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戦前、日本の代表的輸出品は生糸ではない。アヘンだった。(メディアが絶対に書かない裏話)(東海アマ)
http://www.asyura2.com/16/bd62/msg/800.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2020 年 11 月 10 日 23:20:11: KqrEdYmDwf7cM gsSC8YKzgqKBaYKigWo
 

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1306.html
2020年11月10日 (火) 12:52

 「日本凄い病」の患者たちよ、太平洋戦争のすさまじい戦費は、どこから降ってきたのか?
 戦艦ヤマト、零戦、膨大な兵器は、どうやって購入したのか?
 戦前の日本は貧しかった。日本には、繊維産業以外、これといった金づるなど、どこにもなかった。それなのに、あの莫大な兵器をどうやって調達できたのか? 天照大神や神武天皇が、空から金塊を撒いたのか?
 違う……日本の資金の大半は、モルヒネやヘロインを東アジアで売りさばいて作られたのだ。


 第二次世界大戦前の日本には麻薬の儲け以外にまともな収入がなかった。 (生糸の輸出はほとんど微々たるもので、大量の出費 (戦艦や戦闘機などの製造、鉄道、地下鉄、路面電車の建設) のごく一部でも賄うことができなかった。)
 戦前の日本には製糸産業以外の産業がなかった。

 第二次世界大戦前の日本では、大量の麻薬の儲けがある (東京裁判) 一方で、 財源が不明な大量の出費 (軍事、鉄道建設、地下鉄建設、路面鉄道等の建設) があった。

 明治時代になってから、明治政府は矢継ぎ早に外国から色々なものを輸入しており、 これに麻薬の儲けが大量に使用されたことは疑う余地がない。

 それ以前はどうか ? 例えば明治維新の戦費はどうしたのだろう ?
 これも随分輸入を必要としたはずだが、国内には貿易の決済に使える銀 (外貨) がほとんど残っていなかった。
 銀を手に入れるための麻薬貿易は幕末から開始している必要がある。

 アヘン戦争
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89#:~:text=%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89%EF%BC%88%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3%E3%81%9B%E3%82%93%E3%81%9D%E3%81%86,%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%82%92%E5%BE%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82

 1840年(江戸時代、天保11年)、イギリスはインドで製造したアヘンを大量に清国に輸出していたが、清国政府がそれを禁止したため、イギリスが武力侵攻し、勝利を収めた。これが清国の崩壊につながった。

 帝国主義諸国は、これを見て、アヘン輸出が倫理的問題である以上に、ボロ儲けのネタであることを知った。
 とりわけ、明治維新のなかで、新政府側の官僚たちは、巨大な富を生むアヘン貿易に目をつけた。
 その代表的人物が、後藤新平である。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ahen-gotou.html

 後藤新平は、明治新政府が台湾に侵攻するとともに、民衆に根付いていたアヘン吸引を表向き禁止したが、いきなり禁止すると反抗が起きるという理由で、暫時、禁止を進めるという政策を行った。
 
「阿片漸禁」による「専売」で「百六十万円の収入増」立案

 阿片の吸飲は日本国内では厳禁だった。中国本土でも禁止運動が広がっていた。それを知りながら、後藤は、台湾では阿片を禁止せずに「漸禁」の専売政策を実施し、「医療用」に専売したのである。

 「漸禁」の名による阿片許可の政策は、財政目的だけではなくて、現地人を阿片漬けにし、反抗を押さえる目的をも合わせ持っていた。イギリスと中国の阿片戦争の例を引くまでもなく、阿片は歴史的に、植民地支配の根幹としての役割を果たしてきたのである。

 後藤の提唱したアヘン専売制によって、植民地現地から利益を吸い上げるというやり方は、当時の国際条約では禁止されていたので、明治政府は秘密裏に、子会社を作らせて民間委託するという方法で、台湾・満州・朝鮮で大規模に事業を進めた。その規模は、世界のアヘン生産流通量の9割にも及んだ。

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 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

