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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の37)・「ニギハヤヒ天皇と事代主天皇の、二重性」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/433.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 7 月 30 日 09:54:59: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「ニギハヤヒ天皇と事代主天皇の、二重性」に、ご興味をお持ちでしょうか。ニギハヤヒは、古代の奈良の最重要人物でしたが、詳しいことは封印されてしまいました。
 そしてまた、事代主も、重要人物であったのに、封印されてしまいました。

 そこで、今回は、ニギハヤヒと事代主の二重性について、考察してみたいと、思います。


A 初めに、事実関係の列挙。

A-ア) ニギハヤヒは精神であり、事代主は肉体であり、別々のもの。

 (いつも言っていますが)、ニギハヤヒは精神であり幽霊であり、事代主は肉体であり物質であり、全く別々のものです。 ニギハヤヒという神霊・精神が、事代主という人間・肉体に、憑依しただけです。
 (別の表現では、事代主というレンタカーを、ニギハヤヒが、(使い捨てで)運転しただけです)。

 ★ 別の表現をすると、精神は(13階層あるらしい)「縦方向に移動するもの」、肉体は(13階層あるらしい)「横方向に延びるもの」。たとえば、13階建のビルの「一つのフロアー」が人間世界、エレベーターで移動する「ヒト」が精神世界。あるいは、VRゲームで、人間型ロボットを操作する意識が、精神(ヒト)という言い方が出来るかも知れません。


A-イ) ニギハヤヒと事代主は、元々は、別々の生まれ。

a) ニギハヤヒは、忍穂耳の長男に生まれました。(「天孫降臨」以前に生まれたから、本籍と出生地は「高天原」です)。

b) 事代主は、諸説あり、分かりません。
 古事記によると、大国主が、神屋楯比売を娶って生んだ子供になっています。

 日本書紀では、大国主の子供ですが、謎めいています。
   事代主は、奈良の三輪山の「八ひろの熊鰐」だった説(神代上・第八段・一書6−3)。
   国譲り神話では、大物主と事代主の2人が帰順した(神代下・第九段・一書2−2)。
   (つまり、事代主は、大国主の子供以外に、大物主か、その子供である可能性も浮上)。

c) 先代旧事本紀では、大国主が、宗像の高津姫(タギツ姫)を娶って都味歯八重事代主を生んだ。
 

A-ウ) 各種の系図。

a)     (大田田根子の系図・古事記)
 古事記・「崇神天皇」の段で、大田田根子の系図には、『大物主神が、陶津耳の娘の「玉依毘売」を娶って「櫛御方」を生んだ。櫛御方の子供が「飯肩巣見」、その子が「建甕槌」、その子が「意富多多根子(大田田根子)。

b)     (大田田根子の系図・日本書紀)
 日本書紀・「崇神天皇・即位七年秋八月」の条では、『崇神天皇が大田田根子に、『お前は誰の子か』と問うと、『父は大物主大神。母は陶津耳の娘の「活玉依媛」、あるいは奇日方天日方武茅渟祇の娘です』。

c)     (事代主の系図・先代旧事本紀)
 (大国主の子供の)都味歯八重事代主の神は、「八ひろの熊鰐」になって、「三嶋溝杭」の娘の「活玉依姫」を娶って、「天日方奇日方」と「鞴五十鈴姫(タタラ・イスズ・ヒメ)」の二人を生んだ。

d)     (ニギハヤヒの系図・先代旧事本紀)
 ニギハヤヒは、天上で、(大国主の娘の説の)「天の道日女」を娶って、「天の香語山」を生んだ。その後、河内の国に天下って、奈良に入城して、長髄彦の妹の「御炊屋姫(ミカシキヤ・ヒメ)を娶って、「宇摩志麻治」を生んだが、(子供が生まれる前に死亡して)、亡き骸は天上に還された。

