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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の48)・「景行天皇と、ヤマトタケル天皇の、兄弟対決」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/484.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 10 月 15 日 10:46:04: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「景行天皇と、ヤマトタケル天皇の、兄弟対決」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 記紀神話では、景行天皇と倭武天皇は親子に成っていますが、実は、違うのではないか、本当は兄弟だったのではないかと、想像しています。あくまでも想像ですが。


A 倭武は、「ヤマトタケル天皇」と呼ばれていた、事実が有る。

ア) 「倭武天皇」の呼称の事実。

 常陸国風土記に、ヤマトタケルの事が記載され、至る所に「倭武天皇」の文字が見られます。
 「阿波国風土記・勝間井の条」(万葉集註釈七)でも、「倭健天皇命」との記載が見られます。
 ★ 別々の人物による文献ということで、「客観性」が有りますから、「倭武天皇」は事実です。

 その他にも、天皇で無い人物の「天皇」の呼称には、「播磨国風土記・揖保郡・大家の里」に、「宇治天皇」(菟道稚郎子・ウヂノワキイラツコ)が見られ、同じ「播磨国風土記・美嚢(ミナギ)郡・志深(シジミ)の里」に、「市辺天皇」(市辺忍歯王のこと)も見られます。


イ) 天皇の呼称への、反論説と、その再反論説。

 反論説では、『倭武天皇・宇治天皇・市辺天皇などの呼称は、皇太子や「日嗣の皇子」に付けられた呼称名に過ぎず、天皇で有るとは限らない』。

 再反論説は、『宇治天皇(菟道稚郎子)は「嗣」(ヒツギ・次期天皇)に成っている(日本書紀・応神天皇・即位40年の条)。仁徳天皇と菟道稚郎子の間の混乱で3年が経過している(日本書紀・仁徳天皇・即位前記の海人族が魚を献上する段)。ゆえに、3年間は宇治天皇の治世と認められる』。
  さらに、
 『摂津国風土記・美奴売の松原の条」(万葉集註釈三)に、「息長帯比売天皇」(神功皇后)の名称が見られるから、否定論の根拠とする皇太子・日嗣皇子(ひつぎのみこ)説には、根拠が無い』。
  さらに、
 『皇太子や日嗣皇子の名称は、大海人天皇以降に確立したもので、蘇我氏の専制政治の頃には「大兄」という敬称は有ったものの、皇太子という敬称は無かったし、皇太子の制度も無かった』。


B ヤマトタケルは、天皇として処遇されている。

 日本書紀・景行天皇・即位40年の日本武尊の崩御の段に、『逮于能褒野、而痛甚之。・・・既而崩于能褒野、時年卅。』
★ 崩は、崩御の意味。一般に天皇・皇后にしか使わない文字。

 『天皇聞之、寢不安席、・・・葬於伊勢國能褒野陵。』
★ 陵は、御陵で、みささぎ。一般に天皇・皇后にしか使わない言葉。

 『時、日本武尊化白鳥、從陵出之、・・・倭琴彈原、・・・造陵焉。白鳥更飛至河內、・・・作陵。・・・三陵、曰白鳥陵。・・・』
★ 何度も陵の文字が使われる。


C 景行天皇が、ヤマトタケル天皇に、王権を「生前譲渡」した、記録が有る。

ア) 日本書紀に、王権を生前譲渡した記述が有る。

   (日本書紀・景行天皇・即位40年の日本武尊に東国平定を命じる段に)、
 『卌年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。・・・』
 『於是日本武尊、雄誥之曰「熊襲既平、未經幾年、・・・則天皇持斧鉞、以授日本武尊曰「朕聞、其東夷也、・・・亦是天下則汝天下也、是位則汝位也。願深謀遠慮、・・・於是、日本武尊乃受斧鉞、以再拜・・・』

