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世の中では何をしても嫌われる、世の中の人間の 9割 はどうしようもないアホ
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/313.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 1 月 15 日 18:53:43: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのは危険なこと


アメリカ人はイスラム教徒に嫌われる。イスラム教徒はキリスト教徒に嫌われる。キリスト教徒は共産主義者に嫌われる。共産主義者は資本主義者に嫌われる。富裕層は貧困層に嫌われる。貧困層は富裕層に嫌われる。

テロリストは全世界に嫌われる。しかし、助けに来たアメリカ軍は、他国に介入したとして嫌われる。

軍人は平和主義者に殺人鬼と罵られて嫌われる。平和主義者は夢想家だと言われて現実主義者に嫌われる。現実主義者は宗教心がないと宗教家から嫌われる。保守派は左翼に嫌われる。愛国者はグローバリストに嫌われる。

ありとあらゆる国で、国民は隣の国の人間を嫌う。国民は国民で、何重にも割れて互いに相手を嫌い合う。考えてみれば、なかなか悲惨な世界だが、これが人間社会の実態でもある。

つまり、私たちは何をどうしても、他人に嫌われる運命にある。ただ道ばたに立っているだけでも嫌われてしまう。どんな生き方をしても、何を言っても言わなくても、他人に嫌われない生き方はない。

私たちは存在してるだけで誰かに一方的に嫌われる。どんなに品行方正であっても、どんなに愛すべき存在であっても無駄だ。この世で嫌われない人間はどこにもいない。

この世の中は、何もしても嫌われるのが現実だ

嫌われないことを考えて生きるのは立派に見える。しかし、それは基本的に報われることはない。誰にも嫌われないで生きるのは不可能だからだ。

別に無理して嫌われる必要はないが、何をしても嫌われるのが現実なのだから、そんなものを重視して生きると100%失敗してしまう。

他人に媚びても、結果的には何も得られない。媚びることが嫌われるからだ。他人に同調しても、それが自分の本意でないのであれば自分で自分を壊してしまう。

嫌われたくないために他人に謝罪なんかしてしまうと、足元を見られて「もっと謝罪しろ、賠償しろ、誠意を見せろ」と恐喝されることもある。

誰でも人間関係を円滑にしたいと思う。しかし、嫌われたくないと思うが故に自分が折れると、自分の立場を悪くするだけである。自分で自分の首を絞めることになる。

何らかの意見を言えば必ず嫌われる。どんな意見でも、その意見と対立する意見が必ずあるからだ。逆に意見を持たなければ持たないで嫌われる。意見を持たない人間は愚かだと思われ、愚かな人間は本能的に嫌われるからだ。

立場を築くと必ず嫌われる。どんな立場でも、その立場を嫌っている人が必ずいるからだ。立場を築かない人も嫌われる。立場も築けないほど実力のない人間だと思われるからだ。

若いと若いがゆえに嫌われる。歳を取れば歳であるがゆえに嫌われる。男であれば男だから嫌われる。女であれば女だから嫌われる。

目立つと目立つというだけで嫌われる。嫌われないように目立たない生き方をしても、その生き方自体が姑息だと言われて嫌われる。

何をしても嫌われるのだ。そんな社会で私たちが生きるためには、誰もが最後に同じところへ落ち着いていく。

それは「嫌われることを恐れない」ということだ。


何をどう言っても、他人に理解されないのが現実

「嫌われることを恐れない」と言っても、誰かの悪口や罵詈雑言を恐れずに言い回ってもいいというわけではない。わざわざ他人に嫌われることを進んでする必要はない。

私たちは自分が心地良く生きるために、ある程度の常識や良識を持って生きなければならない。

しかし常識や良識を持って生きたとしても、嫌われることは最初から受け入れておく必要がある。どんなに常識や良識を持っても、それを持っているが故に嫌われるのだ。

分かってもらおうと思ってはいけない。徒労に終わる。相手は説得されることを望んでいないからだ。理解してくれる人もいるかもしれないが、理解してくれない人もいる。

理解してくれない人は、それがいかに理路整然とした正論であっても絶対に耳を傾けない。

なぜ分かってくれないのかと、隔靴掻痒の気持ちになることもあるかもしれない。しかし、世の中は何をどうやっても交われない人間が存在するのは誰も否定できない事実だ。

自分とはまったく逆の世界観を持つ人も多い。同じ人間であっても、同じ言葉を話していても、そこに横たわる溝は限りなく深い。

だから、自分を嫌い、何を言っても理解してくれない人がいるからと言って、落ち込む必要もなければ激怒する必要もない。

また、そういった人たちにひどく嫌われているからと言って、それを気に病む必要もない。媚びる必要もなければ、理解してもらう必要もない。

大人になればなるほど、意見を持てば持つほど、地位が上がれば上がるほど、有名になればなるほど、反対するために反対している人たちと山ほど遭遇することになる。

つまり、私たちは何をやっても批判され、何を言っても反対され、行いや生き方や主張が正しくても必ず反対者に嫌われるということだ。


嫌われるということ自体は、誰もが経験すること

「誰にも嫌われないこと」を重視して生きるのが危険なのは、それが確実に失敗するのが分かっているからだ。

嫌われる度合いは発言内容な信条や性格によって違う。しかし、どんな性格でも、どんな発言でも、誰かに嫌われることだけは間違いない。

だから、嫌われること自体は別に気にする必要はない。

職場でも、家庭でも、友人関係の中でも、世間の中でも、自分を嫌う人は必ず生まれ、自分の敵が必ず生まれる。私たちはそれに慣れなければならないのだ。

現代のような高度情報化時代になると、多くの人がインターネットで自分を嫌う人を発見することも多い。自分が「受け付けない」と思う人を発見すると同じく、相手もこちらを「受け付けない」と考える。

しかし、それほど気に病む必要はない。それは個人的な問題のように見えるが、本当のことを言えば誰もが経験する普遍的な問題であるからだ。

嫌われるということ自体は誰もが経験することであり、個人的な経験ではないのだ。

気持ちが収まらないかもしれない。潔癖な人であればあるほど、自分が誤解されたり、嫌われたりすることに苦悩する。人間関係の悩みで自殺する人もいれば鬱病になる人もいる。それほど苦しみ抜いたということなのだ。

しかし、マザー・テレサのような聖女さえも批判の対象になるのだから、聖人でも何でもない私たちが、誰かの怒りを買わない方がむしろどうかしている。

だから、誰かに嫌われて気に病むのは無駄だ。私たちが生きている世界は、誰かが誰かを嫌い、批判し、嫌悪し、恨み、排斥し、衝突する世界なのだ。それが現実だ。

そうであれば、逆にこうした世界に早く慣れておく必要がある。特に日本人であれば尚更だ。なぜなら、日本人は日本人であるというだけで、中国・韓国・北朝鮮のような反日国家の人間に嫌われるからである。

嫌われて何か問題でもあるのだろうか。何もない。相手を嫌うことに問題はあるのだろうか。何もない。相手と断絶することに問題はあるのだろうか。もちろん、何もない。


全般的に、蛇は嫌われる。中には蛇を愛する人がいて、この生き物がいかに愛すべき存在なのかを主張したとしても、やはり多くの人は蛇を嫌う。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2018/01/20180115T1809470900.html  

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コメント
 
1. 中川隆[-5894] koaQ7Jey 2018年1月16日 09:21:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

