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日本人はこうやって千島アイヌを民族浄化した _ とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/231.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 10 日 20:54:11: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 北方領土 _ ロシアは最初から1島たりとも返すつもりはない  投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 21 日 12:52:25)


日本人はこうやって千島アイヌを民族浄化した


とこしえに地上から消えた千島アイヌとその文化―日本人が自ら葬り去った異文化―
http://www.tobunken.go.jp/info/sympo02/abstract/abstract34.html

 日本列島に三つの異なった文化があることは存外知られていない。ひとつはいうまでもない、天皇を中心とした国家が育んだ「日本文化」であり、ひとつは琉球国王を中心とした琉球王国が育んだ「琉球文化」であり、いまひとつが北辺でアイヌの人びとが育んだ「アイヌ文化」である。これらは広い意味での「日本文化」ともいいうるのであるが、そうした扱いはなされてこなかったといっていい。

 それでも、狭義の「日本文化」と深くかかわる「琉球文化」については、近年、新たな視点からの研究・紹介がなされはじめている。しかるに、アイヌ文化は広義の「日本文化」の枠内には容れられないままなのである。

 アイヌ文化には三つの文化圏がある。すなわち「北海道」島に栄えた北海道アイヌ、樺太(ロシア領サハリン)島南部に栄えた樺太アイヌ、そして、中部千島・北千島(ロシア領クリール諸島)に栄えた千島アイヌである。

 このなかで、千島アイヌはそのひとを含め、文化・言語は今日にまったく伝わらないのである。国際交渉の陰で、しかもきわめて平和裡に、日本人は地上から一つの文化を葬り去ったのである。

 いまひとつの文章がある。主題とも深く関わるので一瞥してみよう。

「1884年の日露両国間の協定によって、樺太はロシアに、千島列島は日本に帰することになった。その後、日本は総人口わずか九七人のものが群島の各地点に分散している極北の新しい国民の憐れな状態に憐憫の情をもよおし、彼らを絶滅から救うことを願った。そのため、彼ら全員を、はるかに豊で気候も温暖なシコタン島へ移住させた。ここは蝦夷の根室地方とクナシリ島の間にあり、千島列島の最南端に位置する。しかし、憐れな彼らにとってそこが楽園となったであろうか。否、無益であった…」(鳥居竜蔵『千島アイヌ』序)。

 日露間で締結された「樺太千島交換条約」によって、樺太はロシアに割譲され、全千島列島が日本の版図となった。このとき、日本政府は先住民であるアイヌの人びとをも同時に自らの民に加えた。樺太アイヌは北海道に強制移住させられ、当初は樺太に程近い稚内のメグマに居住地が定められたが、じきに札幌近郊の対雁(ツイシカリ、現在の江別市内)に移された。

 シムシュ島、ホロムシリ島などに住む千島アイヌが移された先が、鳥居の序文にあるシコタン島である。

 このいずれもが、かれらがロシア人と通交をおこなって、結果的に日本に不利となる行為を働くことを危惧してのものであった。

 明治36年の戦争の結果、樺太アイヌはそれでも故郷に帰りえた。しかし千島アイヌは、そこが日本領土であったにもかかわらず、帰ることはできなかった。望郷の想いにかられながらも、かれらは北海道とその付属島嶼(島々)のなかで、みずからの文化を放棄せざるを得なかった。今日、千島アイヌの文化を伝えるひとはただのひとりも存在しない。

佐々木 利和(ささき としかず)

東京国立博物館
主著等:
『アイヌ文化誌ノート』(吉川弘文館 2001年)
『アイヌの工芸』(日本の美術354号 至文堂 1995年)
「東京国立博物館のアイヌ民族資料(上)」『北海道立アイヌ民族文化研究センター研究紀要』3号(1994年)
『アイヌ語地名資料集成』(草風館 1988年)  

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コメント
1. 中川隆[-10572] koaQ7Jey 2019年10月25日 21:51:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2297] 報告
千島アイヌの強制移住

1884年(明治17年)に占守島や幌筵島、及び中部千島の羅処和島に居住していた千島アイヌの人々が色丹島に強制移住させられた。

これは根室から遠く離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与える恐れがあったことと、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて、殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、日本の領域を確定するにおいて危険な障害と感じられたためである。

移住した千島アイヌに対しては農地が与えられ、また牧畜や漁業も奨励されたが、元々が漁撈民であった彼らは慣れぬ農耕に疲弊し、多くが病に倒れ命を失った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E4%B8%B9%E5%B3%B6

2. 中川隆[-10571] koaQ7Jey 2019年10月25日 21:58:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2298] 報告
アイヌの歴史
https://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/culture/together/details/post_5.html

アイヌ文化の成立は12〜13世紀ころといわれていますが、私たちがアイヌの人たちを史料のうえで確認できるのはおおよそ15世紀ころからです。そのころ、アイヌの人たちは漁狩猟や植物採取を主な生業にしてくらし、また他地域の人たちと交易を行っていました。

和人(注)がこの島に住み始めた時期は定かではありませんが、15世紀ころにはその居住地は東は鵡川(むかわ)、西は余市(よいち)まで広がり、現在の函館付近には若狭(わかさ−福井県南西部)から商船が来航し、問屋や鍛冶屋も設けられていました。蝦夷地(えぞち=北海道)からは蝦夷三品(えぞさんぴん)と呼ばれていた昆布、干サケ、ニシンや北蝦夷地(樺太(からふと)、現サハリン)を経由した中国産品などが移出され、本州からは鉄製品、漆器、酒などがもたらされました。アイヌの人たちは本州へ移出される品物の直接、間接の生産者であり、交易者でした。

注)和人:明治以前においては、本州から渡来してきた人たちをいい、現在は、日本のなかで一番人数の多い人たちを、アイヌの人たちと並べて呼ぶときの呼び名です。


アイヌの人たちとの妥協
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 康正(こうせい)2年(1456年)、アイヌの若者が注文した小刀をめぐって志苔(しのり−現在の函館)の鍛冶屋と口論となり、鍛冶屋がその小刀で若者を刺し殺したことをきっかけに、翌年にはコシャマイン親子が立ち上がりました。

 和人の増加に伴い、そのうちの有力者は領主化し、その拠点は舘(たて)と呼ばれています。渡島(おしま)半島南端部には12の舘が点在していました。コシャマイン親子はこれらの舘を次々に破り、2つの舘を残すだけになりました。残った舘の一つ花沢舘(はなざわたて−舘主 蠣崎季繁(かきざきすえしげ))の客将であった武田信広はだまし討ちでコシャマイン親子を破り、全滅の危機を脱しました。この功績で武田信広は蠣崎家を継ぎ、後の松前家の祖になります。しかし、アイヌの人たちと和人の戦いは、その後、約100年にわたって断続的に行われました。これらの戦いのいくつかは蠣崎氏がその統率者をだまし討つことによって終わらせたものもあります。長期に及ぶ戦いの起因はアイヌの人たちと和人の間の政治的あるいは経済的な不和にあったと考えられています。蠣崎氏は和人に対する支配者としての地位を固め、本州からやって来る商船からの徴税権を確保していきましたが、政治的そして軍事的に安定したものではありませんでした。天文(てんぶん)19年(1550年)、「夷狄の商舶往還の法度(いてきのしょうはくおうかんのはっと)」を定め、アイヌの人たちの懐柔と妥協をはかりました。これによって、アイヌの人たちの長(おさ)2人をそれぞれ現在の上ノ国と知内(しりうち)に住まわせ、両地をもって以北をアイヌの人たち、以南を和人の居住域とし、本州商船から徴収した税の一部をそれぞれの長に分配しました。また、海上を航行するアイヌの人たちの船は、西は上ノ国沖、東は知内沖で、帆を下ろして一礼し、往来するようになりました。
12舘の一つ志苔館。東西152.7m、南北112.7mと長方形をしている(函館市教育委員会蔵 史跡志苔館保存会提供)
12舘(たて)の一つ志苔館(しのりだて)。東西152.7m、南北112.7mと長方形をしている
(函館市教育委員会蔵 史跡志苔館保存会提供)


