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江戸時代の銭湯は男女混浴。出会いの場所としての期待も大きかった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/201.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 31 日 05:48:03: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


江戸時代の銭湯は男女混浴。出会いの場所としての期待も大きかった☆
http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/01/3431.html


江戸時代の銭湯は、混浴だったという話はよく知られていますね。

その時代の庶民にとって、銭湯はただお湯につかりにいくだけでなかったようです。

休憩スペースで将棋や囲碁などを楽しんだり、男女の出会いの場としても期待されていて、女性たちも恥ずかしがることなくせっせと出かけていた様子が伺えます。

なんだか大らかな時代でしたね〜☆

リンク
https://woman.mynavi.jp/article/150403-35/?naibu=/4687148/45/

より

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うらやましい!? 昔の銭湯は男女混浴&アンダーヘアのケアも当たり前の場所だった


堀江 宏樹

専門家(3163) 歴史にまなぶ 女子の事情(41)


おけ寒い季節は、あったいお風呂の時間が待ち遠しいものです。温泉などに出かける方も多いのでは? 江戸時代の人々もお風呂は大好き。さすがに温泉旅行は電車や自動車のない当時、(江戸や大坂といった大都市圏から出かける場合)一生に一度くらいの特別な体験でしたが、銭湯(当時の呼び名は「湯屋」)を楽しむことはある意味、現在以上に普及していました。

江戸など大都市圏において銭湯は、庶民のくらしになくてはならないものでした。銭湯が作られたのは、木造の建物が密集して建ちならぶ下町で、できるかぎり火元を管理し、火事が発生することをふせぐためでもありましたからね。

江戸で銭湯が最初に現れたのは、一説に1591年のこと(『そぞろ物語』)。もともと日本で入浴といえば、蒸し風呂(サウナ)に入ることだったのですね。でも江戸ではサウナ(風呂)よりも、大量のお湯で身体を洗う……つまり「洗湯(せんとう)」という新習慣のほうが定着。それがビジネスとして成立してく中で、「銭湯」の表記が生まれたのでした。

庶民文化がもっとも隆盛した19世紀はじめの頃、銭湯の営業時間は朝8時から夜8時。
その当時の入浴料は現代の貨幣価値で1回150〜200円ほど。月決めフリーパスや回数券なども発行されており、1日に何度も銭湯に行くという光景すら普通のことだったんですね。
しかし(すくなくとも下町の)銭湯は男女混浴です。

何回も、幕府から混浴禁止令が出されましたが、けっきょく元に戻ってしまうのです。この背景にあるのは、銭湯が各種・出会いの場所として期待されていたということでしょうね。

江戸の下町の銭湯は男湯だけが2階建てで、その2階部分は男性客のみが使える、休憩スペースになっていました。ここで友人同士で話をしたり、将棋や囲碁などのゲームをしたり、あとは女湯を覗く……なんてことがおおっぴらに許されていたんですねぇ(笑)。

湯けむりがものすごく、具体的には見えなかったわけですし、女性もホントの意味で裸で、素の自分を選んでもらえる場所として、銭湯で見られることを逆に利用していたといえます。

江戸時代中期までは、「湯文字」とよばれる、基本は白色の女性用ふんどしを着用して庶民の女性も入浴していました。しかし……たとえば新年最初の入浴は「初湯」とされ、黄色など派手な色の「勝負湯文字」を付けて銭湯にいく女たちの姿がありました(既婚女性もふくむ)。

内股まで白粉をわざわざ塗りたくって、銭湯に行くというのですから、要するに風呂に浸かるより、メンズの視線を惹きつけたい、不倫願望アリの奥さん方みたいなヒトたちは当時からいたのですねぇ(笑)。

このように実は「わたしのナイスバディを見せたい!」という女性も多いわけで、湯文字は次第に廃れ、銭湯での女性の姿も手ぬぐいで下腹部を隠すだけ……というように簡略化していきました。

ただし、男性にカラダを見られる以上の行為へのガードは堅く、結婚前の若い娘さんには必ず母親やその姉妹が付き添っていたりで、チカン行為はふせごうとしていました。

さて、女性が銭湯でもっとも気をつけるべきなのは、カラダを洗う時でした。知らない人がたくさんいる場合など、銭湯の床でカラダを洗ったりする時には、片膝を立てた「立て膝」の姿勢で女性は座りました。立て膝の姿勢だと、もしマナーの悪い男に絡まれた時でも、すぐに立ち上がって逃げたり、攻撃することだって簡単でしたからね。

なお現代人が他人の目から隠したがるバストですが、江戸時代では基本的に見えしまっても大丈夫な身体のパーツで、とくにエッチとされる部分ではなかったのです。

銭湯では、現代人なら他人には秘密にしたいケアも公然と行われていました。それはアンダーヘアのお手入れです。その名も毛切石という石が銭湯には置いてあり、それをハサミがわりにして毛を短くカットした状態にしておくことが、男女ともに重要なオシャレだとされていたのです。しかし……銭湯という場所で無駄毛ケアまでおおっぴらに許されてしまうという感覚、現代人には非常に大胆に感じられますよね〜。

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著者:堀江宏樹
角川文庫版「乙女の日本史」
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コメント
1. 中川隆[-12601] koaQ7Jey 2019年1月31日 05:52:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

性欲を満たすために行く場所ではなかった!? 意外と知られていない吉原の実態
堀江 宏樹
https://woman.mynavi.jp/article/140910-7/?naibu=/4687130/45/

着物をきた女性

みなさまごきげんよう、歴史エッセイストの堀江宏樹です。江戸時代を扱った作品にしょっちゅう出てくるのが遊郭、そして吉原ですよね。でも吉原は一般男性にとって、日常的な存在ではありえませんでした。「ただの」風俗街と考えたら大間違いなのです。

吉原とは非日常性がウリの「愛と性のテーマパーク」だったんですね。

吉原という街が江戸幕府の公認を得て、江戸に生まれたのは1617年のこと。徳川家康が幕府を江戸に置くまで、関東一円は小さな村が点々とあるだけの田舎でした。江戸を政治の中心地にふさわしい街にするため、街では土木工事がつねに行われつづけたのです。全国から職人男性に大量に流入したため、男女比率が7:3に近かった時代もあるのが江戸の街でした。しかし、相手の女性が見つからない「非モテ」男性のための場所として、吉原が出来たのではないのです。

実は、最初期の吉原はおそろしく格式が高かったのですね。庶民の男性など、お店に入れすらしません。吉原のシステムでは、お客は目当ての遊女と男女の仲になるためには最低3度は通わねばなりませんでした。しかも一度、指名したら別の遊女に鞍替えは御法度。現在のホストクラブと同じく、永久指名制なわけですよ。もし遊郭に「浮気」がばれたら、手ひどいお仕置きがまっていました。もちろん、お客に、です(笑)。

面会の一度目、2度目は本当に遊女の顔を見るだけです。しかも、遊女が上座。ほとんどしゃべりもしません。それでも正規のお花代を遊郭に支払わねばならなかったのですね。さらに、遊郭が用意した芸者や盛り上げ役の太鼓持ちとよばれる男性芸人などにもご祝儀という名のギャラを払わねばなりませんでした。

つまり、吉原とは性欲を満たすために行く場所ではなかったのです。

吉原とは、「恋」とはなにかを経験するために行く場所だったのですね。


一般女性には到底着られないような極彩色の衣裳と、何本もカンザシを指したどハデな髪型(ちなみにカンザシの数は関東と関西では異なり、江戸・吉原の太夫は12本、京都の色街・島原の太夫は8本)をした、天女のような美女と、理想化された恋愛の幻想を楽しむための場所だったのです。

吉原の遊女の話とは厳密には違うのですが「東の吉原、西の島原」とうたわれた、京都の島原の人気遊女・野秋(のあき)のすばらしさとその理由を、井原西鶴は次のように書いています。

野秋は顔だけでなく肌が美しい。また行為の最中、情熱的である。切ない声をあげ、焦らしのテクニックで客を夢中にさせる。しかし全てが終わると、しつこくせず、「さようなら」と美しい声で別れの情緒を完璧に演出する……とかなんとか。遊女ってホントに理想の女を演じる女優だったのですね。

ホントは不感症の遊女のほうが多かったともいわれていますね。当時は女性がセックスでエクスタシーに達すると即・妊娠すると考えられ、それは遊女にとって最大の恥だと考えられていたことも、不感症とは無縁ではないでしょう。

江戸初期は関西の文化水準は関東の比ではないくらいに高く、美女は関西に在り、とまでいわれていたのですが、吉原の遊女には、東北地方の貧しい農民の娘が売られてくることが多かったせいで、丸顔の女性が多かったとか。当時の丸顔というのは、硬い玄米や食物を幼児の頃から頬張っていたため、顎の筋肉が発達したイメージです。また、「〜でありんす」などの、吉原の遊女言葉は、彼女たちの御国訛りを消すための工夫でした。

ちなみに江戸初期、吉原の遊女と「床入り(男女の仲になること)」するためにかかる経費は、現代の価値で安くて数百万円か、ヘタすればその倍ほどかかりました。要するに金も暇もあれば、女のワガママが好物だと言い張れるほど、オトナの男の器がタメされる場所が吉原だったのでございます!

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著者:堀江宏樹
角川文庫版「乙女の日本史」を発売中
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https://woman.mynavi.jp/article/140910-7/?naibu=/4687130/45/.

2. 中川隆[-12600] koaQ7Jey 2019年1月31日 05:54:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

非婚の時代の先駆けを江戸時代にみる


●江戸時代の「家」は、家族ではなく企業

江戸時代における『家』とは、現代の家族とは違い、むしろ同族経営の中小企業のようなものでした。当時仕事は『家』に着いていることが多く、世襲によって継承されました。従って、生活の糧としての仕事を維持するためには、どうしても『家』を維持していく必要がありました。

従って、当主(親)にとって嫡男の結婚は、次世代の副社長か専務を選ぶようなもの。企業経営の器量があるか、自社にとって価値ある実家を持っているか、互いの会社(家)の釣り合いはいいか、など、嫁の選定は一大事業です。ですから結婚は親が決めます。息子自身は顔も知らずに祝言を迎えることが普通でした。

現代風に言えば、結婚を親が決めるのは理不尽です。しかし会社の専務の選定だと思えば、印象は違ってきますね。こうして選ばれた妻は、いわば優秀な重役候補です。現専務の姑に鍛えられ、世代交代後は、夫婦で会社経営に精を出します。家族と家来と使用人、それぞれの生活を維持するようにがんばらなければなりません。

また、こうして選ばれた妻(正室)の地位は、揺るぎないものでした。例えばそれは、跡取りの存在に現れます。妻(正室)に子がない場合は側室を迎えますが、側室は例え妻(正室)が死去した後でも、妻(正室)にはなれません。違う役割の者と見なされていました。つまり妻(正室)は、子がいるいないにかかわらず、その地位は確保されたのです。


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●庶民は性的にも解放されていた

庶民にとって、結婚はしてもしなくてもいいものでした。当時はキリスト教を主体とした西欧文化の影響が薄かったので、女性の処女性はあまり価値を重視されず、従って性的にも自由でした。農村部で夜這いとして自由な性交渉が一般的だったのもその現れのひとつです。

離婚時に夫から妻に与える三行半は『再婚許可証』でもありました。これが法制化された理由は、離婚後の女性の多くが、再婚を含め、自由な男女関係を結んでいたからだと考えられます。

●恋愛は自由

恋愛は自由でした。それは例え武家のように結婚が必須であっても、男性は婚外で恋愛ができました。またその相手は、異性でも同性でも構いませんでした。日本には同性愛をタブー視する習慣はありませんでした。それが起こったのは西洋文化が蔓延する明治期以降です。

もうひとつ興味深いのは、遊女との結婚です。身請け、もしくは年季明けの遊女を妻にする例は少なくなかったと言います。それなりの遊女には高い教養があり、妻としての資質があると見なされていましたので、結婚後に差別を受けることもなかったようです。こうした女性は職業柄子どもに恵まれないと言われていましたので、これは当時、子を産むことが、妻の必須条件ではなかったことの例でもあります。

●現代との共通点 そしてヒント

当時の庶民は、男女共にほとんどが非正規雇用か、自営でした。つまり男女の別による職業的待遇の違いというものは、現在より小さかったと推察できます。一方、女中などの女性の仕事は、中間(武家に仕え、警固、供回りなどをする)などの男性の仕事と比べ、給金が良かったという記録があります。

当時も、社会は女性の労働力を必要としていました。また、経済的にも男性から自立し得た当時の女性は、その気になれば、一人で生きていく事もできました。現在では女性が働くためのネックになっている子育ても、家族や近隣のつながりの強い当時では、祖父母や、近隣の住人、さらには大きい子どもが小さい子供の面倒をみるなど、様々な手代わりがありました。

こうしてみると、豊かになった現在の方がとても窮屈に思えます。現代は、子どものいない女性、子育てを人に託さなければならない女性が、圧力を感じる社会になっています。でもこの考えは、決して日本古来のものではありません。むしろ明治以降、西欧文化が入ってきてから作られた考えです。

日本は古来、女性が自分の器量で生きて行けた社会だったようです。女性にとっての自由や平等は、西欧から来ると思っている人が多いとしたら、それは間違っているようです。
http://www.bs-kashiko.com/1309/

3. 中川隆[-12599] koaQ7Jey 2019年1月31日 05:55:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

669 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:29:05 ID:???

ド田舎の旧家の次男坊に嫁いだんですが、結婚して二年経ったころ姑に呼ばれて

「ここでは嫁は○○家に嫁いできたものなので、家事以外にも舅と長男の相手もなさい」

と言われた。「は?」と驚いて訊き直すと、要するに夜の相手もせよということらしい。義姉にも聞いたが、やはり私の知らないところで舅のお相手もさせられていたらしい。

「○○さん(私)には悪いけど、私の負担が減るから正直助かる」

と言われてショック。その地方では普通のことらしいけど、やはり義父・義兄とセックスするのは気持ち的にツラい。

まず舅がその日の相手(姑か義姉か私)を決め、旦那の兄がその次に指名(義姉か私)。新参者の私はほぼ必ず舅か義兄に指名されるので、肝心の旦那とのセックスがめっきり減ってしまった…


670 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:33:46 ID:???
>>669
それで子供ができたらどういうことになるの?
旦那は納得してるの?


671 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:42:23 ID:???
>>670
もちろん避妊はします。一応ですが。
もし仮に出来たとしても

「○○家の嫁が○○家の子供を産む」

ので問題ないとされる雰囲気です。義兄夫婦には子供(13歳)がいますが、これが義兄の子か舅の子かは怖くて訊けません。

旦那はしきたりを知っているので仕方ないといった風情です。「黙っててゴメン」
とは言われました。納得というか、たまに義姉とセックス出来るので満足してるんじゃないのかな。

672 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:43:31 ID:???
>>671
あ、次男が長男の嫁を抱くってのもありなのね

673 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:49:11 ID:???

そう。嫁は家の所有物という扱いなので。

それよりも私にとっての心配事は、甥(13歳)が今年元服ということです。
姑には今からそれとなく言われてますが、甥の相手もしなければならない雰囲気です。甥の相手が出来るのは当然私だけなので、ますます旦那との営みは減りそうです。


674 :なまえを挿れて。 :2006/05/31(水) 23:52:05 ID:???
>>673
なんだかすごい世界だ……本当に現代の日本の話?

676 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 00:08:34 ID:???
>>674
そうですよ。ぶっちゃけ福島。

村のお祭りで筆おろしの儀式も残ってるらしいです。最近は少ないらしいですが。

677 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 00:10:26 ID:???
>>676
うわあ……

よし、俺、福島の旧家の婿養子になる!


678 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 00:16:59 ID:???

そして家のモノとして60越えの姑に奉仕させられる677…


679 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 00:17:55 ID:???
>>678
それでも多分逝けそうだw

689 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 22:43:18 ID:???
>>687
家を出る気はないの?
元服したら筆おろしって、女子も似たような風習はあるの?
もしあなたのところに男の子ができて、年頃になったら義理のお姉さんと寝るの?


690 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 23:16:34 ID:???
>>689
批判覚悟で白状すると、かなり裕福な暮らしをさせてもらってるので離婚とかは考えてません。“それ”以外はすごくよくしてもらってるし。

正直嫌悪感というのもマヒしてくるというか、薄らいでくるので気の進まない家事くらいの位置づけになってます。

女の子はいないのですが、いても嫁に出す体なのでしきたりからは外れると思います。

うちに男の子が出来ても、14歳になるころには義姉もかなりの歳になってるので望まないんじゃないかな。親としてもあんまり気乗りしないので「やめなさい」ってこっそり言うと思う。


691 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 23:19:51 ID:???

近親相姦とかはないのか?
他に身内で女性は?

692 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 23:26:47 ID:???

旦那は男二人兄弟、兄夫婦は息子一人なので今のところ本家に女の子はゼロです。

近親相姦はないです。あったら義兄・旦那は姑を相手にしているはずだから。


693 :なまえを挿れて。 :2006/06/01(木) 23:30:22 ID:???
>>692
そうすると、お舅さんがあなたor義姉さん、義兄さんがあなたor義姉さんを指名した場合、あぶれたお姑さんと旦那さんは何をしているんでしょうか?

695 :なまえを挿れて。 :2006/06/02(金) 00:01:28 ID:???

旦那からの受け売りですが、血の濃い子供を作ることを避けるために嫁を共有するのだから、近親相姦は普通にタブーになってるのだそうです。
(「避妊するんだったら意味ないじゃん」って言いたいけど言えない)

うちは本家なので、親戚(分家)の男のところに行けといわれたことはありません。舅が行くという話も聞いたことはないです。実際行ってないかどうかは分からないですけど。


>>693

一番多いパターンは  舅→私、義兄→義姉で、


その次に多いのは  舅→義姉、義兄→私

というパターンなので、だいたい旦那はあぶれます(笑。

私に余力があるときは深夜に極力旦那の相手をします。私も旦那に抱いて欲しいから。舅とする夜はすごく疲れる(長時間になる)ので、ちょっとムリですが。


709 :なまえを挿れて。 :2006/06/02(金) 21:45:21 ID:???

舅は60歳を超えているので、挿入可能な状態になるのも射精するのも時間がかかる
のです。準備オッケーになるまでは私の体をいじりまわして気分を高めていくわけですが、20分とか30分とかナメられ続けることになります。

最初のうちは特に我慢もせず、気持ちよくなってきたら躊躇なくイッてましたが、それだと舅が挿入してくるまでに2度も3度もイかされてしまうので、一生懸命耐えなければならないのです。

射精してからももちろん長い時間をかけます。 

私の旦那や義兄はバチン!・ビタン!という感じでリズミカルに腰を打ちつけてくるので、私の声も「アッ、アッ、アッ、アッ…」というふうに出ます。

舅はさすがに勃起してもそれほど硬くならないので、そんなに早くピストンするとグニャッという感じに曲がってしまうので、出し入れがゆっくりです。

ぐにゅうううぅぅ…と差し入れて、ずるうううぅ…という感じに引き抜きます。

不思議とそうされると喘ぎ声は出ず

「っっっ…ハアッ、うッ……ッッッハアッ」

といった風にに息つぎをする感じになります。


息子のセックスがテンポよく点で感じるのに対して、父親のは線で感じるセックスと言えば近いと思います。どちらが好みとかはないのですが、なんせ舅は延々とそのリズムで動いているので、ほぼ確実にイかされてしまいます。

だから舅とした後はぐったりして、旦那と2度目のお勤めをするのは無理なのです。


714 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 10:50:35 ID:???

別に夕飯の席で重々しく今日の組み合わせが発表されるわけではなくて、
私は指名されるとき舅からは

「○○さん、今日僕の部屋に布団敷いといて」

といわれます。義兄から指名の時は普通に

「○○さん、今日いい?」

です。生理の日や舅から既にいわれてたりする日は

「あ、今日はちょっと…」

ですんなり通ります。


別にセックスするわけですから布団二組は必要ないので、実際に布団敷いたりはしません。夜舅の部屋に行くだけです。

コトが終わると当然自分の部屋に戻って寝ます。朝まで一緒にいたりはしません。夫婦の寝室も別です。終わって帰っても旦那は誰かとまだ最中だったりすることがあるからです。


717 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 20:02:06 ID:???

>終わって帰っても旦那は誰かとまだ 最中だったりすることがあるからです。

誰かって、義姉以外にもいるんですか?


718 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 22:19:57 ID:???

舅は歳の割りにすごく旺盛な方だと思いますが、それでも週に一度が限界だと思います。なので私は舅とはせいぜい月に3度、多くて4度です。

義兄は週に2・3度なので月だと10回くらいです。

残りの日は常に旦那とといいたいところですが、私が義兄の部屋にいるときには義姉が旦那の部屋にいるケースが多いので、それでは旦那が毎日ということになるので、私が空いてる日の半分くらいです。


舅がパス、義兄がパスした日に旦那が

「じゃあ義姉さん、今日お願いします」

となる日がたまにあるので、そういう時は後で旦那とケンカになります。

比で言うと舅:義兄:旦那で1:5:4くらいです。そのうち義兄と旦那の比は逆転すると思います。義兄が飽きるまではこのままでしょう。


>>717
主語がグダグダで分かりにくくなってしまってすみません。

3夫婦ともに寝室は別ということです。舅姑はもちろん義兄夫婦も私が義兄の布団に入っているときは義姉の居所がないからという意味です。

719 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 22:51:36 ID:oLQQY0ux
>>718
そういう事をしてる家はざっと何軒ぐらいあると思われますか??

720 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 23:12:17 ID:???

舅や義兄が指名してくる時って、あなたが一人の時なんですか?
それともダンナさんがいても構わずに誘ってくるんでしょうか?

それからエッチの時は口で奉仕することもあるの?
口内発射とか。

721 :なまえを挿れて。 :2006/06/04(日) 23:52:04 ID:???

旦那が私のそばにいるときは遠慮してくれます。舅も義兄も。

でもどっちみち雰囲気で分かるというか、舅や義兄と目が合えば旦那がスッと知らん振りして私から離れていくので同じことですが。

口を使うことはよくあります。でもあくまでも元気にさせるための補助という位置づけです。

旦那は義姉の口の中に出させてもらってるらしいです。義姉が

「遠慮してるつもりなのかもしれないけど、口に出される方が面倒」

といってました。


>>719
部落の人たちとは頻繁に会うわけではないので、確証はありません。
農作業の協力分担の会合のときとかに奥さん方と会いますが、「やってそう」と思えばそう見えるし、かといって当然のことのように話題にすると「はぁ?」みたいな顔されるようで怖くて訊けません。

今度勇気を出して姑に訊いてみようかな。


724 :なまえを挿れて。 :2006/06/05(月) 07:53:50 ID:???

お義姉さんとは仲いいの?
こういう事についてはどんな話してるの?

舅や姑や義兄とは普段の会話の中でもそういう話するの?
食事時などの団欒の席で

「○○さん、昨夜は激しかったなぁ」

みたいな。それとも昼と夜とはちゃんと区別してるのかな。

726 :なまえを挿れて。 :2006/06/05(月) 22:22:14 ID:???

昨夜の書き込みが23時52分。
昨夜はお休みの日だったのかな。

舅さんや義兄さんの部屋に行くのはいつも何時頃なんですか?
その後何時頃までいるんですか?


727 :なまえを挿れて。 :2006/06/05(月) 22:39:07 ID:???

ご近所さんが近所にいないくらいの田舎なので、同性の話し相手は義姉くらいです。姑ともいわゆる諍いみたいなのはないですが、仲良しというほどでもありません。

義姉ともそうひんぱんにあけすけな話をするわけではないですが、たまに際どい話題になることはあります。


私「お義父さんて、…ちょっと柔らかいですよね。ふにゃっと…」

義姉「あんなもんでしょ普通」

私「でもお義兄さんや旦那に比べるとやっぱり違いますよ」

義姉「私の旦那は私とするときはお義父さんと変わらないわよ、アナタとするときは頑張っちゃってんじゃないの(笑」


みたいな。

皆の前でそういう話題は出てきません。みんな知らんふりしてます。
昨晩は日曜だったので、全員仕事に備えてお休みだったです。まず日曜にはしないですね。

今日は今のところ言われてないです。食事も風呂も全部終わって部屋に帰ってきて一人です。11時頃まで言われなければ今日もナシだと思います。


742 :トコ :2006/06/06(火) 23:03:50 ID:???

コテハン/トリップはウザがられがちなので気乗りしませんが、名前だけ。
さとこなのでトコと家族には呼ばれています。

家の中は想像されるようなエロ満開の雰囲気ではないです。思春期の男の子もいるので。それに家がだだっぴろいのもあって、食事のとき集まることを除けばそう頻繁に行き交うこともないです。

私は自分の部屋ではセックスはしません。義姉もそうだと思う。内線電話で呼ばれていくことが多いです。食事の際に目配せや耳打ちされることもあるけど。

昨晩はPC落とした後、旦那の部屋に行って雑誌読みながらダラダラと過ごしてから帰って来て寝ました。

今日はさっき義兄の部屋から戻ってきたところです。夕飯の後お風呂の順番待ちをしていたら内線がかかってきて

「トコちゃん今日空いてる?」

と言われたので

「あ、はーい」と。


745 :なまえを挿れて。 :2006/06/06(火) 23:21:51 ID:???

甥っ子の筆おろしはトコさんになるのではないですか?


749 :トコ :2006/06/07(水) 00:10:46 ID:???

何度もクドくて申し訳ないですが、うちは家庭内でそういう雰囲気は漂ってないです。甥っ子がいるからです。

甥は多分まだ童貞だとは思いますが、我が家のしきたりについては知らないはずです。だから裸で廊下(すごく長いのに)を渡るとかありえないです。

甥の筆おろしについてはまず一番に義姉の意向が関係してくると思います。私ももちろん義姉が「させない」といってくれた方がいいし、きっと義姉もそういう気持ちだと思われます。どこかよそで済ましてきて欲しい。お祭りとかで。


元服式が済んだらどのみちしきたりについては教える予定なので、その際

「トコおばちゃんとする」

といえば私はイヤだとはいえません。多分その時点でも義姉が「まだダメよ」と止めると思います。


私たち夫婦が分家してよそに住み始める前に甥が奥さんを連れてきたら、義姉の意向に関わらず私は甥の相手をすることになるんですけど。今は甥をみてると

「この子とセックス?  ありえなーい」

と感じるんですけどね。まだ幼いし、第一その子の祖父とセックスしてるのにありえないです。


751 :なまえを挿れて。 :2006/06/07(水) 00:29:56 ID:???
>>749
避妊ってコンドーム?
それとも、ピル?

756 :なまえを挿れて。 :2006/06/07(水) 17:43:06 ID:???

>私たち夫婦が分家してよそに住み始める前に甥が奥さんを連れてきたら、義姉の意向に関わらず私は甥の相手をすることになるんですけど。


これはなんで?


それから、甥が嫁さんを連れてきた時は、その嫁さんは今の舅、義兄とトコちゃんの旦那さんの3人にも抱かれるって事なのかな。


757 :なまえを挿れて。 :2006/06/07(水) 19:16:29 ID:???

義父や義兄とエチするときキスは有りですか?


764 :トコ :2006/06/07(水) 22:37:30 ID:???

結婚した当初はピルを処方してもらってました。文字通りの家族計画と、私の子宮内膜症のためです。何年か経ってから子作りは始めようという予定でした。

2年経って家のしきたりに従うようになってからはピルを止めました。逆のように
感じるかもしれませんが、これでいいのです。

そろそろ子供が出来てもいい時期だと思ったことと、ピルを飲んでると舅と義兄にも中に出されてしまうからです。

「飲んでるんだからいいよね」というノリだと思うのですが、中に出されるとヤられちゃった感というか犯された感というのがじわじわとこみ上げてくるんです。

二人に悪感情は抱いてないですが、ちょっとこれは勘弁して欲しかったです。

それに後始末が段違いに面倒になるのがイヤだったんです。

中出しだと終わったあとシャワーを浴びるのが必須になりますが、お風呂場にいくまで廊下にポタポタと垂らしながら行くわけにはいかないので、下着を穿く必要があります。それはもう穿いて寝られないからその場でザブザブと洗うんですが、それが面倒で。

だから今は遠慮なく

「もうピルは飲んでないのでゴムを着けて下さいね」

といえます。後は


・キスはします

・甥と旦那の順列は、少なくとも成人するまでは旦那>甥だと思います

・甥は今のところ私に性欲を抱いているようには見えません

・甥が今すぐ嫁を連れてきたらそのお嫁さんは4人を相手にするはずです

・家長は舅です。絶対権力者(優しい人ですが)


769 :トコ :2006/06/08(木) 00:05:17 ID:???

ここに書き込んでから「ありえない」とか「明らかにおかしい」とか書かれて、
自分でも「ひょっとして…」と思わないでもないです。でも寄り合いでもない限りよそんちの人とは会わないので確認するのは難しいです。

あ、それから「家」のしきたりなので分家すると相手をする必要はなくなります。
私の代でなくなるかどうかは義姉次第じゃないでしょうか。私も義姉も姑の逆らえないオーラみたいなのに気圧されて従ったようなものですから。私にはまだ子供がいませんが、そりゃ止めるに越したことはないと思います。

私自身が舅や義兄に抱かれるのはいまさら感があるのでどうこうしようとは思いません。どうせ舅も現役でいられるのもそう長くないだろうし、分家すれば義兄とも断てるのですから。

ピルを止めてからはゴムは必ず着けてくれます。旦那以外の子を妊娠するというのは耐え難いので、絶対これだけは譲れません。


784 :トコ :2006/06/08(木) 23:07:31 ID:???

始めた当初は毎晩泣き暮らしてましたが、泣かなくなったころにはそういう気持ちとは関係なしに、身体の方が勝手に馴染んでいった覚えがあります。

そういう言い方だとなんかいやらしい感じがしますけど、相手のセックスのリズムが分かるというか呼吸の合わせ方を覚えるといった意味です。

舅とするときは

(0)(スタート)なんかゴソゴソといろいろする
→(1)舅が口でする
→(2)私が口でする
→(3)私が上に乗る
→(4)舅が上に乗る(フィニッシュ)


という手順が殆どなんですが、例えば(1)→(2)では私がギブアップ状態でグロッキーになってるのを舅が気付いてスッと身を引くので、二人無言で体を入れ替えます。

(2)→(3)は私が「もうこれくらい硬くなったらいいかな」と舅の顔を見ると、
舅がコクッとうなずくので私がゴムをはめて上に乗ります。

(3)→(4)のときは舅が上体を起こそうとするので私が上から引き起こしてやり、そのまま二人座って向き合った状態で少し動いてから、私が後ろに倒れ舅が上に乗る形になります。

こうやって殆ど会話をせずにセックスを終わらせるようになってました。こういう状態になってからは随分苦じゃなくなったように思います。

775 :なまえを挿れて。 :2006/06/08(木) 08:03:21 ID:???

トコさんのご両親はこの事をご存知なんですか?

>>775
知りません。知らせるつもりもないです。どういう騒ぎになるか想像しただけで恐ろしくなります。

776 :なまえを挿れて。 :2006/06/08(木) 11:03:16 ID:CvwIqudV

ホントにその地方のしきたりなのかな その家だけのしきたりじゃないのか?

しかし福島のド田舎だとそんな風習が本当に残っていそうで怖いな

>>776
私は福島出身じゃないのですが、なんとなく福島の人ってとっつきにくいというか排他的な感じがするんです。秘密主義というか。 だから姑から「風習だ」と言われたときは妙に納得してしまったのですが。


778 :なまえを挿れて。 :2006/06/08(木) 13:02:05 ID:???

探偵ファイルとかにメールしてみたら特集してくれるかも

>>778
逃げる頃合でしょうかね。ある日庭いじりしてたら見知らぬ2ちゃんねらが

「あなたトコさんでしょ。ね、そうでしょ」

…コワ過ぎる


787 :なまえを挿れて。 :2006/06/08(木) 23:40:35 ID:???
>>785
分家の人達は、その家で同じ事やってるのかな?

トコさんの近所の人と会った時に聞いてみたらどう?
同じ事してるかどうか

789 :トコ ◆cnKAU13406 :2006/06/08(木) 23:57:55 ID:???
>>787
本当にしつこく書いて申し訳ないですけど、あまり親しい人が近くにいないんですよ。というか隣の家とかなり離れてるんです。田舎なので。だから

>トコさんの近所の人と会った時に聞いてみたらどう?

そんな親しいわけでもない人に

「こんにちはごきげんよう。ところでつかぬ事をお伺いしますけど、あなたお舅さんとヤってます?」

とかいきなり訊いたらグーで殴られるんじゃないかな。


793 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 00:09:19 ID:???

トコさんの家では夫婦の寝室が別になってるみたいだけど、例えば

トコさんがお休みの時にダンナさんが義姉さんとしていたりしたら、
義姉さんの喘ぎ声とかがトコさんの寝室に聞こえてきたりしないの?

逆に義兄さんとしているトコさんの声を義姉さんに聞かれたりとか。


800 :トコ :2006/06/09(金) 21:16:30 ID:???
>>793
3夫婦のエリアは随分離れているので、舅・義兄の部屋の物音は聞こえません。
そもそも甥の事があるのでみんな意識して声や物音をたてないようにしているようです。

屋敷の3ヶ所でギシギシアンアン聞こえてきたらさすがに教育に悪いですから。
私も頑張ってタオル咥えるなどして声出さないようにしてます。

旦那の部屋に義姉が来ていたら部屋の前の廊下に義姉のスリッパがあってすぐ分かるから近寄らないようにしてますが、うっかりしてると中の声が聞こえてくることもあります。

それがあえぎ声だったらやはり嫌な気持ちにはなりますが、むしろひそひそ話の方がムカつきます。

「なにピロートークかましてんのよ!」

と後で大抵ケンカになります。セックスすることは分かってるので、義姉のあえぎ声が聞こえるとかえって

「よし、旦那がんばれ。やっつけてしまえ」

という気になります。旦那が

「いやー、お義姉さん具合いいわ。とろけそうだったよ」

と私にいうより、義姉が

「トコちゃんの旦那さんってすっごいのね。私もたないわ」

という方が嬉しいじゃないですか。


795 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 07:54:43 ID:???