価値感を共有しない国家、集団、人間と分かり合えると思ったら大間違いだ


2017年3月に入って、中国が事実上の制裁を韓国に課すようになっている。なぜか。韓国が高高度ミサイル防衛システム「THAAD(サード)」を配備しようとしているからだ。

これはミサイル攻撃に対する防衛システムなのだが、これが配備されると北朝鮮のミサイルどころか中国のミサイルまでもが防衛されることになる。

中国は以前より韓国にTHAADミサイルの配備は絶対に認めないと通告していたのだが、韓国はアメリカには早く配備しろと命令されていた。

結局、コウモリ外交のツケで板挟みになった韓国は、アメリカの命令の方に従うことに決めたのだが、それは中国を蹴ることでもあった。だから、中国は激怒して韓国を追い込んでいるのである。

中国のやり方は傲慢だが、日本は韓国に対する扱いはこの中国に学ぶ必要がある。韓国のような、すぐに裏切り、約束を守らず、価値感を共有しない国家は、中国のように有無を言わさない「制裁」や「報復」によって関係を断ち切らないといけないのである。

韓国は反日を繰り広げている。あちこちに「嫌がらせ像」を立てて日本を嘲笑している。このように価値感を共有しない韓国に対しては、日本こそが中国のように報復で返さなければならないのである。岸田文雄外相はすぐにそれをすべきだ。


「価値観を共有しない」とは、このようなことだ

価値感を共有しない国家、集団、人間と分かり合えると思ったら大間違いだ。絶対にそれはない。結果的には関係はうまくいかない。無理に一緒になっても、常に同床異夢であり、呉越同舟である。

この事実を認識するのは重要だ。

人間関係の軋轢や問題は、そのほとんどが「価値観を共有するかしないか」だ。相手が同じ価値観を持っていないと、どんなに長い時間一緒にいても必ず破綻が待っている。

自分の譲れない部分で価値観を共有していないと、一緒にいられない。個人でも、グループでも、民族でも、国家でも、重要な部分で価値観が共有されいないと必ず関係は壊れる。

「価値観を共有しない」とは、具体的にどのようなケースが考えられるのか。日本人の一般的な性格を元に考えれば、いくつもの例が挙げられる。

たとえば、日本人は自立心が高い。生活でも経済問題でも、その多くは他人に迷惑をかけず、自分で何とかしようと努力するし、困難にも耐える人が多い。

そうすると、依存心が強く、何でもかんでも他人を利用しようと考える民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は黙々と「すべきこと」をする。他人がどうであれ、自分のやることはしっかりとやる人が多い。ある意味、これも自立心の高さから生まれている。

そうすると、すべきことをせず他人に期待し、裏切られると恨んだり非難するような民族とは「価値観を共有しない」と言える。日本人には合わないのだ。

日本人は、それぞれ他人には他人の考え方があることを理解する。他人と意見が違ったり、思想が違ったりしても、できる限り相手を許容する人が多い。

そうすると、相手も自分と同じ考えだと思い「違う」と分かると裏切られたと思って頭ごなしに批判してくるような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、すぐに目の見えるような成果がでないことでも、長い目で取り組み、少しずつ効果を生み出せるように努力する。他人が見ていなくても責任を持って取り組む人が多い。

そうすると、すぐ目に見える成果をあげようと行動し、効果が出ないと分かると、さっさと見捨てて顧みないような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、見栄や虚栄心よりも身の丈に合った生活や考え方を好む。うわべを飾り、外観を取り繕い、他人に良く思われようと過剰な努力をしたところで、内面が伴っていないと意味がないと考える人が多い。

そうすると、整形手術でも嘘でも詐欺でも騙しでも何でもいいからうわべだけを飾ろうとするような民族とは「価値観を共有しない」と言える。


日本と「価値観を共有しない」民族が存在する

日本人は、個人的な約束から公的な約束まで、たとえ自分が損をかぶることになっても、責任を持とうとする人が多い。いったん約束したことはきちんと果たそうと考える。

そうすると、自分の都合によって約束を守らなかったり、前に言ったことを翻したり、約束などした覚えはないと言い張るような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、物事を徹底して取り組み、綿密さや正確さをできる限り保障しようとする人が多い。また、そうやって物事に取り組むことに誇りを感じている。

そうすると、物事には適当に取り組み、問題が出たら責任を他者に押しつけ、それでいて最初は「何でもできる」と根拠もなく言うような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、信頼されることや信用されることをモットーとして取り組み、そのために地道な努力をする人が多い。信頼を得るには長い時間がかかる。しかし、その時間は無駄だとは思わない。

そうすると、金のためなら、嘘でも裏切りでも詐欺でもゆすりたかりでも何でもするような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、事実関係が間違っていると謝罪し、同じ間違いが起きないように物事を改善しようと考える人が多い。自分の感情よりも、事実を優先する。

そうすると、都合が悪くなると泣き叫び、ごまかし、逆切れし、被害者を装ったりするような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。

日本人は、他人に対する思いやりや、恩義を忘れない。また、思いやりには思いやりを返し、恩義には報いようと努力しようとする人が多い。

そうすると、思いやりを見せる相手は弱い人間だと考えたり、恩を受けたことをなかったことにし、恩を仇で返すような韓国人のような民族とは「価値観を共有しない」と言える。


関係を断たなければ、問題はますます深刻になる

もちろん、個人間や民族間で、すべての価値観が完全に一致しているというのはあり得ない。

人間はひとりひとり違っており、民族もそれぞれ違っている。文化も違えば、人種も違えば、宗教も習慣も何もかも違う。だから、完全一致を目指すとすべてがうまくいかなくなる。

しかし、根本的な部分で、ある程度の価値観の共有が為されていないと、最初からうまくいかないというのも事実である。

あまりにも価値観が違っていると、どこかで妥協したとしても、他のほとんどの部分が対立してしまって、次から次へと問題が発生していく。

無理に一緒になっても、関係は必ず破綻してしまう。ただ破綻するだけではない。互いに最も不幸な形で関係が破綻するのである。常に同床異夢であり、呉越同舟というのは、そういう意味だ。

したがって、「価値観を共有していない」「今後も共有できる見込みがない」と分かれば、互いに深入りすべきではなく、関係は断絶するか、もしくは必要最小限の関わりにとどめておくしかない。

「価値観を共有していない」というのは、共に生きるのに適していないということだ。生きている世界が違っているのだ。その上、相手が憎悪を向けてくるのであれば、関係は断絶すべきであり、関わるべきではない。

「誰とでも仲良く」というのは幼稚園か小学生低学年の標語であり、それは現実的ではない。うまくいかない関係は、いずれ壊れる。悪化する可能性のあるものは、いずれ悪化する。

日本は八方美人になってあちこちに良い顔をしても仕方がない。「価値観を共有していない」と悟った国とは関係を断たなければ、問題はますます深刻になっていく。

価値観を共有していない相手とは戦略敵に関係を断つというのは、問題を複雑化させないために、とても大切なことだ。

今後、韓国のように価値観を共有していない相手と関係を断てるかどうかで日本の命運が決まる。

日本は、韓国の反日で凄まじく迷惑を受けている。民族の尊厳を貶されていると言っても過言ではない。それならば、なぜ政治家は躊躇しているのか。日本も中国を見習って、さっさと韓国に報復すべきなのだ。

そして、最終的には韓国と一切の関係を断つべきだ。国交断絶と非韓三原則こそが、正しい韓国との付き合い方である。

最終的には韓国と一切の関係を断つべきだ。価値感を共有しない国に遠慮は要らない。国交断絶と非韓三原則こそが、正しい韓国との付き合い方である。
https://darkness-tiga.blogspot.jp/2015/05/20150527T1321560900.html


