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ダブルバインド、それもひとつの選択肢
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投稿者 軽毛 日時 2016 年 11 月 19 日 09:42:10: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 

ダブルバインド、それもひとつの選択肢

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/111700070/p1.jpg

2016年11月18日(金)
小田嶋 隆
 「駆けつけ警護」という言葉が気になっている。

 最初に聞いたのがいつだったのかについて、正確な記憶はもはや残っていないのだが、とにかく、はじめてこの言葉を耳にして以来、ずっとモヤモヤした気持ちをかかえている。

 なぜ気になっているのかというと、日本語として明らかに「変」だからだ。

 虚心に「駆けつけ警護」という一組の術語を聞いて、普通の日本人が考えるのは、
「駆けつけない警護があるのか?」
 ということだ。

 ん? 考えない?
 なるほど。

 まあ、たしかに、いちいちこういう突っかかり方をする私のような男は、あるいはひねくれた日本人というべきで、普通の日本人は特に大きな違和感を抱かないものなのかもしれない。
 でも、私はモヤモヤするのだな。

「駆けつけ警護……ってことは、その裏側に駆けつけない警護みたいなものを想定しているわけなのか?」

 と、私は第一感で、そういうリアクションをする。
 私だけではない。私の周囲には同じ反応を示す似たようなおっさんがとぐろを巻いている。


「駆けつけるからこそ警護になるわけだよな?」
「っていうか、そもそも警護というのは駆けつけることを前提に成立する動作なんじゃないのか?」
「だよな。してみると、遠隔警護とか、エア警護みたいなものが別立てであるというのならともかく、警護に行くのに、わざわざ『駆けつけ』を強調する用語法は、日本語として異様としか言いようがないぞ」
「そのデンで行くと、普通の勤務も出勤勤務ってなことになる」
「昼飯ひとつ食うにしても入店食餌摂取式の言い方が要請されるだろうな」
「原稿だって単に執筆するんじゃなくてiMac電源投入エディタ立ち上げ執筆ぐらいには吹かしておかないと先方へのシメシが付かなくなる」

 同じような疑問を抱いた読者が多かったからなのかどうか、朝日新聞は、この言葉について、11月16日の朝刊で、記事とは別枠の「キーワード」の欄で、解説を付加している。

《現地の国連司令部の要請などを受け、離れた場所で武装勢力に襲われた国連職員やNGO職員、他国軍の兵士らを助けに向かう任務。実施するかどうかは、自衛隊の派遣部隊長が要請内容を踏まえて判断する。警護対象を守る際には、武器を使う可能性もある。》

 この解説で、おおまかな意味はわかるといえばわかる。
 要するに、PKO(国連平和維持活動)で派遣されている自衛隊が、同僚や友軍が攻撃に晒された時に、敵の攻撃から味方を守るために援護に駆けつける任務を指してこう呼ぶということなのであろう。

 とはいえ、「駆けつけ」「警護」という言葉の軽さは、この定義からだけでは説明がつかない。
 自衛隊の任務に「警護」という、軍隊の匂いのしないガードマンっぽい言葉をあえて使っている理由もはっきりしない。

 で、引き続き「知恵蔵2015」の解説記事を読んでみると、なるほど、なかなか含蓄のある言葉が書かれている。

《−−略−−「駆けつけ警護」は、日本の安全保障を巡る独特の概念である。日本以外の軍隊では、作戦上の任務の一環と見なされ、特別な作戦行動に当たらないため「駆けつけ警護」に相当する、特別な作戦運用用語はない。しかしながら、日本の自衛隊は軍隊ではないという建前があることから、その是非について論議されてきた。それは、警護という名ではあるが、実質的には武力を行使する救援作戦に従事することとなるからである。−−略−−》知恵蔵2015(金谷俊秀 ライター/2015年)※出典はこちら

 自衛隊が普通の軍隊であるのなら、何の問題もない。敵軍の攻撃によって同僚や文官が危険になった場合に、味方を援護し、救出し、敵に反撃するのは、軍隊としての当然の行動であり、それゆえ「駆けつけ警護」という言葉は、そもそも想定すらされない。なんとなれば、駆けつけるまでもなく、軍隊は常に味方を警護し、敵と戦い続けている組織だからだ。

