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戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/232.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 11 日 07:56:00: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 03 日 11:40:09)


戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか?


GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた(小学館文庫) – 2002/8/1
櫻井 よしこ (著)
https://www.amazon.co.jp/GHQ%E4%BD%9C%E6%88%90%E3%81%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%93%8D%E4%BD%9C%E6%9B%B8%E3%80%8C%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E7%AE%B1%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%91%AA%E7%B8%9B%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F%E2%80%95%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%A6%B3%E3%81%AF%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%97%E3%81%A6%E6%AD%AA%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%AB%BB%E4%BA%95-%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%93/dp/4094028862


内容紹介

これは一体「真相」か「洗脳」か!?

敗戦後、GHQ占領政策の一環として制作されたラジオ番組「眞相箱」。歴史の真実に巧妙に虚偽を散りばめながら日本の“犯罪"を日本のお茶の間に告発し続け、“帝国主義の悪が民主主義の正義に屈した"という観念を植え付けた。

本書は「眞相箱」を採録した貴重な本を復刻し、GHQの巧妙な操作を櫻井よしこ氏が詳細に解析する。

戦後日本人の歴史観を紐解き、戦争とは何か、日本人はどうあるべきかを問う問題作。戦後日本人の歴史観はこうして歪められた! 文庫書き下ろし。


これは「真相」か、それとも「洗脳」か!?
敗戦直後、GHQは占領政策の一環として「太平洋戦争の真相を日本国民に知らせる」ためのラジオ番組を作った。それは「真相はかうだ」「真相箱」「質問箱」と名称を変えながら、三年にわたりお茶の間に日本の犯罪を告発し続けた。

真実の中に虚偽を巧妙に散りばめ“帝国主義の悪が民主主義の正義に屈した”との観念を植え付けるGHQの思惑は成功し、いつしか日本人の歴史観や戦争観を規定した。

「真相箱」の原作本を復刻、戦後日本の混迷を招いた「問題の書」を白日の下にさらし、桜井よしこ氏が徹底解析する。


▲△▽▼


2019.02.09
【トンデモ】小さな真実を重ねて大きな空想を信じさせる
(櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002)
https://rondan.net/301


Contents

1 はじめに
2 『真相箱』の何を批判するのか
3 「真相箱」の持つ役割への過剰な評価
4 「真相箱」やWGIPを糾弾して何を訴えたいのか


はじめに

終戦後、GHQによって「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP)と巷で言われるところの、アメリカ主導のプロパガンダ活動があったことはよく知られています。多くの保守の方々は、このWGIPを、戦後日本諸悪の根源であるかのように攻撃します。

たとえば江藤淳氏は、このWGIPを「戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した」(『閉ざされた言語空間』文芸春秋, p. 228)と評価したり、高橋史朗氏は「日本人の美しい心が破壊され、内的自己崩壊が謀られた」(『「日本を解体する」戦争プロパガンダの現在』宝島社, p. 13)と評価しています。もしこれが本当ならば、とてつもない陰謀がGHQによって実行されたことになります。

もちろんこれとは逆の見解もあり、数少ない信頼できる保守論客として高名な秦郁彦氏は、上記の陰謀論に対して「果してそんな大それたものだったのか」と述べています。また、近年刊行されました研究書、賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム:GHQ情報教育政策の実像』(法政大学出版, 2018)も、GHQの対日情報教育は、江藤淳氏らが主張するような陰謀論の類ではない点を指摘しています。

ところで本記事で検討していく、保守界の女王である櫻井よしこ氏は、前者の立場に立ち、このWGIPが日本人を洗脳する謀略(!)であると理解しています。しかし、不思議な現象がここで起こります。アメリカがこのような洗脳謀略によって日本を自虐史観に陥れたのであれば、当然アメリカに対して謝罪と補償を求めるべきところです。しかし、櫻井氏は慰安婦問題についてアメリカの新聞に広告記事を載せてしまうほど精力的にもかかわらず、なぜかこのWGIPについてはアメリカ側に苦情を言ったという話は聞きません。

此れと同じ矛盾は他の保守論客にも確認されます。たとえば、WGIPの第一人者(?)である高橋史朗氏も、その著書の中で散々WGIPによる洗脳を糾弾しておきながら、非難の矛先はアメリカではなく、なぜか朝日新聞・南京事件・慰安婦問題に向かいます。

このように保守本で取り上げられるWGIPには奇妙な論理構造が確認されます。そこで本記事では、WGIPの一貫として実施されたラジオ放送をまとめた書籍版『真相箱』に対する保守論客の理解を検討したと思います。具体的に取り上げるのは、櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002)です。

『真相箱』の何を批判するのか

1945(昭和20)年12月9日から、GHQ主導の下、ラジオ番組「真相はかうだ」が放送され、その後も「質問箱」「真相箱」と名前を変えながら1948年まで再放送され続けました。これらの放送をまとめて刊行されたものが、『真相箱 : 太平洋戦争の政治・外交・陸海空戦の真相』(コズモ出版社, 1946)です。この放送を通じてGHQが力を入れて訴えたかったことは次の六点であると指摘されます。


・戦時中の日本軍大本営発表は嘘ばかりだった。

・捕虜になった日本兵は連合軍の待遇がよいことに驚き、自由のみに感謝の日々を送った。

・ポツダム宣言はこの上なく人道的で寛大かつ非懲罰的な幸福条件である。

・原子爆弾の投下は、膨大な破壊を被るという連合軍側の予告を、日本の指導者が無視し、何ら回答しなかったために実行されたのだ。

・戦時中の軍指導者たちが戦争犯罪人の指名を受けるのは当然である。

・日本国民はこれまでの過ちを反省して、青年たちは世界に他れる新日本の建設に立ち上がるべきだ。


 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, p. 17
すなわち、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)での大本営発表の嘘を暴きつつ、連合国側が把握している真実を伝えるというストーリーです。これに対して櫻井氏は次のように指摘します。


確かに、当時の日本軍の大本営発表が虚偽に満ちていたことは疑うべくもない。ただ、GHQの放送が巧みなのは、…中略…連合軍側は正直で日本軍の大本営発表はまったく嘘八百だったと繰り返すことだ。大本営発表の嘘について実感がある分、日本国民は米国側の「正直」を信じ込まされていくのだ。

 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, p. 21

歴史の真実に巧妙に虚偽を散りばめながら日本の”犯罪”を日本のお茶の間に告発し続け、”帝国主義の悪が民主主義の正義に屈した”という観念を植え付けた。

 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, 書籍紹介
つまり、「大本営発表の嘘を暴くことでアメリカ側の信頼度を高めさせ、歴史の真実を忠実に教えているふりをしながら、その中に巧妙な虚偽を散りばめて、GHQの都合のいいように思想誘導を図った」というようにまとめられるでしょうか。「虚偽」という言葉が相応しいかは解りませんが、GHQ謹製のラジオ番組ですから、アメリカ側の思惑に都合のいいように編集されている事実は否定できません。この点について櫻井氏の批判は正しいと言えます。

「真相箱」の持つ役割への過剰な評価

しかし、この「真相箱」によって、「日本人が洗脳された」という言説は余りにも大げさです。話を面白おかしく針小棒大にするのは保守の悪い癖です。櫻井氏は、洗脳された日本人の影響が現代まで続いていると主張します。


この種のラジオ放送を三年余も継続して聞かされれば、ある時点から嘘や歪曲やすり替えを正していくのに疲れて、ふと根気を失うのではないかという気がした。
欺瞞の洪水に逆らうのを諦めてしまうのだ。諦めれば流れの中に身を沈めるか、一緒に流されていく。説明するのに疲れた大人たちが沈黙を守る間に、新しい世代がその欺瞞に染まっていく。その先に出現したのが、現在の日本の姿である。米国の対日再教育、洗脳というべき検閲と情報操作によって、私たちの考え方や価値観は無意識のうちに日本断罪の影を引いているはずだ。

 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, pp. 440-441
この様な言説は、あまりにも「真相箱」やWGIPの効力を過激に評価しています。

というのも終戦直後、GHQ統治が始まる前の世論調査の段階で、人々の間に、軍部に対する責任追及の言説が起こったことや、戦争の重圧から解放されて民主主義的色彩が徐々に強くなってきていることが日本側資料に残っています(萩野富士夫『「戦意」の推移』校倉書房, 2014, pp. 145-157)。

このように「真相箱」やWGIPが始まる以前から、日本人の間で、軍国体制に対する断罪意識が自発的に芽生え、民主主義の新たな未来を主体的に択ぶ動きがあったのです。したがって今現在の日本はこうある責任は、紛れもなく日本人にこそ責任があるのであり、「真相箱」やWGIPに責任転嫁するのは無責任と言うものでしょう。

「真相箱」やWGIPを糾弾して何を訴えたいのか

確かに櫻井氏が指摘するように「真相箱」はWGIPの一環として行われた対日プロパガンダです。櫻井氏の持つ価値観ならば、WGIPが洗脳工作の一環であり、「真相箱」は真実の中に虚実を混ぜてアメリカの望む方向に思想誘導する欺瞞だと思えてしまうことも理解できます。

しかしながら櫻井氏と必ずしも見解の一致しない私にとって、この『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』こそ思想誘導の欺瞞を感じてしまいます。つまり、小さな真実を重ねて、櫻井氏の抱く大きな「空想」を読者に信じさせようとしているということです。例えば次のような一文に、櫻井氏が信じ込まさせたい「空想」の一端を感じずにはいられません。


第二次世界大戦での日本の戦いは、一面でアジアでの植民地主義の一掃に力を貸したとか、アジアの幾つかの国々の独立を促したなどとの考えは、軍国主義として排斥された。

 櫻井よしこ『GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く:戦後日本人の歴史観はこうして歪められた』小学館, 2002, p. 44
https://rondan.net/301  

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コメント
1. 中川隆[-12274] koaQ7Jey 2019年2月11日 08:00:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

本多勝一の東京裁判史観・自虐史観(?)は GHQ やマッカーサーとは全く何の関係も無かった

本多勝一 週刊金曜日 応援、侵略を考えるサイト
http://honkatu.blog24.fc2.com/

本多勝一を応援する読者会のページ
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hod/


1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った言葉です。

”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。

本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。

問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。

日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。

今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”

朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より  


2. 中川隆[-12272] koaQ7Jey 2019年2月11日 08:15:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

松井石根の東京裁判史観・自虐史観(?)は GHQ やマッカーサーとは全く何の関係も無かった


松井石根は花山信勝に何を語ったか Jodorowsky 2008-07-26
http://d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/touch/20080726

あの南京事件について、師団長級の道徳的堕落を痛烈に指摘して、つぎのような感慨をもらされた。

「南京事件ではお恥ずかしい限りです。

南京入場の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。

私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。

政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。

ところが、このことのあとで、みなが笑った。
甚だしいのは、或る師団長の如きは「当たり前ですよ」とさえいった。

従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。」


陸軍に入ると同時に、中国のことに注意するようになった。大陸問題を研究した川上、福島、青木、宇都宮等の先輩についてやった。

軍国主義となった最近の陸軍のように、斬取強盗式のことは先輩にはなかったですよ。

さすがに陸軍の先輩は、明治天皇の精神を体してやっておったから。国が変って、若い者が血気にはやって、とうとうこうなったと思うのです。

夫人宛の手紙

「昨二十一日夜、マッカーサー元帥の命令により、明二十三日午前零時当監獄内において絞首刑執行の旨、宣告せらる。

かねて期せしところなれば、何ら驚くところなく、謹聴せり。余は武家に生れ、家職をついで陸軍武官となり、累進、大将に進み、正三位に叙せらる。更に勲一等功一級の栄勲を辱うし、一身の光栄にして、切に皇恩の無窮に感激しあり。

今南京虐殺事件の犠牲となり、この責任を負つて連合軍の処刑に付せらる。
いわんや余は先に上海、南京の戦いに多数の日華両国軍民を失いしものあなれば、その責任上、あま多の英霊のあとを追つて殉ずることは当然なり。

 太平洋戦争は直接余の責任の外にあれども、これまた日華事変の延長と見るべく、余の地位、経歴上責任を免れるべきに非ず。今や敗戦日本の醜態を暴露せることに関し、責任を自覚し、一死、謝することは、又自然なりというべし。

顧みて思えば、余はこの度の死に関し、毫も未練あることなく、これ天地神仏に対しても罪を恥じることなし。ただ多年心と身を賭して志したる日華の提携とアジアの復興をとげず、却ってわが国家百年の基を動揺せしめたることは遺憾の極みにして、余の心霊は永く伊豆山の興亜観音山にとどまり、一心観音経に精進し、興亜の大業を奮守すべし。

3. 中川隆[-12271] koaQ7Jey 2019年2月11日 08:38:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

陸軍中将 藤田茂の東京裁判史観・自虐史観(?)は GHQ やマッカーサーとは全く何の関係も無かった


もと陸軍中将、第59師団(衣部隊)の師団長だった藤田茂氏は、八路軍と
戦った自分自身の体験から次のように述べています(季刊『中帰連』第16号)

俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほと手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍はもつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。

討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み童なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。

(中略)実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった


藤田氏は、八路軍と日本軍の違いについて、こう述べています:

日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさしている軍隊に見えるわけだ。

家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。

こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、
米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、
手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nicchuu-hachiro.htm


▲△▽▼


「太原・撫順の奇跡」と呼ばれているものとは? 杉浦公昭
https://dai9jo.ti-da.net/e6710815.html

8/26付け北京日報に掲載された「改造日本战犯纪实:中国人的宽容让世界惊叹」を私の友人・近藤氏が日本語に全訳して下さました。

 「太原・撫順の奇跡」と呼ばれているものの実態を、可なり詳細に知ることが出来ました。

やや長文ですが、日中関係を知る上で大変重要と考えますので、以下に全文を掲載させて頂きます。

 世界情勢の違い、大国となった中国の立場から本来比較は困難と思いますが、当時の中国政府がとった人道的な処遇を、今の習近平政府が取れるかどうか疑問です。

習近平政府が今回「太原・撫順の奇跡」と呼ばれているものを、北京日報に公開したのは、日本だけでなく、中国人民にも学習させることに有ったと考えられます。

うかうかしていると日本人民も真実を学ばない遅れた人々にされてしまうと思います。

  しっかり学んで、立派な民族として近隣諸国とお付き合い出来るようにしたいものです。


日本戦犯改造のドキュメンタリー:世界を驚かせた中国人の寛容さ
(责编:刘戈、陈建军)[編集責任:劉戈・陳建軍]
2014年08月26日08:33 来源:北京日报2014年8月26日原文:北京日報


1956年,日本战犯站上了最高人民法院特别军事法庭被告席。前排右一为铃木启久,右二为藤田茂。

1956年、日本戦犯が最高人民法院特別軍事裁判所の被告席に立つ。前列右端が鈴木啓久、右から2人目が藤田茂。
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@ 撫順戦犯管理所:“再生の地”

国家档案局(資料保管部門)が7月3日から毎日一人ずつ45名の日本戦犯の中国侵略の罪業供述書を公表してきた。一人目の鈴木啓久は、日本軍第117師団中将師団長だった。彼の供述書の一節はショッキングなものだ。“私の記憶では、中国人5470人を殺害し、焼き払い破壊した中国人民の家屋は18229戸、実際はおそらくもっと多い。”

1956年、鈴木等45名の重罪戦犯は中国の裁判所で正義の判決を受けた。この判決では一人も死刑判決を受けなかった。他に1017名は起訴されず、釈放され帰国した。中国人の寛容さは世界を驚かせた。

さらに、戦犯の表現は驚異だった。全ての戦犯は余すところなく犯罪を認め、法に服し、中には主体的に死を以て償うことを望んだ。第2次世界大戦後の日本戦犯を裁いた裁判で、このような全ての罪を認め、罪を悔いた戦犯は他にはいなかった。

1964年3月、全ての日本戦犯は釈放され帰国した。1000余名の新中国による改造を経た戦犯は、“中国帰還者連絡会”をつくり、まれに見る勇気と誠実さで侵略戦争の罪悪を暴露し、“中日永久の不再戦”のために奔走し呼びかけた。
あの時日本戦犯を収容し改造した管理所は“再生の地”と称された。かつて、日本軍国主義によって仕立て上げられた悪魔は、新中国で良心をとりもどし、それぞれ戦争のロボットにされていた精神は人間性を回復した。

A “一人も逃げず、一人も死なず”

1950年7月19日、ソ連から来た有蓋列車が中国辺境の小都市・綏芬河駅に入った。ふつう、国際列車はこの駅でレール変更する。ソ連の鉄道は1529センチ、中国のは1435センチだった。しかし、この列車で交換されたのはレールではなく“乗客”だった。光を遮断した有蓋車の中には969名の日本戦犯が積まれていた。

中国側の収容専用列車が、ホームのもう一方に止まって、これらの戦犯を撫順戦犯管理所に運ぶために待っていたのだ。

1945年8月、ソ連赤軍は中国東北に進軍し日本関東軍を潰滅させ、一挙に60万余りの捕虜を確保した。ソ連の統計によると、あわせて577567人を日本に返し、ほぼ10分の1の捕虜が気候・病気等によりソ連で死んだ。新中国成立後間もなく、毛沢東はモスクワを訪問し中ソは友好同盟相互援助条約を結んだ。同時に協議し、ソ連は日本戦犯と傀儡満州国の戦犯を中国に引き渡し中国の法律に照らして処理し新中国の地位と権威を世界に示すことを取り決めた。

中国に引き渡された969名の日本戦犯はソ連が認定した“中国人民に対する重大罪業を犯した″者だった。

引き渡しの儀式は、綏芬河鎮(現在は市となっている)の役所の広間で行われた。書類上の手続きが終わり、中国側はソ連の責任者を宴席に招待した。中国側代表のひとり、東北公安部政治保衛所執行科科長・董玉峰の記憶では、当時は正に“中ソ友好万歳”の時期で、特に親しく乾杯を重ね、飲まされて酔いつぶされた。同行の幹部は、ソ連拘留管理局のクラトフ中将はほろ酔い機嫌で“こいつら戦犯は皆極度の反動・頑迷な悪者でどうしようもない奴らだ、殺すしかない。”と言ったのを覚えている。

これらの評判は、酒場の話であれ、本当の気持からであれ、中国側の日本戦犯への態度に影響することはなかった。中国側の戦犯受け取りの要請は、“一人も逃げず、一人も死なず”であり、これは、周恩来総理が特に言い渡したものであった。

B ソ連側のデマ:“お前たちはダモイ”

董玉峰は監視・管理の責任を負い、任務を受け取った時この要請を考えた。“一人も逃げず”はやさしい、“一人も死なず”は難しい、今後予想外のことが発生するかも知れない。

ソ連側では、はっきりとこのことを考えていた。あるひとつの嘘で、中国に渡す前に日本戦犯をおとなしくさせていた。一人ならず、日本戦犯は記憶している。ソ連人は彼らを有蓋車に乗せる時、“中国を経て日本に帰る”と通告していた。

ソ連の有蓋車車両が、20日開けられ、日本戦犯をひとりひとり点呼した。中国側は、ホームのもう一方で再度彼らの名前を呼び、日本戦犯はそれに答え、実弾を装填した中ソの兵士が監視する下で、中国の収容専用列車に乗り込んだ。

元撫順戦犯管理所看護士長・趙毓英も中国側の隊列にあって、日本戦犯が恐れてホームで躊躇するのを見ていた。彼女は思い出して話した。戦犯たちはひとりひとりちじこまって頭を下げ、きょろきょろ周りを見て、とても緊張して取り乱していた。それに、あの時は最も暑いときで、ソ連の有蓋車はサウナ状態で、戦犯は服装も乱れ、汗にまみれ、汚れきって、惨めななりだった。幾人かは、乗馬靴を履いた高級幹部がいて、威張った面持ちだったが、軍服は汚れ破れていた。汗が浸み出して正に身なりには合わない惨めな風だった。

C 中国医科大学卒業して、戦犯管理所勤務

趙毓英は、傀儡満州国の瀋陽生まれ、彼女は、自分は“亡国奴の子ども”だったという。中国を侵略した日本の鬼が捕らわれの身となったのを見て、“恨みは解け、貴方がたも今日がある!”

趙毓英は、その時瀋陽の中国医科大学を卒業したばかりで、高級介護専門科を学び、これまで、監獄や囚人との関わりは全くなかった。しかし、卒業の前日、学校の通知は、もう一人の優秀で品性の高い卒業生と一緒に東北戦犯管理所で3ヶ月の秘密の任務に就くことだった。管理所について彼女はこの任務が日本戦犯に対応することだとわかった。当時、彼女は、それから日本戦犯と数十年のつながりがもたれようとは思いもよらなかった。

趙毓英等専門の医療看護チームの随行は、中国が日本戦犯を接収する安全準備のためである。彼らは周到な準備をしていた。

日本戦犯を接収した汽車は東北鉄道局が配備した専用列車だった。ソ連の有蓋車ではなく、客車用車両が選定され、各人に座席があり、とても気持ちのいいものだった。窓は全てしっかりと閉じられ新聞紙が貼られていた。これは、戦犯が跳び出すのを防ぎ、また、彼らが襲われるのを防ぐためでもあった。もし、侵略・迫害を受けた東北の群衆が“乗客”を見つけたら、どんな行動に出るかわからない。

各車両には1名ずつ監視員が配置されたが武器は携帯していない。全ての指揮所には電話が設置され、突発的な事態に備えていた。

D “米飯と東北煮込み料理”

日本戦犯に用意された食物は、ハルビンで購入された数千斤の白パンと数百斤のソーセージ・塩卵だった。ソ連の担当員は、これらの食べ物を見てとても欲しがり、彼らの黒パンよりよっぽどいいとして、すべて交換した後、直接持ちかけ彼らの塩干し魚と交換して数箱のパンをもっていった。

中国の汽車で、戦犯が最初に食べたのは米飯と東北煮込み料理だった。趙毓英は記憶している。戦犯たちは見境なく一挙に食べ尽くした。一人の戦犯は彼女に“もう5年、こんな食事はしていない。”と言った。多くの者は、ソ連で厳しい肉体労働をして毎日、ただ1斤の黒パンと塩スープだけだった。飢えて、山菜・蛇・鼠を食べた。

おいしい食べ物、看守は厳しいが優しい態度であり、日本戦犯は落ち着いてきた。途中で唯一意外にも、一人の戦犯が急性盲腸炎になり、趙毓英等は牡丹江駅で降り、病院に運び応急手当てをした。

丸2日で、専用列車は早朝3時に撫順に着いた。管理所では準備万端、途中の道は短時間の戒厳体制がとられ、将校級戦犯と病人が車に乗る以外は、集団で歩いて管理所に送られた。

暗闇の中、撫順東北戦犯管理所の二階建ての本館は黒々とした輪郭を浮かび上がらせていた。戦犯たちは突然さわぎだし、この建物が、かつて人を震撼させ恐怖に陥れたものであることが分かった。

E そこは“撫順典獄”(てんごく)だった

戦犯たちの前に屹立する管理所は、彼らはもともと“撫順典獄”(撫順てんごくー天国)と呼んで、1936年関東軍が建てたものだ。14年前の建造者は、14年後の囚人となり、歴史の巡り合わせは一つの風刺のようである。なんと、この中には大村忍というかつて10年典獄長を務め、ここの恐怖と血のにおいをよく知っている者がいた。

撫順戦犯管理所は大村忍の供述書を保管し、彼の所業の部分は“私はかつて自ら尋問し拷問を加え、手かせ足かせ・竹刀などを使って・・”“1945年6〜8月、病死56名、死体処理では部下を好く監督せず、埋め方が浅かったので死体は犬に掘り出され・・“などと書かれている。

大村の経験では、ここに留置された者は残酷な扱いをされ最後には多くが死んだ。

F “終わった、一生石炭掘りだ”

ここに来たことのない戦犯にも撫順が重要な石炭産地であることはよく知られていて、ソ連で苦役を受けた者は“終わりだ、ここで一生石炭掘りだ。”と憶測した。

元管理教育担当の劉家常は記者に語った。ずっと後になって、戦犯はここに入った時の激烈な心理動転を吐露した。“彼らはいろいろ考えた。” 劉家常は笑いながら回想し、管理所はもともと撫順典獄として選ばれたのであり、彼らを侮辱する意思はなく、苦役をさせる考えもなく、逆に、彼らにさらに良い留置条件を提供するものだった。

しかし、もし撫順典獄のいわれを考えると、これらの戦犯はさらに泣くに泣けず笑うに笑えないであろう。正に、日本人が管理所をつくったその名目によって,正しく留置したのは違法な日本人だった。

日本は傀儡満州国の成立を図った後、満鉄を伴う行政権を傀儡満州国に渡し、日本の治外法権を撤廃した。これは、傀儡満州国政権成立のためのお芝居にすぎなかったが、日本侵略者はとても周到で、撫順典獄が示すように、日本人が傀儡満州国で法を犯したら、治外法権の庇護は受けられず、監獄に入れられる。そこで、日本は当時の“模範監獄”、建築・牢獄は一般より素晴らしいものを建てた。典獄長・大村忍は、ここに留置された数千人の中で、“日本臣民”は幾人もいなくて、ほとんどは中国抗日の志士だったとはっきり示している。“模範監獄”の外面の下で、掛け値なしの人間地獄であった。

その面積は6600u、そのうち3分の1は刑罰・尋問に充てられ、倉庫は100平方メートル余り、尋問室・絞首刑室・実験室・“鎮静部屋”等次々と。

G 改築された管理所:暖房・医務室・浴室・理髪室・運動場

日本戦犯を受け取る前、東北人民政府司法部は約40万元を投じてこの監獄の改築を行い、暖房設置、窓の拡張、講堂・医務室・浴槽などの新設をし、清掃をして、形状は運動場に改築し抗日軍民を攻めた“鎮静部屋”は理髪室と浴室に変わり・・獄中に図書室と映写室をつくった。

管理所に入った戦犯は、元の職階に基づいて各監房に分けられた。

全部で七棟の官房があり、第5・6棟には将校級以上が6人で1つの部屋。第3・4棟には将校以下が12人で1部屋、第7棟には病人、第1・2棟は同じくソ連から来る傀儡満州国の戦犯のために確保された。1か月後、溥儀と“皇族”・“大臣”たちがそこに入った。

ソ連からの戦犯意外に、地方公安機関からの4人、1956年には太源で判決を受けた9人が加わった。この他、100名あまりの解放戦争と新中国成立直後に逮捕した日本戦犯が太源戦犯管理所に収容された。新中国は、合わせて計1113名の日本戦犯を収容した。

管理所での初めての夜は、長旅の疲れと知らない環境・不確かな前途への恐れが入り混じってはいたが、まずまず静かに過ぎていった。夜が明け壁に貼られた通告を見て、戦犯たちは大騒ぎとなった。

H 戦犯かそれとも捕虜か?

通告の内容は管理条例と活動時間表で、特にどうというものではなかったが、戦犯をあわてさせたのは、公告の名義:戦犯管理所であった。

中国語を全く理解しない者でも“戦犯”の2文字は分かる。1945年に捕虜にされてから戦争捕虜として収容され労役が課された。

ソ連は1949年、ハバロフスク裁判で、12名の細菌戦を実施した日本戦犯に審理判決を下したが、中国に送ったものについては及ばなかった。直接、中国に入った彼らは、依然として自分は捕虜だと認識していた。

捕虜と戦犯、これは同じではない。まったく異なる運命。

捕虜は犯罪ではなく、戦後には釈放・送還されるべきで、ソ連人も承諾した。戦犯は戦争犯罪者で裁判にかけられ断頭台に送られる可能性がある。

一字の違いだが、生死にかかわる。ある者はすぐ引きちぎって“抗議”するとわめいた。あるものは、扇動しそそのかし情緒不安になった。すぐに騒動が起こり、監房内は騒然とし、ハンストさえ始まった。管理所はすぐに対応し、見張り台には機関銃が設置され、警備担当者は銃を携行し、刀も持った。巡視は5分に1回と頻度を高め、軍靴を履き、“カッカ”と音を立て、威嚇の態勢をとった。実際は、日本戦犯に見せるだけで、兵士の銃は脱獄か暴動など極端な時に使われるものだった。実際の懲戒は、自由活動時間の短縮、少数の騒ぎの首謀者が独房に収容されるというものだった。

情況はすぐに落ち着いたが、決して簡単に自分の身分を受け入れたわけではない。戦犯と捕虜は未来を分けるだけでなく過去を決める。彼らは中国侵略時の全ての行為は犯罪ではないとした。

自己の罪業の否定・心理は同じとはいえない。ある者たちは、自己の犯したことをはっきり分かっているが、全てを国家と戦争のせいにし、自己を免れようとした。さらに多くの者は、日本軍国主義がつくり出した悪の花であり、根本的に中国を侵略し中国人を虐殺したのは犯罪であるとは認識しない。彼らはいかなる悔恨もなく、捕虜の身分に対しても不満で不当であり“武士道”にそぐわないと考え、改造を拒み、逆らうことが“武勇”であると勘違いした。

騒ぎはすぐに収まったが、抵抗は続いた。


I “文の武部、武の藤田”、“毛主席に会わせろ。”

ある日、元59師団中将師団長・藤田茂は管理教育幹部・金源のところに来て、所長・孫明齋に会わせろと迫った。金源は流暢な日本語で2人の通訳に当たった。

藤田茂は戦犯の中で階級が最も高い一人であるばかりか、ゴリゴリの軍国主義文死だった。ソ連から撫順に来た時、彼と、長年傀儡満州国“太上皇”にあった武部六臓は一貫して日本戦犯の中心的人物で“文の武部、武の藤田”と言われていた。

金源の回想によると、藤田茂は長い間、軍国主義分子の象徴である仁丹髭を保っていた。孫明齋と会った時、藤田茂の態度は尊大で、“俺は毛主席に会いたい、手配しろ。”と言った。

孫明齋穏やかに笑いながら、気持ちを押さえて“話があるなら私に言いなさい。”と述べた。

藤田が言うには、収容されているのは全て捕虜だ、戦争は終わった、釈放して帰還させるべきだということだった。

孫明齋は彼に告げた。“ここには捕虜はいない、戦犯だ。あなたは罪業が重大な首謀者の一人だ”。藤田は当然不承知で2人はやり合った。孫明齋は、道理と威厳を以てしばらく諭したが藤田は全く聞き入れない。最後に孫明齋は起ちあがって、半ば命令、半ば鄭重に“あなた、《帝国主義論》をよく読めば、帝国主義がどんなものか、自分の思想に照らしてあなたが戦犯かどうかがはっきりわかる。”と言った。

藤田は去った。別の重大人物がやってきた。彼は傀儡満州国高等法務官を担当し、“法律の権威”を自認し、“国際法”・“国際公約”を大いに語り、いろいろ引用、筋道を立て、彼らが捕虜であり戦犯ではないと証明しようとした。

戦犯たちはもう大規模な騒ぎを起こさず、転換して連名で《抗議書》を書き、それを国連に渡そうとして、自分達は“不法な待遇”を受けていると称した。

J 国際法に照らして

劉家常は言う。戦犯が“国際法”の概念を持ち出して来た時、管理所は本当にいささか焦った。誰も“国際法”なるものを知らなかった。そこで、手を尽くして関係資料を取り寄せ、まず、幹部に学習させた。

“国際法を学んで、多くの幹部はとても腹が立った。” 劉家常は言う。

“あの戦争に対する罪・戦犯の定義、一つ一つがこれらの日本戦犯に当てはまるのに、彼らはまだ国際法を敢えて論じるのか?”

日本戦犯が国際法の定義を持ち出すからには、国際法で反撃しよう。

管理所は集団学習を組織し、特に戦後の戦犯を裁いたときに制定・応用された一連の法律条文を学ばせた。

ニュルンベルク裁判より適用された《国際軍事裁判所憲章》は、初めて戦争に対する罪の種類とランクを規定し、A級戦犯とは、平和に対する罪を犯した戦争指導者であり、日本のA級戦犯は既に極東軍事裁判で判決を受けていた。撫順に収容された戦犯はB/C級に当たる。

“戦争罪“この1条についてだけでも、誰も逃れられない。戦争放棄と慣例に違反し、占領した国あるいは占領地の一般民衆の謀殺、虐待、奴隷労働またはその他の目的のための拉致・追放、捕虜や海上にいる人に対する謀殺・虐待、公私財産の略奪、非軍事施設の破壊…。

本当は、あの国際法を持ち出してきた戦犯はしらばっくれているだけだと見られ、これでは彼らの態度を変えられない。しかし、多くの下級の戦犯は、もともと国際法の戦争罪と戦犯の定義を知らない。これらの学習は彼らに自分の行為を反省させた。戦犯は逃れられないもので、その身分を受け入れることが正に罪を認める始まりであった。

K 徳を以て怨みに報いる

日本の戦犯は、戦犯と捕虜の身分で混乱していたが、管理所のスタッフは別の内心葛藤を経験していた。これらの日本人は仇なのかそれとも犯人なのか?

管理所出発時、全部で145名のスタッフがいた、多くは軍人出身、抗日戦争の経験があり、日本軍との生死を分かつ闘いを経験していた。初代所長・孫明齋、副所長・曲初は歴戦の革命家で、孫明齋のおじさんは日本軍のシェパードにかみ殺され、曲初の脚の傷痕は日本軍から賜った、その他の者もそれぞれ日本兵の“血涙の記録”を書ける。最も極端な例は、王興という看守員で10歳の時7人の親族が日本軍に刺し殺されるのを目撃した。

最も若い趙毓英等であっても、日本の侵略をわが身で体験していた。彼らが日本戦犯に対応する眼差しは憎しみを伴った。しかし、スタッフとしては、個人の深い怨みは差し置いて、無条件で命令に服し、戦犯に対し“3つの保障”即ち人格を侮辱しない保証・生活条件の保障・身体の健康保障を実施する。孫明齋所長はみんなに思想教育をしたが、自分に説得するようだった。“私はみんなが納得していないことを知っている、実は私も初めは納得していなかった、

しかし、周総理は言った。゛20年後我々の仕事を振り返った時その意義・価値がわかる゛″。当時のスタッフは皆、孫明齋が言った例えを覚えている。“我々は今抑制し自分の感情を犠牲にしている、これも戦闘だ、あの時は戦場で日本兵と刺しあった。当時は武装し何も怖くなかった、今、彼らを改造するのに何の難しいことなどあるものか?”撫順戦犯管理所は、判決前の戦犯を収容するところで、“監獄”とはいえない監獄だ。監獄というと、暗く、冷たく、残酷で、怖いイメージがある。ここでは、自由がない以外、本当の囚人よりもずいぶん優遇されている。
最初の数日、提供した食事は雑穀を混ぜた高粱飯・饅頭が主だった。当時の中国人の水準から言えば、これはミドルより上のものだった。管理所の職員が食べていたのもこんなものだった。

それでも戦犯には我慢できなくて、まず拒絶し、食事を家畜用の桶に投げ捨て、続いてハンストに進んだ。

幹部は怒って言った。“彼らは食べなくても飢えない。この雑穀を食べなければ、次もこうしてやれ。”

ある者は“桶には餌があり、驢馬は死なない、数日はいいことだ。”と言った。

しかし、数日たっても、頑迷分子はずっと絶食した。どんな原因であれ、管理所で戦犯が餓死したら悪い影響があるので、すぐに状況を上級に報告した。

間もなく東北公安部は周恩来総理の指示を伝えてきた。戦犯を将校・少佐・将官以下の3ランクに分け、小・中・大の3種類の待遇をすること、全て白米と小麦粉を出すこと。

具体的な食事ができると、多くの幹部は理解できなかった。これらの戦犯の食費は最低0・42元、最高1・54元だった。これは何ということか?当時最良の東北米は1斤0・1元、豚肉は1斤0・3元した。最低ランクの戦犯の食事でも、管理所職員のレベルをはるかに上回った。このような“牢飯”(監獄の食事)はおそらく世界のどこにもなかっただろう。

戦犯は、食べ物もよかったが、たばこを吸うものは毎月紙巻きたばこが支給され、毎週風呂に入り、毎月散髪し定期健診を受けた。春と秋には、運動会が開かれ、祝日には会食した。医務室には、中級医院を超す設備があり、後遺症がある者は義肢を作ってもらった。


L “真冬にトマトがあるものか!”

