★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK219 > 516.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
ネトウヨ対処法 
http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/516.html
投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 1 月 22 日 23:00:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

ネトウヨ対処法
http://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/43f84043819f393d58424f29da6f1166
2017年01月22日 のんきに介護


住友陽文@akisumitomoさんが
https://twitter.com/akisumitomo/status/823005033197207553

――アパホテルの本について「経営の自由」や「言論の自由」によって擁護する人は、「アウシュヴィッツやヒロシマ・ナガサキは陰謀によって捏造されたものだ」と言うのを、同じように言論の自由として擁護するのか。〔〕—―

という問いを立てる。

この問いは、

ネトウヨに向けられたものだろう。

思うに、

答はYESだろう。

しかし、正直には答えないだろう。

あるネトウヨと思しき人物、

(このツイートでは、

おるぐり@烏取ポケモン赤チーム募集中‏@allgreen76bと名乗っている) は、

こう答える。
https://twitter.com/allgreen76b/status/823006178342862848

――法に触れず、人の営みを害するでもない程度の妄言であるなら言論の自由によって擁護すると共に言論によって打ち破れば良い。おい、頼むぞ学者。その程度の認識で教鞭をとってるのか〔12:15 - 2017年1月22日 〕—―と。

上掲、問いに対する答えということから、

次のことは前提されていると考えてよい。

(1)「アウシュヴィッツは陰謀によって捏造されたものだ」という主張は、

言論の自由として許される。

(2)ヒロシマ・ナガサキの否定も、同様の見地から許される。

(3)@)法に触れない、A)人の営みを害するでもない妄言は、言論の自由として保護される。

(4)(3)に該当する妄言は、言論によって打ち破れば良いのであるから、上掲の取り扱いでも不都合はない。

住友陽文さんは、

次のように反論される。
https://twitter.com/akisumitomo/status/823009861533200384

――法に触れるかどうかの話をしているわけでもなく、自由な言論とは何かを話しているのに、この人は何を勘違いしているのでしょうか。デマを言論の自由だということで看過する学者がいるのでしょうか。そのように言論で訴えているのに、「その程度の認識」と侮蔑する神経を疑いますね。〔12:30 - 2017年1月22日 〕—―

要するに、

「妄言」と断言できる限りで

言論の自由の問題から外れるということですな。

つけ加えて、
https://twitter.com/akisumitomo/status/823012597007949824

――デタラメや虚偽を言う自由があると叫ぶのに、それはデタラメで虚偽だと指摘し抗議する自由については「言論弾圧」と言って、抗議を認めない側を擁護する人がいるのは不思議だ。つまり最初から陣営が決まっているからなのだ。〔12:41 - 2017年1月22日 〕—―

皆さんは、

どう考えられます。

冗談の類も「妄言」の一種と考えられるので、

住友さんの

規準に従うと

とても人間関係が殺伐として堅苦しくなるでしょう。

ですから、

ここは、(3)に掲げる二つの条件@)、または、A)を満たさない

ということを上げて

言論の自由で保護すべき言論の域を超えた

という指摘をして

批判すればいいでしょう。

ただ、

(4)の言い分は理不尽です。

なぜなら、「打ち破れば良い」という判定が

ネトウヨに関して言うと

通じない相手だからだ。

そもそも、

このような論争が成り立つ相手なら

(1)や(2)の主張をしないことが明らかだからだ。

で、結局、

話せば通じる相手と思って

意見を求める限り、

なぜ、「言論弾圧」と言って、抗議を認めない側を擁護するのだろう、

「不思議だ」「不思議だ」と

ため息ついてにゃしようがないってわけだな。

昔から、

泣く子と地頭には勝てぬ

という諺があるだろ。

ネトウヨって、

よく考えて、泣く子と言うか、

地頭と認めて

対処法を考えるべきと思う。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
1. 2017年1月22日 23:08:52 : rumJAOLkjo : @lEv2_tD4UI[7]
そんな本を各客室に常備する非常識。撤去するつもりもないらしい。

問題はそれだけ。

もう世間に広まったのだから、このホテルを利用するかしないかは各自に任せておけばよい。

デタラメ専門家のネトウヨとは、議論するだけムダ。


2. 2017年1月22日 23:33:23 : lh1GGwoOtM : YsxGZGc1SWo[135]
アパの社長がどんな人物かは以前から知る人には知られていたこと。
これからは「ネトウヨ御用達」でやっていけばよい。
中国人がボイコットした分も彼らが埋め合わせてくれるだろう。
それを見込んでの自著の客室設置不撤回宣言だと俺は見たね。w

3. 2017年1月22日 23:47:01 : kt9wlBlmd2 : B_4XmgusNUk[1]
妄言であるかどうかを他者が証明する義務があるのか?
事実に基づいたものなら、根拠を示してもらうのが一番だし、実に簡単なことだ

妄言自体が嘘の一種なのだから、それを事実として語ることは倫理的に許されない、明らかな犯罪だ

それで喚くしかできないレベルの話なら、妄言は言論ではなく、いわゆる文学としてダッシュ付きでいてもらおう
文学に表現の自由はあるが、他人にとやかく押し付けるようなものではない
妄言は妄言として、ひそかに同好の士で楽しんでいただきたい、もちろん自己責任で


4. 2017年1月23日 00:10:40 : FXJlDvPjdA : 8jGdlzPoKc8[9]
そんなこと、中国人が気にするものか。


5. 2017年1月23日 00:32:06 : JW4kQkOW9o : dSI7DqbtatE[287]

中国のタカりネタの根拠とされる捏造の歴史がバレてしまうと困る奴らが今日も必死に発狂ですか 笑

中国側を擁護しても一般の日本人に得することなんてありませんからね


6. 2017年1月23日 01:11:16 : 0CejVRban6 : urcdmA9xc1s[1498]
コレはどうですか?

石平氏がデマ拡散放置「トランプ大統領への抗議行動参加者には毎月2500ドル(28万4千円)が支給」
https://matome.naver.jp/odai/2148508945111792301

まぁ、リテラシー初級編ですかね。


7. 2017年1月23日 01:20:17 : Kg4vo2zHoM : lcCqUMkz_P8[8]
>中国側を擁護しても一般の日本人に得することなんてありませんからね

擁護というか、こんなアパのような行為を放置させておくのは
日本人として恥ずかしいやろ、世界の人からネトウヨと同じように見られるのは
非常に迷惑やし日本国としても大きなダメージや。
どう考えても日本を貶めるような行為にしか見えんけどな
爆と笑のおっさんはほんまに日本人なんか?


8. 2017年1月23日 02:31:38 : rumJAOLkjo : @lEv2_tD4UI[11]
>>7

「ネトウヨ」「韓国」「中国」といった単語を嗅ぎつけてやってくる、

木卯正一という犬っころですよ。

コメント最後らへんで必ず小便をひっかけていきます。


9. 2017年1月23日 03:15:25 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[1162]
「ネトウヨ」 と言うのは 事象の都合の良い部分だけを見て 都合の悪い部分は見ないようにする
という人間達であって まるっきりすべてが嘘を言っている訳ではない しかし 結果として嘘言になる
都合の悪い部分は無視し 上っ面の都合の良い部分だけを前面に押し出そうとするからである

※ 要するに 『ご都合主義』 これ以外にない 恥知らずにも程がある ※

つまり 南京事件に関する証言や資料に 大袈裟や誤りは 必ず混じっている事は否めないのだが
だからと言って 虐殺そのものまで ついでに否定してしまおうという姑息な根性が恥知らずな訳である

「南京事件30万は大袈裟だろう」 → 「そんなに多くは無いはず」 → 「すべて捏造である」 と言う始末
恥知らずな三段論法 としか言い様はない まあ 世間の嘲笑を浴びるのはどちらなのかは自明の理

↓ このように 具体的な一次資料をもって 確かな論拠でネトウヨを論破する人が 必ず現れる

http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/378.html?c73#c14


自然に衰退していきますよネトウヨなんて こういう議論が 湧けば湧くほど。


10. 罵愚[4667] lGyL8A 2017年1月23日 04:42:42 : Gf4cFsAzNU : Pr5nnNC9xcI[215]
Res 9.
>「ネトウヨ」 と言うのは 事象の都合の良い部分だけを見て 都合の悪い部分は見ないようにする

 これは「ネトウヨ」かぎらないと思う。というか、この国の左翼のほうがひどいし、それはこのボードを見ていれば、説明の必要はないだろう。そして、その原因は70年前のWGIPとその後遺症を病んだこの国の言論・報道・教育・法曹・政治分野だな。


11. 2017年1月23日 07:00:17 : wJhki859oo : o5LUi_CpvE8[58]
『<アパ>は、三流ビジネス&連れ込みホテルである。』

対応策は…
@ 出来るだけ避けること。
A その不快な本を見つけたら、“窓から外に”或いは“ゴミ箱に”或いは“廊下に”ポイ捨てすること。
B フロントに抗議し、宿泊料の返却を求めること。

以上である。
これらは、<宿泊客>の当然緒権利であり、法律上何等の問題も無い。
<アパ>が客室に、不快な本を置くことこそが「法令違反」なのである。


12. 2017年1月23日 07:37:52 : 35EuUW7jDw : yWf3pgdtr88[44]
9>>
「つまり 南京事件に関する証言や資料に 大袈裟や誤りは 必ず混じっている事は否めな
 い」

 大げさな誤りがあるなら、修正すべきだし、信用できないとなる。

 南京大虐殺の諸説は

 @そもそも大虐殺はなかった

 A数千人が殺害された

 B2から3万人

 C30万人


 戦争であるから、中国兵士がいたのだから、戦闘になれば死者はでると考える

 のはとうぜんだが、数字の差が大きすぎる ゼロから30万人

 証拠がないのである、信憑性のある大虐殺の証拠が

 中国が30万だ100万人だと捏造してもらっては困るわ。


13. 2017年1月23日 08:52:19 : X621H6Nt3Y : UgiUO7XoBIE[1]
だいたい社長が趣味レベルで書いてる本を宿泊客に読ませようとするホテルって何だよ?

14. 2017年1月23日 09:33:43 : g70u8y2e9o : X03d5tJ@vw8[2]
12さん

東京裁判では20万人となっております。ネトウヨがつきしたがっているアメリカの見解がこれです。
日本はそれを受け入れたはずです。

もちろん正確な数字は誰にもわかりませんが、どんなことが行われたのかはわかるはずです。


15. 2017年1月23日 10:35:57 : 0CejVRban6 : urcdmA9xc1s[1503]
参考までに…

早尾貴紀氏
「歴史否定論者に言葉は通用しない。どう言われても「自分は信じない。自分を説得できない以上、虐殺は捏造である」と。

 だからそれ以外の人たちに。
 笠原十九司『南京事件』(岩波新書)と『南京事件論争史』(平凡社新書)は基本。
 小野賢二他編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店)は重要。」
https://twitter.com/p_sabbar/status/822313943297208321


16. 2017年1月23日 12:50:00 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[1163]
>>12
人数の事“だけ”を、論うのならば 一概に否定するものではない 事のついでに“すべて無かった事”に
してしまおうという姑息な魂胆だから ネトウヨと蔑まれるのだ

そしてその 「人数」 についてでも 30万人が捏造だという証拠はない もちろん正しいという証拠もない
(私自身も30万人は大袈裟だと思っているが、かと言って まったく無かったなど有り得ない事
たとえ3万人でも三千人でも 立派な虐殺であり 非人道的行為に何ら変わりは無いという立場だ)

だが その 証拠となるべき軍関係の資料を 焼却処分して証拠隠滅を図ったのは日本側であるから
[【証拠隠滅した側が 不利になる】のは 世界中どこの国の司法でも常識である 中国の主張が認められても
証拠隠滅を図った日本側の主張は 認められなかったとしても文句は言えないのである
よって ネトウヨ諸君の主張は、恥知らずな 『ただの泣き言』 にすぎない


ちなみに 南京の人口は 実は100万以上だった事が (土に埋められていた)日本軍の調査資料が発見されて
ウヨ連中の主張が 嘘だった事も判明している。


17. 2017年1月23日 16:22:01 : MkNLunkQjk : d@TmDvzR@fk[6]

南京入場の際、日本軍は更衣兵を殺害した

これは事実だ

蒋介石軍は南京に更衣兵を残して撤退した

これも事実だ

更衣兵を殺害するのは当時も今も合法である

これも事実だ

更衣兵と民間人の区別ができなかった場合、軍事裁判によって判定するしかない

これも事実だ

南京軍事裁判は、更衣兵を使った蒋介石軍に対する判断が不在であるので、判決として瑕疵がある

これは間違いない

中華人民共和国政府が南京事件として記念館に掲げた証拠写真は、通州事件のもので、加害者が中国軍で被害者が日本人平民である

これは間違いない

通州事件の殺害された日本人は更衣兵ではない

これも間違いない


18. 2017年1月23日 17:40:35 : cpmo3Gw3EU : M5oen5zIlRI[31]
部分否定は全体否定ではない。なかったと主張する人は数学がわかっていないのだろう。数学のテストは零点だったと推測できる。

ただこの手の人に論理も事実の提示も通用しない。検証することも確認することもしない。信じる信じないの立場しかない。もう宗教を信じる人の態度だ。

名付けて「南京大虐殺信じない教」


19. 2017年1月23日 18:06:54 : esmsVHFkrM : Z3UQbl@PdwA[635]

>>17さん、

「更衣兵」とは「便衣兵」のことと理解します(右翼の皆さんの間では「更衣兵」と漢字を間違えて理解されているのでしょうか?)、仮に「便衣兵」の殺害を除いたとしても(これが正当でないことは後述しますが)、南京虐殺は否定できませんよ。

旧陸軍士官の親睦団体である偕行社の親睦雑誌「偕行」紙上に、1984年4月から1985年2月まで連載された畝本正巳編「証言による南京戦史」は、偕行社会員の証言資料提供による南京虐殺の否定を目的として始められながら、皮肉にも結局その存在を確認することとなったことで有名です。

その結果、偕行の南京戦史編集委員会からは、『南京戦史』(階行社1989年)、『南京戦史資料集』(偕行社1989年)、『南京戦史資料集II』が出ていて、『南京戦史資料集』と『南京戦史資料集II』には『南京戦史」を執筆するために収集した資料およびその後収集された資料(防衛庁(当時)防衛研究所に所蔵されていたものを中心に)が収録されています。すなわち、松井石根中支方面軍司令官以下、参謀、師団長さらに下士官、兵にいたるまでの陣中日誌や、軍中央、中支方面軍、上海派遣軍、第10軍の作戦命令や、軍、師団、各部隊の通牒、訓示、作戦経過概要、戦時旬報、戦闘詳報、陣中日記など、戦争終結直後の政府と軍による組織的文書焼却隠滅を免れた多くの記録文書です。

南京戦に関連して、日本軍の公式記録と司令官・参謀・師団長クラスの日記がこれほどまとまって資料集に収録されたのは画期的で、これによって、南京事件を上海から南京への進撃と攻略そして占領といった具体的な歴史展開に即して分析することが可能となりました。各部隊の戦闘詳報、陣中日誌、指揮官の陣中日記には、各部隊が処断・処分(即ち殺害)した捕虜や投降兵、敗残兵の数が記録されていて、殺害者数を推定する基本資料となっています。ただし、これらは、南京戦参加全部隊の約三分の一の分に過ぎず、残りの三分の二は戦争終結時に焼却隠滅されて依然行方不明です。

それら発見された各部隊の戦闘詳報や指揮官の陣中日記を基に推計すれば、当時日本政府が批准していた戦時国際法に違反するそのような「便衣兵殺害」を除ても、右派秦郁彦が推計するように、3万8千から4万2千人となります(『南京事件 − 虐殺の構造』(中公新書 1986年))。

おっしゃるように「便衣兵はみんな殺してもいいんだ」としても、それでもやはり立派な大虐殺ですね。

さて、その「便衣兵」識別の実態はどうかと言えば、「日本軍には、便衣兵と民間人を区別する専門の担当者がいた。「便衣兵と民間人は簡単に見分けがつき、便衣兵と間違えて民間人を処断したことはなかった。」中国軍兵士の多くは坊主頭で、ヘルメット焼けや、銃ダコの有無、その他の身体的特徴が重なった場合は、「兵士」と判断した」(あなたのお仲間の右翼「大和狼」さんの引用(http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/369.html#c25))、「「目につく殆どの若者は狩り出される」、「市民と認められる者はすぐ帰」すが、他は銃殺、「哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないこと」(水谷上等兵の証言、秦郁彦 『南京事件―「虐殺」の構造』( 中公新書、2007年))なんですから、多くの民間人が「便衣兵」だ誤認されて殺されたことがわかります。

さらに、「便衣兵は殺してもいいんだ」の根拠は、「便衣兵はゲリラ兵だから」ですが、軍服も着ておらず武器も持たず敵対行動もないのですから、まずとても「ゲリラ兵」とは言えず、「便衣兵と民間人は簡単に見分けがつき」、「中国軍兵士の多くは坊主頭で、ヘルメット焼けや、銃ダコの有無、その他の身体的特徴が重なった場合は、「兵士」と判断した」」んですから、そんなに簡単に民間人と区別できる人間はとても「スパイ」とも言えず、単に戦闘意欲を失って軍服を脱いで武器を捨てて逃亡する「敗残兵」に過ぎません。虐殺が起こった時点ではすでに中国側の戦闘行為は一切なくなっていたわけですから「戦闘の延長」とも言えず、したがって「敗残兵」やまして「便衣兵」と誤認された民間人の殺害は、明白に当時日本政府が批准していた戦時国際法上違法です。

