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(その6の56−2)・「百済の都慕王は解朱蒙で、スサノオだった、のか」
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/521.html
投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 12 月 10 日 09:54:09: Qy4l4lPG05pBg gseCpI52gu2C6oLcgreCqQ
 

(回答先: 記紀神話で遊ぼ・・7回目の終了です(その6の56)・「百済は、日本の属国で、兄弟だった」 投稿者 どう思われますか 日時 2018 年 12 月 10 日 09:49:37)

@ (その6の56)「百済は日本の属国で兄弟だった」の続編です。{Fの「新撰姓氏録」の「諸蕃の百済」}の項で、

  『左京・和朝臣・・出自は百済国・都慕王十八世孫・武寧王』について、

 「都慕王」が「スモウ」のことで、(その6の29D)の解朱蒙だとすると、「スサノオ」に繋がるかも、知れないので考えてみました。


 都慕王 → ツモ王 → スモウ → 解朱蒙 → スモオウ → スソオウ → スサオウ → スサノオ


A 根拠の1 「新撰姓氏録」の「諸蕃の百済」。

 『左京・和朝臣・・・出自は百済国・都慕王十八世孫・武寧王』

 桓武天皇の生母の高野新笠(タカノノ・ニイガサ)は、「和氏(ヤマト・ウジ)」の出身で、遠祖は百済・25代・武寧王の後裔。


 解朱蒙の別名は「高朱蒙」で、高句麗の初代王。またの別名は、東明聖王、都慕王ともいう。

   つまり、都慕王は、解朱蒙(高朱蒙)のことだ、との説。


(その6の29)・「古代の朝鮮人は日本語を話していた」D百済の王と日本の王は兄弟だったという「真偽不明」の話。

    (「三国史記」百済本紀)、
 天帝の子供の解慕漱(カイボソ)の一行が「天孫降臨」して、北扶餘(卒本扶餘)を建国した。解慕漱の子供の解夫婁(カイフル)が、東扶餘(迦葉原)に遷都した。子供が居なかったので、拾った子供の「金蛙」を後継者にした。
  金蛙王は、河伯(水神)の娘の柳花を娶って、解朱蒙を生んだ。金蛙王の息子の帯素らの7人が、優秀な解朱蒙に嫉妬して、暗殺しようと企んだ。暗殺を予知した柳花が、息子の解朱蒙を逃走させた。
  解朱蒙と少数の家来が、北扶餘(卒本扶餘)に逃れた。その王には娘は有ったが、息子が無いので、娘に入り婿して、後継者になった。
  王が死んで、解朱蒙が王になり、国名を高句麗と改め、解朱蒙を高朱蒙に改名した(別名に「東明王」とも呼ばれた)。
  解朱蒙(高朱蒙)が、子供の「沸流」と「温祚」の2人を生んだ。その後、解朱蒙が東扶餘(迦葉原)時代に生んだ子供の「瑠璃」が引っ越して来たので、瑠璃を後継者にした。
  瑠璃王が即位すると、暗殺を恐れた「沸流」と「温祚」の2人は、高句麗を脱出した。百済の地に到着して、弟の温祚が百済王になった。兄の沸流は海岸部の仁川に移動した。

   (この説には異論が続出し)、

 「沸流」と「温祚」の2人の父は、高朱蒙の子ではなく、東扶餘(迦葉原)時代の有力者の娘の「召西奴」の連れ子の説。
 百済の始祖王は沸流であり、父は北扶餘(卒本扶餘)王の解慕漱の諸孫にあたる「優台」で、沸流の母親は北扶餘(卒本扶餘)王の娘の「召西奴」の説。
 中国の「北史」や」「隋書皆伝」では、百済の始祖王は、東明の後の扶余王の「尉仇台」とする。また『仇台は、初め帯方郡の故地に国を立て、後漢の遼東太守だった公孫度の娘を妻にして、東夷の強国になった』。
 仇台は、189年から遼東太守になった公孫度(190−204年の治世)の娘を得て強大になったが、後の魏の明帝が、238年に公孫度の孫の公孫淵を滅亡させ、帯方郡を魏の領土にしたため、(百済)は南方に移動した説。
 ★ また、高句麗の建国の年代と、百済の建国の年代が、全然合いません。
 ★ また、「三国史記」は、高麗の17代・仁宗の命令で、1143−1145年ころに完成しましたが、偽書説が強く、あまり信用されていないようです。


B ↑ ここ、大事なので、さらに「系統」を分析しました。

ア) (簡略の系統図で考える)

降臨した解慕漱→子供の解夫婁→養子の金蛙→子供の解朱蒙→子供の瑠璃・沸流・温祚の3人→瑠璃は高句麗王・沸流は百済王。


イ) (地図上の位置関係で考える)

