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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の38)・「ニギハヤヒの東遷と、ニニギの南遷」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/437.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 8 月 06 日 09:55:20: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「ニギハヤヒの東遷と、ニニギの南遷」に、ご興味をお持ちでしょうか。ニギハヤヒ・ニニギは福岡に居たと思われますが、両者ともに福岡を放棄してしまいました。

 今回は、この移動の謎に迫ってみたいと、思います。


A なぜ、福岡から移動したのか。

 古代の日本にとって、北九州は「海の玄関口」でした。それは、北向きで一方通行の対馬暖流を利用した朝鮮半島との交易の拠点があったからです。
 (また、古代遺跡の発掘調査などから、朝鮮や中国との交流拠点は、(小規模・一時的なものを除いては)福岡以外には考えられませんでした)。

 では、なぜ、北九州を捨てて、鹿児島とか奈良方面に、移動したのか。移動するには、移動するだけの理由が必要です。


B ★ 天の采配だった。VRゲームだった。オカルトだった。

 私たちが、古代史を眺めるとき、それは、自然発生的に歩んだ結果が、『古代史そのものだ』と思っていますが、それは、大きな間違いでした。

 私たちの世界は、6,500年間のタイムスパンに組み込まれた「ショー」であり「演劇」であり、「思考と体験」のためのVR(バーチャル・リアリティー、仮想現実)なのです。
  つまり、紀元前4,500年に、今の「第7次太陽系次元」が始まり、紀元前3,000年ころにメソポタミアで「スメル王朝」が始まり、科学技術を獲得する戦いが行われ、今日まで続いています。


 『じゃあ、エジプトの巨大ピラミッドは、何なのだ』と言われると、『あれは、前次元の遺物であり、オーパーツの一つです。私たちの世界が、現実では無く、虚構であることを発見させるための「手掛かり」、「証拠品」として、故意に残してあるものです。
  
  よく考えてください。ツタンカーメンやクレオパトラの時代のピラミッドは小さいし、ピラミッドそのものも無く、「王家の谷」に横穴を掘って墓にしているだけです。

  巨大ピラミッドを作らなかった訳は、巨石が重たくて運べないからです。じゃあ、実在する巨大ピラミッドは、どうやって作ったのかと言えば、前次元は、重力が今よりも小さく設定されていたからです。

 仮に、重力が10分の1なら、重さも10分の1です。無重力なら、巨石も発泡スチロールになるし、ニギハヤヒの「天の磐船」が空を飛ぶし、スサノオが天上に駆け上がることも可能になるのです。

 重力の設定なんか、「パソコン右クリック」→「オプション→重力の設定と変更」→「OK」、で簡単に変更できます。

 ★ その意味において、これからの世界には、科学の常識に反することや、理屈に合わない事象が次から次に出現すると、予測します。


  世界は、ノストラダムスの1999年で終了ベルが鳴り、マヤの2012年で完結し、2013年から崩壊に向けての「逆流・逆転・逆バイアス」の期間に入りました。
  そして、
「火(日)」と「水(月)」の洗礼(いわゆる「富士と鳴門の仕組」)が、年々、激化してゆきます。『人民四つん這(ば)ひやら、逆立ちやら、ノタウチに、』(紫金の巻・第五帖)の地獄絵が展開されます。


C (話を戻して)、北九州を捨てた理由。

(北九州を捨てた理由は、第1には、朝鮮半島情勢です)。

 魏というか西晋というかの滅亡によって、中国の支配による朝鮮半島の安定が失われました。(304年からの「五胡十六国時代」を参照)。
 これらの派生から、高句麗が朝鮮を統一し、やがては日本を侵略する可能性が出てきたことです。

 それと、朝鮮半島南岸部の、加羅系倭人と安羅系倭人との対立・武力闘争、(あるいは呉系倭人と越系倭人との対立)の激化で、洛東江の安定が失われ、連鎖反応で、北九州の安定も失われたと考えられます。


(第2の理由は、日本の統一に向けての動きです)。

 北九州は、朝鮮との窓口であり、ひいては中国との国交の窓口でも有りましたが、日本全体で見ると、西の端の福岡よりも、中心軸にある奈良や京都のほうが利便性が有りました。
 
 陸路が整備されなかった古代には、海上交通が唯一の交通機関でしたから、大阪湾に面した奈良・大阪が、首都として最適でしたが、「五街道」などの陸路が整備されると、京都に遷都されました。


(軍事・防衛上からの首都の選定)