>。ハスタート)なんかゴソゴソといろいろする

ワロタ


801 :トコ :2006/06/09(金) 21:31:46 ID:???
>>795
いくらなんでも部屋に入るなり無言でお互いの服を剥ぎ取り、ベッドに倒れこみながら野獣のように相手の体をむさぼり始める…

みたいなどこのエロ小説かというような行動はムリです。体力的にもキャラ的にも。


「お義父さん?失礼します」

「あ、さとこちゃん来てくれたね」

から始まって、天気とか庭の手入れとか旦那の話とかしながら徐々に(自分で)服を脱ぎます。私がパンツ一枚で座って二人の脱いだ服を畳んでいると、舅が横に座って足とか背中とかをサスサスとなでてきて、じりじりと二人で布団にもぐりこみます。

もう「なんかゴソゴソといろいろする」としか言いようがないんですよ。


804 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 22:01:37 ID:???

昨日は舅さんとのセクスの流れを書かれていましたが義兄さんとのセクスはどんな流れなんでしょうか

840 :トコ :2006/06/10(土) 23:30:00 ID:???
>>804
義兄はセックスのパターンが決まっていないので、舅のときみたいに流れを説明することは難しいです。

ただ、一つの状態を長く続けずに次へ次へと(例えば体位を)忙しく変えるので、立ったり座ったりで大変です。それこそ上へ下への大騒ぎ。

旦那も含めて「親子だなー」と感じるのは、3人ともに口でするのにすごく時間をかけてくれることです。旦那と付き合ってた頃は

「ずいぶん念入りにする人だなあ」

と思ってましたがお義兄さんも同様で、父親に至っては輪をかけてでした。舐めたり噛んだりすすったりよくこれだけ飽きもせず延々と続けられるよなと感心するくらいです。

性格って似るのかなと思ってましたが、ひょっとしたら若い頃から経験豊富な女性を相手に実戦を重ねてきたせいかなとも思います。

あと笑っちゃうのが3人とも「相手の服を脱がせてくれない」ということです。

要するに女性の方が自分で服を脱がなくてはいけないんです。服を脱ぐさまを眺めるのが好きなんだと思います。

義兄なんかは私が風呂上りでノーブラだったらちょっとがっかりしてるはずです。ブラをしてて、それを外そうとするときは決まってガン見してるから。

796 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 17:51:31 ID:???

トコさんのダンナさんはトコさんと結婚する前から義姉とセックスしてたの?


>>796
詳しくは書けませんが、旦那の上京の時系列から言ったらしてないはずです


803 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 21:59:20 ID:???

あ、トコさんだ。こんにちは〜

もうお風呂は済んだんですか?
舅さんや義兄さんに抱かれるのはお風呂の後ですよね。
呼ばれた時はメイクをし直して行くんですか?

>>803
あまりしないです、面倒だから。いまさらスッピン見られてどうもこうもないし。


815 :なまえを挿れて。 :2006/06/09(金) 23:46:25 ID:/IwQbv1S

トコさんありがとう。もしよければ、芸能人で例えると誰似か知りたい。
トコさん夫婦の関係は案外普通で安心した(良い意味で)


>>815
期待を裏切って申し訳ないんですが、私は器量よしではないです。
今まで似てると言われた中で一番マシだったのが『ピザハットのCMのお母さん役』
なんですけど分かります?

834 :なまえを挿れて。 :2006/06/10(土) 18:01:24 ID:49DPGGxX

トコさん

各登場人物の年齢を教えて下さい。

舅、義兄、旦那
義姉、トコさん

>>834
ちょっとそれは勘弁してください。舅は還暦を過ぎてて、甥は13歳。これが限界。


842 :なまえを挿れて。 :2006/06/10(土) 23:39:06 ID:???

今夜のお勤めはないんですか?
(これから?)

ちなみにバストカップは?

>>842
チチはないです。謙遜じゃなくて。

848 :なまえを挿れて。 :2006/06/10(土) 23:56:22 ID:???
>>トコさん

せめて甥御さんとの件がどうなるかまでは続けて欲しいです


>>848
元服式は成人式と同じ日にあるので、甥がこの件に関係してくるのは早くて来年一月です。また先に書いた理由もあって、仮に私が甥と関係するようになるとしてもそれはずっと先のことだと思います。よってムリ。


853 :なまえを挿れて。 :2006/06/11(日) 16:12:40 ID:???

このしきたりの事を姑から言われ、その後初めて舅や義兄に抱かれた時までの流れを聞かせて貰えませんか?

ダンナさんにも説得されたんですか?

>>853
最初は>>669に書いたとおりです。口調はもっと柔らかかったけど。

私は「は?」とか「え?」とか何度も訊き返しました。

「○○さん(旦那)は何て言ってるんですか」

というセリフは20回くらい言ったと思う。半ギレで。


話が終わると当然旦那のところにダッシュで行って

「お義母さんがこんなこと言ってるんだけど」

とオロオロして半ベソかきながら問い詰めました。旦那が

「え?ああそう…それはうーん、ちょっと待ってて」

と母のところに飛んで行ったので「ああマジなんだな…」と確信しました。

旦那は「今日トコに言うとは聞いてなかった」と後で白状しました。説得される
までの経緯についてはもう思い出したくもないです。

口も利かない日が続いて、徐々に会話するようになっても、その話題が出ると私がキーーーーッとヒステリー起こしてまた何日も口を利かないといったことが続きました。
姑に言われてから実際に舅の部屋に行くまでは3週間くらいかかりました。

最初に舅の部屋に行った日も、前の日に舅から

「さとこさん、明日の晩 何時でもいいから僕の部屋に来なさい」

とお達しがあったので、仕方なしにといった風にでした。

旦那は「大丈夫だから」というので

「大丈夫って何よ!
…ねえマジかな?
マジだと思う?」

と救いを求めているのに「大丈夫だから」としか言いませんでした。 舅に

「今から伺いますから」

と電話で知らせて部屋に行くと、

「ああ、さとこさん きてくれたね」

と招き入れてくれて、「そこに座って」と言われました。 舅が淹れてくれたお茶を二人で飲みながら、舅が淡々と説明してくれました。

私ももちろん子供が出来たときのことや、今時そんなのナンセンスだとかモノ扱いするのは非道いとか嫌です嫌ですイーヤーですとしつこく食い下がりました。 結局初日はセックスどころかそういう雰囲気すらなく開放されて、これは案外せずに済むのかなと思ってました。

でもそういうのが何日も続くとやがて

「お義父さんとこんなに長くお話することってなかったですよね」

「そうね、まあジジイは出しゃばってもいかんし」

「そんなことないですよ、こんなよくしてくれるお舅さんっていないですよ」

とか打ち解けた雰囲気になってしまい、結果的には懐柔されてしまいました。

今思うと、そういう作戦だったんだと思います。旦那は頼りにならないので自然と当事者である舅に相談するような形にもっていかせて懐柔するという。


860 :なまえを挿れて。 :2006/06/11(日) 21:24:28 ID:???

初めて舅に抱かれたのは今から何年(何ヶ月)くらい前なんでしょうか

>>860
そこまで注意深く読んでる人はいないと思いますが、舅・義兄との関係が始まってどのくらい経ったかを言うと、かなりの確度で旦那の歳がバレちゃうのでいえません。

861 :なまえを挿れて。 :2006/06/11(日) 23:13:24 ID:???

こうゆう場合、

旦那が助けてくれない(頼りにならない)→愛がなくなる→離婚。


と大半の人は流れていくと思いますが、トコさんがそうならなかったのはそれ以上に旦那さんを愛していたからですか?それとも何か他に特別な理由があるんでしょうか?

もう一つ、前記で“それ”以外はよくしてもらってるとありましたが、具体的に言うとどんな事がありますか?(かなりの田舎だと金銭的に恵まれても、その使い道等困ると思ったので。)

>>861
もちろん旦那のことを愛してます。大好きです。早くこの人の子供が欲しい。

離婚するとしたら舅との最初のセックスより前にするべきだったと思いますが、もって行きかたが上手くなし崩し的にセックスまで行ってしまったので、完全にタイミングを逸した感があります。

それから前も書いたけど裕福なんです、すごく。私はハーブとガーデニングが趣味なんですが、中庭のテニスコートくらいある敷地を「好きにしていいよ」といわれて理想のイングリッシュガーデンにしようといじり倒しているところです。そのくらい裕福。

もうそれだけで打算的だとか現金とか批判されて当然ですが、この際だからぶっちゃけてしまうと、性的に満足しているというのもあります。

今日みたいに“お勤め”がない日などは冷静に「間違ったことをし続けるのはよくないよなあ」と反省するのですが、いざ誰かとセックスして帰ってきて布団に入ると思わず余韻に浸ってうっとりしています。肉便器とか淫売とか言われても反論できません。


862 :なまえを挿れて。 :2006/06/11(日) 23:25:43 ID:???

義兄さんとの初めても聞きたいです

舅さんと初 → 義兄さんと初

まではどのくらいの期間が開いたんですか


>>862
すぐでしたよ。初セックスした後舅に

「○○(義兄)も心配してるんだよ。さとこさんがショックうけてるんじゃないかって。もしよかったら○○に心配いらないって伝えてくれないかな」

といわれて、その通りに義兄に伝えました。

「納得できたわけじゃないけど心配いりません。大丈夫です」

と。すると義兄から


「僕ともってのは聞いてるの?」

と聞かれたので

「…まあ聞いてます」

と答えました。


「で、どうする?気持ちの整理がつかないっていうんならムリにすることはないよ」

「いや、いいです。どっちみちしなきゃいけないんなら早く最初を済ませたいです」

という流れで、舅と最初にセックスした次の晩に義兄としました。

875 :なまえを挿れて。 :2006/06/12(月) 13:38:11 ID:???

トコさんは、その家に嫁いでからは、舅、義兄、旦那以外とはエッチしていないんですか?

また他の人ともしてみたいと思ったことはありませんか?

>>875
結婚してからはその3人以外の男の人と寝たことはないです。
他の人としてみたいと思ったことはあります。しないけど。

885 :なまえを挿れて。 :2006/06/12(月) 21:49:48 ID:???

トコさん

一応、家族の方達はこのようなしきたりは非常識な事だと認識はあるのですか?


>>885
言葉で「悪いね」とか「よく頑張ってくれてるね」など、気の毒に思ってねぎらってくれたりはしますが、根っこの部分では

「しきたりだからしかたないもんね」

というスタンスは一切ぶれていないと感じます。

899 :なまえを挿れて。 :2006/06/13(火) 04:13:34 ID:???

しきたりが始まったのは結婚から二年後か。
予め決められてあった時期だったのかな。

その時期を男達は指折り数えて待ってたんだろうか。はたまた様子を見てた時間の経過だったのか。「そろそろ頃合かな」なんて相談してる様とか恐すぎ。

>>899
二年というのは、男が種無しであるかどうかの見極め期間みたいなものだと舅は言います。その後、家の男衆で試してみてそれでもダメだったら石女(うまずめ)として三行半を出されてた嫁もいたとのことです。コワ


908 :なまえを挿れて。 :2006/06/13(火) 22:14:05 ID:???

赤ちゃんが出来やすい日(いわゆる危険日)は、それを理由に舅や義兄の誘いを断ってダンナさんとHできるの?

>>908
出来ます。「○○さん(旦那)と子作りします」と宣言したりもしないけど。

920 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 01:27:15 ID:???

分家しても風習って続くんだろうか。


>>920
うちの旦那がどれだけの屋敷を建てられるかにかかってると思います。
いま住んでる屋敷は代々のものなので広く、子供に気付かれないように営みを持てるというのが大きいです。

まあそんな大豪邸は必要ないので分家した先では続かないと思います。
すくなくとも私たち夫婦の子孫は。

879 :なまえを挿れて。 :2006/06/12(月) 18:42:58 ID:???

>>打ち解けた雰囲気になってしまい、結果的には懐柔されてしまいました。

そこんとこもう少し詳しくお願いします。

>>879
舅が淡々とこのしきたりというか風習について、いつ頃から続いているのか どうしてこういうことするのか、現在の社会規範と照らし合わせてどう考えているのかを話してくれました。

当然ハイハイと従う訳はないので、でもでもでもでもと一々反論してました。

それが何日も続くと肩の力も抜けて、舅が話してくれる

「かあさん(姑)のときは気の毒でねえ」とか

「○○さん(義姉)のときは大変だったんだから」


のようなエピソードにただふんふんふんふんと頷いて聞き入ってました。

さらにそういう日が続くと

「お義姉さんがそういうことしてたなんて全然知らなかったですよ」

「そりゃ月に何回かしかしないし、部屋離れてるだろ」

「イヤーー想像できない。本当にされてるんですか。普通の夫婦の営みみたいな?」


と自分から話を転がしたりするようになりました。 当然そうなったら

「さとこさんはどういう感じでしてるの?」


みたいな流れになりますよね。女の人なら共感してもらえるかもしれないけど、女性が自分のセックスについて話し始めたら、大抵はその話し相手と寝ちゃうと思うんですけどそうですよね?


まあ共感はいらないです。私はそうでした。舅が

「じゃあちょっと試してみて、それでもどうしても耐えられなかったらまたそのとき考えよう」

とお決まりの誘い方をしてきたので、

「本当にイヤだったら考えてくださいよ」

と念押しして服を脱ぎました。その日は口でだけされて

「明日も来なさい。そのとき続けるかどうか決めよう」


と部屋に帰されました。 大体の経緯はこんな感じです。その次の日にセックスまで行きました。


927 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 20:03:24 ID:???

てか、旦那が種なしかどうかは子供が出来なきゃ分からないし、(まだ子作り途中だし)それでもダメなら家族が……

ってそれじゃあ複数と交わる意味とか子作り前提のセックスとか色々矛盾してこない?

ましてやゴム着けてやってるし。

>>927
昔は2年子供が出来なかったら種無しの疑いありとしてたんじゃないでしょうか。
そもそも義姉にしても子供産んだ後でもお勤めしてるんだから、そんなの穴だらけのこじつけに決まってるじゃないですか。

矛盾だ矛盾だって私を責められても。

928 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 22:35:49 ID:???

トコさんを指名出来る順列は 舅>義兄>ダンナさん ですよね。


舅さんや義兄さんがトコさんを指名する時は連絡(もしくは「今日来てね」の合図)があると思うのですが、逆に指名しない日は「今日は指名しないよ」という意思表示はしてくれるのでしょうか?

その意思表示が無いと、義兄さんやダンナさんから指名を受けた後に舅さん(や義兄さん)から指名されてしまう事態が起きると思うんですが。もしもそうなった場合、先に指名していた人はキャンセルですか?

>>928
舅は月に数度しかないのだから、しない日に「しない」とは一々言ってこないです。 義兄から予約が入った後で舅にいわれたら一応

「もうお義兄さんに言われてるんですがどうします?」

と訊いて舅の決定に従います。 でも通常は義兄は「今からおいで」と電話をかけてくるので、舅とダブるとしても私はもう義兄の部屋にいる最中か帰ってきた後になります。

929 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 22:45:24 ID:???

義兄の部屋から帰ってくるトコさんと、ダンナさんの部屋から帰ってくる義姉さん。途中で擦れ違ったりすることはないの?

そんな時は、やっぱり「お疲れさま」って挨拶するのかな。

>>929
>そんな時は、やっぱり「お疲れさま」って挨拶するのかな

ワロタ。鉢合わせはないです。

931 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:20:00 ID:???
>>トコさん
妊娠しても、できるかぎり相手させられるのかな?
後、出産後どれくらいしたら、また相手させられるのかな?

>>931
子供は授かりものでとても大切なものなので、妊娠中は大切にされると義姉はいってました。普通の妊婦の話にしても安定期に入るまではご法度でしょ。

義姉が出産後どの程度お休み期間があったかについては知らないです。

932 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:27:15 ID:???

結構矛盾出てきたな。

933 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:29:57 ID:???
>>932
俺らが感じる矛盾を乗り越えた(まだ途中か?)トコさんが語ってるんだよ。
矛盾だらけっていうなら、この家の全てが矛盾なんだよ。

>>933
私をどんだけトンマだと思ってるかは知らないですけど、ここで言われるような矛盾点なんかもう既に200回くらい詰問してます。 答えはいつも

「それがうちの決まりだから」

です。話にならん。

934 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:32:43 ID:???

>>舅とダブるとしても 私はもう義兄の部屋にいる最中か帰ってきた後になります。

帰ってきた後に舅から電話があった時は再度出動ですか?


ダンナさんから指名があった後に義兄さんから呼び出された場合は?


>>934
一日に二度三度というのはムリなので、終わった後で言われたら普通に

「今日はもう無理です」

といいます。旦那は基本的に指名という形ではないです。夜も更けて

「え、今日トコ空きだったの?じゃあする?」

というパターンが普通です。一般的な夫婦でもそういう感じじゃないのかな

「する?」

みたいな訊き方。

935 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:40:37 ID:???

今日のお昼に親子丼を食べてたら、
唐突にトコさんを思いだしてモッキしてしまいました。

トコさんごめんなさい。

>>935
私の容姿も知らんと。義姉の方がずっと綺麗ですよ。本家の長男の嫁として厳選されてますから(見合い結婚です)。

936 :なまえを挿れて。 :2006/06/14(水) 23:46:37 ID:???

もう義兄や舅に裸を見られるのは慣れた?

義兄や舅とする時は電気点けたままするの?

>>936
慣れました。舅は豆球を点けたまま、義兄はこうこうと明かりを点けたままです。


946 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 04:18:25 ID:???

特にお義姉さんは、恋愛でなく見合いで本家の長男に嫁いできたようですが
トコさんのお話によると何もかも承知で嫁に入った訳ではなさそうだし
紆余曲折はあっても結局「しきたり」に従おうを決心したわけであろうし
お姑さん然り、お義姉さん然り、トコさん然り

「気の毒」だったお姑さんや、「大変だった」お義姉さんの床始めの悶着も気になるが

イヤ気になるのは、拒絶せずに「しきたり」を受け入れた本心なのだが歴代の嫁さんサイドに何か弱味でもあったのだろうか?

旦那に惚れた弱味とか、金に目がくらんでというのは決定打に欠けるきらいがするしもちろん背徳的な性風習に血が騒いでというのも説得力に欠けると思う

まさか金子銀子と引き換えに小作農家から本家へ奉公に出されたわけでもあるまいに

そもそも家の「決まり」事たる「しきたり」の発端とかには興味はなかったのですか?

家長制度維持や単純に快楽追及だけの旧家に代々伝わる「しきたり」に過ぎないのか

一子相伝で家長にしか与り知らぬ集落の存亡に関わるような重大な背景が存在するのか

現家長やお姑さんが亡き後、「しきたり」や「決まり」事を改める気配もなさそうですし何よりトコさん自身、来たるべき甥御さんのご指名には甘んじて受ける気構えですしね

そもそも将来の分家について旦那さんのご意見はいかようなものなのかと

直系や傍系となるご息女はおられぬようですが、ご生誕の暁にはその処遇も気がかりです

>>946
心からお詫びしたいのですが、私は専攻が電子工学だったのでそういった
民俗学とか文化人類学っぽい分野には全く興味がないです。
文章も漢字が多くて難しいです。バカで済みません。

948 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 08:07:26 ID:???

>>トコさん
初めて舅や義兄とした時に、ダンナさんは何て言ってましたか?

>>948
何にも言ってこなかったです。私も話しかけられたくなかったしその辺は空気を
読んでくれたのだと思う。どうせ近寄って来ても涙目でギッと睨むだけだったし。


949 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 09:17:35 ID:???

結局は正当な理由は無いのか。てっきり今の時代でも説得に足る(理論上)理由があるのかなぁと思ってたんで。

トコさんの旦那さんは、分家したらやめるつもりですか?
今の状況をみると比較的積極的にしているとおもうんですが、トコさんが反対しなければ「しきたりを続けたい」とか言い出しそうですか?


>>949
分家して旦那が「続ける」とか言ってもセックスする相手は私しかいないじゃないですか。

男の子を授かってその子がお嫁さんを連れてくるまで待つ?

待つとして息子が承知するかしら…などを考えると無理っぽいですね。だからこのしきたりって家長がいて何世代も同居している本家でしか続いてないのかもしれませんね。 知らんけど。

952 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 19:03:34 ID:???

福島県民の俺が来ましたよ

って、どの地域の話よ。農作業とかの話も出てるから、農家なのかと思うが。会津の方?

今の時代、そんな豪農があるのか?


>>952
>農家なのかと思うが。会津の方?

教えるわけには行かねーなー


954 :なまえを挿れて。 :2006/06/15(木) 22:48:49 ID:???
>> トコさん

舅さんや義兄さんとした後に、
ゴムをはずしてフキフキしたりするのはトコさんのお役目?


>>954
終わった後私はグンニャリ寝転がってるのでそこまで面倒は見てられません。

旦那がゴムを使ったときは私が後処理します。ゴムを外してウエットティッシュで拭くし、旦那が望むなら口でもします。

でもどうせその後シャワー浴びに行くんですけど。

974 :なまえを挿れて。 :2006/06/17(土) 21:46:49 ID:???
>>トコさん

現段階では、甥とのことは姑に何て言われているんですか?
それについてダンナさんや義姉は何と言っているんですか?

以前の書き込みで「甥が『トコおばちゃんとする』と言えば私は断れません」
と書かれていましたが「舅や義兄とはともかく、甥とするのは断固お断りします」とは言えないんでしょうか?

トコさんのカキコを読んでいると、なんとなく言えちゃいそうな雰囲気を感じるんですが。

>>974
姑は「相手して当然」という風情です。旦那はその話題には関わりません。
義姉は私よりずっと強い拒否反応を示しています。早すぎるそうです。

でもそれは逆に甥が義姉を説得するなり、義姉に「仕方ない」と思わせること
ができれば、私には否も応もないということです。

義姉が「しょうがないからトコちゃんお願い」といえば私は断れません。筋としても
雰囲気としてもです。ただその時でも私はいやだいやだ言ってると思います。

甥が大手を振って(?)私を好きにできるようになるのは成人するか結婚するか
した時ですが、私たち夫婦の計画ではそんなに長く本家にとどまるつもりはないので、現実問題として甥と私が日常的にセックスするようになることはないと思います。

ただし一度もないかといわれると「ない」と言い切る自信はないです。多分私達
が出て行くことが決定したら激しく甥が抗議すると思うからです。

だからありがちですが「一度だけなら…」と応じることになるでしょう。そして多分ほんの一度きりではなく何回か繰り返すのは間違いないと思います。

甥の性格からして「一回じゃ上手く出来なかったから悔いが残る」だのなんだの
いうでしょうから。

まあそれもこれも甥が「トコおばちゃんと?ありえねえ」といえばただの妄想ですが。


961 :なまえを挿れて。 :2006/06/16(金) 00:42:40 ID:???

だいぶ前の方でカキコされてた「筆降ろしのお祭り」とは,具体的にどんな感じで進行するものなのですか?

いわゆる乱交,みたいな感じですか?

>>961
お祭りに関しては殆ど詳しいことは分からないです。

祭りの喧騒の裏でそういうことがあるということだけで。

ただ姑の話では、お相手をする女の人がむしろ楽しみにしている行事らしいです。私が私が状態で。

ちなみに「筆おろしのお祭り」じゃないです。それが主眼のお祭りじゃないです。


963 :なまえを挿れて。 :2006/06/16(金) 01:59:13 ID:???

舅、義兄、旦那、義嫁、トコさんで、それぞれは個別につながっているんだから、5Pとかしても良い気がするんだけど、
それはないんだね。


>>963
ないです、絶対ありえない。

正直言うと旦那と義姉がどんな風にしてるのかというのに興味がないわけじゃないですけど、自分が参加してというのは恥ずかしくてイヤ。ましてや義兄・舅もいるとか考えられない。

そもそも舅がそういうのに乗りそうにない人ですからないでしょう。

982 :なまえを挿れて。 :2006/06/18(日) 10:25:51 ID:???

万が一 トコさん夫婦が子供を授からなかった場合
舅や義兄の種で子作りすることになるのでしょうか?
トコさんはそれを拒否することも出来るのでしょうか?

>>982
旦那の子供だから欲しいのであって、あくまでも私は子種をもらってまでつくろうとは思いません。子供ができなかったら普通に不妊治療すると思います。それでもダメだったら私は諦めます。旦那が望んでもイヤ。

http://logsoku.com/thread/love.2ch.net/kageki/1076854082/
http://moemoe.homeip.net/view.php/15359

4. 中川隆[-12598] koaQ7Jey 2019年1月31日 05:56:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

乱交制だった戦前の日本では何をすると不義密通とされたのか?

◆◇◆◇◆おかみさん文化◆◇◆◇◆◇

江戸期、日本の町屋社会(商家社会)には「おかみさん文化」と言うものが在った。

江戸期に入る前は、商工氏族は武士兼業だった。

日本列島に渡来した氏族は、夫々の得意分野で農業、工業(鋳造業)、商業、神主(宮司)、僧侶などを兼業していた。

代表的な例は平安末期の武門貴族・平清盛(たいらのきよもり)の宗貿易で、つまり清盛は大貿易商人でもあり、ついでに彼は僧侶にも成った。

その流れで渡来氏族の一部が武士に成ると、江戸期に商人が純粋に業種として独り立ちする前は、商人の大半は武士と兼業か武士が副業で商いをやっていた。

天皇の京都御所を守る「北面の武士」を出自とする松波峯丸(斉藤道三/さいとうどうさん)が山崎屋庄五郎として油屋を営んで居たのは有名な話である。

そして、もう少し時代が下がる室町時代〜戦国時代には武士兼業の豪商が力を持ち、財力を使って大名と協力関係を結んだり、一部の豪商は茶人として名声をはくす者も出た。


「おかみさん文化」は、武士兼業の商工氏族が多かった上方(関西地区)で始まったものだが、「商家特有の文化」として江戸期には日本全国に広まった。

昔の商家には一生を独身で済ませ、お店(たな)大事を貫く番頭の存在が落語や講談、読み本などで紹介されているがあれには裏がある。

実はその番頭は、おかみさんの肉体で満足していた。 けして不義密通ではない。
それが商家に嫁いだおかみさんの現実的な役目だった。


大店(おおだな)を内側から守るのがおかみさんの役目で、それには信用できる使用人の育成は欠かせない。

肉体的繋がりほど強いものは無いので、丁稚(でっち)はともかく、目端が利きそうな手代(てだい)辺りから、おかみさんが性欲の面倒を見て手懐ける習慣が、町屋社会(商家社会)では公然の秘密だった。

この関係、小使いは少なくても我慢させて忠誠を尽くすだけでなく、悪い遊びを覚えてお店(たな)の金に手を付けたり悪い病気を拾って来るのを防ぐ役割もあって、当然お店(たな)の旦那公認の「面倒見の行為」だった。

旦那公認で、使用人の性欲の面倒見の行為が、平然と行われていた。


すると不義密通話は何なのか?

あれは、情が通って駆け落ちなどをする場合いで、唯の性欲の面倒を見て使用人を手懐けるのとは訳が違うのである。
正に肉体的繋がりの信頼関係を、昔の町屋社会(商家社会)のおかみさんが勤めていた事になる。

「情が通わない肉体のみの性行為と言う点では昔の方が現実的な考え方で、今の上辺だけの考え方を「さも真実だ」とする主張の方が空虚なのである。

勿論、使用人に所帯を持たせて「のれんわけ}をする事も有るが、考えて見れば商売敵の同業者を増やす事になるのだから、理想はお店(たな)に縛り付けるに越した事は無いのである。

それにしても、大店(おおだな)の「おかみさん」も、「それを覚悟の嫁入り」と言う事になる。
当たり前ながら当時はそれが常識で、今の物差しで見るから読み間違う。何しろ、大店(おおだな)の旦那には妾の二〜三人は居て、その妾にもおかみさんの方が「旦那が世話になる」と盆暮れに付け届けの挨拶をする文化だった。

自分も手代(てだい)や番頭の性欲の面倒を見てから、それで互いのバランスを取って居た訳である。
つまり、繁盛している商家程使用人の数が多く、おかみさんの身体は、信用が置ける使用人の育成に忙しかった事になる。

そんなので旦那とおかみさんは、「上手く行っていたのか?」と言うのは当時の事情を知らず、現代の倫理観に当て嵌めようとするからである。

その辺はお店(たな)の旦那は商いの為と割り切っていたし、おかみさんもそう言うものだと割り切っていた。

商家の奥座敷は奥が深かったらしいが、それにしてもそう言う事であれば、内々において公然の秘密でなければ、おかみさんもとてもそんな事は秘密に出来ないであろうから皆それと承知していた事になる。

情が通わない性的な奉仕は、「単なる手段」と割り切った所が、現在の世の中の常識より余程現実的な事は私にも理解できる。

つまりは、わが国成立初期の昔から存在した「お家大事主義」の、肉体を使うお役目、閨閥構成社会(誓約・うけい)の正当性を、完全に認めるような話である。

この「おかみさん文化」の習慣は実に良く出来ている。

元々上方(当時の皇居所在地である京都近在の関西地区)で発生した商家の形態は、武家の感性を踏襲して「お店(たな)大事」が何よりも優先していた。
氏姓制度の名残を残す豪商の発想が、手本だったのである。

商売は商(あきない)と言うくらい永く続くのが信条で、後継ぎは絶やせない。
都合の良い事に、「使用人の性欲の面倒を見る」と言う、このおかみさん文化の習慣は、旦那が「種無し(子種が無く)」でも使用人が密かにカバーする。

嫁が「生まず女」なら妾がカバーする。

言わば商家存続の安全弁の役割も担っていて、「実は若旦那の実父は独身の大番頭だった。」などと言う人情話に、当時を伝えているのである。

まぁこの「若旦那の実父は独身の大番頭」を現代風の解釈で個人的な「おかみさんと番頭や手代の色恋沙汰」と解釈するか、その時代の「町屋商家の習俗」と捉えるかで随分当時のおかみさん文化の理解が違うものになる。

この物語ではもう毎度の事に成ってしまったが、この「おかみさん文化」を現代の倫理観や価値観の意識そのままに当て嵌(は)めては、到底信じられない事かも知れない。

現代風に考えれば、それこそ性に対する倫理観も女性個人の尊厳もあった物ではない。
良識派を自認する学者達には「無かった事にしたい過去」だろう。

しかしこの時代は、武家も豪商も、通常「お家の繁栄」が全てに優先する価値観であり、一般的に男も女もその「お家の為」にする犠牲行為は、不謹慎なものではなく「美徳」だった。

人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。
つまり、現代の物差しとは違う価値観が昔存在した理由は、当時の女性は「お家大事を基本にした考え方が正しい」と考えていた意識の違いである。

従って、現在の意識を基にした「一貫性行動理論」の物差しを現代に当て嵌めて、「そんな事は有り得ない」と過去を判断するのは危険な判断方法である。


江戸期に於ける「おかみさん」のついでに、「商家の娘さん」についても少し書く。

「商家の娘さん」についても、修験道師絡みの、江戸期独特の風俗習慣が存在する。江戸時代から明治中期まで町屋(商家)を中心に流行した「狐つき祓い」が、まさしくこれである。

この時代、まだまだお店(たな)の娘としては自由恋愛とは行かず、親の都合の縁談が当たり前で、お店(たな)の示(しめ)しとしても、親に逆らってもらっては困るのだ。

この辺りの厳しさが商家の習慣にあるから、心中事件などと言う手段もあった訳である。

実はこの「狐つき」、商家の娘が、都合の悪い恋愛や恋わずらいをした時に、便宜上付ける厄病で、修験者を呼んで「狐(恋愛感情)」を落としてもらう為の方便だった。

修験者の「お祓い」と称するものの実体が集中的輪姦で、娘を犯し倒す性感の波状攻撃により、娘の人生観さえも変えてしまう。

簡単に言えば、既成事実を作って諦めさせるのが目的だが、修験者の「お祓い」ならば神事で、世間も納得する。

つまり、娘から「狐着き」が落ちて、親の薦める縁談がまとまり、経験を積んで性的に成熟しているから、嫁に行っても、婿を貰っても相手を飽きさせない。

これは、「性交による矯正」と言う事であり、昔からそう言う手段はあった訳である。

御祈祷の奇跡についてはこんな事例がある。

若い夫婦に中々子宝が授からなかった。

現代のように夫に子種が無いなどと言う科学的な思考の無い時代は、子宝が授からないのは何かの「呪い・因縁の類では無いか」と恐れを抱く。

それで評判高い陰陽修験の修行を修めた行者様に若妻を預け、加持祈祷をして頂く。

神前祭祀(しんぜんさいし)に於ける邪気払いの大麻(おおぬさ)は、修験道の「祈願・焚(た)き行」でも使われていた。

大麻草(マリファナ)は、真言密教の遠祖・チベット仏教(ラマ教)の地であるヒマラヤ高地一帯で自然に自生していた薬草である。

当然ながら密教・修験道師(山伏)は、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人が陶酔作用を引き起こす事をしばしば信者獲得に利用した。

大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。

つまり密室での「焚(た)き行」の陶酔の中で、願主と修験道師(山伏)が如何なる加持祈祷儀式を為して居たかは当事者しか知らない。

加持祈祷を済ませた若妻は家に帰り、そのご利益が薄くなる前に早速夫と同衾する。
陰陽修験の行者の祈祷は霊験あらたかで、「アァら不思議」と若妻に子宝が授かってメデタしメデタしとなる。

ただしこの御祈祷は秘伝中の秘伝であり、御祈祷中の行者様の気を乱してはいけないので、どんな御祈祷が為されるのかは行者様と若妻以外誰も知らない。

後はこれを読む方の御想像に任せるが、とにかく奇跡は起こるのである。

そんな馬鹿な事はない。

「真面目に祈祷をしている行者も居る筈だ。」

とお叱りを受けるかも知れないが、あなたは祈祷のご利益が本当に信じられるのか?