生産者から漁場労働者(ぎょじょうろうどうしゃ)へ
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 文禄2(1593)年、蠣崎慶広(よしひろ−武田信広から5代目)は名護屋で豊臣秀吉、慶長4(1599)年に大阪で徳川家康に会いました。この時姓を蠣崎から松前に改めます。その後、慶長9(1604)年には家康から黒印状が与えられ、蝦夷地における交易の独占を認められました。幕藩体制下に入った松前藩は本州他藩と異なり、藩士への禄(ろく)に米を用いることができず、主だった家臣には徳川幕府に承認されたアイヌの人たちとの交易権を地域を限って分与しました。これを商場(あきないば)あるいは場所と呼びました。知行主(ちぎょうぬし−商場を給された藩士)は、年に1度自らの商場へ船を出し、その地域のアイヌの人たちと交易を行い、そこで得た品物を松前で本州商人に売却し、その収益でくらしをたてました。その後、知行主はアイヌの人たちとの交易に要する経費、さらに生活費までを商人から借用し、交易によって得た品物を商人に渡して借金の返済にあてました。しかし、商人への借金が増えると、知行主は一定の金額をとって、商場を商人に請負わせるようになりました。これを場所請負制(ばしょうけおいせい)といいます。場所を請負った商人は知行主と同じように商場でアイヌの人たちと交易を行っていました。しかし、元文5(1740)年ころから始まったといわれる長崎俵物(ながさきたわらもの−煎海鼠(いりなまこ)、白干鮑(しらほしあわび)、昆布など)、本州における藍などの換金作物の肥料となる〆粕(しめかす)などの漁獲物の需要が高まると、商人自らが漁業を行うようになります。漁業に進出した商人は漁具の改良、新技術の導入によって、漁獲の増大をはかるとともに、アイヌの人たちを漁場の労働力として使役するようになりました。ここにおいて、これまで生産者・交易者であったアイヌの人たちは漁場に隷属させられた労働者としてくらすことになります。 徳川家康が松前慶広に与えた黒印状
徳川家康が松前慶広(よしひろ)に与えた黒印状。
これにより松前藩は、蝦夷地における交易の独占を認められた
(北海道開拓記念館蔵)


シャクシャインの戦いと国後島(くなしりとう)における挙兵
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シャクシャインの戦いは日高地方に生活圏をもつアイヌの人たち2グループの漁猟権をめぐる争いから始まりました。しかし、寛文9(1669)年には一方の統率者シャクシャインの呼びかけに呼応した蝦夷地のアイヌの人たちと松前藩の全面戦争に発展しました。戦いはほぼ互角に推移し、和睦を結ぶことになりました。和睦の酒宴の席でシャクシャインはだまし討ちによって殺害され、アイヌの人たちの戦いは終息しました。これによって、アイヌの人たちは松前藩に従うことを認めなければなりませんでした。

 これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢が不利とみると、だまし討ちによって戦いを終わらせたことが何度かありました。アイヌの人たちが容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌの人たちの交易者としての側面があったことが指摘されています。アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易は単なる品物の交換ではなく、交易相手との無沙汰を丁重に述べるなどの厳粛な儀礼を伴ったものです。したがって、和人側から言葉を尽くした和睦を持ちかけられると、それを一蹴せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者は威儀(いぎ)を正して、その場に臨みます。戦い相手との再会儀礼などが滞りなくすみ、緊張がほぐれたところをだまし討ちにされました。

 シャクシャインの戦い以後、和人の優位がゆるぎないものになります。多くのアイヌの人たちは漁場労働を強いられ、場所請負人そしてその配下の者たちの酷使や交易の不正に耐えなければなりませんでした。松前藩による場所の開設とアイヌの人たちの使役は松前の遠隔地へと広がっていきました。このような状況のもとで、未だアイヌの人たちの自主性が残されていた国後島のアイヌの人たちは、国後場所請負人飛騨屋久兵衛(ひだやきゅうべえ)の運上屋による酷使や不正に立ちあがり、さらに対岸の目梨(めなし)地方(現在の標津(しべつ)地方)に戦いは広がりましたが、国後と厚岸(あっけし)の首長の説得によって、戦いは収まりました。しかし、松前藩が派遣した討伐隊は主だった人たちを死刑に、他の人たちも処罰しました。この戦いよって、松前藩は国後島や道東部のアイヌの人たちを制圧し、その支配に組み込んでしまいました。この戦いがアイヌの人たちの和人に対する戦いの最後となりました。
シャクシャインの戦いのころのアイヌの人たちの地域的統一(『蝦夷地のころ』北海道開拓記念館より転載)
シャクシャインの戦いのころのアイヌの人たちの地域的統一
(『蝦夷地のころ』北海道開拓記念館より転載)
 シャクシャインの戦い以後、和人の優位(ゆうい)がゆるぎないものになります。多くのアイヌの人たちは漁場労働(ぎょじょうろうどう)を強(し)いられ、場所請負人(ばしょうけおいにん)そしてその配下(はいか)の者たちの酷使(こくし)や交易(こうえき)の不正に耐(た)えなければなりませんでした。松前藩による場所の開設(かいせつ)とアイヌの人たちの使役(しえき)は松前の遠隔地(えんかくち)へと広がっていきました。このような状況のもとで、未だアイヌの人たちの自主性が残されていた国後(くなしり)島のアイヌの人たちは、国後場所請負人(くなしりばしょうけおいにん)飛騨屋(ひだや)久兵衛(きゅうべえ)の運上屋(うんじょうや)による酷使(こくし)や不正に立ちあがり、さらに対岸の目梨(めなし)地方(現在の標津地方(しべつちほう))に戦いは広がりましたが、国後と厚岸の首長の説得(せっとく)によって、戦いは収まりました。しかし、松前藩が派遣(はけん)した討伐隊(とうばつたい)は主だった人たちを死刑に、他の人たちも処罰(しょばつ)しました。この戦いよって、松前藩(まつまえはん)は国後島(くなしりとう)や道東部のアイヌの人たちを制圧(せいあつ)し、その支配(しはい)に組み込んでしまいました。この戦いがアイヌの人たちの和人に対する戦いの最後となりました。