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2. 中川隆[-5893] koaQ7Jey 2018年1月16日 09:24:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

反日国家との関係はマネージなどできないので断交が正しい

「一見、良いことを言っているように見えて、実は裏には別の意図がある」というのは、中国・韓国・北朝鮮のような反日国家が常に使う手口である。

たとえば、「平和を守れ、平和は素晴らしい」というのは、とても美しい言葉だ。人は誰でも平和でいたいし、協調したいと思っている。誰も他人と衝突しながら生きたくない。

しかし、それを反日国家が日本に強要したとしたらどうだろうか。日本の防衛力をゼロにするために「平和を守れ」と諭しているのだから、言うがままに反日国家を信じていると、あっさりと侵略される。

「平和を守る」というのは美しい言葉であり、理想だ。しかし、現実には暴力国家・独裁国家・詐欺国家が日本のまわりに存在するのだから、きれい事など聞いている場合ではない。

反日国家が、あの手この手で日本を侵略しようとするのが現実社会のリアルな姿なのである。

日本の侵略にはいろいろあるのだが、その中のひとつの大きな手法が捏造ファンタジーの歴史プロパガンダを日本に押しつけて「謝罪しろ、賠償しろ、金を出せ」と恫喝したり、「平和を守れ」と叫んで武装解除させる方法だ。

日本はやりたい放題されている。


建前の美しい言葉は、警戒心を解くための手口

「信じ合うのは美しい」というのは間違いない。しかし、簡単に中国・韓国・北朝鮮のような国を信じてしまったら、日本は騙されて終わりだ。

韓国を見ればいい。国と国の約束すら守れない史上最悪の詐欺国家である。

だから、普通の常識を持った日本人であれば、他国を信じたいと思っても、それは「お花畑の理想論だ」と一定の警戒心を持って生きている。

この「警戒心」こそが反日国家にとって、最も邪魔なものだ。だから、反日国家はこのように言う。

「友好関係は美しいのに、日本人は他人を疑って生きている。間違っている。我々を信じなさい」

そうやって彼らは自分を信じさせて、守りもしない合意を結んで金を毟り取っていく。現に、日本は日韓合意で10億円を毟られて合意も反故にされている。

韓国の方は国内で好き放題しているのに、「友好関係は美しい。協力し合うべきだ」と都合の良い建前や理想を日本に押しつけているのは日本をカモにするための手法でしかない。

悪人ほど美辞麗句や理想を語りたがる。その理由は明らかだ。それは、要するに相手から「疑う心」を奪い取るためのテクニックなのである。

どこかのインチキ宗教の教祖も、美辞麗句を語って自分を信じさせている。もちろんそうやって自分を信じさせて、信者の財産を根こそぎ奪うためだ。

建前や美辞麗句を押しつける人間というのは、本当のところを言えば、非常に危険なタイプの人間であることも多い。

問題は、日本人はこの手の手法に弱いということだ。

日本政府も、中国・韓国・北朝鮮から「友好しろ」と押しつけられると友好し、「友好のためには謝罪しろ」と迫られると謝罪し、「謝罪するなら賠償しろ」と凄まれて賠償してきた。

日本政府がそうなら、日本人個人もまた「きれい事」に弱い。赤ん坊の手をひねるように簡単に騙される。日本人は友好を好み、弱者を守りたいという美しい気質があるので、そこを見透かされている。


自分が弱者になりすまして「弱者を守れ」と叫ぶ

生活保護にしてもそうだ。やむにやまれぬ事情で生活が困窮して生活保護を受けている人もいる反面、わざと働かないで生活保護を不正受給をするクズのような人間もいる。

本当に困った人にとって、生活保護は一縷の望みであるにも関わらず、それを不正受給する一部のクズのために生活保護というシステムは崩壊の危機に瀕している。

こうした生活保護に寄生する悪人どもは、自分が弱者になりすまして「弱者を守れ」と叫ぶ。

よくよく考えれば、本当の弱者というのは、自分が弱者であることを恥じてそれを隠そうとする。間違えても「自分は社会的弱者だが、世間は自分を守れ」と叫ばない。

そんなことを叫んで社会運動している暇があるのなら、一日でも早く仕事を見つけてまっとうに暮らせるように努力する。あるいは、心情的に、世間に迷惑をかけないように慎ましく目立たないようにする。

しかし、弱者を装ってタカリをする人間は逆だ。

「弱者を守れ」と声高に叫び、「弱者の人権を保護しろ」と役所の職員を恐喝し、もっと金をよこせと声を荒げて要求する。弱者という立場にあぐらをかいて、「保護しないのは差別だ」とわめいて、上から目線で高飛車に金を要求する。

「弱者を守る」というのは、当たり前のことであり、これは誰も否定することができない。だから、弱者を装っている悪人は、ことさらに建前や理想を他人に語って金を奪い取る。

「人を信じろ」「弱者を守れ」という正論は、悪人の手にかかるとそれ事態が相手から金を毟るための「ワナ」となる。それは、正論を無理やり相手に押しつけて、自分の都合の良いように相手を動かす手法に過ぎない。

宗教ビジネス、弱者ビジネス、人権ビジネスというのは、こうした「理想の押しつけ」「善意の押しつけ」によって成り立っている。

それを国単位でやっているのは韓国である。この国はありとあらゆる問題にケチをつけて自分が被害者だと言い張り、事あるごとに「謝罪しろ、賠償しろ」とわめき、合意を結んでも平気で破る。


悪人が善人に見え、善人が悪人に見える理由

「友好関係は美しい」という人と、「騙されるな。友好関係は破棄しろ」という人がいたら、どうしても「友好関係は美しい」というメッセージを発した人の方に好感が集まる。

「友好関係は美しい」と言っている人は、一見すると悪人に見えない。

悪人どころか善人のように見える。たとえ、友好関係を結んでから「友好を壊したくなければ謝罪しろ、賠償しろ」という邪悪な魂胆があったとしても人格者に見える。

逆に「騙されるな。友好関係は破棄しろ」と言っている人は、邪悪で心が狭い人のように見える。

たとえ反日国家の友好に裏があると分かっていて、日本を守りたいと思うがゆえの発言であっても、そのメッセージからはどうしても偏狭な悪人のような印象に見える。

悪人の方が善人に見えてしまうというのは、別に不思議なことではない。悪人は信用されなければ商売にならないから、必要以上に信用されるために外見を飾り、言葉を飾るからだ。

たとえそれが嘘でも、そのように振る舞っていれば人々が騙されることを悪人は知っている。

だから内面が真っ黒な人間ほど、外見を飾って飾って飾りまくる。美辞麗句を語り、善意を声高に要求する。そんな人間こそが危険なのである。

もう日本人は分かったはずだ。

「平和を守れ」も「友好関係は美しい」も、邪悪な人間や国家が言うと、そこには裏があるのだ。「騙した方と騙された方では、騙される方が悪い」とうそぶく国民や国家が美辞麗句を言うのはワナなのである。

美辞麗句に騙されてはならない。

中国・韓国・北朝鮮は反日国家であり、すでに日本の敵国と化している。歴史は捏造し、何の約束も守らない。ただ、日本を責め立て、日本を貶め、日本を崩壊させようとしている。