趙毓英は高級介護の専門を学んだ。さらに“栄養看護士”の任務は戦犯にメニューを作り栄養のバランスを保証することだった。

毎日、趙毓英がメニューを作り、裏方で買い出し担当の高震が伝票を見て買ってきた。高震は後に趙毓英の夫になった。(2人は結婚した。)“あの時、2人でよく喧嘩したものよ、彼は私に不満たらたらで、゛あんたのつくるメニューの注文は季節を考えていない゛、真冬なのにどこにトマトがあるんだ?゛鮒がほしいと言った時、漁師は日本人に食べさせると聞いて、俺を裏切り者だとひとしきり罵ったよ。”趙毓英は思い出して笑いながら言った。

怨みを抱けば恨みで返される、高震はやはり手を尽くして買いそろえた。炊事担当者も気持ちは同じで、食材を洗う時わざときれいに洗わないで鍋に入れた。これはすぐに発見され指導部の厳しい批判を受け止まった。

趙毓英は言う。毎回の会議で指導者たちは“3つの保障”、規律厳守を強調した。私達もしだいに理解し、戦犯を優遇した。人道主義の実践だけではなく、彼らを改造するやり方だった。中国人がどのように彼らに対応するかを見せること、反省させどう中国人に接したらいいかをわからせることであった。

中国人の徳を以て怨みに報いるは、日本戦犯がなくしていた良心に問いかけるものだった。

M“母親のように私の面倒を看てくれた。”

“文の武部”と言われたのは、日本戦犯を明示する人物、武部六臓である。彼は1940〜1945、傀儡満州国国務院総務長官を任じ、植民地統治の首謀者で、特に頑迷で一貫してすべて“満州国建設を助けた“と宣言した。

1952年、彼は脳血栓を発生、医療看護チームの昼夜にわたる救急治療で助かったが、寝たきりになった。彼を世話するため、管理所は焦桂珍を派遣し専属看護士とした。

武部六臓の1日3食全て焦桂珍は一掬い一掬い口に運んだ。彼が大小便を失禁すれば、焦桂珍はおむつを替え毎日洗った。1956年になって、仮出所するまで彼は4年間床を離れることができなかったが、床ずれ一つできなかった。

審判を受ける前、武部は六臓は最後には全ての罪業を供述した。60数歳の武部六臓は、30数歳の焦桂珍のことを“母親のように私の面倒を看てくれた。”と形容した。


N 石さえもうなずく

朝鮮戦争の勃発により、安全のために管理所はハルビンに移した。

1952年、撫順に戻った後、中央は新しい指示を出し、戦犯に対し罪を認め批判する教育を始めさせた。

それはこの間ずっと進められてきたもので、例えば、集団的理論学習、帝国主義・軍国主義の本質への理解等。これらの教育の主なやり方は発表・罪の告発であり、各人の具体的な罪に及んだ。

戦犯は必ずしもおとなしく告白したわけではない。ある者は罪を認めることは懲罰を招くと恐れ、ある者は軍国主義の亡霊から脱していなくて、ある者は隠蔽し、ある者は直接抵抗した。

この局面を打開するため、管理所は、“大和魂の手本”と称する鹿毛繁太を突破口とした。

鹿毛繁太は元傀儡満州国錦州市警察局警務長で、在任中、無人区を作り、抗日人士を殺害・・その罪業は山のようだった。管理所に入った後も鹿毛繁太は規律を守らず、管理に服さず、看守に挑戦し、罪を認めた者を脅し、騒ぎを起こした。

看守を公然と侮辱した後、鹿毛繁太は独房に収容された。

劉家常は記者に語った。管理所がもし優遇懐柔政策だけを採ったら、強行分子は更に居丈高になるだろう。我々は肉体的刑罰を採らなかった。しかし懲罰がないというわけではない。独房収容はある種の懲罰である。

鹿毛繁太は独房の常連で、当初は意味をなさず、2・3日で出されるだろうと思われた。しかし、今回の出る前提は、自己点検と罪を認める文書を書くことである。

独房拘禁2日後、鹿毛繁太は10数文の自己批判書を渡し、金源によって書き直しを命じられ、4回書き直してやっと通過した。これだけでは終わらず、管理所は全体の前で自己批判することを要求した。鹿毛繁太はあわてて、“考えさせてくれ”と願い出て、7日後、鹿毛繁太の悔恨の声が拡声器から流れてきた。“私は自分の誤りと罪業を検討し…”

O “大和魂の手本”

このように懲罰を通したものは極めて少なく、多くの者は各種の教育によって、また無言の感化によって、侵略戦争中の自らの行為を注視した。良心はよみがえり、邪悪から脱した。

“直接、間接に手にかけ、殺した中国人は少なくとも6000人、いや、はるかに多い・・”かつて傀儡満州三江省警務総局特務所調査課長を歴任した島村三郎は《中国から帰った戦犯》の中で書いた。管理所の日々、彼はかつて迫害した人の顔をひとつひとつ頭に浮かべ、

“自分が指揮し凍りつく大地で30名の抗日戦死を殺害した、捕虜を生き埋めした、無辜の一般民を切り殺した、生きたまま焼き殺した時の叫ぶ声、トラックに押し込んで731部隊の生体実験に送り込んだ…”

日本軍国主義は彼らを戦争ロボットと血に飢えた鬼に造り替え、鮮血と暴行が彼らの興奮剤だった。戦争が終わり、軍国主義の亡霊は消え、一つ一つこれらの罪業を思い出すのは苦しみではあるが、これは懲罰であろうか。

古海忠之、傀儡満州国総務庁次長、“太上皇2号”と称され、武部六臓が倒れた後、彼は戦犯中の文官職代表となった。“文の武部”は“文の古海に変わった。そして戦犯たちは見た。古海は心から後悔し、“私の過去は完全に人の顔をした獣の鬼だった、私は千万中国人の尊い生命を奪い、億万の財産を略奪した重大責任は逃れようがない″“いくら死してもその罪悪は洗い流せない。”

“武の藤田”の藤田茂も罪を認めた。彼は広島の出身で、原爆が故郷で爆発し広島の惨劇を見た、それは何と管理所で見た日本映画《原子爆弾》だった。この頑迷な戦犯は考え始めた。

“日本の悲惨はどのようにつくりだされたのか?中国の以前の惨状は誰がつくり出したのか?”

彼は自分の戦争中の暴虐を思い出した。゛全体教育で語った。兵を戦場に慣れさせるには、殺人が手っとり早い、肝試しだ、これには捕虜を使うのがいい。刺すのが撃ち殺すより効果的だ。“彼は自分の罪業に量刑を科して、もし私の罪を論じるなら何回死刑にしても万分の1も償えない。”

1950年から1955年まで、撫順と太源の両管理所で1113名の戦犯全てが反省し罪を認めた。それぞれ自ら自分の罪の供述を書き、最後の審判の時を待った。多くの者が自分は“死をまぬかれない”と思った。


P “一人も殺さない”

筆舌に尽くしがたいとの形容は日本が中国に対して犯した罪悪にぴったりだ。

1954年3月、最高人民検察院は拘禁した日本戦犯に対して“犯罪追及処分”の決定を出した。この後2年間の内に、700人で組織された調査尋問団が撫順と太源両管理所にやってきて、全ての日本戦犯の罪業について審査・尋問・事実確認を行った。

この千名以上の戦犯の罪業を報告書にまとめたが、驚くべきことに“彼らが直接殺害した中国民衆と捕虜は857000人に上り、焼き払い・破壊した家屋は78000か所、略奪した食糧3700万トン、石炭2.22億トン・・かつて“武勇”“忠孝”の行為とみなされていた、現在では良心の呵責と反省となった。深く反省した戦犯は自分が“死んで謝罪する”しかないと思い、28名は調査団に処刑願書を渡し、主体的に死刑を申し出た。

藤田茂も死を自認した戦犯のひとりだった。彼は当時の内心を回想録に書いている。“《ポツダム宣言》により、捕虜虐待は重刑。国際法廷の審判ですでに1200名以上の日本軍官が処刑されている。しかるに私は、一戦で86名の捕虜を殺害した。分かっている。これだけでも死刑だ。”

血の債務は血で償う。情も法もこれらの日本戦犯にはその末路は決まっている。しかし、最高人民検察院は彼らの犯罪事実と態度により寛容な処理の原則を採った。最初、中央に報告した公訴方針案では、多くは起訴を免れ、起訴は105名、そのうち70名が極刑だった。

これは既に寛大な処理の公訴方針案であったが中央に否定された。周恩来は報告を訊いて指示を出した。“日本戦犯の処理では一人も死刑にしてはならない、また一人も無期懲役に処してもならない、懲役刑も極力少なくすること。起訴状は基本的罪業をはっきりさせ、罪業確定後起訴し、一般的罪業は不起訴とする。”

“殺さず、判決は少なくする”(死刑はなし、起訴を少なくし、量刑を少なくする)の中央決定の精神に基づいて、最高人民検察院は繰り返し検討縮小し、最後に起訴人数は45名のみとした。

Q 被告は裁判官席と傍聴席に向かって跪いた

1956年6月19日、戦犯を裁く特別軍事裁判所が瀋陽で開廷された。鈴木啓久が最初に被告席に上がった。彼は最も重大なひとりで、かつて6回の虐殺事件に関わり毎回全村壊滅、これらの事件の生存者が証人として出廷し、鈴木は法廷で跪いて罪を認めた。

7月1日、島村三郎が被告席に上がった日。《中国から帰った戦犯》の中で、彼は“罪を悔いてから、長いことこの日を待った。私は死刑の形で自分の人生を終了することを願った。”と書いている。

夏の蒸し暑い法廷では、氷が用意されてはいたが、島村の衣服はぐっしょり、全神経が固まり、汗をふくことさえなかった。

裁判長が公訴書を読み上げ、島村の当該陳述になった時、彼は突然両膝をつき、声を押し殺して泣きながら、“抗日鎮圧の行動中、私は警察に命じて、厳しく拷問させ、極刑に処し・・私はこの絶叫をきいても動かされず、それを楽しみとさえして・・私はその時、鬼であり人間性を失った鬼、私はこんなにも多くの善良な人の子どもを惨殺し一滴の涙も流さなかった・・”

戦争後、世界では戦犯に対して10数か所で国際法廷・軍事法廷が開かれ、審理は延べ数千回に至ったが、新中国最高人民裁判所特別軍事法廷のようなことは見られなかった。45名の戦犯は裁判所が指摘したすべての罪業を認め、弁解はなし、逃れることもなかった。被告席の多くの戦犯は涙を流し激しく泣き、膝を屈し、裁判官席に向かって、また傍聴の中国民衆に向かって跪いた。

傍聴の外国人記者は、“中国の裁判は、検察官と戦犯・被害者と戦犯・証人と法務官と戦犯・裁判官と審判を受ける者それぞれ立場は異なるが、厳粛な法廷で、戦犯と全ての人がそれぞれ日本軍国主義の暴虐を暴露した。これは国際裁判史上例がない。”と論評した。


R 死刑なし、最高でも懲役20年・刑期はソ連抑留から算定

7月20日になって、瀋陽と太源の特別法廷は、4回に分けて判決を行った。起訴された戦犯は死を以て謝罪することを想定したが、中国の裁判官は一人の死刑も出さなかった。鈴木啓久・武部六蔵・藤田茂等罪業の最も重い者でも懲役20年、且つ、刑期はソ連抑留時から計算された。更に意外だったのは、45名以外、その他の戦犯は全て起訴免除、2回に分けて釈放し日本に送還された。

判決後、刑が確定した戦犯は撫順戦犯管理所に集められ、服役改造に臨んだ。ここは以後、撫順戦犯監獄と改められた。武部六蔵は重病のため、判決後間もなく仮釈放され帰国した。もう一人は獄中で病死した。

1964年3月、最後の3名が繰り上げ釈放された。この時、彼らが新中国の拘禁改造された時間は合わせて14年だった。1931年九一八事変から1945年日本の投降まで、日本が中国を侵略したのも14年間だった。


S 帰国の航路で “中帰連”誕生、その遺産

天津塘沽港から船で舞鶴まで4日かかる。これが日本戦犯の帰国の航路だった。
1956年6月21日、1000余名の戦犯は新中国政府の起訴免除を受けて、日本の客船“興安丸”に乗り込んだ。4日の航行中、“中国帰還者連絡会”と名付けられた組織が誕生した。“興安丸”が舞鶴港に到着し、多くの者は撫順管理所が支給した服、それは中山服を着ていた。日本の当地の政府機関が彼らのために“大日本帝国”時代の軍服と軍靴を渡そうとしたが、一人も受け取らなかった。2日目、“中帰連”は《日本国民に告げる書》を発表し“自ら犯した過ちを認識したなら、どうして再び過ちを犯すことがあろうか?我々は絶対に戦争に反対する、戦争に向かう軍国主義に反対すると述べた。


帰国後初めて登場したのは、文芸報告の形式だった。1956年10月14日、千代田区公会堂には《団結こそ力》・《東方紅》など中国革命歌が響き渡った。


○21 “赤色分子”・“過激分子”・“洗脳”

ソ連と中国に10余年拘禁されていたので、奇異な目で見られ、自分の生活を作ろうとすると多くの干渉を受けた。警察が常に思想調査し、ソ連・中国の情報を提供することを迫られた。会社や社会では、“赤色分子”・“過激分子”のレッテルをはられた。

島村三郎は《中国から帰ってきた戦犯》で書いている。“我々が帰ってきたとき、新聞・雑誌には”洗脳“の新語があらわれ、自己改造に対して、風刺・嫌がらせの限りを尽くした。”

実際は、彼らに対して“洗脳”したのは日本軍国主義であり良心を捨て去り邪悪を注いだ。新中国の彼らに対する改造は、それを“洗脳”というなら、邪悪を洗い流し良心を喚起したのである。

戦争の罪悪を暴露し世界平和を守るため、“帰還者”たちは、彼らが中国で拘禁されていた時に書いた《懺悔録》の中から15編を選んで、15枚の写真をつけて《三光》を出版した。これは10日の内に6刷が増刷され、戦後の売上高第2位となった。


○22歴史を忘れない〜“中帰連”から“奇跡を受け継ぐ会”へ〜

1963年、藤田茂は繰り上げ釈放を得た。彼は帰国後“中帰連”の会長となった。このかつては、熱狂的な軍国主義分子、“武士道精神”の忠実な信徒は、60歳にして日本の平和人士の旗印となった。彼は不断に会員を伴って各地を講演して回り、中国政府の戦犯に対する人道主義的な対応を紹介し自分の経歴を使って、民衆に戦争への反省を説いた。

“中帰連”成立後、中国労工の遺骨を探す活動を提起し、日本に連れてこられた中国労工の遺骨を収集し、募金を集め、遺骨を中国に返した。藤田茂は6回中国を訪れ、また管理所のスタッフの来日を招請した。しかし、ついにこの後者(来日)を実現することはできなかった。1984年、元所長・金源、第1代所長・孫明齋等が団体で訪日したが、藤田茂をはじめ“中帰連”の多くの老兵はすでにこの世を去っていて、親族が遺骨を持って出迎え、これら老兵の願いを果たした。藤田茂はこの世を去る時、1972年周恩来総理が彼に贈った中山服を身に着けていた。

1988年、“中帰連”会員は22万元を集め、撫順戦犯管理所内に純白大理石の謝罪の碑を建て、背面には中日両国の文字で次のように刻印されている。:日本軍国主義の中国侵略中、我々は放火・殺人・略奪など人を激怒させる罪業を犯した。収容期間中、中国共産党・政府と人民の革命的人道主義の待遇を受け良心を回復し・・ここに碑を建て、抗日殉難烈士に心からの謝罪を表明し再び侵略戦争を許さないことを誓い、平和と日中友好のために貢献する。

時の流れと共に、ますます多くの“帰還者”が世を去った。2002年、生存者はわずかに100人余りとなり、その多くも風前のともしびとなった。この1年、最後の会長・富永正三も逝去し、“中帰連”は解散の運命に臨まざるを得ない。
実態は消滅させても精神は続く。“中帰連”が解散したその日、“撫順の奇跡を受け継ぐ会”が成立を宣言した。そのメンバーは“中帰連”会員の次世代の子どもたちと中日友好に尽力する青年である。彼らは侵略戦争の証拠を記録し季刊《中帰連》を編集し、反戦老兵の遺志を継承している。

歴史は特別な人たちが消えても忘れ去られるということはない、“撫順の奇跡を受け継ぐ会”は、このことを証明している。

○23《謝罪の碑》とアサガオ

撫順戦犯管理所の謝罪の碑の傍らには、アサガオの花が咲き誇っている。

この花の種は副島進という戦犯によってもたらされた。彼が釈放され帰国する前に、中国のスタッフが彼に一握りのアサガオの種を送り、告げた。“あなたは中国に来た時、武器を持ってきたけれど、日本に帰る時はこの花の種を持って行って。今度中国に来る時は花を持ってきてくださいね。”

帰国後、副島進は自宅の庭にその種を播き、大事に育て、できた種を近所に贈った。2007年、副島は世を去ったが、夫人が新しく育てたアサガオの種を撫順戦犯管理所に贈った。日本戦犯の謝罪の碑の傍らにはこのアサガオが旺盛に生長している。
https://dai9jo.ti-da.net/e6710815.html


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撫順戦犯管理所


1950(昭和25)年7月、スターリンと毛沢東の間で交わされた取り決めによって、私は中国に対する戦犯として、969名の仲間と共にソ連から中華人民共和国へ身柄を移されました。拘留された撫順監獄の正門には、「日本人戦犯管理所」と大書されていました。それでも未だ自分が「戦犯」であるなどとは思ってもみませんでした。「戦犯とは、戦争を発動した天皇をはじめとする一連の指導者たちだ」とばかり思い込んでいたからでした。

 この監獄は、昔日本人が「反満」「抗日」分子をぶち込み、拷問や虐殺を行っていた所と聞きましたが、今や巨額の資金をつぎ込んで改修された、清潔で、明るく、スチームなどを整えた近代的な監獄でありました。そして不思議にも、ここでは「強制労働」はなかった。

 米の飯をたらふく食わせて、勝手に遊ばせておくのです。日本人戦犯が傲慢な、侮蔑するような言葉を投げかけても、看守たちは軽く受け流す。中国の工作員たちは、彼らにとっては正にその「敵」であるこの我々を罵りもしなければ、殴りもしないぱかりか、食事、運動、入浴、理髪、看護など生活のすみずみまで、皆一様に世話をしてくれるではありませんか。皆、その真意を疑いながらも、頭を下げざるを得ませんでした。


「撫順戦犯管理所」の生活の中で、最初に私の心を強く打ったものは、私たちに接する中国の工作員たちの「人間的な偉さ」だった。彼らは唯の一度も我々を罵ったり、手を振り上げたりなどはしなかった。そして親身になって世話をしてくれた。衣食住は、至れり尽くせりだった。労働はなかった。

 伝え聞くところでは、工作員の殆どが日本軍によって肉親を奪われたり、家を焼かれなどしている被害者だったという。孫所長は叔父を、呉指導員は父と叔父を、また看守の一人は自分以外の家族全員を、日本軍によって殺害されたという。その彼らにとって、我々は当然「憎むべき敵」である筈だ。にもかかわらず、彼らは私たちにこのように献身的な奉仕をしているではありませんか。私は、日本軍が捕虜など人間と思わず、拷問したり、虐殺したりした仕打ちを思い浮かべて、大和民族と自己とを深く恥じ、彼らの偉大さに心から敬服した。

http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/01/ebato_taiken_hansei.htm


戦犯管理所の思い出


▼資料解説 

座談会が開かれたのは1956年6月22日、戦犯たちに不起訴の決定が通知され、第一次の釈放のあった日の翌日に開かれた座談会ということになる。

日本への引き揚げ船に乗る前、天津市の恵中ホテルで開かれた。

出典は『人民中国』56年8月号である。


編集部 

みなさんは、まもなく中国を離れて日本にかえられます。中国にいられたあいだのいろんな状況やこんどの釈放をめぐる御感想をきかせていただけるなら、『人民中国』の読者の方がたも―もちろん読者のなかにはみなさんの御家族、親類の方やお友だちもいらっしゃると思いますが―ひじょうによろこんで下さると思います。そこで今日はとくにみなさんに集まっていただいて座談会をもよおした次第であります。


大澤剛(司会) 

座談会にはいる前に中国人民に感謝します。きのう私たちは中国人民政府から、自分たちの過去おかした罪からみて、考えもしなかった寛大な処理をうけ、間もなくなつかしい親兄弟のいる日本に帰ろうとしています。中国をはなれるにあたり、六年間のさまざまなことが思い出されます。昨日寛大な処理を聞いたときのことからまず感想をのべあって見たいとおもいます。


中島宗一 

そうですなぁ、わしや偽満州国の警察に長くおったんですが、あの昨日の自分たちに対する処理を宣告された時、検察員先生の方が、ここにいる戦争犯罪者は人道主義に反し、国際法に反した罪行を犯した者と言われました。私もひとつの例をあげてみるならば、日本が東北を侵略した時、これに反抗して立ち上がった抗日軍を指揮した趙尚志将軍を道案内したというたったひとつの理由でオロチョンの方をとらえ、日本刀で首をきり、さらにその上脳味噌を取り黒やきにして薬だといってのんだ、人間では考えられない行爲をした自分が、だんだん人間としての気もちをもつようになり、私のやった事が本当に悪いことであることを知り、当然中国人民に厳重な処罰をうけなくちゃならないというふうに考えていました。それがこのような寛大処理の恩典によくして、あの時の自分は電気にうたれたようになりました(一同同感の声)。あの時の感謝と感激は一生忘れられません。

伊東恒 

私はあの日撫順で釈放を言い渡されたときのあの廣間にはいった時、私が待っていた裁判が始まったと考えていたのです。だが私はあの検察員の方から中国政府の私たちにたいする起訴免除の決定発表をいわれた時自分の事のような感じはしませんでした。何か私にはピンとこなかったのです。そのうちに名前がよばれたんですが、私の名前があった、その時の気持は何と表現してよいか分かりませんでした。私が過去やったことが走馬燈のようにぐるぐると頭をかけめぐり、複雑な感じでいつの間にか涙がぽろぽろ出るのを禁じられませんでした。

過去陸軍士官学校を出て日本軍の指揮官、教育者としての日本の農村漁村の、本当に純朴な年を東洋平和の為だとか聖戦だとかでだまし、中国へ侵略にかりたてて来たのです。皆さんもごぞんじのように杭州湾上陸につづいて侵入し、杭州一帯の地域で砲兵を指揮し、何のつみとがもない住民まで砲弾で射ち殺し、平和な部落や寺院を破壊したり放火したりしました。そのご憲兵に変りましてからも一生懸命あの兇悪な憲兵の下士官兵を3000名近く教育しました。そしてこれらの者は中国全土アジア全地域にわたり世界歴史上例のない、野蛮残酷な罪行を行って来ました。こうした私に対する決定をきいた時、ただ本当に申しわけなさでもう私は何とおわびしてよいか分かりません。あの時の感激は一生を通じて忘れることは出来ません。


久保田源次郎 

わしも年より役として一言いわしていただきます。私は過去25年の長い間日本軍隊の將校として多くの部下を教育し、また部隊長として戦争に出て行きました。こういうことは国家の為だ人民の為だとか日本はますます国力が大きくなるのだとか、あるいは結局のところ自分の名誉であるとさまざまなことを考えてましてあまたのいくさを行いました。その上、東北では十年の間偽満州国、ことに偽蒙古軍官学校に勤めまして、蒙古の純朴な年を日本軍の軍隊の手先として中国人をもって中国人と戦わすというように、皆さまとちがったあくらつな考えのもとに多くのことをやって参りました。また師団司令部管区の参謀長として偽蒙古軍の司令官を傀儡と致しまして、その人たちの名前のよって私が自分勝手な命令を出して多くの部下や部隊に多くの人民を惨殺する行為をおこなわせました。

いま申しましたように自分の罪行のことを考えると、私は当然死刑もしくは重い刑に処せられ、撫順の管理所において死を待ち、日本に帰れないと考えていましたが、撫順であまたの中国人民の方々の傍聴されている前で起訴を免除されて釈放されるということを聞いた時、まったく夢ではないかと考えました。被害者の方々にまことに済まなかったと、胸がいっぱいです。(同感の声)


岡本鉄四郎 

私は過去大隊本部情報係下士官として抗日軍を120名も逮捕し、椅子にしばりつけ竹刀で殴ったり革で殴ったりして取調べたあと、小さい薄暗いしかも最も不衛生な廟の中に押し込んで、たったアンペラ一枚を与えるだけで、布団もなにもやらず、一日1人たった200グラム、高粱の饅頭を支給しただけで虐待して来ました。長い間、こうして虐待したために多くの人が栄養失調になり、本当に骨と皮ばかりになった人が多くありました。

そのうちの2名の人を医療手当もせず、ついに殺してしまいました。しかも捕虜の家族の方が監禁している廟の近くに来られたことがありましたが、そのときの私は自分の部下に命じてその婦人を縛らせ、さんざん罵倒し、ぶんなぐったあげく、差入れをしようと持って来た饅頭と南京豆をかっぱらって追返してしまいました。また捕虜の方々を後手にしばり、早く歩かないといって、けっとばし、軍刀のサヤで殴り、暴虐の限りをつくし、この方々を鄭州の捕虜収容所に送りました。そうした人々は、東北の昔の偽満に送られ、軍事工場の建築に使
われ、次から次へと殺されてゆきました。

 私は捕虜を虐待殺害したこの罪行を見ただけでも、国際法規と人道主義に違反したことがあまりにも明らかです。それなのに、今日このような寛大なお許しを得たのですが、なんとおわびしてよいか分かりません。


司会 同感です。私自身も東北の憲兵として、中国人民の土地の上に陸軍官舎とか軍事基地を設け、演習場を作り、中国の平和な農民が自分の土地を歩いていただけで、とっつかまえて拷問し、そのあげく、私自身二階の窓から突き落とすようなことまでしてきました。これが自分の過去の姿であり、このような自分の罪行をふりかえってみる時に涙なくしてはおられません。

 私たち戦争犯罪者は、誰を問わず皆このように罪深い罪行を犯したものなのです。こんな事を国のお父さんお母さんが聞いたら、どんなに嘆くか知れません。


一同 まったくそうですね。


司会 

供を育てて人殺しに仕立てようとは親逹は考えていなかったのです。戦争を起して儲けた者は、ほんの一部の者で、私達にはなんの利益もありませんでした。中国の人びとは戦争で、どれだけ多くの人びとが、そのお父さんを殺され夫を殺されていったことでしょう。それを思うとこうして、お許ししていただいたことをまことに申し訳なく思います。


久保田 

傍聴席の人のなかには、肉親を殺され、現在この世に居られない方の遺族がおられたことと思います。平頂山事件で三千名の中国人民が殺害されたときたった一人生き残った方素栄さんのような人もいたでしょう。私はそのことを考え、泣かされて来ました。


石田傳朗 

私はあの釈放を言い渡された廣間にはいった時、それとなく二階の傍聴席を見たら政府機関の人、市民の方がおられました。その方々の前であの起訴免除の言渡しを聞いた時、背中にあたたかいものを感じて来ました。現にあの撫順の土地では、日本軍は平頂山事件の大殺戮をやったし、それには私も加わったのであります。その被害者よりあの寛大な処理を受ける時、私はほんとうに中国人民の寛大なあたたかい心を感じました。私は東北でどのような事をやったのか、ただ申し訳ない泣きたい気持でいっぱいでした。


司会 

まったくです。このことは一生涯を通じて忘れることは出来ません。このことは自分達ばかりでなく家族の者も中国人民に感謝していると思います。


白井藤代 

私は過去を考えれば許せない人間なのに寛大な言渡しをうけて心から泣いたのです。そればかりか私は貧しい漁師の息子で、生まれて三十七年間、軍靴以外クツをはいたこともなかったのに、こんど立派な革靴をもらいました。そのとき私は過去の自分を考えざるをえなかったのです。私は中国にお客様として来たのでしょうか、そうではありませんでした。私は中国におしわたり、本当に罪のない平和な労働者や農民の方々を殺害したり拷問したりした許すことのできぬ罪人ですのに、その私を許して下さいまして私は感激せずにはおれませんでした。


岡本 

そうです。自分はあの寛大赦免の言渡しを聞いたのちいよいよ帰国するというので、所長さんはじめ管理所の皆さんから見送りをうけるばかりか、考えてもいなかった送別の宴会までしていただいた時、胸がいっぱいになってどんなに感謝してよいやらわかりませんでした。私は所長さんの手を握りました。そしてこれからあやまった道には進みません、必ず人間としての道を進みますと誓って来ました。


司会 

そうです。私も昨日管理所を出る時、工作員の方々や班長さんや看護婦さんの顔を見ているうちに、まったく家を離れるような気持がしました。


久保田 

わしも別れるとき、ついとりこんで御厄介になった看護婦さんやお医者さんに会ってお別れ出来なかったのが残念でした。一目でも会ってお別れしたかった。病気をしてお薬や注射をうってもらったり、どれだけお世話になったかわかりませんから・・・・(同感の声)


中島 

本当にやさしい人達ばっかりでしたねぇ。わしやみんなが『おじいちゃん』となつこく呼んでいたあの年輩の工作員の方が見当らなかったけど、ぜひ一目会いたかった。何とか一目会ってお礼をいいたかったんだが見つからなかった。いよいよ管理所を出る時は、むしように管理所がなつかしくなって来て・・・・皆もうしろをふりかえりふりかえり名残り惜しそうに見ていたけれど、これは私達の本当の気持でしょうねぇ。(全員同感の声)


石田 

そうです。夜なんか、寝冷えさせないようにフトンかけて下さったり、日本から手紙や写真が来ると、お父さんや兄さんは丈夫かと写真や手紙をいっしょに見て自分のことのように喜んで下さった。その工作員さんにとうとうお礼のことばもいわずに残念でした。私はあたたかい身内と別れるようなつらさでした。


伊東 

そうですねぇ、私もお世話になった李班長さんを血まなこになって捜したのですがどうしても見えなくてお別れ出来なくて残念だったのですが、崔先生や趙先生に元気で発ちましたとくれぐれもよろしく伝えてくださいとおたのみしたら『必ずお伝えします』といわれたので安心しましたが、まったく名残りおしいことでした。


司会 

本当にこの六年の間に肉親のようなつながりが出来ていたのですねぇ。ふりかえってみると六年前に新中国に来たとき、私達の間にはどんな考えがあったのでしょう。思い出してみましょう。


若月金治 

それですがねぇ、管理所に来た当時は殺されるのではないかとオドオドしていました。自分でもおかしいくらいですが、最初散髪にいった時ヒゲをそってもらいながら、もしかしたら首を切られるのじゃないか(笑声)と思いましたが、無事に終ってホッとしましたよ・・・・。またあの大きな煙突ができたとき、私達が過去やったことを思い出して、俺達もあの下でこっそり殺されて、焼かれてしまうのではないかと思いましたが、あの煙突が出来上って見ると、入浴場にはマンマンとお湯を送ってもらうし、冬は暖かいスチームを通してもらうし、みんなわれわれのためにやってもらったのです。


久保田 

そうですよ、入浴場一つ見ても分かりますねぇ、過去われわれは、真冬に中国人民に水浴させたのに・・・・


中島 

わしは昔、中国人民を散々侮辱してきたので、中国に渡されたとき、今度は俺がやられる番だと考えていたが、部屋はキレイで廣いし、ご飯の時などは『たりたか、たりないか』とかならずきいてくれたものです。私はまたこの事から、俺達は日本人だから恐れられているのだ・・・・(笑声)こんなところにおっても日本人は恐れられているのだと思っていましたが、こんな考え方が変ったのは、朝鮮戦争が停戦になった時からです。はじめのうちは、米軍が東北にはいって来て俺達を出してくれると思っていました。


司会 

アメリカ軍が『解放』してくれると考えていたわけですね・・・・(笑声)


中島 

そうですよ。所長さんは最初から、かならず中国と朝鮮の人民が勝つといっておられたが信じられなかったのですよ。それが現実のなかから段々わかって来ました。それからもうひとつ。私は過去中国の人を欺瞞して使用するということをやって来ましたので、管理所で工作員の方々が色々してくれるのを見て、ハハアこの裏には何かあるわい、政策だ、手だと考えて、やってくれることすべてを有難いとは感じられなかったです。

ところが末梢神経炎にかかって動けなくなりましてねぇ、夜も眠れませんでした。そのとき毎晩お医者さんが廻ってきて診て下さったり、また工作員さんがしょっちゅう部屋に来て要求があったら、どんなことでも言ってくれ、すぐ解決するからといわれ、わしらの考えていることをいうと何でもすぐ解決してくれました。注射を四、五十本も打ってくれました。


司会 

このような現実からだんだん中国を信頼するようになったのですね。


白井 

私はですね、一昨年の四月頃でした、歯がいたくて運動室で休んでいた時、管理所のパン工場で働いている人がいつものように室の前までパンを運んで来ました。ところがその人が休んでいた私に『あんたは白井さんではないですか、私を忘れましたか』というんです。私は不思議に思った。私に中国の知人はいないはずだ、それで私もその人の顔をよくみてみたが、どうしてもはっきり思い出せない。しかしふッと思いあたるふしがあって身体中の血がいっぺんに下ったように感じました。きいてみるとやっぱり私が兵隊として駐屯していた山東省のある村の少年でした。

そのころは十四、五歳の少年でした。私は何度もこの少年を丸太やその他でなぐり、また小さい身体にいっぱいまきを背負わせ、歩くのがおそいといっては蹴とばしたもんです。それからまたあの人たちが汗水たらしてつくった穀物を全部取り上げてしまったこともあります。そのごあの人の両親は亡くなり、たった一人生き残ったあの人は東北に来たんです。これはそのとききいてわかったのです。私はそのとき、これはただごとではすむまいと覚悟しました。しかし私の考えとは反対に、その人は私に『早くよくなりなさい』といって出て行きました。その後もずっとパンをもって来てくれる度に私に会うと『元気ですか』とたずねてくれます。私はこれをきくたびに私の過去と、またあの人たちの家族のことを思わずにはいられませんでした。


石田 

中国の人をどう見るかということですが、私もはじめのうちは復讐されるとおもっていました。ある日あたりちらしてやるつもりで工作員の人に面談を求め、づけづけといろんなことを言ったことがあります。私は怒られるにちがいないと考えていたのですが、先方は、『食事はまずくないか。夜はよくねむれるか。まあ身体を大切にして下さい。君の問題は私も考えてみましょう』とやさしくさとしてくれました。このようなことは一度や二度のことではないのです。むちゃくちゃなこともよく聞いてもらえることから、私の考えが間違いだ、どうもおかしいと考えはじめ、度を重ねるうちに罪を考えはじめました。


若月 

私も色々ありますが、私は寝ぞうが悪いんです。(笑声)背中をおっぽり出してうとうとしていると班長さんがはいって来て布団をなおしてくれました。だまっていると、次の人の布団をなおしてそっと出て行かれました。また国慶節の時でした。御馳走を腹いっぱい食って、トランプをやり、大ダブラをやっていると、そこへ皆さんの知っている班長の『おじいちゃん』がはいって来て、にこにこしながら落花生を机の上においてゆくのです。あの人は頭がすこしはげているんですが、思わず私は背中に水をぶっかけられたような気がしました。

それにはわけがあるんです。大体あの人は三東の人なんです。私はその三東にいたとき、ある日行商人をつかまえ後に廻って、側にあった石をその行商人の頭にたたきつけ、頭を割ったことがあります。そしてその人がかついでいた籠のなかから落花生をとったんです。ところがその行商人が頭のはげた班長さんによく似ているんです。そのときはっとして、それから自分のやった事を真剣に考えるようになりました。自分のやった事が人間のやる事じゃなく、戦争とはどんなものかを考えるようになりました。


中島 

あるとき私は飯をたくさん貰って、のこったのを便所へすてたことがあります。叱られると思っていたら、工作員さんは『お百姓さんの苦労を知っているでしょう、このようにめしを捨てることは、人間のやることではない。』といわれ、私もやっぱり百姓の子ですから、悪い事がすこしわかりました。


司会 

いろいろ工作員さんが実際的に示すことのなかから、過去やった事は悪いと自分でさとるようになって来ましたが、これは戦争についての考え方のうえでも同じで、はじめは戦争の悪いことがなかなかわからなかった。それがやはりだんだんわかってきたといったようなことがあると思います。


若月 

戦争の問題が出て来ましたが、中国の各地を参観させてもらい、中国の発展している姿をこの目で見たときは、戦争がなければこんなに発展するものかと、戦争の悪いことをはっきると知ることが出来ました。ハルピンの亜麻工場で工場長さんがいわれたとおり、戦争がなければ、人間の生活は豊かになります。ハルピンに参観に行ったときに、赤いネッカチーフをつけた女の子が小さい弟をつれていて、その弟が『この人たちは誰?』と姉さんにたずねました。私はなんと言われるかと、好奇心を持って聞いておりますと、『この人達は働いている人民を学習に来られているんです』とやさしく弟におしえていました。私は働いている人を殺すなんて、どんなに悪いかがわかりました。私はこの幼い少女におしえられました。


司会 

中国人民の、やさしい態度の中から、人間はどうあらねばならないかが分かって来たのですね。その裏には、いろいろな、6年来の生活全体があった訳ですね。どうですか、生活のことを話しましょう。


中島 

私はいま16貫あまりあります。敗戦時は14貫少々でしたからね、家族が見たら見違えると思いますね。


若月 十年間に二貫目ふえた・・・・


岡本 そのうえ若返って帰るとは変だねぇ。


中島 

家族がいちばん喜ぶのは、私が健康でかえることだと思います。よく薬を飲んだ私が、いまこんなに元気になっているのは管理所の人たちのおかげです。例えていうと、ヘントウ腺がはれて、うがい薬でももらいたいと医務室に行くと、すぐ注射室へつれていってペニシリンをうってくれるんです。病気をさせないように、消毒や身体の検査など、みんな大きな努力を拂って下さいました。だから、私がこんなに元気なのも決して奇蹟ではありません。


司会 白井さん、どうですか療養所は?


