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南京大虐殺30万人は過大評価なのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/129.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 02 日 06:20:48: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


南京大虐殺30万人は過大評価なのか?


南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=uyVeMusrS-k

日本軍の記録に残る南京大虐殺(軍命令により実施) - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=20HWTlXY-Wc

南京事件資料集
http://www.geocities.jp/kk_nanking/

南京事件(南京大虐殺)の真実
「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ
 http://www.nextftp.com/tarari/index.htm


▲△▽▼

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」

ちゅう命令やった。

天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。
つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。

反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。

するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では
「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。
だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。
中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。

その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/gyakusatu.html

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戦後、蒋介石政府は、中島の第16師団と、「阿修羅」との名をもつ谷の第6師団を、南京攻略の際に39万人の生命を奪った罪で告発した

中国軍の退却が始まった後も、前線の日本軍師団はその追撃の手を緩めなかった。東京の参謀本部は、地図上に線を引きながら、そこが進攻の止まる停止線と発表し、欧米の報道陣に一大ショーを披露していた。

その線上で、兵員は再編成され、天皇よりの秘密指令を受け取るやいなや、ふたたび行動を続けた。

だが、そうした命令の存在は、1964年に、退役した大将たちのグループが本を出版するまで、公表されることはなかった。

 当時、外国人報道陣向けに、前線にいる兵士たちはもはや手に負えず、統制がとれなくなっている、との印象が意図的に作られていた。

だが真実は、兵士たちは大本営が皇居で設立され、自分たちの行動が神的な天皇自身によって監視されていることを知っていたため、それほどに周到で従順な兵は、かっていなかったことである。

 最初の停止線は、揚子江デルタを横切り、11月4日に引かれた。11月24日に、すべての師団がそこに到着した時、天皇の命令(45)により、それは解除された。

参謀本部は、同じ日、80キロ西方に、第二の停止線を設定した。裕仁は、非公式には三日後に、公式には七日後にそれを解除した。

 松井にあてた最初の電報(48)はこう告げていた。

 南京攻撃への一致した決定を得るべく、当本部の面々は着実な議論に取り組んでいるが、最終決定にはいまだ至らず。ともあれ、決定は間近であるので、安心されたし。
 松井のもとの参謀将校たちにあてた、第二の、極秘、至急電報(49)はこうなっていた。

 余は、余の最高幹部の決定いまだ得ずとも、当本部の核心は南京攻撃に傾注しつつあり。しかるに、これを理解し、予断を打ち捨て、前進計られたし。

 ここに言う「当本部の核心」とは、電報を打った下村少将を別にして、天皇裕仁のみであった。また、「最高幹部」とは、もちろん、苦闘する多田中将のことである
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1.htm


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南京大虐殺「史上未曽有の強姦事件」の全貌があきらかに!

「連隊長藤原保中将が、その状況を見て、この町の女も­強姦で消滅すべきだと言いました」

2010年12月29日発表
宮本大尉の手紙 戦地郵便

吉川資君・・

 僕は死にませんでした。十二月十二日、三方面に分かれて南京を包囲しました。南京政府と軍隊が潰走したにもかかわらず、われわれは十三日に予定通り攻撃を始めました。
 今日は、僕は最初に中華門から南京城に突入した一人です。道々には、手を挙げて降参した中国兵と難民であふれていました。

 午後、秋田の藤田一郎が住民宅に隠れている一人の少女を強姦しました。小隊長はビンタを食わしたが、視察で通りかかった連隊長藤原保中将が、その状況を見て、この町の女も強姦で消滅すべきだと言いました。

 この話が伝わるや否や三分足らずして、僕たちは二十人の女を家の中に押し込みました。正直な話、最初は多少不安だったが、うまくやっている仲間たちを見ているのがばからしくなり、臆病者ではないかとさえ思いました。

 僕が不器用そうに一人の中国人娘と争っているのを見て、小隊長は近寄ってきて、足をあげ、革靴で彼女の腹部を思い切りけっ飛ばしました。彼女は悲鳴をあげて、争うのをやめて、地面に倒れ、額に冷汗をたらしていました。
(中略)

 みんなは激しい戦闘に身を投じているように、わめきながら地面に倒れた女に飛び掛かって行きました。とても刺激的なので、みんなは先を争う精神を呼び覚ましていました。

 ついに僕も名の知らないこの女をやっつけました。彼女は、顔をそむけ、泣き続けていましたが、争うのをあきらめました。年齢はせいぜい十五歳でしょう。しかし、抵抗の力はなかなかのものでした。僕は体を起こして他の女を見たら、ほとんどただ泣いていて、我が軍の兵士の思うままにされていました。

 北支の至る所で見かけた貞節の石碑から、中国人女は気性が激しいと思っていたが、ここでは、そのような様子は感じられませんでした。しかしその後、つまり皆が終わりかかった時、僕の下にいた娘が、急に裸のまま飛び上がり、山田の腰の刀を抜き取りました。彼女が刀を持って立ち向かってくるのを防ぐべく、僕たちも裸のまま飛び起きました。わけの分からない叫び声をあげながら、彼女は狂った雌犬のように刀を振り回しました。その間に他の女も起き上がり、背をこっちに向けて、裸のまま抱き合っていました。

 その状況がすこぶる刺激的であったため、僕たちはまた興奮しだし、彼女らに向かおうとしました。

 その時、刀をもったあの女が、その刀を自分の首に当てて斬り付け、倒れました。皆が、びっくりしている間に、女たちは次々と刀を手に取り、首に当てました。先を争って彼女らはその刀を奪い、刀を手にすると躊躇することなく自刃し、地面に倒れました。目は大きく開き、傷口から、血が泡のように湧き出し、ももは痙攣していました。

 僕たちは、裸の女たちが地面でのたうちまわり、死んでいくのを驚いて眺めていて、十何分ほども息をつくことさえできませんでした。軍法による制裁は免れないのではないかと恐れています。

 しかし、家から出て、街の光景を見て安心しました。町は、兵士に追われて走り回っている裸の女、地面には死亡した男、六人の兵士に輪姦されている少女でごった返していました。一人の将校は、反抗する妊婦の腹を切り裂いて、こぶしの大きさの胎児を取り出していました。

 集合の号令が聞こえてきたので、この辺で。

宮本
昭和十二年十二月十三日
南京にて
https://www.youtube.com/watch?v=pnU80VC2IV4&list=PLD2C309DF5CB3BFE3&index=5


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被害者30万人というのは事件直後の欧米人の最も信頼できる調査の結果で、電報で世界中に発信された:

30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報

【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。

犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。

電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。

電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。

2002/12/21 09:31 【共同通信】

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南京大学歴史学部博士課程指導教官で、南京大虐殺研究所副所長の張生教授を取材した際、昨年、米国立公文書館で南京大虐殺に関する資料を収集していたときに、極めて価値のある最高機密文書を発見したことを話してくれた。

日本の広田弘毅首相が1938年1月17日、東京から米国の日本大使館に発信した機密電報だ。米国はそれを解読していた。 (実際には広田自身ではなく、『マンチェスター・ガーディアン』の記者ティンパリーが書いたニュース)

電文の内容は

「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」

というものだ。張生教授は

「これまでに収集した資料のなかでは、最も早く南京の30万人市民の殺戮に言及しており、証拠となるものです」

と指摘。さらに「米国や欧州などでも、第三者による史料の発見が相次いでいます。個人的な判断や細部の描写はやや異なるものの、南京大虐殺が一つの歴史事実であることは広く認められているのです」と強調した。
「北京週報日本語版」より2007年12月15日


ベイツは日本大使館に南京の惨状の報告を毎日のようにしており、その報告は日本外務省に届けられていた。
この報告を読んだ、広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に

「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」


と書いた。広田弘毅も同様の認識であったと見るほかない。

事実、アメリカ駐日大使ジョセフ・グルーは、外務大臣広田弘毅とベイツの報告について話し合っていた。その会見の様子はグルー自身がさらに南京のアメリカ大使館に電報で知らせ、ベイツもそれらの電報を直々に読んで確認していたのである。
http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%B3%B0%CC%B3%BE%CA%A4%AC%C3%CE%A4%C3%A4%C6%A4%A4%A4%BF%A4%C8%A4%A4%A4%A6%A4%CE%A4%CF%B1%B3


当時の外務省東亜局長・石射猪太郎は、1938年1月6日の日記に、

「上海から来信、南京に於ける我が軍の暴状を詳報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

嗚呼、之が皇軍か」

と記述している。

※元資料:石射猪太郎 『外交官の一生』 中公文庫P.332〜P333 (1998年)
http://jseagull.blog69.fc2.com/blog-entry-496.html

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「人民網日本語版」2014年1月8日
日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少

 吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。

 同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。

 1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領した。その後6週間、日本軍はこの世のものとは思えないほど残虐な手段で、中国の市民と軍の捕虜30万人以上を殺害した。だが日本には南京大虐殺の数字の矮小化、さらにはこの犯罪行為の否認を企てる者が常にいる。

 今回の日本関東軍の文書は吉林省公文書館に保管されており、関東軍が中国東北部を統治していた1931年から1945年までの様々な事項が記録されている。現時点で中国侵略に関する世界唯一の関東軍文書であり、非常に貴重で、日本国内にすらないものだ。

 1945年8月15日に日本が降伏を宣言すると、日本軍はこれらの文書を数日間かけて焼却したが、間に合わなかったものを地中に埋めた。これらの資料は1950年に吉林省の工事現場で発見された。(編集NA) 
http://j.people.com.cn/94474/8507124.html


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南京大虐殺 Q&A

Q: 南京大虐殺があったかどうかの問題は、歴史学界などで検証されるべきなのですが、なかなかそれが行なわれないのは、無かった事を証明することは難しく、あったとする方が証拠を示して証明しなければならない。南京屠殺記念館が大規模に拡張改装されましたが、証拠写真とされる展示物も検証すると南京大虐殺を証明するものは一つもないということです。


A: 検証は何十年も前から行われて結果は既に出ており、世界中の歴史学会で南京大虐殺を疑う研究者は一人も居ない。


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回答集は色々なHPにあるので、question-answer の形で引用しておきました:


Q1: 故毛沢東党主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?


A1:中国共産党は知らなかったか
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/gunshu.html


________

Q2: 南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35名と記録されています。しかし、この300回の記者会見において、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。もし本当に大虐殺が行なわれたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか?


A2: 中国は知らなかったか?
http://www.geocities.jp/yu77799/chuugoku.html


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Q3:南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の英国系出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など、到底ありえないとしか考えられませんが、閣下はいかがお考えでしょうか?


Q3: 二十万都市で三十万虐殺?
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou.html

________

Q4:『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。この記録と30万虐殺という貴国の主張とは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?


A4: 日本軍の暴行記録―「49人」か?

http://www.geocities.jp/yu77799/49nin.html

_________

Q5: 南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の屠殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。しかし、その後の科学的な研究 (『南京事件の「証拠写真」を検証する』(東中野他・草思社)など) によって、ただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっております。もし、虐殺を証明する写真が存在しているのでしたら、是非ご提示いただきたいと思います。そのうえで検証させていただきたいと思います。


A 5: 南京事件143枚の写真の再検証
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/mojimokuji.htm
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/sakuin.htm


「プロパガンダ写真研究家」松尾一郎の目の節穴度
東中野氏のむなしい「証拠写真の検証」を論駁する
上海南駅爆撃の写真判定をめぐって
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm



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真面目で優しい日本兵が平気で強姦殺人や猟奇的残虐行為をしたのは覚醒剤が原因だった

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html

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2008.03.11 覚醒剤「ヒロポン」の時代
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html


昭和十八年 新聞広告

秋田魁新報に掲載された中枢神経刺激薬、いわゆる覚醒剤の広告である。今では考えられないことだが、当時の覚醒剤に対する認識は「効果抜群の栄養ドリンク」程度のもので、薬局に行けば簡単に購入することができた。

広告の商品は大日本製薬から発売されていた「ヒロポン」錠剤、「倦怠感、憂鬱感を除去して爽快活溌となし、又眠気の防止あるいは除去に偉効があり、医界各方面に異常なる注目を喚起しております」とのこと。

しかし「ヒロポン」の実態は、一時的に「疲労倦怠感を除き、活力が増大」したように脳に錯覚させるだけで、薬が切れたときは何倍もの疲労感に襲われる傾向があり、長期間の乱用により幻覚作用が現れ、人格の崩壊につながる、きわめて危険な薬であることは言うまでもない。

大正八年に日本の科学者が合成したメタンフェタミンを用いた覚醒剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、それと前後して、武田薬品工業「ゼドリン」、参天製薬「ホスピタン」、富山化学工業「ネオアゴチン」など、二十社を超える製薬会社から同様な処方の薬品が発売された。

なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。


脳力・体力の覚醒賦活剤「アゴチン錠」甘糟商店
昭和十七年 雑誌広告


昭和十八年 雑誌広告

はじめは医療従業者の疲労回復や学生の試験勉強の際に使われていた覚醒剤、それに目を付けたのは軍部であった。夜を徹して働く軍需工場の作業員の眠気防止・疲労回復に使われ、視力向上効果があることから夜間監視の戦闘員、夜間戦闘機搭乗員などに支給され、「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれていたという。

こうして覚醒剤は時局に沿って「国策薬」としての役割を負わされることになるが、これはなにも日本に限ったことではない。米英をはじめドイツも兵士たちに覚醒剤を支給し戦意の高揚を図った。米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。


「ヒロポン」500錠入り

覚醒剤の弊害が表面化するのは戦後の混乱期のこと。敗戦の精神的虚脱にともなう刹那的享楽主義が蔓延するなか、軍部がストックしていた「ヒロポン」が大量に流出し闇で安価に販売された結果、乱用による中毒者が全国的に広がりはじめる。流出したのは純度の高いアンプル剤。ヒロポン中毒は「ポン中」と呼ばれ、「ヒロポン」は「国策薬」から一転「亡国への魔手」と称されるようになる。

一般市民のほかに芸能人、文筆家、芸術家などアーティストの多くが「ヒロポン」におぼれた。小説家では織田作之助、坂口安吾の常用が有名で、「ヒロポン」の登場する作品を残している。


‥‥前略‥‥ヒロポンを用いて仕事をすると、三日や四日の徹夜ぐらい平気の代りに、いざ仕事が終って眠りたいという時に、眠ることができない。眠るためには酒を飲む必要があり、ヒロポンの効果を消して眠るまでには多量の酒が必要で、ウイスキーを一本半か二本飲む必要がある。原稿料がウイスキーで消えてなくなり足がでるから、バカげた話で、私は要するに、全然お金をもうけていないのである。

坂口安吾『反スタイルの記』より(昭和22年「東京新聞」)