   (簡略の再翻訳)
 『(景行天皇の即位28年に、ヤマトタケルが九州の熊襲を平定して奈良に帰ってきたが)、即位40年になると、東国の蝦夷が大規模な反乱を起こして大混乱に陥った。
 そこで、景行天皇が征討将軍の選出を求めたが、「何年かかるか分らないし、勝利できるかも分らない」から豪族たちは下を向いていた。
  そのため、
 ヤマトタケルに「白羽の矢」が立ったが、『とんでもない。九州遠征でヘトヘトだ。この役目は、(ヤマトタケルの兄の)大碓命が適任だ』と拒絶した。すると、大碓命は恐怖におののいて逃走した。
 (大碓命は、古事記ではヤマトタケルの兄だが、ねんごろに殺されたことになっている。また、日本書紀では双子の兄になっている)。

  そこで、
 景行天皇が、ヤマトタケルに斧(オノ)・鉞(マサカリ)を授けて、『お前しか居ない。この天下は、お前の天下だ。この位は、お前の位だ。よろしく頼む』。
 そういうことで、ヤマトタケルは、斧(オノ)・鉞(マサカリ)を受け取り、吉備武彦・大伴武日連らを従えて、東国遠征に旅立った』。

 ★ 景行天皇が『この天下は、お前の天下だ。この位は、お前の位だ』と明言しているのですよ。文書で契約しようと口頭であろうと、契約は契約です。だから、間違いなく、皇位の譲渡契約が有ったんです。こんな争点なら、最高裁でも勝訴できますよ。


イ) 斧(オノ)・鉞(マサカリ)は、王権のシンボルだった。

 漢字の「王」という字は、象形文字であり、「大きなマサカリの刃の形」に由来すると云われます。ですから、斧(オノ)・鉞(マサカリ)は王権のシンボルになります。
 古代中国では、遠征軍の将軍に斧・鉞を授ける例が有りますが、一般の将軍には剣を授ける程度で、斧・鉞を授けるのは特別で、王の名代の意味を持っています。

 記紀神話編集委員会も、中国の故事を熟知しており、「倭武天皇」の事実が有ったからこそ、王権のシンボルの斧・鉞を挿入したのではないかと、想像します。


ウ) 記紀神話の記述は、無茶苦茶で、信用ならない。

 上記の日本書紀では、ヤマトタケルの東国遠征は景行天皇即位40年のことに成っていますが、即位2年にヤマトタケルが生まれています。
 (『二年春三月丙寅朔戊辰、・・・后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊』。)
   ところが、
 日本書紀のヤマトタケルの東国遠征の記述の最後の中に、『逮于能褒野、而痛甚之。・・・既而崩于能褒野、時年卅。』とあり、「ヤマトタケルは30歳で崩御した」と記載されています。
  よろしいですか、・・・、
 ヤマトタケルが、景行天皇即位2年に生まれて、30歳で崩御したなら、即位32年に亡くなっているのです。何で、即位40年に東国に遠征できるのですか。

★ 記紀神話編集委員会は、何もかも承知の上で、無茶苦茶に書いているのです。理由の1つには「神武天皇即位の紀元前660年問題が有ると思いますから、「倭の五王」までの間を、延ばせるだけ引き伸ばさなければ成りません。「兄弟相続なんて、もってのほか」です。
 『読み解ける人は、自分の力で読み解け』という「なぞなぞ」ではないかと、思います。


D 景行天皇とヤマトタケル天皇が親子なら、年代が、窮屈だ。(算数的な考察)。

ア) 「倭の五王」が、4百年代前半から始まることに異論は有りません。また、高句麗の広開土王(好太王)の『391年に倭人が侵攻した』、『400年に倭人を撃退した』の碑文から、380-400年頃は、(短命政権の)仲哀天皇と、(長命だった)神功皇后摂政時代が推測されます。
  また、
 413年に倭の讃(応神天皇)が東晋に朝貢した記録が有りますが、390年代頃に生まれた応神天皇が成人するまで、母親の神功皇后の摂政時代が在ったと考えるなら、辻褄が合います。
  (天皇は空位になりますが、武内宿禰らの豪族会議が主体だったかも、知れません)。
  そこで、
 仮に、応神天皇が390年代に生まれたと仮定すると、(仲哀天皇には既に3人の子供が居たので、応神天皇を30歳で生んだと仮定すると)、仲哀天皇が生まれたのは360年代が仮定されます。
  さらに、
 仲哀天皇の父親のヤマトタケルは30歳で崩御したが、全部で7人の妃と6人の子供を生んでいる。ここで、仲哀天皇を末子相続と考えると、ヤマトタケルが20代後半に仲哀天皇を生んだことになるから、ヤマトタケルが生まれたのは330-340年頃が仮定されます。
 すると、同じように、景行天皇が300-310年頃に生まれ、垂仁天皇は270-280年頃に、崇神天皇は240-260年頃に生まれた計算になります。

