皇が、ヤスクニ神社を参拝するべきだ」 (福沢諭吉)

「靖国神社の臨時祭には、辱(かたじ)けなくも天皇陛下の御臨席さへありて、・・・。 
・・・大に遺族のものに給与して死者の功労に酬ひん(むくいん)こと我輩の切望・・・」
(死者に厚くす可し」 

 (1895年 福沢諭吉全集 第15巻341頁)


(天皇陛下が、死者の功労に十分あつくむくいれば、遺族も悲しまないだろう. そうしてほしい. そうすれば国民は、天皇と国のために、喜んで死ぬだろう)

福沢諭吉の時代には、憲法は国の機関の宗教活動を禁じてはいませんでした.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post_15.html


英国もフランスも、人の土地を奪っている! 
(対中侵略15年戦争の諭吉の布石)


「今は英国もフランスも、競争して人の土地を奪っている」

「今は競争世界で、英国なり、仏国なり、・・・

皆吾れ負けじと、人の隙に付け入らんとするの時節なれば、理非にも何も構ふことはない、

少しでも土地を奪へば、暖まりこそすれ・・・遠慮に及ばぬ、「さっさ」ととりて暖まるがよい」

(1881年「宗教の説」福沢諭吉全集第19巻711頁 「福沢諭吉のアジア認識」299頁)


「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進て其喉笛に喰付くこと緊要・・・北京、是なり」

(1882年 「喉笛に喰付け」全集第8巻260頁)


「支那国果たして自立を得ずして諸外国人の手に落ちることならば、我日本人にして袖手傍観するの理なし. 我も亦奮起して共に中原に鹿を逐わんのみ」

(1882年 全集第5巻313頁)


「朝鮮は固より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先ず一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を塵(みなごろし)にし、・・・. ・・・両国の戦争となることあらば、・・・日本の勝利必然なり」

(1884年 「戦争となれば必勝の算あり」(全集第10巻159〜)


「目につくものは分捕品の外なし.

何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚えて、彼の官民の別なく、余さず漏らさず嵩張らぬものなればチャンチャンの着替えまでも引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ. 

其中には有名なる古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・ 一儲け ・・・. 


・・・其老将等が、生擒の仲間で幸にまだ存命にてあらんには、・・・

之を浅草公園に持出して木戸を張り、・・・之に阿片煙を一服させると忽ち元気を吹返しましてにこにこ笑ひ出します、・・・御慰み」

(1894年 「漫言」全集第14巻570頁)


この諭吉の教えにしたがって、日露戦争(1904〜1905)年の後、旧日本軍が「対中継続的侵略の決意」として、大連近郊より持ち帰った唐時代の文化遺産「鴻臚井(こうろせい)の碑」があります.


それは、1300年ほど前に作られた石碑で、その時代のその地方の唐の統治を示す歴史的な記念碑です(朝日新聞 2006年5月28日). おそらく、旧日本軍は、中国の統治を日本が奪うという意思の確認のために、略奪して日本に持ち帰ったものと考えられます.

この碑は、明治天皇に献上され、21世紀の現在でもひそかに他の略奪物と共に、宮中に保管されています.

日本政府あるいは天皇家は、これらの文化財を含む略奪品を中国へ返還する意思を表明していません. まさか、永久に返還する意思はないということではないとは思いますが.

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/1881711299.html


福沢諭吉:
 
「金と兵は有る道理を保護するの物に非ずして、無き道理を造るの器械なり ・・・
本編(1881年「時事小言」)立論の主義はもっぱら武備を盛んにして国権を皇張するの一点にあり。 

事情切迫におよぶときは、無遠慮にその地面(アジア諸国)を押領して、わが手をもって新築するも可なり」

(福沢諭吉全集第5巻108ページ〜)

http://hibari-yukichi.blogspot.com/2009/03/blog-post.html


私(福沢諭吉)は、「暗に政府のお師匠様」であった

1897年8月22日「時事新報」(社主・福沢諭吉)から 


「王政維新の前後に日本国中の人が専ら老生の著訳書ばかり読んで文明の新知識を得たるは紛れもなき事実にして、或いは維新政府の新施設も拙著の書を根拠にして発表したるもの多く、暗に政府のお師匠様たりしことは、故老の忘れざるところなり」
(福沢諭吉全集第20巻)


その諭吉は、天皇制について「愚民を篭絡するの一欺術」といっています.(全集第5巻)

また、「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合わせ」といっています.(全集題20巻)

東京招魂社が、靖国神社になったころです.


「日本は天皇を中心に歴史が作られてきた. 
国が強くなることが大切、近隣諸国の領土・資源・労働力・文化遺産を奪いとれ.

天皇のため、国のためには、『カネ』も出せ、命も出せ!

死んだ後には靖国神社がある」 


諭吉は、国民を馬鹿と見て、これをだまして税金と命を取る、そのダマシのシステムが天皇制と靖国神社だと考えていたのでしょう.

真に賢い師匠でした.今の日本も、その師匠を一万円札の肖像として、毎日拝ませています.

ダマス者が賢く、国民は愚民!
それが、日本の伝統と文化でした.


___________


「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」 ─ 福沢諭吉の理解!

 「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)


諭吉は、こう書いています.


「天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための一つの手段だ」という意味です.(「そういわれたら、『それは、政治を知らない』と答えよ」といっています)


なぜ、彼はそう書いたのか?
それは、次の理由によります.


◆自分は金持ちになりたい.(「日本一の大金持ちになりたい」
これが、彼の少年時代の夢だった(岩波文庫「福翁自伝」)

◆金持ちは、多数の者の生命と財産の犠牲の上に可能となる


◆支配者が国民の生活を犠牲にして、初めて金持ちが可能となる


◆自分は、支配者の側に立ちたい.
門閥制度で一生下級武士はいやだ!


◆一方国民は、だまって生活を犠牲にはしてくれない.


◆だから、国民をだまさなければならない.


◆国民をだますためには、天皇制をもってくるのが一番よい.


◆天皇のために、命も財産も投げ出す.「お国のため、大義のために死ぬ」ということができる.
(若くして殺された特攻隊員がそうだった)


◆彼らと遺族が、がっかりしないように靖国神社(1879年)をつくっておこう.


◆自分は表向き、教育(慶応義塾)と新聞(時事新報)の責任者ということで行こう.


◆実際には「暗に政府のお師匠さま」(全集第20巻頁)として、侵略戦争を推し進め、そこで上前をはねよう.(実際に戦争報道で大もうけをした)


これが、福沢諭吉の真実です.


福沢諭吉は、少年時代の「大金持ちになりたい(福翁自伝)」夢を実現するためには、天皇制を支持したのだ.


◆「大金持ち」になるためには、略奪・侵略・殺戮・戦争が必要だ.

◆「お前たちが死んで、私たちが略奪物を取るから、戦争に行け」では、賛成してもらえない.

◆そこで、天皇制を利用しよう.

◆「私たちのため」ではなく、「天皇のため」「国のため」「大義のため」に死んでもらおう.

◆そのために、靖国神社も用意しておこう.「英霊になる」なら、死んでも文句はないだろう.

◆そこで、彼は、天皇制についてこういった.

◆「立君の政治」は、「人主が愚民を篭絡するの一欺術」 (天皇制は、支配者がバカな国民をダマスための手段だ)
(福沢諭吉全集 第5巻271ページ)

◆彼は、そのリクツを実行して、台湾・朝鮮の植民地化、対中侵略戦争を教育・宣伝して、日清戦争では自分の新聞の発行部数を大いに伸ばして大もうけをした!

◆彼の教えは、日清・日露戦争から、対中侵略15年戦争・太平洋戦争を通じて、2009年の現在にいたるまで続いている.(指導者としての立場は、一万円札の肖像として認められている)


日本では、まだ諭吉の教え子たちが「人主」として生きている.


 
               ∧_∧
   _ノ⌒\_ノ       アーっ!  :::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::::
 /  ∧∧   ピシッΣ(=====)
(\ / \ 彡     ( ⌒)っ)。'。゚_・゚
 < ( `ハ´ .) / ̄ ̄ ̄'し ̄ ̄/\
  \  ⊂ )  ̄ ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄
  /    \      | |
  し ̄ ̄ ̄\)     ./ \


________


福沢諭吉は、天皇制を「天皇制は、国民をだますための手段」だと理解していました.


「立君の政治」は、人主が愚民を篭絡するの一欺術」

(天皇制は「バカな国民をだますための一つの詐欺的な手法である」)という人がいるが、「それに対しては、『政治を知らない者がいうことだ』と答えればよい」と教えています.

(1881年「帝室論」福沢諭吉全集第5巻271頁)


国を富まし、強くするためには、台湾・朝鮮の植民地化だけではなく、対中国侵略こそ「本命」であると主張していました.


「支那と戦に及ぶこともあらば、・・・真一文字に進で其(その)喉笛に喰付くこと緊要)・・・北京是なり」

(1882年「喉笛に喰付け」全集第8巻260ページ)


中国の領土、資源、労働力をすべて奪いとれ、これが1882年に彼が教えたことです.

国を強くするには、命を捨てろ、天皇のために死ぬことは美しいことだ.


「国のためには財を失ふのみならず、一命を抛て惜しむに足らず」
(1873年「学問のすすめ」第三編 全集第3巻43ページ〜)


(そして、諭吉を含む一部の者が大金持ちになるのです)

日本政府と国民は、この教えを忠実に守り、50年後(1931年)対中国侵略15年戦争に突き進み、太平洋戦争を経て、2009年の現在、諭吉を最高額紙幣の肖像として、毎日拝んでいます.このように、明治以来「ダマシのシステム」はつづいています.
http://hibari-yukichi.blogspot.com/


福沢のアジア侵略思想の歩み


 1880年代前半に福沢が『時事小言』、「東洋の政略果たして如何せん」などにおいてすでにアジア侵略の強兵富国  政策を提起していたが、日清戦争が近づいた1894年に書いた論説「日本臣民の覚悟」では、


「我国四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老若の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」


を呼びかけた。ここに至って、福沢のかつての一身独立論は国家への滅私奉公の前に完全に呑み込まれ、跡形なく消失したといえる。


 また、これに続けて福沢は、


「戦争に勝利を得て・・・・吾々同胞日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さえあれば、内に如何なる不平等条理あるも之を論ずるに遑あらず」


と公言して憚らなかった。


 さらに、福沢は旅順の占領も終わり、日清戦争の勝利が見えてきた1895年1月に書いた論説(「朝鮮の改革・・・・」)において、


「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・・今、日本の国力を以てすれば朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、・・・・・」


と記し、その後の韓国併合の可能性を予見するかのような主張をしていたことに安川さんは注目を喚起された。


 こうした福沢の言動は安川さんも指摘されたように、『坂の上の雲』において司馬が日本にによる朝鮮出兵を「多分に受け身であった」と記しているのがいかに史実に悖る虚言かを、同時代人の言説を通して物語るものといえる。 

また、NHKは『坂の上の雲』の第一部で毎回、冒頭に「まことに小さな国日本が」というフレーズを流したが、上の福沢の言説は当時の日本が少なくとも対朝鮮との関係では「小国」どころか、何時でも朝鮮を呑みこめる国力を持った強兵富国の大国であったことを意味している。

植民地として統治された相手国の認識を等閑に付して、武力で近隣国を占有した自国を「小さな国」などと呼号するのは、過去に自国が犯した罪に対していかに無邪気かを物語っている。


5.福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間の大きな懸隔


 私が安川さんの講演から(正確には安川さんの後掲の3部作から)感じた福沢評価をめぐる明治の同時代人と戦後の「進歩的」論者の間に大きな懸隔が生まれたのはなぜかということを考えておきたい。


 まず、安川さんの資料から同時代人の評価として私の印象に強く残った論評を2点だけを紹介しておきたい。


 吉岡弘毅(元外務権少丞):

「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」・・・・のは「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」


 徳富蘇峰:

「主義ある者は漫りに調和を説かず。進歩を欲する者は漫りに調和を説かず。調和は無主義の天国なり」


 福沢が執筆した(『時事新報』の社説等を含む)全著作を吟味する限り、同時代人の評価が適正な福沢評であることは否めない。


にも拘わらず、それと対極的な評価があろうことか、戦後の「進歩的」知識人の間に広まった理由は、安川さんが精根込めた考証で明らかにしたように、

丸山真男の福沢誤読――『文明論の概略』など初期の著作のみを題材にした雑駁な読解に依拠し、

福沢の政治論、天皇制論、アジア統治論などがもっとも鮮明に記されたその後の論説を顧みない文献考証の重大な瑕疵――

とそれに多くの「進歩的」知識人が事大主義的に追随したことにあったといってよい。


 かくいう私も丸山神話に侵された一人だった。3月20日に私の退職送別会を兼ねて開かれたゼミのOB&OG会に参加した第1期生がスピーチの中で、夏休みのレポート課題として私が丸山真男『『文明論之概略』を読む』を挙げたことを懐古談として話した。自分では忘れていたが、そう言われて記憶が蘇ってきた。2次会でそのゼミOB生と隣り合わせ、今では自分自身、福沢に対する見方がすっかり変わってしまったことを釈明した。


