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戦後70年首相談話懇談会プレゼン資料:「19世紀文明」→大東亜戦争→「20世紀システム」→21世紀の世界:白石隆氏
http://www.asyura2.com/15/senkyo186/msg/448.html
投稿者 あっしら 日時 2015 年 6 月 10 日 03:17:53: Mo7ApAlflbQ6s
 

(回答先: 戦後70年首相談話懇談会第5回議事要旨:安倍首相を「歴史修正主義者」と見る米国の識者もいるので談話により払拭をとの声 投稿者 あっしら 日時 2015 年 6 月 10 日 03:11:28)


21世紀構想懇談会第五回会合発表資料

白石隆政策研究大学院大学学長


長い19世紀=「19世紀文明」(カール・ポラニー)の時代

・バランス・オブ・パワー、金本位制、自由主義国家、市場経済
ヨーロッパ中心の見方

・アジア:集合的帝国主義と植民地支配の時代
1830年代以降、特に1870年代以降、東南アジアの植民地化進展
同時に、地域的には安定(植民地国家同士の戦争はない)
中国、19世紀末以降、集合的帝国主義
日本、「文明化」と富国強兵(欧州列強をモデルとした国民国家建設)

・「19世紀文明」のたそがれ:1914−45
バランス・オブ・パワーの破綻、金本位制の破綻、自由主義国家への挑戦、
市場経済の危機

・ナショナリズムの台頭(帝国の危機)
東南アジア:フィリピン革命(1890年代)、東遊運動(1900年代)、
イスラム同盟(1910年代)・共産党蜂起(1920年代半)
中華ナショナリズム(19世紀末以降)
日本:帝国建設・集合的帝国主義の破壊
ナショナリズムと列強(持てる国)を同時に敵にする


大東亜戦争:アジアにおける「19世紀文明」の破壊
占領、現地自活、植民地経済の崩壊、動員と抵抗、敗北
「二軍」との戦争
第二・第三の植民地支配者
破壊の規模(フィリピンとビルマ)、抵抗の規模(マラヤ、フィリピン)
動員(義勇兵、兵補、労務者・・・)
経済の崩壊、社会的危機と社会的動員、政治経済社会危機の進展



「20世紀システム」の形成

・二極体制:「社会主義」vs. 「自由世界(Free World)」
「自由世界」:アメリカの平和、ドル本位制、自由民主主義国家、市場経済
アジア:アメリカの平和、ドル本位制、権威主義体制、開発主義
日本:部分的例外

・体制選択:上からの国家建設vs. 下からの国家建設
東南アジア:1950年代半ばから1970年代半ば(vs.東アジア)
タイ(サリット)、インドネシア(スハルト)、シンガポール、マレーシア(NEP)、
フィリピン(マルコス)
インドシナ(1975)

・日本のアジア復帰:賠償から経済協力へ(1970年代の危機)
日米同盟、福田ドクトリン(軍事大国にはならない)、開発主義モデル
1980:中国(29)、東南アジア(20)、インド(17)、韓国(6)
米国(263)日米(363)vs. その他(72)
1990:中国(13)、東南アジア(11)、インド(10)、韓国(7)
米国(187)日米(287)vs.その他(41)

・冷戦終焉と日本
中国:経済協力と世界経済への統合
インドシナ:和平と経済協力
なにが財産か:信頼



21世紀の世界(2000➡2018)

・新興国の台頭:G7(66➡48)vs. 新興国(20➡41)
インド・太平洋の台頭:北米・欧州(60➡48)vs. インド太平洋(26➡32)
中国の台頭:4➡14(日本15➡6)

・グローバル化・地域化
情報通信革命、GVCの拡大と深化、サービス化、アメリカ化
・なにが課題か:20世紀システムの進化
アメリカの平和+バランス・オブ・パワー(+グローバル課題対応)
グローバルな規範の趨勢をふくめたルール造り(マルティvs. 帝国的)
日本:
「修正主義」ではない、「修正主義」にはならない(歴史から学ぶこと)
「21世紀システム」の構築に貢献し、その模範的メンバーとなる