政治のはざまで
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徳川幕府は国後(くなしり)・目梨(めなし)の戦いの10年後、アイヌの人たちの苛酷な漁場労働と不正による場所経営と、ロシアの南下に対する警戒から、寛政11(1799)年に蝦夷地の南半分-東(ひがし)蝦夷地、そして文化4(1807)年からは松前藩を梁川(やながわ−現在の福島県)に移し、蝦夷地の北半分-西(にし)蝦夷地と北(きた)蝦夷地を直接治めました。アイヌの人たちがロシアの懐柔策にのせられないように、幕府はアイヌの人たちと公正な交易を行うとともに、本州他藩に蝦夷地防備の兵を派遣させました。交易による収益は蝦夷地経営に使いましたが、道路開削、防備体制の拡大などは交易の収益を上回るものになりました。ロシアに対する警戒心も薄れ、松前藩の復領運動もあって、文政4 (1821)年には蝦夷地は松前藩に戻されます。
 安政2(1855)年、函館へ外国船の寄港が認められると、その周辺を幕府が直接治めるようになり、翌年には幕府の統治は蝦夷地とその周辺の島々に及びます。だだし、渡島半島南西部は松前藩領のまま残されました。その目的はロシアに対する防備の強化のほか、蝦夷地開拓や殖産興業にありました。 和風化したアイヌの人たち
和風化したアイヌの人たち
(『箱館より宗谷までの絵図』北海道開拓記念館蔵)
  徳川幕府は、アイヌの人たちが日本に帰属すること、そしてその居住地が日本領であることをロシアに主張するために、交易や保護をとおしてアイヌの人たちを懐柔し、さらに松前藩が禁じていた笠、簑(みの)、草履(ぞうり)の着用を解禁し、さらに髪形、着衣、名前なども本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れずみ、クマの霊送りなどアイヌの人たちの古来からの風俗、習慣を禁じようとしました。とりわけ、2度目の統治の際には、その政策はさらに強化されましたが、アイヌの人たちの反感をかってしまいました。アイヌの人たちが培ってきた風俗や習慣はそのくらしに深く根をおろしており、力をもってしても簡単に変えることができないことをものがたっています。


日本国家への編入(へんにゅう)と北海道開拓
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 明治2(1869)年、明治新政府は蝦夷地を北海道と呼び改め、一方的に日本の一部としました。そして、アイヌの人たちを「平民」として戸籍を作成し国家に編入しましたが、そうする一方で、「旧土人」と呼び表して差別し続けました。

 同じ年、北海道を治めるために置かれた開拓使は、アイヌ民族の言語や生活習慣を事実上禁じ、和風化を強制する政策をとりました。また、アイヌの人たちが利用してきた土地や資源を取り上げて国の財産だとしたうえで民間に売り払うことにし、サケ漁やシカ猟を禁止したりもしました。脱亜入欧・富国強兵をめざす国家体制の改編とともに、生業と生活の転換を強いる社会的圧力が急速に大きくなっていったのです。

 こうした和人本位の開拓優先政策の結果、アイヌの人たちは食べるものにも困るようになりました。農業を勧奨する事業が行われたりもしましたが、急に暮らしのしかたを変えるのは多くの場合難しいことでした。そして、アイヌの人たちは財産の管理能力がないと決めつけられ、土地私有や各種資産にたいする権利が制限されました。
 政府は、明治8(1875)年にロシアとのあいだで樺太・千島交換条約を結ぶと、サハリン(樺太)や千島に住んでいたアイヌの人たちを無理やり北海道や色丹島(しこたんとう)に移住させました。しかし、移り住んだ人たちは急な生活の変化や病気の流行などに苦しみ、多くの人が亡くなってしまいました。このようなアイヌの人たちの強制的な移住は、その後も各地で行われました。


「北海道旧土人保護法(ほっかいどうきゅうどじんほごほう)」の制定(せいてい)
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明治19(1886)年には北海道庁が置かれました。道庁は土地と資源の民間への引き渡しと開拓をさらに進め、アイヌの人たちの住む場所を狭めていきました。

 こうした政策の中でアイヌの人たちの困窮がいっそう甚だしくなると、明治32(1899)年に「北海道旧土人保護法(きゅうどじんほごほう)」が作られました。この法律は、農業のための土地を「下付(しもつけ)」し、日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。

 土地を与えられたアイヌの人の中には農業経営に成功した人もいましたが、農地にすることに失敗して土地を取り上げられたり、はじめから農業に向かない土地を与えられた人が多かったのです。また、アイヌ民族への下付地(しもつけち)は、和人、とりわけ大きな資本を持つ者などに与えられた土地に比べはるかに狭いものでした。「北海道旧土人保護法」によるアイヌ民族への下付地は一戸あたり1万5千坪が上限でしたが、明治5(1872)年の「北海道土地売貸規則(とちばいたいきそく)」では和人一人あたりに10万坪、明治30(1897)年の「北海道国有未開地処分法」では150万坪を限度に開墾した土地を無償で払い下げるとしたことと比較するならば明らかな民族差別でした。
 学校の設置にあたっては、子どもに教育を受けさせようと、土地や資金を寄付するアイヌの人たちもいました。しかし学校では、アイヌ語をはじめ独自の文化は否定され、日本語や和人風の生活のしかたを覚えなければなりませんでした。また「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、教育内容にも不当な格差を設けていたことでした。 対雁に強制移住させられたサハリンアイヌの人たち(北海道大学附属図書館蔵)
対雁(ついしかり)に強制移住させられたサハリンアイヌの人たち
(北海道大学附属図書館蔵)


大正期から15年戦争の時代
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 1910年代から1920年代にかけては、「大正デモクラシー」ということばに表されるように社会に自由な雰囲気が広がり、アイヌの人たちの活動も活発に行われるようになりました。差別に対する抗議、アイヌ民族が「昔ながら」の暮らしをしているという偏見と無理解への批判、自立して生きる道を探ることへの呼びかけなどが、アイヌ自身によって行われ、民族的な組織を結成する動きもありました。町や村の議会議員選挙で当選する人もいました。
 昭和9(1934)年に「旭川市旧土人保護地処分法」が制定されましたが、これは今の旭川市近文でアイヌの人たちが住んでいた土地を追い出されそうになった問題に対応してとられた措置でした。アイヌの人たちは、代表が東京で陳情運動をするなどして、土地が取り上げられるのを防ぎましたが、本来下付されるべき土地を共有財産として北海道長官の管理下におくなど、後に問題を残す形で収束が図られました。


第2次大戦後のアイヌ民族の活動
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 第2次世界大戦における日本国の敗戦後、アイヌの人たちが社会的地位を高めて誇りある民族となることなどを目ざして、社団法人北海道アイヌ協会(1961年に社団法人北海道ウタリ協会と改称)が設立されました。そのころ地主から土地を取り上げて小作農に安く売り渡す農地改革が進められましたが、「北海道旧土人保護法」でアイヌの人たちに下付された土地もこの政策により少なからず失われてしまいました。北海道アイヌ協会はこれに反対しましたが、アイヌ民族の土地が不当に収奪されてきた歴史的事情を考慮した措置はなされませんでした。明治期からの一連の施策と経済的事由に起因する不法な権利移転などの結果、アイヌのものとして残っている下付地は、今では当初の15%未満にすぎません。

 1960年代になると、生活上の格差や困窮の解消のために、アイヌの人たちが多く暮らす地域で集会施設(生活館)や共同作業所などを設置する環境整備事業が開始されました。また、昭和49(1974)年からは、住居・就労・修学などの面での個人対策も盛り込んだ「北海道ウタリ福祉対策」が開始されました。これは7ヵ年の計画でしたが、その後も施策の重点や名称を変えながら現在まで継続されています。また、1970年代には独自の文化を保存、継承するための活動も広がり始めます。