 戦後日本の「民主陣営」に浸透した丸山神話は、過去のことではない。

権威主義、事大主義が今日でもなお「進歩的」陣営の中でも、陣営の結束を図るのに「便利な」イデオロギーとして横行している現実が見受けられる。

しかし、そうした個の自律なき結束は、陣営の外にいる多数の市民の支持を得るのを困難にし、長い目で見れば破綻の道をたどる運命にある。だから私は楽屋落ちの議論や個人の自律を尊ばない組織や運動を拒むのである。


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理

23. 中川隆[-11904] koaQ7Jey 2018年5月04日 08:48:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13102]

電通とCIAが反安倍工作の黒幕

マスコミや官僚、政治家はCIA支配下の在日勢力に乗っ取られている。

中国や朝鮮は日本の再軍備を一番恐れているから、必死で護憲運動をやっているんだ:


電通=マスコミや官僚、政治家は既に在日勢力に乗っ取られていて反安倍工作をやっている。

中国や朝鮮は日本の再軍備を一番恐れているから、必死で護憲運動をやっているんだ:

金王朝のトップは日本にも揺さぶりを掛けているようだ。報道によると、南鮮大統領の文在寅は、金正恩との仲介役になり、27日の南北首脳会談で金が口にした、「いつでも日本と対話を行う用意がある」という文言を明らかにした。また、文は南北会談で日本人の拉致問題を提起し、安倍首相の考えを伝えたそうだ。(「金正恩氏『いつでも日本と対話行う用意』 文在寅大統領明かす」2018年4月29日附「産経新聞」) 一方、金正恩はマイク・ポンペオCIA長官との交渉を行い、全面戦争を回避したから、おそらく米国との裏取引に応じたのだろう。次に行うトランプ大統領との会談は、表に出せない取り決めの確認となるから、今後の標的として金正恩は日本の「支援金」を狙ってくる。

  案の定、北鮮の機関紙である労働新聞は4月29日に仕掛けてきた。同紙は、安倍首相がトランプ大統領に拉致問題を取り上げるよう求めた一件で、日本政府を激しく非難したそうだ。曰わく、「安倍は『拉致』問題まで持ち出し、制裁・圧迫を哀願した」のでケシカラン! 「今のように振る舞うなら、平壌に通じる道に自ら高い壁を築く結果を招く」ぞ、と脅したらしい。(「正恩氏、日本の“カネ”意識 制裁網の崩壊も狙う」2018年4月29日附産経新聞) 日本には「盗っ人猛々しい」という言葉があるが、朝鮮では悪党が居直って説教するみたいだ。支那大陸と朝鮮半島は共に「あべこべの世界」である。例えば、街中で包丁を振り回すシャブ中にとって、通行人は殺気に満ちたゴロツキに映り、自分を攻撃しかねない敵となる。だから、この麻薬中毒者が一般人を刺し殺しても正当防衛が成り立つ。殺人鬼には悪意がなく、単に刃物を振り回したら人に当たっただけ。非難されるのは道端を歩いていた被害者の方だ。不注意で迂闊だから刺された、となる。ちゃんと避けなきゃ。泥棒だって同じ理屈をこねる。強盗は銀行を襲うけど、それは行員がお金を貯めているからで、金庫を保有していると宣伝する頭取が悪い。つまり、強盗を誘惑した銀行側に「非」がある。

  普通の日本人なら、「何を馬鹿な !」と呆れ返るだろう。だが、北鮮人と日本の左翼はそう思わない。大切な米鮮首脳会談の席に、「横槍」を入れる安倍首相の方が悪い。反日勢力は安倍首相が「因縁」をつけていると解釈する。しかし、人攫(さら)いをした北鮮が居丈高に我が国を非難するなど笑止千万。もし、日本が正常な国家なら、北鮮を空爆してもおかしくはない。ところが、北鮮人は安心しきっている。なぜなら、彼らには強い味方がいるからだ。例えば、真っ赤に染まった日本の大学教授とか、大手マスコミに潜む親北朝鮮勢力、金王朝の臣下となって利益を貪る政治家、学生運動崩れのテレビ局員、北鮮のスパイに協力する土台人など、日本各地に棲息している反日分子を見れば分かるじゃないか。日本政府が北鮮に対し強硬姿勢を取れば、テレ朝の「スーパーモーニング」で玉川徹がギァアギァアわめくし、TBSにチャンネルを変えれば、金平茂紀が「報道特集」に出演し、「したり顔」で批判する。フジテレビだと安藤優子に喋らせ、「新報道2001」でダメ押しだ。NHKはもっと狡猾で、冷静沈着なキャスターを据えて、“客観的”な報道を装う。その他のメディアも御用藝人を動員し、「経済制裁は抜け穴だらけだから効果が無い」とか、「軍事的な対決より“対話”を重視せよ」、「日本は経済支援を送り、北鮮の態度を和らげるべき」、「北鮮をクラッシュさせるより、ソフト・ランディングさせる方がいい」と日本の国益よりも北鮮の安全を忖度する。在日鮮人の獲得に狂奔する公明党も北鮮擁護で目白押し。こうした発言の裏で北鮮工作員が動いているのは明らかだ。

  そもそも、日本が北鮮を支援するなんて馬鹿げている。いくら米鮮間で合意がなされたからといって、我が国の拉致被害者が帰還できた訳じゃないし、日本に届く核兵器は温存されているのだ。だいたい、交渉に応じた北鮮への経済援助なんて驚天動地の背信である。日本の女子供を攫った北鮮が報復を受けず、それどころか却って恩賞を受けるなんて許せない。たとえ、北鮮が拉致被害者全員を解放しても、我が国には攻撃を行う権利がある。もし、北鮮がアメリカ国民を100名以上拉致したら、一体どんなことが起きるのか? 仮に、奪還作戦を聞きつけ、慌てて返却しても、アメリカ軍による無慈悲な空爆は免れない。たぶん、金正恩は地下施設に隠れても、バンカー・バスターで抹殺されるだろう。アメリカ国民を一人でも拉致するということは自殺を意味する。いくら極悪人でも、金日成がこうした指令を下すことはない。

  しかし、日本に対してならOKだ。金日成は日本政府が動かないことを確信していた。1970年代は左翼の黄金期だったから、北鮮に対する疑惑でさえもタブー。どの国会議員も尻込みする。ちょっとでも拉致の可能性を触れただけで、その議員は即アウトだ。NHKや朝日新聞を始めとするマスコミから波状攻撃を受ければ、撃沈、落選、追放も確実。北鮮の手先だった土井たか子らが、「民族差別は許せなぁぁぁ〜い」と奇声を発し、国会の審議を拒否したり、左翼勢力と組んでデモ活動を行うことだって有り得る。新聞やテレビは連日連夜「不適切発言」を槍玉に上げるから、愛国的な議員の方が謝罪する破目になってしまうのだ。学校で赤く染まったインテリ層とパチンコ資金で籠絡された売国議員が手を組めば、どんな有力議員だって抹殺できる。今では考えられないけど、自民党のドンと呼ばれた金丸信は、金日成に会って感動したし、ついでに金塊をもらって喜んでいた。社会党の議員はもっと酷く、高沢虎男なんかは朝鮮総連の代理人で、日本の国益なんて一顧だにしなかった。官房長官になった同党の五十嵐広三も売国奴で、こっちはソ連のスパイとして悪名高い。かつて社会党に投票していた高齢者は反省すべきだ。こういう連中は未だに健在で、立憲民主党や共産党に投票して過ちを繰り返している。

お礼に税金を献上する日本政府

  見るからに図々しい金正恩は、日本政府を強請って経済援助を引き出そうとする。正常な国民なら「この不逞鮮人め !」とか「腐れ下郎が!」と憤慨するけど、北鮮の人民は「なるほど、将軍様は本当にすごかった」と感心するだろう。というのも、憎い日本人を懲らしめた上に、お金まで巻き上げたんだから。まさしく、パルチザンの将軍様は朝鮮民族のヒーローだ。翻って我が日本を見ると、これまた北鮮贔屓の連中がうじゃうじゃいる。金日成は拉致犯の親玉なのに、日本のマスコミは「テロリストの頭目」と呼ばず、「金日成主席」と仰いでいた。今でもマスコミは金正恩を「暴力団のボス」とか「匪賊の親分」と見なさず、西歐諸国の首脳と同列の「国家主席」扱い。これがトランプ大統領だと、ぶっきらぼうに「トランプ」と呼び捨てるくせに、支那人や朝鮮人の政治家になると妙に恭しい。日頃、粋がっている田原総一朗や関口宏は、金正恩を非難するとき、「あの金が・・・」と呼び捨てにするのか? 本当に、日本の主要メディアは異常である。一般の日本国民はマスコミに毒されているから、肝心な点に気付いていないのだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68714529.html


これが今起きていること。
 @マスコミが倒閣を扇動
 A野党が動員
 B日本語のおかしい活動家が騒ぐ

マスコミと野党と活動家が三位一体となって日本の破壊に動いている。朝から晩まで安倍政権の攻撃だけしかやっていない。自分たちが倒閣工作をしているのに「市民の総意だ」とすり替え。

マスコミはすでに中国・韓国・北朝鮮の反日勢力に乗っ取られているのだが、そうであればマスコミが気に入らない政権は「国益を考える政権」であり、逆に気に入る政権は「売国する政権」であるのは自明の理だ。

だから、マスコミは売国する政治家ばかりを賞賛して国益を考える政治家を叩きのめすことになる。意図的にそのようにしている。朝から晩まで、そのような傾向の記事を大量に流す。そして、世論を誘導したり操作したりする。

今までマスコミはやりたい放題だった。だから、第一次安倍政権はマスコミの連日の世論誘導によって破壊されてしまったし、そのしばらく後に日本史上最悪の政党「民主党」が政権を取るというところにまでエスカレートした。

マスコミは今も世論誘導に明け暮れている。安倍政権に対する激しい攻撃や倒閣工作はその一例だ。

マスコミがアジビラを発行して扇動を行い、反日野党がそれに乗って倒閣デモの人間どもを動員し、反日工作員とそのシンパがデモでわめく。

それをマスコミが取り上げて人数を誇張して「安倍政権は駄目だ、終わりだ」と報道する。偏向した報道を通して世論を歪め、支持率を無理やり引き下げている。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/04/20180417T1510050900.html


「元自民議員の学長「テレビ局を中韓の局が乗っ取り」
5/3(木) 20:52配信

 元自民党衆院議員で、九州国際大(北九州市)学長の西川京子氏(72)が3日、福岡市内であった改憲派の集会で、テレビ局の放送内容が護憲に偏っているなどと批判し、「同じビルに中国、韓国のテレビ局が入っている。完全に乗っ取られているんですね。(改憲は)この人たちとの戦い」などと発言した。

 発言があったのは、改憲を訴える「美しい日本の憲法をつくる福岡県民の会」の集会。西川氏はまず、陸上自衛隊の日報問題を取り上げ、「(日報を)出さない方が悪いとやっているのは完全に日本のメディアではない」と主張。「いろいろな調査をした」とした上で、日本のテレビ局の建物の中に、中国や韓国のテレビ局が入居しているとして問題視。「以前は一部だったが、今は中枢にいるんですよ。日本人、何やってるんだと言いたい。この人たちとの戦いだということです、憲法改正は」などと述べた。

 発言後、西川氏は報道陣に対し、「テレビ局の住所の一覧表を見たら全部(中韓の局と)一緒だった。番組編成上、影響がないとは言えない」と説明。放送内容については、「コメンテーターは憲法改正に賛成じゃない人が圧倒的に多い。バランスが取れていない」などと話した。」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180503-00000053-asahi-soci


24. 中川隆[-11903] koaQ7Jey 2018年5月04日 08:50:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13102]

統一教会はCIAの下部組織

統一教会については昔、bakusai のスレに纏めておきました。
過激な部分は管理人に削除されてしまったけど。


結婚したくなったら統一教会に入ればいい
http://bakusai.com/thr_res/acode=11/ctgid=119/bid=98/tid=1331929/tp=1/rw=1/


25. 中川隆[-13855] koaQ7Jey 2018年7月22日 07:42:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17176]

元在日氏の証言 〜朝鮮総聯について〜
投稿者 比ヤング 日時 2001 年 12 月 02 日 17:57:55:
http://www.asyura2.com/sora/bd15/msg/512.html



380 :元在日 :01/11/30 17:00 ID:fAJy5pYP
俺は2年前まで、北朝鮮籍で俺の妻も同じでしたが、結婚を機に2人とも
日本国籍に変えました。日本しか知らないし、日本語しか分からない
からです。帰化するのは他の在日が考えてるほど難しいものでは
ありません。一年位でできます。
先日総連があのような騒ぎを起こしたのが残念でなりません。
朝鮮半島に戻ろうと思わないのなら、帰化するのが賢明ではないで
しょうか。日本で生まれ育ったから、日本を大事にしましょう。
過去といっても、私達は若いのですから、こだわってても前進
できませんよ。私は日本で生まれ育って、日本に感謝してます。


381 :  :01/11/30 17:11 ID:9FIpezTl
>>380 に応援アゲ!