e)     (神武天皇の系図・古事記)
 神武天皇が、奈良に入城して、伊須気余理比売を皇后に娶ったが、姫の出自について、『奈良の三輪山の大物主が、(厠(川屋)で大便中の(三嶋溝杭の娘の)「勢夜陀多良比売」のホトを、流れ矢になって突き刺した。その後の「妻問い」で、「秀処多多良伊須気比売」が生まれた。
 姫が、「ホト」の名を嫌がり、秀処多多良伊須気比売を「比売多多良伊須気余理比売」に改めた。 

f)     (神武天皇の系図・日本書紀)
 神武天皇は、(事代主~が、三嶋溝橛耳~の娘の玉櫛媛を娶って生んだ娘の)「媛蹈韛五十鈴媛(ヒメ・タタラ・イスズ・ヒメ)」を、皇后に迎えた。

g)     (神武天皇の系図・先代旧事本紀)
 天日方奇日方は、神武天皇の大夫(重臣)として奉仕し、鞴五十鈴姫は神武天皇の皇后になり、二代天皇などを生んだ。


B 「ニギハヤヒと事代主の二重性」の証明の根拠。(状況証拠)。

B-ア) 年代の一致、不一致の問題。

a)  (ニギハヤヒと事代主は、年代が同じ)。
 ニギハヤヒは忍穂耳の子供で、スサノオの孫であり、事代主は大国主(アメノホヒ)の子供で、スサノオの孫であり、年代が全く一致すること。


b)  (ニギハヤヒと「神武東征」は、年代が合わない)。

 (記紀神話)・・・・スサノオ・・忍穂耳・・・・ニニギ・・山幸彦・・ウガヤフキアエズ・・崇神天皇神武
 (記紀神話)・・・・スサノオ・・大国主・・・・事代主(本当の神武天皇)
 (先代旧事本紀)・スサノオ・・忍穂耳・・・・ニギハヤヒ・・・宇摩志麻治・・・
 (A-ウ・a)の大田田根子)・・大物主神・・櫛御方・・飯肩巣見・・建甕槌・・・・・・大田田根子

 (上記で比較すると)、記紀神話の神武天皇は、ニギハヤヒの3代の後であり、子供を20歳で生んだとすれば、神武天皇が20歳の時に、ニニギ(ニギハヤヒ)は80歳の計算になります。古代人の寿命から考えて、有り得ないと思います。
  (また、子供を15歳で生んだとしても、神武天皇が20歳の時に65歳になっています)。

 では、先代旧事本紀で計算すると、ニギハヤヒの晩年に宇摩志麻治が生まれたなら、ウガヤフキアエズの世代に合致しますので、神武天皇と宇摩志麻治が対面する可能性は、有り得ると思います。


c)  (歴史的年代の推測)。

 290−300年ころ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・340年ころ・・・・・・・・・・・・・・
 ニニギ・・・・・・・・・・・・・・山幸彦・・・ウガヤフキアエズ・・・神武天皇(実は第十代・崇神天皇)
 初代神武天皇(事代主)・・第二代から第九代の天皇・・・・第十代・崇神天皇
 ニギハヤヒ(神武天皇)・・・・・・宇摩志麻治・・

 崇神天皇神武と子供の垂仁天皇が、奈良に入城して「入り王朝」を築いたのは340年ごろで、ニギハヤヒ天皇神武(事代主天皇神武)が、奈良に入城したのは290−300年ごろです。
 第二代から第九代までの「欠史八代」の天皇は、300−340年ごろの40年間くらいで、ニギハヤヒ(事代主)の子供と孫の2世代間の8人による「兄弟相続」だったと、推測します。


B-イ) 両者は、同じ妻を娶っている。(推理)。

   (A-ウ・a〜g)の重複する系図の整理。

 a 大物主神は・・陶津耳の娘の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・玉依毘売を娶る。
 c 事代主は・・・三嶋溝杭の娘の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・活玉依姫を娶る。
 d ニギハヤヒは・長髄彦の妹の・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・御炊屋姫を娶る。
 e 神武天皇は・三嶋溝杭の娘の勢夜陀多良比売が生んだ娘の・伊須気余理比売を娶る。
 f 神武天皇は・三嶋溝橛耳の娘の玉櫛媛が生んだ娘の・・・・・・媛蹈韛五十鈴媛を娶る。

