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日本の農業が抱える「不都合な真実」〜“既得権益化”がさらなる衰退を招いている 農「家」からの解放を!(現代ビジネス)
http://www.asyura2.com/16/hasan111/msg/722.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 8 月 10 日 08:19:10: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

日本の農業が抱える「不都合な真実」〜“既得権益化”がさらなる衰退を招いている 農「家」からの解放を!
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49372
2016年08月10日(水) 貞包英之 現代ビジネス


文/貞包英之(山形大学准教授)

■「地方で農業が身近」という誤解

地方都市を知らない者が抱く初歩的な誤解として、「農業がかならずしも身近ではない」ことがある。

実際、筆者は通算で20年以上、地方都市で暮らしているが、農業について実践的に知ることは少ない。時代のせいかもしれないが、今の大都市の子どもたちが農業体験などで田植えや稲刈りに参加する機会が多いのに対し、筆者はそうしたものにほとんど触れた記憶はない。

筆者だけではないだろう。地方都市の暮らしにおいて、農業はますます疎遠になっている。

ひとつには、農業の規模がますます縮小しているためである。たしかに景観としてみるとき、水田の広がりはなお大きく、地方都市を四方から取り囲んでいる。

しかし産業規模としてみれば、近年、農業は衰退している。全国的には、農業に従事し稼いだ者(販売農家の農業従事者と常雇・臨時雇いの雇用労働者)は2015年には507万6000人と5年前に比べ180万人近く減り(農林業センサス)、また農業総産出額も2014年には8兆3639億円と、これも5年前と比べれば2425億円減少している(生産農業所得統計)。

これは地方都市でも同じである。筆者の住む山形市でも、サクランボなどの特産物のイメージが強いが、農業に携わる人は実は少ない。

2015年には総農家数3670戸、そのうち農業で収益を挙げているとみなせる販売農家は2054戸で(農林業センサス)、同年の国勢調査を基準とすれば全体の世帯数の2.0%に留まる。

そのせいで生産額も低迷し、農業を地方都市の少なくとも主要産業として考えることは難しくなっている。

たとえば2013年の山形市で農業の総生産は85億円で全体の0.9%に留まり、数字を単純に比較すれば、市の主要産業は農業以上に、郊外のロードサイドやショピングモールで成長が著しいサービス業(2034億円、全体の22.3%)だといわざるをえない(山形県「市町村民経済計算」)。

■「家」と農業の強いつながり

こうして農業が産業のなかで占める割合が小さくなるにつれ、地方都市では農業の存在感が失われている。少なくとも農業を主要な稼業とする人に出会うことは、地方都市でも日常的ではないのである。

だがそれだけではなく、より構造的な問題は、農業が「特殊」な人びとに限られた“馴染みのない“業種になっていることである。

その壁になっているのは、端的にいえば「家」と農業の強いつながりである。農業への新規参入は今なお容易ではない。農業に特殊な経験や技能が求められるからだけではなく、農業生産の根幹となる「土地」を農家が握っていることが何より大きい。

たしかに近年の規制緩和も進んでおり、たとえば2009年の農地法改正によって一般の企業も農地を利用できるようになった。

ただしそれもあくまで「リース」というかたちでにすぎない。農地の所有は、なお一般的には農家やその集合体に限られ、そのせいで他業種の農業への参入や、一般人の新規就農はなかなか進まない。

実際、少し古い数字だが2007年の新規就農者就業状態調査では、新たに農業経営主になった者のうち、90.0%が自営農業を継承していた。新規農業雇用者では、61.3%と農家以外の出身も多いが、しかし同年の新規就農者調査でみれば、総新規就農7万3460人に対し、非農家の新規雇用者は5760人と、量的なインパクトはあくまで限られているのである。