382 :元在日 :01/11/30 19:00 ID:WD+L0/Qc
俺達が国籍を帰るとき、朝鮮総連から嫌がらせを受けました。
そして、総連を辞めるときは、「準メンバーでもいいから、総連に残れ」
と言われました。「祖国のため」と言うのです。

しかし、祖国のためと言っても、実際にやることと言ったら
扶桑社の教科書や靖国参拝の妨害活動と、献金です。
これらの問題が浮上した時は、俺はすでに日本に帰化していましたが
総連の人がうちにやってきて「準メンバーになれ」、「朝鮮人社会から追放
するぞ」、「デモに参加しろ」、と週に何回かやってきました。
私達は屈しませんでしたが、ノイローゼ寸前になり警察に連絡しました。
警察は効果的な対応をしてくれました。とても親切で同情的でした。
朝鮮人学校に行った人なら分かると思いますが、「日本の警察=悪」という
風に教えます。でも決してそうではありません。
総連におびえて、辞められない人は多いのです。しかし心配する必要はありません。
大体、一年か2年であきらめてくれます。


383 : :01/11/30 19:06 ID:Zdqlf7i5

頑張れ!>>382


384 :>382 :01/11/30 19:09 ID:bpvFZ02y
こういう良心的な常識人も多いはずだよ、在日の人には..
問題の根源は、かの国と、その思想普及に肩入れしている日本のマスコミ。


385 :名無しさん@お腹いっぱい。 :01/11/30 19:15 ID:v6hdbOyk
時代が変わっていくのが分かる。
常識的な人は残り 偽善者は滅びていくだろう。


386 :名無しさん@お腹いっぱい。 :01/11/30 19:21 ID:vsa5gfGC
在日には2通りある。
いい在日と悪い在日だ。


389 :元在日 :01/11/30 20:51 ID:H10UoyKq
在日朝鮮・韓国人は日本のマスコミにも多くいます。
NHKとかテレビ朝日なんかがそのトップです。

私が思うに、自分で率先して総連に協力する者は少ない、と思います。
みんな恐怖におびえて協力してるだけだと思います。
その点では民団も同じです。みんな怖がって協力してるのです。

でも日本の警察は本当に親切に接してくれました。
私はこの民団・総連の恐怖支配がいまいましくてなりません。

警察や日本の一般市民の方も先日のような総連でのデモが起きたら、
もっと厳しく当たるべきだと思います。
もっと厳しく当たれば、おびえている在日朝鮮人・韓国人も勇気を持って
総連・民団を辞めれると思います。

ここは日本ですから、日本の法律を尊重するのが当たり前です。


390 :名無しさん@お腹いっぱい。 :01/11/30 20:57 ID:Zdqlf7i5
>>389
何がそんなに怖くておびえているの?
どういう強制力を彼らは発揮しているのか、教えてくれ。


395 :元在日 :01/11/30 21:22 ID:H10UoyKq
>>390
一番典型的なのは、朝鮮を批判したら祖国にいる親戚を収容所に
入れて再教育する、という脅しです。
でも、実際のところ、誰が親戚か、はわかりません。来日してからもう
何十年も、人によっては100年近く経ったのでそんな資料とかは残って
ないのです。でも2世とかは実際にその被害にあったそうです。

しかし、もっと現実的な恐怖が、嫌がらせです。上にも書いたように
しつこく家に押しかけてきたり、電話したり、家族に説得させたり。

あと、朝鮮・韓国系の会社に勤める者はクビになることもあります。

朝鮮学校に行った者は母校に連絡し、就職先への卒業証明を出して
もらえない時もあります。

借金のある者には「貸した金を今すぐ返せ」、と昼夜押しかけたり
します。 生きた心地がしません。

私は朝鮮学校にも行ってないし(妻は行ったが)、借金も無かったので
ラッキーだったと思います。

しかし、借金のあった友達は毎日やくざ顔負けの取立てに遭いました。
もちろん、会社はクビ、殴られたこともあったそうです。
私の勧めで警察に通報しました。 警察の反応は早く、嫌がらせも無く
なり、借金は無事に返し、日本に帰化しました。


396 :  :01/11/30 21:23 ID:O+cj+GME
>>390
君が、朝鮮差別に疑問有り運動を始める。
すると……
人権団体と称する、グループが来て抗議される。
それでも続けると、
君が変な宗教をやっているとか、過去に犯罪歴があるとか噂が流される。
それでも続けると、
何故か、右翼の街宣車が君の家の前で、民族差別反対の演説をスピーカーでガンガン流される
それでも続けると、
見るからにヤクザ(本物含む)な人達が君の家を囲み、
有ること無いことの創作演劇で人生を滅茶苦茶にされる。
以上。


398 :元在日 :01/11/30 21:46 ID:xQ9vx/TX
>>396
右翼の車は来たことありませんが(笑
実際に総連の車で同じ嫌がらせを受けることはあります。
共産党・民青も来ることがあります。
あとは、宗教、犯罪歴・・・>>396さんの全て言う通りです。


400 :元在日 :01/11/30 22:06 ID:xQ9vx/TX
>>399
警察や地元の方がもっと厳しく糾弾すれば、彼らも好き勝手には
できないでしょう。 あのようなデモがあったら、警察だけでなく、
日本人の方も警察に協力すべきです。

気持ちのどっかでは、強制送還されるのを日本の刑務所より
恐れています。あんまり無茶はできません。刑務所は一時、
北朝鮮は終身刑って言いますから。


401 :' :01/11/30 22:11 ID:kTodr4YN
>>400
>刑務所は一時、
>北朝鮮は終身刑って言いますから。
やっぱり街頭や民家の前で騒いでる連中は、強制送還で正解ということになるのでしょうね。
…あとは、警察の頑張り次第ですか。


402 :390 :01/11/30 22:28 ID:Zdqlf7i5

なるほど。
声をかけるときには「北に帰れ」コールが一番効くわけですな。

これまで強制送還された例では、何が原因になっていますか。
その行為を誘い出す、という戦術がとれますね。


403 :元在日 :01/11/30 22:28 ID:xQ9vx/TX
>>401
私にしてみれば、総連や民団なんて無い方がいいです。
あんなものが無くても全く不自由しないし、
速く解体されればいいな、と思います。
皆口に出して言わないだけで、心では思っている在日も多いんです。


404 :元在日 :01/11/30 22:56 ID:xQ9vx/TX
>>402
何をすれば強制送還されるのかは、正確には知りません。

ただ、ちゃんとした書類を持っていればそういうことは起こりえない、
と私達は教えられました。
でも、潜在的に「強制送還されたらどうしよう」と思っています。所詮は
外国人ですから。
国会議員が国会で法律を変えれます。裁判官が決めれます。


http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/asia/1005239981/


26. 中川隆[-13856] koaQ7Jey 2018年7月22日 08:13:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17182]

ダメダメ家庭の目次録 05年4月22日
韓国の高校の歴史教科書
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/05-04/05-04-22.htm

追記 管理者により、追加文章があります。(10年12月21日アップ)
歴史を眺めていると、ちょっとおもしろいことがあったりします。
ある国が滅んだ後で、別の体制となるわけですが、その滅んだ国の形式的後継者と、実質的というか心理的な後継者が違っていたりする事態が発生することもあります。

たとえば、最近の例では、ナチスドイツの形式的な後継者は、昔の西ドイツという国でした。正式な名称はドイツ連邦共和国・・・今の統一ドイツがこの国です。しかし、実質的にはナチスドイツの後継者は東ドイツの方でしたよね?

ナチスドイツと東ドイツは、権威主義だったり、秘密警察が暗躍する恐怖社会だったり、反米というスタイルにおいても同じと言えるかも?
ナチスドイツは共産主義に反対する立場の政府で、東ドイツは共産主義社会という意味では、本来は全く反対の統治システムになるはずですが、実質的には同じ社会。

同じようなことが、日本でも言えます。
現在の日本は、かつての大日本帝国の形式上の後継者であると言えますし、元首である天皇は共通していますが、その統治形態としては実質的にはかなり違っています。

かつての大日本帝国の実質的な後継者は、むしろ韓国だったり、北朝鮮だったりするわけ。

それこそ、言論弾圧の統制社会だし、権威主義だったり、妙な民族主義があったりするでしょ?それに反米だし、秘密警察が大活躍。

それにコンプレックスが強く、ムダに「大」の字を使いたがるところとか。
「日本が大嫌い!」の韓国や北朝鮮は、大日本帝国の統治システムを十分に受け継いでいるわけです。

さて、メールマガジン「ダメダメ家庭の目次録」では、一種の総集編として、「作品の中に描かれたダメダメ家庭」というカテゴリーで、種々な「作品」の中に描かれているダメダメ家庭の具体的事例をピックアップしたりしています。

今回はその「作品」として「韓国の高校の歴史教科書」を取り上げます。

「オイオイ!!教科書が『作品』かよ?」
と思われる方も多いでしょう?

しかし、これがまた目眩がするぐらいに、ダメダメなスタイルが詰まった「作品」なんですね。

よく韓国や中国が、日本の歴史教科書についてイチャモンをつけて来ますよね?
まあ、どうしてそこまで「人のすること」に関心を持ったりするのでしょうか?これって典型的なクレーマーの所業でしょ?クレーマーは「自分がやらなければいけないこと」には関心がなく、「人のやっていることに文句をつける。」そのような習性があるわけ。

では、日本の歴史教育に文句を付けてくる韓国の方は、どのように歴史を教えているのでしょうか?
何も「あら探し」と言うわけではないにせよ、韓国の歴史教科書を読んでみるのも悪くはないでしょう。

ちなみに、歴史的事件に限らず、事件を記述するのには、一種の定石があります。
よく言う「5W1H」というヤツです。「いつ(=WHEN)」、「どこで(=WHERE)」、「誰が(=WHO)」、「何故に(=WHY)」、「何を(=WHAT)」、「どのように(=HOW)」の6つを中心に記述していくものです。

たとえば、日本の有名な歴史的事件である戦国時代の長篠の合戦を例にしてみましょう。

「いつ」は1575年。「どこで」は今の愛知県の長篠の地で。「誰が」は織田信長と武田勝頼が。「何故に」は、織田家と武田家の領土争いで。「何を」は、合戦をした。「どのように」は武田家の側は、伝統的な騎馬軍で、織田軍は先進的な鉄砲部隊で・・・という記述になります。

また、歴史的事件だったら、上記の記述の他にも、「その影響」という事項も付け加える必要があります。長篠の合戦においては、織田家は最大のライバルを打ち破って、天下付武への強力な前進となりました。勿論のこと、軍事的戦法の革新という影響もあります。

と同時に、歴史的事件の記述に際しては、重要なことがあります。
資料名です。

たとえば、織田家では正式な記録として「信長公記」という記録があります。当然のこととして武田家にも正式な記録があり、その資料に、この長篠の合戦の公式の記録が収められているわけです。

そのような正式な記録だけでなく、部下たちによる非公式な日記のようなものもあるわけです。それらの資料をつきあわせることによって、歴史的事件の全貌がわかってくることになる。

だから、歴史的事件をまとめた、いわゆる歴史書では、上記の「5W1H」だけでなく、その結果と影響に関する記述や、資料名についての記述も必要なわけです。それは歴史教科書のような類の歴史書でも全く同じです。

何もこれは日本だけでなく、世界の文明国には共通の発想です。文章の言語自体は違っていても、歴史を記述する文章の記述の仕方、考え方には大きな違いはありません。

ところが韓国の国定歴史教科書では、そんな文明国の基本的スタイルとは無縁なんですね。

たとえば、例に挙げた長篠の合戦を記述する場合では、片や鉄砲部隊という最新鋭の戦法。片や騎馬戦という伝統的な戦法。その違いを記述することが不可欠でしょ?

ところが、韓国の歴史教科書では、そのような歴史的事件を記述する際に「どっちの側に愛国心があったか?」と言った記述だったり、「どっちが正義なのか?」と言った記述ばかりで、事件についての5W1Hのような具体的で客観的な記述が少ないわけ。

「どっちが正義だったか?」なんて、判断する人によりけりでしょ?人にはそれぞれの立場があるわけですからね。それこそ長篠合戦で、織田軍は武田軍を「敵」だと思っていたのは当然ですが、「悪」だとは思ってはいませんよね?
その点は、武田軍だって同じ。織田軍を「悪」だとは思ってはいないでしょ?
ただ、己の使命と野心に従って戦っただけでしょ?
それが「もののふ」の生き様であり、死に様でしょ?

韓国の国定歴史教科書の記述は、まるで「スポーツ根性モノのマンガの原作」のような趣なんですね。客観的な記述ではなく、ひたすら「ウヮー!」という叫び声が聞こえてくるよう。

客観的に事実を記述するというより、作者の「思い」を伝えることに主眼があるわけ。そんな「作品」なんですね。

まあ、そんな本で歴史を勉強させられていたら、バカになるのも当然ですよ。

では、そのような作者の「思い」に満ちた、韓国歴史教科書という「作品」を、具体的に、客観的に検証してみましょう。

検証に当たっては、「教科書の記述の問題点」というカテゴリーと、「教科書の記述から浮かび上がる韓国人のメンタリティー」そんな感じで分類して記述してみます。

【教科書の記述の問題点】

1.年号が出てこない・・・この韓国歴史教科書では年号の登場が実に少ない。何ページにもわたって、○○年と言う具体的な年号が出てこないわけ。事件の羅列があっても、その事件が西暦何年のことなのか?記述されていないわけです。チョット日本の方には信じられないことでしょうね。だって「なくよウグイス平安京」で794年・・・なんて年号をゴロで覚えるのに苦労しましたものね。年号が出てこない歴史教科書なんてこの世に存在すること自体、不思議でしょ?