     (上記の重複する名前の整理での注意点)
 まず第1に、『系図には、ウソ・誤魔化し・引っ掛け・ペテン・詐欺・ニセ系図』が有ります。
 第2に、別名が多く有ります。たとえば、長髄彦の妹の「御炊屋姫(ミカシキヤ・ヒメ)」の別名には、長髄姫・長狭姫・登美夜毘売など。
     (展開の仕方)
 そこで、一番目に、eの神武天皇皇后の伊須気余理比売と、fの媛蹈韛五十鈴媛を同一人物に仮定して、これを第1のベースに展開します。
 すると、皇后の母親は、勢夜陀多良比売=玉櫛媛が導かれ、祖父には三嶋溝杭=三嶋溝橛耳が成り立ちます。これを第2のベースに展開します。

     (そこから、とりあえず、全部を当てはめると)、
 神武天皇の皇后には、=c・鞴五十鈴姫=d・御炊屋姫=e・伊須気余理比売=f・媛蹈韛五十鈴媛が、当てはまります。
 皇后の母親には、a・玉依毘売=b・奇日方天日方武茅渟祇の娘=b・c・活玉依姫=e・勢夜陀多良比売=f・玉櫛媛が、当てはまります。
 皇后の祖父には、a・陶津耳=c・e・三嶋溝杭=f・三嶋溝橛耳が、当てはまります。
 皇后の兄には、a・櫛御方=c・天日方奇日方=g・天日方奇日方が、当てはまります。
   (櫛御方とは、「奇御方」ですが、大変な名前です。たぶん天皇の別名だと思います)。

     (★ 長髄彦と、妹の御炊屋姫の問題点)
 ここで、皇后の兄には、事代主とニギハヤヒが加わります。
 ところが、(長髄彦の妹の)御炊屋姫をニギハヤヒ天皇神武の皇后に加えると、皇后の兄に長髄彦を加えなければならなくなる。
  すると、(兄弟結婚したところの)皇后の兄には、
  a・櫛御方=c・天日方奇日方=d・長髄彦=g・天日方奇日方=事代主=ニギハヤヒが、当てはまります。
    ですから、
 この長髄彦は、「神武東征」の長髄彦とは「別の長髄彦」に解釈しなければなりません。
  つまり、長髄彦とは、長洲彦・長狭彦・登美屋彦などとして、「長髄・長洲」の地名を冠した「通称名」であり、何代にもわたって何人も居たと考えるべきと思います。
   また別に、
 ニギハヤヒが登美で娶ったのが御炊屋姫で、これとは別に、伊須気余理比売も娶っていたという考え方も成り立ちます。(古代の天皇には、皇后・妃・夫人・妾などの多くの妻が居ました)。

 面倒で難解なのは、皇后の父親です。
   a・大物主神=b・大物主大神=c・都味歯八重事代主=e・大物主=f・事代主~が導かれますが、大物主=事代主には、違和感を覚えます。
 ですから、これは「ウソ・誤魔化し・引っ掛け・ニセ系図」として疑問視すべきです。

 ★ 『全てが真実だ』と過信してはなりません。『人間はウソをつく生き物である』、『特定個人に事実であっても、全体の真実とは限らない』。提示された「事実」を凝視し思考して、「客観的真実」を発見しなければならない、と思います。

  また、古代の天皇家の権威は絶対であり、たとえ事実であっても『差しさわりが有る』と判断したなら、名前を変えたり匿名にしたと思います。ですから、残された系図も当てに成りません。


B-ウ) 事代主とニギハヤヒは、大阪に縁がある。

a) 事代主の母親は、奈良か大阪の出身者の説が有ります。

 古事記によると、事代主は、大国主が神屋楯比売を娶って生んだ子供になっています。この「神屋楯比売」を、『神の矢が立った姫』と解釈すると、上記(A-ウ・e)の『三輪山の大物主が、「勢夜陀多良比売」のホトを、流れ矢になって突き刺した。』が、当てはまります。