 「アヘン」というと、一般的には「アヘン戦争」の「英国」を思い浮かべる人が多いと思います。 しかし「アヘン帝国」と呼ばれる国があるとすれば、これは戦前の日本です。
一時期、日本のアヘンの生産量はほぼ世界のアヘン生産量に匹敵しました (1937 年には全世界の 90%)。 例えば、次の本で「アヘン帝国」の呼称を使用しています。(これは本の紹介ページです、 本の題目も訳してみました。1997 年に出版されたかなり有名な本のようです。)

Opium Empire: Japanese Imperialism and Drug Trafficking in Asia, 1895-1945
(アヘン帝国:アジアにおける日本の帝国主義と麻薬の取引、1895-1945) 
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以下抄訳(原文が長すぎるので、一部だけ紹介した)

 先進国 (G8) はすべて、中国への「アヘン」輸出に手を染めています。 従って「中国」を食い物にした点では先進国はすべて有罪です。
しかし 1913 年に英国はインドのアヘンを中国に出荷することを停止します。 一方 1911 年頃から、欧米 (特に英国と米国) は「モルヒネ」を東洋に輸出しますが、取引相手は日本でした。

「モルヒネ」は神戸を経由してそのまま「中国」に再輸出されました。 「モルヒネ」を直接「中国」に輸出することが国際条約で禁止されていたためのようです。 (モルヒネを製造していた英国の企業は日本が国際条約に違反していることを知っていたはずです。) もうこの頃になると、中国への「麻薬」の輸出はほとんどすべて日本の手によっていました。
 あとはますますひどくなるだけのようです。「アヘン戦争」によって「アヘン」が 中国になだれ込みますが、それよりもずっとひどいことが日本によって引き起こされた。 にもかかわらず日本ではほとんど語られていません。

 中心にある諸悪の根源は、「アヘンの専売制」です。 最初はこれは日本独自のものかと考えていたのですが、 これはヨーロッパ各国が植民地でしていたことの真似のようです。
中国国内には例えば香港などでアヘンの専売制がありました。 恐らく英国が真っ先にしたことと思われ、日本国内におけるアヘンの専売制も 基本的には英国の真似であったことになります。

 しかし、その規模では日本は他を圧倒的に凌駕しました。 日本は最終的には「満州帝国」でアヘンを生産し、関東軍の占領下におけるアヘン (あるいは広く麻薬 -- モルヒネ、ヘロインを含む) の流通を一手に独占します。
 (ブログ主註=これには二反長音蔵という、芥子栽培、ヘロイン抽出技術の天才の存在があり、これに里見甫『上海アヘン王』が関与して、世界最大級の日本軍アヘンが成立する)
しかもアヘンの消費量を増やすために、アヘン中毒を大量に作ります。 中国侵略はむしろアヘンを売りさばくための戦争であったと考えたほうがよい。

Asian Holocaust : WMD Opium, Sex Slaves, Nanjing Massacre Pillage, Slavery, WMD Unit 731, 100, 516
このページでは、日本が中国でしたことを「国家によるテロ」(state-terrorism) と呼び、 米国は共産圏との対決の理由から「国家によるテロ」を隠蔽したのではないかと 言っています。
 日本は中国の人を手当たり次第に麻薬中毒にして 搾り取るようなことをしています。これは地域住民に対する無差別攻撃です。 地域住民に対する無差別攻撃は通常「テロ」と呼ばれますから、確かにこれは「国家によるテロ」です。

 日本を経由した麻薬

 カルカッタのアヘン売り場で日本はインドのアヘンの重要な購入者の一つになった。...... インド政府によって売られたアヘンは日本政府の許可の下に神戸に船で送られ、神戸で青島 (チンタオ) 向けの船に積み替えられる。この貿易ではとても多くの儲けがあり、日本の代表的な企業のいくつかが 興味を示している。

訳注: 1913 年には英国は中国政府の要請の下に、インドのアヘンを中国に持ち込まなくなりました。 しかし、カルカッタではアヘンは販売され続けたのです。カルカッタにおけるアヘンの販売はオークションですから、 直接的に中国にアヘンを持ち込まずに、 しかもアヘンで儲けるための極めて巧妙な方法を英国が取り入れたことになります。 無論、最終的にアヘンを中国に持ち込んだ日本も悪い奴です。