 役者も踊り子も食えない。二日ぐらいずつ御飯ぬきで、ヒロポンを打って舞台へでる。メシを食うより、ヒロポンが安いせいで、腹はいっぱいにならないが、舞台はつとまるからだという。‥‥後略‥‥

坂口安吾『安吾巷談 ストリップ罵倒』より 昭和25年「文藝春秋」


昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。同年の県内に於ける検挙者は八十三人、この年大館市では、ポン中の青年が母親に「ヒロポン」を買う金を執拗にせびり、暴力をふるうのを見かねた兄が、弟を絞殺するという悲惨な事件も発生した。

その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html

2009年12月18日
ただのビタミン剤じゃ
◎昭和20年代半ばのヒロポン流行の背景と、対応法令の乖離について
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html


第009回国会 参議院 厚生委員会 第7号 昭和25年12月9日
○藤原道子君 私は厚生大臣にお伺いいたしたいのでございますが、先日来大きな社会問題となつておりまするヒロポンの問題でございますが

(略)

或いはまた聞くところによると賠償等の問題も起るから強い処置ができないというようなお言葉も私たちは聞いているのでございます。

(略)

その中毒患者を見ますときに、17歳から23歳の者が83%もいるということでございます。(略) 若しこのままで参りましたならば、ヒロポン亡国とさえ言われる大きい危險があると思いますので、これに対して、大臣はどういうふうな方法でこれを喰止めようとしておいでになるか(略)

医者の証明書がなければ売つてはいけないということになつているのです。けれども(略)警視庁の報告を見ましても(略) 一つのグループに対して一つの薬局から石油カン一ぱいのアンプルの殻があつた。それは一つの薬局から売られている。

(略)

そこで私は厚生当局に対しまして今製造を禁止する意思があるかないかということ、(略) ヒロポンを、モルヒネのようにアンプルに番号を打つて、一つの製造会社なら製造会社を指定いたしまして(略)必要なところだけに必要なものを流すというような方法を採つたらこの被害が防げるのではないか。(略)

○国務大臣(黒川武雄君)※厚生大臣、虎屋15代目当主
製造禁止のことは現在の法律ではできないのでございますが(略) 早急に思い切つた処置を講ずる必要があることを痛感しております。(略)

○藤原道子君 痛感いたしておると言われまするがどうも頼りないんです。(略)
罰則規定がありながらこれの適用が非常に軽いと思うんでございます。この書類を見ましても富山化学ですか、その他の会社二件がこれに引つかかつているゆですが、たかが十五日の営業停止なんです。

(略)

このヒロポンはもともと戰時中に軍が労働者を酷使いたしますために、労働強化をいたしますため、眠くてはできない、そういうところからヒロポンを使つて労働強化をやつたということを私は聞いておる。

(略)

このヒロポンのこれだけに被害が殖える前にこのヒロポンの害毒というようなものを国民に周知させるためのパンフレットが作成されるとかいろいろな方法が講ぜられなければならなかつたと思いますが、今までにどういう方法をおとりになつて来たか。医師会等にはどういうふうな御協力をお願いされたか(略)

○国務大臣(黒川武雄君) 私としては真劍に考えております。断乎としてやることは藤原君に誓います。細かいことは局長からお答えいたさせます。

○政府委員(慶松一郎君)※厚生省薬務局長
(略)私どもがたとえ行政処分をいたしますにいたしましても、或いは司法上の処分をいたしますにいたしましても、これは十分なる証拠その他がはつきりしませんことにはできませんことは改めて申すまでもございません。

(略)

ときどき新聞等に私どもから申しておりますし、又医師会に対しましても協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 新聞等ということでは駄目なんです。もつと真劍にヒロポンの被害の如何に恐ろしいかということ、それからこういう社会に起つておるあらゆる悲劇等々をわかりやすく書いてパンフレツト等にしてこういうことをやられて来たか、

(略)

一昨日でしたか読売新聞ではヒロポンの問題を騒いでおることを阿諛しておる記事が出ておる。ヒロポンの害ということが書かれるよりも、ヒロポンによつて小説家がその仕事が進行するとか、或いはヒロポンを打つことによつて眠くないからやれるのである。

興味本位のことのほうが大衆の眼には映りやすいのです。ですから今新聞に報道したということは、当局のとられた態度とは受取れない。医師会にはどういう協力をお求めになつたか。

○政府委員(慶松一郎君) 医師会に対しましては、たびたび覚醒剤に対しまする指示、その他についての協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 それから私は素人でわからないのですけれども、医者の証明書というようなものはどういう病気のときにヒロポン使用の証明書が出るのでございましようか。

○政府委員(慶松一郎君) これは非常にむずかしい点がございます。その点につきましていささか御了解を得たいと存じます。

旧薬事法の第41條によりまして医師の処方箋又は指示によつて使うべき薬といたしまして指定されております、若しくはペニシリン或いは、ズルフアミン剤がございまして、それに昨年(略)ヒロポン等の覚醒剤も同様なものとして扱われるようなふうにいたしたのでございますが、

(略)

この指示という意味は、それは処方箋に準ずるものでございまして(略)

最近地方庁から医師が、この覚醒剤に対しまする指示といたしまして一ヵ月分であるとか、或いは一年分であるとかというような指示書をまま出しておるのでございます。それはすべてこの法の精神に合しておらない

(略)

従いましてこれは全く医師の良識の問題にも関する次第でございますが(略) 法的にはどうも違反であるとは言えない点、むずかしい点がございます。

(略)

この問題の解決は何らかの独立的な法規を作らない限りは非常に困難であるということになります。(略)

医者はそれはかわいそうであるということでまあやられるかやらないか、或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして、そういう指示なり処方箋を渡すことも、これは法的に申しますれば違反ではございません。

(略)

例えば今日素人のものがこれを持つておりましても何ら罰則がございません。又密造されましたものを所持しておりましても、これを所持するだけでは罰することができませんのです。

(略)

そういうような立法的な措置が行われない限りは拔本的にはこれを取締ることに極めて難点があるということを御了解願いたいであります。


<以上引用>

◆ヒロポンは大日本製薬(現大日本住友製薬)の商標ですが、大日本以外にも
 同種のおクスリを作って売っていた会社があったということですね。
 (密造というのもあったようですが)

 上記議事録に名前が挙がった会社の沿革 
 昭和20年代はスルーです。

 旧大日本製薬の沿革
 昭和3年から昭和24年の間はスルー。

上記議事録から分るのは、この昭和25年末の時点では、処方箋さえ出ていれば、ヒロポンの所有・売買は犯罪ではないということ。(1年分という真実味のない処方箋も当時は問題なかった) せいぜい、街中の薬局が処方箋なしに売ったものくらいが摘発の対象になる程度。

「医者は(略)或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして」
とあることから、反社会的な人たちから処方箋の発行を強要されていた部分もあったと想像されます。

▼また、この頃は医療報酬に「技術料」的なものが含まれておらず、医者は「各種のクスリを売る/処方箋を発行する」ことで生計を立てていた部分が大きかった様子。

参考:日本医師会 - 戦後50年のあゆみ 1950年
昭和24年秋から本格化した強制医薬分業をめぐる医師会と薬剤師協会の対立は,強制医薬分業の実施を願うGHQのサムス局長(公衆衛生福祉局)のあからさまな介入もあって,日本医師会を揺るがせた。

(昭和25年)4月の定例代議員会で選出された田宮猛雄会長,武見太郎副会長は,サムス局長の不信任通告を受けて辞意表明に追い込まれ,8月には後継会長に谷口弥三郎が選出された。

田宮会長は,4月にサムス局長に面会した際,強制医薬分業の実施に反対して,「日本人には医師の無形の学識,労力に報酬を支払う観念がなく,医師の診療報酬に技術料が含まれていない」との申し入れをしたが,この点にサムス局長が理解を示し,新医療費体系の検討が始まった。

<以上引用>


▼関連リンク
ドラえもん ねむくならない薬 の検索結果

ヒロポン関連の画像

20世紀ひみつ基地 より 覚醒剤「ヒロポン」の時代

中国人民解放軍が3日間眠くならない薬を開発(2011年)


前掲議事録のほぼ1年前のもの

第006回国会 参議院予算委員会 第10号 昭和24年11月30日

○説明員(慶松一郎君) 只今お話になりました覚醒剤でございますが、これは大体戰争中に陸軍、海軍で使つておりましたのは、すべて錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ましておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたのはすべて錠剤でございまして、今日問題になつておりますような注射薬は殆んど当時なかつたと私は記憶いたしております。

そうしてその終戰当時ございましたそれらの薬は、外の医薬品、或いは衛生材料と同様に、占領軍当局、進駐軍当局から厚生省に渡されまして、そうして外の薬と同じような方法によりまして各都道府県に配給いたしたと存じております。

併し私、当時から全体の薬の配給等に関係いたしておりましたが、当時におきましては余りそのことが問題になつておりませんでしたので、果してどういうふうに配給されたか、ちよつと今分らないと思います。併しいすれにいたしましても、今日問題になつておりました製薬は当時殆んどなかつたということが言えると思います。
<以上引用>

 ※この当時流行したヒロポンは、旧軍物資が市場に流出したものではなく、
  当時の製薬会社が当時せっせと作っていたものであることが想像される。

類似品 パンプロン (小野薬品工業、昭和24年) 
photoplay-6

メチルプロパミンとはメタンフェタミンのこと。
要はヒロポンと同じもの。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html

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覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html

 

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コメント
1. 中川隆[-13245] koaQ7Jey 2019年1月02日 06:47:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

百人斬り -- 鈴木 明 『南京大虐殺のまぼろし』の悪質な嘘


「南京大虐殺」のまぼろし (WAC BUNKO) – 2006/6/1
鈴木 明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%BC%E3%82%8D%E3%81%97-WAC-BUNKO-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E6%98%8E/dp/4898315461

中国の旅 (朝日文庫) – 1981/12
本多 勝一 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%97%85-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022608056

南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌 – 2009/1/1
本多 勝一 渡辺 春己 星 徹 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%A8%E3%80%8C%E7%99%BE%E4%BA%BA%E6%96%AC%E3%82%8A%E7%AB%B6%E4%BA%89%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%B2%8C-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4906605532

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1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。

このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。

そうした試みの代表的な(そして最も「成功」を収めた)サンプルと言えるのが、鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』です。

この本はその前半およそ半分を、南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎない「百人斬り競争」事件の否定に費やしています。鈴木氏はこの事件の信憑性に疑問を投げかけることで、本多氏のルポ全体、ひいては南京大虐殺全体が根拠のない「まぼろし」であるかのような印象を与えようとしたのです。

鈴木氏の「批判」が当たっていないこと、それどころか逆に『南京大虐殺のまぼろし』の方が証言の歪曲や捏造だらけであることは既に明らかになっているのですが、一時は多くの人がこの本に騙されました。

下記の議論が示しているように、最近になってさえこの件をネタに『中国の旅』を攻撃しようとする論者がしばしば現れます。残念なことですが、一度広まったデマは容易に根絶しがたいものなのです。

『南京大虐殺のまぼろし』後半部分については、そのデタラメさ加減を指摘する記事が「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。また、小林よしのりとの共著『朝日新聞の正義』でこの百人斬りを否定しようとする井沢元彦の無知ぶりとトリックを指摘する記事が、同じ「インターネット大学グローバル・カレッジ」に掲載されています。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/hyaku.htm

▲△▽▼

野田、向井両少尉を裁いた南京軍事法廷の記録そのものがあります。

鈴木氏の『南京大虐殺のまぼろし』や洞氏の『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』が書かれた時点では公開されていなかったのですが、今では中国側から公開された一部の記録(起訴状と判決書[8])を見ることができます。

この判決書を見ると、被告側の言い分として記録されているのは、

「『東京日日新聞』の記事は偽りであり、被告の武勲を称揚して日本の女性の羨望をあつめ、早く良縁を得られるよう期したものである」

という主張だけです。(この主張は確かに前記の「上申書」にも出ています。) もし被告側が裁判の過程で、問題の時点で現場にいなかったという重大な主張をしたのならば、まずそのアリバイ主張が(例え一蹴されるにせよ)第一に記録されるのが当然ではないでしょうか。断定はできませんが、判決書に出てこないということは、裁判の過程ではそのような主張がなされなかった(つまり、向井少尉自身が自分のアリバイを*知らなかった*)のではないかと思われるのです。

というわけで、各種の証言・証拠を総合すると、少なくとも百人斬り記事が浅海記者の創作などではなく、両少尉が語った内容を大体そのまま書いたものであることはほぼ確実です。そして、もとより白兵戦の中で向かってくる敵兵を斬り殺すことなどほとんどあり得ない以上、野田少尉が告白しているとおり、この百人斬りの大部分は捕虜虐殺の据え物斬りとして行われたと見るのが妥当なところでしょう。
百人斬りなどは南京大虐殺全体から見ればほんの一エピソードに過ぎないので普通なら今更こんな事で議論する必要はないのですが、未だにこのエピソードをネタに真面目な研究者やジャーナリストの仕事にケチをつけたがる人がいるので、私もやむを得ず知識の範囲内で対応しているわけです。

例えば、『南京大虐殺のまぼろし』には、「南京刑務所で、向井氏が処刑される寸前まで、彼と共に生活をした」小西さんという方からの手紙が紹介されています。

ところが、たまたまこれと同じ(としか考えられない)手紙が山本七平氏によっても別のところで紹介されており、この二つを比較してみると、細かい部分で多数の食い違いがあるだけでなく、重要なポイント部分にも相違があるのです。『南京大虐殺 -- まぼろし化工作批判』ではこの二つの手紙が上下2段組みで並列に示さ
れているので是非見比べて下さい。これを見ると、大して長くもない手紙に細かい言い回しや事実関係に関する食い違いが何十個所もあり、その上、次のような重大な疑問点があります。


(1)山本氏紹介の手紙では、冒頭に

「偶然な機会に週刊新潮7月29日号の…記事を見ました。」

とあり、途中にも「貴誌既報の如く」と週刊新潮宛てに書かれた手紙であることがはっきり示されているが、鈴木氏の紹介ではどちらもカットされている。鈴木氏が自分宛ての手紙であるかのように装った疑いが濃い。


(2)鈴木氏紹介の手紙には

『…彼らが着いて直後、予審とも記者会見 ともわからないようなものをやり、この人たちが初めから異常な扱いをされていることはすぐにわかりました。「事実は明白である。如何なる証拠を出しても無駄である」といっていたそうで、大虐殺の犯人として事件に決着をつける政略的なものであろうと我々も話していました』

と いう部分があるが、山本氏紹介の手紙ではここが中略されている。ここはこの裁判が予断に満ちた不当なものであったことを示す重要な部分なので、あえてここを中略してしまうとは考えにくく、そのような記述は実際にはなかった可能性が高い。