http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/dai5/siryou3.pdf

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(4)ついで、白石隆委員から概要以下の発表があった。

自分は、東南アジアを念頭におきながら、アジアの歴史とアジアにおける日本の位置を振り返って行きたい。

ハンガリー出身の経済史家であるカール・ポランニーは、第二次大戦中に執筆した「大転換」の中で、ナポレオン戦争から第二次大戦までは長い19世紀であり、19世紀文明は第二次大戦とともに崩壊した、と述べている。ポランニーはまた、19世紀文明の基本として、バランスオブパワー、金本位制、自由主義国家、市場経済の4点を挙げ、バランスオブパワーと金本位制が国際システム、自由主義国家と市場経済が国内システムであるとしている。また、政治と経済という観点から見ると、バランスオブパワーと自由主義国家は政治・安全保障に関わり、金本位制と市場経済は経済に関わる。これは極めてヨーロッパ中心の見方で、いま「19世紀文明」という言葉を今使えば、おそらく時代錯誤だと怒る人も少なくないと思うが、それはそれとして、ポランニーの見方は、ある意味、ナポレオン戦争のあと、1920年代から、第二次世界大戦までの長い19世紀の歴史をつかまえるにはなかなか便利な見方であり、この観点からすれば、なぜ、福沢が文明という言葉を使ったかもよくわかる。

しかし、同時に、長い19世紀のアジアを見れば、アジアでは19世紀文明とはずいぶん違う原理によって政治経済秩序が編成されていた。アジアの19世紀は、バランスオブパワーでも、金本位制でも、自由主義国家でも、市場経済でもなく、集合的な帝国主義と植民地支配の時代であった。1830年代以降、次第に植民地支配が進展し、1870年代以降には東南アジアはタイ以外全て植民地化された。しかし、この時期、アジアを植民地化したヨーロッパ列強間の戦争は一度も起きなかった。つまり、白人の平和が維持されると共に、東南アジアの侵略が進んだのだった。また、中国では、アヘン戦争以降、列強が勢力を拡大し、19世紀後半には中国においても集合的帝国主義が広がった。この流れから唯一逃れたのが日本であった。日本にとって、「文明化」とは、この19世紀文明に入る以外に生き延びる術はないということだった。そして、そのための唯一の道は富国強兵であり、欧州列強をモデルとした国民国家の建設だった。それが明治日本の戦略であった。19世紀文明は、第一次大戦以降、崩壊していく。まず、パランスオブパワーが破綻して第一次大戦がおこり、ドイツの敗北、ロシア革命後、コミュニズム、ファシズム、ナチズムが台頭して自由主義国家が崩壊し、金本位制が破綻して市場経済の危機をもたらし、第二次大戦につながった。

アジアではこの時期、ナショナリズムが台頭した。フィリピン革命が起きたのは1890年代、ベトナムのファン・ボイ・チャウが日本にベトナム人学生を派遣した東遊運動は1900年代、インドネシアでイスラム同盟が成立し共産党が蜂起したのは1910年代から1920年代にかけてであった。更に、華僑の中で中華ナショナリズムが生まれ、孫文は香港を拠点とし、東南アジア、横須賀などの華僑の支持を得て、清朝打倒の革命運動を始めていった。この時期、日本は国家戦略上、致命的な間違いをした。19世紀文明がヨーロッパで危機に陥り、アジアでナショナリズムが台頭して、植民地主義が危機に陥る、ちょうどその時期に、日本は遅れて帝国建設に乗り出し、集合的帝国主義を破壊した。この結果、日本はアジア、特に中国で、ナショナリズムを敵にするとともに、英米を始めとする列強も敵にした。

こうしてみれば、大東亜戦争はアジアにおいて19世紀文明を破壊した戦争だった。それがもっとも重要な歴史的意義である。日本は、東南アジアでは、仏印に進駐し、タイは同盟国となるが、ここでも自由タイの運動があり、またそれ以外のところは全部日本の占領下に置いた。日本軍はこれらの地域では現地自活を基本方針としたが、植民地経済としてすでに編成されていたこれらの国々の経済は世界経済と切り離されて崩壊した。その中で、マラヤ、フィリピンなどでは抵抗が起こり、また現地自活の一貫として労務者等を動員し、きわめて深刻な社会経済的危機の中で、最終的に日本は降伏した。これが大東亜戦争の大きなストーリーであると思う。