韓国の歴史教科書でも、ほんの少しは年号が出てきたりしますが、後で年表の形でまとめられていて、今現在記述している歴史的事件が何年に起こったのか?分らないようにできているわけ。

年号というものは、覚えるのは面倒ですが、歴史的事件の客観的指標としては重要でしょ?年号を覚えていると事件の順番が明確になると同時に、外国の同時期の事件と比べることもできる。この時代に外国はこんなことをやっていたのに「我々の国は遅れているなぁ・・・」などと感想を持つこともあるでしょう。しかし、年号が記述されないと「我々は先進的だ!」と記述されていると、思慮の浅い人は盲目的に信じてしまうんですね。

2.資料名が出てこない・・・この韓国国定歴史教科書では、出典の資料名がほとんど出てきません。もしかしたら朝鮮半島では、資料を作るという習慣がないのかもしれません。データーを取るという習慣の欠落については、後で触れます。この韓国歴史教科書では出典の資料名もなく、「我々は正しい!」の一点張り。まるでカルト宗教のような趣になっている。資料名が無いので、疑問を持った読者が自分自身で調べ直すこともできないわけ。

3.差別用語の乱発・・・高校生が勉強するというこの教科書には、意図的な差別用語が乱発されています。日本を「倭」とか言うのはともかく、ヨーロッパ人を西洋蛮人と書いたり、清を建国した女真族をオランゲという差別用語で呼んだり・・・まあ、こんな差別意識丸出しの本は、日本だったら発禁処分でしょうし、当然のことに、他の一般の文明国でも発禁処分は確実でしょう。そんなアングラ本程度の本が教科書なんですね。そもそも、ヨーロッパ人を示したいのなら、西洋蛮人と書くのではなく、単に西洋人とでも表記すればいいだけですよ。しかし、わざわざ「蛮」を入れて勝手に喜んでいるんですね。

4.漠然とした記述・・・たとえば、上記で年号が出てこないと書きました。しかし、歴史書なんだから当然のこととして、時期に関する記述もあります。そのような場合では10世紀中葉とかの記述になっていて、漠然としてあいまいな記述になっています。しかし、10世紀中葉なんて書かなくても941年とか明確に年号を書けばいいじゃないの?しかし記述が漠然としているので、作者が意図的に読者を誘導することができているわけです。

年号の問題だけでなく、資料名も「ある民政文書」とかの表記になっている。そんな表記にするより、「△△が○○年にまとめた、☆☆という資料」と記述するのが文明国の歴史書のスタイルでしょ?
それこそ「1920年代のはじめ、全国の青年運動は100余りあり」・・・などと記述されています。しかし、文明国の歴史書だったら「政府による1922年の統計では、全国の青年運動は105団体あった。」と記述するものです。どうしてそんなにあいまいに記述するのかなぁ?

5.政治家がなかなか登場しない・・・歴史書だったら、当然のこととして多くの政治家が登場するだろう・・・と思われるでしょ?ところが韓国の歴史教科書では政治家の登場が実に少ない。その代わりに政治論者が実に多く登場するわけ。「国家はこうあるべきだ!」とワイワイ論じる人は多く登場しても、実際に政治を運営する人が出てこない。

6.やたら「べき」論・・・上記の実際の政治家より政治論者の数が多いことと関係していますが、この韓国歴史教科書はやたら「べき」論が多い。「こうすべき」「ああすべき」と、やたら説教くさい。

7.法律名が出てこない・・・具体的な人名は多く出てきますが、法律名は出てこない。上記のようにすべて「べき」論で片付けているので、具体的な法律を制定するという形で、実際的に国家を運営する気がないわけですね。

8.個人的感想がいっぱい・・・教科書と言うものは客観性が第一と考えてしまうのは、文明国の常識でしょう。しかし、さすがに韓国の教科書は作者の主観的な「思い」が詰まっている。

たとえば「高麗時代の石塔は安定感が不足し、造形感覚面では新羅時代の石塔に比して多少劣る気がする。」なる記述があったりする。しかし、執筆者が「気がする」のは勝手だけど、教科書の記述として書かれても、読んだ側は何を理解すればいいの?

あるいは後に中国で清王朝を作った女真族との戦争では「意外にも」負けた・・・との記述があります。アンタが「意外」に思うのは勝手だけど、そんなことは教科書に書く内容ではないでしょ?
それとも「気がする」とか「意外にも」とかが、試験に出たりするのかな?

9.ヴィジュアルが少ない・・・上記の石塔に関する記述だって、文章にするより、それぞれの写真を載せればいいじゃないの?ところが韓国の歴史教科書はヴィジュアルが実に少なく、文字ばかり。まあ、その文字による文章も、やたら説教くさいわけです。画家についてウダウダ説明するより、その画家の作品を載せればいいじゃないの?しかし、そのような客観的な記述を放棄して、ひたすら作者の「思い」を書き込んでいく・・・それが韓国の歴史教科書のスタイルなんですね。

10.やたら民族意識・・・この教科書には「民族意識」という言葉が実に多く出てきます。逆に日本だとそんな民族意識なんて出てこないでしょ?まあ、大日本帝国の教科書なら出てくるかもしれませんが・・・
韓国の歴史教科書では「民族意識」「民族文化」・・・そんな言葉ばかり。
しかし、ではその「民族意識」って具体的にどんな意識なの?

教科書を読んでいても、さっぱりわからないんですね。

どうやら、私がよく書いていますが「集団的被害者意識」と「オレたちはすごいんだ!」というエリート意識の混じったもののようです。しかし、「オレたちはすごいんだ!」と思うのはいいとして、具体的に見てどの辺りがスゴイのか全然書いていないわけです。まさにカルト宗教のような趣になっている。

「オレたちはすごいんだ!」「オレたちはすごいんだ!」「オレたちはすごいんだ!」と連発するだけ。

そして、そんな「本来はスゴイはずの我々がうまくいかないのは、全部○○のせいだ!」と被害者意識になるわけでしょうね。

11.経済に関する記述が少ない・・・この教科書には経済的なマターに関する記述が実に少ない。やたら「べき」論をぶつ政治論者がワイワイ言うだけ。使用していた貨幣とか税制とか、生産技術など実際的な問題についてほとんど触れていないわけ。だから読んでいても当時の人の暮らしぶりなど全然わからないわけです。

12.都合の悪いことは書かない・・・「朝鮮半島の進んだ文物が日本に伝えられた。」この韓国の歴史教科書に頻発する文言です。しかし、先進的な文物って、具体的には何なの?それが書いていないんですね。しかし、ちょっと離れた箇所で貿易に関する文言があって、朝鮮から日本への輸出品は米、木綿、人参だったとか書いてある。米、木綿、人参かぁ・・・たしかに『先進的』だねぇ・・・。しかし、先進的という言葉と米、木綿、人参という具体例が離れて記載されているので、「素朴」な韓国の高校生だったらダマされてしまうんでしょうね。

あるいは豊臣の朝鮮半島の侵攻のあと、朝鮮がロシアと戦争して朝鮮の鉄砲部隊が大活躍したとの記述があります。その鉄砲はどこから来たの?そんなことも書いていないわけ。あるいは、その豊臣軍の侵攻の後の時期に、朝鮮の農業技術が飛躍的に向上したらしい・・・この韓国の教科書では、いつものように「農民の民族意識」云々で片付けられてしまっています。

しかし、現実的に考えると違うでしょ?豊臣軍の中で農民出身の足軽が、朝鮮半島の遅れた農業技術に見るに見かねて実地でレクチャーした、と考えるのが現実的な思考でしょ?違うのなら、データーとか資料を出さないとね。農民の民族意識がどのように農業技術の発展に貢献したのか?とかの資料があるとでも言うのかな?しかし、この韓国歴史教科書ではそんなマトモな疑問には答えてくれないわけ。

13.データーが載っていない・・・この教科書にはそれぞれの時代の人口とか、生産量とかのデーターがほとんど出て来ません。これは前記のように政治を運営する気がなく、政治を論じることにしか興味がないので、データーを取る習慣がないのでしょうね。

しかし、韓国の歴史で突然に豊富なデーターが出てくる時期があります。それは日本統治時代。この時代になると、韓国の人口とか生産量の詳細なデーターが出てくるばかりではなく、事件における年号や被害などの詳細なデーターも記録されている。この時代になって初めて「政治」が行われていたことがわかるわけ。

14.判断が先に来る・・・たとえば、韓国人による伊藤博文の暗殺事件がありました。日本だと「暗殺」という言葉で記述されますよね?ところが韓国の教科書では「処断」という言葉になっている。「悪をやっつけた!」というわけでしょう。この手の価値判断を伝えるのが教科書の役目と認識しているようです。しかし、それは文明国の歴史教科書ではないでしょ?読者が自由に考えることができなくなりますよね?

しかし、この手の判断が先に来る歴史教科書は、大日本帝国の歴史教科書がそうだったはずです。たとえば足利尊氏と後醍醐上皇が争った南北朝時代の記述において、足利尊氏は一方的に「悪」にされていたそう。
文明国の歴史書のスタイルだったら足利尊氏の政策と、後醍醐上皇の政策を記述することに重点が置かれることになります。まあ、こんな感じで判断が先に来るような教科書で歴史を学んでいたので、大日本帝国の人間はバカになってしまったのでしょうね。

15.具体例が乏しい・・・たとえば「ハングルは優秀だ!」そんな記述が多く出てきます。しかし、ハングルで書かれた「おもしろい文章」の作品名は中々出てこない。ひたすら「ハングルは優秀だ!」「ハングルは優秀だ!」それだけ。文明国の書物だったら、ハングルで書かれたおもしろい作品の写真でも載せるでしょ?ひたすら判断を押しつける形なんですね。美術でも文学でも具体的作品名がなかなか出てこないわけ。

16.感情的表現・・・教科書は作者の「思い」を伝えることが韓国での常識なので、作者の感情的な表現が頻発している。・・・日帝の悪辣な・・・とかの言葉が頻発。しかし、その日帝が何年にどんな法律を作ったのか?とは記述していない。ただ「悪辣」とか「冷酷」とかの扇情的で感情的な文言が並ぶだけ。


【教科書から浮かび上がる韓国人のメンタリティー】

1.内輪もめ・・・それこそ新羅、高句麗、百済以降も、半島の人はやたら内輪モメをしている。いつの時代もこの内輪もめの記述がいっぱい。それだけ、「小山の大将」になりたがるようです。以前にも書きましたが、会話のできない人間は「手下はいても、味方がいない。」もの。どうしても「自分が大将」になりたがるわけです。

2.情報軽視・・・当事者として政治を進める人よりも、傍観者として政治を論じる政治論者が威張っていられるのは、やっぱり当事者意識の欠如が社会に蔓延しているからですね。実際に政治を進めるとなると、情報を集めて、情報を分析して、政策を立案して、法律化して、周知させ、実行する・・・そんなプロセスが必要でしょ?単なる「べき」論では片付きませんよ。地道な作業が必要なんですね。

朝鮮の歴史では情報というかデーターを集めている様子がない。情報もないのに、どうやって政策を立案するの?この韓国歴史教科書では「儒教の教えに従って、『○○のような政策をすすめた』・・・」なる記述が多くあります。しかし、マトモな政府だったら儒教の教え以前に、国家の人口とか生産量とか周辺国に関する情報を集めるものでしょ?そんな情報軽視の姿勢だからこそ、歴史のデーター資料も少ないわけでしょうね。

3.原理主義・・・当事者意識がなく、傍観者然なので、現実無視で原理原則を押し通そうとする。そしてうまく行かなくなったら、「アイツが悪い!」と他者に原因を押しつけることになってしまう。しかし、現実を無視して自分の原理原則を押し通してしまっても、うまくいかないのは当たり前でしょ?

4.対抗心が強い・・・ダメダメ家庭ではやたら対応心が強く「アンチ○○」なんて発想をしがちであることは以前にも書いています。韓国人が「アンチ日本」の発想をするのは勝手ですが、韓国人同士でもやたら対抗心が強いわけ。儒教の流派同士で対抗したり、儒教と仏教で対抗したりと、そんな記述ばかり。対抗する以前に、民衆のことを考えてみるとかそんな発想が全然ないんですね。

政治対立、学問対立、宗教対立、地域対立、身分対立・・・そのような記述ばかりが多くなる。自分自身を主張する方法として、まず最初に「私はあの○○に対立している!」と一声あげるのが、韓国人の流儀のようです。スグに排除の論理が出てきて、「お互いが、得意分野で一緒に協力してやっていこう!」とは行かないわけ。

5.排他的な愛国心・・・民族意識という言葉がやたら頻発するのに、では「その民族意識って、具体的には何?」という質問には答えられない。しかし、そのように強圧的に民族意識を押しつけるので、どうしても排他的な発想になってしまうことになる。20世紀になってアメリカなどの海外に移住した韓国人もいたそう。それはそれで結構ですが、その移住した人は韓国に対する強い愛国心を持ち続けたそう。

韓国にシンパシーを持つのは当然として、そんなに強い愛国心を持つのならアメリカに移住しなければいいでしょ?海外でそんな、「オレたちはスゴイんだ!」というような排他的な愛国心を持っているから、関東大震災やアメリカのロス暴動で焼き討ちにあうわけでしょ?アメリカに移住したらアメリカに忠誠を誓えばいいじゃないの?ねっ?