(3)同じく、鈴木氏紹介の手紙の末尾には

『刑の執行の朝、彼等が、軍事法廷になっていた二階で、“天皇陛下万歳、中華民国万歳、日中友好万歳”と三唱した声が今でもはっきり蘇がえってくるのであえてここに筆をとりました』

という部分があるが、これも山本氏紹介の手紙では後略されている。ここも両被告の堂々とした態度を示す印象的な部分で、あえて略してしまうとは考えにくく、鈴木氏の創作である可能性が高い。

洞氏は、

『鈴木氏はよくもまあ、他人の文章をこうも勝手に改竄したものだといわざるをえない。

…鈴木氏が、こうした資料の扱い方をあえてしたとすれば、氏の「追跡ルポ」のききとり方も、相手の話したところがどこまでそのとおりにつ たえられているか疑わしくなる。

フィクションならともかく、こんなルーズで恣意な資料のあつかいをしているのでは、『「南京大虐殺」のまぼろし』は、「ノンフィクション」・史書としては失格なのではなかろうか。 』


と述べていますが、私もまったく同感です。


また、ジャーナリストの和多田進氏は、『「南京大虐殺」のまぼろし』 が単行本になった1973年に台湾に渡り、鈴木氏の本にも出てくる石美瑜氏(両少尉を裁いた裁判の裁判長)にインタビューしています。その結果、鈴木氏が身元をごまかし、取材目的も告げずに会っていたこと(石氏は鈴木氏のことを向井か野田の息子またはその友人だと思っており、鈴木氏の本のことも知らなかった)、鈴木氏は石氏の上海なまりがひどくて話が聞き取れなかったというが、実際には台湾生まれの通訳でも会話に何の不自由もなかったことなどが明らかになっています。


肝心の石氏の証言も、鈴木氏のテープにあるという

『この種の裁判には何応欽将軍と蒋介石総統の直接の意見も入っていた』

とか

『向井少尉が日本軍人として終始堂々たる態度を少しも変えず、中国側のすべての裁判官に深い感銘を与えた』

などという話は出てこず、逆に

『裁判で明らかになったことのひとつは、「百人斬り」競争に際して、二人はブランデーを賭けていたということです。』

とか

『二人の家族にも言ってもらいたいことだが、中国人はこの戦争でおそらく1000万人も死んでいるだろうということだ。もし証拠がなくても処刑できるのだということになれば、日本の軍人はすべて処刑しなければならないということになるだろう。しかし、われわれは報復主義はとらなかったということです。』


といった証言が得られています。


鈴木氏が石氏の証言として

『五人の判事のうち三人が賛成すれば刑は決定された』

などと書いているにもかかわらず、判決書によれば実際の裁判官は*四人*であったことなどを考えれば、それは自明であると私は思います。

いまだにこのような「取材」によって書かれた本をネタにして本多氏の「ジャーナリストとしての姿勢」にケチを付ける人がいたり、この件の決着がどうついたのかさえほとんど知られていない、というのは実になげかわしいことです。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/nangjin/hyakunin/fj960923.htm


▲△▽▼

望月五三郎手記


 望月五三郎氏は事件当時両少尉と同じ部隊におり、両少尉による「競争」を目の前で見ていた当事者である。望月氏は1985年に私家版として刊行した手記『私の支那事変』の中でこの事件についても触れており、この「競争」の実態が、捕らえた罪もない農民を二人で争って斬り殺した殺人競争であったことを赤裸々に描き出している。志々目証言とこの手記によって、百人斬りの真相はほぼ明らかになったと言っていいだろう。作り話でもなければもちろん戦闘行為でもなく、無抵抗な捕虜や農民に対する虐殺だったのである。

 ちなみに、この手記は刊行後埋もれたままになっていたが、歴史否定勢力が両少尉の遺族を原告に仕立てて本多勝一氏や毎日新聞、朝日新聞などを「名誉毀損」で訴えた裁判の過程で、新資料として発掘された。愚かな否定派の策謀も真相究明に役立つことがある、という好例であろう。


百 人 斬 り     昭一二・一一・二七 〜 昭一二・一一・二八


 線路に沿って西へと進む。無錫の手前八kmあたりで、敵の敗残兵約ニケ中隊に遭遇し、激戦の末、約三○名を捕虜にする。敗走する敵は無錫へとのがれた。
 無錫は工業都市であるが戦下の無錫の煙突の林立には煙一つ昇っていない。曽つての煤煙であたりの建物はどす黒く染って陰気な街である。

 速射砲が敵陣の壁めがけて発射された。速射砲とは発射すると直線で弾がとぶ、発射音と同時に、ドン、ドカン瞬間にはもう弾は壁を砕いている物凄い破壊力である。引き続き野砲の援護射撃が始まった。その間に中隊は前進する、援護射撃は有難いが、観測を誤ったのか、我々をはさんで前と後に落下する。そしてその間隔がだんだん我々に近づいてくる。鯖中隊怒り心頭に達する。

 やがて砲撃はとまり、敵は常州方面へと退却した。

 常州へと進撃する行軍中の丹陽附近で大休止のとき、私は吉田一等兵と向ひ合って雑談をしていると、突然うーんとうなって腹をおさえながらうずくまった。流弾にあたったのである。

 「おい吉田」と声をかけたが返事がない、死んでいるのである。即死であった。もう五寸位置がちがっていたら、私にあたっていたのである。私はほんの五寸前で死んでいった吉田一等兵をこの目で見た。葬むるにも時間がない、衛生隊にお願ひして、心を残しながら行軍に続いた。

 このあたりから野田、向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第一一中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として、行軍中は馬にまたがり、配下中隊の命令伝達に奔走していた。

 この人が百人斬りの勇土とさわがれ、内地の新聞、ラジオニュースで賞賛され一躍有名になった人である。

 「おい望月あこにいる支那人をつれてこい」命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが、やがてあきらめて前に座る。少尉の振り上げた軍刀を背にしてふり返り、憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。

 一刀のもとに首がとんで胴体が、がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も、少尉の手前じっとこらえる。

 戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが、抵抗なき農民を何んの埋由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。

 その行為は、支那人を見つければ、向井少尉とうばい合ひする程、エスカレートしてきた。 両少尉は涙を流して助けを求める農民を無残にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を連隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。

 この残虐行為を何故、英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから、支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり、報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。

 今戦争の姿生がうかがえる。世界戦争史の中に一大汚点を残したのである。(後略)
(季刊『中帰連』2004年秋号)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/mochiduki.htm

▲△▽▼

向井氏の遺書


百人斬りの実行当事者である向井氏は処刑前に遺書を残しているが、この遺書には、東京日日新聞による報道は彼ら自身の話した内容を記事にしたものであることが明記されている。つまり、向井氏本人が、記事は浅海記者による捏造などではないと言っているのである。更に、「公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります」と述べているとおり、向井氏は記事に書かれた百人斬り競争を行ったこと自体は認めている。(それは戦闘行為であって虐殺ではなかった、と言っている訳だが、銃器で武装した敵兵を戦闘中に何人も日本刀で斬り殺すことなどできるはずがないことは言うまでもない。)

以下、この遺書の一部を再録する。

この向井氏の遺書では、百人斬り競争を新聞記者に話したのは野田氏ということになっているが、野田氏の方は、話したのは向井氏だと父親への手紙に書いている。


なお、「百人斬り」を捏造だと主張する鈴木明氏は『「南京大虐殺」のまぼろし』に向井氏の遺書を引用しているが、なぜかそれは下記の「辞世」の部分だけで、都合の悪い後半部分は無視されている。


[1] 南京事件調査研究会編 『南京大虐殺否定論13のウソ』 柏書房(1999) p.111
[2] 鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋(1973) p.77

  辞 世

 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。

 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。

 中国の御奮闘を祈る
 日本敢奮を祈る
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳

死して護国の鬼となります
 十二月三十一日 十時記す 向井 敏明

  遣 書

 母上様不孝先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽しましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐しい国です。

 野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御託ぴして置きました。

 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞賛されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。(後略)

巣鴨遺書編纂会 『世紀の遺書』 (1953年)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/mukai.htm

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志々目証言


帰国した野田少尉が故郷の小学校で講演した内容を、後輩の志々目彰氏が聞いたもの。勇猛な白兵戦として報道された「百人斬り」の実態が、実は捕虜虐殺の据え物斬りであったことが、本人の口から率直に語られている。


 戦記雑誌『丸』が11月号で「日中戦争の全貌」という特集をしている。その中に当時毎日新聞社会部陸軍報道班員鈴木二郎氏の「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」という貴重な回顧録がある。

 この文章は、栄誉をかけた“百人斬り競争”として二名の青年将校が南京攻略戦の中で二百名以上の中国兵を日本刀で切り捨てたことから始まっている。ところがこの事を、私は小学校の時本人から聞いて知っていた。それは私にとって“中国体験”のはじまりでもあった。

 それは小学校卒業の一年前、昭和十四年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級となった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持ちが弾んでいたのとを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというパリパリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。

 私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官吏で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊っちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校へ進む土地柄であった。私自身その三年のちに陸軍幼年学校の生徒になったのだが、陸軍将校には特別の憧れや関心をいだいていなかった。それは、長兄の影響――日夜海軍兵学校のことを言いくらし、希望をつらぬいて江田島に入り、終戦の百日前に水上偵察飛行隊の分隊長として戦死した――を強く受けて、熱烈な海軍ファンだったからかもしれない。

 さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったのかもしらないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。

「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 二人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……」


 これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵……なぜ中国兵は逃げないのだろう? 反抗しないのだろう? 兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。

 そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。

「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる……」

という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。これは竹内好さんや安藤彦太郎さんたちのいう“兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。

 その頃の私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する“ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどとは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに……

 だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという“勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。それ以上のことは幼い自分には分らなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果して“聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い出すようになっていた。

 そして敗戦。変り身のはやくない私は、二・一ストのあとまで、依然として軍国主義者だった。そのころ極東裁判が開かれた。マスコミと世論が旧軍隊の、ことに戦争遂行の骨幹であった正規将校の腐敗をあばく度にくやしがっていた私だったが、南京虐殺事件の報道はすなおに受けいれることができた。N少尉の話の全体像がつかめてきたように思い、自身もにない手であった日本帝国主義の対外的な責任を考えるようになったのは、この頃からであった。(後略)

志々目彰「日中戦争の追憶――“百人斬り競争”」(『中国』1971年12月号)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/shijime.htm


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報道関係者の証言


浅海一男 元東京日日新聞特派員 (第1報〜第4報共同発信者)


(前略)連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな“大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。(中略)筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向うから立ち寄って来たのでした。(中略)

両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残ってないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終りの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話にやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのでした。

(中略)
 事実、「敵」を無造作に「斬る」ということは、はげしい戦闘間のときはもちろんですが、その他のばあいでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍した戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。筆者は、あの戦線の薄れた記憶のフィルムのなかでも、次のようないくつかの場面だけは脳裡に焼きついて離れません。

 例えば確か丹陽の少し手前(上海寄り)にあった中華民国歩兵学校が占領されたとき、その裏手の広場に、数十体の国民党軍の兵士の遺体が横たわっていて、それらの遺体にどれひとつとして頚部から上の部分が見られなかったときの筆者の驚ろきと暗澹たる心情は忘れがたいのです。

(中略)

 このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後三、四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変わっていましたが)に現われてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか丹陽をはなれて少し前進したころに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終るとあまり雑談をすることもなく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。(後略)

浅海一男「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.340-347)

鈴木二郎 元東京日日新聞特派員 (第4報共同発信者)

(前略)わたくしたちは昭和十二年十二月十二日に、砲弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京*線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熟、蘇州、無錫と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の百人斬り競争≠ニいう特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。

 この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、『虐殺』の訴因の一環として、証人指名、呼出状となたのである。
 南京いりして展開する『虐殺』に接する前に、『虐殺』とみられたこの百人斬り競争≠フ始末をのべてみる。

(中略)
 検事の喚問は、やはりこの競争≠『虐殺』として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の競争≠フ真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの競争≠計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、

二人とも逃げるのは斬らない

 といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、

『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない、虐殺ではない』

 と強調した。

 検事側にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それかあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証人台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間『書類不備』?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控え室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、『もう二人ともこなくてよい』といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証人台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。

 しかし、両将校は国府側にとらわれ、これを知らされたわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。(後略)

鈴木二郎「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」(月刊『丸』1971年11月号)
(本多『殺す側の論理』p.190-191)


そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんと一緒になり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである“赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは……。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです。

本人たちから、“向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなものを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で“見たまま”“聞いたまま”を記事にして送ったんです

『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.36

(前略)一体、昼夜を分たず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中にゴール#翌チた二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。南京入城の際私は三十歳、この従軍を加えて、幼児からしばしば死に直面したが、他の事は忘却しても、死に直面の場面は今でも鮮かに脳裡に浮かぶのである。

(中略)
 しかし、残念な事に、資料Cとして紹介された月刊誌『中国』の一九七一年十二月号にある志々目彰氏の「日中戦争の追憶」――百人斬り競争≠フ文が、私を愕然とさせた。その文章には、鹿児島県出身のN少尉が小学校での講演で「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……」とまず、私ども東京日日新聞(現毎日新聞)の百人斬り競争%チ電を裏付けた発言が紹介されていたのは当然の事ながら、つぎのような驚くべき発言があった。

 実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……

 占領した敵の塹壕にむかってニーライライ≠ニ呼びかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……

百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……

二人で競争したのだが、あとで何ともないか、とよく聞かれるが、私は何ともない……

とあり、更に志々目氏は、つぎのようにつづけている。


「ニーライライ≠ニいうと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる」という言葉は今でもはっきり覚えている。ニーライライ≠ニいうのは、お前来い来い、という意味だそうだ。(中略)

だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという勇士の体験談は、私にはショックだった、云々。


 志々目氏が小学生のころ、本人から聞いて知って受けたというこのショック≠ヘ、二将校の「逃げるのは斬らない」という言明を深く信じていた私どもには、あの特電≠ゥら四十年にもなろうとする現在、大変なショックを覚え、「裏切られた」という感じで一パイである。

 戦後、浅海一男君ともどもこの百人斬り競争≠フ特電をもとに、市ヶ谷台の東京裁判で、南京虐殺事件の検事側証人として喚問された際、特に二人が強調したのは「二人とも逃げるのは斬っていない、立ち向かう敵だけを斬った、虐殺ではない」ということだった。そしてまた、その事を信じての特電だったからだ。
 志々目氏の聞いたN少尉の講演は、或いは同少尉が、戦捷のさ中に、帰国して勇士≠ニして歓迎され講演を頼まれ、いささか調子に乗って、話を面白おかしく(当時として)する気持ちで話したのかも知れないが――

