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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の20)・「海人族の尾張氏は鹿児島から来た」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/375.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 4 月 02 日 10:05:37: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「海人族の尾張氏は鹿児島から来た」に、ご興味をお持ちでしょうか。実は、尾張氏というのは、鹿児島県の大隈半島の出身ではないかと、疑っています。


A 尾張氏は、二手に分かれて「天孫降臨」した。

 先代旧事本紀によりますと、古代氏族の尾張氏というのは、ニギハヤヒの子孫のようです。

 記事によりますと、ニギハヤヒは、アマテラスから「十種の神宝」を与えられ、盛大な祝福を受けて、高天原から遠賀川に降臨した後に、奈良県に移動しました。

 しかも、天太玉(アメノ・フトダマ)・天児屋(アメノ・コヤネ)・天鈿女(アメノ・ウズメ)や、ニギハヤヒの息子の天香語山(アメノ・カゴヤマ)や、孫の天牟良雲(アメノ・ムラクモ)を含む「32柱の神々」のほかにも、「物部25部」などを従えての堂々たる降臨でした。

  (注) 遠賀川の説は、「物部25部」の各地名の足跡、忍骨命の墓所と福岡県香春町の香春神社(カワラジンジャ)との関係、大国主が支配した宗像と近接すること、河口部が「岡の港」として古代に栄えたことなど。


(尾張氏が、鹿児島県大隈半島の出身を、推理する)。

ア) ニギハヤヒの子供の天香語山(アメノ・カゴヤマ)。

 天香語山の出自については、ニギハヤヒが高天原に居たときに、(大巳貴尊(大国主)の娘の)天の道日女(ミチヒメ)を娶って、天香語山を生んだ説が有ります。

  (★ 天香語山は高天原で生まれたので、人間ではなく神霊であり幽霊です。元々、ニギハヤヒや天香語山という人間は存在しません)。

 ニギハヤヒと共に降臨した後は、熊野(和歌山県新宮市方面)に土着して、「神武東征」のときには「高倉下(タカクラジ)」という別名で、神武天皇を助けたようです。

 (熊野のような平地の少ない所に土着するというのは、海人族であって、「熊野水軍」のルーツかも知れません。熊野は「木の国」に有り、材木の一大産地で、平時の海人族は材木の海運業で栄えました)。


イ) ニギハヤヒの孫の天牟良雲(アメノムラクモ)。

 天牟良雲は、天香語山の子供で、ニギハヤヒの孫になります。ニギハヤヒに従って東遷した(奈良に入城した)と考えられますが、本当のところは分かりません。

  (★ 天牟良雲も高天原で生まれたので、人間ではなく神霊であり幽霊です)。

 気になるのは、天牟良雲の奥さんが、阿俾良依姫(アヒラヨリヒメ)です。

 この阿俾良(阿平)については、神武天皇が日向に居たときに、ホスセリの子供の「阿多の小椅(オバシ)の君」の妹の「阿比良比売」を娶って、多芸志美美を生んでいます。
  (日本書紀では、日向国の吾田邑の阿平津媛を娶って、手研耳(タギシミミ)を生んだと有ります)。

  (この阿多・吾田邑というのは、鹿児島県の鹿屋市の付近で、大隈半島というのが通説です。大隈半島は隼人族の本拠地の一つです)。

 すると、何で、ニギハヤヒの孫の天牟良雲の奥さんが、鹿児島なのか、という疑問が生じます。阿俾良依姫が、奈良まで嫁入りに来たとは思えませんから、天牟良雲が鹿児島に居たという推理が働きます。


ウ) 大阪府の津守氏は、大隈半島の出身だった。

 住吉神を奉載する氏族に津守氏が知られていますが、「姓氏録」によると、『津守宿禰は尾張宿禰と同祖で火明命の八世の孫』とか、『津守連は天香語山の後也』と見えます。

 つまり、津守氏は、ニギハヤヒの後裔氏族であり、尾張氏と同祖ということになりますが、津守氏の元々の本拠地は大隈半島というのが、通説です。


エ) 状況証拠として、尾張氏は、鹿児島県の大隈半島の出身だ。

 天牟良雲の奥さんが大隈半島の娘で、(住吉神の「塩土の老翁こと塩筒の男」を奉載するところの)尾張氏と同族の津守氏のルーツが大隈半島で、天香語山(高倉下)が熊野水軍の本拠地の一つの熊野(新宮市)に居た海人族と考えますと、やっぱり、尾張氏は海人族で間違いないし、ルーツは鹿児島県の大隈半島の出身だったと、言えるかも知れません。


オ) 本当は、尾張氏は、二手に分かれて「天孫降臨」した。

 尾張氏の主力を率いて、ニギハヤヒの子供の天香語山は、ニギハヤヒの東遷に同行して奈良に入ったと、思います。
 尾張氏の一部を率いて、ニギハヤヒの孫の天牟良雲は、ニニギの南遷に同行して鹿児島に入ったのではないかと、想像します。

