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記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の53)・「倭の五王を、解読する」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/508.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 11 月 19 日 09:50:01: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

★ あらかじめ御断わりしておきますが、私の投稿文は記紀神話をベースにした発想から「とんでも論」を展開していますので、『おかしいのでは』と思われても、『そこは記紀神話の事ですから』ということで御理解ください。

★ また、私の投稿は、記紀神話を学術的に研究するためではなく、記紀神話の二重性とか多重性とか二元論的な反面性などを指摘して、掲示板でオカルト・スピリチュアル的な「お花畑」として遊ぶ事を目的としています。


@ ところで、「倭の五王を、解読する」に、ご興味をお持ちでしょうか。

 「倭の五王」については、パネルをはめこむ様なものであり、色々な人が、仮説を立てていますので、私も立ててみたいと思います。


A 中国の文献の、整理作業。

413年・倭王の「讃」が、東晋に、遣使。・・・「梁書列伝」・「南史列伝」
421年・倭王の「讃」が、宋に、遣使。・・・「宋書列伝」
425年・倭王の「讃」が、宋に、遣使。・・・「宋書列伝」・「南史列伝」

430年・倭王の「?」が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」

438年・倭王の「珍」が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」・・・『讃の弟の珍』(梁書に「弥」)

443年・倭王の「済」が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」・・・『弥の子の済』(梁書)
451年・倭王の「済」が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」

460年・倭王の「?」が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」

462年・倭王の「興」が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」・・・『倭国王の世子の興』

477年・倭王の「?」(武)が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」・・・
478年・倭王の「武」が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」

★ 「梁書列伝」に、『晋の安帝の時に「倭王讃」あり。讃が死んで弟の「弥」が立つ。
 弥が死んで子供の「済」が立つ。済が死んで子供の「興」が立つ。興が死んで弟の「武」が立つ。

★ 雄略天皇は478年に崩御した。(日本書紀・雄略天皇即位23年8月の条『廿三年夏四月』の次の段落の)『八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。』


(仮想の系図)

 兄の「讃」(応神天皇)・・・讃の子供の「?」(宇治天皇)

 弟の「珍」(仁徳天皇)・・・弥(珍)の子の「済」(?天皇)

                                  ・・・子供の「興」(安康天皇)
                                     興の弟の「武」(雄略天皇)


(本当の天皇系図)

 兄・15・応神天皇・・・宇治天皇(菟道稚郎子)

 弟・16・仁徳天皇・・・17・履中天皇・・・市辺天皇・・・23・顕宗天皇と24・仁賢天皇の兄弟
              18・反正天皇
              19・允恭天皇・・・20・安康天皇
                        21・雄略天皇・・・22・清寧天皇


B 日本書紀上の天皇在位期間。

 15応神天皇・・即位41年で崩御。・・41年はウソです。
 --宇治天皇・・即位3年で崩御。・・・仁徳天皇との政争に敗れて崩御した。
 16仁徳天皇・・即位87年で崩御。・・87年はウソです。

 17履中天皇・・即位6年で崩御。
 18反正天皇・・即位5年で崩御。
 19允恭天皇・・即位42年で崩御。・・ウソ。438年の珍と462年の興の間は24年しかない。
        若くして崩御しているはず。『卌二年春正月乙亥朔戊子、天皇崩、時年若干。』

 20安康天皇・・即位3年で崩御。・・・マヨワ王に殺された。
 --市辺天皇・・不明だが短命政権。・・・安康天皇崩御の後に雄略天皇に殺された。
 21雄略天皇・・即位23年で崩御。・・名前が「幼武(ワカタケル)」だから若くして崩御している。

 ★宇治天皇・・公文書の「解文」の「播磨国風土記・揖保郡・大家里」に見える。
 ★市辺天皇・・公文書の「解文」の「播磨国風土記・美嚢(ミナギ)郡・志深(シジミ)里」に見える。


