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多くの大好きなものを失った。だけど、この10年、私は一度も泣いていない<刻む3.11> (東京新聞)
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/873.html
投稿者 蒲田の富士山 日時 2021 年 3 月 07 日 22:30:51: OoIP2Z8mrhxx6 ipeTY4LMlXiObY5S
 

2021年3月7日 06時00分
 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/89954
 
 東日本大震災の教訓を心に刻むため、東京新聞など地方紙29紙が展開する協働企画に、震災を巡る多数のエピソードが寄せられました。随時、紹介していきます。今回は3人のエピソードです。

◆私は1人の命じゃない

 東京都江戸川区の会社員植松南美(みなみ)さん(23)=宮城県石巻市出身

 10年。私は一度も泣いていない。

 家も学校も先生も友達も親戚も近所の人も、多くの大好きなものを失った。だけど、この10年、私は一度も泣いていない。

 私は遺族じゃないから。

 遺体安置所や避難所、友人たち。周りを見渡して、私よりもっと悲しい人がいるんだから、私よりもっとつらい人がいるんだから、私は泣いてはいけないと、強くならなければいけないと、当時、子どもながらに思わざるを得なかった。大人にならなければならなかった。

 なぜ私が助かったのか。 この10年、何度も何度も思った。何も悪いことをしていないのに重い十字架を背負ってしまったように。

 3月11日。これから先、死ぬまでずっと私は、あの日を思い、考えながら生きてゆく。

 私は1人の命じゃない。

◆「この子と一緒に死ねるんだ」

 盛岡市 主婦(39)

 あの日。生きる意味を見いだせない私は、生後1カ月の子どもを抱きしめて「良かった。この子と一緒に死ねるんだ」。そう思った。

 難病を抱えて生まれたわが子は、新生児集中治療室(NICU)をやっと出て、在宅生活へ向けて小児科で、私が付き添って入院生活を送ることになった。

 2011年3月1日、わが子が2歳か3歳までしか生きられないと告げられた。

 死ぬために生きるということ? この子は何のために生まれてきたの? こんなかわいい顔は最後どんな顔をするんだろうか?

 不安と、絶望の中、子どもとの入院生活が始まった。

 3月11日、いつか飲めるようになるかもしれない母乳をパックに搾り、冷凍する準備をしていた。

 ものすごい音と大きな揺れ。私は急いでベッドに寝かせていたわが子を抱き上げ、きつく抱きしめて守ろうとした。足を大きく広げないと立っていられず、窓は割れんばかりにきしみ、病院は崩れ落ちると思った。恐怖に包まれた瞬間、ほっとした自分がいた。「この子と一緒に死ねるんだ」

 沿岸の悲惨な状況を知ったのは次の日の新聞だった。7人部屋の退院できそうな子はどんどん退院して、被災地の医療的ケアの必要な子たちが入院してきた。

 2、3年どころか、老人になるまで将来を疑うこともない人たちが一度にたくさんの命を奪われたんだ…。

 それは、全ての人の明日が保証されないという忘れがちな現実を突きつけた。

 元気に生まれてもいつまで生きられるかなんて分からない。今日という日が来なかった人がたくさんいる。誰もが死ぬために生きるんじゃなく、死ぬまで生きるんだ。そう思えた。

 東日本大震災から10年。生きることをかみ締めたあの日を思い出す。

 2、3年しか生きられないと言われたわが子は、1月20日をもって10歳となった。これからも、今生きていることを大切に、その日まで生きていく。

◆瓦のかけら1個が宝物

 埼玉県川島町 主婦横山時子さん(73)