6.身分秩序・・・・ダメダメ人間は人間を序列化することが大好きのようです。まあ、カルトではこの手の序列化が好きなのはオウム真理教でもありましたよね?韓国もオウム真理教と同じように、やたら細かく身分が別れている。それにその身分間の移動が不可能のようです。妾腹の子供は絶対に出世できないとかが、あったそう。あるいは男尊女卑なども・・・そのような秩序を「倫理的」措置などとも記述してある。そんな身分体系は制度かもしれないけど、倫理とは言えないでしょ?

7.理屈をこねくり回す・・・現実を無視して理屈をこねくりまわすことが大好き。そしてその理屈も、権威主義で、おまけにすべて善悪で片付けてしまうので、思考に広がりがないわけ。教科書におもしろい記述があります。李氏朝鮮時代の農民の離脱に関するものです。
「農民の離脱は名分上、民生を安定させなければならないという儒教の王道政治論にあわないだけでなく、現実的にも、国家の財政を危うくするものであった。」
・・・しかし、一般の文明国だったら、記述の順序が逆でしょ?儒教の名分などより、国家財政の方が重要でしょ?

8.知識欲が乏しい・・・理屈をこねくり回すことは好きでも、新たな知識を得ようとはしない。まあ、目新しい学説には興味を持つようですが、知識って学説だけではないでしょ?たとえば世界地図を韓国が入手したのは17世紀末。しかし、日本にはイエズス会の宣教師より16世紀には入手していますよね?だから豊臣軍による朝鮮侵攻は、最新鋭の軍事設備と、世界全体に対する豊富な知識を持つ日本軍と、軍事的にも知識的にも乏しく、ただ「オレたちはスゴイんだ!」と自画自賛しているだけの朝鮮軍の戦いだったわけ。20世紀での太平洋戦争では、日本の立場は全く逆になってしまいましたが・・・戦争の善悪はともかく、何事でも事前準備は重要でしょ?

9.何でも反対・・・今のイラクのように何でも悪く取り、反対するのが韓国人。日本統治時代に貨幣の共通化をやろうとしたら、それに反対し、ブチブチ文句を言っている。勿論デメリットもあるでしょうが、本来は韓国人自身で貨幣の共通化なんてやらないといけないでしょ?他人にやってもらって感謝するどころか、文句を言う始末。
それに、そんなに貨幣の共通化がイヤだったのなら、今からでも元のバラバラの状態に戻せばいいじゃないの?
反対することには熱心でも、「で、結局は、どうしたいのか?」という点は何も考えていないんですね。

10.危機意識が乏しい・・・自分自身を自分で守ろうという当事者意識がないので、危機意識もない。だから周辺国の情勢にも気を配らない。だから簡単に侵略されてしまう。中国とか日本にスパイくらい派遣して情報収集するのが、マトモな国でしょ?そんな当然のこともやっているそぶりもないんですね。それに危機感がないので、優秀な人間を抜擢する必要がない。だから社会も停滞する。

11.ダメダメの連鎖・・・根拠のない「オレたちはスゴイんだ!」という思いこみや被害者意識だけの人・・・それに人の話を聞き、相手に自分の意向をわかりやすく伝える意欲のない人間を相手にしてくれる人って、一体全体誰がいるの?結局は、相手をしてくれるのは自分の子供・・・というか子孫だけになってしまうわけ。だからこんな教科書を作って子供たちをダメにしたがるわけです。
もし韓国人の子孫がマトモな発想をしてしまったら、こんな教科書を疑問もなく読んでいるような祖先は相手にしませんよ。
ダメダメな人間は、そのダメダメな集団から脱却しようとする人間の行動を妨害するものなんですね。この教科書はそのような効果があるわけ。

12.クレーマー・・・具体的にモノを考える習慣がないし、他者に対して具体的な説明をする習慣が身に付かないので、他者と上手に会話することができないわけ。その上に被害者意識が加わるので、どうしてもクレーマーになってしまう。

「一体、どうして欲しいの?」
「一体、アナタたちはどうしたいの?」

そう聞いても答えられないものでしょ?

そもそもそのような具体的な思考をするようには訓練されていないわけ。
しかし、こんな教科書で勉強した人たちが、他者とどのようにコミュニケートするの?
まさにこの教科書のように、感情的なスタイルで文句を言うだけで終わってしまうわけ。だってクレームをつけることくらいしかネタもないでしょ?


【トホホな記述】

韓国の教科書には結構トホホな記述が多くあります。まあ、狙ったユーモアではないでしょうが、笑えますよ。

1.新羅の王様の記述・・・「王が自ら藩田を耕して農事の規範を示したりした。」・・・今でも将軍様が何かと模範をお示しになりますよね?

2.16世紀頃の農民の食料に関する記述・・・・「政府は雑穀、ドングリ、木の皮などを加工して食べる方法を提示した。」・・・今でもやっていますよね?

3.陽明学に関する記述・・・「理屈をこねくり回す」だけではダメだ!これからは知行合一(知識と行動が一体になること)の陽明学だ!と言うことで、李氏朝鮮時代に陽明学の研究が始まり、結果的に立派な陽明学の学問体系が完成したとのこと。しかし、そんな立派な学問体系に意味はないというのが知行合一の陽明学じゃあないの?日本の大塩平八郎のように実践してみたら?

4.文盲率・・・日本が統治を始めた頃の、韓国の文盲率は80%だったそう。日本統治前までそんな統計も無かったようです。しかし、80%が字を読めないのなら、日本語で教えるのも理にかなっていますよね?ちなみに日本が韓国人に行ったとされる創氏改名だって、それ以前はほとんどの韓国人は苗字がなかったのだから、当然といえば当然ですよね?それに強制ではないわけですし。だからこの教科書では、その法律名も年号も出てこないわけ。

5.税制・・・16世紀頃の韓国の税制は「租庸調」を基礎にしていたらしい。それって日本だと大化の改新で制定された制度でしょ?韓国人が経済的な面を全然考えていない人間であることが実によくわかります。1000年も進歩がないわけ。

6.満州開拓についての記述・・・韓国人は満州の開拓を行ったらしい。その記述が秀逸です。「現地土着民から圧迫を受けながらも、荒蕪地を開拓した・・・」とのこと。しかし、これって、まさに侵略じゃあないの?それこそ現地土着民に謝罪しないとね。


私は何も偏見を持って、この「韓国国定歴史教科書」を読んだわけではありませんよ。

この教科書は図書館などで借りることができると思いますので、読者の方々も一度、虚心坦懐にお読みになられると、興味深いと思います。

何でも韓国では教科書は、この国定教科書一種類しかないそうです。まさに大日本帝国そのものですよね?

こんな教科書で歴史を学んでいる韓国人が、「ああ」なってしまったのも当然と言えば当然。そんな「おバカ」な韓国人が選んだ大統領のノ・ムヒョン氏が「おバカ」なのも当然と言えば当然。

だいたい大統領になる前に一度もアメリカに行ったことがない、なんて文明国では考えられないことでしょ?

しかし、今まで検討してきた韓国の教科書から見て、そのような人間が大統領になってしまうことも理解できますよね?それに、私が提示したこの教科書の特徴を思い起こすとノ・ムヒョン氏の発言が実に理解しやすいでしょ?

この教科書を読んでいると、「作者」が頭から湯気を出して怒って書いているのはわかりますが、何が言いたいのかさっぱりわからない。それに・・・この本からどうやって試験問題を作るのかな?だってこの教科書には「客観」がなく「主観」だけなんですからネ。

他者に対して物事を伝えるのは、客観的な5W1Hを伝えることが先で、次に個人的見解でしょ?そのようなスタイルでないと、聞いている側の人間は、「この人・・・いったい何が言いたいの?」となってしまいますよね?
まさにこの教科書はダメダメの聖典と言えるくらいです。

この教科書は人にわかりやすく伝えようとする意欲そのものが無く、ただ自分の思いを勝手に言い放しているだけの本なんですね。

実際のダメダメ家庭に育った読者の方の中には、ご自分の両親の「語り口」を思い出す人もいらっしゃるでしょう。

この教科書の文章と、ダメダメ家庭でのおなじみのセリフ

「一体誰のためにこんな苦労をしたと思っているんだ?!」とか

「オマエのために人生を棒に振ってしまった・・・」

とは実に近い位置にあります。あるいは、「悪いのは全部○○のせいだ!」という犯人認定にも近い。まあ、そのグチや犯人認定を言う対象がどこになっているのか?

この点は、日本人には悲劇的なことですね。

日本の会話不全のダメダメ人間が往々にして、韓国にシンパシーを持っている例が多く見受けられるでしょ?会話のできない人は、会話ができなくてグチばかり言っている人間と一緒になって、自分自身もグチを言いたがるもの。

まあ、私がよく書いていますが、それってハエやゴキブリが腐臭に吸い寄せられるようなもの。

グチを言うことが、一時的な楽しみになっていることはわからないでもありませんが、自分自身の尊厳を大切にすることが、ダメダメからの脱却の第一歩でしょ?こんな「人の話を聞くつもりもない」人たちと一緒にいて何が楽しいのかな?

いずれにせよ、図書館で借りて、実際にお読みになってみることを是非お勧めいたします。

まあ、読んで不快になることは・・・請け合いますが・・・
韓国を考える際に参考になるだけでなく、日本のダメダメ家庭を考える際にも非常に参考になると思います。

(終了)
***************************************************
発信後記

メルマガの文章作成には、結構準備時間がかかったりします。
今回の文章だって、そもそもこの教科書自体が、日本語で500ページもあって読むのも大変。
ということで、取りかかった頃には中国や韓国での反日デモもまだ起きてはいませんでした。

今回のお題は、良くも悪くもグットタイミングになってしまいました。

多分、中国の教科書も、韓国と同じように異常な教科書なんだろうと思います。
だって、卒業した生徒があのザマなんですからね。

何も日本の教科書に問題が無いというわけではありませんが、韓国の教科書は100%の異常と言えると思います。というか、日本だったらこの執筆者は変質者扱いですよ。変質的なクレーマーが執筆した教科書で勉強?させられている韓国の生徒は、ある意味お気の毒ですが、そのうっぷんを日本に向けてくるのは、はた迷惑ですね。

以下に管理者による追加文章 (10年12月21日 アップ)

さて、本文においては、韓国の歴史教科書に表れている、韓国人のメンタリティーについて考えております。

私としては、何も韓国人の問題そのものを指摘したいと思っているわけではありません。

韓国人というスクリーンに映っているダメダメのメンタリティーを考えているだけです。

韓国人なり韓国の歴史教科書そのものに意味があるわけではなく、ダメダメの問題を映すのにあたって出来がいいスクリーンというだけです。

だから、今回言及したメンタリティーに近い様相は、別のところでも見えたりするもの。

それこそ、インターネットの掲示板において湯気を出しながら書き込んでいるような人間のメンタリティーと共通しているわけですし、別の国との共通性もあったりする。

それこそ、別のところでまとめておりますが、ヨーロッパのポーランドのメンタリティーとも実に近い。

あるいは、日本だと、茨城県の歴史を調べてみたら、なんとも、同じようなことをやっている。

ここで、その共通性をピックアップしてみましょう。

ちなみに、このようなメンタリティーは、水戸藩に関わる幕末での大事件である「天狗党事件」では典型的に見出されたりします。この「天狗党事件」については、皆さんも、例のウィキペディアでも使ってチェックしてみてくださいな。

ということで、茨城県と韓国の歴史において共通してみられるダメダメの様相をピックアップしてみましょう。

1. 対抗心・・・何かと言うと、スグに「あの○○に対抗する!」と息巻く。そして、それこそ平安時代の平将門のように乱をおこしたり、論争を起こしたりする。

2. 身近なものを否定・・・それこそ、「尊皇攘夷」だって、長州や薩摩のような外様の大名が言うのなら分りますが、御三家が尊皇攘夷というのはヘンでしょ?

