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幻の映画「Mishima」〜三島由紀夫とは何者だったのか?
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 04 日 22:48:45: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


2020年3月 2日
幻の映画「Mishima」〜三島由紀夫とは何者だったのか?




1985年の映画「Mishima」を漸く北米版Blu-rayで観ることが出来た。製作総指揮がフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカス、監督がポール・シュレイダー。「タクシー・ドライバー」の脚本家である。配給はワーナー・ブラザース。カンヌ国際映画祭で本作は芸術貢献賞を受賞したが、その対象となったのは作曲家フィリップ・グラス、撮影監督ジョン・ベイリー、そして美術を担当した石岡瑛子の3人だった。当初日本でも公開される予定だったが、同性愛描写を不服として瑤子未亡人が反対し、結局中止となった。その後も日本でのテレビ放送、ビデオ/DVD化も一切されず、30年以上幻の作品になっていた。遂に念願が叶った!



三島由紀夫(1925-70)を演じるのは緒形拳。他に沢田研二、佐藤浩市、永島敏行、三上博史、笠智衆、平田満、大谷直子、加藤治子、萬田久子ら豪華出演陣である。


三島が自決する日を朝の起床から追う「1970年11月25日」と、フラッシュバックによる回想のシークエンスを軸に、三島の小説「金閣寺」「鏡子の家」「奔馬(「豊饒の海」第二巻)」のダイジェストが挿入されるという構成。この石岡瑛子が手掛けた舞台装置が抽象的で様式化されており、才気煥発している。またフィリップ・グラスが手掛けたミニマル・ミュージックが滅法美しい。なおシュレイダーは当初、「鏡子の家」の代わりに男色小説「禁色」を希望していたが、遺族側の承諾が得られずに断念した。


これを観てつくづく感じたのは、三島由紀夫とは矛盾に満ちた男であったということだ。そういう意味において宮崎駿に似たところがある。
•【アフォリズムを創造する】その7「矛盾について」〜宮ア駿という男


三島は19歳の時に徴兵され、軍の入隊検査を受けるが軍医から「肺浸潤」と診断され即日帰郷となった。彼が入るはずだった部隊の兵士たちはフィリピンに派遣され、戦闘でほぼ全滅した。これは軍医の誤診だったとも、仮病を使って兵役逃れをしたとも言われている。何れにせよここで三島は死ではなく、生き延びることを選んだわけだ。しかし後に彼は自衛隊に体験入隊したりした挙句の果て、自ら組織した民兵組織「楯の会」隊員4名と自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、割腹自殺を遂げる。享年45歳だった。


三島はリルケ(当時はオーストリア=ハンガリー帝国領だったチェコ・プラハに生まれた)の影響を受け、次のようなことをインタビューで語っている。


リルケが書いておりますが、現代人というのは、もうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、という様な事をどっかで書いていたように記憶しますが、いま現代の死は病気にしろ、あるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものの無い時代に我々は生きております。


さらにフランスの詩人で小説家のラディゲと、そのパートナーだったコクトオ(つまり同性愛)に魅せられて「ラディゲの死」という短編を書いている。そしてランボオやバルザック、スタンダールらフランス文学を愛した。また彼の自宅はヴィクトリア調コロニアル様式の洋館で、庭にはアポロン像が立っていた。


その一方で天皇を崇拝し、古今和歌集や能などに傾倒した。三島は「日本文学小史」の中で次のように述べている。


 われわれの文学史は、古今和歌集にいたつて、日本語といふものの完熟を成就した。文化の時計はそのやうにして、 あきらかな亭午(ていご:真昼)を斥す(=指す)のだ。ここにあるのは、すべて白昼、未熟も頽廃(たいはい)も知らぬ完全な均衡の勝利である。 日本語といふ悍馬(かんば:あばれうま)は制せられて、だく足も並足も思ひのままの、自在で優美な馬になつた。調教されつくしたものの美しさが、なほ力としての美しさを内包してゐるとき、それをわれわれは本当の意味の古典美と呼ぶことができる。 制御された力は芸術においては実に稀にしか見られない。