特に韓国は許せないほど卑劣だ。そうであれば、日本人はもう韓国と関わるべきではないというのは誰でも分かる。反日国家との関係はマネージなどできない。

相手にして騙されるくらいなら、完全に関係を断ち切ってしまうのが正しい。そして、それは政府だけに突きつけるのではなく、日本人ひとりひとりが肝に銘じるべきなのだ。個人も「非韓三原則」をすべきなのである。

相手にして騙されるくらいなら、完全に関係を断ち切ってしまうのが正しい。そして、それは政府だけに突きつけるのではなく、日本人ひとりひとりが肝に銘じるべきなのだ。個人も「非韓三原則」をすべきなのである。
http://darkness-tiga.blogspot.jp/2017/12/20171229T1755460900.html


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3. 中川隆[-5876] koaQ7Jey 2018年1月17日 10:36:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

許すと現実から抜け出せる

さて、先日は、今の伝統だとか常識だとか。
そんなものは時の権力者が適当に作っただけ。
伝統でもなんでもないですよ。

そんな話を載せますた。

世の中にあるこうすべき。
こう生きるべき。
こういう人が素晴らしい。これがまっとうな大人。

そんな常識は、時の権力者が広めた単なる物語。

例えば、家畜を見る

狭い牛舎に押し込められて
モーモー鳴いてる牛さん達。

はたから見ると可哀そうに。。そう思うのですが。
せまい満員電車に押し込められて通勤する人たち。

なぜか人間になると、それが常識的でまっとうな生き方になってます。

って、あんた!それは単なる奴隷でしょ!

多くの人は完全に洗脳されて
自分や他人を取り締まって生きてます。

日本に広がる不寛容社会。

今から100年後。

2017年当時は、どうも不倫だとか不謹慎発言だとか。
お互いにネットで叩き合うのが流行ってたらしい。
バカな社会だったんだなぁ。

そう笑う時が来るでしょう。


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こう生きるのが正しい生き方。
あなたが学校で習った道徳。
常識。

ワタスが最近、思うのは、

例えばワタスの知り合いに、いつも人に優しく
自分を犠牲にしてまで人に尽くさなきゃならない。
そういう観念に凝り固まった人がいますた。

ワタスも以前はそういう正義感で色々活動をしてたこともあるんですが

でも、そういう正義をかざして生きてると、なんだか生きづらいんですね。

正義とか声高に言う人を見ると、
むしろ、普通の人より社会の不平不満を口にして生きてる。

あいつは卑怯だ。
あいつには常識がない、モラルがない。
あいつは許せない。
この社会は最低だ。

いつも不平不満を言ってる。

で、むしろ、そういう観念=洗脳を手放すと、そんな毎日、愚痴ばかり言わないで生きられるのでは?
もっと楽になれるのでは?

そう思ったりするのですた。

宗教もそう。

宗教を信じるあまり、結局のところ人を攻撃するようになる。
幸せになるべくして宗教をやっているのに、なぜか元々の目的は忘れ去られ戦争をやるようになる。
宗教が殺し合いの道具になってる。

実は歴史的に見て一番殺し合いをやってるのは宗教で、
そして今の不寛容社会に日本を見ると

なにか日本全体が変な宗教に入ってるように思えるのです。

バシャールさんや他のスピ系の人たちが言う「許す」「手放す」。

許すと楽になれる。
現実が溶け始める。

それはワタスは本当だと思います。

他人を許す。それは大事なことです。

でも、人からイヤーなことを言われたら、
そういう嫌な人を許す必要があるでしょうか。

聖人君子じゃあるまいし。
人ばっかり許してると、自分が苦しくなっていきます。

まずは、そういうイヤーな気分になってる自分を許す。
そしてイヤーなことを言う人とは金輪際会わない。
良い人ぶらない。

そうやって自分の中にくすぶってる思いを開放する。
許す。

こうあらねばならない。正義であらねば。優しくあらねば。
そういう○○であらねば。
それをやめてみる。

自分の内側と外側は違うことのようで元々同じものです。

だから自分が自由に生きるようになると、むしろ他人に腹が立たなくなるし
やさしくなれる。

不寛容社会は自分を取り締まってる人が多いからです。

自分をまず許す。ユルユルして解放する。

この世界は許せない、認めない。
そっちをずーっとやってるとどんどん苦しくなる。

で逆に、許す方。
認める方に行くとどんどん楽になる。

肯定の言葉が増えて良い出来事が寄ってくる。
現実が変わり始める。
バシャールさんなどは現実が溶け始めると表現してますが。

ワタスはそれは本当だと思ってます
https://golden-tamatama.com/blog-entry-yurusu-nukedasu.html

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4. 中川隆[-5456] koaQ7Jey 2018年3月17日 13:51:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
日本人は、人間関係を壊してはいけないという刷り込みが強い 2013-01-04


日本で不文律のように言われていることがある。それは


「人間関係は維持しなければならない」

「どんな人間関係でも、それを壊すと自分が困る」


というものだ。日本人は農耕民族なので、協調性も非常に重要視されており、どうしようもない人間とも嫌々付き合わなければならないとも言われている。


「世の中、誰もが好きな人間とだけ付き合って生きていけるほど甘くない。ときには嫌な人間とも付き合わなければならないのだ。我慢しなければならない」


日本人は昔は「村」の人間関係から逃れられず、今は「職場」の人間関係から逃れられない。だから、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と


「孤独な人間には価値がない」


と徹底的に刷り込まれていく。日本人は、


「人間関係を壊してはいけない」


という刷り込みが、極度に強い社会なのだ。


金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう

嫌われたら「村八分」される。村八分されたら生きていけない。だから、日本人は仲間はずれにされたり、孤独にされるのを非常に恐れており、孤独にも恐怖を感じる人も多い。はた目から見ると、人間関係の強迫観念にとらわれているかのようにも見える。社会がそれを強制している。だから、日本人は、仲間はずれにされないように他人に合わせるようになり、主張することもできず、何でも流されるように受け入れてしまう。

夜の街、歓楽街、欲望の街、売春地帯では、これが致命傷になる。手練手管に長けた女性や、自由奔放でまったく他人のことを考えない女性に、とことん振り回されるのである。

相手に不満があっても、流されるように受け入れ、そのために、どんどん金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう。そうなってしまっても、相手を切れず、利用され、カモにされ、踏み台にされる。

怒ったり、たしなめると、


「本当はあなたを愛してる」

「次からはきちんとする」


と答えて反省するが、しばらく経つとまたもや同じことを繰り返す。こういった女性は、他の男とトラブルを起こし、社会的なルールを守らず、金銭トラブルを起こし続けるのである。それでも、切れずに、ずるずると付き合って行く。人間関係で、「流されている」典型的な例である。

売春地帯では、日本人が束になっても敵わないほど奸知に長けた恐ろしい女性もいて、セックスをエサに男を破滅させる光景を山ほど見る。売春地帯で男が飛び降り自殺したり、自棄になって女性を殺害したりする事件が多発している。時には最悪の事件を起こす男もいる。日本人に多いのは


「ずっと貢がされる」

「断り切れなくて金を毟られる」

「次々とタカられる」


というものである。


詐欺で逮捕されたタイ女性。外国人を手玉に取って騙すような女性は、どこにでもいる。

流される人間関係が致命傷になってしまう

フィリピンでも、タイでも、ずるずると金を毟り取られる一方の男が山ほどいて、すべて奪われたら大使館前に「捨てられる」ような男もいる。すべて毟り取られて乱射事件を起こす男もいる。

なぜ、そうなるまで関わってしまうのか。ここに、人間関係で我慢し、村八分を恐れ、人間関係を切ることができない日本人の「刷り込み」を見ることができる。日本社会が日本人に強要している「刷り込み」とは、