■「既得権益」としての農業

この意味で地方都市における農業は、少数の「家」が独占する一種の「既得権益」になっているとさえ表現できる。

地方都市では、サービス業を中心とした第三次産業の成長が著しく、それに応じて雇用も不安定になっている。そうして地方都市の多くの住人がますますプレカリアス(不安定な・不確かな)な暮らしを送り始めているのに対し、少数ではあれ、「生産手段」としての自分の土地や家屋をもつ人びとが、低い固定資産税や補助金の給付などによって、政策的に保護されているのである。

もちろんその対立を、いたずらに煽るべきではない。グローバル化が進み、輸入の農産物が増加するなかで、農家の経営も不安定で、厳しいものになりつつある。農業だけで自立できる家は少なく、それゆえ兼業でサービス業にも多くの労働力を供給しているのである。

ただしこうした「不安的さ」において共通するとしても、農業に参加できる人とそうでない人のあいだに、それを分ける大きな壁があることも無視できない。

この壁には、たしかに規制緩和によって穴が開けられているが、他方では農業の衰退によって全体のパイが縮小することで、ますます越えがたいものになっている。

もともと農家でその後継者でもないかぎり、望んだとしても新規に農業に参入するのは狭き道であり、結果として地方都市でも多くの人生と農業は縁遠いものになっているのである。

■家と農業はどう結びついてきたのか

以上の意味で地方都市における農業の最大の問題は、「家」という社会的な単位によって農業に携わる人とそうでない人が分断されていることにある。だとすれば、その次の問題は、それが守られるべき絶対的なものなのかどうか、である。

それを考えるために、まずそもそも農業が「家」によって世襲され、その既得権益のようになったのが、かならずしも想像力の及ばない遠い過去からではないことを確認しておこう。

家が世襲した農地を代々耕すこと、それが一般化されるのは、せいぜい中世末期から江戸時代初期にかけてのことにすぎない。畑作の場合、土壌の保全のためにも一箇所に留まっておくことが難しく、それを一因として、それ以前、「家」やそもそも農地の地域への定着は不安定だったといわれる。

しかし400〜500年前に、河川工事や品種の改良、農法の革新が進むことで、低地での水田稲作が全国的に広がり、農地は多くの労働の投下された財産へと変わる。それを集団的に保護する村が確立されることにも伴い、農地は動かなくなり、「家」の定着性も格段に増すのである(貞包英之『消費は誘惑する 遊廓・白米・変化朝顔』青土社、2015年)。

この意味で、地域に根付いた「家」が農地を所有し、みずからそれを耕すとともに、後継者に譲り渡すという三位一体のセットは、水田稲作という農耕技術の普及を前提とした歴史的なものであるといえる。

水田稲作のための安定した水利の確保、また農作業を手伝い渡り歩く自由な労働力が多くなかったことを条件として、農業は「家」と強く結びつくことで他の業種に先駆け、いち早く産業化されてきたのである。

■「水田稲作」の揺らぎ

だがこうした「家」を単位としたシステムは、今、揺らいでいる。まず農業と「家」の結びつきを支えていた「水田稲作」が脅威にさらされているためである。

1970年の減反を促す生産調整の開始によってすでにあきらかにされていたように、ライフスタイルの変化はコメ離れを強め、近年はさらに安価な輸入米の脅威が取り沙汰されている。政策的になんとか維持されているとしても、競争力という意味では「水田稲作」はとっくに農業を支える主役の位置を追われているのである。

ただしこれはかならずしも悲劇的なことではない。遡って考えてみれば、そもそもコメは農家が自分で食べるためにつくられていたのではなかった。江戸時代、コメは租税として武士に渡され、また間接的にはその武士が売るコメを商品として買う都市の町人のためにつくられてきたのである。

つまりコメは何より租税の対象や商品としてあり、また都市民の食料だったわけだが、だからこそ近年、多様な食商品の登場に伴い、コメの商品価値が薄らいでいるなかで、コメづくりを中心においた農業のあり方が変わることも必然である。少なくとも都市民が多くのカネを払うことを期待して、家族労働を集中してつぎ込み、コストを掛けてコメをつくる農業のあり方は見直されざるをえない。