戦争で死に損ない、そのことを恥じていた三島は〈美しい死〉〈英雄的な死〉に魅せられていた。彼は若い頃から(老化で体が醜くなる直前の)45歳で死ぬと周囲の人に公言しており、割腹自殺は長年に渡る綿密な計画に基づいていた。「豊饒の海」4部作を書き上げた日に自決しているのがその証である。また31歳(1956年)からボディービルディングに勤しんだのも〈完璧な肉体〉を希求していたことを示している。1960年には映画「からっ風野郎」に主演した。


映画監督の大島渚は「政治オンチ克服の軌跡=三島由紀夫」という文章で次のように述べている。


 ……この最も俳優に不向きな体質、ということは精神状態も含んで言うのだが、そういう体質の人のなかにどうしても俳優になりたいという人間がいるのである。そういう俳優志望者に私なども時々襲われるのであるが、この人たちは全く始末が悪い。とにかく思い込んでしまってきかないのである。三島さんもそういう思い込んでしまう人間のように私には見えた。私は、そんな三島さんを主役の俳優として使わなければならなかった『空っ風野郎』の監督増村保造氏のことを思って同情を禁じえなかった。と同時に、私は三島さんという人はなかなかこの世の中に適応しえない人間なのであろう、しかもそれを適応すべくすごい努力をしていらっしゃるというふうに一種同情の目で見たのであった。
 三島さんは何故、いわゆる体位向上を心掛けられたのだろうか。いわゆる肉体についてのコンプレックスならば、私なども同様である。青春時代は骨ばかりだったし、ちょっと肉がついていい感じと思っていたら一足飛びに百キロになんなんとするデブになってしまった。今は少し節制してやややせたが見て格好のいい形態ではない。しかしもう諦めている。三島さんはなぜ体型を根本的にまで変えられたのか。自分の文学が貧弱な肉体或いは異常な肉体の産物だというふうに見られるが厭だったのか。とすれば、健康な肉体或いは正常な肉体の産物である文学でも、対応関係としては等価ではないか。或いは、自分の肉体が貧弱から健康へ、異常から正常へ変わっても、自分の文学は変わらぬということが言いたかったのか。それだったら、もう一回、貧弱な肉体、異常な肉体へ帰ってみたほうがもっと面白かったではないか。私はヨボヨボの三島さん、デブデブの三島さんを見たかった。しかし、三島さんは、それを断乎拒否して死んでゆかれた。だから、そこにはやはり三島さんの美意識の問題があったのだろう。
 私は文学の評論家ではないから、三島さんの文学の美の問題については深入りしたくないが、私の考えでは三島さんの美意識は私などの美意識と決定的にちがっていた、と言える。というより、私などの創作過程における美意識の置きかたと三島さんのそれは決定的にちがっていたと思う。対談の時に三島さんは私の『無理心中・日本の夏』をわからないと言われた。それは無理もない。三島さん的な美意識からは絶対にわかる筈はないからである。そして三島さんは何故美男美女を使わないのかと言われた。このあたりが三島さんの美意識の限界なのである。つまり三島さんの美意識は大変通俗的なものだったのだ。そしてそれだけならよかったのだが、三島さんは一方で極めて頭のよい人だったから、おのれの美意識が通俗的なものだということに或る程度自覚的だったのである。そこから三島さんの偽物礼讃、つくられたもの礼讃が生まれたのだった。そして自分自身をもつくり上げて行ったあげく、死に到達してしまったのである。


大島渚は三島由紀夫との対談で「美しい星」や「鏡子の家」を映画化したいと発言している。大島は京都大学法学部で学んでいた当時、京都府学生自治会連合の委員長として学生運動に携わった。これは日本共産党の強い影響下にあった全学連の下部組織であり、つまり彼は筋金入りの左翼だった。また1960年に日米安保闘争をテーマにした映画「日本の夜と霧」を発表。同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、翌年退社した。ゴリゴリの左翼・大島が右翼の三島に深い理解(同情・憐れみ)を示しているのは非常に興味深い。本来なら水と油の関係である筈なのに。


大島が阿部定事件を題材に1976年に撮った「愛のコリーダ」を観ながら、映画の製作動機は1970年の三島自決事件の衝撃にあったのではないかという気がして仕方がなかった。藤竜也演じる吉蔵は半ば自殺したようなものであり、《エクスタシーの絶頂で、若い肉体のまま死にたい》という願望が垣間見られるからである。死の直後に第三者の手で肉体の一部が切断されるという点でも両者は共通している(三島は切腹後、介錯人の手で首を切り落とされた)。


三島由紀夫は完全主義者だった。そして究極の美を追い求めた。しかしそれはあくまでも仮面(ペルソナ)であって、その裏には繊細で傷付きやすい脆い魂と肉体(=自己 self)が潜んでいた。


Kamen


2020年3月20日にドキュメンタリー映画「三島由紀夫 vs 東大全共闘50年目の真実」が公開される。ナレーターはあの東出昌大!


