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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の30)・「スサノオの来日」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/413.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 6 月 11 日 10:01:33: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「スサノオの来日」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 ただ、本当のところは分からないのですが、「記紀神話的想像力」を展開したいと思います。


A (お断り)、スサノオという人間は、居なかった。

 スサノオは、イザナギが生んだ「三貴子」の一人ですから、神の子であり高天原の神霊です。ですから、人間では有りません。幽霊です。従って、スサノオという人間は居ませんでした。

 まあ、居なかった者を論評しても仕方が無いのですが、承知の上で、取り組みたいと思います。

  そこで、スサノオの意識・幽霊が、物質的人間に憑依して、波乱万丈の人間活動を行うという、壮大な「お花畑」の物語です。


B (お断り)、スサノオの謎は、難しくて解けない。

 第1に、スサノオは、新羅に降臨しましたが、スサノオの時代は新羅ではなく、都市国家が群立する辰韓の時代、あるいは馬韓の支配を受けた時代であり、その足で直接日本に来たとは思えません。

  (ただ、新羅からリマン海流に乗って南下し、対馬暖流に乗れば、簡単に出雲に上陸できます)。

 第2に、スサノオは、母のイザナミの国に行きたいと言って、父のイザナギを困らせました。これを地上世界の話とすると、イザナミは出雲を根拠地にしていたと考えられますので、辻褄は合っています。

  (ただ、スサノオは、比較的早く「根の国」に旅立ちましたが、「根の国」が何処か分かりません)。

 第3に、スサノオの子供に、五十猛(イタケル)や大歳が居ましたが、彼らは、和歌山や奈良の歴史を考えると、(同じスサノオの子供の)大国主よりも古い神と思われ、年代が合わないように、感じられます。

  (古事記などでは、大国主を、(スサノオを初代として)7代目の子孫としているようですが、大国主はスサノオの娘のスセリ姫を娶っているので、年代的に矛盾が有ります)。

 第4に、スサノオは、アマテラスとの間に「八柱の御子神」を生みました。ニギハヤヒやニニギは、スサノオの孫に当たりますが、活躍の年代は300年ごろと想像します。
 そこから逆算すると、(孫のニギハヤヒが250−260年ごろに生まれたと仮定すれば)、スサノオは、200年ごろに生まれたと考えられます。

   (ところが、200−250年ごろに、スサノオが活躍できる場所が、朝鮮半島や北九州や出雲に有ったのか、という疑問が生じます)。

 第5に、スサノオは、特定個人を指したものかという疑問です。スサノオとは「荒(すさ)ぶ男」の総称を言っているのではないのか。多くの英雄たちの単なる総称名ではないのか、という疑問です。


 (新羅との関係、出雲との関係、アマテラスとの関係、邪馬台国の卑弥呼との関係、多くの子供たちとの関係などを総合的に考えますと、矛盾だらけで有り、結局、『Aの(お断り)、スサノオという人間は居なかった。』ということになりそうです。

  ただ、スサノオを、「洲砂の王」として、朝鮮半島から西日本に展開した海人族の大親分だったとすると、どうでしょうか)。


C スサノオの名前は、少し変だ。

 イザナギの「三貴子」とは、アマテラスであり、ツキヨミであり、スサノオを云います。アマテラスは天照であり、ツキヨミは月読(月弓・月夜見)ですが、両者の立派な名前に比べて、スサノオの名前がよく分かりません。

 記紀神話では、須佐之男・素佐之男・素戔嗚などと表記しますが、発音は「スサノオ」だと思います。


 そこで、このスサノオは何の意味かと考えますと、実は、よく分かりません。

    古事記に、『アマテラスは高天原を治めよ。ツキヨミは夜の国を治めよ。スサノオは海原を治めよ』と有るようです。
    日本書紀・第五段・本文に、『アマテラス・ツキヨミの2人は光り輝いていたので天上に上げた。スサノオは悪党だったので根の国に追放した』。
    日本書紀・第五段・一書一に、『アマテラス・ツキヨミの2人は天地を照らした。スサノオは残虐だったので根の国に追放した』。
    日本書紀・第五段・一書二に、『スサノオは泣きわめいて暴れ狂うので、根の国に追放した』。
    日本書紀・第五段・一書六の五に、『スサノオは泣いてばかりいたので、根の国に追放した』。