ではなぜ日本は開戦当初、東南アジアを占領できたのか。実は、フィリピンにあった米軍とシンガポールの拠点とする英海軍艦艇を別とすれば、日本の敵となったのはほとんど植民地軍だった。植民地軍は、軍隊としては、二軍であり、一軍が出ていけば、一軍が勝つのはあたりまえだった。また、日本は多くの植民地において二番目の植民地支配勢力であり、フィリピンにおいては三番目の植民地勢力だった。

したがって、日本としては、それまでの植民地勢力より日本の方が良いと現地の人たちに訴える政策をとるのはごくあたりまえのことであり、そのため、フィリピン、ビルマでは独立を付与し、インドネシアでも戦況の悪化につれて独立の準備を始めた。こうした形で日本はこれらの国々でナショナリズムを味方につけようとした。しかし、同時に、特に華人の多くは反日であり、国によっては共産党の勢力が中心となって、抗日ゲリラが活動を行った。フィリピン、マラヤでは抗日ゲリラが勢力を拡大し、抵抗に直面した日本軍は弾圧を強めた。また、フィリピンとビルマは二度、戦場となり、マニラなどは徹底的に破壊された。その一方、日本軍は、インドネシア、ビルマなどでは義勇兵を徴募し、兵補、労務者を動員し、フィリピン、インドネシアなどでは慰安婦の徴募も行った。その一方で、経済は崩壊し、危機が進行し、戦争末期には、多くの国ではきわめて革命的な状況となった。

例えば、ジャワは本来、非常に豊かな土地で、日本軍の兵士として当時ジャワに行った人は、本土よりずっと豊かだった、と言うが、ここでも、戦争末期には労務者が道路で餓死しているという状況となった。また、フィリピンでは非常に多くの人が亡くなった。つまり、日本は、こういうかたちで19世紀文明を破壊するとともに、革命的な状況を生み出した。

戦後の世界は自由主義体制と社会主義体制の二極主義となった。英語でFree Worldというが、自由世界は、欧米の場合には、先ほどの19世紀文明との対比でいえば、バランスオブパワーではなく米国の平和、金本位制ではなくドル本位制、自由主義国家ではなく自由民主主義国家、これに加えて市場経済という形になった。

他方、アジアでは、日本を部分的例外として、国際的には米国の平和とドル本位制が基本となったが、国内的には権威主義体制と開発主義が基本となった。東南アジアは、終戦後、革命的状況になり、10年ほど混乱が続き、そのあと1950年代半ばから1970年代半ばにかけて体制選択が行われた。この体制選択は共産主義か民主主義かではなく、上からの国家建設・経済発展なのか、下からの国家建設・経済発展かという選択だった。この時期、東南アジアで自由世界に属した国を見ると、タイでは1957年にサリット政権が誕生し、インドネシアでは1966年にスハルト体制がうまれた。また、シンガポールは1965年にリー・クアンユーの指導下、マレーシアから独立し、フィリピンでは1960年代にマルコスが政権を掌握した。さらに、マレーシアでは、1969年の人種暴動を契機に、1970年代以降、新経済政策により上からの経済発展が始まった。こうした国々ではこうして体制選択が行われた。一方、インドシナは、不幸なことに、1975年まで戦争が続き、それ以降も、カンボジアではジェノサイドがあり、ベトナムのカンボジア侵攻があり、この地域に平和が訪れ、経済建設が始まるのは1990年代以降となる。

では、この時期、日本は何をしたのか。日本は米国の平和とドル本位制の下にある、「自由アジア」に戻っていった。そのために賠償を行い、そのあと経済協力を軸としてこの地域に復帰した。1970年代初頭には危機があった。田中角栄総理のジャカルタ訪問時に大暴動があり、タイでは日貨排斥で勢いを得た学生運動の盛り上がる中、学生革命がおこった。これに対応したのが、1977年の福田赳夫総理の福田ドクトリンだった。このドクトリンのもっとも重要なメッセージは、1970年代、米国の威信が失墜する中、日本としては、日米同盟を堅持し、軍事大国にはならず、経済協力の形で東南アジアの国々を支援していくという3点にあった。これが東南アジアの国々を非常に安心させたと思う。1980年の経済規模は、日本を100とすると、中国が29、東南アジアが20、インド17、韓国6、米国が263で、日米あわせるとそれ以外の国々の約5倍の規模であった。この格差は1990年にはもっと大きくなり、7倍になった。こういう時代に、日本は日米同盟を堅持する、軍事大国にはならない、経済協力でこれらの国々の発展に貢献する、と言ったことが日本の東南アジア政策成功の大きな理由であると思う。

