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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の44)・「崇神天皇が、鹿児島から奈良に入城した」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/461.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 9 月 17 日 09:33:38: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「崇神天皇が、鹿児島から奈良に入城した」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 崇神天皇イニエの出自は、うまいこと誤魔化して有りますが、所所にホコロビが見られ、ニセ系図がバレバレの状態です。

 古代豪族たちに笑われながら、記紀神話編集委員会も『アホらしいなぁ』と思いながら、創作物語を作ったことでしょう。


A ニギハヤヒ天皇神武と崇神天皇神武の、「二人の神武天皇」の、合成です。

ア) 二人の「初代天皇」(神武天皇)。

 日本初代の天皇は、二人います。ニギハヤヒ天皇神武と崇神天皇神武の二人です。

 日本書紀・神武天皇・辛酉年春正月の条に『辛酉年・・・天皇卽帝位於橿原宮・・・而始馭天下之天皇、號曰~日本磐余彥火々出見天皇・・・』と有ります。

  「始馭天下之天皇」は、「はつくに、しらす天皇」であり、初代天皇のことです。奈良に入城して平定した事跡・業績から言っても『間違い有りません』。


 次の崇神天皇は、日本書紀・崇神天皇即位十二年春三月の条に『十二年春三月・・・詔「朕初承天位・・・故稱謂御肇國天皇也。』と有ります。

  「御肇國天皇」は、「はつくに、しらす天皇」であり、初代天皇のことです。「四道将軍」の派遣や、東海から中国地方の平定などの業績から言っても『間違い有りません』。


イ) 大海人天皇が原因で、二人の初代天皇が生まれた。(想像)。

 二人の初代天皇が生まれた根本原因は、大海人天皇だと思います。古事記を表す過程で、歴史を偽造・変造したのです。(それまでに初代天皇や神武天皇の概念は無かったと思います)。


 大海人天皇は、海人族で尾張氏の系統の海部一族の凡海麁鎌(オオシアマノ・アラカマ)日本書紀に大海宿禰荒蒲)の娘が乳母になって、大阪で育てられたと言われます。

 ところが、皇子が乳母に預けられるのは考えられません。大海人天皇以前には、後宮は有りません。天皇は「板葺き小屋の宮(御所)」や「萱葺き小屋の宮(御所)」に住んでいて、一つの家に何人もの后妃が住める状態では有りません。
 基本的に「妻問い婚」であり、生まれた皇子は、母親と共に、母親の実家で育てられました。

  ですから、乳母というのはウソで、乳母こそが本当の母親だと、思います。


 また、大海人天皇の父親の舒明(ジョメイ)天皇の時代は、朝鮮半島情勢が緊迫化して、百済の滅亡前夜でしたから、朝鮮出兵で海人族の地位が高く、大海宿禰荒蒲が舒明天皇に重用されて近づき、娘を側室に差し出すことは、容易に想像できます。
  それに、
 舒明天皇は、田村皇子と言って、(聖徳太子の子供の)山背大兄皇子の遥か後方を走るような弱小皇子でしたが、蘇我氏の支援で天皇に成れたような状態で、豪邸に住んで何人もの美女をはべらせる権勢は無かったと、思います。

 また、大海人天皇の妃には、海人族で宗像を根拠地にした胸形徳善の娘の尼子姫があり、高市天皇(高市皇子)を生んでいます。


 (想像するに)、幼少期の大海人皇子は、海人族の母親から、朝な夕なに、『海人族は素晴らしいが、出雲族は劣っている。アマテラスこそ神々の王だが、スサノオは乱暴者だ。出雲族は烏合の衆で頼りに成らないが、海人族は信義誠実であり忠義の志が高い』などと吹き込まれていたと、想像します。

 さらに、決定的なのは、壬申の乱で、勝てるはずのない大友天皇との戦いに完全勝利しましたが、勝因の一つに、海人族の尾張の国と、領地が有った美濃の国を手中にしたことが挙げられますが、『アマテラスの御加護が有った』として、大のアマテラス・ファンになりました。


 そこで、記紀神話を作るに当たり、男系の皇統が九代で途絶えたニギハヤヒ天皇(事代主天皇)の皇統を切り捨て、(海人族の血統ではないが、海人族の棟梁の)崇神天皇の系統を接合した。
 完全に切り捨てることが出来なかったのは、古代豪族の大半がニギハヤヒ(事代主)天皇の分家筋だから、「根無し草」になった豪族の反感を買うからだと、思います。


