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昭和天皇からの手紙〜息子・現天皇に、皇国論や軍国主義の誤り、国民の生命重視を伝える(日本がアブナイ!)
http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/898.html
投稿者 笑坊 日時 2016 年 1 月 01 日 07:29:28: EaaOcpw/cGfrA
 

http://mewrun7.exblog.jp/24011703/
2016年 01月 01日

 あけまして おめでとうございます。(*^^)v祝

 今年もよろしくお願いいたします。m(__)m   2016年元旦

 今年の目標ですか? もちろん百万馬券・・・も欲しいけど。私生活では、健康第一!o(^-^)o

 そして、一国民としては、何より「安倍政権を終わらせること」です! (^ー^)kippari

* * * * *

 さて、これまで、何回もブログに書いていることなのだけど。(最近だと『天皇誕生日会見〜戦争を考えて過ごした1年。命失った多数の民間人の話に声を震わすhttp://mewrun7.exblog.jp/23985809/』とかね。)

 mewは、今上(明仁)天皇は、日本で最も平和主義&反戦主義者(&護憲派)なのではないかと考えている。
 そして、日本が21世紀にはいって(特に安倍政権の間に)どんどん右傾化して行く中、何とか国民に、戦争のおそろしさ、平和維持の大切さを再認識してもらいたいと願い、これまでより積極的に、時にやや踏み込んだ表現を用いて、それらに関する話を機会あるごとに行なっているのである。(++)

 そこには、天皇として、ともかく日本の国民の命、安全を守りたいという強い思いがあるのではないかと察する。
 そして、mewは、そのような思いが芽生えた背景には、11歳で迎えた終戦時に、父である昭和天皇から送られた手紙、そこに記された心情があるのかも知れないと思ったりもしている。(・・)
 
* * * * *

 これはフジTVが、昨年12月22日のニュースで取り上げていたものなのだが。(「昭和天皇が息子・天皇に宛てた手紙 平和からの願い 父から子へ」というタイトルで。)
 
『12月23日は、天皇陛下の82歳の誕生日です。長年、慰霊の旅を続ける陛下が、戦後まもないころ、父の昭和天皇から受け取られた手紙がありました。

戦後70年を迎えた2015年、陛下は、平和への願いを胸に、各地へと足を運ばれた。
4月、先の大戦で太平洋での激戦地となったパラオを、慰霊のための訪問された。
そして、5月には、東京大空襲の犠牲者が眠る慰霊堂へ。
6月には、観音崎での戦没・殉職者船員追悼式に出席された。

 陛下は2年前、80歳、傘寿の誕生日の際も、80年の人生の中で最も印象に残ることは、先の大戦と述べられている。
2013年、陛下は「私が、学齢に達した時には、中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに、新たに、米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは、小学校の最後の年でした。前途にさまざまな夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましいかぎりです」と述べられた。

 陛下が、小学校最後の年と語られた、終戦の年。その年末の天皇ご一家の様子などを写した写真展が、現在行われている。
 そこには、当時皇太子だった陛下が、ニワトリを追われる姿や、息子を見守る昭和天皇の写真など、戦後直後の昭和天皇の笑顔を収めた、貴重な作品が展示されている。

 実は、これらの写真が撮影される数カ月前、父である昭和天皇から、息子、現在の陛下宛てに、1通の手紙が送られていた。手紙が書かれたのは、終戦からまもない、1945年9月。父親らしい、息子を気遣う言葉から始まっている。

 手紙には、「手紙をありがとう。しっかりした精神をもって、元気で居ることを聞いて、喜んでいます。国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心してください。今度のような決心をしなければならない事情を早く話せばよかったけれど、先生とあまりにちがったことをいうことになるのでひかえておったことをゆるしてくれ」とつづられていた。

 昭和天皇から、息子である陛下に送られたこの手紙には、先の大戦への後悔の念がつづられていた。23日、82歳になる天皇陛下が11歳の時に、父、昭和天皇から受け取られた1通の手紙。
そこには、戦争終結への決意に至った過程を振り返り、息子に伝えようとする思いが込められていた。