  以上の状況から、スサノオの意味を「地上世界の支配者」と解釈しますと、「裾(すそ)の男」、「洲砂の男」の表記が考えられます。
   また別に、「荒れ狂う男」と解釈しますと、「荒(すさ)ぶ男」になりそうです。

    (ちなみに、スサノオの娘の「スセリ姫」は癇癪持ちのヒステリーだったようで、「荒(すせ)り姫」という説が有ります)。

   (★ 古代人の名前は実名ではなく、イメージを基にした「ニックネーム」だと云われています。実名なんか親兄弟や目上の人くらいにしか教えません。古代の天皇の実名なんか誰も知りません。記紀神話の名前はウソの羅列です)。


D スサノオは北九州に来たという、話。

 スサノオは、北九州に来ました。その根拠は「宗像三女神」と「忍骨命」です。スサノオとアマテラスの間の娘の「宗像三女神」が、福岡県の宗像市に鎮座しています。

 また、スサノオとアマテラスの間の息子のオシホミミ(忍骨命)が、福岡県の遠賀川上流の田川郡香春町(かわらちょう)の香春(かわら)神社に「忍骨命」として鎮座しています。

 ちなみに、両者の息子のアメノホヒ(大国主)は、宗像を支配下に置くと共に、大国主として出雲も支配下に置き、西日本の経営に乗り出しました。

  (実は、アメノホヒは、高天原で生まれ育った神霊ですから、人間では有りません。幽霊です)。


E スサノオは出雲にも来たという、話。

 スサノオの出雲での「オロチ退治」は有名です。誰でも知っています。


ア) 実は、出雲国風土記に「オロチ退治」の話が載っていなかったという、謎。
   
 現存する「出雲国風土記」には、スサノオのオロチ退治の話が見当たりません。どう言うことでしょうか。古事記にも日本書紀にも長文で書かれている有名な物語です。

  ここで、出雲国風土記の編集責任者は出雲臣の広島(ひろしま)であり、先祖代々続いた出雲氏の子孫ですから、知らないとか聞いてなかったということは、考えられません。

 すると、オロチ退治の話が記載されていない理由は、『そんな伝承は無かった』か、『書けない理由があって省略した』の、どちらかだと思います。


 (★ 古事記を稗田阿礼に誦習させた大海人天皇は、大のアマテラス・ファンであり、大海人天皇のファミリーが、673年から770年までの凡そ百年間にわたって日本を支配しました。
 当時は律令政治の始まりであり、天皇親政の専制支配体制下に有りましたから『アマテラスこそ、神々の王であり、唯一絶対神』という世界だったと思います

  文句を言う者は、いじめられ、挙句には「焚書坑儒」にされたかも、知れません)。

  そして、スサノオの由緒地の出雲は、『まつろわぬ神、あらぶる神の古里』だったと思います。

   (出雲国造の任命に対しては、3回も上洛を命じています。1回目の上洛で国造の辞令交付と神賀詞の奏上。翌年の2回目の上洛で宝物の献上と神賀詞の奏上。その翌年の3回目の上洛で神賀詞の奏上。
 これは、「出雲族」に対するイジメであり、朝廷への徹底的な服属儀礼だと言われています)。