したがって、戦時国際法に従い「便衣兵」とされ殺された「投降兵」や「敗残兵」や民間人を算入すれば、笠原十九司が推計するように「南京事件において十数万以上、それも二○万人近いかあるいはそれ以上」となります。泰の推計ですら大虐殺ですから、正しく計算された犠牲者数では当然大虐殺(それ以上に大規模な大虐殺)になります。

「便衣兵は殺してもいいんだ」でも立派な虐殺ですし、「便衣兵」と称して「投降兵」や「敗残兵」や「民間人」を多数殺害したのですから、虐殺以外のなにものでもありません。

もういい加減に「屁理屈」で南京虐殺を否定するのは止めて下さい。

あなた方がほとぼりが冷めたからと言って今頃のなっておめおめと「南京虐殺はなかった」と言い張れば言い張るほど、日本と日本人の名誉は失われ、世界中に友人を失っていきます。

もうこれ以上、このような「反日」は止めて下さい。


20. 2017年1月23日 21:21:22 : 9gbrICxBpw : M1e@Z7au8iI[1]
アパホテル、素晴らしい。
よく調べている。
自信があるのだろう。
どこからでもかかってこい、と。
日本政府や外務省も是非見習うべき姿勢だ。
中国外務省が事実に基づいた反論が出来ずに不当な圧力をアパホテルにかけたこと自体、中国外務省自らが「南京大虐殺は捏造」と認めたに等しい。

客室設置の書籍について
https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325
弊社ホテル客室に設置している『本当の日本の歴史 理論近現代史』等について、南京大虐殺を否定するものだとして批判的に取り上げる動画がインターネット上にアップされたことをきっかけに、昨日からご意見やお問い合わせをいただいていますので、ここで弊社の見解を述べさせていただきます。
ご指摘のあった書籍は、本当の日本の歴史を広く知っていただくことを目的として、弊社グループ代表の元谷外志雄が「藤誠志」のペンネームで月刊誌『Apple Town』に連載している社会時評エッセイを1年分まとめたものに、まえがきとして解説を付して制作したもので、日本語の他に、英語訳も付いています。
本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです。したがって、異なる立場の方から批判されたことを以って、本書籍を客室から撤去することは考えておりません。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならないと考えます。なお、末尾に本書籍P6に記載しています、南京大虐殺に関する見解を掲載いたしますので、事実に基づいて本書籍の記載内容の誤りをご指摘いただけるのであれば、参考にさせていただきたいと考えています。 

『本当の日本の歴史 理論近現代史学』P6
二、南京三十万人大虐殺
中国は日本軍が南京で三十万人を虐殺したと主張しているが、そもそも当時の南京市の人口は二十万人であり、三十万人を虐殺し、その一ヶ月後には人口が二十五万人に増えていたなどあり得ないことだ。しかも国民党中央宣伝部に雇われていた二人を除いて、欧米人など第三国の人が虐殺を目撃した日記も手紙も写真も、記録したものが一つもないことなど、更には、上海大学の朱学勤教授が「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの一人分も存在していない」と論文で発表したにもかかわらず、辞職もさせられていないことなどから、いわゆる南京虐殺事件が中国側のでっちあげであり、存在しなかったことは明らかである。
そもそも日本軍が南京に侵攻したのは、一九三六年、張学良が蒋介石を西安で拉致監禁した西安事件をきっかけに、コミンテルンの指導で第二次国共合作が成立したことで、国民党政府軍は中国共産党への攻撃をやめ、国民党政府軍に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいったことが背景にある。
一九三七年七月七日、中国盧溝橋付近で北京議定書に基づき合法的に駐留していた日本軍の軍事演習中に、日本軍とその近くにいた国民党政府軍の双方に対して実弾が発射されたことをきっかけに、戦闘状態になった(盧溝橋事件)。この双方への発砲は、後に中国共産党国家主席となった劉少奇(りゅうしょうき)が指示したものであることを、彼自身が告白している。事件不拡大を望んだ日本軍は、その四日後には停戦協定を結んでいる。
しかし、日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、同年七月二十九日、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、同年八月九日に起こった「大山大尉惨殺事件」、更には、同年八月十三日、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中(ちょうじちゅう)の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。
上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。便衣兵(ゲリラ)の殺害は国際法上認められているものであり、一般住民を虐殺したのはこの敗残兵達(督戦隊が撃ち殺したのは、逃亡中国兵であった。)であった。しかし、こうした事実が歪められて、情報謀略戦として、「南京三十万人虐殺説」が流布されたのである。そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。

理論 近現代史学
数々の事実を付き合わせ、あり得ることかあり得ないことか考えて、矛盾なく、理論的に説明ができる近現代史が、理論近現代史である
「南京大虐殺」が「虚構である」証拠の数々
1.まず、「『南京大虐殺なること』に関する『犠牲者名簿なるもの』は唯の一人分も無い。」(上海大学歴史学部・朱学勤教授による。平成十九年十二月二十日付産経新聞)。この一点だけ捉えても「南京大虐殺なること」が如何に荒唐無稽な作り話であるかは既に立証された様なものである。(仮に、「南京大虐殺」なることが真実であるならば、「三十万人」という数字の何割かの「犠牲者名簿」が存在しないはずがない。)
2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「三十万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和十二年十二月十三日当時、南京市内には、約二十万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約一カ月後、昭和十三年一月十四日の時点では、人口が五万人以上増えて、約二十五万人〜三十万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著『南京事件の総括』二十九頁)。
3.日本軍が南京を占領する約一カ月前、昭和十二年十一月より翌年の九月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ三〇〇回にも及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などという事を一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。
4.「南京大虐殺記念館」等に展示されている写真は、全て合成写真または、「通州事件」等、中国人が日本人を虐殺した写真を始めとする、全く別の写真であることが、東中野修道教授(亜細亜大学)によって証明されている。もしも、南京大虐殺なる事が真実であるならば、その証拠写真が一枚も無いはずがない(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社)。 (所謂)「南京大虐殺なること」が有ったと問答無用で決めつけたのは、「極東国際軍事裁判」、(所謂)「東京裁判」の中である。それでは同裁判の内容は一体如何なるものであったのか?  東京裁判を傍聴した冨士信夫氏は、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社)の中で、「南京大虐殺」なることが全くの虚構であることを裁判記録として記している。
5.朝日新聞は昭和十二年十二月二十日の朝刊半頁を費やして、『甦る平和都市南京』と題する(平和この上ない、当時の南京の)写真特集を掲載している。この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう(『南京大虐殺の総括』三十二頁)。
6.「南京に大虐殺が有ったと言う様な記録は、中国側の第一級公式資料である何應欽上将の軍事報告の中にさえ、その片鱗も見出せない。」(『南京事件の総括』八十二頁)。
7.「当時、朝日、東日、読売、日経、など全国紙の各支局を始め、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣していた。これらのプレスマンが異口同音に言うことは、『東京裁判で、南京でのあの様な事件が有ったと聞いて驚いた。』」(同百十一頁)。
8.「中国国民党が、作り話を含めて、日本軍の不法行為を糾弾する為に、一九三八年七月七日、国民党の中央宣伝部が「印刷」した蒋介石の『国民に告ぐる書』のどこを探しても、そこには『南京大虐殺』の文字は見当たらない」(同二百九十六頁)。
その他、多々ある。


南京大虐殺肯定派は説得力のある証拠を出せ、もっともそんなものがあればの話だが。
今まで1度も南京大虐殺があったという説得力のある証拠を見たことがない。
訴訟上,裁判所は,ある事実の存否について証拠から判断できない場合,その事実は存在しないと仮定する。
だから南京大虐殺の有無を証明する責任は「あった」と主張する側にある。
これを挙証責任、証明責任という。
なぜなら「なかった」ことを証明するのは「悪魔の証明」だからだ。
悪魔の証明とは、「ある事実・現象が『全くない(なかった)』」というような、それを証明することが非常に困難な命題を証明すること。例えば「アイルランドに蛇はいる」ということを証明するとしたら、アイルランドで蛇を一匹捕まえて来ればよいが、「アイルランドに蛇はいない」ということの証明はアイルランド全土を探査しなくてはならないので非常に困難、事実上不可能であるというような場合、これを悪魔の証明という。

難民区は安泰、感謝状を受け取る
http://www.history.gr.jp/nanking/reason05.html
中国にドイツの武器を売っていたジーメンスの社員でもあったドイツ人ジョン・H・D・ラーベ
(1)婦女子の殺害なし
南京在住の婦人・子供を含む非戦闘員は、すべて国際委員会の管理する安全区(難民区)内に居住していた。
日本軍は南京占領の12月13日、この地区の掃討を歩兵第7連隊(金沢・伊佐一男大佐)に担当せしめた。
第7連隊長伊佐大佐は、翌14日、この難民区の出入り口10数ヶ所に歩哨を立て、無用の者の出入りを厳禁した。
歩兵第36連隊長の脇坂次郎大佐が難民区内に立ち入ろうとしたが歩哨にとがめられて入ることが出来なかった――ということを脇坂大佐は東京裁判で証言している(極東国際軍事(東京)裁判速記録・・・第309号22・11・6)。
大佐でさえも入ることを拒否されたところをみると極めて厳重であったとみてよかろう。
松井軍司令官の厳命により、ここには一発の砲弾も撃ち込まれておらず、空爆もなかった。放火もなく、従って1件の火災事故も起きていない。文字通りの安全区であった。
一部の不心得者による、強姦・暴行・窃盗事件等が、国際委員会の公文書の中に記録されているが、婦人・子供の殺害事件等は全然起きていない。
そういう記録もない。又、紅卍字会の埋葬死体一覧表の中にも、婦人・子供は皆無にちかい。ただ便衣兵の摘出に際して、良民が誤認されてまきぞいをくい、あるいは徴用、拉致等の厄に遭った若干の犠牲はあったものと思われる、が、概してこの地区は平穏であり、安泰であったことは、諸記録からみて疑う余地はない。
難民区が安泰ということは、当時の南京の全市民が安泰であったということである。
なぜなら全市民は例外を除き全員ここに蝟集(いしゅう)していたからである。
国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏は、国際委員会を代表して次のような書簡を日本軍に送っている(「法廷証」323号=検察番号1744号抜粋で弁護人が朗読したもの、極東国際軍事(東京)裁判速記録210号)。
「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」
以下は金陵大学病院医師マッカラム氏の日記及び手記からの抜粋(法廷証第309号=検察番号246号)である。これを松井大将の弁護人伊藤清氏が東京裁判の弁護側立証段階で抜粋朗読しているので紹介したい(極東国際軍事(東京)裁判速記録・・・第210号)。
1、(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本人がありました。
私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。
2、12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。
3、(1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。
最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。
今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、これらの贈り物は大いに歓迎されました。彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。
このようにラーベ氏は国際委員会を代表して感謝の手紙をしたためており、マッカラム氏は日本兵の善行を日記の中にしたためている。日本を憎悪していたマギー牧師でさえ「安全区は難民たちの“天国”だったかも知れない」(秦郁彦著『南京事件』84ページ)といい、スミス博士も調査報告書の中で「難民区内には火災もなく平穏であった」「住民のほとんどはここに集まっていた」と述べている。
当時同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外ニュース社発行の「世界と日本」(59・4・5、413号)の中でこう述べている。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。
すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。
すなわち「捕虜の処刑・虐殺」はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう。」
この前田氏の証言は、100パーセント信用してよかろう。当時反日的な報道をしていた「ライフ」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と評しているほどである。
しかるに教科書には、「婦女子・子供も含む一般人だけで7〜9万人を殺害し」(東京書籍)とか、「子供や婦人を含むおびただしい数の住民を殺害し」(教育出版)というように、どの教科書にも女性や子供も殺害したと書いてある。
いったいその根拠は何なのか?
日本に悪感情を持っていた第三国人でさえ、難民区内の平穏な生活や日本兵の親切な行為に感謝しているというのに、日本の教科書がどうしてこのような事実を曲げてまでねつ造記述をのせ、自虐的教育を小国民に植え付けなければならないのか、私にはわからない。

(2)難民区からの感謝状
ことのついでにもう一つ難民区について紹介したい。
大量戦死者を出した激戦地下関(シャーカン)から北へ1.8キロの所に宝塔橋街(ほうとうきょうがい)という町がある。
この街の保国寺には、6、7千人の難民が蝟集(いしゅう)していた。
13日には旗艦安宅(あたか・司令官近藤英次郎少将)を先頭に第11戦隊は、劉子江陣地からの猛射を反撃しつつ、閉塞線を突破して、下関に向かった。
保津、勢多を前衛とし、江風、涼風、比良、安宅等主力がこれに続いた。
江上、江岸は敗走する敵の舟艇や筏(いかだ)で充満していた。
各艦はこれに猛攻撃を加えた。14日、砲艦比良は下関下流1浬(カイリ)の中興碼頭(まとう)に停泊し、宝塔橋街の状況調査に任じた。
ここは軍需倉庫の所在地で、引き込み線があり、兵器、食糧、被服等軍需消耗品が蓄積され、付近一帯は地下壕もあり、敗残兵が出没し、治安も乱れ危険きわまりない状態であった。
比良の艦長土井申二中佐(千葉県松戸市在住)は自ら願い出て該地区の整備確保に任じた。
この町の中ごろに紅卍字会の前記の保国寺難民区があり、数千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。土井中佐はまず、下関との境の宝塔橋を改修し、あるだけの食糧や被服を給与して民心の安定をはかった。
町の名称も平和街と改名し、敗残兵の跳梁(ちょうりょう)から市民を守った。
町はみるみる復興したが、食糧難が最大の頭痛の種であった。
年末のこと、たまたま烏龍山砲台の閉塞線で第一号掃海艇が触雷沈没し、これが救援に赴くべしとの命令に接し、比良はただちに現場に急行した。
救援作業を終え、多数の死傷者を収容して上海へ急行した。
土井中佐は、上海停泊中に出雲を訪れ、艦隊司令部に出頭して、平和街難民の窮状を訴えた。
土井中佐の熱意と誠実に動かされた司令部は、中佐の申し出通り食糧の救恤を認めた。
比良はこれらの品を積んで中興碼頭に帰ってきた。
13年正月元旦のことである。紅卍字会支部長陳漢林総代表を通して難民区に贈られた品々は次の通りである。
貯蔵牛豚肉 10箱   白砂糖大袋 10袋   乾魚類 10箱
大豆油 10箱 食塩 10包 乾餅 20箱
世界紅卍字会平和街会長 陳漢森(右写真)による領収書(左写真、下は日本語訳)
日本海軍第11戦隊砲艦「比良」艦長、土井申二に送られた領収書 紅卍字会主任、陳漢森(南京下関平和街にて)
領収書
貯蔵肉 十箱、 砂糖 十箱、 魚 十箱、
大豆油 十箱、 食塩 十箱、 ビスケット 二十箱、
艦長様から右の如く多くの難民救済の食料品を頂戴致しまして、ご恩に誠に感謝致します
平和街世界赤十字会難民収容所
主任 陳 漢森
(写真説明)大量の戦死者を出した下関(シャーカン)と下関に隣接する宝塔橋街の地図(「証言・南京大虐殺」より)
難民達は爆竹をあげ、各戸に日の丸の旗をかかげて比良を歓迎した。
難民だけではなく市民全員が歓呼して迎えた。
街の入り口には「南京下関平和街」の横断幕をはり、歓喜は街にみなぎった。
明くれば正月2日、代表らは正装して保国寺に整列し、土井中佐始め比良の乗組員全員を迎えた。
陳代表から昨日の救恤品の受領証と感謝状とが贈られた(地図参照)。
私が言いたいのは、光華門外で一番乗りを果たした脇坂部隊(歩兵第36連隊)が、13日夜、味方の戦死体はこれを荼毘(だび)にふし、敵の戦死体には卒塔婆をたて、花香をたむけて、これをねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔ったという。(土井申二「花と詩」)
こうした脇坂次郎大佐といい、海軍の土井申二中佐といい、何も特殊な例外ではなくて、日本武士道の伝統をふまえた血も涙もある当時の武人の心境であったということだ。
吉川猛参謀は松井大将に、中国軍の死者の取り扱いがおろそかだ!といって、きついお叱りを受けたと語っている。
このような将兵や司令官がどうして、罪とがもない婦女や子供をむげに殺害するようなことがあろうか?
また、地図にもあるすぐ近くの煤炭港、和記公司でも数千、数万の大虐殺があったと中国側は宣伝しているが、土井艦長はそんな事実も、噂さえも聞いていないとはっきり否定している。
中国側の宣伝がいかに大デタラメかこの一事でもわかろう。