 昭和天皇の手紙には、「敗因について一言いわしてくれ。わが国人(くにびと)が、あまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどったことである。わが軍人は、精神に重きを置きすぎて、科学を忘れたことである」と、敗戦の理由について言及している。
 そして、「戦争をつづければ、三種の神器を守ることもできず、国民をも殺さなければならなくなったので、涙をのんで国民の種をのこすべくつとめたのである」とつづられていた。
 そして、手紙の最後は、「寒くなるから身体を大切に勉強なさい」と、父親らしい言葉で締めくくられていた。

 昭和天皇から陛下に、この手紙が送られてから70年。父から子へと引き継がれた平和への願いを胸に、陛下は、日々を歩まれている。(FNN15年12月22日)』

☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆

 ちなみに、昭和天皇が送ったとされる手紙の全文はこちらにある。
 
『手紙をありがたう しつかりとした精神をもつて 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます。

 国家は多事であるが 私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひ
かへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ

 我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
 明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです

 戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
 穂積大夫は常識の高い人であるから わからない所があつたら きいてくれ
 寒くなるから 心体を大切に勉強なさい

 九月九日           父より   明仁へ』 
 
* * * * *

 昭和天皇が、先の大戦に関してどのように考えていたのか、どのように関与や言を動していたのか、様々な情報や説があるし。mewは、その真意や事実を知る由もないのだけど。

 ただ、昭和天皇は英国流の立憲君主制にこだわっていたことや、当時の政府や軍部が天皇に具体的な情報提供や指示の要求をしていなかったことから、なかなか自分の本当の考えを述べる機会がなかったのは事実のようだ。
 そして、対外的な言動はさておき、昭和天皇はいずれ天皇になるであろう自分の息子が、将来、過ちを犯さぬようにと考えて、できるだけ正直に自らの考えや心情、教訓、天皇としての心構えなどを伝えようとしたのではないかと察する。(・・)

* * * * *

 実際、「我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつた」「我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れた」「軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた」という敗因の分析は、的確なものだと思うし。

<周囲には天皇を神と崇めたり、皇国論や軍国主義に固執したりする人が少なからずいたかも知れないのだけど。以前も書いたように、昭和天皇自身は、英米(特に英国)の考えやものが好きで、戦況が悪化するまでは英米の様々な情報を得ていたので(だから、松岡がドイツと手を結んで、英米を敵に回そうとしたのを知って怒ったのよね)、周囲の人たちより、現実的、客観的かつ冷静に状況を分析することができたのかも?^^;>

 戦争を続けた場合、「三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならない」「涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめた」という表現は、まさに当時の天皇っぽい感じがあるのだけど。
 でも、昭和天皇は、自らの臣民である国民は、日本の国家や国体(天皇制・三種の神器含む)を守るために戦って死んでも構わないとは思わず。国民をこれ以上殺さず、命を守って子孫を残して行くためには、涙をのんでも降伏を決断すべきだと考えたわけで。
 この手紙を通して、(もし周囲の戦前思想が残っている人が何を言おうと)今後は皇国論や軍国主義的な精神論を重視しないように。国民の命を大切にするようにと、しっかりと伝えたかったのではないかと思う。(**)

 また昭和天皇は、mewがきいた話では、皇太子だった明仁天皇に戦争に関する歴史、加害や被害などについて学ぶ機会を設けていたとのこと。
 明仁天皇が「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)の4つは忘れる事の出来ない日付である」と語っているのも、子供たちに積極的に戦争に関して学ぶ機会を作って来たのも、その影響があるのかも知れない。(++)

* * * * * 

 別にmewは皇室オタでも、ウヨ的な天皇・皇室崇拝者でもないので、ここで昭和天皇をヨイショする気はまったくないのだけど。<明仁天皇のファンではあるけど。ちなみに、昭和天皇は、お相撲を観覧に行った時に、下位の取り組みでも、身を乗り出して一生懸命に応援したり、手を叩いたりしている姿が好きだったです。>