 昭和59(1984)年に北海道ウタリ協会は、アイヌ民族の基本的人権を回復し差別をなくすこと、政治にアイヌ民族代表の意見を直接反映できるようにする特別議席、教育・文化面における総合的な施策実施、経済的自立のための農業、漁業、林業、商工業等の諸条件整備などを求めた「アイヌ民族に関する法律」案を作り、提案しました。そして、この新しい法律の制定を北海道や政府、国会などに働きかけていきました。とくに昭和61(1986)年、当時の中曽根康弘総理大臣が「日本は単一民族国家」「日本国籍をもつ方々で、差別を受けている少数民族はいない」と発言した問題などを契機としてアイヌ民族をめぐる議論や運動が活発になっていきました。また、先住民族の権利をめぐる世界の動向に関心が払われるようになり、海外との交流も積極的に行われるようになりました。さらに、こうした動きを背景にアイヌ民族として初めての国会議員が生まれました。


「アイヌ文化振興法」の制定
−民族としての誇りが尊重される社会の実現(じつげん)をめざして−
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 新しい法律を求めるアイヌの人たちを中心とした幅広い運動に応じて、平成9(1997)年、国会は「北海道旧土人保護法」を廃止し、新しく「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」を制定しました。これは、北海道ウタリ協会が要求していた項目の内で主に文化に関わる面だけを反映したものです。しかし、目的を「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与すること」(第1条)としているように、国家の政策がアイヌの人たちの民族性を否認し同化を是としてきた従来の姿勢から転換することを促し、アイヌ文化の振興等を図るための施策を推進することを国及び地方公共団体の責務と位置づけたものとなっています。


国内外の社会の動き
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 先住民族は、その土地に古くから原住していながら、今日の国家、社会の中で支配・圧迫を受け不利な立場におかれているという境遇において共通性を有しています。

 近代・現代における世界の激しい動きを振り返るならば、どんな地域のどんな民族も旧来の主要な生業や生活、それらを基礎とした「伝統的」文化になんの変容もないということはありえないと言えるでしょう。しかし、ある民族が自ら志向し選択したのではない変わり方を他から一方的に強いられ、その状態が長い間是正されなかったために、おおきな喪失感や不信感、否定的影響などが幾世代にもわたって継続するという現象は、残念ながら世界各地で見受けられることです。アイヌの人たちの場合も、民族としての集団的な権利が保証されず自主的で多様な発展の可能性が制限された状態が長く続いてきました。

 国連では、世界の先住民族が失った権利をどのようにして回復するかについて、長年、検討が進められてきました。そして、平成19(2007)年9月、国連総会において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されました。この宣言には民族の自決権や土地・資源の権利、知的財産権など、各国が達成すべき基準が明記されています。

 また、国内では、この国連宣言を踏まえて、平成20(2008)年6月、国会において「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択され、この決議を受け、内閣官房長官は、アイヌの人々が「先住民族であるとの認識の下に」アイヌ政策に取り組む旨の政府見解を表明しました。そして、同年7月、政府は「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」を設置、平成21(2009)年7月に報告書の提出を受けました。

 こうした社会の動きとともに、アイヌの人たちやアイヌ文化に対する一般社会の関心がより一層高まっています。しかし、アイヌの人たちにとって、差別の解消や生活の安定など、解決されていない課題がまだ残されており、このような状態を改めるためにも、これまでのアイヌ政策が更に推進されるとともに、新たな総合的施策の確立が望まれるところです。

https://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/culture/together/details/post_5.html

3. 中川隆[-10570] koaQ7Jey 2019年10月25日 22:42:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2299] 報告


第一章 ロシアの東方進出と千島アイヌ
http://www.orthodox-jp.com/kushiro/bef/1_1.htm


第1節 クリル列島とクリル人


 露領時代の千島列島はクリル列島と呼ばれ、カムチャツカの南端から蝦夷(北海道)の北岬に延長約1200q、小島を除いて弓状に22の島からなっている。クリルの語源は露語のクーリイチ(燻る)からなまったもので、これは露人が初めてカムチャツカの南端から遙かに千島最北のアライト島を望んだとき、その山頂から火焔が上がるのを見て名付けたためと言われている。しかし、クリルの名称はアイヌ語のクル(人間)に由来する説が今日有力である。日本でも古くは千島のことを「くるみせ」と呼んでいたと言うが、名称については、その地に住んでいた先住民をクリル人、または千島アイヌと呼ぶことにする。

 カムチャツカ・千島が露人の版図となる以前のクリル人については『千島アイヌ』の著者鳥居龍蔵氏、自ら占守島へ渡って千島アイヌを調査した我が正教会の伝教者フェオドル斎藤東吉師によれば次の通りである。

 クリル人は、露人が北千島へ進入する相当以前から首長制の一大部族(一時は300名以上もいた)を形成し、各島を移動する活動的な狩猟民族であった。占守(シュムシュ)・幌莚(パラムシル)・羅處和(ラショワ。現地ではラサワ)島を定住地としながらも、北千島列島間を南は新知(シンシリ)島辺まで移転往来して狩猟をしていたが、古くはカムチャツカ東岸ではほぼアワチンスカヤ湾、西岸ボルシャヤ河を結ぶ一線より南の地帯まで拡がっていたと言われる。

 クリル人は古くから蝦夷アイヌと交易して木綿・鍋釜・刀剣等の鉄器も手に入れて交易的な経済生活をしていた。松前から蝦夷アイヌを通して日本文化の片鱗に触れていたわけである。即ち、蝦夷のアイヌは日本人と交易したこれらの品物をラサワ島まで運び、クリル人の捕獲した物資である鷲の羽やラッコの毛皮などと交換していた。

 『新羅の記録』には、1615年(元和元年)にメナシ地方(今日の根室・目梨地方を中心とする道東の広い地域を指す)からアイヌが数十艘の舟で松前に来てラッコの皮を松前藩主に貢物として持参し、藩主はこれを徳川家康に献上したという記録もある。

 また、1623年(元和9年)、江戸で他の切支丹信徒とともに火刑にされたイエズス会のデ・アンジェリス(イタリア人で再度蝦夷に渡っている)神父の書いた『蝦夷国報告書』(千島列島に関する文献の最古のものである)について、北大教授児玉作左衛門氏は千島先住民に触れて興味ある解説をしている。

 「その当時の藩主は松前志摩守公廣であるが、デ・アンジェリスに語ったことは次のことであった。即ち<ラッコ>は蝦夷地には産しないので、先住民はその皮を買うために、蝦夷の近くにある三つの島へ行く。これらの島の先住民には髭が無く蝦夷人とは全く異なった言語を持っている《 中略 》蝦夷の近くにある三つの島とは、さしあたり国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)・得撫(ウルップ)の三島が考えられるが、或いは国後・択捉は蝦夷地の一部と見なし、その先にある得撫・新知及び他の一島の三つを意味したのであるかも知れない《 後略 》」