 (☆ これとは別に、単純に「一代25年周期計算法」で計算すると、応神天皇390年生、仲哀天皇365年生、ヤマトタケル340年生、景行天皇315年生、垂仁天皇290年生、崇神天皇265年生が当てはまります)。

 ところが、崇神天皇や垂仁天皇の時代は、3百年代中頃(340-360年頃)の説が有力ですが、崇神天皇は短命だったのです。(その6の44、崇神天皇が鹿児島から奈良に入城した、Dを参照)。すると、240-260年頃に生まれた崇神天皇が340年頃までは生きられません。
  だから、
 崇神天皇が300-310年頃に生まれ、垂仁天皇が320-330年頃に生まれたとして、一世代分をズラし、景行天皇と倭武天皇は親子では無く、兄弟だとすると、辻褄が合いそうですが、★実は、これでも合いません。

(★ ヤマトタケルが330-340年頃に生まれたと仮定するなら、垂仁天皇と兄弟に成ってしまいます。また、ヤマトタケルと景行天皇を兄弟とするなら、垂仁天皇と3兄弟に成ってしまい、3者とも崇神天皇の子供に成ってしまい、訳が分らなく成ります。
  話は脱線しますが、
 「神武東征」で、崇神天皇神武とニギハヤヒ天皇神武が二重写しに成っていますが、ニギハヤヒ天皇神武は奈良に入城してから子供を生んでいますから、これを崇神天皇神武に当てはめると、(垂仁天皇を鹿児島で生んで後に)奈良に入城してからも現地妻に子供を生ませたが、それが景行天皇と倭武天皇です。
  そして、
 景行天皇の九州遠征は、実は、天皇に即位した後では無く、垂仁天皇朝の大足彦の時代のことであり、ヤマトタケルの東国遠征は景行天皇時代に成りそうです。
 以上は、疎明資料が有りませんから、全くの空想に過ぎませんが、研究者の中にも、崇神天皇から応神天皇までの時系列が合わないという指摘が有ることは事実です。


イ) 崇神天皇・垂仁天皇の、二人の皇子の皇位争いの話。

 日本書紀・景行天皇に『二年春三月丙寅朔戊辰、・・・后生二男、第一曰大碓皇子、第二曰小碓尊』、と有りますが、実は、大碓皇子が景行天皇で、小碓尊がヤマトタケルかも知れません。


(日本書紀の垂仁天皇皇子の皇位継承の話)

 大足彦は、垂仁天皇に『皇位が欲しい』と言って、次の景行天皇に即位しました。
 五十瓊敷命は『弓矢が欲しい』と言って、弓矢を受け取りましたが、(古事記では)大阪府阪南市で、刀鍛冶をしたとも云われますが不明です。
 (景行天皇と皇位を争った人物が、刀鍛冶とは、お粗末過ぎて、不自然です)。


(垂仁天皇の前の崇神天皇でも類似の「夢占い」の話)

 夢占いの結果、垂仁天皇に皇位が譲られ、豊城命は東国に領地が与えられたので遠征して、子孫が群馬県や栃木県の領主に成っています。
  ところが、シックリこないのは、
 崇神天皇の「四道将軍」の遠征で、大彦が日本海方面に遠征し、(大彦の息子)のタケ・ヌナカワ・ワケが東海道を進軍して、二人が福島県の会津で出会ったことに成っています。(古事記)。
 その後の遠征の記録は、ヤマトタケルの遠征まで有りません。すると、豊城命は何をしていたのか、という疑問が浮上します。


E 皇子にしては、ヤマトタケルには天皇並みの「后妃」がいたという、信じられない話。

 古事記によると、ヤマトタケルには、后妃が7人いました。

 注目すべきは、吉備氏と同盟を結んで、吉備武彦を東国遠征軍に編成しています。また、尾張氏とも同盟を結んで、宮簀媛を后にしています。
 また、子孫の中には、滋賀県や神奈川県や愛知県方面にも勢力を伸ばしているようです。