「我を殺して協調性を重視する」


ことと


「ノーと言って人間関係を壊してはいけない」


というものだ。日本人の多くは子供の頃からそれを「刷り込まれている」ので、まったく意識していないが、だから危険なのである。過度に協調性を意識すると、それを良いことに、ずるずると利用され、タカられ、毟り取られていく。

東南アジアで女性ひとりと知り合ったら、その女性の友人や家族や親戚が次から次へと出てきて、当たり前のように、毎日のようにタカられる。

日本人は、それに強烈な不満を感じても、決してそれを口に出さず、ただ耐えて耐えて耐え抜いて、タカられるがままになる。それに何とも思わないで溶け込める人間ならいいのだが、最後に爆発して事件を起こすのであれば、最初から人間関係は遠慮なく切り捨てるほうがいい。日本から一歩出ると、むしろ「人間関係の切り捨て」ができるようにならないと、どうしようもなくなってしまう。特に、アンダーグラウンドではそうだ。流される人間関係が致命傷になってしまうのである。

自分のためにならない人間関係は、容赦なく切る

裏社会(アンダーグラウンド)は、常に表社会とは、逆のルールが作用している。

愛は表社会では正しい感情。
愛は裏社会では間違った感情。

信じることは表社会では正しい感情。
信じることは裏社会では危険な感情。

疑うことは表社会では嫌悪されること。
疑うことは裏社会では重要なこと。

何もかもが、表社会と裏社会ではそっくりそのままひっくり返っていて、表社会のルールで裏社会を泳ぐと、たちまちのうちにカモにされてしまう。

特に日本人は、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と「孤独な人間には価値がない」と徹底的に刷り込まれているので、世界中どこでもカモだ。カモにされても、気がつかないほどだ。

そこから逃れるには、


自分のためにならない人間関係は「容赦なく切り捨てる」

「ノーと言う」

「付き合えないと言えるようにする」


べきなのである。あなたのためにならない人間関係は、長く生きていると必ず出てくる。単に、群れるための人間関係、流されてできてしまった人間関係、我慢しているだけの人間関係、自分をダメにしてしまう人間関係、破滅が目に見えるだけの人間関係……。

そんな人間関係を強いる人間が、必ずあなたの目の前に現れる。特に海外では「友達」を押し売りする男と、「愛」を押し売りする女が、高確率で現れる。そのときに、人間関係を切れるかどうかが命運を分ける。悲劇を避けるためには、一刻も早く、日本社会特有の「刷り込み」から脱して、「悪い人間関係を切る」経験を積まなければならない。

大切にしなければならない縁と、容赦なく切らなければならない縁を見極めて、切るべきものは早めに切るべきだ。


重荷になっている人間関係に囚われてはならない。日本社会特有の「刷り込み」から脱して、悪い人間関係を切る。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130105T0000060900.html


5. 中川隆[-13853] koaQ7Jey 2018年7月28日 07:28:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17344]

反対者をいちいち説得するより、賛同者を増やす方が効率的
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180213T0221090900.html


100%好意的な評価を受けることは絶対にない

人は誰でも意見を持ったり、何らかの意思表示をした瞬間に、期せずして批判の渦に巻き込まれる。

人は生きている限り、他人の批判から逃れることができない。自分が持った意見は、必ず正反対の意見を持つ人たちから激しく責められる。

自分自身が考えたことは、必ず妨害され、野次られ、敵視され、けなされる。何かすれば、敵対者からは必ず責任を追及され、いかに馬鹿げたことをしたのかと責められ、どうしようもないと軽蔑される。

私たちは、何かしたらそれで責められ、何もしなければ何もできないと責められる。真面目でいると面白味がないと嘲笑され、不良がかると社会不適合者だと吐き捨てられる。


結論から言うと、最も合理的かつ効率的なのは、反対者や批判者は、あっさりと「切り捨てる」ことなのである。

私たちは世の中を支配できない。そうであれば、私たちがしなければならない唯一のことは、「常に批判する人間はいる」と認め、その人たちを切り捨ててしまうことである。

相手を変えようとしたり、反論したり、話し合おうとしたりするのは無駄だ。切り捨てて関わらない。自分の人生に関与させない。説得しない。教えない。


なぜ、それがいいのか。理由は簡単だ。反対者や批判者の意見を変えさせるよりも、賛同者を増やした方が「効率が良く合理的」だからだ。

反対者の意見を変えさせるのは苦労する。結果的に無駄な努力になるかもしれない。無駄ではないかもしれないが、かなり面倒な仕事になる。

この忙しい現代社会で、なぜいちいち反対者や批判者のために、効率の悪いことに取り組まなければならないのか。ひとりの反対者を転向させるより、賛同してくれる人を見つける方が効率的なのだから、それを選択すべきだ。

「どうでもいい人間は切り捨てる」

「批判者を転向させるより賛同者を見つける」

日本人は今まで自分に反対する人たちの意見や、自分たちに対する批判には過剰に反応し過ぎてしまっている。無意味な配慮も横行している。

基本的に、優しすぎるのだ。

だから「どうでもいい人間は切り捨てる」という効率的な生き方ができない。しかし、そろそろこのあたりを変える必要が出てきている。

日本人はもっと我が道を往って幸せをつかんでもいいはずだ。


6. やもめーる[-11282] guKC4ILfgVuC6Q 2018年7月28日 23:40:50 : kJ3LJtp8JE : zh9lN3APQAA[-180]
バカ川は自分が安倍の「スシ友」だという
荒唐無稽な妄想オナニーと上から目線の
レイシスト発言をするから嫌われる。
もっとも重傷なのはバカ川本人がこれに気づいて
いないことである。

7. 中川隆[-13362] koaQ7Jey 2018年10月14日 07:44:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19186] 報告

「子供は死ねばいいと思ってる」と私にさらりと言った美しい女性がいた
https://blackasia.net/?p=9803


タイ・バンコクの歓楽街には無数のゴーゴーバーがある。そこで出会ったひとりの女性と一緒にいる時、彼女は「自分の生んだ子供がかわいくない」「子供は死ねばいいと思ってる」と、さらりと私に言った。

「本気なの?」と私が言うと、彼女は屈託なく”100%, Yes!”(100%、そうよ)と答えた。

そんな母親も中にはいる。そんなことくらいは私も知っていたが、率直にそのように言う女性を前にして、私は居心地の悪いものを感じた。

タイの歓楽街には男をカモにしようとする小悪魔な女たちも多い。(ブラックアジア:小悪魔のワナ。数を撃てば当たる戦略からラブレター本まで)

彼女の「危険さ」はそうしたタイプとは違った。私とは感受性がかなり違っていて、それが危険に思えたのだ。

彼女は美しい女性だった。私のことを好きだとも言ってくれた。彼女は私に対しては優しかった。そして、一緒にいる時間は決して緊張をはらむものでもなかった。逆に甘美だったかもしれない。

しかし、私は「子供は死ねばいいと思ってる」という彼女とはロングの予定だったところをショートで別れ、ほっとして夜の雑踏を歩いたのだった。たまに、こうした女性と出会うことがある。感受性が違う女性と……。(鈴木傾城)


プロフィール:鈴木傾城(すずき けいせい)

作家、アルファブロガー。政治・経済分野に精通し、様々な事件や事象を取りあげるブログ「ダークネス」、アジアの闇をテーマにしたブログ「ブラックアジア」を運営している。「鈴木傾城のダークネス・メルマガ編」を発行、マネーボイスにも寄稿している。