(あくまでも推測ですが)、

 事代主の母親は、神屋楯比売(神の矢が立った姫)ですが、別名を、勢夜陀多良比売(背矢が立たら姫)とも言います。奈良の三輪山の大物主の「妻問い」によって「秀処多多良伊須気比売」を産みましたが、別に事代主も産みました。

 勢夜陀多良比売の父親は、三嶋溝杭であり、大阪湾の淀川水系を支配する豪族でした。(根拠地の伝承に、大阪府茨木市五十鈴町の「溝咋神社」が挙げられます。また、大阪府の淀川の上流には「三島郡」の地名も有ります)。

 事代主は、国譲り神話で「青柴垣神事」を終えると、境港の有る美保関方面から、船を使って山陰海岸を東に向かい、豊岡市の円山川を遡り、和田山から陸路を姫路に下り、再び船で、大阪に入ったと想像します。
 (つまり、姫路方面は大国主の支配下に入っていたから安全だったが、丹波・丹後・山城方面は大歳の勢力が残っており、通行の危険性があった)。

 (大阪の淀川水系には、祖父の三嶋溝杭や、母親で女酋長の勢夜陀多良比売の領地が有ったし、その一族郎党が事代主を歓迎したと、思います。(その後、勢力を付けた後に、枚方・交野方面から「奈良侵攻作戦」を開始したと考えるほうが、合理的に思います。

参考・(「丹塗り矢」の伝承)。
 山城国風土記・賀茂の社の条に、上記に類似する話が有ります。
    (簡略の翻訳で)、
 『賀茂建角身(カモタケツノミ)の娘の玉依姫が、石川(賀茂川のことで川上は貴船)で川遊びをしていたら、川上から丹塗り矢が流れてきて、持って帰って寝床に置いていたら、男の子(賀茂別雷の命)を妊娠して出産した』、様なことが書かれています。

参考・(「妻問い婚」の伝承−1)。
 常陸国風土記・那賀郡・茨城の里の条に、蛇の伝承が有ります。
    (簡略の翻訳で)、
 『兄の努賀彦(ヌカビコ)と妹の努賀姫がいた。その妹に、正体不明の男が夜に来て昼に帰る「妻問い婚」を行った。やがて妹は小さな蛇を産んだ。蛇が大きくなって父親の居る天上に昇った』。

参考・(「妻問い婚」の伝承−2)。
 播磨国風土記・託賀(タカ)郡・賀眉(カミ)の里の条の、「妻問い婚」の伝承。
    (簡略の翻訳で)、
 『道主(チヌシ)姫が、父親無しの子を産んだ。やがて酒宴が催されて、その子が、居並ぶ神々の中から「天目一命(アメノ・マヒトツノ・ミコト)に酒を奉った。それで天目一命が子供の父親で有ることが分かった』。


b) 事代主の母親は、美保津姫で、大物主の妻だった。

    「日本書紀・神代下・第九段・一書2−2」の、「国譲り神話」の条の中で、
 『時高皇産靈尊、勅大物主~「汝若以國~爲妻、吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穗津姬、配汝爲妻。宜領八十萬~、永爲皇孫奉護。・・・』
     (簡略の翻訳)
 『この時、高皇産靈尊は、大物主~に勅して、『汝が、もし、国津神を妻にするなら、心を許していないことになる。ゆえに、今、私の娘の「三穗津姬」を、汝の妻に与える。よろしく、八十万の神を率いて、皇孫の奉護を、永く致せ。・・・』

    (三穗津姫は、美保津姫で、美保関の神という、複雑怪奇な関係)
 この高皇産靈尊の娘の三穗津姫は、事代主がいた島根県の美保関の神というのが、通説です。
   ところが、
 美保津姫は、「出雲国風土記・島根郡・美保郷」では、『大国主が、高志の国の神の娘の「奴奈宜波比売」を娶って生ませた子供が「御穂須須美命」で、美保に鎮座している』ようです。
   また、別の説には、
 美保津姫は、『越の国(能登半島の珠洲市あたりが比定地)の「御穂須須美命」の娘で、大国主に嫁入りした』説も有ります。

