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米国の支配層はファシストに「自由の戦士」とか「民主化勢力」というタグをつけ、今もつながる(櫻井ジャーナル)
http://www.asyura2.com/16/warb18/msg/389.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 8 月 08 日 00:04:15: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

米国の支配層はファシストに「自由の戦士」とか「民主化勢力」というタグをつけ、今もつながる
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/
2016.08.07 23:28:54  櫻井ジャーナル


アメリカでは巨大金融資本が大きな影響力を持ち、歴史的にファシストと結びついている。フランクリン・ルーズベルトは1938年4月29日、ファシズムについて、「もし、私的権力が自分たちの民主的国家より強くなるまで強大化することを人びとが許すなら、民主主義の権利は危うくなる。本質的に、個人、あるいは私的権力をコントロールするグループ、あるいはそれに類する何らかの存在による政府の所有こそがファシズムだ。」と定義している。巨大資本とファシズムは表裏一体の関係にあると言えるだろう。

 この関係は現在も続いているが、欧米の支配層はネオ・ナチに別のタグ、例えば「自由の戦士」とか「民主化勢力」などをつけて批判を回避している。タグの付け替えは有効な手段のようで、多くの人びとは納得しているのだろう。

 巨大資本は第2次世界大戦の前も支配的な地位にいたが、今ほどの強さはなかった。そこで、1932年の大統領選挙ではそうした勢力と対立していたニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選している。

 そこで、本ブログでは何度も書いてきたが、1933年から34年にかけてクーデターが計画されたが、失敗している。ファシズム体制の樹立を目指していた金融資本の代理人として働いていた典型例がジョン・フォスター・ダレスとアレン・ダレスの兄弟だ。

 このクーデター計画はスメドリー・バトラー少将やジャーナリストのポール・フレンチの議会証言で発覚したが、フレンチによると、クーデター派は「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたという。ナチスが台頭する過程でアメリカの巨大資本が資金面から支援していたことはクリストファー・シンプソンらの研究で明らかにされている。

 1945年4月にルーズベルト大統領が執務室で急死すると、こうした親ファシズム派が息を吹き返し、ホワイトハウスで主導権を奪還する。そうした流れを止めようとしたジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。その後、ウォール街に立ち向かった大統領は見当たらない。

 第2次世界大戦は1939年9月にドイツ軍がポーランドへ軍事侵攻したところから始まった。当時、ドイツとポーランドとの間には領土問題があり、対立していた。いわゆるポーランド回廊によって東プロイセンが飛び地になり、さまざまな問題が生じていたのだが、それをドイツは解決しようとしていた。

 それに対し、イギリスを後ろ盾とするポーランドは強硬で、話し合いでの解決は困難の状況。そこで軍事侵攻、イギリスとフランスは宣戦布告したが、目的が飛び地問題だったため、本格的な戦争はそれから約半年の間、始まらなかった。いわゆる「奇妙な戦争」である。

 ドイツがポーランドへ攻め込む2年前、つまり1937年12月に日本軍は南京を攻略している。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)、

 動き始めたドイツは1941年4月までにヨーロッパ大陸を制圧、5月10日にナチスの副総統だったルドルフ・ヘスがスコットランドへ単独飛行、そして6月22日にドイツ軍はソ連侵略、つまりバルバロッサ作戦を開始した。

 1942年8月にドイツ軍はスターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入するが、11月からソ連軍が反撃に転じ、ドイツ軍25万人は包囲されてしまう。生き残ったドイツ軍9万1000名は1943年1月31日に降伏、2月2日に戦闘は終結した。

 この段階でドイツの敗北は決定的。ドイツが降伏すれば日本は戦争を続けられないと考えられていたわけで、日本の敗北も不可避だった。ソ連軍は西に向かって進撃を開始、慌てたアメリカ軍はシチリア島へ上陸する。それまでアメリカやイギリスはドイツのソ連に対する攻撃を傍観していた。

 1943年9月にイタリアは無条件降伏、44年6月にアメリカ軍はノルマンディーへ上陸する。「オーバーロード作戦」だ。この上陸作戦は1943年5月、ドイツ軍がソ連軍に降伏した3カ月後にワシントンDCで練られている。

 スターリングラードの戦いでドイツ軍が劣勢になると、ドイツのSS(ナチ親衛隊)はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、実業家のマックス・エゴン・フォン・ホヘンローヘをスイスにいたアレン・ダレスの下へ派遣している。当時、ダレスは戦時情報機関OSSのSIB(秘密情報部)を率いていた。

 1944年になるとドイツ陸軍参謀本部でソ連情報を担当していた第12課の課長を務めていたラインハルト・ゲーレン准将(当時)もダレスに接触、45年初頭にダレスはSSの高官だったカール・ウルフに隠れ家を提供、北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談も行われた。サンライズ作戦だ。ウルフはイタリアにいる親衛隊を統括、アメリカ軍のイタリア占領を迅速に実現させることができる立場にあった。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

 こうしたドイツとアメリカが単独降伏の秘密交渉を水面下で行っていることを察知したソ連のスターリンはドイツにソ連を再攻撃させる動きだとしてアメリカ政府を非難する。ルーズベルト大統領はそうした交渉はしていないと反論しているが、そのルーズベルトは執務室で急死、その翌月にドイツは降伏した。

 その直後にウィンストン・チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連への軍事侵攻作戦を作成するように命令している。そして5月22日に提出されたのが「アンシンカブル作戦」。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。

 この作戦が発動されなかったのは、参謀本部が計画を拒否したため。攻撃ではなく防衛に集中するべきだという判断だったが、日本が降伏する前にソ連と戦争を始めると、日本とソ連が手を組むかもしれないとも懸念したようだ。

 こうした流れを見れば明らかなように、アメリカやイギリスは事実上、ドイツと戦っていない。ドイツ軍が壊滅状態になったあと、慌てて動き始め、自分たちがドイツを倒したという宣伝を始めただけのことである。その宣伝には映画も大きな役割を果たした。

 ここでは詳しく書かないが、アメリカの支配層はナチスの元高官や協力者の逃走を助けるだけでなく、保護し、後には雇用している。アドルフ・ヒトラーが敗戦直前に死亡したことを示す証拠はなく、アルゼンチンで目撃されたとする話は今でも語られている。

 日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も厳しい姿勢を示していた。

 つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。

 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。

 占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

 ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。

 月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。

 こうした関係は現在でも続き、ウクライナでアメリカが仕掛けたクーデターはネオ・ナチ(ステファン・バンデラ派)が全面に出ていた。キエフで指揮していたひとりは、ヒラリー・クリントンと親しいネオコン/シオニストのビクトリア・ヌランド国務次官補だ。
 

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コメント
 
1. 2016年8月08日 21:59:06 : 2FbCg9vijk : ylRMDBXhDG8[302]
着飾った タグで批判の 矛逸らし

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