イ) 出雲には、スサノオの子供が沢山いたという、話。

 出雲国風土記では、スサノオの足跡と共に、スサノオの子供が何人も登場します。

  出雲国意宇郡大草郷に、須佐乎命の御子の青幡佐久佐丁壮命(アオハタサクサヒコ、アオハタサクサオトコ)
  出雲国島根郡山口郷に、須佐乎命の御子の都留支日子命(ツルギヒコ)
  出雲国島根郡方結郷に、須佐乎命の御子の国忍別命(クニオシワケ)
  出雲国秋鹿郡恵曇郷に、須佐乎命の御子の磐坂日子命(イワサカヒコ)
  出雲国秋鹿郡多太郷に、須佐乎命の御子の衝鉾等乎与留比古命(ツキホコトオヨルヒコ)
                     (別の伝本には、衝杵等乎而留比古命(ツキトオシルヒコ)
  出雲国神門郡八野郷に、須佐乎命の御子の八野若日女命(ヤノノワカヒメ)
  出雲国神門郡滑狭郷に、須佐乎命の御子の和加須世理比売命(ワカスセリヒメ) ★スセリ姫のこと

 分かっているだけで、これだけの子供が居ましたから、他に何人の子供が居たか分かりません。


ウ) 結局、スサノオについては、分からない。

 出雲国風土記には、スサノオのオロチ退治の話が無いのに、スサノオの子供が多く居たことが書かれています。ところが、スサノオの消息が書かれてないから、どうなったか分からない、ミステリーです。


F スサノオの子供たちの、話。

ア) スサノオの子供の五十猛(イタケル)が、出雲経由で、和歌山に鎮座した。

 日本書紀・神代上・第八段・一書の4、『スサノオが、高天原から、息子の五十猛(イタケル)を連れて、新羅国に降臨し、曾尸茂梨(ソシモリ)に行った後で、出雲に辿り着いた。』

 先代旧事本紀、『スサノオが、高天原から、息子の五十猛を連れて、新羅国の曾尸茂梨(ソシモリ)に降臨したが、出雲と伯耆の間の「鳥髪の峯」に辿り着いた。』

 また、五十猛の和歌山入城について、先代旧事本紀に、『五十猛の別名を大屋彦。五十猛・大屋津姫・抓津姫の3人が紀伊の国に渡った。和歌山市伊太祁曽(いだきそ)の「伊太祁曽神社」の祭神』。

   (日本書紀・神代上・第八段一書4と5にも、3人が紀伊に渡ったと書かれて有ります)。

 これらにより、スサノオの息子の五十猛・娘の大屋津姫・抓津姫らが、出雲の「五十猛海岸」に上陸し、最終的に、和歌山市に鎮座したと思います。

  また、島根県五十猛町湊の「五十猛神社」の伝承、JR「にま(仁摩)駅」の東側にJR「いそたけ(五十猛)駅」の駅名が存在します。


イ) スサノオの子供の、大歳が奈良に居たという、話。

 スサノオと倭人の娘の「神大市姫」との間に大歳が生まれました。その大歳の子供には、

  (先代旧事本紀に、大歳に3人の妻が居て、1人目に、(出雲国出雲郡伊怒郷と考えられるところの)須沼比の神の娘の伊怒姫を娶って、大国御魂神・韓神・曽富理神・白日神・聖神の5人を生んだ。
    (★ この話は、出雲国風土記には、見えないようです)。

  2人目に、賀用姫を娶って、大香山戸神・御年の2人を生んだ。
  3人目に、天知迦流美豆姫を娶って、奥津彦・大山咋・その他、全部で9人を生んだ。


 このように、大歳は奈良に縁の深い神であり、息子の大山咋は京都の比叡山の神です。

 これらによると、大歳のファミリーは、奈良から比叡山の両側の大津市方面や京都市本面、さらに山陰方面にまで勢力を伸ばしていた大豪族のように感じられます。

  (ただ、大歳の子孫が絶滅状態なのは、後から入ってきた大国主のファミリーに蹴散らかされたのではないかと、想像します)。


ウ) 五十猛や大歳は、大国主よりも古い神だった。

 記紀神話では、大国主の「国譲り神話」の後で「天孫降臨」に繋がりますから、五十猛や大歳は大国主より以前の物語になります。
  (伝承が残されていないので、詳しいことは分かりません)。