聖戦≠信じ、勝つある事を信じて、夢中で戦場を馳け回り、九死に一生を得て、今日ある時、今更ながらわれらの「特電」の空しさに反省させられたのである。

鈴木二郎「当時の従軍記者として」(本多編『ペンの陰謀』 1977年 p.356-358)

佐藤振寿カメラマン (第4報掲載写真撮影者)


とにかく十六師団が常州に入城したとき、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが“撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。

私が“なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、“この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。 “へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が“常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。 私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ。


 あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけれど、確かどちらかが、“あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているのだ、という話だった。 ――それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ。

『週刊新潮』昭和47(1972)年7月29日号 p.35
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/houdou.htm


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据え物斬り体験者の証言


鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上もの中国人を、主に日本刀(「備州長船祐定」および昭和新刀「助川貞光」)を用いて虐殺した体験者であり、中華人民共和国における戦犯裁判において、大尉以下の800名の中ではただ一人重刑判決を受けた。以下、氏の告白手記『日本刀怨恨譜』(本多勝一編『ペンの陰謀』収録)から引用する。(小見出しは高橋による。)

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1942年5月、最初の斬首体験


 竹薮を背に、私は半身に構えて農民の左後方に立った。彼の瞼は腫れ、口からは血が流れていた。祐定を抜くと、一五人許りの日本兵のざわめきが消えた。 ……

苦し気な農民の息づかいだけが聞こえる。刀を構える直前、農民の斬撃点である後首を見て、一瞬当惑した。斜め下に見るそれは僅かに二センチ位にしか見えない。沙陽鎮の立木とは雲泥の相違である。外れると後頭部か肩を横一文字に斬ることになり、その瞬間、将校としての威信失墜必至である。而も初体験であり、成功の保証はない。 ……二秒、三秒、グッと刀を振り上げた。――

「エイッ!」

ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、九分通り斬れた首が胸に巻きこむように倒れた。斬った瞬間真っ赤な血が噴水のように三、四本吹きあがり、胴体は血溜りの中にのめりこんだ。自分自身が下手人であり、それこそ万死に値する罪を犯したのに、逆に私はホッとした心境で刀の血糊を拭いた。

(略)

御稜威≠フ下(天皇の威光の下)赫々たる「戦果」に酔っていた皇軍の一つの側面は、明らかにその底流で敗戦の要素が比重を高め、進行しつつあったことである。だが、私はそんなことなど露知らず、勝手な総括をしていた。――


一、祐定は切味と重さのバランスがよく、うまく斬れた。刃こぼれや目釘損傷なし。

二、日本刀は無抵抗の人間(奮戦したが刀折れ矢尽きて不幸にして逮捕された捕虜)の「据え物斬り」には最適である。つまり小銃拳銃の如きでは射撃音響が大きくて殺人現場が喧騒となり、まかり間違えば友軍(味方)を殺傷することもある。その点日本刀は軽便にして殺傷力大で、殺人現場は概して静粛に保たれ、日本刀使用者の技量のかなり低い者でも十分成果が期待し得る。従って刃がしっかりし、折れ・曲りの顧慮少ない刀の場合は、一挙に五名乃至十名の連続斬首は十分可能と思われる。但し「警備地区内」での殺人は予め穴を掘り、斬首後直ちに埋没の準備をしないと、最大の欠点たる大量の流血のために「刑場汚染」となり、具合悪く、注意を要する。

三、但し白兵戦闘の場合はその刃渡り(刃部の長さ)はとても着剣小銃に対抗できず、而も軍刀として外装したものは重くて成果は期待し得ず、従って単に将校の単独軍装として兵を指揮する場合のサーベル的役割を果たせる程度のものに過ぎない。


1944年、民間人9人の連続斬首

 私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(嶺、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。

ドスッ≠ニ鈍い手応えと同時に、噴水の如く二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無残。ただよう血の匂い。 ……

つづいて私は次の四十がらみの村幹部の後方に廻った。

(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)

 目釘は異常ないが、刀身はわずかに曲りが出たようだ。

(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)

 次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。

(失敗だ!落ち着け!)

 私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。

「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」

 私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四○センチの所に膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元にもどしたが、僅かな曲りは残った。

(エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)

 そのとき、聞き覚えのある不気味な歌――「抗日歌」を、5人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。

「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」

 だが不安がふとよぎった。 ――

(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心して来たではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。……

そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)


 そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な泣き声は続いていた。私は一段と凶暴に刀をふるって斬った。目釘は更に彎曲して緩み、顎元がガタガタになって来た上、再び刀身の四○センチまでが右五度に曲った。そのために二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。

 血の匂いはしばらく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。

 この蛮行は勿論私の独断専行であったが、情報主任の権限として何等越権ではなく、寧ろ「天皇の軍隊」への反抗に対する統帥権の当然の発動とさえ思っていた。事実、翌朝、連隊長山田正吉大佐(陸士二九期)に情報・捕虜関係事項の報告の後この問題を詳細報告したところ、

「ウン、馬鹿に派手にやったな……」

と苦笑いしただけで、何のお咎めもなかったのである。

「百人斬り競争」に対する鵜野氏の感想


昭和十二年十一月 ― 十二月の日本の新聞は、連日南京へ進撃する皇軍のニュースで埋まっていた。とりわけ私の関心は、野田・向井両少尉の百人斬り競争であった。今日は何人目と報ぜられる記事は何者にもまして素晴らしく、一八歳の私の胸は皇国の無敵ぶりへの確信を一段と高めたものである。当時私は幼稚な「天下無敵大和魂武勇伝」を盲信していたので、百人斬りはすべて「壮烈鬼神も避く肉弾戦」(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが、前述の私の体験的確信から類推して、別の意味でこれは可能なことだ――と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。

しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合、穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが、進撃中の作戦地区ではまさに「斬り捨てご免」で、立ち小便勝手放題にも似た「気まま(イ盡)な殺人」を両少尉が「満喫」したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが、それもそう大したことではなかったのだろう。また百人斬りの「話題の主」とあっては、進撃途上で比隣部隊から「どうぞ、どうぞ」と捕虜の提供を存分に受けたことも類推できようと言うものだ。

要するに「据え物百人斬り競争」が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に

「戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々」

とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵で斬ったのか真偽のほどはきわめて疑わしくなる。何れにせよ、こんなにはっきりしていることを「ああでもない、こうでもない」と言うこと自体馬鹿げた話だ。

私を含めて何百何千もの野田・向井がいて、それは日中50年戦争――とりわけ「支那事変」の時点での無敵皇軍≠フ極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/uno.htm


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その他の大量斬殺例


「衣」師団(第59師団)第45大隊の元伍長、鈴木丑之助氏が、「首切り浜野」と呼ばれていたある中尉について語った内容が、次のように紹介されている。
…「衣」の「秀嶺作戦」と、引き続く撤兵で、山東省という膨大な空白が残るが、ここに替わりの師団を配置する余裕はない。それで、「衣」各大隊から少しずつ兵を抜き出して独立警備大隊というのを作ったわけだ。規模も従来の大隊規模に及ばないものだった。

 隊長には、第四五大隊の浜野仁中尉(栃木県出身)が任命された。浜野中尉は、皇軍で「首切り浜野」という異名を自他共に許していた。第四五大隊のなかに、彼が中国農民の首を日本刀で切り落とすのを、見なかった者はないとまで言われた。作戦に出て、途中見つけて案内人として使った中国人であれ、駐屯地周辺の部落民であれ、次々と首切りをしているうちに、彼は毎日一人は切らないと気が休まらなくなったようだと、兵士たちは思っていた。

 彼の部下たちは、彼によって中国人首切りのコツを伝授された。彼によって、妊婦の腹の割き方、幼児の殺し方を教わった。その中には「人間がウドンを食べている途中で首を切ると、どう見えるか」などという“実験”まで混じっていたという。中国人民軍側は、彼に多大な懸賞金を掛けてその跡を追ったが、行った道と同じルートを、決して戻らないという彼の侵略行のやり方と皇軍の支援とで、九死に一生を得た。八路軍は、遂に彼を取り逃していた。「首切り浜野」を自他共に許す彼は、これによってますます優秀なる皇軍兵士としての立場を固めていた。

熊沢京次郎『天皇の軍隊』(現代評論社 1974年)p.348

自らも連続9人の据え物斬りを体験している鵜野晋太郎氏は、軍刀で50人以上を斬ったと噂されていたある下士官について、次のように書いている。


 そのころ大隊本部に、公式には「喇叭長兼本部書記」の肩書の藤井曹長がいたが、私は彼に妙に心をひかれた。もともと幹候出身将校に対し、下士官は悪意を以て接するものだが、彼のさり気ないさっぱりした気風は好感が持てた。それにもまして確度の高い噂では、藤井は軍刀で50人以上、一説では100人以上斬っていると言われていた。(略)彼との交わりは半年に満たなかったが、彼の“殺人訓”を要約すると、次のようになる……

「私が50人なのか100人なのかと聞かれても答える口はもちませんよ。差し料(自分の所持している刀剣)が普通程度のものであれば、白兵戦で敵と渡りあってガタガタにならない限り、据え物だったら相手が抵抗できんように痛めてあるから、100人位十分殺れるんじゃないですか。 …そして相手を人間と思わんことですよ。まあ私は犬コロくらいにしか思ってませんから、まず失敗なんてありっこないですよ。ホラ見てください、これを……」

 藤井は差し料を引き抜いて切っ先の部分を指さした。 ――

「スーと細い擦った線が沢山見えるでしょう。 ……首を斬った時につく頚骨が擦れた跡です。だからこの一本一本の線を数えれば何人斬ったか判りますよ。しかし将校さん方から時々、白兵戦で何人も何人も斬ったという話が流れるが信じませんね。 ……そうでしょう。

刀ほど危ないものはないですよ。一対一でも着剣小銃手と闘っても勝てないですよ。 ……

まして一対二なら一辺ですよ。ツンゴピン(中国兵)が本気になったら怖いですよ。だから私は、据え物で何十人斬ったと言うのなら信じますがねえ。

……日本の兵隊の着剣小銃での刺殺ならあり得ますよ。あれなら殺れますね。

……明治維新での新選組の池田屋の斬り込みは、最低三人が一団となってのことですから、あれでは斬れますよ。だから軍刀の武勇伝と言うのは嘘ですな……」


 私は藤井の教訓を、敗戦までの間、私自身が犯した数多い斬首殺害の手本としての影響を強くうけたし、とりわけ藤井の差し料の頚骨の多数の擦過痕は私の心を捉らえ、一日も早く沢山斬りたいと言う衝動に駆られた。
(略)

 昭和十八年はいろいろと戦闘の多い年で、負け戦もあった嫌な年であった。早春の頃、私は藤井と共謀――と言うよりむしろ彼に三拝九拝して、日本憲兵隊の密偵(中国人の漢奸)を暗殺して貰ったことがある。

あの頃の情報関係者は密偵に塩の独占搬入権を与えて使っていたが、憲兵が大隊の縄張りを荒すので、業を煮やしてその密偵をだまして連れ出し、藤井に背後から不意打ちさせて殺したのだった。彼の慣れた刀捌きに私は恍惚としたし、益々殺意が体中に漲った感じで、毎朝真刀(つまり軍刀)で“百本振り”をやって自慰したものである。

鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」

(本多勝一編『ペンの陰謀』 潮出版社 1977年 p.379-380)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/sonota.htm

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日本刀の殺傷力

刀剣研究家成瀬関次氏は、戦時中刀剣修理の技術者として大陸に渡り、多数の損傷刀の修理を行った。氏は、実戦で使われた軍刀を修理した経験から、「研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼きつぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ」と断りつつ、「概して日本刀は強靭なものである」とその実用性を保証している。以下、氏の著書『戦ふ日本刀』からその一部を引用する。


 今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人という敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、部下のかうした武功談を屡々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、5月初旬、蘭陵鎮へ行軍途中、左荘といふ部落の近くで、刀疵で倒れてゐる敵の死体十幾つかを見た事があつた。
 …

 蒙橿の天鎮城内で敵と戦った時、逃げようとすれば十分に逃げられるのに、日本軍の抜刀突撃にあつて、一たまりもなく気が挫けて了つたのか、城門際に折り重なつてひしめいてゐたので、敵が多すぎて斬るのに骨が折れたと、或る兵隊は語つてゐた。(p.25)


 面白い事は、兵種、戦闘の難易、地形其の他によつて、刀の損傷に共通点のある事で、例へば文字通りに血戦した部隊の刀を手にして見ると、判で押したやうに同じ傷み場所は、柄糸の磨り切れてゐる事、鍔元がぐらつき目釘が折れてゐる事、刀身の先の方が多くは左に曲がつてゐる事、同じ刀身の先の方に刃こぼれのある事の四つの点であり…(p.36)

 自分は、日本刀の鑑識者ではなく、さうした知識には浅い者である。元来、古武道の内にくるめて、武用的方面から日本刀を見て来たのであるが、弾雨下の一線に従軍して、さうした所でなくては見られない血と泥≠フ破損刀を手がけ、二十数回の斬撃を目のあたりに見て、戦場で使ふ日本刀は、かうしたものでなくてはならぬといふ、本当の業物の姿をとらへて来たのである。(p.37)

 斯様な事を述べると、一見斯道の異端者とも見えるだらうが、実際にあたつて見て、元来から物打に二分からの刃ギレのあつた刀で、敵十五六人も斬つて何ともならず、却つて他の部分に刃こぼれの出来てゐたものも見、切先が蛇の口(口を閉ぢたる)のやうな刀で七名から斬つたのも、他に疵はついても、その部分は何ともなつてゐなかつた。

 概して日本刀は強靭なものである。ただ、研ぎべりのした、刀身のへなへなと薄い刀、焼け身、中心を焼つぎにしたもの、洋鉄を延して焼きを入れただけの昭和刀、手に合はぬ直刀等は、避けねばならぬ。
 刀身の選定については、ただ名のある人といふよりも、刀の売買に関係のない、軍人などの鑑定家とか、実戦に経験のある人に見てもらふのが第一である。(p.40)

 今、全国に残つてゐる昔鍛の日本刀はどの位あるか。推定四百万振といふのである。
 …

 右の内の約六七割までは、新刀新々刀とはるる刀であつて、大阪夏冬の陣前後から以降の作刀である。徳川時代から、明治大正にかけては、大量の日本刀を戦陣に於て試みるやうな機会はなかつた。

 日清日露の両役にしても、今次の事変に比較して見ると、物の数でもなく、彼の天草の乱、戊辰戦争、西南の役にしてからが、量的にはさう大したものでは無かつた。
 …

 今次の事変では、…一面恐ろしい器械化戦が行はるると共に、他面一騎打の原始戦が盛んに行はれ、戦風は一部元亀天正に逆戻りしたかのやうなところさへある。その上、未曾有の廣い戦線で混戦的に戦ひつつあるのと、昭和九年来日本刀そのままでの使用が、事実上復活となり、戦線では軍の中堅をなす下士官全部が兵種を問はず佩用する事となつた等から、爾来日本刀が実戦に於いて有史以来の使用量を見せるに至つたのである。(p.41-42)