白井 

私の療養所行きは、変っているんですよ。まったく自覚症状がなかったのに、ある日工作員さんから療養所に行くようにといわれて、びっくりしたのです。自分で自分の病気に気がつかないうちに管理所では、定期のレントゲン透視でチャンと私の身体が悪いことを知って、療養所にやって下さったのです。療養所は林を背にした小高い山の中腹にあって、ひじょうに見晴らしのよい公園のようなところです。療養所の部屋には真白な敷布をしいたベットがあり、手箱、魔法瓶、看護婦さんを呼び出す呼びリンまでついています。療法には、空気療法、滴入療法、体育療法があり、科学的に検査され、一人一人療法がちがうのです。私は体育療法だったわけです。療養所では付添いの人が一切をわが事のように面倒を見て下さるのです。そのために、私はこんなに元気な身体になったのです。


司会 

そうですね、療養所に行った人もひじょうに元気になってかえって来ましたね。


岡本 

いま医療の話が出ていますが、私なんか六年間これという病気もせず、本当に元気で過して来たんですが、私の隣に寝ていた岡田豊君なんか、三年半近くも胃が悪くて、ハルピン以来入院していたんですが、この人の話を聞くと、入院中婦長さんが岡田君に、これからはなんでも貴方の好きなものを作って上げますからと言われたそうです。すると岡田君は、私はカステラとサツマ薯のキントンが食べたいと言ったそうです(笑声)。ところがカステラはわかるが、サツマ薯のキントンは一体どうして作るのか中国の人にはわからないのです。


司会 そうですね、中国にはないんですから。


岡本 

それでも本人が食べたいというものだから婦長さんは作り方を教えて下さいといわれたそうです。それで岡田君はキントンを作るには、こうやって、ああやってと作り方を書いて、婦長さんに渡すと、婦長さんは夕食の時に『言われた通りには出来なかったけれど、ひとつ食べて下さい』といって持って来られた。そのとき岡田君は夢中で食ってしまったそうです。昔、お母さんが作ってくれたキントンとおなじようにうまいので、ひじょうに喜んでパクパク食ったそうですよ。

婦長さんは、いままで何を食っても嘔吐をもよおしたり、食べなかったのにたくさん食べるのを見てひじょうに喜んで、これからは毎日でも作るから、いちどに沢山食べ過ぎて、体をこわさないようにといわれたそうです。このようにして岡田君の病気は、だんだんよくなってゆき、今ではすっかり元通りに元気になって、われわれと一緒に帰れるようになりました。


司会 

岡田君も日本に帰ってお母さんからキントンを作ってもらう度に思い出すでしょうねぇ。


岡本 

その時に、婦長さんが『私は中国人民にあなた方の病気を治すように依託されているだけでなく、あなた方の家族の方々にも、あなた方の病気を治す責任を負っているのです』とこのように言われたので、岡田君はひじょうに感激し、自分が過去中国人民にたいしておこなった行為を、ふり返らざるを得なかったといっていました。


司会 

そうでうねぇ、いまの岡本さんのような話はどれだけ多くの人々が経験したかわかりませんねぇ。


白井 

本当にお世話になりました。今もうすっかりよくなりましてねぇ。バレーやバスケットのことをいうと、昔はボールなんかいじったことはありませんでした。中国に来てはじめてバスケットやバレーボールが出来るようになりました。そればかりか今ではみんなのなかから選ばれてバレーの選手にもなっています。


中島 

いやぁ、わしもねぇ、あのスケート場が出来た時なんか五十ツラさげていまさらスケートなんか、ころんで腰の骨を折るのが関の山と思っていたところが、多くの、はじめてだという同僚がたった二、三日位ですべれるようになるのを見ると俺もやってみたくなり、やってみると面白くてやめれぬようになり、すべったりころんだりしたけれど、人並に滑れるようになりましたよハハ・・・・。実をいうとねぇ、私は長野県の諏訪湖というスケートの盛んなところに生まれたんですがねぇ・・・・そのわしは中国ではじめてスケートをおぼえるなんて、まったく・・・・


岡本 

僕はねぇ、チョット運動のほうは苦手なんだけどネ、しかしそれでもねぇ、パン食い競争とか魚釣とか、宝捜しとか、クス玉割りとか、玉入れとかあまり走らないのは得意でねぇ・・・・(全員爆笑)。俺はあまり競技に出なかったが、たったひとつ競技に出て賞品をもらったことがあるよ。それはピンポンの試合に出たんだ。マサカここでピンポンなんて出来ると思っていなかったんだが。


久保田 

私もこんな年寄りだけどネ、半日運動をやらせてもらって、けっこう若い者とおなじように丈夫ですよ。


中島 

わしやね、昔、中国の人を捕えて留置場に一年近くもホウリ込んでいたことがあります。その間運動どころか、散歩すらさせず、いれッ切りでした。そのためその人達は青白くやせこけ、外へ出た時なんかちょっと歩くとフラフラしてぶッ倒れるという有様でした。このことと中国政府が自由に運動させてくれたことと思い合わせて、何と感謝してよいかわかりません。


司会 

全く私達は自由な運動が充分出来、飯の腹一杯食わせてもらいました。こんどは自分達の食生活をふり返ってみましょう。


久保田 

まったくわしみたいな年寄りは、腰が曲ったり、あちこち体が惡いもんだから班長さんはひじょうに心配されて『飯が食べられるか』とか『かめないのではないのか』とか『お菜はたべられるか』とか、いろいろ心配されて年寄りには年寄りに似合った食事を作って下さったり、患者食には三品も四品もいろいろ変ったものを手数をいとわず作って下さった。いつも昔のことを引合いに出すようですが、いぜん私が東北にいた当時、中国の人たちに対したのとはまったくちがっています。


司会 それから、私たちは日本人好みのもを沢山たべて来ましたねぇ。


若月 

そうですよ、私も年が若いものですからね、正月や旧正月になると、きっと炊事に餅つきのピンチに行きましたよ。向う鉢巻きで皆が威勢よく気合いをかけて餅をついてね。ほんとうに日本に住んでいると同じように紅白の餅が食べられるとは考えてもみなかったことですよ。そして、工作員の方も汗をかいて餅つきを手伝ってくれましたね。


中島 

日本人好みの食事というと、すしも食べましたね。わしはここで巻ずしが食べれる、ちょっと考えていなかったですよ。


岡本 

そうですよ、わしも、もともとすしが好きだったもんですからね、六本も七本も巻ずしを食べて皆に笑われましたよ(一同笑声)


白井 すしもそうですが、大福餅、おはぎ、ぜんざいなんかもね。


司会 

私らは山の中で育って、まったく味噌と漬物しか食べて来なかったんですがねぇ、それが中国では毎日白米飯に美味しい副食を食べて来ました。その他こうした民族の習慣や好みをよく尊重して配慮してくれましたね。


中島 

真冬にキウリ、ホウレン草、これをみただけでもどんなに私たちのビタミンの吸収、栄養の攝取を考えておられたかよくわかりますよ。


司会 食事の面でもそうでしたが、衣類の面でもやはりそうでしたね。


伊東 

そうですね、衣服など毎年新しい物をもらって、とても着つくせるものではなかったし、すべてこんな調子だからせっかく日本から小包で送ってくれたものに少しも手を通す必要がなく、今度それを背負って歩いているというわけですよ。


中島 イヤー、私もそうですよ。


石田 そうでしたね、破れた物などひとつも着ることがなかったですね。


司会 

私たちは食う物、着る物いずれも恵まれた生活をして来ましたが、もっとまだ樂しいことがありましたね。


若月 

そうそう、踊りとか劇とか、わしはどうも人から手をたたいてもらうのが好きでしてねぇ(笑声)。踊りなど何百とやったですね、日本民謡、朝鮮舞踊、中国のヤンコー、腰鼓、それにあの茶摘の踊りや蓮の花の踊りなどね、それからソ同盟の踊りもね、大がかりな芸能祭は、みんなで三十回以上もやったですよ。


中島 久保田さんも芸能祭に出られたんですね。


久保田 

ハイ、私も過去は号令かけることしか知らなかったのですが、年寄りも若い人に見せてばかりもらっていてはだめだと思って、一度舞台に立ったんですが、とたんに拍手されて、あがってしまってね、観客の誰が誰だか見分けもつかなくなってしまってね、それでも合唱が終ると、またもアンコールでしたよ。この禿頭が舞台に上ったのに同情してくれたせいもありましたでしょうがね、アハハハ・・・・(笑声)


中島 

そうそう、久保田さんはあれからずうっと舞台に立っていましたね。今度はお孫さんと一緒に大いに踊りや歌もやるんですなァ。


久保田 ええ、やりますとも。


司会 踊りの時は『ムスメ』さんもおおぜい出て来ましたね。


若月 

そうそう、あの『ムスメ』さんの衣裳造り、かつら造り、化粧、あれはなかなかたいへんでしたよ。


司会 

いつか日本から来た代表団が私たちの芸能祭を見て、『この管理所には日本人の女もいるんですか』と聞いたことがあったそうですよ。


中島 

劇がちょっとでも遠のくと、もうありそうなものだがなァと、ちょっと淋しくなることもありましたからね。いざ劇だ芸能祭だとなるととたんに張りきり方がちがってね。それに私たちが踊りや劇をやるとなると所長先生から工作員の方、それに家族の方、看護婦さんなどみんな見物に来られたですね。日本人民の状態を描いた劇には涙を流して、もうとても観ていられないと言われ、こんなに真剣に中国の人びとは私達の芸能祭を観てくれたんですよ。 


若月 

管理所の工作員の方々はよく子供を連れて来られるんで、子供の声が聞えるとやっている者はとても張り切ったんですよ。


司会 映画も沢山みましたね。


若月 

私が記憶している範囲でも、三百本以上でしたよ。日本の映画も沢山みましたね。『太陽のない街』『二十四の瞳』など、ああした映画は感銘が深かったですねぇ。それからわれわれの間では、インド映画が好評をよんだですね。


岡本 イタリアの映画『自轉車泥棒』もそうでしたね。


中島 

管理所では、あの楽団も、ずいぶん私達を楽しませてくれましたね。こんど帰るときはその楽器までもらったりして・・・・。


石田 

樂団が最初出来たときは、スカスカラッパであったんですが、とても上達しましたね。最近では、あの『ウィリアム・テル』や『黄河合唱の歌』なども立派にやりこなしていましたからね。私は納涼会で音楽を聞き、踊りを見るのが、なによりの楽しみでした。


白井 

いや、まったくそうでしたね。あの音楽会では『さくら』『越後獅子』、踊りでは『八木節』『安来節』など、ほんとうにこんな美しい文化遺産が私達の祖国にもあったのだと思うと、とても祖国が懐しくなることがありましたよ。


若月 

たしかに、私達の文化活動は、大きな力をもつようになりましたね。そればかりでなく、昔は譜を読むのに大変だった人が、いまでは作曲できるようになったんですからねぇ。


岡本 

作曲ができるようになったばかりでなく、絵を描く人も、六年のうちに沢山出てきましたよ。私自身も昔からぼつぼつ絵を描いていましたが、中国に来たときは、もう自由に絵を描けまいと思い、悲観していました。ところが、絵をかきなさいと油絵具や其他の道具など全部そろえてくれました。この六年間のうちに、大型の油絵など私一人だけで百点も描きました。そのほか水彩画、ポスター、スケッチなど全部合わせれば、私だけで、八百点ぐらい描きましたよ。(ホーと一同びっくり)


若月 岡本さんの『チベットの豊収』、あの絵は大したもんですね。


岡本 

いやー、そのほか全然絵の描けなかった人で、絵が描けるようになった人がたくさんいますよ。さきほど若月さんがいわれたように、作曲のできない者が出来るようになり、絵の描けない者が描けるようになったり、私達は、個人の才能と趣味を生かすことができました。


中島 

本当ですね。岡本さんがいわれたように、趣味を生かすということは、大きな事ですよ。碁も今では誰でもうてるようになっていますよ。


司会 私も管理所に来てから、碁をうちだしましたよ。


岡本 私達はそのようなことを通じて、人間らしくなって来たのですね。


司会 いま人間らしいといわれたが、人格が尊重されておりましたね。


中島 

私は警察にいて、人をたたくなどは何とも思はず、当り前だと考え、街頭でも中国の人をずいぶんなぐり、また警察にひっ張りこんでなぐりました。中国に来てからは、わたしたち一同一度もなぐられたことはないですが・・・・。


伊東・久保田 まったくそうです。


司会 

それでは最後に参観について話しましょう。岡本さんは、中国の11の省を見てまわって、どう考えられましたか。


岡本 

参観のことですが、6400キロの旅行をさしていただき、私はこの中から何処へ行っても感じることは、ひじょうに、まあ中国の景色が美しいということを今度程感じたことはありませんよ。私は昔は戦争の絵などかいていたのです。中国の町や村が爆撃で廃墟になったその景色をかいていました。しかしそのような景色がこんど参観したあの美しい景色とくらべてどんなに醜悪なみにくいものであったか、このようなものを美しいと感じていた自分を反省することが出来ました。

揚子江の両岸の菜種の花の咲いたところ、また漢口から杭州にかけてどこにも咲いているアンズや梨の花など、本当にきれいな景色だと感じました。鉄道沿線の町や村や住宅やまたハゲ山が植林されているのを見て、皆さんも美しいと感じられたと思います。これは誰がつくったのでしょうか。もとから美しくはなかったのです。中国の人が戦争の廃墟の中から建設して出来たものであることを私はしみじみ感じました。この中から私は、平和な環境のなかで美しい心をもった人があってはじめて美しい景色が出来ることを学んだのです。このような美しい町や村をふたたび廃虚にしてはならない、これこそ最大の罪惡であると本当に強く感じました。この村や町に中国の人の尊い血が流され骨がうずめられたことを考えるとき、過去の行為を反省せずにはおられませんでした。


伊東 

杭州は私は前にいたことがあるのでとても印象が深いものがありました。日本兵がバリケードをきずき、銃剣をつきつけて通行人を検査した所も、いまは平和建設の工事がすすんでいました。西湖や霊隠寺などの名勝地もあの頃は日本の軍隊ががんばっているので、中国の人で遊びにゆくものは誰一人いなかったところですが、今では農民らしいおじいさんやおばあさんがお寺まいりしているのを見ました。私はすべてのものが中国人の手にもどったことを強く感じました。そして名所古跡もいまさかんに修築されていました。


司会 

参観といえば瀋陽市郊外の大村に行ってあのおばあさんからあたたかい気持で会ってもらった。しかし実際には、いまさらこちらから顔を出せた義理じゃないんです。こういう中国の人たちの寛大な気持についてどうですか。


若月 

私は養老院で老人の方がきれいな部屋に住み、植木いじりや玉突きを愉快そうにしているのを見て、ふとおふくろはどうしているだろうかということを考えました。老人の方は、日本の人にも自分たちとおなじように老後のたのしい生活をさせたいと言っていました。私は老人の方が、私たちの親のことをも考えて言ってくれたのだと、そんな気持がしました。


司会 

私たちは長い間中国の人びとの配慮をうけて来ました。このなかから、わたしたちは中国の人たちが世界の平和をつよく願っていることを知りました。私たちに対する態度、日本人民への友情もここから出ているとおもいます。私たちは過去の罪悪を知り、ふたたび中国の人に銃をむけることは出来ないと強く感じています。

第二次世界大戦に苦痛がアジアの人びと、世界の人びと、わたしたち日本人自身のなかに強く残っているのです。自分たちの行く道は平和の道だし、この道こそ自分たちのすすむべき道だと思います。今日天津に集まって間もなく日本に帰ろうとしていますが、今後私たちは二度と前のような道は歩まず、平和のために努力しなければならないと思います。(全員同感の声)


 中国の皆様から受けたあたたかい配慮に心から感謝し、中国の皆様への最後の言葉としましょう。それから『人民中国』編集部の方がわざわざこの座談会をひらいて下さったことにも感謝したいと思います。


編集部 

たいへん長いこと、どうも御苦労さまでした。かさねてお礼申し上げます。みなさんは、いよいよ中国をあとにして、みなさんの祖国日本にかえられ、家族の方がたと一家だんらんの楽しい日をお迎えになります。どうか日本にかえられてから、平和で幸福な生活をお送りになりますよう心からお祈りしております。では、みなさん御元気で。どうも有難うございました。 


【出席者】

大澤剛 1922年岐阜県生まれ。公主嶺憲兵分隊特高係憲兵軍曹。故人。
中島宗一 1909年長野県生まれ。竜江省警務庁特務課地下工作班長。故人。
伊藤恒 1911年佐賀県出身。関東軍憲兵司令部教育隊教務課長憲兵少佐。故人。

久保田源次郎 1888年東京生まれ。「満州国」軍第九軍管区副指令少将。故人。
岡本鉄四郎 1915年愛媛県生まれ。117師団389大隊伍長。故人。
石田傳郎 1907年三重県生まれ。間島憲兵分隊長憲兵少尉。故人。

白井藤代 1920年千葉県生まれ。59師団45大隊第2中隊分隊長兵長。故人。
若月金治 1924年山梨県生まれ。59師団41大隊5中隊一等兵。故人。

4. 中川隆[-12270] koaQ7Jey 2019年2月11日 08:43:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

元憲兵 大沢雄吉の東京裁判史観・自虐史観(?)は GHQ やマッカーサーとは全く何の関係も無かった


父の遺言 倉橋綾子


 憲兵だった私の父・大沢雄吉(1915年群馬県生まれ)は、1986年に肝硬変を患い、71歳で亡くなりました。その直前に私は父から紙切れを手渡されました。鉛筆書きのふるえる字で、次のように書いてありました。

「旧軍隊勤務十二年八ケ月、其ノ間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)トシテ天津、北京、山西省、臨扮、運城、旧満州、東寧等ノ憲兵隊ニ勤務。侵略戦争ニ参加。中国人民ニ対シ為シタル行為ハ申訳ナク、只管オ詫ビ申上ゲマス」

 父はこれを墓標に刻んでくれと言い残しました。しかし様々な事情により、その願いをかなえることができないでいます。(昨年、羽生市の翁抗日反戦美術館に、父の遺言文と写真を置かせていただき、ほっとしました。)

 父は祖父の道楽のため貧しい少年時代を送り、中学校には行けませんでしたが、猛勉強して憲兵試験に合格したとのこと。高い給料が欲しかったのだと思います。敗戦を旧満州で迎え、二度逃亡して帰国できたそうです。ゼロから始めた洋品店を大きくすることに心血を注ぎ、働きづくめでした。従軍看護婦だった母もまたよく働きました。父は枕元にいつも「中央公論」を置き、林芙美子の「放浪記」、深沢七郎の「風流夢タン」などがお気に入りでした。五味川純平の「人間の條件」を読んで泣き、その映画を私たちに見に行かせました。田舎には珍しく進歩的、合理的な人間で、尊敬されたり煙たがられたりしていました。

 私は父に可愛がられ、人生観、世界観にその影響をもろに受けました、やたら正義感がつよくて突っ走ってしまうのは、父そっくりです。私は子供の頃から、父があの戦争に加わったことを悔やんでいたのは知っていました。しかし一度も、父が実際には何をやったのか聞いたことはありませんでした。

 父の死後、謝罪の遺言を残すほど悩み抜いたことを思うにつけ、父があわれでなりません。その苦しみを分かちあってやれなかった自分が情けなくもありました。そこでせめて、父の戦友からどんな事があったのか、話を聞いてみようと思いたちました。

 戦友を探すのには大変苦労をしましたが、最終的には、憲友会の厚い名簿から、最後の任地・東寧で同じだった方をピックアップして電話をかけるやり方で成功しました。

 敗戦直前の東寧のS分遣隊で父の部下だった方は、東北の田舎町に生きていましたが、アルコール依存症で、喋れないとのことでした。その方が分遣隊長の住所を知らせてくれたので、私は東海地方の隊長さんのお宅へうかがいました。御夫婦で涙を流しなつかしがって下さいましたが、父の謝罪文に対しては何も触れず、対ソ諜報活動だけで何もなかったと言い、あとは引揚の苦労話でした。

 不本意な結果となりましたが、今は中帰連の方たちのお話や著書で深く学ばせていただいております。また南京虐殺をめぐる裁判でがんばっておられる、東史郎さんのお姿にも大変励まされています。

 父も皆様方のように勇気を出して叫びたかったのに、それができませんでした。その分を私自身ががんばらねばと、あちこちとかけずりまわっております。戦争二世の私たちの世代はもっと手をつなげばと、心から思います。

 中帰連の皆様どうぞこれからも人間の良心をともし続けて、後の世代を導いで下さいませ。

(くらはし あやこ 50 埼玉県在住・元教員)
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/03/kurahasi_yuigon.htm

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日本軍憲兵のやっていた仕事


拷問の光景を見てみよう。

  土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った綱にかかった」のである。名前を張文達といった。三十三歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」ど、士屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それて先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。・・・
 
 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。士屋ど同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。

 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に、両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき。脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。・・・

 二日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と士屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューッという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。

 「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテを使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。・・・

 拷問は、さらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。・・・

 三日目は水責めで終わり、四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。三本並ペ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。・・・

 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。この針を男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。

 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達三十三歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。

 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。(p.81-86)
http://www.ne.jp/asahi/kuma/radical/dokusyo/special/kenpei_kiroku.htm


広東州の中央憲兵隊へ補助憲兵として私は派遣された。野戦補助憲兵といって、憲兵と同伴の時だけにかぎって憲兵の資格を有していた。主な任務は、保全地区(駐留日本軍の勢力圏内)での治安維持であった。特に、思想犯に目を光らせた。思想犯を捕え、拘留し、洗脳するのであったが、そのやり方は目を覆うものであった。

 コンクリートの上に、真っ赤に焼けた木炭を敷きつめ、その上に裸にした“囚人”を転がした。喚き、のた打つ“囚人”は隅へ隅へと転がってくるが、周囲には日本兵がいて、それを蹴飛ばして再び中央へ戻した。“囚人”の反応の仕方は、もはや人間のものとは思えなかった。多くの“囚人”は三日目を境に死んでいった。

 女に対してもその残虐度は同様であった。やはり全裸にして、獣のように四つん這いにさせ、丸太で打ちのめした。

私は、そればかりはどうしてもできなかった。すると、

「これしきのこと、できんのかッ」

 一人の憲兵が私を蹴飛ばしてから、丸太で渾身の力を込めて女を打ちすえた。

中国人は人間に非ず、否、生き物にさえ非ずとでも思っているような拷問であった。彼らの抵抗は死以外の何ものでもなかった。
http://page.freett.com/sokagakkai_komei/www.sokagakkai.or.jp/sokanet/HBK/Heiwa/hansen-7.html


日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。

http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html

洗脳して人間性を失わせないと一人前の兵士にはなれない


一般兵士は軍紀などまとまって教えられず、初年兵が軍隊に入って最初に叩き込まれたのは、

「上官の命令は絶対」
「死んでも捕虜になるな」
「天皇陛下からいただいた三八歩兵銃は死んでも離すな」

の三つだったと言われます


水木しげる先生がラバウルに出発するまでがマンガで描かれています。本書の後半では新聞配達員をクビになった水木先生に突然、召集令状がきて鳥取連隊に入隊するわけですが、そこから水木マンガでおなじみの初年兵教育と称する上等兵殿のビンタとの戦いが始まるわけですね。*3

(ミッドウェー海戦)その頃ぼくは毎日なぐられていた、のみこみが悪いというのか、平気というのか、気にしなかったのがいけなかった。毎日ビンタがさくれつした。


軍隊では畳と兵隊は叩けば叩くほどよくなるという信仰があり、ビンタは終わることがなかった。


軍隊で一番軍隊らしいのが分隊です。十人の中に分隊長がおり、その下に古兵(こへい)と称する上等兵がいます。これは普通カミサマといわれ、初年兵をなぐるだけで靴下はもちろんフンドシまで洗濯させる者もいます。

ぼくは分隊に新入りがこなかったため万年初年兵でした。古兵どのの無理難題に日々苦しめられるのです。ぼくは今でも初年兵の頃の夢をみます。これほど情けなく苦しいものは世界にまずないでしょう。(水木二等兵がこぶしを握りしめ歯を食いしばっている描写)


二等兵
初年兵と称され一年中、毎日なぐられる

一等兵
いくらからくになるがウカウカしてられない

上等兵
普通にカミサマといわれもっぱらなぐる係りである

兵長
上等兵の上で早い人は分隊長となる、これもカミサマ


「はァじゃねえよ きさまだよ」

ビビビビビン


「はァとはなんだ!」

ビビビビビ の ビビビビビン


「ばっかやろぅ〜!」

ビビビビビン ビビビビビーーーン☆


ラバウル戦記にはラバウルにいたころ初年兵同士で「敵よりもこの古兵にやられてしまう」と話し合ったことや、「初年兵はすべてノイローゼ気味だった」ことが書かれています。


【追記】

みなんさん「兵隊やくざ」という1965(昭和40)年に制作された映画を知ってました?

舞台は1943(昭和18)年、満州北端の孫呉に駐屯する関東軍部隊にヤクザあがりの初年兵・大宮貴三郎(勝新太郎)が入隊してきて次々にトラブルを起こす、という内容らしいんですが、封建的な軍隊内での私的制裁(ビンタ、鉄拳、足蹴りなど)の様子がけっこうリアルに描かれいるんですよ。これがまた。

http://d.hatena.ne.jp/dj19/20080527/1211981896


陸軍の内務班生活については下記の本が詳しいです。

兵隊たちの陸軍史 (新潮文庫)
伊藤 桂一 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4101486123/

海軍が兵隊をバッターで殴るのであれば、陸軍は革製のスリッパで殴るというのは概ね事実のようです。
顔にあまり跡が残らないが、非常に苦痛を与えたようです。

また、「精神的な屈辱と肉体的な苦痛を同時に与える私的制裁」として様々なものが考案されていたのも上記の本に書かれています。水が一杯に入ったバケツを両手に持って各内務班を回って班長に「ビンタをして頂き」、少しでも水をこぼすとまた殴られる・・・と言った類のものです。

そして、新兵を私的制裁以上に苦しめたのは、同じ内務班の「古兵」 (新兵より少しでも前に入営した兵隊) に対し、奴隷のように無限の奉仕を強いられたことのようです。新兵は、寝る時間を削って古兵の洗濯物を洗い、靴や銃などの手入れをし、内務班(兵隊が生活をする場所)を磨き上げねばなりませんでした。新兵は3時間寝れれば上等だったと伝えられています。

そのような苦しい生活に耐えかねて自殺する新兵が絶えず、各連隊には必ず「新兵の幽霊が出る場所」が存在したそうです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1129979156


陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。

 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」

 「此には銃殺より刺殺が効果的である」

鬼になる洗礼−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。

「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。

上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。

男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。

内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。

 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。

 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。

そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
・・・


・・・
「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。

 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。

 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/03/post_3d8f.html

5. 中川隆[-12269] koaQ7Jey 2019年2月11日 08:47:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

元日本兵の東京裁判史観・自虐史観(?)は GHQ やマッカーサーとは全く何の関係も無かった


南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて
元兵士102人の証言
松岡 環 編著 社会評論社 p269〜273


男を殺し、女を徴発するのは兵隊の習いや

鬼頭久二
一九一六年八月生まれ
南京戦当時 第十六師団歩兵第三十三聯隊第一大隊
一九九九年十月、二〇〇〇年九月取材


当時、家には両親と兄弟十一人で、私は大阪にいました。私は、下から二番の息子でね、両親は田舎の人なので、父はとても怖かったですよ、本業は農業で、当時私を含め四人の兄弟が現役から軍隊に人り、皆無事に帰ってきました。


●現役の軍隊生活


現役は昭和十二年一月十日に久居の三十三聯隊に入りました。戦争に行く前はずっと軍隊の生活で朝早く起床して、点呼して帰ってきたら、班内の掃除をする。土足で上がる所を雑巾かけをしなあかん。面会に母は巻き寿司を二本持って来ました。一つは同僚に上げ、一つは私に食べさせた。私は母と話している間に全部食べてしまってね。そして床拭きであか切れができ、血が流れている私の手を見て母は泣いていました。当時、軍隊で出てくる食事を全部食べてもお腹がまだすいて、皆と飯カン〔バッカン=飯バケツのこと〕の所に行って、罐に付いた残りのご飯粒を取って食べた。もうその時は、食べ物を見ると目がないほどでね。お腹がすいていました。


当時、いじめられるのは決まっていて、これも仕事だと思うしかなかった。別に悪いことしなくても殴られました。昔の軍隊では殴って殴って一人前になる記憶しかないですよ。具体的に言うと、とにかく点呼がすんで、班長が下士官室に行き部屋にいなくなると二年兵に殴られる。班内には上等兵がいて廊下の両側に部屋があり、その通路を通るたびに殴られる。こんなありさまでした。


一等兵の戦友は、私が夜間演習から帰ってくると酒保〔兵の憩いの場〕でいつもパンとかを買って枕の下に置いてくれましてね。毎日枕の下に手を入れて、食べ物があるかどうか確認するのが楽しみでした。あったら皆が寝てからベッドの中で音を出さないように食べた。それもあまりの疲れで食べながら寝てしまう。朝起きたら残したパンくずがあったり、お饅頭の餡がついたり、今も思い出したら涙が出ますわ。


私は体が大きいので良く目立った。教官が訓練を指導する時も、よく一番前に立っている私を模範として呼びましてね。教官は初めは上等兵を呼んだけど、後からは初年兵だった私ばかり呼んだので、結局教官に目がとまると皆からは憎まれるんやな。


昭和十ニ年八月に戦争が始まり、現役のまま九月に中国に行きました。句容に行って、湯水鎮経由で南京に到着したやけど、南京まで行く道で一番印象に残ったのは友軍にやられたことやったね。これは指揮者の間違いか日本の戦略が間違いか、連絡が不充分であったのか分からんけど、向こうは敵だと思ってボンボンやってきました。


中隊長があまりにもおかしいと思い、砲弾を拾ってこいと命令し、拾ってきて調べてみたら日本の昭和の文字が人っていましたんで、友軍だと判断して連絡をとって攻撃が止んだな。


南京まで行く途中で、家は一軒も残さず朝出発前には火をつけました。火の煙で前の部隊が出発していると分かり、自分たちも準備に入り、また火をつけて次の部隊に知らせた。あまりにも家を焼き尽くしたので、後続部隊が雨の日には泊まる所もなかったそうでな。燃やす理由は、中国の住民と兵隊が戻ってきてまた反抗するかも分からないので焼いたということや。


●生きている者は全部殺せ


無錫は結構大きな町だった。戦争中は言ったら悪いけど、我々、大きな町に入ると、徴発できるから皆楽しみにしていました。砂糖もあり、食料もあり、女もいるから徴発するのが兵隊の楽しみやった。町に入ったら自由で、掃蕩と命令される。中国という国は、親が生きている間に大きな棺おけを買って、家の入り口の角に置いとくのが親孝行だったそうで、掃蕩に入ったらまず入り口に置いてある棺桶の蓋を開き、中の物を持っていくことでした。詳しくは覚えていないけど、中にはよそ行きの着物とか、長く置ける大事な物とか宝石などの宝物もあった。金の器もあった。鍵も閉めてない通気性がいい外に置いてあったんや。


町に入って掃蕩の一番の目的は女の人を探すことで、女を徴発するのが一番楽しかった。例えば、南京でも暇があったら女を捕まえて強姦してたな。落ち着いてくるとな、南京ではお金がいるから、代わりにお米を持って行ってやったの。食料を持って行くのが一番良かったみたいやね。


南京を一番に落としたのは脇坂部隊で、我々中隊は、有名な脇坂の後を引き継いで、ずっと光華門の警備にあたってたんや。詳しい時間は覚えていないけど、脇坂の後なんで十二月末ぐらいだったと思うな。


南京は太平門か下関からか分からないけど、結構大きな門から入った。門に土嚢が積んであった。紫金山に行ったことは覚えているけど記憶はない。当時はまだまだ初年兵で、星一つしかない。南京に入ってから上等兵をもらったのであんまり場所とかは記憶がないな。


揚子江の河の岸まで行ったことがあるけど、具体的には覚えてない。ただ揚子江で逃げている人に向かって撃った記憶はあるな。その時は無我夢中で中隊全員が中国兵を追っ駆けに行ったし、その時また無我夢中でどれくらいの中国人を殺したか詳しい状況の記憶がないんや。私がいた所は確かに南京城内で、光華門の近くにいたと思う。南京戦の時、、時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


十二月二十八日の上海軍の発表では、八万四千人の中国兵を殺したとのことやけど、当時は突撃なので実際どれぐらい殺したかは分からんな。私らは、とにかく砲弾によって先に大勢の人を殺して、その後、歩兵が入って突撃し、生き残っている人を殺すんでな。


南京の手前で、私は捕虜二人を殺す命令を受けたことがあります。銃剣で胸の所を一人ずつ刺したんや。冬で皆・綿入れの厚い服を着ていたので、剣が入るかどうか迷ってる時、中国人が自分からボタンを外して胸を出した。初めての殺人経験なので、私の方が緊張して心臓が止まりそうで、タバコを吸っても動悸は止まらんかった。もちろんやりたくなかった。顔と目をはっきり見ながらやったので記憶がある。軍人の死者が八万四千人というけど、もっとあると思う。掃蕩する時は、一人ではなく分隊に分かれて、二、三人か五、六人で行動した。中国人を見つけたら殺したからな。


攻撃は五、六の軽機関銃分隊が時によって、機関銃でやる。そして捕虜たちを捕まえて、郊外の田圃みたいな場所に連れて行って、バリバリと機関銃で掃射して殺した。掃射した後は死んだか生きているかひっくり返して確認して、まだ生きている人はまた殺した。日本兵二、三十人ぐらいでやった。


●女を見つけるとその場で強姦


掃蕩する時、家を一軒一軒まわり女の子を見つけるとその場で強姦した。女の子はだいたい床の下かカーテンの後ろとかに隠れていたな。見っかった時、怖いかどうか分からないけど、反抗しなかったな。憲兵から止められたりしなかったので、やり放題やった。女たちは皆顔に墨などを塗っていた。何人ぐらいしたか覚えていないけど、印象に残るのは迷げている母と娘を捕まえた時、母親は我々に娘は小さいから自分をやってと頼んだ事だった。我々は「アホカー」と母をふりはらった。やる時は二、三人で行ってやる。もちろんやる時悪いと思ってたし、逆に日本がやられ自分たちの子ども、あるいは女性がやられたらどうなるかを考えたこともある。それでも、自分もいつ死ぬか分からない状況なので、生きている間に、天皇の命令とかは関係なくて自分がやりたいことをした。そんなことは当たり前になった。

私ももちろん南京で強姦を経験した。場所はどこでもいい、いくらでも空家があり、そんな家の寝台の上とかでやった。平時の時はお米を持って行って、母親に娘をちょうだいと頼んだこともある。また、難民区から女性たちが自ら出てきて、お米と自分の体を交換した人もいる。お米は私たちが食べるお米で、一回に靴下片方満タン〔五合ぐらい〕のお米を上げた。南京城内ではなく郊外では、憲兵に見つかったらうるさいから女の人を殺したりした。自分は掃蕩戦の時だけ城内に入り人を殺したことがある。


こんなことから南京大虐殺はあったと思う。悪いことしたと思っている。
https://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/468.html

6. 中川隆[-12268] koaQ7Jey 2019年2月11日 08:53:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

元日本兵の東京裁判史観・自虐史観(?)は GHQ やマッカーサーとは全く何の関係も無かった _ 2


松岡 環氏の聞き取り調査 1 最終更新日:2018/10/20 10:10


前項目と同様第16師団ですが、今度は同じの元兵士達からの聞き取り調査を掲載します。

小学校教員の松岡 環さんは仕事のかたわら膨大な証言記録を集めました。

他の証言と重複するところもあるかと思いますが、第16師団を中心に証言をいくつか転載します。

証言内容は3回に分けて書きます。

「福田治夫」 

1915年10月生まれ  第16師団の歩兵第9連隊第2大隊 1997年10月取材  

◎南京近くでは    

1週間ほどして南京からいくらか離れた南西方向の裕渓口に駐屯しました。・・・・

子どもとか年いったお婆さんまで、抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、

宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、こっちは油断しますわな。

寝ているところに放り込まれるのが再々あってね。

「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」と連隊長の命令が出ました。

ぐるりにいる人間を見れば発砲して殺しました。

2人とか3人とかの百姓を捕まえてきて、

「そこらに兵隊はおるんかおらんのか」などの尋問をして地形を聞いて、後は殺してしまうんです。

クリ-クの縁に連れ出して、そこに座らせてました。

将校は、めったに刀で首切りなんてできへんのやから、軍刀持ってるさかいに試し切りするんです。

私ら兵隊は突き殺しました。

鉄砲の弾できるだけ使うなといわれてました。・・・・・

そのときは気がたってますわな。ということは気が狂ってるということですな。

戦争は誰もかなわんけど、行け言われたら行かなしゃあないことですわな。

侵略戦争で何もかも侵略したんですわ。

私も戦闘の直後は何くそっと突いたりできますけど。

1日か2日たつと、後で普通になってああいうことは絶対できへんのですわ。

そやから人を突いたことはなるべく思い出さんようにしていました。・・・・

でも、今でもちょっとした機会に殺した場面が思い出されます。 

                    

