「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する」(ジョン=アクトン) "Power tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely." ( Lord Acton (1834–1902) ) 阿修羅掲示板では、新右翼の人たちの影響からか、田中角栄氏や、田中角栄氏の愛弟子の小沢一郎氏を、絶対的に崇拝してしまう傾向があるが、田中角栄氏の絶対的権力は、郵政族として電波メディアを支配するところから築かれていったとみてよい。 田中角栄氏は、郵政大臣や内閣総理大臣として、許認可権を通して電波メディアを造るところから始め、資本の系列化や統合を進めて、政治による報道の管理をおこない、大臣在任中に、レギュラー番組を含めて自ら多くのテレビ番組に出演することで政治家としての人気を不動のものにしていった。 田中角栄氏ら自民党の郵政族による、テレビの報道番組に直接的な圧力をかけた例としては、当時、田英夫がキャスターを務め、ベトナム戦争を扱った「ハノイ−−田英夫の証言」を放送したTBSへの圧力がある。 こんなコメントを書くと、また、あの頭の弱い新右翼が「安倍マンセー工作員のクラゲ」などと、書き込むだろうが。 ■ 放送メディアへの圧力と田中角栄 ○「ベトナム戦争が激化した67年、米国が進める北爆を北ベトナム側から取材。 米国が劣勢の状況を伝えた番組「ハノイ−−田英夫の証言」を放送し、米国に批判的な報道をした。 著書「チャレンジ」(毎日新聞社、79年)などによると、その直後に故田中角栄氏ら当時の自民党郵政族議員数人がTBS社長ら幹部に接触し、故橋本登美三郎氏が「どうして田君をハノイにやったのか、あんな番組をやったら困るじゃないか」と抗議したという。 幹部は突っぱねたが、その後の米原子力空母佐世保入港反対運動、成田空港反対闘争などの報道でも圧力が強まり、当時の故福田赳夫自民党幹事長は電波法の再免許申請不許可をちらつかせたという。 田さんは当時の社長に「これ以上頑張るとTBSが危ない。残念だが今日で番組を降りてくれ」と告げられた。 もう一度読みたい <平和と民主主義>田英夫さん 軍隊持てば特攻隊に行くんだよ=2007年11月 (毎日新聞 2015年10月20日) http://mainichi.jp/articles/20151016/org/00m/200/035000c ■ 放送事件史「田中角栄」≪前編≫ ――大量免許でマスコミ支配 【角栄と記者の「軽井沢の約束」】 田中角栄のマスコミ支配を象徴する有名な発言がある。首相就任直後の1972年8月に田中が番記者9人に対して語ったもので、「軽井沢発言」として知られている。番記者だけを集めて、田中はこんなことをいった。 「俺はマスコミを知りつくし、全部わかっている。郵政大臣の時から、俺は各社全部の内容を知っている。その気になれば、これ(クビをはねる手つき)だってできるし、弾圧だってできる」 「いま俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは社長も部長も、どうにでもなる」 「つまらんことはやめだ、わかったな。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる」 驚くべき発言である。これだけで新聞のトップニュースになる。アメリカで大統領が同じことをいえば、全マスコミがこぞって弾劾《だんがい》しただろう。しかし、日本の新聞は一切報じなかった。 報じなかったどころではない。巨大新聞や放送局の記者たちは「軽井沢の約束」を守ったのだ。 【テレビと新聞に恩を売る】 こうして、東京と地方を結ぶ四系列のネットワーク化が準備されていった。四系列が東京キー系列というだけでなく、朝日、毎日、読売、産経の四大新聞系列を意味することはいうまでもない。田中角栄は、テレビに恩を売っただけではない。大量一括免許を下ろしたテレビを通じて、巨大新聞にも恩を売ったのである。この新聞―テレビ系列化は、田中が首相だった74年、いわゆる「腸捻転」の解消という大きな節目を迎えることになる。 田中は、郵政大臣として免許をさばいた経験から、「郵政大臣は放送局の新設に関して強大な権限をもち、テレビに大きな影響力を行使できる。