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「特亜」以外のアジアは「親日」だという妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/733.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 11 月 27 日 19:26:35: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 南京大虐殺30万人は過大評価なのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 02 日 06:20:48)


「特亜」以外のアジアは「親日」だという妄想
https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/11/23/162006

その言葉を使っているだけで当人がネトウヨだと判明してしまう、リトマス試験紙のような用語がいくつかある。「特亜」(「特ア」「特定アジア」とも)もその一つだろう。

「特亜」とは中国(台湾を除く)・韓国・朝鮮の三国のことで、この三国だけが「徹底的な反日教育」のせいで日本にいわれのない悪感情を持っているという前提で侮蔑的に使われる呼称だ。逆に言うと、この三国以外のアジア諸国は「親日」だというのがネトウヨの認識らしい。

■ 戦後の日本はフィリピンに尊敬されていた!?

こういう無知の結果、よりによって戦後の日本はフィリピンに尊敬されていたなどと言い出す者まで出てくる。

これは、1954年の日本選手団フィリピン遠征の際、彼らが現地の人々から罵倒された様子を放映した大河ドラマ『いだてん』への反応として出てきたツイートだが、もちろん正しいのはこの人ではなくNHKの方だ。

■ フィリピンにおける日本軍の蛮行

開戦当時、フィリピンは米国の植民地だったが、米国は1946年には独立を与えると約束しており、1935年時点で既に自治政府が成立していた。そこに日本軍が攻め込んだわけだが、米軍を追い出した後に日本が始めたのはその米国よりはるかに過酷な支配と収奪だった。そして、反発したフィリピン人民がゲリラ組織を作って抵抗を始めると、日本軍はゲリラに通じていると見なした村の住民を皆殺しにするような凄まじい虐殺でこれに応じた。

たとえばこれはパナイ島での一例[1]。(注:バランガイは日本の村などに相当する基礎自治体で、バランガイ・キャプテンは村長。)


1 手作りの記念碑

 レオンは、イロイロから南南西に三十キロほどの低い山々に囲まれた田舎町である。片側だけに十数軒の商店が続き、その裏は午前中だけ開かれる野菜や魚や肉などを売る市場になっていた。

 日本軍の虐殺があったのは、バランガイ・ハーモックで、町から四キロほど山に入らなければならない。ジプニーは走っていないので、トライシカーが唯一の交通機関である。

(略)

「俺の家では、父も母も日本軍に殺されたんです」

 年配の男が、黙っていられないという口調で言い出した。この人が、七十歳になるナサレオさんであった。

「両親の他に祖母と六人の妹や弟たち、全部で九人も殺されてしまった。残ったのは、わしだけだよ。
 わしが二十三歳だったから、一九四三年だったと思う。四月十日の午前二時頃だったが、突然日本軍がやって来た。(略)こっそり外に見に行ったら、日本軍スパイのフィリピン人が『出てこい。逃げると殺すぞ』と言って、みんなを集めていた。これは大変だと思い、逃げ出したところ、日本兵にあやうくつかまりそうになった。しばらくたって、家にこっそり帰ると、もう誰もいなかった。みんなつかまったらしく、水牛しか残っていなかった」

 彼の声が急に小さくなったので思わず見ると、目がうるみ赤らんでいた。

「それから山に逃げた。次の日、山に隠れてバランガイのほうを見ていると、悲鳴が聞こえてきた。午後になって家が燃え出した。日本軍は虐殺した後で、火をつけたんだ。三十軒ほど家があったけど、みんな焼かれてしまった。日本軍がいなくなってからバランガイに戻って来ると、一人の男が立っていた。男は死体の前で泣いていた。行ってみると人間の死体は炭みたいになって、歯だけが白くって……」

 彼は涙声になり、唇をかすかに震わせていた。

「あんた、家族を一度にみんな失ったことがありますか?……希望なんかなんにもない。一人になるって異常な気持ちになるものですよ。こんな思いをしたフィリピン人が、わしばかりでなくいっぱいいたってことを、日本人に知ってほしい。戦争中にこの国で何が起こったのか、日本人は何も知らないそうだからね」

(略)

 住民が虐殺された小さな広場に立ってみた。すぐ脇に、手づくりの教会が建っていた。

「あちらに、八十六名を埋めた場所があるから行って見ませんか?」

  バランガイ・キャプテンが誘ってくれた。

 彼女についてヤシ林の細道を行くと、六畳ほどの広さのコンクリートのたたきがあり、その奥に高さ三十センチほどのいかにも素人が作ったに違いない素朴な十字架が立っていた。

「殺されたうえに焼かれたもので、誰が誰だかわからないので、大きな穴を掘ってここに埋めたんですよ。毎年、四月十日の虐殺の日には、ここで犠牲者の霊をなぐさめるミサをやっています」

こちらはバタンガス州での虐殺例[2]。日本軍が虐殺するときは、パス(通行証)をやるからと騙して住民を集めて縛り上げ、谷川など死体処理のしやすい場所に連行して銃剣で突き殺すのが一つのパターンになっていた。