 私の故郷は地震、津波、放射線で苦しんだ福島県相馬市磯部です。磯部地区は壊滅状態でした。たくさんの人が亡くなりました。親戚、同級生、近所の人。

 あの時の光景は、とても悲惨なものでした。叔母さんは2011年3月、叔父さんは同年11月、がれきの中から見つかりました。

 地元の友達にお世話になりながら、数回、足を運びました。テレビ、新聞では、報道されないことを見たり、聞いたりして、言葉は、ありませんでした。

 原発さえなければ今ごろは、少しは笑顔になっていると思うのですが、いまだに苦しんでいます。

 原発は反対です。少し不便でも、自然の中で生きるのが一番だと思うのです。

 私の頭の中には、昔の地区の地図があります。友達とよく昔の話してます。

 自然の中で、海で捕れた新鮮な魚を食べて育ったこと。昭和30年代ですので、そんなに豊かな生活ではありませんでしたが、良い時代だったと思うのです。

 がれきの中から、拾って来た実家の瓦のかけら1個が私の宝物です。

 17年11月、夫も病気で亡くなりました。1人になった今でも、故郷のことを思いながら生きてます。

◆あなたのエピソード、お待ちしています

 みなさんの「3・11」のエピソードや写真、動画も募集しています。投稿は専用フォームをお使いください。

 エピソードはお手紙やファクスでも受け付けます。住所、氏名、年齢、職業、連絡先を明記するようお願いします。記者から連絡させていただくこともあります。送付先は〒100―8505 東京都千代田区内幸町2―1―4 東京新聞編集局「震災エピソード」係。ファクスは03―3595―6935です。  

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コメント
1. 斜め中道 (-_-メ)[3707] js6C35KGk7kgKC1fLdIp 2021年3月08日 11:51:04 : 460ZVzz1ys : SDZ2LjR6cm1sVk0=[6786] 報告
不特定多数の人に何かを語ろうとすると、
その段階で強烈なバイアスがかかっちゃうにゃ〜・・・としみじみ思う。

まぁ、「bias」本来の意味は「斜め」なんだけにゃ・・・・♪

2. 蒲田の富士山[538] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月09日 06:14:47 : bcNfi2KZHo : QkpKTC5sLm1kejI=[5] 報告
動揺を見せなかった亡き父の姿思い出す<刻む3.11>(東京新聞)

2021年3月9日 06時00分
 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/90289
 
◆とっさの判断で生き延びた姉

千葉県習志野市の会社員鎌田伸一さん(50)
 
 東日本大震災発生直後、宮城県石巻市の港近くに嫁いだ姉と、当時の勤務先だった名古屋から携帯電話がすぐにつながり、無事を確認できました。「パート先から車で帰る」とのことで安堵していましたが、その後のテレビで大津波の映像。姉とは4日間、一切連絡が途絶え、不安の中、名古屋から急行した実家の千葉県浦安市で過ごしました。
 
 なぜ、あの時「車は捨てて、高い所に逃げて」と言えなかったのか。後悔とともに父の「駄目かもな。覚悟はしておこう」という悟ったような言葉に、何も言えない自分がいました。
 
 半ば諦めかけていた中で届いた無事の知らせ。姉はとっさの判断で車を乗り捨て、津波の中、泳いで山側のお寺に逃げ込んだとのことでした。知らせを聞いた時、ただ、胸をなで下ろすだけでした。今も姉は元気に石巻で生活をしていますが、どうしても、毎年3月を迎えると、あの4日間の記憶がよみがえります。

[スレ主【蒲田の富士山】による初期非表示理由]:その他(アラシや工作員コメントはスレ主が処理可能)ミスコメント

3. 蒲田の富士山[539] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月09日 07:01:50 : bcNfi2KZHo : QkpKTC5sLm1kejI=[6] 報告
↑のコメントで、以下の部分を省略いたしました。
 
以下引用−ーー
 
◆あなたのエピソード、お待ちしています

 みなさんの「3・11」のエピソードや写真、動画も募集しています。投稿は専用フォームをお使いください。

 エピソードはお手紙やファクスでも受け付けます。住所、氏名、年齢、職業、連絡先を明記するようお願いします。記者から連絡させていただくこともあります。送付先は〒100―8505 東京都千代田区内幸町2―1―4 東京新聞編集局「震災エピソード」係。ファクスは03―3595―6935です。
 