    (美保神社の祭神)
 美保神社の祭神は、神屋楯比売命・沼河比売命・媛蹈鞴五十鈴媛命・五十鈴依媛命などが祭られているそうです(要確認)。

    (美保津姫は、大物主の妻の「勢夜陀多良比売」でもある)
 上記の日本書紀の記述から、この三穗津姫(美保津姫)は、(A-ウe)の大物主の妻の「勢夜陀多良比売」にも比定されます。

 ★ すると、高皇産靈尊の娘の三穗津姫=三輪山の大物主の妻の「勢夜陀多良比売」=大国主の妻の美保津姫=事代主の母親の神屋楯比売の関係が成立しますが、訳が分かりません。

 (★ 古代人の名前は、誰も知らないし、(目上の人以外には)他人には教えないから、実名・本名は分からず、ニックネーム・愛称が付けられます。

  それと、何回も生き死にを繰り返したと言いますから、毎回、違うロケーションや名前で出演したかも知れません。今回で「7回目の終了」と言うなら、過去にも、同じことが6回あったのかも、知れません)。


c) ニギハヤヒは、北大阪に降臨した。

   日本書紀・神武天皇・即位前記の中で、
 『・・・抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」・・・
   (簡略の翻訳では)、
 『・・・東征前の神武天皇が、兄や息子たちに言った。『昔、塩土老翁から、「東には良い土地がある。そこに飛び降りた者がいる。」と聞いた。その土地は日本国の中心になる土地だ。飛び降りた者はニギハヤヒだろう。その土地を横取りして、自分たちの都にしようと思う』。
 すると、兄や息子たちが『当然だ。早く行って、強奪して、自分達のものにしよう』と答えた。・・・

 (★ 余談ですが、欲しいものは、ニギハヤヒの領土だろうと、誰の領土だろうと、無条件で手に入れるのが、古代人のポリシーでした。『勝てば官軍、負ければ賊軍』の世界観です)。


 先代旧事本紀では、ニギハヤヒは、アマテラスから「十種神宝」を授けられて、天の磐船で、大阪府交野市の天野川上流の「イカルガの峰」に天孫降臨して、奈良県の「トミのシラニワ」に還りました。

 ここで大事なことは、事代主と同じように、ニギハヤヒも、北大阪(淀川水系)に辿り着いたことです。しかも、事代主の祖父の三嶋溝杭や、母親で女酋長の勢夜陀多良比売の勢力権が有ったと考えられる交野市・枚方市方面だったのです。

 ★ ニギハヤヒは、高天原の神霊で幽霊です。降臨したということは、人間に憑依したということになります。だから、事代主に憑依して人間活動を行ったことになります。
 そして、「ニギハヤヒ天皇神武」は、同時に「事代主天皇神武」でも有る訳です。


B-エ) 両者ともに、大国主の、子供である。

a) スサノオの子供たちが、奈良を支配した。

 スサノオの子供の五十猛は、和歌山に入城しました。
  先代旧事本紀に、『五十猛の別名は大屋彦。五十猛・大屋津姫・抓津姫の3人は紀伊の国に渡った。和歌山市伊太祁曽(いだきそ)の「伊太祁曽神社」の祭神』。
   (日本書紀・神代上・第八段一書4と5にも、3人が紀伊に渡ったと書かれて有ります)。