 ガルシアさんは目で息子を押さえてから、私に顔を向けた。

「あの頃、俺は十九歳で、子どもが一人いた。
 前の夜、日本軍がパスをくれるから集まるように言われた。だから、みんなと一緒にカルメルの神学校に並んで行くと、百二十五番という札を貰ったよ。パスはカトリックの大聖堂でくれるというから、二十人位が日本兵に連れられて出かけた。途中で突然に『空襲だ。退避しろ』って怒鳴られたんで、急いで空き家に逃げ込んだ。そこで隠れていた兵隊に縛られて、つながれた。せまい洞窟を出ると小さい谷川だった。すぐ竹やぶを上ってココナツ林に連れ込まれた。(略)」

 彼は日焼けしたこげ茶色の顔を、かすかにしかめた。

「俺は、三人一緒に銃剣で突かれるのに気がついたが、あとは夢中で目をつむっていたよ。あっという間に、深い谷川に投げ込まれた。川に投げ込まれても生きているのがわかると、また日本兵が突き殺していたよ。
 俺はこことここで、五カ所もやられた」

 彼は半袖シャツをめくって傷跡を見せてくれた。一カ所は胸の左下から突かれて背中に突き抜けていた。右胸下も前から刺されて後ろに突き抜けていた。

「ひどい傷だったけど、なんとか生きたい、死んでたまるかと思い、投げ込まれてくる死体をかきわけて、少しずつ上に登って行った。(略)
 たぶん、十時頃にやられて、十二時頃だった。ちょうど、日本兵が昼食の時間になった。俺はそのすきに、そろりそろり痛みをがまんして逃げだした。(略)ゆっくり少しずつ歩いたけど出血がひどかったので、誰もいない小さな家を見つけて水を飲んで休んだ。もう歩く気力もないので、そこに寝てしまったよ。家にやっと戻ったのは次の日だった。
 うちでは、父と叔父と俺が虐殺に遭い、このバランガイで叔父と俺だけが生き残った。叔父はその日のうちに戻って、パミンタハンのことを女どもに知らせたから、みんな泣きながらも急いで疎開を始めた」

そして、フィリピン戦も末期となると、日本軍はゲリラとの関係を疑った村ばかりか、自軍に協力的だった村の人々まで虐殺し始めた。まさに狂気の沙汰だ。[3]


「だいたいこのバランガイは日本軍に協力的だった。マカピリ(注:日本軍への協力者)がたくさん住んでいたわけではないけど、日本軍のいう通りにしてきた。それなのに皆殺しをはかった。理由は二つほど考えられる。一つは、マカピリが二派に別れて争っていたから、日本軍は困ってしまいマカピリを含めて殺したのではないか。二つ目は、日本軍の秘密を知り過ぎてしまったこともあったと思う。最後の抵抗のために山に掘ったトンネルのことなどは、みんなが知っていた。そんなことで、バランガイの全滅をはかったんだろうけど、女や子どもまで殺す理由があるかね?……あんたはどう思う?……。妻の姉妹はひどかったよ。十四人いた姉妹のうち、妻だけが残って三歳から十六歳までの十三人、全員殺されたんだ。あまりにも残酷じゃないかい? そして、このバランガイの千七百人のうち千六百人以上も虐殺されてしまった」

■ 憎まれ、石を投げられた日本兵たち

当然ながら、敗戦・投降の段階では日本兵に対する現地住民の怒りが爆発した。それでも日本兵の大多数がリンチにかけられずに済んだのは、米軍が捕虜となった日本兵を住民から保護してくれたおかげだ。

以下は、大阪毎日新聞や東京日日新聞に勤めたジャーナリストで、敗戦時フィリピンで日本軍部隊とともに米軍に投降した石川欣一氏の手記。


 昭和二十年九月六日、北部ルソン、カピサヤンにて新聞報道関係者二十三名の先頭に立って米軍に投降。(略)九時頃、自動車の爆音が聞え、大型のトラックが何台か現れた。それと前後して乗用車も着き、数名の米軍将校が日本の連絡将校と一緒にやって来た。M君の姿も見られた。間もなく、作業服の米兵が、チューイング・ガムを噛みながら、呑気な顔をして我々の前を歩いて過ぎ、引続いて武器の没収が終ると、トラックに四十人ずつだか乗れという命令が出た。(略)

 ある場所でトラック隊が停止した。前のトラックから米兵が連絡に来て「このさきの集落で昨日、比島人がトラックに石を投げ、日本のプリゾナーが数人怪我をした。同じことが再び起ってはならぬと指揮官はいっている。注意しろよ」と運転手と警乗兵に話した。こいつはひどいことだと僕は頸を縮めた。果してそこから百メートルばかり先の、家が五、六軒固まった所へさしかかると「バカヤロー、ドロボー」と待ってました!とばかりの声が飛んで来た。英語の出来るらしいのは「ジャパン・ノー・モール」といい、のぞき上げた二階では、醜い女が醜い顔を引きつらせて、右手で自分の首を斬る真似をしながら「何とかしてパタイ」と叫んでいる。お前等は首を斬られて死ぬんだといってるんだろう。バラバラと石や土塊が投げられ、警乗兵は銃を構えた。