中韓を知りすぎた男
南京大虐殺の真実 8月19日(水)
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-1061.html
「そこまで言って委員会」17日分の放送を見ました。
そこでは「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「731部隊」の検証をしていました。
全て納得できる内容でしたが、放送の関係で少し説明不足の感は否めま
せん。そこで今日は南京大虐殺の虚構を暴きたいと思います。
1939年12月に日本軍は支那事変を終結させるために蒋介石の拠点である南京に侵攻しました。その前に南京侵攻を理解していただくために1937年7月7日の支那事変の発端となった盧溝橋事件から筆を進めてみます。
どの歴史書を見ても日中全面戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件が発端だと書かれています。それも戦後左翼学者によって、日本軍が中国侵略を正当化するために日本の部隊に自ら発砲をして戦争のきっかけを作ったと書かれています。
ところが後年 中国共産党が日本軍と国民党軍(蒋介石)を戦わせるために両方に発砲したのだという真相を中国側から示されました。日本軍の規律から見て盧溝橋で日本側から国民党側に発砲した可能性は皆無です。
戦勝国が戦敗国を裁いた理不尽な東京裁判でさえも盧溝橋事件から支那事変に至る戦争は日本が始めたものではないとして、事変の開戦責任は日本にあるとはしていません。
このことをもってしても左翼学者たちが日本をいかにも残虐な侵略者として扱ってきたことがよくわかります。彼らが戦後、日本側が意図的に侵略を開始したと言い続けたことによって、日本国民は中国に対して負い目を感じて謝罪クセがついてしまいました。
日本の近現代史が進歩的文化人と称される左翼学者の偏向史観によって引き裂かれ、そして彼らは戦後の日本に害毒を流し続けてきました。
この事件は現地の日本軍も国民党軍にも腑に落ちない事件であって、共産党軍が仕掛けたワナだということが分かり、数日後には現地停戦が成立しています。
これで収まってしまえば共産党軍が意図している国民党軍と日本軍の戦争拡大には繋がっていきません。そこで7月26日に広安門事件を起こします。
それは日本軍が北京城内に帰ろうとして、広安門を通過中、中国側が通過半ばで門を閉じて、城外に残された部隊に一斉に銃撃を加えました。このような卑怯なことをすればどこの国でも戦争になります。そして日中全面戦争突入の決定的な事件は1937年7月29日の通州事件です。
通州事件の惨劇「Sさんの体験談」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2717.html
通州は長城以南では最も安定した地域として多数の日本人が安心して暮らしていました。ところが、日本軍隊が盧溝橋事件で町を離れた留守に、本来日本の居留民を守るのが目的の中国保安隊3千人がいきなり日本の居留民に襲いかかり中国側の手によって260名全員が惨殺されました。これにより通州特務機関は全滅しました。
その惨状は目をおおわしめるほどの残虐ぶりでした。強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など、尋常ならざる殺害の状況は今も昔も中国人は獣そのものです。
通州事件のようなことになれば、全中国で多年事業を営んできた在留日本人が皆殺しにされます。日本は遂に、見通しのない戦争に入っていきました。
不可解なことに、戦後この残虐な通州事件に対する報道は左翼学者によって隠されて、歴史の闇に消えようとしています。

この通州事件が1937年の7月です。その年の12月に日本軍は支那事変を終結させるために蒋介石の拠点である南京へ侵攻しました。しかし蒋介石は、日本軍が攻めてきたことを知ると、一早く部下に任せて南京を逃げ出しています。
南京侵攻を戦後南京大虐殺という虚偽で戦後長く日本人を苦しめてきました。最近はいろんな資料や本が出て大虐殺はなかった、非道行為を行ったのはむしろ中国兵たちだという真実が明らかになってきました。
中国側がでっち上げた被害者30万人というような数字は、まさに荒唐無稽で、中国側の宣伝上の数字であることはいろんな資料から常識で分かります。
日本軍人は日清戦争、日露戦争、義和団の事件で世界中が認めたように軍記厳正で、敵に対して寛仁であり、模範とすべき武士道的軍隊です。
南京戦で日本軍は非常に人道的で、攻撃前に南京市内にいた民間人全員を,戦火が及ばないように、南京市内に設けられた「安全区」に集めた為に日本軍の攻撃で、安全区の民間人は誰一人死にませんでした。
その証拠に安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは「日本軍が安全区を設けて民間人を傷つけなかったことを深く感謝いたします」(速記録210号) という感謝状を松井大将に手渡しています。
その速記録210号の中でマギー牧師は「安全区は難民の天国」、安全区国際委員会の書記長のスマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた、難民区内は1件の火災も無く平穏であった」と述べています。
ところが後年発見されたラーベの日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いていたという地獄絵が描かれています。しかしラーベの日記には、自分が書いた日本軍に対する「感謝の書簡」について一行も触れていません。
どちらが真実か一目瞭然です。
創作されたラーベの日記には、「局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる」とあるが、強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという残虐性は、中国にあっても日本には絶対ない。
この尋常ならざる殺害の状況の描写は通州事件での中国兵の残虐ぶりとそっくりに記述されています。
通州事件の惨劇「Sさんの体験談」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2717.html
またラーベの日記には「日本兵はモーゼル拳銃を持っていた」とありますが、当時日本軍にはモーゼル拳銃など一丁もありません。モーゼル拳銃は中国兵が持っていました。
戦後東京裁判でこのラーベの日記が証拠となり、有りもしない「南京大虐殺」がひとり歩きします。国際委員会が告発した日本軍の非行は全て伝聞,噂話、憶測でこれらを全て集めても、殺人49件、傷害44件、強姦361件などです。
この数は南京占領の12月13日から翌年2月9日までの南京における日本軍の非行を記録した国際委員会の総トータルです。
それにしても殺人は、わずか49件です。誰も見たものはおらず全て伝聞によって集めた記録においてすら、この低度です。
また南京占領後、日本軍の指揮のもとで南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行いました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。つまり民間人の犠牲者がほとんどいなかったことをこの資料は証拠づけています。
ところが南京占領が確定すると多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨て、中国市民を殺して服を奪い 、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込み、安全区内で強姦や略奪、殺人などを行いました。
そして民間人の服装で日本軍人を背後から攻撃(便衣隊)しました。その数数千人も居り、日本軍から多くの犠牲が出ました。そのために日本軍は彼らを見つけ出すために掃討作戦を行わなければなりませんでした。
民間人の格好をした中国兵を見つけ出すために、数万にも及ぶ安全区の住民の手を検べました。もし兵士ならば度重なる銃の発射でタコが出来ています。それだけでは間違いもありますので、南京市内に家族がいるかどうかを調べました。もし兵士ならば南京市内に家族はいません。
このようにして日本軍は兵士と市民を区別し、逮捕しました。もちろん人間のやることだから誤認逮捕もあったとしても、その数はわずかだと思われます。このように南京占領において日本軍によって殺された民間人はほとんどゼロに近いと言っても過言ではありません。
それでは何故南京大虐殺というオドロオドロシイ言葉が一人歩きしたのか?
アメリカのジャーナリストであるベイツが「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
彼はアメリカの命令で蒋介石率いる中国国民党の顧問をしていました。彼の使命は「中国市民の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に広め、アメリカ世論を喚起させてアメリカが日本と戦争するための正義の旗を立てることでした。
しかしその他の良心あるジャーナリストたちは中国兵らの残虐な悪事の数々を記述しています。ティルマン・ダーディン記者は南京で日本軍を迎える中国軍の様子を「中国軍による焼き払いの狂宴」としてほとんどすべての建物に火が付けられ、多くの中国民間人が死んだと記述しています。
また南京のアメリカ領事館のジェームズ・エスビーが「日本軍入城前の最後の数日間に中国兵は略奪、強姦、殺人と狂わんばかりの狂態であった」と報告しています。
南京大虐殺が中国の捏造であることを証拠付ける資料を書き出せばきりがありません。そこで最後に確定的な証拠を書いてみます。
南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるのですか?しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は25万人に増えています。もし虐殺があったのなら、人々は日本占領下の南京に戻ってきたりするはずもありません。
当時の中国市民は自国民である中国兵を恐れ嫌っていました。日本兵のいるところが一番安全であると信頼していたのです。敗戦後日本軍が惜しまれながら去った、日本軍の後にどんな軍閥、野党軍団が来るかも知れず、日本軍が去るのを不安な気持ちで見送った中国市民の気持ちがわかります。
このように日本人の伝統は中国には100%もない遵法精神と規律があり、武士道が日本軍隊の精神的支えとなっていました。
ところが絶対許せないことに戦後の教育で、日本軍が中国で、暴虐、非道の限りを尽くしたという虚偽を左翼先生たちは子供たちに教えてきたのです。この先生たちは本当に日本人だろうか?
まだ中国や韓国のように自国を良く見せるために、数々の悪事を隠し、歴史を捏造するのは少しは理解できますが、日本のように良いことを隠し、全くしてもいない悪事の罪を着せるなど私には信じられないことです。
日本人でありながら何故反日になるのか?何故歴史を捻じ曲げて日本を非難し攻撃できるのか?また先生だけでなく捏造歴史の言立てを持って、自分の言論活動の基本方針として生計を維持している左翼学者たちは恥ずかしくないのだろうか?
安倍首相は「戦後70年談話」の中で、「私達の子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言いました。
そのためにも我々日本人は中国や韓国、日本の左翼達が、日本軍人に罪をなすりつける大嘘と戦わなければいけません。
戦後70年、我が国の論壇を占拠し、日本の世論を間違った方向へ誘導してきた学者、評論家たちの国を売る人々の大罪は果てしなく重い。


21. 2017年1月23日 21:50:11 : esmsVHFkrM : Z3UQbl@PdwA[637]

>>20

なにか、怪しげな右翼サイトのデマを引用して、世間に流布している南京虐殺についての記録や証言の一部の細部をとらえて、論拠となる一次資料の提示もなく間違っていると断定し、だから証拠はない、「南京虐殺はなかった」と主張しているが、そんなものが右翼の南京虐殺否定論なのか?

「南京大虐殺肯定派は説得力のある証拠を出せ、もっともそんなものがあればの話だが。今まで1度も南京大虐殺があったという説得力のある証拠を見たことがない」のは、そういう右翼サイトばかり見ているからだろう。

それなら、君たち右翼が大好きな戦前日本の政府や軍の、敗戦時の組織的かつ徹底的な証拠隠滅を免れて、戦後発見された公文書や私文書の一次資料によって証明される南京事件の実在を以下に示そう。一切の論拠は一次資料でそのソースを示してあるので、その資料の実在と引用の正確さは検証可能だ。

南京虐殺が歴史的事実であることは、敗戦時の日本政府と軍による組織的かつ徹底的な焼却、隠滅を生き残った日本側公文書、私文書によって実証されている。その犠牲者数についても同じく生き残った部隊日誌や戦陣日誌等の記録(各部隊が何人殺したとかの記録)から、それが中国側の主張する30万人に達しないとしても20万人前後と推定されるに至っており、それが虐殺であったことについてまったっく議論の余地がない。

旧陸軍士官の親睦団体である偕行社の親睦雑誌「偕行」紙上に、1984年4月から1985年2月まで連載された畝本正巳編「証言による南京戦史」は、偕行社会員の証言資料提供による南京虐殺の否定を目的として始められながら皮肉にも結局その存在を確認することとなったことで有名だ。その経緯はこうだ。

畝本正巳は陸士第46期、戦後防衛大学校教授で、「東京裁判という報復的政治的裁判を発端として、一部日本人の告発記・研究発表により『二十万〜三十万虐殺』『野蛮・非人間的な日本軍の蛮行』という誤った南京大虐殺説が定着しつつある」現状に危機感を持ってこの「証言による南京戦史」連載を開始、南京攻略戦に参加した将校からの証言を募集した(「偕行」1983年11月号)。ところが、始まってみるとそのような意図とは反対に「虐殺をやった」「見た」という証言や記録が多々出てきてしまい、連載終了後の編集部加登川幸太郎執筆責任による「その総括的考察」においては、南京虐殺の存在を認めざるを得なくなった。

加登川の「その総括的考察」は、中支方面軍司令部の下克上的な指導も含めて、捕虜の処理の適正を欠いた根本の責任は軍上層部にあるが、しかし、前線部隊にも軍紀・風紀の乱れがあり、椋奪・暴行などの不法行為が多発したとの事実を認め、その傍証として、それらの非行を戒るために出された異例な陸軍参謀総長閑院宮載仁親王の軍紀・風紀引き締めの訓示と、それをうけて中支方面軍参謀長塚田少将からだされた「軍紀風紀に関する件」と題した依命通牒(以下に詳説)を紹介した。また、「南京事件はその当時、すでに軍によって大きな問題として扱われていたようである」と指摘して、その傍証として、西義章中佐、本間雅晴参謀本部第二部長を南京に現地調査に派遣してその事実を確認した上で上記参謀総長訓示を出したこと(以下に詳説)を挙げている。さらに「長嘆息のほかはない」として「こうした事情は当時は、もちろん、世人の目にも耳にも伏せられていた。それを今日、この戦史の結びとすることにはまことに残念であるが、すでに公にされた資料に基づく真実であって如何ともしがたい」と述べている。(「偕行」1985年3月号)

この経緯をうけて、偕行の南京戦史編集委員会からは、『南京戦史』(階行社1989年)、『南京戦史資料集』(偕行社1989年)、『南京戦史資料集II』が出ている。『南京戦史資料集』と『南京戦史資料集II』には『南京戦史」を執筆するために収集した資料およびその後収集された資料(防衛庁(当時)防衛研究所に所蔵されていたものを中心に)が収録されている。すなわち、松井石根中支方面軍司令官以下、参謀、師団長さらに下士官、兵にいたるまでの陣中日誌や、軍中央、中支方面軍、上海派遣軍、第10軍の作戦命令や、軍、師団、各部隊の通牒、訓示、作戦経過概要、戦時旬報、戦闘詳報、陣中日記など、戦争終結直後の政府と軍による組織的文書焼却隠滅を免れた多くの記録文書である。

南京戦に関連して、日本軍の公式記録と司令官・参謀・師団長クラスの日記がこれほどまとまって資料集に収録されたのは画期的で、これによって、南京事件を上海から南京への進撃と攻略そして占領といった具体的な歴史展開に即して分析することが可能となった。各部隊の戦闘詳報、陣中日誌、指揮官の陣中日記には、各部隊が処断・処分(即ち殺害)した捕虜や投降兵、敗残兵の数が記録されていて殺害者数を推定する基本資料となっている。ただし、これらは南京戦参加全部隊の約三分の一の分に過ぎず、残りの三分の二は戦争終結時に焼却隠滅されて依然行方不明だ。

それでは、その偕行社南京戦史編集委員会によって資料集に採集された「生き残った」一次資料をも踏まえて、南京虐殺の事実を見て行こう。

南京虐殺については、発生直後から報告され、政府、軍部の上層部はそれを認識していた。具体的には発生と同時に南京の日本領事館から外務省に報告が送られ、それらは陸軍省、海軍省へ送付されている。

当時外務省東亜局長であった石射猪太郎は、戦後1947年東京裁判において、弁護側証人(弁護側に注目)として以下の証言をしている。

「(1937年)12月13日頃、わが軍が南京に入場する、そのあとをおってわが南京総領事代理(福井敦氏)も上海から南京に復帰した。同総領事代理から本省への最初の現地報告はわが軍のアトロシテーズ(残虐行為)に関するものであった。この電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。当時、外務大臣はこの報告に驚きかつ心配して、私に対し早く何とかせねばならぬとお話があったので、私は電信写はすでに陸軍省に送付されていること、陸海外三省事務当局連絡会議の席上、私から軍当局に警告すべきことを大臣にお答えした。
その直後、連絡会議が私の事務室で行われ(中略)、その席上、私は陸軍軍務局第一課長にたいし右アトロシテーズ問題を提起し、いやしくも聖戦と称し皇軍と称する戦争においてこれは余りにもヒドイ、早速厳重処置することを切実に申し入れた。同課長もまったく同感で、右申し入れを受け入れた。
その後いくばくもなくして在南京総領事代理から書面報告が本性へ到着した。それは南京在住の第三国人で組織された国際安全委員会が作成した我軍アトロシテーズの詳報であって、英文でタイプされてあり、それをわが南京総領事館で受付け、本性に輸送してきたものである。私は逐一これに目を通し、その概要を直ちに大臣に報告した。そして大臣の意を受けて、私は次の連絡会議の席上、陸軍軍務局第一課長にその報告を提示し、重ねて厳重措置方要望したが、軍はもはやすでに現地軍に云ってやったとの話であった」。(桐富雄『日中戦争 南京大虐殺事件資料集 第1巻』青木書店 1985年)

このうち、「軍はもはやすでに現地軍に云ってやった」ことの中には、参謀総長閑院宮載仁親王から中支那方面軍に1938年1月4日付けで下達された訓示を、中支那方面軍参謀長塚田攻少将から各部隊に向けて下達した「軍紀風紀に関する通牒」があり、それは以下の通りである。

「軍紀風紀において忌まわしき事態の発生近時ようやく繁を見、これを信ぜざらんと欲するもなお疑わざるべからざるものあり、惟うに一人の失態は全隊の真価を左右し一隊の過誤もついに全軍の聖業を傷つくるに至らん。(中略)軍紀を厳正にし戦友相戒めてよく越軌粗暴を防ぎ、各人みずから矯めて全軍放縦を戒むべし」。(『続・現代史資料(6)軍事警察』)

さらに陸軍上層部の南京虐殺認識について傍証を続ければ、

当時陸軍軍事課長であった田中新一大佐は、詳細な『支那事変記録』を記していて、その中で、1938年1月12日の陸軍省局長会報において、中国戦線から帰国した陸軍省人事局長阿南惟幾少将が中支那方面軍の軍紀について次のように報告したと述べている。