 八木工兵中尉(此の人は静岡県相良町の名望家で、徐州戦当時筆者は共にその北部戦線に居た。)最近中支奥地からのお便りの中に、


……あつけない程脆く首が落ちた。昔からぬれ手拭いをはたく様な音がすると云はれてゐるが、まさにその通りでハツフツといつたとたんに四尺もすつ飛んで一声もない。(中略)この一戦で非常に大なる信念を得た。自分の刀で敵を斬り、その刀に信頼を持つた時から、武術が生きてくる。つまり刀も武術の内だ。云云。

 中尉の佩刀は、大阪石堂康廣の若銘安廣で、二尺三寸余、自分には見覚えのある刀である。(p.57-58)

 或る暑い日であつた。開封城内の修理班へ時目といふ変つた姓の少尉が自身刀を持つて修理にやつて来た。…無銘古刀の武家伝来らしいよい刀を持つてゐた。それで南京攻略の軍中三十七人を斬り、徐州戦で十人、都合四十七人を手にかけ、縛り首は一つも斬らなかつたといふ。


 …

 刀を見ると、血糊で白くなつてゐる。性質のよい古刀で骨ごと斬ると、必ず刃まくれの出来るのは一つの定則であるが、中央から上、物打下にそれも型の如くに出来て居り、刃こぼれも三ヵ所、刀全体がジツトリしてゐた。(p.77)

…陣中では、修理に出てくる刀の十振が十振いづれにも目釘の故障がある。それを一本一本竹を割つて削つてゐたのでは、徒に時間がかかつて急場の間に合わない。竹箸だと一寸削つて切つただけで用に立つ。しかも、何処の竹だか非常に堅くて、なかなか折れさうにもない。これは天が与へてくれたものと、自分はいまでもさう信じてゐる程である。

 …

 それから、最初自分の見込みでは、軍刀の故障は、刀身が六分外装が四分といふ考へで行つたところが、全くの反対であつて、殊に柄の故障の多かつたのは屡々発表したところであるが、それが為め早くも材料がなくなつてしまつた。(p.126-127)

 さすがに第一線の戦闘部隊だ。一寸見ただけで其の損傷状態がまるでちがつてゐる。試みに手にした一刀、何げなしに抜いて見ると、刀身は鍔元から血糊でそれが稍褐色がかり錆のやうになつてゐる。プンと臭い。目釘が折れるか飛ぶかしたと見え、生木の小枝を打ち込んである。指先でつまんで抜くと。そこから黒褐色の悪臭をもつ汁がポタリと一滴落ちた。血の腐つたやつだ。戦ひの最中に、血が刀身をつたはつて、(金+祖)のすき間から柄の中に入り、それが間隙にたまつて腐つたのだ。柄木を抜いて見ると、その汁がダラダラと落ちる。

 …
 これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に溯つて見て、実際乱戦中に敵とわたり会つて血戦した事実は、小説や講談にあるやうにザラにあつたものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るといふやうな場合が多く、実際十人も二十人も斬つたといふやうな話は、例へば敵を城壁域内際とか袋路地のやうな所に追ひつめ、ひしめき合ひわめき合ふ処を片つ端から滅多斬りにした時などの事で、さうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いて見るに、四五人斬つたかと思ふ頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝はつて来る。斯様な時に、昔の柄巻の有難さが本当にわかるもので、殊に小倉木綿をそのままたたんで巻いたのなどは、手がすべらなくてよい。(p.153-154)


成瀬関次 『戦ふ日本刀』 実業之日本社 昭和15年
(洞『南京大虐殺――「まぼろし」化工作批判』にも一部引用あり)

成瀬氏が指摘しているとおり、日中戦争では将校はもちろん下士官までが日本刀を戦地に持参した。彼らが、持参した日本刀の切れ味を試してみたくなったであろうことは想像に難くない。そしてそれを試すための最も容易な手段は、抵抗することのできない捕虜や住民を使った据え物斬りだった。これほど大量の日本刀が人間相手に実際に使われ、膨大な量の生き血を吸ったのは、有史以来このときだけなのである。
(2000.07.02)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/nihontou.htm

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日本刀VSピストル真剣勝負(笑)

ゴールデンウィーク最終日、普段は見ない『トリビアの泉』をボーっと見ていたら、「テレビ史上最も危険な実験 日本刀VSピストル真剣勝負の衝撃映像!!」というのをやっていた。日本刀とピストル、どっちが強いか実験して確かめる、というのである。

その方法は、日本刀をほぼ垂直(やや刃面が上向き)に固定しておき、その刀身の中央部に向かって銃器射撃装置で水平に固定したピストルから弾を発射する、というシンプルなもの。射撃距離は5メートル。

実験に用いた日本刀は、特別なものではない平均的な日本刀、ということで、市販価格90万円程度を目安に現代の刀工(小田九山さん)に作製してもらった新作刀。ピストルはかつての米軍制式拳銃であり、強力な大口径拳銃の代表とも言えるコルト1911ガバメントモデル(45口径)である。

結果は……日本刀の完勝だった。超高速カメラを用いた撮影により、日本刀の刃に命中したピストルの弾が真っ二つに切断され、泣き別れになっていくさまが克明に映し出されたのである。日本刀には刃こぼれ一つなく、弾が当たった部分に指先大の鉛がこびりついた痕跡が残っただけだった。この結果に納得できないアメリカの銃砲店主(実験に用いたピストルの提供者)からの要請で実験は数回繰り返されたが、結果は同じだったという。

これだけなら「日本刀は凄い!」で終わってしまうところだが、この実験には番組作成者がまったく意識していなかった重大な意味がある。言うまでもなく、百人斬り事件との関係である。

百人斬り殺人競争を虚報と決め付け、それを突破口として南京大虐殺を否定しようとする勢力は、執拗に日本刀の脆弱さを主張してきた。日本刀の威力などというのは伝説に過ぎず、とても百人もの人間を斬ることなどできない貧弱な代物であり、だから百人斬りなどありえない、というのである。偽ユダヤ人イザヤ・ベンダサンこと山本七平など、自分の戦場体験からの結論だとして、一本の刀で斬れるのはせいぜい三人、と断言していた。

時速900キロで鉛の弾を撃ち込まれる衝撃に耐え、その弾を両断して傷つきもしない日本刀が、わずか三人の人間を斬っただけでダメになるものだろうか。要するに山本七平は、戦争体験者は黙して語らず、戦場体験のない世代には確かめようもないのをいいことに、大嘘を吐いたのだ。

フジテレビ(あのフジサンケイグループの)が全国に放映してくれたこの実験は、日本刀の性能に関する否定派の嘘を文字通り一刀両断にしてしまった。

まさに快挙である。
(2004.05.09)
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/hyakunin/trivia.htm

2. 中川隆[-13244] koaQ7Jey 2019年1月02日 06:51:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html


陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、
日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを
はずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、
なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから
、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、
股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、
両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると
股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊
みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官
だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は
セットで日本軍は容認していたということだ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と
そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて
いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが
丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、
飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。
しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な
写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を
撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に
ちゃんと写真を撮っていたな。

以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。

当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の
徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって
死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。
3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの
首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。
その瞬間の写真を撮ったけど……

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている


股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。
日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
これも酷すぎて卒倒するぜ。


蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。
蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。


以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。


以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。

この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが……

洗脳、と言う言葉がある。
この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。
朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を
中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。
この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。
日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。
生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの
「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。


さて本書であるが、タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことはネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。
これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。


『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁


自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の
一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に
出会った。4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、
Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければ
ならないと思いそれに加わった。Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。

その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の
河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を
馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、
女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。Kさんが駐在していた山西省
旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)
という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。
http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html


南京大虐殺については

南京大虐殺関連資料集
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件の真実
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm


仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…

「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html


南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。

おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。

南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。

また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。

そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。

さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。

日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。

中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。

この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。

家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。


日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。

女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。

しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。


金子安次
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」

 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。

子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。


子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。

生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。


日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。

(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。

(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。

街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。

(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。


また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。

(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。

(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。

これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。

日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。

数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。

”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/magaz306.html


人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです)

乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。

子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです

日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。

妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。

そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。

このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。

しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。

正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。


" 外国人の見た日本兵の蛮行 # という本の中に著者の TianBoLie 氏は南京の虐殺の事実を記録に残している。そのほとんどが強姦であった。それから少し例を拾ってみるだけでも日本軍の罪の重さがわかる。12月14日正午、日本兵は JianYing 通りの民家を襲った。4人の少女を誘拐し2時間かけて強姦した。12月14日夜、日本兵が民家を襲って女性を強姦し、連れ去った。12月15日夜、大勢の日本兵が Jinling 大学の講堂に押し入った。そこで30人の女性を強姦した。ある者は6人の日本兵から次々と輪姦された。 12月15日夜、大勢の日本兵が ShanTiao通りの民家に押し入り、多くの女性を強姦した。12月16日、日本兵は保育大学から7名の少女を誘拐した。年齢は16歳から21歳までの娘であった。そのうち5名が後に釈放された。18日におこなわれた事情聴取によると彼女らは一日に6回強姦されたといっている。

12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。

南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。

彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。


2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。

お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
写真を撮り、それをアメリカの市民のもとに送った。日本大使館にも送った。


日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。
下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。

これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。

血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。

YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。

日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。

南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
http://www.geocities.com/Pipeline/Halfpipe/3791/katari2-2.html

日本兵の婦女暴行・強姦の実態

1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)

2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。

3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。

4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。

5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。

6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。

突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。


7. 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、数え年8歳の蔡さんを強姦した。蔡さんはその様子を次のように語る。「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。


8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。

彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」


「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。

「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。

輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。

タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。

銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。

「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。

更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。

乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」

「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁)

 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.4.html


まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。

そして、女の股をひらかせます。

女の膣に釣り糸を挿入。

釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。


これは第二次世界大戦時、日本軍が中国で行ったお遊びです。

男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
失血死した人もいたそうです。

3. 中川隆[-13243] koaQ7Jey 2019年1月02日 06:56:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった?


日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。
この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、
酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには
無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。
彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。
麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。
今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、
フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は
一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。
読者がお気づきのように、これは真実ではない。

天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


▲△▽▼


1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html



▲△▽▼

2018.12.03
精算されていない日本の過去(1/2)

 第2次世界大戦中、日本は占領した東アジアの国々で人びとを強制的に動員して働かせた。徴用工だ。日本では1938年に国家総動員法が制定され、翌年に公布された国民徴用令によって厚生大臣は強制的に人員を徴用できるようになった。


 この仕組みを国外で外国人に適用すれば国際問題になる。韓国との問題では1965年の日韓請求権協定で解決したことになっているが、日本側も個人の請求権は消滅していないことを認めている。韓国の大法院もそのように判断、日本の企業に賠償金の支払いを命じたわけだ。


 日韓請求権協定自体の問題を含め、日本の過去は清算されていない。アメリカ支配層の力を借りて封印してきただけである。アメリカの力が弱まったことで、問題が表面化してきたと言えるだろう。韓国は何年も前からロシアや中国との関係を強め、アメリカから離れつつある。アメリカの属国である日本に気兼ねするような状況ではなくなってきたのだ。


 本ブログでは何度か書いたことだが、日本軍は東アジアの占領地で財宝を組織的に略奪している。「金の百合」だ。


 アメリカ人ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、プロジェクトが始まるのは日本軍が南京を攻略した1937年。政府が保有する資産を奪うだけでなく、銀行や裕福な家に押し入って金や宝石などを略奪したという。財宝を探し出すため、憲兵隊は目をつけた家の娘を誘拐することもあったという。娘と引き換えに、隠した財産を差し出すか近所や親戚の財産に関する情報を教えろというわけだ。貧しい家の娘は売春宿に連れて行かれたともシーグレーブ夫妻は主張している。


 この南京攻略戦に参加した少なからぬ日本軍の将兵が陣中日記の中で軍命によって捕虜を射殺したと記録しているが、個人的な略奪、殺戮、レイプなどもあったようだ。


 この作戦当時、特務機関員として活動中だった中島辰次郎は、南京市内で「虐殺」と呼べる出来事があったことは間違いないと明言、総数はわからないとしたうえで、死体が山積みになった光景を見たと話していた。(筆者自身の取材)


 また、支那派遣軍の岡村寧次総司令官が「大暴行があたのは事実」と書き残しているほか、外務省の石射猪太郎東亜局長は「南京に於ける我軍の暴状」の報告に「目もあてられぬ惨状」と書かれていたと日記に記している。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将は師団長クラスの退廃ぶりを嘆いていた。


 南京攻略は形式上、松井石根が最高指揮官なのだが、実際は朝香宮鳩彦、昭和天皇(裕仁)の叔父にあたる人物だったと言われている。


 スターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、「金の百合」を指揮していたのは天皇の弟である秩父宮雍仁で、その補佐をしていたのが天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳だという。秩父宮は駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーと親しい。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030000/

2018.12.03
精算されていない日本の過去(2/2)


 日本軍が中国など大陸で略奪した財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手はずになっていた。実際、一部の金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)隠し場所として、さまざまな場所の名前が挙がっている。


 ところが戦況の悪化で輸送が困難になり、相当部分がフィリピンの山の中に隠された。日本の日本の敗戦が決まった当時、フィリピンを担当していた日本軍第14方面軍の司令官が山下奉文大将だったことから隠された財宝は「山下兵団の宝物」とも呼ばれている。その山下は1946年2月にマニラで処刑された。


 アメリカの情報機関は戦争中から「金の百合」に関する情報を持っていて、日本が降服するとすぐに回収工作を始める。関係者への尋問は戦時情報機関OSSのエドワード・ランズデール大尉(当時)が指揮した。後に対キューバ工作を指揮、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる人物だ。


 OSSが廃止になるとランズデールはチャールズ・ウィロビー少将が率いるフィリピンのG2(アメリカ陸軍の情報部門)へ配属になり、尋問を続ける。財宝のありかを聞き出したのはランズデールの部下だったセベリーノ・ガルシア・ディアス・サンタ・ロマーナだ。


 その情報は東京やワシントンDCに伝えられる。その際、ランズデールはハリー・トルーマン大統領の国家安全保障を担当していたスタッフにも会っている。


 この報告を受けたヘンリー・スティムソンは財宝をアメリカの国際戦略に利用しようと考える。1945年9月21日までスティムソンは陸軍省(戦争省)の長官で、その下にはジョン・マックロイやロバート・ラベットなどウォール街の大物がいた。