「町田義成」

1913年生 第16師団歩兵第33連隊第3大隊  1997年8月、99年4〜5月取材

◎敵襲の報復に近くの部落の母子を射殺

・・・・韓家頭ではやられたので、部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。部落に入ったら、

猫の子でもいいから生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」と命令が出ました。・・・・

粗末な一軒の農家の中のアンペラがコソコソ動くのでめくり上げると、

40歳位の妊婦が2人の幼児を両脇にだきしめて隠れていました。

コノ−と引きずり出すと、子どもは泣き叫び母親の後ろにしがみついている。

母親はもう一人の子をクリ−クの中につっこんだ。

××伍長がこれこそ戦友の仇と、即座に銃で3人を撃ち殺してしまった。

そのときは気が立っていたというか、女子どもなのにひどいことをしました。・・・・

◎揚子江に逃げる無数の中国人を殺す

・・・・もう抗戦する力もなく銃も持たず、小さな木っ舟や筏や材木を拾って、

それに掴まって揚子江を下っていく。

5〜8人乗っている小さい舟も、30人くらいの船もあってね。

船には女や子どもの姿も見られ、こちらに向かって抵抗することはありませんでしたな。

すぐ目の前の2〜30メ-トル先に逃げる敗残兵を、

こちらにいる日本兵は、みんな機関銃や小銃でバリバリと一方的に撃つんや。

舟や筏には、普通の服を着た中国人が、小さくじいっとして乗れるだけ乗ってどんどん河を流れていく。

命中すると舟はひっくり返って、そこらの水は血で赤く染まっていました。

舟の上の人間は撃たれて河に飛び込み落ちるのもありますわな。

銃声に混じってすさまじいヒャ-ヒャ-という断末魔の叫び声が聞こえてな。

水の中でもがき浮き沈みする人が流れていきます。

自分の機関銃分隊は、他の中隊と共に撃ちまくった。・・・・

◎当時町田氏が故郷の婦人会に送った手紙

・・・特に12月13日午後、敗残兵が逃げる途なく、小舟に乗って揚子江を流れのままに降りる事 

その数実に5万 我が軍、機を逸せずこれを全滅 

思はず万歳を高唱致し候   

◎難民収容所から屈強な男を引出し殺す

・・・・部隊からの命令では「敵兵とわかったら容赦なく突き殺せ」と命令が出ていた。・・・

目つきの悪い奴とかちょっと足の裏を見て丈夫やったら兵隊で。

そういう不確かなことをしてひっぱりましたんでな、それにひっかかった者は運が悪いわな。・・・・

いい加減な方法でした。

オイッオイッと指で指し示し瞬時のうちに怪しそうな者を選び出してね。・・・・

それぞれの分隊は、男たちを収容所から外へ引き出してみんな突き殺しました。

殺されるかどうかは運ですな。   

◎城内で死体の片づけ 

15〜6日ごろ、挹江門を入った所の大きな道路、中山北路付近の死体の片づけをしました。

先に他の部隊が沢山作業をしていてすでにほとんど片付けがすんでいました・・・・

死体を持ち上げトラックに積み込むと、他の部隊がどこかへ運びまた戻ってきました。

多分死体を河に流したんでしょうな・・・・

南京城内でも城外でも、徴発はよくやりました。

食べ物を盗りに行くんですわ。

分隊で2〜3人で固まって行きました。

ついでに女の子を捕まえるんです。女の子の徴発ですな・・・・

「平山仁三郎」

1914年10月生 第16師団歩兵第33連隊第3大隊 1998年取材

・・・・南京の下関では、日本兵がいっぱいいて、2大隊も3大隊もいたわ。

揚子江を河一杯に中国人が筏や戸板につかまって流れていく。

大きいのには60人位かな、数人のもあったな。

目の前を通る度に、バリバリ撃つんや。

筏に乗っている人には黒い服を着ているのもいたから、城内から逃げていった支那兵やろ。

揚子江には日本の軍艦もいて撃っていたな。

我々が陸上からバリバリ撃つし、軍艦からは砲撃するし、2〜3時間は撃ってたかな、

流れる血で揚子江は血の色やった。

南京が陥落して、すぐに掃討に入った。

13日14日と城内掃討をやった。

挹江門から入った時、死体をようけ見た。

死体が5〜6尺に重なっていて、。・・・・

私らの一個分隊だけで、一日目の掃討戦で・・・・700人捕まえたな。・・・・

重砲を積んだ馬車がその上を通る。

わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで城内へはいった、ぎょうさんやで。

すごい数や。・・・・

「古川康三」

1912年12月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第2機関銃中隊 1998年11月取材

◎下関で捕虜を集団虐殺した    

紫金山から下りてきた中隊は南京へ集結して一応落着いて、2〜3日してから、

「使役」と言う敗残兵の整理の任務を命じられました。

重機関銃を担いで行ったんです。    

下関の揚子江の端の貨物駅でね、

ずらっと並んでいた貨車の中へ中国の兵隊を貨車に詰め込んでいましたんや。

貨車の扉を開けるとあまりに人を詰め込みすぎたんですやろな、

冬の極寒の時なのに、皆暑くて息苦しくて自分の衣服を脱ぎ捨てて素っ裸になっていました。

それが記憶にありますな。

フラフラに弱った裸の兵たちを下ろして揚子江に流れていく筏に載せ、

それを重機関銃で射撃したんですわ。・・・・

至近距離で機関銃撃つんだから必ず当ります。

それで、撃った時に苦しみで河に落ちると思いますわ。

筏は誰が作ったものかわからんが、

大隊本部から私らの第2機関銃中隊に命令が来て、中隊長の命で使役に出たまででした。・・・・

使役は2〜3回ありましたが、どれも貨物車から引き出した敗残兵を筏に載せ、

河に流してから自分が小隊を命令して重機関銃で撃ち殺しました。・・・・

機関銃で撃ち殺した敗残兵は、兵隊であるか民間人であるか区別はつかなかったです。

裸になっておるし、・・・・敗残兵であるか農民であるかはっきり分からなかったですな。

けど、一応はもう敗残兵という格好で処分したんでしょうな。

「吉川定国」

1915年9月生 第16師団歩兵第33連隊第1機関銃中隊 1998年4月取材

・・・・上陸のとき命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」と言われていたで、

家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも放火班があったで・・・・。

「佐藤睦郎」

1914年12月生 第16師団歩兵第33連隊第1機関銃中隊 1999年1月取材

・・・・下関の手前まで来た時は、もう鎮江やら紫金山やらから逃げてきた中国兵が右往左往していました。

中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、

歩兵も機関銃も砲兵も小銃やごんぼ剣持って大きな道を通って下関に向うんですわ。

攻め込んでいくと、大きな道路に飛び出してきた中国兵が群れになってまた逃げて行くんです。

わしら、日本兵は撃たなしゃあない。逃げるのは兵隊だけやない。

男の子もおれば女の人もおる。若い衆もおる。

そんなものお構いなしにめくらめっぽうに連続発射で流すんやから、

角度を決めて左右にス-を流すんやから。

もう前方で人間を見たら、重機をパッと組み立てて全部殺すんや。・・・・

エンジンのないような櫓でこぐような舟が揚子江をドンドン流れていくんや。

いっぱい人が乗っててね、それを撃つんですわ。中には普通の服着てる良民もいる。

それを全部ダダ-と撃った。・・・・

向う岸へ逃げ切れなくて人間の固まりとなって岸壁に集まってきていますんや。

もう何千という人の数や、そこに向けて今度は、誰彼なしに92式機関銃を撃ちこんだんです。

押しまくりました(注:押すと発射する)。

港にぎっしりと集まった大勢の人は、女も子どもも年寄りもいましたわ。

400〜500メ-トル向うにいる中国人たちに射撃の角度を考えて、範囲を決めて撃ちました。

人の固まりが崩れていくんですわ。・・・・

我々はただちに小隊長から「撃て」との命令を受けたけど、

(中国人なら誰でも殺すという)命令は、師団長が出したですやろな。・・・・

その次の日、松井司令官が来るというので、こんなに殺したらあかんという規則があるのか、

たくさんの死体を今度は隠さないとあかんというようになりましたんや。

死体を埋めることになりました。

焼くということもありました。・・・・

南京陥落の次の日でしたけど、南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。

兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでるんです。

中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、

ぐるりに燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。

煙が充満してきてね。中国兵が屋根を突き破って必死になってる。

それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。そんなのを見ました。・・・・

「田中次郎」

1908年2月生 第16師団歩兵第33連隊第1大隊 1998年3月取材

◎田中日記より    

12月14日     

・・・・一小隊が200名位の敗残兵を捕虜にした。

彼らは南京陥落を知らずに逃げてきたものであろう。

之をいかに処置するか大島副官に聞きに行った。

「200あろうと、500あろうと適当なところへ連れて行って殺してしまえ」と言われて

駅の空貨車に詰め込んでしまった。

小隊は重機と協力して捕虜の処分を揚子江岸でやることになった。・・・・

貨車倉庫から皆引き出してしまった。

膝を没する泥土の中に河に向かって座らせた1200人、

命令一下、後ろの壕に秘んでいた重機で、一斉に掃射を浴びせた。

将棋倒し、血煙肉片、綿片、飛び上がる。

河に飛び込んだ数十名は桟橋に待っていた軽機の側射によって全滅し濁水を紅に染めて斃れてしまった。

ああ、何たる惨憺たる光景ぞ。

かかる光景が人間世界に又と見られるであろうか・・・・   

◎南京城内での掃蕩    

12月14日、揚子江岸で捕虜を1200人いっぺんに処分しました。

日記に書いているように惨い事ことでした。・・・・

遺棄された手榴弾も武器もざらに落ちていて、拾っていたんですわ。

手榴弾は信管を引き抜き、掃討する家の中に次々と手当たり次第投げ込みました。・・・・

捕虜狩りの時は人数を数える暇もなく、どんどん捕まえました。

捕虜と言っても中国服着た男ばっかりでしたよ。

掃蕩をやる時は中隊長の指揮によってです。

注意事項と言うものはなく「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と

上部の命令として言われていました。・・・・

実際、男を敵兵として捕らえ、一人一人を調べることなどしませんでした。

おとなしく投降しても、中国人は全部殺してしまう。

手榴弾は家の中に放り込むだけでなく、捕虜の処分にも使っていました。

城内あちらこちらで手榴弾の爆発音がしていました。・・・・

たくさん倉庫に詰め込まれた捕虜はどうなったのかわかりませんが、

最初自分たちがあんなたくさんの捕虜を全員撃ち殺したことから考えたら、捕虜は処分されたのだと思います。
http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_%ef%bd%8a/13573/


松岡 環氏の聞き取り調査 2 最終更新日:2018/10/27 10:40


「林豊」 

1915年3月生まれ  第16師団歩兵第36連隊第1大隊  1999年10月取材

捕虜をつかまえたらまず、武器を鹵獲しました。

記憶にあるのは鹵獲した武器には小銃や機関銃、擲弾筒などがあった。

鹵獲活動は中隊単位でやりました。

数は小銃が300丁ぐらいで、機関銃が小銃の3分の1位だったね。

捕まえた捕虜は百人ぐらいでした。

皆男でした。兵隊もいたし、兵隊らしくない者もいたな。

捕まえた捕虜は1ケ所に集めて兵隊が何人か見張りに立っていました。

南京場内は昼過ぎに入りましたな。

すぐ掃蕩です。次から次へと支那兵がいたね。

他の中隊もいて捕まえたり殺したりしていました。

わしらの中隊はただ集めるだけで、武器を取り上げて武装解除をしたんです。

次の日も掃蕩したと思う。

武装解除して、それから支那兵をどうしたかは分かりませんな。

わしらはしてませんのでな・・・・

「岡崎茂」  

1915年5月生まれ 第16師団歩兵第38連隊第1大隊 2001年4月取材

・・・・南京では一番先に堕ちたのが和平門ですよ。

その和平門から最初に入城したのは私らですよ!

日の丸の旗を振って入りましたんや。

それを知らずに門の外から千人位の支那兵が軍旗を持って四列で入城してきました。

この支那兵を捕まえましたんや。

それで捕虜にしトラックに積んで下関まで連れて行って四列に並べて発砲し殺しましたんや。・・・・

南京で5人の首を切りました。

ハエを殺すのと同じ感覚ですよ。

首の前の皮を残して切るのがコツですわ。

あぐらをかかせ腕を組ませてるから首を切ったとき前屈みに倒れるんですわ。

そうしたら紫金山の方向へ倒れるから日本では皇居へ向けて倒れるのと一緒ですわ。

家を焼いて残った柱に中国人を縛って、部下に銃剣で突かせて殺させたこともありますよ。・・・・

「松崎二郎」 

1916年11月生まれ 第16師団歩兵第38連隊第3機関銃中隊 2001年3月取材

◎1個旅団に近い捕虜を護送    

紫金山はわしら麓から登った。

その時わしは射手してたんでな。

上から下を見たら鉄道が谷みたいな所を走ってるわけ。

それでそこに機関銃据えるわけでんねん。

ここに敗残兵が尭化門から鉄道沿いに逃げてくるわけや。

敗残兵が来たら撃てっちゅうわけや。

上官の命令で上から撃て言われたら撃たなあかん。

そやけどな、やっぱり良心があるさかいな。

ここで逃げられんかった敗残兵を南京まで連れて行ったわけや。

何千人の捕虜やな。南京まで護送するけど、日本兵の方が少ないし、夜やし、そら恐いわな。

武装解除してないしな。

捕虜の人数は1旅団(注:1万人位)ぐらいあって、尭化門門から南京城まで連れて行った。

捕獲前向うは投降して白旗挙げてた。・・・・

それから城門の中に入った。

捕虜は飯食わさなあかんが、炊く物がない。

それで砲弾の薬きょうでお粥炊いて食べさせた。

捕虜を座らせたら、田んぼ2反ぐらいの面積になった。・・・・

その後、捕虜はどないなったかわからん。・・・・   

◎わしら清掃を命じられたんや。・・・

中国の兵隊の服着てる者、普通の服着てる者、女の人もいる。

兵隊ばかりじゃない、輜重兵が大八車引っ張ってくるんや。

それに死体を乗せて、自分の手で乗せました。

南京陥落してすぐや。

松井石根の入城式が17日にあるから狭い路地もやりました。

片づけをどんどんやらなあいかん。すごい死体の数やった。

歩兵も工兵もみんな入城式までやりました。・・・・

やっぱり人を1人でも殺したら戦犯やな。

息子にも戦争のことは聞かさへん。・・・・

「大窪寛三」 

1908年6月生まれ  第16師団歩兵第38連隊第3大隊 1999年8月取材

◎南京入城で残敵を掃蕩

わしらが城内に入る時、残敵が逃げ遅れていっぱいいました。・・・・

捕虜がたくさん投降してきました。

やっぱり食べさせなならんし、釈放したらまた悪いことするんで、わしらも捕虜に疲れて、

揚子江にどんどん連れて行って銃殺しましたな。

毎日機関銃の音がしました。

トラックに捕虜をいっぱい乗せて行って。トラックはまた空で帰って来ましたな。・・・・

陥落4日目に揚子江に一番近い挹江門を通った時、近くに死体が山ほど積んでありました。

高さは2メ−トルぐらいで道路の横の空き地に累々といくつもいくつも積んでいました。・・・・

広さは場所によって違うので、20〜30人ぐらいの固まりもあるし、2メ−トルぐらいのもあるし

それより高いのもあるし、とにかく積み上げられる所まで積み上げたと思います。

あれは後で、もうすぐ入城式なので日本軍が邪魔になるから整理したと思います。

入城式の時は整然としてそんなものはなかったですね。

死体は埋めたのか、揚子江に持って行って流したか、どちらかだと思います。

「中山理」 

1915年7月生まれ 第16師団歩兵第38連隊第1大隊本部付  2000年7月取材

・・・・わしらが入城した時には、生きている支那兵は前の部隊がみな掃蕩してたんであまりおらんかったな。

しかし輜重が入城した時には人の死体を踏んで入った。

歩兵が出て掃蕩して、それから入城しとるんや。

中国人の死体なんかみなそこら辺に放ったんとちがうけ。

揚子江にみんな放ったよ。

支那人は城内から城壁の外に連れ出して、外でみんな殺したわ。

埋めるなんてそんなんせえへんで。

何人やったかなんて知らんけどな。

鉄砲で撃って殺したけど、歩兵隊に比べたらわしらの殺した人数はしれとるわ。

掃蕩は南京に入った時、勝手にやって何人か捕まえたわけや。

そこが問題やな。

民間人と兵隊とよう見分けがつかんで。

それが問題やと思う。・・・・

「長浜太」 

1914年3月生まれ  第16師団の野砲兵第22連隊  2000年11月取材

◎山積みの死体を見に行った 

撃ち方やめて翌日13日の昼すぎ、中山門から南京へ入った。

砲も馬で引いてな、入ってすぐの城内の中は死体がころがっていた。

掃蕩は歩兵と工兵がやったので、わしらはやらなんだ。

南京に入ったあと、紫金山の掃蕩へは、砲は持たずに38式歩兵銃とゴンボ剣を持っていった。

敗残兵が壕のなかに4人か5人いたので、そこへ手榴弾放り込んで来ました。

掃蕩の後、陥落が終って落ち着いたとき、

兵隊が「死体が下関に山と積んである。見に行こう」というので見に行った。

門の内側に死体が背丈より高く、小山のように固めて積んであった。

積んでいる人間は、生焼けで、まだ煙が出ていた。

だいぶ臭かったので、近くへ寄らなんだ。

死体がわしらの身長より高く積んであった。

燃やした跡があり、半焼けになっていた。

煙がぶすぶす出ていた。

そこら中、城壁の内外は死体だらけだった。

別の日に揚子江の河岸にも浮いているのを見ました。

南京陥落後しばらくして、「揚子江に死体がようけ浮いとる。どんだけあるか、見にいこうか」

と部隊内で話になったので、下関まで5〜6人で1時間ぐらい歩いて見に行った。

実際見たときは、それほど浮いていなかった。・・・・

「山川裕美」 

1916年8月生まれ 16師団の輜重兵第16連隊 1999年4月取材

◎入城したら死体を目撃    

・・・・初めて南京に入った時、松井大将が入る門から入ったな。

駐屯した所は城外の民家なので、歩いて城内に入ったな。

その時、外側の道の両側に死体がずっと並べていたのが見えた。・・・・

入城式の1〜2日前やったかな、男ばかり7人捕まえたんや。

班長は「どないなとせい」言うて、わしら分隊の者は、支那人を突き殺したろかと、

銃剣を胸元に突きつけたんや。

弾をあまり使うなと言われてたからな、銃を撃つと難儀やさかい、突き殺そうと言って、

そいつらみんな後ろを向かせたんや、けど「1発の弾で何人殺せるやろ」と言うた者がおってな。

それで、それで、7人を全部同じ方向に向かせて、腹の辺りを銃でうったんや。

7人全部貫通したわ。

みんな倒れたで。小銃の威力はすごいもんや。・・・・   

◎下関で死体処理    

入城式の後すぐ、下関に行ったら、クリ−クの際にたくさんの死体があったのを見た。

大勢の兵隊が、揚子江に死体を流しているのを見たわ。

38連隊の部隊が作業していたな。

そこにわしの友人がいたので38連隊と分かったんや。

手とか足とかを括ってずるずる引っ張ってな、揚子江に放り込んでいたな。

その引っ張って投げる作業は支那人の苦力でのうて、日本の兵隊が引っ張っていたんや。・・・・

皆死んでいた。死体が膨らんで臭かったな。

死体がそこらじゅういっぱいあった。

死体の中に子どもや女性がいるかどうかは注意したことがないね。

臭いから早くそこを通らならんし、・・・・

南京の太平門の入り口にもいっぱいあったな。

太平門の所から引っ張って壕の中に放り込んでいた。だいぶ深かったと思う。

死体が逆とんぼになっているようにどこが頭か手足か分からないぐらいいっぱいあったな。・・・・

隠れていた女の子を引っ張り出して、

日本軍が好き勝手にやるのを見て、手榴弾でも放り込もうと思ったこともあったな。

将校は休憩に入ったらまずク−ニャン探しに行ったな。

支那に行ったら、墓があって、あそこに寝棺が置いてあってな、

兵隊は寝棺の上で強姦をよくやっていた。・・・・

日本軍はあんまり金を使わなかった。

ただの鶏捕まえて殺したり、豚捕まえて殺して料理して食べたね。

こういう徴発はよくやったな・・・・

「小竹巌一」 

1915年12月生まれ  16師団の輜重兵第16連隊 2000年11月取材

・・・・南京では掃蕩で敗残兵を見た。

制服着てるもんもおるし、民間服着てるもんもおる。

民間服着てたらわからんけどなあ。

銃でたたいてたたき殺したり、撃ってころしたり、殺さんかったら向うへ行かれへん。

少ないときで5から6人、多いときは50人から100人ちかいときもある。

どこの部隊かわからんくらいあっちこっちで掃蕩しとる。

捕まえても殺してしまう。残しといたら今殺さないと後の人が殺されるからなあ。

わしは輜重やったから歩兵とはちょっと違うけどな。

歩兵が第一線やからそのすぐあとに行くんや。

徴発のとき女を見つけたら兵隊によっては追いかけまわすもんもおった。

兵隊の半分はやっとる。

やるときは外も中もあらへん。

路上でもどこでもやる。

南京では一般の家の中へどんどん弾をぶちこんで中を覗くと、家の中ですくんで隠れとる。

草むらの中にも壁の裏にも。動いとるもんあったらパ−ンと撃つ。

中国人が逃げたら撃つんや。

オイ!と声かけてポンと撃つ、ポンコロや。

路上には死体が重なり合ってころがっている。

死体を踏まないと前に進んでいけんのや。

捕虜を処理しているのをみたこともある。

いっぱいかたまっとった。

揚子江は死体でいっぱいやった。・・・・

「三上翔」

1919年6月生まれ 支那方面第3艦隊第11戦隊第24駆逐艦隊 1997年12月取材

◎南京城内で見る無残な死体の山

12月13日・・・・その後、砲撃戦とかの戦闘状態は終っていたのですが、

見ると上流から中国人らしい死体を整然と積んだ筏が、いくつも流れて来ました。

その死体の高さは1メ−トル半か2メ−トルくらいもあり、

その積み方絵に描いたようにがっちりと幾何学的で、あまりにも整然としていましした。

それを怪しく思い、中に何か変造物があって何かを隠して流しているという予測の下に、

甲板にいた全員が小銃で目前の目標に向って腰だめで、しばらく撃って撃って撃ちまくりました。

腰だめというのは特別に目で照準するのではなく、おおよその目標が目前にある場合、

手で支えながら腰につけたまま発射することをいいます。・・・・

私たちは、そこから入って入城式の閲兵場所にさらに何百メ−トルか行って待機しました。・・・・

そこには必ずといっていいほど、山のように積まれた遺体がありました。

その人々は中国兵かあるいは市民化さっぱりわかりませんが、

裸で殺されている人、あるいは数珠つなぎの人、縄で数人ずつつなぎ合わせた者を射殺、

或は銃剣で刺した痕が、物々しく残っておったりしました。

またどうしてなのか不思議に思いますが、積み上げられた死体の中には、

真冬なのに裸の死体がたくさんありました。   

◎17日の入城式が終って船に戻りました。

その翌日あたりから、船で見張りについていると、毎日毎日、朝から晩まで繰り帰し繰り帰し、

トラックで捕虜とも中国人とも区別のつかないひとびとを運んで来ては、中山埠頭から川のへ追い落とす。

それを機関銃でもって射殺するところを目撃しました。・・・・

毎日のように続いていたのですが、

たまに夜になると、何かうごめくような叫ぶような声が向う岸からわいわいと聞こえてきました。

炎が揺れてス−ッと横に走り、よく見れば人間が焼き殺されているという状態でした。・・・・
http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_%ef%bd%8a/13608/


松岡 環氏の聞き取り調査 3 最終更新日:2018/11/03 10:20


「境昌平」

1916年11月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第3大隊 2000年7月取材

◎まず物を取る 火をつける    

まぁ言われるがままに戦争をしてきたわけ。

当時私らが思ったのは、敗残兵を処分するのは当たり前だだと、そういう観念でいたね。

今思うとあんなことは非道だと思うけどね。

私らは捕虜を人道的に処遇することを定めた国際法なんか教えてもらったことがないんでな。・・・・

食べていくのにみな略奪ばかりですわ。みな現地調達だったんでね。

指揮班も何かあったら物探しに行ってたわな。・・・・

朝の出発時、今まであたっていた焚き火にその辺の机とか椅子とか家財を積み上げて出て来るわけ。

すると我々が集合してる後ろで燃え上がった。

これは点け火ですわな。

つまり自分らが世話になった家を焼いて出てくるわけ。

無錫の手前で、「後続部隊が困るからやるな」と命令が出ました。   

◎支那人は人間ではなく、品物ですな    

・・・・日記に書いてるように、捕虜になったら処分するのは当たり前やと思ってたね。

だから下関で見たように、海軍の仕官が日本刀で支那人の首を切るのを希望すると、

歩兵が「どうぞ」と言って「今やってますから」と、支那人の捕虜を差し出すんだが、差し出す方も無神経や。

その時の支那人は人間ではなく、品物だね。   

◎ガス弾の使用    

中山陵の手前でガス弾を使った。私らは催涙弾ばかり使ってた。

南京では常熟の手前でも催涙弾を使ったね。

河に飛び込んだ裸の6〜7人いたので、その時は発炎筒を使った。

ト-チカが落ちないので川上から催涙ガスを投げてト-チカから追い出したことがある。

向こうでは訓練で使ったようなイペリットとかルイサイトは使ってない。催涙弾だけ。

催涙弾は緑色ですわ。

大別山では赤筒(くしゃみ性)を使いましたけどね。

「上西義雄」

1914年11月生まれ第16師団歩兵第33連隊第2大隊 2000年9月取材

◎中隊長が「捕虜にした者は全部殺せ」と指令    

・・・・中隊で南京城内を20日間ぐらい毎日掃蕩しました。・・・・

民間人と便衣兵との差は、手のマメなどでで見分けました。あとはだいたい若いとか。

とにかく男ならひっぱりました。連行したあとに査問などはしていません。

後ろ手で数珠つなぎにして、中隊で配られた紐を持っていって、つなぎました。

それでも始末がつきませんで、手漕ぎの舟に乗せて転覆させて沈めました。

1回にだいたい54〜55人ぐらい乗せました。翌日もしました。

他にも、こうやって河辺に並ばせといて、計機関銃でバババッと撃っていました。

それで死体が山のようになっていました。・・・・

捕虜の処分は師団命令です。

実際に私ら兵隊に命令を下したのは中隊長で「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました。

◎実際に死体に油をかけて焼いた

私らも、実際に死体に油をかけて焼いたということもありました。

南京城外のクリ-クではそうしていました。

中国の民間の人を使ってしていました。

その辺にころがっている死体にそのまま油をかけて焼きました。

12月20日ごろ、掃蕩をやっているときに、別の部隊が死体を焼いていたりしたのも毎日見ました。

沖に死体を運ぶ船も30ぐらいあり、2週間ぐらい毎日見ました。

私たちは陸上で処理していましたが、船を動かしたていたのは工兵隊でした。

鉄舟で死体をひいていました。木造船もありました。

紐で結んで、ひっぱっている死体もたくさん見えました。

死体を焼いていた理由は、死体が大体1週間で腐ってきて、腹が膨れてきまして、臭くなるからです。

マスクもせずにそのまま、燃やしていました。脂がのっていますから、燃えますよ。

分隊でやりました。かなりの数でした。

まず掃蕩をしました。

剔出して、処分もしました。死体処理もしました。

中国人を使って死体を河に流したり、油をかけて焼くというのもしました。

それは中隊長からじきじきに「死体の処理をせよ」という命令でした。

各小隊は全部出ました。

掃蕩も中退で3個小隊の6個分隊が交代で出ました。・・・・

「内村和郎」

1915年10月生まれ 中部第38部隊第2碇泊所 2000年11月取材

◎橋の下一面の死体   

南京陥落の翌年、昭和13年、支那事変の後始末に行きました。・・・・   

南京はすごかった。臭いやもん。

人間が腐っとんや。臭いの臭くないの、その場にいられないくらいやった。

南京城外付近のクリ-クに橋がかかっとって、水がなくなってカラカラになっている。

その下一面に死体が放ってあった。腐っているのもあったが、まだ生々しい死体がようけあった。

目を光らしたのもあった。まだ骨もでてなくて、殺して1ケ月くらいたった程度やないのかな。

「しっかり見とれよ」と言われたよ。でも死体は見ない方がいい。

びっくりして卒倒した人もいたわ。百メ-タ-くらいの橋だったから何百人という死体の数や。

中隊くらいの人数ですわ。ほとんど支那人や。

日本人の死体は戦場処理しますからな。

命令以外では自由に出歩いたらいかんと言われているので、

その後その死体がどうなったかは知らんな。

戦いはもう市民も女も子どもも考えていないもん。もうめちゃくちゃやもん。

「男であろうが女であろうが生かしておくな、みんな銃殺や」と、

隊長が言うたとその時、南京にいた歩兵から聞いた。

「鬼頭久二」

1926年8月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第1大隊 1999年、2000年取材

◎生きている者は全部殺せ   

無錫は結構大きな町だった。

戦争中は言ったら悪いけど、我々、大きな町に入ると、徴発できるから皆楽しみにしていました。

砂糖もあり、食糧もあり、女もいるから徴発するのが兵隊の楽しみやった。

町に入ったら自由で、掃蕩と命令される。

中国という国は、親が生きている間に大きな棺桶を買って、

家の入り口の角に置いとくのが親孝行だそうで、

掃蕩に入ったらまず入り口に置いてある棺桶の蓋を開き、中の物を持っていくことでした。

詳しくは覚えていないけど、中にはよそ行きの着物とか、

長く置ける大事な物とか宝石などの宝物もあった。・・・・

町に入って掃蕩の一番の目的は女の人を探すことで、

女を徴発するのが一番楽しかった。

例えば、南京でも暇があったら女を捕まえて強姦してたな。・・・・

南京戦の時、当時の宮さん(注:朝香宮)から命令があって、

その命令は小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きているものは全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

12月28日の上海軍の発表では、8万4千人の中国兵を殺したとのことや。・・・・

◎女を見つけるとその場で強姦   

掃蕩する時、家を一軒一軒まわり女の子を見つけるとその場で強姦した。

女の子はだいたい床の下かカ-テンの後ろとかに隠れていたな。

見つかった時、怖いかどうか分からないけど、反抗しなかったな。

憲兵から止められたりしなかったので、やり放題やった。女たちは皆顔に墨などを塗っていた。

何人ぐらいしたか覚えていないけど、・・・・

南京城内ではなく郊外では、憲兵に見つかったらうるさいから女の人を殺したりした。

自分は掃蕩戦の時だけ城内に入り人を殺したことがある。そんなことから南京大虐殺はあったとおもう。

悪いことをしたと思っている。

「井戸直次郎」

1914年7月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第3大隊 2000年5月取材

◎死体の山じゃ   

・・・・南京陥落の日じゃった。城内に入る時、城壁の外側が死体の山じゃった。

足下がフワフワするんで、マッチをつけて見たら、筵を敷いたように一面に死体がぎっしりじゃった。

ず-と死んどったんじゃ。どの部隊がやったか知らんが、突き殺したんやな。

兵隊やなしに、女も子どももおった。爺さんも婆さんもおった。兵隊やないもんばっかりじゃ。・・・・

新聞でよう言う”南京の虐殺”って全く本当のことじゃが、

そんなこと言えんもんで、「嘘」や言うとるんじゃ。

16師団が一番悪いことしよったようやと新聞にも書いとったが、

わしら京都の師団のそこら中の連中が悪いことしよったんじゃ。・・・・ 

◎掃蕩して強姦、徴発して強姦   

(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。

そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。

婆さんも見境なしじゃ。

強姦して殺すんじゃ。

もう無茶苦茶じゃ。

陥落して2日ばかりたったころじゃ。下関あたりに徴発に出たときじゃ。

民家のあるとこに米や食べ物を徴発にでたときじゃ。そんな時に女も徴発するんじゃ。

家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。

纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。

ズボン1つでパンツ見たいな物は穿いておらんで、すぐにできた。

やった後、「やめたれ」て言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。

暗黙の了解やな。

後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。

それを知っとるさかい、やった後、殺すんじゃ。・・・・

ほとんど女ばっかりの難民区にも行って、部屋に入ったらこれとこれ、指差して、女は選び放題やった。

その場でやってしまうんや。

わしの部隊でだれやったか、やってる最中に中国の敗残兵に頭を殴られたもんがあったので、

見張りをつけて強姦やった。

昼夜お構いなしじゃ。だいたい1個分隊で行った。

十数回は行ったやろうかな。各分隊がみんなそんなもんじゃった。  

◎死体は何千と見たな   

川の方ではあまり見なかったけど、城壁ではぎょうさん見たな。ほとんど突き刺した死体やった。

死体を焼くのは川の辺りで見たわな。陥落してしばらくしてからやな。

夜、飯盒で飯焚こうとしたとき、クリ-クの水が真っ赤になっとった。

死体を放り込んだからやろな。そのまま炊いたらご飯が赤こうなったんじゃ。

それを食ったんじゃ。

朝見たらクリ-クは死体だらけで、水が真っ赤になっとった。

倉庫のような部屋に中国人を詰め込んで機関銃で殺しよった。

部屋の中やさかいどれかに当るわな。

何百人も入れてやったんじゃ。

小さいところで300人くらいやった。わしらが捕まえた奴をこうして殺したんじゃ。

男という男は捕まえて倉庫に放り込んだ。兵隊も何も関係なかった。

処分した後はどうしたかは知らんわ。30分かかるかかからんかじゃ。

中から凄まじい叫び声聞こえて来た。

こんなこと、部隊がそこらじゅうでやっておった。

手榴弾はあまり使わんかった。

投げ損ねると破片が飛んでくるよって。

南京大虐殺はあったんじゃ。

むちゃくちゃやったんや。・・・・

「田所耕太」

1916年3月生まれ 第16師団歩兵第38連隊第1大隊 2000年6月取材

◎33連隊が撃った死体が揚子江を流れてきた   

・・・・12月13日かなあ、城内へ入って逃げた敵を追って翌日には揚子江まで行った。

ず-と死体が流れていて30メ-トル以上むこうまで河の水が見えんかった。

ごつかったんやで。

いっしょに流れてくる中には生きてる人もいたから、

わしら小銃やったから、軽機関銃でみな打ちましたよ。

部隊の重機関銃はその時分までまだ南京に着いてなかった。

33連隊が撃った死体が流れてきてた。昼ごろから2〜3時間撃ってた。

河岸は38連隊の兵隊でいっぱいやった。

下関ではクリ-クの中に入り込んで逃げていた人たちも撃った。

土民みたいな黒い綿入りの服装の人で、もう正規兵みたいな服装はしてなかったな。

女の人は見んかったな。男ばっかりやった。・・・・

「三木本一平」

1913年9月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第2大隊 2001年11月取材

◎朝香宮を護衛の最中に部隊でク-ニャンの徴発    

南京の手前の句容というところに朝香宮さんが来られたので、

わした1個小隊は、中隊長とともに夜中に護衛についたで。

南京〜句容は、何十キロも離れていて大砲の音もせん所や。

戦線の後ろで隠れていても、「朝香宮さんは第一線を視察 大本営発表」と新聞に書く。

中隊長の天野郷三中尉は、野田連隊長より成績が上で陸軍大学を首席で出た人やったらしいで、

そのため、中尉であっても野田大佐の言うことを聞かんのや。

宮さんの警護というこんな時でも女の子を抱いて寝ていたんやから。

ここにいる時、天野はわしら兵隊に「強盗、強姦、放火、殺人、何でもやれ」と言ったんやで。・・・・

16師団が南京を離れる時、分隊全員が足止めをくって調べられたそうや。

天野はそれで軍法会議に問われたと思う。

南京を離れる時、中隊長であった天野の姿は見なかったもん。・・・・         

注:天野中尉のあまりにも非道な戦争犯罪は

  軍の内部や南京在住の外国人にも知れ渡り、軍法会議にかけられた。

◎クジ引きで女の子を輪姦    

・・・・ク-ニャン捜しは分隊で数人で行くことが多いな。

見つけるとな、分隊の何人もで押さえつけたんや。それで女の子を強姦する順番をくじで決めた。

1番のくじを引いた者が、墨を塗っている女の子の顔をきれいに拭いてからやった。

交代で5人も6人も押さえつけてやったら、そらもう、泡を吹いているで。・・・・

わしもしたけど、こんなんしても何もええことなかった。

日本中の兵隊がこんなことをいっぱいしてきた。

言うか言わんだけのことや。

男やもの、分隊10人のうちみんなやっとる。

戦争が長引くから女の子が恋しくて、他の部隊でも同じことをやっていたんや。

人間だったらみんな同じことをやる。

現役の兵隊は、あまり経験ないからおとなしいけどな。

召集兵ほどひどかった。妻帯して女を知っとるから、寝たいんや。

赤紙1枚で天皇陛下の御ために、騙されてみな戦争に行ったわけや。   

◎揚子江の河岸で集団虐殺を見た    

南京陥落後、2日たって、宮さんといっしょに城内へ入った。

護衛の任務を解かれて部隊復帰で、本隊を追求して、南京に入ってまた悪いことをたくさんしたわ。

南京を守っていた中国の兵隊は一杯おってな、捕虜になった兵隊は、みんないなくなったんや。

そりゃそうやで、中国の兵隊は捕虜になって殺すのは当たり前やんか。

捕虜に飯食わすのは、もったいないさかい。

「南京を守っておった兵隊はどこへいったんや」と嘘を言ったって、

実際いたのを全部殺してしまったんやから。

南京大虐殺はあった。ワシはこの目で見たんや。

わしらはどういうわけで戦争してるんかわからんで、

一銭五厘で召集されて「チャンコなんて殺してしまえ」と言っていたんやから、

あの時は、中国人をなめてかかっていたな。

揚子江の港、下関に行った時やった。港とは名ばかりでな、河に桟橋がつき出ていた。

捕虜を収容している倉庫のような建物から、50人くらいの捕虜を引っ張り出し、

幅があまりない桟橋に並ばせてた。

そこを重機関銃でドルルル−と水平になでていた。

やられた中国人はみんなそのまま河に落ちよった。

河のそば、桟橋があるところにわしは行ってのぞいて見たんや。

河底からすぐ足下の岸まで人間が積み重なっていた。

大きな船の着く桟橋や、そうとう深いのと違うやろか。

ちょうど河に浮いているボラの死体のようにぷかぷか浮いて流れて行った。

始末することはないわな。

南京大虐殺はあった。自分がこの目で見てきたことや。
http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_%ef%bd%8a/13717/