この現代科学で考えれば、突然子宝が授かるには合理的な理由がある筈である。

こう言う裏話をすると、直ぐに理想論者の反論が湧き起こるが、現実に密教的修験の「お祓い」の常套手段が立ち入り禁止の非公開(呪術が効かなくなると言う理由)であり、酷い話になると、「覗けば目が潰れる」などの予防線が張られていたりする。

現実に、十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の側室・お美代の方(専行院)の父親、日啓が引き起こした大奥女中の醜聞、智泉院事件においては、「お祓い・祈祷」が名目だった。

そう言う部分は、現代の建前感覚より当時の現実感覚の方が、返って正直なのかも知れない。


これは余談に近いが、江戸期に入って盛んになった雛(ひな)祭り、子供は夢を託して無邪気な喜びの日である。

しかし、良く考えて見ると段飾り雛は、世界でも珍しい「身分制度を表したもの」で、上に上るほど高位の雛の居場所である。

これを平等の現代社会では「おかしい存在」とは誰も思わない所を見ると、およそ氏姓制度が「日本人の中に染み付いている」と言う事だろう。

一応「祭り」と言うからには信仰行事で、子供の健やかな成長を祈りながら、ついでに身分制度も学習させる寸法だったのではないか?

まぁ、目くじらを立てる程のものではないが、逆説的に言うと、存在するものは深く考えないで容認するのが日本人気質かも知れない。


誓約(うけい)の国・日本では、明治維新の文明開化まで日本人は性行為を「猥褻(わいせつ)」とする考え方は薄かった。

日本人は、人間としての性規範に対してはナチュラル(自然体)な考え方を持っていた。

性行為を「猥褻(わいせつ)」と強く感じる様に成ったのは、明治維新政府の急速な欧米化政策に伴う学校教育方針で、欧米キリスト教性規範を植え付けられたからである。

いずれにしても我輩は、「美しい国・日本」の答えが「地球を救う共生主義と言うイデオロギーに変換する事に在る」と考えている。


________


◆◇◆◇◆お召し上げ・お下げ渡し◆◇◆◇◆◇

こうして書くと庶民だけが性に開放的だったように受け取られかねないが、勿論の事、この事ばかりは氏族も庶民もさして違いはない。

この辺りが、見事に「武士道の精神」の建前の形骸化が証明されるのだが、氏族(武士)社会にはそれなりの別のいささか残酷で都合の良い制度が確立していた。

血筋がものを言う氏族(武士)社会では、血筋を残す事が最優先の了解事項だから言い分として妾は正当な存在で、正婦人は言うに及ばず妾に到るまで勢力維持・拡大の具として「閨閥(けいばつ)」の対象に成る。

領主同士の婚姻関係は軍事同盟を意味し、出世を望む部下は我娘を領主の妾に送り込み、領主は見込みのある部下に妹や娘を下し置いて頼りとする。

氏族(武士)社会の主従関係には特殊な家臣(部下)を試す制度が存在し、家臣(部下)に娘が居るなら「召し上げ」て妾にし、忠誠心を試す。

意味合いとしては「稚児小姓文化」と同じで、誓約(うけい)の概念に置いて、絶対服従の具体的な証明は大事な者の身を任す事である。

独身男性の場合は「お下げ渡し」と称してお上(殿)の手の付いたその女性を娶る事を求められ、その家臣(部下)の忠誠心が試される。

試すべき家臣(部下)が結婚していて妻がいるなら、「お召し上げ」と称してその妻を差し出させ、暫らく寝屋を伴にしてから「宿下がり」と称して夫に返し、夫が自分のお手付き後でもその女性を大事にするかどうか試される。

敵対危惧関係や敵対関係と目される相手との場合はまた別で、「人質」と言う事になる。

これらは全て古代に在った誓約(うけい)の進化系で、 家臣(部下)の忠誠度や敵対及び危惧関係相手との信頼関係を試す手っ取り早く具体的な手段だった。

「お召し上げ」の例は枚挙に暇が無いだろうが、代表的な「お下げ渡し」の例は、斉藤道三の妻・小見の方(織田信長の妻・帰蝶(濃姫)の母)である。

斉藤道三がまだ西村勘九朗を名乗っていた頃、主君・土岐頼芸から美濃一番の美女と謳われた側室・小見の方を弓の手慰めの賭けで勝拝領している。

もうひとつお下げ渡しの代表格にあげられるのは、あくまでも俗説だが、第五代将軍・徳川綱吉と大老格側用人・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)と吉保側室・染子の関係である。

側室の染子は、かつて綱吉の愛妾であり綱吉から吉保にお下げ渡しされた「拝領妻である」とも、懐妊した側室・染子を護る為に、柳沢吉保が「母子の身柄を預かった」とも言われている。

事の真相は定かではないが、柳沢家が異例の松平の姓を綱吉から許され、柳沢家を「連枝(将軍家血筋)の待遇」とした為に、柳沢家の家督を譲った長男の柳沢吉里(やなぎさわよしさと)は「綱吉の隠し子である」とも言われ、染子が吉保の側室になってからも息子・柳沢吉里(やなぎさわよしさと)の顔を見に柳沢私邸を訪れる将軍・綱吉は、側室・染子を「綱吉の寝所に召される事が多かった」とされている。

綱吉の柳沢保明(やなぎさわやすあき)の寵愛振りから、綱吉と吉保(よしやす)が男色(衆道)関係であれば、一人の女性(にょしょう)を共有しても然したる抵抗は無いかも知れない。

そして戦乱期、こう言う女性の閨閥(けいばつ)的価値観の扱われ方や近習(稚児小姓)は、何の疑いもなく信じられた氏族(武士)の男女として、家名のお役に立つ為の当然の役目だったのである。


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◆◇◆◇◆閨房術(けいぼうじゅつ性行為の技)◆◇◆◇◆◇

日本民族には、欧米のキリスト教文化と違い昔から「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」と言う姫方・女房方が積極的に殿方を喜ばせる性技があった。

殿方を喜ばせる性技「閨房術(けいぼうじゅつ)」は、姫方・女房方にとって大事な積極的に習得すべき心得だったほど、性に対しておおらかで積極的な考え方を日本民族は持っていた。

と言うのも、実は殿方が姫方・女房方の性技に喜ばされて操られる事は珍しくない為、「閨房術(けいぼうじゅつ)」に平和な武器としての価値が認められていた。

当然ながら勢力を競う氏族(貴族や武士)の子女は、誓約(うけい)の概念の元に所謂(いわゆる)「閨閥(けいばつ/婚姻による家同士の連携)」創りの役割を果たす為に世に生まれて来た様なものだった。

日本古来の「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」の発祥は不明だが、考えられる推測としては他の武術同様にその発祥を諜報活動を担っていた陰陽修験に見られる可能性が強い。

以後、修験組織が関わって成立した「白拍子(しらびょうし)遊技制度」の「床技」などで発展、戦国時代の武家の間で戦略的に子女を持って利用されて「術」として確立された。

この「閨房術(けいぼうじゅつ)」、「術」と言う範疇(はんちゅう)に入るからには、修練を積んでその「術」を自在に操れる様になる事が要求される。
つまり大げさに言えば、「閨房術(けいぼうじゅつ)」と言う性技が、氏族の女性に課せられたひとつの習得すべき積極的な技(わざ)だった。

殿方が武勇を競って領地を広げるなら、女性(にょしよう)の戦場(いくさば)は寝所(寝屋)だった。

寝所(寝屋)での事に、正妻と妾妻の分け隔ては無く「如何に殿方を喜ばせるか」の性技勝負の場に成る。

大胆かつ濃厚な性技で殿方を極楽浄土に導き、子種を授かるのが女性(によしょう)の勤めで「手柄」である。

時代により女性の性に対する価値観も違って当り前で、血統を唯一の特権の証明として受け継いできた氏族の女性にとって、この理屈に疑いなどある訳がない。

まず、当時の社会では性技は花嫁の必須条件で、十五歳と言えば嫁入りの時に性技の心得は充分に教わる。

何人もの妾妻を持つ事が普通の世界だったから、「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」を駆使して殿方を喜ばせ、殿方に気に入られる事から寝所(寝屋)での戦は始まる。

どちらかと言うと正妻は政略結婚で、妾妻は殿方に気に入られての事であるから、実は正妻ほど「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」を駆使して殿方を喜ばせないと、この勝負は気に入られている妾妻に負けてしまうから切実なのである。

そして当時の氏族社会は極端な「血統主義社会」であるから、殿方の種を受け入れ世継ぎを懐妊・出産する事が女性(にょしよう)の勝利だった。

現在の解釈など通用しないのが、歴史である。

氏族の娘にとって「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」は勝つか負けるかで、殿方の武芸武術に相当する手段だった。

当時の氏族社会は「妾妻」を持つのが当たり前で、実質一夫多妻だったから閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)は現在のように「愛を確かめるもの」と言う拠りも殿方を愉しませ「愛を獲得する為のもの」だった。

原点がその通りだから女性はむしろ性交には積極的で、凡そ人間に考えられる閨房行為に女性には禁じ手など無く、口淫性交や陰間(肛門)を使う事など技の内である。

例えば氏族(武士や貴族)の間では男色習(衆道(しゅうどう/男色)が当たり前で、ほとんどが両刀使いだったから、女性相手でも陰間(肛門)も使っての行為は現在よりも一般的で、武家の娘はその位の事は心得ていた。

恋愛は精神的もので、当時の肉体的接触は、かならずしも恋愛とは一致しない手段である事が常識で、その事を現代の女性に「昔の女性の扱いは悪かった」と同情される謂われも無い。

現代では、女性の肉体を目的達成の手段にするなど、理解され難い事だろう。
しかし親子兄弟でも領主の座を争い、たとえ叔父甥の間柄でも、隙あらば領土拡張の的にする氏族の価値観である。

「殺し合いをしても領土を手に入れる」と言う究極の価値観に生きる者達には、女性の肉体は「領土拡張の道具」と考えられても不思議な事ではない。
つまり、殺し合いも女性の色香も目的達成の手段で、当時は異常な考え方ではなかったのである。

そこの価値観の違いを分けて懸からない事には当時の女性の心情は理解出来ないし、奇妙な現代風の恋愛時代劇が成立してしまう。

しかし良い加減なもので、恋愛時代劇が成立してその物語を楽しみ、女性の敵かのごとくに拘(こだわ)る筈の妾妻と主人公の殿方との恋愛を美しく描いて楽しむ矛盾もロマンチックに受け入れてしまう。

「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」も含めて男女の仲は添ってから育むもので、精神愛まで達した仲が本当のゴールである。

本来一致させるのが難しい精神愛と性愛を、現代女性の願望を満足させる為に金儲けでロマンチックに歴史が歪められるのはいかがなものか?
http://www.geocities.jp/jiyoudan3_55/yobai.html

5. 中川隆[-12597] koaQ7Jey 2019年1月31日 05:58:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
西欧の芸術家は何故 日本文化に憧れたのか?


春画が海外で人気な理由  あまりに自由で即物的な性描くから


計700万点を超える収蔵品を誇る大英博物館。その中の日本絵画、浮世絵コレクション内に江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である「春画」が含まれている。

 明治時代以降、西欧の影響を受け、「性」に対する意識が変化するとともに春画も海外に流出。反対に西欧の美術愛好家たちは春画に魅了され、芸術品として収集してきたという経緯がある。近年では世界各地の有名美術館で展覧会が開催されている。

 世界最古にして最大級の公立博物館である大英博物館にも、春画は250点以上も所蔵されている。2013年には、同博物館で春画展の開催も予定されているほどだ。

 ここまで春画が海外で人気なのはなぜか。長年にわたり春画を研究してきた、浮世絵研究家の白倉敬彦氏が解説する。

「性をタブー視するキリスト教的宗教観が強い西欧では、あまりに自由で即物的に性を描いた春画のインパクトは絶大だった。

江戸時代の日本ではセックスの禁忌事項はほとんどなく、オーラルセックスや複数プレー、媚薬や道具を用いての行為なども普通のことでした。現代にあるセックス関連の事項で、江戸時代になかったものは皆無といっていいでしょう。

しかも、日本人がそれら奔放な性を屈託なく享受していたという事実も衝撃的で、日本の性文化を表わす資料としても価値が見出されたのです」

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110115_10251.html


日本人がガンガン“性”楽しんでいた昔、欧米人は禁欲生活


江戸文化史研究の第一人者で、法政大学教授の田中優子氏が興味深い示唆を与えてくれた。田中氏には、浮世絵研究家・白倉敬彦氏との共著『江戸女の色と恋――若衆好み』(学研刊)などがある。
 
「性に関するタブーのほとんどは西欧文化、特にキリスト教的宗教観の強い影響の下にあります。日本は明治維新とともに、政治と社会制度や経済体制、教育システムを刷新するだけでなく、性のタブーも受け入れてしまったのです」(田中氏)

 キリスト教的セックス観はいたってシンプルだ。性の営みは子孫繁栄のためにだけ存在するものであり、愉悦や快楽が介在してはいけない、というものだ。
「オーラルセックスやゲイなど生殖に関係ないセックスは、法律で厳しく罰せられました」(田中氏)

 欧米の一部では、今もこれらのセックスを禁止する法律が存在する。
“正常位”がカトリックの定めた“正しい体位”であり、後背位は獣と同じと否定されていたことも有名だ。ちなみに、江戸期に正常位は存在せず、この体位は“四つ手”と呼ばれていた。

 田中氏も笑う。「そもそも江戸の性には、正常と異常の境界線がなかったんです」
 
 欧米では、オナニーも生殖に直結しないという理由で罪悪視され続けた。ところが、江戸の自慰観は実に健全なうえ、医学的見地にも立脚している。江戸の性指南書『閨中紀聞枕文庫』は「男女とも若時婬欲をこらへるも頗(すこぶ)る毒なり」と看破しているのだ。

「おまけに西欧では女の性が抑圧され、快感はもちろん性欲すら抱いてはいけないという理不尽ぶりです」(田中氏)

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101103_5019.html

今のエロ 江戸時代にほぼ全部あり、しかも彼らは楽しんでいた


江戸時代の浮世絵は芸術的な価値だけでなく、当時の市井に生きる人々の生活や風俗、習慣、事件、考え方などを見事に表現している。ことに「春画」は、セックスをテーマとした一大ジャンルを形成してきた。

 浮世絵の研究者であり、春画にも詳しく、『江戸の春画』(洋泉社新書y)や『春画にみる江戸の性戯考』(学研刊)などの著者がある白倉敬彦氏は、江戸のセックスライフの最大の特徴を「江戸期の性には、タブーがなかったということです」と断言する。

 白倉氏は同時に、江戸期のセックスライフが、今日をも上回る自由さと平等観に裏打ちされていたと力説する。

「もちろん階層別の法度や、婚姻などのルールは決められていました。でも、セックスの本質部分においてほとんど忌避事項は存在していません。フェラチオやクンニリングスなどのオーラルセックスばかりか、アナルセックスも日常茶飯事ですし、衆道とよばれるホモセクシャルだって盛んでした。不倫は男女を問わずに行なわれていたし、廓(くるわ)での売春や夜這いの風習は社会公認です。アダルトグッズも研究と改良が進み、バイアグラそこのけの媚薬もありました」

 白倉氏は「今の世の中にあるセックス関連の事項で、江戸期になかったものはほぼ皆無。しかも、すべてが、なんの衒(てら)いや遠慮もなく、嬉々としてエンジョイされていたんです」と語る。いやむしろ、まだまだ現在のほうが性の制約が強いくらいだ――。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101101_4733.html


現代のようにラブホテルもなく、“公然わいせつ罪”のような罪もなかったため、江戸時代の男女は野外で行為に及ぶことも珍しくなかったという。

 不倫関係にある男女が庭の物陰に隠れて行為に及ぶ姿や、畑の中央に積まれた藁の上で性交する夫婦……。江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である「春画」には、そんな姿も描かれている。浮世絵研究家の白倉敬彦氏が解説する。

「出合茶屋という逢い引きの場所は存在しましたが、高額だったため利用者は限られていました。ですから、不逞な間男などは、野外で交わるか夜這いをかけることが多かったといわれています」

 夜這いといえば田舎の風習のように思われるが、江戸でも盛んに行なわれていた。その様子は春画にも多く描かれていて、女中が家の主人に狙われるシーンや、逆に女中が若旦那に夜這うものなどがある。

 一見して強姦のように見える絵もあるが、ほとんどが合意の上の夜這いなのだという。つまり、夜這いはノーマルなプレー。ここからもやはり、江戸時代が性をポジティブに受け入れていたことがわかる。

 春画は自由奔放で多種多様な江戸時代の性のすべてを活写した、“性の歴史絵巻”なのである。

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110121_10489.html


春画 着衣のままセックスする絵柄はなぜ生まれたのか?


江戸時代の識字率の高さや教育制度の充実は世界的にも群を抜いていた。大名や武士などの上層階級だけではなく、職人や商人など庶民も書物に接し、高度な文化を享受した。

彼らは西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。出版文化という切り口から江戸時代の寛容で奔放なる性に迫る――。


 * * *

 エロティック・アートの普及は、肉筆から木版という出版文化の興隆と密接にリンケージしている。とりわけ元禄期は、『好色一代男』に代表される好色本(浮世草子)の井原西鶴や、『曽根崎心中』で知られる近松門左衛門ら実力ある作家の台頭で京・大坂の出版業者が活況を呈した。
 
 同時期、上方絵師の西川祐信や吉田半兵衛、月岡雪鼎らが春画を描き、浮世草子の挿絵も担当した。ことに祐信は、町人や庶民の性生活を、情景も含め思い入れたっぷりに活写してみせた。彼の着想と作品は江戸絵師たちに衝撃を与え、従来の武家社会や古典から、庶民へとモチーフを転換させる原動力となった。

 一方、江戸では菱川師宣が木版春画を創始し、肉筆浮世絵から墨摺絵へと形態を激変させた。そこに前記の上方出版文化がなだれ込むことで、エロティック・アート全盛の素地は固まったといってよいだろう。

 さらに、文化文政期は江戸庶民のパワーが爆発する。『江戸の出版事情』(青幻舎刊)の著者、昭和女子大の内田啓一教授に当時の状況を聞いた。

「カルチャーの中心は上方から江戸に移ります。文学では滑稽本、黄表紙、人情本や川柳などが流行しました。絵画も金銀摺、空摺、艶摺など技術の飛躍的向上により、縮緬模様や透かし、ぼかし、凹凸まで印刷できるようになり、浮世絵は一気にカラフルとなり大人気を博します。当然、江戸の出版業は繁栄し、流通システムも発達しました」

 春画に関する著書が多数ある、浮世絵研究家の白倉敬彦氏は頂点を極めた印刷技術と春画の相関関係を語る。「春画で着衣のままセックスする絵柄が多いのは、着物の色彩や柄、文様まで表現可能になったからです。女性にとって春画は、最新ファッションテキストでもありました」

 春画や艶本はたびたびの規制、弾圧を受けたものの、しぶとく生き残る。しかも購買層は庶民だけではない。大名や旗本たちは当代一流の絵師や戯作者たちを呼び、私家版の絵暦を春画仕立てで制作、正月には殿中で交換しあっていた――まさに、エロティック・アートは江戸の華だったのだ。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110312_14482.html


江戸時代は確かに生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。しかし、色道指南書は何も江戸期の専売特許ではない。

『衛生秘要抄』(1288年)は鎌倉時代に編まれた、わが国の代表的医学書であり同時に性指南書でもある。本書は隋唐医学を体系化した『医心方』や宋代の医書『証類本草』のダイジェスト版であり、その意味で、いわゆる「艶本」として編纂されたものではない。

 本書は右大臣で皇后宮権太夫だった西園寺公衡(1264‐1315)の命により、宮廷医師の最高位にあった丹波行長が撰述した。西園寺公の役職を考えれば、本書が当時の貴族や高位の武士に読まれたのは間違いない。

『衛生秘要抄』は全31章のうち、17章以降のすべてが「房中術」すなわち性に関する記述で埋められており、わが国におけるセックスの高い位置づけが窺われる。同時にセックスが日常生活の健康に大きく関わっていることの証左ともなろう。

 文章は中国の黄帝が女医の素女に質問しつつ、さらに采女なる神仙の方術に長けた者からアドバイスをもらうという形で進む。黄帝の目指すところは不老不死であることは論をまたない。

「一夜の中に、女色にふけることが十度に及んだとしても、決して射精をしないことだ」

 接して漏らさず――貝原益軒が『養生訓』で広めた訓戒の源泉はここにある。『衛生秘要抄』によれば、「射精しない者は、さまざまな病気が治り、寿命が一日、一日と長くなる」のだ。そればかりか「ひと月に2回、年に24回射精するように制限すれば、誰でも100歳、200歳と長生きできる」という。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110313_14516.html


江戸時代、日本の自由な「性」には「文化」があった。だからこそ性を描いた「艶本」もブームになったが、その中でも作者の英泉が、性にまつわるすべてが本書に凝縮されていると豪語し、初版が刊行されるやたちまち江戸の大ベストセラーとなったばかりか、10年を超すロングセラーを記録するに至った艶本『閨中紀聞枕文庫』(青林堂)では、交合の秘術を10に細分し、詳しく開陳している。その中から白眉ともいうべき心得を現代語訳で紹介してみよう。

 まずは、「量度情訣」。「女を口説くには、まず世間話などをして近づき、だんだんとエッチなネタへもっていくのがよい。さらに、女は欲深きものなれば、カネやファッション、流行の小物(本書では“煙管や煙草入れ”とある)で落とせ。あの手この手で迫れば、女は押し黙ったり、手が温かくなったり、頬が赤くなったり、乳房や腹も熱くなるものだ。そういうサインを見逃さす、ぐいと押し込んでいくべし」

「戯弄真情」では、セックスで大事なのは、まず女にエクスタシーを堪能させることだと強調する。「男が快楽にまかせて先に射精してしまうことは、大いに戒めなければいけない。男は真心をもって、女体を懇切丁寧に、焦ることなく愛撫し、クリトリスをやさしく弄んでやる。挿入に際しても、男は女の様子をつぶさに観察し、自分がいきそうになったら気をそらして、長く保つこと」

 いつの世も、男はガマンが大事ということか――。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110309_14395.html


江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵である春画は、性の秘技も紹介されている。意外にもオーラルセックスを描く春画はそれほど多くないのだが、平安末期の春画にすでにその場面が登場しているように、古くから日本で行なわれていたプレーであることは間違いない。

 ただし現代のように前戯として当たり前に行なわれていたものではない。尺八は“吸茎”ともいわれ、江戸時代では、女性が男性に“再戦”を促すためにするものだとされている。そのため、春画で尺八を描く場合は、男性が疲れきった表情であることも少なくない。数多く存在した性の指南書に尺八の方法は描かれていないそうだが、それは「女性に秘技を覚えられると疲れて後が面倒」という心理が影響しているのかもしれない。

 一方、クンニリングスは“舐陰”と呼ばれていた。女性が“私への恋心が真実ならば舐めて”と、男性の心情をはかるための行為だったという。春画に描かれるオーラルセックスからは、男性以上に性欲旺盛な“肉食系女子”が多く存在したことがわかるのだ。

※週刊ポスト2011年1月28日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110118_10382.html

門外不出の性指南書、備州岡山藩秘伝『秘事作法』。『秘事作法』は上、中、下三巻構成で、江戸初期の1652年に成立した。筆者の秀麗尼は岡山藩の池田家奥御殿に仕えた女中だった。

『秘事作法』の特色は、何といっても懇切丁寧な記述にある。江戸期の性愛文化を代表するセックスガイドブックといっても過言ではあるまい。そのなかで明らかにされる、奥女中の性の秘儀の数々の中でも、上巻で述べられる、若君に対するセックスの所作は驚愕に値する。

 幼少君は、学問や武芸だけでなく帝王学の一環として、御殿女中たちから性の手ほどきを受けていた。当時の武家は現在の中学生の年齢で元服し、妻を娶って子づくりに励むののだから当然のことではあった。

 幼少君は5歳で割礼し、7歳になるとペニスの皮をむく(現代でいうところの「むきむき体操」)。早くから亀頭部を露出させ、刺激になれさせるのだ。10歳ともなれば、女中は若君の会陰部へのマッサージを入念に施してさしあげる。同時にペニスを布で巻き、厳しく鍛えることも忘れてはいけない。まだ子どもだけに、快感とは程遠く、痛みや辛さで泣き出すこともあろうが、それを叱り、あるいは慰め、励ますのも女中の務めであった。

 幼少君が12歳になったら、さらに本格的なセックス指南に進む。その作法を現代語訳してみよう。「最初は殿のペニスを指でさする。時には口に深く含み、亀頭を喉の奥深くに入れ強く吸う。続いて亀頭を舌で愛撫し、勃起の兆候がみられたら、舌先で鈴口を押さえ、亀頭をリズミカルに締めたり緩めたりする」

 いわゆる“手コキ”で奉仕するだけでなく、積極的にフェラチオをするように指導している。それもディープスロートあり、亀頭や尿道口への微妙かつ繊細な愛撫ありと、現代の性技と比べて遜色がない。いや、むしろ約360年前に、このようなテクニックが開発されていたことを称賛すべきだろう。

※週刊ポスト2010年12月24日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101218_8130.html

江戸時代の大ヒット本は中国の性書や欧州の性知識網羅する艶本


江戸時代は、西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。
 
 艶本『閨中紀聞枕文庫』全4篇は文政5(1822)年に、版元青林堂から初篇が刊行された。作者は淫乱斎主人白水こと渓斎英泉で、文章のみならず挿絵も自ら手がけた。

「艶色の一道此巻中に尽きせり」 英泉は、性にまつわるすべてが本書に凝縮されていると豪語した。果たして、たちまち江戸の大ベストセラーとなったばかりか、10年を超すロングセラーを記録するに至った。改訂や増補、新版、ダイジェスト版などの編纂が重ねられ、8冊とも9冊とも10冊とも、いやそれ以上のシリーズがあるとも推察されている。

 浮世絵研究家で艶本にも詳しい白倉敬彦氏は話す。「この本は江戸の性指南書の白眉です。日本に伝わっていた性のエッセンスのみならず、中国の性書やヨーロッパの性知識までもが網羅されています。その内容の豊富さと広範さに加え、挿絵の精密さと意表をついたアイデアが江戸っ子たちのド肝を抜きました」

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110310_14434.html

江戸の大ベストセラーとなった艶本『閨中紀聞枕文庫』(青林堂)。作者は淫乱斎主人白水こと渓斎英泉で、文章のみならず挿絵も自ら手がけた。そこでは、交合の秘術を10に細分し、詳しく開陳している。

「三峯採戦」とは上峯つまり唇、中峯の乳房、下峯の女陰という3つの性感帯を同時に責める技だ。「セックスの前戯としては、まず戯れにおかしき噺などして、乳を捻りなどして、そろそろ股へ手を入れろ」

 江戸期のセックスにおいて、前戯としてのキッスは皆無だと知りおきいただきたい。「三峯採戦」の法にもあるように、女の心を動かすトークで迫ったら、速攻でタッチに入っていく。しかも、攻撃目標は乳房よりも下半身重視だ。これを「くじる」という。

 浮世絵研究家で艶本にも詳しい白倉敬彦氏が解説してくれた。「パンティーを穿かない文化だったこともあるのでしょう、江戸の男はその気になったら、すぐ着物の裾をめくって女陰に手をやりました。さらに、春画の題材をみても歴然としているのですが、乳房や尻といった女性の第二次性徴には女性器ほど興味を抱かなかったようです」

 また、本書における女門の品別と解説の詳細さや、図版のリアリティー、さらには度を越した誇張(どの艶本、春画も性器をビッグサイズにデフォルメして描いている)を見ても、江戸のセックスにおける性器の重要視ぶりが理解できよう。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110308_14361.html

キスには挨拶、親しみと友愛、性愛と欲情という3種類があるが、江戸期の日本では、セックスにまつわる“舌偏重”のキスだけが一般化していた。軽く唇や頬、手の甲に押し当てるキスという形式は普及していない。だから幕末期に英語がどっと押し寄せてきた際、「口吸い」だけでは訳語に困り「接吻」という新しい言葉をひねくりだしたのだという。

 また、口吸いのセックスにおけるポジショニングも男女差があったようだ。口吸いが、交合への第2ステップであり決め手だったのは男の場合で、女から仕掛けるケースでは口吸いからスタートすることが多かった。まず、抱きつき口吸いして男を誘惑する。男がその気にならねば、果敢に股間へ手を伸ばす……こんな流れが春画に描かれている。

 もっとも「口吸い」にも時代的な変遷があった。当初「男の舌を女に吸わすことなかれ」だったのが、いつしか男が女体をくぢるときに欠かせぬ性技として定着した。やがて女も負けじと口吸いするようになり、結局は男女を問わず積極的なほうが、主導権を握る展開になっていく。

 艶本『艶紫娯拾餘帖』では、奥女中が小姓の若衆にかぶさり、しっかりと彼のペニスを握りながら、口吸いを強要している。書入れ(春画の中に記された説明書きやセリフ)はいう。「初心な男はままならないわ。まずは口をお吸わせなさい」

 江戸の性を大らかに描いた歌麿の春画にも口吸いのシーンは多く、この性技の日常化が見てとれる。『歌満まくら』のように、女のほうから舌を出して男に吸わせるスタイルもあれば、『艶本葉男婦舞喜(はなふぶき)』では、坊主にくぢり放題にくぢられた後家が、「舌をしごき、あるいは食いつき」と口吸いによる反撃に転じている。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101101_4739.html

上半身は口吸い、中間部の乳房を手で愛撫するという同時三点攻撃を「三所攻め」といい、大事なセックス技術とされていた。

 何より江戸期の性指南書は、男だけが快感を満喫する身勝手を厳しく非難している。溪斎英泉の記した江戸時代を代表する性科学百科『閨中紀聞枕文庫』でも、男女和合のため二人が一緒にオーガズムに達するべきだと説く。

 その極意が、前書にいう「三峯採戦」の法として紹介されている。「三峯とは、女体の口と鼻の先を“上峯”、乳房を“中峯”、陰戸(ぼぼ)を“下峯”という」「上峯の口を吸いながら、中峯の乳首をひねったりさすったりしながら女の唾を飲めば、女の精気をとって薬になる。下峯では玉門(ぼぼ)が淫水で潤い、子宮(こつぼ)がひらいたときをみはからって、とっくりと玉茎を挿入し、ゆるゆると九浅一深(くせんいっしん)の法で交合する」

 ポイントは三所攻めで女にオーガズムを得させることであり、かくして男も安心かつ満足のうちに射精することができる。これぞ、同書にいう「男女相感をもつてたのしむ」だ。

 現代のAVへ眼をやってみると、潮吹きや電マなど下半身への愛撫と執着が著しい。残念なことに三所攻めのシーンは実に少ないのだ。一方、江戸の春画には、二所攻めからまさに三所攻めへ移行しようとする絵柄がたくさん見られる。

 たとえば『正写相生源氏(しょううつしあいおいげんじ)』における、後座位で抜き差しの快感を与えつつ、乳房をさわり、いよいよ口吸いをも狙って、三所攻めを完成させようという場面は秀逸そのもの。

 絵の書入れで、女の台詞がオーガズムの到来も近いことを予感させる。「あなたは、まァどうしてこんなにお上手でいらッしゃるか」――男なら、女にこういわせてみたいものではないか。

『色道取組十二番』でも、男が後側位の体勢から身体をねじって女の乳首を吸っている。彼の一連の動きからして、口吸いへ移行し、空いた手で再び乳房を弄ると想像できよう。 多くの性研究者は、江戸において「三所攻め」は珍しくなく、むしろ一般的な性技だったと指摘している。彼らの性技のレベルの高さを証明するエピソードといえよう。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101103_5023.html


性の文化が花盛りだった江戸時代。さまざまな性に関する工夫があったようだ。たとえば、江戸時代の性指南書『好色旅枕』によると、射精を遅らせる鍵は「蟻の門渡り」だという。

発射しそうになったら、蟻の門渡り(肛門と陰嚢の間)を中指で押さえよ、と説き、また、左の人差し指で睾丸の根元を押さえ、両足の親指を強く反らして10回ほど呼吸をしても、射精を止めることができる、と解説している。

また、江戸時代は一流絵師たちが競いあって春画や艶本を描き、豊かな性文化を形成した。性指南書『房内経戯草』によると、女性の陰部には48の名があるという。

良い名は、「しほいずみ」(皺泉)、「りんゑのごう」(輪廻刧)、「てんやくのすけ」(典薬助)、「ちごのて」(稚児手)、「みずはじき」(水弾)、「さこめ」(小籠)など。悪い名は、「すぎばり」(杉針)、「あしのよ」(葦節)、「ふるせ」(旧瀬)、「にもちゐ」(似餅)、「ひきめ」(蟇目)など。

そして、江戸時代の人々は西洋的な性意識に縛られていなかったために、生活に根付いた色事の文学である浮世草子や、男女の性愛を活写した春画に記された書き入れなどを男女の隔てなくおおっぴらに愉しんでいた。そんな時代の性指南書は、女性器の鑑別や品定めが必須事項でもあった。『好色訓蒙図彙』によると、良い女性器の陰毛は「ラッコの皮」だという。

上開(良い女性器)の陰毛は濃すぎず薄すぎず、やわやわと柔和であり、猟虎(らっこ)の皮を想像させるばかりである。「猟虎の皮」は、手で撫でるとその方向になびくといわれる。