 また、同じく、スサノオの子供の大歳も、奈良・京都・兵庫方面に入植しています。(近畿各地の神社の伝承や祭神からの推測)。

 そして、スサノオの子供で、兄の「八十神」たちからイジメ倒された大国主が、兄たちを切り伏せて勢力を拡大しました。
 (奈良の大歳の勢力は、大国主に屈服し帰順しました。あるいは追放されました)。


b) 事代主の父親は、奈良の三輪山の大物主(大国主)だった。

 奈良を支配する過程で、「大物主」の異名を持った大国主が、淀川水系の三嶋溝杭と同盟するのは当然であり、ウケイ(誓約・盟約)の証として、勢夜陀多良比売と結婚するのも必然であり、その子供の事代主が、大阪・奈良で君臨できるのも自然の流れでしょう。

 ★ 大国主の子供では、事代主・アシスキタカヒコネ・建御名方が有名ですが、アシスキタカヒコネは美濃で戦死し、建御名方は信濃に移動しました。
  奈良に入城し、残留して天皇になった可能性は、事代主しか考えられません。


B-オ) ニギハヤヒは、大国主の「義理の子供」だった。(説)。

 播磨国風土記・飾磨郡・伊和の条に、『昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も猛々しかった。そのため・・・』と見えます。
  この火明命は、通説では、オシホミミの子供の「天の火明命」に同一視されます。

 また、一説に、『ニギハヤヒは、天上で、(大国主の娘の説の)「天の道日女」を娶って、「天の香語山」を生んだ。』ようです。
  すると、大国主の娘婿ですから、「義理の子供」になりますが、元々、ニギハヤヒはスサノオの孫に当たりますから、「叔父と甥」の親族関係でした。

 ★ ニギハヤヒは、忍穂耳の子供で、ニニギとは兄弟でしたが、大国主の系列に取り込まれて、「出雲神」として扱われました。

 (海人族の母親から生まれた説の)大海人天皇は、大のアマテラス・ファンで、海人族びいきでしたが、出雲族に取り込まれたニギハヤヒを、苦々しく思い、徹底的に封印したのではないかと思います。
 同時に、「事代主天皇」などは、絶対に、後世には残したくない名前だったと思います。


B-カ) ニギハヤヒと事代主は、両者とも、船にまつわること。

 出雲に「青柴垣神事」が有ります。この点について、日本書紀・神代下・第九段本文六に、

 『二~、於是、降到出雲國五十田狹之小汀、・・・時大己貴~對曰「當問我子、然後將報。」是時、其子事代主~、遊行、在於出雲國三穗・・・時、事代主~、謂使者曰「今天~有此借問之勅、我父宜當奉避。吾亦不可違。」因於海中造八重蒼柴柴、此云府璽籬、蹈船竭D竅A此云浮那能倍而避之。使者既還報命。』
    (簡略の翻訳をしますと)、
 『武甕槌と経津主の二神が、出雲に降り立った。大国主が『事代主と相談する』と答えた。この時、事代主は美保にいた。二神の使者が事代主に事情を説明した。
 事代主は『国譲りに従う』と答えて、海の中に青柴垣を作り、船の「へさき」を踏んで、姿を隠してしまった。』というような、感じです。

 ★ ここで、不思議なのは、船を引っくり返して、その中に隠れてしまったことです。なぜ、船なのか。
   B-ウ・aで述べたように、
 山陰海岸を船で東に向かい、最終的に大阪に入ったこと。それと、ニギハヤヒの「天の磐船」での降臨との、二重性が考えられます。


B-キ) 「神武東征」のニギハヤヒは、ウソである。

a) 記紀神話では、ニギハヤヒが、神武天皇に帰順して、仕えたことになっています。

 ところが、先代旧事本紀では、ニギハヤヒは、息子の宇摩志麻治が生まれる前に死亡しました。神武東征の時には、宇摩志麻治と長髄彦が居て、宇摩志麻治が、神武天皇に帰順して仕えました。


b) ニギハヤヒは、神武東征の前に、奈良の「大王」だった。

 記紀神話の神武東征では、奈良の頂点に、ニギハヤヒが君臨していたことが記載されています。


B-ク) 大国主(大物主)の子孫が、皇后を輩出した。(つまり兄弟結婚をした)。

 大国主(大物主)の子孫が、皇后を輩出したり、重臣として朝廷を取り囲みますが、古代は基本的に、兄弟結婚をしますから、皇后が大国主の子孫なら、天皇も大国主の子孫ということになります。