「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪たえず、現に厳重に取り締まりに努力しあるも部下の掌握不十分、未教育補充兵等に問題なお絶えず」。(『支那事変記録 其の四』防衛研究所図書館蔵)

また、当時陸軍省兵務局防諜班長であった宇都宮直賢少佐はその回想録において、陸軍中央の南京虐殺対応について以下の通り記している。

「南京の暴行残虐事件についても私は帰京後に聞いた。(中略)私は参謀本部の本間(雅晴)第二部長、渡(左近)支那課長、米(アメリカ)班の西(義章)班長以下に会ってこれらの事件の対策について諮問におよばずながら応えいろいろ進言した。
米班長で大本営参謀の西中佐(31期陸代同期)が実地調査のため直ちに南京へ急行することとなり、広田大佐と協同して事件の究明と解決に努力した。次いで杉山陸相の要請で、本間第二部長も急遽南京に向かい事情調査を実施することとなった。
南京の暴行虐殺事件のニュースについては、日本側はこれを発表することを禁止したが、全世界に知れわたって轟々たる非難の的となったことはまことに遺憾千万だった」。(『黄河・揚子江・珠江 − 中国勤務の思い出』 非売品 1980年)

ここにある本間雅晴参謀本部第二部長の調査結果を受けて、陸軍中央は松井石根中支那方面軍司令官の不作為による南京虐殺発生を確認、松井を処分する方針となったが、それはあくまでも内部処分の形(直接その責任を問わない)をとり、1938年2月14日松井を中支那方面軍司令官から解任して日本に召還した。

このようなことなかれ主義的処分には陸軍中央内部にも不満が残り、田中隆吉は1939年に1月に兵務局兵務課長となって以後憲兵隊の調査報告書の提供も受けて、松井石根ら中支那方面軍幹部を軍法会議にかけて裁くように提案したが、参謀総長らに拒否されたという。(『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』大月書店 1994年)

一方松井も、南京虐殺が国際的な非難をあびて自分の更迭につながるであろうことは認識していたと見えて、1938年2月7日に行われた慰霊祭(1973年12月18日の第一回とは別の2回目)において、全部隊長を集めて行った訓示でみずからの悲憤の心中を吐露している。それを目撃した上海派遣軍参謀課長飯沼守少将はその日記に以下の通り松井の言葉を記している。

「南京入場の時は誇らしき気持ちにて、その翌日の慰霊祭(1973年12月18日の第一回)またその気分なりしも、本日は悲しみの気持ちのみなり。それはこの50日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するにいたりたればなり、何をもってこの英霊に見えんや」。(「飯沼守日記」『南京戦史資料集』偕行社 1989年)

さらに、この南京虐殺は南京に総司令部を置いた中支那派遣軍幹部の間では歴代一大不祥事として語り伝えられていたようで、昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁はその自叙伝において次のように述べている。

「1943年1月、私は支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任しました。そして1年間在勤しました。その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました」。(『古代オリエント史と私』学生社 1984年)

以上、南京虐殺発生直後から政府、陸軍中央には報告が行われ、その存在は認識され、その抑制が指示され、将官を派遣した現地調査が行われ、それに基づいて松井石根中支那方面軍司令官の更迭が行われ、松井自身はそれを悔い、南京虐殺自体がその後の中支那派遣軍幹部の間で語り継がれたことが事実として確認される。

当時の日本政府および陸軍中央が「ある」ものとして調査、認識、対処、処分を行っていたものを、今になって「なかった」と強弁するのは、いったいいかなる精神によるものであろうか。歴史的事実を正しく客観的に認識できない知的障害があるのであろうか。自己の主張に都合の悪い事実は知らない、無視する、という道義的退廃があるのであろうか。

右翼保守のデマ本を読んで南京虐殺はなかったと信じ込まされてきたネトウヨは今からでも遅くはない。右翼保守のデマゴークが都合が悪くてその本に決して書かない事実を知ってもらいたい。世界はそれを知っているから、一部日本人の「南京虐殺はなかった」との主張に対して冷笑と軽蔑を返しているのだ。

ここまで書いて、どうせ「そのような不祥事が一部にあったとしても、その犠牲者数はわずかで虐殺と呼ぶには値しない」との右翼保守デマゴークの受け売りが出てくるだろうから、犠牲者数についても検討しておこう。

そもそも犠牲者数の算出は非常に困難だ。すでに発生から70年以上経過していること、日中戦争と国共内戦その後の毛沢東政権下の混乱により中国側の調査と記録が十分でないこと、日本政府および軍が戦争終結時に組織的かつ徹底的に公文書を焼却して証拠隠滅を行ったこと等によりすべては残された一次資料、証言等からの推測に止まる。

そんな中で、まず南京虐殺はなかったとの主張を行うものの内唯一歴史学者と呼べる秦郁彦の主張をみよう。秦は、その主著『南京事件 − 虐殺の構造』(中公新書 1986年)において、南京虐殺の犠牲者数を3万8千から4万2千人と推計し、これは「あくまで中間的な数字に過ぎない」、「新資料の出現で動くこともある」としている。

秦の計算は、捕虜の殺戮、投降兵の殺戮、敗残兵の殺戮(いわゆる便衣兵問題)について当時日本政府が署名批准していた戦時国際法には従わず、戦意を完全に失って逃げ回っている「敗残兵」や「投降兵」の殺害を「戦闘の延長として見られる要素もある」として虐殺とみなさず、また生存と逃走のため軍服を脱ぎ捨てて民間人の服装をした「敗残兵」がいるはずで、これらは「便衣兵」とみなせるとして、そのような「敗残兵」およびそのような「便衣兵」の容疑をかけられて殺された民間人をすべて虐殺から除くなどの操作を行って算出した数字で、とても妥当な計算であるとは言えないことは明らかだが、しかし、その秦をしてさえも、3万8千から4万2千人という不法殺害の犠牲者数を認めている。これだけでも立派な「南京大虐殺」だ。

それに対して、捕虜の殺戮、投降兵の殺戮、敗残兵の殺戮(いわゆる便衣兵問題)について当時日本政府が署名批准していた戦時国際法に正しく従って算定した推定として、笠原十九司の研究がある。笠原は「南京事件において十数万以上、それも二○万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される」と結論づけているが、以下にその笠原十九司の推定を引用する。

「 現在公刊されている日本軍側の資料から、南京攻略戦に参加した各師団がどのくらい中国兵および中国兵とみなされた民間人を、捕虜・投降兵・敗残兵・「便衣兵」として殺戮・処刑したかの累計をこころみたのが表1である。第九師団・第一一四師団・第六師団の各部隊の戦闘詳報や戦中日記の公開がとくに遅れているが、もしも日本軍側の全連隊の戦闘詳報がそろえば、捕虜、敗残兵の被虐殺数(ここには民間人の男子も含まれている)の総数がかなりあきらかになることがわかるだろう。

 もっとも、戦闘詳報の記録はいっぱんに戦果を多く報告する傾向があるから、この数字はあくまで概数として扱うほかはない。それでも、( )をつけなかった虐殺者数は八万人以上となろう。可能性のあった捕虜のほぼ全員殺害を想定すれば、一○万人以上となる。

 わたしは、総数一五万人の防衛軍のうち、約四万人が南京を脱出して再集結し、約二万人が戦闘中に死傷、約一万人が撤退中に逃亡ないし行方不明となり、残り八万余人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する(「南京防衛戦と中国軍」)。

[概数の資料]中国兵の犠牲者数については、日本と中国の資料から概数は推定できたが、きわめて困難なのが民間人の犠牲者数の推定である。総数を推定する参考になる当時の三つの資料を紹介する。

(1)ラーベの「ヒトラーへの上申書」
「中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々外国人はおよそ五万から六万人とみています」(ラーベ『南京の真実』)。三八年二月二三日にラーベが南京を離れた段階での推定数である。南京城内にいたラーベら外国人には、城外・郊外の広い地域でおこなわれた集団虐殺の多くをまだ知っていない。それでも、難民区国際委員たちが当時の情報を総合して推測した数として参考になろう。

(2)埋葬諸団体の埋葬記録(『中国関係資料編』の第V編「遺体埋葬記録」に収録)
南京の埋葬諸団体が埋葬した遺体記録の合計は一八万八六七四体になる。これは戦死した中国兵の遺体も含まれているし、遺体の埋めなおしなど埋葬作業のダブリの問題もある。しかし、長江に流された死体の数が膨大であったことを考えると、南京攻略戦によってこうむった中国軍民の犠牲の大きさを判断する資料となる。

(3)スマイスの「南京地区における戦争被害 ― 一九三七年十二月〜一九三八年三月 ―都市および「農村調査」
同調査では、市部(南京城区)では民間人の殺害三二五〇人、拉致されて殺害された可能性の大きい四二〇〇人を算出、さらに城内と城壁周辺の入念な埋葬資料調査から一万二〇〇〇人の民間人が殺害されたとしている。近郊区では四県半の県城をのぞいた農村における被害者数は二万六八七〇人と算出している。この調査は、三八年三月段階で自分の家にもどった家族を市部で五〇軒に一軒、農村で一〇軒に一軒の割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている。それでも、同調査は当時おこなわれた唯一の被害調査であり、犠牲者はまちがいなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる。

 以上の犠牲者数についての資料状況と本書で叙述してきた南京事件の全体状況とを総合すれば、南京事件において十数万以上、それも二○万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される。日本側の資料の発掘・公開がさらに進み、中国側において近郊農村部の犠牲者数の記録調査がもっと進展すれば、より実数に迫る数字を推定することが可能となろう」。(岩波新書「南京事件」1997年)」

というわけで、右翼保守が大好きな秦の、捕虜の殺戮、投降兵の殺戮、敗残兵の殺戮(いわゆる便衣兵問題)について当時日本政府が署名批准していた当時日本政府が署名批准していた戦時国際法に従わない操作を行って算出した数字でさえ「3万8千から4万2千人」、戦時国際法に正しく従って算定した笠原の推定では、「十数万以上、それも二○万人近いかあるいはそれ以上」ということになる。

これは、どう見ても、どうひっくり返しても、議論の余地なく「大虐殺」だ。

以上見た日本の学者による推定は、現在中国政府が主張する30万人には達しないが、その中国政府の30万人という数字は、日本人の一部の「南京虐殺はなかった」との主張に対して対抗上出てきたものであることについては特に注意を喚起しておきたい。

即ち、ほとぼりが冷めてからの「犯人側」の「やってない」との主張に対して「被害者側」が当然怒って被害程度について防御的に多めに主張するようになっているということで、そうであるからこそ、中国を相手にしてもまた国際世論を前にしても、すでに「犯人側」から主張する数字はなんであれ(秦のような過小評価操作を行わない笠原の推定でさえ)まったく説得力を持たなくなってしまったということだ。このような事態に立ち至ったのは、右翼保守の無責任なデマゴークとそれに追従する一部の知力に劣り道義に欠け勇気と誠実さをもたない日本人のおろかな企てによるものだということは、まともな日本人として怒りをもって覚えておきたい。

さらに、念のために指摘しておけば(馬鹿馬鹿しくてうんざりするが)、このスレにも散見される「南京虐殺」は30万人だとしたうえで、犠牲者数30万人が証明できなければ「南京虐殺」そのものがなかったとする主張は無意味だ。これは右翼保守デマゴークの南京虐殺否定論でよく使われるトリックだが、これがナンセンスなことは普通の大人なら自明のことだ。犠牲者数30万人が証明できなければ、犠牲者数が30万人でないということだけで、そもそも「南京虐殺はなかった」ことにはまったくならない。

以上、長々と述べたが、これを読む人には「南京大虐殺はなかった」という主張がどれほど荒唐無稽なものであるか事実に基づいてよくお分かりいただけるものと思う。>>20さんには、もう「今まで1度も南京大虐殺があったという説得力のある証拠を見たことがない」とは言えないわけだ。

誇りあるまともな日本人は「南京大虐殺はなかった」などという戦前の亡霊の復活を許してはならない。ほとぼりが冷めたからなかったことにしようなどという卑怯で女々しいまねを許してはならない。さもなければ、日本人は世界に特にアジアに友人を失ってしまう。

あったものを、今頃になってほとぼりが冷めたからと「なかった」と主張するような卑怯で姑息な日本の右翼には猛省を求めたい。

右翼保守は恥を知れ。


22. 2017年1月23日 22:06:18 : 0f9A8vn902 : M@RN63nB8NQ[1]
南京陥落後に撮影された風景
http://www.history.gr.jp/nanking/fukei.html
昭和12(1937)年12月13日、南京事件が起きたとされる時期である陥落以降に撮影された写真ばかりを集めました。
陥落当時には120名をこえる報道陣が南京に滞在していました。(外国人記者達を含めて)
彼らの多くは戦争が終わり、南京が平和に復興する様子を写真などによって撮影、記録しています。
日本兵と中国人との心温まる交流も多数記録されているのです。
ところが戦後、これらの写真を「朝日新聞」、「毎日新聞」「岩波書店」、「日教組」、「NHK」などのサヨク系団体や組織によって封印されたのです。
戦争ですから戦死体があるのは当然ですが、虐殺とは全く無関係の写真を大虐殺の証拠として(特に)朝日、毎日、岩波書店、日教組、(サヨク)系マスコミなどが大宣伝を行い、現在でも日本国民を洗脳しています。
ホームページ作者はこれら写真を集めるうちに、事実とは大きく異なるウソ宣伝を行う報道(マスコミ)に対して信じられなくなりました。
南京の真実を報道しているのは唯一、産経新聞だけなのです・・・朝日、毎日、日教組、TV朝日(朝日新聞系)、TBS(毎日新聞系)許すまじ・・・。

非合法である虐殺はゼロです。
あったのは戦闘行為と合法の処罰行為です。
それでも少数の犯罪行為はありましたが、殺人はゼロです。
多くの犯罪行為、殺人は便衣兵と化した中国人の敗残兵や中国督戦隊によるものです。

「南京大虐殺」は捏造ねつぞうだった
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm

南京の日本軍がなした多くの人道的活動
日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった
非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった

「南京大虐殺」とは?
1937年12月、日本軍は支那事変を終結させるため、南京へ侵攻。12月13日にそこを占領しました。いわゆる「南京大虐殺」とは、その占領から約6週間の間に数十万人単位の人間(市民や捕虜)が日本軍によって南京で虐殺されたとする説です。中国共産党が公式に述べてきたものとしては、その数30万人。中国にある南京大虐殺記念館の外壁には、大きな文字で「300,000」の数が、犠牲者数として掲げられており、中国の子どもたちは、反日感情を植え付けられるために毎年そこへ行かされています。
この「南京大虐殺」は、日本でも戦後、共産党員や共産主義シンパなどを中心に広められ、そののち多くの人々を巻き込み、教科書にまで書かれ、日本人の「自虐史観」の根底に置かれてきました。しかし今日では、このような30万人もの大虐殺、日本軍による大規模の虐殺、また小規模の虐殺さえも、実際にはなかったことが多くの証拠によって明らかになっています。
日本兵たちによるある程度の犯罪はありました。しかし、それはどこの国の軍隊にもある程度のものであり、むしろ南京での日本軍の活動をみてみると、非常に人道的なもののほうが多く目につきます。
南京戦の最中、南京市内にいた民間人は全員、南京市内に設けられた「安全区」に集まっていました。日本軍はそこを攻撃しなかったので、安全区の民間人らは誰一人死にませんでした。
日本軍による南京占領が間近に迫ると、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、中国人市民を殺して服を奪い、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込みました。安全区に逃げ込んだ中国兵の中には、武器を隠し持ち市街戦を準備する者、また安全区内で強姦や、略奪、殺人などを行ない、それを日本兵のしわざに見せかけたり、被害者を脅迫して「日本兵が犯人」と言わせる反日工作の者たちもいました。
日本軍は彼らを見つけ出すと、彼らのうち特に反抗的な不法戦闘員数千名を処刑しました。国際法では、こうした不法戦闘員は「捕虜」としての扱いを受けることができず、処刑されても致し方ないとされているからです。こうした不法戦闘員の処刑が、誤って「捕虜の虐殺」と伝えられた面もあります。
しかし日本軍は、一方で、市民や捕虜に対し多くの人道的援助活動を行なっています。その結果、日本軍占領下で飢えのために死ぬ南京市民は一人もいなかったのです。また日本軍の活動に感激して、そののち汪兆銘の親日政府軍に入った中国人捕虜たちも多くいました。
南京において非道行為を行なったのは、むしろ中国兵たちでした。軍服を脱ぎ捨てて民間人の中にまぎれこんだ中国兵たちは、裸でまぎれこむわけにはいきませんから、民間人の服を奪うために民間人を殺しました。そうしたことをエスピーというアメリカ副領事その他の人々が目撃しています。虐殺を行なったのは日本軍ではなく、中国兵たちだったのです。