B 崇神天皇が、二人目の「神武天皇」という、根拠。

ア) 上記の、Aアの「二人の神武天皇」で述べたとおり、2人の初代天皇がいたこと。


イ) 崇神天皇の前に、ニギハヤヒの王朝が、奈良にあったこと。

 先代旧事本紀には、
 ニギハヤヒが、アマテラスから十種の神宝を授かって、32柱の神々・五部(いつとものお)・五部の造・天つ物部の25部・5人の梶取りを引き連れて、河内・奈良に入城しました。
 さらに、神武東征の段では、神武天皇の奈良入城後に、(宇摩志麻治が生まれる前に死亡したニギハヤヒの)子供の宇摩志麻治が、神武天皇に臣従を誓っています。

 古事記は、神武天皇が奈良に入城した時に、ニギハヤヒが、神武天皇に臣従を誓っています。
 日本書紀も、神武天皇が奈良に入城した時に、ニギハヤヒが、神武天皇に臣従を誓っています。

★ ここで大事なことは、神武天皇の奈良入城の前に、既に、ニギハヤヒの王朝が有ったことです。


ウ) 崇神天皇が「入り王朝」であると、名前に書いてあること。

 崇神天皇は、「御真木入日子」(御間城入彦)、『入ってきた天皇』と、自分から名乗っています。

 妃の大海媛との4人の子供にも「入る」の字が付いていますし、別の妃で紀伊の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘との間の2人の子供にも「入る」の字が付いています。


 ★ 「イリ」は、「入」と記入しますが、「西」の意味も有ります。「西表島」(イリ・オモテジマ)が有りますが、「西」を「いり」と発音するのは、南九州や奄美・琉球方面の古い発音かも、知れません。
  (後世の人々に対して、「入」と「西」を掛けた「なぞなぞ」だったら、面白いと思うのですが)。


エ) 「神武東征」で、神武の兄の稻飯命が、(崇神天皇の頃に)新羅を建国していること。

 「姓氏録・右京・皇別」に、「新良貴」という豪族が有り、出自は『彦波瀲武草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王者組合。』と見えます。

 つまり、(神武東征に同行した神武天皇の兄の)稻飯命は、和歌山から熊野に迂回する時に、海に飛び込んで、鋤持~(サイモチノカミ)になったというのはウソで、朝鮮に渡って新羅を建国したということに成ります。

 ここで、新羅の建国開始は、「三国志・辰韓伝」の記述以降であり、最低限、西晋の衰退期か滅亡期ですから、早くても300年前後の建国開始になり、完成が30−50年後と推測すると、330−350年のころに成ります。

  (「晋書・辰韓伝」では、『武帝の太康元年(280年)に王が遣使した。2年にも遣使し、7年(286年)にも遣使した』と見えますが、この頃は都市国家の「斯盧」の時代であり、辰韓を統一した「新羅」の前段階と考えられます)。

 したがって、新羅建国の330−350年の頃と、この「神武東征」が、(290−300年頃のニギハヤヒ天皇神武ではなく)、340−360年頃の崇神天皇神武のことだと解釈しますと、年代的に一致します。


オ) もともと、初代天皇の概念や、「神武天皇」という名前は無かったこと。

 尊い家系の神が降臨して天皇に収まる概念は有っても、神武以前にスサノオ・大国主(アメノ・ホヒ)などが降臨しているから「初代」という感覚は無かった。

 また、「神武天皇」という名称は、後世に作られたもので、神武天皇の本名なんか誰も知らなかったし、「ニギハヤヒ」も「御間城入彦イニエ」も本名ではなく単なる「ニックネーム」です。


カ) 崇神天皇が、鹿児島(日向)から来た「海人族」の棟梁であること。

 崇神天皇の名前(ニックネーム)は、「イニエ」で、イニエは「い・牲(贄)」に繋がり、牲(贄)は「いけにえ」であり、農耕族の名前ではなく、海人族がイメージされます。

 また、子供の垂仁天皇の名前も、「イサチ」であり、イサチは「い・幸」に繋がり、幸は「えもの」であり、農耕族の名前とは思えません。

 (★ ただ、崇神天皇も垂仁天皇も、海人族そのものではなく、「山幸彦」のように、海人族を支配した「天孫族」だと思います。
  また、崇神天皇の実名は分かりませんが、記紀神話編集委員会は、崇神天皇にふさわしいニックネームを選んでいると思います)。