氏が述べているように、蝦夷アイヌと異なった民族が既に千島列島の中・南部に進出し、それらの地が彼らの生活圏となっていたのであろう。

 クリル人はいずれの地方から渡来したか、その起源については、アイヌ民族の系統に属することは間違いないが、蝦夷アイヌとは形質上やや異なる千島独特の民族が古くから蝦夷アイヌと交易し、独自な生活環境を築いていたことがうかがわれる。

   


第2節 露人のカムチャツカ進出


 ロシア人の東方進出は天正9年(西暦1581年、以下西暦とする)イェルマークに率いられたコサック兵800人がウラル山脈を越えてシベリアに進出し、1632年にはヤクーツクに城塞を築き、政庁を置き、1646年にはオホーツク海に達し、僅々60余年間でシベリアの大平原を大西洋岸まで横断したのである。また、カムチャツカは1697年から99年にかけてアトラソフ(シベリア大陸の東端ベーリング海のアナジリ湾頭のアナジリ城塞の司令官)によって征服されている。

 当時、この地方には、千島から渡ってきた人々とカムチャダール(カムチャツカの先住民・イテルメン)が混血・雑居していた。アトラソフ自身はカムチャツカ半島の南端をきわめなかったが、南の遠くない会場に島々があることを先住民から聞いている。

 アトラソフは、この地で先住民の捕虜になっている一人の日本人を保護した。この男はアトラソフやコサックと2年間カムチャツカで生活を共にした後、ペテルブルク(現サンクト・ペテルブルク)に送られ、ピョートル大帝の命令でロシア語を習得すると共にロシア人の若者に日本語を教えることになった。彼の名は伝兵衛で、ロシア国籍を取得し、ガウリイルの聖名で洗礼を受け、帰国することなく彼の地で永眠している。彼こそ日本人として最初のハリストス正教信徒であろう。ピョートル大帝は伝兵衛を招いて自ら彼の話を聞いている。大帝は1702年、勅令を発して日本との通商の可能性を探ることを命じている。その後、ロシア人によりカムチャツカへの航路が開拓され、北千島への進出、更に日本への接近となる。

  


第3節 露人の千島進出


 ロシア人が最初に千島列島に進出したのは、1711年(正徳元年)のことであると言われている。この年、ロシア人のアンツィフョーロフ、コズィレフスキーの両人が反乱を起こし上官を殺害した。彼らはその罪を償うために多くのコサック兵を率い、千島列島伝いに日本に接近することを計画した。カムチャツカのロバトカ岬からカムチャダールの首長を案内役として、小舟と革舟に乗って遂に危険な海峡を突破し、千島第一島の占守島に上陸、有力な火器によって千島アイヌを制圧し、次いで1712年、第二回探検で幌莚島も支配下においた。茲に、これらの島を根拠地として、北はカムチャダール、南方択捉、国後の蝦夷アイヌを制圧した千島アイヌは露国政府の支配下に置かれることになったのである。だが、首長制度は存続し、後には正教会の司祭によってその就任式が挙げられるようになった。

 この時、先にカムチャツカに漂着した日本人捕虜のなかの「サニマ」(三右衛門の訛りか)と名乗る若者を、案内兼通訳として連れてきている。たまたまこの島には、シャタノイという名のアイヌが択捉島から日本の物品を持って交易に来ており、彼からマツマエ島(北海道)に至る14の島とその順番を知ることが出来た。

 サニマはその後、ペテルブルクに送られ、この地で帰化し、ロシア婦人と結婚して男子をもうけた。彼は伝兵衛の助手として日本語を教えたと言われるが、これには確たる証拠がない。ロシア婦人と結婚した事は、当時のロシアでは敬虔な正教徒になった事になる。

 その後、第二次ベーリングの北方大探検隊で日本沿岸の調査を命じられたシュパンベルグは、1738年(元文3年)千島列島を南下し、得撫島まで31の島を数えてこれを海図に記入したが、これは霧のため実際より多い島数であった。この航海では一人の日本人にも出会わなかった。更に、彼は先住民から日本の支配はマツマエ島(北海道)だけであって、他の島々は日本に従属していない事も聞いている。また、彼は1739年の探検では日本の安房、伊豆下田附近にまで入っている。

 ロシアの東方経略の目的は、国家組織による貴重海獣猟であり、また先住民と獣皮等を交易することを基盤として殖民地を獲得することにあった。一方、日本は徳川幕府の鎖国政策下にあり、当時、未開の北の宝庫、蝦夷も南端の小藩松前に委ねられていたに過ぎない。

 ベーリングやシュパンベルグの探検が行なわれていた頃、特にシュパンベルグの第一回探検で、千島列島に日本の主権が及んでいない事実を知ったロシア人は、占守島を根拠地として幌莚島以南、中千島から南千島にも進出した。コサックの百人長イワン・チョールヌイはヤサーク(毛皮貢税)徴収のため1768年に択捉島まで南下した記録がある。

 当時、ロシア人の多くは目前の利益のみ追い、永遠の大計をはからず先住民を虐待し、ために先住民の反感を高め、1770年、1772年、得撫島に出稼したロシア人が千島アイヌや蝦夷アイヌの襲撃を受けて、一時一掃されるような事件も起きている。

 その後、ロシア側は態度を改め、再び来航した時以来、千島アイヌに物品を与えて隔意のないことを示し、ロシア人と彼らとの間に交易が開始され、着々と経営を進め、得撫島に基地の建設を始めた。1820年から30年にかけて露米会社(産業家シェリコフが1798年にロシア=アメリカ会社をシットカを根拠地として設立し、毛皮貿易に大きな役割を果たし、1830年には北・中千島の権益をロシア政府が露米会社に渡した)が新知島と得撫島にアレウト人(アリューシャン列島先住民)を送り込んでラッコの狩猟に当たらせた。

 その後、この北辺で日本とロシア両国間に種々と紆余曲折が生じたが、1855年(安政元年)に伊豆下田に於いて日露通好条約が締結され、択捉・得撫間を両国の国境と定めた。得撫島に露米会社が進出する以前は、古くから得撫島が千島・蝦夷アイヌの自然の境界地であり、共通の狩猟場であったようである。

  


第4節 クリル人と正教


 1747年、カムチャツカの掌院ホコウンチェウスキー師は、修道司祭イオアサフを千島に派遣し、先住民教化に当たらせたと、鳥居龍蔵氏の『千島アイヌ』にある。それによると当時、占守・幌莚島に住んでいた千島アイヌは253名であり、その内、56人に洗礼を授けている。その時、イオアサフ師の持参した金装の聖書は、後の斜古丹聖三者教会の宝物として保管されたと伝えられている。その後、少年子女の為に学校を開設して彼らを教化し、正教の布教も着々と進められていく。
 イオアサフ師はその後、1794年、シノド(聖務会院)からアラスカ正教団の責任者として派遣され、大いに布教効果をあげ、カジャク島(アラスカ、アリューシャンの布教基地)の主教に叙聖されたが(1799年4月、於イルクーツク)、同年5月帰任のためオホーツク海を航行中、その乗船フエニクス号と共に行方不明になった。イオアサフ主教はロシア領時代のアラスカの初代主教となったが、現在、アメリカ正教会ではアメリカの初代主教として記憶されている。