実際、現在では乾田直播といったより手間がかからず、それゆえ大規模で、安いコメの生産方法も模索されているのである。

■「家」の弱体化、「農」の高齢化

さらに大きな問題になるのが、そもそも「農家」に限らず、「家」そのものが現代社会のなかで力を弱めていることである。

よく知られているように、日本全体では世帯の小規模化が進んでいる。

高齢化にも伴い、単身の世帯が増加し、2015年の国勢調査の抽出速報では、一人暮らしの単独世帯は全体の32.5%で、夫婦のみの世帯(20.0%)や夫婦と子どもからなる世帯(28.0%)を超え、もっとも一般的な世帯類型にさえなっている。

こうした一人暮らしの世帯の増加は、従来のようなかたちでの「家」の存続や継承を脅かしている。単純にいって一人暮らし世帯の増加は、これまで「家」的まとまりをつくっていた人びとが、仕事やライフスタイルの違いのために共に住めなくなっていること、さらにそれをおそらく望んでいないことを表現している。

それですぐに、「家」が絶たれるわけではない。けれどもこうした暮らしの感覚の変化は、世代を超えた家の継承をせいぜい「建前」的な理想に変えてしまう。

農家では、それが切実な問題になる。そもそも農業を「家」全体の家業とする見方は、実質的にはすでに崩壊している。

一緒に住むにしろ、そうでないにしろ、農作業に実際に従事する者は高齢となった「家」のメンバーに限られる場合が多く、実際、2015年の農林業センサスでは、販売農家132万7000戸のうち、農業に実質的に従事した農業就業人口は209万人と、1戸あたり1.58人と2人以下に留まり、その年齢も65歳以上が63.5%を占めていた。

つまり農作業は、今では「家」の高齢の構成員が担う個的な仕事になっている。だからこそ現在の就業者が働けなくなった場合には、なかなか後継者を見つけられず、その果てに多くの農家が消滅しているのである。

■「大農」か「小農」という未来

結果として、「家」と農業の結びつきは、地方都市の大きな制約になっている。それは農業を地方都市民から遠ざけるばかりか、農業経営を縛る桎梏として地方都市経済の地盤沈下を招く。

長期的にみれば、第一次産業に就業する者の割合は1955年の39.8%から2015年の3.6%まで、60年間で10分の1以下に落ち込み、それが地方都市の政治、経済的な基盤を揺さぶってきたのである。

こうした危機を回避するために、ではどうすればいいのだろうか。そのためにもっとも大切になるのは、「家」の結びつきから解放された農業を考えていくことである。

水田稲作が一般化されて以降、この国ではたしかにそれを中心に農業をおこなう「家」が自立することが理想化されてきた。

こうした「家」を中心においた農業経営の形態は「中農」と呼ばれ、長らくの間、第一の目標とされてきた。しかしその限界があきらかな現代では、個々の「家」を規模において上回る「大農」、または逆に「家」の単位を割り込む「小農」と呼びうる農業経営形態をあらためて見直す必要がある。

まず重要になるのが、家のまとまりを超えた大規模な農業である。

他家と共同、または企業と協力し、労働力を外部から雇用しつつ、より大規模な資本を投下した農を営むこと。そのためには当然、市場の需要とコスト計算をした上で、ニーズや採算の合う野菜や果樹を中心とした作物をつくる必要がある。

しかし大規模化が期待されるだけではない。「家」を支えるには足りない小規模な農業もこれからの社会では大切な意味をもつ。家庭菜園を少し大規模にしたかたちで、補助的収入を得るために行われる農業。稲作も部分的に営まれるかもしれないが、さまざまな作物を多種、栽培することのほうが中心になる。