 (中国における) 海関 (Maritime Customs) の日本人弁務官が事務所を持っている港では すべて、密貿易のセンターが設立され、アヘンやその派生製品がまったく堂々と密輸され、 日本が年間に持ち込むモルヒネは (これは国際条約によって禁止されてはいるが) 20トン程度であろうと 言われている。この量は一つの国を中毒にするに足るものである。

 アヘン中毒 (opium habit) を撲滅しようとしたが、その結果モルヒネが流通することとなった。 北中国 -- とりわけ満州 -- におけるモルヒネ中毒はすでに広範囲になっている。
  中国政府はこの災いに警戒態勢を取っている。しかし抑圧する試みは麻薬業者 -- 主に日本人 -- の行動によって妨害されている。麻薬業者は中国政府、日本政府の規制をかいくぐっている ... 中国はモルヒネ漬けになっている。--- 中略 --- 営口では, 2000 人ものモルヒネ中毒が 1914 - 1915 に死亡した。モルヒネの場合にはアヘンよりもはるかに急速に中毒が進行する。

 .... モルヒネはまだ東洋では、まとまった量では生産されていないし、モルヒネの摂取に必要な 皮下注射器の製造をすることが出来ない。 大量に生産されているのは、英国、ドイツ、オーストリアである... この取引には エジンバラの 2 つの企業とロンドンの企業が従事しており、貿易は日本の業者が実行している。 商業取引所の報告書によれば英国から東洋へのモルヒネの輸出はこの数年の間に極端に増大している。
1911 5.5 トン
1912 7.5 トン
1913 11.25 トン
1914 14 トン

 アヘンの闇 クロカル超人の面白半分日記

  星製薬は「ドイツの塩酸モルヒネ製造装置」を入手して、台湾にモルヒネ工場を作ったことと、 1917 年 (大正 6 年) に星製薬以外がモルヒネの製造に加わった。 次の項目「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で詳しい議論をしますが、1919 年には日本のモルヒネが中国に怒涛のように 乱入しており、第二次大戦の終了まで続く「アヘン帝国日本」が牙をむいているのです。 その元凶を作ったのが星一のようです。この人は極悪人です。

 1917 年に星製薬以外にモルヒネの製造に加わったのは 現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業のようですから、 星一のみが悪い奴というわけでもないようです。

 「第一次世界大戦でドイツからモルヒネの供給が途絶えたとき」に台湾でモルヒネの 大量生産に成功したとしています。 第一次世界大戦は 1914-1918 年ですが、1917 年に至るまでの数年間、モルヒネ製造は星製薬の独占 のようですから、第一次世界大戦に入った直後の 1914 年から 1915 年頃にモルヒネの 大量生産に成功しているのでしょう。

1879 アヘン専売法
1894 - 1895 日清戦争
1895 台湾が日本の支配下
1904 - 1905 日露戦争
1906 南満州鉄道 (満鉄), 日本の会社
1910 日韓併合(朝鮮半島が日本の支配下)
1911 辛亥革命
1914 - 1918 第一次世界大戦
1914 日本はドイツの租借地の青島を占領
1918 - 1922 外満州、内満州支配 (シベリア出兵)
1919 ベルサイユ条約
1922 青島を中国に返還

 満州国 (あるいは満州帝国) は 1932 年にならないとできませんが、第二次アヘン戦争 (1858 年) の結果、 外満州 (現在のロシア極東) がロシアのものとなり、 19 世紀の終わりには、満州 (正確には内満州) はロシアの影響下にありました。
しかし、日露戦争の結果、日本はロシアに取って代わり、満州を影響下に置くことになりました。 具体的には南満州鉄道が日本のものになりました。

 あとあと見るように 1911年に英国は中国と「インドのアヘンを中国に持ち込むことを禁止する条約」を結びます。 これで、中国は麻薬の空白地帯となりますが、同じ頃起きた 辛亥革命の結果、中国は内乱状態になります。
絶好の機会とばかりに、 日本が 1911 年から 1914 年に英国から神戸を経由して中国にモルヒネが持ち込んだのでしょう。 日本語の Wikipedia (南満州鉄道) によると、満鉄設立時の路線は下の図のようです。 南満州鉄道には