※週刊ポスト2011年3月18日号

http://www.news-postseven.com/archives/20110307_14349.html


Gスポットは江戸時代からすでに発見されていた


江戸の性技法の特色であり、現代セックスとの際立った差異はイントロダクションにある。江戸の男たちは、女と言葉を交わし、春画や艶本などを見せてエッチなムードづくりにいそしんだ。

 艶本『艶道日夜女宝記』は、そのまま今のセックスに通じる技法を伝授しているから驚く。「膣の入り口の上側に、袋のようなものがある。そこを指腹で撫でよ」

 この「袋のようなもの」とはGスポットに他ならない。Gスポットの存在が江戸期、すでに知れ渡っていたのは間違いなく、『艶本幾久(えほんきく)の露』という喜多川歌麿の作にも「膣の奥に“名所旧跡”がある」の記述がみえる。ちなみに、性医学界でGスポットが紹介されたのは1950年、ドイツ人医師エルンスト・グレーフェインベルグによってとされているのだが――。

 春画『會本 拝開よぶこどり』では子宮口周辺のポルチオ性感や、オーガズムに達する際の膣の変化も鋭く観察し、描写しているから仰天だ。

「指を深く入れると、子宮が進み出てくる」――この状態を「玉が出る」といいGスポットと並ぶ“名所旧跡”に数えた。本番の交合前に、ストレートかつ、たっぷりと指でくぢる――なるほど、江戸のセックスは奥深い。

※週刊ポスト2010年11月12日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101105_5021.html

江戸時代自作女性向け自慰グッズ 1650回以上の抜き差し推奨


古くから、適度なセックスは肉体ばかりか精神面にも良好な影響を及ぼすことが知られていた。だが、「大奥」の女中(奥女中)は男との性交渉のチャンスが極端に少なかった。

 江戸初期の1652年に成立した、セックスガイドブック『秘事作法』の中巻では、奥女中が積極的に実践すべき健康法として「独楽」すなわちオナニーを奨励。“マイ張形”の製法と独楽の楽しみ方の指南も述べている。

「わらび湯か葛湯に紅絹布を浸して丸め、乾かし、何重にも巻く」――これが作り方だ。 サイズは太さ約3センチ、亀頭部が約4.5センチ。全長は約20センチで、先端から16センチあたりに陰毛を模したつけ毛を施す。おそらくリアリスティックかつ勇猛な外観であろう。

 用意万端、いよいよ独楽を開始するわけだが、その回数が凄まじい。「性器の表面を愛撫すること50回、それと同時に乳房を100回ほど揉み、張型を浅く挿入し100回、クリトリスから陰唇への刺激を300回、騒水が湧き出たら深く挿入して200回」

 さらに張型を枕台箱で挟んで固定し、ヒップを落としていく。ここからの所作も回数つきで紹介しよう。「尻を上下にグラインドさせ200回、それをスローテンポに落としながら、空いている手で陰核にアップテンポの刺激を加え、尻を上下左右に強く揺らして200回……」

 ちなみに絶頂までの抜き差し、摩擦の回数は、割愛したものも含め実に1650回以上! これを生身の男に置き換えると……想像するだにおそろしい。

※週刊ポスト2010年12月24日号

http://www.news-postseven.com/archives/20101215_8101.html

春画とは江戸時代の人々の性生活を題材にした浮世絵だが、そこには人々の性への願望も描かれている。日本が世界と比べても自慰が盛んな国だったことは、数々の春画が証明している。

 かつて西欧では、自慰は生殖に直結しないというキリスト教的観念から禁じられ、中国では「接して漏らさず」の『養生訓』の教えのごとく精液の節約という意味で良しとされていなかった。ところが日本の春画は自慰シーンのオンパレード。その方法は実に多岐にわたり、現代からは想像もつかないような性具や媚薬が豊富にあったことがわかる。

 男性器を模した“張形”を使ったり、他人の行為を覗き見て、あるいは想像で手淫するなど、設定はバラエティに富んでいる。
男性器に巻きつけることで挿入時に女性を刺激する“肥後芋茎”や、金属の玉を女性器の中に入れて性行為をすると女性が快楽を得られるという“琳の玉”、また女性器に塗る媚薬など多彩だった。

 江戸時代は、『四つ目屋』というアダルトショップが堂々と表通りで営業されており、この手の性具は簡単に手に入ったという。

http://www.news-postseven.com/archives/20110119_10417.html


Kitagawa Utamaro
http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Shunga_by_Kitagawa_Utamaro

http://www.akantiek.nl/shunga.htm

Prints by Utamaro, Kuniyoshi, Kunisada I/II, Eisen & Utagawa School
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm#Toyoshige
http://www.ukiyoe-gallery.com/gallery9.htm#Tomioka

6. 中川隆[-12596] koaQ7Jey 2019年1月31日 05:59:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

天皇の性教育係・乳母

天皇は元服すると一人前の男性としてみなされました
元服した数日後に「添臥(そいぶし)」という女性を与えて性教育が行われるのです

その役目に選ばれるのは乳母が多かった
江戸時代のように春画がないので、乳母は自分の体を使って指導するのであります

例えば89代目の後深草天皇のお相手は乳母で大納言・久我雅忠の妻

14歳の時に人妻と初体験したのであります

ちなみに、後深草は初体験の人妻が忘れられず、この人にソックリという14歳の二条という娘を入内させております

また、80代高倉天皇(平清盛の娘と結婚する)のお相手も乳母
が、この乳母は妊娠してしまうというスキャンダルが起きてしまいました
http://hagakurecafe.gozaru.jp/iro19heian.html

乳母 うば(めのと)

養君(養姫)に対して、生母に代わり、授乳、養育を行なう女性のこと。

「ちおも」、「にゅうも」、「まま」とも呼ばれた。


乳母は、養君(養姫)に対する授乳終了後は、養君(養姫)の食事をはじめ、
その生活全般に渡り世話をした。


古代、天皇家や豪族では、生まれた子に、 生母とは別に乳を与えて養育を専門に行なう女性を置いた。 後宮職員令が制定されると、天皇家においては、親王には3人、二世王には2人、それぞれ乳母を給付することが決められた。

天皇家のみならず、有力公家や有力武家、各地の有力豪族も、乳母を置いた。

そして、乳母の最大の仕事は、養君(養姫)への性教育であった。

乳母自らが性教育の一環として相手を務めることも数多く、高倉天皇の乳母である藤原公重の娘は、高倉天皇との間に功子内親王を出産している等、 養君と乳母との間に子供が生まれた例は珍しく無い。

養君同様に、養姫に対しても、性教育は行なわれ、 夫となる男性を魅了し受け入れ喜ばせる術を伝授した。

これは、養姫に一人でも多くの子の出産させることで、 養姫の生母一族の「外戚」としての繁栄を確実とするためであり、 同時に乳母一族の繁栄も約束するものであった。

このように、乳母と養君(養姫)との関係は、単なる授乳、世話だけでは無く、 性的な秘め事を含んだために、濃密で、生母との関係よりも深いものであった。

こうして、乳母の権威は絶大なものとなり、養君が後継者となると、 女房衆や侍女たちを手足の如く使い、奥向きを差配した。

江戸時代の徳川幕府三代将軍徳川家光の乳母である春日局のように、 幕府内において、女性としては空前絶後の権力を手に入れた者もいた。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tishiki/ks00592.htm

徳川幕府の将軍の性事情すげえwwwwwwwwwww


1:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 13:47:11.79 ID:YcvuxPmvO

大学で研究したんだけどさ、これがすげぇんだよ。
聞いてくれ


8:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 13:53:06.02 ID:YcvuxPmvO

まず将軍家って、正室が赤子に乳やったりはあんまりしないそうで、授乳のために、若くて可愛いヤンママを雇うの。大体十代中盤とかな
なんで若くて可愛い必要があるかと言うと、若殿の性教育係も後々兼ねることになるから


13:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 13:57:31.25 ID:YcvuxPmvO

性教育が始まるのは、若殿が大体八歳くらい。
まだ二十歳前後の乳母(しかも幕府が国中から選んだ美女)がショタのチンコをマッサージしたり、舐めたりする。しかも乳母は複数いる。
精通前だからさぞドライオーガズムを経験できるだろう。

さらに


15:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 14:00:00.55 ID:YcvuxPmvO

あらゆる方法でチンコを鍛えさせられる。
紐で縛ったり、ヌメヌメした海藻の汁で擦られたり。

勃起を維持させられたり。

小学校高学年の男子がだぜ。
しかも


18:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 14:02:31.40 ID:YcvuxPmvO

ある程度形になると。
プロの剥き師(やっぱり美女)に優しくむきむきされる。

無事完了したら次は


21:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 14:06:02.14 ID:YcvuxPmvO

妊婦からチョイスすんだよ。ちなみにこの乳母の子どもは将軍様の乳兄弟で出世確実になるわけ。

剥けたら剥けたで、次はパイズーリ、本番が始まる。

毎日毎日だ。相手は美女の乳母。
まだ精通前な。


27:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 14:28:38.70 ID:mrhVdr8bO

春日局はこれをやって出世したってことか……
ふぅ…


29:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 14:37:15.52 ID:YcvuxPmvO

10〜12の少年が、国内有数の年上美女と毎日本番。
射精しないから券じゃにならないし、そりゃめくるめく快楽の日々だろう。
さてそんなある日、少年も初めてほとばしる。もちろん日課中に中にだ

つまり将軍家の男子はほとんどみんな初めての射精が生中出しなわけだ

ちなみにこの時、子どもが出来たら、それはそれで大事に育てられる。
神君家康公の血脈だからね。大体将来は幕府の要人となると。
吉宗とか、分家は近いけどもう少し軽いかな


35:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 14:48:56.94 ID:YcvuxPmvO

さて、この時から乳母とはセクロスしなくなる。
大人になったと見なされるからだ。
多分寂しかっただろうね。赤ちゃんのときから可愛いがってくれて、成長したらやらせてくれた優しい女性を失うわけだ。

この性教育にはもちろん政治的理由がある。
大事な将軍家の跡取りだから、いっぱい子孫を残さないといけない。
だから性を鍛えることは、武芸や学問を納めることと同じくらい大事だったのだ。

将軍家は子どもが多いほうがいい。
世継ぎにならない子どもは地方の有力武家に養子に出す。無理やり押し付ける

送られたほうは嫌でも、その子を自家の跡取りにするしかない。

そうすると実質、その武家はそこから徳川の血脈になる。
こうして徳川家は血による日本支配を実施していたのだ


79:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:04:54.36 ID:koO3Rmqr0

僕の想像による現場描写を少々

若殿8歳。乳母23歳(佐々木希美似)

若「このようにところで、鍛錬とな?」
乳「はい。若様、どうぞ下帯をおほどきください」

若「なっ。なぜそのようなことを!?」
乳「若様、老中から、わたしにすべて身を任せるように、とございませんでしたでしょうか? 
若様も徳川の男児、時がきたのでございます」

若「ううむ。よかろう。(シュルシュル)これでよいか?」
乳「うふふ。はい。まぁ、可愛らしい珍宝様。それでは少々失礼します」

若「こ、これ。なにゆえそのようなところを…あっ」
乳「若様、やさしくさすってさしあげておりますが、痛みはおありでしょうか?」

若「いや、痛みなどはないが…。なんともいえぬ気分じゃ。くすぐったいような」

乳「あら、それでは今日はもうおやめになりますか?(手を離す)」
若「い、いや。もう少し続けるがよい…」

乳「かしこまりました。うふふ。どのようなお気持ちであられますか?」
若「あぁ…。あぁ…なにやら、心地よい」
乳「あら、もうこのような…。硬ぅございます。若様。」


80:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:05:48.66 ID:koO3Rmqr0

いや、やっぱ乳母は上に出てた。堀北真紀似

若様10歳 乳母25歳

若「今宵も鍛錬か」
乳母「はい。これは弓馬の道や四書五経と同じく、
ご世継たる若様にとって必要なことでございます。ご容赦を」

若「苦しゅうない。うむ。わたしも、この鍛錬は得意じゃ。さぁ、よろしく頼む(べろーん)」

乳「…このように雄雄しく猛っておられて、、うれしゅうございます。ペロっ」

若「!?」

乳「ふふ。どうなさいました? 若様」
若「なにをしたのじゃ? わたしの珍宝は食べ物では…。(ペロっ)あぁっ!」

乳「心地ようございますか? これも若様のためでございまする。ちゅぱっ、ちゅぱっ」

若「わしは…わしは…!」

乳「あらあら、赤子のようにお泣きになって、そのように感じいっていただいて幸せにございます」


81:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:06:53.66 ID:koO3Rmqr0

若様12歳 乳母27歳

乳母「さぁ、今日も若様をこの身に受けさせていただきます」
若「うむ。たのむぞ」
このとき、若はいっさい動かないのがしきたり、乳母が全部やるらしい

乳「(くちゅっ、くちゅっ)…はぁっ お迎えいれる準備がととのいました。では」
じゅぷ

若「おぉ…」
乳「(ぐちゅ、ぐちゅ)…いかかで、ああっ、いかがでございますか?」
若「…今日は、なにやら、いつもと違うようじゃ…ふぐりが。うずきよる」

乳「まぁ、よいのです。そのまま感じいるままに身をお任せください」

若「あっ、あっ、なにか、なにかあがってくるようじゃ!」
乳「(パン、パン)、さぁ、そのまま…そのまま。お心のままに…」

若「うっ、(どくっ、どくっ)」
乳「あぁ…。奥に、放たれております…」

若「…はっ、すまぬ。小水を漏らしてしもうたようじゃ」
乳「ふふ。これは小水ではございませぬ。若様がおのこになった証、子だねにございます」

若「な、それはまことか!?」
乳「めでたきことにございます。…されど、されど」
若「どうした、なにを泣いておる」
乳「若は大人になられた。
もう、この乳母めが若の猛りをお受けすることはかなわぬのでございます」

若「なにっ」
乳「申し訳ありませぬ。このようなめでたきときに、涙など…」


以上、幼年期〜少年期編でした。

つづいて、青年期編


84:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:12:58.91 ID:koO3Rmqr0

さて、そんあ少年時代をすごした若殿。
いよいよ将軍位を継ぐとどうなるか。
まぁ、有名だけど、大奥ってあるよね。

まず正室について

正室っていうのは伝統的に公家、宮家、天皇家から迎え入れるものなのよ。

まぁ、いってみれば政略結婚みたいなもんさ。

だから当然、正室は別にかわいいわけでもない。そんな背景もあって、

代々、徳川家の将軍は正室とはあんま仲良くない。

なんと正室との間に世継の子ができたのは、長い徳川幕府の歴史のなかでも
ほどんどいない。

有名どころでは、三代将軍家光なんて、結婚したあと、一回もセクロスしてないらしい。

これにはほかのひとが邪魔した説もあるけどね。

なので、将軍のエロスの矛先は、まぁ、当然側室タンに向かうわけだ。


85:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:16:31.25 ID:koO3Rmqr0

側室ってのは、基本、「御中ろう」という女性の集団の中から選ばれる。

もともとこの御中ろうは容姿端麗の人が多いけど、

将軍は日々、ずらっと並んだオナノコたちをみて、「お、いいねー」とか思ったら

小姓とかに「今日はあの子ね」とか言うわけよ。

そしたら、小姓が、御年寄という人に伝えて、女の子に準備させとく。

まぁ、要するに小姓がボーイで御年寄はソープのオーナーみたいなもんだ。

まぁ、バンコクみたいなスタイルだね。

さて、それで選ばれた子がその後どうするか?


88:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:21:57.85 ID:koO3Rmqr0

お声がかけられた女の子が、一生懸命風呂入って化粧して

閨で将軍を待つ、なんと二時間前から待機なのだ。

で、遅れて将軍がくる。
お茶とか飲んでいざベッドイン。

ちなみにこのとき、その日セクロスする子とは別の子が、二人「添い寝」という役割で、セクロスする二人の横で横たわる。

この二人は、セクロスを一部始終聞いて、次の日報告すんのね。

「昨日の将軍さま、すごかったー。めっちゃ腰ふって、気持ちよさげだったー」

みたいなね。羞恥プレイ好きならたまらんよホント


89:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:26:25.82 ID:koO3Rmqr0

ちなみに、このときセクロスした子は、まだ「側室」とは呼ばれない。
側室ってのは、子ども生んだあとだ。

毎日毎日、きれいどころをとっかえひっかえ、SEXSEXSEX

あと、この「添い寝」の役の女の子が登場したのも理由がある。

それは5代将軍綱吉が、セクロスしてるときに相手の子に

「ねぇ、ねぇ、わたしと仲のいい吉保くんに、国あげてよぉ」
「え…、それはちょっと」
「え〜だめぇ? もっと気持ちよくしてあげるから〜、ね? ちゅぱっ」
「ああっ、わかった。じゃあ甲斐の国やるわ」

みたいなやりとりがあって問題になったことがあるからだ。

たまらんな。本番するなら一万とかじゃないんだぜ。

国だぜ国。さすが将軍、レベルが違うぜ。


91:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:30:24.55 ID:wJNPWESz0
>>89
ということは実際に将軍の相手をした人数は正室&側室よりも多いのか……
裏山けしからん


93:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:38:02.73 ID:koO3Rmqr0
>>91
まぁ、そうだろうね。
だって君ならどうするよ。毎日、たくさんの美女が現れて
抱き放題だよ


90:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:30:21.10 ID:koO3Rmqr0

さて、ここで歴代将軍それぞれのエピソードを紹介したい。

まず三代将軍家光。

こいつはガチホモだった。戦国時代は男色が普通だから、家光くんはまだ、
その名残があったんだよね。

しかし将軍がガチホモって大変じゃん。DNA残す観点からいうとさ。

だから回りの人があせって、やべぇ、女のよさおしえねぇと

ってことで、わざわざ京都から、ものすげぇ美人を連れてきたりして

ガンガンSEXさせたのよ。いいよねー

でも家光くんは結局ホモは直らなくて、ギリ、両刀使いで収まった。

晩年にも男相手に夜這いしたりしてる。


92:名も無き被検体774号+:2011/12/28(水) 20:35:54.81 ID:koO3Rmqr0

あ、将軍シリーズ続ける前に、

将軍に嫁ぐ名家の姫君に伝わるSEX指南書ってのもある。

これも紹介したい。

たとえば、島津家、宮崎あおいで有名な篤姫とかの所属だ。

まぁ、篤姫が読んだかどうかわかんねぇけどね。

@SEXするときは恥じらいをもって処女っぽくしろ。なれてきてる感じ
だすと嫌われるよ

A殿方が、エロ本(春画な)みながらSEXしてくるときあるけど、そんときも
ふてくされずリアクションとれよ

Bイクときは一緒。あるいは先にイケ。もし殿方が先にイッたら、それ以上
もとめるな。我慢しれ

CSEX終わったら、いつまでもベタベタしないで別の寝床で寝ろ。邪魔だから

すばらしい指南書だよね。

将軍最高だよ。


114:1:2011/12/29(木) 10:52:28.58 ID:QDhDVW/EO

綱吉はショタ好きだった。
将軍の小姓は定員12名と決まってたけど26名に拡大


美少年を探す役職「子供見立役人」っていうのも作った。

で、ショタとのプレイも楽しん。

しかも、綱吉のほうが「ウケ」

さぁ、わしを掘るがよい!
とか言ったんだろうな。多分


117:名も無き被検体774号+:2011/12/29(木) 10:59:53.34 ID:QDhDVW/EO

ストレートに精力一番なのは、多分11代将軍の家斉。

17歳で結婚。結婚の翌月には妻、出産。出来ちゃった結婚ではない。


結婚決まった家斉くんが挙式まてずにやっちゃっただけだ。

わしは、わしは我慢出来ぬ!とか言ったんだろうね、多分。

17だし、仕方ない。

その後、在位38年の間に40人、側室タンを迎えている。

年間一人以上のペースとかどんだけ。

ちなみに子供は53名。

徳川No.1の種馬


120:名も無き被検体774号+:2011/12/29(木) 11:24:24.55 ID:QDhDVW/EO

ちなみに、江戸時代にはすでに、鼈甲製のオナホもあったけど、
多分将軍様は生涯使用しなかっただろう。

四ッ目屋という有名なアダルトショップが当時あったが、ここは通販もやってた。

大奥にいるけど、将軍に抱かれない欲求不満美女はここで、
ち●この張型とかを購入したりもしたらしい。

124:1:2011/12/29(木) 11:48:33.17 ID:QDhDVW/EO

女の処女性が重要視されるようになった江戸中期以降は処女がマストとされた。

でも実際にはそうでもなかったとも言われてる


135:名も無き被検体774号+:2011/12/29(木) 13:23:43.87 ID:Hm7cm04c0

で、寝床の技は実在したのか?


138:1:2011/12/29(木) 14:11:36.40 ID:QDhDVW/EO
>>135
寝床の技は江戸時代には多種多様だったらしい

撫戯、掻戯、打戯、舐戯、乳房淫、舌人形、あいなめ、吸茎。

名前だけでも凄そうだ。

ちなみに江戸は巨大風俗街でもあった。

吉原は有名だけどここはクソ高い。

他にも夜鷹(たちんぼ)、湯女風呂(ソープ)、売比丘尼(デリヘル)、
船饅頭(船上売春)、深川芸者(男装娼婦)、
囲い旦那(素人援助交際)とか、

色々いた。

江戸に住む女性の50〜60人に1人は娼婦だったらしい。

値段も色々、吉原は現在の価値で100万くらいかかったりするけど、
夜鷹なら2千円くらいからあり。

これは江戸の人口比率が圧倒的に男が多かったからだ。
商家の次男とかは結婚も出来ないし、
風俗遊びしか余った男の性欲解消はなかったんだろうね。


まあ、それは庶民の話。

将軍様には関係ない


139:1:2011/12/29(木) 14:20:50.22 ID:QDhDVW/EO

安囲い、っていう文化もあった。
これは金のない庶民が、五人くらいで金を出しあって、1人の女を共有の妾にする。
というもの。

そんな庶民の事情とは裏腹に、今日も将軍は好きな女の子をチョイス。


これは前に書いた。子孫繁栄のための理由もあるけど、幕臣による陰謀説もある


142:名も無き被検体774号+:2011/12/29(木) 14:24:59.61 ID:rr/IN1Wf0
>>139
中華の宦官みたく、上様骨抜きにして幕臣共のいいように幕政を牛耳るため?


143:1:2011/12/29(木) 14:25:47.44 ID:QDhDVW/EO

政務を自分の意志で仕切りたい幕臣にとっては、将軍にごちゃごちゃ口出しされると嫌。

だから可愛い子にプレイさせて、セクロス大好きバカ殿様にしておこうというもの。

将軍「アヘアヘ、ち●こ気持ちいいお。もう政治とかどうでもいいお。
お前らかってにやっとけ。あーソコソコ!
もっと激しく

…ふうっ。明日はどの子にしようかなフヒヒ」


147:1:2011/12/29(木) 14:53:04.28 ID:QDhDVW/EO

さて、そんな中で気骨を見せた将軍もいた。

暴れん坊で有名な吉宗だ。

吉宗は若い時に正室を亡くしていて、将軍になったときは独身だった。

大奥の女の子からすりゃ、スーパー玉の輿チャンスキタコレなわけだ。

吉宗はそこで、家臣にこう命じた
吉「大奥の中でも、特別可愛い子選んでくんね?
そうね一気に50人くらいな。あ、わかってると思うけど、ババアは駄目な。25以下だろ常考」

そうすると大奥は大騒ぎ。ファッション頑張ったり、
セクシーな仕草出したり、女の子たちもうアピール


148:1:2011/12/29(木) 15:04:20.50 ID:QDhDVW/EO

そして厳選された日の本トップ50の美少女。

謁見してきた彼女たちに吉宗サンは言った。

吉宗「お前ら全員クビな。まあ可愛いからすぐイイ旦那できるべ?」

これは吉宗サンのリストラ大作戦だった。

当時幕府は財政難で、大奥は金かかってた。
でも吉宗サンは紀州の出だからいきなりクビとかすると角がたっちゃう。
だから綺麗な子、ってことにした。

クビにされた子も、天下の大将軍に美人さを認められたわけだから嬉しい。
しかも「大奥美人コンテスト入賞」の実績つくから、幕府辞めても、引く手あまたで生活困らないから文句無し。

凄いぜ吉宗。

多分「大奥美人コンテスト入賞」は現代で言う
「国民的美少女」とか「なんとかシンデレラ」とかあのへんの感じなんだろうね


165:1:2011/12/30(金) 00:18:54.23 ID:af8vWwLGO

さて、そんな青年期を終えて中年になった将軍様。
こうなると問題も出てくる。

ちなみに大奥では普通、将軍のセクロス相手はどんなに遅くても30で引退だ。
だから必然的に40代50代になった中年の将軍は10代20代のピチピチを相手する。

すると問題も出てくる。


167:1:2011/12/30(金) 00:31:18.04 ID:af8vWwLGO

いくら徳川さんだって人間だ。

年取るとち●こも元気なくなる。
だけどセクロスも仕事だからずっとは休めない。
だから気分乗らなくても美少女を抱く。

するとあるよね。たたなかったり、中折れしたり。
しかも最悪なのは、将軍のセクロスは添い寝の女の子が家臣に報告する

「将軍ったら途中でヘナヘナになって使い物になんなかったー」

ってね。すると悪循環


168:1:2011/12/30(金) 00:36:10.53 ID:af8vWwLGO

そんなとき、頼りになるアイテムがあった。


176:1:2011/12/30(金) 11:51:36.81 ID:af8vWwLGO

さて、ち●こが元気なくてセクロス出来なかった将軍。
しかも報告係がソッコー喋るから、家臣にもバレバレ。ハズカシス。

そこで将軍は思った

将軍「あ、あれ使えばいいんじゃね?おい誰か、四ツ目屋行ってあれ買ってこい」

こうして徳川くんは兜型、鎧型、ペイノコインポ、長命丸を入手した

将「フヒヒ、これでひいひい言わせたるねん」


177:1:2011/12/30(金) 11:58:46.46 ID:af8vWwLGO

まず兜型。これは水牛の角で出来たコンドームみたいな器具。
ち●こに装置すると亀頭の戦闘力がアップする優れ物。

でもなんかあんまり男は気持ちよくなさそう…

続いて鎧型。格子型の器具。細長い鳥篭みたいな感じだ。
コレはまあ、勃起補助器具だな。

年寄に爆発的に売れたらしいよ。


185:名も無き被検体774号+:2011/12/30(金) 16:22:49.60 ID:9gWPLhE00
>>177
なんか男が気持ち良くない上に中で壊れたりしそうで怖い


178:1:2011/12/30(金) 12:04:15.86 ID:af8vWwLGO

そして不思議な名前のペイノコインポ。

これも張型なんだけど、溝と器がついてて、ピストル運動すると、
女の子のま●こ汁が溝を伝わって流れて来て器にたまる。

え?そんなもん集めてどうすんだって?もちろん一気飲みすんだよ。

EDに効く、って言われてたんだよな。


179:1:2011/12/30(金) 12:15:25.75 ID:af8vWwLGO

一番効くとされたのは長命丸。

成分などはあんまり知られてないけど、これは塗り薬。
ち●こに塗るの。
するとガチガチに勃起して、堅さもデカさもいつもよりうえに。

使用説明書によると「どんな処女くせーお嬢ちゃんも、貞淑な妻も、人気の花魁も、コレ塗ってぶちこめば一発。即イキ」

らしいよ。バイアグラなんて目じゃねーぜ。僕も欲しい。
しかも値段はたったの32文(600円くらい)
ドラックイレブンに売ってたらダース買いするレベル。

ただ長命丸は避妊効果もある謎のクスクスだから、将軍様はあんまり使えなかったみたい。
可哀想ね


193:1:2011/12/31(土) 12:52:02.36 ID:oR0sXOWIO

ところで、大奥で働いてる女性の年収は現在の価値に換算するといくらくらいになると思う?


195:名も無き被検体774号+:2011/12/31(土) 12:58:34.39 ID:+JqokcZ30
>>193
いちよう、エリート会社員ぐらいで1000万円
プラス現物給付って感じかな?
美味であります〜って言ってるし


194:1:2011/12/31(土) 12:57:47.40 ID:oR0sXOWIO

大奥での収入は切米っていう年収のほかに、衣装代とか油、銀で払われる。

大奥トップのババアは大体1600万円前後、実際抱かれたりする若い子は420万くらい。

あれ?これおかしくね?
なんかおかしくね?


197:1:2011/12/31(土) 13:03:41.88 ID:oR0sXOWIO

だってさ。吉原で遊女抱いたら、50万くらいかかるんだぜ。

それ考えたら大奥嬢の給料やすすぎじゃね?

とか思うけど、実際彼女たちはそんなことあんまり思わなかった。

住居費、光熱費、税金がかからないのも在るけど、何よりデカイのが

将軍様に抱かれる、とゆー喜び


198:1:2011/12/31(土) 13:08:09.65 ID:oR0sXOWIO

当時、将軍様は天上人みたいなもんで、憧れ。

しかもある説によると代々イケメンだったらしい。
まあ良いもの食ってて武芸も鍛えてるから体格いいし、服も高価、子どもの頃からち●こも鍛え上げてる。
しかも上手くいけば、将軍の子を孕める。

だからあまり不満は出なかった。


199:1:2011/12/31(土) 13:12:43.48 ID:oR0sXOWIO

大奥子ちゃん「ああっ…上様、中に、奥深くにくださいまし…上様の精液が…子種がほしぃのぉ!!」

って言ったかどうかは知らないけど、100%思ってたはず。

大奥女性が将軍以外のち●こ入れたのは、記録にあるのは江戸時代でもたしか二回だけ。


200:1:2011/12/31(土) 13:20:18.97 ID:oR0sXOWIO

ホント、将軍ってイイ商売だよな。
多少忙しくても、たくさんの可愛い子に中出し求められるなら我慢するよ

しかしそんな中にも変わった意見の将軍もいた。
家斉くんである


201:1:2011/12/31(土) 13:27:24.96 ID:oR0sXOWIO

家斉「ふんふんふん!!」

大奥子「ひゃっ!あぁっ…んっ…上様ぁ、イっちゃう、イっちゃう…!!」

家「うむ」

大奥子「上様はぁ…?わたしのナカ、気持ちいい?ねぇ」

家「よいぞ」

大奥子「嬉しいっ!!いっぱい出して、上様のオチンポミルク、いっぱい出してぇ…っ」


終了。

家斉(なんかもう愛あるセクロス中出し祭り、
飽きてきたわ。いいよな〜一般人は。俺もあそこに行ってみてぇ)


205:1:2011/12/31(土) 13:58:10.85 ID:oR0sXOWIO

もちろん家斉クンが興味持ったのは、花魁。吉原である。
よくわかるわ。風俗は別腹だよな。
http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3228132.html

7. 中川隆[-12595] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:01:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

結婚したDAIGOに祖父・竹下登の跡を継ぎ政界出馬説...でもDAIGOは竹下家の忌わしい過去を知っているのか
リテラ 2016年1月12日
https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160112/Litera_1883.html

1月11日、揃って入籍会見を行ったDAIGOと北川景子。これまでラブラブ交際が伝えられていた美男美女カップルのゴールインに多くの祝福の声が寄せられている。特にDAIGOは昨年の『24時間テレビ 愛は地球を救う』(日本テレビ系)の100キロマラソンランナーを務めるなど老若男女に人気で、好感度も高く、結婚会見も2人の誠実な人柄や爽やかさが全面に押し出されて祝福ムード一色だ。

 そんなDAIGOが最初に注目されたのは、第74代内閣総理大臣・竹下登の孫という"出自"だった。竹下登は代々続く島根県の酒蔵の御曹司で、作家の三島由紀夫や大物政治家の金丸信、また大叔父にあたる衆議院予算委員長の竹下亘など錚々たる血脈を持つ。

 バラエティ番組などで、その華麗なる血族ネタや「おじいちゃん」ネタを連発し、「ウイッシュ」の決め台詞ポーズや短縮アルファベットを駆使したバカトークとのギャップで人気を博していった。

 実は、その血脈の影は今もつきまとっており、地元・島根においてDAIGOの政界進出待望論は大きく、大叔父・竹下亘の地盤を引き継ぎ、衆院選に島根2区から出馬も取り沙汰されている。少し前には、地元でその大叔父とともにトークショーを行い、噂の信憑性を高めることになった。

 当初のバカキャラから最近、好感度タレントに変貌をとげているようにみえるDAIGOだが、本当に政界に進出するのだろうか。

 しかし、DAIGOがさんざんネタにし、今、その後継も取り沙汰されている竹下家、そして竹下登という政治家には、好感度タレントにまったく似つかわしくない忌まわしい歴史がある。

 そのひとつが、竹下登の最初の妻をめぐる、ある"事件"だ。

 大正13年(1924年)年、島根県の造り酒屋を生業とする旧家の長男として生まれた登だが、太平洋戦争末期の昭和19年3月に同郷で19歳だった政江と学生結婚している。だが新婚生活5カ月足らずで登は軍隊に入隊し新妻は竹下の生家に残った。しかし登が復員する3カ月ほど前の昭和20年5月23日、政江は帰らぬ人となっていた。死因は自殺だった。

 この「決して口外してはならない」という竹下家の過去については、評伝

『われ万死に値す ドキュメント竹下登』(岩瀬達哉/新潮社)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%8F%E3%82%8C%E4%B8%87%E6%AD%BB%E3%81%AB%E5%80%A4%E3%81%99%E2%80%95%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E7%AB%B9%E4%B8%8B%E7%99%BB-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A9%E7%80%AC-%E9%81%94%E5%93%89/dp/4101310319