 ところが、自衛隊は、普通の軍隊ではない。
 憲法上の制約から、軍事行動はとれないことになっている。
 当然、武力行使もできない建前だ。
 にもかかわらず、事実として、彼らは、戦地(あるいは危険地域)に派遣されている。

 私は、この、自衛隊の置かれたハムレット的な(あるいは、ドン・キホーテ的な)、あちらを立てればこちらが立たず的な、ダブルバインドの、矛盾にたわめられた立場の苦しさが、この奇妙に屈折した言葉を呼び寄せたのだと思っている。

 軍事行動が取れないにもかかわらず、味方の救援に赴かなければならないという、このあり得ない設定が、新しい不可思議な用語の発明を要請したということだ。
 どうやら、自衛隊は、撃ってはいけない銃を持たされて、前線に走って行くみたいな、どうにも不条理な任務に駆り立てられている。

「火中の栗を拾うのに軍手すら支給されないのか?」
「っていうか、オレらが軍手だってことだよ」
「つまり、使い捨ての手袋ってことか?」
「いや、軍事的手品の略」
「……国防的詐術だな」
「まあ、そう言うなよ。世界で一番優秀なイリュージョンなんだからさ」

 ともあれ、昨年の9月に安全保障慣例法制(安保法)が成立する以前まで、歴代の政権ならびに内閣法制局は、海外にPKO派遣された自衛隊について、「駆けつけ警護」はできないという立場をとってきた。

 これに対して、安倍晋三首相は、安保法案の審議過程の中で
「仲間を見殺しにして良いのか」
 という主張を繰り返してきた。

 内閣総理大臣が口にする言葉として、あまりにも芝居がかったセリフだとは思うものの、まあ、言いたいことはわかる。

 海外でほかの国の軍隊と共同作戦を展開するに当たって

「うちの軍隊は戦闘には参加できません」

 と言わなければならないことは、首相にとって、耐え難い恥辱であるだろうからだ。

 のみならず、安倍ちゃんのわが軍は、つい最近まで「駆けつけ警護」すらできない建前になっていた。つまり

「わが軍は、友軍が危機に陥っても、救援に駆けつけることができません」

 と申し出なければならない状況だったわけで、これは、耐え難い恥辱どころか、同じ前線でカマのメシを食う兵隊の信頼関係を根底からひっくり返しかねない状況だ。早い話、警護にすら駆けつけて来ないような軍隊と、いったいどこの国の軍隊が集団的自衛権のパートナーを組んでくれるのかということでもある。

 なので、現場に派遣されている自衛隊の関係者、ならびにその彼らに感情移入している皆さんが安保法制を待望し、PKO協力法を改正したがった気持ちは、私のような部外者にも、大変によくわかる。

 軍隊として振る舞うのであれば、当然、軍隊としての装備と、軍人としての心構えと、軍を持つ国の構えにふさわしい整備された法律を持っていなければならない。そうでないと、兵隊さんは正しく戦い、あるいは命を捨てることができない。

 その意味では、昨年来世間を騒がせてきた安保法制をめぐるやりとりも、現在くすぶっている憲法改正への動きも、結局は、「軍を持つ国としての法整備」を求める人々の声を反映したものだった。

 おそらく、憲法第九条を改正して、自衛隊を正真正銘の国防軍として再編成し、公式な軍隊の責任を担う機関としての軍法会議を設け、軍事法廷を整備し、自衛隊員を国防軍の兵士として遇する新しい法律を用意すれば、「駆けつけ警護」という、取ってつけたような気持ちの悪い言葉は、そもそも不要になることだろう。

 とはいえ、自衛隊をめぐる欺瞞的な言葉遣いや、苦肉の法解釈や、失笑を招きかねない武器使用条件を解消して、わが国が正式の軍隊を備えた“一人前の国家”になるためには、やはりそれなりのリスクとコストを覚悟せねばならない。