目次 閉じる 1. 出会ったばかりの他人にさらりと言うのは何かが違う
2. 同じ感受性を持った人でないと落ち着かない
3. 感受性が違っていると一緒にいることができない

出会ったばかりの他人にさらりと言うのは何かが違う

世の中にはいろんな女性がいる。たとえ、私に優しくしてくれていても、「深入りしてはいけない」という確信めいたものを感じさせる女性も中にはいる。「子供は死ねばいいと思ってる」という女性とは関わるべきではないと誰しもが思うはずだ。

「子供は死ねばいいと思ってる」と言える女性は素直だったかもしれない。屈託がなかった。しかし、それを出会ったばかりの他人にさらりと言うのは「何かが違う」ということが分かる。

彼女は育児ノイローゼだったのかもしれない。あるいは、うまくいかなかった夫の子供であるという意識でそのように言ったのかもしれない。彼女を擁護したい気持ちも私の中にはあった。

しかし、彼女の言動にはそのような「重さ」を感じさせるものはなかった。子供に対する愛情が感じられなかったのだ。また、愛しなければならないのに愛せないという「葛藤」のような感情すらもなかった。

子供を愛せない女性であっても、彼女がそう思う根底の部分に私が納得できるような理由や共感できるわずかな感情の揺れがあるのであれば、私はその女性を危険だとも思わないし、感受性が違うとも思えない。

たとえば、貧困と絶望の中で子供を抱えて苦しみ抜いて「子供がいなかったら楽になれるのに」「子供は死ねばいいと思ってる」と、ふと思ってしまうような女性も中にはいるはずだ。

そうした女性に対して、私は「感受性が違う」「母親失格だ」と批判したり責めたりするようなメンタリティは持っていない。むしろ、追い詰められている彼女のために何かできることはないだろうかと寄り添いたい気持ちもある。

貧困の中で誰の助けも得られず、事態をどうすることもできず、子供と一緒に泣いてしまうような境遇にある女性を責めるのであれば、女性を責めている人間こそ非道であると思う。

しかし、そうした「重さ」もなく、子供を愛せない自分は異常なのだろうかという「葛藤」もない母親が、何のためらいもなく「自分の生んだ子供がかわいくない」「子供は死ねばいいと思ってる」と言うのは、戸惑いがある。

ブラックアジアでは有料会員を募集しています。よりディープな世界へお越し下さい。

同じ感受性を持った人でないと落ち着かない

それでも、私に「子供は死ねばいいと思ってる」と言う彼女は美しかったし、男に対しては優しかったので、彼女に対する違和感を消して、彼女に深入りする男はきっといるはずだと感じた。

彼女を許容できる男もいるはずだ。彼女の言動が気にもならず、一抹の不安も感じないで付き合える男も多いはずだ。

しかし、私はその中のひとりではなかった。

私は宗教家でも道徳家でも教師でも何でもない。道徳を他人に説くような生き方をしているわけではない。私はアンダーグラウンドの人間のひとりであり、正しい生き方をしている人間ではない。(ブラックアジア:売春地帯をさまよい歩いた日々タイ編)

だから、私は彼女に何か意見することはない。ただ、感受性や生き方が違うのであれば、静かに関係を切って会わないだけである。こうした女性の行く末は気になったりはするのだが、私自身がそこに関わるのは違うという気持ちもある。

彼女も売春の世界に生きて、私もその世界にいる。そういう意味で私と彼女は同類であるのは間違いない。同じアンダーグラウンドの世界で生きている堕ちた人間だ。

しかし、私と彼女は「感受性」が違ったのだ。

その感受性とは何かというと、私なら決して「子供は死ねばいいと思ってる」とさらりと言わないし、そもそも最初からそんなことを考えないのだが、彼女はそうではなかったということだ。

私が正しくて彼女が間違っているということではない。これは単に「感受性が違っている」ということを示している。子供たちや小さな動物に対して「死ねばいい」とさらりと言える感受性を私は持たない。

私がそうなので、一緒にいる人も私と同じ感受性を持った人でないと落ち着かない。それだけのことだ。

ただし、私は神や仏のように優しいわけでもない。

私は、極悪人や凶悪犯罪者や殺人鬼やサイコパスたちには同情心もなければ共感性もない。そのため、こうした人間たちが残虐な死に方をしても何とも思わないし、死刑に処されても悲しむ気持ちもない。

私は別にすべての生命に対して優しいわけではない。

インドネシアの辺境の地で真夜中に渦巻く愛と猜疑心の物語。実話を元に組み立てられた電子書籍『売春と愛と疑心暗鬼』はこちらから。

感受性が違っていると一緒にいることができない

「極悪人や凶悪犯罪者どもが残虐な死に方をしても何とも思わない」と言うと、「彼らもひとりの人間である。何とも思わないとは非人道的だ」と考える人がいるのも事実である。

「すべての生命は守られるべき」という信念を持った人たちにとって、私のように「極悪人や凶悪犯罪者どもが残虐な死に方をしても何とも思わない」という人間は、冷酷で許しがたいと捉えるはずだ。

「子供は死ねばいいと思ってる」というのと「極悪人や凶悪犯罪者どもが残虐な死に方をしても何とも思わない」というのは、発想が同じではないかと考える人がいてもまったく不思議ではない。

そうした人にとっては、私のように使い分けをする人間は「矛盾している」と思うのかもしれない。

「すべての生命は守られるべき」と考える人たちにとっては、確かにそれは矛盾かもしれない。しかし、私はそれを矛盾とは思っていない。私の中では小さな子供たちと凶悪犯罪者はまるで別の存在である。さらに私は「すべての生命は守られるべき」とも考えていない。

何が違うのか。主義主張が違うという前に「感受性が違う」のである。

人間は生き方も考え方も言動も多種多様で、誰ひとりとして同じではない。同じ主張をしていたとしても、仔細に見るとまったく違う部分がいくつもあって「すべてが同じ」という人はいない。同じ民族どころか親兄弟ですらもいろんな部分が違う。

そのため「感受性」もまた違っている。

私は相手の主義主張や趣味やライフスタイルが違っていても、それを無理やり押し付けられない限りは差異が気にならない。

しかし感受性が違っていると、一緒にいて居心地が悪く感じてしまう。実際、感受性が違っていると、長く一緒にいることができない。それが違っていると、一緒にいても水と油のように分離する。

感受性が違うというのは、かくも重要だ。(written by 鈴木傾城)

感受性が違っていると、一緒にいて居心地が悪く感じてしまう。実際、感受性が違っていると、長く一緒にいることができない。それが違っていると、一緒にいても水と油のように分離する。

8. 中川隆[-13353] koaQ7Jey 2018年10月15日 08:11:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19201] 報告
なぜ若者は「野党嫌い」か? 政治学者・野口雅弘氏が分析 注目の人 直撃インタビュー
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/239302
2018/10/15 日刊ゲンダイ

  自民党総裁選で石破茂元幹事長の善戦を許し、沖縄県知事選では惨敗。安倍首相のレームダック化が加速し、今月下旬にも召集される臨時国会では、野党の活躍の場が増えそうだ。しかしその一方で、野党の支持率は低迷、期待感が高まっているとは言い難い。特に若者の野党支持率は絶望的に低い。この傾向について、若者が「コミュニケーション能力(コミュ力)」を重視するばかりに「野党嫌い」が進んでいるからではないかと分析した政治学者がいる。成蹊大学教授・野口雅弘氏(49)だ。一体どういうことなのか。

■「安倍1強」の土台は反対勢力に対する拒絶反応の強さ

  ――野党の支持率が低い、つまり「野党嫌い」の背景に、若者が「コミュ力」を重視している事実がある、とおっしゃっています。コミュ力を大切にし、波風の立たない関係を優先していれば、当然、野党の行う批判や対立を作り出す姿勢は、嫌悪の対象になる、と。

 そう考えたきっかけは、政党政治がちゃんと動いていないと思ったことです。政府が出した政策に対し、野党は質問し、「これは危ないんじゃないか」などと指摘をする。野党の指摘が正しければ、政府はそれを修正したり、引っ込めたりする。その延長線上に、野党が政権を取るということも起きる。そうした緊張感の中で、政党政治は動くはずなのですが、どうもそうなっていない。

  ――政党政治が動いていない?