南満州鉄道附属地 - Wikipedia
があり、ここは外の法律が適用されない植民地のようなものであったようです。 警察もありましたが、これは日本の植民地であった関東州の警察です ( 関東州の警察 -Wikipedia )。 従って麻薬の密輸にはとても都合よくできていたのです。 関東州は日本の植民地でしたから、日本政府の許可さえあれば、大連に麻薬を持ち込み、 それを更に南満州鉄道で搬入することなど造作もなくできたことでしょう。 南満州鉄道は「麻薬鉄道」と呼んでもよいかもしれません。

 日本政府の公式な統計によると 1900 年には台湾に 169000 人の アヘン中毒がいた。
 当初は、アヘンを吸うことは台湾では非公式に認められ、日本が軍事拡大のために多額の予算が必要となったときアヘン政策が変化した。
 日本は台湾人がもっと多くのアヘンを吸うように奨励しようとした。

 上の最後の三行はは恐らく日本語の Wikipedia では真っ向から否定することだと思われます。 そこで論理から話を進めることにしましょう。戦前の日本にはおよそ産業らしい産業がありませんでした。 日清戦争、日露戦争いずれの場合にも、英国から戦争のために艦船を購入しています。
この費用はどこから捻出したのでしょうか ? 民生段階の産業が発展してない限り、軍事予算に手が回らないはずです。 例えば、現在の北朝鮮には産業らしい産業がありません。 輸出できるとしたら、食糧です。しかし、食料を大量に輸出すれば 自国民が飢えます。それ以外には「麻薬の輸出」しかないと思われます。 北朝鮮には偽札の印刷もありますが、これは除外しましょう。

 しつこく繰り返しますが、まだ日本では産業革命に至っていなかったというべきです。 産業に関してははるかに先進国である「英国」でもアヘン戦争後、アヘンの利益は 産業革命にまわりました。どうやって「産業革命」を遂行しながら 「巨大な軍事予算」を工面することができたでしょうか ?
 産業革命にも「巨大な資金」が必要となります。1904 年に八幡製鉄所がようやく完成した ばかりで、まだ国内で機械を作ることができず、機械類はほぼ全部輸入品であったはずです。 民生用の機械も輸入品で軍事用の船舶も輸入品なのです。どのようにして 資金を工面したのでしょうか。アヘンに手を出したと考えるのが最も自然です。 しかも積極的に国策としてアヘンの輸出に手を出したというべきです。

 「日本政府は秘密裏に中国および極東の他の国におけるモルヒネの流通を育成している」
と告発して、更に次のように続けている
 「日本はモルヒネ及びその製造と摂取に必要な器具を中国に輸入することに関しての禁止条約の 加盟国であるにもかかわらず」麻薬の流通は日本銀行の資金援助および中国における 日本の郵便の援助を受けていると断言している。

 もはやモルヒネはヨーロッパでは購入することができない(訳注: モルヒネの売買が規制されたことを意味する)
とレポーターは書いている。製造の中心地は日本になり、モルヒネは日本人自身によって製造されている。 毎年、文字通り何千万円もの資金が日本のモルヒネの代金として、 中国から日本に送金されている .....
(訳注: 金額は当時のものですから、今日では非常に大きな金額です)
と記述し、更に次のように述べています。

 南中国では、モルヒネは中国人の行商人によって売られている。 彼らは台湾人であることを証明するパスポートを保持し、従って日本政府の保護下にある。
中国における日本の薬屋 (ドラグストアー) はすべて大量のモルヒネの在庫を かかえている。日本の薬の行商人は巨額の利益を生むモルヒネに目がいっている。
日本人が優勢な場所ではどこでも、(モルヒネの) 商売が繁盛している。

大連経由ではモルヒネが満州と隣接する省に流通し、青島経由ではモルヒネが山東省、安徽省、江蘇省に 流通し、台湾からはモルヒネはアヘンとそれ以外の禁制品と共に、エンジンつきの漁船で 中国本土のどこかに運ばれ、そこから福建省と広東省の北部の至る所に配布されている。 ありとあらゆる場所で、治外法権の保護の下、日本人によって売りさばかれている。(訳注: この場合の日本人は台湾人を含む)

