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にこにこ顔で いる 練習
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/308.html
投稿者 おどろき 日時 2016 年 3 月 05 日 08:55:24: cdMQTlXL/iMSs gqiCx4Lrgqs
 

にこにこ顔で いる 練習
http://wp.me/p74DhJ-3n

どうで あれば シンプルである ことの
ゆたかさを 感じられるのか
という テーマを もらっちゃったんだけど

にこにこ顔で いれば いいんだと
おれは 思うんだよな

なにかを 求めて 必死に なってたり すると
にこにこ顔も してられないけど
求めることを やめちゃえば いいんだ

求めるって いうことは
なにかが 不足してると 思ってる わけだけど
その 不足してるって いう 思いは
ほんとう なのかなあ

世の中の 常識に あわせて
そう お思っちゃうんだけど
ほんとうは 必要ない ものが ほとんど
なんじゃ ないかなあ

学歴とか 美人の おくさん とか
豪邸とか フェラーリの新車 とか

その 常識から はなれるって いう ことが
シンプルを もとめる 気持ちなんだろうな

不足してるのは
よのなかの 常識から はなれる きもち
シンプルを もとめる 気持ち なんだよな

シンプルで ある ことの きもちよさは
だれでも わかってるんだけど
なにかを 求める きもちを
いつも いつも 刺激されっぱなしに なってて
いつも いつも 必死に なってなきゃ いけない
というのが 悲しい現実に
なっちゃってるんだ

だから シンプルを 求める のは
けっこう たいへん なんだよな

だけど ものすごい うまい 手が あるんだ
それが にこにこ顔で いること
にこにこ顔で いれば
必死には なれないからね

そして 必死になにかを もとめる
思いこみ から はなれることが できる
そうすれば シンプルの きもちよさを 思いだせる
という わけなんだよ

いま おれは にこにこ顔で いる
練習中 なんだけど
こころから にこにこに なれなくても
顔つき だけは にこにこ顔に してよう
なんてね

シンプルで いることの きもちよさは
だれでも 知ってるんだけど
それは つまるところ
自分を みがるに すれば
無限のゆたかさと つながることが できる
という ことなんじゃ ないかな

ためるな すてろ
ふやすな へらせ
と よく 言われるけど
身のまわりに いろいろ ためこんじゃうと
もっと もっと ためないと 不安に なり
ためこんだ ものを 守る ために また ふあんに なり
という ことで 中毒症状みたいに
なって にっちも さっちも いかなくなる

シンプルで いれば
じぶんを みがるに していれば
まわりの世界の ゆたかさが 見えてくるんだ
そして その ゆたかさと つながることが できる
その つもりで いれば ね

昭和の初めころ までは
日本中のひとたちが
シンプルに 暮らして
まわりの 世界の ゆたかさを
我がことのようにして 楽しんでいたんだと
思うんだ
そして にこにこ顔で いたんだと 思うんだよな

そんな ことを 思いながら
にこにこ顔で いる 練習を してるんだよ

世界は 無限の ゆたかさで 満ちている
その 無限の ゆたかさを 見ようとすれば
いまの おれたちにも 見えるんじゃ ないかなあ

それを やって みたいんだよな おれは
無限の ゆたかさと つながって みたいんだ
それが シンプルって いうこと
たぶん できるんだと 思う おれなりに ね
あんがい 簡単かも しれない
まずは にこにこ顔で いることから
なんて 思ってるんだよな
−−−−−−
 

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コメント
 
1. 2016年3月05日 18:19:58 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[8]
よい悩みをもたれているようですね。そしてそれは必ず解決へと向かうでしょう。

悩みの多くは、自らを相対的な立ち位置に置いてしまうという、人間の癖を原因とするものですね。

いまなら、言葉遊びにも思える次の私の言うことも理解することは容易ではないでしょうか。

以前、「神聖視する」という言葉をここで述べたことがあります。
言い換えれば、「神聖視すること」とは「なんら特別視しない」ことです。

すべてはそもそも特別なのだから、特別さを追い求める必要はないのです。
何より優先して果たされるものとは「自己との調和」であるはずなのに、
人々は、「自己と非調和」して暮らしています。よって痛みを伴います。
なぜか、人は見晴らしの悪い観点から抜け出ることができないと自分に言い聞かせてだけいます。

これはのちにまた場所を借りて、スペースを頂いて書いてみたいと思います。

われわれが指すところの「自己」の意味は、
意識の段階によってそれぞれ意味を変えるようにいくつも存在しているといえますが、
最終的には、融和の中にすべてが自己と溶け合うという観点に進んでいくことは間違いありません。

よってわれわれは、現在においても、「あらゆるすべての事象は自己的表現とみなす」ということになります。
社会的枠組みはその真逆で、あらゆるものを分離分断し続けるように推進していく必要を常に感じている、ということのようですが、その構造機能を支えているのはわれわれの意識です。
それもまた現時点でのわれわれの姿だということができます。