にその詳細が描かれている。

政江の悩みは、竹下の父、勇造との関係にあった。

勇造は、妻唯子を三月二十四日に失ったばかりで、寂しさからか、何かと政江に"干渉"しだしていたという。

「勇造さんは、敗戦を意識して自暴自棄になっていたのかもしれないが、その執拗な"干渉"は、毎夜のように政江さんを悩ませていました。政江さんはノイローゼ状態となり、睡眠薬を手放せなくなっていたのです」(竹下後援会「きさらぎ会」元幹部)


 勇造は政治談義が好きで、また上背も恰幅もあり女性にもよくもてたというが、こうした状況に政江は自殺の1カ月ほど前、立川で訓練を受けていた登をひとり訪ねている。しかしこの時、登は、国が大変な時に家庭のことで煩わすなと言って叱ってしまう。そして政江は自室の鴨居に腰紐を通して首吊り自殺をはかったという。

「あの日は、昼になっても政江さんは二階の部屋から降りてこなかった。それで、女中が昼御膳の用意ができましたよといって、政江さんを起こしにいったところ、鴨居で首を吊っていた。

階段を転げ落ちるように降りてきた女中から、急を告げられた高尾番頭が、あわてて二階に駆け上がり、政江さんを鴨居から降ろした。政江さんのからだは、まだ温かかったということです」(竹下家の内情を知る関係者)

 息子が出征して1年も経たない間に、舅・勇造のどんな"干渉"があったのか。同書では明記されていないものの、勇造と政江のただならぬ関係を示唆する証言がいくつもされている。

「この(死亡診断の)時、身重かどうかも調べられたが、妊娠はしていなかった」

「普通なら、親子の縁を切ってもいいような仕打ちですよ。勇造さんがやったことは......」

 同書ではさらに、衝撃的な"噂"も紹介されている。それが登の後妻となり、DAIGOの母親を産んだ直子にまつわるものだ。

登が直子と再婚したのは政江が自殺して1年も経たない昭和21年1月だった。


竹下との結婚から間もなく、直子は最初の赤ん坊を生む。

人事興信録によると、長女が生まれたのは「昭和21年4月29日」とある。
しかし、昭和二十年八月末に復員し、翌年の一月に結婚した二人の間に生まれた子供にしては計算があわない。

そこでいろんな噂が流れることになる

 こうした嫁を巡る"事件"はその後の登に大きな陰を落とす。

登は"耐え忍ぶ""気配り"の政治家といったイメージが強いが、それはこの一件以降のことだという。

あのことが遭って以来、竹下登は、人が変わってしまった。人の意見は、辛抱強く聞くが、自分の考えは決して出そうとしない。しかも、どうとでも取れる曖昧な話し方をするようになりました


 その後、登は政治家として権力の階段を努力と忍耐で駆け上がっていくが、同時に目的のためには非情に振る舞うことも厭わなかった。そのためさらなる"忌まわしい事件"がいくつも起こっている。

 そのひとつが総理在任中に起こった金庫番の秘書・青木伊平の自殺だ。リクルート事件によって、リクルートからの献金や未公開株以外に5000万円の借り入れまで発覚したことで窮地に立たされた竹下登は1989年4月25日、退陣表明するに至ったが、その翌日に青木秘書が自宅で自殺しているのが発見された。竹下事務所の金のすべてを仕切ってきた青木秘書は自死することで竹下の秘密を最後まで守ったと言われているが、その一方、あまりに不自然な自殺現場に謀略説まで囁かれたほどだった。

 前出の『われ万死に値す』でも、青木と旧制中学で同期だった人物が「遺書があったので、自殺ということになったのでしょうが、自殺にしては不可解なことが多い」と証言している。

 青木の遺体は、自宅のベッドにあおむけの状態で発見された。「首にはネクタイが巻きつけてあり、ネクタイには腰紐が継ぎ足され、その端が寝室のカーテンレールに繋がっていた。

青木はパジャマ姿で、左手首には両刃カミソリによる切り傷が十七カ所もあった。布団は血の海だったが、すでに乾きはじめていた」という壮絶なもので、またベッド脇には背広とズボンがきちんとたたまれ、夫人や竹下にあてた遺書も残されていたという。

 青木の同期の人物は、遺体の状況についてこう疑問を呈している。

「まず背広とズボンがたたまれていたことです。青木は、そういうことをしたことがない。(略)また、遺体の下着が汚れていなかったのもおかしい。(略)縊死の場合は、必ず、脱糞と精液で下着が汚れるものなんです。それがなかったというのは、殺されてから偽装のため縊死を装ったとしか思えません」

 いずれにせよ青木の死により疑惑は闇に葬られ、竹下は追及の窮地から逃れることになった。

 その後、総理大臣を退陣した竹下だったが、以降も政界に隠然たる影響を持ち続けた。だが92年に起こった佐川急便事件に関連し驚愕の事実が明らかになる。それがいわゆる「皇民党事件」だ。87年、前総理であった中曽根康弘の裁定により竹下が総理に就任したが、その際に民族団体「日本皇民党」からホメ殺しの執拗な攻撃を受け、精神的に追い詰められた竹下は暴力団・稲川会を使ってホメ殺しを中止してもらったことが発覚、いわば竹下内閣は暴力団の力を借りて誕生した内閣だという前代未聞の大スキャンダルだった。


竹下は、巨大組織の後ろ楯を得て、政界を歩んできた官僚政治家でも、田中角栄のように独創的な発想と爆発的なエネルギーで一家を成した党人政治家でもない。

目的のためには自分を殺し、どんな屈辱にも耐え、余人には真似のできない気配りによって少しずつ仲間を増やしてきた地味な努力家でもある。そして、ついには寝首をかくようにして派閥の領袖の座を奪い取った凄みのある策謀家でもある〉(同書より)

 もしDAIGOが政治家になって、祖父・登からの地盤や看板、カバンを引き継ぐことになるなら、否が応でもそうした"忌まわしい過去"まで引き受けざるを得なくなるだろう。イメージだけでなく、本当に人柄がいいと言われているDAIGOには、そんな世界に絡め取られてほしくない、という気もする。

 4月に調整中といわれるDAIGOの結婚披露宴だが、政財官界からどれだけの出席者があるのか。それが今後のDAIGO政界進出を占う布石になるのかもしれない。
https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160112/Litera_1883.html

8. 中川隆[-12594] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:01:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

この怪奇事件

1 名前:きち 投稿日: 2004/01/12(月) 21:07

ご存知の方も多いと思います。大分昔の事件ですが、ある(東北だったかな?)村でのこと。その村の風習で結婚式の日、初夜の前に新郎の父親と新婦が結婚式場の会場で交わるという儀式があったそうで。

もちろん、ついたての向こうで行なわれるのですが、その事件のとき4時間たっても2人はでてこない。

しびれをきらした新郎が「親父、いいかげんにしろ。」と叫び、出席者もいらいらしてついに覗きにいったそうです。

そうしたら、2人は、裸で抱き合ったまま死んでいたそうです。

結局、死因もわからなかったそうですが、私もいろいろ事件について考察するのは好きなのですが、この事件2人とも亡くなったというのは心中なのでしょうか?
その日以前から2人は関係があったのでしょうか?

父親が仮に腹上死したとしても花嫁が死んでいるのはおかしいですし、皆さんの推理はどんなものでしょうか。

大体、この村の新郎の気持ちは全般にどのようなものだったのでしょうか?

中には、結婚後も父親と関係が続くようなこともあったと思うのですが、どんなものでしょうね。

母親の嫉妬とかはなかったのでしょうか?色々気になります。

まあ、夜這いなんかも今の常識では考えられないことですし、その時代の常識がそれが当たり前だと思えばそうなのかもしれませんが。皆さんの思ったところをお聞かせ下さい。


2 名前:吉之助 投稿日: 2004/01/13(火) 00:04

この事件は私も永年、気になっているのですが、如何せんかなり古い話(明治16年)なのでソースも見当たらずよくわからないというのが正直なところです。ただ、こうは考えられないでしょうか?

そもそも仮の一夜で二人は死んだのではなく何らかの理由で死んでしまった。(それこそ心中かもしれません。)

きっと、その村では隠さなければならない理由だったのでしょう。

そこで、仮の一夜で不可思議な死を遂げたことにしたと・・・

奇習が残っていた古い部落ですから死因を隠蔽することぐらい口裏を合わせれば可能だったんじゃないでしょうか?

いずれにしろ、自然死とは考えにくく捏造された事件だったんじゃないかと思います。


4 名前:吉之助 投稿日: 2004/01/13(火) 23:32

この事件については資料がほとんど見当たらずなかなか調べにくいのですが
明治16年(1883年)1月24日宮城県宮城郡のある村で起きたとしか
私の持っている本には出ていませんでした。いつぐらいまでこの奇習が残って
いたかはわかりませんが、このHPでも取り上げられている名張毒ぶどう酒事件
(1961年)の起きた部落ではフリーセックスのような習慣があったらしい
のでかなり後年まで続いていたのではないかと思います。

繰り返しになりますが、義父が死ぬのは理解できるのですが(心臓麻痺等)
若い新婦まで亡くなる、しかも伝えられるところによると抱き合ったまま
死んでいたというのはやはり無理がある。

警察が来たのは当然、その後で現場にずっといたわけではない。
式の参列者は親戚と村の有力者。恐らく式が始まる前に既に二人は死んでいたのではないか?

その部落にとってその死はあってはならない死に方(心中?)で村の有力者
親戚が話し合って仮の一夜で不可思議な死を遂げたことにした・・・
的外れかな?


5 名前:猫田 投稿日: 2004/03/18(木) 22:52

大分前に読んだ本には、

義父が妻に内緒で囲っていた新婦と、それを全く知らない新郎が出会って付き合いだし二人が祝言を挙げる段で、急に新婦を息子に取られるのが嫌になり、閨で何らかの毒を飲ませて殺し、自分も後を追った…

とあったようです。出版社や著者は覚えていませんが、結構ありきたりな心中事件だったように思った覚えがあります。


9 名前:きち 投稿日: 2004/05/07(金) 23:18

すごいといえば、30年代の名張ぶどう酒事件の村のようなフリーセックスとかもすごいですね。

10年ほど前、仕事で3年ほど住んでいた僻地の村では近親相姦やら夜這いもどきやらで全校50人ほどの中学に知的障害の生徒が8人もいました。

でもこの事件も周りの人が何時間も待っていたというのが笑えますね。


12 名前:あんず 投稿日: 2004/05/08(土) 23:17

日本は近親相姦(父→娘)が多いのはどうしてだ?

と外国人に聞かれたことがあります。なんでも彼の周りだけでも
4人の日本人の女性がそういう過去があるそうです。

そういう話を聞くと病的で嫌悪感を感じますが、もしかしたら日本は昔そういう奇習が普通(と言ったら語弊がありますが)だったのかもしれないですね。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1073909229/

9. 中川隆[-12593] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:02:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

奇習! 幼い少年少女による「SEX奉公」の実態! 旦那や女将の性奴隷に… 闇に葬られた「商家の秘密」とは!?=近畿地方 2018.05.26
http://tocana.jp/2018/05/post_16721_entry.html
【日本奇習紀行シリーズ】 近畿地方

 西村昭五郎が監督し、1982年に公開されたロマンポルノ『美姉妹・犯す』では、風祭ゆき演じる書店経営者の長女と、山口千枝演じる次女が、父親が経営する書店で勤労学生として働きながら下宿している清(演・内藤剛志)によって犯され、最後には姉妹同時にハメ倒されるまでになるという、なんとも複雑な人間模様が描かれているが、こうした「使用人との肉体関係」は、なにもロマンポルノや後世のAVの中だけの話ではないようだ。


「昔はちょっとした商売人の家じゃ、下男や下女を使用人として抱えていたものなのですがね、こと、このあたりじゃ、ちいとばかし事情が違っていまして。こうした使用人というのは、だいたいが、雇い主一家の性奴隷のような位置づけだったのですよ」


 自身が生まれ育った近畿地方のとある地域に、かつて存在していたという、“商家の秘密”についてそう証言するのは、自身も米問屋を営む大店の次男坊として生まれ、そうした“秘密”を幼い頃より「当たり前のもの」として考えていたという、白鳥耕三さん(仮名・89)。白鳥さんの話によると、当地における商家の使用人たちは、その大半が、表の商いで必要とされた人材ではなく、あくまで、経営者一族の性のはけ口としてのみ、その役割を果たしていた人々だったのだという。


「だいたい、昔で言ったら、中学を卒業したと同時に、うちみたいな商家に奉公に上がるんですけれどもね、入って早々に行われるのは、“性の手ほどき”なんですよ。といっても、だいたいがそのくらいの年頃の子たちですからね、最初は“イロのイロハのイの字”も知りやしない。だからね、いざ、そういうことになると、だいたい1/3ぐらいがそのまま里へと逃げ帰ってしまうし、1/3がしばらく呆けたようになってしまうっていう。けれども、残りの1/3ぐらいは、そのまま頑張って奉公を続けるんです。そういう子らをね、当時の大人たちは“筋がいい”だなんてうそぶいていたものですよ」


 そもそも、働き口を求めて奉公に上がった思春期の少年少女たちに、いきなり虐待でしかない性的行為を強要するという時点で、当世の我々にとっては俄かに信じ難い話だ。しかも、そうした被害に見舞われた奉公人たちのうち、度重なる辛苦を耐え忍ぶ形で、身を置き続けようとする者たちを、涼しげに“筋がいい”などと言ってのけるというのだから、鬼畜の極みとはまさにこのことだろう。白鳥さんは続ける。


「それでね、残った人間はどうなるか? っていうと、男は女将さんに、女は旦那さんに、弄ばれ続けるんですよ、それからも。要は旦那さんや女将さんが“飽きた”というまで、それが続くんです。しかも、場合によっちゃ、何人かの奉公人がまとめて相手をさせられることだってある。……ね? 今の人からしたら、信じられない話でしょう?」


 それぞれが個別に性の相手をさせられるどころか、時には複数プレイにまで参加させられていたという、当地の奉公人たち。これは現代社会問題となっている、いわゆる「ブラック企業」のそれを遥かに超えるといっても過言ではない、極めて劣悪な労働環境と言えるだろう。


「まあ、さすがにもうそういう時代ではないですから、今では大昔の昔話でしかないのかもしれないですけれどもね、当時を知る私なんかからすれば、今の若い人たちにも、“こういうことがあったんだ”、“こういう時代を経て今があるんだ”っていうことを知ってもらいたいですね」


 なお、白鳥さんの話によると、こうした極めて理不尽な経験をしつつも、無事に「年季明け」まで勤め上げた奉公人は、それぞれの“功績”を評価する形で、晩年、新たに店を一軒与えられるなど、“それなりのケア”はなされていた模様だが、果たしてそれが、彼らがその半生を通じて味わい続けた辛苦に見合った対価なのかと言えば、なんとも微妙なところである。
(取材・文/戸叶和男)

10. 中川隆[-12592] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:03:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

江戸の性愛術/「抜かずに六交」「拭かずに七交」――究極の快楽に到達する36種の交合体位を紹介
https://www.bookbang.jp/review/article/542623


『江戸の性愛術』
著者:渡辺 信一郎 [著]出版社:新潮社ISBN:9784106035647価格:1,296円(税込)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4106035642?ie=UTF8&redirect=true


おめこ巧者――渡辺信一郎『江戸の性愛術』 [レビュアー]岩井志麻子

「抜かずに六交」「拭かずに七交」! 究極の快楽に到達する36種の交合体位を紹介!

 伊予道後で大成功を収めた遊女屋の主人が、書き記した秘伝の書『おさめかまいじょう』――この性愛指南書には、遊女の健康管理に始まり、男を籠絡する術、放縦な要求への対処法、どのように「天悦」に至らしめるかなど、あらゆる性のテクニックが網羅されている。当時の図版を掲載しながら、豊かで過激な性愛文化を明らかにする。

 * * *

 まず紹介されるのは、江戸の遊女の性技指南書。「門外不出の秘伝書として、綿々と語り継がれ、密かに筆写され続けた、最高機密の書」なり。それだけでもう、腿の辺りにサワサワ這い上がってくるものがあるというのに。

 第一章の目次を見れば、いきなり「まら巧者の処理技法」だの「半立まらに応じる法」だの「萎えたまらの扱い方」だの、先走り汁がほとばしる勢い。

 中盤に差し掛かれば、「絶大な馬まらには口と舌を使う」「けつ取りの場合の対処技法」「交合以外の女陰の曲技」……我がおめこにも、直接ウニウニと感じる確かな体温。いやはやもう、目次を見ているだけで気を遣ってしまいますわ。

 さらに「凍りこんにゃくや高野豆腐を使う秘法」「芋の皮を巻いて行う秘法」とくれば、そこまでやってくれなくてもアアアと恥らいつつも、遣る瀬ない余韻に浸れる。

 江戸の秘伝書は、タイトルからして凄い。『おさめかまいじょう』。これそのものが途方もない技ではと、期待したが。意味はしごく真面目なものなのであった。そこんとこを知りたければ本書をお読みくださいと、チクチク焦らしておく。

『おさめかまいじょう』はしかし、古の江戸の人々の助平さに思いを馳せ、エロいひとときを共有できるだけではない。平成の世にも充分すぎるほど通じる、いっそエチケットとマナーの書、といってもいい書だ。現代の風俗嬢と客にとってもかなり参考になるし、平成の風俗店経営者が真面目に読み込めば、女の子達に実に正しい指導ができよう。

 助平さに感心するだけでなく感動したのが、江戸の遊女屋は女達を大切にしつつ徹底的に商品にしているところだ。といっても、女を物扱いするのではない。女をとことんプロフェッショナルであるべし、と躾け育て上げているのだ。

 売られてくるのは貧しい家の娘ばかりなので、遊女屋に来たときは痩せこけている。そんな彼女らに決して手荒な扱いはせず、飯は欲しがるだけ食べさせるとも書いてある。

 この本を読むまでは、遊女はさぞかしひどい扱いを受け、ろくに食べさせてもらっていなかっただろうと想像していたのだが。経営者も商品を大事に扱うからこそ、遊女達も苦界にありながらプロフェッショナルとしての矜持はあったのだ。

 無論、平成の一部の女のように、遊びたいからホストクラブ行きたいからブランド物のバッグ欲しいからといった理由ではなく、家の貧しさ故に泣く泣く売られてくる女が大半だった遊女屋が、楽しい就職先や居心地のいい職場であるはずがない。経営者とて、道楽でやっているのではなく、厳しい経営と競争に勝負を賭けていたのだ。

 見事な通解と解説をなされた渡辺信一郎氏も、こう書いておられる。「何とも壮絶で、凄惨な書なのであろうか」「おのれの肉体を酷使し、それで生計を立てる女郎という境涯の辛さが偲ばれる。その女郎を監督・管理しながら経営する女郎屋の経営者もまた、並大抵ではなかったであろう」。

 だからこその、徹底した心構えと管理とプロ意識。特大の男根を受け入れる心得、ふにゃチンや包茎の扱い、口でのやり方にお尻の穴の使い方、いわゆる3Pの手順、もう何から何まで網羅してある。添えられた図版もまた、身も蓋もないのに芸術に迫る出来栄え。どうやったって、興味本位のエロ本になどなりはしない。

 それにしても平成の『江戸の性愛術』も、江戸の『おさめ〜』に負けず至れり尽くせり。

 三百五十年前に女性によって書かれた秘録『秘事作法』の、張形を使って自慰で達するに至る手順など、渡辺氏の簡潔な要約でも充分長いのだから、原文の丁寧さはいかほどか。

 張形もこの頃は海亀の甲を煮たものや、水牛の角、革、黄楊(つげ)などでなんとも典雅であったと知れる。大型、楕円筒、上反りと、型も様々。さらに、現代のバイアグラといってもいい精力剤、女の性感を増進させる薬まで紹介している。平成日本人より助平だった江戸日本人。「当時の数多くの艶本や色道指南書を繙くと、飽くなき実践と観察という臨床的(経験的)な処方が絢爛と述べられ、その深奥さに驚かされる」。助平は何時の世も真面目だ。

 

〈担当編集者のひとこと〉
「のぬふ」「ぬか六」「ふか七」とは? 廓に残された門外不出の秘伝書! 究極の快楽に到達する36種の交合体位を紹介。

 さて、いきなりここで問題です。以下の文章は、誰がなにをどうしているところでしょうか?

【1】おやま、上向きに寝る。両膝を立てて、けつを浮かすよに両手をけつ下に入れる。客は、両手突き、両膝立てて、上に乗る。おやま、両手でおのれがけつを抱かえて、抜き差しを受け、又おのれもけつを使う。又は、客両足を伸ばし、爪先立って、抜き差しする。

【2】おやま、別のおやまに、半逆立のよに抱かえてもらう。どたまを、そのおやまの股倉に乗せ、腹持てもらいて、腹を折り、両足を前に下ろして足を付ける。客、後ろ向きにて、うつむいて立ち、おやまのけつと、おのれのけつを向かい合せ、片手でまらをぼぼに入れる。抜き差しするに、抜けざるよに、別のおやまが、まらを持ち添え、片手は半逆立ちのおやまの腹より、おめこのさね、ねきいらいて締める。

 ヒントは、【1】は登場人物が二人、【2】は三人。ご興味のある方は『江戸の性愛術』「第一章 遊女の性技指南書に見る秘技」後半をご覧下さい。

11. 中川隆[-12591] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:03:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

吉原で常態化していた、遊女へのパワハラがむごい
8/31(金) 13:36配信 BEST TIMES


江戸時代に遊郭が設置され繁栄した吉原。その舞台裏を覗きつつ、遊女の実像や当時の大衆文化に迫る連載。

この記事の写真はこちら
http://best-times.jp/articles/photo/9548?utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_medium=photo&utm_campaign=photoLink


■遊女の法要。背景にあった残忍さ

 文化七年(1810)十月末、浅草の慶印寺で、死亡した妓楼「中万字屋」の遊女の法要がおこなわれた。

 吉原では年季中の遊女が死亡した場合、死体は菰で包まれて三ノ輪の浄閑寺に運ばれる。そして、浄閑寺の墓地に掘られた穴に投げ込まれて終わりだった。このため、浄閑寺は投込寺といわれた。

 中万字屋の遊女は異例だったが、これにはわけがあった。

 この遊女は病気で体調が悪いと言い、客を取らずに引き込もっていた。

 楼主の女房が怒り、
「仮病を使い、怠けるんじゃないよ」
 と、きびしく折檻した。

 その後、薄暗い行灯部屋に放り込んで、ろくに食事もあたえなかった。

 空腹に耐えかねた遊女はこっそり客の食べ残しを集め、小鍋で煮て食べようとした。

 これを見た女房は激怒し、遊女を柱に縛りつけ、小鍋を首からつるした。

 ほかの遊女や奉公人への見せしめとしたのである。

 衰弱と飢えで、遊女は柱に縛られたまま死んだ。

 死体は浄閑寺に運ばれ、墓地の穴に投げ込まれた。

 その後、中万字屋に、首に小鍋をさげた遊女の幽霊が出るという噂がひろまった。そんな噂があれば客足が遠のき、妓楼にとって大打撃である。

 そこで、中万字屋はあわてて、死んだ遊女の法要をおこなったのだ。


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吉原で常態化していた、遊女へのパワハラがむごい


図1『江戸染杜若絞』(東西菴南北著、文化7年)/国立国会図書館蔵


吉原で常態化していた、遊女へのパワハラがむごい


■過酷な遊女への折檻

 上は、『街談文々集要』(石塚豊芥子編)に拠った。

 中万字屋の女房の残忍さは極端としても、妓楼では、遊女や禿が折檻されるのはごく普通のことだった。

 禿が折檻されるのは、言いつけを守らないときが多い。これは、しつけの一環と言えなくもない。

 だが、遊女の場合はやや事情が異なる。

 お茶を引く状態が続いている者、仮病を使って怠けていると思われた者、上客の機嫌をそこねて逃がしてしまった者、楼主や遣手の言いつけを守らず不平不満を漏らす者――こうした遊女は折檻を受けた。

『世事見聞録』(文化13年)は、次のように述べている。

 殴りつけるほか、絶食や便所掃除などの罰をあたえた。真っ裸にして麻縄で縛ることもあった。このとき、水を浴びせると、水で湿った麻縄が収縮してキリキリと体を締め付け、その苦痛に遊女は泣き叫ぶ、と。

 折檻をするのは遣手、楼主の女房である。楼主が折檻することは滅多になかった。しかし、楼主が乗り出してきた場合は、責め殺してしまうこともあった。
 図1は、遣手が、言いつけを守らない遊女を吊り下げている。

 図2では、遊女が柱に縛りつけられている。竹のムチで殴りつけているのは、楼主の女房である。ほかの遊女に見せつけているが、これはいわば見せしめのためだった。
.
文/永井 義男

12. 中川隆[-12590] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:08:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

三池崇史の映画 『インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜』

『インプリント〜ぼっけえ、きょうてえ〜』(Imprint)2006年 角川ヘラルド・ピクチャーズ


動画
http://www.weblio.jp/video/content/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%80%9C%E3%81%BC%E3%81%A3%E3%81%91%E3%81%88%E3%80%81%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%A6%E3%81%88%E3%80%9C


監督 三池崇史
脚本 天願大介
原作 岩井志麻子 『ぼっけえ、きょうてえ』

キャスト

女郎:工藤夕貴
クリストファー:ビリー・ドラゴ
小桃:美知枝
内儀:根岸季衣
小桃を折檻する先輩女郎 : 岩井志麻子


明治時代の日本。アメリカ人文筆家のクリスは小桃という女を探している途中、川中の遊郭で、とある女郎と出会う。その女郎は小桃との思い出をクリスに語り出す。醜い顔をしたその女郎は 生まれたときから奇形で顔の左半分がつり上がり、その為か他の女郎達の間に馴染めなかった。

いくつもの遊郭を渡り歩くなか、とある遊郭で彼女は女郎の小桃と出会う。どの女郎からも貶され虐げられてきたが小桃だけは彼女に優しくしてくれた。そんな小桃に翡翠の指輪の盗難の疑惑がかかり、小桃は拷問をされてしまう。そしてその女郎の手によって小桃は殺されてしまう。クリスは優しくしてくれた小桃を何故殺したと問い詰める。するとその女郎は生い立ちからの不幸な運命とその呪われた体の秘密を語り出す。


原作は岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』

『悪魔のいけにえ』のトビー・フーパー、『サスペリア』や『インフェルノ』のダリオ・アルジェント、『ハロウィン』や『ザ・フォッグ』のジョン・カーペンターなど、豪華なメンバーの中で唯一の日本人監督となった。ところが、放送コードが緩いケーブルテレビにもかかわらず、本作品だけはその内容、特に奇形シーンや拷問シーンがあまりにも残虐なため、アメリカでは放送中止になった。イギリスでは放映された。

また、日本でも映画倫理委員会から、審査規格外(審査適応区分外)扱いとなり、ほとんどの映画館から一般上映を拒否されたので、劇場版としては「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」以外は、シアターイメージフォーラム(渋谷)のみでレイトショーという形を取って上映された。自主規制によりR-18指定となっている。テレビ放映としては、WOWOWで「マスターズ・オブ・ホラー」シリーズの第1シーズン放映の中で放送された[3]。

アメリカ資本の映画なので、全編セリフが英語となっている。そのため原作の醍醐味である岡山弁独特の雰囲気に近づけるため“日本人訛りの英語”が使われたらしい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%88%E3%80%9C%E3%81%BC%E3%81%A3%E3%81%91%E3%81%88%E3%80%81%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%A6%E3%81%88%E3%80%9C

 【オープニング】

 白地に血が滴っていって、画面いっぱいが真っ赤に染まる。その上に、“MASTERS OF HORROR”が出たあと、各作品の一部をつないだと思われる一続きのオープニング・タイトル(ニヤリと笑う人形、狼、丘の上に十字架のシルエット、振り下ろされる斧のシルエット等)が続く。

 続いて、本編。
 夜の川面に靄が立ち込めている。その上をゆっくりと1艘の小舟が島に渡る男たちを乗せて進んでくる。その中に1人だけ外国人クリストファー(ビリー・ドラゴ)がいる。
舟は流れてきた土座衛門に進行を止められる。船頭は、慣れたことのようにそれを櫂で脇に押しやるが、それは、妊婦の土座衛門なのだった……。

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 アメリカ資本だけれど、監督も出演者もスタッフも日本人だから、てっきり日本語作品だと思っていたら、台詞は全編英語で、日本語字幕が出ます。あれ〜、そういうことなのかあと、まず意表をつかれました。
 制作の条件に「台詞は英語」ということがあったようで、原作にはないクリストファーという人物が追加されていて、物語は、彼の目を通して描かれます。
 フィルムかデジタルかどちらなんだろうと思っていましたが、テレビ作品なのでやっぱりデジタルでスタンダード・サイズ。でも、“赤”の発色が非常に印象的な作品になっていました。最近のデジタルはこれくらいは普通なのか、それともスタッフ(撮影は栗田豊通)の力によるものなのでしょうか。


 【原作との相違】

 @人物設定&言語 女郎(工藤夕貴)の話の聞き手を外国人とし、彼が懇ろになった女郎を探しているという設定にし、全編英語にしたところ。
岡山弁が、原作世界の土着性、忌まわしさ、地方で闇から闇に葬られるはずの因習譚・因縁話をリアルで、魅力的なものにしているのに、英語にしたことで、それが一切そげ落とされてしまったのが、残念です。「台詞は英語」が制作の条件であったとすれば、まあ仕方がないことなのですが。
 外国人記者が怪談を聞くという設定は、ラフカディオ・ハーンを思い出させたりもします。
 ちなみに、字幕翻訳は村田恵、監修はクリスチャン・ストームズ(彼は『サウスパーク 無修正映画版』『TAMALA2010』『8mile』でも監修を担当しています)。

 A折檻シーン 原作では「つるして、火のついた松葉でいぶる」といった短い描写しかないのですが、本作では火のついた線香を脇の下に押し付け、串を爪の間と、唇と歯茎の間に突き刺す、などという“映画的な描写”に変えられています。

 B状況設定 原作では、女郎による一夜の寝物語を聞き手が聞くだけなのですが、映画では、主人公(外国人記者)が、隔絶された小島に人を探しに行くという設定になっていて、ロジャー・コーマン作品をはじめ、クラシックなホラー作品(“館もの”など、の典型的な設定&導入部で、主人公はある一定の時間そこから逃げ出すことができない)を連想させます。

 C伏線 原作では、結末に関わる伏線が冒頭で示されているのですが、それがカットされているのが残念。

 D結末 聞き手を物語に関わる人物としたことで、最後は主人公を再び物語に関わらせています。恐ろしくなった聞き手が語り手である女郎を銃で撃ってしまうということですが、この時、殺される女に一瞬小桃の姿をオーバーラップさせています。本当は話をしていたのは、小桃本人ではないかと観客に思わせる仕掛けで、そういう風にも見られるように作ってあるということでしょう(エドガー・アラン・ポー『大鴉』あたりからの発想?)。
 本当にそうだったかはともかく、女郎が語る物語の中の小桃は赤髪で、女郎(工藤)は青髪、語り手の女郎(工藤)は黒髪になっています。
 最後にクリストファーは獄中で廃人のようになっていますが、これもアジアやアフリカの土着の文化、暗黒の文化に深入りした欧米人の頭がおかしくなってしまうといった物語の典型的なパターンだと思われます(ダン・シモンズ『カーリーの歌』「バンコクに死す」とか、ピーター・ストラウブ『ココ』とか、『地獄の黙示録』をはじめとする一連のベトナム戦争ものとか)。

 Eクリーチャー 『バスケット・ケース』『ワンダーアーム・ストーリー』『広告業界で成功する方法』などを連想させます。


 【感想をもう少しだけ】

 ・貧しい村・家に生まれた女が売られて女郎になるという物語をアメリカ資本で映画化というとどうしても『SAYURI』を思い出させます。工藤夕貴が出ているから尚更ですが、『SAYURI』の陰画が『インプリント』ということなのでしょう。

 ・原作もホラーと言えばホラーですが、土着性、因習性、忌まわしさがかなり強い作品になっています。つまり単なる“恐がらせるだけの作品”にはなっていないということで、胎児を“間引き”しなければならないほどの貧農たちの住む貧村があり、そうした貧農たちにも蔑まれるような一家を作り出してしまうような社会性、社会構造が存在した、というところまで書き込まれたので傑作になったのですが、映画の方はさすがにそこまでのレベルには行けていません。最終的に印象に残ってしまうのが、“折檻”と“クリーチャー”だったりします。それはもったいないですね。そこまで行けたら放映禁止、上映禁止にはならなかったと思うのですが……。

 ・ホラー映画の常道として、わざとまわりを暗くしたり、フィルターをかけて古色蒼然たる雰囲気を出したりするものですが、本作には、そういう“ごまかし”がなく、好印象を持ちました。
映画の中に、「本物の血で描いた地獄絵図」というのが出てきますが、本作自体にも「赤」を効果的に使われていて、「血で描いた映画」を意図したのではないかと思われました。
http://umikarahajimaru.at.webry.info/200606/article_6.html


レンタルショップでは「マスターズ・オブ・ホラー」というホラー映画集の一本として置いてあります。

雑誌で取り上げていたので、興味本位で借りてみましたが、前述「オーディション」の上の上の、そのまた上を行く、とんでもない作品でした。

「なんで観ちゃったんだろう。」というのが初見の正直な感想です。
題名の意味は岡山弁で「とても怖い」という意味らしいです。

ある遊郭へアメリカ人(ビリー・ドラゴ)が、恋仲だった女郎(小桃)を身請けに来ます。
しかし、小桃はすでに死んでおり、理由を問いただすと、窃盗事件の濡れ衣を着せられて、拷問の末殺されたらしい。

その濡れ衣を着せたらしい異形の女郎(工藤夕貴)に問い詰めるアメリカ人。

彼に対して淡々と女郎(工藤夕貴)が語り始めたのはまるで、この世のこととは思えないような陰惨な身の上話だった。

まず驚いたのは悪役以外でビリー・ドラゴを見たこと。   普通の人を演じてるのを初めて見ました。

そして拷問シーンのエグいこと、エグいこと。(歯茎に〇〇、爪の間に〇〇・・・)