引用終了−ーー
 
スレ記事本文のものと、重複のため、略しました。
今後も、この記事続くと思いますので、同様にいたします。
あしからず。
上記引用中の「専用フォーム」は、URLの元記事では、リンクになっています。

4. 蒲田の富士山[540] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月10日 13:45:06 : bcNfi2KZHo : QkpKTC5sLm1kejI=[7] 報告
余震で気を引き締め直した<刻む 3.11>

2021年3月10日 06時00分
 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/90505
 
◆下校準備中、車いすがぶつかる程の衝撃

東京都練馬区の主婦奥山円まどかさん(67)

 10年前は東京都小平市にある特別支援学校の教員でした。3月11日、下校準備のために生徒も教員も教室の真ん中に集まった時です。重たい車いすが互いにぶつかるほどの衝撃が起きました。

 「地震だ!」.
悲鳴にも似た叫び声とともに、教員は寝具類をかき集めて生徒の頭にかぶせ、その上から覆いかぶさりました。それが精いっぱいでした。

 幸いにもけが人はいませんでしたが、その後のスクールバスでの下校は時間も道路状況も読めず困難を極めました。長時間バスに閉じ込められることは、ハンディを持つ生徒たちにとって、命に関わるような危険性がありました。

 生徒の対応をなんとか終えましたが、帰宅難民となり、職場から家まで徒歩で6時間ほどかかりました。見たこともないほどの人、人、人。サイレンが鳴り響き、道路はなぜか水浸しでした。車は渋滞で1ミリも前に進みません。悪い夢を見ている気持ちでした。

 つい先日、東日本大震災の余震と思われる大きな地震が起きました。気を緩めてはならないという警告でしょうか。避難グッズの点検をし、改めて心構えをしなければと思います。

5. 蒲田の富士山[541] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月11日 11:28:11 : bcNfi2KZHo : QkpKTC5sLm1kejI=[8] 報告
以下コメント2訂正(全文)−−−

動揺を見せなかった亡き父の姿思い出す<刻む3.11>(東京新聞)

2021年3月9日 06時00分
 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/90289
 
◆とっさの判断で生き延びた姉

千葉県習志野市の会社員鎌田伸一さん(50)
 
 東日本大震災発生直後、宮城県石巻市の港近くに嫁いだ姉と、当時の勤務先だった名古屋から携帯電話がすぐにつながり、無事を確認できました。「パート先から車で帰る」とのことで安堵していましたが、その後のテレビで大津波の映像。姉とは4日間、一切連絡が途絶え、不安の中、名古屋から急行した実家の千葉県浦安市で過ごしました。
 
 なぜ、あの時「車は捨てて、高い所に逃げて」と言えなかったのか。後悔とともに父の「駄目かもな。覚悟はしておこう」という悟ったような言葉に、何も言えない自分がいました。
 
 半ば諦めかけていた中で届いた無事の知らせ。姉はとっさの判断で車を乗り捨て、津波の中、泳いで山側のお寺に逃げ込んだとのことでした。知らせを聞いた時、ただ、胸をなで下ろすだけでした。今も姉は元気に石巻で生活をしていますが、どうしても、毎年3月を迎えると、あの4日間の記憶がよみがえります。
 
 80歳手前だった父の落ち着き払った尊厳ある振る舞い。娘に対するさまざまな思いが巡っていたでしょうが、横で取り乱す母をただ優しくなだめていました。5年前に他界しましたが、3月になると、父の姿を思い出す10年でした。

6. 蒲田の富士山[544] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月16日 04:43:12 : bcNfi2KZHo : QkpKTC5sLm1kejI=[11] 報告
小さなおにぎりの味にあふれかけた涙<刻む3.11>(東京新聞)