・・・・・東扶餘(迦葉原)・・・・・・北扶餘(卒本扶餘のちに高句麗に改名)・・・・・・・・・・百済・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・解慕漱が降臨し、北扶餘(卒本扶餘)建国・・・
・子供の解夫婁が東扶餘(迦葉原)に遷都・・・
・・養子の金蛙王が東扶餘の王・・・子供の解朱蒙が北扶餘に逃走し、高句麗と改名・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・解朱蒙の子供の瑠璃が高句麗王に即位
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・解朱蒙の子供の沸流と温祚が脱出し、百済建国


ウ) (上記の異説)

 (異説の1・・・解朱蒙は、金蛙王の子供では無かった説)。

   (真偽不明の)「扶餘の神話」によれば)、
 『河伯(水神)の娘の柳花が青河(鴨緑江)で水浴びをしている時に、解慕漱が、後継者を産ませるために拉致し、宮殿に入れて妃にした。
 その後、解慕漱は一人で天上に戻り、柳花は、太伯山(白頭山)の南の優渤水に移り住んだが、そこで、金蛙王の妃に召された。
 やがて、柳花が「大きな卵」を産んだが、金蛙王は「不吉」と感じて捨てさせたが、その卵から生まれたのが朱蒙だった。
 朱蒙は弓術に優れた。扶餘国では、弓の名手を「朱蒙」と称することから、「解朱蒙」と名付けた。・・・』

 ★ もしかすると、解朱蒙は金蛙王の子供ではなく、解慕漱の子供だったかも知れません。
 

 (異説の2・・・百済始祖王の沸流の父は、解慕漱の諸孫の優台)。

   (真偽不明の「三国史記・百済本紀・一伝」によれば)、
 『百済の始祖王は沸流で、父は北扶餘(卒本扶餘)王の解慕漱の諸孫の「優台」だ。沸流の母親は北扶餘(卒本扶餘)王の娘の「召西奴」だ。
 召西奴は、初めに優台に嫁いで、沸流と温祚の2人を産んだ。優台が死ぬと、寡婦で暮らした。
 解朱蒙が、東扶餘から北扶餘に逃げ込んで、後継王になり高句麗に改名し、召西奴を妃にした。・・・』

 ★ これによると、百済初代王は、解慕漱の孫の優台の子供(つまり解慕漱の曾孫になる)。

 ★★ 訳が分らなくなるので、これ以上の分析は、中止。


B 解朱蒙(高朱蒙)の出自と、百済初代の、諸説。

 説の1・・(解慕漱の子供の)解夫婁の養子の金蛙王が、河伯(水神)の娘の柳花を娶って、解朱蒙を生んだ。解朱蒙(高朱蒙)が、子供の沸流と温祚の2人を生んだ。

 説の2・・解慕漱が、河伯(水神)の娘の柳花を娶って、解朱蒙を生んだ。解朱蒙(高朱蒙)が、子供の沸流と温祚の2人を生んだ。

 説の3・・解慕漱の孫の優台が、召西奴を娶って、沸流と温祚の2人を産んだ。召西奴は解朱蒙と再婚した。

 説の4・・中国の「北史」「隋書皆伝」に、百済の始祖王は、東明の後の扶余王「尉仇台」。仇台は、初め帯方郡の故地に建国し、後漢の遼東太守の公孫度の娘を妻にした。
 仇台は、189年から遼東太守になった公孫度(190−204年の治世)の娘を得て強大になった。

 ★★ 訳が分らなくなるので、これ以上の分析は、中止。


C 高句麗などの建国の時期。

ア) 濊族 「後漢書・穢(濊)伝」に、『前漢の元朔元年(BC128年)に、濊君の南閭らは右渠(朝鮮王)に背き、28万人を率いて、遼東郡に内属した。武帝は、この地に蒼海郡を置いたが、数年で廃止した。・・・』

 ★ これ以外にも、「漢書・食貨志」、「漢書・武帝紀」にもBC128年の類似する記述が見られるので、BC128年当時に、濊族が居た事は明らかです。また、「三国志」にも「濊伝」が見られます。


イ) 高句麗 「後漢書・高句麗伝」に、建武23年(AD47年)の記録に、高句麗が見えます。

 ★ 高句麗は、紀元前・後あたりの建国というのが多数意見ですが、明確にはされていません。少なくとも、濊族よりも、はるかに後の建国です。


ウ) 扶餘(扶余) 「後漢書・扶余伝」に、建武25年(AD49年)に、後漢の光武帝に遣使して朝貢した記録が見えます。
 また、「後漢書・扶余伝」に、永寧元年(AD120年)に、太子の尉仇台が王宮に詣でた記録が見えます。