公式サイトはこちら。
https://gaga.ne.jp/mishimatodai/
 

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コメント
1. 中川隆[-13093] koaQ7Jey 2020年3月04日 22:49:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[440] 報告

上のリンク

http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/mishima-4fc3.html

2. 中川隆[-12860] koaQ7Jey 2020年3月09日 18:34:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[683] 報告

三島由紀夫対東大全共闘から50年 - 内田樹の研究室 2020-03-09
http://blog.tatsuru.com/2020/03/09_1610.html


 三島由紀夫が死んで今年の11月で50年になる。その前年、1969年の5月に三島は東大の駒場キャンパスの900番教室で単身東大全共闘との「討論」に臨んだ。逸失していたと思われていたその時の映像が最近TBSの倉庫から発見された。それを再編集して、関係者たちのコメントを付したものが劇場公開されることになった。

 69年の5月に私はお茶の水の予備校に通っていた。「三島が駒場に乗り込んだ」ということは予備校でもすぐに話題になった。一月後に新潮社から出た討論本をむさぼるように読み「君たちが一言『天皇』と言えば、私は諸君と共闘する用意がある」という三島の驚くべき発言はそこで知った。でも、18歳の私にはその三島の真意が奈辺にあるのかがわからなかった。

 それからずいぶん経って、日本未公開のポール・シュレイダーの『ミシマ』を観た。映画のクライマックスは駒場での東大全共闘との討論の場面だった。緒形拳演じる三島は黒いポロシャツを着て、ひっきりなしに煙草をふかしながら、大声で笑っていた。どうしてこんなに作為的なほど笑うのか、映画を観ているときにはよく意味が分からなかった。

 実際の映像でも三島はよく笑っていた。そしてなぜか終始上機嫌だった。学生たちのふっかける衒学的な、あるいは支離滅裂な議論をまっすぐに受け止めて、一つ一つ丁寧に答えようとしていた。言葉尻をとらえて、論理矛盾を衝いたり、無知を論ったりすることを三島は最後までしていない。三島の雄弁術をもってすればできたはずのことを三島はずっと自制していた。そのことに途中で気がついた。学生たちは三島を「論破」するつもりで招いたのかも知れないが、三島にとってこれは「論争」ではなかった。

 なぜ千人の過激派学生という「敵」を前にして三島由紀夫があれほど上機嫌だったのか。それを考えているうちに、以前に自衛隊の人から聞いた話を思い出した。
 三島は楯の会の若者を引き連れて何度か陸上自衛隊に体験入隊している。自衛隊上層部にも三島の「ファン」は多かった。そして、実際に酔余の勢いに「三島さんが立つ時は、われわれも立ちます」と口走った軽率な幹部がいたそうである。三島の国士ぶりへの敬意を表したつもりだったのだろうが、三島はそれを本気にした・・・というのがその陸自元幹部の話だった。

 たしかにそういうことがあってもおかしくはない。

 自衛隊の蜂起の可能性という補助線を引くと、駒場での三島の上機嫌ぶりの理由がわかる。

 彼は近い未来に楯の会によるクーデタを計画していた。そして、それには陸自の一部が呼応する(と三島は信じていた)。

 もちろん単発の、計画性のないクーデタだから、破綻することは眼に見えている。三島はその時は死ぬつもりでいたのだと思う。けれども、三島たちの蹶起は栄華の夢に耽っている日本国民の心胆を寒からしめるだろう。それくらいの衝撃は与えられるはずだ。

 そして、三島はそのクーデタに加わる同志を「リクルート」するために東大に乗り込んできたのである。そう考えると、この時の三島の学生たちに対する過剰なまでにフレンドリーな態度の底意がわかる。事実、三島はこの討論本の「あとがき」にこう書いている。