 軍事・防衛上で考えた場合には、福岡は、朝鮮からの海軍力の総攻撃で壊滅してしまいます。

 奈良であれば、福岡を攻略しても、長い瀬戸内海を通過しなければ、大阪湾には到達できませんし、大三島とか、児島湾とか、淡路島・武庫之津などに、日本海軍を敷設して迎撃すれば、一気に奈良を陥落させることは出来ません。

 また、奈良が陥落しても、陸路を伝って、東海・関東へ引き下がることが可能になります。

 また、鹿児島に控えた「ニニギの第二海軍」が、朝鮮・中国海軍の背後を襲うことが可能ですし、最悪、「鹿児島の海軍」が急襲された場合には、「黒潮」に乗って、東海方面に脱出することも可能です。


★ 以上のように考えると、これらの「ニギハヤヒの東遷と、ニニギの南遷」は、自然発生的に起きたものではなく、神の計画と指示によることが分かります。
   つまり、
 6,500年間のプログラムとスケジュールが「ぱあ」になると困るから、人間に分からないように、無意識や自然現象の形式を採ったりして誘導したものだと、想像します。


C ニギハヤヒに付き従う重臣たち。(先代旧事本紀)。

 ニギハヤヒの東遷と、ニニギの南遷に随行する神々には違いが見られました。ニギハヤヒには、アマテラスから、十種にわたる神宝が授けられると共に、数多くの神々たちも授けられました。


(ニギハヤヒの東遷に付き従った、豪勢な神々たち)

 第一には、高皇産霊尊の命令で、32柱の神々が付き従って、降臨した。(★誤記あり、要確認)

 1・天香語山(カグヤマ)・・・尾張連らの祖−−−−−−−−−−(ニギハヤヒの息子)
 2・天鈿女(ウズメ)・・・猿女君らの祖−−−−−(ニニギの時にも出演)
 3・天太玉・・・忌部首らの祖−−−−−−−−(ニニギの時にも出演)
 4・天児屋(コヤネ)・・・中臣連らの祖−−−−−−(ニニギの時にも出演)
5・天櫛玉・・・葛城の鴨県主らの祖
6・天道根・・・紀の直の祖で、川瀬造らの祖−−−−−−−−(神武東征でも出演)
7・天神玉・・・葛野の鴨の祖で、三嶋県主らの祖
8・天椹野(クヌノ)・・・伊勢の中跡(ナカト)の直らの祖
9・天糠戸(ヌカト)・・・石凝戸辺(イシコリトベ)の親で、鏡作連らの祖
 10・天明玉(アカルタマ)・・・玉作連らの祖
 11・天牟良雲(ムラクモ)・・・度会(ワタライ)の神主らの祖−−−−−(1の天香語山の子)
 12・天神立または天背男・・・鴨氏以前の京都伏見区の山背の久我直らの祖
 13・天御陰(ミカゲ)・・・大阪府の凡河内(オオシコウチ)直らの祖
 14・天造日女(ツクリヒメ)・・・綿積の子で、穂高見の子孫の安曇連らの祖
 15・天世平(ヨムケ)・・・12の天背男と類似する(?)、山背の久我直らの祖
 16・天斗麻弥(トマネ)・・・大和郡山の額田部(ヌカタベ)の湯坐(ユエ)の連らの祖
 17・天背斗女(セトメ)・・・尾張の中島の海部(アマベ)の直らの祖
 18・天玉櫛彦(タマクシヒコ)・・・間人(ハシヒト)の連らの祖
 19・天湯津彦(ユツヒコ)・・・安芸国造らの祖
 20・天神魂(カムタマ)又は三統彦(ミムネヒコ)・京都葛野(カドノ)の賀茂県主らの祖・(神武東征に出演)
 21・天三降(ミクダリ)・・・豊田(豊国)の宇佐の国造らの祖
 22・天日神(ヒノカミ)・・・対馬の県主(下県郡)のアマテル神社の祭神
 23・乳速日(チハヤヒ)・・・広沸瑞神麻続(ヒロセノカムオミ)の連らの祖、(北葛城郡・広瀬大社)
 24・八坂彦(ヤサカヒコ)・・・伊勢神麻続(イセノカムオミ)の連らの祖
 25・伊佐布魂(イサフタマ)・・・倭文(シドリ)の連らの祖
 26・伊岐志弥保(イキシニホ)・・・山代(ヤマシロ)の国造らの祖、ニギハヤヒの後裔
 27・活玉(イクタマ)・・・新田部(ニイタベ)の直らの祖
 28・少彦根(スクナヒコネ)・・・鳥取(トトリ)連らの祖
 29・事湯彦(コトユツヒコ)・・・取尾(トリオ)連らの祖、中臣氏らの系統
 30・表春(ウワハル)・八意(ヤゴコロ)の思兼神(オモイカネ)の子、信乃(シナノ)の阿智の祝部(イワイベ)らの祖
 31・天下春(シタハル)・・・武蔵の秩父の国造らの祖
 32・月神(ツキノカミ)・・・壱岐の県主らの祖