 ここに登場する台湾人は、台湾の暴力団だと思われます。アヘンは日本国内においては (当時の台湾を含む)、アヘンは政府の専売ですから、この台湾の暴力団は日本政府の 方針で動いていることになります。また 1919 年頃、台湾系の暴力団が日本のパスポートを保持して、中国本土で活発に活動していたことを意味します。

 現在では外交官用の パスポートを所持していない限り治外法権ではありませんが、当時はどうだったのでしょうか ? 暴力団が外交官用のパスポートを持っていたことも考えられますし、 日清戦争の結果日本のパスポートを所持していれば、中国で治外法権だったかもしれません。

 日本の郵便局と麻薬

 中国におけるモルヒネの主だった配布機関は日本の郵便局である。 モルヒネは小包として輸入される。 中国における日本の郵便局の小包は、中国の税関の検査を受けることが許可されていない。
中国の税関が許可されていることは、日本の送り状に記載されている小包の中身と称するものを知ることのみである。 にもかかわらず、モルヒネはこの方法で、何トンも中国に持ち込まれた。 消極的に見積もっても、1 年を通じて日本が中国に持ち込むモルヒネの量は 18 トン程度にのぼり、 この量が着実に増加していることに関しての痕跡がある。

 1898 年の台湾の民生長官であった後藤新平は 台湾人のアヘン使用に関しての方針を決め、 一方で中毒していないものが中毒しないようにし、 他方ですでに中毒になっている者に関しては政府の管理下で引き続き使用を 認めるものであった。

 中毒している者は登録する必要があった。 しかしジェニングス (Jennings、本の著者) が説明するように、 1920 年代の後半には、アヘン中毒で登録していない者は登録している者と 同じくらいの数になった。台湾人の中にはアヘン使用を恥辱と感じる者はいなかった。 その結果、よく儲かる専売制となり、製薬局 (Medicine Manufacturing Bureau) -- 後の専売局 -- に協力をする御用紳士は国際市場から生アヘンを輸入し、 吸引用のペーストにして配布した。

 一時期アヘンの売り上げは台湾政府(日本総督府)の 年収の 20 % 以上を占めるに至った。アヘンの売り上げは 1918 年にピークに達し、 800 万円以上であった。ジェニングズは 1897 年から 1941 年の 台湾政府の収入と、麻薬の収入を表にしている。

 二反長音蔵 - Wikipedia
これによると、「二反長」の読みは「にたんちょう」で、二反長音蔵の子である二反長半次郎 (にたんちょう はんじろう) は小説家・児童文学作家でペンネームを「二反長 (にたんおさ) 半 (なかば)」というそうです。 二反長半の作品

『戦争と日本阿片史 阿片王二反長音蔵の生涯』 - 父・音蔵の生涯と彼が関わった戦前期のアヘン製造の記録。

から「二反長音蔵」のことがわかるようです。 「二反長音蔵」はケシの栽培とアヘン販売に携わったようで、英文の本の紹介ページでは「アヘン王」として 扱われています。しかも、 二反長音蔵 - Wikipedia には、「星一」、「後藤新平」がその協力者であると書かれています。 要するに、この 3 人は「麻薬王」なのです。「二反長音蔵」は満州、内モンゴルで 活発に行動したそうです。

 後藤新平 - Wikipedia の記述が更に不正確であることも別の記述から見付けることになりました。 1898 年 (明治 31 年) に後藤新平は「台湾総督府民生長官」となっていますが、

 後藤新平の阿片商売
によると、その 2 年前の 1896 年に「台湾総督府衛生顧問」になっているようです (但し、このページでは ミスタイプをしていて 1986 年になっている)。しかも、そうなった理由は、そのさらに前年の一九八五年、内務省衛生局時代に、内務大臣と首相兼台湾事務局総裁という立場の伊藤博文に対して、 大変な長文の「台湾島阿片制度施行に関する意見書」を提出していたからであった。

 また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。 台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。 インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは 明治31年では149t・171万円になりました。 音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、 そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。

 つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、 音蔵はそこに目をつけたのです。  こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、 それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。

 要するに後藤新平はもともと「ケシ栽培を管轄する内務省衛生局長」であったのですが 「アヘンで儲けること」を提唱して「台湾府衛生顧問」となり「台湾総督府民生長官」と昇進したのです。 更に、後藤新平の阿片商売 では「アヘン漸禁策」は後藤新平の創意ではなく、考え方としては台湾総督府の前任者の時代からあったとしています。