 アメリカの支配層が手に入れた略奪財宝は「金の百合」以外にもあった。ドイツ軍がヨーロッパで略奪した「ナチ・ゴールド」だ。ジョン・ロフタスとマーク・アーロンズによると、ナチスがヨーロッパで略奪した資金はOSS長官だったウィリアム・ドノバンが1946年に設立したWCC(世界通商)でロンダリングされ、タイへ運ばれたという証言もある。(John Loftus & Mark Aarons, “The Secret War against the Jews”, St. Martin’s Press, 1994)


 WCCをドノバンと共同で設立したのはイギリスの対外情報機関MI6の下部組織、BSC(英国安全保障局)の責任者だったウィリアム・ステファンソン。WCCの後ろ盾にはネルソン・ロックフェラー、ジョン・マックロイ、シドニー・ワインバーグ、ビクター・サッスーンも含まれている。(Peter Dale Scott, “American War Machine”, Rowman & Littlefield, 2010)


 「金の百合」と「ナチ・ゴールド」は統合され、「ブラック・イーグル・トラスト」と呼ばれる秘密の基金が創設されたとも言われている。こうした秘密資金がアングロ・サクソンの世界支配に利用されたということになる。


 「金の百合」に関する情報は1980年代の後半から流れるようになった。切っ掛けはフェルディナンド・マルコスの失脚。1983年8月にマルコスのライバルだったベニグノ・アキノが空港で射殺され、マルコスに対する抗議運動が激しくなり、それを利用してアメリカ軍がマルコスを拉致したのだ。国外へマルコスが出ると財宝に関する裁判が起こされ、情報が漏れ出てきたのだ。


 マルコスは1954年にイメルダ・ロムアルデスと結婚しているが、ふたりを引き合わせたのはランズデールの部下だったロマーナ。ロマーナはイメルダと親しかったようだ。マルコスは日本軍が隠した財宝の一部を掘り出し、それを資金源にして大統領というポストを手に入れたと言われている。


 ロナルド・レーガンが大統領に就任した直後、マルコスはブラック・イーグル・トラストに関して沈黙を守る代わりに援助という名目でフィリピンにカネを回すようにアメリカ政府へ要求した。つまり恐喝だ。当然、アメリカや日本の政府は警戒するようになる。それがマルコス失脚の原因だという。


 詳細は割愛するが、アメリカが日本の過去を封印する手助けをする理由のひとつは略奪財宝にあるだろう。日本の過去を本当に精算しようとすれば、アメリカが大戦後に築いた世界支配の仕組みが明らかになる。日本の場合、薩摩と長州が徳川体制を倒した明治維新から現在に至るまでの歴史も見直さなければならなくなる。本ブログでは何度も書いてきたが、血盟団や二・二六の将校が何を見、なぜ怒ったのかを理解する必要もある。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030001/

4. 中川隆[-12774] koaQ7Jey 2019年1月23日 21:49:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2. 2019年1月22日 23:33:41 : 2gUCC160lA : QiPTdhYLhVI[7]

>安全区に収容された市民20万人に紛れ込んだ約2万といわれた便衣兵(軍服を脱ぎ捨てて市民に成りすまし、兵器を隠し持つ兵士)の掃討・処分、あるいは反乱捕虜の鎮圧などで、多くの中国兵士と市民が巻き込まれた。

>しかし、それは虐殺ではなく通常の戦闘行為で、戦時国際法に悖るものではない。

否定派が繰り返し繰り返しつく嘘のひとつ。

@便衣隊がいたという証拠はない。軍服を脱いで潜伏した中国兵はいたが、彼らがゲリラ活動したという証拠はない。

A軍服を脱いだ正規兵が破壊活動などすれば国際法上の違法行為を構成するが、その場合でも捕まえたら裁判にかけなければ処刑できない。日本軍は捕まえた平服の中国人を裁判しないで片っ端から殺してた。
捕まえたことも裁判しなかったことも日本軍自身の記録に残ってる。これは国際法に悖る行為なのだよ。

>東中野修道

事件の生存者の名誉を毀損した、と訴えられた裁判で、東中野は敗訴、つまり名誉毀損が認められ、第一審ではその著作は「学問研究の成果に値しない」と判決文に書かれるほどの恥を晒したガクシャの名前をありがたがってるとは、さすがは否定派。ふつーああまで言われたら恥ずかしくて一生表には出てこられないと思うんだが。

>南京事件からたった8年しか経っていないのに、中国人がそんなに親切な対応をしてくれるものだろうか

…。東京大空襲や原爆投下から1年も経たないうちに、若い日本人女性を日本人みずから慰安婦として米軍に差し出してたじゃん?

なんか書いててバカバカしくなってきた。





4. 2019年1月23日 01:09:33 : mrlI2OpSis : HM1TbK7kgrY[168]

中国には全28巻、百科辞典のような南京大虐殺の記録がある。
日本のウヨの貧弱な反論とはわけが違う。

http://www.asyura2.com/19/senkyo256/msg/559.html#cbtm

5. 中川隆[-12474] koaQ7Jey 2019年2月03日 18:34:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2019.02.03
南京大虐殺の犠牲者は「50万人」以上——アメリカ公文書「RG59-793.94/11631」が従来説を大きく覆す
https://rondan.net/14536



Contents [hide]

1 新たな資料

2 原文と翻訳

3 犠牲者数は最大70〜80万人近くまで

4 アメリカ外交関係公文書「RG59-793.94/11631」

5 【追記1】原文の発掘

6 【追記2】更なる公文書の発見


新たな資料

あまり日本では話題になっていませんが、2004年ごろに中国人研究者によって、ドイツ駐在アメリカ大使トッド氏が1937年12月14日にフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領に打った暗号電報(アメリカ外交関係公文書RG59-793.94/11631)のなかに、「ドイツ駐在日本国大使館の東郷茂徳大使が、南京を占領する前に、その段階で50万の中国人を虐殺したことを自慢していた」と書いてあることが報告されました。

いわゆる狭義の「南京大虐殺」の前の日本軍による蛮行を記録したものと考えられますが、中国の報道では広義の「南京大虐殺」(長江デルタ一帯で行われた日本軍による残虐行為)を証明する根拠として引用されています。

その文章の写真は次のものです。



原文と翻訳

あまり大きな写真が公開されておらず苦労しましたが、色々調査した結果、次のように書いてあるそうです。


The Japanese ambassador here boasted a day or two ago of his country’s having killed 500,000 Chinese people. …… This simply means the policy of Mussolini and Hitler is expected to be applied to the world and what a sad result this would be.

ここの日本大使は、一日か二日前に、自国が50万人の中国人を殺したことを自慢しました。……これは、ムッソリーニとヒトラーの政策が世界に準用されると予期させること、そしてこれが悲劇的結果となることを意味します。
RG59-793.94/11631 
犠牲者数は最大70〜80万人近くまで

ところで南京戦における、中国軍の総兵力は約65,500人〜150,000人とされ、うち被害は戦死と捕虜が50,000人ほどと概算されています。また、それに先立つ第二次上海事変では、中国軍の総兵力が600,000人ほど、そのうち戦死者は250,000人ほどの中国軍兵士を殺めたと

ゆえに日本軍が50万人殺したというこの通信文を真であるとするならば、これが打たれた1937年12月14日の段階で、民間人を20万人以上殺害していたことになります。

また南京事件で有名な幕府山捕虜銃殺は12月16-17日で、南京入城は12月17日ですから、これらの虐殺数はこの50万人にカウントされていません。よって入城後に、中国政府が主張するような虐殺(総犠牲者30万人以上)が起きていたならば、この50万という犠牲者数は70〜80万人近くまで膨れ上がります。

アメリカ外交関係公文書「RG59-793.94/11631」

(追記)その後、本公文章が「実在」することが確定しました。

こんな公文書が存在するならまさに驚くべきところですが、疑わしい点もあります。

まず、一連の南京戦での日本軍の蛮行を当時の日本政府は隠したがっていましたから、外国要人に「50万人殺した」なんてわざわざ自虐するでしょうか? そして、あくまで私の主観ですが、「ヒトラー」など余りにも意味の強い単語が用いられていて、ややリアリティに欠けるところがあるような。

この真偽を裏取りをするためにアメリカの「ナショナル・アーカイヴス」を調べたのですが、少なくともオンライン上で見つけることができませんでした。しかしこれは単に私の探し方が悪いだけかもしれませんし、まだ登録されていない可能性も大いにあります。公文書は膨大にあるので、探すのは一苦労です。ゆえに実際に現地に行って長期滞在して確認作業を続けない限り「ない」とは言えません。

これと似たケースは他にも見られます。たとえばロバート・B・スティネットが唱えた「ルーズベルトは真珠湾奇襲を知っていて、それをあえて許した」という陰謀論を支える最終的根拠が、スティネット以外誰も眼にしたことのない公文書であることと似ているかもしれません。

しかし今回の場合、現物の写真が公開されていますので、実際に「ある」可能性を否定することはできません。実際に中国の研究書ではこの公文書が根拠として脚注に引用されているものがありました。

是非、南京大虐殺否定論者の方々は、今すぐアメリカに行ってこの資料が存在するのかどうか確認してきてください。もし「ない」ことが解れば、中国のプロパガンダ説を裏付ける根拠になるのですから。馬鹿げた屁理屈や、机上の空論を並べるよりよほど有意義でしょう。

【追記1】原文の発掘

The Ambassador in Germany (Dodd) to the Secretary of State


Berlin, December 14, 1937—3 p.m.
[Received December 14—12:35 p.m.]

294. For the President. The Russian representative here said to me yesterday that all democratic countries wished his country to save China. He added that his Government would do nothing except in cooperation with the United States and England.

Today the news from the Far East is worse than ever and I have read your and Secretary Hull’s statements as to Japanese brutality. The Japanese Ambassador here boasted a day or two ago of his country’s having killed 500,000 Chinese people. The facts of today and the statements that have been made show that no positive action is expected on the part of the United States and England. This simply means that the policy of Mussolini and Hitler is expected to be applied to the world and what a sad result that would be.

If an opinion may be offered I simply say that the United States needs to apply a boycott to Japan. England should cooperate to save herself. If that did not produce prompt effects the American Navy should move toward the Far East with a few British war vessels. If either of these moves were made Mussolini would threaten England, but I believe the Italian people would refuse to fight with America, Germany might threaten moves for Japan but the German people are so much opposed that war would not be made. I think, therefore, that you and Congress can save modern civilization again. This time even without a great war. But continued delay means the loss of democratic civilization.


Dodd


Cf. Foreign Relations of the United States Diplomatic Papers, 1937, The Far East, Volume III, p. 806.



【追記2】更なる公文書の発見
https://rondan.net/14634


https://rondan.net/14536

6. 中川隆[-12473] koaQ7Jey 2019年2月03日 18:40:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2019.02.03
南京大虐殺のさなか、アメリカから「やめろ」と抗議を受けた公文書「393.115/128」が発掘される
https://rondan.net/14634


Contents [hide]

1 南京大虐殺の根拠は無数に


2 アメリカからの抗議に対応を約束する原田少将


3 日本側の証言とも一致


4 393.115/128: Telegram


5 【追記】日本軍の「組織的犯罪」を示すアメリカ公文書「393.94/12207」が発掘される——強姦・殺戮・略奪・放火の報告


南京大虐殺の根拠は無数に

南京大虐殺に代表されるように、支那事変が起こり日本軍が長江デルタ地帯に進出すると、略奪・殺人・放火・強姦を繰り返していたことは夙に知られます。

これを認めず、否定しようとする人も多いのですが、当時日本軍兵士の陣中日記に、残虐行為をした告白が数多く残されている以上、何らかの大規模な残虐行為が行われと理解することが自然でしょう。

またこのような日本軍による蛮行が行われていたことは、支那事変が起きた当時から世界中でよく知られた事実でした。残虐行為が起きるとほぼ同時に各国から非難が殺到し、日本軍・政府は再発防止のために様々な方策を取ったことが知られます

(笠原十九司『[増補]南京事件論争史』平凡社, 2018, pp. 32-54)。


アメリカからの抗議に対応を約束する原田少将

今回紹介するアメリカの外交関係公文書「393.115/128」は、これを端的に示す証拠です。

この文章は1938年1月19日に上海から打たれたものです。その中では、支那事変に伴いやってきた日本軍がアメリカ人の財産を破壊・略奪したことに対する抗議に加え、


1今後、非戦闘員の中国人へのアトローシティ(残虐行為)が起きないように防止策を取ること

2残虐行為を犯した者への懲罰の促進

という二点を原田熊吉少将に求め、その原田少将もこれを約束したと書いてあります。原文は本記事の末尾にあります。

日本側の証言とも一致

このアメリカ公文書の資料的価値が高い理由は、これを裏付ける証言が日本側資料にも存在する点にあります。

たとえば、A級戦犯で死刑になった広田弘毅氏の最終弁論には次のようにあります。


外務省は日本陸軍に依り南京において犯されたいわゆる残虐行為にたいし「二組」になった多数の苦情処理を受領した。……外務省はこれらの苦情を「額面」どおり受け取った。そして広田の命に依り陸軍省の関係局に強い抗議を提出する措置をとった。……在東京米国大使館より国務省宛に発せられた電報もまた残虐行為と称せられるものならびに第三国およびその国民の財産に対する干渉を停止せしめるため、外務省は実際に処置を講じたという事実を確認している。

『日中戦争 南京大虐殺事件資料集T』青木書店, 1985, pp. 413-414

このように第三国の資料と日本の資料とが一致して同じ現象を説明しているという点で、日本軍による蛮行の「事実」を力強く証明しているでしょう。


393.115/128: Telegram
The Commander in Chief, United States Asiatic Fleet (Yarnell), to the Chief of Naval Operations (Leahy)

[Shanghai,] January 19, 1938—2 p.m.
[Received January 19—8:40 a.m.]

0019. Today returned recent calls Major General Harada, Japanese Military Attaché, [and] Furujo, liaison officer, brought their attention serious effects numerous incidents involving desecration American flags, destruction, looting American property had on American public opinion. Stressed points that Americans look on flag with same reverence Japanese look on Emperor and such incidents if continued might create dangerous situation which responsible authorities trying avoid. Also stated believed honor Japanese Army required action prevent future atrocities against Chinese noncombatants and that prompt punishment offenders necessary for good name Japanese Army abroad. Major General Harada replied [he] realized gravity situation, army authorities taking steps prevent recurrence incidents and punish offenders.

Cf. Foreign Relations of the United States Diplomatic Papers, 1938, The Far East, Volume IV, pp. 239-240.