G スサノオは、いつ来日したかの、考察。

ア) ニギハヤヒの奈良入城から、逆算してみる。

 ニギハヤヒは、オシホミミ(忍骨命)の子供であり、ニニギの兄ですが、同時にスサノオの孫でも有ります。そこから逆算してみます。

 ニギハヤヒの奈良入城と「ニギハヤヒ天皇神武」として即位した年代を290−300年ごろと考えてみます。(これは「崇神天皇神武」時代を340−360年ごろと考えての逆算になります。さらに神功皇后摂政時代を380−400年ころと考えての逆算になります)。

 ニギハヤヒが奈良に入城して数年後に崩御し、年齢が40−50歳と仮定すると、生まれたのは250年ごろになります。
 オシホミミが、20歳の時に長男のニギハヤヒを生んだとすれば、オシホミミが生まれたのは230年ごろが導かれます。
 スサノオが、20−30歳の時にオシホミミを生んだとすれば、スサノオが生まれたのは200−210年ごろが導かれます。

 そうしますと、スサノオの来日は220−250年ごろということに成りそうです。


イ) 邪馬台国の卑弥呼との関係の、考察。

 卑弥呼をアマテラスに、卑弥呼の弟をスサノオに当てる説が有ります。「後漢書」の恒霊の間(147−189年)の倭国大乱の後で卑弥呼が擁立されて、卑弥呼が248年ごろに死亡したと考えますと、スサノオが当てはまりそうです。

  (ところが、この説の難点は、卑弥呼は生涯の独身で子供が居なかったが、アマテラスには子供がいた点です。それと、スサノオが朝鮮半島の新羅に降臨したことです)。


ウ) スサノオが濊族だった場合の、考察。

 朝鮮半島の濊族の移動は、魏の後継王朝である「西晋」の勢力の衰え以降ですから、2百年代の晩期と思います。

 すると、スサノオの来日は、早くても、邪馬台国の台与の266年の朝貢より以降だと思います。

   (その根拠は、266年以前に、邪馬台国や北九州に動乱や異変の記録が無いためです。記録が無いのは何も無かったということです)。

 ところが、スサノオが200−210年ごろに生まれたとすると、(2百年代の晩期では)50代60代になっており、息子の大国主の時代に重なり、違和感を覚えます。


エ) スサノオが弁韓諸国の倭人だった場合の、考察。

 スサノオが、朝鮮半島の南岸東部の倭人だった場合には、日本への交流は十分可能だったと思います。

 ただ、この場合には、北九州から朝鮮半島南岸東部までの制海権は邪馬台国の卑弥呼が掌握していたと思いますので、スサノオの壮大な武勇伝・英雄伝のイメージが湧いてきません。


オ) スサノオが朝鮮半島から西日本を支配した海人族だった場合の、考察。

 スサノオが、海人族の大親分だったなら、いつでも何回でも、日本には往来できますし、子供たちが出雲や奈良や和歌山などに拠点を築いたり、入植することも可能です。

  (この難点は、スサノオの新羅降臨説です。新羅と海人族では、イメージが合いません)。


 ★注) 珠洲市のスズとか、事代主の母親の美保須々美命のススとか、渚洲村(スズ)の「スス」などには、海岸の突き出た場所を指す意味が含まれているようです。すると、「スサノオ」は「ススノオ」であり、「突き出た海岸の男」や、「目立つ海岸の男」の意味を含んでいるのかも、知れません。

  また、日本語の基幹は「呉越語」ですが、呉越以前には、東南アジア・ポリネシア方面の諸語が浸透しており、呉越語で解けない日本古語が有るように、思います。


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