 もう一点、 後藤新平 - Wikipedia の記述から、満鉄総裁になってから

 台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、 満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たった。
としています。「インフラ整備」ではほとんど確実にアヘンの儲けを使っているはずです。

 こう考えると、後藤新平は「台湾総督府民生長官」であったときに、(英国の真似をして) アヘンの儲けで「台湾」 のインフラ整備を実行し、更に「満鉄総裁」となってからもアヘンの儲けで「満鉄」の インフラ整備をしたことになります。このようなことを積極的に推し進める考えを持っていたからこそ、「台湾総督府民生長官」にもなり「満鉄総裁」にもなったのではないでしょうか ?
 後藤新平は 1919 年 (大正 8 年) に拓殖大学の学長になっていますが、 拓殖大学の前身は台湾協会学校ですから、これの設立にもほぼ確実に麻薬の儲けが使われている ことになります (植民地におけるインフラ整備は麻薬の儲けに依存している)。

「アヘン作戦」

 必要とあれば、無料でアヘンを敵地にばらまきます。 (アヘン煙草とでも言ってよいと思うのですが、 箱に入っており、簡単に手渡しができたようです。)これでアヘン中毒を蔓延させます。
 ころあいを見計らい、戦争をふっかけます。敵の兵士がアヘン中毒ばかりであれば、 これで簡単に勝利できます。(これが関東軍の戦争の仕方でした。)
占領した地域で、更に大量にアヘン中毒を作ります。

 これでいくらでもアヘンが売れることになり、戦費が確保できることになります。
これって、戦争ですかね ? 暴力団の手口と似ていると思いませんか ?

 朝鮮では、アヘンが 1914 年に禁止されるまでに、 モルヒネが麻薬中毒の選択肢として取って代わっていた。 そして 1929 年までは、支配国である日本はモルヒネを抑制する法律を 制定しようとはしなかった。

 第一次大戦の終わる頃には、 日本の専売制の下における麻薬の生産は多量の余剰を作り上げていた。 これは、満州における日本の占領地 と北部中国を経由して、中国で成功裏に売りさばかれた。 日本が「中国」の至る所に麻薬を密輸することを止めさせようとしなかったため、 国際連盟でごうごうと非難を受けた。ジェニングスはいかにして 日本が、よく儲かる政府の専売によって、中国における麻薬の使用を 奨励したのかを説明している。彼は、中国における占領地から、 世界的な規模での麻薬の売買を遂行することが日本の計画であったと断言をしている。

 ジェニングスの語るところでは、ラッセル・パシャ (Russell Pasha) は 1937 年の国際連盟の「アヘンに関しての諮問委員会」の議場で 「世界中の非合法の麻薬のほぼすべては日本に責任がある」と断言をしている。

注意
1912 年のハーグにおける 万国阿片条約 - Wikipedia の結果、見かけ上は麻薬撲滅に協力しなければいけないため、1914 年にアヘンが禁止されたのでしょう。 しかし、代わりにモルヒネとなっていますから、これは単に見せかけ以外の何物でもありません。

 第一次大戦は 1914 年に開始して 1918 年に終了しています。第一次大戦の終わるころ 朝鮮で麻薬の余剰ができたと書いていますが、 1914 年にアヘンが朝鮮で禁止されていたと書いてありますから、 この「余剰の麻薬」はモルヒネのはずです。 従って、第一次大戦が終了する頃には、 すでにモルヒネ工場が朝鮮にあったことを意味しています。

ところが、日本におけるモルヒネの大量生産は第一次大戦開始後のことで、当初は星製薬の 独占でした (台湾)。これ以外の製薬会社がモルヒネの大量生産を開始するのは 1917 年です。
  おそらく、このときに朝鮮にモルヒネ工場ができたと思われます。 そうすると 1917 年までモルヒネをどのようにして手に入れていたのでしょうか ? 「日本を経由した麻薬」で紹介をした欧米のモルヒネの 一部が朝鮮に持ち込まれたのに相違ありません。