C 解説。(あくまでも仮説です)。仮説は誰でも唱える権利が有ります。

ア) 413年・倭王の「讃」。応神天皇。

 3百年代末期から神功皇后が「三韓征伐」を行った。子供が幼いので、代理の摂政に就いて執政したので天皇は空位。
 
 応神天皇が、4百年代の初めに成人して天皇に即位した。これが倭王「讃」です。


イ) 430年・倭王の「?」。宇治天皇(菟道稚郎子)。

 これは、応神天皇の子供の宇治天皇(菟道稚郎子)のことだと思います。(想像です)。
 
 応神天皇の子供として即位しましたが、仁徳天皇との政争に敗れて、即位3年で崩御しました。
    (日本書紀・仁徳天皇・即位前紀に)、
 『乃葬于那羅山。既而、興宮室於菟道而居之、猶由讓位於大鷦鷯尊、以久不卽皇位。爰皇位空之、既經三載。・・・』
     (簡略の翻訳に)、
 『・・・既に、菟道稚郎子(ウヂノワキイラツコ)は、宮室(オオミヤ・大宮)を宇治に建てて、そこに居た。それでもなお、皇位を大鷦鷯尊(仁徳天皇)に譲っていたので、長い間、皇位が空いていた。そこで、皇位の空いている期間が既に3年を経過した・・・』

 ★ ここで、中国の文献で天皇名が不明なのは「おかしい」。つまり、遣使した時には天皇の名前は有ったはずです。
  そこで、可能性としては、
 「宋書」が作られたのは513年頃の継体天皇の頃ですが、日本の天皇系図と照らし合わすと、どうも宇治天皇と仁徳天皇のあたりが不透明だったので、「宋書」の著者が迷って、名前を保留にした可能性が考えられます。
  あるいは別の可能性として、
 「宋書」の原本が今日まで残っていることは無く、何回も書写されているはずです。
 その過程で、既に発生していた書写の間違いを正すために、たとえば日本の日本書紀を参照して作り直したが、「宋書」と日本書紀との間に不鮮明な点が有ったために、430年の倭王を「?」にして保留にした可能性が有ります。


ウ) 438年・倭王の「珍」。仁徳天皇。

 「宋書帝紀」の『讃の弟の珍』とは、応神天皇の弟の仁徳天皇のことです。413年の倭王讃の弟に該当する者は他に考えられません。仁徳天皇の子供では年代が合いません。

 母親の神功皇后が、仲哀天皇との間に、ホムヤワケ・ホムタワケの2人の子供を産みました。兄のホムヤワケが応神天皇。弟のホムタワケが仁徳天皇です。

 390年頃に生まれたとして、仮に、440年頃まで生きていたとしても、50歳程度ですから、栄養の有るものを食べていれば十分可能な寿命です。

 奈良時代の頃には、栄養状態の良い貴族階級では、60代、70代まで生きた長寿の人物も散見されます。


エ) 443年・倭王の「済」。誰か分らない。

 ★分らないものは分らないと、正直に言います。ウソを付いても仕方が有りません。『分らない』というのが嫌なら『まだ研究中で発表すべき段階ではない』と逃げるべきです。

 履中天皇の説も有りますが、上記「B日本書紀上の天皇在位期間」で述べたように、17代の履中天皇は即位6年で崩御しています。
 (日本書紀の即位六年の条の三月の条に、崩御したことが書かれて有ります)。
   ところが、
 443年の倭王済と、451年の倭王済が記録され、その間が8年有りますから、即位6年で崩御した履中天皇は該当しません。


 反正天皇では無いと思います。
 443年の倭王済と、451年の倭王済が記録され、その間が8年有ります。反正天皇は即位5年で崩御していますから、倭王済の443年と451年に合致しません。
 (日本書紀・反正天皇『五年春正月甲申朔丙午、天皇崩于正寢。』と有り、即位5年で崩御しています)。