こう考えてみれば納得がいくかもしれません。
「あなたは自己に包まれている」

そこにあるあらゆねものは、なんらあなたと区別することはできず、特別視するものはないということです。

対外的な評価などそこで気にすることはありません。恥の文化というものがなぜ推進されてきたのか、それは誰によって実現しているかを考えてみてください。
すべてはそれぞれが、他人の目を利用して、自分で推進してきたことだとわかるでしょう。

人の目を気にすれば、単純にそこであなたは、自分の望ましい意識に集中できていない、ということになります。

意識とは、常に自分の中心に在るように考えるのがただしいとしているでしょうが、
肉体と意識が交わる場所はすべて中心となりうるものだと理解します。
単に、意識の焦点が結ばれている場所から外れれば、
意識するのにどこか中心がひつようだという考えすら必要としなくなります。

すべての場所はあなたが差別視しない限り、あなたとの間に垣根を持ちこんだりしないものです。

望ましいのは、全体を常に俯瞰としてみることのできる見晴らしの良い場所にあなたがいるということです。

「神聖なものほど特別視するように」とする宗教の観点とは、
私は真逆のことを言っています。

そこで特別視すべき存在とされているのは、
そもそも敬愛すべき対象としてのことであるはずです。

敬愛することとは、その対象を遠く高く手の届かないところに置くことではない訳です。
それは相対的に自己蔑視を生むことにしかならず、また相手を差別するという行為です。またそこにあるのは、相手に特別な力を与えて、自分の力を失ってしまう関係性でもあります。
ゆえに相対的な立ち居地において比較することは、あらゆる蔑視につながります。

すべては特異な個性の表現的存在として、元来特別な意味を持っているのであり、
互いには、そこに気づきを与えられる存在として重宝します。

そうした意味ですべての存在はすべて「同じようになる」ことは在りませんが、
それぞれはかけがえのない特別な存在として、
ひとつのものを多角的な支店で支援しあい、支えあうのですです。

それぞれは、同じであるより、ばらばらであるほうが、より互いに良い刺激ときづきをもたらすといえるのであって、そうしてコミュニティを維持する働きがあります。

本来、自然な環境下においては、それらの自然な振る舞いをゆるし、
そこでそれぞれは、自ずと望ましいことにのみ、
自らに行動を促され(導かれ)るはずだといえます。

よって、そこではそれぞれが特別な存在であるといえ、
よって、何よりそれが当たり前であり、普通のことであるといえるのです。

よく「善行」といったものも、良心による振る舞いを人々は讃える節がありますが、
特別視することなく、単にできて当たり前のものであるのが基本である訳です。
ですから、あなたが自然な感性にあるとするなら、
自分が何かそのことで特別待遇を受けたり、報奨がうまれたり、
評価を受けたりするようなことを自分で違和感として覚えるのです。

ただし、もしそこに施しを受けたとする側ならば、
施しを受けて当たり前とするのではないというのは理解できることでしょうし、
そこでも素直にあたりまえに、感謝してそれを受ける関係性であればよいのです。


あなたの見る世界、触れる空間にはすべて、常時、恩寵としての空気が満ちています。
感謝するうれしさ、喜びの感情が、空間を埋め尽くしてあり、
その中にあなたが存在すると、そう想像してみてください。

愛情という水で満ちた海の中に沈んであなたがいます。

しかしそこでなぜ自分が、息苦しくいるかといえば、
その海水が自分の体の中へ流入してくるのを防いでいるのです。

あらゆる人の作った物事の捉え方を信じて、わざわざ体を壊してまで、
その未知なる外的知識の浸入を恐れるものだと見なして、抵抗してしまっています。

阻害のもととなるのは、広く知れ渡った常識といった、
道徳観を基本として生まれたルールという鉄条網に張り巡らされた保守的な守り、
恐れです。

すべての緊張の原因は、個人の中にある抵抗観念によるものでしかないわけです。
そこで知識とする道具とは、単に言葉の解釈であるため、立場によってその内容を真逆にもするものです。
自分に利点があると理解するためそれぞれの口に入れられるものですが、
おおよそ消化不良を起こして、それぞれの整合性を欠くためにしか働いていません。

たいてい単なる競争に勝ち残るため、または人をののしるために用いられています。
そうした人は、自分を正当化する必要性にせまられているのであり、
そのために次々にそのための知識を必要として、ますますバランスを崩していきます。

よって、絶えず頭に整合性を図ろうとして躍起になっているともいえます。

自分の頭に整合性が取れていないというのは、自分の立ち位置が常にふらふらして、
安定していないということです。

それは自分の考えに自信を持っていないことの裏返しで、
よって自分の考えをなんとしても押し通そうとします。
余計な力が入り、腕づくでも立とうと奮闘すれば、ますます、非調和の状態へと傾いてきます。