 古来、千島アイヌは各島を移動する活動的な狩猟民族であり、占守・幌莚・羅處和の三島を定住地としていたのであるが、彼らは、この島より彼の島へと妻子と共に海獣を求めて移り歩いていたので、神父もまた彼らの後を追って転々として散在する島々を巡回しなければならず、決して容易な事ではなかったであろう。初期の伝道では言葉の違いをどう克服したのであろうか。神父達が千島アイヌの教化に努力した熱心さには驚かざるを得ない。『千島アイヌ』より引用すると
「1766年(明和3年)ツヱイ氏の調査によれば、一番島(占守)・二番島(幌莚)・十四番島(宇志知。ウシシリ)には男子(男女の誤りであろう)262人の千島アイヌが居り(内121名は貢納す)、1800年には正教を信仰する者は男77名、女87名、合計164人を数えた」

とあり、1800年代には千島アイヌ全員が正教徒となり、尚、択捉島の蝦夷アイヌにも正教を信仰する者が出たと思われる。それは、幕府が1799年、北辺の防備を痛感して千島の直轄に着手した時、島民の持っていた聖像を取り上げ、蝦夷地に施行された最初の成文である三条の法の第一に、

「一 邪宗門にしたがうもの、外国人にしたがうもの、其の罪重かるべし」
と規定したことを見ても、その辺の事情を窺い知る事が出来る。
 かくして、千島アイヌ固有の風俗が失われて、言語・姓名・生活様式も著しくスラブニック化し、深く正教を信仰する北辺の「ハリスティアニン」と変貌していく。1801年、占守島のモヨロップ(片岡)湾頭のコタンヌイの丘に正教の聖堂が完成する。

 明治27年の『正教新報』に1867年、大主教に昇叙され、モスクワの府主教に選立されたインノケンティ師が主教に叙聖される以前、司祭イオアン・ヴェニアミンノフとしてアリューシャン列島・アラスカ・カムチャツカを巡回していた頃、幌莚・占守島に千島アイヌを訪ねた記事が載っている。北川氏寄稿となっている。1830年前後の事であろうが、千島アイヌの性格、篤い信仰をよく表しているので紹介する。

 「イ師が、シベリヤ、アリューシャン列島、アラスカの地方を管轄していた頃、しばしば千島を巡回されたことがあった。《 中略 》千島の土民は夏期に至れば海辺に繁茂する青草の上に天幕を張って住居とし、冬期になれば其の天幕は不潔悪臭に満たされ、イ師が大祭日に諸部落を巡回した時、その悪臭不潔には大いに閉口なさったそうである。島民は殊に信仰厚く、会堂(祈祷所)に参拝して欠席すること無く、又よく家業に励んでいる。土民は一般に外国人に対して何事も隠し立てする。これは生まれつきの卑怯によるものか、また野蛮的な恐怖心によるものか、また狡猾心より出ているものか分からぬが、イ師の語るところによると、生まれつきの臆病から生ずるものであると言う。そのために彼らは痛悔の時にも罪を打ち明けず、神父らもこれにはほとほと困り果てたようである。しかしながら、彼らは朝夕の祈祷・スボタ(土曜日)・日曜日・大祭日の祈祷は欠かしたことが無い。大斎の初週及び終週には魚油を使用しないで、ただ海草或は野菜のみを食べて精進し、仕事に出る時は必ず祝福を受け、また夏期は毎朝夕一箇所に集まって祝福を受け《 中略 》。イ師は或る年に幌莚に行った際、冬期を其処で過ごした。大祭日には雪と雪との中間の凹所に布を張って、雪の上で潔白なツェレラ(千島に産する草の名)及び柏の枝を敷いて奉神礼を執行した。ハリストス復活祭後の一週間は、島民は順番に各自の家に他人を招いて供応するのであった。《 中略 》イ師はその年の5月中旬、土人用のバイダルカ(海獣の皮で作った舟)に乗って占守島へ渡った。この島の土民は巧みに露語を語り、露語を読み、彼らは魚の多く繁殖する川辺に住み、夏期になると隣邦のカムチャツカに行き交易を行なっていた。」

鋳銅製十字架

これは、斜古丹聖三者教会秘蔵の縦26.5p、横12pの鋳銅製の聖十字架である。イグナティ加藤神父がそれに次のような注釈を加えている。

「今を去ること凡そ250年前、現首長ヤコフ師の祖先イオアン・ストロゾフ氏の妻ペラギヤ姉が、偶々ラサワ島山中で発見したもので、累代相伝え秘蔵してきたが、会堂新築の際に聖三者教会に献納し、永く救贖を祈願するものである」

イグナティ加藤神父が根室に在住したのは、西暦1897年(明治30年)から1901年までである。鋳銅製十字架が発見されたのは、1898年を起点とするとそれより250年前、即ち1630年頃となるが、露人の北千島進出は18世紀初期である。正教の弘布の年代から推測すれば、聖十字架は18世紀中期以後のものであろう。聖十字架は推測の域を出ないが、奉神礼用の神父の携帯品でなかろうか。神父がそれを落とすとは考えられない。或は、神父が巡回中に不慮の災難に遭い、十字架を手放す羽目に遭遇したのかも知れない。とすれば、それ自体に宣教の苦闘の汗と血が滲み出ていると思われる。

 近世の植民史上、その初期には目先の利益のみに走り、先住民を酷使虐待し、彼らからすべてを収奪してやまなかった山師や、いかがわしい者が出没、暗躍したことは明らかである。そのために、大きな人類愛によって彼らを庇い、神の恩寵に浴させて彼らを抱擁し、それが為、身の危険を顧みず、殉教致命さえ厭わなかったハリストス正教の神父達の存在も忘れることは出来ない。

 かの鋳銅製の十字架には、これら正教の神父らの熾烈なまでの宣教の歴史が秘められているのではなかろうか。

 これらの正教の神父は、フェオドル、ロマン、アレクセイ、イーゴリ、フィルス、ニコライ、グリゴリイ、セルギイ、マクシム、チレフワシリイ、フェオクティリスト、パウエル、ハララムピイ等の諸神父の方々である。

 以上の神父名は、明治18年にティト小松神父に随行して先住民との通訳に当たったアレクセイ澤邊師の記録で、氏名でなく聖名の呼称である。明治17年にヤコフ首長の住宅(仮会堂であった)が焼失しているので、おそらく先住民からの口碑によるものであろう。

 これらの神父名は、明治39年、40年に色丹に在島した我が正教会の伝教者である斎藤東吉師著の『日本最古の正教島』に詳細に記されているが、前記の神父名とは大分異なっている。


  


第5節 クリル人の色丹島移住


 1875年(明治8年)日本とロシア間に樺太・千島交換条約が締結された。この条約によって日本が樺太の領有権をロシアに譲る代わりに、ロシアは占守島から得撫島に至る18の島を日本に引き渡すことが明記され、日露の国境をカムチャツカのロバトカ岬と占守島間の海峡に画定された。この条約の附属公文には、この地域に住む先住民は、三カ年以内に日露何れかの“臣民”になることを選定しなければならぬと規定されている。そこで、条約の結ばれた年の8月、明治政府は五等出仕時任為基を北千島へ派遣し、この旨を先住民に伝えた。

 当時、北千島には100人を越す先住民が住んでいたが、彼らは既に一世紀以上にわたってロシアの支配下にあり、言語・衣服・宗教などの面でもかなりロシア化されており、その去就とともに数奇な運命に弄ばれることになる。