 そのリスクとコストの問題は、自衛隊をめぐる法律的な一貫性の問題とは別に、まったく別の尺度から慎重かつ冷静に検討しなければならない。

 今回は、そこには踏み込まない。
 ここでは、とりあえず、言葉の問題だけを取り上げる。

 さて、自衛隊が「駆けつけ警護」の任務に就くことになっている、南スーダンでは、「衝突」はあったが、「戦闘行為」は無かったことになっている。

 ここでも、おかしな言葉が使われている。

 報道によれば、安倍首相は、10月11日の衆院予算委員会で、民進党の大野元裕議員の質問に答える形で、7月に起きた南スーダンでの武力衝突について「戦闘行為ではなかった」との認識を示した。

 南スーダンでは7月以降、大統領派と副大統領派の武力衝突が再燃し、事実上の内戦が続いているのだが、安倍首相はこの日の答弁の中で、「武器を使って殺傷、物を破壊する行為はあった」と認めながら、「戦闘行為の定義には当たらない」と答えている。

 武装勢力が武器を使って人を殺している(南スーダンの首都ジュバでは、すでに270人以上の人間が死亡する武力衝突が発生している)にもかかわらず、それが「戦闘行為」ではないというのはどういう解釈なのだろうか。というよりも、そもそも「戦闘行為」が生じていない場所に、どうしてPKO部隊を派遣する必要があるというのだろうか。

 答えは、現場には無い。
 答えは、どちらかといえば、法律の条文の行間に書かれている。

 つまり、

1.「戦闘行為」があったということになると、その場所は戦闘地域になる。
2.南スーダンが戦闘地域だということになると、憲法上の制限から自衛隊を派遣することができなくなる。
3.それゆえ、自衛隊を派遣するためには、南スーダンが「安全の確保された場所」であることが認定されなければならない。
4.したがって、南スーダンで戦闘行為があったという認識は排除され、書類上の安全が確保される。

 と、こういう順序で話が進んでいる。
 だからこそ、稲田朋美防衛大臣は、同じ日の答弁の中で

「戦闘行為とは、国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷しまたは物を破壊する行為」

 とした上で、南スーダンの事例は

「こういった意味における戦闘行為ではない。衝突であると認識している」

 と、強弁せざるを得なかったわけだ。

 「駆けつけ警護」に伴って生じる「武器使用」についても、「武器使用」ではあっても、「軍事行動」ではないという奇天烈な解釈がつきまとっている。

 どうして自衛隊が武器使用をしても軍事行動に当たらないのかというと、自衛隊はそもそも軍事行動ができないからで、憲法上軍事行動を禁じられている自衛隊が武器を使用することがあったのだとしても、それは単に武器を使用したということであって断じて軍事行動ではない、という理屈で、あれは軍事行動ではないということになる。

 おわかりいただけただろうか。
 つまり、本来不可能な自衛隊による「軍事行動」を可能ならしめるために「武器使用」という新しい概念が発明されたのである。

 外務省のホームページでは、さらに手の込んだ言い換えが展開されている(こちら)。

 リンクした英文ページの2の(1)のところにある
"So-called Logistics Support and "Ittaika with the Use of Force""  というチャプターには、"ittaika with the Use of Force"という言葉がつごう6回も登場する。

 ittaika
 見たこともない単語だ。
 なんと不思議なスペルの、不思議な言葉ではないか。

 これは、無理矢理に翻訳すれば「いわゆる後方支援および武力行使とのイッタイカ」ぐらいになる。

 章タイトルに出てくる「ロジスティック・サポート」も、一般的な訳語は、「兵站」だ。そして、世界中どこの国でも、「ロジスティック・サポート」は「戦闘行為」の不可分な一部分とされている。

 ところが、これが政府の翻訳を通すと「後方支援」になる。で、「後方支援」は「戦闘行為」ではないというお話につながる。

 奇妙な話だ。
 外務省が国際社会に向けて発表している英文の文書では、「ロジスティック・サポート」という言葉で説明されている同じ行為が、国内向けの日本語の文書では「後方支援」という別の概念に置き換えられていることになる。

 「一体化」の周辺事情はさらにひどい。国際社会に向けてそのまま"integration with the Use of Force"という言葉を使うと、自衛隊が海外で武力行使をともなう活動をするつもりでいる旨があからさまになってしまう。そのことを、外務省のお役人は、恐れたのだと思う。そこで彼らは、"ittika"という、日本語でも英語でもない魔法みたいな外交用語を発明することで、この難局をしのいだわけだ。