以下はその詳細です。
南京に戻ってきた住民
南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるでしょう。しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は約25万人に増えているのです。もし「虐殺」があったのなら、人々が戻ってきたりするでしょうか。
日本軍の南京への攻撃開始の約1週間前の1937年11月28日に、警察庁長官・王固磐は、南京で開かれた記者会見において、「ここ南京には今なお20万人が住んでいる」と発表しています。そののち日本軍は12月13日に南京を占領しました。それから5日後、12月18日には、南京国際委員会(南京の住民が集まっていた安全区を管轄する委員会)が人口「20万人」と発表しています。また12月21日には、南京外国人会が「南京の20万市民」に言及、さらに南京陥落から1ヶ月後の1月14日には、国際委員会が人口「25万人」に増えたと公表しているのです。
住民が戻ってきました。上智大学の渡部昇一教授によると、南京陥落から1ヶ月後に日本軍が約「25万人」の住民に食糧を配ったとの記録も残っています。
また占領後、日本軍は、民間人に化けた中国兵と本当の民間人を区別するため、ひとりひとり面接をしたうえで、民間人と認められた人々に「良民証」を発行しています(1937年12月から1938年1月)。60歳以上の老人と10歳以下の子どもは兵士ではないでしょうから、その間の年齢の人々に良民証を発行し、その発行数16万人に達しました。南京国際委員会のメンバーとして南京にいたルイス・スマイス教授は、南京の日本大使館の外交官補・福田篤泰氏に宛てた手紙の中で、「この数によれば南京の人口は25万〜27万人程度だろう」と書いています。
このように南京占領後、南京の人口は増えているのです。

南京入城に際し、新聞記者たちも同行
南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。その総勢は100人以上。また日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば1937年12月24日(南京陥落の11日後)の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。これが一体「大虐殺」のあったという都市の光景でしょうか。
また南京で実際にどのようなことがあったか、日本の当時の新聞を閲覧してみても、よくわかります。そこには、日本兵が武器も携帯せずに南京市民から買い物をする姿、南京市民と歓談する光景、日の丸の腕章をつけて微笑む南京市民の姿などが、写真入りで解説されています。また、平和回復を知って南京に戻ってくる住民、中国の負傷兵を手当する日本の衛生兵たち、再び農地を耕し始めた農民たち、そのほか多くの写真が記事と共に掲載されています。
それは平和が戻り、再び以前の生活を取り戻し始めた南京市民と、日本兵たちの心と心の交流の姿なのです。当時、報道は「検閲」の下に置かれていたとはいっても、これらは到底「大虐殺」があったという都市の光景ではありません。

蒋介石は一度も「南京大虐殺」に言及せず
中国国民党の総統・蒋介石は、もともと南京にいた人です。しかし彼は、日本軍が攻めてきたことを知ると、南京の防衛はさっさと部下にまかせて、南京を出てしまいました。そののち終戦に至るまで、蒋介石は中国人民向けに何百回ものラジオ演説を行なっています。ところが、その中で彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」等のことは言っていません。もし大虐殺があったのなら、これは非常に不自然なことです。蒋介石の認識の中にも「南京大虐殺」はなかったのです。

日本軍によって殺された民間人はわずかだった
日本軍の司令官・松井石根(まつい・いわね)大将は、南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳しく命じていました。
そして、南京攻略戦の最中、南京にとどまった市民たちは皆、南京城壁内に特別に設定された「安全区」の中に避難していました。南京にいた外国人たちもみな、安全区に避難していました。日本軍は、その安全区内にも中国兵が多くいることを知っていましたが、安全区を攻撃することはしませんでした。
そのため、たまたま流れ弾に当たって数人が死傷したものの、そうした事故を除けば、安全区の住人は全員無事でした。実際、南京占領後、安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは、「日本軍が安全区を攻撃しなかったことを深く感謝いたします」との感謝状を松井大将に手渡しています。
また攻略戦終了後、日本軍の監督・指揮のもとで、「紅卍会」という南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行ないました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。これは、民間人の犠牲者がほとんどいなかったことを示しています。
また南京安全区の安全と秩序の維持のために、南京攻略戦の前から、南京に住む欧米人らは「南京国際委員会」というものを作っていました。彼らは、日本軍による南京占領後に南京で起きた犯罪事件をまとめ、被害届として日本軍に提出しました。それは、南京で見聞きした日本兵による犯罪(強姦、略奪、殺人)等を記録したもので、日本軍に取締りを求める内容でした。
その被害届には、日本兵によるとされる犯罪が425件記されています。その大部分は伝聞にすぎず、資料的な問題はありますが、たとえすべてを事実と仮定しても、そのうち殺人事件はわずか49件にすぎません。つまり、どうみても「大虐殺」などなかったのです。
しかも、その49件のうち、国際委員会の委員が直接目撃したものはわずか2件でした。あとはみな伝聞です。また、その2件のうち1件は、ジョン・マギー牧師が目撃したものですが、日本兵が、軍服を脱いで民間人に扮している中国兵を探している中、不審な者を見つけて身元を尋ねたとき、急に逃げ出したので撃ち殺したというものでした。しかし、これは国際法上、合法的なものです。
もう1件のほうも、合法的なものでした。つまり国際委員会の委員は誰も、南京において違法な殺人を目撃していないのです。ましてや大虐殺を目撃していません。
また南京が陥落したとき、多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨てて、民間人になりすまして安全区内に逃げ込みました。そのため、日本軍は彼らを見つけだすために掃討作戦を行なわなければなりませんでした。
兵士は帽子をかぶっているので、額の上部に日焼け跡がなく、その帽子の跡で兵士とわかります。また兵士は、手をみると、度重なる銃の発射でタコができています。それに兵士は、南京市内に家族がいません。そうしたことなどで日本軍は兵士と市民を区別し、兵士を発見すると、逮捕しました。
その際、誤認逮捕が皆無であったとは言えないかもしれません。しかし、たとえ誤認逮捕があったとしても、その数はわずかだったと言えるでしょう。
このように南京攻略戦の最中、およびその後にかけて、日本軍によって殺された民間人の数は、ごくわずかしかいなかったのです。

岡村寧次大将の記録は?
一方、虐殺肯定派の人々は、しばしば岡村寧次(おかむら・やすじ)大将が書いた次の文章を、しばしば引用します。
「上海に上陸して、一、二日の間に、このことに関して先遣の宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、杭州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次のとおりであった。
1)南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
1)第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」(『岡村寧次大将資料』)
しかし、岡村大将はこの報告を上海で聞きました。彼自身は南京へ行っていません。先に述べたように、南京にいた国際委員会の人々は、日本兵らによる暴行として425件の事件を報告しています。その大部分は伝聞であり、すべてを事実とはとれないのですが、たとえすべてを事実と仮定しても暴行事件は425件にすぎず、「数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行」という岡村大将の記述は、間違ったうわさに過ぎなかったことが明らかです。また「給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある」という記述も、後述するように、南京においては事実ではありませんでした。

軍服を脱ぎ捨て民間人に化けた中国兵たち
捕虜の虐殺はあったか、という問題について見てみましょう。
この問題をみるために、まず、中国兵とはどんな兵士たちだったか、についてみてみたいと思います。中国兵は、じつは国際法感覚のほとんどない兵士たちでした。
多くの日本兵たちが「軍服を着ていない中国兵」たちを目撃しています。
たとえば橋本以行(はしもと・もちつら)氏は、南京攻略戦の最中、揚子江岸で見た中国兵たちについて、「小銃や機銃を大事に携行していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない」(証言による『南京戦史』10、130頁)と語っています。また彼ら揚子江岸の中国兵らは、降伏勧告にも応えず、戦闘を続けたので、日本軍は攻撃を続行。中国兵はジャンク舟に乗って逃げようともしましたが、多くは溺死し、遺体は下流の揚子江岸にうち上げられました。
その写真が残っていますが、この写真がのちに虐殺肯定派の人々によって「南京大虐殺の証拠写真」として使われました。しかしそれは戦死体だったのです。
また南京の城壁内で、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン記者は、「軍服を一斉に脱ぎ捨てる中国兵たち」に出くわしています。
「私は一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。小路に走りこんで便衣(民間人の普通の服)に着替えてくる者もあった。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(ニューヨーク・タイムズ 1937年12月22日付)
また南京陥落後、南京城壁内へ入った日本兵たちもみな、この「脱ぎ捨てられた中国兵の軍服」が街路の至るところに散乱しているのを目撃しています。彼ら中国兵は、民間人になりすますために、軍服を脱ぎ捨て、民間人の服に着替えたのです。民間人の服を盗む者もいれば、民間人を撃ち殺して衣服をはぎ取る者も多くいました(南京のジェームズ・エスピー=アメリカ副領事の報告)。
このように軍服を脱ぎ捨てて民間人に扮した中国兵が死んだとき、その死体は、死体だけを見た者には「民間人の虐殺死体」に見えたでしょう。ですから、こうした中国兵の行動は、日本軍の側に多くの誤解を生じさせる元となったのです。
もう少し中国兵の行動をみてみましょう。
日本軍が南京に達する以前に、蒋介石は、すでに早々と南京から脱出していました。また南京防衛をまかされた唐生智将軍も、敗北色濃くなったとき、敵前逃亡して南京から出てしまいました。残された中国兵らには混乱が走りましたが、敗戦が決定的となったとき、中国兵らには3つの選択肢がありました。
一つは、降伏することです。降伏すれば「捕虜」として扱われることになります。
二つ目は、南京から逃げ出すことです。そのとき、日本軍に殺されるかもしれません。また中国には、「督戦隊」というものがありました。これは戦いを督促する中国人部隊で、背後にいて、戦場から逃げ出す中国兵を見つけると撃ち殺す兵士たちなのです。逃げる中国兵を撃ち殺す中国兵です。そんな非人間的な部隊が、中国にはありました。ですから、南京から逃げ出そうものなら、彼らに撃ち殺されるかもしれません。
実際に、中国督戦隊に撃ち殺された中国兵たちが多くいました。ダーディン記者は、南京城壁の北側の門において、高さ1メートル半にも積み重なって小山を形成していた中国兵の死体を目撃しています。これは日本軍が殺した中国兵ではなく、中国督戦隊に殺された中国兵だったのです。なぜならダーディン記者は戦後、こう語っています。
「これは、この門から脱出しようとした中国兵の死骸です。中国兵はあちらこちらで城壁によじのぼり、脱出を試みました。これらの死体の山は、日本軍がここを占領する前にできたように思うのです。この地域で(日本軍の)戦闘はありませんでした」(1987年8月14日のインタビュー、質問者は笠原十九司、伊原陽子。『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P571 青木書店)
つまり、それは中国督戦隊によって殺された中国兵らの死骸だったのです。
そして中国兵に残された三つ目の道は、軍服を脱ぎ捨て、民間人に扮して、安全区の中に身を隠すことでした。少なからぬ兵士たちがこの道を選びました。
そのため日本軍は、南京占領後、この民間人に扮した中国兵たちの掃討作戦を行ないました。そして次々に摘発しましたが、武器を隠し持っているなど危険な中国兵たちは、発見されると、処刑されました。市街戦の準備とみなされたのです。その数は数千人に達しました。
問題は、これが国際法上、合法か否かです。しかし、こうした不法な戦闘員の処刑はどこの国でも慣習的に行なわれていたことであり、また「ハーグ陸戦法規」(1907年)にも定められていたことで、明らかに合法的でした。つまり、兵士は明確に兵士とわかるよう軍服を着用しなければならず、また武器は隠さず公然と携帯しなければならないのです。
 その法規を守らなければ、捕らえられても「捕虜」としての保護は受けられません。法を守らない者は、法の保護を受けられないのです。彼らは「不法戦闘員」として扱われ、処刑されても仕方ないというのが国際法上の理解でした。こうした点で、数千人の「不法戦闘員」の処刑は、「捕虜の処刑」でも「捕虜の虐殺」でもなく、合法的なものだったのです。

捕虜は虐殺されなかった
一方、虐殺肯定派がよく引用するものに、第16師団長・中島今朝吾(なかじま・けさご)の日記があります。とくに12月13日に捕虜にした7000〜8000人の中国兵についての次の記述です。
「この7000〜8000人、これを片づけるには相当大きな壕がいるが、なかなか見当たらない。一案として100人、200人などに分割してのち、適当な箇所に誘って処理する予定だ」(現代文に修正)
つまり、この大量の捕虜を殺害して壕に埋めてしまおう、という処理予定を考えたともとれる内容です。当時はたしかに、ただでさえ食糧の調達など大変でしたから、このような大量の捕虜を一体どうしたらいいのか、ということは確かに大問題でした。それで、中にはこうした考えを持つ者もいたようです。
けれども、中島日記をみても、彼ら捕虜を実際に殺害したという記述はありません。また当時の日本軍の記録をみると、この7000〜8000人の捕虜は結局殺害されず、捕虜収容所に送られたことがわかるのです。当時の膨大な資料の集大成である『南京戦史』(偕行社)は、様々な資料を引用し、こう結論しています。
「これらを総合すると、堯化門(仙鶴門鎮)付近の捕虜約七千二百名を中央刑務所(第一監獄所)に護送し収容したことは明らかである」(P324)
また資料によれば、当時南京の捕虜収容所は、これら7200人の捕虜を含む、計1万人ほどの捕虜を受け入れたとなっています。彼らの多くは、そののち釈放され、故郷に帰されました。あるいは苦力(クーリー)として労役に雇われた者も多く、また後に上海の捕虜収容所に移送された者もいました。
さらに、そのうち約2000名は、のちに汪兆銘の親日政権の南京政府軍に編入されました。その中に、劉啓雄(りゅう・けいゆう)少将もいました。彼は南京安全区に潜んでいたところを摘発され、しばらく苦力として使われていましたが、1940年に南京に成立した汪兆銘政府において和平救国軍の軍長となった人です。
また中島今朝吾・師団長の言葉の中に「大体捕虜はせぬ方針なれば」というのがあったことが、よく指摘されます。実際、大量の捕虜をかかえこむことは大変なだけですから、捕虜は少ないほうがいいわけですが、「捕虜はせぬ方針」について、大西 一 参謀はこう述べています。
「それは、銃器を取りあげ釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集っていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」 (「正論」61.5 阿羅健一著「日本人の見た南京陥落」)
さらに大西参謀は軍命令、師団命令で捕虜殺害命令など絶対に出ていない、と断言しています。資料をみても、捕虜殺害の記録はありません。また支那事変当時の日本の新聞にも、釈放されて故郷に帰る中国兵たちが荷物を持ち、ニコニコ顔で写真におさまっている姿などが載っています。

虐殺はなかったとする証言
当時の南京を実際に知る多くの人々は、南京で「虐殺はなかった」と証言しています。
たとえば、南京の日本大使館で働いていた外交官補の福田篤泰(ふくだ・とくやす)氏は、日本軍による南京占領の当時を振り返って、こう語っています。「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。……いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」(田中正明『南京虐殺の虚構』35-37頁)
日本軍と共に南京に入った東京日日新聞の金沢喜雄カメラマンは、こう語っています。「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ、兵隊から聞いたこともありません。虐殺があったなんて、あり得ないことです。死体はたくさん見ています。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。しかしそれは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ」(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』p.42)
東京日日新聞の佐藤振寿カメラマンも、こう語っています。「虐殺は見ていません。12月16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集ってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」(同p.53)
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者には、お嬢さんが一人おり、南京には家族で赴任していたので、お嬢さんは1年生から5年生まで南京の日本人小学校に通っていました。彼女に南京大虐殺のことを来てみると、こういう答えでした。「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供ともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした」(同p.138-141)
歩兵第13連隊(熊本)第4中隊のU中尉はこう語っています。「抗州湾上陸以来、私は(中国の)女たちが、墨や油や泥を顔や手足に塗り、ことさらに臭気を放つようなボロをまとって、わが軍の入城を迎えるのを知っております。彼女らは、なるべく醜悪に見えるように努めていました。……日本の兵隊は支那の軍閥の兵隊とは全然素質が違うのだ、ということが了解できると、それから徐々に生地を出し始める。黒い顔が白くなり、汚い服がきれいな服に変わるのであります。南京の難民地区でも、私はやはりそうした女の移り変わる姿を見ることができました」(東中野修道『1937南京攻略戦の真実』p.124)
南京攻略戦に参加した野砲兵第22連隊長・三国直福大佐は、こう証言しています。「昭和13年8月にまた南京に戻ってきました。この時も虐殺があったという話は聞いていません。もう日本人の商人もたくさん来ていました。南京の街は朗らかでした。町の人とも親しく話しましたが、その時も、中国人からそんな話(虐殺)を聞いた記憶はありませんでした」
第十軍参謀・谷田勇(たにだ・いさむ)大佐は、こう証言しています。「(昭和13年11月以降、私が担当していた課は、支那復興のため)南京での経済指導を行なうので、寸暇もないほど多忙であった。したがって課長以下、日中官民と接触して、これを理解し、かつ中支那の風物に親炙(しんしゃ)する機会がはななだ多くなっていった。この時、中国官民と親交を重ねたが、たとえ酒食の席においても南京虐殺に関する話を聞くことはなかった」