もし、あらゆるものは信頼なる友人であり、仲間であり、家族であるとすることができたとき、そこには融和の感情しか生まれません。


さて、ここで、あなたの感性が手腕を発揮します。

あなたがもし今現在、身体にわずかでもどこか痛み(抵抗意識)を抱えていると気づけたなら、そこから極力、緊張をとるよう勤めてみることです。

自然と同調すべく、意識的緊張を手放していくことを自らに宣言し、
そうすることで常に自身と同和し、そこから教えを請うこととなるのです。

今あなたはその状態に浸かっていることでしょう。

開放(解放)へと自然と導かれるのを自分に赦すことによって、ひとりでにあなたは何かをつかんでいきます。

すべての原因は自分に在ると宣言するとき、極力、
力とするものを使わずに自分をうごかしむるとすることで、
非調和の原因を取り除くことができるようになります。

あなたが望ましい状態にあるためにすべきことは、
自身がもつ抵抗感とするものをすべて探し出して、そこを解放の促しが訪れるのを赦すことです。


例えば、先ほどの例えのように、他者の目を気にせず、
唯一無二の自分の考えを信頼することができるということは、勇気を持つということですが、それはなんら当たり前のことだということです。

それでいてこそ頭の整合性がとれるというものであり、
それはいわば自分の二本の足だ立つということにほかなりません。

これは実際、実践できるものとして挙げますが、
その二本足で身体を支えてみようとするとき、そこで自分が普段意識せずどうした観念を抱いているかがよくわかります。

ふらふらするかもしれませんし、痛いところをカバーするように立つかもしれません。
また、ぐっと力を入れて立つかもしれません。

私が勧めたいのは、足の裏を手のひら同様に自然とひろげて大地へむけて足裏を開放するように立つということです。
そうして、足裏の緊張をまず解放します。
次第にふくらはぎへと向けてゆっくり確かめるように、緊張している場所をスキャンして、どんどん上へと意識の目を移動させます。

腰、胸、首、肩、腕、また頭頂へと力を抜いていくのですが、どうしても緊張してる部分を後回しにして、筋肉ではない別の力の流れを感じたら、その流れが止まらないように、自分の力を極力抜くことを意識します。

ふらふらしてしまうとするとき、よほど身体は不調和に歪んでいると考えますが、
そこで焦らず、ただどこに力みが抜けていないのかを探して、ゆっくり集中して、それを取り除くように働きかけていきます。

全体を融和、調和する方向へと向かわせると心で宣言していきます。

たいてい人があやまって思い込みとして持っているのが、
若いときの力がなくなったせいで、加齢による不調和は避けられないと考えていることです。

よって、単にバランスをとることをその場その場の、
外見的な見栄えだけをよくすることだと捉えて、その維持にだけ意識が向いてしまうことです。

力技で、立て直そうとすることによってそれがまた負へと傾く原因となるのです。

自分と調和することとは誰とも戦わないことなのです。
不調和の原因として考えられるものを見つけてもと対立しないことなのです。

よって、力みを極力捨てて立つ、そして歩くといったことをしてみればよいのです。

多くの人は、意識していないこととしながら、
普段から若さや力に対する衰えにまつわる観念を用いて自分をののしり、責めています。
そうしてはじめのうちは無意識的に若かったころの力を取り戻そうとして、
筋肉を使って体を支えようと必死になるかと思います。
しかし、慣れてくれば、無駄に筋肉が働いていることを痛みにて感じたら、
その感情をすぐさま、立て直すことができるようになります。

次第に精神的な負のスパイラルには落ち込まなくなります。
そこでようやく、肉体は自然との調和に向けて動き始めます。

最終的には一切筋肉の力を使わないで歩くということを目指してみてください。
天狗の一本下駄と同じです。

何をするにも、自然と調和することを目指していくと宣言するとき、
あなたはより自然に動こうと努力するようになります。

自己の調和が実現したとき、あなたは自分の上にも下にも人を作らないはずです。

人が変わらぬのは信じているものがみなと同じで、信じるものは全員で作っていなければならないという幻想です。

よって、それそのものの幻想が消えたとき、一気に不安に拍車がかかってしまうのです。

人が自然との融和、いわばあらゆる抵抗感情を消して融和の感情に浸るとき、
ただそこに当たり前の人の姿勢が現れてきます。
あらゆる非調和は消えていきます。調和が促されていきます。

ゆえにそこにいう人に必要な本当の勇気とは、なんのことはない、
何より自分と調和して、そして自己に集中できていることだということができます。

それを基本とする限り、人は誤りを見せないものです。

自身の頭に整合性がとれていれば、自然と身体も調律が取れていきます。

他人の影響力の介在しない自分の考えのみに信頼を持っていることによる心身の安定とは、
自分の二本の足で立つという当たり前のことであって、自立とは唯一そのことだけである、ということになります。

多くの人は、無理に整合性を取ろうとして、寄せ集めの知識で力づくで自分のバランスをとろうとしていますが、ゆえにそうしてバランスを崩すのです。

それぞれが本当に望ましいと思える自身の立ち位置にて、互いにあたりまえに自然に接すれば、それぞれの望むところも容易に見つけ、手にする事もまた容易になるとなっていくはずです。


2. 2016年3月05日 18:21:59 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[9]
Lu Zizianという方が居り、その方の118歳当時の映像が残っています。ぜひご覧になってみてください。

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