 ことほどさように、自衛隊のまわりには、常に奇妙な言葉が飛び交うことになっている。
 理由は、自衛隊が、法的な鬼っ子であり、防衛上の黒子であり、外交上の活断層であり、政治的なブラックホールだからだ。

 この問題を解決するためには、憲法を改めるか、外交方針を一新するか、防衛政策をリニューアルするか、それともそれらの全部を刷新すれば良いのだろうが、何のどこを変えるとどんなことが起こるのかについては、やはり慎重に検討しないといけないはずだ。

 理屈に合わせて言葉を直してしまえば、立ち止まる足がかりも消える。
 迷わない覚悟が自分の中に本当にあるかどうかを確認してからでも、遅くはない。

 いずれにせよ、理屈をタテに結論を急ぐことだけは避けた方が良い。
 いつまでもごまかし続けることは恥ずかしいことだが、うちの国が、そのみっともないごまかしでこの60年あまりをそこそこうまい具合にしのいできたことを忘れてはならない。

 高校生の時に経験した遠足のバスの車内での出来事を思い出す。

 バスが発車すると、ほどなく後ろの方の席に座った生徒の幾人かが、こっそりタバコを吸い始めた。

 担任のU先生は、決して後ろを見ない。
 生徒の喫煙を摘発して、始まったばかりの遠足の中止を含めた問題の引き金を引くことは好まないし、かといって、生徒の喫煙をあからさまに黙認することも、教師の信念が許さなかったからだ。

 で、彼は喫煙を発見しないために、ただただ前方を見続けることにしたのである。

 さてしかし、U先生は、バックミラーを見たのか、あるいはバスガイドから耳打ちされたのか、喫煙の証拠を残したくない生徒が、タバコを窓から捨てている事実を感知するに至る。

 これは非常によろしくない。ぜひ、吸い終わったタバコは備え付けの灰皿に捨てるように指導したい。だが、この指導は、同時に喫煙の容認を意味してもいる。ゆえに、採用できない。

 やがて、U先生は、ガイドさんからマイクを借りると、前方を見据えたままの姿勢で

「窓からガムやチョコレートの紙を捨てるような非常識な行為を、私は絶対に許さない。小さなゴミは、座席の前にある灰皿に捨てるように」

 という意味のことを静かに、噛んで含めるように言った。そして、最後に

「みんなで、事故のない楽しい遠足にしようじゃないか」

 という言葉で演説を締めくくった。

 U先生があの時にわれわれに語りかけてくれた短いスピーチが、教師として正しい対応だったのかどうかはわからない。正論を通せない、弱腰な、情けない先生、と今でも思っている人もいるかもしれない。
 個人的には、はるか前方を見据えた、素敵な対応だったと思っている。

 ああやって先生がごまかしてくれたバスが行き着いた先の未来で、私たちは、けっこう平和に暮らしている。

(文・イラスト 小田嶋 隆)

「シン・ゴジラ」大好きな私ですが
「この世界の片隅に」もよい映画でした。

 全国のオダジマファンの皆様、お待たせいたしました。『超・反知性主義入門』以来約1年ぶりに、小田嶋さんの新刊『ザ、コラム』が晶文社より発売になりました。以下、晶文社の担当編集の方からのご説明です。(Y)

−−−−−−−−

 安倍政権の暴走ぶりについて大新聞の論壇面で取材を受けたりと、まっとうでリベラルな識者として引っ張り出されることが目立つ近年の小田嶋さんですが、良識派の人々が眉をひそめる不埒で危ないコラムにこそ小田嶋さん本来の持ち味がある、ということは長年のオダジマファンのみなさんならご存知のはず。

 そんなヤバいコラムをもっと読みたい!という声にお応えして、小田嶋さんがこの約十年で書かれたコラムの中から「これは!」と思うものを発掘してもらい、1冊にまとめたのが本書です。リミッターをはずした小田嶋さんのダークサイドの魅力がたっぷり詰まったコラムの金字塔。なんの役にも立ちませんが、おもしろいことだけは請け合い。よろしくお願いいたします。(晶文社編集部 A藤)

このコラムについて

小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/111700070  

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