「私の考へる革新とは、徹底的な論理性を政治に対して厳しく要求すると共に、民族的心性(ゲミュート)の非論理性非合理性は文化の母胎であるから、(...)この非論理性非合理性の源泉を、天皇概念に集中することであった。」

 三島は、全共闘の学生たちのうちには、「徹底的な論理性」と「民族的心性の非論理性・非合理性」を併せ持った「革命戦士」が10人、せめて5人はいるのではないか、そう思ったのである。そして、そのselected few に向かって三島は語りかけた。

 だから、この時の三島の目標は「この人となら一緒に死んでもいい」という欲望を学生たちの間にかき立てることだった。千人の「敵」の前に、鷹揚として、笑顔を絶やさず、胆力とユーモアと、深い包容力を持つ政治的カリスマとして登場すること、それが三島の駒場での一世一代のミッションだった。

 そういう仮説に基づいて観るとまことに味わい深い一作である。
http://blog.tatsuru.com/2020/03/09_1610.html

3. 中川隆[-12857] koaQ7Jey 2020年3月09日 20:04:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[686] 報告

本多勝一は三島由紀夫については、彼が自爆する2年前の文章が載っていて、

「定向進化の道を歩み始めた生物はもはや手遅れのガン細胞となる」

と予言している。勝手に滅びればいいが、困るのはナチのように、「神々の黄昏」に多くの人を巻きこもうとすることである、とも書いている。
http://classic.music.coocan.jp/_book/etc/honda.htm

これほどひどい文章も少ないのではないか・・・本多勝一の「殺す側の発起人たち」5月 26th, 2017
http://miura.trycomp.net/?p=4342

時々ここでは三島由紀夫について触れたいのですが(今三島勉強中なので自分のためにもなる)最初、三島についてこういうひどい文章があった、ということを記しておきます。三島由紀夫の自決の後、いろいろな人が三島について語った。

でも、私が調べた範囲で、ここまでひどいものは珍しい。(韓国の詩人金芝河が書いた詩もかなりのひどさだったが、これは当時彼が三島の作品を読んでいたとも思えず、伝聞情報で書いたと思うので今更取り上げない。)

例えば大江健三郎は「同時代としての戦後」で三島事件を批判的に論じたけど、その文章には批判しつつも三島に魅かれてしまう彼自身の矛盾がよく出ていて、同書の中でも一番いい評論になっている。しかし、この本多勝一の文章、これはひどいを通り越して、書いた人の人格を疑わせるもの。

殺す側の発起人たち 本多勝一 1971年

名を口にするのも不快な一小説家が、江戸時代の職業用心棒としての武士階級の真似をしてハラキリ自殺をしたとき、新聞、週刊誌、月刊誌の多くはたいへんな紙数をこの事件のために費やした。(中略)あの小説家は芸能人的な要素があったようだから、一般的週刊誌がこれに飛びついて、何週間にもわたって洗いざらい書きまくることについては、私も大して違和感を覚えない。ところが、日常的にはそういうゴシップ雑誌として通用しているのではない雑誌(特に月刊誌)までが、いつまでたってもこの小説家のことに洪水のごとく紙面を提供しているのは、いささかうんざりさせられた。(中略)

そうした中で、一つだけ私の興味をつよく引いたのは、「三島由紀夫追悼集会」のための発起人名簿であった。そのまま写せば次の通りである。

発起人総代 林房雄
代表発起人 川内康範、五味康祐、佐伯彰一、滝原健之、武田繁太郎、中山正敏 藤島泰輔、舩坂弘、北條誠、黛敏郎、保田與重郎、山岡荘八
発起人 会田雄次、阿部正路、伊藤桂一、宇野精一、大石義雄、大久保典夫、大島康正、桶谷繁雄、小野村資文、川上源太郎、岸興祥、倉橋由美子、小林秀雄、小山いと子、坂本二郎、佐古純一郎、清水崑、杉森久英、曽村保信、高鳥賢司、多田真鋤、立野信之、田中美知太郎、田辺貞之助、中河与一、中村菊男、萩原井泉水、林武、平林たい子、福田信之、水上勉


こうしてみると、さもありなんというひとがもちろん多いけれど、おや、と思わせられるような意外な人も見受ける。いろんな義理もあったのだろう。(中略)しかし、その「意外な人」も含めて、やっぱり私は問いたいのだ。