日本兵による悪事の証言の信憑性
ところで、日本兵たちの犯した犯罪について、虐殺肯定派がしばしば引用するのが、松岡 環著『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて』です。この本には、日本兵が中国で犯してきたという数々の非道な行ないが、102名の元・兵士の証言の形で書かれています。しかしこの本に関し、亜細亜大学の東中野修道教授はこう批判しています。
「百二名の兵士はみな『匿名』『仮名』なのである。……誰が証言内容に責任を持つのか。証言内容が真実かどうか第三者的に検証できないようでは、客観的報道、客観的記録とは言いがたい。……百歩譲って『証言』が事実だとしても、彼らの多くは憲兵の目を逃れて軍紀違反の違法行為を繰り返しながら処罰を免れてきた悪運強き戦争犯罪人でしかなかったことを明らかにしただけなのである」(『諸君』平成十四年十一月号)。
また歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平氏は、この本をこう評しています。
「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」(「正論」平成14(2002)年11月号 阿羅健一著「南京戦・元兵士102人の証言」のデタラメさ)
また、アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』にも引用されている田所耕三という人物は、南京陥落後約10日間にわたって、殺人と強姦を行ったと述べています(『アサヒ芸能』昭和四十六年一月二十八日号)。ところが、竹本忠雄教授(筑波大学)、大原康男教授(国学院大学)によれば、彼の所属する部隊は陥落2日後の12月15日には南京から転進していて、この人物が10日間も南京に残留したはずがありません。実際彼自身、のちに取材に応じて「記者が何かおもしろいことはないかと聞いてきたので、あることないことを喋ったんだ」と、この発言自体の信憑性を否定しています。
また曽根一夫という人物は「手記」を出版し、そのなかで南京戦と南京陥落後の虐殺事件の実行と、目撃談を書いている(『続・私記南京虐殺』など)。しかし、この人物は手記のなかで自らを歩兵の分隊長と称しているが、実際は砲兵の初年兵でした。また、入城式には彼の属する部隊の一部が参加しただけで、部隊そのものは南京城内に入ってもいません。従って、彼が書いているような虐殺を南京やその近郊で見ることも実行することも不可能であったのです。南京戦中、行動をともにした戦友もそうした虐殺行為を目撃・実行することはあり得ないと証言しています。つまり、曽根の「手記」そのものがまったくの創作だったのです。

市民・捕虜と日本兵の交流・温情
南京を占領した日本兵たちの、市民や捕虜に対する態度は実際はどのようなものだったのでしょうか。以下は彼らの証言です。
「敵の大軍は、わが軍のために完全に撃破されました。見れば、幾十となく敵の死体がころがっております。中にはまだ虫の息でうねっておる者さえおります。これを見られた隊長が、『苦しいか、今、薬をやるぞ』と何かやられますと、一兵士は目を開けて、『水、水』と、かすれた声で哀願しました。誰かが水を飲ませてやりますと、両手を合わせ涙をたたえ、『謝、謝』(シェーシェー)と伏し拝みました。……今までにわが中隊では幾十人となく、敵兵を救い、郷里に帰してやりました。その中には中隊のために骨身を惜しまず、弾丸下もものともせず、じつに勇敢によく働いた者もたくさんあります。そして彼らが郷里に送り帰される時は、別れを惜しんで泣いて別れるのでした」(歩兵第47連隊:大分 第2中隊 伍長S・S)(『1937南京攻略戦の真実p.165)
「(南京への途上)露営のとき、私は道路の警戒を命ぜられました。特に監視すべき方向はこの方向と道路上をさすと、指したところに忽然と姑娘が現われて、窈窕(ようちょう)たる姿態が楚々(そそ)として、この方に来るじゃありませんか。誰だって面食らいます。……『日本の兵隊さんね』、流暢な日本語なんです。年の頃27、8、聞いてみると、上海から逃げてきたけれど、皆殺されたり、はぐれたりして、これは支那軍のほうにいると危ないと思い、やってきたという。
『日本語はどこで覚えた』と聞くと、『長崎に4年、活水女学校を卒業して、上海の日本人書店に雇われていた』と言います。……いろいろ調べられるけれども、くさいところは無いらしい。ちょうど中隊に通訳がいなくて何かと不自由していたこととて、通訳代わりに使うことにしましたが、炊事をさせると日本人の味の好みを心得て、乙なところをみせる。所帯慣れしているから、兵隊に程良く愛嬌を振りまく。皆で大切にしたものです。
ときには宵待草(よいまちぐさ)や、荒城の月を聞かせてくれました。毎日の行軍も宿営も楽しみでした。……しかし、南京へ南京への猛追撃に、我々に伍して行けるはずがない。中隊長殿が見かねて上海の方へ帰されたが、その日の行軍のけだるいこと、道の遠いこと、足の重いこと、皆考え込んでしまっていました。
『おい、きついなあ』『うん』。返事も上っすべり。誰かが思い出し風に、『変なこと言いっこなしよ、皆兄弟じゃないか』と彼女の口真似をすれば、とたんに爆笑がわいたものです」(歩兵第13連隊:熊本 第11中隊 歩兵曹長K・S)(同p.190-192)
「私が洗面していると、前にきて頭をぴょこんと下げ、『兵隊さん、おやよう』とはっきりした日本語で、支那人から挨拶されました。不審に思ってよく聞くと、『大阪に18年間いました』という。……(彼の相談に乗ってあげると)彼は一時間ばかりして喜んで戻ってきました。そして言うことには、『家族も安心しました。長男が27歳になっていますが、長男も日本語が上手に話せます。皆の者に「日本軍が来たからもう安心しておれ」と、言ってきました』と、いかにも落ち着いたものです。齢は50歳くらいでしたが、達者な男で、南京攻撃、安慶上陸から漢口攻略まで、1年3ヶ月の間、日本軍のため忠実につとめ、大きな功績を残して行きました」(第2野戦病院 T・Y)(同)
都新聞の小池秋羊記者は、こう述べています。「食糧がなく飢餓状態で、食糧をくれ、とわれわれにすがりつく人もいました。私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車二台分やりました」
南京の病院で勤務していたアメリカ人、ジェームズ・マッカラム医師は1937年12月29日の日記にこう書いています。「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」(東京裁判 速記録210) 
さらに、こう書いています。「12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました」。「日本人の善行を一つ報告しなければならない。とても気持ちのよい日本人が最近病院にやってきた。彼らに患者の食料の不足を告げたところ、きょう、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれた。この一ヵ月というもの肉は食べられなかったので、この贈り物は大歓迎だ。他に欲しいものはないかと言ってくれた」(『南京事件資料集[1]アメリカ関係資料編』p263)
また南京戦により、12月13日の南京陥落からしばらくは、南京市街は水道も電気もとまり、夜は真っ暗といった状態でした。しかし翌年1月元旦から南京全市に、電燈がともり、水道がよみがえりました。1938年1月3日付の朝日新聞によると、電気については日本人技術将校以下80名と中国人電工70名の協力、また水道も同様に150名の編成で、不眠不休で取り組んだ結果であるといいます。また1月3日には、多くの南京市民が日の丸と中国の五色旗を振り、市街で「南京自治政府」(リーダーは中国人)の発足を祝っています。

南京大虐殺と南京事件を区別すべき
以上みてきたように、南京での「30万人大虐殺」はなかったのです。20万、あるいは千単位の虐殺もありません。
とはいえ、南京で強姦、略奪、暴行、殺人などの非道な犯罪がなかったわけではありません。いや、実際のところ、かなりありました。その中には、日本兵たちが実際に犯した犯罪も少数あります。
けれども、一方では、じつは民間人の服を着て南京安全区に逃げ込んでいた中国兵たちが犯した事件も非常に多かったのです。彼らは事件の加害者が日本兵だったと見せかけたり、被害者を脅迫して、加害者は日本兵だったと言わせたりしました。それで加害者が日本兵だったと思い込んだ人々(国際委員会の欧米人など)は、日本軍の残虐を声高に叫んだのです。これが、のちに大きく膨らんで、「南京大虐殺」というウソへと発展していきました。
もし、こうした中国兵や日本兵らが南京で犯した強姦や略奪等を「南京事件」と呼ぶとすれば、たしかに「南京事件」はありました。そうした意味で、当サイトでは「南京大虐殺」と「南京事件」を区別しています。

つぎに、この「南京事件」の真相について詳しく見てみましょう。
中国兵らによる悪事の数々
南京戦に参加した日本兵らの証言によれば、南京をはじめその周囲で悪事を積み重ねていたのは、日本兵ではなく、むしろ中国兵のほうでした。中国軍がどんな性質のものだったかについて、南京に向かっていたある日本兵はこう記しています。
「(通りかかった)この町には、かつて蒋介石の大軍がたむろしていたのですが、空陸一体の皇軍の進撃に、敵はもろくも敗退したのです。城内の住民は食糧は申すまでもなく、家財道具もことごとく支那軍のために強奪され、男はみな壕掘りに、連日連夜酷使されたということでした。このような国の民こそ全く可哀相でなりません」(歩兵第47連隊:大分 第1大隊第2中隊 歩兵伍長 H・G)(『1937南京攻略戦の真実』p.200)
また梶村 止(かじむら・いたる)少尉は、南京戦に参加したのち、南京から上海方面に移動しました。1938(昭和13)年1月15日の彼の日記によると、上海付近に駐屯していたとき、近くの村人が中国兵に襲われ、梶村少尉の隊に救いを求めてきました。しかし村人に案内され、梶村少尉一行30余名が現場に急行したときは、敵の40〜50名が逃走したあとでした。梶村少尉はこう記しています。「自国の兵隊の悪事を、自国民の敵軍に報告。討伐を願うという矛盾が、とりもなおさず支那軍隊がいかなるものであるか、この一時にて判断できる」。また梶村少尉らが村を立ち去るとき、村人らは「非常に名残を惜しんでくれた」と書いています。(同p.188)
アメリカのティルマン・ダーディン記者は、南京で日本軍を迎え撃つ中国軍の様子を、こう書いています。「中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい」(ニューヨークタイムズ)。
南京のアメリカ領事館の副領事ジェームズ・エスピーが行なった報告にも、南京陥落時の中国兵の行動について書かれています。「中国兵自身も略奪と無縁ではなかった。……日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、市民と財産に対する侵犯が行われた。気も狂わんばかりになった中国兵が、軍服を脱ぎ棄て市民の着物に着替えようとした際には、事件もたくさん起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った」(エスピー報告)
福岡日日新聞の三苫(みとま)幹之介記者は、南京に入ったのち、安全区にいる中国人夫妻にインタビューを行ない、記事にしました。以下はその抜粋です。
「記者 日本軍がやって来たとき、君たちはどこに何をしていたか。
黄  私たち夫婦は、国際委員会で設定された南京城内西北の山西路からズッと入った難民区にいました。……中央軍の支那兵が銃創を持って夜となく昼となく代わる代わるやって来て難民を検察し、食糧や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも二銭でも巻き上げていきました。最も恐がられたのは拉夫、拉婦(拉致されること)で、独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。中央軍の支那兵の横暴は全く眼に余るものがありました」

日本兵の犯罪は少数あった
つぎに、日本兵が南京で犯した犯罪について見てみましょう。
南京攻略戦を指揮した松井石根大将は、南京陥落から5日後の12月18日、全軍と共に慰霊祭を執り行いました。それは日中双方の戦死者を弔うものでした。慰霊祭において松井大将は、一同の顔を眺めまわしたのち、異例の訓示を始めたのです。
「諸君は、戦勝によって皇威を輝かした。しかるに、一部の兵の暴行によって、せっかくの皇威を汚してしまった。何ということを君たちはしてくれたのか! 君たちのしたことは、皇軍としてあるまじきことだった。諸君は、今日より以後は、あくまで軍規を厳正に保ち、絶対に無辜(むこ)の民を虐げてはならない。それ以外に戦没者への供養はないことを心に止めてもらいたい」(前田雄二『戦争の流れの中に』p。122-124)
大将のやせた顔は苦痛で歪められていたといいます。松井大将は、戦争が始まる前は直接、蒋介石にも会い、「日中合同して大きな強いアジアを造ろう」と呼びかけるなど、平和のために尽力し、中国を愛した人でした。南京を攻略する前にも、日本兵たちに厳正に軍規を守るよう通達した人でした。
にもかかわらず、南京陥落後、市民に対する「一部の兵の暴行」があったのです。松井大将は憲兵隊から報告を受け、それを深く嘆きました。この「暴行」とは強姦か略奪等の犯罪だったとも言われています。ただし決して、のちに言われたような「大虐殺」ではありません。なぜなら、松井大将はのちに東京裁判においてこう証言しているからです。
「南京占領に関する周到な配慮にもかかわらず、占領当時の倥惚たる情勢において一部若年将兵の間に、忌むべき暴行を行なった者があったようである。これは私のはなはだ遺憾とするところである。……憲兵隊長よりこれを聞き、各部隊に命じて即時、厳格なる調査と処罰をなさしめた。……私は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任したが、その間、昭和12年12月下旬に南京でただ若干の不法事件ありとの噂を関知しただけで、何らそのような事柄に関し公的な報告を受けたことはなく、当法廷において検事側の主張するような大規模な虐殺・暴行事件に関しては、1945年終戦後、東京における米軍の放送により、初めてこれを聞き知ったにすぎない。……検事側の主張するような計画的または集団的な虐殺を行なった事実は断じてない」(口述書1947年11月24日。現代文に修正)
 つまり松井大将は、南京占領当時、一部の若年将兵の間に、暴行事件、犯罪があったことを認めたものの、東京裁判で主張されたような「大規模な虐殺・暴行事件」は否定しました。
では、日本軍の間に、いったいどの程度の犯罪があったのでしょうか。詳しくはのちに述べますが、実際はある程度の犯罪はあったものの、当時のロシア軍や中国軍が占領地で犯してきた数々の犯罪に比べるなら、はるかに少数のものでした。また、アメリカ軍兵士が太平洋戦争中に占領地等で犯してきた犯罪と大差ない、という意見もあります。
しかしそれでも、南京攻略は世界の注視する中の出来事でした。それゆえ厳正に軍規を守ることが求められていた時のことで、松井大将にとっては、一部将兵の犯した事件は彼を深く悲しませたのです。
つぎに、南京の安全区に隠れていた中国兵たちが犯した犯罪を見てみましょう。

安全区に隠れた中国兵らの反日攪乱工作
1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙は、こう報じています。
「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。
この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.275)
このように、安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとでかくまわれ、しかもそのうち中国人大佐は、避難民キャンプで二番目に権力ある地位を与えられていたという。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。これはもちろん、安全区の中立を定めた日本軍との協定への違反でした。それまで教授たちは、南京での非道な行ないのすべてについて、日本軍を非難してきたのです。しかしそれら非道な行ないの多くが、じつは教授たちのもとでかくまわれていた中国兵たちのしわざだったのです。
『チャイナ・プレス』1938年1月25日付も、こう報じています。
「その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。……また、前第八十八師の副師長・馬中将や、南京警察の高官・密信喜(音訳)もいると言われている。馬中将は、安全区内で反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また、安全区には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦にたずさわったという」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.277)
このように、安全区に逃げ込んだ中国兵らは、「掠奪、煽動、強姦」にたずさわり、それを「反日攪乱行為」として行なっていました。すなわち、それらの犯罪を積み重ねたうえ、それらを「日本兵がやった」ように見せかける、あるいは被害者を脅して「加害者は日本兵だ」と言わせていたということです。ここに「煽動」と訳されている言葉は、原文では「intimidating」(脅迫。おどして事を行なわせる)なのです。

隠れていた大勢の中国兵ら
いったいどれほどの中国兵が安全区内に隠れ、こうした反日攪乱行為を繰り返していたのでしょうか。ニューヨークタイムズ1937年12月17日付には、こう報道されています。
「昨日、南京の日本軍司令部(が発表したところによると、今もなお)…市内には、軍服を捨て、武器を隠し、平服を着た兵士2万5000人がいると信じられている」(南京事件資料集・アメリカ関係資料編p.415 青木書店)
つまり、この時点でなお非常に多数の中国兵が、民間人の服を着て隠れていると考えられていました。全員でないとしても彼らの多くは、安全区内で「掠奪、脅迫、強姦」にたずさわり、それを日本兵がやったようにし、反日攪乱行為を続けていたのです。小林よしのり氏もベストセラー『戦争論』の中で、「南京の安全区に二万人の国民党ゲリラが入り込み、日本兵に化けて略奪・強盗・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍のしわざに見せかけていた」と書いています。
また、大阪朝日新聞1938年2月17日付はこう報道しています。
「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】
皇軍の南京入城以来、わが将兵が種々の暴行を行なつているとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わっているので、在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところ、このほど漸くその根源を突き止めることが出来た。
右は、皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いていた憎むべき支那人一味であるが、憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。
この不逞(ふてい)極まる支那人は、かつて京城(現在の韓国ソウル)において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で、皇軍入城後日本人を装ひ、わが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、…三ヶ所を根城に、皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し、強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で、襲はれた無辜(むこ)の支那人らは、いずれも一味を日本人と信じきつていたため、発覚が遅れたものであるが、憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである」
このように、日本語を話し、日本人通訳の腕章を偽造するなどして、暴行を繰り返していた中国兵らもいました。
これらについては、マルクス主義歴史学者として知られる笠原一九司(かさはら・とくし)教授(宇都宮大学)でさえも、「(安全区に逃げ込んだ中国兵にとっては)日本軍をおびやかすだけでは不十分であった。…『強姦、略奪、その他の暴行をすべて日本軍のしわざとする』という散発的な抵抗が存在した」と述べています。(Nanking Atrocities)
松井大将自身も、東京裁判においてこう証言しました。「戦時における支那兵、および一部の不逞(ふてい)の民衆が、戦乱に乗じて常習的に暴行略奪を行なうことは周知の事実である。南京陥落当時の暴行・略奪においても、支那軍民が犯したものもまた少なくなかった。これを全部、日本軍将兵の責任に帰せようとするのは、事実をゆがめることである」(口述文 現代文に修正)