2021年3月15日 17時54分
 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/91676
 
◆あの日、三陸鉄道本社にいて高台に避難

盛岡市のパソコン講師 後川正裕(39)

 東日本大震災が起きた3月11日午後、私は津波に襲われた岩手県宮古市にある三陸鉄道本社で仕事をしていました。大きな揺れの後、15分ぐらい歩いて、標高が高い場所にある県の合同庁舎に避難しました。

 電気も水道も止まっていました。外がどんな被害状況なのか、まったく分かりません。自家発電の補助灯だけがついた暗い建物の広間に、何百人もの人々がうずくまっていました。

 夜の9時を回ったころ、簡単な状況報告がなされ、おにぎりが配られました。

 「そう言えば、ずっとご飯を食べていなかった」。気づいた瞬間に急に腹が減ってきました。

 人数分やっと炊いたと思われる、自分の拳と同じくらいの小さなおにぎりをひと口食べた瞬間、猛烈なおいしさで、思わず涙があふれそうになりました。

 海苔も巻かれていない、味付けも塩だけのおにぎりのひと口目が、今まで食べたおにぎりの中で1番おいしいおにぎりでした。

 震災から10年たって、自分でも作って、おにぎりを食べます。そのたびに、あの時のおにぎりの味を思い出すのです。

7. 蒲田の富士山[553] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月20日 08:11:00 : bcNfi2KZHo : QkpKTC5sLm1kejI=[20] 報告
開腹手術の最中に揺れ…ヒヤヒヤしつつ対応<刻む 3.11>(東京新聞)

2021年3月19日 19時03分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/92509

相模原市 産婦人科医 荻野弓希子さん(47)

◆しっかりした建物造りに感謝

 3・11の時、開腹手術の真っ最中でした。

 手術室では、無影灯という大きなライトで、真上から患者さんを照らしながら手術をします。真っ先に考えたのは「ライトが落ちたら患者さんの命が危ない」ということでした。

 「ああ地震だな。長いな。でも手術を終わらせないと、患者さんを運び出すこともできないし」などなど、目まぐるしく考えながら手術をしていました。でも揺れが大きくなり、さすがに危ないと判断して、無影灯をよけてもらい、揺れが収まるまで手術を一時中断しました。

 その後も余震が起きる中、倒壊や停電が起きないかヒヤヒヤしつつも、信頼する上司や麻酔科医、看護師さんたちに支えられ、手術を終えることができました。

 手術を終え、保育園に子どもを迎えに行くと、保育士さんたちが屋外で子どもたちを遊ばせていました。必要以上に怖がらせずに保育していただき、とてもありがたかったです。 

 病院も古い保育園も壊れず、手術が遂行でき、命が守られました。

 建物をしっかり造ってくれた職人さんたちにも、感謝の気持ちが届いたらと願って、投稿しました。

8. 蒲田の富士山[565] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月24日 13:02:26 : bcNfi2KZHo : QkpKTC5sLm1kejI=[33] 報告
被災の故郷・山田町にかかわり続ける<刻む 3.11>(東京新聞)

2021年3月24日 11時37分
 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/93449
 

◆坂道を必死に…迫り来る波

岩手県山田町の漁業小林秀人さん(26)

 2011年3月11日午後2時46分、私は当時高校生で、学校から帰宅していました。

 大きな横揺れ。何かにつかまっていないと立っていられない状態でした。兄や母、祖母と庭に出て、様子をみていました。

 数分後、養殖の仕事で海に出ていた父が血相を変えて戻ってきて、呼び掛けました。「津波が来る!」

 坂道を5分くらい駆け上がり、高台の保育園に避難しました。波が近くまで迫っていて、あのまま庭にいたら命はなかったです。

 避難所生活では何もやる気がおきず、被災した家の片付けも両親やボランティアの方々に頼りっぱなしでした。

 私は今、地元で父らとホタテやワカメの養殖をしています。まだまだ見習い中で、覚えることは多いのですが、少しずつできることを増やせればいいなと思っています。避難所生活で何もできなかった心残りを仕事で返し、地元、家族、支援していただいた方々に恩返しすることが目標です。