戦争中、非常に辛い事、悲惨な事があったという記憶は東南アジアの国々の人たちの間にはまだはっきり残っている。歴史の教科書にも書かれている。わたしは40年以上この地域の人々と付き合ってきたが、日本と非常に密接にビジネスの関係を持っているような人と話しても、「第二次大戦中、自分の兄は日本軍に連れて行かれて、戻って来なかった。」といったことも何度かある。ある意味、こういうことを言うということは、その人がそのときはじめてわたしに対して心を許してくれた証だと思う。しかし、東南アジアの国々と中国、韓国の決定的な違いは、東南アジア諸国の国民の物語の中では日本は主役ではないということである。

冷戦が終わると、自由世界が世界全体を覆う勢いをもつようになる。そういう時代に向かう中、日本は中国との関係においては1979年以来経済協力の形で中国を世界経済に統合しようとした。また、インドシナについては1990年代の和平、その後の経済協力において格段の役割を担い、経済協力をより広い範囲に、地域全体に拡大していった。ASEAN先進5か国との関係を振り返ると、日本がいかなる時にもASEANの国々を支援するということが中長期的に信頼を生んできた。これらの国々の指導者と話をすると、「日本はどんな時でも支援してくれる。」という。こういう信頼こそ、日本の貴重な財産であると思う。

では、これからどうなりそうか。経済統計を見れば、21世紀には20世紀とは違う変化が3つ生じている。一つは、G7の世界経済に占めるシェアで、これは1990年にも2000年にも66%であったが、これが2018年には48%に下がり、かわりに新興国が20%から41%に増えてくる。二番目に、北米、欧州のシェアは1990年にも2000年にも60%であったが、これが2018年には48%に下がり、インド太平洋のシェアが26%から32%に上がってくる。そして三番目に、中国のシェアは2000年の4%から2018年には14%になり、日本は2000年の15%から2018年には6%に下がってくる。

しばしば指摘されることであるが、新興国の台頭、アジアの台頭、中国の台頭というのは、こういう大きな趨勢を意味している。もう一つの趨勢は、グローバル化と地域化の進展で、これは情報通信革命によってこれからますます加速し、それに伴い、グローバル・バリューチェーンも拡大していく。製造業におけるサービス化、さらにはもっと広くサービスにおける生産性の著しい向上、アジアのエリート・中産階級のアメリカ化、バイリンガル化もますます進むと思われる。

ではこうした中で何が課題となりそうか。米国の平和、ドル本位制、自由民主主義国家、市場経済という20世紀システムをどう進化させるか、それがもっとも重要な課題であると思う。米国の現在の政治を見ていると、米国が単独でこの地域の安定を維持する力はおそらくないし、そういう意志も次第に失っている。したがって、日本としても、アメリカ、さらにはアメリカの他の同盟国と一緒になって、この地域のバランスオブパワーを維持する、その一翼を担わざるを得ない。グローバルな課題にも対応しなければいけない。その意味で、安全保障分野において、日本はいま以上に大きな役割をはたさなければならないし、それが日本の利益にもなる。同時に、世界の多くの人がアメリカ化し、経済がグローバル化する中、20世紀に自由世界で生まれた規範はしだいにデファクトの世界的規範となりつつある。日本としてはこれを踏まえてルール作りに貢献する必要がある。ルールを作るときには、あくまでマルチで作り、いかなる国も帝国的に一方的に領海法のようなルールを決めてこれを周りの国に押し付けるという動きは認めないという態度をとる必要がある。

では、日本は、この8月にどういうメッセージを発するべきか。二点申し上げたい。一つは、1915年から1941年にかけての19世紀文明の黄昏の時代に日本は国策を誤った。これは率直にはっきりと言った方が良い。同時に歴史から学ぶこととして、日本は、1915年から1945年の時期には修正主義になったが、この歴史から学び、いまでは修正主義ではないし、修正主義にはならない、これもはっきりと言うことが重要である。もう一つは、日本は軍事大国にはならない、国際協調主義でいく、そして世界の経済発展と安定に貢献することにより、日本は21世紀のシステムにおいて模範的メンバーとしてその進化に寄与していくということを発信すべきである。


http://www.kantei.go.jp/jp/singi/21c_koso/dai5/gijiyousi.pdf
より抜粋

 

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