南京国際委員会が提出した被害届は、ほとんど中国人からの伝聞
南京に住む欧米人らがつくっていた「南京国際委員会」は、南京の日本大使館に対し、日本兵が犯したとする強姦、略奪、殺人等の暴行事件を「被害届」として幾度にもわたって報告し、改善を求めました。それら事件の総数は、1938年2月までに計425件にのぼりました。その内容はたとえば、
「事例5: 12月14日の夜、日本兵らは家々に押し入り、女性をレイプし、連れ去った。その地域はパニックになったため、何百人もの女性たちは昨日、金陵大学内に避難してきた」
「事例10: 12月15日夜、多くの日本兵たちが桃園の南京大学のビルに入り、30人ほどの女性たちを強姦した」
こういった事例が延々と続くものです。この被害届は、私たちに何を語っているでしょうか。
まず、たとえこれら425件の内容がすべて真実と仮定してみても、そのうち殺人事件は49件にすぎません。もし事実「30万人大虐殺」が南京であったのなら、これは非常におかしなことです。南京国際委員会の被害届をみる限り、30万人大虐殺はおろか、1万人、1000人虐殺もなかったことになります。
また、殺人事件49件のうち、国際委員会のメンバー自身が目撃したものは、たった2件にすぎませんでした。そしてそれら2件は両方とも、先に述べたように合法的なものだったのです。他のものはすべて中国人から聞いた伝聞でした。
強姦事件についてはどうでしょうか。竹本忠雄、大原康男・両教授はこう述べています。   
「委員会が記録した『被害届』に記された強姦事件(未遂を含む)は何件か。集計すると合計で361件である。しかも誰が事件の目撃者であったのか、誰が誰に聞いて記録したのか、記録者のある事例は僅かに61件であった。この内、日本兵がやったという確証があり、真相究明ないしは逮捕のために日本軍に通報された件数は僅かに7件であった。……なお、日本軍に通報があった7件については、『シカゴ・デイリーニューズ』(1938年2月9日)に報道されているとおり、日本軍は犯人を厳しく罰している。処罰は厳しく、部隊から不満の声が漏れたほどであった」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
南京における日本大使館に勤務していた外交官補佐の福田篤泰(ふくだとくやす)氏も、彼が見た国際委員会の状況について、こう証言しています。
「当時、ぼくは役目がら、毎日のように外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。『いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している』。あるいは『太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている』等々。
その訴えをマギー神父(牧師)とか、フイッチなど、3、4人が、ぼくの目の前でどんどんタイプしているのだ。『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も注意した。
時には、彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうことも幾度かあった。…テインパリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただ、と僕は思っている」(国際委員会の日本軍犯罪統計)
このように南京国際委員会が作成した被害届は、ほとんどが中国人から聞いたことを、検証もせずに、ただ書き連ねたものにすぎなかったのです。

ジョン・ラーベのリポート
この南京国際委員会の長は、ドイツ人のジョン・ラーベという人でした。
彼もまた日記などに、日本軍が犯したという残虐や暴行を数多く記しています。それはどの程度信用できるものでしょうか。たとえば彼は、
「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には、私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(1937年12月13日の日記)
と記しています。しかし、先に述べたように中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵でした。彼らは逃走する際に、日本兵、あるいは中国の督戦隊に殺されています。ところが、このラーベの記述は、そうした事情を無視しています。
またラーベは、同じ日に、
「日本兵たちは、市内をめぐり、10〜20人程度のグループに分かれて店々や家々を手当たり次第、略奪してまわった。これは私の両目が目撃したものである」
と記しています。組織的な略奪のように書いているわけですが、竹本忠雄、大原康男・両教授はこう書いています。
「入城した日本軍は、まず宿舎の確保に苦労し、宿舎に充てた建物の設備補充のため、将校の指示のもとに無人となつた建物から家具やフトン等を持ち出した。それらを『徴発』した際には、代償を支払う旨の証明書を添付したが、そうした事情を遠巻きに見ていた外国人や中国人は理解せず、日本軍が組織的に掠奪をしていると誤認した可能性がある」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
この「徴発」とは、戦闘によって疎開した後の人家で、食糧や必要物資の調達を行なうことで、日本軍はそれを行なった場合には、つねに代価を支払ってきました。南京でもそれが行なわれた、ということです。つまりラーベが「日本兵らによる略奪」と思ったのは誤解なのです。
また、ラーベはドイツ人ですが、当時のドイツは、蒋介石率いる中国国民党と結びつきが強く、党に顧問を派遣していました。当時(1937年)はまだ、日独伊三国同盟の締結前であり、ドイツは中国国民党と深い関係にあったのです。ラーベ自身、国民党の顧問でした。
ラーベは、ドイツ・ジーメンス社の南京支局長でもあり、ドイツが国民党に売った高射砲、その他の武器取引で莫大な利益を得ていました。ラーベは武器商人なのです。そのためラーベは、当時、ドイツが国民党との取引をやめて日本に接近することを恐れていました。彼の収入源が断たれるからです。こうしたラーベにとって、日本の悪口だけを言うことはごく自然な成り行きだったのです。
実際、東中野修道教授によれば、ラーベは12月12日以来、2人の中国人の大佐をひそかにかくまっていました。大佐たちは、南京安全区内で反日攪乱工作を行なっていたのです。これはラーベが日本軍との間に交わした協定に明らかに違反する行為でした。また彼の1938年2月22日の日記にも、彼がもう一人別の中国人将校をかくまっていたことが記されています。
このようにラーベは、中国人将校らによる反日攪乱工作を手伝っていました。
松井大将の元・私設秘書だった田中正明氏は、このラーベが書いた報告書や日記には数多くの矛盾点があると批判し、こう述べています。
「12月9日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、10日正午まで待機した。…しかるにラーベの12月9日の日記には、『中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える』。全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。…
ラーベの日記には『局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる。70を越えた人さえ何度も暴行されているのだ』とあるが、強姦のあと『局部に竹を突っ込む』などという風習は、支那にあっても、日本には絶対ない。…
金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と、東京裁判に提出した日記の中に書いている。…ところがラーベ日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いたという“地獄絵”が描かれている。一体どちらが本当なのか?…
ヒトラーがジョン・ラーベの原稿に信をおかず、彼を逆に入獄せしめた理由が、私にはわかるような気がする」(講談社刊『南京の真実』は真実ではない!)
このようにラーベの報告や日記は、内容が非常に偏っており、誤解と偏見と、また、何とか日本の残虐を訴えてドイツと日本の同盟を阻止したいという思惑とが、混ざり合ったものでした。そのためその内容は、軍服を脱ぎ捨てた中国兵たちや、督戦隊に殺された中国兵たち、また安全区に隠れた中国兵らによる犯罪などの事実には一切ふれず、ただ日本軍の暴行だけを書き記すものとなったのです。
実際、日本軍による南京占領の翌月、1月9日に南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルク事務長は、自分の目で実情を確かめた上で、「ラーベが語る日本軍の暴行事件」について、2月10日付で漢口のドイツ大使館にこう書き送りました。
「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
ラーベは、表向きは暴行事件の被害者の救済などに奔走し、中立を装うなどしていました。それでアイリス・チャン(南京大虐殺に関する本の著者)の本などでは、シンドラーに比すことのできる善人であると、持ち上げられています。
しかしその実をみれば、ラーベは中国人将校たちをかくまって反日攪乱工作を手伝い、また自身の虚偽のリポートを通しても、自分なりの反日攪乱工作を続けていたのです。
こうした人物が南京国際委員会の長だったわけですから、彼の姿勢は委員会の他のメンバーたちにも当然、深く影響していました。委員会の他のメンバーたちが残した日記その他の記録が同様なものとなったのは、そうした成り行きだったのです。

強姦事件の真相
つぎに、南京国際委員会のメンバーが残した南京における強姦事件の記録について、もう少しみてみましょう。
ラーベは1937年12月17日の日記に、「昨晩、1000人近くの女性、少女が強姦されたと言われている。金陵女子大学の学生だけでも100人が強姦された」と書きました。また金陵女子大の教授ミニー・ヴォートリン女史はその日、「ああ神よ、野獣のような日本兵らの蛮行を止めてください」と書いています。ジェームズ・マッカラム医師も、12月19日の日記にこう書きました。
「これほどの残虐は、聞いたことがなく、読んだこともない。強姦! 強姦! 強姦! 我々の見積もりによれば、一晩に1000人が強姦され、そうしたことが毎日ある。反抗すれば銃剣で刺されるか、撃ち殺されるだろう。…人々はヒステリックになっている。女性たちは毎朝、毎日、毎夜、連れ去られる。日本兵たちは、気のおもむくまま出入りし、好き勝手に行動しているようだ」
しかし、これらの強姦事件は、実際にラーベ、ヴォートリンやマッカラムが自分の目で目撃したことかというと、そうではありません。『言われている』「見積もりによれば」とか「〜しているようだ」と書かれていることからもわかるように、いずれも伝聞なのです。犯人が「日本兵だった」、というのも伝聞です。委員会のメンバーたちが記した強姦事件は、ほとんどが中国人から聞いたものでした。
そしてこれらの日記が記されてから約2週間後、南京で強姦を繰り返していた中国兵らが、日本の憲兵によって逮捕されます。アメリカ人教授たちのもとでかくまわれ、避難民キャンプで2番目の地位を与えられていたこの中国兵らは、強姦を犯しては、「犯人は日本兵だ!」と言いふらしていました。ニューヨーク・タイムズが報じたように、彼らが逮捕され、それを自白したとき、アメリカ人教授らは「心底から当惑した」のです。
また大阪朝日新聞が報じたように、2月になると、「日本語に巧みで・・・日本人を装い・・・通訳の腕章を偽造してこれをつけていた」中国兵らが逮捕されました。彼らも、日本人になりすましては強姦等、暴行を繰り返していました。そして彼らが逮捕されてのち、強姦事件等はほとんど見られなくなりました。
このように、南京の西洋人らが非難した「日本軍の暴行」の多くは、じつは民間人の服を着て隠れていた中国兵によるのしわざだったのです。実際、マッカラムの1938年1月8日の日記にこんな記述があります。マッカラムは、ある中国人避難民が、
「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」
と言うのを聞いた、と書いているのです。安全区にいた避難民たちの中には、そこで起きていた強姦や、略奪、その他の事件の多くは、じつは中国兵らによる反日撹乱行為であることを知っている者たちもいたわけです。
しかし、詳しい検証もせず、うわさをそのまま信じ込んでいたのが、委員会のメンバーたちでした。彼らはそのために、南京には「日本兵の暴行があふれている」と思い込んでいたのです。これについて竹本忠雄、大原康男・両教授も、こう書いています。
「安全区に設けられた19カ所の難民収容所の責任者は、婦女子ばかり4000名を収容した金陵女子文理学院をミニ・ヴォートリン女史が務めたほかは、すべて中国人であった。当然のことながら、この難民収容所の治安維持は中国人たちが担当したが、その責任者を何と、市民に偽装した中国軍将校が担当しているケースもあった。そして強姦事件の多くは、安全区委員会が設置した『難民収容所』で起こっており、『難民収容所』が解散した1938年2月以降、そうした強姦事件は起こっていない。難民収容所の責任者たちが主張した『日本軍兵士の犯罪』を額面通り受け取ることは、きわめて危険だと言えよう」(再審「南京大虐殺」世界に訴える日本の冤罪)
両教授はこうも書いています。
「そもそも当時の南京には、女性は安全区にしかいなかった。そして日本軍司令部は、安全区に集中している外国権益を保護し、安全区委員会メンバーとの無用の摩擦を避けるため、また、多数の中国軍兵士が潜伏していて危険であるとの判断から、日本軍兵士に対し安全区への立ち入りを禁止した上、要所に見張りまで立てた。このため日本兵は勝手に安全区には入れなかったし、危険を侵してまで入ろうとする兵士もいなかった」(同)
先に見たように、南京で起こった強姦事件のうち7件は、実際に日本兵が犯したものであり、犯人は処罰されています。また他に、日本軍が調査していたものも数件あり、計10件程度ありました。あるいは、知られていないものも含めるとすれば、多くて数十件程度の日本兵による犯罪があったと考えられるでしょう。
しかし他の大部分は、隠れていた中国兵らによる犯行だったと言ってよいのです。また委員会メンバーの記述には、憶測、誇張、デマ、誤解等も少なからず含まれていました。

マギー・フィルムの真相
日本軍による南京占領の期間中、その光景をアメリカ聖公会の牧師ジョン・マギーは、8ミリフィルムに残していました。そのフィルムは、のちに日本の残虐性を表すものとして、虐殺肯定派の間でよく使われました。
しかし、実際にその映画を見ても、明らかに虐殺されたとわかる死体は一つも映っていません。字幕は「日本軍の暴行」等とつけられているものの、日本兵が捕虜を処刑しているシーンも、何千もの死体シーンもなく、映っているのは、ほとんどが生きている人々ばかりです。
またマギーは東京裁判で、「あちこちで殺人が行なわれていた」と証言したものの、「あなた自身が目撃したものはありますか」と聞かれて、「一つだけあります」と答えました。しかし、それは日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦をしているとき、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというものでした。これは合法的なものです。彼は非合法の殺人を一件も見ていません。つまりマギーは、30万人虐殺も、4万〜5万人虐殺も見ていないのです。
またマギー自身が目撃したものとして、ほかに強姦事件が一つ、盗みが一つありました。あとはみな伝聞でした。この「強姦事件」というのも、日本兵がある中国人男性の妻のもとへやって来たのを目撃したというものですが、マギー自身は強姦現場を見たわけではありません。その日本兵は、その中国人妻かその夫に不審な点を見出し、問いただそうとやって来たのかもしれません。また「盗み」というのも、ある日本兵が中国人の家からアイスボックスを持って出るのを目撃したというものです。このようにマギー自身は南京陥落の前も後も市内にずっといたのに、「日本兵による大規模な残虐行為」は一つも目撃していないのです。
もっとも、マギーが記した「南京市内で起きたむごたらしい一家惨殺事件」は有名です。彼のフィルムにも、その事件でかろうじて生き残ったという少女の姿が映っています。ところが、この惨殺事件には大きな矛盾点があります。事件は次のようなものでした。
「12月13日、約30人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は、馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏を撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。
夏夫人は、1歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の76歳と74歳になる両親と、16歳と14歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。
妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方が二、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の7〜8歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、4歳と2歳になる馬氏の二人の子どもであった。
年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。傷を負った8歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった4歳の妹と14日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。…兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった」
この恐ろしい事件について、マギーは、この「30人の兵士」は日本兵であったと考えていたようです。しかし結論からいうと、この兵士たちは、日本兵ではありません。
なぜなら、まず、マギーはこの話を「(生き残った)8歳の子から部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した」と書いています。つまり、これは伝聞であるだけでなく、さらに他者の話をも合わせて「修正」された話です。
さらに、東中野教授によれば、12月8日以降、南京市民は中国軍によって全員「安全区」内に強制的に集められていました。ところがこの一家は、安全区の外側にいました。マギーは事件の日付を12月13日と書いていますが、この日は日本軍の安全区外への砲撃が強く、日本軍が市内に入ってくる日ですから、その日に安全区外にいることは最も危険なことです。にもかかわらず彼らが安全区外にいた、ということは、この事件は実際には12月13日に起きた事件ではないと考えられ、本当は12月8日以前あるいは13日以前に、中国兵たちによって起こされた事件と考えられるわけです。
さらに、「膣に瓶を押し込む」「膣に杖を押し込む」などといった殺し方は、まさに中国式です。中国には昔から、そういうむごたらしい殺し方をする風習がありました。日本兵はそんな殺し方はしません。このように、どうみてもこれは中国兵たちの犯行なのです。

マイナー・ベイツの虚偽報告
マイナー・ベイツは、南京国際委員会においてリーダー的存在となっていました。彼は、東京裁判における主要な証言者です。「日本の残虐」を世界に広めた中心的人物といっていいでしょう。ベイツは、戦後の東京裁判で、
「日本軍侵入後、何日ものあいた私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました」
と証言しています。ところが、これらは真っ赤なウソでした。
なぜなら、「東京日日新聞」の若梅、村上両特派員は、占領2日後の12月15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れ、インタビューを行なっています。その時ベイツ教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しています(東京日日新聞 昭和12(1937)年12月26日)
さらにそのとき両特派員は、「家の近所の路で射殺された民間人の屍体がゴロゴロしている」というような光景は見ていません。12月13日に南京城内に入った第6師団の歩兵第13および47連隊の日本兵たちも、
「(南京城内では)敵兵はもとより住民の姿さえほとんど見なかった」
と証言しています。同じ日、南京城内に入った都新聞の小池秋羊記者も、
「城内はどの家も空き家で、物音一つしませんでした。犬、ネコの姿一つ見受けられず……」
と証言しているのです(南京事件p.144)。誰も、「路にゴロゴロ横たわった民間人の屍体」など見ていません。
一方、南京の安全区に逃げ込んだ中国兵を掃討する作戦を担当した第7連隊の兵士たちも、連隊に発せられた命令は、「市民を殺すな。皇軍の名を汚してはならない」であったと証言しています。彼らは、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と述べています。
またベイツと同様、南京安全区内で日々を過ごした同盟通信の特派員・前田雄二氏も、ベイツの言ったような虐殺死体の存在を否定して、こう述べています。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。すなわち『捕虜の処刑・虐殺』はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう」(内外ニュース社発行「世界と日本」 59・4・5、413号)
ベイツは、南京で虐殺があったと証言したものの、実際に虐殺死体を自分の目で見たわけではありません。彼の報告はすべて伝聞体です。南京国際委員会が提出したあの「被害届」においても、殺人の事例の「証言者」の欄にベイツの名はありません。アメリカ領事館のジョン・アリソン領事から市民虐殺の証明を求められたときにも、ベイツはその証明ができませんでした。