 允恭天皇の可能性は、疑問符?が付きます。つまり、日本書紀の即位42年の条に「おかしな記述」が有ります。
  『卌二年春正月乙亥朔戊子、天皇崩、時年若干。・・・』。直訳すると、『即位の42年1月14日に、天皇は崩御した。時に年齢は若干(ソコバク、幾らか、少しばかり)だった。つまり若くして崩御している。』
  この、
 「時年若干。」の記述は、即位42年の長期政権に矛盾し、研究者も疑問に感じています。
   もちろん、
 462年に倭王の「興」が宋に遣使した。『倭国王の世子の興』と有るので、父親が允恭天皇で有ることは確かですが、允恭天皇の即位が西暦の何年か分りませんから、断定が出来ないのです。

★ つまり、日本書紀の記述を詳細に検討すると、天皇系図で該当する天皇が居ないのです。だから、「倭王の済」は分らないとしか言いようが有りません。


オ) 460年・倭王の「?」が、宋に、遣使。・・・「宋書帝紀」

 これは、分りません。上記の「倭王の済」が分らないから、比較が出来ないからです。


カ) 462年・倭王の「興」。

 これは、安康天皇のことで、全員が一致しています。


キ) 478年・倭王の「武」

 これは、雄略天皇のことで、全員が一致しています。


D 天皇系図と「倭の五王」が合わない、矛盾を含む点の、可能性。

 第1には、日本書紀が事実を伝えていないこと。ウソを書いていること。

 第2には、日本が朝貢した時に、天皇に関して、ウソ・誤魔化しして中国に伝えていた可能性。

 第3には、中国の文献が何回も書き写される過程で「誤写」した可能性。日本の天皇について正確なことが分らなかったので最初から間違った記録が成されていた可能性。後世に再校正した段階で修正して作り直した可能性。

 第4には、日本に「河内王朝」と「九州王朝」の2つの王朝が有って、「倭の五王」は「九州王朝」だった可能性。


★ 「倭の五王」が中国の宋に朝貢しましたが、同時に、朝鮮の高句麗・百済も朝貢し、それぞれが「大将軍」とか「将軍」の称号をもらっていましたから、宋は朝鮮や日本のことを知っていたし、ある程度の日本の内情も知っていたと思います。
 すると、仮に、北九州に地域国家が有ったとして、宋が、それを「倭王」として認めるだろうかという疑問が浮上します。


E 九州王朝説は、明確でない。

 「九州王朝」が有ったとするなら、いつごろか、どの程度の広域地域か、誰を主体としているのか、記録も伝承も全く存在しない。

 仮に、九州王朝が存在したならば、河内王朝は誰を主体としていたのか、最終的に、どのように河内王朝と九州王朝が融合したのか。

 つまり、日本には数多くの古代豪族が存在し、豪族ごとに神話・伝承を持っていたから、何らかの痕跡が残されているはずですし、九州にしても河内にしても、古い神社の伝承や、祀られる神の名前に何かの痕跡が有るべきなのですが、全く存在しないのです。報告が無いのです。

 すると、何の根拠・手掛かりも無いならば、九州王朝は存在していなかったと、考えるほうが合理的なのです。


 ただし、今後、新たな資料が見つかったり、痕跡が見つかって、九州王朝説が浮上するなら、再検討が必要に成るので、100%否定する訳では有りません。

 なお、私の投稿文は、記紀神話をベースにして「とんでも論」を展開し、「お花畑」にして遊ぶ事を目的としています。


F 天皇の実名は、誰も知らなかった。

(諱(いみな)について)

 諱(いみな)とは、死後に尊敬して贈る「称号」、あるいは、死んだ人の生前の名前。
 諱(いみな)とは、「忌み名」であり、本来は、口に出すことが、憚(はばか)られる言葉。

 「実名敬避俗(じつめい、けいひ、ぞく)」とは、
   本名は、その人の霊的な人格と強く結びついており、呪詛の対象とされて、霊的な人格を支配できると考えられていた。


 つまり、古代には、自分の名前は、親とか目上の人しか知りませんでした。また、自分の名前は、下位の者には教えませんでした。
 ですから、天皇という最高位の人間の名前は誰も知らないということです。