 この時ばかりでなく、米国兵は実によく我々を守ってくれた。米国兵だけではない、比島兵も――比島兵が警乗したことは、僕はたった一度、ゴンサカという所へ行った時しか経験していないが――忠実に職務を遂行した。

1970年代、にせユダヤ人「イザヤ・ベンダサン」として南京大虐殺否定論などを展開した歴史修正主義者山本七平でさえ、自身の体験した現地住民の憎悪については正直に書いている。

日本による侵略のせいで、フィリピンでは当時の人口1,800万人のうち100万人以上が死亡している。さらに、日本軍による攻略時と連合軍による奪還時の二度にわたる戦いでほぼ全土が戦場となったフィリピンは経済面でも壊滅的打撃を受けた。こんな経験をさせられたフィリピンの人々が、戦争が終わったからといって簡単に「親日」になどなるはずがないではないか。

■ 何も知らないのは日本人だけ

フィリピン以外の東南アジア諸国でも状況は大同小異だ。

シンガポールのダウンタウン・コアには、「血債の塔」とも呼ばれる、「日本占領時期死難人民記念碑」が立っている。ここはラッフルズ・ホテルにもほど近い繁華街の真ん中であり、シンガポールを訪れた日本人のほとんどがこの塔の姿を目にしているはずだ。しかし、その碑文に「深く永遠の悲しみをもって、日本軍がシンガポールを占領していた1942年2月15日より1945年8月18日までの間に殺されたわが市民の追悼のために、この記念碑は捧げられる」と刻まれていることを知っている日本人がどれだけいるだろうか。

War Memorial Park 2, Singapore, Aug 06

By User:Sengkang (Own work) [Copyrighted free use], via Wikimedia Commons

陸軍将校として日中戦争を経験した歴史学者の故藤原彰氏は、この「血債の塔」についてこう書き記している。[5]


 一昨年、東南アジアを視察する小旅行の機会にめぐまれた。忘れがたいのはシンガポールの中心ラッフルズ広場にそびえたつオベリスク「血債の塔」である。日本人観光客をのせたバスガイドの華僑は、その広場で解散するまで、塔の存在にひとことのコメントもせず、ただショッピングの注意だけをくり返した。バスの中にひとり残った筆者の「中国人虐殺の記念碑はどこにあるのか」との質問に対して、ガイドは沈黙したまま目の前のオベリスクを指さした。外貨を得たいシンガポール人は、日本人に対してみずから「大虐殺」を語ろうとはしない。しかし彼らの沈黙は忘却ではない。マグマとなって沈潜しているのだ。「血債の塔」は永遠に残り、殉難華僑を追悼する記念式は毎年行なわれる。同地の学校教科書は日本軍の蛮行をくわしく書き記している。

 国際化の時代の日本人はいや応なく地球の各地で活動し、生活していかなければならない。「日本近現代史授業の改善」や『大東亜戦争の総括』はそのような日本人にとっておそらくとんでもない災厄となってはねかえるであろう。教育はそのような事態を見すえて「未来の日本人」に責任を負わなければなるまい。

『いだてん』のセリフの中に、「彼らにとって 戦争はまだ終わってなかったんだ」という一節があったが、戦争が終わり復員してきた皇軍兵士たちは、自らの蛮行については家族にも語らず、日常生活に埋没する中で、やがて思い出すこともなくなっていった。しかし、やられた側は決して忘れることはない。

戦後日本は、自らの戦争責任について反省せず、従ってまともな謝罪も賠償もせず、教育もしてこなかった。結果、戦後世代は自国の近現代史をろくに知らないまま育ち、その基本的知識がないために簡単に歴史修正主義者の妄説に騙されている。

国境の内側に引きこもっている限りはそれでも不都合はないのかもしれない。しかし、一歩外に出れば話は別だ。

沖縄を例外として住民を巻き込んだ地上戦を経験することなく降伏した日本は、戦後はアメリカの庇護のもと急速な成長を遂げ、アジア随一の経済大国となった。一方、大戦中は日本軍に国土を蹂躙され、戦後も内戦や独立戦争を戦わねばならなかったアジア諸国は疲弊し、経済力では日本とは比較にならない状態が続いてきた。

経済力で圧倒できている間は、海外在住の日本人が歴史認識問題で「不快な」思いをすることもほとんどなかっただろう。だが、自民党政権の失政で30年以上も衰退の続く日本と成長するアジア諸国との差は縮まり続けており、もうすぐ逆転されるのは間違いない。