7. 中川隆[-12267] koaQ7Jey 2019年2月11日 09:29:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

真面目で優しい日本兵が平気で強姦殺人や猟奇的残虐行為をしたのは覚醒剤が原因だった

あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html

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2008.03.11 覚醒剤「ヒロポン」の時代
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html


昭和十八年 新聞広告

秋田魁新報に掲載された中枢神経刺激薬、いわゆる覚醒剤の広告である。今では考えられないことだが、当時の覚醒剤に対する認識は「効果抜群の栄養ドリンク」程度のもので、薬局に行けば簡単に購入することができた。

広告の商品は大日本製薬から発売されていた「ヒロポン」錠剤、「倦怠感、憂鬱感を除去して爽快活溌となし、又眠気の防止あるいは除去に偉効があり、医界各方面に異常なる注目を喚起しております」とのこと。

しかし「ヒロポン」の実態は、一時的に「疲労倦怠感を除き、活力が増大」したように脳に錯覚させるだけで、薬が切れたときは何倍もの疲労感に襲われる傾向があり、長期間の乱用により幻覚作用が現れ、人格の崩壊につながる、きわめて危険な薬であることは言うまでもない。

大正八年に日本の科学者が合成したメタンフェタミンを用いた覚醒剤「ヒロポン」が市販されたのは昭和十六年(1893)、それと前後して、武田薬品工業「ゼドリン」、参天製薬「ホスピタン」、富山化学工業「ネオアゴチン」など、二十社を超える製薬会社から同様な処方の薬品が発売された。

なかでも「ヒロポン」の名が覚醒剤の代名詞のように使われたのは、そのユニークかつ覚えやすいネーミングのゆえだろう。


脳力・体力の覚醒賦活剤「アゴチン錠」甘糟商店
昭和十七年 雑誌広告


昭和十八年 雑誌広告

はじめは医療従業者の疲労回復や学生の試験勉強の際に使われていた覚醒剤、それに目を付けたのは軍部であった。夜を徹して働く軍需工場の作業員の眠気防止・疲労回復に使われ、視力向上効果があることから夜間監視の戦闘員、夜間戦闘機搭乗員などに支給され、「突撃錠」「猫目錠」などと呼ばれていたという。

こうして覚醒剤は時局に沿って「国策薬」としての役割を負わされることになるが、これはなにも日本に限ったことではない。米英をはじめドイツも兵士たちに覚醒剤を支給し戦意の高揚を図った。米国では第二次世界大戦以後も、ベトナム戦争、湾岸戦争を通じて、デキストロ・アンフェタミン製剤「デキセドリン」(通称・スピード)を一部の兵士に処方し続けた。


「ヒロポン」500錠入り

覚醒剤の弊害が表面化するのは戦後の混乱期のこと。敗戦の精神的虚脱にともなう刹那的享楽主義が蔓延するなか、軍部がストックしていた「ヒロポン」が大量に流出し闇で安価に販売された結果、乱用による中毒者が全国的に広がりはじめる。流出したのは純度の高いアンプル剤。ヒロポン中毒は「ポン中」と呼ばれ、「ヒロポン」は「国策薬」から一転「亡国への魔手」と称されるようになる。

一般市民のほかに芸能人、文筆家、芸術家などアーティストの多くが「ヒロポン」におぼれた。小説家では織田作之助、坂口安吾の常用が有名で、「ヒロポン」の登場する作品を残している。


‥‥前略‥‥ヒロポンを用いて仕事をすると、三日や四日の徹夜ぐらい平気の代りに、いざ仕事が終って眠りたいという時に、眠ることができない。眠るためには酒を飲む必要があり、ヒロポンの効果を消して眠るまでには多量の酒が必要で、ウイスキーを一本半か二本飲む必要がある。原稿料がウイスキーで消えてなくなり足がでるから、バカげた話で、私は要するに、全然お金をもうけていないのである。

坂口安吾『反スタイルの記』より(昭和22年「東京新聞」)


 役者も踊り子も食えない。二日ぐらいずつ御飯ぬきで、ヒロポンを打って舞台へでる。メシを食うより、ヒロポンが安いせいで、腹はいっぱいにならないが、舞台はつとまるからだという。‥‥後略‥‥

坂口安吾『安吾巷談 ストリップ罵倒』より 昭和25年「文藝春秋」


昭和二十六年、「覚醒剤取締法」が制定され、覚醒剤の輸入、製造、譲渡、所持及び使用が原則として禁止されたが、勢いは止まらず、ピークにあたる昭和二十九年の検挙者は五万五千人を超え、潜在的な乱用者は五十五万人、中毒による障害者は二百万人と推定されていた。同年の県内に於ける検挙者は八十三人、この年大館市では、ポン中の青年が母親に「ヒロポン」を買う金を執拗にせびり、暴力をふるうのを見かねた兄が、弟を絞殺するという悲惨な事件も発生した。

その後の取り締まりの強化と経済復興により、約十年にわたる国内のヒロポン禍もようやく下火になるが、昭和四十五年頃から、今度は朝鮮・韓国ルートによる覚醒剤密輸入が徐々に増加しはじめる。
http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-406.html

2009年12月18日
ただのビタミン剤じゃ
◎昭和20年代半ばのヒロポン流行の背景と、対応法令の乖離について
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html


第009回国会 参議院 厚生委員会 第7号 昭和25年12月9日
○藤原道子君 私は厚生大臣にお伺いいたしたいのでございますが、先日来大きな社会問題となつておりまするヒロポンの問題でございますが

(略)

或いはまた聞くところによると賠償等の問題も起るから強い処置ができないというようなお言葉も私たちは聞いているのでございます。

(略)

その中毒患者を見ますときに、17歳から23歳の者が83%もいるということでございます。(略) 若しこのままで参りましたならば、ヒロポン亡国とさえ言われる大きい危險があると思いますので、これに対して、大臣はどういうふうな方法でこれを喰止めようとしておいでになるか(略)

医者の証明書がなければ売つてはいけないということになつているのです。けれども(略)警視庁の報告を見ましても(略) 一つのグループに対して一つの薬局から石油カン一ぱいのアンプルの殻があつた。それは一つの薬局から売られている。

(略)

そこで私は厚生当局に対しまして今製造を禁止する意思があるかないかということ、(略) ヒロポンを、モルヒネのようにアンプルに番号を打つて、一つの製造会社なら製造会社を指定いたしまして(略)必要なところだけに必要なものを流すというような方法を採つたらこの被害が防げるのではないか。(略)

○国務大臣(黒川武雄君)※厚生大臣、虎屋15代目当主
製造禁止のことは現在の法律ではできないのでございますが(略) 早急に思い切つた処置を講ずる必要があることを痛感しております。(略)

○藤原道子君 痛感いたしておると言われまするがどうも頼りないんです。(略)
罰則規定がありながらこれの適用が非常に軽いと思うんでございます。この書類を見ましても富山化学ですか、その他の会社二件がこれに引つかかつているゆですが、たかが十五日の営業停止なんです。

(略)

このヒロポンはもともと戰時中に軍が労働者を酷使いたしますために、労働強化をいたしますため、眠くてはできない、そういうところからヒロポンを使つて労働強化をやつたということを私は聞いておる。

(略)

このヒロポンのこれだけに被害が殖える前にこのヒロポンの害毒というようなものを国民に周知させるためのパンフレットが作成されるとかいろいろな方法が講ぜられなければならなかつたと思いますが、今までにどういう方法をおとりになつて来たか。医師会等にはどういうふうな御協力をお願いされたか(略)

○国務大臣(黒川武雄君) 私としては真劍に考えております。断乎としてやることは藤原君に誓います。細かいことは局長からお答えいたさせます。

○政府委員(慶松一郎君)※厚生省薬務局長
(略)私どもがたとえ行政処分をいたしますにいたしましても、或いは司法上の処分をいたしますにいたしましても、これは十分なる証拠その他がはつきりしませんことにはできませんことは改めて申すまでもございません。

(略)

ときどき新聞等に私どもから申しておりますし、又医師会に対しましても協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 新聞等ということでは駄目なんです。もつと真劍にヒロポンの被害の如何に恐ろしいかということ、それからこういう社会に起つておるあらゆる悲劇等々をわかりやすく書いてパンフレツト等にしてこういうことをやられて来たか、

(略)

一昨日でしたか読売新聞ではヒロポンの問題を騒いでおることを阿諛しておる記事が出ておる。ヒロポンの害ということが書かれるよりも、ヒロポンによつて小説家がその仕事が進行するとか、或いはヒロポンを打つことによつて眠くないからやれるのである。

興味本位のことのほうが大衆の眼には映りやすいのです。ですから今新聞に報道したということは、当局のとられた態度とは受取れない。医師会にはどういう協力をお求めになつたか。

○政府委員(慶松一郎君) 医師会に対しましては、たびたび覚醒剤に対しまする指示、その他についての協力方を求めておる次第でございます。

○藤原道子君 それから私は素人でわからないのですけれども、医者の証明書というようなものはどういう病気のときにヒロポン使用の証明書が出るのでございましようか。

○政府委員(慶松一郎君) これは非常にむずかしい点がございます。その点につきましていささか御了解を得たいと存じます。

旧薬事法の第41條によりまして医師の処方箋又は指示によつて使うべき薬といたしまして指定されております、若しくはペニシリン或いは、ズルフアミン剤がございまして、それに昨年(略)ヒロポン等の覚醒剤も同様なものとして扱われるようなふうにいたしたのでございますが、

(略)

この指示という意味は、それは処方箋に準ずるものでございまして(略)

最近地方庁から医師が、この覚醒剤に対しまする指示といたしまして一ヵ月分であるとか、或いは一年分であるとかというような指示書をまま出しておるのでございます。それはすべてこの法の精神に合しておらない

(略)

従いましてこれは全く医師の良識の問題にも関する次第でございますが(略) 法的にはどうも違反であるとは言えない点、むずかしい点がございます。

(略)

この問題の解決は何らかの独立的な法規を作らない限りは非常に困難であるということになります。(略)

医者はそれはかわいそうであるということでまあやられるかやらないか、或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして、そういう指示なり処方箋を渡すことも、これは法的に申しますれば違反ではございません。

(略)

例えば今日素人のものがこれを持つておりましても何ら罰則がございません。又密造されましたものを所持しておりましても、これを所持するだけでは罰することができませんのです。

(略)

そういうような立法的な措置が行われない限りは拔本的にはこれを取締ることに極めて難点があるということを御了解願いたいであります。


<以上引用>

◆ヒロポンは大日本製薬(現大日本住友製薬)の商標ですが、大日本以外にも
 同種のおクスリを作って売っていた会社があったということですね。
 (密造というのもあったようですが)

 上記議事録に名前が挙がった会社の沿革 
 昭和20年代はスルーです。

 旧大日本製薬の沿革
 昭和3年から昭和24年の間はスルー。

上記議事録から分るのは、この昭和25年末の時点では、処方箋さえ出ていれば、ヒロポンの所有・売買は犯罪ではないということ。(1年分という真実味のない処方箋も当時は問題なかった) せいぜい、街中の薬局が処方箋なしに売ったものくらいが摘発の対象になる程度。

「医者は(略)或いは脅迫されてやられるかということは一応別にいたしまして」
とあることから、反社会的な人たちから処方箋の発行を強要されていた部分もあったと想像されます。

▼また、この頃は医療報酬に「技術料」的なものが含まれておらず、医者は「各種のクスリを売る/処方箋を発行する」ことで生計を立てていた部分が大きかった様子。

参考:日本医師会 - 戦後50年のあゆみ 1950年
昭和24年秋から本格化した強制医薬分業をめぐる医師会と薬剤師協会の対立は,強制医薬分業の実施を願うGHQのサムス局長(公衆衛生福祉局)のあからさまな介入もあって,日本医師会を揺るがせた。

(昭和25年)4月の定例代議員会で選出された田宮猛雄会長,武見太郎副会長は,サムス局長の不信任通告を受けて辞意表明に追い込まれ,8月には後継会長に谷口弥三郎が選出された。

田宮会長は,4月にサムス局長に面会した際,強制医薬分業の実施に反対して,「日本人には医師の無形の学識,労力に報酬を支払う観念がなく,医師の診療報酬に技術料が含まれていない」との申し入れをしたが,この点にサムス局長が理解を示し,新医療費体系の検討が始まった。

<以上引用>


▼関連リンク
ドラえもん ねむくならない薬 の検索結果

ヒロポン関連の画像

20世紀ひみつ基地 より 覚醒剤「ヒロポン」の時代

中国人民解放軍が3日間眠くならない薬を開発(2011年)


前掲議事録のほぼ1年前のもの

第006回国会 参議院予算委員会 第10号 昭和24年11月30日

○説明員(慶松一郎君) 只今お話になりました覚醒剤でございますが、これは大体戰争中に陸軍、海軍で使つておりましたのは、すべて錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ましておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたのはすべて錠剤でございまして、今日問題になつておりますような注射薬は殆んど当時なかつたと私は記憶いたしております。

そうしてその終戰当時ございましたそれらの薬は、外の医薬品、或いは衛生材料と同様に、占領軍当局、進駐軍当局から厚生省に渡されまして、そうして外の薬と同じような方法によりまして各都道府県に配給いたしたと存じております。

併し私、当時から全体の薬の配給等に関係いたしておりましたが、当時におきましては余りそのことが問題になつておりませんでしたので、果してどういうふうに配給されたか、ちよつと今分らないと思います。併しいすれにいたしましても、今日問題になつておりました製薬は当時殆んどなかつたということが言えると思います。
<以上引用>

 ※この当時流行したヒロポンは、旧軍物資が市場に流出したものではなく、
  当時の製薬会社が当時せっせと作っていたものであることが想像される。

類似品 パンプロン (小野薬品工業、昭和24年) 
photoplay-6

メチルプロパミンとはメタンフェタミンのこと。
要はヒロポンと同じもの。
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50969121.html

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覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html

8. 中川隆[-12266] koaQ7Jey 2019年2月11日 09:47:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

東京裁判は日本人に東京裁判史観・自虐史観を植え付ける為ではなく、皇族の戦争犯罪をすべて陸軍軍人に肩代わりさせる為に行われた

正直者は馬鹿を見る


おまけにこの連中 命令は全て口頭で記録は一切残さなかったらしい。

この代わりに命令の記録を残した連中が東京裁判で責任とらされたようだ。

東京裁判というのは関係者の皆さん全てご存知の上での猿芝居ではなかったのかとも思う:

48. 2013年10月03日 01:18:26 : ZsffPrh7kg

聞いたところでは遠縁にあたる親類の叔父さんは南方方面の物資補給艦に乗っていて潜水艦からの魚雷攻撃を喰らって死にました。

_物資の補給というキーポイントにいたから海軍の話は色色と聞いているよ。
戦況は完全に駄目だと相当前から云っていたようだ。

上官の程度が悪すぎるというのは日本海軍での通説のようだ。
今も同じで責任は一切とらないで逃げ回るだけなのがどうも伝統らしい。


大和がどうした以前の第一の問題として大本営発表の連中とこの上司の誰かさんが相当変なように思うよ。

おまけにこの連中命令は全て口頭で記録は一切残さなかったらしい。

この代わりに命令の記録を残した連中が東京裁判で責任とらされたようだ。

東京裁判というのは関係者の皆さん全てご存知の上での猿芝居ではなかったのかとも思う。

例えば大本営発表の連中とこの上司や予科練の指導官や神風突撃隊の指導官や憲兵の連中はほとんど生き残っているんでしょう。
従ってこんな馬鹿らしいタラレバの投稿を見るとムカムカするだけだよ。
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/813.html#c48


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/beikoukanngagenbakutoukaseitoukawohatugen%20nihonsukuuzihibukaikouito.htm

私が会った皇室家族の二人は、私との会話に、1926年からの日本の支配者、裕仁天皇についての、いくつもの物語を滑り込ませていた。こうした物語は、印刷物として報じられたことはなく、私は最初、皇室内のゴシップとして聞き流した。
しかし、後にその全体の文脈で見ると、そこには取り上げるべき重要さが潜んでいた。

たとえば、真珠湾攻撃の夜、裕仁がマラヤからの短波放送を聞いていたとか、
彼はかって、息子をもつため、人工授精による出産をおこなっていたとか、
彼の誕生は、一般に言われているより一年早かったとのうわさがある、などなどである。


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。

彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。

彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。

1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。

彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、
彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。

また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、
そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。

また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、
ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。

裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。

 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。

彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。

当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。

そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。

 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。

 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。

私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。

 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

終戦時、オーストラリア、ニュージーランドそして中国の高官はすべて、裕仁天皇は日本の君主であり、日本の戦争責任者のリストの先頭におかれるべきであることに同意していたことを、キャンベラの書庫で発見して、私には心をやわらげられるものがあった。彼らは、その後、マッカーサー将軍の決定――天皇を国際法の下の戦争犯罪人とするより日本の復興のために用いる――(私自身、これは賢明な決定と思う)に従った。

私の調べた確証から浮かび上がる天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

彼は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。

その年の一月、私の調査が終わろうとしていた時、原書房という東京の小さな出版社が、戦時中の陸軍参謀総長、杉山元〔はじめ〕大将が1940年から44年に書きとめた備忘録〔『杉山メモ』〕を出版した。これは、日本国家の最高位の軍事将校による歴然たる手書き資料である。杉山は日本が降伏した1945年に自殺しており、彼の記録を装飾する機会はなかった。記録のほとんどは、無味乾燥な軍事的詳細か、さらに単調な軍事用語で満たされていた。しかし、そのうちのいくつかは、裕仁との会話の言葉どおりの記述である。

それらは、裕仁が、真珠湾攻撃の数ヶ月前、軍事的、経済的計画について、詳細な質問をしていることを記していた。

それは、マッカーサー将軍が語ったという、裕仁が戦後将軍に告白した――1941年にはすべての軍事的、経済的事柄については無知であった――という発言と真っ向から食い違っていた。

 最も驚くべきことは、1941年1月、対米戦勃発の11ヶ月前、裕仁が独自に、真珠湾への奇襲攻撃のフィジビリティー調査を命じていることを、『杉山メモ』が記録していることである。

それ以前では、欧米の歴史家は、少なくとも1941年11月までは、裕仁は真珠湾奇襲攻撃計画については何も知らなかった、と信じていた。1941年当時の侍従長、鈴木貫太郎は、戦後、裕仁は真珠湾攻撃計画については、それが実行されるまでは知らなかった、とはばかることすらなく記している。

 『杉山メモ』はまた、裕仁は、真珠湾計画に、彼の公式軍事輔弼がそれを告知される丸六ヶ月前の段階で、参加していたことを明らかにしている。極東国際軍事法廷の連合軍判事たちに提示され、また、宣誓のもとでの目撃証言や緻密な調査によって検証された証拠は、裕仁を戦争にまで引きずり込んだとされる「軍国主義者」の誰もが、1941年8月まで、真珠湾計画を知らなかったと結論ずけている。


国際軍事法廷は、日本人指導者に「侵略戦争への陰謀」との判決を下し、1928年から1936年の間の日本を運命付けた少なくとも八件の主要陰謀を明白とさせた。また、陰謀は、日本文化においては、古くから、由緒ある地位に置かれてきた。戦前の日本の領土軍〔植民地配属軍のことか〕は、公式に「謀略部」と称する参謀チームを設けていた。

私は、その連合国判事が判明させたリストに、さらに六件の陰謀を加え、それらのすべてを、裕仁を中心とする皇室がからむ陰謀とした。裕仁は、秘密裏に少数派に働きかけ、最初は日本を欧米との戦争に導き、そしてそれに敗北すると、その記録を隠蔽した。

欧米の歴史家は、日本人をえがくにあたって、集団ヒステリーの産物という考えでもってあまりに懲り固まっているようだった。

日本経済の記録は、そうした思い込みが誤りであることを示している。わずか一世紀昔の1868年、日本の経済発展は、1485年にヘンリー七世が王座にあった英国に相当すると見られていた。

過去一世紀の変貌は、常軌を逸した不可解な人々によって成し遂げられたのではなく、もっとも勤勉で知的な人々によってなされたのである。

私は、これまでの生涯、日本人に畏敬とそれを知ることの喜びを感じてきた。日本の指導者たちが、欧米の指導者たちと同様に、極めて賢い人たちであるということは、この著作の基本的前提である。

1945年、連合軍がドイツを制圧した際、何百万ページもの国家文書が発見された。これに対し、連合軍が取り決められた日本の占領を始めた時、戦争終結からまだ2週間しかたっていないにもかかわらず、アメリカ人の手に入ったもので、何らかの重要性をもつ文書は、日本人によって自発的に提供されたものであった。

1937年より1945年まで皇居において天皇が議長を勤めて行なわれた天皇本部の会議議事録は、すべて焼却されたと言われている。陸軍参謀本部、海軍参謀本部、特高警察のファイル類の大半も、同様であった。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


天皇の7人の最も「忠実な下僕」が絞首刑に、18人が占領の間中の投獄、そして、天皇自身は皇位から退位もせず、「立派な自由主義的な紳士」となった。

1948年12月22日、絞首台に向かおうとする東条、松井ほか5名の男たちは、全員で天皇に「万歳」――裕仁朝廷の永世を誓う――を唱和した。

その処刑に立合う責を負った連合軍の外交代表は一列となって、死刑判決を受けた者らの冷徹なユーモアとも映る行動を、深い印象と共に目撃していた。

裕仁のみが生き長らえ、そして記憶にとどめられていた。

戦争後の四年間、彼は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、彼は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、彼の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。
あの戦争では320万人が犠牲となった。あらゆる家族で親類に戦死者がいないところはないというほど殺された。

あの戦争は天皇を頭とする独占資本集団が、国内をさんざんに搾取収奪して、
狭隘な国内市場から海外に求めて侵略につぐ侵略、戦争につぐ戦争を繰り返し、
最後に中国への全面侵略戦争を引き起こし、米英仏蘭列強の植民地争奪戦に突入して敗戦となったものであった。

 ところがアメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。

アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。

自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。


現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。

かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、
四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/anpokaiei50nensengo65nenwotyokusi.html


昭和天皇の身代わりになって処刑された東条英機


御文庫といって天皇の宮殿の地下深くに御文庫を作り

そこに大本営を置いて天皇が参謀たちを集め図面を置いて

毎日毎日、今度はここ行けここ行けと指図をするわけ

それを指図ができると東条英機が受けてですねやるわけです

だから参謀たちが天皇を大参謀に、参謀たちが戦争計画を作り、それを東条に渡すわけです

東条英機は大文庫に、御文庫の中には入れないわけです

他の連中も

そういうシステムで戦争が進んでいく訳です
http://www.youtube.com/watch?v=eugXzHoKnes


東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2

1947年の12月、戦時中の首相、東条は自らを弁護して証言台に立った。
彼は生贄の羊となることを望んではいたものの、降伏以降、彼への雑言悪態は
限度を越えていた。

中には、天皇自身が、東条の命令不服従の不実を非難しているとさえ報じられていた。あるいは、日本の新聞は、東条が自決しようとして、刀ではなく拳銃を使ったことを、臆病者と呼んでいた。東条の家族は、近所からライ病患者のごとく扱われ、お金にも不自由した。彼の弟は、二ヶ月前、列車中で一袋の米を盗んだとして逮捕されていた

1947年の大晦日、東条への直接尋問のなかで、〔木戸の〕弁護人
ログマンはこう質問した。

「天皇の平和に対してのご希望に反して、木戸侯爵が行動をとったか、
あるいは何かを進言したという事実を何か覚えていますか?」

 東条 そういう事例はもちろんありません。私が知る限りにおいてはありません。
のみならず、日本国の臣民が、陛下のご意思に反して、かれこれすることはあり得ぬことであります。 いわんや、日本の高官においておや。


ログマン 以上をもって、木戸卿に代わる私の尋問を終わります。

裁判長(ウェッブ) 今の質問がどのようなことを示唆しているかは、
よく理解できるはずである。

 まさしく、それは誰もが知っていたことだった。

そこでキーナンは、彼の証人の切り札たる田中隆吉を、富士山麓の山中湖畔の自宅で休暇中のところより呼び戻し、ただちに巣鴨刑務所の東条に会いに行かせた。

だが東条はそれに応じようとはしなかったので、田中は皇居に行き、木戸の前秘書で
天皇の顧問の後継者、松平康昌に情況を説明した。次いで松平は、同僚の
側近たちと相談し、収監中の元内大臣木戸に手紙を送る許可を裕仁よりえた。

東条とは隣同士の房にいる木戸は、さっそく東条との話し合いに入った。
彼は東条と護衛の監視下で仕切り越しに長々と話をした。

木戸はまた、
刑務所中庭で運動の際、直接に東条に話しかけ、東条の家族の状況を改善させることを約束した。 小男で近眼の木戸ながら、彼は刑務所の雑務中でも裕仁の代理人であったため、東条は彼の話を無視することはできなかった。

二日にわたって話が交わされた後、ついに東条は折れた。

彼は法廷にもどると、キーナンによる反対尋問の中で、

自分が天皇を戦争を始めるよう説得し、それによって、裕仁を自身の気持ちに反して動くように強いさせたかも知れないことを認めるに至った。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


内閣特別顧問の石原莞爾――退役した満州戦略家――は、敗戦の説明をおこなうため、全国の津々浦々を行脚した。

彼の話す内容は、戦争を始めたのは元首相東条であり、彼以外に責任はない、という単純なものであった。

1930年代初め、石原と東条は、天皇の支持を取り付けるため互いに争っていた。だが東条が勝利していた。今、東条を犠牲者に祭り上げるにあたり、石原ほど詳細を知るものはいなかった。

出身地東京で一年以上の退役生活を送っていた東条は、その中傷を冷徹に受け入れ、戦争の責任を全面的に負うのが自分の意思であると、友人たちには内々に語っていた。

友人たちは彼の意思を尊重したが、以前の部下や下僕たちはそれに反発した。たとえば、官邸に20年間使えてきた給仕は、東条を、もっとも人間的で思慮深い人物であると述べていることが幾度も取り上げられていた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_3a.htm


マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、
天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。

そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、
天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。


1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に
十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。

ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて
戦争が行われているのでは無い事、

東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。

天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、
自分だけ生き延びたのである。

戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、
政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。

東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、
この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。

天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/49704032.html

キーナンは、自分が技巧的に追及してきたその判決を聞いた日の夜、
彼の切り札証言人、田中隆吉と一杯飲みに外出した。彼は酔いにかまけつつ、

「馬鹿げている、まったく馬鹿げた判決だ」と口にした。彼が最も反対してきた判決は、
松井――南京攻略の際、その命令が悪用された痛ましい小柄な大将 松井石根――の死刑だった。

 公正は私に、被告に有罪を決定する際、天皇の免責について再考するよう、求めている。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


9. 中川隆[-12265] koaQ7Jey 2019年2月11日 09:56:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

東京裁判は日本人に東京裁判史観・自虐史観を植え付ける為ではなく、皇族の戦争犯罪をすべて陸軍軍人に肩代わりさせる為に行われた _ 2


昭和天皇はGHQ やマッカーサーとどういう取引をしたのか?

東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。

東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?

天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。
天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね。


▲△▽▼

日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。


アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

____


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。

アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

___


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。


ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/

▲△▽▼


2018.12.03
精算されていない日本の過去(1/2)

 第2次世界大戦中、日本は占領した東アジアの国々で人びとを強制的に動員して働かせた。徴用工だ。日本では1938年に国家総動員法が制定され、翌年に公布された国民徴用令によって厚生大臣は強制的に人員を徴用できるようになった。


 この仕組みを国外で外国人に適用すれば国際問題になる。韓国との問題では1965年の日韓請求権協定で解決したことになっているが、日本側も個人の請求権は消滅していないことを認めている。韓国の大法院もそのように判断、日本の企業に賠償金の支払いを命じたわけだ。


 日韓請求権協定自体の問題を含め、日本の過去は清算されていない。アメリカ支配層の力を借りて封印してきただけである。アメリカの力が弱まったことで、問題が表面化してきたと言えるだろう。韓国は何年も前からロシアや中国との関係を強め、アメリカから離れつつある。アメリカの属国である日本に気兼ねするような状況ではなくなってきたのだ。


 本ブログでは何度か書いたことだが、日本軍は東アジアの占領地で財宝を組織的に略奪している。「金の百合」だ。


 アメリカ人ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、プロジェクトが始まるのは日本軍が南京を攻略した1937年。政府が保有する資産を奪うだけでなく、銀行や裕福な家に押し入って金や宝石などを略奪したという。財宝を探し出すため、憲兵隊は目をつけた家の娘を誘拐することもあったという。娘と引き換えに、隠した財産を差し出すか近所や親戚の財産に関する情報を教えろというわけだ。貧しい家の娘は売春宿に連れて行かれたともシーグレーブ夫妻は主張している。


 この南京攻略戦に参加した少なからぬ日本軍の将兵が陣中日記の中で軍命によって捕虜を射殺したと記録しているが、個人的な略奪、殺戮、レイプなどもあったようだ。


 この作戦当時、特務機関員として活動中だった中島辰次郎は、南京市内で「虐殺」と呼べる出来事があったことは間違いないと明言、総数はわからないとしたうえで、死体が山積みになった光景を見たと話していた。(筆者自身の取材)


 また、支那派遣軍の岡村寧次総司令官が「大暴行があたのは事実」と書き残しているほか、外務省の石射猪太郎東亜局長は「南京に於ける我軍の暴状」の報告に「目もあてられぬ惨状」と書かれていたと日記に記している。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将は師団長クラスの退廃ぶりを嘆いていた。


 南京攻略は形式上、松井石根が最高指揮官なのだが、実際は朝香宮鳩彦、昭和天皇(裕仁)の叔父にあたる人物だったと言われている。


 スターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、「金の百合」を指揮していたのは天皇の弟である秩父宮雍仁で、その補佐をしていたのが天皇の従兄弟にあたる竹田宮恒徳だという。秩父宮は駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーと親しい。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030000/

2018.12.03
精算されていない日本の過去(2/2)


 日本軍が中国など大陸で略奪した財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手はずになっていた。実際、一部の金塊は東京にあるスイス系銀行、マカオにあるポルトガル系銀行、あるいはチリやアルゼンチンの銀行に運び込まれたという。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)隠し場所として、さまざまな場所の名前が挙がっている。


 ところが戦況の悪化で輸送が困難になり、相当部分がフィリピンの山の中に隠された。日本の日本の敗戦が決まった当時、フィリピンを担当していた日本軍第14方面軍の司令官が山下奉文大将だったことから隠された財宝は「山下兵団の宝物」とも呼ばれている。その山下は1946年2月にマニラで処刑された。


 アメリカの情報機関は戦争中から「金の百合」に関する情報を持っていて、日本が降服するとすぐに回収工作を始める。関係者への尋問は戦時情報機関OSSのエドワード・ランズデール大尉(当時)が指揮した。後に対キューバ工作を指揮、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる人物だ。


 OSSが廃止になるとランズデールはチャールズ・ウィロビー少将が率いるフィリピンのG2(アメリカ陸軍の情報部門)へ配属になり、尋問を続ける。財宝のありかを聞き出したのはランズデールの部下だったセベリーノ・ガルシア・ディアス・サンタ・ロマーナだ。


 その情報は東京やワシントンDCに伝えられる。その際、ランズデールはハリー・トルーマン大統領の国家安全保障を担当していたスタッフにも会っている。


 この報告を受けたヘンリー・スティムソンは財宝をアメリカの国際戦略に利用しようと考える。1945年9月21日までスティムソンは陸軍省(戦争省)の長官で、その下にはジョン・マックロイやロバート・ラベットなどウォール街の大物がいた。


 アメリカの支配層が手に入れた略奪財宝は「金の百合」以外にもあった。ドイツ軍がヨーロッパで略奪した「ナチ・ゴールド」だ。ジョン・ロフタスとマーク・アーロンズによると、ナチスがヨーロッパで略奪した資金はOSS長官だったウィリアム・ドノバンが1946年に設立したWCC(世界通商)でロンダリングされ、タイへ運ばれたという証言もある。(John Loftus & Mark Aarons, “The Secret War against the Jews”, St. Martin’s Press, 1994)


 WCCをドノバンと共同で設立したのはイギリスの対外情報機関MI6の下部組織、BSC(英国安全保障局)の責任者だったウィリアム・ステファンソン。WCCの後ろ盾にはネルソン・ロックフェラー、ジョン・マックロイ、シドニー・ワインバーグ、ビクター・サッスーンも含まれている。(Peter Dale Scott, “American War Machine”, Rowman & Littlefield, 2010)


 「金の百合」と「ナチ・ゴールド」は統合され、「ブラック・イーグル・トラスト」と呼ばれる秘密の基金が創設されたとも言われている。こうした秘密資金がアングロ・サクソンの世界支配に利用されたということになる。


 「金の百合」に関する情報は1980年代の後半から流れるようになった。切っ掛けはフェルディナンド・マルコスの失脚。1983年8月にマルコスのライバルだったベニグノ・アキノが空港で射殺され、マルコスに対する抗議運動が激しくなり、それを利用してアメリカ軍がマルコスを拉致したのだ。国外へマルコスが出ると財宝に関する裁判が起こされ、情報が漏れ出てきたのだ。


 マルコスは1954年にイメルダ・ロムアルデスと結婚しているが、ふたりを引き合わせたのはランズデールの部下だったロマーナ。ロマーナはイメルダと親しかったようだ。マルコスは日本軍が隠した財宝の一部を掘り出し、それを資金源にして大統領というポストを手に入れたと言われている。


 ロナルド・レーガンが大統領に就任した直後、マルコスはブラック・イーグル・トラストに関して沈黙を守る代わりに援助という名目でフィリピンにカネを回すようにアメリカ政府へ要求した。つまり恐喝だ。当然、アメリカや日本の政府は警戒するようになる。それがマルコス失脚の原因だという。


 詳細は割愛するが、アメリカが日本の過去を封印する手助けをする理由のひとつは略奪財宝にあるだろう。日本の過去を本当に精算しようとすれば、アメリカが大戦後に築いた世界支配の仕組みが明らかになる。日本の場合、薩摩と長州が徳川体制を倒した明治維新から現在に至るまでの歴史も見直さなければならなくなる。本ブログでは何度も書いてきたが、血盟団や二・二六の将校が何を見、なぜ怒ったのかを理解する必要もある。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812030001/

天皇の金塊、金の百合とは?
【天皇の金塊とは】

天皇の金塊とは、「金の百合」といわれているものである。
「金の百合」とは、金塊と財宝は天皇家所有の財産である、として1937年に名づけられた。
宮中の歌会始めのお題をあてた名前だった。

1945年(昭和20年)6月1日深夜、日本陸軍がアジア12カ国から奪った巨万の財宝をフィリピン各地の175ヶ所のトンネル地下サイトに隠し終えた。
最後に爆破した、地下倉庫8号サイト一ヶ所に蓄えられた金塊の量だけでも、たとえば3〜4世紀前に西欧に開設された全銀行が保管した金塊の総量と、第一次世界大戦時に世界一の金塊保有量(公称3千数百トン)を誇ったアメリカの全量の10倍を上回る勘定(数万トン?)であった。
つまり残る174箇所の地下サイトに保管された金塊財宝の総量は計り知れなかった。
175箇所のサイトに秘蔵された推定金塊総量は未確認だが、現地の信頼できる筋からの情報では、アメリカのCIAとイギリスの情報機関MI-6が15年間に推定した全サイトの金塊埋蔵量は合計14万1000トン。その内訳は、バチカンの名義分が1万4000トン、日本皇室の名義分2万4000トン、残りの10万トン余りは名義が特定出来ない(強奪先が不明)とのこと。

財宝を隠すのを現地で指揮していたのは、キムスと呼ばれた竹田宮恒徳(つねのり)(皇族)であった。


【天皇の金塊がどうやって集めら(強奪さ)れたか】
日本陸軍の高級官僚たちは、天皇の名のもとに、日本将兵と日本から呼び寄せた愛国者団体の黒龍会や玄洋社のリーダーや手下の荒くれ者たち、中国の地下組織の構成員たちを使って、アジア12カ国から金銀財宝を強奪した。
 12カ国とは、
 朝鮮半島、満州、中国、インドシナ半島、インドネシア、フィリピンなど。