 (つまり、天孫降臨は、ニギハヤヒとニニギの二手に分かれて降臨したということになりそうです)。

B 神武天皇の二重性と、尾張氏の二重性。

 神武天皇には二種類あり、初めの神武天皇は「ニギハヤヒ天皇神武」であり、年代的には290年から300年頃に奈良に入城したと想像します。
 もう一人の神武天皇は「崇神天皇神武」(御間城(奈良)に入ってきた日向のイニエ)のことであり、年代的には340年から350年ごろと想像します。

 (その意味において、ニギハヤヒの王朝は、親・子・孫の三代の40〜50年程度で終了して、イニエの王朝にバトンタッチしたと、想像します。

 ただ、ニギハヤヒの王朝が滅亡した訳ではなく、その子孫達が、古代の有力豪族の大半を占めています。
 また、イニエはニニギの子孫であり、オシホミミやアマテラス(スサノオ)でニギハヤヒと繋がっているので、「万世一系」に間違いは有りません。

 また、「欠史八代」は架空説が有りますが、ニギハヤヒの子供や孫たちによる皇位争奪戦の果てに、消えて行ったと想像します)。

  ニニギ・(ニギハヤヒ)→山幸彦→ウガヤフキアエズ→崇神天皇イニエ(神武天皇)と、
  ニギハヤヒ・(ニニギ)→ニギハヤヒの子供→孫の世代→崇神天皇イニエ(神武天皇)の関係は、年代的に矛盾は有りません。


 そこで、尾張氏については、290年から300年頃に、天香語山(高倉下)が、ニギハヤヒと共に奈良に入城しました。
  (天牟良雲は、同行したのか、ニニギと一緒に鹿児島に行ったのかは分かりません)。

 ニギハヤヒが奈良に入城して、(三島溝杭の娘の「背矢が立たら姫」と大物主との間の娘であるところの)「ホトに立たら姫」と結婚して子供を作りましたが、「末子相続」の世界観のために、長男の天香語山は権力の中枢に入れず、葛城地方に冷遇されたと想像します。

 (あくまでも想像ですが)、奈良における皇位争奪戦の乱闘の中で、日向からイニエが「神武東征」し、ニギハヤヒの孫の天牟良雲も随行して来たので、ニギハヤヒの子孫の尾張氏が、『牛を馬に乗り換えようか』ということになって「崇神天皇神武」に加勢して、権力の階段を上ったのではないかと、想像します。

  (尾張氏が、崇神天皇と結びついたのは、尾張氏の娘の大海媛(オオアマヒメ)が崇神天皇の妃として入内していることでも分かります。皇妃を出すというのは同盟関係の意味も有ります)。


C 尾張の地名について。

 尾張は、愛知県の尾張と、奈良県の葛城の「尾張(高尾張)」の両者が知られています。

 「尾張」の語源は、(「鳥の尾羽が張り出す様」を「尾羽張る」と言いますから)、反り返った状態を言うものと思います。

 すると、愛知県の「尾張の国」は、(今の愛知県には知多半島と渥美半島の2者が有りますが、昔の尾張国には知多半島しか無かったので)知多半島の張り出す様から「尾張の国」と名付けられたと、想像します。

 また、奈良県の葛城の「尾張(高尾張)」は、金剛山・葛城山の尾根が葛城に張り出す様を云ったか、葛城川・高田川が張り出す様を云ったものと、想像しますが、分かりません。


D 尾張の国の尾張氏は、海人族で間違いない。

 尾張氏は、奈良県の葛城から愛知県に移住した説が有りますが、初めから、奈良県と愛知県の両方に領地が有ったものと思います。

  (云ってみると、徳川時代に、九州に薩摩藩が有り、江戸に「薩摩藩邸」が有ったようなものだと思います。物部氏の領地は大阪の東部だし、蘇我氏の領地は八尾市方面だし、大伴氏の領地は堺市方面だったようなものと思います

  そこで、尾張氏というのは、いつしか、奈良県での権力闘争から脱落して、葛城に有った「大名屋敷」まで失いましたが、後年になって、大海人天皇に味方して勝利し、再び「大名屋敷」が与えられたのではないかと、想像します)。


 つまり、初めに、尾張氏の祖神の天香語山(高倉下)が、「ニギハヤヒ天皇神武」の勅命を受けて、(海人族の総大将として)紀伊半島から東海方面の海岸線までを制圧して、自分の領地に組み入れました。

 その後の政権交代で、「崇神天皇神武」に協力して領地を磐石にしたが、いつしか、武内宿禰のファミリーの紀氏に熊野方面を侵奪されてしまい、伊勢志摩方面も本家の尾張氏から独立してしまい、残ったのが尾張の一国ではないかと、想像します。


E 結語。

 尾張氏は、ニギハヤヒに同行して、遠賀川から奈良に入ったグループと、ニニギに同行して鹿児島に入ったグループの二手に分かれたと、想像します。

 初めの尾張氏は、ニギハヤヒに同行して奈良に入った子孫だと思いますが、その後は、王朝の交代に伴って、鹿児島から来たグループと、尾張氏内部での主導権争いがあったかも知れません。


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