 ですから、事代主は、北大阪の祖父の地盤を根拠に奈良を侵攻支配して、天皇(事代主天皇神武)に即位したことになり、皇后も事代主の兄弟姉妹ということが導かれます。
 そして、二代目以降の天皇も皇后も全部が、事代主の子孫になります。


B-ケ) 事代主・ニギハヤヒを祀る神社が、奈良に多く有るが、神武天皇系統の神社は少ない。

 宮中の「八神殿の神」に、第1順位に「カミムスビ」、8位に「事代主」が有りますが、両者は出雲系の神です。さらに、事代主を祭るのは不自然です。また、奈良で古代から存続する神社は、出雲系ばかりで、中でも、大国主系統の神社は破格の格式が与えられています。


B−コ) 淀川の豪族の三嶋溝杭の娘が、何で、三輪山の勢夜陀多良比売なのか。

 三嶋溝杭が、大阪の淀川水系の豪族だったとしても、その娘が、何で、奈良の三輪山の大物主の妻の勢夜陀多良比売になるのか、距離的に離れているではないか、という疑問が生じます。

 この点について、古代は、淀川に繋がる「河内湖」の奥に「大和湖」があり、船で淀川から三輪山まで航海できましたから、三嶋溝杭が、三輪山の現地妻に生ませた娘が勢夜陀多良比売であり、(後から遣って来た)大物主(大国主)が勢夜陀多良比売を娶った、と考えられそうです。
 (そうすると、事代主は、大阪ではなく三輪山に入った可能性も有りますが、分かりません)。

 また、美保津姫(勢夜陀多良比売)は、大国主に付き従って出雲に入った可能性がありますが、晩年は出雲で没したか大阪に帰ってきたかは不明です。
 (稲羽の八上姫も、出雲に来て子供を産んだが、子供を残して、因幡の国に帰っています)。


C 実は、本当のところは、誰にも分からなかった。

 古代の日本には、各豪族の神々が「天孫降臨」して、豪族ごとに「神話」が有りました。

    (日本書紀の欽明天皇即位二年春三月の条に)、
 『・・・帝王本紀、多有古字、撰集之人、屢經遷易。後人習讀、以意刊改、傳寫既多、遂致舛雜、前後失次、兄弟參差。今則孝覈古今、歸其眞正、一往難識者、且依一撰而註詳其異。他皆效此)。・・・』
    (簡略の翻訳)
 帝王本紀は、多くの古い文字が有り、撰集者もコロコロ変わった。その後の人が習い読むときに、意図的に改変したりした。写本も多く出回り、間違いも有る。前後の順番が失われたり、兄弟の順序も違っている。
 今、古きを推測して真正に復帰させた。ただし、真実を知り難いものは、その中の一つを選び出すが、その他の異なるものも注釈として詳細に書くことにした。他のものも、皆、これに従っている。

 つまり、記紀神話の編集以前に、数多くの「伝承」が有ったが、各々バラバラの伝承だったので、訳が分からなかった。だから、古事記を表した大海人天皇にも分からず、完璧な整理が出来なかった。


D 終わりに。

 『ニギハヤヒが事代主である』という決定的証拠は見つかりません。それは、事代主は物質的な人間であり、証明が可能ですが、ニギハヤヒは精神的な神霊ですから、精神は証明が出来ないと言う事だ、と思います。

 しかしながら、記紀神話の神武東征がニギハヤヒの時代に合致せず、逆に、ニギハヤヒと事代主が同時代であること。奈良県各地の神社で大国主系統の「出雲神」が破格の待遇で祭られている事実。
 ニギハヤヒと事代主の子孫が大和朝廷の皇后・重臣として天皇を取り巻いている事実などから、消去法的に、状況証拠的に考察すると、『ニギハヤヒが事代主に憑依した』と考えざるを得ません。


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