 たとえば、天武天皇の実名は誰も知りませんし、天智天皇の実名も分りません。
  ちなみに、天智天皇は中大兄皇子ですが、本当は葛城皇子で、葛城の皇子という意味で、実名では有りません。(日本書紀・舒明天皇即位二年条)。

 雄略天皇にしても、「幼武(ワカタケル)」の名前は実名では有りません。分らないから、『猛々しい天皇で、若くして崩御したから、「若い猛る」にでもしておこうか』程度のニックネームに過ぎません。

 「ワカタケル大王」なんて天皇は実在しないし、そんな呼び方をした人は居ません。「丹後国風土記・浦の島子」でも、雄略天皇を「長谷の朝倉の宮に天が下を治めた天皇」と呼んでいます。
 (古代は呪詛を非常に警戒していたから)うかつに天皇の名前を口にすると「刀で首を切られる」時代だったのですよ。
 それに、「ワカタケル」なんて実名を付けて、50代、60代を生きる長寿だったらどうするんですか。60の爺さんの名前が「若健る」とでも言うのですか。

 記紀神話を作るに当たっては、天皇の実名が分らないので、業績やエピソードなどからイメージして、適当に名前を当てはめているだけです。

  逆に考えると、天皇の名前から、その天皇をイメージ出来ます。


☆(埼玉県の稲荷山古墳の「ワカタケル大王」の鉄剣の、謎)

 1968年に発掘された鉄剣に「ワカタケル大王」の文字が見つかったと、大騒ぎをしました。この剣の銘文、おかしいです。古事記のような「訓読み」の部分と、日本書紀のような「音読み」の部分が含まれています。

 たとえば、「ワカタケル大王」の「ワカタケル」の部分は訓読み用に5文字を打ち込んでいます。ところが「大王」の部分は2文字ですから、「だいおう」であって「おおきみ」では有りません。
 「おおきみ」と刻字するなら「意富伎弥」などと4文字を当てなければ、おかしいです。同じ文中に「意富比○」(オオヒコ)が見える訳ですから、おかしいと思う訳です。
 仮に「だいおう」と読むなら、それも、おかしい。雄略天皇の頃は「大和言葉」であり「訓読み」のはずですから、天皇のことを「おおきみ」と読んでいたはずであり、「だいおう」という呼び方は無かったと思います。

 それから、文中に、「杖刀人」(ジョウトウジン)の文字が有りますが、雄略天皇時代に、このような役職が存在したとは思えません。たぶん、後世に中国から「輸入」した言葉です。

 雄略天皇の時代には、政府も朝廷も行政も、何も有りません。有ったのは、敵か見方か、殺すか殺されるか、親分と子分であり、「広域暴力集団」の大親分とか、「戦国大名」の「御屋形様」のような状況だったのです。

 親分の家が御所であり政府です。親分の命令が政治です。法律なんか有りません。645年の「大化の改新」まで法律も行政制度も有りません。
 「倭の五王」時代は、政権抗争の連続で、負けたら殺されるし家屋敷は焼き尽くされたのです。だから、「オケ・ヲケ」の両天皇は逃げるだけ逃げて、兵庫県の山奥まで逃げています。
 杖刀人(ジョウトウジン)もヘッタクレも有りません。

 したがって、想像ですが、記紀神話を参考にして、後世に作った鉄剣を、古墳に追納したものと思います。あるいは何かのトラブル・アクシデントが考えられますが、どうなんでしょうか。


G 当然、中国に提出した「上表文」の天皇名も、イー加減です。

 中国に遣使するには、天皇の名前を提出する必要が有りましたが、誰も知りませんし、天皇は教えてくれません。
 また、中国の皇帝の名前は、漢字2文字か数文字ですから、漢字で表す必要が有りましたから、『カッコイイ名前を付けようじゃないか』ということで、カッコ良くて立派な漢字を当てはめたのが「倭の五王」の名前の意味です。

 ですから、「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」は、カッコいい漢字です。ただそれだけです。


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