 これは、第一次世界大戦で日本がドイツの植民地である青島などを占領したあとで、 中華民国の袁世凱政権に要求したもので、最大の要求は「ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること」 ですが、それ以外にも「日本人が南満州で自由に往来できて、各種の商工業などに自由に従事すること」があります。

  この日本人には朝鮮人が入ることに注意してください。従って朝鮮におけるヤクの売人が自由に行き来でき、 また麻薬を自由に売りさばけることになり、 麻薬の密輸に極めて好都合であったことになります。 (日本はヤクの売人には日本人を使ってはいません。日本人が麻薬中毒になることを恐れたためです。)

 「アヘン帝国の興隆 - 台湾」で述べたように 1919 年には日本のモルヒネが青島と大連経由で中国に なだれ込んでいますが、これは「対華21ヶ条要求」を中国が受け入れた結果ではないかと思います。 つまり、「対華21ヶ条要求」は軍事的な要求に見えますが、実は麻薬を中国に持ち込むことを 前提にした要求であったとも考えることができます。

 少し疑問になることがあります。それは日韓併合が 1910 年である点です。 併合後わずか 7 年でモルヒネの製造を開始し、それを輸出に回している。 あまりにも事態の進展が急であるように思われます。 しかし、この疑問点は次の記事ではっきりしました。

Country Guide : KOREA (washingtonpost.com)
朝鮮の歴史について書かれている箇所を部分的に翻訳します。

 日本の支配は日清戦争 (1894 - 95) と日露戦争 (1904 - 5) のあとで強化した。 日露戦争の時には日本の軍隊は満州を攻撃するために朝鮮を通った。 この軍隊は決して撤退することがなかった。そして 1905 年に日本は 朝鮮を保護国とすることを宣言し、そして 1910 年に正式に朝鮮を併合した。
 
 つまり、日露戦争が始まってから、日本軍はずっと朝鮮に居座っていたのです。 日本は戦争をするたびに麻薬を持ち込んでいますから、1904 年以後、朝鮮は ずっと麻薬漬けであったと思われます。恐らく当初はアヘンで、そのうち 欧米のモルヒネとなり、終にはモルヒネを朝鮮で生産することになったのでしょう。

 満州ではモルヒネどころかヘロインも登場します。これは、アヘンでは 中毒になるのに時間がかかるためなのです。多分同じ理由から、朝鮮でもアヘンよりは 効き目の速いモルヒネを使用したのでしょう。

 最初は、中国に侵入したモルヒネは、欧米のもので、これは日本を経由していた。 日本政府は国内ではモルヒネ使用を厳しく制限していたが、 日本人たちは中国でモルヒネを販売するようになり、後には中国で生産するようになった。 1920 年までに、日本経由で一年間で中国に持ち込まれるモルヒネの量は、ある評価によれば、 中国人一人当たり 4 服分に足るものであるとされている。

*************************************************************
 引用以上

 全体では、優に百科事典なみの分量のある論文なので、ごく一部を紹介しただけだが、 日本軍、麻薬販売組織の核心的人物である、里見甫、二反長音蔵、岸信介は、ごくわずかに紹介されただけで物足りない。
 それに一番肝心な昭和通商の記述がない。それでも、戦前の日本政府が行っていた極悪麻薬政策を隅から隅まで暴こうとした労作中の労作であり、著者に心から敬意を表したい。

 私が、これまで調べたことは網羅されているが、昭和通商に伴う文献は、実は、岸・安倍家・小泉純也や文鮮明、北朝鮮に関係しているので、表だって記述できない部分があったのかもしれない。

 すでに何回も書いているが、実は、中国共産党や北朝鮮政府は、日本敗戦後、二反長らが作った巨大なケシ畑とヘロイン製造施設を、そのまま継承して、現在も外貨稼ぎの手段として温存している。
 https://jp.yna.co.kr/view/MYH20081210001600882

 この麻薬問題は、現在もなお、中国共産党・北朝鮮の闇を形作っている。
 また、北朝鮮は、日本軍が湯川秀樹らに命じて開発させたウラン濃縮施設も、その人員と技術を継承しているともいわれる。
 上に紹介したのは、どれも戦前の昔話だと思わないでいただきたい。  

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