これからは、日本の若者が職を求めて海外に出ていかなければならない時代になる。そのとき、ウヨサイトからコピペしたような妄説をドヤ顔で開陳したらどうなるか。

何度も言っていることだが、ツケは必ず回ってくるのだ。

[1] 石田甚太郎 『ワラン・ヒヤ 日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』 現代書館 1990年 P.34-38
[2] 同 P246-247
[3] 同 P.284
[4] 石川欣一 『比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦』 中公文庫 1995年
[5] 藤原彰他 『近現代史の真実は何か』 大月書店 1996年 P.198

https://vergil.hateblo.jp/entry/2019/11/23/162006  

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コメント
1. 中川隆[-15003] koaQ7Jey 2019年12月29日 09:16:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2026] 報告
フィリピン人が反日ゲリラになった理由


死者たちの声〜大岡昇平・レイテ戦記〜

2. 中川隆[-15002] koaQ7Jey 2019年12月29日 09:23:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2025] 報告
フィリピン人の元慰安婦 「私の体験 強制の証明」

 当時の状況は強制そのものだった−。シンポジウム会場にはフィリピン人元慰安婦の姿もあった。フェリシダッド・レイエスさん、86歳。「残り少ない証言者になってしまった」と声を振り絞った。

 「ある日、学校の教室に日本兵が2人やって来て、私を連行しました。駐屯地の一室に閉じ込められ、毎日多くの日本兵からレイプされ続けました」

 1943年9月、マスバテ島のミラグロス町。日本軍は小学校の敷地に建屋を建て、駐屯していた。役場には「日本軍歓迎」の垂れ幕が掛かっていたという。

 「先生はフィリピン人でしたが、日本軍を恐れていたので私を行かせるしかなかったのです。当時14歳。自分で売春宿のようなところへ行くなどと考えられるはずがない。無理やり手をつかまれ、駐屯地に連れていかれ、被害に遭ったのです」

 5日目に高熱を出し、解放されたという。日本兵は家まで送ろうとしたが、断ってふらふらになりながら一人で帰り着いた。

 「私の体験はまさに強制的に連行され、被害に遭ったことの証明です。安倍首相をはじめ日本政府は強制連行はなかったと言っているが、まったくの誤りです」

 93年、日本政府に損害賠償を求めた訴訟(2003年に最高裁で棄却)の原告46人のうちの1人。訴状によると、戦争が終わるまで学校には行けず、自殺も考えたという。

【神奈川新聞】
https://www.kanaloco.jp/article/80127/cms_id/110703

3. 中川隆[-15001] koaQ7Jey 2019年12月29日 09:24:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2024] 報告
慰安婦にされた女性たち−フィリピン
http://www.awf.or.jp/1/philippine-00.html

 日本軍は、1941年12月、アメリカ領であったフィリピン・ルソン島へ上陸し、直ちにマニラを陥落させ、1942年1月3日から、軍政を実施しました。日本軍の軍政下で、フィリピン人は激しいゲリラ戦を展開し、抵抗運動を行いました。日本軍はゲリラ討伐を理由に、残酷な作戦を実行しました。フィリピンでのBC級戦犯裁判では、起訴381件の内、住民虐殺が138件、強姦が45件と多数を占めています。

 フィリピンでは、マニラをはじめ、占領地の各都市には軍慰安所がつくられ、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦が送り込まれましたが、現地のフィリピンの女性も慰安婦にされていました。

  フィリピン地図

 まずマニラ(地図中-2)には、連合軍資料にある警察報告によれば、慰安所12軒、兵下士官用5軒がありました。

捕虜の供述では、朝鮮人、フィリピン人、中国人の女性がいる慰安所が5ないし6軒あったとされています。

北部ルソン島では、バヨンボン(1)に慰安所がありました。

中部ビサヤ地方では、マスパテ島(3)に軍人倶楽部という慰安所がありました。

パナイ島のイロイロ市(4)には二つの慰安所があり、1942年には、第一には12人から16人、第二には10人から11人の慰安婦がいたことが確認されています。

セブ島のセブ(5)には、慰安所を経営する日本人業者が一名いました。

レイテ島のタクロバン(6)には、フィリピン人が経営する慰安所があり、9名のフィリピン人女性がいました。

同島のブラウエン(7)にも慰安所が1944年8月までには開設されました。

 南部ミンダナオ島のブツアン(8)には1942年にフィリピン女性3名の慰安所が開設されました。

また同島のカガヤン(9)には、1943年2月に第三慰安所ができたので、三つの慰安所があったことがわかります。

同島中央のダンサラン(10)にも慰安所がありました。

また同島のダヴァオ(11)にも、慰安所があり、朝鮮人、台湾人、それにフィリピン人の慰安婦がいました。

 
 また、フィリピンでは、軍の占領地域で現地部隊が一般女性を強姦した上に、暴力的に拉致・連行して、駐屯地の建物に監禁し、一定期間連続的に強姦をつづけたことも多かったことが証言されています。この被害者達も慰安婦被害者と考えることができます。そのような女性の中には父や夫を目の前で殺された人も少なくありません。
 


フィリピン政府による医療福祉支援事業の評価報告書より

(全文はこちら)
http://www.awf.or.jp/pdf/0197.pdf


多くのロラ(おばあさん)たちは、日本兵たちによって強制的に自宅から連行された。なかには仕事中や、両親に頼まれた用事で外出した際に連れ去られた者もあった。多くは当時、まだ独身であったが、既婚者も含まれていた。