 ★ 日本書紀・垂仁天皇の冒頭に『活目入彦五十狹茅天皇(垂仁天皇)は、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)の第三子だ。』と有りますが、
   垂仁天皇は「五十狹茅」であり、『磯の幸』と、読むのでしょうか。
   崇神天皇は「五十瓊殖」であり、『磯の贄』と、読むのでしょうか。

 また同様に、伊勢の「イスズ川」は、「五十鈴川」と書きますが、本来は『磯・鈴川』であり、『磯に・そそぐ川』、あるいは『磯の・すがすがしい川』、『磯の・さやかな川』の意味だったのでしょうか。

 (初めから「いすず」と言うなら、「伊須須」と書けばよく、「五十須須」と書く必要は有りません)。


キ) 崇神天皇が、鹿児島(日向)から来たが、系図的に、ニニギの3代後の子孫であること。

 ニギハヤヒが、北九州の遠賀川方面から、奈良に「神武東征」しました。崇神天皇が、遅れて、鹿児島(日向)から、奈良に「神武東征」しました。
  (★ だから、「神武東征」は、ニギハヤヒと崇神天皇の合成で、日向から来たことにしました)。

 オシホミミ・・・ニギハヤヒ・・2代天皇から兄弟相続で9代天皇まで・・10代崇神天皇
 オシホミミ・・・ニニギ・・・・・・山幸彦・・・・・ウガヤフキアエズ・・・・・神武天皇(崇神天皇イニエ)

  上記のように、神武天皇(崇神天皇イニエ)は、ニギハヤヒ(ニニギ)の3代あとです。


ク) 崇神天皇に随行した海人族が、鹿児島から来たことを消すことが出来なかったこと。

 崇神天皇と共に奈良に入った大伴氏・久米氏・(津守氏に繋がる)尾張氏などが、鹿児島から来た事実を消せなかったので、創作の「神武東征」を作り上げたと、思います。
  (つまり、ニギハヤヒの「北九州からの東征」を、「鹿児島(日向)からの東征」にすり替えた)。

 また、大伴氏・久米氏などは、ニギハヤヒの「北九州からの東征」に随行していません。(その6の38)・「ニギハヤヒの東遷と、ニニギの南遷」を参照)。
 また、大伴氏が歴史に登場するのは、4百年代以降の「大伴室屋」からです。

 また、尾張氏系統の津守氏は、大阪に「住吉神」を奉祭しましたが、住吉神は「塩筒の男」で「塩土の老翁」であり、鹿児島の神です。北九州は「綿津身」が本来の神です。


ケ) 一本の皇統を作るために、崇神天皇が鹿児島から来て、皇統が断絶したことを隠したこと。

 仮に、崇神天皇を初代天皇にすると、(崇神天皇以前から存在する)ニギハヤヒ天皇の子孫の豪族が目障りになる。だからといって、出雲族系列のニギハヤヒを初代天皇にすると、崇神天皇が侵略者であることがバレテしまう。

 だから、架空の神武天皇が、大伴氏・久米氏らを引き連れて鹿児島から来たことにして、崇神天皇を10代天皇に組み込んで、時系列的な整合性を図ったと、推理します。


コ) 神武天皇が鹿児島から来て、崇神天皇も鹿児島から来たなら、鹿児島から2回来たことになり、読者に不要な「疑念」を抱かせてしまい、ウソがバレテしまうこと。

 古代史の研究家の多くは、「神武東征」を史実とは見ていません。創作だと切り捨てています。

 また、崇神天皇が、どこから来たかと推理すると、アマテラスの皇統に繋がることや、海人族との関連を考えると、鹿児島しか考えられません。


サ) 神武東征の日向は、鹿児島県のことです。(勘違いしないで下さい)。

 神武東征当時の「日向」が、宮崎県の日向では無く、鹿児島県だというのは、日本書紀・神武天皇の冒頭に、『・・・長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手研耳命。』として、「日向國吾田邑」(鹿児島県の吾田村)だと、チャント書いて有ります。