また、新聞がテレビへの進出と系列化に熱心なため、郵政大臣はテレビ(免許)を通じて新聞にまで大きな影響力を行使できる」と、気づいたのだ。 田中角栄こそ、電波利権を左右できる郵政大臣というポストの重要性を初めて明確に自覚した政治家のひとりだった。だから田中は郵政大臣を田中派の指定席とした。郵政族に田中派議員が多いのもそのせいである。 【「大蔵大臣アワー」で番組私物化】 田中角栄は、62年7月から65年まで、第2次池田内閣と第1次佐藤内閣において大蔵大臣を務めた。オリンピックが開かれ、新幹線や名神高速が開通するなど、日本の高度成長が本格化した時代である。 大蔵大臣だった田中角栄と放送の関係でまず思い出されるのは「大蔵大臣アワー」。65年2月18日から日本テレビで始まった番組(毎週木曜夜11時から30分)で、タイトルがスバリ示しているように、レギュラーは田中角栄その人であった。 <ジャーナリスト坂本 衛のサイト> 2003-07-09 http://www.maroon.dti.ne.jp/mamos/rvw/kakuei1.html ■ 放送事件史「田中角栄」≪後編≫――メディア支配構造の完成 【自民党あの手この手の言論介入】 田中角栄の自民党幹事長時代に目立ってくるのは、放送に対する政府・自民党の介入の背後でちらつく田中の影である。 田中角栄が初めて幹事長になった1965年は、北爆開始によって米軍がベトナム戦争に本格介入した年。2度目に幹事長になった68年は大学紛争が盛り上がった年。このころ、ベトナム問題をはじめ米空母・原潜寄港、自衛隊、沖縄、日韓、反戦運動、大学紛争などをめぐって、政府・自民党の放送への介入が繰り返され、放送中止事件も頻発した。 たとえば65年の秋には、自民党広報委員会のモニター調査「注目される放送事例――最近の重要問題をめぐって――」というマル秘文書がNHK、東京キー5局、ラジオ3社の首脳に配られている。各局の番組についてこれは反米的、これは政府批判が多い、この解説者やキャスターは偏向しているなどと、勝手に決めつけた文書である。これが配られたころ、田中幹事長は記者会見の席上など折りに触れて「マスコミは野党的すぎる」といった発言を繰り返した。 65年10月にはNETが公開討論会「『日韓新時代』を考える」という番組を企画したが、このときは田中の秘書の早坂茂三から局に電話が入った。名指しこそしなかったものの、日韓条約批准に批判的な自民党の宇都宮徳馬を出席者からはずせとやんわり要求する電話だった。結局、番組は立ち消えとなってしまう。 67年10月には、TBSが「ハノイ――田英夫の証言」放送したが、放映日の8日後、TBS今道社長ら幹部は自民党本部に呼ばれ番組批判を受けている。自民側の出席者は、田中幹事長、佐藤内閣の官房長官や自民党広報委員長を務めた田中派の大番頭のひとり橋本登美三郎、長谷川峻広報委員長、その他郵政族議員たちだった。 このとき今道は、なぜ田のような(偏向した)人物を北に送り込んだのかと詰問する橋本に対し、ニュース源に記者を送ってなにが悪いかという意味の反論をしたという。しかし、68年いわゆる「TBS成田事件」(TBS報道部のマイクロバスに、プラカードを持った反対同盟の婦人数名が便乗しており、警察の検問にかかって止められた事件)が起こると、ハノイの時は抵抗した今道も自民党に白旗を掲げて関係者を大処分した。 こうした言論介入で表に出るのは、もっぱら橋本登美三郎の役目だった。政府予算と財界からの寄付を使ってマスコミに宣伝広告を出し、これを懐柔しようという財団法人「日本広報センター」も、橋本が中心となって財界に協力を要請し、67年6月に発足させたものである。 だが、橋本の背後につねに自民党電波担当の大元締めとして田中角栄がいたことは、間違いなかった。 【系列化完成で、テレビ・新聞を支配】 田中は、34社に一括免許を下ろした時から放送局は自分の縄張りだと信じていた。そして、放送局を通じて新聞に影響力を行使できると考えていた。新聞資本によるテレビの系列化は、首相になった田中角栄が手がけた「テレビ―新聞支配」の総仕上げだった。 <ジャーナリスト坂本 衛のサイト> 2003-07-09 http://www.maroon.dti.ne.jp/mamos/rvw/kakuei2.html
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