 多くの人は、安倍首相に対し、特に森友・加計問題では批判的です。それにもかかわらず、自民党支持だったりする。若い世代ほど自民党の支持率が高いですよね。もちろん「野党がだらしない」というのはありますが、野党は何をしても評価されなくなっているのではないか、と思ったんです。

  ――それはどういうことですか?

 例えば、沖縄の米軍基地の問題。日本の人口1%ちょっとのところに70%以上の米軍基地があるのはフェアじゃない、ということは若い人も考えている。ところが、反対運動をしている人に対しては嫌悪感が強い。反対の声に政府が耳を傾けてくれず、菅官房長官などが「粛々と辺野古への移設を進めます」と言うわけですから、反対の声がヒートアップすることもある。しかしそうなると、フェアではないことへの憤りや国の姿勢に対する批判よりも、「自分はそういう喧嘩や対立には共感できない。無理です」という反応がすごく強く出てくる。野党がだらしないこと以上に、反対するという振る舞いや、反対勢力に対する拒絶反応の強さが、今の「安倍1強」を生み出している土台なのではないかと思います。

  ――「反対」することへの嫌悪感は、どうして生まれてくるのか?

 10年前に出た菅野仁さんの「友だち幻想」が、最近また売れているそうです。コミュニケーションの軋轢を避ける「同調圧力」を問題にした本ですが、こうした傾向は比較的若い世代に広く共有されていて、それが「反対」することを難しくしているのではないでしょうか。そして何より私たち大人の側が、それを求めているのではないでしょうか。例えば就職活動で集団討論をしますが、そこでは意見は言うけれど、ちゃんと空気を読んで、コミュニケーションが取れる人を企業側は求める。大学のアクティブラーニングで、学生に話をさせてグループワークをして、という時は、「コミュ力」の高い人がいてくれないと授業が回らないので、教員はそういう人を欲する。学生にすれば、「コミュ力」があれば就職でも大学でも有利になるので、「反対」することへの抵抗感が知らず知らずのうちにどんどん高まっていってしまう。

  ――つまり社会が「コミュ力」がある若者を求める結果、野党的な「反対」が嫌いになると。

 周囲に優しく気を使うコミュニケーションは否定しないし、それはそれで大事なことだと思います。でも、そうしたコミュニケーションの様式を政党政治やそのアクターである政治家に投影してしまうことには、大きな問題がある。ボクシングなら、しっかり殴るのがいいボクサー、ラグビーなら捨て身でタックルするのがいいラグビー選手ですよね。いい野党議員とは、政府が嫌がることをちゃんと質問して、問題やリスクなど、考えるヒントや材料を国民に提供してくれる人じゃないですか。ところが、「コミュ力」的な基準からすると、そういう野党議員は「安倍首相の足を引っ張っている」となってしまう。だから「野党の低迷」は、野党側の問題というより、有権者側の問題だと思います。

 
 野党の支持率は低迷(C)日刊ゲンダイ


日本の学校で教えるのは「みんな仲良し民主主義」

  ――波風の立たない人間関係をつくることと、政治で求められることは違う。

 考えてみると、日本の学校教育で先生が教えることって、「みんな仲良し民主主義」ですよね。そこにオポジション(対抗勢力・対抗関係)は一切ないし、それがいいとされている。私はドイツに留学していたのですが、ドイツの学校では先生も党派性を明らかにするし、異なる党派的立場を前提にして教室で議論するのが当たり前です。これに対して日本では、「中立・公正」が掲げられ、「思いやり」が強調されることもあり、党派性との付き合い方について学ぶ機会がほとんどありません。

  ――「みんな仲良し民主主義」だと、必然的に野党が損をする、つまり政権与党は得をするということですね。

 ドイツの法学者、カール・シュミットは、「AかBかの対立が激しければ激しいほど政治的だ」と言っています。100人中100人がAだと言ったら、それはそのまま実行すればいいわけです。政治的な問題とは、原発をどうするか、米軍基地をどうするか、消費税をどうするかなど、意見が分かれていて、どちらの方向に進むべきか頭を悩ませなければならない問題のことです。どっちに転ぶか分からない問題では、ガチンコの論争になれば負ける可能性があるから、権力を持っている人ほど対決を避けようとする。

 ――まさに安倍政治はそれです。

 自民党総裁選の最終日に安倍首相が秋葉原で演説しました。あの時に最も喝采を浴びたのは「野党は批判ばかりしている。批判からは何も生まれない。私は愚直に政策を前に進めていく」でした。あの「批判は何も生まない」と言った時の「批判」とは、「足を引っ張っている」とか「意地悪している」という意味です。議論して、相手に痛いところを突かれて、そうかと思って考えを変えたり、分かってもらうために丁寧に反論したり、という作業を一切放棄している。政治ではオポジションとの付き合い方が大事なのに、トランプ米大統領もそうですが、自分にとって都合のいいことしか言わないし、見ようとしない。自説を一方的に言い切ることと、相手を嘲笑することしかしない。だから議論が成立しない。

■「批判は何も生まない」は議論と反論の放棄

  ――そうすると、野党はどうしたらいいんでしょう?

 まずは野党というより、有権者側が野党に対する見方を少し考え直さなければならない、ということだと思います。安倍首相は次の国会で憲法改正について具体的に議論を進めると言っています。その時に、どういう異なる論拠がぶつかり合っているのか、野党の質問に対し政府側はしっかり答えているのか、地味に論点を詰めていく作業が絶対に必要です。「野党が安倍首相の足を引っ張っている」ではなく、対立している論点や論拠をしっかりと見ることが求められています。

  ――野党の側は?