しかし、自分の父親が嫌いなことを自分で認めたくない人間が、「お祖父さんは立派な人だった・・・」と過剰に言ったりする例があることを考えれば、その尊皇攘夷の心理的な意味も理解できるようになるわけです。より遠くのものを肯定することで、目の前のものを否定しているわけです。

3. 政治家よりも、政治論者・・・水戸藩には色々な政治論者が出てきますが、実際の政治家はほとんどいない。実際に出てくる政治家も、「善政を行った。」とかの漠然とした記述になって、「どんなデーターをもとに、どのような施策を進め、どのような効果を得たのか?」という点が出てこない。「べき論」を用い、現実を否定しているだけの学者さんが多いんですね。そして、現実否定的な主張をすると改革派とか言われてしまう。そんな流れは、韓国の歴史教科書ではおなじみのもの。

4. 各派対立・・・それぞれの考え方について、データーを取って検証するという発想がないので、「議論のための議論」になるばかり。だから、政治論者の各派対立が深刻になってしまう。だって、主義主張の有効性を検証しようがないんだから、論争になったら収まりようがありませんよ。

5. 内輪もめ・・・ということで、内部対立が頻発することになる。水戸藩の前の時代から、やたら内輪もめが多い。

6. 報復・・・内部対立が深刻化するので、自分の側が被害者だと確認する儀式としての報復行為が頻発し、その規模も過激になってしまう。親類縁者を皆殺しするという凄惨な報復行為が習慣化してしまう。

7. 芸術の不在・・・自分の内面を見るよりも、対立している相手方を見てしまうので、自己逃避が進行してしまう。だから、自分の内面を厳しく見つめた成果といえる芸術作品が生まれない。まあ、茨城県出身で有名な芸術家となると画家の横山大観くらいとなるわけですが、その名前の大観の中の「大」の字は、当人のコンプレックスを示すことが多いもの。大きいことを肯定したのではなく、「小さい自分がイヤ。」という二重否定的な心理状態につながることも多いんですね。そもそも、その大観の作品も、芸術的に見ると「悪くはない」と言った二重否定的な価値でしょ?

目の前の現実を踏まえ、自分の意向を自覚して、異なった見解を持つもの同士でも、会話によって合意形成を進めていくという発想がない。

現実無視のご高説を「べき論」で連呼するだけ。

そして、気に入らない相手に対しては、スグに武力に訴えることになる。
そして、武力に訴える自分に酔ってしまう。

それこそ、「桜田門外の変」もその典型と言えます。
茨城の歴史は、犯人認定と報復行為ばかりの歴史なんですね。

それこそ、「尊皇攘夷」だって、「悪いのは全部、今の江戸幕府のやつらだ!」とか「外国のヤツらが諸悪の根源だ!」という発想でしょ?
それはいいとして、「では、結局は、アンタたちはどうしたいの?」となってしまうでしょ?

まあ、そんなことばかりしているから、水戸藩は尊皇が実現された明治政府に対して人材を提供できなかったわけでしょ?敵が共通となっている時点では一緒にやれていても、達成目標を共有することはできないわけです。

クレームを付けることには優秀であっても、自分たちの理想を実現させるという肯定方向には何も貢献できない。

まるで、革命家チェ・ゲバラのできそこないが集まったような人物ばかりが登場してくる歴史なんですね。

ちなみに、私としては、何も茨城県の方を蔑視しているわけではありませんよ。
幸か不幸か、ダメダメを映すにあたって、優秀なスクリーンというだけです。
そして、その点について自覚できれば、現在茨城県にお住いの方がコケないように注意することができるわけですし、芸術家も出てくることにもなるでしょう。
R.10/12/21
http://kinoufuzenkazoku.hariko.com/05-04/05-04-22.htm


27. 中川隆[-13893] koaQ7Jey 2018年7月22日 10:38:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17236]

日本の皇室・政治家・官僚・マスコミ・新興宗教・芸能界・スポーツ界・ヤクザ・パチンコ・風俗・被差別同和部落の中枢は既に在日朝鮮人に乗っ取られている

の詳細は

http://www.asyura2.com/18/kokusai23/msg/472.html#c49


28. 中川隆[-13891] koaQ7Jey 2018年7月22日 11:04:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17236]

【政治】元陸将補・倉田英世「2009年民主党政権に分かっているだけでも70人の日本に帰化した在日朝鮮人が国会に送り込まれた」★3

1 : ◆CHURa/Os2M @ちゅら猫ρ ★:2013/09/25(水) 09:17:23.65 ID:???0
目下韓国は、外交上近隣諸国の中から、特に日本に対して従来からの関係を廃棄して捨て、
中国べったりとなったことを両国首脳会談で明確にした。

しかも韓国情勢は、財政と外交の失敗で国家崩壊に向けて緊迫の度を加えている。

親日韓国評論家の情報によれば、朴槿恵大統領は、反日教育で育ったせいであろうか、
就任早々、率先して中国に擦り寄り。我が日本に対しては敵対的態度を見せている。

彼女は、「日本との暗黒の加害者と被害者という立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と発言。
「日本が韓国の主張を全面的に受け入れて行かなければ、パートナーになることはあり得ない」と強調している。

しかし、筆者は全く反対の加害者韓国、被害者日本という図式を直視できないのであれば、
永遠にパートナーになってくれなくて結構だと思っている。

日本国内での在日朝鮮人工作は、帰化した在日朝鮮人である「なりすまし日本人」の活動が主体である。

過去に想起した在日朝鮮人工作は、第1に、仲間を国会に送り込むことから始められ、
2009年朝鮮人政権である民主党政権に、分かっているだけでも70人が日本の国会に送り込まれた。

第2は、「なりすまし日本人」として行動する指示を受けて、朝鮮人による民主党政権を成立させる主体となったのは情けないことにマスコミであった。
NHK、フジテレビ、TBS、テレビ朝日、日本テレビなどが、韓国・北朝鮮から多大な影響を受けて自他ともに許し合いの下で継続している。

これらのテレビ局、産経新聞、読売新聞を除く新聞界、世界、岩波などの左翼系雑誌がみな傘下に入っているのだ。
一般の日本人が与えられる、TV、新聞、雑誌をどう理解して情報を収集すればよいのか、日本の将来が懸念される危機である。

これは日本人の多くが、物質文明のみに偏向して打算的になり、精神文明を放棄し、何とか食える物質文明の恩恵に押し潰されている生活を
「平和だ」と考え満足しているのである(8月2日中韓を知りすぎた男)。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/38738
>>2

前スレ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1380026017/

2 : ◆CHURa/Os2M @ちゅら猫ρ ★:2013/09/25(水) 09:17:38.55 ID:???0
>>1より

現実には、目下の日本は、「平穏ではあるが決して平和ではない」ことを周囲の、国内の、そして世界の情勢からつかみ取り、
古来の日本人精神に立ち返り、大和魂を揺るぎないものにして行く意思がないならば日本の明日はない。

日本は、世界唯一の心温かい人種である日本人として、支那事変、日清戦争以前から裏切られても、
裏切られても近傍であり、戦争になった場合に地政学上の位置関係が良好なことから面倒を見続け、相応の国家になる事を願って支援してきた。

しかし歴史教科書を捏造して日本を蔑み、各大統領が就任早々は手抜きをして日本を持ち上げ、
任期が近くなると徹底的に蔑んできた実態を振り返える必要がある。

さら現実にはありもしない慰安婦問題、日本領土竹島への不法上陸を行う国家は、個人で言えばえば最悪の犯罪人であることから、
今度何かの問題を起こしたら、完全に外交関係を断絶する勇気を持つて、突き放すことが最良の外交的処置であると考える。(抜粋)

倉田 英世 Hieyo Kurata 元陸将補

昭和28年3月長野県立野沢北高校卒業、昭和33年3月防衛大学校卒業(応用化学科)、昭和41年3月防衛大学校研究科卒業(修士相当)。
昭和33年3月自衛隊入隊、昭和49年8月統幕会議事務局第2室・技術情報班長、昭和56年8月防衛庁技術研究本部陸開発官付5班長、
防護マスク、防護衣及びヘルメットの開発担当、昭和58年8月陸上自衛隊化学学校教育部長、
昭和63年3月陸上自衛隊幹部学校・第4戦術教官室長、平成 元年4月自衛隊退官(陸将補)


4 :名無しさん@13周年:2013/09/25(水) 09:19:39.34 ID:IUU16xmn0
「このなりすまし日本人」として在日韓国朝鮮人が
日本破壊工作をしていて、それにマスゴミがかたんしている事実は、
もっともっと広めないといけないね。


12 :名無しさん@13周年:2013/09/25(水) 09:23:17.88 ID:emKHY7lL0
大韓民国金儲けの秘訣
 友好は小さな利益だが、入り込んでしまえば丸儲けになる。

あれはほんとうに役に立つ知恵だな。w

465 :名無しさん@13周年:2013/09/25(水) 20:49:27.40 ID:f3mCdwl30
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
民主党のやったこと: 2010年「グローバル30(留学生30万人受け入れ)」中身は中国と韓国人だらけ
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

       民主党 日本の大学研究室から日本人学生を減らすように指示

政府から今後5年間で日本人の大学院生を大幅に減らすよう指示が出ている。民主党が2010年
に掲げた留学生30万人受け入れの一環が始まった。具体的には韓国企業の研究員や韓国学生
を院生として大学の研究室に受け入れるように指示が出ている。さらに韓国の修士課程で月22万
円+年間研究費50万円 、博士で月37万円+年間研究費100万円を支給する。日本人の学生に
は現金支給など無い。さらに大学教官も韓国人枠を25%にするように指示がでている。

 今後は大学研究室の特許技術は全て韓国企業に筒抜け盗まれていくことは間違いない。さらに
大学教官も韓国枠の増大で、日本人学生追い出しが研究室で行われるだろう。すでに東大などで
は左翼教授が、保守派の学生に単位を与えず追い出すなどは日常化している。このように今後は
日本の大学は韓国人教官が支配し、日本人を研究室から締め出していくだろう。民主党は韓国等
の留学生受け入れ予算を434億円に増やし、逆に日本人が海外へ行く留学予算を25億円に減ら
す始末だ。
                  ↓
  
【民主党】2010年「グローバル30(留学生30万人受け入れ)」中身は中国と韓国人だけ75%以上
 http://www.logsoku.com/r/news4plus/1340955880/l50
【民主党】留学生30万人=国民の血税で中国工作員を援助する矛盾、留学生の75%は中国・韓国出身、月額25万円支給も
 http://www.logsoku.com/r/news4plus/1340955880/l50

466 :名無しさん@13周年:2013/09/25(水) 20:49:57.48 ID:43oQnlfL0
本国は近所でいつでも帰れるのになぜ日本国籍がほしいのかわからなかった。
そういうわけだったのか

467 :名無しさん@13周年:2013/09/25(水) 20:52:02.75 ID:f3mCdwl30
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
民主党のやったこと: 2012年 生活保護の在日外国人の国民年金保険料が全額免除に
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

■ 生活保護の在日外国人の国民年金保険料が全額免除に

「 "国籍による差別だ" と在日朝鮮人から批判が出た為」 2012年10月20日
   http://megalodon.jp/2012-1022-1841-37/news.searchina.ne.jp/disp.cgi?
y=2012&d=1020&f=politics_1020_003.shtml
厚生労働省は20日までに、生活保護を受給している在日外国人の国民年金保険料について、
本人が申請すれば自動的に全額免除とする方針を決めた。
近く地方自治体に周知する。多くの自治体と日本年金機構の出先機関は従来、日本人と同様に申請なしで一律全額

免除となる「法定免除」としてきたが、機構本部が外国人を適用外とする見解をまとめたため「国籍による差別だ
」との批判が出ていた。 (情報提供:共同通信社)


井上太郎@kaminoishi 6月21日
以前にもツイートしましたが、小宮山元厚労大臣命令で、
生活保護を受けている在日朝鮮人の国民年金保険料は、本人が申請すれば自動的に全額免除にしました。
在日は全額免除で、満額の国民年金を受け取れます。
小宮山の独断とも言える命令、年金をかけてないからもらえないのは外国人差別という民主。 2013年6月21日
https://twitter.com/kaminoishi/status/347982053469474816


470 :名無しさん@13周年:2013/09/25(水) 20:55:33.31 ID:f3mCdwl30
▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
民主党のやったこと:「外人の子ども手当」は、外人は50人分まで、長妻が市町村に大臣命令指示
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
 
【民主党】「外人の子ども手当」は、外人は50人分まで、長妻が市町村に大臣命令指示
                                   ( 厚生省 2010年4月9日)
外人は申請だけすれば50人分までは支給するとミスター年金長妻が約束している。
外国人が不正に請求してくる問題で、長妻生大臣は市町村に対して外国人就労者
が扶養する「子供手当」支給は、人数制限として50人迄しか支給しないと示した。こ
れを受けて、外国人は50人分までは申請さえすれば「子供手当」がもらことになった。

 50人×17万円(半年分)= 850万円 6月に外人口座に振り込み

                     ↓

【民主党】 驚愕!子ども手当、出稼ぎ外国人の母国に子供が50人いても支給★7
http://www.logsoku.com/r/newsplus/1268264001/

【民主党】 「子ども手当を。母国に子供4人」→年間62万4千円(母国の年収15年分程)支給★11
http://www.logsoku.com/r/newsplus/1270313344/

【民主党】 子ども手当:韓国人男性が554人分申請 孤児と養子縁組 
http://mainichi.jp/select/today/news/20100424k0000m010117000c.html

【政治】 鳩山政権 「今年の子ども手当、外国人の『海外に住む子供』50人いたら支給」…効果不明だが、選挙前に支給する★17
http://www.logsoku.com/r/newsplus/1268259764/