ベイツによるすりかえ
マイナー・ベイツはまた、
「埋葬死体の証拠からみると、4万人近くの非武装の者が、南京城の内外で殺された。そのうち約30%は兵士になったことのない者たちだった」
と書きました。ベイツがいった「埋葬死体の証拠」とは、「紅卍会」による埋葬をさしています。日本軍は、ほとんどの戦死者の埋葬作業を、中国人の団体「紅卍会」にまかせました。彼らが埋葬した数は、約4万人に及びました。
ベイツは、「4万人近くの非武装の者が・・・・殺された」と書いていますが、彼ら埋葬された死者は、実際には武装した中国兵の戦死者たちであって、決して「非武装」の者たちではありません。中国兵の多くは逃げる際、軍服を脱ぎ去って逃走しました。彼らは死んだとき軍服を着ておらず、その死んだ姿は民間人とかわりありません。ベイツは、実際は武装した中国兵の死者を「非武装の者」と書き、あたかも民間人の大量虐殺があったかのように、すりかえているのです。
またベイツは、そのうち30%は純粋な民間人だった、と述べましたが、竹本忠雄、大原康男・両教授によれば、紅卍会による埋葬死体のリストを調べると、「女性と子供の比率はわずかに計0.3%」でした。しかもこれは日本軍による南京戦のときだけでなく、翌年の1938年7〜8月の埋葬死体も含んでのことですので、もし南京戦の死者だけに限れば、女性・子供の比率は0.3%以下になります。
もし日本軍が民間人を虐殺したのなら、埋葬死体の中にはおびただしい女性や子供も含まれていたはずです。しかし女性や子供がほとんど含まれていなかった事実は、日本軍による民間人虐殺はなかったことを示しているのです。
また、先にエスピーが述べたように、中国兵の多くは軍服を脱ぎ捨て、民間人を殺して服を奪い、民間人の中にまぎれこみました。埋葬死体4万人の中には、そうした民間人の大人男性の死体も数千体以上含まれていたでしょう。彼ら民間人を殺したのは、日本軍ではなく、中国軍なのです。「0.3%の女性・子どもたち」に関してさえ、その多くを殺したのは中国兵たちだった可能性が高くあります。
しかしベイツはそうした中国兵たちの悪行には何一つふれず、すべてを日本軍のせいに見せかけ、日本軍の悪行を声高に世界に発信しました。
さて、日本軍による南京占領から5日後、1937年12月18日付ニューヨーク・タイムズに、「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が載りました。これは一体どういうわけでしょう。これはティルマン・ダーディン記者の記事ですが、やはりダーディン自身が見た事柄ではありません。なぜなら、彼はこれを「南京の外国人は……目撃した」という伝聞体で書いているからです。
じつは、これはダーディンが12月15日に南京を去るとき、ベイツから聞いた話でした。ベイツは1938年4月12日の自身の手紙の中で、12月15日に南京を去るダーディンはじめ欧米の特派員らに、南京の状況を書いたリポートを渡したと書いています。つまり情報の発信源はベイツでした。
また1938年、ティンパリー編著の『戦争とは何か』という本が出版されました。この中で「日本軍による南京での市民虐殺」が大々的に取り上げられ、アメリカ人に日本軍の非道を訴え、その後の日米戦争の一因となった本です。しかしティンパリーは上海にいた人で、南京にはいませんでした。じつは、その情報はベイツからもたらされたものでした。そう、ティンパリー自身が本の中に書いています。つまりこれもまた、ベイツが発信源でした。
ベイツはこのようにして、「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
ベイツは、じつは蒋介石率いる中国国民党の顧問でした。国民党の戦略は何だったか。それは、たとえ虚偽を用いてでも「中国の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に訴え、アメリカを味方につけて日中戦争に巻き込み、アメリカが日本を叩きつぶしてくれるようにすることでした。そのため、ベイツはこの国民党の戦略に沿って、日本軍の残虐行為という政治的謀略宣伝を世界に発信したのです。
国民党の戦略について、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、こう書いています。
「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよい、(という政策が)中国政府唯一の戦略になっていた」(『歴史の探究』p.76)

スマイス調査が証明する「日本軍による民間人死者は少なかった」
最後に、南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月〜1938年3月』)をみてみましょう。これは南京城内とその周辺地域における人的・物的被害を調べたものであり、加害者が日本軍か中国軍なのかを特定していないものの、被害の実態を知るうえで貴重な資料です。
調査方法は、市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したものです。大雑把な調査ではありましたが、南京における唯一の学術的調査といっていいものです。これは「南京大虐殺」を肯定するものでしょうか。否定するものでしょうか。
このスマイス調査によれば、南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。これは「30万人」虐殺説には程遠い数字です。また、これは「犯人」を特定せず、被害だけの数字であり、その中には、じつは日本軍による死者よりも、中国軍による死者のほうが多数含まれているのです。
というのは、ダーディン記者の記事にもあったように、中国軍は、南京城外の農村地区のほとんどを焼き払いました。そこでは、多くの中国人が死んだのです。また、安全区の中国人が証言していたように、中国軍は働ける男をみれば拉致して兵士にするか、労役に使いました。またエスピーの報告にもあったように、中国兵は軍服を脱ぎ捨てて民間人に化ける際、服を奪うために民間人を撃ち殺すことも多かったのです。このようにスマイス調査が示す民間人死者のうち、その大多数は中国軍による死者と言ってよいのです。
すなわちスマイス調査は、日本軍による民間人の死者はわずかであった、ということを証明していると言ってよいでしょう。

久保有政著


[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまってない長文

23. 2017年1月23日 23:55:10 : esmsVHFkrM : Z3UQbl@PdwA[638]

さらに追加しますが、

>>20さんが、通州事件を挙げて中国側の暴虐の証拠とし、なにか中国側だって虐殺をやっている(だからチャラだなのでしょうか?)とおっしゃっていますが、>>20さんは、通州事件の実際についてほんとうにご存知なのでしょうか?

通州事件とは、1937年7月29日に、中国陥落区の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃した事件で、日本の通州守備隊と通州特務機関は壊滅し、日本人への殺害、処刑が行われたました。

その冀東防共自治政府は、早稲田大学を卒業した親日派の殷汝耕を中心に、日本の華北分離工作によって樹立された中国国民党政府に敵対する地方勢力で、虐殺事件を引き起こした自治政府保安隊は、日本軍の支那駐屯軍から派遣された将兵により軍事訓練が施された日本の友軍でした。

ところが、1937年7月27日に日本の関東軍の爆撃機が冀東保安隊幹部訓練所を誤爆し、保安隊員の数名が重傷を負い、数名は爆死する事件が起きました。在通州の細木繁特務機関長は、冀東防共自治政府の殷汝耕長官に陳謝し、爆死者の遺族への補償と負傷者への医療と慰藉を講ずる旨申し出、翌28日には保安隊教導隊幹部を冀東政府に招集し、誤爆に関して説明し慰撫に努めました。しかし、そもそも日本の北支侵略の先端であるとともに、アヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の拠点であった通州にあっては、これを受けて情勢は不穏となり、北平駐在大使館付武官補佐官として北平にいた今井武夫少佐は、その著書『支那事変の回想』( みすず書房)に、保安隊員は 「 関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明かにした 」 と述べています。

それで、7月28日夜半から29日早暁にかけて、ついに冀東防共自治政府保安隊が決起、通州日本軍守備隊、特務機関を襲撃し、日本軍守備隊は壊滅し、日本人居留民は襲撃され、在留日本人が200人以上惨殺されました。(死者数については諸説あり、1937年8月5日の陸軍省調査では、死者184名)。在留日本人と言ってもその中には当時植民地であった朝鮮人が含まれ、当時支那駐屯軍司令官香月清司中将の『 支那事変回想録摘記 』(『現代史資料 12 日中戦争 4』、みすず書房)が記録する犠牲者の数では、日本人104名と朝鮮人108名であり、朝鮮人の大多数は 「 アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの 」 でした。朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示しています。

事件後、冀東政府は一時潰滅、8月9日になって殷汝耕に代わって池宗墨が政務長官に就任し、再建されました。その後、1937年12月22日、冀東政府政務長官の池宗墨と北京大使館の森島守人参事官とが会談し、日本側への冀東政府による謝罪と慰謝金、損害賠償120万円の支払いをもって事件を最終的に解決することで合意し、12月24日には両政府で公文交換(森島参事官より冀東政府池長官宛て返論には「よつて本官は貴官申出の次第を受諾し貴政府において貴論記載の各項を誠実に履行せられたる上は 本事件は解決を見たるものと認むべく候」)が行われました。

以上が事件のあらましですが、これでよくおわかりのように、通州事件(虐殺と呼んでもかまいませんが)を実行したのは、冀東防共自治政府という日本の傀儡地方政府の軍隊です。しかも、日本政府は、これを自らの傀儡である冀東政府による謝罪と慰謝金、損害賠償120万円の支払いで最終解決してしまっています。

したがって、右派の秦郁彦ですら以下のように評しています。 

「 この種の残虐事件で、今もよく引き合いに出されるのが、盧溝橋事件から3週間後に北京近郊の通州で起きた邦人虐殺事件である。 死者120数人と数も多く、その惨状を見聞きして敵愾心を高めた京都第十六師団の兵士が、華中に転戦して南京で報復したという説すらある。 当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。 さすがの日本軍も、殷汝耕政府主席の費任は問えなかった( 戦後、漢奸として処刑 )。」(「中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を」 『 諸君! 』1989年11月号 )

したがって、これは今の感覚で例えれば、日本に軍隊を駐屯させ日本侵略を進めるアメリカの傀儡である地方自民党政府の武装部隊が(ナチスにならって突撃隊としましょうか)、隙をついて反乱し、その地方の米軍部隊を殲滅した上で、在留米民間人(半数は日本への麻薬売買に従事する米国植民地人)を殺戮した事件となります。しかも、アメリカ政府は、傀儡自民党政府の謝罪と償金の支払いで、最終解決しています。

これを米国から「東京虐殺」の正当化の口実に使われたら、>>20さんを始めとする日本の右翼保守はなんと言うでしょうか?

「それは、申し訳なかった、それなら「東京虐殺」をやられても文句はない」でしょうか?

「それはアメリカの傀儡地方自民党政府の武装部隊がやったことでアメリカの自業自得だ」でしょうか? 

「これは祖国侵略を進める外国に対する日本人の民族独立をかけた自衛行為で、寝返った自民党突撃隊は偉い」でしようか? 

ぜひ聞いてみたいと思います。

これで、通州事件で南京虐殺がチャラになるわけがないことがよくお分かりになるはずです。

以上、>>20さんの参考に供します。



24. 2017年1月24日 00:23:40 : esmsVHFkrM : Z3UQbl@PdwA[639]

>>20の後に>>22と、論拠となる一次資料もない言いっぱなしの右翼デマサイトのまるごと転載が投稿されているが、

日本の右翼の皆さんの「南京虐殺否定論」とは、そのような論拠もなく証拠もなく本質的でもない些細な周辺事実を傍証として主張するしかないような、そんなお粗末なしろものなのでしょうか?

それとも、右翼サイトのデマをまるごとそのまま長々と転載するのは、わたしの日本側公文書一次資料による南京虐殺の実在論証(>>21)を、反論できないからせめて読みにくくしてやろうとの涙ぐましい努力なのでしょうか?

「南京大虐殺肯定派は説得力のある証拠を出せ、もっともそんなものがあればの話だが。今まで1度も南京大虐殺があったという説得力のある証拠を見たことがない」と啖呵を切ったなら、男らしく正々堂々と>>21に対して反論してくればいいじゃないですか? >>21に反論できないのであれば、なにを言ってもなにを転載しても蟷螂の斧、南京事件を否定することにはなりませんよ。

そっちも日本側公文書等の一次資料を出してきて、南京虐殺の発生など日本政府や軍中央は認識していない、将官レベルを派遣して調査などやっていない、南京虐殺を受けて軍規引き締めの指示や訓示など出していない、松井石根の処分など考慮もされていないし実際処分もされていない、松井は悔いていない、司令部勤務となり虐殺があったと聞いたと書いた三笠宮は嘘つきだ、とでも論証して見せればいいではありませんか?

というわけで、>>20および>>22に見るように、南京大虐殺否定派は、ちゃんとした一次資料に基づく反証を出せ、もっともそんなものがあればの話だが。今まで1度も南京大虐殺がなかったという説得力のある反証を見たことがないぞ。

恥を知れよ、右翼。


25. 2017年1月24日 01:26:48 : JW4kQkOW9o : dSI7DqbtatE[294]
>>7

>こんなアパのような行為を放置させておくのは日本人として恥ずかしいやろ

朝日新聞はじめ中国側の主張だけを取り上げて日本人の隷属化計画を進めていた工作の事実もお忘れなく

テメエや>>8>>9みたいな奴らが日本国民だとして日本国籍を捨てて中国に移住して傀儡になればいいだけ
既になっているからそういうコメントなんだろうな

南京事件があったと思ってる奴が個人的に賠償してシナ畜生に土下座していれば良いだけ

否定派や一般の日本人を巻き込むな


26. 2017年1月24日 01:36:08 : JW4kQkOW9o : dSI7DqbtatE[295]

>>24は過去に日本国民の主権を「どうでもいい」とほざいていたシナ畜生の傀儡ということが判明したので必死になってシナ畜生の犬として南京事件などで日本人貶めのプロパガンダ工作をしている工作員


http://www.asyura2.com/12/senkyo140/msg/212.html#c17
>■外国人参政権、人権擁護法案を推進している(どうでもいいが、ネトウヨには一大事なようなので挙げておく)

http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/847.html#c27

また
http://www.asyura2.com/12/senkyo140/msg/212.html#c41より「日本人じゃない。」と指摘されて逃げ回り今に至ってる模様


27. 2017年1月24日 02:51:51 : w3M1BHSquE : 5KToaZSVnLw[1168]
ネトウヨが どんな必死に虐殺を否定する【ウヨサイトの駄文コピペ】を 長々と貼り付けても蟷螂の斧というもの

すべて 【部分否定】にしか なっていない

100ある証言の もしも99まで嘘が判明しても たった一つだけ本物が有れば 犯罪行為は
「有った事」 として それで充分立証できるという常識が 理解出来ない馬鹿ウヨ連中

無かった事の証明は 100ある証言の100全てを 一つ残らず完璧に 嘘だと立証して初めて
「無かった」 と、証明できるのである


哀れだね 馬鹿ウヨ諸君 ┐( -"-)┌ やれやれ


28. 2017年1月24日 08:38:02 : esmsVHFkrM : Z3UQbl@PdwA[645]

>>26は、あの木卯正一さんだが、

ここは、ネトウヨ研究のスレなので、この札付きネトウヨ木卯正一のいかにもネトウヨらしいやり方を暴露紹介しておく。>>20>>22の南京虐殺否定論にも見られる嘘をつくためにそこまでやるかというやり方だ。ネトウヨの習性の研究材料になると思う。

末尾に「またhttp://www.asyura2.com/12/senkyo140/msg/212.html#c41より「日本人じゃない。」と指摘されて逃げ回り今に至ってる模様」とあるので、そのリンク先に飛んでみると、なんとなんと私がそのスレで最後にコメしてから6ヶ月後の木卯さんのコメだ。笑わせることにその冒頭に「それから数ヵ月後・・・」とある(せこいね、「半年」が「数カ月後」かよ)。

なんだよ、テレビドラマじゃないんだからいきなり飛ぶなよ。そんな「それから数ヵ月後・・・」(半年)経ってから、コソコソと出てきて書き込まれたコメなんか誰が読むんだよ。それで「指摘されて逃げ回り今に至ってる模様」なんて言われちゃ、言われた方は、怒るより呆れちゃって大爆笑だ。

ネトウヨというのは、その愚かなで醜悪な主張(誹謗中傷)のために、ここまで、せこいというか、姑息といいうか、涙ぐましいというか、そういう愚行を厭わないそんな類の人たちであることをここに指摘しておく。

こういうのが相手だから、みなさん、ご苦労様です。


29. 2017年2月01日 00:56:18 : JW4kQkOW9o : dSI7DqbtatE[399]
>>28

esmsVHFkrM ←やはり逃げたか 笑

>■外国人参政権、人権擁護法案を推進している(どうでもいいが、ネトウヨには一大事なようなので挙げておく)


国民主権を「どうでもいい」と宣言していたことにより馬脚を現してしまってか逆に開き直ったようで

esmsVHFkrMのお友だちのシンスゴも「ネトウヨ」の単語は在日が使っていると遠まわしに認めたわけだし

「その愚かなで醜悪な主張(誹謗中傷)のために、ここまで、せこいというか、姑息といいうか、涙ぐましいというか、そういう愚行を厭わないそんな類の人たちであることをここに指摘しておく。

こういう(在日シナコリアンの傀儡)が相手だから、みなさん、ご苦労様です。」



  拍手はせず、拍手一覧を見る

フォローアップ:


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法

▲上へ      ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK219掲示板 次へ  前へ

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/ since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
 
▲上へ       
★阿修羅♪  
政治・選挙・NHK219掲示板  
次へ