ビコールに住むロラのひとりは、その頃住んでいた村に日本兵がやってきたとき、自宅で眠っていたという。

日本兵たちは村中の男たちと若い女たちを集めて村の小学校に連行し、翌朝までそこに留め置いた。彼女たちはその後、そこから市庁舎まで連れて行かれた。

また別のロラは、母親に食料の買い出しを頼まれ、近くの町へきていたところを連行された。

このほか、マラボンにある埠頭の近くで“シシッド”(ウェット)・ライス(船荷から漏れて海に沈んでいるコメ)を採っていたところを連行されたというロラもいる。


ロラたちは、もとは市庁舎や州政府の庁舎だったもの、個人の邸宅、小中学校や高校の校舎、病院や教会であったものを徴用した日本軍の兵営、あるいは駐屯地に連れて行かれた。

ロラのひとりによれば、マニラのある教会では毎夜、そのいたる所で日本兵によって女性がレイプされていたという。

ロラの自宅が駐屯地に徴用されたという例もあるほか、慰安婦たちを収容するのにトンネルが利用されていたという報告もある。

ロラたちが慰安婦として監禁されていた期間は、3日間から1年以上と、ロラによって様々であった。

4か月以上にわたって監禁されたロラたちが25%、3か月間が17%、1か月間が16%であった。

ロラたちはその全員が、監禁されていた期間にレイプされている。

ビサヤに住むあるロラは、家にやってきた日本兵たちに家族が尋問を受けている間に、7人の日本兵からレイプされた。

そして、その日から7日間、毎晩3人から5人の日本兵がやってきては彼女をレイプしたという。

マニラに住んでいるロラのひとりは、拘束されてから1か月にわたってレイプされ続けた。

6〜7か月にわたって駐屯地に監禁されていたが、この間には週に3日ほど3人以上の兵士がやってきて、彼女を次々とレイプしたという。
 


マリア・ロサ・ヘンソンさんロサ・ヘンソンさんの場合

マリア・ロサ・ヘンソンさんは、1927年12月5日、フィリピンのマニラ近郊パサイで生まれました。大地主の父とその家事使用人であった母の間にできた婚外子でした。

1942年2月、彼女は日本兵にレイプされました。
そのとき、彼女は家で使う薪を採りに、叔父や近所の人々と出かけたのですが、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり、レイプされたのです。

彼女は二週間後にも同じ日本人将校に見つかり、ふたたびレイプされました。

彼女は日本軍に激しい怒りを感じ、抗日人民軍、フクバラハップに参加しました。一年間活動したのち、1943年4月、アンヘレス市の郊外の検問所で日本軍にとらえられ、司令部に連れて行かれ、そこで、「慰安婦」にされてしまったのです。

ロサ・ヘンソンさんは、兵舎として使われていた病院に連行されました(フィリピン人元慰安婦のための弁護士委員会)。

ヘンソンさんとほかの女性6人が、ここで日本兵たちに性行為を強要されたのです。

その後3か月してヘンソンさんは、もとは精米所であった別の慰安所に移されました。日本軍に協力していたフィリピン人から、日本兵のために洗濯をしてやれば金を稼げると言われ、ヘンソンさんとほかの何人かの若い女性たちは洗濯をするようになりました。あるときそのフィリピン人の協力者に連れられて、2階建ての家に連れていかれました。そこには3人の日本兵が待ち構えていたのです。そこには約1年間にわたって監禁されていました。昼の間は洗濯をし、夜になるとレイプされたのです。

(ロサ・ヘンソンさんの証言記録はこちら)
http://www.awf.or.jp/3/oralhistory-00.html#philippine


ロサ・ヘンソンさんは、1944年1月、ゲリラによって救出されました。連合国の上陸によってフィリピンは日本軍の占領状態から解放されたのです。

4. 中川隆[-15000] koaQ7Jey 2019年12月29日 09:25:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2023] 報告
終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! 日本軍関与、強制連行…歴史修正主義者たちはこの証拠を見よ
https://lite-ra.com/2019/08/post-4903.html
2019.08.15 終戦記記念日にあらためて言いたい!「慰安婦はデマ」こそデマだ! リテラ
   
   

 74年目の終戦記念日を迎えた今日、やはり、取り上げておくべきは日本軍「慰安婦」問題だろう。第二次安倍政権の誕生とともに、右派政治家やネット右翼による歴史修正主義は一気に勢いづき、「反日バッシング」の大号令のもとで大日本帝国賛美への傾きを増している。その象徴が、戦中の日本軍による「慰安婦」問題だからだ。

「平和の少女像」が展示された「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」は、脅迫や政治家の圧力によって中止に追い込まれたが、ネトウヨだけでなく、いまや政治家たちもが剥き出しの歴史修正発言を平然と繰り出しており、かたや、それを批判・検証する動きは鈍い。