【民主党】 「子ども手当」、出稼ぎ外国人が母国に50人子供いても支給
http://j-123.iza.ne.jp/blog/entry/1497435/


509 :名無しさん@13周年:2013/09/25(水) 22:07:09.57 ID:DKT+HcyT0
【民団】「地方参政権、上程11年、もう待てぬ」…共生社会実現のために「われわれは必ず勝つ。
     勝たなければならない」 http://akichin36.iza.ne.jp/blog/entry/1071313/

民主党に政権を取ってもらい地方参政権を勝ち取ろう」… 在日韓国人、魯漢圭(広島市)

地方参政権があれば、実質日本国内に在日の独立国を建国することが可能。半島からのニューカマーを、
引き入れて日本人を追い出せば誰も、手出しできない。
治外法権の在日独立国家を完成させることができる。
まずはカナダのケベック州の様な、特別州を作り出すのが在日の当面の目標で、そのための今最も力を入れてるの
が、地方参政権獲得闘争の完全勝利。
それは確実に実現へと近づいている。在日の地方参政権獲得で表社会を制圧。 既に裏社会は殆ど支配下に置き、
その暴力と経済力を背景に日本の政官財界を侵略する。
60万在日の経済力は日本経済の2割に相当し、それは実に韓国の経済力の2倍という凄まじい物だ。
経済力に加え、地方参政権によって政治力も手に入れ。やがては軍事力も手にした日には完全に日本から独立した
世界で最も豊かな国家を手に入れることが出来る。
もはや完全に在日の奴隷状態の日本人には、在日国家の軍門に下って貰うことになる。


564 :名無しさん@13周年:2013/09/26(木) 00:12:05.38 ID:vr/rLcJ60
「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」

2008年1月に民主党内に設置された議員連盟である。
在日韓国・朝鮮人など「永住外国人に地方選挙権を付与する法案」を通常国会で提出し、実現させることを目的としている。
会長は岡田克也。

2008年1月の発足時には、民主党の衆参議員65人(衆院29人、参院36人 計65人)が参加していた。


889 :名無しさん@13周年:2013/09/29(日) 08:29:56.29 ID:5C1nVJVk0
一万円札のオジサンの意見

福澤諭吉「脱亜論」 1885年3月16日 時事新報

日本の不幸は中国と朝鮮だ。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、
もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、 日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
地球規模で情報が行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、
過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。
国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。

日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
http://uni.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1380068243/


29. 中川隆[-13836] koaQ7Jey 2018年8月04日 07:51:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17578]
2018年08月03日
ボクシング界のドンは悪のドンキホーテ? / 朝鮮人への偏見を助長するマスコミ
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68727975.html

「私は韓国人」と名乗ったジャーナリスト
Yasuda 2( 左 / 拘束された安田純平 )


  元信濃毎日新聞社のジャーナリストである安田純平は、2015年、紛争を取材すべく混乱するシリアに潜入し、アル・ヌスラ戦線に拘束されたのでは、と見なされていた。そして、今年の7月25日に撮影されたと思われる映像がインターネットに流れ、テロリストに拘束された安田氏が映し出されていた。銃を構えた男2名の前で、安田氏は命乞いをし、驚くことに、自分の口で「ウマル」と名乗り、「私は韓国人です」と述べていたのだ。この映像を民放の報道番組で観た人は、「えっ !! 韓国人?」と眉を顰めたことだろう。大抵の日本人は行方不明の報道を耳にして、「日本人ジャーナリストが拉致された !」と思っていたから、まさか「韓国人」が攫われたとは考えていなかった。もし、安田氏が「韓国人」ならば、おそらく在日南鮮人なのかも知れない。だが、一般国民には確かめようがなく、本来なら信濃毎日新聞社が「事実」を公表し、彼の国籍を明らかにすべきだ。

  しかし、我が国のマスコミ業界には奇妙な因襲がある。すなわち、「報道しない自由」や「取材しない自由」、「編集権の自由」、「朝鮮人や支那人の素性だと詮索しない自由」、「訊かれるまで黙っている権利」、「社内のスキャンダルは隠蔽する方針」、「自分の情報公開はしない主義」など、唖然とするような掟があるのだ。今回の件に関しては、安田氏が嘘を強要されたという可能性もあるので、彼を一概に「南鮮人」とは断定できないが、かといって在日鮮人である可能性も捨てきれない。毎回思うけど、日本のマスコミは帰化人の素性や経歴を隠す傾向が強いので、一般国民からの信用を失い、このような隠蔽体質が却ってインターネットの暴露サイトを賑わせている。一部のテレビ局は「本人が公表しないので、それを尊重して民族性には触れないことにしています」と答えるが、取材対象がアメリカ人やドイツ人なら、躊躇無く国籍や民族に触れるはずだ。でも、朝鮮人や支那人だと「NG」なんておかしい。安田氏の「韓国人」発言をフジテレビは報道したのに、テレ朝とTBSは意図的に削除して、「助けて」の部分だけしか紹介しなかった。テレ朝の番組しか観なかった人は、安田氏の全映像を目にしないまま、情報が遮断されたことになる。これは明らかな情報操作じゃないのか?

  もう一つ疑問がある。もし安田氏が「韓国人」なら、救出する義務は韓国政府にあるんじゃないか? 彼の「日本国パスポート」はインターネットで公開されているが、なぜか「「純平」という名前だけ映されており、「安田」の姓はモザイクがかけられている。顔写真の部分は鮮明に映っているのに、どうして「安田」の部分を隠蔽するのか不思議だ。おそらく、彼の姓が朝鮮名だからじゃないのか? もし、彼の姓が「安(アン)」といった朝鮮風だと、朝鮮系日本人とバレてしまうから、安田氏の仲間が隠したのかも知れない。また、彼を拘束したテロリストが「韓国人」と名乗らせたのは、安田氏のパスポートが韓国政府発行の旅券だったからかも知れないぞ。安田氏は韓国のパスポートを使って出国し、それを保持したまま拉致されたから、テロリストたちは彼を南鮮人(Korean)と判断したのだろう。しかし、肝心の安田氏は朝鮮語を話せなかったから、やむを得ず「日本語」で助けを求めたのかも知れない。たぶん、中東のテロリストは日本語と朝鮮語の区別がつかないから、そのまま動画を流してしまった、とも推測できる。

  今回の事件で腹立たしいのは、勝手にシリアへ潜り込んだ安田氏が、日本政府に懇願し助けを求めていることだ。彼は渡航前に外務省の警告と禁止を知っていたのに、スクープ映像や特ダネが欲しくて、敢えて危険を犯し、案の定、捕まったら「助けてくれ !」と泣きついたのである。「人権」に弱い日本政府は、安田氏を救出するために、テロリスト組織に身代金を払うかも知れない。今のところ払うとは明言していないが、水面下で交渉している可能性もあるから、国民に内緒で大金を払い、彼を解放してもらうことも考えられる。たぶん、安田氏が無事に引き渡されても、「いくら払ったのか」は公表されないだろう。つまり、金額を発表すれば政府批判が湧き起こるから、身代金の額は伏せておく、ということだ。厄介事に関しては、「うやむや」にするのが一番。外国だと、「テロリストの要求には屈しない」というのが鉄則なのに、日本人は簡単に折れてしまう。だから、テロリストは日本人のジャーナリストに目を附け、拉致が成功すると強請(ゆす)ってくるのだ。日本政府のこうした甘い対応を見れば、他のテロリストも脳天気な日本人を拉致して大金をくすねようとするだろう。こうした不甲斐ない対応をさらけ出せば、外国が日本をテロ支援国と思うのも無理はない。

  ついでに言えば、安田氏の救出が切っ掛けとなって、他の日本人にも拉致被害が発生するかも知れない。しかし、大量のアジア人が聞かした現在、支那系帰化人やフィリピン系帰化人が東南アジアで攫われる危険性もあるだろう。もし第二第三の拉致が起こったら、日本政府は再び大金を払って、犯人と交渉するはずだ。そして、相手の言いなりになって、提示された金額を黙って払うかも知れない。政権の閣僚や外務省の担当官にしたら、提示された身代金などは、所詮「他人のゼニ(税金)」だから、いくら渡したところで自分の腹は痛まない。もし、身代金を値切って拉致被害者が殺害されたら、総理や政府の重鎮が非難されるから、素直に全額払った方が賢いと考えるはずだ。でも、先祖代々日本に住む日系日本人にしたら、「どうして、こんなアジア人に何億円も税金を払うんだ?」と腹立たしくなる。「邦人」と言っても、怪しい方法で入国し、簡単に帰化した外国人だから、普通の日系人にしたら「同胞」ではない。北鮮に拉致された日系国民は30年以上も放置されてきたのに、アジア系帰化人だと即座の救出なんだから忿懣やるかたない。

終身会長が君臨するアマチュア・ボクシング界

  「朝鮮人」という素性を報道しない大手マスコミの例として、日本ボクシング連盟を牛耳る山根明(やまね・あきら)会長の事を挙げることができる。山根会長については各ワイドショーが盛んに取り上げ、唖然とするような問題を取り上げていた。例えば、山根会長がホテルに泊まれば常にスウィート・ルームが用意されるし、大好きな麻雀となれば、大勢の部下達が会長の“雄姿”をじっと観戦せねばならない。でも、テーブルに呼び出された相手は「接待麻雀」と分かっているから、“微妙な”プレーで会長様を勝たせるよう仕組まねばならないから大変だ。テレビ番組の司会者が面白がって茶化していたけど、会長の部屋に用意されるお菓子や飲料水、果物を見ると、「あんなに多種多様なスナックが事細かく指定されるが、本当に必要なのか?」と首を傾げたくなる。しかも、選手が使うグローブは一社の製品が指定され、各選手は大会毎に「独占販売店」で新品を購入しなければならないという。だから、もしかすると、山根会長が販売会社と結託し、割高のグローブになっているんじゃないか、という憶測もあるのだ。

Yamane 1(左 / 山根明)
  こうした問題点もさることながら、何となく気になるのは、山根会長が抱く「偉大さ」への執着と「虚栄心」の発露である。例えば、全国大会が開催される式場では、会長だけに用意される「プレジデント・チェア」があったし、会長がホテルに到着となれば、大勢の者が歓迎の列を作って「お出迎え」しなければならない、という慣行があった。また、大会の開会式で代表生徒による選手宣誓が行われる際には、「山根会長のお陰です」という文言を口にせねばならない。しかし、世話になったことも無い高校生が、無理矢理、目の前のおっさんに向かってお礼を述べるなんて奇妙だろう。こうした理不尽なセリフを強要された選手代表は可哀想だ。

  だが、それ以上に赦せないのは、所謂「奈良判定」と称される八百長判定である。奈良県に愛着のある山根会長は、審判員達に判定の際、奈良県の選手に対し「有利」な判定をしろと、暗にプレッシャーをかけていたという。もし、これに従わない審判がいると、その造反者は大会の途中で帰るよう言い渡されたり、他の大会から排除され、干されてしまうそうだ。だから、審判の中には忸怩たる思いで圧力に屈し、たとえ「不正」と分かっていても、会長の「指示」に従う者がいたという。もちろん、こうした八百長判定に加担した審判は、良心の咎めに悩み、自分の犯した過ちを後悔しているそうだ。(ただし、疑惑の判定は山根会長の件だけではないだろう。他の連盟を取り仕切る幹部たちも、自分の子飼い選手に“甘い”点数をつけたことがあるんじゃないか。)

  しかと、もっと可哀想なのは、不正な判定で「敗者」にされた選手の方である。毎日辛い練習に耐え、全国大会を目指して頑張ってきたのに、「山根裁量」なる贔屓反対で奈良県の選手が勝ってしまうのだ。もうテレビで有名になってしまったが、岩手県出身の佐々木選手は、奈良県出身の中島選手に圧勝のはずだったのに、「山根判定」で中島選手に軍配が上がってしまったのである。この試合映像をYou Tubeで観た人なら誰でも、「まさか、佐々木選手が負けるなんて・・・。そんな馬鹿なことが !!」と叫んでしまうだろう。プロのボクシング選手じゃなくても解るじゃないか。これじゃあ、金メダリストの村田諒太選手が呆れる訳だ。2度のダウンが考慮されないなんて、まともなボクシングじゃない。報道番組によると、「敗者」にされた佐々木選手はショックのあまり、ボクシングを止めてしまったそうだ。八百長判定を下した審判は佐々木選手に土下座した謝るべきだ。良心が残っている審判なら、自分の弱さを悔やみ、自然と涙が込み上げてくるだろう。