 各国の政府の金庫や民族の祖先を祭る場所、銀行、博物館、華僑の会社金庫、個人住宅の裏庭など、ありとあらゆる場所にある金銀財宝(「金の百合」)を漁って強奪した。

強奪した金塊財宝類は、朝鮮半島から船と飛行機で日本に運ばれた。
これを軍人や政府官僚たちは「戦利接収品」と呼んだ。
これらの金塊財宝は、日本銀行の本支店、横浜正金銀行や第一銀行、三和銀行、それに何箇所かの博物館などに保管された。
金塊の一部は金貨やインゴッドに鋳造して流通された。
その他の金塊財宝は陸海両軍の倉庫に保管された。
戦後、隅田川の運河に面した東京月島の倉庫からは数十億円規模の金塊を詰めた木箱が、日銀の地下室からは数百億円を優に超えるダイヤモンドがアメリカ兵に押収されている。
占領軍の将校が、「これほど豊富な資金を持ちながら、なぜ日本が戦争に敗れたのか。。。」とつぶやいた、というエピソードが残っている。


【フィリピンの地下に隠された天皇の金塊(の一部)】
アジア諸国から強奪してきた金塊財宝はフィリピンにも集められた。
しかし1943年ごろからフィリピンと日本を結ぶ洋上航路は連合軍の潜水艦に封鎖され、日本に送れなくなった。
そこでやむなくフィリピン各地の地下(175ヶ所のトンネルサイト)に分散退蔵することとなった。

分散退蔵に従事した人々の様子をベン・バルモス・ハーミン(将校の世話係 兼 現地案内)は語っている。
 サン・フェルナンドの前線本部では軍人将兵より多い数の民間の専門家たちがいた。
 ・天然洞穴の空間や地面を掘削してトンネルを通したり、そのトンネルを繋いで地下構造物を拡大新設する民間人。
 ・鉱山技師、地質学者、建築家など。
 ・セラミック塗料で加工して地盤や地肌を偽装する職人、地下施設の随所に爆薬を装置して侵入者を防ぐ破壊専門家、同様に有毒化学物質とシアン化合物が自然粉砕するガラス類と化学薬品の科学者など。
 ・作品の年代や作者、歴史価値を判定する陶磁器専門の人。
 ・金の含有量の検査や鋳造、鉱物資源を分析する人。
 ・青銅製品や書画骨董類、それに歴史遺産に精通する大学教授や博物館の学芸員。
 ・仏像仏具の価値に審美眼を持つ日本の著名な寺院の仏僧。
 ・アジア全域の地形や地理に通じた専門家。
 ・日銀、三井、三菱、住友、第一銀行や横浜正金銀行から出向して、アジア12カ国政府と銀行所有の膨大な数の債権類や紙貨幣、それに財務資料や帳簿類を調べる行員たち。
 彼らは、地下構造物とその空間に退蔵する金塊財宝の鑑定と保存をするために働いていた。
 奴隷として作業させられていたのは、朝鮮人・中国人・フィリピン人、それにイギリスやオランダの捕虜たち。
 管理していたのは”日本人ヤクザ”たちであった。

 各サイトは地中で繋がっており、メインとなる8号サイトの出入り口を爆破してしまえば、他の空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。

 1945年6月1日、その8号サイトを爆発処理したのは、昭和天皇の従兄弟、陸軍中佐 竹田宮恒徳(つねのり)と、フィリピン防衛を指揮した陸軍大将 山下奉文(ともゆき)とベン・バルモス・ハーミン。

地下で繋がったトンネルサイトの所在を示す精密な地図(暗号で示された)は、キムスこと竹田が潜水艦で日本に持ち帰った。


【そして、中盤へ。】
そんな風にして集めた金塊だが、そもそも戦争事業者である世界金融資本家たちの、さらに上位にあるロイヤル・ファミリーの私有物である、と言う。
そして、この構造が明らかにされたのは、「金の百合」資金で大統領の座を買い取った、フェルディナンド・マルコス、の裁判が行われたためである、と言う。

少しだけ書く。
マルコスは地下から天皇の金塊の一部を、地下から掘り出し(これも巨大な量)、換金していた。
そしてマルコス裁判では、その換金の過程が解る、金融世界の大物たちの関わった証拠となる資料が公表された。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=237926



▲△▽▼



竹田恒和の父親は中国で組織的な財宝略奪を指揮した人物
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901130000/
2019.01.14 櫻井ジャーナル

 日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長を訴追するための予審手続をフランスの司法当局は始めたと伝えられている。2020年に開催が予定されている東京オリンピックの招致に絡む贈賄容疑だという。

 昨年(2018年)11月19日に東京地検特捜部は日産自動車の会長だったカルロス・ゴーンと代表取締役のグレッグ・ケリーを逮捕したが、これと竹田の予審手続を関連付ける見方もあるようだが、フランス当局が捜査を開始したのは2016年だ。

 国際陸上競技連盟(IAAF)の会長だったラミン・ディアクの息子に関係するシンガポールの銀行口座に約2億2300万円の送金があり、IOC委員の買収が目的だったのではないかという疑惑が持たれたとされている。この支払いを認めたのが招致委員会の理事長だった竹田だった。

 竹田恒和の父、竹田恒徳もJOCの委員長だった。任期は1962年から69年、つまり1964年の東京オリンピックを挟んだ時期にあたる。

 竹田恒徳は昭和天皇のいとこにあたり、ジャーナリストのスターリング・シーグレーブとペギー・シーグレーブによると、1937年から敗戦まで秩父宮雍仁の下で組織的な財宝の略奪、いわゆる「金の百合」を指揮していた。この秩父宮と竹田恒徳はジョセフ・グルーと近い関係にある。

 グルーはいとこのジェーンが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥。グルーの妻、アリスの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の伝説的な軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリーだ。

 こうした背景があるため、グルーは皇族を含む日本の支配層に強力なネットワークを持っていた。特に親しかったとされている松岡洋右の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたり、岸もグルーと親しい関係にあった。

 第2次世界大戦で敗北した日本の進む方向を決めたのはウォール街を後ろ盾とするジャパン・ロビーだが、その中心的存在もグルー。日本の戦前レジームと戦後レジームはつながっているのだ。

 金の百合で略奪された財宝はフィリピンに集められ、そこから日本へ運ばれる手順になっていたが、途中で日本への輸送が不可能になり、相当量がフィリピンに隠された。その隠し場所を聞き出すために日本軍の将校を尋問したのがエドワード・ランズデール。表面的には軍人だが、実際は戦時情報機関OSSのオフィサーだった。

 竹田は戦後、邸宅を堤義明の西武グループに売却、そこに建てられたのが高輪プリンスホテルだ。敗戦で資産を失ったという演出だったが、実際は資産を隠していたと言われている。堤義明は1989年から90年にかけてJOCの会長を務めた。

 竹田恒和は日本とアメリカの深層海流とつながっている。フランス支配層はそこを意識しているのだろうか?


10. 中川隆[-12257] koaQ7Jey 2019年2月11日 19:41:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

戦後の日本人は本当に GHQ とマッカーサーに洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったのか?_ 2

2019.02.09
【トンデモ】「朝日」憎けりゃWGIPも憎い。でもアメリカは憎くない(水間政憲「反日歴史認識の「教典」
:『朝日新聞』は日本人洗脳放送『真相箱』に加担していた」『Voice』2014.6)
https://rondan.net/327

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1 ともかく「朝日新聞が悪い」
2 なんでも「朝日新聞が悪い」
3 この世の諸悪は朝日新聞が根源:朝日新聞陰謀論


ともかく「朝日新聞が悪い」

南京事件や慰安婦問題でともかく叩かれる朝日新聞。昨今、保守勢力の朝日叩きは必要以上のものがあり、非論理的な言動が目立ちます。保守運動を有意義で建設的なものにするためにも、デマ拡散や炎上商法で短期売り上げを狙うのではなく、是非とも意味のある論理的な議論にして欲しいところです。

なんでも「朝日新聞が悪い」

今回取り上げたいのは、水間政憲「反日歴史認識の「教典」:『朝日新聞』は日本人洗脳放送『真相箱』に加担していた」(『Voice』2014.6, pp. 152-157)です。

このタイトルだけ読むと、「GHQのプロパガンダ放送「真相箱」の制作に、朝日新聞が重要な役割を果たしていた」ことが説かれるのかと思いきや、そんな話は出てきません。論文の主題は南京事件の被害者34人説、あるいは0人説の強弁です。「真相箱」と朝日新聞との関係は、冒頭部で次のように関与の可能性が示されるだけです。


戦後、「南京大虐殺」があたかも事実のように認識されてきたものです。1960年代にはきえそうになっていたこの問題を煽ったのも、『朝日新聞』でした。「南京虐殺問題」については、東京裁判開廷前に朝日新聞社が編集に加担した証拠があります。連合国最高司令部(GHQ)政策の日本人洗脳放送『真相箱』(NHKラジオ)で、同裁判の判決を先取りしたような「南京大虐殺」に関する放送をしていたのです。

つまり、水間氏が主張したいことの要点は「朝日新聞が加担したために、ラジオ番組「真相箱」の放送で南京大虐殺の虚報が流された」ということなのでしょう。

しかし、朝日新聞が「真相箱」の制作に協力していたからと言って、どうしてその放送内容の責任が、それを制作したGHQや、放送したNHKではなく、間接関与の可能性が示唆されただけの朝日新聞にあるのでしょうか? 水間政憲の批判の矛先は、なぜか朝日新聞にだけ向けられており、反日番組放送に直接携わったGHQやNHKに対しては苦情の一つも言っていません。

この世の諸悪は朝日新聞が根源:朝日新聞陰謀論

また朝日新聞の関係者が「真相箱」の制作に携わっていたとして、どうして朝日新聞そのものが批判される必要があるのかについても私にとっては謎でしかありません。

水間氏などの一部保守勢力には、朝日新聞は諸悪の根源であると想い込み、何でもかんでも朝日新聞が仕組んだという陰謀論に走ってしまう節があります。

「真相箱」(より広い概念で言えばWGIP)は、確かにGHQのプロパガンダという性格を持っています(洗脳まではいいすぎだと思いますが)。そうであるならば水間氏が責めるべき相手はGHQであり、今のアメリカであって然るべきです。アメリカを責めず、朝日新聞を責めるというのは論理的に不整合であると感じます。

あまり意味のない朝日新聞陰謀論は控えるべきではないでしょうか


https://rondan.net/327


▲△▽▼


2019.02.11
産経記者のネトウヨ性——佐々木類(論説副委員長)がヤバい
https://rondan.net/15289


Contents

1 ネトウヨ御用達「産経新聞」
2 記者の思想性
3 NHKはフェイクニュース
4 文治的報道を罵倒
5 韓国に強硬姿勢が国益につながる
6 WGIPを信じるというスゴさ
7 まとめ


ネトウヨ御用達「産経新聞」


「ブーメラン」「反日日本人」「WGIP」「コミンテルン」といったネトウヨ御用達のスラングを記事でガンガン使ってしまう産経新聞の革新性には驚かされます。朝日新聞や読売新聞などではこういった語は殆ど用いられず、言葉の使い方という点ではよほど保守的です。

産経新聞はいわゆる右向きな保守層やらネトウヨ層をターゲットにした紙面作りに特化しており、それはそれで価値はあると思うのですが、あまりの馬鹿々々しさに心配になるときがあります。

ところで、次のようなことが言われることがあります。産経新聞の記者たちは、読者に喜んでもらうために右寄りな記事を書いているだけで、当人たちはノンポリである、というようなものです。

記者の思想性

確かに産経新聞の記者だからと言って、必ず全員が右寄りなはずはありません。また逆に朝日新聞の記者だからと言って、全員が左寄りでないのと同じです。たとえば、長谷川熙氏は元朝日新聞の記者ですが、今では熱心なアンチ朝日になっています。

ですがこの一方で、朱に交わり赤くなったのか、それとも元々そうだったのかは解りませんが、「THIS IS SANKEI」といった記者も存在します。今回はそんな「これぞ産経」な記者である、論説副委員長の佐々木類氏の言説を取り上げたいと思います。出典は『ジャパニズム』47号(2019.2)収載の「新聞記者が一刀両断! 日本の偏向報道」です。


NHKはフェイクニュース

産経新聞の記者らしくフェイクニュースに極めて敏感な佐々木類氏。さすがファクトを重んじる産経新聞といったところでしょうか?

過日騒動となったレーダー照射問題の報道に怒りを覚え、NHKに次のように噛みつきす。


日本放送協会。そう、天下の公共放送にして高給が批判の的となっているNHKのフェイクニュースだ。まるで海自のP1が韓国駆逐艦「広開土王」に異常接近したためにレーダー照射された―と錯覚するような合成写真を垂れ流したのだ。

良いですね。この出だし。「高給が批判の的」とか本筋と全く関係のない僻みが入っているところがツボです。そういえば産経新聞は経営危機で、ボーナスも碌に出ず、早期退職希望者募集中だそうですが、佐々木類氏は大丈夫でしょうか?

で、フェイクだというのは、次の画像のことです。


この写真を見ると自衛隊機が韓国船に異常接近しているように見えるからフェイクだというのです。

……。

考え過ぎだろ(笑)

事実、佐々木氏自身が「素人が見ても合成であることが分かる」とフェイク説を一蹴。


P1はなぜか車輪がすべて出ていて、素人が見ても合成であることが分かるのだが、一瞬騙されそうになるから厄介だ。

「自分でマッチポンプしてて楽しい?」と聞きたくなるレベルの言説ですね。しかしネット掲示板レベルの駄論を全国紙の新聞記者がしてしまうとは…。


文治的報道を罵倒

もちろん産経新聞の記者らしく、韓国に対しては超絶強硬姿勢。先のレーダー照射問題に対する「喧嘩両成敗」「両者ともに落ち付け」的な報道を罵倒。


そして、ニュースキャスターはこう、したり顔でまとめてみせた。「冷静にいきたいですね。日韓関係のさらなる悪化にこの問題、繋がらないか心配です」。
あなたはいったい、どこの国の公共放送でキャスターをしているのか、と聞きたくなるほどの胸くその悪さだ。


(朝日新聞も)NHKと同じ、ケンカ両成敗である。「日韓両政府が言い争いをしている」とはなにごとか。


こういうNHKや朝日、毎日新聞といったメディアが韓国をツケ上がらせてしまうのである。

こういう「先生に叱られない範囲で威張り散らす小学生」みたいなところが産経新聞の良いところです。

韓国に強硬姿勢が国益につながる

しかも佐々木氏の理解では、このレーダー照射騒動の一件は、韓国から銃口を突き付けられ、宣戦布告を受けているようなモノなんだそうです。


100%相手に非があり、自分の息子や娘が銃口を突き付けられて相手を批判しているときに、「言い争いはやめろ」と両者をなだめようというのか。


「今後も隣国ゆえの大小のトラブルは起きるだろう」などと暢気なことを言っている。これは、赤化統一の道を邁進する文在寅政権の形を変えた、わが国に対する「静かなる宣戦布告」なのである。

ここまで言うからには自衛措置で韓国船を沈めろくらい言うのかと思ったら、産経新聞は謝罪の要求しかしていないそうです(笑)


事件の発覚を受け、社説で最初に反応したのが産経新聞だった。12月23日付で「敵性国家の所業である。韓国の政府と海軍は過ちを正直に認めて責任者を処分し、日本に謝罪すべきである」と主張した。

結局、佐々木氏(および産経新聞)が威勢よく「宣戦布告」だの「敵性国家」だの激しい言説をしたからといって、「実際の戦争にはならない」「戦争はして欲しくない」という甘えがあるんですよね。彼らがそれに気が付いているかどうかは解りませんが…。ほんと「先生に叱られない範囲で威張り散らす小学生」でしかない。

本気で「宣戦布告」だの「敵性国家」だのと信じているのであれば、「謝罪の要求」なんてショボイこと言っていないで、「レーダー照射されたら、現場判断で即時、ミサイルを撃ち込め」くらい社説で言ってほしいものです。何を日和見しているのでしょうか(苦笑)


WGIPを信じるというスゴさ

またこのようなマスコミのフェイクニュースや、偏向報道を生み出している原因は、なんとウォー・ギルド・インフォメーション・プラン(WGIP)なんだそうです。


現在のメディアが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による、WGIP(日本洗脳工作)に支配されていることは、今や多くの人が知るところとなっている。今でも当時の連合国や南北朝鮮への批判禁止等々、30に及ぶプレスコードがあり、多くのメディアはそれに縛られている。例えば、大平洋戦争を大東亜戦争と呼ぶことは、歴史修正主義でも右翼化でも、何でもない。当時の人はさきの大戦を大東亜戦争と呼んでいた。
日本のメディアはまず、用語の使い方から見直さねば、染み付いた偏向報道癖を元から断ち切ることは不可能だろう。
以上、自戒を込めて報告する。

今でもプレスコードがあると主張している割には、産経新聞は南北朝鮮批判はするし、「大東亜戦争」って語も使うし、でもアメリカにはポチ犬だしと、好き勝手やってるじゃないですか(笑)

WGIPによってメディアが縛られているなんてのは、考え過ぎ。

まとめ

いかがだったでしょうか?

元々そういったイデオロギーの持ち主だったのか、産経新聞社に入ってから染まってしまったのかどうかは解りませんが、「嫌韓+アンチ朝日+WGIP」とまさにネトウヨそのもの。

こういうスゴイ方が全国紙「産経新聞」の論説副委員長をしてしまっていることが一番のトンデモでしょうか?

最後に、ビックリなオフショットを一つ。


ちなみに、職業柄、すべての日刊紙に目を通す知人の一人はこうした新聞を読むと決まって朝から不快になるから、気付け薬代わりに産経新聞を読んで呼吸を整えるという。

……。

何も語るまい…。

https://rondan.net/15289


▲△▽▼

2019.02.10
産経新聞と朝日新聞の「ネトウヨ用語」頻度の比較
――「ブーメラン」「反日日本人」「WGIP」「コミンテルン」……
https://rondan.net/15276


Contents

1 苦境の産経新聞
2 ネトウヨ用語が大好きな産経新聞
3 ブーメラン
4 反日日本人
5 WGIP
6 コミンテルン
7 まとめ

苦境の産経新聞

経営状態が悪化しまくっている「産経新聞」。ネトウヨは購買意欲が高いようですが、所詮、人数が多くないので全国紙を維持するためには今一つ勢いが足りないようです。

一方、ネトウヨから目の敵にされているリベラルの牙城「朝日新聞」は、部数低下に悩まされながらも、不動産業などによる収入が盤石のため、依然として産経新聞よりはるかに健全な経営状況です。

保守最後の希望である「産経新聞」を救うために、ネトウヨは積極的に二部三部とまとめ買いし、販売店に「押し紙」を強制させ国益を守るべきではないでしょうか?

ネトウヨ用語が大好きな産経新聞

朝日新聞や読売新聞と違って、不動産などの資産を持たない産経新聞は、新聞の部数が伸びないと経営状況は回復しません。部数減少率は善戦しているものの増えてはいないので、このままでは倒産してしまいます。

この回復のカギはネトウヨ路線の放棄にあると思います。先ほども言いましたが、ネトウヨは数自体それほど多くないので、今のようにトンデモ記事ばかり書いていたら、良識ある一般市民はドン引きするだけだということです。

アホ相手に商売していると、気が付かない間に自分までアホになってしまっているということはよくあります。産経新聞の方々はよくよく社会常識に基づいた記事を書いていただきたい。

ブーメラン

幾つか典型例な用語を比較します。

まずは「ブーメラン」。ネットスラングでよく使われます。民主党(民進党)を攻撃する際によく用いられますね。

この語が何回使われているか検索したところ…。

産経新聞(政治) 283
朝日新聞(全体) 17
【参考】読売新聞(全体) 6

圧倒的な産経新聞のクォリティ(笑)


反日日本人

「反日日本人」とはネトウヨが大好きな言葉。

反日は中国・韓国だけではなく国内にもいるという妄想を手助けしている用語です。

これを比較すると…

産経新聞 12
朝日新聞 2
【参考】読売新聞 0

なお、朝日新聞でヒットした2件は、いずれもネトウヨ思考を批判する記事です。一方、産経新聞はマジで「反日日本人」というカテゴリーが存在すると妄想してしまっている記事です。読売新聞は華麗にスルー(笑)

ほんと産経新聞スゴイ。

WGIP

ネトウヨや保守が大好きなWGIP(ウォー・ギルド・インフォメーション・プラン)。何と我々はGHQ政策によって洗脳されているそうです。

先に大ベストセラーになった百田尚樹『日本国紀』においても、戦後史で大きく扱われました。こんな単純な陰謀論を信じれるということ自体が、自虐思想なのですが(笑)


これを比較すると…

産経新聞 75
朝日新聞 4
【参考】読売新聞 0

なお、朝日新聞でヒットした4件は、いずれもこのWGIPが妄想であると批判する記事です。一方、産経新聞はマジでWGIPによって我々が洗脳されているというという記事です。

ここでも読売新聞は華麗にスルー(笑)

コミンテルン


「コミンテルン」とは戦前に実際に存在した共産主義組織です。今ではもう存在しません。ゆえに都合がいいのか「コミンテルン陰謀説」が今では大人気です。

「日本が戦争に巻き込まれたのはコミンテルンの陰謀だ!」

というのがそれです。多くの国々と人々が複雑に絡み合って起きた現象の発端を、たった一つの原因に帰することなど不可能です。その不可能を単純に解決してしまうのが陰謀論でし。フリーメーソン陰謀論などと大同小異のもので、あと20年もすれば口に出すことすら恥ずかしくなるようものです。

さて、この語を比較すると…

産経新聞 105
朝日新聞 2
【参考】読売新聞 0

産経すごすぎ!

なお朝日新聞の1例はコミンテルン陰謀論を非難する記事です。そしてやはり読売新聞は華麗にスルー(笑)

まとめ

いかがだったでしょうか?

産経新聞がどれだけぶっ飛んでいるのかがよく解ったと思います。

その対極にある朝日新聞は産経新聞などが垂れ流す妄想にしっかり反論し、一方。両者の中間やや右寄りにいる読売新聞はこんな馬鹿げた妄想に最初から付き合わないという態度です。

こんな面白い産経新聞を、みんな優しい眼差しで見守ってあげましょう!

https://rondan.net/15276


11. 中川隆[-12238] koaQ7Jey 2019年2月12日 15:13:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2019.02.09
【トンデモ】WGIPの裏にはコミンテルンが!
(高橋史朗「GHQに葬られた日本の「武道」」『正論』2018.1)
https://rondan.net/804

Contents

1 コミンテルンブーム
2 WGIPはコミンテルンの謀略に通ずる!
3 ブラッドフォード・スミスの役割
4 まとめ


コミンテルンブーム

保守論壇は空前のコミンテルン陰謀論のブームです。アパグループ主催の「アパ日本再興大賞」では、

江崎道郎『日本は誰と戦ったのか:コミンテルンの秘密工作を追及するアメリカ』(ベストセラーズ, 2017)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A8%E6%88%A6%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%B1%9F%E5%B4%8E-%E9%81%93%E6%9C%97/dp/458413829X


が大賞に輝きました。

その内容はタイトルからもお察しの通り、コミンテルンのスパイたちによってアジア太平洋戦争(大東亜戦争)が引き起こされたという陰謀論なわけです。田母神閣下の論文が火をつけたのか、この頃ともかくコミンテルン陰謀論がブームになっています。

張作霖爆殺事件も、盧溝橋事件も、大東亜戦争もすべてコミンテルンの謀略によって引き起こされたと主張されています。これが事実ならば、コミンテルンは近現代史を裏で操っていた勝者ということになるでしょう。しかし現実には、ソ連はドイツのバルバロッサ作戦に対応できず、アメリカから武器貸与まで受け、さらに数千万人の死者を出して満身創痍でようやく勝てたわけですが、こういう所は何故かいつも見落とされます。


WGIPはコミンテルンの謀略に通ずる!

そんなコミンテルン絶頂期を象徴するかのようなトンデモ陰謀論が発表されましたので、それを紹介したいです。その陰謀論とは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の原点が、コミンテルンと密着した中でつくられた」というものです。

これを主張したのは、WGIPの第一人者として知られる高橋史朗氏です。「GHQに葬られた日本の「武道」」(『正論』2018.1)という論文には次のようにあります。


コミンテルン史観―あるいはマルクス主義史観とよんでもいいのですが―こうした人たちがGHQと癒着し、占領政策を展開していたことが資料の公開が進んで徐々にわかってきたわけです。すなわちWGIPそのものを原典にさかのぼって検証していくと、コミンテルンと癒着した中で政策がつくられ、対日心理戦略がつくられてきたことが明らかになってきたわけです。

しかし、

@コミンテルンは1943年に解散してるのに、どうやって終戦後の(しかもGHQによる)対日情報統制WGIPを画策できたのかとか、

A何が悲しくてレッドパージ(非共産化)までしたGHQがコミンテルンと手を組まなきゃいけないんだとか、

素朴な疑問がいろいろ浮かびます。普通だったら「考えすぎ」「妄想」となるわけです。


ブラッドフォード・スミスの役割

しかしそこは高橋氏一流の理論によって、WGIPとコミンテルンが結び付けられます。


〔ブラッドフォード・〕スミスはのちにWGIPを陣頭指揮する人物で、彼が書いたこの二つの論文は『アメレイシア』という機関紙に掲載されています。しかし、この機関誌を発行する団体は実はコミンテルンの外郭団体なのです。もうこの時点でコミンテルンとWGIPに接点が生まれているわけです。

すなわち「WGIPの陣頭指揮者がコミンテルン関係の雑誌に論文を掲載していた」から、「WGIPとコミンテルンには関係がある」という理論です。

しかしこれは考え過ぎでしょう。仮に、ブラッドフォード・スミスがコテコテの共産主義者であったならば、そもそも共産主義嫌いのマッカーサーが対日情報統制という重要な役割を彼に与えるとは思えません。したがって、共産主義と関係があった雑誌に論文を投稿したからと言って、投稿者が共産主義者として認定されるわけではないことは明らかです。

また高橋氏は、ブラッドフォード・スミスを「WGIPを陣頭指揮する人物」と述べていますが、これには語弊があるのでより正確な記述が必要です。

このブラッドフォード・スミスは、確かにWGIPの中心人物の一人であり、GHQ版戦史「太平洋戦争史」の編纂に当たった人物です。しかし、決してWGIPそのものを独裁的に統括する立場ではなく、あくまでも彼はCIE局長のダイク・ケネスの部下でとして働いた人物です。

そして「太平洋戦争史」の編纂も、彼が一人で行ったわけではなく、客観性を確保するためにGHQの他部の意見も取り入れられています。またその冒頭部では、天皇に戦争責任がないことが示唆されていて、GHQの方針と日本の国体護持に協力的です。(賀茂道子 『ウォー・ギルト・プログラム:GHQ情報教育政策の実像』法政大学出版, 2018)

このようにブラッドフォード・スミスの経歴からWGIPをコミンテルンと結びつけることは、荒唐無稽な陰謀論に過ぎないでしょう。



まとめ

アメリカは言論の自由が許された国で、様々な思想を持つことが公に認められていました。日米開戦前は、政府・民聞を通じ親英、親中、親ソ派とラベルを押された多彩な人脈が入り乱れていたそうです(秦郁彦『陰謀史観』新潮社, 2012)。

そのような状況を考えれば、生活をしていくうえで、知らす知らずのうちに親英、親中、親ソ派とラベルを押された人々と何らかの関係を持つことは不思議ではないです。しかし「何らかの関係」を持っただけで、当人までが親英、親中、親ソ派になるわけではありません。これを十分に踏まえる必要があります。

たとえば、ある人が良く通っているレストランの社長が共産主義者だったならば、その人は「共産主義の関係者」とも表現できてしまいますが(間接的に献金もしていますし)、その人が共産主義者であるかどうかは別問題です。二十年、三十年と生きた人の経歴を詳しく調べれば、その人物が共産主義と関係していることを証明するより、関係していないことを証明することの方が遥に困難です。

この様な常識を踏まえるならば、「ブラッドフォードスミスはコミンテルンと関係していた」とか「WGIPはコミンテルンと癒着した中でつくられた」といった言説が、単なる陰謀論でしかないことがよく解ります。

トンデモ

コミンテルン大東亜戦争陰謀論高橋史朗


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 2 件のコメント


匿名 より:

2018年12月30日 6:35 PM


高橋史朗氏の専攻は「戦後教育史」と「臨床教育学」なのに、何故彼に歴史を論じさせるんでしょう?
高橋氏と言えば、かつて朝日新聞のインタビューに「宇宙における統一体の起源と進歩を運命づける原理」(2016年6月17日付朝刊)などと答えたのは今でも語り草です。取材した朝日の記者は一体どんな顔をしていたんでしょう?
また高橋氏はトンデモ教育論「親学」を提唱していますが、その分派が「0歳からの読み聞かせ絵本として最も適したものは、「日本神話」です」と主張しているのも私のツボです。
http://www.bunka.tank.jp/gyoji_090211_kenkokuaichi_3.html
http://www.ninigi.jp/imanaze.pdf


https://rondan.net/804

12. 中川隆[-12226] koaQ7Jey 2019年2月12日 19:26:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告


2019.02.09
【悲報】ケント・ギルバート「WGIPが日本をダメにした」
⇒読者「謝罪しろ」
⇒ケント「被害者ビジネス乙」という謎の理論を開陳。
おかげで「変態」になってしまった日本人の責任は?(笑)
https://rondan.net/11161


Contents

1 保守ビジネスの外国人補強選手
2 被害者ビジネスするな!
3 GHQのWGIPによって洗脳されたけど、アメリカは悪くない理論炸裂。
4 追記:変態になってしまったのも…


保守ビジネスの外国人補強選手

虎ノ門ファミリーの重鎮で、ベストセラーを量産しまくっているケント・ギルバート氏。

そんなケント・ギルバートの不思議な発言を津原泰水さんが呟いていましたので、これを紹介したいと思います。

まず、ケント・ギルバート氏は、ツイッター上で次のツイートをピン止めしています。‏


ケント・ギルバート @KentGilbert01

GHQが日本人に自虐史観を植え付けた占領政策「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」は歴史的事実です。
デマや陰謀論だと思っている人は一次資料を読んで下さい。
なぜ産経以外のメディアはWGIPを未だに報じないのかな?
16:00 - 2017年6月24日

Dropbox - WGIP一次資料
https://www.dropbox.com/sh/s1esvemgpwff6gi/AAC7f8u9SOtUoec7Y5G4r53Aa?dl=0


被害者ビジネスするな!

にもかかわらず次のようなやり取りが(笑)


ケント・ギルバート @KentGilbert01 2018年11月1日
だとしたら、日本はもう終わりですね。それがあなたの望みですか?

べっきどん@過疎配信者 @DonBecky

あなた方アメリカ合衆国が日本をそうしつけたわけですから
そうなるのは自明の理
日本のナショナリズムを煽る暇があるなら
ウォーギルトプログラムについて謝罪し
横田と横須賀の米軍基地を一日も早く撤収するべく尽力いただきたいものですな(`・ω・´)
内政干渉はご遠慮願いたい#ネトウヨあほ列伝
22:33 - 2018年11月1日



つまり、ケント氏が「日本はもう終わりですね」と言うなら、それはアメリカがWGIPによって日本を滅茶苦茶にしたことがそもそもの原因なのだから、アメリカは日本に謝罪しろというのです。

これは当然の理論でしょう。

これに対するケント氏の回答は驚愕。


ケント・ギルバート @KentGilbert01

GHQの占領終了後、憲法改正に動かなかったのは日本人の意思です。現状の全部をアメリカのせいにしようとは、どこかの半島の国の人みたいな被害者ビジネスですね。♯反米アホ列伝

返信先: @KentGilbert01さん

あなた方アメリカ合衆国が日本をそうしつけたわけですから
そうなるのは自明の理
日本のナショナリズムを煽る暇があるなら
ウォーギルトプログラムについて謝罪し
横田と横須賀の米軍基地を一日も早く撤収するべく尽力いただきたいものですな(`・ω・´)
内政干渉はご遠慮願いたい
#ネトウヨあほ列伝



WGIPによって日本人は洗脳されてダメになったと散々煽って商売しておきながら、その責任はアメリカにはないという(笑)

しかも、その責任を負えというのは、被害者ビジネスだというのですから開いた口が塞がりません。

*発言中の「どこかの半島の国の人」とは、おそらく朝鮮半島の慰安婦問題を揶揄しての引用。

GHQのWGIPによって洗脳されたけど、アメリカは悪くない理論炸裂。

当ブログでも何度か言及してきましたが、WGIP陰謀論の根本的錯誤点は、洗脳工作を図ったアメリカの責任を追及せず、なぜか批判の矛先が朝日新聞やらNHKやらに向いてしまうことです。WGIP陰謀論によれば、洗脳され反日の尖兵となったのが朝日新聞やらNHKだというのです。

しかしWGIPが反日思想を生み出すような恐ろしい洗脳工作であったならば、本来、真っ先に批判すべきはアメリカであることは言を俟ちません。

この様なよく解らない謎の構造が、ケント氏の発言のなかにも確認されます。もちろんこの場合、ケント氏のアメリカ国籍なので、「アメリカは悪くない」という愛国心が出てしまっただけなのかもしれませんが。

追記:変態になってしまったのも…

なお、ケント氏によればWGIPが原因で、日本人は「愛国心」に抵抗を感じる異常性をもつ変態なのだそうです。

ぜひアメリカは、日本人が異常性と変態性をもつようになってしまった責任を取るべきですね(笑)

ケント・ギルバート @KentGilbert01

「愛国心」という言葉に抵抗を感じる国民が多いのは、世界中で日本だけに見られる異常性なんです。それを実現するために、WGIPが行われたわけです。だからあなたが「愛国心」に抵抗を感じるようなら、世界の常識から見て、WGIPの影響か、典型的な左翼や売国奴であって、いずれにしても変態です。

のりたま(丸美屋)‏ @marumiyaumasi 
返信先: @KentGilbert01さん、@hoshu_nipponさん

日本語が分からないのかなあ?
仮に俺がそれに抵抗を感じるとして、それがWGIPの洗脳によるものだという根拠を聞いてるんだがなあ?

https://rondan.net/11161

13. 中川隆[-12225] koaQ7Jey 2019年2月12日 19:45:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

「『日本国紀』が四百万部以上売れれば、日本の歴史観は大きく変わる」(百田尚樹) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YaBE22N6elI


___

2019.01.20
『日本国紀』「WGIP洗脳世代」なる概念を論ずる:
あるいは花田紀凱氏による『日本国紀』への評価を見て
https://rondan.net/5580


Contents

1 花田紀凱による『日本国紀』評と「WGIP洗脳世代」
2 「おもしろい」という程度の軽い感想
3 WGIP洗脳世代
4 まとめ

花田紀凱による『日本国紀』評と「WGIP洗脳世代」

『月刊Hanada』の敏腕編集長として知られる花田紀凱氏が、Youtube上の対談で『日本国紀』について言及していましたので、その感想と、そこで取り上げられた「WGIP洗脳世代」について私見を論じていきたいと思います。


「おもしろい」という程度の軽い感想

この対談は『月刊Hanada』の2019.1号に掲載された

「『日本国紀』を語りつくす」(百田尚樹×有本香)

に対するコメントという形で進められますが、内容についての具体的なコメントはそれほど多くありません。

1百田さんは400万部売れれば日本の歴史観大きくは変わると言っている。

2通史を書くのは大変。

3百田さんによれば、ケント・ギルバード氏からアメリカの歴史教科書を学ぶと、アメリカ人は自国に誇りを持つと聞いて『日本国紀』を書こうと思った動機らしい。

4学習漫画の歴史が面白い理由は、自分の声でしゃべるから。自分も買った。

などと、百田氏の言葉と、自分の言葉を交えながら概説的に語る程度で、極端な賛美も批判もしないまさに「概説」に留まる言説でした。

WGIP洗脳世代


そんな中でも花田氏が感銘を受けたという、百田氏の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」理解について紹介したいと思います。

WGIPはここ最近の保守論壇界で大人気の理論ですが、歴史を振り返るとWGIPによって国民の大半が洗脳されたとは言い難い事例が幾つも確認されます。

たとえば1953年に戦犯の早期釈放を求める国民運動では4000万人分の嘆願書が集まったそうですし、いまから40年50年ほど前は祝日に日本国旗を掲げる家が多かったそうです。

つまりWGIPによる洗脳とやらを直接受けた時代よりも、それが終わってから数十年後のほうがその影響がより色濃いという齟齬が存在します。

冷静に考えれば

「WGIPは、そんな大それたものではなかった」

という結論になるのですが(例えば秦郁彦)、昨今の保守論壇は「WGIP洗脳が解けた」と新たに洗脳するという手法でコアな信者を獲得しているため、百田尚樹氏もこのWGIPの効用を過大に評価しままこの齟齬を巧く解釈します。そこで登場するのが「WGIP洗脳世代」という概念です。


日本人は占領時代にGHQによる「WGIP」の洗脳を受けたが、独立と同時に起こった戦犯釈放運動でも明らかなように戦前の教育を受けてきた国民の多くには、心の深いところまで自虐思想が浸透しなかった。……

ところが昭和10年代の終わり(戦中)以降に生まれた人たちは、小学生に上がった頃から、自虐思想を植え付けられた人たちである。

百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, pp. 464-465(第5刷)