★ 后妃の数では、(古事記によると)、崇神天皇が3人、垂仁天皇が7人、景行天皇が7人、成務天皇が1人、仲哀天皇が2人ですから、ヤマトタケルの7人は、垂仁天皇・景行天皇と並び、成務天皇・仲哀天皇とは比較に成らないほど立派だったことになります。

 (古事記の中で)景行天皇の21人の子供の中で、ヤマトタケルの后妃の数は、多過ぎます。


F ヤマトタケル天皇は、景行天皇に、殺された。(まったくの妄想)。

ア) 行く必要の無い滋賀県の伊吹山に、なぜ、行ったのか。

 倭武天皇は、景行天皇の命令で東国平定に出陣しただけですから、滋賀県の伊吹山に行く必要は無く、伊吹山に「荒らぶる神」が出没しようとも、天皇の命令が無ければ放置すればよいのです。

 当時の都は、奈良県の三輪山の麓の纏向宮でしたから、交通路は、奈良−木津川−伊賀上野−鈴鹿−名古屋のルートであり、(あるいは西名阪・国道25号線、あるいは近鉄電車の大阪名古屋線か)、滋賀県を通る必要性は無かったはずです。

★ だから、罠にはめられた、天皇の命令で呼び出された、伊吹山の平定を命じられた。


イ) 日本書紀の「伊吹山」の文字が、おかしい。

 『日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月。於是、聞近江五十葺山有荒~、卽解劒置於宮簀媛家、而徒行之。至膽吹山、山~、化大蛇當道。・・・』

 始めに「五十葺山」の文字が有り、すぐ後ろには「膽吹山」の文字に変わっていますが、同じ「伊吹山」のことです。
 「五十葺」には、数が多いという意味、覆う・重なるという意味があり、『荒らぶる神が多く重なっている』とも解釈できそうです。
 「膽吹」の「膽」は、度胸・判断の意味もあり、『度胸や判断を吹き飛ばす』とも解釈できそうです。

★ 五十葺山・膽吹山と、2種類の文字を使う必要が無いのに、わざわざ使っているのは、何故か。文字を変えるのは、そこに、隠された意味・メッセージ・意図が有るのではないか。

 荒らぶる神が多く重なって、ヤマトタケルを待ち構え、ヤマトタケルの度胸や判断を吹き飛ばし、結果として、ヤマトタケルは敵陣を突破したものの、重症を負い、能褒野で崩御しました。


ウ) 伏兵を置いた「待ち伏せ作戦」を、推理する。

 ヤマトタケルは歴戦の勇者だ。正攻法では勝てないから、騙し討ちの「待ち伏せ作戦」を考える。伊吹山に伏兵を置いて、彦根方面に誘い込む。そして、正面から戦うと同時に、伊吹山の伏兵が背後から襲い掛かる。戦闘は背後から襲われたら耐えられない。
 しかも、関が原を抜けて名古屋に帰る道は封鎖されて、逃げ道が無い。ヤマトタケルが「罠」と気付いた時には、味方は総崩れで、何とかヤマトタケルが敵陣を突破したが、重症を負ってしまった。


エ) 景行天皇は、倭武天皇が怖かった。

 (古事記に)、景行天皇が小碓命(ヤマトタケル)に、『お前の兄の大碓命は、飯の時間に席に着かないが、「ねんごろ」に教え諭せ』と命じると、小碓命が大碓命を「ねんごろ」に殺してしまった。
 景行天皇は、ヤマトタケルの凶暴さに恐怖を抱き、九州の熊襲征伐のために遠征させた。

★ 倭武天皇が東国遠征を終えて、大軍を率いて名古屋まで帰還して兵を休めている。しかも、王権のシンボルの斧・鉞も持っているし、天皇位の生前譲渡も衆目の中で宣言している。景行天皇は恐怖に怯えて、夜も寝られなくなった。(想像)。