【追記】日本軍の「組織的犯罪」を示すアメリカ公文書「393.94/12207」が発掘される——強姦・殺戮・略奪・放火の報告
https://rondan.net/14635


論壇net
https://rondan.net/14634

7. 中川隆[-12472] koaQ7Jey 2019年2月03日 18:42:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2019.02.03
【南京大虐殺】日本軍の「組織的犯罪」を示すアメリカ公文書「793.94/12207」が発掘される——強姦・殺戮・略奪・放火の報告
https://rondan.net/14635

Contents [hide]

1 南京事件関係の公文書発掘

2 上海とその周辺地

3 杭州

4 蘇州

5 まとめ

6 793.94/12207: Telegram


南京事件関係の公文書発掘


1937年の12月から翌年3月ごろまで起った南京事件は、日本軍による軍民の不法殺戮、略奪、強姦、放火などといった戦争犯罪を象徴する事件の一つとして知られています。

あまりに「南京事件」が有名なため、これだけがクローズアップされるきらいがありますが、当時の陣中日記には、南京戦に至る道程でも、またその周辺地域でも日本軍が多くの戦争犯罪を犯してきたことが記録されています。いわば支那事変で日本が占領した長江デルタ地帯で、日本軍は蛮行の限りを尽くしていたと考えられます。

しかし未だに「南京大虐殺は捏造だ」「民間人不法殺戮は無かった」と主張する人が多いことも事実です。

今回はその証左の一つとして、アメリカ外交関係公文書「793.94/12207」に説かれる日本軍の蛮行を紹介したと思います。この通信文は、1938年1月25日に上海から打たれたものです。

上海とその周辺地

まず上海とその周辺地では、私有財産の略奪・放火のみならず、民間人殺戮やレイプが多数あったと報告されています。


中国の報告書(そのうちのいくつかは疑いなく信頼できる)は、中国の民間人の殺害、女性へのレイプ、および私有財産の略奪および放火があったことを示している。南島についてはアメリカの医師と宣教師が、レイプ事件、約80人の中国人民間人の射殺、そして日本人がその地域を占領した直後に中国人の私有財産の放火や略奪の数々を報告している。南島の状況は徐々に改善していますが、レイプ事件はまだ時々報告される。
393.94/12207
約80名の民間人射殺と具体的な証言には迫真性があります。

そして占領からしばらく経つのに、いまだにレイプ事件が起きているそうです。このようなレイプ多発を受けて慰安所が創られたことは夙に知られます。

杭州

杭州においても同様の事件が多発していたようです。


杭州のアメリカ人宣教師の報告によると、12月24日から1月5日の間に、1)日本軍による女性へのおびただしいレイプ、2)中国人の私有財産の略奪および破壊、3)アメリカや他の外国の教会私有地に避難することを拒否した女性は、多くの場合、日本の兵士たちに引きずり出されてレイプされた。日本の軍警察のかなりの勢力が現在市内で機能しており、状況は改善した。
393.94/12207
ともかくレイプが起きたという報告が多い。

蘇州

蘇州での実情はさらに具体的です。


我々が調査した全ての店、銀行、住居は押し入られ、そして制服を着た日本人兵士たちがこれらの建物に出入りし、出て来て絹の束・アイダーダウンのキルト・枕・衣服などを積んでいたのが目撃されました。この略奪は、それを行っている兵士たち個人の利益のために行われていたものではありません。そうではなくて、日本軍の利益ために、しかも当局者の認知と同意のもとに行わたものです。そのことは、軍隊トラックにこの略奪物うちのいくらかが載せられているのを我々が見た事実によって証明されます。私たちは軍司令部の前に止まっている一台の大きなトラックの上に、素晴らしい黒檀の家具が載っているのを見ました。蘇州の日本人によるそのような強盗のすべてが酷いものだったが、最悪の事案を言わればならない…すべての階級の中国人女性に対して日本人侵略者たちの暴行がありました。他の多くの市や町でも同様の憂鬱が疑いなく起こったが、宣教師が自分の持ち場に戻ることが許可されるまで、しっかりとした報告は受け取られそうにない。
393.94/12207
ここでもやはり日本軍はやりたい放題だったようです。

また特に重要なことは、略奪行為が一個人によるものではなくて、組織的に行われていたということです。まさか堂々と軍司令部の前に略奪品を堂々と置いていたとは…。

まとめ

以上から明らかなように、支那事変における日本軍の蛮行は非常にひどいものでした。

今も尚、「南京事件がなかった」などと声高に叫ぶ人間には次のように言うべきです。

南京どころか長江デルタ地帯の一円で、日本軍は強姦・殺戮・略奪・放火をやりたい放題にしていた、と。

仮にこれらの被害を、広義の「南京大虐殺」に含めるならば、犠牲者の数は遥に増える可能性があります。

793.94/12207: Telegram

793.94/12207: Telegram

The Consul General at Shanghai (Gauss) to the Secretary of State

Shanghai, January 25, 1938—3 p.m.
[Received 9:06 p.m.]

135. Ambassador’s January 21, 5 p.m., to the Consulate General: Tokyo’s 39, January 19, noon concerning actions of Japanese troops. With reference to behavior of Japanese troops in immediate vicinity of Shanghai and such cities as Soochow and Hangchow, the following information is offered based on written reports on file here and oral statements made by American missionaries:
1.Shanghai and environs: As result of heavy and protracted hostilities in immediate vicinity of Shanghai almost the entire Chinese population of these areas fled, some seeking refuge in the interior and others fleeing to the International Settlement and French Concession. In consequence the Japanese found the areas around Shanghai practically uninhabited with the exception of Pootung and Nantao. With reference to Pootung few if any foreigners have penetrated in the hinterland and no reports have been received from foreign sources regarding the behavior of Japanese troops in that area. Chinese reports, some of which are undoubtedly credible, indicate that there has been some killing of Chinese civilians, raping of women, and looting and burning of private property. With reference to Nantao, American doctors and missionaries report a number of cases of rape, the shooting of approximately 80 Chinese civilians, and the burning and looting of much Chinese private property shortly after the Japanese occupied that area. Conditions in Nantao are slowly improving but cases of rape are still reported from time to time.2.Hangchow: Reports from American missionaries at Hangchow indicate that between December 24 and January 5 there was much raping of women and looting and destruction of Chinese private property by Japanese troops and that in a number of instances women who had taken refuge in American and other foreign mission property were dragged away and raped by Japanese soldiers. A considerable force of Japanese military police is now functioning in the city and conditions are reported to have improved.3.Soochow: Detailed reports just received from American missionaries who remained to care for refugees at Kwangfoh, some ten miles southwest of Soochow, and who visited Soochow several times between November 21 and December 21 indicated that Japanese troops indulged in an appalling orgy of raping and looting. One report states that: “In our visits to the different mission compounds of Soochow, it was necessary for us to pass through the most important business and residential sections of the city. Every shop, bank, and residence that came under our review had been broken into and uniformed Japanese soldiers were seen going in and coming out of these buildings, coming out loaded down with bales of silk, eiderdown quilts, pillows, clothing, et cetera. That this looting was not something done for the sole benefit of the individual soldiers who were doing the work but for the benefit of the Japanese Army and with the knowledge and consent of the officers, is proved by the fact that we saw some of this loot being loaded on Army trucks. We saw one big truck standing in front of the military headquarters loaded to the top with fine blackwood Chinese furniture. All this robbing by Japanese in Soochow was terrible, but the worst remains to be told … the violation of Chinese women of all classes by the Nipponese marauders. The number of victims was great.” Similar depredations undoubtedly occurred in many other cities and towns but authenticated reports are not likely to be received until the missionaries are allowed to return to their stations.
Sent to Hankow, repeated to Tokyo.


Gauss

Cf. Papers relating to the foreign relations of the United States, Japan, 1931–1941, Volume I, pp. 569-570.


https://rondan.net/14635

8. 中川隆[-12471] koaQ7Jey 2019年2月03日 19:05:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
2019.01.27
【日本国紀】南京事件の誤謬を糺す
https://rondan.net/14148


Contents

1 南京事件

2 ティンパーリ

3 欧米の報道・記録

4 人口調査

5 報道写真と捕虜の殺害

6 便衣兵殺害

7 個々の犯罪

8 まとめ

南京事件

先に、谷田川惣氏と、南京事件・慰安婦問題について公開討論することを約束して暫し時が経つ。遅れている理由は偏に当方の準備不足にある。具体的に言い訳すれば、南京事件に関する証拠があまりに膨大に残されていて、これをまとめるに時間がかかってしまっているからである。討論を約束しておきながら遅れてしまっていることについて谷田川氏にお詫び申し上げるとともに、もうしばらくお待ちいただくことに御理解いただきたい。

本記事では、その予備的考察として、『日本国紀』における「南京大虐殺」コラムを取り上げ、その問題点を指摘したい。(以下敬称略)

まず、『日本国紀』は「南京大虐殺」は無かったと結論付けているが、そもそも「大虐殺」の定義がそもそも曖昧であるという問題がある。どうも著者の百田尚樹は、中国側の犠牲者30万人を「大虐殺」と位置付けてこれを否定しているようだが、もはや犠牲者30万人説は日本はおろか中国の学者でもこれを採用していない。日本側で最も多い計算は、笹原十九司による20万人説である。

また犠牲者の数に議論はあっても、❶投降捕虜の不法殺戮、❷便衣兵狩りにともなう民間人の誤認処刑、❸民間人への略奪・放火・強姦・殺人などがあったことは疑いようのない事実である。虐殺行為のみならず、これらを含めて「南京事件」を語る必要がある。

以上を踏まえ、『日本国紀』を引用しつつ、その問題点を指摘していきたい。

ティンパーリ

まず、ハロルド・ティンパーリの著書については次のように。


南京大虐殺を世界に最初に伝えたとされる英紙マンチェスター・ガーディアンの中国特派員であったオーストラリア人記者のハロルド・ティンパーリは、実は月千ドルで雇われていた国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明している。その著作“What War Means: The Japanese Terror in Chaina”(邦訳『外国人の見た日本軍の暴行―実録・南京大虐殺―』)の出版に際しては、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行なわれていたことが近年の研究で明らかになっている。
百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, p. 368.

この問題点をまとめれば次のようになる。
国民党がハロルド・ティンパーリに金を払って本を書かせたわけではなく、単に翻訳出版権を購入しただけ。(笠原十九司・吉田裕編『現代歴史学と南京事件』柏書房, p. 249)
肝心の『外国人の見た日本軍の暴行―実録・南京大虐殺―』が執筆されたのは、ティンパーリが国民党宣伝部顧問になる前のこと。(笠原十九司『[増補]南京事件論争史』平凡社, pp. 255-256)
ティンパーリの所属を問題にしてその証言を信じないならば、旧日本軍兵士の「南京での残虐行為はなかった」という証言もまた信じられなくなるという矛盾に陥る。

欧米の報道・記録

これに続いて、他の欧米記者の報道も信用ならないと述べている。


「南京大虐殺」を肯定する人たちは、彼の報道を証拠として挙げるが、当時、「南京大虐殺」を報道したのは、そのティンパーリとアメリカ人記者ティルマン・ダーディンだけで、いずれも伝聞の域を出ない(ダーディンは後に自分が書いた記事の内容を否定している)。当時、南京には欧米諸国の外交機関も赤十字も存在しており、各国の特派員も大勢いたにもかかわらず、大虐殺があったと世界に報じられてはいない。三十万人の大虐殺となれば、世界中でニュースになったはずである。
百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, p. 369. 
この主張はかなりレベルが低く、せめてWikipediaを読んでいてくれればと思わずにはいられない。問題点をまとめれば次のようになる。
情報が正しくない。A・T・スティールも「シカゴ・デイリー・ニューズ」で南京事件を報道しており、世界中でニュースとなっている。
ダーディンは南京での日本軍蛮行の大筋について、自らの記事を否定していない。
「伝聞」であることを理由に証言・記録の信憑性を否定しようとすることは非論理的。その内容を裏付ける証言が無数にある以上、伝聞であっても史的信頼性が高いと評価できる。
また当時、南京市内にいた欧米人の各種日記などが公開されている。たとえば「ミニー・ヴォートリンの日記」には、日本軍による民間人虐殺が記録されている。ゆえに日中外の証言においても南京事件は報告・報道されている。

人口調査

そして否定派お決まりの、南京人口増加問題も取り上げられる。


また、同じ頃の南京政府の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は二十万人である。もう一つおかしいのは、日本軍が占領した一ヵ月後に南京市民が二十五万人に増えていることだ。いずれも公的な記録として残っている数字である。日本軍が仮に一万人も殺していたら、住民は蜘蜂の子を散らすように町から逃げ出していたであろう。南京市民が増えたのは、町の治安が回復されたからに他ならない。
百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, p. 369. 
これについても誤認が多い。問題点をまとめれば次のようになる。
完全な錯誤。そんな人口調査などされていない。その「20万人」「25万人」という数字は、「国際委員会」の報告書に記された単なる概数に過ぎない。
仮にその数字変動を是と受け入れたとしても、❶その人口は「国際委員会」の管理下にあった安全区のものであり市内全体のものではなく、❷治安が悪化した外部から安全区に流入があったとも解釈可能であるから、虐殺の事実を否定する根拠にはなり得ない。
「南京地区における戦争被害 1937年12月―1938年3月 都市および農村調査」(スマイス報告)という調査がある。この資料の価値については議論があるものの、南京事件で民間人被害者が出たことは疑いない。

報道写真と捕虜の殺害

以下については、原文とその問題点のみをまとめる。


当時の報道カメラマンが撮った写真には、南京市民が日本軍兵士と和気藹々と写っている日常風景が大量にある。占領後に捕虜の殺害があったのは事実だが、民間人を大量虐殺した証拠は一切ない。
もちろん一部で日本兵による殺人事件や強姦事件はあった。ただ、それをもって大虐殺の証拠とはいえない。
百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, p. 369. 日本側の報道写真は検閲を受けた後のものであるため、南京事件が無かったとする根拠にはなり得ない。また虐殺現場を写した写真も大量に残っている。
「捕虜の殺害」とお茶を濁しているが、投降した捕虜数万人を不法殺戮している。これが南京事件における大虐殺の一焦点である。
「民間人を大量虐殺した証拠は一切ない」という語にも語弊があり、民間人を殺戮していた記録は数多あり(日本軍人や逗留外国人たちの日記、および上記のスマイス報告など)、相当数の民間人が虐殺されていたと理解するほうが自然である。また強姦、略奪、放火なども含めて南京事件である。

便衣兵殺害


また南京においては「便衣兵」の存在もあった。便衣兵とはわかりやすくいえばゲリラである。軍人が民間人のふりをして日本兵を殺すケースが多々あったため、日本軍は便衣兵を見つけると処刑したし、中には便衣兵と間違われて殺された民間人もいたかもしれない。
百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, p. 369. 「いたかもしれない」ではなくて、相当数いたと考えられる。確証がなく疑わしいというだけで便衣兵と認定して処刑していた。(秦郁彦『[増補版]南京事件』中央公論新社, pp. 166-167)