「慰安婦問題は完全なデマなんだから。軍が関与した強制連行はなかったわけだから。それは一報を報じた朝日新聞自体が誤報と謝罪しているわけだから」「事実ではないデマの象徴の慰安婦像は行政が主催する展示会で展示するべきものではない」(松井一郎・大阪市長)

「名古屋市と愛知県は認めたのかと、国の補助金も入っているような(芸術祭で)国も韓国の主張を認めたのかと。やっぱり従軍慰安婦ってあったのかと、そういうふうに見られるじゃないかと」(河村たかし・名古屋市長)

 言っておくが、「慰安婦はデマ」「慰安婦はなかった」という発言こそ、はっきりとしたデマだ。そもそも、2014年に朝日新聞が訂正・謝罪したのは「慰安婦狩り」を創作した吉田清治証言にかんするもののみ。戦中の日本軍がアジア各地に慰安所をつくり、女性たちを「慰安婦」にして、兵士の性暴力の相手にしたのは事実である。

 まず、軍が慰安所づくりに主体的に携わったことを示す公的文書や元日本軍人の証言はいくらでもある。先日の記事(https://lite-ra.com/2019/08/post-4885.html)でも触れたが、たとえば、海軍出身の中曽根康弘・元首相は回想のなかで、インドネシアで「苦心して、慰安所をつくってやった」ことを自慢話として書いている。陸軍出身の鹿内信隆・元産経新聞社長はある対談で、「調弁する女の耐久度とか消耗度」などを含む慰安所の設置方法を経理学校で教わったと語っている。これらの証言は防衛省などが保持する当時の軍の史料でも裏付けされており、つまり、慰安所と「慰安婦」が軍主導であった事実を示している。

 アジアへの侵略戦争のなか、日本軍は戦地または占領地に軍直営や軍専用の慰安所をつくり、あるいは民間の売春宿を指定するかたちで慰安所にした。たとえば、防衛省の防衛研究所が所蔵する史料「常州駐屯間内務規定」(1938年3月16日、独立攻城重砲兵第二大隊が作成)では、中国現地の〈慰安所使用規定〉として部隊ごとに使用する曜日が決められていたほか、〈使用時間ハ一人一時間ヲ限度トス〉とあり〈支那人 一円○○銭〉〈半島人 一円五十銭〉〈内地人 二円○○銭〉とされている。軍が慰安所をつくり、朝鮮や現地の女性を「慰安婦」にしていたのは客観的にも議論の余地がないのだ。

 そこで、歴史修正主義者たちは「軍が関与した強制連行を示す証拠はない」などと言って「慰安婦問題はデマだ」と嘯くわけだが、しかし、これも問題を矮小化する典型的手口としか言いようがない。

 だいたい、歴史修正主義者たちは「軍がトラックで村に乗り込んできて、娘たちを連れ去って慰安婦にした」というようなケースだけを「強制連行」とするが、「強制」とはそもそも「本人の意思に反して無理矢理行わせること」だ。

 朝鮮人元慰安婦の証言で多いのは、「工場で働かせる」「稼げる仕事がある」などと甘言を弄して「慰安婦」にすることを隠し、騙して慰安所へ連行するケースだ。軍が直接的に連行せず業者を使っていても、元締めの業者は軍が選定し、慰安所では軍人の相手を強制されたのだから、当然、軍の責任は免れない。

■「いい仕事がある」と騙され貨車に詰め込まれ日本憲兵から「逃げようとしたら殺すぞ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の朴永心さんは1939年、17歳のとき、騙されて南京の慰安所へ連れていかれた。当時務めていた洋品店に、腰にサーベルをつけた日本人の巡査がやってきて、「お金が稼げるいい仕事がある」と誘われ、どういった仕事かはわからなかったが親孝行になると思い、ついていったという。

〈巡査は、私たちを憲兵に引き渡すとそそくさと姿を消してしまいました。私たちは屋根のついた貨車(有蓋貨車)に詰め込まれました。真夏だというのに貨車には窓がなく、風が通らないので中は蒸し風呂のような暑さでした。ブラウスが汗で肌にべったり張りついていたのを覚えています。
 一緒に乗り込んできた憲兵は「逃げようとしたら殺すぞ」と私たちを脅し、娘たちが互いに話すことも禁じました。トイレに行きたくても外に出してもらえず、我慢ができなくなると恥ずかしいなんて言ってられない。貨車の中で用を足さねばなりませんでした。本当につらかった。
 私たちは黙ったまま、暗い貨車の中で身を寄せ合って座っていました。「帰りたい」と泣き叫んでも殴られるだけで、どうすることもできなかったのです。「だまされた」と気がついたときにはすでに手遅れでした。〉【脚注1】

 明らかにそこには日本の官憲の「関与」があり、女性たちは「慰安婦」になることを「強制」されていたわけだが、さらに、東南アジアでは直接的に日本軍によって連行されたという証言も多い。

