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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の51)・「神功皇后は、神に召された女だった」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/499.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 11 月 05 日 09:50:53: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「神功皇后は、神に召された女だった」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 神功皇后(息長帯姫)の出自は、厚いベールに包まれています。と言うよりも、無茶苦茶に書き換えられています。よほど知られたくないのだと思います。

 そう言う訳で、今回の記事は、史実に基づかない妄想のテンコ盛りの「お花畑」です。


A 神功皇后(息長帯姫)の、時代考証と、相関関係図。(★10年程度の前後はある)。

320・・330・・340・・350・・360・・370・・380・・390・・400・・410・・420年頃
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆←390年前後に、応神天皇が誕生した
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆←390年代初めに、仁徳天皇が誕生した

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆← 370年頃に、神功皇后(息長帯姫)が誕生した
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・◆← 360年代に、仲哀天皇が誕生した
・・・・・・・・・・・◆〓〓〓〓〓〓〓〓 340年〜370年頃までが、ヤマトタケルの誕生と死亡

・・・・・・・・・・・・・〓〓〓〓〓  340年代〜350年代頃に、天日槍が来日した
・・・・・・・・・・・・〓〓〓〓〓〓  340年代〜360年頃までが垂仁天皇の治世
・・・・・・・・・・・〓〓←−−  340年頃に、崇神天皇が奈良に入城し、間もなく崩御した

・・・・・・・・・・・・・〓〓〓→→  340年代に、9代開化天皇の子孫の息長氏が興る
・・・・・・・・→〓〓←−−    330年代後半に、9代開化天皇の短命政権が在った

  (関係者の説明)
a・応神天皇・・・応神天皇は、「倭の五王」の「讃」であり、413年の朝貢記録がある。古代の天皇は豪族会議の議長を務めるから子供ではアウト。ゆえに413年の前に成人しているなら、390年前後に生まれたと推測。

b・神功皇后(息長帯姫)・・・息長帯姫が390年前後にホンダ別(本当の仁徳天皇)を産み、その前にホムヤ別(本当の応神天皇)を産んだが、当時の年齢は20代前半と仮定し、生まれたのは370年頃と推測。

c・仲哀天皇・・・仲哀天皇は4人の子供を生んでいるが、父親のヤマトタケルは若くして死んだ(30歳で崩御説)から、仲哀天皇も若くして崩御した。

d・天日槍の来日・・・天日槍は垂仁天皇の治世間に来日している。3百年代中葉は朝鮮の大動乱の時代で、新羅の膨張時代と重なる。天日槍は古い新羅の王族で蔚山(ウルサン)に領地が有った(筑前国風土記・逸文」「怡土(イト)郡」の条を参照のこと)。 
 新しい王族の新羅が蔚山(ウルサン)を圧迫したために、一族を率いて日本に亡命したと推測する。一人で来日したのではなく一族を率いた。
 天日槍が垂仁天皇と同世代か親の崇神天皇の世代かは不明。神武東征で天皇の兄の稲飯命が新羅に行き新羅国王になったが、その関係は不明。

   前述の「筑前国風土記・逸文」「怡土(イト)郡」の条」には、
 福岡県の怡土(イト)の県主らの祖の五十跡手(イトテ)が、足仲彦天皇(仲哀天皇)の九州遠征に出迎えている。
 五十跡手(イトテ)が、『高麗の国の意呂山(オロサン)(蔚山・ウルサンの説)に天から降ってきた日桙(天日槍)の末裔の五十跡手とは私のことです』と言っている。

e・垂仁天皇の治世・・・垂仁天皇の治世間に天日槍が来日している。3百年代中葉は朝鮮の大動乱の時代だから、垂仁天皇の治世はその頃と推測。

f・9代開化天皇の子孫の息長氏・・・息長氏は9代開化天皇の子孫とされる。「息長」オキナガとは、琵琶湖東岸の彦根市方面や長浜市方面の地名であり「オキナガの土地に居た氏族」という意味。「オキナガ氏」には栄枯盛衰があり、本当の出自は不明。

g・9代開化天皇の治世・・・開化天皇の治世は、出雲族の「事代主天皇家王朝」の最後で、鹿児島から入ってきた崇神天皇王朝に倒されたから、340年頃の短命政権だったと推測。


(デタラメな息長帯姫(神功皇后)の系図。

 父方は、9代開化天皇→彦坐王→山代大筒城県稚王→迦邇米雷王→息長宿禰王→息長帯姫
   (山代大筒城県稚王→迦邇米雷王の領地はたぶん京都府精華町・京田辺市あたり)

 母方は、天日槍→諸助→悲泥→比那良岐(田道間守の説)→多遅摩比多詞→葛城高額媛→息長帯姫
   (天日槍は俣尾の娘の前津美あるいは麻多烏を娶ったとあり、領地は兵庫県の出石と推測)。

 葛城高額媛の領地は奈良県の葛城方面で、元々は加茂氏(大歳の系統)の領地だったところ。また、兵庫県の出石の東側に丹後があるから、元々の出石は大歳の系統だった可能性が有る。
 また、開化天皇皇子の彦坐王は、崇神天皇時代の「四道将軍の派遣」で京都府の全域を侵略し、丹後を領地にしているから、西隣りの但馬の出石も版図に加えていると推測。