さらに工藤夕貴の独白シーンの迫力。
この独白に合わせて回想シーンが何回か映像になるんですが、最初はかわいそうな身の上なのかな?と思ってみていたのが、だんだん方向性が変わってくるんです。

まるで人間が抱えられる全ての「業(ごう)」を含んだような身の上話に変わってきて、聞いてる側も震えがきそうです。

3日くらい夢に見るかもしれませんが、それでも観たいという方はどうぞ・・・。
http://meshifuroneru.seesaa.net/article/385518877.html

13. 中川隆[-12588] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:26:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

遊女のリンチ - 女として大阪で暮らす2

飲み屋のババアから、終戦直後のパンパン(ストリートガール)の「オサネ切り」リンチの話を聞いたことがあります。

オサネ=クリトリスですね。

いくら言って聞かせても、ナワバリや掟を守らない女がいると、まずリンチでボコにする。それでも聞かないやつを、みんなで押さえつけて、クリトリスをちょん切ったそう。

慣れてる女がいて、包皮をつまんでキュッと上の方にしごくと、クリのあたまがプルッと出てくるのだそうです。

そこをカミソリでスパッと切ると、その瞬間、切断面からおしっこみたいに血がピュと出て、切られた女はほとんど失神、あるいは失神寸前の状態になるそうです。

これをやられた女は、娼婦としては使いものにならなくなるらしい。

お客がオサネのない女をいやがるとか言ってた。もちろん私生活のセックスも楽しめなくなって、つらい思いをするそうです。

_______


クリトリスを切り取られた激痛に泣き叫ぶ香月には、容赦なく、次の子宮摘出が待っていた。体内に器具を入れ、強引に引きはがすという乱暴なもので、女性にとっては、精神的にも、肉体的にもこれ以上ない苦痛を与えるものだ。


「どうだ、香月、クリトリスを切られて痛いだろうな。しかし、おまえに対する拷問はまだ始まったばかりだ。次は子宮だぞ。ここに同意書があるから読み上げてやろう」

「もう...好きにすれば...いいわ」

「私、香月は子宮を摘出されることに同意し、一切の不満を申し立てません。また摘出の為に、どれだけ激しい苦痛があろうともかまいません。これ以降、少しでも、 性的な興奮を憶えた場合は、肛門を含めて、体のいかなる部分を拷問されることに同 意します...どうだ、合意するか」

「お尻だけは許して下さい。お願いします...」

「なんだと、肛門は許してくれだと。だったらここに書いてあるとおり、濡らさなければいいじゃないか。流すのは、血だけにするんだな」


香月を大の字に縛り付けている柱のロックを外す。彼女を、ほぼ水平にし、上半身を起こして、切り取られたクリトリスのあたりからうっすらと血が流れている所を、自分でも見えるようにする。


「かわいそうに、一番感じる部分を千切られて、これから子宮を摘出されるんだぞ。そんなことさえされなければ、これだけのいい体だ。男がいくらでも寄って来るだろうに。それも、もう、一生ありえないことだな。私が若いお前の、女らしい体を見る最後の男になるわけだ。せっかくだから、よく、見せてもらうぞ」

「好きにすればいいわ」

「女を失おうとしているんだ。まさか、触られようと、弄られようと、ここを濡らす事はないだろうな。それに、もし、濡らしたら、お前の一番嫌いな肛門を拷問されるんだからな。これから取られてしまう子宮はこれか? そうか、これが、子宮口と言う

 やつだな。こいつを箝子で挟んでおいて、引っ張りだすことになる。痛いだろうよ、きっと」

「ひ、酷い!!」

「おやっ、何だ。お前、オマンコが光ってるじゃないか!」

「そ、そんな...う、嘘です!!」

「どうしようもない助平女だな、香月は。自分で一番嫌だと言っておきながら、そこを責めて欲しいというわけだ」

「お尻だけは...許して下さい...お願いします」

「まあいい。こっちは、後で、じっくりと責めさせてもらうからな。それじゃ、いよいよ、お前の子宮摘出をはじめるぞ。こいつでな。どうだ、すごい形してると思わないか。こんなものが体に入っていくんだぞ!」

「い、嫌っ!!」

「最初、入れる時は、こういう風にすぼまっている。その後でこうすると見ろ、広がるだろ。中から出て来るこいつがお前の子宮口をがっちりと掴み、外側のギザギザの部分が子宮の表面にのびて、がっちりと食い込む。そうしておいて、思いっきり引っ張るとどうなると思う? うまくすれば、卵管もろとも子宮が出て来る。へたすれば途中からちぎれてぐずぐずの肉になって出て来る」

「そんな事して...何が面白いの?」

「さあ、はじめるぞ。目をそむけるなよ。良く見てるんだ」

「あぁーっ」


何十人もの娘達に使われた後、ろくに手入れがされていない拷問具には、あちこちに錆が浮き、表面がざらざらになっている。その拷問具が自分の股間に伸びて来るのを見て、香月の表情が引きつるようにこわばる。拷問具の先端がやわらかな女の入口にあてがわれた。先端を回転させながら、じわっと体内に押し込んでゆく。


「目を閉じるな。見るんだ」

「ゆ、許して...」


先端が中に入った所で、レバーを引くと外側が彼女の体内で広がり、その状態でさらに押し込む。先端が子宮口にあたった。第二のレバーで香月の子宮をがっちりと掴む。あと少しで、女を引き千切られる恐怖で全身を震わせ、泣き始める香月。初めは啜り泣きだったのが次第に号泣に変わっていく。拷問のクライマックスが訪れようとしていた。

道具を掴む手がさすがに汗ばむ。手の平の汗をぬぐい、つかみなおす。香月の体内からおびただしい液体が流れ出ている。女として、最期になるであろう液体だ。二つのレバーにさらに力を加える。錆びた金属が子宮にざっくりと食い込んだに違いない。

次の瞬間だ。屋敷中に響き渡るような絶叫。悲鳴などという生易しいものではない。絞り出すような、苦痛の叫び。股間から顔を出した子宮口を見て、香月がさらに声を上げる。乳首に無数に刺された針の痛みも、クリトリスを切られた痛みも、すっかり、忘れさせるような激痛。無限に続くかと思われるような、体の芯を襲う、ちぎれるような痛み。

いつものことだが、子宮を一気に引き剥がすのは極めて困難だ。いくら、力一杯に、引っ張ってもそう簡単にちぎれるものではない。また、そんな目に会う女の絶叫と激痛に歪む表情がどうしても手の力を削いでしまう。結果として、彼女の苦痛はさらに長引くことになってしまう。最も、この段階でやめたところで彼女にとっては、既に手遅れである。掴まれて、引っ張られた子宮口は、既に、原形を留めぬ位に潰れており、その周りに食い込む金属によって子宮の表面は、すっかり、傷つけられている。私は、子宮全体の摘出はあきらめ、ギザギザの歯を下に移動させて子宮口の根元を掴み直した。


「お前の女としての機能は既に完全に破壊されたぞ!」

「あぁぁぁーっ」

「子宮はもう完全につかいものにならなくなっている。これからこのコリコリした子宮口だけを千切ってやるからな」

「ひ、ひと思いに、こ、殺して!!」


私は、握った道具をゆっくりと回転させる。子宮口に食い込む歯が回転する度に、肉を少しずつ傷付けていく。女の体内組織は、そんな力に到底耐えることはできない。そして、五分後、赤い小さな肉塊が私の手の道具に付いているのを見て、香月は失神した。


股間から鮮血を垂れ流したまま、ぐったりとした香月を床に転がす。先程までの香月の絶叫が嘘のように、今は静まり返っている。既に、女とは言えない体となった香月。しかし...私は大きな疑問にとらわれ始めていた。確かに、香月は二度と子供を作ることはできない。普通の意味では、香月は、既に女ではなくなっている。だが、本当にそうだろうか。毎月の生理は、もう無いだろう。だからといって、香月の顔が男のようになるわけではない。子供は生めなくとも、男の欲望を受け止める穴は、今でも、存在しているではないか。香月は動物の雌としての役割を果たす事はできなくなっているが、人間の女として、快感を感じる機能はまだ持っている。ひょっとしたら、毎月のわずらわしいものから解放され、妊娠の危険からも完全に解放された香月は、いままで以上に女としての喜びを感じ、その快感に、何の心配もすることなく身を委ねられるようになったとは言えないだろうか。間違いない。あれほどの苦痛に見まわれながらも、激しく濡らしていた香月は、こうなる事を望んでいたのかもしれない。女としての快感、オマンコよりも数倍も感じるといわれる肛門さえ残しておけば、香月は、いままで以上に自

由に女でいられるのだ。そんなことは許すわけにはいかない。性器破壊という女性にとって本来耐えられない精神的、肉体的な苦痛が香月の場合は、解放の快感になっていたのかもしれない。それは断じて許すわけにはいかないことだ。香月に対する本当の拷問は、香月が望む自由な女への道を完全に断つことだ。彼女の肛門、オマンコ以上の快感の源を完全に破壊することだ。失神した香月の顔には、女でなくなった事への悲しみなど、これっぽっちも浮かんではいない。そうだったのか。彼女が潜在意識の中で望んでいたのはこういう事だったのだ。そうと分かればやる事は明らかだ...


私はぐったりとした彼女を鞍馬の上にうつぶせに縛りつけた。お尻の谷間から肛門が恥ずかしげに覗いている。いや、恥ずかしげにと言うのは私の気持ち、私の期待だ。実際には、香月の肛門は解放され、ようやく主役に躍り出ることができる喜びで、生き生きとしているではないか。鞍馬の白い革の表面に、彼女の性器から滴る血が垂れている。

もうすぐ、別の場所からの血がそれに加わることになるだろう。私は、香月の肛門が二度と快感を与えることが無いようにするための道具を揃え、彼女を失神からさめさせるために長い針を手に取った。彼女の白くて柔らかいお尻の肉にそれを深々と突き立てる。


「い、痛い!!」

「気が付いたか、肛門を拷問するのに失神したままでは面白くないからな。お前の性的 な快感の源をこれから破壊してやろう。二度とお尻で感じることなどできないようにしてやるから、覚悟するんだな」

「そ、そんな...ひ、卑怯よ!!」

「何とでも言え、叫べ。どうせお前には助けは来ない。もうすぐお前は、気持ちいいと

 思う事が一生できなくなるんだ。だが殺しはしない。潰れた性器、潰れた肛門はここの医療スタッフがちゃんと治療してくれるだろう。排泄機能だけはな。これからの長い一生をお前は快感とは無縁の世界で生きていくことになる」

「い、嫌よ!!」


私は、肛門拡張器を手に取った。普通の物よりは、はるかに広がる範囲の大きい物だ。

しかも、肛門の内側に触れる部分はヤスリのようにギザギザになっている。これを香月のお尻の穴に入れ、ぐりぐりと回転させればどうなるか。彼女のお尻の谷間を指で左右に広げる。さっきまでボールペンを押し込まれていた肛門が縮こまっている。私はクリームをたっぷりと指に付けると、肛門に塗り、拡張器を当てがった。先端が触れる。きゅっと肛門が動く。


「お、お願い!! お尻だけは許して!!」

「今更何を言ってももう遅い。ここをたっぷりと苛めさせてもらうからな」


拡張器はずぶっと言う感じで香月の体内に入っていった。


「ようし、広げるぞ。肛門の中に何を隠しているのか良く見せてもらうぞ」

「い、嫌ぁーっ!!  」

「お前の肛門が開いていくのが分かるな」

「い、痛い!! もう、許して」

「痛いだと。こんなもんで痛がっていてどうする。まだ始まったばかりだぞ。普通だったらこの位までだな。見えるぞ。汚いものが入ってるのが」

「ひ、酷い!!」

「もっと、ひろげてやる」

「さ、裂けるーぅ!!」

「まだ、まだだ。」


香月の肛門は、普通の限界を越えて開かれていった。あと少しで裂けると言う所で止める。既に直径は3センチを越えている。そのままの状態でやすりのように毛羽立った拡張器に回転を加える。


「ぎゃーっ!!」

「どうだ、体の内側がけずれていくのがわかるか」

「とうとう血が流れてきたぞ。このままぐるぐるまわしながら、もっと開いてみるか」

「お、お願い!! もう、ゆ、許して!!」


肛門が限界を越えた拡張で悲鳴を上げる。今にも裂けそうだ。その開ききった肛門にナイフを突き刺す。しばらくすると、彼女の肛門はナイフを突き刺した周りから裂け始めた。


「ぐぇーっ!!」

「どうだ、体が裂けていくのを感じるか。」


私は近くのインターホンで医療スタッフを呼び出した。


「私だ。もうすぐ、終わるから待機していてくれ」

「彼女はどういう状態ですか」

「クリトリスは切り取った。乳首と乳房は針だらけになっている。子宮口は引っ張り出してあって、今、肛門が裂け始めている。これから膣と肛門の両方に火薬を詰めて焼くつもりだ。」

「分かりました。その程度だったら、楽なもんです。さっきの女の子の場合は、膣と肛門の両方に、ドリルの先端に付けた金属ブラシを10センチ近く押し込まれて、回されたのでしょう。中がめちゃくちゃになってましたからね」

「それでどうなった」

「大丈夫ですよ。排泄だけはできるように手術しておきましたから」

「相変わらず、腕がいいな」

「もちろんですよ。ところで、そこの子、ただ、火薬で焼くんじゃなくて、肛門と膣の間を切ったらどうです」

「そこまでして大丈夫か」

「ええ、単に、排泄の区別がつかなくなるだけで、命に別状は」

「よし、火薬に火を付けたら、切ってしまおう」

「分かりました。いつでもいいですよ」


香月は、肛門が裂けていく苦痛で悲痛な叫び声を上げている。私は、細長く形の整えられた火薬を彼女の膣と開ききった肛門に一本ずつ押し込んだ。導火線が下に垂れている。

久々の日本人である香月は、実に良く私を楽しませてくれた。が、もうおしまいだ。ライターで火を付ける。導火線特有の激しい煙が上がる。


「お前の性器と肛門の両方が、もうすぐ、焼かれるからな」

「ひ、ひと思いに、こ、殺して!!」


火は確実に火薬に近付いて行く。そして...彼女の体内で、くぐもった音と共に小さな炎が二つ、一瞬だが見えた。香月の絶叫は、炎と同じように、ほんの一瞬だった。
https://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/81305847188cb68b6150cf0dcab589dc

14. 中川隆[-12587] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:31:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告
現代の派遣社員? 江戸時代、女性の隠れた人気職業は「妾」だった!

江戸時代の江戸など大都市圏における、男性の未婚率はなんと5〜6割でした。彼らが「おひとり様」なのは、女性が極めて少なかったから。男女比は7:3で大半の男性はあぶれてしまったんですね。

江戸時代、とくに大都市圏で未婚率が高いのは、フリーターばかりだから。世継ぎに受け継がせるべきステイタスや知識・技術がハッキリしている士農工商のいずれにも属していないのです。「家」制度の外に出てしまったら、わざわざ結婚する意味もない、と割り切れていたのかもしれません。

男の「おひとり様」でも、独身仲間とワイワイ暮らせる長屋もたくさんありました(家賃も現代の感覚で、水道費コミ、月数万円弱)。しかし、そんなある意味、自由な男性たちを尻目に、女性は女性であるということだけで、基本的に一度は結婚させられました。

ところが……、江戸時代でも都会にすむ実家がリッチな女性の場合は、事情がすこし違いました。「結婚したらどーせアンタも苦労するんだから、それまでは遊んででいいよ」との親心でしょうか。女性が少ないんだから、別に多少遊んでも(それが男性に多少バレても)、結婚に差し障りなんてないよね、という甘えもあったのかもしれません。

リッチな若い女性たちは、自分と同じようなお坊ちゃま(若衆)たちとの遊びの恋はもちろん、「役者買い」なんかをしてしまうこともありました。金で好みのイケメンを買って寝る、というさばけた行為ですね。処女でいる意味は薄く、結婚前に妊娠さえしなければ、それでよいとする考え方です。

ドライですねぇ。いくら家がリッチだろうと、身分が「庶民」の女性の場合、結婚するまでは、恋愛の自由はありえたのです。そんな彼女たちも一度は結婚するのですが、ダメだと思うとすぐに別れてしまいました。再婚相手を探すもヨシ、自活をするのもヨシ……ということで隠れた女性の人気職業が「妾」だったんですね。

妾は古くは「しょう」と発音。次第に「(男が)目をかける」という意味で「めかけ」と言われるようになりました。さらに妾とは、妻公認の存在なんですね。だから、妾との関係ですら、すくなくともタテマエ上は「浮気なんかじゃない」ということになっていたのです。

さすが日本、古くからタテマエ社会です! しかも、同じ愛人枠でも(武家に多い)「側室」の類とは違い、妾は別宅を与えられる存在でした。ここから転じて、江戸時代の妾は自営業者にもなりえました。一人の男に縛られる結婚なんてしたくもないけど、実家の両親の世話にもなりたくない女性、今でもいますよね。こういう時、江戸時代では働く場所も限られているので、彼女たちは妾になっちゃったのです。

生真面目に住み込みの女中になっても食費や家賃は要らないかわり、お手当は年に数十万円程度しかありません。しかし、妾の派遣会社である口入屋(くちいれや)に登録、イイ旦那を紹介してもらえると、毎月、数十万〜五十万円に相当するお手当を得ることができました。江戸時代の妾は大体が2カ月契約で、契約が更新されるかどうかは旦那次第。ホントに派遣社員っぽいでしょ?

しかも、妾は側室とは違って、一人の男性のために尽くすのではなく、複数の男性と関係を持つことが認められてたんです。江戸時代後期の頃からコストに厳しい関西から登場、後には江戸でも大流行した「5人の男性で、1人の女性をシェアする『安囲い』」のシステムは有名でございます。

『安囲い』は、お互い男性同士が鉢合わせしないように、スケジュールをやりくりして通ってくる相手を妾の女性は迎えるだけ。週1回×月3回のペースが平均だったらしいので、5人の旦那がいたら月収50万円ほどで、ひとつきの半分が休日!

病気や妊娠の怖さはありますが、ちょっとでも外見に自信のある女性なら挑戦したい隠れた人気職業だったそうな。そもそも昔の日本で「浮気」といえば、陽気で華やかという意味が強かったのですが……この妾、まさに浮気な商売じゃないでしょうか。

しかし現実はもうすこし堅実志向な女性が多かったみたいです。彼女たちの多くは自分で稼いだお金と、空いた時間で三味線や踊りを習い、愛人業を卒業後は「お師匠さん」として、悠々自適の「おひとりさま道」を進んでいったようです。
http://news.livedoor.com/article/detail/9519195/  

15. 中川隆[-12586] koaQ7Jey 2019年1月31日 06:35:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

旧家の男子と乳母との心の繋がりが実の母親より遥かに大きい理由

独り淋しくタケが亡くなったと言う知らせを受けた時、私は単なる世話に成った事の有る人の死と言うだけでは無い複雑な感慨と深い悲しみに涙しました。タケという女性は、私の乳母でした。今はもう乳母などと言うような存在は無くなりましたが。戦前の事であり、地元の旧家だった私の家では、私が生まれると直ぐに乳母が雇われ、乳母のオッパイを吸って大きくなりました。

お乳の必要がなくなってからも、タケはずっと私の家にいました。どんな事情があったのかは分かりませんが、そのまま私の家に奉公人として働いていました。奉公人とは言っても私の乳母であり、女中頭のような存在で、私の家の中のこと一切は彼女に任されていたようです。

私の幼少の頃の印象では、乳母のタケは私にとって一番甘えられる存在で有りながらも厳しくて怖くて、彼女だけには叱られても反抗できませんでした。尤も躾には厳しくても、彼女は誰よりも私の事を可愛がってくれたし、大事にしてくれました。ですから私はタケにたいしては、母親以上に愛情を感じていたと言ってもよいでしょう。

周囲の者にチャホヤされ、甘やかされて育った私は我が儘で、甘ったれでした。タケの傍にくっつきっぱなしで、一寸でも姿が見えないと探し回り、追い掛け回したものです。

私は小学校に上がるようになっても、寝る時はタケに添い寝をしてもらわなければ眠れませんでした。私が寝付くまで布団の中で抱いてくれていたのです。抱いてくれていたと言うよりも、あまったれの私が離さなかったと言った方がいいでしょう。

彼女のふくよかな胸に顔を埋め、其の匂いや温かさ、柔らかな体に包まれなければ眠れなかったのです。私の記憶では小学校に上がってもオッパイを吸っていたような気がします。昼間は我慢していても、布団に入るとお乳をまさぐって、乳首に吸い付き、しゃぶっていました。

何時の頃からは記憶にはありませんが、タケの体から漂ってくる匂いが、オッパイの匂いから別の匂いに変わっていました。女臭というのでしょうか、少なくともお乳の匂いではありません。私はそれをタケの匂いと言う言い方をしていました。甘く、やさしく、温ったかで、其の匂いを嗅ぐとうっとりとして落ち着き、安心して眠れるのです。

オッパイの匂いがしなくなり、タケの匂いに変わっても私は乳房に吸い付き、しゃぶっていました。口寂しいと言うのでしょうか。寝間着がわりの浴衣の衿元を広げ、タケの乳房を引き出し、硬く丸っこい小さなビー玉のような乳首を唇に挟んで、モグモグしたり、チューチューと音をたてて吸ったり、舌で嘗め回したりしました。

そんなとき、ふとタケの顔を見上げると、彼女は目を閉じて気持ち良さそうな顔をしていました。タケは其の当時十七、八歳になっていたとおもいます。

そんな或る夜、タケは私に乳首を吸わせながら、私の股間に手をのばしてチンポをつまんできた事がありました。


「あらら、坊っちゃんのオチンチン、硬くなってる・・・オシッコしたいの?」

「ううん、したくない」

タケにチンポをつままれ、私は恥かしいと言うよりも、イイ気持ちがしました。ずっとそのままつまんでコリコリして欲しいような気がしましたし、どこかタケの体にチンポを擦りつけたいような気もしていました。するとタケは

「吸ってあげる」

と言って顔を布団の中に入れ、私のチンポを吸い始めました。まるで私がタケの乳首を吸っている時のようにペロペロと舌で舐めまわし、唇をモグモグさせ、チューチューと強く吸い込むのです。とってもイイきもちでした。

「もう少したっと、オチンチンがもっと大きくなるし、
 ここからオッパイみたいな白いお汁が出てくるようになるわよ」

「・・・?」


私にはどう言う事か判りませんでしたが、気持ちが良かったので、それからはタケの乳首を吸うだけではなく、チンポを吸ってもらうようになりました。

さらに彼女は私の手を自分の股間に導き、太股に挟んだりしました。私が一番驚いたのはザラザラしたタケの陰毛と、私の股間とはまるっきり異なる性器の形でした。タケの性器は凹んでいてヌルヌルしていました。しかし指をのばすと、どこまでも指がヌルヌルしたものの中に入ってしまいます。

「あはっ、あはっ、坊っちゃん・・・」

私が指を伸ばすとタケは熱い息を吐き出して呟きました。そしてキュッと太股をすぼめるのです。すると、手首がはさまれました。タケが変な声を出したので、手を引っ込めようとしましたが、タケは私の手を掴んで離しません。やがてヌルヌルがグショグショといった感じになり、私はタケがオシッコを漏らしてしまったのではないかと思いました。

其の夜は私にオッパイを吸わせたり、チンポを吸ってくれたタケが、どう言うつもりか私の体の上に覆い被さり、足で私の足を挟んで、抱き締めてきました。私はタケの体にすっぽりとつつみこまれて、安心して眠って了いました。彼女は両肘をついていて私は体をつぶすようなことはありません。まるでふわっと掛け布団が掛けられているような感じでした。
その心優しいタケが戦争も末期の年に、再婚する事になり、私の家から出て行ってしまったのです。兵隊に行く男のところへ嫁いだのだそうです。私は悲しくて、淋しくて泣いて了いましたが、どうすることも出来ませんでした。
http://ayamegusa.k-server.org/smac_p_147.htm

日本では古くは、幼児婚は一般に行われていた。大正時代には田舎であっても女郎買いにも行けた。夜這いなども一般的に行われていた。近親姦も珍しくなかったことはルイス・リビーも赤松啓介も指摘している。

若衆宿の成員は赤松啓介によれば15〜25歳程度であり、性の手ほどきはこの若衆宿に入る頃に行われた。その形式はムラによって差があった。播磨の加古川流域では子供が13歳の時に褌を贈られ、性交の実地教育を行うという形式が取られていた。この男性の成人儀式のことは褌祝と呼ばれ、場合によっては母親が息子の相手を務める場合もあったという。共同風呂では陰茎の包皮を剥いてもらい痛いという人もいた。

日本において「セクシュアリティの近代」が設定されたのは明治時代以降である。西欧では性的虐待と見られかねないことがアジア地域では普通に行われていると言われる理由もここにある。

また、赤松啓介が言うことには、当時から法律で禁止されているため闇の話ではあったが、日本では女郎として売られた女性が初体験をより早期に済ますということは一般的であった。半公然ながら、女郎稼業で7つ、8つで売られる人もおり、男性も8、9歳くらいには売られ、男娼とされることも少なくなかった。ただ、実際には月経も来ていない少女を破瓜させるというひどい客がいたり、男の子が強姦されることも珍しくなかった。

また、女中など雇われ従業員の年上の娘が、より年少の男の子に性交を教える場合も多かった。太宰治は、この行為は犯罪ではないかと「人間失格」で述べている。

しかし、このような状況は教育勅語的指弾ムード、戦争中の弾圧的な風潮、戦後の禁欲的性教育ムードで弾圧されてきた。そうは言うものの、一部の人間はその状況を守り続けていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%BD%A2%E5%B7%AE%E3%81%A8%E6%80%A7%E8%A1%8C%E7%82%BA

門外不出の性指南書、備州岡山藩秘伝『秘事作法』。『秘事作法』は上、中、下三巻構成で、江戸初期の1652年に成立した。筆者の秀麗尼は岡山藩の池田家奥御殿に仕えた女中だった。

『秘事作法』の特色は、何といっても懇切丁寧な記述にある。江戸期の性愛文化を代表するセックスガイドブックといっても過言ではあるまい。そのなかで明らかにされる、奥女中の性の秘儀の数々の中でも、上巻で述べられる、若君に対するセックスの所作は驚愕に値する。

 幼少君は、学問や武芸だけでなく帝王学の一環として、御殿女中たちから性の手ほどきを受けていた。当時の武家は現在の中学生の年齢で元服し、妻を娶って子づくりに励むののだから当然のことではあった。

 幼少君は5歳で割礼し、7歳になるとペニスの皮をむく(現代でいうところの「むきむき体操」)。早くから亀頭部を露出させ、刺激になれさせるのだ。10歳ともなれば、女中は若君の会陰部へのマッサージを入念に施してさしあげる。同時にペニスを布で巻き、厳しく鍛えることも忘れてはいけない。まだ子どもだけに、快感とは程遠く、痛みや辛さで泣き出すこともあろうが、それを叱り、あるいは慰め、励ますのも女中の務めであった。

 幼少君が12歳になったら、さらに本格的なセックス指南に進む。その作法を現代語訳してみよう。「最初は殿のペニスを指でさする。時には口に深く含み、亀頭を喉の奥深くに入れ強く吸う。続いて亀頭を舌で愛撫し、勃起の兆候がみられたら、舌先で鈴口を押さえ、亀頭をリズミカルに締めたり緩めたりする」

 いわゆる“手コキ”で奉仕するだけでなく、積極的にフェラチオをするように指導している。それもディープスロートあり、亀頭や尿道口への微妙かつ繊細な愛撫ありと、現代の性技と比べて遜色がない。いや、むしろ約360年前に、このようなテクニックが開発されていたことを称賛すべきだろう。

※週刊ポスト2010年12月24日号
http://www.news-postseven.com/archives/20101218_8130.html

16. 中川隆[-12584] koaQ7Jey 2019年1月31日 07:05:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告


性の謎を教えてくれた乳母。其の一
http://ajisaibana01.web.fc2.com/myweb5_150.htm


◇乳離れできない子◇

]独り淋しく老人ホームでお園が亡くなったと言う知らせを受けた時、私は単なる
世話に成った事の有る人の死と言うだけでは無い複雑な感慨と深い悲しみに涙しました。

お園という女性は、私の乳母でした。今はもう乳母などと言うような存在は無くなりましたが。
戦前の事であり、地元の旧家だった私の家では、私が生まれると直ぐに乳母が雇われ、
乳母のオッパイを吸って大きくなりました。

お乳の必要がなくなってからも、お園はずっと私の家にいました。
どんな事情があったのかは分かりませんが、彼女は夫とは別れて独り身だったのです。
そのまま私の家に奉公人として働いていました。奉公人とは言っても私の乳母であり、
女中頭のような存在で、私の家の中のこと一切は彼女に任されていたようです。

私の幼少の頃の印象では、乳母のお園は私にとって一番甘えられる存在で有りながらも
厳しくて怖くて、彼女だけには叱られても反抗できませんでした。
尤も躾には厳しくても、彼女は誰よりも私の事を可愛がってくれたし、大事にしてくれました。
ですから私はお園にたいしては、母親以上に愛情を感じていたと言ってもよいでしょう。

周囲の者にチャホヤされ、甘やかされて育った私は我が儘で、甘ったれでした。
お園の傍にくっつきっぱなしで、一寸でも姿が見えないと探し回り、追い掛け回したものです。

私は小学校に上がるようになっても、
寝る時はお園に添い寝をしてもらわなければ眠れませんでした。
私が寝付くまで布団の中で抱いてくれていたのです。
抱いてくれていたと言うよりも、あまったれの私が離さなかったと言った方がいいでしょう。

彼女のふくよかな胸に顔を埋め、其の匂いや温かさ、
柔らかな体に包まれなければ眠れなかったのです。
私の記憶では小学校に上がってもオッパイを吸っていたような気がします。
昼間は我慢していても、布団に入るとお乳をまさぐって、乳首に吸い付き、しゃぶっていました。

何時の頃からは記憶にはありませんが、お園体から漂ってくる匂いが、
オッパイの匂いから別の匂いに変わっていました。女臭というのでしょうか、
少なくともお乳の匂いではありません。私はそれをお園の匂いと言う言い方をしていました。
甘く、やさしく、温ったかで、其の匂いを嗅ぐとうっとりとして落ち着き、安心して眠れるのです。

オッパイの匂いがしなくなり、お園の匂いに変わっても私は乳房に吸い付き、
しゃぶっていました。口寂しいと言うのでしょうか。
寝間着がわりの浴衣の衿元を広げ、お園の乳房を引き出し、
硬く丸っこい小さなビー玉のような乳首を唇に挟んで、
モグモグしたり、チューチューと音をたてて吸ったり、舌で嘗め回したりしました。

そんなとき、ふとお園の顔を見上げると、
彼女は目を閉じて気持ち良さそうな顔をしていました。
お園は其の当時二十七、八歳になっていたとおもいます。

そんな或る夜、お園は私に乳首を吸わせながら、
私の股間に手をのばしてチンポをつまんできた事がありました。
「あらら、坊っちゃんのオチンチン、硬くなってる・・・オシッコしたいの?」
「ううん、したくない」
お園にチンポをつままれ、私は恥かしいと言うよりも、イイ気持ちがしました。
ずっとそのままつまんでコリコリして欲しいような気がしましたし、
どこかお園の体にチンポを擦りつけたいような気もしていました。

するとお園は「吸ってあげる」と言って顔を布団の中に入れ、私のチンポを吸い始めました。
まるで私がお園の乳首を吸っている時のようにペロペロと舌で舐めまわし、
唇をモグモグさせ、チューチューと強く吸い込むのです。とってもイイきもちでした。

「もう少したっと、オチンチンがもっと大きくなるし、
 ここからオッパイみたいな白いお汁が出てくるようになるわよ」
「・・・?」
私にはどう言う事か判りませんでしたが、気持ちが良かったので、
それからはお園の乳首を吸うだけではなく、チンポを吸ってもらうようになりました。

さらに彼女は私の手を自分の股間に導き、太股に挟んだりしました。
私が一番驚いたのはザラザラしたお園の陰毛と、
私の股間とはまるっきり異なる性器の形でした。
お園の性器は凹んでいてヌルヌルしていました。しかし指をのばすと、
どこまでも指がヌルヌルしたものの中に入ってしまいます。

「あはっ、あはっ、坊っちゃん・・・」
私が指を伸ばすとお園は熱い息を吐き出して呟きました。
そしてキュッと太股をすぼめるのです。すると、手首がはさまれました。
お園が変な声を出したので、手を引っ込めようとしましたが、
お園は私の手を掴んで離しません。

やがてヌルヌルがグショグショといった感じになり、
私はお園がオシッコを漏らしてしまったのではないかと思いました。

オシッコというば或る夜、私はふと目を覚ました時、
寝小便をしてしまったと思い、ハッとしたことがあります。
其の夜は私にオッパイを吸わせたり、チンポを吸ってくれたお園が、
どう言うつもりか私の体の上に覆い被さり、足で私の足を挟んで、抱き締めてきました。
私はお園の体にすっぽりとつつみこまれて、安心して眠って了いました。
彼女は両肘をついていて私は体をつぶすようなことはありません。
まるでふわっと掛け布団が掛けられているような感じでした。

ハッとして目が覚めたとき、お尻の下の方が冷たく感じました。
寝小便をしてしまったと一瞬驚きましたが、チンポの方は濡れていませんでしたし、
量的にはたいしたことがなかったので、私はそのまま、また眠ってしまいました。