 ロシア人並びに得撫・新知島に居住していたアレウト人は、条約に定められた期間、即ち3年後の11月までには悉くロシアに引き揚げた。千島アイヌも風俗・宗教等から、ロシアにと願いながらも、丁度、明治9年に出猟した半数の者が帰島しないためその態度を決することが出来ず、やむなく我が国に属することになった。

 占守島にいた首長キプリアンは、条約成立の年、島司インノケンティ・カララウィッチと12人の同族と共に9月15日、当時、他島への出猟中であったアレキサンドル以下22人の同族を置き去りにしてカムチャツカに向かった。日本国籍に入ったのは、このアレキサンドル組と副首長ヤコフ組のラサワ島の千島アイヌである。

 奇しくも、平成4年5月21日付北海道新聞に、ポーランドに子孫がいた!!という見出しで、首長キプリアンと共にカムチャツカにわたった同族の末裔が、現在ポーランドに住んでいる事が報じられている。シャールド・クリルチク氏他三家族である。シャールド氏によると、

「祖先はシュムシュ島に住んでおり、そこが日本領になるとロシア側に行く事を選んだ。大祖父のアドルフ・クリルチクさんら12人は、カムチャツカのシエログラツキに移され《 後略 》。」

とある。アドルフ氏は数奇な運命をたどり、二代、三代目の祖父、父はそれぞれポーランド婦人と結婚し、父は第二次大戦直後、リトアニアよりポーランドに脱出、現在、ポーランドのスープスク市に在住している。

 『フェオドル斎藤東吉自伝』によれば、首長キプリアンとカムチャツカに逃れた同族12人は、ペトロパブロフスク(首都)より「ヤウイン」に移住させられている。明治10年の春、首長アレキサンドルは日用品欠乏のため、獣皮を携え、交換の目的をもって露領「ヤウイン」に渡り、偶然にも前首長キプリアン氏に奇遇し、故山を慕うキプリアン氏ら7名の同族をシュムシュ島に連れ帰っている。フェオドル師は、「キプリアン氏の組は、露領に移りてより殆ど半数は不帰の客となり、残れるは僅々7名のみ」と自伝の中で記している。ロシア国籍を選んで露領へ渡ったクリル人の数は、北海道新聞とフェオドル斎藤師の記事で共に12人と符節を合わせたように一致している。そうであれば、東吉師の言う「殆ど半数は不帰の客となり」「キプリアン氏ら7名の同族をシュムシュ島に連れ帰っている」の点については疑問が生ずる。翌日の北海道新聞には「……だが、当時の日本政府の公文書ではシュムシュ島に戻ったのは二家族だけとされており、数家族がロシア側の国籍をとり、残った可能性が大きい」という記事が載っている。

 我が国では明治9年、更に官吏を派遣してその状態を調査し、救育費として三カ年に一回、5000円の政府別途交付金を給付、食料品等の生活必需品の購入に充て、汽船に搭載、彼らにこれを提供し、生活を保障するとともに捕獲した毛皮を集めた。

 しかし、毛皮は年とともに少なくなり、したがって著しい失費を伴い、その上、根室から1200qも離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれもあった。また、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、同化が困難であるばかりでなく、国境を正すことにならないばかりか、むしろ危険にさえ感じられ、日本政府としてもクリル人に対して早急な処置を講じる必要があった。

 彼らをより交通の便利な箇所に移そうとする計画は、既に明治9年以来の計画であり、その度ごとに移住を勧誘してきたが、彼らは永年住み慣れた地を離れ難く、口実を作っては日本政府の勧誘に応じようともしなかった。

 明治15年に開拓使が廃止され、函館・札幌・根室に三県が置かれる。千島は根室県に属し、湯地定基が根室県令に任ぜられた。明治17年、三年ごとの撫育船を派遣する年にあたり、湯地県令は千島アイヌを色丹島に移す計画のもとに、要路の大官と共に占守島に向かい島状を調査した。丁度、その年に出稼に行っていた仲間も悉く同島に集まっていたので一同を諭し、男女97人をその船に乗せ、ただちに色丹島に移住させた。

 同道した参事院議官安場保和の『北海道巡回日記』に往時の状況が詳細に記述されている。

「五日晴。県令着島より船に還らず、懸々接待遂に全島移住の運びとなる。開拓使以来再三の説諭にも頑として服さず、今日此の挙ある時至れるものなりと雖も、県令懇諭(こんゆ)の誠(まこと)切なるを感ずる所ありと言うべし。全村移住に決し家財をまとめ、牛・犬を殺し、日没に至り全員乗船せり」

 即ち、湯地県令は7月1日の占守島に上陸してから約5日間、本船には一度も帰らず、彼らと起居を共にして懇々と移住を勧告したのである。勿論、彼らのうちには絶海の孤島とは言え、長い間住み慣れた故郷を離れ難く幾多の逡巡をみせた者もいたが、日本領になってからは、日本政府に頼るより外に生活の途がたたず、遂に意を決し、20戸97人、そろって移住することに決したのである。一行は7月6日に全員乗船して11日朝、色丹島に到着した。

 ここに、色丹島の北方オホーツク海に面した斜古丹湾頭に斜古丹村が出現し、信仰篤い彼らによって斜古丹聖三者教会が創設され、この後、永く日本正教の一肢体となるのである。首長は、斎藤東吉師によるとアレキサンドル・プリチンとなっているが、明治17年8月の旧戸籍(鳥居龍蔵氏の『千島アイヌ』)によればアレキサンドル・チェルヌイでなかろうか。副首長はヤコフ・ストロゾフである。

 色丹島は根室半島ノサップ岬より73.3qの地点に在り、東南は太平洋に面し、西北は国後島に相対し、南西より北東に至る長さ28キロメートル、幅およそ9qの長方形をなし、面積は約255平方qの島で、当時、色丹島は文化5年以来居住する者が無く、その後、しばしば出稼漁なども試みられたが長続きせず、空しく千島で活躍する外国密猟船の寄港地となっていた。


  


第6節 色丹島移住後のクリル人


 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。

 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。


強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。

 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」

故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。

 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。
http://www.orthodox-jp.com/kushiro/bef/1_1.htm

4. 中川隆[-12167] koaQ7Jey 2020年7月09日 04:23:29 : Mu0g15Rjmc : aWloQXY0NTNQc0U=[2] 報告
北方領土は返さない! ロシア「反日アイヌ民族」の正体
『中村逸郎』 2019/06/07
https://ironna.jp/article/12726
中村逸郎(筑波大学教授)

 「クリル諸島(千島列島と北方領土)は、私たちのものだ。ずっと住み続けよう」

 これは北方領土に住むロシア人の声だが、プーチン政権は北方領土を支配する正当性を躍起になって主張している。ラブロフ外相は2019年1月17日の年頭会見の席で、「日本が第2次世界大戦の結果を受け入れる」ように強く求めた。さらに「北方領土」という名称を使用することに不快感をあらわにした。このように北方領土に対するロシアの主権をなりふり構わず打ち立てようとしている。

 ラブロフ外相が繰りだす強硬発言に先立つ昨年12月17日、私はロシア国内で報じられたニュースに驚いた。プーチン大統領が「アイヌ民族をロシアの先住少数民族に指定することに賛成した」というのである。プーチン大統領の発言を引き出したのは、ロシア大統領府に設置されている「市民社会と人権擁護評議会」の1人、アンドレイ・バブシキン氏だ。プーチン大統領と面会の際、彼はこう訴えた。