 SNSで町の風景の発信もしています。私は晴れた日のきれいな山田湾が一番好きです。この景色が変わらないこと、伝えていくことも大切だと思います。

9. 蒲田の富士山[578] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月29日 11:30:30 : ThU5Gy6dsg : UWU5VlZ1UlRBak0=[6] 報告
母校・仙台の大学の校名を毎年胸に<刻む 3.11>(東京新聞)

2021年3月29日 09時28分
 
https://www.tokyo-np.co.jp/article/94449
 
◆教え子たちに伝えていきたい

富山県黒部市 小学校教諭 野口貴子さん(33)

 前年に仙台市内の大学を卒業し、社会人1年目が間もなく終わろうとしていたあの日、富山県魚津市の小学校に勤務していた時に、あの地震は起こりました。

 職員室のテレビに映った光景は忘れられません。

 去年まで住んでいた見知った場所にみるみる津波が迫り、急いで逃げる人のすぐそばに津波が来ている様子。涙を流して見ることしかできませんでした。

 勤務先や実家が津波で流されたという友達の話を聞き、祈るくらいしかできない無力さを痛感しました。

 「私にできることは?」と考え、募金を呼びかけるポスターを作り、泥かきボランティアに行きました。

 毎年、3月11日が近づくと、胸がぎゅーっと締めつけられます。当日は大学名の入った服を着て、学校に行きます。

10. 蒲田の富士山[581] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月30日 15:56:53 : ThU5Gy6dsg : UWU5VlZ1UlRBak0=[9] 報告
不安な夜にドアたたかれて…<刻む3.11>(東京新聞)

2021年3月29日 19時09分

https://www.tokyo-np.co.jp/article/94557

◆心に染みた隣人の菜めし

横浜市都筑区 公務員 以西いさい千春さん(42)

 東日本大震災が起きた時は、首がまだすわらない2カ月の長女と一緒にお昼寝をしている時間でした。当時住んでいた横浜市緑区のアパートが大きく揺れました。揺れは長い時間収まらず、停電したことを覚えています。

 その日、夫は職場に待機となり、娘と2人で、音もない真っ暗の部屋で過ごすことが、ものすごく心細く感じました。

 幼い娘は昼夜関係なく泣き続け、まとまって寝てくれるわけでもありません。大きな揺れが来たらどうやって娘と避難しようか。何を持って行けばいいのだろう。不安で仕方ありませんでした。

 その夜、ドアをたたく音。隣に住むおばさまでした。

 土鍋で炊いた、できたての菜めしのおにぎりを「これ食べてね」と。「こんな大変な事態になって、おっぱいが出なくなっては赤ちゃん大変だから…」と。

 みんな不安で心細いのに、おばさまの優しさで心が救われました。こんなに人の温かさが心に染みたことはありませんでした。

 その娘が10歳。引っ越して会うことがなくなりましたが、おばさまも、あの夜食べた菜めしのおにぎりも、忘れることはありません。

11. 蒲田の富士山[582] ipeTY4LMlXiObY5S 2021年3月30日 16:00:15 : ThU5Gy6dsg : UWU5VlZ1UlRBak0=[10] 報告
「刻む3.11」は今日の記事で終了のようです。
12. 斜め中道 (-_-メ)[3913] js6C35KGk7kgKC1fLdIp 2021年4月12日 13:20:18 : ZHvBssUSUE : d1BJYlVSdTRTTTI=[22] 報告
考えてみたら、物心ついてから、一度も泣いた記憶がない。
(泣かない赤ちゃんとして、ご近所の評判だったらしいし・・・)

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