〈1943年のある夜、日本兵がやってきて、家々から若い女性を引きずり出しました。私は腕から乳飲み子をもぎとられ、むりやりトラックに押し込まれ、トンロックホテルで降ろされました。そこは陸軍専用の慰安所でした。〉(ロザリン・ソウさん/マレーシア・ペナン島生まれ)【脚注2】

〈日本軍の占領下、オランダ人は抑留所に入れられました。1944年2月、抑留所に日本軍の将校がきて、若い女性を広場に整列させ、「慰安婦」にする女性を選びました。私をふくむ16人の娘が「七海亭」に連行されました。私たちは恐怖で身を寄せあって祈りましたが、ひとり、またひとりと寝室に連れていかれました。私は日本刀をつきつけられて強かんされました。私はこの最初の夜を決して忘れません。翌日からは日本兵が列をつくってやってきました。2カ月後、慰安所は突然閉鎖され、私たちはボゴールの抑留所に移されました。日本兵は「慰安所のことを話したら、家族ともども殺す」と脅しました。私は沈黙するしかなく、周囲から「日本の売春婦」とよばれて、つらい思いをしました。〉(ジャン・ラフ=オハーンさん/オランダ領ジャワ島生まれ)【脚注2】

 安倍首相は第一次政権時に「言わば、官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れていくという、そういう強制性はなかった」(2007年3月5日参院予算委員会)と答弁したが、これは真っ赤な嘘なのである。

■日本軍によって両親を虐殺され、慰安婦にされたフィリピン女性

 目の前で日本軍によって肉親を虐殺され、「慰安婦」にさせられたケースさえある。フィリピン人元「慰安婦」のルフィーナ・フェルナンデスさんの証言だ。1942年に日本軍がフィリピンを占領したとき、フェルナンデスさんは14歳だった。場所を移しながら避難生活を送るなか、マニラ郊外の家に日本軍が入ってきた。

〈この家に戻るとすぐ私たちの家に日本軍が入り込んできました。彼らは私の父を当時強かった反日ゲリラの容疑者ということで、逮捕しようとしていました。父は前から山に行ったり、マニラに行ったりしていて、反日運動など何ひとつ行っていません。そのことを日本軍の兵士に言いました。しかし、兵士はいっこうに耳をかそうとせず、父を殴りつけました。そして、私は避難生活の間に一五才になっていましたけれど、私を見つけて日本軍の兵士が連れて行こうとしました。それをみた父が逆上して、私を連れ戻そうと日本軍の兵士に抵抗した時に、父は私の見ている前で日本軍の兵士になぐり殺されました。そして次は母の番でした。母も私をかばおうと日本兵の前に立ちはだかると、兵士が何度も何度も母のおなかを殴りつけ、母はそのまま死んでしまいました。兄弟は私の目の前で殴られ続けました。私は止めようとしましたが、私も頭をひどく殴られ意識を失った状態で車の中に連れて行かれました。遠ざかる意識の中で泣き叫ぶ兄弟の声が聞こえなくなりました。おそらく彼らも殺されたのだとその時思いました。
 私の家族はこうしてすべて殺されました。これは私にとって、とてもつらい信じられない出来事でした。そのことだけでも私は五〇年間日本人と日本軍に対する怒りで苦しみ続けてきました。〉【脚注3】

 そして、慰安所での女性たちの境遇は「凄惨」や「壮絶」という言葉ではとても言い表せないほどのものだった。数々の証言からは、虐待や暴行は日常茶飯事であり、まさに兵士たちが女性を「モノ」扱いしていたことが伺える。

■日本兵から「皇軍のため」「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と

 たとえば、朝鮮人元「慰安婦」の李桂月さんはこう証言している。15歳になった年に、村の区長に「仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言われ向かった先で日本の軍人に引き渡され、ハルピン近くの慰安所に連れて行かれた。

〈日本軍は「慰安婦」たちが言うことを聞かないとひどく殴りました。ある日、私は部屋に入ってきた将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、将校は「皇軍の言うことが聞けないのか」とどなり、連続びんたを食らわせました。あまりの痛さに目がくらみ、あごががくがくしました。将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は完全に気を失ってしまいました。〉
〈また、ある日、「タナカ」が部屋に入って来たときに私が横になったまま起き上がらないので靴で触り、「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。たばこを押し付けられてやけどをしたところは水ぶくれになり、化膿してしまいました。〉
〈日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「一〇〇人でも二〇〇人でも入ってくるだけ奉仕をしろ」と命令しました。それで、日曜日にはご飯を食べる時間も、便所に行く時間もなく「奉仕」させられました。一日中数十人もの日本兵に犯されると、指を動かす力もなくなり、失神するほどでした。一緒に連行されて来たヨンジャとイ・プニは、日本兵の暴行で殺されました。ヨンジャは病気になって腹が膨れ上がりましたが、日本兵はにんしんしている女は不必要だと言って軍刀で彼女のお腹を切り裂きました。しかし、胎児はおらず、水みたいなものがあふれ出ただけでした。ヨンジャは腹水の病気だったと思います。〉【脚注1】