 第二には、五部(いつとものお)が、副い従って、天降った。(★誤記あり、要確認)

 1・天津麻良(アマツ・マラ)・・・物部の造らの祖
 2・天勇蘇(アマノ・ユソ)・・・・・笠縫部らの祖
 3・天津赤占(アマツ・アカウラ)・・・為奈部(イナベ)らの祖
 4・富富侶(ホホロ)・・・・・・・・・・十市部(トオチベ)の首らの祖
 5・天津赤星(アマツ・アカボシ)・・・筑紫の弦田物部(ツルタ・モノノベ)らの祖

 第三には、五部の造が、供領(とものみやつこ)になって、天物部(アマノ、モノノベ)を率いて、天降った。

 1・ニ田造(フタダノ・ミヤツコ)
 2・大庭造(オオバノ・ミヤツコ)
 3・舎人造(トネリノ・ミヤツコ)
 4・勇蘇造(ユソノ・ミヤツコ)
 5・坂戸造(サカトノ・ミヤツコ)

 第四には、天物部(アマノ、モノノベ)の25部が、天降った。(★誤記あり、要確認)

 1・ニ田物部(フタダ)・説)筑前国鞍手郡ニ田郷か筑後国竹野郡ニ田郷→和泉国泉郡上泉郷二田へ
 2・当麻物部(タギマ)・・説)・肥後国益城郡当麻郷か託麻郡から→大和国葛下郡当麻郷へ入植
 3・芹田物部(セリタ)・・説)・筑前国鞍手郡生見郷芹田から→大和国葛上郡と葛下郡の芹田へ
 4・馬見物部(マミ)・・(説)・筑前国嘉麻郡馬見から→大和国葛下郡馬見への入植説
 5・横田物部(ヨコタ)・・(説)・筑前国嘉麻郡郡横田村から→大和国添上郡横田村への入植説
 6・嶋戸物部(シマト)・・説)・筑前国遠賀郡島門から→大和国高市郡島への入植説
 7・浮田物部(ウキタ)・・(説) 不明、から→大和国葛下郡浮田村か、奈良県五條市の「浮田の社」か
 8・巷宜物部(ソガ)・・(説)・筑前国早良郡曽我郷から→大和国高市郡曽我への入植説
 9・足田物部(アシダ)・・説)・筑前国鞍手郡足田から→大和国城上郡辟田(ヒキタ)への入植説
 10・須尺物部(スサカ)・・(説) 不明
 11・田尻物部(タジリ)・・説)・筑前国上座郡田尻村か筑後国三池郡田尻→大和国葛下郡田尻村
 12・赤間物部(アカマ)・・説)・筑前国宗像郡赤間か長門国豊浦郡赤間(下関市)から→ 不明
 13・久米物部(クメ)・・(説)・ 不明、 から→大和国高市郡来米郷への入植説
 14・狭竹物部(サタケ)・・説)・筑前国鞍手郡粥田郷小竹から→大和国城下郡狭竹村への入植説
 15・大豆物部(オオマメ)・・説)・筑前国穂波郡大豆村から→大和国広瀬郡大豆村への入植説
 16・肩野物部(カタノ)・・説)・豊前国企救郡片野村から→河内国交野郡交野郷への入植説
 17・羽束物部(ハツカシ)・・説)・筑前国遠賀郡波津村、波津浦か、→京都の羽束郷、羽束師か不明
 18・尋津物部(ヒロキツ)・・説)・豊前国上毛郡広津から→大和国城上郡尋津への入植説
 19・布都留物部(フツル)・・説)・筑前国鞍手郡古門か古月か、→大和国の布留山の石上神宮か不明
 20・住跡物部(スミト)・・説)・ 不明、から→摂津国住吉郡住道郷への入植説
 21・讃岐三野物部(サヌキノミノ)・・説)・筑前国宗像郡蓑生(ミノウ)郷から→河内国若江郡三野への説
 22・相槻物部(アイツキ)・・説)・不明、から→大和十市郡両槻村か桜井市の「池辺双槻の宮」か不明
 23・筑紫聞物部(ツクシノキク)・・説)・豊前国企救郡か、から→不明
 24・播磨物部(ハリマ)・・説)・不明、から→播磨国明石郷への入植説、不明
 25・筑紫贄田物部(ツクシノニエタ)・・説)・筑前国鞍手郡新分(ニイキダ)郷から→不明