 何で安倍首相を含め、天皇・皇室崇拝者である保守派の政治家や識者に限って、天皇が父から子へ引き継いで来た&今後も引き継ごうとしている平和への思いを理解できないのかな〜と。
 何で戦前のおXXな政治家や軍人が誤って突き進んだアブナイ道を、また歩もうとしているのかと・・・。
 それを思うと、何だか腹立たしいやら悔しいやら、哀しいやら情けないやらで。お正月から、またストレスが溜まって、ぐれてしまいそうなmewなのだった。_(。。)_

  THANKS

 

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コメント
 
1. 2016年1月01日 09:11:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[647]

昭和天皇の本音はこっち:


マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


2. 2016年1月01日 09:13:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[648]

昭和天皇が御前会議の内容をすべてルーズベルトに伝えていたのは有名な話

つまり、真珠湾奇襲攻撃はルーズベルトが昭和天皇に指示してやらせたんだよ

そもそも当時の日本で真珠湾の事を良く知っていたのが昭和天皇だけだったというのは有名な話

アメリカは不景気対策として日本と戦争したがっていた
それで昭和天皇に命令して真珠湾を攻撃させた

宣戦布告を遅れさせたのもルーズベルトの指示だろうね

天皇が護憲派なのは、天皇一族は日本国憲法で保障された日本最大の既得権益者だから簡単に改憲される様になったら困るんだよ

そもそも米軍が東京の近くにいるのも革命から天皇一族を守る為

日本に軍隊が有るとクーデターや革命を起こして天皇一族を処刑する可能性があるので、昭和天皇は

日本が永遠に軍隊を持てなくなる様にしてくれ

とマッカーサーに頼んだのさ

それが第九条の背景


昭和天皇も今上天皇も軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているから、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいという事さ

占領政策は昭和天皇とマッカーサーが何回も会談を重ねて決めた

戦前も戦後も日本の外交は昭和天皇がすべて決めていたよ

戦後総理になった吉田茂も昭和天皇の指示通りに動いていたしね

東京裁判は昭和天皇の戦争犯罪を陸軍軍人にすべて肩代わりさせる目的で行った

南京大虐殺, 731部隊の人体実験とか従軍慰安婦強制連行は昭和天皇が直接指示してやらせたものだったので、東京裁判では意図的に触れない様にした

浅香宮の様な昭和天皇の虐殺指示を軍部に伝えた皇族は裁判には出さない様にした

昭和天皇は自分がアメリカとグルだったとばれない様に色々工作したのさ

東京裁判の事を検証すると天皇制を廃止せざるを得なくなるんだよ

昭和天皇とマッカーサーが一緒に写った写真は意図的に昭和天皇をみすぼらしく撮ったヤラセ写真

マッカーサーの昭和天皇との会見記も嘘八百のでっち上げ

マッカーサーは当時世界一の資産家だった昭和天皇から巨額の賄賂を貰ったという噂だよね


3. 2016年1月01日 09:15:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[649]

太平洋戦争は八百長戦争

日本軍が負けたのは中国の共産ゲリラだけなのさ

そして日中戦争で勝てる見込みがなくなって昭和天皇は怖くなったんだ

ソ連と日本の左翼が組んで共産革命を起こされたら天皇一族は全員処刑される。

それで昭和天皇はルーズベルトとグルで八百長戦争をやる事にしたんだ

太平洋戦争はアメリカと天皇一族が組んで日本の一般民をやっつけた戦争だったんだ

日本の一般民は革命やクーデターを起こす側だからアメリカと天皇一族の共通の敵なんだよ


4. 2016年1月01日 09:22:50 : TQwNfkARI2 : iIbzfHNtACs[2]
自分が信じたくないことは「嘘八百、でっち上げ」
こうであってほしいと思う事を「有名な話」
と書くのが2016年ネトウヨのトレンドですな?

5. 2016年1月01日 09:49:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[651]
昭和天皇は名優だったからみんな簡単に騙されたんだよ:

昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。
「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。
ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。
 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。

その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。

裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。

戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm

私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。
彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。 また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。 また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、 ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。

彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。


私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


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