(なぜ、息長帯姫(神功皇后)の出自が消されたのか)(推測)。

 記紀神話が撰上された7百年代の初めは、663年の「白村江の敗戦」の50−60年後であり、日本は中国の「唐」を極度に警戒し、「日中関係」、「朝鮮関係」に神経を尖らせていたし、唐に朝貢外交を行っていた時代でも有る。(遣唐使は考え方によっては朝貢とも採れる)。
  したがって、
 中国や朝鮮との無用の摩擦を避けるため、介入の糸口を与えないためには、息長帯姫(神功皇后)と、(朝鮮から渡来した)天日槍との関連性を隠す必要が有ったと推測します。
   また、
 それ以外の部分についても、日本と朝鮮との接点を隠し、消してしまいたかったと、思います。


B 新羅から来た天日槍の足跡。

 天日矛は、新羅国王子で、日本人の妻が祖(オヤ)の国の難波に帰った。天日矛が追い掛けて難波に来たが、渡りの神の妨害受けたので、引き返して但馬の国に入り、そこの女を娶って、息長帯比売(神功皇后)の祖先に繋がった。
  また、
 別説(垂仁天皇三年の条)では、天日矛は、小舟で播磨の国に来て日本に帰化したいと願うので、播磨の国を許可したが、気に入らないので、宇治川を遡って近江の国に住み、さらに、近江から若狭に抜けて但馬に入った。但馬の出石の女を娶って、田道間守の祖先になる子供を生んだ。


☆ ここで分るのは、水軍を保有して、かなりの人数で来ていること。朝廷が垂仁天皇の重要な客人として応対していること。
   また、
 妻が大阪の難波の出身で、親は「渡りの神」(三島神)で水軍と考えられるが、三島神は、摂津三島なら賀茂氏か交野市方面の物部氏、あるいは堺市泉州方面が根拠地の大伴氏、住吉(すみのえ)方面の尾張氏の系統が考えられるが、その親が難波で入国を妨害したこと。
   また、
 領地としては、初めの播磨は出雲族系統の抵抗が強くて侵略できず{(その6の47)「新羅は日本で、天日矛は、崇神天皇の親戚だった」イ)播磨の国の風土記」}の項を参照のこと)、そのために滋賀県の湖東に転戦した可能性が高い。
   また、
 その一部が但馬の出石方面を侵略し入植していること。

★ 天日槍(天日矛)の来日は、垂仁天皇の膨張時代で「四道将軍の派遣」の時代であり、それ以前の出雲族政権時代の旧豪族たちの領地を次々に侵略した時代であり、天日槍は『播磨だろうと近江だろうと但馬だろうと、欲しい所は自由に略奪してよろしい』との垂仁天皇の勅許を得たと想像します。


C 息長帯比売(神功皇后)の「三韓征伐」と、新羅から来た天日槍の関連性。

 息長帯比売(神功皇后)は、上述のように、父方は息長氏で、母方は天日槍の但馬の出石であり、天日槍(天日矛)とは接点が有るし、天日槍とは親子か祖父くらいの関係だろうと想像されます。

 すると、新生新羅は、親か祖父の故郷の蔚山(ウルサン)を奪った憎い敵(かたき)であり、夫の仲哀天皇時代に、任那方面から難民が押し寄せたり、救援要請が出ており、必要な措置として、朝鮮出兵を行った可能性が有ります。


D 北九州の状況。

 元々の北九州は、朝鮮半島南部とは頻繁な交流が有り、初期の新羅国王は日本人で有ったことも考えると、半島南部から北九州の一帯が倭人(呉系倭人)の広域地域だったと想像されます。

 ここで、仲哀天皇の九州遠征は、新しい新羅と結束した北九州の豪族を討伐するためであり、あるいは北九州に攻め寄せた新羅の先鋒を迎撃するためだったのかも知れません。

 (★ 岡山県の吉備津神社の伝承では、11代垂仁天皇の治世に、異国から鬼神が飛来して住み着いたと云われています。
   あるいは、
 山口県下関市にある忌宮(イミノミヤ)神社の伝承に(簡略では)、『仲哀天皇の7年に、新羅国の塵輪(ジンリン)が、熊襲を扇動して豊浦宮を襲った。仲哀天皇が弓で射止めた。人々は歓喜した。』)と有るようです。


E 息長帯比売(神功皇后)は、神に召された女だった。

 神に召された女だったと言っても、巫女・媒介者・チャネラーという意味です。

 神は、第7次太陽系次元の主軸の日本人を滅亡させる訳には行きませんから、皇后(皇太后)という最高権力者の息長帯比売(神功皇后)を通して、日本を滅亡から救い育てたということです。


F 息長帯比売(神功皇后)の、存在価値。

第1には、
 仲哀天皇の崩御によって天皇不在になったが、次期天皇の応神天皇が成人するまでの「つなぎ役」になったこと。
 古代には、天皇は豪族会議の主体に成らねばならなかったから、平安末期の安徳天皇のように子供でも良いと言う訳にはいかなかった。
 蘇我氏の専制時代にも見られるように、豪族会議の推挙が無ければ天皇には成れなかった。

第2には、
 仲哀天皇の別の皇子のカゴサカ王・オシクマ王を排除したから、直近の皇位継承者が不在になり、応神天皇の成人まで待たねば成らなかったこと。

第3には、
 重要事項で判断に苦しむものは、神に伺いを立てて決済を仰いだが、巫女・チャネラーとして息長帯比売(神功皇后)がベストだったこと。

第4には、
 武内宿禰を首班とする豪族会議にとって、政治的センスが無くて「言いなり」になる息長帯比売(神功皇后)は、『神輿は、軽くてパーが良い』と言う事であり、大歓迎だったこと。


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