G アマテラスは、ヤマトタケル天皇を切り捨てて、景行天皇を祝福した。

ア) アマテラスから見た場合に、景行天皇も倭武天皇も同じ子孫だが、どちらを祝福すべきか。

 武人としての能力は、景行天皇は南北九州を平定した実績が有る。対する倭武天皇も熊襲を平定し東国を平定した実力が有るから、甲乙を付け難い。

 だが、天皇に最も必要な「政治的包容力」には格段の差がある。すなわち、景行天皇には諸豪族どころか熊襲まで包み込む包容力がある。対する倭武天皇には包容力が認められない。

 また、臣民から見た場合に、景行天皇には親しみを覚え、倭武天皇には恐怖を覚えるだろう。

 また、朝鮮情勢の緊迫化の中で、景行天皇は既に関が原以西を統一している。対する倭武天皇は関が原以東を抑えたに過ぎず、「関西」に動乱が発生すると、日本が滅亡する危険性がある。


イ) 「草薙の剣」に見た、アマテラスのメッセージ。

(古事記によれば)、
 「草薙の剣」は、ヤマトタケルが東国遠征に出陣する際に、伊勢神宮に参拝して、叔母のヤマト姫から剣を授けられた。遠征を終えると、名古屋の熱田でミヤズ姫に預けて、伊吹山に出陣した。

(尾張国風土記・逸文・熱田の社(原文は「釈日本紀」七の引用から)簡略の再翻訳で、
 日本武命(ヤマトタケル)が、東国を巡歴して帰還した時、尾張連の遠祖の宮酢媛命と婚して家に宿った。夜に厠に行ったが、「草薙の剣」を桑の木に掛けて、忘れて殿に入った。
 剣を忘れたことに気が付いて、取りに戻ると、剣に神々しい光が有って、取ることが出来なかった。そこで、宮酢媛に『この剣には神の気が有る。大事に祭って、私の形影(カタミ)にせよ』。
 それで、社を建てて、(熱田という)郷の名前によって、宮の名前にした。
 (☆ ちなみに、ミヤズ姫の名前は、宮が有るから「宮津姫」というニックネームだと思います)。

★ 「草薙の剣」は、たとえ話ですが、剣はアマテラスの依り代ですから、この時、アマテラスが倭武天皇を見放したことが、イメージされます。


H ヤマトタケルの罪。(王者には、ふさわしくないという意味で)。

ア) 傲慢(ごうまん)であるという罪。

 (日本書紀に)、神奈川県の浦賀水道を渡るときに『こんな小さな海は一飛びだ』と高言して、神の怒りを買い、弟橘媛を犠牲に捧げたこと。
 (古事記に)、足柄山で、白鹿に化身した神を、食べ残しの野蒜(ノビル)で撃ち殺したこと。
 (古事記に)、滋賀県の伊吹山の神を『素手で倒してやる』などと馬鹿にして、神の怒りを買って、打ち倒されたこと。


イ) 残虐であるという罪。

 (古事記に)、幼少の頃に、兄の大碓命の五体を引きちぎって残虐に殺したこと。
 (古事記に)、熊曾(クマソ)征伐でクマソタケルを殺すときに、体を切り刻んだこと。


ウ) 騙す(ダマス)という罪。

 (古事記に)、熊襲征伐の後で出雲に入り、出雲建(イヅモタケル)を騙して殺したこと。

  (ヤマトタケルの出雲の話は懐疑的な意見が有るが、「美作国風土記・逸文」の「勝間田の池」の条にも、日本武尊が櫛を池に落とした話が見えるので、出雲平定の真偽は不明)。


エ) 大和の「民族の秩序」を乱すという罪。

 (日本書紀・景行天皇即位五十一年秋八月の条に)、ヤマトタケルが尾張に連れてきた蝦夷が騒いで平安を乱したので、伊勢神宮のヤマト姫から提訴があり、奈良の三輪山に移動させたが騒擾したので、畿外に追放した。

 (★ この蝦夷たちは、最終的に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5カ国に分置されたので、かなりの大軍を、ヤマトタケルが配下に組み込んで持ち込んだことが、想像されます)。
 (また、蝦夷は、(その6の13・蝦夷と天香香背男)で述べたように、神代の昔から嫌われていた)。


I 終わりに。

 真実は誰にも分りません。ヤマトタケルに永遠のロマンを感じるか。冷徹に政治的判断を空想するか。人それぞれなのかも知れません。


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