C 崇神天皇が、3百年代の中ごろである、根拠。

ア) 崇神天皇の時代に、朝鮮の任那からソナカシチが来日していること(日本書紀・崇神天皇・即位六十五年の条)。

 崇神天皇の時代に、朝鮮の阿羅から「ツヌガアラシト」(角鹿(敦賀)に来た阿羅の人の意)が来日していること(日本書紀・垂仁天皇・即位二年の一書の条)。

 子供の垂仁天皇の時代に、朝鮮から、新羅の天日槍(アメノヒボコ)が日本に来ていること(日本書紀・垂仁天皇・即位八十八年の条)。

 これらの史実から、新羅の成立は3百年代の中ごろであるし、任那や阿羅の動揺も3百年代の中ごろであるから、崇神天皇は、3百年代の中ごろの推測が働きます。


イ) 「倭の五王」や「神功皇后摂政時代」から、逆算する。

 「倭の五王」が、4百年代の前半から始まることに異論は有りません。また、高句麗の広開土王(好太王)碑文に『391年に倭人が侵攻した』、『400年に倭人を撃退した』と有ります。
 すると、380−400年ころに、(短命政権だった)仲哀天皇と、(長命だった)神功皇后摂政時代があったことが比定されます。

 ★ 413年に倭の讃(応神天皇)が東晋に朝貢した記録が有りますが、390年代頃に生まれた応神天皇が成人するまで、母親の神功皇后の摂政時代が在ったと考えるなら、辻褄が合います。
  (天皇は空位になりますが、武内宿禰らの豪族会議が主体だったかも、知れません)。

 ★ 「倭の五王」の讃は応神天皇、珍は弟の仁徳天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇と、推理します。
  (倭の五王は実名では有りません、遣使のために考えた仮の天皇名です。天皇の実名は誰も知りませんし、知っていたとしても公表は絶対に有りません)。

 すると、(長期の)景行天皇と、(短命の)成務天皇の親子が360−380年ごろに比定されます。

 さらに、(短命の)崇神天皇と、(長期の)垂仁天皇の親子が340−360年ごろに比定されます。


D 崇神天皇は、短命政権だった。

   日本書紀・垂仁天皇・即位25年・一書に、
 『一云、天皇・・・然先皇御間城天皇、雖祭祀~祇、微細未探其源根、以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以、今汝御孫尊、悔先皇之不及而愼祭、則汝尊壽命延長、復天下太平矣。・・・』

   簡略の翻訳に
 『ある書には・・・先代の崇神天皇は、神祇(天津神と国津神)を祭祀したけれども、粗雑で丁寧で無かった。ゆえに天皇は短命だった。もしも貴方(垂仁天皇)が、先皇の行いを反省して丁寧に祭れば、貴方(垂仁天皇)は長命であり、その天下も太平であり長期になるだろう。・・・』

 このように、崇神天皇が短命であり、子供の垂仁天皇が長命であったことが書かれています。


★ ニギハヤヒ天皇神武は、(先代旧事本紀によると)子供の宇摩志麻治が生まれる前に崩御した短命政権でしたが、崇神天皇神武も短命政権だったということになります。


E 崇神天皇神武の、遠征成功の要因。

 崇神天皇神武が、鹿児島(日向)から水軍を率いて、奈良に遠征して成功した要因は、大きく2つあると思います。

ア) 第1に、西日本の海人族の協力が有ったこと。

 崇神天皇の鹿児島・宮崎の海軍が北上しても、北九州の海軍が敵対すれば困難だし、瀬戸内や吉備の海軍が敵対すれば困難だし、大阪湾の海軍が敵対しても困難だと、思います。

 結局は、北九州の綿津見の海軍の協力を皮切りにして、遠征軍が雪ダルマ式に膨張していったのではないかと、想像します。


イ) 第2に、奈良のニギハヤヒの後継王朝が、権力闘争を繰り返して内部分裂していたこと。

 記紀神話の兄ウカシ・弟ウカシ、兄磯城・弟磯城のように、遠征軍に協力する者と抗戦する者に分裂したから、崇神天皇の遠征が成功したのではないかと思います。

 そこで、勝利した崇神天皇に協力した者は、所領を安堵されて生き残った。1600年の「関が原の戦い」でも、親子兄弟が敵味方に別れて、家名の存続を図った事例が有ります。

 (崇神天皇以降の奈良の豪族は、在来勢力が圧倒的に多く、遠征軍の勢力は、大伴氏・久米氏などの少数に限られます。

 遠征軍だけの全面的な勝利であれば、奈良も京都も大阪も全部、海人族の領地になっていなければ、おかしいですが、そうなっておらず、「欠史八代」の豪族が多数存続しています)。

 
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