 彼女たちは騙されたり、暴力によって無理矢理に「慰安婦」にさせられただけではない。慰安所では、兵士の性暴力の相手を拒めず、居住も強制され、監視によって外出や逃亡もできなかったという証言がほとんどだ。また当時の日本は、女性や児童の売買を禁じる国際条約や、満21歳未満の女性を国外へ連れて行くことを禁じる国際条約に加入しており、これらにも違反していた。なにより、戦争遂行のために女性の自由を奪い、強制的に男性の性暴力に晒すのは、深刻な人権侵害にほかならない。

 冒頭に述べたように、敗戦から74年を迎えるこの国では、「慰安婦」の存在を否定するデマが勢いづいている。女性の人権を擁護し、被害と惨禍を繰り返すまいと決意することが「反日」などと呼ばれ、バッシングや脅迫の対象となってしまう社会。そうした歪んだ状況を正さない以上、同じことが繰り返されないという保証はない。そのことを決して忘れないでほしい。

(編集部)

■引用元と主な参考文献
【1】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編/西野瑠美子、金富子責任編集『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』明石書店
【2】アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『フィールドワーク 日本軍「慰安婦」』平和文化
【3】アジア・フォーラム編『元『慰安婦』の証言──五〇年の沈黙をやぶって』皓星社
【他参考】日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編/吉見義明、西野瑠美子、林博史、金富子責任編集『Q&A「慰安婦」・強制・性奴隷』御茶の水書房

5. 2020年6月03日 09:37:58 : 63fIpkSQTI : OWw2alg0YnF1c3M=[15] 報告
2020-06-02
東南アジアの「親日」ももうすぐ終わり。ネトウヨは震えて待て。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/06/02/215046

大学生の娘を持つウヨ親が、課題の練習問題を読んで震えている。

以下が、ウヨ親が怖くてたまらないらしい課題の内容。

(1)以下の文章を100字以内で要約せよ。

 インドネシアはオランダの植民地だったことで知られるが、日本も1942年から1945年までインドネシアを軍事占領した歴史がある。インドネシアでは歴史教育の時間に日本占領期のことがしっかり教えられている。隣組、青年団、警防団、従軍慰安婦、兵補、労務者、東条英機など、さまざまなことが教えられる。そして「3年半の日本占領期は350年のオランダ植民地時代よりも残酷だった」という文句は広く人口に膾炙している。また家庭でも日本占領期に犠牲になった家族や親せきの話などが語り継がれている。

 それに引き換え、日本の歴史教育はどうだろう。東南アジアを日本が支配したことについては、多少は教えられるが、現地の学校で日本語教育を強要していたことは教えられない。またインドネシア、とりわけジャワから多くの「労務者」が泰緬鉄道を作るためにタイとミャンマーの国境に強制的に連行され、その多くがマラリアと飢餓のために亡くなったというような歴史は教えられていない。インドネシアから来た留学生が日本人の学生と話をしていて、かつて日本がインドネシアを軍事支配した時期があることさえ、日本人学生が全くと言ってよいほど知らないことに愕然とする。

 わずか数世代前の先祖が占領した歴史を知らない日本人の若者はかつて占領された国の人たちの目にどのように映るだろう。日本占領期のことを学ぶことは、かつて占領された国の人たちに対する礼儀であり義務ではないだろうか。
書かれている内容は事実そのままの淡々とした記述に過ぎないのだが、ウヨ親にとっては、自分がすがってきた歴史修正主義的妄想がゆるがされるのが怖いのだろう。教団の「教え」と異なる事実に直面したカルト信者が恐怖を感じるのと同じことだ。

だいたい右派は、インドネシアは日本軍がオランダからの独立を助けてくれたから親日なのだ、みたいな寝言を言うわけだが、日本の、日本による、日本のための戦争のせいで日本人より多い400万人も殺されたインドネシア人が日本軍に感謝などしているわけがないではないか。

だからこういうことになる。

インドネシア人が日本に好意的なのは、まず第一に、過去の経緯はともかくとして、戦後は平和国家となった(ことになっている)日本とは良い関係を築きたいからだ。つまり、日本の右派などとは違って彼らは大人なのだ。

そして第二に、アメリカの庇護のもと、朝鮮特需をきっかけに高度成長を続けた戦後日本は、収奪され戦場にされた東南アジア諸国と比べて圧倒的な経済大国だったからだ。誰だって、お金を落としてくれる相手にわざわざ機嫌を損ねるようなことを言ったりはしない。

だが、それももう終わりだ。着実に成長を続ける東南アジア諸国と、愚かな自民党政権のもとで衰退の一途をたどる日本との差は縮まるばかりだ。20年どころか10年も経たないうちに抜き去られることになるだろう。
そうなれば、もう手加減はしてもらえない。

このウヨ親の子や孫の世代の若者が貧困化する日本から職を求めて海外に出ていったとき、偉そうなウヨ言説を現地の人々に開陳などしたらどうなるか、結果は明らかだろう。

いずれ必ず来るその日を、ネトウヨは震えて待て。
https://vergil.hateblo.jp/entry/2020/06/02/215046

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