 (上記Bの『仇台は、189年から後漢の遼東太守になった公孫度(190−204年の治世)の娘を得て強大になった。』の記述に照らすと、百年代後半に活躍したと考えられます

 ★ 古い記録が見つからないので、断定は出来ないが、建国は高句麗と同じころとの説が有りますが、分りません。


エ) 百済 
 百済の始祖王は沸流だが、その父は北扶餘(卒本扶餘)王の解慕漱の孫の「優台」の説。
 沸流と温祚の2人が高句麗を脱出し、弟の温祚が百済王になった説。
 解朱蒙の子供の沸流と温祚が百済を建国した説。
 百済の始祖王は、東明の後の扶余王「尉仇台」の説。

 ★ 百済の建国開始は早くても3百年代の初めか、2百年代の晩期です。つまり、2百年代の中葉は「三国志・馬韓伝」の時代だったから、百済という国は存在しません。


D 呉越人が「倭人」に変換されて、「日本人」・「百済人」に変換された。(仮説)。

 つまり、最初に、呉王国や越王国が、揚子江の河口部に有ったが、呉越が共に滅亡して、朝鮮に逃れて「朝鮮系倭人」に変換された。

 一部が、「濊族」に変換されたが、濊族が、高句麗・扶余・金官加羅・百済などに「変換」された。

 金官加羅から渡来した一族が「日本人」に変換され、百済などから渡来した一族が「遅れてきた日本人」に変換された。そして、元々、日本列島に居た「日本系倭人」と融合して「大和民族」に変換された。


(その根拠)

ア) 「魏志・濊伝」・・『その古老は、むかし、自ら、高句麗と同種だと言っていた。』   

イ) 「魏志・夫餘伝」・・『古老は先代の王が賜った物だと言っている。その印の文言は濊王之印と言う。国(中国)には濊城と呼ばれる古い城がある。思うに、元は濊貊の土地で夫余王はその中にいたのだろう。自ら亡命者と言うのは、そもそも理由があるのだ。』  

ウ) 「魏志・高句麗伝」・・『東夷の昔話では夫餘の別種となし、言語や様々なことで多くが夫余と同じだが、気性や衣服に違いがある。』


★ つまり、濊は高句麗と同種で、夫餘は濊の近種で、高句麗は夫余の別種。だから、濊・高句麗・夫余には密接な関連性が有ります。

 また、高句麗は『言語や様々なことで多くが夫余と同じ』。夫餘は『自ら亡命者というのはそもそも理由があるのだ』(つまり中国から逃げてきた)。


E 「百済王神社」の祭神に、「スサノオ」が祭られていた。

 大阪府枚方市に「百済王神社」が有ります。「百済王」と共に、「進雄命(あるいは牛頭天王)」の2柱の神が祀られているそうです。
  (「進雄命」は、何と読むのだろうか、「スサノオ命」と読むのだろうか)。

 ★ この、「進雄命」(あるいは牛頭天王)がスサノオというのは、一般の常識ですが、何で、百済王と共に祀られているのでしょうか、不思議です。


F 終わりに。スサノオの出自について(オカルト的な想像)。

ア) スサノオの出自については、父親のイザナギ(呉系倭人)の日本での根拠地が北九州で、母親のイザナミ(越系倭人)の日本での根拠地が出雲だと思います。

  (ちなみに、アマテラスにはイザナミの血が混じっていないので、純粋の呉系倭人で、根拠地が北九州だと想像します)。

 これを、朝鮮半島に置き換えると、イザナギ・アマテラスは馬韓方面の呉系倭人で、イザナミ・スサノオは新羅方面の越系倭人かも知れません。

  (イザナミ・スサノオの足跡を残す出雲と、朝鮮との交流を考えると、(海流・潮流の関係から)新羅方面か洛東江の河口部方面に落ち着きます)。


イ) ところで、高句麗の解朱蒙(高朱蒙)がスサノオだとした場合に、高句麗の建国を紀元前後と考えると、百済の建国とは3百年の開きが有り、百済初代の都慕王が「スモウ」で「スサノオ」というのでは、整合性が取れません。

 また、スサノオの子供が「大国主」で、孫がニギハヤヒとした場合には、高句麗の高朱蒙が紀元前後で、大国主やニギハヤヒを2百年代とすると、これも整合性が取れません。

 また、「魏志倭人伝」によれば、2百年代の朝鮮は、濊族・夫餘族・高句麗族・馬韓・辰韓・弁韓諸国などであり、日本には邪馬台国しか無かった。


ウ) 結局、スサノオに関しては、『分らない』としか言い様が有りません。


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