 長期的に政策を考えて論点を出して、政権に問いただす。結局、そういう作業を根気よく続けていくしかない。

  ――気の長い話ですがやはり正攻法しかないですね。

 安倍首相の政治手法は「分断の政治」といわれます。昨年の秋葉原の演説で口にした「こんな人たち」という表現などまさにそうです。そして、安倍首相の手法のもうひとつが「お友だち政治」。「(コミュニケーション不能な敵を措定することによる)分断か、(話さなくても分かってくれる)お友だちか」というのはどちらも政治の否定です。政治の所在はその中間にあります。野党は、ガチな論争になるので政権側が避けようとする、この危ない「中間」の領域に入っていき、そこでお互いの身を危険にさらすような論争をすることができるかが、これからの勝負だと思います。

▽のぐち・まさひろ 1969年東京都生まれ。早大大学院政治学研究科博士課程単位取得退学。哲学博士(ボン大学)。専門は、政治学・政治思想史。著書に「闘争と文化」(みすず書房)、「官僚制批判の論理と心理」(中央公論新社)、翻訳にマックス・ウェーバー「仕事としての学問 仕事としての政治」(講談社学術文庫)などがある。

9. 中川隆[-13350] koaQ7Jey 2018年10月20日 05:33:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19384] 報告

自分を苦しめる人間関係から脱却するために最初に考えるべきこととは?
https://blackasia.net/?p=9867

人間関係に苦しむ人は多い。人間関係に苦しむ人が最もすべきことは、苦しい人間関係を何とか改善することだろうか。そうではないと私は信じている。それよりも、もっと効果的で合理的な方法がある。

それは、「自立できる経済力を持つこと」である。

なぜか。どの組織、どの人間関係にも依存しないだけの自立できる経済力があれば、自分に合わない人間を、簡単にかつ明快に断ち切ることができるからである。自立できているのに、自分にとって有害な人間と一緒にいる理由はどこにもない。

自立できる経済力があれば、自分にとって知的な刺激を受ける人、一緒にいて心地良い人、共に楽しめる人だけを残して、どうでもいい人間は切ることができる。人間関係を「改善」するのではなく、「取捨選択」することができる。

合理的だと思わないだろうか。

そう考えれば、自立できる経済力を持つというのは、なかなか深遠なテーマであることに気づくはずだ。経済的な豊かさは、実はしがらみを切るためのツールでもあるからだ。(鈴木傾城)

自分の価値を認めない人のために時間を使うな

すべての人間は分かり合えると思ったら大間違いだ。

人はそれぞれ信じるものが違い、主義主張が違い、文化が違い、習慣が違い、生き方が違い、目的も違う。ありとあらゆるものが違うのに、すべての人と分かり合えるはずだと思うのは、それこそどうかしていると言っても過言ではない。

「何をどうしても分かり合えない人がいる」

これが現実なのである。ただ、すべての人と分かりあえなくても問題ない。互いに節度ある関係を保つことができるのであれば、それで世の中は回るからだ。

しかし、節度ある関係すらも築けず、自分にとって害でしかない人間も世の中にいる。それも莫大な数で存在する。何をどうしても好きになれない人間や、うまく関係を築けない人間は避けられない。

本当のことを言えば、好きになれない人間と一緒にいるような選択はすべきではない。好きになれない人間と長期に渡って継続的に関わるのは合理的ではない。避けなければならない。

親兄弟や親族とうまくいかないという人は多い。その場合はどうすればいいのか。私なら近くにいない。疎遠になる。関わらない。避ける。物理的に接触を避けて、自分自身の人生や生き方を最優先する。

関係が切れないのであれば、関係を限りなく疎遠にしておけばいい。親兄弟であっても、自分にとって心地良い関係を保つことができないというのであれば、なぜ緊密な関係を持つ必要があるのか。

自分の価値を認めない人のために、貴重な時間を使うべきではない。

「自立できるだけの経済力」はここで生きてくる。自立するというのは「自分が好きでない人のために時間を使わない」ことなのである。

意外にドライな合理的精神を持っている

幸せな人間関係で自分の環境を固めたいのであれば、一緒にいて心地良い人との関係を良くして、そうでない関係は清算する作業を繰り返すのが理に適っている。

自分を理解してくれない人や自分にとって有害な人と関係を改善することではない。「人類みな兄弟」ではない。不必要な関係は切らなければならないし、もし切れないのであれば疎遠にしていく必要がある。

農家は育てている農作物に栄養を与え、雑草を引き抜いて実りを得る。雑草も大切だと言って一緒に雑草を育てていては重要な農作物が枯れる。農作物を成長させるためには、雑草を引き抜いて取り去る作業は欠かせない。

人間関係も同じで、自分にとって実りにならないばかりか有害ですらもあるような人間関係は引き抜いて取り去る作業をして当然だ。

分かり合えない人との関係を何とかしようと思うのは、まさに雑草を育てているのと同じなのである。そんな労力があるのであれば、大切な人間関係の方に時間を使う方がよほど役に立つ。

しばしば壊れ、しばしば改善しなければならず、しばしば自分に害を為す人間関係をどうにかするのは困難な仕事だ。それよりも、最初から心地良く、お互いに尊重できて、自分を向上させる人間関係を増やした方が絶対にいい。

扱いにくい人間と関わるべきではない。取引もすべきではない。扱いにくい人間は遠ざけることによって自分の大切な時間を守ることができる。

人生の中で素晴らしい人間関係に囲まれている人は、意識的にも無意識にもそうしている。その人は大勢の人をふるい落とした結果だ。彼らは付き合う人を慎重に選んでいるのである。

素晴らしい人間関係に囲まれているというのは、意外にドライな合理的精神を持っている人であると私は見ている。ドライに人間関係を取捨選択しているから、よけいな人間関係に煩わされないで幸せな人間関係だけでまわりを固められる。

幸せな人間関係でまわりを固められるというのは、「人間関係の取捨選択」がきちんとできている証拠なのだ。雑草を引き抜いて、大切な存在に水を差している。

そして、彼らはそれができる経済的な余裕も持っている。自立できているから、雑草が引き抜ける。経済的に自立できていなければ、雑草を引き抜く力がない。

地獄のようなインド売春地帯を描写した小説『コルカタ売春地帯』はこちらから

問題は、切らなければならない関係が放置されること

極度に悪化した親子の関係、暴力が絡むようなパートナーとの関係に苦しむ人もいる。血縁的、法的な結びつきがある場合、人間関係は簡単に切れない。しかし、切れないからと言って自分に害を為すのを放置しておくのは良いことではない。

切らなければならない関係は、意図的に切らなければならない。

いろんなしがらみで切れないのであれば、関係を疎遠にしていかなければいけない。相手が自分に害を為すことができないように「一定の距離」を置いて、関係を限りなくゼロに薄めていかなければならない。

多くの場合、自立できる経済力があればそれが実現できる。

経済的に自立できていれば、関係を切ることも、疎遠にすることも、それほど難しいことではなくなる。経済力を背景にして、新天地を求めて旅立つことが可能になる。

だから、注力すべきは壊れた関係の中でサバイバルすることではなく、着実に自立できる経済力を身につけることとだ。

すべてはそこに行き着く。

人間関係は切ってもいいのだと分かっていれば楽になれる。それができる経済的な余力があれば、さらに楽になる。実際に「何をどうしても分かり合えない人」を切ったら、もっと楽になれる。

人間関係に苦しんでいる人は「切ること」をより重視してもいい。そして、経済的に自立できるのであれば、その決断は実現化できることに気づくべきだ。

社会の底辺で多くの荒んだ人たちを見てきたが、彼らの問題はひどい人間関係にがんじがらめにされていたということだけでなく、そこから抜け出すための経済的な余裕がなかったことにも私は気付いている。

自立するだけの経済力を手に入れるというのは、それを実現できている人にとっては別に大したことではないように思うのだが、そこに至っていない人にとっては、大変なことでもある。

しかし、大変だからと投げ出してはいけないものでもある。自立するだけの経済力は、破滅的な人間関係から脱却するための武器にもある。武器は持っておくべきだ。(written by 鈴木傾城)

農家は育てている農作物に栄養を与え、雑草を引き抜いて実りを得る。雑草も大切だと言って一緒に雑草を育てていては重要な農作物が枯れる。農作物を成長させるためには、雑草を引き抜いて取り去る作業は欠かせない。人間関係も同じで、自分にとって実りにならないばかりか有害ですらもあるような人間関係は引き抜いて取り去る作業をして当然だ。

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