 「ロシア国内に住んでいるすべての民族の権利が認められているわけではありません。クリル諸島と極東のアムール川流域にかつて住んでいたアイヌ民族は、ロシア政府が作成している先住少数民族リストに記載されていません。いまアイヌ民族が暮らすカムチャツカ地方知事に、彼らをリストに追加するように要請してください」

 こうして北方領土交渉でロシア政府が日本への強硬姿勢を崩さないなかで、最近、これまで知られることがなかったロシア国内のアイヌ民族が注目を浴びるようになったのだ。
北方領土引き渡しに反対する集会が開かれ、参加者は「島はロシアの領土だ」などと訴えた=2019年1月20日、露モスクワ(小野田雄一撮影)
 補足しておくならば、先住少数民族に認定されると、さまざまな政治的、経済的な権利が付与される。例えば一定の割合で、自分たちの代表者を連邦機関や自治体に選出できる。民族文化や伝統儀式を守るための支援金がロシア政府から支出される上に、居住圏の天然資源を取得する特権も認められる。プーチン政権の思惑は、優遇措置を講じることで先住民族がロシア人に抱く疎外感を払拭(ふっしょく)し、彼らの存在を政治利用することにあるようだ。

 話を元に戻すと、千島列島と北方領土(日本政府の公式見解にそって北方領土は千島列島に含まれない)のアイヌ民族が知られるようになったのは、17世紀にさかのぼる。当時は千島列島や北方領土だけではなく、北海道、樺太、アムール川下流域にいたる広範囲に住んでいた。北方領土をめぐって日露は互いに領有権を主張しているが、もともと北方領土と千島列島の先住民族はアイヌ民族であり、ラッコの毛皮や海産物などを日本人やロシア人などと交易していた。

でも2010年の時点で、ロシア国内でアイヌを名乗る(おそらく純血)のはわずか109人、そのなかの94人がカムチャツカ半島の南端に暮らすが、まさに民族の消滅に直面している。カムチャツカ半島に開設されている市民団体「アイヌ」の代表はアレクセイ・ナカムラ氏だ。彼のインタビューが、ロシアの通信社が運用するサイト(astv.ru、2017年5月15日)に掲載されている。

 「ロシアのアイヌ民族は、日本がクリル諸島の返還を要求していることに全面的に反対しています。実は、アイヌ民族と日本人との間には悲劇的な歴史があるのです。ずっと昔のことですが、日本人はクリル諸島に住んでいたアイヌ民族を殺害しました。アイヌ民族の釣り道具や漁船を奪い取り、日本人の許可なくして漁業にでることを禁止しました。いわば日本人によるジェノサイドがあったのです。このためにアイヌ民族の歴史は損なわれ、日本と一緒に行動することが嫌になりました」
 
 ナカムラ氏の語意は、日本批判をにじませている。ロシアのアイヌ民族は日本人に財産を略奪され、民族差別を受けたと訴えている。自分たちが先住民族なので、北方領土の返還を求める日本政府に真っ向から反対している。

 歴史をさかのぼると、江戸時代の松前藩は歯舞諸島から色丹島、国後島、択捉島まで本格的に進出し、先住民族のアイヌ民族と接触した。ただナカムラ氏が声を荒げるほどに、日本人によるアイヌ民族への迫害があったのかどうか、真偽のほどは不明な点が多いが、当初、北方領土に約2000人のアイヌ民族が住んでいた。

 いずれにしてもアイヌ民族は、北方領土をめぐる激動の歴史に翻弄された。1855年の日露和親条約で、択捉島と得撫島(ウルップ島)の間に初めて国境線が引かれた。この結果、北方領土のアイヌ民族は日本、得撫島以北のアイヌ民族はロシアの支配権に入った。
アイヌ民族博物館では民族伝承の踊りを披露する=2017年3月7日(川端信廣撮影)
 1875年の樺太・千島交換条約では、千島列島の全域が日本に編入された。得撫島以北のアイヌ民族も日本の支配下に移り、かれらの多くは色丹島に強制移住させられた。ナカムラ氏のインタビューでは、この強制移住を「日本人によるジェノサイドだ」と非難している。ただ、樺太がロシア領土に編入された際に、樺太に住む多くのアイヌ民族が北海道に移住した。

 1905年のポーツマス条約で千島列島に加えて樺太の南部が日本領土になり、北海道に渡ったアイヌ民族の一部は故郷の樺太に帰還できた。でも、第2次世界大戦で侵略してきたソ連軍から逃れるために、ほとんどのアイヌ民族が日本人といっしょに北方領土と樺太から北海道に避難した。このようにアイヌ民族は日露の攻防のなかで居住地の変更を余儀なくされたが、彼らの日本への帰属性は強いのは間違いない。

他方で、第2次世界大戦の直後に少数のアイヌ民族は侵攻してきたソ連側につき、カムチャツカ半島に移り住んだ。だが、戦後のソ連社会で不遇の時代を迎えることになった。彼らは「ソ連人」に統合され、1953年にはソ連の刊行物からアイヌの民族名が消されてしまった。日本に移住した多くのアイヌ民族はソ連を裏切ったと見なされることが多く、ソ連国内にとどまったアイヌ民族はほかの少数民族と結婚するケースが相次いだ。アイヌ民族を名乗る人は減少し、すでに紹介したように109人ほどにすぎない。

 ロシアの市民団体「アイヌ」は北方領土返還を求める日本政府への不信感を強めており、日本国内のアイヌ団体との交流はないようだ。
 
 私が強調したいのは、アイヌ民族をロシアの先住少数民族に加えるプーチン政権の動きは日本政府との北方領土交渉のなかで浮上してきた点にある。ロシア政府の狙いは、領土交渉をより複雑化することにあるのは確かだ。

 ロシア政府は、北方領土に進出した日本人がロシアのアイヌ民族を虐待したと言い立て、ロシア世論を領土返還反対の方向により強硬に誘導したいのだろう。外交的には日本政府が唱える「わが国固有の領土」の見解に対抗するために、ロシアのアイヌ民族を北方領土の先住民族に仕立てようとするもくろみも感じられる。

 だが本来、北方領土は国家主権にかかわる問題であり、日本外務省の指摘するように「今日に至るまでソ連、ロシアによる法的根拠のない占拠が続いている」といえる。領土主権の問題は、プーチン政権が提起する「北方領土の先住民族」のテーマとは根本的に次元が異なる。日本政府は、「北方領土の帰属の問題を解決して平和条約を締結する」という従来の方針(2001年、森喜朗首相とプーチン大統領が合意したイルクーツク声明)を変更する必要はない。
ウラジーミル・プーチン露大統領=2018年10月24日、露モスクワ(タス=共同)
 先住民族と国家主権の問題を絡めて議論すれば、世界各地で主権の獲得にむけて民族紛争が噴出し、収拾のつかない、まさに「パンドラの箱」を開けることになる。

 日本政府はアイヌ民族を先住民族と明記する「アイヌ法案」を成立させた。これにより「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現」を目指すことになる。これを契機にアイヌ民族に対する日本世論の関心が高まるだろう。これをテコに、アイヌ民族と元島民が共同して「日本の国家主権」を回復させる北方領土返還運動をより促進すべきである。

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