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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の49)・「九州に王朝は、無かった」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/489.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 10 月 22 日 10:04:04: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「九州に王朝は、無かった」に、ご興味をお持ちでしょうか。九州王朝が論じられていますが、はたして、王朝と呼べるものが、本当に有ったのだろうか。

 私は、地域国家の程度は有ったかも知れないが、九州全体の統一王朝と呼べるものは、無かったと思います。
 今回は、否定説を述べたいと、思います。


A グーグルの「航空写真」で見た、分断された九州の地形図。

 航空写真で見ると、平野部と山岳部がイメージされますが、3箇所に大別できそうです。

 北九州では、遠賀川の流域・博多平野の流域・筑後川の流域の3箇所に平野部が見られます。つまり、福岡県・佐賀県・長崎県の3県が一つの広域文化圏に、イメージされます。

 中九州では、熊本県の熊本平野が一つの文化圏に見えそうです。

 南九州では、球磨川の源流の人吉盆地や、えびの市・都城市などの盆地が「飛び地」に連なっています。これを一つの文化圏と見るかは異論が有るかも知れませんが、まあ、「クマソ」の産地ということで、一まとめにしたいと思います。

★ 熊本平野は「くまもん」の産地ですが、「クマソ」とは違います。クマソは球磨(クマ)・贈唹(ソオ)の2つの地域を総称した言葉で、熊本県南部・宮崎県南西部・鹿児島県北東部方面を意味し、熊本平野とは違います。

 (熊は球磨で、肥後の国の球磨郡(人吉市方面)、襲は贈唹(ソオ)で大隅の国の曽於郡(霧島市を含む)と、宮崎県南西部方面を言うようです。
   なお、
 「熊」の意味は、「クマなく探す」のクマであり、「奥まった」「隅にある」「谷間」のイメージであり、球磨郡人吉市方面が渓谷の奥の内陸部にあることから名付けられた説があるそうです)。

 ただ、ヒミコ時代の菊池彦のころは不明であり、菊池彦と熊襲の関連も不明です)。


B 民族的に見た、九州のバラバラな民族構造。

 北九州は、(歴史的に見ると)、親新羅系統の呉系倭人と考えられそうです。あるいは、半島南東部の洛東江と交流をもった海人族かも知れません。

 熊本平野は、(北九州の)邪馬台国の女王ヒミコと敵対した菊池彦の領域であり、どうも、北九州とは人種的に違うような感じがしますが、どうでしょうか。

 人吉市・えびの市・都城市などの盆地は、周囲が高い山で隔てられ、活発な交流を持たず、独自の文化圏を築いていたかも知れませんが、歴史が残っていないので、分りません。


 そのほかに、「海人族」と「山人族」の分別が考えられます。海人族では、北九州の「綿津身」と、南九州の「吾田津身」「隼人族」の違い。
 山人族では、呉系倭人・越系倭人、あるいは熊襲、あるいは蝦夷系統などの系統の違い。


C 九州単一の統一王朝は、不可能です。

 九州に、大和王権とは独立した統一王朝は、不可能だと思います。

 第1には、海人族と山人族に大別されますが、両者は別々の価値観を持ち、一体化は難しかったと思います。

  景行天皇時代にも、景行天皇・ヤマトタケルの遠征で熊襲が征伐されていますから、熊襲を統一王朝には組み込めなかったと思います。


 第2には、王朝としての統制が取れなかったと思います。

  仮に、海人族が政権を執っても、支配できるのは海岸部だけであり、内陸部は支配できない。逆に、山人族に置き換えても、同じことです。

  (昔の海軍は、海戦は出来るものの、「陸戦隊」部門が未熟だったと想像しますし、内陸部では陸軍歩兵の正規軍でなければ、制圧できません)。


 第3には、高い山岳に隔てられて、交流が制限されたこと。

  今日では、国道や高速道路で、内陸部が接続されますが、古代には、渓流の脇に山道を作って交流するしか手段が有りませんでしたが、曲がり道クネクネのアップダウンの連続ですから、日帰りで行き来するのも難しく、一つの王朝で統治するのは難しいと、思います。


 第4には、(これが最も大きな理由ですが)、畿内の「大和王権」が九州の独立王国の存在を認めなかったことです。

  前述のように、景行天皇時代に、景行天皇による南北九州の遠征や、ヤマトタケルの遠征で熊襲が征伐されています。

  仲哀天皇時代にも、北九州が遠征されていますし、継体天皇時代にも、527年の「筑紫国造磐井の乱」を鎮圧しています。
  

D 九州王朝説は、証拠が明確でなく、単なる思い付きに過ぎない。

 九州に独立王朝が在ったと主張するなら、何年ごろか、どの程度の領域か、誰を主体とする王朝だったのか、疎明資料を添付の上で主張すべきだと、思います。

 邪馬台国の卑弥呼以降は、九州には王朝など存在しなかった、という見解が大勢のようですが、どうなんでしょうか。


E (余談として)、天孫ニニギの出発地は、福岡県の「ミヤコ郡」だった。

 豊前国風土記・逸文「宮処(ミヤコ)の郡」の条(原文は「中臣祓気吹鈔」の引用)。
   (簡略の翻訳に)
 『豊前国風土記にいう、・・・宮処(ミヤコ)の郡。昔、天孫がここから出発して、日向の旧都に天下った。おそらくは、天照大神の神京(ミヤコ)だろう。・・・』
    つまり、
 天孫ニニギが、福岡県行橋市方面から日向(鹿児島県方面)に下ったという意味だと思います。
 福岡県行橋市から国道201号線を西に10キロ20キロ行くと、遠賀川上流の田川市や香春町に至りますが、香春町の香春神社には、天孫ニニギの父親の「忍骨命」が祀られていますし、遠賀川からはニギハヤヒが東遷していますから、辻褄は合っています。


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