  普通の日本人は裏取引のある八百長試合を特に嫌う。たとえ、国際大会で日本人選手が外国人選手に勝っても、その判定に不正や贔屓があれば、勝者となった日本人選手を侮蔑し、敗者にされた外国人に同情する。同胞だからといって、不正が赦される訳ではない。しかし、南鮮人は違うようだ。「疑惑の判定」と言えば、1988年のソウル・オリンピックで注目されたライト・ミドル級ボクシングの試合であろう。米国のロイ・ジョーンズ・シュニア(Roy Jones, Jr.)と韓国の朴時憲(ボク・シフン)が拳を交え、ジョーンズ選手が圧倒的に有利であったのに、判定は3対2で朴選手の勝利となった。この判定には会場の観客ばかりか、テレビ中継を見ていたアメリカ人や日本人もビックリ仰天。ジョーンズ選手は放心状態だし、彼の応援団からはブーイングの嵐。日本の視聴者だって、「えっっっえぇぇぇ!!!! そんな、まさか ! 信じられない!!!」と驚いたはずだ。全世界が注目する五輪大会で、こんな八百長判定が下されるなんて・・・。とりわけ、朝鮮を知らないアメリカ人の視聴者は、あまりにも“非常識”な判定だったので、何が起こったのか理解できなかった。

Roy Jones 3Roy Jones 1

(左: ソウル・オリンピックで闘ったロイ・ジョーンズと朴時憲 / 右: プロ・ボクサーになったロイ・ジョーンズ )

  しかし、アメリカの皆様、南鮮ではこんなの「普通」です。だって、世界で一番立派な朝鮮民族が、世界大会に登場したんですよ。優秀な朝鮮民族が、あんな黒人に「負ける」はずがない。しかも、会場は地元の首都。興奮する朝鮮人たちは、歐米人や日本人を睨み付け、「俺たちの縄張りなんだから、何か文句あんのか?」とヤクザみたいに凄む。フェア・プレーを尊ぶ日本人なら、「だって、ジョーンズの有効打が86で朴は32じゃないか !」と反論するけど、当時はまだ「嫌韓論」が普及していなかったから、朝鮮人への罵倒は遠慮され、津波のような朝鮮人批判は起こらなかった。しかし、日本のボクシング・ファンは明確に八百長と判っていたから、心の底で侮蔑していたはずだ。第一、いくらアマチュアとはいえ、才能に溢れるジョーンズの動きは俊敏で、パンチを放てば的確に朴の顔面を捉えたし、連打の攻撃も抜群だった。ジョーンズは後にプロ・ボクシング界に転向するが、そこでも輝かしい戦績をあげ、ミドル級からヘビー級の4階級を制覇。彼が全世界のボクシング・ファンに知られるビッグ・スターとなったのはご存じの通り。一方、勝者の朴が後にどうなったのかは、ほとんど知られていないし、誰も関心が無い。八百長判定で歴史の汚点になっただけ。いかにも朝鮮人の「英雄」らしい。

  この“いかがわしい”勝利を恥ずかしく思ったのか、試合後の薬物検査を受ける朴は控え室でジョーンズに再会し、自らジョーンズの「勝利」を認めたそうだ。(George Vecsey, "Sports of The Times ; Nice Gesture Substitues For Justice", The New York Times, September 26, 1997) まぁ、いくら朝鮮人とは言え、少しくらいは「良心」を持っているから、朴選手は母国の失態を詫びに来たんだろう。ちなみに、韓国側に買収されたのは、モロッコとウガンダ、ウルグアイからの審判員であったらしい。言いづらいけど、こうした国からの審判とか役人は、自国で腐敗が蔓延しているせいか、不正を不正と思わない奴が多い。たぶん、狡猾な朝鮮人のことだから、相当な金銭か物品を贈ったんじゃないか。朝鮮人や支那人は狙った相手を接待漬けにして、賄賂をこっそりと渡すのが得意技だから。彼らは相手の弱みを見つけて、そこを突くのが実に上手い。日本人には真似の出来ない藝当だ。

朝鮮人の虚勢と見栄

  山根会長の件に戻すが、この人物はとにかく威光を求めたがる。彼は自分が最高権力者でなければ気が済まない。式典で他の役員が皆パイプ椅子に坐っているのに、自分一人だけ豪華な革張りの「プレジデント・チェア」なんて常識外れだ。(後に、山根会長はこの強要を否定するが、それなら最初から断れ。一つの椅子だけ異常に目立つじゃないか。) しかも、見ず知らずの高校生に「試合を行う事が出来たのも山根会長のお陰です」と強要するなんて尋常じゃない。山根会長はまるで鮮人ヤクザの組長や北鮮の首領みたいに権力を振りかざし、連盟の役員や一般職員を「家臣」のように考えていた。だいたい、「終身会長」に納まること自体がおかしい。これって「終身独裁官」の間違いなんじゃないか。会長の息子である山根昌守(まさもり)も曾ては連盟の副会長に就任しているくらいだから、会長職の世襲を目指していたのかも知れない。

  インターネット上では、山根会長が元在日鮮人で、帰化した僑胞であるとの噂が流れている。(本名は「文甲明」で、父親は「文鳳基」、母親は「蘇斗理」であるらしい。) この情報源は、韓国のスポーツ紙らしく、事実か嘘なのか、今のところ分からない。ただ、山根会長の行動を見ていると、まさしく権力を握った朝鮮人のように思えてしまうのだ。連盟の私物化やグローブの独占販売、恣意的な助成金の分配、接待・歓迎のマニュアル化など、北鮮の金日成や南鮮財閥の総帥を髣髴(ほうふつ)させる行為である。また、山根会長が強要する個人崇拝も金王朝と同じで、「俺のお陰でお前らはボクシングが出来るんだぞ !」という恩着せがましい態度もソックリである。(巨大な彫像をつくらせなかっただけ山根会長の方がマシ。) 一般的に、朝鮮人は自分を「偉大」に見せたがる。山根会長が黒塗りのリムジンでホテルに赴き、大勢の職員を整列させるのも、個人崇拝の実践で、自分を大物にする為の演出だろう。朝鮮人は他人の心を金銭や権力で服従させることができると信じている。しかし、人間の心は謙虚さや無私の精神に魅了されるから、真に偉大な人物は尊敬を強要しないものだ。むしろ、自分を他人より低くし、それがわざとではなく、自然に行っている。日本人はこうした偉人に心を開く。イエズス・キリストが弟子の足を洗った逸話を思い出せば分かるだろう。

  自分の面子を異様に気にする朝鮮人は、常に他人からどう見られているのかが心配になり、矢鱈と虚勢を張って睨みを利かせようとする。人間としての器が極めて小さい朝鮮人の特徴だ。よく自分の家系が卑しかったり、学歴や経歴が無いことに劣等感を抱く朝鮮人は、とにかく名声を求めようと必死になる。例えば、気前よく他人に金銭を与え、豪華な食事に招待して「大人(たいじん)」ぶりを見せびらかす。また、偶然の機会があれば名誉博士号とか何とか勲章をもらおうと考える。たとえ、ボランティア活動に熱心でも、その根底には世間の注目を集めて何らかの地位を手に入れたいという欲があるのだ。そして、朝鮮人の見栄っ張りは有名だ。たまにいるけど、会社の景気が悪いのに、無理して外車にこだわり、新車のカローラより中古のメルセデス・ベンツを選ぶ朝鮮人がいるけど、我々から見れば実に滑稽だ。外見で品性は隠せないんだぞ。高級ブランド・スーツを身に纏っても、しょせん下郎は下郎に過ぎない。でも、親分気取りが大好きな朝鮮人は、後輩に舐められる事を極端に嫌い、懐が寒くても後輩の食事をおごってやるし、たとえ余裕が無くても「何かあったら俺に相談しろ」と粋がる。

  藝能界も同じで、朝鮮系のベテラン歌手や年長俳優は、出来るだけ子分を増やし、彼らの上に君臨する親分になりたいと望んでいる。日本人からすると馬鹿らしいが、人間的魅力や能力に乏しい朝鮮人は、「本当の俺はこんなもんじゃない」と現実を否定し、「本来あるべき姿」を妄想する。つまり、朝鮮人は自分の矮小さを認めたくないのだ。虚勢を積み重ねれば「偉大」に見えると思っているんだからアホは救いようがない。外見を繕えば中身など問題じゃない、とする神経は朝鮮人に共通している。「山根判定」で奈良県選手を大勢「勝者」にしてやれば、いずれ沢山のオリンピック選手が輩出する、と期待するのも朝鮮式の考えだ。ただ、世界レベルのボクシングは実力主義なので、八百長判定で“のし上がってきた”選手だと勝てない。ところが、山根会長は「村田(諒太)をチャンピオンに育てたのは俺だ !」と言い放つ。村田選手をアマチュア・ボクシング界のスターに留めておきたかった山根会長は、プロ・ボクシング界への転向に激しく反対したという。だから、自分に叛旗を翻す村田選手とそのコメントに激怒していたそうだ。事実、日テレが『スッキリ』に山根氏を招いて、村田氏の批判について質問したところ、不機嫌な会長は「生意気だよ !」とひどく「ご立腹」であった。何というか、まるで大手藝能事務所の社長みたいだ。

  もう一つ気になるのは、山根会長と暴力団(森田組)との関係である。日本大学の田中英壽(ひでとし)理事長もそうだったけど、スポーツ競技の「ドン(首領)」には強面(こわもて)の人が多い。山根会長は田中理事長と親しく、日大の客員教授になったというが、どんな「能力」を評価されて教員になったのか? そもそも、暴力団と昵懇の人物が、アマチュア・スポーツ界の総裁になること自体が非常識だろう。一般国民が勤める市役所や民間企業では到底考えられない。高校の先生や部活の顧問たちが頭を下げる「会長様」が、50年間もヤクザの友人なんて、人気漫画の『静かなるドン』(作 / 新田たつお)を髣髴させる光景じゃないか。しかも、山根会長は元暴力団組員から「引退勧告」を命じられたそうで、もし応じなければ会長の“過去”をバラすとの脅しを受けていた。でも、暴露されて困る「過去」って、どんなモノなんだ? ヤクザが切り札にするくらいだから、相当ヤバイ過去なのかも知れないぞ。たぶん、週刊誌は水面下で取材を行っているんじゃないか。だって、地上波テレビじゃ放送できないから。

  とにかく、安田純平や山根明が日系日本人なのか、それとも帰化鮮人なのか分からないが、こうした疑惑が出てしまうのも、マスコミが素性を隠蔽するからだ。話題となった人物がどんな家系なのかを報道することは、「人権」侵害に当たるとは思えない。もし、日本に帰化したアメリカ人やドイツ人がワイドショーで取り上げられたとして、彼らの出身国を述べたらプライバシーの侵害になるのか? ガリア系の在日フランス人を「ケルト人」、フリースラント出身の在日オランダ人を「ゲルマン人」と呼んでも、人種差別的報道にはなるまい。第一、アングロ・サクソン系のアメリカ人、あるいはチュートン系のドイツ人、ノルマン系サクソン人であった帰化人が、カンカンに怒って抗議するとは考えにくい。ところが、朝鮮人になると話が違ってくる。マスコミは通名や改名のみを報道し、本名を隠したまま日系日本人のように扱っている。取材能力の無い一般人は、マスコミの報道を信じるしかないので、内部情報に詳しい人物がインターネットで暴露せぬ限り、事件の真相を知ることはないだろう。朝鮮人や支那人に“特別”な配慮を示すマスコミが多いから、一般国民は益々その猜疑心を深め、非朝鮮系の人物をも「朝鮮系じゃないのか?」と疑ってしまうのだ。隠蔽体質のマスコミが従来の姿勢を改め、ドンドン帰化朝鮮人の闇を暴いて行けば、少しは国民の信頼を回復できるだろう。

  今でも朝鮮人が日本人から嫌われるのは、彼らが不都合な過去を闇に葬り、正体を偽って日本人に成りすますからだ。祖父母や両親が恥ずかしい過去を隠せば、その恥部は子孫に継承され、何時まで経っても朝鮮系は「よそ者」あるいは「鼻つまみ者」のままである。朝鮮系であることを恥じる朝鮮人は、さっさと荷物を纏めて祖国に還るべきだ。日本人は元々朝鮮人を嫌っているので、帰化鮮人は日系人以上に愛国者となるよう務めねばならないし、鮮人の家系を堪え忍んでも日本を愛する理由を見つけなければならない。単に「生活が快適だから」とか「朝鮮語が分からず、日本語しか話せないから」といった言い訳は、永住する資格にはならず、日本人からの侮蔑を招くだけだ。日本人にとっては自然なことでも、血統が違う朝鮮人にとって真の愛国心を持つことは誠に難しい。したがって、たとえ貧しい生活でも、在日朝鮮人や帰化鮮人は日本を去って、朝鮮の同胞と暮らす方がよっぽと幸せだろう。朝鮮人が朝鮮人社会で生活すれば、理不尽な民族差別は無いはずだ。また、朝鮮系の若者は半島に戻って、税金を払ったり、徴兵に応じて祖国の義務を果たすべきなんじゃないか。血税(兵役)逃れが立派な日本国民になるなんて信じられない。“良心的”ジャーナリストは、こうした点に敢えて触れないけど、彼らの遠慮が朝鮮系帰化人への侮蔑に繋がることを認識すべきだ。朝鮮人への嫌悪感を助長しているのは、案外マスコミであったりするから、世にはびこる「リベラル人権派」は皮肉な結果を生んでいる。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68727975.html


▲上へ      ★阿修羅♪ > 昼休み53掲示板 次へ  前へ


  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 昼休み53掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
昼休み53掲示板  
次へ