翌朝、お園に其の事を言うと、
「寝ぼけたんでしょう、どこも濡れてませんよ。

 でも、坊っちゃんが気持ちわるいといけませんから、お布団は干しておきましょう」
と言って、夢精したことも告げずにさっさと布団を日向に干しに行ってしまいました。

その心優しいお園が戦争も末期の年に、再婚する事になり、
私の家から出て行ってしまったのです。兵隊に行く男のところへ嫁いだのだそうです。
私は悲しくて、淋しくて泣いて了いましたが、どうすることも出来ませんでした。


性の謎を教えてくれた乳母。其のニ


◇未熟な性知識◇

戦争が終わり数年後お園の夫の死亡が確認され再び私の家に戻ってきました。
そのとき、私は小学六年生になっていました。お園が戻って来て呉れて
嬉しくて嬉しくて、その日は一日中はしゃぎまわっていました。

「また、お坊っちゃんのお世話をさせてまらいます」
懐かしい、お園の匂いがしました。
もっとも、畳に手をついて挨拶されたときは何となく照れ臭くて、
「別に世話してもらわなくっても、ボクはもう、独りで何でも出来るから」
と、言っていました。
「ほんとうに、大きくなって・・・来年は中学生ですね」
「・・・そうだよ」

食料事情の悪い時ですから私の目から見ると、
お園は痩せて一回り小さくなった様に感じました。
でも、実際はそんなに変わらなかったようです。
私の方が大きくなったので、そう感じたのかもしれません。

その時私はふっと、お園はまた私と一緒に寝て呉れるだろうかという
期待を抱きましたが、直ぐに心の中で、
(もう子供じゃあるまいし・・・)と、否定したりしていました。

ところが、お園は其の夜、部屋に来てくれたのです。
長い間、離れていたにもかかわらず、
私の布団を敷くのは当然自分の仕事と言う態度で、
寝室に布団を敷くと、勉強していた私を呼びに来ました。
「坊っちゃん、もう寝る時間ですよ!」
「・・・うん」

私も長い間、離れていたと言う感じが全く無く、素直にお園と一緒に寝室に入り、
布団の上に身を横たえました。
「独りで、眠れるようになりました?」
「だって、お園が居なくなったんだもの、独りで寝るしかないじゃないか」
「淋しかった?」
「別に・・・」
「じゃあ、あたしが戻ってきても、坊っちゃん、独りでお休みになれますね」

私は返事をしませんでした。もちろん、ひとりで眠れない訳ではありません。
直ぐ傍にお園が座ったのでプ〜ンとお園の匂いがしてきます。懐かしい匂いでした。
お園の胸に顔を埋めて、その匂いに包まれながら眠ったとき事が甦ってきます。
なんとなく安心し、甘えたい気もしてきました。
自分では来年は中学生だと言うことを自覚していたのですが、
まるで小学校の低学年の頃に戻ってしまったようなきもちでした。

「独りで?だって、お園はいるじゃないか・・・一緒じゃないと!」
「まあ、ダメねえ・・・しょうがない坊や」
お園は急に笑顔になり、私の布団の中に入ってきて体を並べ、
私の頭の下に腕を入れてきました。プ〜ンとまた一段と強くお園の匂いが
漂ってきます。そんな女の匂いを思わず精一杯吸い込んだ私です。

柔らかな乳房が、目の前にあります。首筋から胸にかけての肌が白っぽく、
ふっと私は引き寄せられるように、その乳房に手をのばしていました。
浴衣の衿元を広げて乳房をつかみ出し、乳首に吸いつきます。
不思議なくらい私はごく自然に乳首に吸い付いていましたし、
お園も何も言わずに乳房を私の口に押し付けたままでした。

私はドキドキしていました。こんな事をしても良いのだろうかと言う複雑な思いでした。
しかし、別に悪い事をしているという風な気持ちはなく、懐かしさの方が強く、思わず
ギューッと掴んでしまい、硬い乳首を舌先に感じて吸うというよりも嘗め回していました。

「あっ、ふう・・・!」
お園の腕に力が入り、私の頭を自分の方に引き寄せます。
お園は溜息をついていました。
そして下半身を私の方にぐっと近づけ、足をからめてきます。

私の全身を抱き締める恰好になりました。そのとき私はチンポがムクムクっと
大きくなるのを感じました。掻いような、くすぐったいような感じがしてきます。

今時の子供たちと違って、その当時の少年は、ほとんど性的な知識はありません。
ましてや、お坊っちゃん育ちの私は性的な事など一切知りませんでした。
ですからお園の乳房を掴み、乳首を吸っても、それは乳母に対する懐かしさと
甘えであって性的な興味からではありません。

お園の匂いにしても、女っぽさと言うよりも、お園の匂いに対する愛着であって、
女性の匂いに魅力を感じたとか、惹きつけられたと言うものではありませんでした。

チンポが硬くなったのも、それは自然現象であって、女体に触れて刺激されて
興奮したと言う意識は、まったく感じていません。むしろ不思議に感じたといった
ほうがいいでしょう。なんで硬くなったのだろうかと言うような感じです。

しかし、お園は大人の女。しかも夫に先立たれたとはいえ、
女の悦びを知っている女であり、性的知識は豊富で、
肉体的に飢えている状態のときです。敏感に私の変化に気付いたようです。
「あら、坊っちゃん・・・」と呟き、ニコリと微笑みました。

私は、なぜお園が微笑んだのか、その時の理由は全く分かりませんでした。
こういうことの総ての理由が判ったのはずっと後のことで、私自分が様々な
女性との交渉をもつようになり、女の気持ちが分かる様に成ってからの事です。

そのときは、一切私はお園の気持ちは判っていませんでした。
私は単純に一緒に布団の中に入り、私を抱く事ができ、
懐かしさにお園は嬉しがっているのだろうとしか考えられませんでした。


性の謎を教えてくれた乳母。其の三


◇深く咥えて大丈夫?◇

私はいっそう強くお乳を吸い、乳房を鷲掴みにし、体をびっくりくっつけ、
足をからめられると、太股の間に下半身を押し付けていました。
ムッチリとした太股は温かく、肉の弾力も快くて肌は滑らかで、スベスベしていました。
それに股間を押し付けると硬くなったチンポが何ともイイ気持ちなのです。

「そうそう・・・前にオチンチンを吸ってあげたことがありましたね」
突然、お園がそう言って体を動かすと、布団の中に頭を突っ込んで来ました。
そして私のパンツをさげてチンポを掴み、
「まあ、坊っちゃん、ほんとうに大きくなられて・・・」と言いました。
私はお園に褒められ、何となく誇らしげな気分に成って居たようです。

「もう皮が剥けてもおかしくありませんよ」
お園がチンポを弄くりながら言います。そして口に吸い込みました。
「アッ・・・!」

くすぐったい気持ち良さに私は仰向けに成って、お園がチンポを吸い易いようにしてあげます。
掛け布団がはずれてしまいましたが、
其の方が体が楽で、お園がチンポを吸う姿も良く見えました。

お園はチンポに頬づりして根元の方をギュツとつまみ、
真っ直ぐにチンポを立てペロペロと嘗め回します。
「あら、毛も生えてきたのですね。よかったわぁ」
と言って、チンポの根元の上まで撫でまわします。

正直なところ、私はちょつと悩んでいました。そこに毛がうっすらと生えだし、
産毛がちょつと濃くなった程度なのですが、その中で一本だけが長めでした。
何でそんなところに毛が生えるのか判りません。

家族風呂ですから他の人達の裸体など見たことがありませんでした。
男の体で胸や足などに毛が生えているところは見たことがあっても、
チンポのそばに毛が生えるなどということは、全く知らなかったのです。
そして、お園になら訊いてもいいだろうと思いました。

「いいの?そこに毛が生えても・・・」
「もちろんです。毛がなかったら大変よ!」
「お園にも・・・」
「ありますよ。ちゃんと・・・坊っちゃん、触った事あるでしょ?」
「・・・知らない」
「あらまぁ、忘れちゃったんですね。それじゃあ、見せてあげますよ」


浴衣の裾をまくり上げて、お園は股間を露出してくれました。
確かに、そこにはモジャモジャした毛が生えています。
「ちゃんと、生えてるでしょ。坊っちゃんだって、もう少し経てば沢山生えてきますよ。
 お園は安心しました。子供じゃなくて・・・もう一人前。
 立派なおとこ・・・ここから白いお汁だって出るでしょ」
「えっ、知らない・・・」
「もう、ちゃんと出てますよ。でも、誰も教えてくれなかったのね。
 お園が教えてあげますから安心していいですよ」

私には、お園の言っていることは判りませんでしたが、
お園が戻ってきてくれて本当に助かったと思いました。
そしてお園だったら、何でも教えて呉れると言う安心感に浸りきっていました。

そう言われれば、お園が家からいなくなる前に、
股間に触ったことがあったなぁと思いだしました。
チンポを吸われた事もハッキリと・・・。

チンポを吸われたことがあったと思い出すと、急にもっと強く吸って欲しいと言う
衝動に駆り立てられます。まるでそんな私の気持ちを見透かしたように、
お園は真上からチンポを口の中に入れ、根元を左手で押さえて強く吸い込み、

舌先を筒の上に当て、一寸だけ先っぽから出ている亀頭の部分を撫で回し始めたのです。
「あっ、ううんッ・・・」
強烈な快感でした。腰のほうまで吸い上げられるような気がしました。
お園が根元を手で押さえていた指を上下に動かしだし、しかも皮を引っ張るようにします。
「あっ、痛いッ・・・」
思わずお尻を上げてしまいます。その瞬間、亀頭全体が皮からペロッと飛び出しました。

それまで間違いなく包茎だったのですが、勃起して巧みに手と舌とで皮を剥かれたのです。
剥かれた瞬間、ほんの少しだけ痛みと言うか、皮がまくれる圧迫感みたいなものがありましたが、
たいした事は無く、我慢出来ないようなものでは有りませんでした。
むしろ、さっぱりしたようなスッキリしたような爽やかさがあり、舌の感触、口の中の濡れている
感じがいっそうはっきりとしてきて、くすぐったいような快感も強く感じられ、
私は快感の呻き声を上げていました。

「皮が剥けましたよ。ちゃんと皮が剥けて・・・ああ、おいしい・・・」
お園が呻きながら更に強く舌を動かし、口の奥へ奥へとチンポを吸い込んで、
皮を引っ張り下げていた指を、上下に動かしてチンポを抜き出しました。

ぐっぐっくっとお園の喉奥にチンポが入っていきます。
私はお園は大丈夫だろうかと心配になりましたが、
頭の芯がぼうっとして心配よりも気持ちよさに痺れていました。
そして睾丸袋の中から、尿道をふくらませて何か飛び出していくのを感じました。
その時が最も気持ちのいい瞬間で、本当になにも分からなくなっていました。

ドクドクと言うような、ビューッというような、我慢を堪えていた小便を、
いっきにほとばしらせたときのような心地よさの何倍もの快感がありました。


性の謎を教えてくれた乳母。其の四


◇これが“オマンコ”だ◇

私はいつの間にか丸裸、そしてお園も丸裸になっていました。
「ほら、言った通りででしょ。白いお汁がでたでしょ」
股間から顔を上げて、お園は向きを変えて口を開けて私に見せました。
舌の上にはどろっと粘着質の白い液が溜まっていました。
それを舌の上から、私の胸にヨダレを垂らすかのように、
タラ〜ッと垂らし、残ったものをゴクッと飲み干します。

私は一瞬、汚いと思いましたが、お園が微笑んでいるのを見ると、
ゾクゾクッと背筋が震えるような感動を覚えました。
淫らで、いやらしい感じがしました。同時にもの凄くお園が綺麗にも見えました。
お園が嬉しそうなのも不思議に思ったのですが安心でき、
私が放出した精液が美味しかったのだと思いました。

「お園も出るの?」
「出ますよ、吸ってみます?」
「ン・・・?」
お園は突如、私の顔の上に跨り、少し後ろに体をずらせて股間に手を入れ、
陰毛を上の方にかき上げて変色したシワくちゃのものを左右に拡げます。
それが陰唇という部分だと言うことは、後で教えられたのですが、
男の性器ととはまるで異なり、濡れた粘膜は醜悪で、
決して綺麗なものとは思いませんでした。

しかし、それを拡げて見せられると、その下は桃色をしていて、
頭が吸い込まれていくような錯覚に捕らえられ、私はじいっと見入ってしまいましした。
「ほら、ここに穴があいているでしょ。ここに口をつけて吸えば、
 白いお汁が出てくるんですよ」

と、言いながら、お園は私の口にその部分を押し付けてきました。
「あっ、臭い」と、咄嗟に私は思ったのですが、プ〜ンとお園の性器の匂いが強く
鼻を刺激してきたので、汚いという感じはなくなっていました。寧ろ夢中で吸いました。

確かに口の中に白いお汁が入ってきます。ズルズル、チューっと吸っているうちに、
私はその形とか、汚いと思ったことなど忘れていました。


鼻の頭にお園の毛が触ります。穴の中に舌を入れて舐めると、
お園が変な声を出します。それが面白くなり、ガボッと咬みついていました。
「あっ、坊っちゃんッイヤッ・・・ああッ」
イヤならお尻をどかせばいいのに、お園は逆に私の口にソコを押し付けてきます。
そして、後ろ手に私のチンポをギュッと握り締めてきました。

また私はいい気持ちに成り、夢中でお園のオマンコを吸い続けます。
オマンコとていうのは、後で女性器のことだと教わりました。
そしてオマンコするっていうのは、性器にチンポを入れると言うことも教わったのです。
とにかく、その時は私はソコは女のチンポだと思っていました。

穴の上の方に小さな突き出したものがあり、そこからきっと小便が出るのだと想像し、
お園がチンポを吸ってくれて気持ちよかったので、私もそれを重点的に吸い続けました。
舐めたり、咬んだりしていると、白いお汁はごく自然に出てきました。

「ああ、坊っちゃん。ソコ、そこがいいの。あはっ、いい、いいです。
 気持ちいい・・・いじって、穴に指を入れて弄って下さい・・・
 ああ・・・もっと、そう、奥のほうまで・・・」
私はしゃがんだ恰好をしたお園の股間の穴に指を入れてかき回し、
口をつけて吸い、突き出した肉粒に咬み付きます。

お園が気持ちよさそうなので、私はこうすればお園は悦ぶのだと知りました。
すると、お園は体の向きを変え、濡れる光るオマンコを私の口に当てたまま
私のチンポに吸いつきました。頭を上下に激しく動かしながら、
お尻も左右に動かして、私の口にオマンコを擦り付けます。

私の目の前にはお園の大きなお尻があります。それはまん丸で、スベスベしています。
アゴをザラザラしたお園の毛で擦られました。鼻にお尻の穴がぶつかります。
プ〜ンと大便の匂いがしましたが、どういうのか、それがイヤな匂いではなくて
お園の匂いと混じり、頭の芯が痺れ、元気が出てくるように感じるのです。

言い換えると、もの凄く暴れたいという感じでした。そして、肛門に鼻がぶつかり、
擦れても逆に息を大きく吸い込み、その匂いを嗅いでいました。
ところが、そこでまたお園が動きました。
「ああ、坊っちゃん、入れて下さい。いれますよッ」
と叫び、ふたたび体の向きを変えて、私の上に覆い被さってきました。


性の謎を教えてくれた乳母。其の五


◇夜毎の嬉し泣き◇

お園は覆い被さりながら私のチンポを握り、オマンコに押し当てて、ドシンッと大きな
お尻を落としました。
「あッ、入りました、入りました・・・ああ、気持ちいい・・・」
私にはどういうことなのか判りませんでしたが、チンポがヌルヌルとした穴の中に
入るのは感じましたし、それが全体的に締め付けられるのも感じました。
まさにお園のオマンコにチンポは吸い込まれていったのです。

お園は取り乱して私の口に吸い付き、舌を入れて、ハァ、ハァ、と荒い息を吐き出し、
やたらにお尻を動かし、胴をくねらせ、乳房を私の胸に押し付けます。
さらにお尻を激しく上下に動かしました。

チンポがお園のオマンコから出たり入ったりして擦られました。
「あッ、お園、ヘンだよ、ヘンだ・・・」
私はさっき小便を漏らしたときのような事が、起こりそうな感覚がしてきました。
「待って、坊っちゃん、待ってて・・・もう少し、もう少しですから・・・」

上体を起こし、お園は両手を私の体について支えると、
さらに激しく体を上下に動かし始めました。乳房がプルンプルンッと
上に下に大きく揺れます。すると、お園の顔が急に険しくなり、
怒ってるような、泣いているような顔になりました。
「お園、どうしたのッ、お園・・・?」

私は両手で上下に揺れる乳房を掴みました。それは乳母の乳房を揉むと言う
揉み方ではなく、揺れるのを押さえるように力一杯掴んでいました。
「あああっ、坊っちゃん・・・いいィーッ」
お園がのけぞり「あっ、危ない、後ろに倒れる」と思ったとき、
反動をつけるように前にどさっと倒れてきました。

その瞬間、チンポがまるでもぎ取られるような衝撃を感じ、
先ほどのようにチンポの先端から白いお汁が、ドクッドクッとほとばしり出ていったのです。
「うーッ」
くらくらとっと目眩がして、私は何とも言えない心地よさに、うっとりとしてしまいました。
白いお汁が出ていったときの快感は二度と忘れられません。


最初のときも、そして二度目のときも、私は素晴らしい快感に襲われ、
嬉しくてたまりませんでした。
体の下からお園の体に抱きつきながら、その重みに堪え、
その気持ちよさにぼうっとして、私はそのまま眠ってしまいました。

翌日、お園は私の家の手伝いをしてから、夜になると再び布団を敷きに来ました。
「坊っちゃん、これからは私と一緒に寝て下さいね」
もう乳母としての添い寝ではなく、お園のほうが淋しいから独りでは寝られない。
と言うのです。もちろん、私は大喜びでした。

その夜は、三十過ぎて熟れきった女体を私の前にあますところなく露出し、
私の射精(これも後でその言葉を知ったのですが)を手伝ってくれました。でも、
彼女は最初の時とは異なり、私にいろいろと要求し、厳しく手ほどきをするのでした。

「そうっと、オッパイを赤ちゃんのように吸うのではなく、
 乳首を舐めたり、咬んだり、撫でたり、揉み揉みしたりするんですよッ」
「よ〜く見ながらやるのよ。あッ、ソコじゃない、もう少し上よ。
 そう、そこよッ!あッ、もっとキック・・・」

お園は太股を広げ、私を這いつくばらせてオマンコを舐めさせたり、
しゃぶらせたり、指をつっこませたりさせました。

その豊満な体は戦時中の苦労を忘れたように、私の家に戻って来てからは輝き出し、
脂肪もたっぷりついて、全体が丸くなり、悩ましい曲線にフチどられ、
精力がみなぎり溢れていて、オマンコの白いお汁も最初の頃より
沢山溢れ出るようになりました。

私のチンポも、次第にチンポというよりもマラと呼ぶにふさわしく男らしい猛々しい逸物となり、
陰毛も生え揃い、オマンコに挿入すると毛と毛が擦れうあ様になりました。
「あッ、ああッ・・・」
お園が我を忘れて喘ぐ声が、次第に高くなり、逆に私は家の中の誰かに
聞かれてしまうのではないかと心配になったくらいです。

私は充分に女体を知り、いろんなやり方も覚え、
お園が悲鳴をあげるほどにテクニックが上達すると、
お園だけでは物足りなくて、他の女ともオマンコをするようになりました。
お園の体を抱かなくなったのは、私が東京の大学に通うようになってからです。

END

17. 中川隆[-12579] koaQ7Jey 2019年1月31日 08:52:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

溝口健二 近松物語(大映 1954年)

監督 溝口健二
脚本 依田義賢
音楽 早坂文雄
撮影 宮川一夫
配給 大映
公開 1954年11月23日


動画
https://www.youtube.com/watch?v=JoepTq9tmfw
https://www.youtube.com/watch?v=xud7n9bxWs4
https://www.youtube.com/watch?v=NuXn1AI3Bj4
https://www.youtube.com/watch?v=6QWNmxdJIOA


キャスト

茂兵衛:長谷川一夫

おさん:香川京子

お玉:南田洋子

大経師以春:進藤英太郎(東映)

助右衛門:小沢栄太郎

源兵衛:菅井一郎

岐阜屋道喜:田中春男(東宝)

院の経師以三:石黒達也

おこう:浪花千栄子

鞠小路侍従:十朱久雄
公卿の諸太夫:荒木忍
赤松梅龍:東良之助
僧侶:葛木香一
黒木大納言:水野浩(東映)
検校:天野一郎
お蝶:橘公子
船宿の女中:金剛麗子
茶店の老婆:小松みどり
おたつ:小林加奈枝
おその:仲上小夜子
おかや:小柳圭子
堅田の役人:伊達三郎
宿の番頭:石原須磨男
切戸の庄屋:横山文彦
村役人:藤川準
梅垣重四郎:玉置一恵

近松門左衛門作の人形浄瑠璃の演目『大経師昔暦』(だいきょうじ むかしごよみ、通称「おさん茂兵衛」)を下敷きにして川口松太郎が書いた戯曲『おさん茂兵衛』を映画化した作品である。脚本は、近松の『大経師昔暦』と、西鶴の『好色五人女』の「おさん茂右衛門」の二つを合体させたものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%9D%BE%E7%89%A9%E8%AA%9E


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近松物語:溝口健二の世界

溝口健二の映画「近松物語」は、近松門左衛門の世話浄瑠璃「大経師昔暦」を下敷きにしている。近松はこの浄瑠璃を、30年以上も前に起きた事件に取材した。それは「おさん茂兵衛」と呼ばれた不義密通事件で、男女の不幸な愛の顛末が民衆の深い同情を呼んでいた。そこで近松は、二人の三十三回忌にあわせて、この事件の顛末を世話浄瑠璃に仕立てたのである。

この事件というのは、京都の大経師以春の妻おさんが手代の茂兵衛と不義密通したというもので、丹後の国に逃げたところを捉えられて、二人の間をとりなした下女のお玉ともども、洛中引き回しの上、粟田口で処刑されたというものである。徳川時代には、不義密通はもっとも重い犯罪であり、露見すれば死罪を免れず、本人たちはもとより、その間を取り持っただけの人間まで処刑されたわけである。

この事件を文芸作品に取り入れたのは、西鶴が最初だった。西鶴はこの事件の二年後に、好色五人女の話の一つとして、この事件を書いた。西鶴は例によって、おさん茂兵衛の恋も、好色な男女の間の色恋沙汰として描いている。したがって不幸な男女への同情といったものはない。二人の死は自業自得のこととして、突き放した視点から見られているのである。

これに対して近松は、二人は好色な気持ちから密通をしたのではなく、運命のいたずらに翻弄された不幸なカップルとして描き出している。西鶴におけるように、二人は互いに愛し合っているわけではなく、たまたま不義密通という、たいへんな事態に落ちこんでしまった、運の悪いカップルなのだ。

近松の浄瑠璃の筋書きは、次のようなものである。大経師以春の妻おさんは、実家から金を無心されるが、夫の以春に遠慮して、手代の茂兵衛に相談する。茂兵衛は主人の印鑑を借り出して、それで金を借用しようとするが、主人に見破られて、問い詰められる。するとそこに下女のお玉が出てきて、そのお金は私から頼んだのですといって、なんとかとりなそうとする。おさんは後で、お玉に礼をいうが、思いがけないことを聞かされる。意俊が毎晩のように寝室にやってきて困っているというのだ。そこでおさんは、自分がお玉の替え玉となって、忍び込んできた意俊を懲らしめようとする。

一方、茂兵衛のほうは監禁されていたところを抜け出してお玉の部屋にやって来る。昼間にお玉が自分をかばってくれたことに対して、礼をいうつもりだったのである。ところがお玉の部屋には思いかけずおさんがいた。そこへ以春がやってきて、二人は不義密通をしていたことにされてしまうのである。

二人は何とか逃亡して丹後まで逃げていくが、大経師の家に出入りしていた百姓に見とがめられて、ついに捕まってしまう。一方お玉の方は、二人をどん底に突き落とした責任の一端を感じて、みずから進んで叔父に切られて死ぬのである。

近松のこの筋書きを、溝口はおおむねの所採用している。しかし、決定的に異なる部分がある。それは、おさんと茂兵衛は、単に不義密通をしたのではなく、深く愛し合ったというふうに作り替えた点である。それ故、この映画は、不幸な男女の悲恋物語としての性格を持つに至った。悲恋でも特別の悲恋、誰もが胸を塞がれるような、とびきりの悲恋物語になっている。

映画は、大経師の家の前を、市中引き回しの行列が通り過ぎていくシーンから始まる。馬上には縄で結ばれ合った男女が乗り、高札には、この者どもは不義密通をした咎で、磔に処せられる旨が書いてある。やがて二人は並んで十字架に磔になる。その光景が、おさんと茂兵衛の運命を暗示しているわけである。

前半はほぼ、近松の筋書き通りに進んでいく。おさんを演じるのは香川京子、茂兵衛は長谷川一夫、お玉は南田洋子、以春は進藤栄太郎である。

前半では、おさん茂兵衛は互いに愛しあっているようには見えない。二人は主人の妻と手代の関係であり、茂兵衛はおさんをお家さまと呼び、おさんは茂兵衛を呼び捨てにする。

二人の関係が劇的に変化するのは、琵琶湖での心中未遂の場面からである。世をはかなんだおさんは死ぬ決意をし、それに茂兵衛もお供することとして、二人で船に乗って琵琶湖に身を投げようとする。その時に、茂兵衛が思わぬ告白をする。以前からおさんを慕っていたというのだ。それを聞いたおさんは、俄然態度を変え、こう言い放つ。「おまえの今の一言で、死ねんようになった、死ぬのはいやや、生きていたい」

おさんのこの言葉が、この映画の全体を語っているといってもよい。この言葉によって、二人は恋人同士として、本当に結ばれるのである。そして結ばれた二人は、なるべく長く生き続けようとし、生きている限りは愛しあおうと決意するのである。

しかし、二人には、あまり残された時間はなかった。丹後の山中に潜んでいたところを捕まえられ、いったんは引き離されてしまう。この時点では、以春は事件を公にするつもりがなく、闇に葬るつもりだった。二人を引き離しておさんを連れ帰れば、なんとか表沙汰にならずにすむだろうと考えていたわけである。また、おさんのほうも、ここで茂兵衛をあきらめていれば、あるいは死なずにすんだかもしれない。

しかし、おさんには茂兵衛と別れることはできなかった。以春から実家に預けられ、思案しているところに、これも父親の愛によって助けられた茂兵衛がやって来る。おさんの母親(浪花千栄子)は、おさんの思いを遂げさせようとするが、おさんの兄が後難を畏れて、密告する。こうして捉えられた二人は、市中引き回しになって、処刑場へと向かっていくのである。

このように溝口は、おさん茂兵衛の物語を、たんなる好色や不運な巡り合わせということにとどめるのではなく、悲恋物語として描いた。そして、男女の純粋な愛が、様々な封建的束縛によって押しつぶされていく過程を、怒りをこめて描いた、といえるのではないか。西鶴一代女のなかでは、身分不相応の恋をした男(三船敏郎)が、愛し合うことの何処が悪いのかと叫んだわけだが、この映画の中でも、その叫びと同じものが響き渡っている。おさんが、「茂兵衛、茂兵衛」と絶叫する声が、その響きを象徴しているのではないか。

溝口の他の作品と同様、この映画の中でも、極悪人といってよいような男たちが多数出てくる。以春も悪党として描かれているが、それはまだ生ぬるい悪党で、モットひどい奴らが沢山出てくる。なかでもひどいのは、おさんの兄だ。この兄(田中春男)は、妹に金の無心をし、その金で放蕩放題をする一方、おさんと茂兵衛が自分にとって危険と察すると、さっさと密告して、二人をどん底に突き落とすような真似をするのである。こうした悪漢は、これまでの溝口映画には常に出てくるキャラクターなのだが、こんなに悪どいキャラクターは前後に見当たらぬほどだ。

その一方、おさんと茂兵衛の純真な心が観客の胸を打つ。香川京子は気品を漂わせながら愛に生きる女を演じ、長谷川一夫は最高の二枚目ぶりを発揮していた。溝口の映画では、二枚目というのはとかく情けない男として描かれるのが通例であるのだが、長谷川一夫演じる茂兵衛は、二枚目でありながら、芯のしっかりした男らしい男として描かれている。これは、長谷川一夫という俳優の雰囲気がそうさせた面もあるのだろう。

こんなわけで、溝口晩年の名声高き四部作のうち、この映画は独特の輝きを放っている。最後の場面で、馬上の二人が、互いに手を結び合い、見つめ合いながら、幸せそうな表情をする。その表情が、見ている者の心まで洗い清めてくれる。そんなところが、筆者にはたまらない魅力として映るのだ。
https://movie.hix05.com/mizoguchi/mizo108.tikamatu.html

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溝口健二監督「近松物語」

溝口健二監督「近松物語」は確かに名作だ。しかし、何度考えてもちょっと複雑な気持ちになる映画だ。


時は江戸時代。所は京都。若く美しいおさんは、武士同様の格式を持つ裕福な大店の内儀である。主人は商売はやり手だが吝嗇で、若い女中に手を出すような好色爺だ。おさんに金の無心に来る母と道楽者の兄。この縁組は、経済的に苦しいおさんの実家が、金銭的援助を当て込んで成立させたものだ。

おさんの立場は弱く、まるで実家から差し出された人身御供だ。
もっとも、一番理不尽に虐げられているのは、好色爺に手籠めにされつつ「奉公人は耐えるしかない」「腹に収めろ」と手代の茂兵衛に諭される女中のお玉だろう。

封建的身分制度社会、不平等は当たり前というわけで、江戸時代、こんなものなわけだが、やはりなんとも理不尽だ。


兄の借金の申し込みをどうしよう。という話をおさんが茂兵衛に相談し…内儀が奉公人に金の工面の相談って、そりゃ筋が違うし内儀失格でしょ、に始まり、茂兵衛が、主人の印を不正利用して金を工面しようとして同僚にみつかり…と、ダメダメな対応が積み重なる。
そして、あれよあれよという間に、様々な偶然も重なり、おさんと茂兵衛に不義密通の嫌疑をかけられ、2人は逃走する。共通するのは「もうあの家はいや」ということ。江戸時代の価値観的には、最重要とされる嫁ぎ先、奉公先の「家」が心からいやということだ。
といっても、もともと茂兵衛がおさんを「お慕い申して」おり、おさんも茂兵衛を憎からず思っているのは明らかだ。2人の逃避行は、おさんが割と強引に茂兵衛を誘っていて、おさんがイノセントな悪女にすらみえる。しかし、腹を決めてことにかかっているというわけでもなく、おさんは追っ手に動揺し、追っ手は振り切れないと心中を決意する。

有名な水上での小舟のシーンは彼岸の美しさだ。琵琶湖での入水直前の茂兵衛がおさんへ想いを告白し、おさんが「死ぬのは嫌や。生きていたい」ときっぱりとした生への希求へ転換する。

そして追っ手のかかる中、展望のみえない逃避行が続けられることになる。


恋愛というものが魅力的なのは、それが社会制度(当時の封建的身分制度)やしがらみを打破するような破壊力を持ちうるからだ。

このまま不義密通の嫌疑事件がなかったとして、おさんと茂兵衛の人生が「幸せ」であったかといえばそうは思わない。

おさんは厄介な実家を抱え、お金の引け目で弱い立場だし、茂兵衛は手代という奉公人の立場であり、出世したにしても身を粉にしてお店のため働くだけの人生だったろう。

2人とも、個人の幸福を追求するなどということは人生でついぞなかった可能性が高い。

しかし2人は、ひょんなことから、自らの意思で恋愛という「我儘」を押し通すことになる。

2人は茂兵衛の実家に逃れたものの、おさんは追手に捕まり、連れ戻される。

茂兵衛は捕えられたが逃げ出し(逃がした茂兵衛の父親は多分殺されただろう)、おさんのもとに向かう。

おさんの実家の場面は、母と兄がエゴ丸出しという意味でなかなかの名場面だと思う。
おさんの母と兄はとにかく婚家に戻るよう、激しく責めたてる。もともと、こんな事態を招いた発端は、母と兄の度重なる金の無心なわけだが、そこに言及はしない。
「帰れ」と吠える兄は正直者だ。おさんの母の説得がありがちでリアルだ。

「おっかはん、あんたの気持ち、よーお分かりまっせ」
どう分かってるんだ???
「大経師(おさんの婚家)や岐阜屋(おさんの実家)のためを思うて言うのと違いまっせ。大経師に帰ることが一番あんたの身のためやと思う」

これははっきり大嘘だ。正しくは「わてらのためにお願いだから帰ってくれ」だ。しかし、これと同じような台詞を聞いたことのある人も、言ったことのある人も、沢山いるだろう。「自分の都合のために他人に我慢を強いる」ことはなかなかあからさまに言えない。そして真っ赤な偽善が登場する。自己の保身のためなら、こんな台詞も真顔で言ってしまえるのだ。人間は。

そこへ茂兵衛がやってくる。再会した2人は、おさんの母の説得にもかかわらず、別れることをきっぱり拒む。
おさんは、実家のために生きる人身御供的な人生を拒むのだ。

そして不義密通の罪で市中引き回しの上、磔となることすら甘受する。
最後、2人は罪人として馬上にあっても晴れ晴れした顔で刑場に向かう。  


1954年のこの映画にある価値観は、江戸時代のものではなく、近代のものだ。
「個人が幸福を追求することをきっぱり肯定する」というメッセージが明らかで、私はこの作品がとても好きだ。