 第五には、船長が、梶を取る者を率いて、天降った。

 1・天津羽原(アマツ・ハバラ)・・・船長で、跡部(アトベ)首らの祖
 2・天津麻良(アマツ・マラ)・・・・・舵取りで、阿刀(アト)造らの祖
 3・天津真浦(アマツ・マウラ)・・・・船子で、倭鍛師(ヤマトノカヌチ)らの祖
 4・天津麻占(アマツ・マウラ)・・・・曽曽笠縫(ソソカサヌイ)らの祖
 5・天津赤星(アマツ・アカホシ)・・・為奈部(イナベ)らの祖

★ 以上の神々全部で、古代の奈良・京都・大阪周辺の豪族の、ほぼ全てが占められそうです。


  ↓以下の、ニニギの降臨に比べて、いかに盛大であったか、比較してみてください。


D ニニギに付き従う重臣たち。

 記紀神話によると、(ニギハヤヒの「十種神宝」に対し)、ニニギには「三種の神宝」が授けられました。

 そして、天児屋(アメノ・コヤネ)・天太玉(アメノ、フトダマ)・天鈿女(アメノ・ウズメ)・石凝度売(イシコリドメ)・玉祖(タマノオヤ)の5人だけが、付き従って降臨しました。

また、ニギハヤヒには、北九州の出立時から、地元周辺の豪勢な護衛が取り巻きましたが、ニニギには、(伊勢方面の海人族の)猿田彦が出張で応援に駆けつけるという、格差が有りました。

 ★ ニギハヤヒの陣容とニニギの陣容を比較すると、ニギハヤヒが、北九州の豪族のほとんど全部を引き連れて行きました。このため、北九州は「もぬけの殻」になりました。


E その後のニニギは、隼人に憑依した。

 ニニギは高天原の神霊ですから、人間活動をするためには、人間に憑依しなければなりません。

    (日本書紀・神代下・第九段・本文9に)、
 『其地有一人、自號事勝國勝長狹。皇孫問曰「國在耶以不。」對曰「此焉有國、請任意遊之。」故皇孫就而留住。・・・』
    (簡略の翻訳に)、
 「その地(吾田)に、一人の人間が居た。名を事勝国勝長狭と言った。皇孫のニニギが問うた『ここに国は有りや否や』。答えて言った『ここに国が有る。好きにされよ。それで、留まって住んだ。・・・」

    (日本書紀・神代下・第九段・一書2−4に)、
 『是時、天照大~、手持寶鏡、・・・故、天津彥火瓊瓊杵尊、降到於日向槵日高千穗之峯、而膂宍胸副國、自頓丘覓國行去、立於浮渚在平地、乃召國主事勝國勝長狹而訪之。對曰「是有國也、取捨隨勅。』
    (簡略の翻訳に)、
 「・・・ニニギは、高千穂に降臨した。海上の浮島に立って、国主の事勝国勝長狭を呼んで尋ねた。すると長狭は『ここに国が有ります。得るも捨てるも御自由に』と答えた」と有ります。

  この後の条では、~吾田鹿葦津姫(木花開耶姫)を娶った話に続きますから、二二ギが憑依した人間は、国主の事勝国勝長狭ではないかと、想像します。
  通説に、事勝国勝長狭は、イザナギの子供であり、別名には「塩土老翁」と有ります。

   すると、ニニギ=事勝国勝長狭=塩土老翁=住吉三神。(ニニギは海人族の守護神)。


 また、この降臨の時、「古事記」では、(大伴連の祖の)天の忍日と、(久米の直の祖の)天津久米の2人が、ニニギを出迎えたようです。
  (通説では、大伴連と久米直のルーツは、「神武東征」に付き従った、鹿児島方面の海人族と云われています)。

   「薩摩国風土記」逸文の「竹屋の村」の条には、
 『ニニギが高千穂に天下り、ここから薩摩の国のアタ(阿多・吾田)の郡の竹屋(タカヤ)の村に移って、土地の人の竹屋守(タカヤモリ)の娘を召して、その腹に二人の男子をもうけ、その所の竹を刀に作って、臍(ホゾ)を切った。その竹は今も有ると言っている』。

    (★ この時に、生まれた二人の男子は、海幸彦と山幸彦の説が有ります)。


F その後の、ニギハヤヒ。

 ニギハヤヒは、奈良に入城すると、初代の天皇に即位しました。(ニギハヤヒ天皇神武、あるいは事代主天皇神武、と想像します)。


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