といって、戦後教育を受けた世代こそがWGIP洗脳の「落とし子」であり、その彼らが社会に進出し始めた昭和四十年代以降に自虐史観に拍車がかかったというのです。これを百田氏は「WGIP洗脳世代」と呼び、これを花田氏も高く評価します。

さらに『日本国紀』ではこの「WGIP洗脳世代」なるものと、「南京大虐殺の嘘」「朝鮮人従軍慰安婦の嘘」「首相の靖国参拝への非難」という三つの保守歴史戦の論点が結び付けられ、さらにその根源を朝日新聞に帰していることに特徴があります。


「WGIP洗脳世代」が社会に進出するようになると、日本の言論空間が急速に歪み始めた。そして後に大きな国際問題となって日本と国民を苦しめることになる三つの種が播かれた。それは「南京大虐殺の嘘」「朝鮮人従軍慰安婦の嘘」「首相の靖国参拝への非難」である。

これらはいずれも朝日新聞による報道がきっかけとなった。

百田尚樹『日本国紀』幻冬舎, 2018, pp. 465-466(第5刷)


まとめ

以上を要約すれば、百田史観によれば、戦後世代がWGIP洗脳の影響を最も強く受け、その世代が社会進出した昭和四十年代以降に自虐史観が顕著になり、その尖兵が朝日新聞だったということでしょう。

反日や自虐史観は朝日新聞とWGIP洗脳が原因であり、朝日新聞を嫌いになればWGIP洗脳が解け、WGIP洗脳が解ければ朝日新聞を嫌いになるという単純明快な構造です。

WIGPはアメリカGHQ主導によるものにもかかわらず、批判の矛先がアメリカではなく朝日新聞に向けられてるところがまさにレトリックの妙技でしょう。

百田尚樹氏がこの言説を通して読者に訴えかけたいことは、歴史的事実の告知ではなく、むしろこのような陰謀論にかこつけた思想誘導でしかありません。結局、国内で消費される煽情でしょう。


複雑な歴史現象の因果関係を極端に単純化することは陰謀論の典型なわけで、この「WGIP洗脳世代」という概念もその典型例です。自分の信じたくない事実すべてをWGIP洗脳(あるいは朝日新聞)に責任転嫁できるのですから、これほど受動的で楽な理論はありません。このような馬鹿々々しい陰謀論を真面目に信じる前に、数少ないマトモな保守論客である

秦郁彦『陰謀史観』
https://www.amazon.co.jp/%E9%99%B0%E8%AC%80%E5%8F%B2%E8%A6%B3-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%A7%A6-%E9%83%81%E5%BD%A6/dp/4106104652

の一読を強くお勧めします。


https://rondan.net/5580

14. 中川隆[-12224] koaQ7Jey 2019年2月12日 20:23:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2019.01.11
秦郁彦氏、『日本国紀』の意義を評価する。
https://rondan.net/11905


Contents

1 唯一信頼できる保守論客・秦郁彦
2 2000 年を1 人で書いたことに虚を突かれた
3 「GHQ に洗脳された」という主張は無理がある
4 「百田式お国自慢」は悪くないが……
5 引用元の明記は先人への敬意
6 この本の長所があるとすればどこでしょう


唯一信頼できる保守論客・秦郁彦

保守論壇で荒稼ぎしている論客は数多あれど、信頼できるまともな論客は絶滅危惧種です。

そんななか、保守論客のなかでほぼ唯一信頼できる秦郁彦氏の、百田尚樹『日本国紀』(幻冬舎)に対する書評が発表されました

(外部リンク:「日本国紀」 現代史家の秦郁彦氏「私はこう読んだ」)。
https://mainichi.jp/articles/20190110/k00/00m/040/004000c


本記事ではその概要を掻い摘んで紹介したいと思います。

2000 年を1 人で書いたことに虚を突かれた

秦郁彦氏は、百田氏の『日本国紀』を、なんとトインビーの歴史書に例えます。


耳慣れぬ書名で、2000 年近い日本史の通史を1 人で書き上げたという意外性に虚を突かれた思いでした。……私が学生のころ、世界史を1 人で書いたとされる英国のアーノルド・J・トインビーという歴史家がいて、もてはやされたことがありました。愛好家の間で「トインビーを読む会」まで出現したのですが、今やトインビーの名前を聞くことはありません。歴史学者からは無視され続けました。……「日本のトインビー」に似た役割を果たすかもしれません。

褒めているのか貶しているのか解らない褒め殺し(笑)

大言壮語で中身のないトインビーの歴史書を、百田氏の『日本国紀』を比した秦氏一流の皮肉。

ゆえに『日本国紀』がトインビーのそれと同じく、時の試練に打ち勝って残ることも有り得ないでしょう。なにせ大言壮語どころコピペ本ですから…。

「GHQ に洗脳された」という主張は無理がある

一方、『陰謀史観』という本を書いた秦氏らしく、『日本国紀』で説かれる「WGIP洗脳説」にはかなり批判的です。

非常に興味深いエピソードとともに次のように批判しています。


確かに現憲法は、GHQ の官僚チームが10日間ほどのきわめて短い期間で草案を作り上げ、日本政府に押しつけたものではありますが、私はチームリーダーで、弁護士でもあるチャールズ・ケーディス大佐にヒアリングをしたことがあります。
彼は事実関係を認めたうえで、「占領が終われば、日本国民はすぐに自前の憲法を作り出すだろうから、米国製の憲法の寿命は数年と予想していた」と言い、「(日本人が)改憲しなかったのは想定外だった」と語りました。
そうだとすると、改憲しなかったのは、日本国民の意思だったと言わざるをえません。戦後の日本は民主主義体制下で思想や言論の自由は確保されています。70年にわたって「マインドコントロールが続いたからだ」とするのは無理があるのではないでしょうか。

こういう実証的なところは秦氏の独壇場ですね。

ところで、日本国憲法はGHQによる寄せ集めのコピペ(盗用)に過ぎないのだから、改憲が必要であるという主張が見られます。

コピペなのに70年たっても改正できない日本国憲法と、刊行後わずか一月のうちに何度も改版してしまったコピペ本『日本国紀』を比較すると、何とも言えない哀愁を感じますね。

そういえば、WGIP洗脳を吹聴してビジネスしているケント・ギルバート氏も、うっかり「GHQの占領終了後、憲法改正に動かなかったのは日本人の意思です」と言ってしまったことがありました。常識的に考えればそういうものでしょう。

「百田式お国自慢」は悪くないが……


一方で秦氏は、百田式お国自慢については比較的寛容な評価をします。


戦後は日本の歴史を自虐的に眺める傾向が強まりました。アジアの国々に対して過去の侵略を悔い、おわびを重ねるというのが常習となっています。それに対し、百田式に「お国自慢」の範囲で日本史を評価するのは、必ずしも悪くないと考えます。

ただし『日本国紀』のレベルだと被害妄想的だとの意見も


しかし、その序文が「欧米列強によって鎖国の扉を無理やりにこじ開けられ、強引に世界の舞台に引きずり出されました」と続くのは被害妄想的と見えなくもない。

自虐史観脱却といいながら、欧米やらコミンテルンやらに騙されまくってる日本を描く『日本国紀』こそが自虐のように私には思えます。

しかもWGIPによって70年間も洗脳から醒めなかった日本人って相当な馬鹿ってことでしょうに…。

まぁWGIP洗脳ビジネスで搾取され続けている信者の皆さんを見ていると、いろいろ思うところはあります。


引用元の明記は先人への敬意

引用元明記が無い点については当然批判的です。


百田さんも、せめて他人の説を利用、引用をした場合は、著者名と表題を示すべきと考えます。それは先人への敬意を払う「儀礼」でもあるからです。

もしこれらを明記するとなったならば、利用・引用元として「Wikipedia」やら「Yahoo!知恵袋」が示されることになるわけですが…。本としての品格がすごく落ちるので、利用・引用元が明示される日は永遠に来ないでしょう(本人たちも解っていない疑惑)。

この本の長所があるとすればどこでしょう

秦氏は褒めているのか貶しているのかよく解らないレトリックが非常に得意です。

本書の意義についても次のように評価。


中学、高校の教科書を忘れかけている年代の人たちに、全体像を復習する機会にもなるし、そうした要請に応えた作品と言えるでしょう。

内容は別として、「意義」はあるとお考えのようです。もちろん中学・高校の教科書を忘れていない世代にとって、本書が無用であるとの意味が含意されていることは言を俟ちません。

このように非常に含蓄に富んだ秦氏の書評には、とても興味深いものがあります。特に戦後日本が要だと嘯かれていた『日本国紀』にとって、その中心概念であるWGIP洗脳説が秦氏によって「陰謀論」と一蹴されていることは重要でしょう。


https://rondan.net/11905

15. 中川隆[-12216] koaQ7Jey 2019年2月13日 08:04:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

2019.02.09
【トンデモ】「日本は、大東亜戦争で人類最高のよいことをしたのだ」
(安住順一『現代教育科学』49(8), 2006, pp. 49-52)
https://rondan.net/14


巷で話題になっていた論文「日本は、大東亜戦争で人類最高のよいことをしたのだ」を、さっそく国立国会図書館で入手してみました。

(入手先リンク)
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I8032653-00


Contents

1 はじめに
2 人類最高のよいこと
3 ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
4 日本は自衛の戦争をした
5 リメンバー・パールハーバー
6 まとめ


はじめに

この衝撃的なタイトルの論文は、雑誌『現代教育科学』の「特集「あの戦争」を子どもにどう語るか」という小中学生教育特集のなかに収められています。論文の著者である安住順一氏は、小学校の先生のようです。

雑誌の編集後記によれば

「日本の側からすれば「大東亜戦争」は自衛戦争であったという主張もありますが、中国側からすれば当然「侵略戦争」であったと強調されるでしょう」

ということで、左右両立場から公平に描こうと努力した結果、かえって極端になってしまったということなのでしょうか(と思いきやakabishi2様のご指摘によれば、思いっきり右巻きの方々だそうです)。

さて、この論文の章割りは以下の通り。


1人類最高のよいこと
2ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム
3日本は自衛の戦争をした
4リメンバー・パールハーバー

保守ウォッチャーなら、この章割りを見ただけでその内容におおよそ察しが付く筈。その予想を裏切らず、本論文の内容は、渡部昇一など保守論客の言説を見事にまとめたものとなっています。


人類最高のよいこと


まず第一章「人類最高のよいこと」の冒頭では、アムステルダム市長サンティン氏(正確にはヴァン・ティン van Thijn氏らしい)の発言が引用され、第二次世界戦後にアジア諸民族が植民地支配から脱して独立したことが、日本軍のおかげであると強調されます。タイトルにもある「人類最高のよいこと」は、サンティン氏が発したとされる次の一文に確認されます。


あなた方こそ、自らの血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高のよいことをしたのです。

そして安住氏は、サンティン氏の発言を次のようにまとめます。



ヨーロッパの文化人や識者は、あの戦争は日本の方が勝ち、攻めた白人たちの方が負けて、植民地から追い出され、西洋の古巣に戻されてしまったことを知っているのである。

つまり、論文のタイトルにもなっている「人類最高のよいこと」とは、大東亜戦争で日本軍がアジアから白人を追い出した結果、アジアの諸民族が戦後独立を達成したことです。

これに続いて、大東亜戦争を植民地解放と位置付けて日本に感謝するアジア諸国の声が紹介されます。具体的には、マレーシアのラジャー・ダト・ノンチック元上院議員、インドネシアのサンパス元復員軍人省長官、インドネシアのブン・トモ元情報相の発言です。

これら諸発言は保守論客が好んで引用するものであり、よく知られているものですが、そのソースは必ずしも確かなものではありません。どうやらこれら諸発言の初出は、仙頭泰「大東亜戦争を世界はいかに評価しているか」『アジアと日本の大東亜戦争:終戦50周年をむかえて』(日本を守る国民会議, 1994)のようです。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム

第二章「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」では、戦後GHQの占領政策が取り上げられ、


日本が再びアメリカの脅威とならぬよう、徹底した情報・教育面からの洗脳工作が行われた。その政策が「戦争責任周知徹底計画」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)である。

日本人自身が、日本人を全否定するよう誘導し、日本を断罪することによって「アメリカの正当化」を図ろうとしたのである。

と断言されています。占領期にGHQが厳しく検閲を行い、戦前・戦中に刊行された書物を焚書扱いにした事実はよく知られます。 論文中で安住氏はこの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム 」を「洗脳工作」と位置づけています。つまり、大東亜戦争で日本は「人類最高のよいこと」(植民地解放)をしたにもかかわらず、戦後GHQの「洗脳工作」によって日本人自身がそれを評価できずにいる、というのが論文の主張のようです。

日本は自衛の戦争をした

続く第三章「日本は自衛の戦争をした」では、大東亜戦争が侵略目的ではなく、「自衛」のためであることが主張されます。お決まりのように、マッカーサーの次の発言が引用されます。


したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障(筆者註:security)の必要に迫られてのことだったのです。

この「安全保障」(security)の語を 「自衛」(self-defense) の意味でとって、大東亜戦争は自衛戦争であって侵略戦争ではなかったという解釈を提示したのは、保守の重鎮・渡部昇一氏であることはよく知られます。もちろん本論文では、その解釈を是として、


東京裁判は、日本が侵略戦争を行ったと決めつけ、それを裁くことが目的の裁判であった。そして、それを推進したのはマッカーサーである。
ところが、その張本人が、日本の戦争は侵略戦争などではなく、日本は安全保障の必要性に迫られて戦争に突入したと公の場で証言したのだ。

と述べられます。

リメンバー・パールハーバー

最終第四章「リメンバー・パールハーバー」では、日本の真珠湾奇襲は、卑怯なだまし討ちではなく、大使館員の怠慢で宣戦布告の通知を手渡すのが遅れただけであると弁護されています。

さらにルーズベルト大統領は、真珠湾奇襲を事前に知っていたが、戦争に参加したいがためにこれをあえてハワイに知らせなかったとという理解が提示されています。


アメリカ側は真珠湾攻撃を事前に知っていた。しかし、日本の真珠湾攻撃作戦は事前にハワイ現地には知らされなかった。

ルーズベルト大統領は、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンを響き渡らせ、アメリカ国民を参戦賛成に向かわせるために、ハワイを犠牲にしたのである。

このルーズベルト陰謀説は保守論客が好んで引用しますが、秦郁彦『陰謀史観』(新潮社, 2012, pp. 173-199)が主張するように正統的な歴史学者からは全く相手にされていない仮説です。



まとめ

論文の最後は次のようにまとめられています。


日本は、戦争に情報で敗れ、戦後も情報でマインドコントロールされている。
今、われわれの歴史を取り戻すことが急務である。

以上を総括すれば、

「日本は自衛のためにやむをえず大東亜戦争を起こした。

真珠湾攻撃は決して卑怯なだまし討ちではなく、ルーズベルトはこれを事前に知っておきながら、参戦するためにハワイを見殺しにした。

そして大東亜戦争に日本は確かに敗れたが、アジアの諸民族を白人による植民地支配から解放するという、人類最高のよいことを達成した点では勝利した。

にもかかわらず、戦後日本は GHQ による洗脳工作の影響によりマインドコントロールされ、日本人自身が日本人を全否定するようになり、大東亜戦争で日本が人類最高によいことをしたことに気が付かないままにある。

この状況を打破して、われわれの歴史を取り戻すことが急務である」

ということになるでしょう。

様々な陰謀史観的要素が、わずか四ページの論文の中に凝縮されているという点で、注目に値します。これにあとコミンテルン要素が加われば、田母神論文と歴史観がほぼ一致する点でも興味深いものがあります。田母神論文が問題になったのは2008年ですから、本論文はまさに時代を先取りしていると言えるでしょう。

もちろん、内容が正しいかどうかは別問題ですが、保守ウォッチャーならどこかで聞いたことのある話を集めたものです。一番の驚きは、小学生にこれを教えるということですが…。

なお、同氏による小学生向け歴史クイズ本『日本がますます好きになる歴史クイズ』も同じようにスゴかったりします。仔細については下記のリンクをご参照ください。


【トンデモ】白人による世界制覇を防いだ日本人(安住順一『日本がますます好きになる歴史クイズ』明治図書出版, 2000)
2018年10月16日
https://rondan.net/54


そしてTOSS教育というのも、かなりキていますので、是非ご参照を。


【トンデモ】保守による「命」の授業(長野藤夫「命は他人事ではない:自尊心が当事者性を生み出す」『中学生に「命」の輝きを教える』明治図書, 2004)
2018年10月19日
https://rondan.net/191

https://rondan.net/14

16. 中川隆[-11940] koaQ7Jey 2019年2月22日 18:06:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[34] 報告

戦後の日本人はともかく、皇室は GHQ に洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になった


反日「部落の輪」か 雅子さま入内 2015/12/9
https://blogs.yahoo.co.jp/wood72046/36951533.html


BBの覚醒記録さんより転載します。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/d6f72bd3542021db465fc1ee0e2edb80

まず小和田恒氏「ごときが」という言い方も、

当日小和田氏の出版記念パーティに出席したメンツを見れば、

妥当ではないでしょうか。

イメージ 1

*1994年9月 小和田国連大使の出版記念パーティー。

7日、帝国ホテルで行われた小和田国連大使の出版記念パーティー。

政・官・財界などから、

福田赳夫、宮沢喜一、瀬島龍三氏をはじめとする

約二百五十名が出席する華麗な会となった。

弱小出版社からたかだか2千部を出したに過ぎない自著(部数から推して自費出版の可能性?)のパーティを帝国ホテルで開く・・・・・・田舎趣味。

本人は華やかな場が嫌い、とのたまってますが、

それなら何も出版記念パーティなど開かなければよいわけだし、

招待状を元総理2名に出す如きことは、控えれば良いだけでしょうに。

田舎者の屈折した、目立ち好みだと思います。

いやいや、いやと舞台から去りながら、

でも首はスポットライトのほうに突き出してる、みたいな?

「目立ちたくない人」がこの恥ずかしい立て札放置?


イメージ 2


放置どころか、令夫人が「これじゃあ、お墓みたい」とクレームをつけて、
大きく作り変えさせたのですってよ。

たった2千部で帝国ホテル!!

今、出版に詳しい知人に問い合わせたらやはり、自費出版っぽいとのこと。
コミケの壁サークル(コミケの大手)なら、5千部出るって笑ってました。
それも1日間で。3日間で万を刷りますって。

イメージ 3


http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%82%E7%94%BB%E3%81%8B%E3%82%89%E5%89%B5%E9%80%A0%E3%81%B8%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%81%AE%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%99%E3%82%82%E3%81%AE-%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0-%E6%81%92/dp/4924831107

¥566 より 14 中古品の出品

¥ 5,033 より 1 新品

カスタマーレビュー皆無。

コミケに敗けた皇太子妃父。

礼子さんが、お得意の自作自演で褒めてあげればよいのにねえ。
(自著を、Amazonのビックレビューで、自分で褒めまくり、

その時自らの洗礼名を使って、ばれちゃった事件があるのです)

宮沢喜一、福田赳夫、そして本人。このメンツで何が解りますか?

共通キーワードは「売国奴」

そして「部落」ではないでしょうか。

                    宮沢喜一


イメージ 4


内閣官房長官時代には、歴史教科書の検定基準に「 近隣諸国条項 」を設けさせ「中韓の感情を害してはいけない」という基準を作り、中韓2国の意向に沿った

『日本を貶めるために創作した自虐史』でないと

教科書検定で合格させないようにした。

内閣総理大臣になってからは、 《 朝日新聞のねつ造記事 》 にのっかり

『 従軍慰安婦 』の存在と『 日本軍による強制 』を認め、韓国で謝罪。

河野洋平官房長官と共謀、「 河野談話 」を発表させ、

世界に向かって「日本は悪い国」と宣言した。

ちなみに、皇太子の考える新たな天皇の姿とは

「国連大使のような仕事をする」です。

売国官吏、小和田恒氏の影響を受けての愚かしいご発言です。

影響というより考える能力がないので、口走っただけ。

国連大使のような仕事をする皇太子や天皇って、どんなのですか?
天皇家の視座はあくまでも、日本でございます。

ローマ法王と肩を並べることの出来るのは世界でもエリザベス女王と

天皇陛下のみであり、その天皇陛下に訪れて頂くことで、

支那は天安門における非人道的行為に対する

世界からのバッシングを緩和させることに成功したのです。

福田赳夫は、やはり媚中で「雅子ちゃんを皇太子妃にする」と

雅子妃の少女期から口にしていた男です。部落出身者の権勢広げか?

小和田夫妻は、福田赳夫の子分であり、

妻の優美子さんは高円宮と通じていました。

お膳立ては整っていたわけです。


イメージ 5


父子で、影に日向に東宮にひっつき虫でコントロール。

イメージ 6


ごく最近の福田康夫の言葉。

「中央日報
http://japanese.joins.com/article/386/209386.html?servcode=A00§code=A10
日本の福田康夫元首相は「韓日関係は離婚できない夫婦のような特殊関係」としながら「相手に対する配慮と信頼、 忍耐力が必要だ」と話した。

・・・・・・・

気色悪いこと言う売国奴でしょう? 国交断絶とまで国民は願い始めているのに。あの韓国に「配慮と信頼」ってw 忍耐は70年間たっぷりさせて頂きました。
こういう手合が総理をやっていたとはね。

こんな韓国ヨイショの父子が

小和田と密着していた事実を忘れないようにしましょう。

美智子さまと雅子さまの入内共通項は、

いずれもマスコミ先行で情報が漏れ、というより意図的に漏らされ

既成事実化されたこと。

美智子さまの時は、海外にまずリークするという手段が取られました。

「ニューズウィーク」当時の日本はアメリカさまの雑誌で言うことですから、

一もニもなく信じこみ、いつの間にか既成事実化。

初の民間からの入内という驚天動地も、

アメリカでまず報道されることで緩和されました。

それ以降の、ミッチー・ブームとやら、

今思えば韓流と同じで仕込みの構造が見え見えです。

反日に転じたマスコミがこぞって皇族を芸能人化。

人気という名のもとに、格を果てしなく落としていきます。

某ワイドショーの方に聞いた言葉。「昔、雅子さんのお母さんって、すごかった。

週刊誌のグラビアで女優の裏に雅子さんが載っているとねじ込む。

雅子を女優ごときの裏にして、貶めないでくださいませ、と。

そして、皇太子妃を、女優、ホステスなどと同等に扱わないでくださいませ、と。

女優とホステスが、優美子さんの中では同格の賤業らしいけど、

雅子さんがあれ上品なの?」

「女優もホステスも努力と才能で自力で懸命に生きてるじゃないの。

たった20メートルしか歩かない皇太子妃と比べたら、

女優とホステスが怒るんじゃないの?」


イメージ 7


イメージ 8


皇室会議の議長である岸信介が、

内閣総理である岸信介に通知する形式ですね。

思えば日本の半世紀に及ぶ、これが悪夢の始まりだったのです。

安倍晋三皇室会議議長の名で、廃太子廃妃の通知を

安倍晋三内閣総理宛てに出して頂きたいものですね。

内部で強固な反対論者が多数いたのに、

皇室会議ではあっさり全員一致という不可解も、美智子さま雅子さま共通でした。いえ不可解ではなく、双方ある勢力により初めから仕組まれていた成婚であり、

テニスコートでの出会いも、どこぞのレセプションでの出会いも

フィクションだった、ということです。

雅子さまは、フランスの地方都市コルマールで皇太子と同宿しています。

レセプションで出会ったとされる、遙か以前にです。

はっきり言えば密罠仕掛けなんじゃないですか?

イメージ 9

皇太子妃決定の報道が出る前から、

あちこち出回った小和田雅子嬢絶賛記事の不可解。

抱き合わせでさりげなく、小和田恒氏の持ち上げも。

なんだかねー。

何もかもが嘘。でっち上げ。誰かが書いたシナリオ通りに、

美智子さまと雅子さま、希代の皇室伝統壊し妃たちは宮中に仕込まれました。

お二人共に結局は、GHQの流れに現れた異人(エイリアン)なのだと思います。

正田家、小和田家と皇室からの打診を辞退したり、渋ったりしていますが、

娘を好条件で売りつけるための駆け引きです。「ストラグル」w
いずれも買い手のほうの息子たちが目の色変えて夢中ということを

心得ていての、駆け引き策謀です。

でも双方背後に組織がついていての入内なので、

どのみち決定事項に等しいことでした。

正田は娘が15歳の時からエリート富裕狙いの男が集まるパーテイに出して

婚活させていた家、小和田家では福田赳夫元総理の頃から入内に虎視眈々、

高円宮家ともそのためにつるんでいます。

もっとも雅子さんのほうには、結婚を意識した相手(自民党代議士)がいたので、個人的には渋る気持ちがあったかもしれず、その為に「来てやった」意識は

強いかもしれません。国民には全く関係のない、

迷惑千万な来てやった意識ですが。

実態は異常なまでに上昇志向、権力欲の強い父親に「売り飛ばされた」のです。父親には、娘を使ってのし上がった藤原道長が

理想像としてあったかと思われます。

江頭某という芸人が、雅子妃の母方江頭と縁戚関係だというのが事実なら、

雅子妃の母方実家・江頭家は被差別部落の出です。同じ佐賀の出身。

江頭某が、かつて東郷健という市民運動家の家で

「オレは部落出身者だ」とカミングアウトしたのを、その場にいた人が聞き、

拙ブログ主はその方から個人的に証言を得ています。

その方に失礼ながら幾つも質問を重ね、

その証言の信憑性を確信するに至りました。

筆名江藤淳(評論家 本名江頭)は江頭家について調査しますが、

“手明鑓(てあきやり)”という平時は無役、戦時に槍や具足を携えての身分と

推定しますが、確定的家系図と資料は皆無です。

鮮人と多分ハーフの布袋寅泰を登場時のBGMとして使ったり、

パチンコ業界とも密なので、ある想像をしますが、決定的資料はありません。

某暴露系雑誌の記者に、江頭某が身の上を語ったら

「そんなもの、とても書けません」と言われたいう逸話。

暴露系雑誌に「書けない」といわしめる内容とは、皇室以外に何かあるでしょうか。雑誌名は失念しましたが、拾おうと思えばソースは見つけられます。

時間がないので、さぼります、ごめんなさい。

Wikiにあるはずなので、興味のある方はどうぞ。

ちなみに、江頭某というタレントは佐賀県の出身ですが、

むろん雅子妃の母方江頭も佐賀。

面白いことに、皇后陛下の母上も佐賀の副島家なんです。
いったい、どういう因縁なのか。

副島家も、江頭家も確たる家系図は存在していません。

初代宮内庁長官が「副島は、興信所ではなくもっと調査の必要があった」と、

書き記しているのは、どういう意味なのでしょうね。

おそらく、そういう意味なのではないかと、想像していますが。

在日は在日を地下水脈で実にあっさり嗅ぎ分け、裏でコミュニティを形成します。思うに、部落もそうなのではないですか? 

被差別部落への差別がいいとは思わないし、

部落だからどう・・・・と短絡はしません。

けれど、暴力団の6割が部落、3割が朝鮮人、

日本人は1割というごとき現実はあるわけです。

在日利権と同様に部落利権も巨大です。

副島家が佐賀で家系図不詳ということと、

同次元に考査しなければならないのは、群馬正田家の家系図でしょう。

拙ブログの読者間では意見が二分されていて、

部落説、名家説と両方ありブログ主はいまだ結論を出し得ないでいます。

仮に白山神社と、部落エリアに実家があったことを論拠に

「そうだ」と仮定するなら、部落円環がきれいに閉じますけどね・・・・・。

念のため再度申しますが、部落だからどう、ということではないのです。
そのお血筋にあるからいけない、と短絡もしていません。

皇族に部落の血が混じるのも厭いません。

朝鮮人は困りますが。

ただ、言動に不審がある場合出自を探ると半島であったり、

部落であったりすることは多いと言わざるを得ません。

天皇皇后、東宮擁護の頭脳硬直・思考停止連中が判で押したように言う、

皇室はいかなる理由があろうと批評してはならぬという言い方も

理解は出来るのです。それは正しい。

皇室の権威を保つには、守られなければならぬ鉄則です。

但し、皇居の中の人々が最小限の則を保ってくださることを

前提での了解事項です。

外れる人がいるからこそあった、廃太子の制度です。

日本弱体化を目的になされたGHQの政策は、

祭祀を「天皇の私的行為」としてランク下げを行い、

その弊害が日々現れて、終戦後この方現在に至ります。

祭祀や神事を軽んじる皇太子の誕生、忌避する姿勢すら見せる妃殿下の出現。いずれも、GHQの皇室弱体化施策の結実というべきでしょう。

竹田某なる者は皇太子の祈りが真剣である、とのたまいますが、

真剣な皇太子が両陛下の剣璽動座による伊勢参内の時

スキーに一家で遊びに出掛けますか?
お慎みの日に遊びほうけていますか?
大震災の命日に御所でお楽しみ会を開きますか?

さて皇室典範です。

*第三條  皇嗣に、拐~若しくは身体の不治の重患があり、

又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、

前條に定める順序に從つて、皇位継承の順序を変えることができる。

重大な事故に該当する要素はあると思いますけどね・・・。

しかし、皇室会議の委員長である時の総理は、

誰も皇室問題には手を触れたくありません。

触れれば命取りになりかねない、デリケートな問題だからです。

まして時の総理が売国政権の者である時は、放置です。

現在の両陛下、皇太子と皇太子妃殿下のありようは、皇室解体、

日本国の国体の弱体化には、いたって都合のいいお方たちです。

例の朝鮮カルト教団が東宮夫妻に肩入れし、秋篠宮ご夫妻に関わるデマを

流していることからしても皇太子夫妻は反日勢力にとって都合よいのです。

また利用しやすい存在であることは、反日韓国の要人潘基文(パン・ギムン)、

韓 昇洙(ハン・スンス)らの皇太子への接触と交流で解ります。

皇太子も進んで彼らや小和田恒氏の喜ぶことをやります。

人民解放軍少将であり、習近平の妻である彭 麗媛(ほう れいえん、

ポン・リーユアン)への接触。

創価イベントへの出席。池田大作の息子との食事会など。

それでも、擁護連中は現実を見ようとはせず、

皇室批判をするは不敬という原則論に縛られて自らに盲目を強いています。


皇太子と反日潘基文を結びつけたのは小和田恒氏です。

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今や雅子妃入内以来20年間の居座りで、小和田王朝完成。
以外に頭が悪く使えない皇室弱体化乗っ取り要員ではありましたが、

居座ることで小和田反日王朝が宮中に完成しました。

天皇陛下にタイで「謝罪させた」のが小和田恒氏。

河野談話の影の人物、また「韓日」ワールド・カップの影の推進者でもあります。


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なんで、嫁ぐ数日前の小和田家に北朝鮮の金正日の花が飾られているのかと、拙ブログでは執拗に問い続けています。

仮説の域は出ませんが、江頭が部落なら小和田は北朝鮮ですか?
あくまでも「もし、そうだったら」雅子妃は朝鮮と部落との掛け合わせで、

鳩山幸さんと同じような境遇です。

擁護派は(ひょっとしたら)朝鮮人の即位を認めるのでしょうか。

その論調の拙さからして、「皇室は批判すること能わず」であるなら、

皇室の定義を述べよ、その定義に逆らう者でも皇族と呼べるのか。

皇族の資格を有せぬ者すら、

批判してはならぬというロジックによって成り立つ典拠を述べよ、

と突き詰めても答える能力は有してはいないように見受けます。

論というのは美称なのであって、擁護派の語彙はいかにも貧しく、

ツイッターで呟くか、語彙乏しい連中が寄り集まった掲示板で

主語述語すら定かならぬ、未熟な日本語で数行書きつけるのがせいぜい。

こちらでも、理路整い語彙も備えた反論なら来なさい、

お相手しますと言っているのに、ちょろちょろと嫌がらせが来る程度。

擁護論にロゴス化出来るほどの根拠が無いからです。

東宮夫妻という擁護に実は値しない方たちの擁護は、

しょせん数行が限度だということなのでしょう。

小和田雅子という、記者を指さし恫喝し、

差し出された名刺を記者の前で破り捨て、

また自らを撮ったカメラマンを追いかけ胸ぐらをつかんで

フィルムを廃棄させるごとき荒いヤンキーもどきの気性の女性、

婚約寸前の男性がいた女性、つまり非処女、堕胎の噂さえ根強くあります、

というより・・・・元皇室担当記者から具体的なことを聞いています。

学歴職歴共に著しい疑惑を指摘されている女性が、

一歩皇居の敷居をまたいだだけで皇族となれるのか、なれるなら

そのロジックはいかなる言語で構成され得るのか、答える能力もない者たち、

それが擁護派の頭脳と教養のレベルです。

この酷いアトピー肌も、露出の多い夜会服を考えれば妃失格だと思いますね。

*ここに雅子さんのアトピーの画像があるのですが、

こちらでは、反映されませんので、

転載元様の記事をご覧下さい。


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婚姻により単に皇族という「地位」を得ただけで、そ

の内実が反日性を著しく帯びて、皇室と日本の国体を蔑ろに、

毀損する存在になっていたら、それらをお守りする事こそが反皇室、

反日本となるという論理も理解できぬ痴呆の群れが擁護派です。

雅子妃とその背後の小和田家、それにひきずられる皇太子殿下というのは、

前代未聞の異常な存在たちです。

「自虐史観左翼」小和田恒氏が仕切る東宮。

*ここでも、画像があるのですが、反映出来ないので、

転載元様の画像をご覧下さい。m(_ _)m

何やら老舗の批判論者につきまとい、またこちらのコメ欄にも

犬の立ちションよろしく、短文訪問で数行の批判文をひっかけて行く、

稚拙な擁護論者もいますが、現在までおびただしい時間と費やして、

皇太子と皇太子妃がいかに、皇族という名に値しないか、そ

れ以前に人間としてどうなのか、膨大に記事を積み上げ、提示してきました。

ツイッターの数行で批判した気になるとは笑止です。

語彙とロジックに対しては、語彙とロジックで向き合いなさい、

と申し上げておきます。

焦眉の急は、反日であると言わざるを得ない

皇太子と皇太子妃との廃太子廃妃です。

東宮夫妻は、皇室と国家に害を与える存在になりつつあられます。

皇太子に天皇に即位されたら、韓国に趣き「皇室と朝鮮との濃い関わり」など

述べられ謝罪などされかねず、そうしたら一巻の終わりです。

あり得ない? いいえ、反日左翼勢力が天皇を政治利用可能なのは、

天安門事件以降の天皇皇后両陛下の中国訪問が現実にありました。

訪れても何の効果もなかった、どころか天安門事件への目眩ましの役割を

天皇皇后両陛下が押し付けられた格好です。

こうした状況に加え、皇太子殿下は皇太子妃の実父小和田恒氏の自虐史観にどっぷりと影響を受け、またその手引きで反日韓国人代表、

潘基文や韓昇洙と接触していますから「売る気まんまん」です。

両陛下の支那行きは、教科書の「近隣条項」を作った反日宮沢喜一元首相の

政権下で企まれ、小和田雅子嬢入内は、あたかもそのどさくさにまぎれての

ゴリ押しが見て取れることに留意してください。

そして以後の日本を傷つけ苦しめ続ける河野談話の発表も、

この宮沢政権下であったことに注目。


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「雅子さま」にヘコヘコする、宮沢喜一元総理。

そして河野談話発表に寄与した、時の外務事務次官は誰あろう小和田恒氏であることを、腹に叩き込んでください。天皇陛下訪中に寄与したことも。

池田大作の外遊に便宜をはかったことも。

その「反日左翼男」の娘がなぜ入内出来たのですか?