しかし、この映画を観終わったとき私は怒りさえ感じていた。何に?
茂兵衛役の長谷川一夫に。

まず、最初の登場シーンで「げげっ」と思ってしまった。
茂兵衛初登場は、「どうしても茂兵衛でないとあかん」という客がきた、と呼ばれて、病床から茂兵衛が起き上がるシーンである。茂兵衛は働き者の手代という設定のはずなのに、茂兵衛が起き上がった瞬間、「いや、この人、相当祇園で遊んでるでしょ。なにこのしたたるような色気」と思ってしまった。どうみても「貧しい山奥出身で丁稚奉公からたたき上げた働き者の手代」じゃない。

とにかく全編を通じて、長谷川一夫は、「自分をどう美しくみせるか」ということに注力している。
その意味では確かにプロである。一つ一つの所作も実に美しい。

しかし「作品や役を理解して表現する」という発想は彼にはない。

ラストシーンに至っては、引き回されている2人を仰ぎ見るかつての同じお店の奉公人の「お家さんのあんな明るいお顔を見たことがない。茂兵衛さんも、晴れ晴れした顔色で。ほんまに、これから死なはるんやろか」という台詞の後、馬上の茂兵衛の顔が映されるのだが、茂兵衛の顔は伏し目がちでちっとも晴れ晴れしていない。むしろドナドナだ。

どれだけ台本無視。

仮にラストの台詞がなくて長谷川のあの表情で終わったとしたら「おさんの恋情という狂気にひきずられた哀れな茂兵衛。ファムファタルにより破滅させられた男の物語」になってしまう。

それはそれでありな作品だ。
しかし台詞とそれに対応する表情がまったく違うというのは無しだろう。

私としては「折角の名作なのに。茂兵衛役が長谷川一夫なことで残念な作品に」と思ってしまったのだ。

「大人の事情」を考えると長谷川一夫の振る舞いは正しいのかもしれない。

二枚目スター長谷川一夫の起用は、社長命令で決まっていたことだったという。

映画は膨大な製作費がかかる。興行的に失敗することは極力避けたい。
集客したいからこそスターである長谷川一夫を起用したわけだ。
そして長谷川一夫ファンの女性達は当然「かっこよくて色気のしたたるような二枚目の長谷川一夫」を期待している。
むしろ、台本に忠実に「素朴で働き者の茂兵衛」を演じたら、期待に肩すかしを食わされた長谷川ファンから大ブーイングをくらっただろう。

茂兵衛という役を設定に忠実に表現するメリットは、長谷川一夫にも映画会社にもなかった。

自分に求められている役割は何かということを長谷川一夫は正確に知っていたし、それは溝口健二監督も同様だっただろう。

そう思うと、監督の意図ガン無視であっても長谷川一夫は正しい。

でも。

私は溝口健二監督が妥協なく撮った「近松物語」を観たかった。茂兵衛役はちゃんと「茂兵衛」であって欲しかった。そして、最後は晴れ晴れとこの世のしがらみから解放され、突き抜けた、ある意味での勝者であって欲しかった。
客観的に状況をみれば、2人はおさんの嫁ぎ先の商家を取り潰して借金をチャラにしたい、また、今ある利権を簒奪したい者どもの思惑にまんまと利用されて、さらし者にされ磔になる哀れな弱者である。
しかし、2人の主観としては違う。2人は例え社会の秩序を壊そうとも、周囲を破壊しようとも、己の意志を貫き「生きた」のだ、というコントラストがちゃんとみたかった。

未練がましくそう思ってしまう。
http://d.hatena.ne.jp/falken1880/20130907

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溝口健二の1951年の映画に『お遊さま』というのがある。これは谷崎の『蘆刈』を映画化したものなのだが、あまり有名な作品ではない。確かにところどころ、溝口らしいきれいなカットはあるのだが、そこまで目を引くようなものがないのだ。これはどうもキャスティングによるところが多いような気がする。お遊を演じるのは田中絹代、おしずは乙羽信子である。有体に言ってしまえば、この映画の中で圧倒的な存在感を放たなくてはいけないはずの田中絹代が乙羽信子に喰われかけてしまっているのだ。

 そうした役者のパワーバランスを考慮してのことかどうかは知らないが、脚本はそこそこ大きな原作からの改変が施されている。映画はおしずと慎之助のお見合いの場面から始まる。そこで慎之助はお遊を見初める。原作にあった枠構造は取り払われているのだが、これは大きな問題ではない。問題はその後で、おしずと慎之助が仮の結婚をしたところからなのだが、ここでクローズアップされるのはお遊、おしず、慎之助の奇妙な関係の方ではなく、「忍ぶ女」としてのおしずなのである。自分を犠牲にしてお遊と慎之助の幸せを願う健気な女としておしずは描かれる。このようなおしずの態度にほだされて慎之助はおしずとの子どもを作る。しかし、おしずは慎之助との子どもを出産する際に、なんとも涙ぐましい感じで死んでしまう。その子供を慎之助がお遊の元へ届けるというところで物語が終わる。映画の後半部ではお遊は半ば退場したも同然となってしまうのだ。たしかにこのようなおしずの新解釈には見るところもあって、興味深かったのだが、全体を通してみるとちぐはぐな印象は避けられない。

 田中絹代は当時四十代前半で、前年に作られた木下惠介の『婚約指環』に出演した際には「老醜」という誹りさえも受けていたらしい。さらにその数年後に作られる『山椒大夫』(1954)では老婆の役 をこなしているくらいなので決して、1951年当時若かったとはいえない。しかし、『お遊さま』におけるキャスティングの微妙さは、彼女の年齢からくるものではない。少なくとも『お遊さま』での田中絹代は年齢を感じさせる容姿、雰囲気はしておらず、乙羽信子と姉妹だという設定にも無理はない。田中絹代にはお遊が持つ浮世離れしたような雰囲気を作ることが出来なかったのだ。

 田中絹代はなんだかヴィヴィアン・リーに似ているような気がして、それは顔の造形が似ているという意味ではなくて、作品の中でのオーラというか立ち位置が似ているということがいいたいのだけれど、二人ともいってみれば強い女性であったり、汚れ役をするのが上手い。ヴィヴィアン・リーも『アンナ・カレーニナ』は全然良いとは思わなかったけれども、『欲望という名の電車』や『風と共に去りぬ』は素晴らしい。田中絹代も『夜の女たち』や『西鶴一代女』はよい。これってつまりは世間の一般的な評価と全く同じで、なんら特別なことや真新しいことは言っていないのだが、観たところそうなのだから仕方がない。

 そういうことで田中絹代を先頭に立てて発進した企画が、途中で、今が旬の乙羽信子を中心にしたものにシフトしていったという経緯を考えてみることもできよう。

 溝口健二が田中絹代に対して恋心を抱いていたというのは有名な話で、この時どうだったのかはよくわからないけれども、ものの本に田中絹代の次のようなエピソードが書いてあった。『溝口健二の世界』の著者、佐藤忠男は国際近代美術フィルムミュージアムの「田中絹代特集」の『お遊さま』の回において田中絹代と会った。そこで田中絹代は『お遊さま』について次のように語る。引用してみよう。

じつはこの映画、この特集のはじめのプランには入っておりませんでしたの。それをわたしがとくにお願いして入れていただきました。この映画を撮ったとき、溝口先生がこうおっしゃったのです。君ももう年で、若くてきれいな役はもうこなくなる。だからぼくが、さいごに君のいちばんきれいな映画をとってあげよう……って (佐藤忠男『溝口健二の世界』平凡社、2006年、422頁)

 なんとも美しい話ではあるが、田中絹代はこの中途半端な作りの映画に納得していたのだろうか。

 そしてここからは完全に僕の邪推なのだけれども、溝口はこの時、谷崎的な「蘭たけた女性」というものを上手く表現できなかったことを後悔して、後にもう一度同じ題材で映画を撮り直したのではないだろうか。その作品というのが1954年の『近松物語』だ。この頃の溝口は乗りにのっていた。『西鶴一代女』、『雨月物語』、『山椒大夫』という傑作をヴェネチア国際映画賞に送りこみ、三年連続入賞させるという稀なことを成していた。『近松物語』は近松門左衛門の『大経師昔暦』を下敷きにした戯曲『おさん茂兵衛』の映画化である。ヒロインのおさんを演じているのは香川京子なのだが、これは非常に当たり役であり、この映画自体は谷崎の作品とは全く関係はないにもかかわらず、谷崎作品のヒロイン像を体現しているかのようである。

 『近松物語』の時代設定は不義密通が極刑となっていた江戸時代。ヒロインのおさんは暦の販売を独占して富を築いていた大経師の御寮人である。卑しからぬ家の出ではあるが、家が零落してしまったために、大経師の元へ嫁に出されていた。しかし、大経師はおさんを遊ばせるだけ遊ばせておいて、自分は下女に手を出している。このあたりの境遇もお遊に似ている。そしてある手違いからおさんは手代の茂兵衛と不義密通の疑いをかけられてしまう。二人で逃避行をしているうちに、本当に通じ合ってしまう、というのが『近松物語』の大きな筋立てだ。

 茂兵衛がかねてから抱いていた恋慕の思いを聞き、心中を嫌がるさまであったり、山中を逃避行するうちに、足をくじいてしまい、茂兵衛の肩を借りているという状況であるのに、一緒に過ごすことが出来て人生で一番楽しいと言ってしまう少しずれたところだったり、おさんの身を案じて一人出頭をしようとして姿を隠した茂兵衛のことを追いかけて叱責をするさまであったりと、香川京子の演じるおさんの行動すべてが雅でやんごとないのだが、そこには谷崎が描く女性像に通ずるものがある。身を隠していた茂兵衛におさんが縋り付くという場面があるのだが、そこで茂兵衛はおさんの怪我した足に接吻を繰り返す。そうしたところもなんだか谷崎らしい。そして『近松物語』で最も美しいシーンの一つに琵琶湖でおさんと茂兵衛が心中をしようとするというものがあるのだが、ここはなんだか『蘆刈』に描かれた山崎を思い出させる。

 そういった感じで、なにかと『近松物語』に、僕は『蘆刈』と『お遊さま』の影をみてしまう。『近松物語』が『お遊さま』の作り直しだという考えは、繰り返すけれども僕の勝手な推測で、何の根拠もないのだけれども、とにかく『近松物語』はよい作品である。
http://ittaigennjitu.blog.fc2.com/blog-entry-31.html

18. 中川隆[-12578] koaQ7Jey 2019年1月31日 08:56:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

溝口健二 西鶴一代女 (東宝 1952年)

監督 溝口健二

脚本 依田義賢

原作 井原西鶴

音楽 斎藤一郎

撮影 平野好美

配給 東宝

公開 1952年4月17日


動画
http://jp.channel.pandora.tv/channel/video.ptv?c1=&ch_userid=jpchan04&prgid=46330510
https://www.nicovideo.jp/tag/%E8%A5%BF%E9%B6%B4%E4%B8%80%E4%BB%A3%E5%A5%B3

キャスト

お春:田中絹代

奥方:山根寿子

勝之介:三船敏郎

扇屋弥吉:宇野重吉

お春の父新左衛門:菅井一郎

笹屋嘉兵衛:進藤英太郎
笹屋番頭文吉:大泉滉
菊小路:清水将夫
菱屋太三郎:加東大介
磯部弥太衛門:小川虎之助
田舎大尽:柳永二郎
お局吉岡:浜田百合子
待女岩橋:市川春代
お局葛井:原駒子
老尼妙海:毛利菊枝
笹屋女房お和佐:沢村貞子
松平晴隆:近衛敏明
重役真鍋金右衛門:荒木忍
重役田代甚左衛門:上代勇吉
丸屋主人七左衛門:高松錦之助
用人篠崎久門:水野浩
笹屋の大番頭治平:志賀廼家辨慶
所司代役人:坂内永三郎
老人:玉島愛造
丸屋の番頭:石原須磨男
貸衣装屋:横山運平
お熊:出雲八重子
お杉:平井岐代子
お仙:金剛麗子
待女柚垣:草島競子
中宿の女将:津路清子
扇屋の客:国友和歌子
女乞食:衣笠淳子
丸屋の仲居おきん:林喜美枝
丸屋の仲居おたま:大和久乃
お春の母とも:松浦築枝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%B6%B4%E4%B8%80%E4%BB%A3%E5%A5%B3


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「西鶴一代女」と「ボヴァリー夫人」「女の一生」「居酒屋」


昨日は、ネットの無料動画で、溝口健二監督を世界的に有名にした「西鶴一代女」を観ましたが、酷く暗い映画で落ち込んでしまいました(苦笑)。

昭和27年の作品です。この作品は、ヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞し、翌年は「雨月物語」、翌々年は「山椒太夫」でも獲得して、3年連続の栄誉を授かり、すっかり「世界の溝口」の名を不動のものとしました。「3人好きな監督を挙げよ」と聞かれた仏ヌーベルバーグのジャン・リュック・ゴダール監督が「溝口、ミゾグチ、みぞぐち」と答えたことは有名です。

今でも、日本よりフランスの方が溝口健二研究家が多いぐらいですが、これ程、暗い映画をフランス人が好むとは意外でした。

田中絹代主演で、若き三船敏郎も最初に登場します。田中絹代演じるお春は、3万石の殿様の側室となって世嗣ぎを産んで頂点を極めたかと思ったら、運命の悪戯で落魄して、苦界に堕ちて、堕ちて、堕ちまくる話で、これ程ついていない女性もいないぐらいです。そんな女性は、フランスにはフロベールの「ボヴァリー夫人」を始め、モーパッサン「女の一生」のジャンヌ、ゾラ「居酒屋」のジェルベーズと結構多く描かれ、なあんだ、薄幸女性は、フランス人好みだったわけですか。
https://keiryusai.com/archives/2413

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西鶴一代女:溝口健二の世界


溝口健二の映画「西鶴一代女」は、井原西鶴の小説「好色一代女」が原作だ。だが、原作を忠実に再現したものではない。ストーリーがかなり自在に変えられているほかに、作品のテーマというべきものが、まるで違っている。西鶴の小説は、好色女の自由奔放な一代記を描いたものだが、溝口健二の映画の主人公はただの好色女ではない。溝口が描いた女は、ある意味で時代の犠牲者だったのであり、彼女は時代の抑圧に耐えなから、人間的な尊厳を失わずに生きたということになっている。

周知のとおり、西鶴の小説家としての原点は「好色一代男」だ。この小説の中で西鶴は、世之介という架空の男に仮託して、人間の好色な業をえげつないまでに描いたのであるが、「好色一代女」もその延長上にある作品だ。世之介を女にかえただけで、人間の好色の本質を追求しようとする態度は共通している。好色一代女の主人公には、男である世之介とちがって名前はないが、一人の女として存在感を持ち、好色なことにかけて世之介に劣ってはいない。彼女もまた、世之介も顔負けするほど貪欲に性的快楽を追求する人間として描かれている。

西鶴の原作では、名前のない女主人公は、宮中の召使いから始まって、踊り子、大名の妾、島原遊郭の太夫、女郎、寺小姓、坊主の妾、祐筆、商家の女中、歌比丘尼等々を経て最後は尼僧で終わるのだが、その間に経験する境遇は、当時(17世紀の日本)において、およそ女性にとって考えられたあらゆる職業に及んでいると思われる。西鶴の女主人公は、これらの境遇を転々と渡り歩きながら、そのたびに男を誘惑して、性的快楽を謳歌するのである。

溝口健二は、原作の女主人公にお春という名前を与えてやったうえで、そのお春が、宮中の女中勤めに始まって様々な境遇を渡り歩き、最期には尼僧となって遍歴するという筋立てについては、おおむね西鶴の作品に負っている。しかし、西鶴の女主人公と違って、この映画の女主人公は、自分の意思で男を誘惑するのではなく、他人の意思に翻弄されて致し方なく身を売るような羽目に陥り、そのたびに身を持ち崩して最後には夜鷹にまで転落する。それでもなお、人間としての自尊心は失わない。そんな高貴な心性の女性として描き上げるのである。この点、溝口一流の女性賛美のひとつの典型であるともいえる。

映画は夜鷹の集団を映すことから始まる。彼女らの一人お春(田中絹代)が、寺の中の羅漢像の群に目をやるうち、その一つの顔が昔の男の顔に重なる。その男とは、宮中勤めをしていた時に言い寄ってきた男なのであった。西鶴の原作では、主人公の女は羅漢像に重ねて今まで出会ってきた男たちの一人一人の顔を思い浮かべることになっており、その中にこの男の顔は出てこない。だから、この場面は溝口特有の仕掛けなのである。

さて、その男(三船敏郎)とお春とはねんごろな中になったのだが、そのことが、封建時代の世には不届き千万というので、二人はお上に逮捕され、男は打ち首、お春は父母ともども洛外追放の処分に付されてしまう、という理不尽な目に合うのである。

男は打ち首にされる際に、言い残すことはないかと役人に言われて、遺言めいた言葉を残す。それは、「何故、男女慕いあうのが悪いのでございます。何故それが不義なのかわかりませぬ。身分などというのもがなくなって、誰でも自由に恋のできる世の中が来ますように。お春さま、真実の思いに結ばれて生きなされ」というものだった。

17世紀の日本人がこんなことをいうとはとても考えがたく、実際に西鶴の原作にも出てこない。溝口健二が勝手にもち込んだ部分なのだが、彼がわざわざこういう言葉を入れたのには、時代背景も作用していたのであろう。この映画が公開されたのは1952年、日本社会は戦後民主主義が花開こうとしていた時代だった。溝口はそんな時代精神を背景にして、男女の自由恋愛の思想を、場違いなところに織り込んだものらしい。

ともあれ、男の遺言を聞かされたお春は、以後「真実の思いに結ばれて生きて行こう」と決意したが如く、次々と数奇な境遇に身をゆだねていくのである。

お春にとって、次の重大な転機は、さる大名の妾になる事だった。世継ぎが出来ず、お家断絶の危機に瀕した大名家が、家臣に妾を探させる。家臣は、妾になる女の条件を記した紙を持って京都にやって来る。だがなかなか条件にあう女が見当たらない。そこへ、野山の園遊会の席上踊っていたお春が目に留まる。彼女のあらゆる部分が、妾になれる女の条件を備えているというわけなのだ。

こうして、大名の妾となったお春は一人の男子を出産する。しかし世継ぎを生んだお春にはもう用はないというわけで、お春はなんだかんだと因縁をつけられて大名家から追い出されてしまうのである。

この部分は西鶴の原作とは違っている。西鶴の原作では、子どもが生まれるとはなっていない。そのかわりに、大名が日に日に衰弱していく。それは大名が女の色香に惑わされ、あまりにあちらの度を過ごした結果であるとして、追い出されるということになっている。

追い出されて実家に帰ってくると、お前の出世をあてこんで借金が増えてしまったので、それを返すために、島原に行ってくれと父親からいわれる。親の欲のために、身を売れと言われるわけである。しかし、お春は反抗することもなく、いわれるままに身を売るのである。

映画ではこの先、商家の女中となっておかみさんの髪を結ったり、やっと持つことをできたささやかな所帯が、亭主を盗賊に殺されることで失ったり、尼寺に世話になるようになったものの、寺の中でセックスしているところを住職に見られて追い出されたり、商家の丁稚と駆け落ちした途端にその丁稚が連れ去られたりと、数奇な人生を送り、その旅に身を一段下へと持ち崩すうち、ついには乞食の境遇に落ちてしまう。

乞食になったお春が寺の門前で三弦をつま弾いていると、ある行列が通り過ぎる。その行列の中心には、お春の子どもが駕籠に乗っている。無論お春にそんなことはわからぬが、何かにせかされるように、その行列をじっと見つめるのだ。

衰弱しきったお春は、夜鷹の集団に助けられ、それが縁になって自身も夜鷹になる。ここで残酷な場面が出てくる。客だと思って男についていくと、あるところに案内される。そこには複数の男たちがいたのだが、お春を案内した男は彼らに向かってお春の顔を見せ、化け猫には騙されるなと忠告する。それがあまりにも人を馬鹿にした話なので、さすがのお春も逆上する。そして、腹いせに化け猫の真似をしてみせる。しかし、もらった金を放り出すようなことまではしない。いくら気位の高いお春でも、さすがにそこまでする気力は残っていないのだ。

ここで、画面は冒頭のシーンにもどるというわけなのだ。冒頭のシーンに続いて、三船敏郎が「真実の思いに結ばれて生きなされ」といった言葉を、お春は思い出すのだが、果して自分の人生は、この忠告に応えたものとなっただろうか。

ここで画面は更に一転して、お春が息子のいる大名家に召し戻されるという話に変る。この運命の急変に、お春は戸惑いつつも喜ぶのだが、その大名家に行ってみると、過酷な話が待っていた。

自分が召し戻されたのは他でもない。大名の世継ぎの母親が売春をしているということが表沙汰になってはゆゆしきことだ。だから、お前を国元に幽閉するというのだ。だが、その前に一度だけ子どもにあわせてやろう、といわれるが、面と向かっての対面ではない。子どもが邸内を歩いている姿を、庭の一隅から遠目に見るだけだというのだ。

お春が庭の一隅に、大勢の家来に囲まれながらかしこまっていると、目の前を子どもが通り過ぎる。子どもはお春の方に目を向けるまでもなく、スタスタと通り過ぎてしまう。その後をお春が追いかける。周囲の家来たちが制止しようとするが、わたしはあの子の母ですと毅然といって、なおも追いかけると、家来たちはみなその場にかしこまる。

そうこうするうちに、お春の姿はどこかに消えてしまい、彼女を乗せて国元に旅立つはずだった籠だけが、無残な姿で取り残される。

このあたりの場面が、この映画のクライマックスといってよいのではないか。お春はこれまでの生涯にわかって、常に他人の意思に服従して生きてきたが、最期には自分の意思を通すわけだ。たとえ自分の息子であっても、息子のために自分の人生を犠牲にするのはいやだ。せめて人生の最後なりとも、自分の意思に従って、自由に生きてみたい。お春のそんな意思が感じとれるのだ。

ラストシーンは、尼僧となったお春が念仏をあげながら、家々を角付して歩くシーンである。お春が念仏をあげると、家から出てきて、お布施をくれる者もいる。窓を開けて両手を振り、追い払おうとするものもいる。だがお春の心はどんなことがあっても乱れない。いまやこの世のあらゆる束縛から解放されて、ひたすら我が道をゆく。そういう悟りの境地が成立している。それ故、念仏の題目は、「請願成就」と聞こえるのだ。

なお、この映画には、日本の伝統音楽が効果的に使われている。浄瑠璃などがそのままの形で使われているほか、伝統的な日本音楽と西洋音楽とをミックスさせて、独自の音の世界を現出させている。その意味でも、この映画には非常に面白いところがある。
https://movie.hix05.com/mizoguchi/mizo105.saikaku.html


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凄絶な陶酔の美学  溝口健二 「西鶴一代女」


今晩は、今日も昨日に引き続き溝口健二の作品を紹介しますね。
紹介する作品は「西鶴一代女」です。この作品はまさに天才溝口による凄絶な一作でした。
今日はYou Tubeで映像を見つけることが出来ましたので、それを最後に紹介しますね。
(尚この記事も再投稿になりますので、一度お読みになった方はご了承下さい)

この作品を初めて見たのが18才位の時、幸運にも銀座の『並木座』のスクリーンでした。しかしその映像の凄まじい呪縛力!まさに監督の溝口自身が完全にこの作品に酔っています!!物事に酔う者が、他の者にその素晴らしさを伝えることができる。この映画は当にこの言葉をそのまま実践して出来上がったような見事な作品です。
また主人公「お春」を描く監督溝口のどこまでも厳しいリアリズムの眼!私にとっての陶酔と呪縛の上映時間は瞬く間に過ぎていきました。

周知のように溝口は戦後この作品を制作するまで全くの不調でした。「歌麿をめぐる五人の女」(46年、松竹京都)や「夜の女たち」(48年、松竹京都)で、幾分の立ち直りは見せましたが、やはり戦前の幾多の名作には遠い出来栄えと言わざるを得ませんでした。そこに黒澤明のような新しい才能の台頭や、時代の流れを敏感に感じ取った溝口の焦りや足掻きを感じることも出来ます。しかし監督としての溝口はこの一作で戦前の幾多の名作を凌ぐ傑作を作り上げました。

映画が始まります。斎藤一郎の箏をフューチャーした格調高い音楽が流れ、クレジット・タイトルが現れてきます。この芸術性の高さ!いかにも溝口作品のオープニングです。

映画のファースト・シーンは荒れた奈良の流れ寺の夜、薄曇に浮かぶ月がさっと黒雲に隠れていきます。
すると「にいさん、にいさん、」と言う声が聞こえ、厚化粧の娼婦お春(田中絹代)が客を引いています。しかし、客は一向に付きません。カメラはじっとそのお春を後ろからワン・シーンで捉え続けていきます。この冷徹なまでのカメラ・ワークと人間観察の凄まじさ!

客が付かなかったお春は寺の羅漢堂へと足を運んでいき、羅漢像を一つ一つ見つめていきます。その内、羅漢像にかつて自分と経験のあった男の面影を見つけていくことになります。「ふふ、似てるわ」!
このあたりの溝口の演出の妙。ここにお春の人生とこの映画の主題が総て集約されています!!お春は積年の疲労からかその場に倒れ込んでしまいます。若い頃のお春は御所に勤める女中でした。しかし運命と男に翻弄され続け身を持ち崩し遂には・・・。

田中絹代の体を張ったような体当たりの演技が見事!彼女はここで、18歳から老年した母親の役までを、溝口の演出に応えて見事に演じ切っています。しかし18歳の生娘を演じて何の違和感も感じさせないあたりは完全に舌を巻いてしまいます!!この時彼女は43歳!!

女優には老年すると引退するか、スクリーンに老醜をさらけ出していくかという2種類のタイプがあります。
前者の代表が原節子とするなら、後者の最右翼がこの田中絹代です。しかしこの後半の老いた母の演技は凄まじい。ここでの彼女の演技は時に震撼をも誘います。また娼婦の実情を若い衆に知らせる世話人に買われ、皆の前で老醜を暴露された後に演じる化け猫の演技の凄み!!

原作は井原西鶴の「好色一代女」、溝口と脚本の依田義賢は原作から主人公の好色の部分を取り除き、
男に騙されながらも恨むことのない無垢な女性像を作り上げます。ここではその狙いがまた見事に成功しています。このあたりはあのフェリーニの「カビリアの夜」(57年)を連想させますが、これはそれに先立つ5年も前の作品です。

しかしこの作品での透徹したリアリズムは見事です。ワン・シーン・ワン・カットとリアリズムは本来相反する技法なんですが、溝口はその両者を見事に融合させ芸術の領域にまで昇華させているのはさすがです。

中でも江戸の松平氏の側室探しのシーンはユーモラスで最高です。溝口は大勢の側室候補を通りに一堂に並べてワン・シーンでこの場を描き尽くします。この演出の妙の見事さ!
映画は落ちぶれたお春が、自分の生んだ松平家の幼い嫡男の籠をじっと凝視するシーンで頂点を迎えます!
カメラはお春の前で止まる籠を映し出し、籠が開きお春がわが子の姿を見た瞬間、音声が総て止まります。お春のこの時の表情とそれに続く嗚咽!!そこに尺八の音楽が流れていきます。このシーンの演出はもう溝口の独壇場で、完全に脱帽!!

ラストはどこからともなく声明が聞こえて、諸国を行脚するお春のシーンで終わります。お春の人生は仏教と出会うことで初めて救済されていきます。この宗教=仏教による救済の眼の確かさ!
また夫であった扇屋弥平(宇野重吉)が殺され、老尼(毛利菊枝)の下へ行くあたりから仏教の無常の概念が色濃く描かれていくのもまた出色の演出です。

これぞ溝口作品の真髄!この作品は溝口芸術の粋を凝集した彼の狂気のような傑作です。
私にとっては「近松物語」(54年)と並ぶ戦後の溝口作品のベスト・ワンです!!まだ御覧になっていない方には是非お薦めする作品です!!

余談ですが、この作品の製作者児井英生はそれまで娯楽作品一辺倒の製作者でしたが、生涯に一度だけ赤字になってもいいから芸術作品を作りたいということで、この作品のプロデュースに取り掛かり、溝口に監督を任せたそうです。事実この作品は興行的には振るわず、彼のプロデュースした作品の中で唯一の赤字を記録した作品だったそうです。しかし良くぞ赤字覚悟でこの作品をプロデュースしてくれましたね!!

この作品がヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞して、フランスではこの作品一作で溝口が神格化されたことを考えると一層その感を深くします!!
https://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/35291667.html

19. 中川隆[-10451] koaQ7Jey 2019年5月16日 17:23:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1847] 報告
2019年05月14日
★明治期庶民がどのようにして新しい家族制度を受け入れたのか

江戸時代は、庶民の結婚スタイルは自由であり、混浴の銭湯が社交場であったとか、主婦が行う期間限定のレンタル妻という職業や、隠れた人気職業は「妾」だったetc…男女関係においても、とても大らかな時代でした。

それが明治時代に入ると西洋文化を取り入れた近代化が進められ、人々の生活が大きく変化していきました。中でも、新しくできた家族制度について庶民たちはどのように感じ、受け入れていったのでしょうか?


******************************************************

庶民にとって暮らしの中で最も身近な位置にある家族制度が、明治期になりどのように変わり受け入れられていったかを調べてみました。
江戸時代の家族は、以下のような姿でした。

●江戸時代中期頃になると、新田開発などが進み小農が自立するようになり、人口の大多数を占めていた農民の中では比較的小規模な直系家族が形成されるようになっていました。

●農民に次いで人口の多かった武士は、長男相続・親と長男夫婦の同居・都市居住のサラリーマンで妻は専業主婦という家族形態が主流でした。(近代以降の家族の原型になるものでした)

●一方、都市部に暮らしていた庶民(町人)たちは長屋の共同体的な世界に暮らしながら、基本は小家族あるいは単身所帯でした。

さて、明治維新を経て、西欧列強に伍してゆくために中央集権体制の国民国家の形成を目指して様々な制度が作られていきました。

家族制度に直接繋がるものとしては、明治4年制定の戸籍法があり、明治6年に地租改正と徴兵令が定められました。

戸籍法によって戸主が定められ、地租改正で土地の権利が定められると戸主名義の財産となっていきました。また、徴兵制が成人男子を対象にしていて、一時、戸主の免役があったことから、長男相続へと方向付ける原因のひとつになったようです。

その後、明治23年に教育勅語が発せられ、明治31年に家族制度を明文化した民法が制定されました。

教育勅語については、当時回付された西欧流の民法草案に対して、家族の中に権利規定などを持ち込むべきでないという考えを持った保守層などがその制定を強く働きかけたようです。

明治民法は、欧米列強と付き合い、治外法権を撤廃させるために欧米流の法制度を制定するという色彩が濃かったようです。そのため、国内では様々な議論があり、家族法関連の規定についてはある意味骨抜きにされた条文で制定されました。
このあたりの事情については、ざっと以下のようです。

●明治民法は、 元老院の審議によって多くの条文を削除されて実効力を削がれた旧民法の条文をもとに、 明治前期に整備されていた戸籍制度を基礎にして、 戸籍に体現される 「家」 を基幹の家族制度として家族法の規定を整備した。 この結果、 日本民法は、 相続という効果を除けば、 戸籍の登録基準を定める法として主に機能するものになってしまった。

●明治民法は、 本来的な家族法としては無力な法であったけれども、 家制度を定めて家族の正統的なあり方を宣言することにより国民の家族意識を形成する法としては、 圧倒的に強力なイデオロギー的効果をもった。

当初は現在の住民基本台帳と同じように、 ひとつの屋敷ごとの住民登録として作成された戸籍は、 実際の生活を反映したものであったから、 もともと家制度は生活実態や感情と重なるものではあった。 しかし逆に、 明治民法の家制度や戸籍制度によってそれが制度化され、 その制度の側が国民の意識を形成したことも大きかった。

●家制度は国家公認のイデオロギーとして推進された。 明治民法立法以前は、 わが国では戸籍上も夫婦別姓であったのだが、 その記憶は瞬く間に遠のいた。

●明治民法そのものよりもあるいは戸籍制度や氏のほうが、 国民の家族意識形成に働いた力は大きかったかもしれない。

住民登録とも連絡しており公開原則のもとで本人の意思にかかわらず他人から容易にアクセスできる戸籍という家族簿は、 国民各人が人生の重要な場面で記載内容が問題とされる逃れられない身分証明でもあって、 その記載はさまざまな差別をもたらしうるものであったから、 戸籍の記載内容への関心は絶大なものであり、 その存在が国民の意識に重大な影響力をもつのも当然のなりゆきであった。

●第2次大戦後の民法改正はイデオロギー的にはたしかに大きな転換ではあったけれども、 実際には、 家意識は、 戦後改正による家制度の解体後も根強く残った。 それには、 氏の果たした機能が大きかったと思われる。 個人の表象である氏名は本人にとって人格権的な意味をもつ非常に重要なものであるから、 本人の意思に合致した変更であればともかく、 意思に反しても婚姻に伴って氏を変更させることは、 「家」 の変更として人々の意識に圧倒的な影響力をもたらしたであろう。

以上から見えてくるのは、戸籍法、地租改正、徴兵令、教育勅語、民法といった様々な法律、制度が制定されたとはいえ、新しい家族制度への変化の上では戸籍登録と婚姻に伴う氏の変更(庶民に名字が許されたのは明治になってから)という実態的な規定に基づく「家」の具象化が基礎になっていたと言えるようです。

そして、教育勅語で「親への孝行」などが教え込まれ、戸主の財産権の規定から民法での家父長の規定へと繋がる序列観念の浸透が「家」制度を補強するようになっていったと思われます。

江戸期の庶民(農民、町人)たちのおおらかな婚姻規範と共同体的なつながりの中に組み込まれていた家族は、明治期の西欧列強に伍するための中央集権体制の国民国家の形成を目指した法制度の制定と近代的な産業社会への移行という社会の変化の中で、「家」制度に基づく家父長の下に統率された家族へと変化していきました。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2019/05/3661.html

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