個々の犯罪


こうしたことが起こるのが戦争である。たとえば戦後の占領下で、アメリカ軍兵士が日本人を殺害したり、日本人女性を強姦したりした事件は何万件もあったといわれる。これらは許されることではないが、占領下という特殊な状況においては、平時よりも犯罪が増えるのは常である。要するに、南京において個々の犯罪例が百例、二百例あろうと、それをもって大虐殺があったという証拠にはならない
百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, p. 370. 「個々の犯罪例」のみならず、組織的に数千数万の捕虜を不法殺戮しているため、「虐殺」自体はあったとしか理解され得ない。
また当時の日記や証言、各種記録などから「個々の犯罪例」が相当数確認されている。これは南京攻略戦に当たり、日本軍が統率と秩序の無いまま強姦、殺人、略奪、放火を繰り返していたことを力強く物語っている。

まとめ

以上を要約すれば『日本国紀』の南京大虐殺否定論が、議論に値しないことは明らかであろう。

南京事件において捕虜・民間人に対する不法殺戮が行われ、相当数の犠牲者が出た証拠は、いみじくもその戦闘に参加した日本軍兵士の日記・証言から最も強力に裏付けられる。自身を不利にする自白をあえてしているのであるから、その信憑性が、被害側のそれより総じて高いことは言を俟たない。

最後に、この日本軍兵士たちの告白が、南京虐殺を証明する有力な根拠となるエピソードを紹介したい。1980年代に盛り上がった南京事件論争を受け、陸軍士官学校卒業生の親睦組織「偕行社」は、大虐殺の「真相を公正に描き出す」ために、南京戦に参加した会員たちに「どんなことを自分で見たか」「12月◯日◯時頃、◯◯部隊に所属していて◯◯付近いたが、そのようなことは何も見なかった、聞いたこともない」という情報を寄せてほしい要望した。

「何も見なかった、聞いたこともない」 などと、あからさまな表現で情報を求めていることから明らかなように、もともとは帝国陸軍の名誉を守るべく、南京での残虐行為を否定するために企図されたものであった。

しかしこの期待は脆くも裏切られ、南京での残虐行為を裏付ける投稿が相次ぎ、結局、偕行社は南京攻略戦における強姦、略奪、放火、不法殺戮を認めるに至った。不法殺戮の犠牲者数は、兵士約1万6千人、民間人1万5760人と計上している。

この様に南京事件をめぐっては、実際に戦闘に参加した日本軍兵士たちによる膨大な日記・証言が残されており、南京攻略戦において不法殺戮が起きたという事実そのものを否定することはほとんど不可能であるように思える。それらの証言について『日本国紀』は何も触れていない。
https://rondan.net/14148

9. 中川隆[-12420] koaQ7Jey 2019年2月05日 12:26:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2019.02.05
【南京事件】入城後の「虐殺行為」を報告するアメリカ公文書「793.94/12134」
https://rondan.net/14679

Contents

1 第三者も報告していた南京アトローシティ
2 屁理屈をこねる否定論者
3 アメリカ公文書「793.94/12134」の南京実情
4 南京周辺部の報告
5 原文:793.94/12134
6 極東国際軍事裁判速記録第58号(A検察側立証段階8)昭和21年8月29日


第三者も報告していた南京アトローシティ

南京事件で不法な虐殺行為はあったのか?

常識的に考えて被害者の証言と、加害者の証言が一致しており、加えて当時の新聞記事やら埋葬記録やらが残っていれば、それらの情報はたとえ互いに少々食い違っていたとしても、何らかの「事実」を反映していると考えることが普通です。つまり南京事件において「不法殺戮や残虐行為はあった」ということです。

しかし南京事件は既にイデオロギーの闘いになっていて、それをどうしても否定したい方々は、「中国側の証言は一切信用できない」とか、「日本側の証言者は中共に洗脳されている」とか、「伝聞は一切当てにならない」とか無茶苦茶な理論を展開します。

中国側証言であれ、日本側証言であれ、伝聞であれ、示し合わせていないのに同じく不法殺戮に言及しているのであれば、 確かにお互いに食い違う箇所があったとしても、何らかの「事実」に由来すると考えるのは常識です。



屁理屈をこねる否定論者

このような常識が通じないため、南京事件論争は不毛で馬鹿々々しい議論を延々と繰り返しています。南京事件など無かったと極端なことを言いだす方々は、肯定側がどんな証拠を出しても、屁理屈をこねてそれを否定します。

たとえるならば、30人いたお店で「万引き事件」が起きたとします。そのうち20人が万引きを目撃して、19人は右手で盗ったと証言し、1人だけ左手で盗ったと証言したとします。常識的に考えれば、「左手で盗った」という証言は見間違いであると判断され、証言内容に食い違いがあったとしても「万引きがあった」という事実が正しいことは認定されます。

なぜかこの常識が「南京事件論争」では全く通用しません。上記のたとえを用いるならば、左手と右手とで証言に食い違いがあるから「万引きがあったという事実は認定できない 」 と言い出したり、その場にいた人の中で「万引きを見ていない」と言う人もいるから「万引きはなかった」と言い出したりするようなものです。挙句、仮に万引き犯が「万引きしました」と自白しているのに、証言は当てにならないと言い出します。

ネット上で、南京事件そのものを否定する輩というのは、本当にこの程度のレベルです。そしてこの程度のレベルの問題に答える為に、肯定論者たちは、わざわざ第三国の資料を持ってきたり当時の日記を掘り起こしたりして丁寧に詳細にこれを説明しています。肯定側の前衛を担っている笠原十九司氏は1990年代前半に「学問的に結着した」と評価していますが、それから20年以上たった現在においても不毛な争いが延々と続いているのは恐るべきというものでしょう。


アメリカ公文書「793.94/12134」の南京実情

本ブログでは、これまであまり注目を浴びてこなかったアメリカ公文書を中心に、南京事件に関連する通信文を紹介しています。これら通信文には、支那事変で上海〜南京に攻め込んだ日本軍が、不法殺戮・強姦・略奪・放火など蛮行の限りを尽くしたことが報告されており、南京事件に関する中国側と日本側の証言の真正性を裏付けるものです。

今回紹介するのは、1月19日に送信されたアメリカ公文書「793.94/12134」です。この通信文は、東京裁判において南京事件の証拠として提示されていますが、現在出版されている和訳速記録には、公文書の所在が記されておらず、加えて日付間違いがあるためか(1月22日となっている)、これまでの南京関連書やウェブサイトではあまり注目を集めてきませんでした。ゆえに本ブログにおいてこれを紹介することには意味があるでしょう。

まず占領直後の南京市内の様子について、ボイントン牧師は次のように証言しています。


占領初期の数日の間に南京のアメリカ大学校舎において、およそ百件のレイプ事件が報告されている。これらの報告を私のもとに持ってきたボイントン氏(国民基督教会議)は次のように述べた。「日本軍入城後すぐに南京にやって来た日本大使館員たちは、避難地域の内外を問わず、泥酔の狂乱、殺人、レイプ、略奪が公然と行われているのを見て慄いていた。
793.94/12134


南京市内の地獄絵図が目に浮かびます。

これに続いてこの通信文では、当地の軍司令部が蛮行の抑止に無策であったこと、日本国内の輿論に訴えてこの惨状を止めようと提案までしています。

事実、この惨状を知った軍政府は、あわてて1938年1月4日付けで「軍紀風紀に関する通牒」を下達してます。このような軍政府の対応からも、このアメリカ公文書が伝える内容の真正性が担保されるているでしょう。

南京周辺部の報告

またこの通信文「793.94/12134」では、南京のみならず、蘇州・杭州・上海周辺でも同様の事態が生じていると報告しています。


蘇州と杭州から目撃者が報告をもたらすと約束を受けた。そこ(蘇州と杭州)においても日本軍の行動は同様に酷い。そして、上海近郊の確認された話については現在入手しつつある。
793.94/12134


この通信文が打たれてから六日後の1938年1月25日に、これらの地域の惨状を伝えた通信文「793.94/12207」が打たれています。


【上海周辺部について】
中国の報告書(そのうちのいくつかは疑いなく信頼できる)は、中国の民間人の殺害、女性へのレイプ、および私有財産の略奪および放火があったことを示している。南島についてはアメリカの医師と宣教師が、レイプ事件、約80人の中国人民間人の射殺、そして日本人がその地域を占領した直後に中国人の私有財産の放火や略奪の数々を報告している。南島の状況は徐々に改善していますが、レイプ事件はまだ時々報告される。
793.94/12207



【杭州について】
杭州のアメリカ人宣教師の報告によると、12月24日から1月5日の間に、

1)日本軍による女性へのおびただしいレイプ、
2)中国人の私有財産の略奪および破壊、
3)アメリカや他の外国の教会私有地に避難することを拒否した女性は、多くの場合、日本の兵士たちに引きずり出されてレイプされた。日本の軍警察のかなりの勢力が現在市内で機能しており、状況は改善した。
793.94/12207


【蘇州について】
我々が調査した全ての店、銀行、住居は押し入られ、そして制服を着た日本人兵士たちがこれらの建物に出入りし、出て来て絹の束・アイダーダウンのキルト・枕・衣服などを積んでいたのが目撃されました。この略奪は、それを行っている兵士たち個人の利益のために行われていたものではありません。そうではなくて、日本軍の利益ために、しかも当局者の認知と同意のもとに行わたものです。そのことは、軍隊トラックにこの略奪物うちのいくらかが載せられているのを我々が見た事実によって証明されます。私たちは軍司令部の前に止まっている一台の大きなトラックの上に、素晴らしい黒檀の家具が載っているのを見ました。蘇州の日本人によるそのような強盗のすべてが酷いものだったが、最悪の事案を言わればならない…すべての階級の中国人女性に対して日本人侵略者たちの暴行がありました。他の多くの市や町でも同様の憂鬱が疑いなく起こったが、宣教師が自分の持ち場に戻ることが許可されるまで、しっかりとした報告は受け取られそうにない。
793.94/12207

このような通信文を踏まえるならば、南京のみならず長江デルタ地帯全体で、日本軍によるアトローシティ(残虐行為)が組織的に広く行われていたと考えられます。。

原文:793.94/12134

The Ambassador in Japan (Grew) to the Secretary of State

Tokyo, January 19, 1938—noon.
[Received January 19—7 a.m.]

My British colleague has given me for my confidential information a paraphrase of a telegram dated January 15, from the British Embassy at Shanghai reporting actions of Japanese troops at Nanking. As we have had no detailed reports on this subject from Shanghai or elsewhere I am cabling the text which was furnished to me as follows:

“I have been supplied confidentially with two separate and completely reliable reports, from an American missionary at Nanking and a missionary doctor at Wuhu who remained at their posts when the Japanese entered these cities, regarding the atrocities committed by the Japanese Army. Reports quote approximately 100 authenticated cases of rape in the American University Buildings in Nanking in the first few days of the occupation.

The Reverend Boynton of the National Christian Council who brought me these reports stated that the Japanese Embassy officials who reached Nanking shortly after the entry of the Japanese troops were horrified when they saw the orgy of drunkenness, murder, rape and robbery, which was going on openly in and around the refugee zone. Failing to make any impression on the military commander, whose attitude of callous indifference makes it probable that the army was deliberately turned loose on the cit yas a punitive measure, and despairing of getting cable through to Tokyo owing to military control, Embassy officials had even suggested to the missionaries that the latter should try and get publicity for the facts in Japan so that the Japanese Government would be forced by public opinion to curb the army.

I have been promised eye witness reports from Soochow and Hang-chow where the behavior of the Japanese troops was equally bad and stories, apparently authenticated, regarding their behavior, in the neighborhood of Shanghai are now coming in”.

Repeated to Peiping for relay to Hankow.

Grew

Cf. Foreign Relations of the United States Diplomatic Papers, 1938, The Far East, Volume III, pp. 37-38.

極東国際軍事裁判速記録第58号(A検察側立証段階8)昭和21年8月29日

一九三八年一月二十二日
 南京及蕪湖ニ於ケル日本人ノ残虐

 一月二十一日正午 東京発一月十九日正午三九号電ノ転送

 英国ノ同僚ハ本日秘扱情報トシテ南京ニ於ケル日本軍隊ノ行動ヲ報告スル在上海英国大使館ヨリノ一月十五日附電報ノ訳文ヲ小官ニ提供セリ。本件ニ関シテハ上海其ノ他ヨリ詳報ヲ入手シ居ラザルニ依リ、取アヘズ提供サレタル本文ヲ電達ス。「小官ハ秘扱ニテ二個ノ別々ノ且信頼シテ可ナリト思ハルル日本軍ノ残虐行為ニ関スル報告ヲ、日本兵入城ノ際各々ノ持場ニ留マリ居リタル南京ノ米宣教師及蕪湖ノ宣教師医師ヨリ受ケタリ。占領ノ初期ニ於テ南京米国大学校舎内ニテ確カメラレタル強姦事件約百件。 之等ノ報告ヲ小官ニ齎シタル国民基督教会議ノ「ボイントン(Boynton)師ノ曰フ所ニテハ、日本大使館員ニシテ日本軍入城後間モナク南京ニ到着シタルモノハ、泥酔ノ宴楽、殺戮・強姦及強奪ガ避難地域ノ内外ニテ公然ト行ハレ居ルヲ見テ戦慄シ居リタリ。彼等ハ軍司令官ニ注意ヲ促サントセシモ果サズ。結局其司令官ガ無情無関心ナル態度ナルガ為ニ、刑罰ノ方法トシテ南京ニ臨ムニ故意ニ放漫トナリタルモノノ如シト観察シ居リ、又、東京ニ打電連絡セントスルモ電報ガ軍管理ナル為、之亦、強望ナリ。依テ大使館職員ハ宣教師ニ、彼等宣教師ヨリ日本内ニ之等事実ヲ公表スル如ク試ミ、日本政府ガ輿論ニヨリ軍隊ヲ抑制スル様ニ仕向ケテハ如何、トノ話アリタル程ナリ。蘇州及杭州ヨリ目撃者ノ報告ヲ齎スベク約束ヲ受ケタリ。之等二地ニ於ケル日本軍隊ノ行動ハ同様不良ニシテ、上海近傍ニ於ケル彼等ノ行動ニ関シ確認サレタリト称セラルル事実談を只今入手シツツアリ。

 北京に転電ス、北平ハ更ニ漢口ニ中継セヨ。

 上記報告ニ付入手セル情報アラバ通知乞フ。南京ニ送リ上海ニ転電乞フ。
ジョンソン
https://rondan.net/14679

10. 中川隆[-11279] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:14:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[727] 報告

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

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