日本が朝鮮や中国などを侵略したこと、これを否定することは、発起人の方々もできないであろう。そのとき、それらの国々で、何万とも知れぬ一般民衆を虐殺(中国での三光政策はその典型)したこと。これもまた否定できないであろう。そして、それらすべてが、最終的に「天皇」の名のもとに行われたこと、これもまた議論の余地はないであろう。背景は少しも「複雑」ではないし、侵略側の事情を「理解」して弁護することはない。(中略)

発起人の方々よ、右のような事実に対して、あなた方はどう思っているのだろうか。


あのハラキリ小説家が、日本列島に住む一億の人々の、どの層と関連、或いはどの層の意識の中に生きていたかは、もはや説明するまでもあるまい。逆から言うと、庶民、民衆、人民、大衆(何分様々な表現と歴史がある)とは無縁の、いい気な男の一人であって、別にこういう人も多数の中の一人として、他の人々と同じ意味で存在してもいいけれども、その存在は、あくまで「それ相応のもの」でなければならない。侵略する側、すなわち庶民、民衆、人民、大衆を殺す側によって利用され続けてきた天皇制を、またしても利用しようという男、そんなものを、あたかも大思想家や大芸術家であるかのごとく扱うことに、戦後日本の民主主義なるもののいかさま性を暴露する以上の意味はない。

彼の破滅も、このような意味、つまり「殺す側」と「殺される側」のどちらに立つ人間かをはっきりさせるための踏み絵となってくれた点においてだけは、無駄ではなかった。私にとっては意外に思われる人が、この踏み絵事件で「感動」や「衝撃」の反応を示し、それによって当人が「殺す側」に立つものであることを、庶民、民衆、人民、大衆及び虐殺された中国人、朝鮮人そのほかのアジア人たちに示してくれた。(アジア人の眼には、この発起人名簿は、「殺し屋名簿」に見えるだろう。)(後略)


一時は本多勝一に共感していたとか、影響を受けたとかいう人が結構いるんですけど、私はこの人の文章に共感したことって2,3の例外を除いては全くないんです。その理由はまず第一に、この人は文学というものが全く分からないのではないかということと、人間をその政治的立場でしか見ることができないのではないかということ。ま、それはそれとして、こういう文章、よく書けるなと思う。

ちょっと補足しておきますと、実際の発起人はもっと多かった。たぶん、雑誌発表の段階では了解の返事が取れなかったとか、後になってぜひ自分の名前も添えさせていただけないかとか、いろいろあったのではないかと思います。憂国忌関連のネットで調べればわかるのでそれはいちいち書きませんが、私がファンの女優岸田今日子さんとか、ドイツ文学者高橋健二、あと福田恒存、村松剛が名を連ねている。

私はここで政治のことは言いたくない。ある方がなくなって追悼の会を行う時、故人といい思い出があった人なら、お名前を添えてください、というのはごく自然にあるでしょう。勿論中には、私は静かに故人をしのびたいし、そのような場に名前を出すのは控えます、という人もいる。それは、一人一人の自由だ。ただ、亡くなった人をしのぶ会があった時、いかにその故人の思想や行動に反発を感じていたとしても、その会に集まる人間は殺し屋である、などと公開の場で書くものかね?

さらに言えば、この文章には、それこそ庶民大衆を愚民視する姿勢がみなぎっている。じゃあ、三島由紀夫の文学を愛し思想に共感を一部でも覚えた人間は皆「殺す側」であって庶民じゃないの?まあこの時点では知らなかったとしても、庶民・人民を虐殺しまくった毛沢東は確実に「殺す側」だと思うが、本多勝一はこの文章を書いた当時は毛沢東と文革を大変評価していた(証拠は山のように出せますからね)はず。

後余計なことを言えば「別にこういう人も多数の中の一人として、他の人々と同じ意味で存在してもいいけれども、その存在は、あくまで「それ相応のもの」でなければならない」というものいい、これってまさに「ソフト紅衛兵」ですよ。自分が気に食わない政治的立場の人間や階層の人間は「それ相応の立場でいろ」というのは、その人が力を持ったと判断したら叩きつぶすって論理と紙一重。

こういう人が当時のジャーナリズムでは花形の一人だった。そのことにこそ、私は戦後民主主義のいかさま性が明らかになっていると思う。

http://miura.trycomp.net/?p=4342

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