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日本人は、デモする代わりに、死んでいくが、それが、日本人の流儀の伝統的な政治的抗議なのだ (uedam.com)
http://www.asyura2.com/14/senkyo173/msg/457.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 10 月 25 日 22:52:19: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 武田邦彦のネット・レクチャーが面白い=福島原発事故を起こしたのは、1980年代の朝日新聞だ (uedam.com) 投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 10 月 25 日 22:42:56)

http://8706.teacup.com/uedam/bbs/13251

2014年10月24日

(略)

それでさっそく、話題を一つ。
 東海アマさんのツイッターを経由して、タカノなるツイッター・つぶやきです。
 https://twitter.com/mt3678mt

 * 「m TAKANO @mt3678mt ? 10月22日

はっきり言って、今の日本は香港よりもはるかに規模の大きい学生デモが全国至る所で起きていてもおかしくないほどの異常とも言うべき政治状況にあるはずなのだが…。
【香港大規模デモ「支持」上昇 大学世論調査】47NEWS」


 香港デモの世論調査47ニュース
 http://www.47news.jp/smp/CN/201410/CN2014102201001929.html


 このつぶやきを見て思うに、日本人はデモを起こす代わりに、死んでいく、ということです。
 だから、人口4千万へ。
 これが、日本人の流儀のデモです。

 そこで、問題は、なぜそうなるのか、です。
 なぜ日本人は政府に抗議の声をあげる代わりに、みずから消えていくほうを選ぶのか?

 私は、4千万人になったところで、日本人はついに自然理性の社会を立ち上げると予想していますが、現実にそうなるためには、現状の日本社会の性格と自然理性社会の性格の違いを、今の時点で私たちはしっかりと見極めておく必要があります。
 さもないと、せっかく、律令理性日本人たちが、その理性のガラパゴスさの責任をとって、みずから消えていく選択をしてくれたことの意義がなくなってしまいます。
 はっきり定義しておきましょう。これからの日本人の人口減は、形を変えた日本人の流儀の政府デモなのである、と。いかにも「切腹」を美徳とした日本武士の子孫にふさわしい行動原理ではありませんか。

 で、日本人はなぜそういう行動原理になるのか?
 これは、1957年に丸山真男が、「思想と政治」という論文で解明しました。
 これは、実に素晴らしい論文です。
 なぜ日本人は、政治的な声をあげることを、自分で規制してしまうのか、を、丸山は、明治政府の統治政策として説明しました。

 丸山の論文と言えば、終戦直後に発表された「超国家主義の論理と心理」や、日本無責任体制を最初に暴露した「軍国支配者の精神形態」が有名ですが、私が思うには、3.11以後の今、なぜ日本人は政治に抗議の声をあげる代わりに病気になり、死ぬことを選ぶのかを解明した論文として、この「思想と政治」が注目されることになるでしょう。
 私としては、そうなって欲しいです。

 で、この論文はケツコウ長いので、今は、ピンポイントで、核心のところを紹介します。

 「この天皇制国家機構というものは、現実的には権力の中核体であるにもかかわらず、ここでは、政治権力としては現れない。何か政治を越えた超政治的なものとして現れる。つまり、あらゆる対立を超越したものとして表象されるということになる。」『丸山真男集7』p.130

 そのことの意味は、日本人が時の政治に自分の意見を表明することは、すなわち、天皇を批判することになった、ということです。
 明治政府が構築した「国体」とは、要するに、日本人の政治的関心を封じ込めてしまう、いわば日本人の「政治的脳死のすすめ」装置でした。

 では、なぜこの装置が、それほど見事に機能するのか?
 丸山は、次のように説明します。これは、すでに以前にも紹介したことがある箇所です。

 「(明治政府が天皇制国家を構築したことで)天皇の前に平等な帝国臣民というものが誕生した。つまり、臣民というものが、近代的な市民の代わりをした。
 臣民というのは権力の対象であって、権力の担い手ではありません。市民(シトワイアン)というものは、権力を担うものであります。権力を担うものとしての市民的な平等のかわりに、天皇の前における臣民の平等というものが、ここでは実現した。・・
 帝国憲法には、一応ヨーロッパ憲法にならって、臣民の権利という章が設けられましたが、国家権力の頂点をなす天皇に対する権利、権力自体に先行する権利というものが認められることは、国体的な正統性が確立して以後は、原理的にあり得なかったのであります。」p.128


 そう、なぜ律令理性人は、「お上」に服従することしかできないのか?
 答え。
 私の言い方では、こうなります、「個人は社会に先行する」というホッブスの原理が、律令理性の思想にはないから、と。

 個人は社会に先行することで、その社会の権力に対してさえも、自分をその力の外に置くことができます。
 律令理性には、このホッブスの原理がないために、いつまでも、権力の中に閉じ込められます。具体的には、天皇制の中に、戦後で言えば、官僚統治の中に。

 日本人の人口が4千万になったとき、私たちは、この「個人は社会に先行する」を、自明視する「近代人」になっている必要があります。  

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コメント
 
01. 晴れ間 2014年10月26日 14:30:01 : FhUYgDFvAt2/E : xni5yVaf3k
この投稿記事の主張するところは、重要だと思います。

フクシマの無責任体制、運命を虚無的に受け入れる姿勢は、先の戦争の戦争責任を日本国民が問わないことの延長にあります。

戦勝国裁判における戦犯の問題ではありません。戦勝国ではなく、日本国民が、国民を大量死に至らしめた国家指導層の責任を全く問わないことが問題なのです。
天皇制カルト国家でなければ、ありえないことです。

それは、軍歌「海ゆかば」に端的に表れています。
「海行かば 水漬く屍。山行かば 草生す屍。大君の辺にこそ死なめ。かへりみはせじ。」

天皇のもとで死にたいなんて、そんな軍歌が世界中にあるでしょうか。
そして実際に、日本軍の兵士は、密林で餓死し、海の藻屑と消えました。
この歌の通りに。
この軍歌は、終戦までは第二国家の位置にあったそうです。

欧米、西洋とは、あまりにも異なる人格。
西洋人は、戦争に際して、少なくとも「兵士の反乱」を起こしたり、帰還してからは戦場体験によるPTSDに苦しめられたりします。殺戮で気がおかしくなり、それに抵抗したり、逃げ出したり、心的後遺症を受けたりします。

しかし、日本兵にはそれがありません。戦場で人を殺しても平気。自分が殺されることも平気なのでしょう。上官にもはむかわない。天皇の責任も問わない。

そんな難しいことは考えず、ひたすら状況に順応し、運命には逆らわない。
だから、「食べて応援」し、多くの同胞が放射能被害を受け続けても、怒りを感じないのでしょう。

日本人は、近代的な自我をいまだに持っていないのです。


02. 2014年10月30日 17:53:58 : y5CSVBrH3U
平和で治安が安定しているにも関わらず意外と死が身近な国日本
これ以上格差を拡げてはいけないと戦没者も言うかもしれない

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