それはひとつには自給のためだが、他方で市場に直結し、そのモードを機敏に見分け、実験的に多種の変わった作物をつくっていくことが、小規模ゆえに可能になるためである。

■「家」の枠を超えた農業

こうした2つの道は、たしかに夢のような理想にみえるかもしれない。

「家」を単位として行われてきた近隣との付き合いや、農協との交渉、標準化しがたい労務管理はどうするのか。そうした課題が残るとしても、すでにこの2つの農業形態を、現実の農業が辿り始めているという重みのほうがここでは注目される。

近年、農家が減少の一途にあることは先に確認した。しかしそのなかでも5ha以上を耕す大規模な農業経営体数はむしろ増加している。

それを推進するのは、個々の「家」を超えた農業の集団化である。高齢化の進んだ農家が助け合う地域でつくられる農業生産法人に加え、モスフードサービスやカゴメなどの大企業が農業に続々と参入し、個別の「家」の枠に閉じられない農業が探られているのである。

他方で農業の販売を主としない自給的農家の数は、たしかに減っている。とはいえ、全体と比べればその減少は少なく、おかげで自給的農家の割合は35.5%から38.4%へとむしろ増加している。(「農林業センサス」)。

こうした自給的農家の割合の増加は、端的には高齢化による規模の縮小によって生じているとみられる。ただしそうしたマイナスの点だけではなく、農業がようやく「家」の成約を逃れ始めた姿もそこにみるべきだろう。

農協の枠を離れた流通市場の発展や、農機具の進化やIT化に伴い、家計補助的に農業を行うことも不可能ではなくなっている。それを踏まえ兼業、または「半農」を当初から目的とした小規模な農業も実践され始めているのである。

■農業の解放

以上のような2つの道が発展していく先にこそ、農業の新たな可能性が開かれているのではないか。

それは家と密接な関係をもはや取らないことで、より自由な農業や地域とのかかわり方を可能とするのであり、それが少なくとも地方都市にとってはプラスになると考えられる。

まず大規模化された農業は、農家に生まれた者以外にも、農業に携わる働き口を解放する。賃金をもらい農作業をすることは生半可なことではないかもしれない。しかし地方社会にサービス業以外の道を拡大することで、それはたしかに貴重な就業の選択肢をつくりだす。

他方で小規模な農業は大した儲けにならなくとも、都市生活の大切なバッファになる。たんに趣味としてだけではなく、あらたに農業に携わり、たとえば月数万といった規模でもお金を得る道の確保は、不安定な賃金労働を背後から支えるのである。

「家」から農業を解放する2つの道は、こうして地方都市の働き方を多様化し、そこでの暮らしの魅力を増す。それに加えて重要になるのは、農業に対するこれまでにない「消費」の経路を拡充することである。

新たな2つの農業の道は、現在のように一部の世襲的に固定された受益者だけではなく、多くの人に農業に携わる道をつくりだす。そうすることで、それは農家の「生産」の論理に従属してきた農業のあり方を変える。

大規模化した農業が、安価で品質が整うことで利用しやすい農作物を供給するだけではない。小規模な農業は、農業従事者本人や近隣者、地域の個別のニーズに合わせ、臨機応変に多様な食料をつくる機会を拡大するのである。

そうして地方都市を中心に農業の底が厚くなることは、大都市の住人にとっても歓迎すべきことといえる。それは今より多様で、また安価な食材を生むことで、食の消費環境を充実させていくからである。

貞包英之(さだかね・ひでゆき)
山形大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得満期退学。専攻は社会学・消費社会論・歴史社会学。著書に『地方都市を考える 「消費社会」の先端から』『消費は誘惑する 遊廓・白米・変化朝顔〜一八、一九世紀日本の消費の歴史社会学〜』など。
 

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コメント
 
1. 2016年8月10日 20:40:47 : 2FbCg9vijk : ylRMDBXhDG8[345]
スポイルの ために仕込んだ 既得権

2. 2016年8月10日 20:50:19 : x1OkWJrUbU : txibaG7INc8[1]
耕作放棄の農地の税金を高額にしないとね。

農地を持ってても維持費がゼロだから痛くも痒くもない。

貸すなり売るなりする政策を期待してます。無理か。


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