雅子妃の父親 小和田恒氏の反日思想

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/813fa021b780fc44dc3b10f0ea7a4eec

皇陛下に国辱謝罪させた「皇室使い」の国賊/小和田恒 【保存・拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/ec86f08a22b5d6d8c431e44bd6a4c7b5

小和田恒氏を喚問せよ 【拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/0d31e664a65cd09bcd2a054bd2635040

雅子さま入内を素直に喜んだこともありました・・・・(遠い眼差し)

雅子さん入内は、天皇皇后両陛下の訪中に尽力のあった

小和田恒氏への論功行賞であったという見方があります。

(全ての要因ではありません。

他に福田赳夫元総理、そして無論高円宮の暗躍あっての入内です。

小和田優美子氏は福田家、高円宮家と双方へ通じていることに留意)

小和田氏の自虐反日的思想と言い、昭和天皇の反対と言い、

あり得べからざる入内の影には謀略あり。

福田赳夫元首相(媚中)が、雅子さんの少女期に「雅子ちゃんは、

将来皇太子妃にする」と言い放った逸話は有名。

小和田氏は福田元総理の秘書。伏線は昔からあったわけです。

小和田優美子氏は帯に「福」の字を染め抜くほど、福田氏には忠誠を誓った人。

そして高円宮久子妃とも旧知。

マンデラ元南アフリカ大統領の逝去に際して,

追悼式御参列のため南アフリカ共和国へ出向いた皇太子に付き添ったのが、

誰あろう福田赳夫の息子福田康夫(親中)元総理大臣です。

更につながりましたね。

点と点を結べば現れる「売国の輪」。部落の輪。

「韓日ワールドカップ」は、世界のサッカー界にとっても

日本単独開催にすべきでしたが、

ここでも暗躍したのが高円宮と小和田恒氏です。

ちなみに、その天安門広場に弾圧粛清側の人民軍少将としていたのが、

皇太子が自らの意志で会ったと指摘されている彭 麗媛で、

皇太子のこの行動は内閣には無断、反日韓国要人たちとの接触と併せて、

民間なら公安の追尾がつくほどの、反日色の強い行動です。

池田大作関連のイベントに出席なさったことと併せて、ご本人にその反日性を

自覚するだけの知力がおありなのかどうか、そこが心許ない点です。

擁護の連中は、反日行動が皇太子であるゆえに許される、

という論理の根拠を示しなさい。

潘基文と韓昇洙に操られ水の総裁として国費を使い、

国連を訪れ続けている皇太子。

これは昨年の画像ですが、一国の皇太子への扱いではありません。

粗末な部屋で、お座なりなレセプション。

スペインを訪問したときも、どうでもよさげな扱いが露骨でしたね。

海外のほうが正直に、「次期が誰か」を知っています。

*ここの画像もこちらでは、反映されませんので、

転載元様をご覧下さい。

皇太子を取り込むことに腐心している潘基文は名うての反日です。

【韓国】潘基文 国連内で「反日ビラ」ばら撒き

反日国連

https://www.youtube.com/watch?v=pYtsgvEtmSg

あの気色悪い売国怪物、小沢一郎がなぜ国連を愛していたのか。
大反日組織だからですよ。そことパイプのある小和田恒とは何者なのか。
国連には雅子妃の妹も噛んでいたはず。

*池田 礼子は、 国際機関職員であり、

皇太子徳仁親王妃雅子の実妹として知られる。

国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

反日組織国連と国連大学に入り浸る皇太子とその妃。

次期大統領候補、超反日・潘基文がなぜ、皇太子と親密なのか。

皇太子妃の母親、小和田優美子氏と

日本ユニセフとの関わりも看過できません。

なにゆえ、池田大作と密着のアグネス・チャンを看板とする
組織に皇太子妃の実母と妹がからむのか。

こちらにはまた半島利権の宮家高円宮家の承子さんが、就職して
ここでもまた、いかがわしいひとかたまりをなしています。
日本ユニセフは鳩山由紀夫の母方祖母が創設者です。
小和田家の関わるところ、朝鮮中国の気配が色濃いのはなぜ。

大体韓国と支那に褒められるって、鳩山や村山富市と同列売国奴。

・・・・・あ、天皇陛下皇后陛下も韓国から絶賛なんでしたっけ。 http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0162.gif

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長年、妃をやっているというのに、

浅く腰をずらしてから立つという知恵すら身につかぬままの粗末な脳。

痩せこけた脳に引き比べ体は膨満。

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年間1700万円、「式服費」の名目で受け取っているのに、
一体、そのお金、何にお使い?

雅子さまの「学歴」の底上げはだいぶ知られてきましたが、

小和田恒氏も疑惑のお方ではあります。

小和田恒氏修士論文盗難事件

本人が語った(要旨)

ケンブリッジ大学が賞をくれて、その上で博士号コースを続けていた3年目。

ケンブリツジを離れる頃には論文をほとんど書き上げていたけど、

もう少しいいものにして、それから提出したいと思った。

そこで、日本に戻ってから仕上げようと決めた。

いずれにしろ私は(日本)政府から派遣された身で、そ

の時はもう日本に戻らなければならなかったから。

当時は全て船便で送らなければならない時代だったから、

私も自分の物を船便で送ったら港でトランクが1つ紛失。

それには服や本などと一緒に大事な学位論文の原稿が入っていた。

トランクは二度と見つからず、

ゆえに私は博士号を取る機会を失ってしまったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

あのー、船便って現代でも紛失ありますよ。飛行機でさえトランク紛失はあります。大切な学術論文を「衣類と一緒に」トランクに入れます?

 普通、肌身離さず自分で持って帰りませんか?

 だって、船便到着が遅いのですもの。

論文を仕上げる時間がなくなっちゃいますから。

普通、自分の手で持ち帰ると思います。・・・・・それを船便で盗られた、ねえ。

雅子さまも、国民のお金でオックスフォードに派遣されて、

単位取れずにお帰りになったのでしたね。

はいはい、はい。あ、天皇も落第。皇太子は政治学科に入る学力なし。
あーあ、多いですね。賢くないお方たち。


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祓い給い 清め給え

機能不全に陥って久しい東宮。皇太子と皇太子妃の廃太子・廃妃を望みます。
秋篠宮殿下妃殿下への移譲を。

◆宮内庁へ意見

information@kunaicho.go.jp<information@kunaicho.go.jp

電話:03-3213-1111

◆廃太子・廃妃への要望 

内閣官房

http://www.cas.go.jp/goiken.html

首相官邸

http://www.kantei.go.jp/jp/iken.html

拙ブログでは秋篠宮殿下支持の表明として、

ナマズのイラストの入ったグッズを身につける運動を提案しています。


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でれでれ草さま、製作。

年賀状などにもどうぞ。

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今日は雅子妃の誕生日として、今年一年、病気の身の上で、いかに

公務に励んでいたかとワイドショーでやっておりましたが、

公務に励んでおられたのは、秋篠宮様御一家であります。

病気なのに、スキーや、遊びは、元気に出来るって

一体どんな病気なのでしょうか。

支那からの大気汚染が北海道にもきているようで、

そちらも何とかして欲しいものです。

https://blogs.yahoo.co.jp/wood72046/36951533.html



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雅子妃の父親 小和田恒氏の反日思想 2015-01-22
https://ameblo.jp/iofc-chiba-bbqa/entry-11978145149.html

「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」

外交に関しては「ひざまずき外交」と評されるように、中韓には膝を屈して接しなければならないとする、要は「日本は悪い国だ」を前提に、中国にも韓国にも対せよ、と。

上記の言葉に見られるように、間接的とはいえ、東京裁判の肯定者であり、それは天皇陛下と皇室との否定論者を意味するのだということが、どういうものか、案外知られていません。
雅子妃はむろんのこと、その言動から推して皇太子が多大の影響を受けていると思われるのに、あまたある東宮批判論、擁護論にこの視点が抜け落ちています。

第一、このような思想を家長が持つ家の娘が、よくまあ宮中に招じ入れられたものだと、宮内庁の、と言っていいのかどうか、関わった人々の迂闊さに驚くばかりです。
通常ならあり得ないのです。はっきり言えば反日思想家の娘を皇室に入れるなどと。

おまけに母方は、極悪な企業犯罪会社、チッソに連なっているのですから、あり得ない環境のダブルです。いや、小和田氏の家系が当主金吉に至る、わずか3代前にしか遡れない不明朗な家系であるということを加えれば、トリプルに、お后候補には絶対に成り得ない条件が揃っています。

それが強引に入内に至ったということを、まずなぜなのか怪しまねばなりません。

韓国利権べったりの高円宮と、小和田氏との結託により、その「陰謀」はなされた、と今までに複数回述べてきたとおりです。そして、そこに某カルト系の宗教団体が2つ、からみつつ、ひとつのカルトは、明瞭に朝鮮半島系カルトです。なぜ半島の気配がつきまとうのか、そこも怪しむべきでしょう。秋篠宮家への捏造による悪評が、2つのカルト教団を母体にばらまかれたという事実とともに。

枝葉を広げると際限もなくなるので、小和田恒氏の思想に戻り、そこに絞り込みます。(他の要素に関しては、今まで過去記事で膨大に述べて来ました)事実を直視できない人たちは、何を述べても避けるのですが、小和田氏の思想などは、どう勘違いしようもない「論」なのですから、これは視線をそむける訳にはいかないのではないですか?

事後法による訴訟の提起など、非常に不当な要素が多い裁判である東京裁判(極東国際軍事裁判)の肯定者であるということは、天皇否定、皇室否定の人物だということです。東京裁判自体が、つづめれば天皇の戦争責任を追求して、処刑にするかしないかの裁判だったのですから、その裁判を「よしとする」思想の持ち主に、少なくとも天皇と皇室への崇敬はないでしょう。皇太子をくん呼ばわりでの婿扱いは、まさにそこに由来しているでしょう。

市ヶ谷の陸軍士官学校講堂で東京裁判は開かれました。一般的な説明によれば「The International Military Tribunal for the Far East」は、第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国軍が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判である、と規定されます。

この「犯罪者の」最大の責任者が天皇ではないか、という裁判であったわけです。こういう裁判を肯定し受け入れる小和田氏がいかなる思想の持ち主か、それは理解できるでしょうか。

東京裁判は戦勝国の一方的裁判であり、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ソ連の9か国が参加。
これらの国による一方的吊し上げですね。これにイギリス領インド帝国と、アメリカ領フィリピンの2地域を参加させたのは、「日本によるアジアへの侵略」という「罪状」を正当化させる目的です。

こういうでっち上げ裁判ともいうべき裁判を肯定する小和田恒氏の思想の、うろんさを知ってください。

昭和天皇の訴追に熱心であったのは、オーストラリアとイギリスです。

天皇陛下が犯罪者として裁かれなかったのは、天皇無罪ということではなく、連合国最高司令官のダグラス・マッカーサーが「日本統治にあたり必要な存在である」。要するに使えると踏んだからに過ぎません。

繰り返します。小和田恒氏は天皇陛下が罪人として吊るされる可能性もあった裁判を、間接的にながらよしと肯定している人なのです。非常に乱暴に簡潔に言うと、東京裁判の肯定者こそが、朝日新聞や民主党員などを代表とする、自虐史観の系譜に連なる者達であり、反日左翼です。
小和田恒氏もそうなのです。これを見落としてはなりません。

経緯は割愛しますが、天皇を訴追に至らせないための工作は、裁判開廷の半年前から行われていました。

結果的に天皇陛下は「無罪」となったものの、裁判が天皇のみならず、皇太子(今上陛下)まで視野に含んでのそれであったことは、拙ブログで「東京裁判」をテーマにシリーズで書き継いだものがあるので、そちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/afbc2ae8f4a799fb1bc04df4ae9bb526

1つだけエピソードを抜き出すなら、

7人の絞首刑判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了しました。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)でした。時計の針が1分ぴくりと動いて皇太子の誕生日当日になった瞬間、でっちあげられた「戦犯」の首にロープがまかれ吊るされたのです。恫喝ですね。お前もヘタしたら、吊るされていたのだぞ、という。罪人であることを忘れるな、という暗喩です。

今上天皇を巻き込みながら、昭和天皇のお命まで断崖絶壁に追い詰めたのが東京裁判です。小和田恒氏がこの裁判を肯定しているということを、忘れてはなりません。すなわち本来は反日、反天皇、反皇室の立場なのです。


裁判それ自体がアンフェアなものであり、日本のあの戦争が自衛のためのやむを得ぬ戦争であったという見方が有力説として浮上していることを付記しておきます。インドのパール判事はおろか、当の関わったアメリカ人からさえ強い疑義と抗議が出されている裁判を肯定する日本人など、日本人の風上にも置けません。

雅子妃の実父である小和田恒氏の反日思想について、十分ではないとはいえ、踏み入って記述したのは今回が初めてですが、その小和田恒氏の思想の色濃い配下にあるのが、皇太子と雅子妃であると拙ブログではずっと説明しています。
お二人の言動を逐一上げつつ、それが持つ反日性についても考察を重ねて来ましたので、興味があれば過去記事の累積があります。
拙ブログでは皇太子を「反日皇太子」と呼ぶことに、もはやためらいはありません。
その言動を追えばそう呼ばざるを得ないのです。ご本人が自覚していようといまいと。
見事に中韓カルトと三者の包囲網を受け、ご本人はそれぞれの工作員たちと接触なさっています。


反日・潘基文の求めに応じ、反日体質の国連に出向き、粗略な扱いを受けながら、「天皇を訪韓させ謝罪させる」ことを主張する韓昇洙・元韓国首相(首相として初の竹島不法上陸者)と親しく食事。

創価学会イベント出席と共に日本には出回らない写真。(池田大作氏の息子と共に出た創価イベントは聖教新聞で報道されて日本国民の知るところとなった)

擁護派の定番に「週刊誌の記事などあてにはならない」というのがありますが、これに関しては2つの反駁があります。
では週刊誌の記事を抜き取っても残るある現実をきちんと見ているか?(上記の事実としての写真や聖教新聞掲載の写真その他)
週刊誌の記事も名誉毀損という訴訟と常に向き合いながら書かれているので、そうそう捏造記事を書き放題というわけにはいかないが、その点をどう考えるのでしょうか。

雅子妃も父親の影響下にありますが、至近では、東宮に訪ねてきた沖縄の子らには顔も見せず、OECD東北スクールへは参加。
被災地にこれまで3度もドタキャンを食らわせた妃が、被災地から都内にやって来た
子供たちに会って、被災地訪問を怠っていることをごまかす、実に卑しい心根の
行動ですが、このOECDじたいに小和田恒氏が噛んでいるのです。1988年(昭和63年)にOECD政府代表部大使を勤めていました。
オランダの公務にも小和田氏が暗躍していたのは、もはや知られている所です。
雅子妃の学歴、職歴にも常に小和田氏の「手」が動いています。思考を停止させないで、冷静に調べて欲しい所です。客観的な資料を拾える事象なのですから。

反日思想の持ち主である小和田氏はいかなる目的で、娘を本来はアンチである
皇室に入れたのか、そこにすべての問題点が集約されてあります。

以上の文脈からは逸れますが、最後に一言、皇太子と皇太子妃の背後に揺曳している韓国とカルト教団の存在に、国民は早く気づいて欲しいと願っています。
中国も習近平の奥方を早々と送り込んで、皇太子は引き合わされていますが・・・。
中国は無論そうですが、韓国も韓国と密着した某カルトも工作という点にかけては実に深謀遠慮で長期を見据えたシナリオを書きます。

たとえば創*大学に迎えた初の中国人留学生が、現在の駐日本中国大使です。
先を見据えての留学生受け入れであったと思います。結果的に配下であった中国人が日本大使になった。いや大使にした、というべきかもしれません。外務省にも随分昔から、カルト教団の名誉会長の息のかかった学会員は送り込まれ、その勢力を年々に拡大しています。
小和田氏がそんな中、いかなる立ち位置にあったかわかりませんがカルト教団名誉会長の外遊に際して便宜をはかり問題視されています。また雅子妃が、外務省内カルトグループとの接触、付き合いがあることは事実です。

日本国の毀損に基本に常に韓国と、それと密着したカルト教団の存在があることを
知る人は多いのですが、皇室と結びついたとたん思考と視力が飛ぶらしく、
現状を理解できない、見えない人がいまだ多いのです。
およそ考えられる限り、ありとあらゆるジャンルに入り込んでいる彼らが、
皇室だけを除外するかどうか、考えてみればよいのです。ある意味、
最も押さえたいところでしょうに。


反日国連事務総長・潘基文と小和田恒氏

【備考】 外務省の中韓への、弱腰体質の基幹を作った小和田恒氏。

http://wiki.livedoor.jp/dosukono/d/%C6%FC%CB%DC%A5%CF%A5%F3%A5%C7%A5%A3%A5%AD%A5%E3%A5%C3%A5%D7%CF%C0

雅子妃の父・小和田恒氏が外務省時代に唱えていた主張。「ハンディキャップ国家論」ともいう。その定義については、論者によって微妙に評価が分かれるが、平和維持活動などに、軍事力を用いた、いわゆる「一人前の活動」をしてはいけない、という面では共通している。特定アジアへの「土下座外交」の基礎をなすものだとして、保守派の論者からは厳しく批判されている。

以下の文献に詳しい。

JIS+2D21『靖国問題と中国』屋山太郎、岡崎久彦(海竜社)167〜169ページより抜粋

「(前略)福田康夫氏と谷垣禎一氏は外交の最大テーマとして『日中の異常な関係の正常化』をあげている。『異常な関係』とは何か。日本の首相が靖国神社を参拝するかぎり、『首脳会談を行わない』と中国側が頑張っている状態こそ異常というほかない。これは『たった一つのことが気に入らないといって首脳会談に応じないのは異常だ』と小泉首相が言っている通りだ。国際的常識では『他国の神社参拝を自国の外交関係の中心部分にする国は全世界でも例がない』(米中経済安保調査委員会ラリー・ウォーツェル委員長=産経新聞2006年5月13日付)と見るほうが自然だろう。

 中国の側に理があるという非常識を日本国民に植えつけてきたのは、田中内閣以後の親中派議員と外務官僚だ。中国に対する贖罪意識に加えて、日中条約締結後にはじめたODA援助がらみの利権が親中派議員を激増させた。

 一方で外務省主流も親中派に傾き、チャイナスクールが跳梁跋扈した。小和田恒元外務次官、元国連大使(現国際司法裁判事)が『日本ハンディキャップ論』を唱えたのは有名だ。日本はハンディを背負っているのだから一人前の行動や発言をしてはいけない、との暴論である。

 次官、駐米大使、外務省顧問を歴任した栗山尚一宮内庁参与は『日本は永遠に謝罪し続けなければならない』という主旨の大論文を月刊誌『外交フォーラム』に連載(2006年1・2月)した。

 栗山氏によれば、首相が靖国参拝をやめても、ガス田、尖閣諸島、国連安保理常任理事国などすべての懸案問題で中国の譲歩は期待できないが、それでも謝れという。そもそも何も得ることが期待できない方針を『政策』と呼べるのだろうか。

 こと中国のことになると、急に風向きを気にする政・官・学・財界の諸氏の姿勢は不可解といわざるをえない。」

JIS+2D22『渡部亮次郎のエッセイ集』

外務官僚の背骨

一連の外務省不祥事件は、そろそろ判決が出はじめる一方で鈴木宗男事件はまだまだ尾をひいている。その中で北朝鮮からの集団脱国者対応や不審船引き揚げなど当面の外交問題についての我が外務官僚閣下らのお粗末は、批判する方が疲れてしまうくらい続く。どうしてこんな体たらくになってしまったのか。どうもその底には、皇太子妃殿下の父たる元外務事務次官・小和田恒の「ハンディキャップ国家論」の甘えと驕りが横たわっている。

(中略)

小和田恒という人は、超エリートといわれるが、政界に知られるようになったのは若くして福田赳夫首相の秘書官になってからだが、なぜか省内に人望は無い。仕事に厳しすぎるという以外に何かありそうだが、官僚の口はいまだに固い。その小和田が外務事務次官時代(1991年8月~93年8月)時代に展開して、未だに外務省員を支配しているのが、「ハンディキャップ国家論」である。日本は他の大国と違って、憲法9条の平和規定が厳然としてある。仮にPKOなどの国際貢献でそれがハンディキャップとなっても、最大限尊重すべきで、あくまでも憲法の許される範囲内で、世界に貢献すべきだ、という論である。

 この論は次の事務次官斎藤邦彦(のちに駐アメリカ大使、国際協力事業団総裁)にも追認され、今日も外務省無気力の允許状になっている。そこには敗戦の結果として押し付けられた憲法であるとか、軍隊は外交の手段として用いるべきではない、という敗戦・無能力国家を厳として是認するばかりで、国民を奮い立たせるとかの精神はひとかけらもない。あるものはゼニだから、これさえ出しておけば、他から文句をいわれることはないから いいじゃないか、と言っているに過ぎない。国家の誇りなんかとっくの昔に棄ててしまった逆乞食の驕りである。

 中国大使・阿南は陸軍大臣の倅であることを、何かと隠そうとするらしい。一種のハンディキャップ大使に自ら陥っていると言えるかもしれない。しかし、大使は事務官ではない。国家を代表して駐在しているのだから、社交もさることながら、外交に徹するべきだ。言う事も言わないでいる方が友好だと考えているとしたら、本当にハンディキャップ外交のハンディキャップ大使になってしまうだろう。

 中国は、綿の中に針を潜ませた外交をする国である。昨今の核戦力の増強ぶりと靖国問題を中心とする対日攻勢を見るまでも無く、日本との間に単なる友好のみを考えているとは絶対考えられない。靖国と国民を乖離させ、国民をして「国のために死ぬことは馬鹿らしいことだ」と思わせて防衛意識を低下させ、やがて日本を属国にする際、好都合にすることを狙っているとしか思えない。それをただただ「友好」の二文字だけで事なかれを決め込むとは、なんとも情けない。

 アメリカもクリントン時代の対中国政策をがらりと変えて国益を守ろうしている。その時に我が外務省のみが、チャイナ・スクールにまかせた中日友好万歳だけで国を操縦していけるとは、どうしても考えられない。

http://p-www.iwate-pu.ac.jp/~tokuhisa/watanabe/wat...

JIS+2D23平成14年06月06日 第154回通常国会 衆議院 憲法調査会国際社会における日本のあり方に関する調査小委員会

4号

○田久保参考人 田久保(編者注;田久保忠衛氏)でございます。

 本日は、かかる権威ある会議にお招きいただきまして、大変ありがとう存じます。

 私の専門は国際情勢と外交防衛でございまして、その見地からいろいろ申し上げてみたいと思うのでございます。四十年近く在野の評論家生活をやってまいりましたので、勝手なことを申し上げて、あるいは皆様の御不興を買うかもわかりませんが、何とぞ御容赦いただきたいと思います。

(中略)

  湾岸戦争で衝撃を受けたか受けないかでございますが、私は、政府は受けていなかったんじゃないか、特に、中心たるべき官庁の外務省は受けていなかったんではないかというふうに考えているわけでございます。

 当時、九三年でございますから、湾岸戦争の二年後でございます。小和田外務次官が現役でございまして、東京芸大の平山郁夫先生と「プレジデント」で対談をしたわけでございます。平山先生が、小和田さん、あなた、外務次官だから、日本の今後行くべき方向はどうなの、どういうふうに考えるの、こういう質問に対して小和田さんは、三つあります。一つは、戦争に敗れた直後の日本で、清く、貧しく、美しく生きていくので、国際貢献なんか考えなくていい、こういうことです。このアジアの小国の地位に甘んじていいんだ、余り他の国とかかずらいたくない、こういうお考えであります。

 その直前に、小沢さんの普通の国論というのがジャーナリズムでわっともてはやされて、これに対して小和田さん、ちょっと曲解しておられるんじゃないかなと思ったんですが、政治、経済、軍事、軍事だけがバランスがとれてない、これを経済に見合った軍事力にする。経済に見合った軍事力にするというと、これは世界第二位のGNPを持った日本は、とんでもないことにならざるを得ない。小沢さんが言っているのはそんなことじゃなくて、非常に単純な、一般大衆がわかるように、普通の国がやっていることをやれっつうの、こういう言い方ですね、あの日本改造論の中に出てくる表現は。大して意味を持たない。ただし、小和田さんは、これはバランスをとった国になれ、こういう意味だと。

 三つ目の選択は、軍事の貢献はやはりだめなんだ、そのかわり、その他の面で日本はほかの国よりももっとやるんだ、こういうことでございます。例えば、軍事が出せない。ほかの国が軍事力を出して百億ドル出していれば、こっちの方は軍事を出さない、軍事面での貢献をしないかわりに三百億ドル、四百億ドル、こういうふうに出すんだというお考えのようでございます。

 第一、自分の国がハンディキャップ国家などと言うことは、私はいいのかねという疑問を持つわけでございます。それから、そういう第三の生き方というのは、湾岸戦争で余り通用しなくなったんじゃないかなというのが私の考えでございましたので、これは愕然としたというふうに私は申し上げなければいけないと思います。

 この直後に斉藤邦彦さんが外務次官になられて、駐米大使におなりになるときだったですか、日本プレスセンターで会見というか講演をやられて、一問一答をやられた。そこで、小和田先輩が言われたハンディキャップ国家論を私は正しいと思いますということおっしゃっているわけでございます。ここまでくると、これはこういうことで突っ込んでいくとどういうことになるのかなという私は心配を持っているわけでございます。

 (後略)

http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdo...

http://www.nishiokanji.jp/blog/

西尾幹二氏のインターネット日録

『『週刊新潮』(2月23日号)

「『雅子妃』をスポイルした『小和田恒』国際司法裁判所判事」という題の記事を書きました。週刊誌をお読みになった方が多いかもしれませんが、お読みになっていない方のためにここに掲示します』


すでに渡部昇一上智大名誉教授による指摘などから、小和田氏が典型的な戦後左翼思想の持ち主であるという国会答弁などでの事例紹介によりビックリしていたのであるが、『評論家の西尾幹二氏(76)は、小和田氏を「皇室とは余りにそりが合わない人格」と分析するのだ。』と西尾氏も週刊新潮で発表された由である。

そこにはそうした結論に至った経緯が述べられている。
『 私は今度、小和田氏の雑誌対談やインタビュー記事など資料9編を読んでみた。そこから浮かび上がるのは、アメリカ占領下の日本無力化政策にいかなる疑問も不安も抱かなかった、既成権力にひたすら従順で用心深い小心な一官僚の姿である。』

『 小和田氏が、日本は過去の自分の行動のゆえに国際社会の中で「ハンディギャップ国家」だと言い立てていることはよく知られている。中韓両国に永久に謝罪しつづけなければならない国という意味であろう。1985年11月8日の衆議院外務委員会で土井たか子氏の質問に答えて、小和田氏は東京裁判においてわが国は中国に対する侵略戦争を行った、これが「平和に対する罪」である、サンフランシスコ平和条約第十一条において日本は「裁判を受諾する」と言っている以上、「裁判の内容をそういうものとして受けとめる、承認するということでございます」と答弁しているが、これは百パーセント解釈の間違いである。』

と指摘しておられるが、渡部名誉教授もだいぶ前からこの小和田氏の答弁を問題視されていた。

西尾氏は100%解釈の間違いの理由を述べた後、
『要するに小和田氏はその師・横田喜三郎氏と同様に、何が何でもあの戦争で日本を一方的に、永久に、悪者にしたい歴史観の持ち主なのだ』と指摘されている。

『傲慢で権威主義者

 1990年に湾岸戦争が起こり、翌年、小和田氏は外務事務次官になった。審議官時代から、氏は自衛隊の派遣に反対の立場をとっていた。彼の非武装平和主義は湾岸戦争で破産したはずだった。櫻井よしこ氏から対談で、日本人は人も出さない、汗もかかないという国際世論からの批判があるが、と問い詰められても彼は何も答えられない。ドイツがNATO地域外に派兵できるように基本法を改正する件に触れて、「日本の場合は、まだそういう状況まではきていない」と彼はしきりに客観情勢を語ることで弁解する。だが、「そういう状況」をつくらないできたのは小和田氏たちではなかったか。櫻井氏に追い詰められ、「日本という非常に調和的な社会の中で、できるだけ事を荒だてないで処理したい」と思わず三流官僚のホンネを口に出して、私は笑った』などとも書かれている。

『理想を持たない空想的人格は決して現実と戦わない。戦わないから傷つくこともない。用心深く周囲を見渡して生き、世渡りだけを考える。ドイツ語にStreber(立身出世主義者、がっつき屋)という蔑視語があるが、小和田氏のことを考えると私はいつもこの言葉を思い出す』

『自分の国を悪者にしてこうべを垂れて平和とか言っている方が、胸を張り外国と戦って生きるより楽なのである。そういう人は本質的に謙虚ではなく、身近な人に対しては傲慢で、国内的にはとかく権威主義者である』

『皇后陛下のご実家の正田家は、自家とのへだたりを良く理解し、皇室に対し身を慎み、美智子様のご父君は実業世界の禍いが皇室に及んではいけないと身を退き、ご両親もご兄弟も私的に交わることをできるだけ抑制した。一方、小和田恒氏はさっそく国際司法裁判所の判事になった。私はそのとき雑誌で違和感を表明した。小和田氏は領土問題などの国際紛争のトラブルが皇室に及ぶことを恐れないのだろうか。雅子妃の妹さんたちがまるで皇族の一員のような顔で振舞い、妃殿下が皇族としての必要な席には欠席なさるのに、妹たち一家と頻繁に会っているさまは外交官小和田氏の人格と無関係だといえるだろうか』などなど結局師の横田喜三郎教授の思想に無批判に権威主義的に染まりきった小和田氏の人格のなせる技ではないかとの指摘であり同感を禁じ得ない。いやはや、恐れ入った皇室とは正反対のお人なりなのであり、この点が天皇も無理して雅子妃を迎えるべく外務省高官たちに打診されたりした過去があるだけにご心痛の極みにあられるものと拝察するのである。

正田家と小和田家とはかくも別格の思想の違いがあるのである。

小和田恒氏の反日思想の師、横田喜三郎氏について。


http://ja.wikipedia.org/wiki/

ハーグ国際裁判所は、竹島(独島)をめぐる日韓の争いの場になる可能性のあるところ。
それが現実になった時、この方は皇室に与える影響を考えていません。
裁判所への就任は明らかに皇室(雅子妃)の威光。よく居座っていられると思いますね。
高齢で延々と。巷間噂されるようにお金に困っているのでしょうか?頻繁に日本と往復しながら、東宮に入り浸る。浅ましく見苦しくはないでしょうか。

下記における講演で小和田氏は「日本だけを考えず、クローバリゼーションを考えよ」と主張しています。皇太子と雅子妃にも、こう炊きつけているのでしょうか。

https://ameblo.jp/iofc-chiba-bbqa/entry-11978145149.html

17. 中川隆[-11939] koaQ7Jey 2019年2月22日 18:09:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[35] 報告

美智子さまが どうしても雅子様を皇太子妃にしなければならなかった理由

2016年03月10日
やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1983268.html


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが
残っています。女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから
追放されていた時代です。外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。


雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。

BBの覚醒記録。さんのサイトより
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

<転載開始>

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で
永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。皇后陛下とGHQとの
癒着の根っこが明らかになりました。現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の
極めて具体的な体現者です。


要保存◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

要保存◆なんと、社会党が支援していた美智子さま 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

要保存◆皇后陛下は「アカ」でした 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac

かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室
弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために
日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教を
そのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を
次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、
愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の
擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より
高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って
歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の
低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは
自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、
GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との
親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが
残っています。女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから
追放されていた時代です。
外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに
反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては
相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、
平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)

日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを
追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの
ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。
ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1
1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用
1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立
1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得
1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社

この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?
なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました

h ttp://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。
 そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。

【正田稲荷神社】
 もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。
  以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

  ・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている
祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの
移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた
白山神社さんと勘違いされた? 

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だという
ことではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?
何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。

皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に
再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面が
こういうふうである、と。

一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・

もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。
普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の
娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。
こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は
不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。


http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。
国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが
その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 - 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?
気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、
美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。
足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために
群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、
過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が
美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、
それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、
「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について
発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが
(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが
更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ

国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為があった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。
皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま
即位させないと、計画が成就しないわけです。

いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、
潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、
個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに
反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。
そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに
母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。


そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。
皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方で
すでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に
難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている
「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が
入り込みます。

以下はBB参考過去記事です

◆皇后陛下の“実家”日清製粉という売国企業  《転載ご自由に》


http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/5c63283c17c5264c4a373df1e9eccd11

◆資料  皇后陛下、その精神を形作った生い立ちと環境

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/7c9cffa819831b24bbfbd63d9f8eb57b

◆ついに小和田家【出自】の秘密 《水間氏の意向により全文掲載条件でネット転載可》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/77810d5d792b9b41f51b837fb20648db

◆天皇陛下に国辱謝罪させた「皇室使い」の国賊/小和田恒 【保存・拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/ec86f08a22b5d6d8c431e44bd6a4c7b5

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1983268.html

18. 中川隆[-11936] koaQ7Jey 2019年2月22日 19:31:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[38] 報告

戦後の日本人はともかく、日本の官僚と皇族は小和田恒に洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になったみたいですね:

小和田恒氏、その重大な罪 2018-07-01
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1

まず「軟禁」と「監禁」の差を知らねばなりません。

小和田恒氏のバーゼルにおける軟禁を、監禁と取り違えて国際裁判所に
出ていたから軟禁などされていない、という擁護をする人たちがいますが、
軟禁とはそもそも、監視付きではあるがある範囲内の自由は認められています。


小和田氏の不祥事に拠る軟禁は事実です。

国際裁判所に出ていたのは事実ですが、おそらく軟禁開始の時期とかぶるかと思うのですが、裁判所を「我々にも把握できない突発事で欠席」と、裁判所がステイトメントを出した一件があり、これは過去記事で述べました。記事を探すのが億劫なので、裁判所の文言は、概略であり当時出された文言そのままではありません。

東京にいったん戻ったとされる情報もありましたが、その時すでに軟禁が解かれたのか、あるいは特例としての一時帰国が叶ったのかそこは解りません。(某所と某所からの数回に及ぶ救出作戦が功を奏したのか、あるいは小和田氏が当局の要求に応えてあるケジメをつけたか・・・・現在では軟禁は解かれて帰国、ある一件で動き始めるまではコンクリート御殿に蟄居していらっしゃいました)


情報を収集していた時の時系列がもはやうろ覚えで、過去記事に遡って検証する時間がなく申し訳ありません・・・・が過去記事には正確に記録があるので、今回は駆け足の概略で失礼します。


小和田氏(及び協力者)はひょっとしてフェイク画像使用ないしは、これは明らかに日時を捏造なさるお方です。

この画像、(6月)6日とされていますが、ありえません。なぜなら、この日付の時小和田氏は東京にいました。情報を得ています。詳細は割愛しますが、やや書けば小和田氏はその時、供も連れず一人で電車移動でした。

この画像自体が合成ではないか、という指摘も複数得ましたが、そこはブログ主には判断できません。ただ、日時に関してははっきり、「あり得ない」と断言できます。6月中、小和田氏は一歩も日本を出てはいません。
これは調査すれば足跡は知れることなので、ブログ主が当てずっぽうを書いているわけではありません。

また付随的におかしな点は、6月6日に裁判所の一室にいた設定なのに、小和田氏はハーグにおける新旧判事交代式にすら出ていらっしゃいません。考えられない非常識と非礼。(6月7日に正式退任)

以下はネットの片隅ではすでに早くから出ている情報なので、BBも書きやすいのですが・・・・隔靴掻痒ではあります・・・・。

たとえばこちら。

https://blogs.yahoo.co.jp/s_kengokeiko/28434890.html

古い記事のせいでもあるのか、上記の情報は・・・・当たらずと言えども、遠からず・・・・というレベルです。↑
事実はもうちょっと、入り組んでいる・・・・かもしれません。(”知恵”の回る小和田氏が、何のバックもなく単独で違法をやらかすような幼い真似はしません・・・・)

しかし、聞こえてくる小和田氏の最近のちょこまかした動きについては小和田氏のなした以下の、重大な日本国毀損行為に比べれば、まだましなほうかもしれません。


以下は、平成26年8月12日の拙ブログ過去記事をベースに、日本という国にとって小和田恒氏がどれほど悪辣なことをやらかしたかのまとめです。

・・・

結局慰安婦問題にもつながる、小和田恒氏は国会喚問に値するのではないか。

河野談話を批判し、河野洋平を喚問せよと主張する保守ブロガーたちが以前は
いて、拙ブログ主もそれには賛同をするものの、しかし小和田恒氏を等閑視するのは、整合性が取れぬ上、怯懦だとも思いますね。同じく東宮問題を避けて、直視する勇気のない保守論客たちも。現実を直視なさい、日本を何とかしたいのなら。

ニューヨークタイムス東京支局(所在地 朝日新聞社内)で、反日記事を発信している 田淵広子氏さえ喚問が言われていたというのに、小和田氏の果たした日本毀損の役割に比べれば、田淵某など蚊ですよ。

◆舛添要一前都知事に見られた日本の中韓へのご機嫌取り土下座外交の始まりは小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁に端を発する。

◆日本を根本的に損ねた村山談話・河野談話の原点が小和田恒氏である。

◆翻訳上の問題点なのだが、小和田氏が国会において、サンフランシスコ講和条約における「東京裁判の判決を受諾」を「裁判を受諾」と言い換えたことが、その後の日本の行方を歪めてしまった。

つまり・・・・

日本は東京裁判の「判決は受け入れたが」「裁判そのもの」を肯定したわけではない。

にもかかわらず、それを「日本は東京裁判を受け入れた」とまやかしをやらかしたのが、小和田恒氏という男です。皇太子妃の実父です。

◆小和田恒氏のこの発言以降、日本の政治家は外務省からこの間違ったレクチャーを繰り返し受けることになり、いないはずの戦犯を蘇らせてしまいました。


◆靖国参拝問題の根っこも実に小和田恒氏が作った張本人であるということでしょう。

日本はサンフランシスコ講和条約において、東京裁判を受諾はしていない。⇒裁判自体を正当なものとして、受け止めたわけではない。

東京裁判の裁判自体ではなく、(敗戦国としてやむを得ず)刑罰の執行を続けること、それに限定して合意したに過ぎない。


ここまでで、小和田恒という男が犯した重大な過ちの内容は理解していただけたでしょうか。小和田氏が故意に誤訳したのか、単に間違えたのかそれは解りませんが、いずれにしてもその後の日本の舵取りを難破の方向へと導いてしまったのです。
誤訳なら後に深甚な謝罪と訂正が、国民にあるべきで、それがないところを見ると確信犯でしょう。

なぜ小和田氏がかくも、粗雑に祖国を扱うのか、いえもし祖国ならこうも貶めは出来ないでしょうに?

日本国にとって、小和田氏は癌細胞の一つでありそのことはすでに識者から指摘、糾弾されていることですが、皇太子妃の父という立場ゆえにでしょうか、明るみに出ません。それどころか、雅子妃の入内以来トントン拍子の出世です。福田康夫氏,山崎拓氏,加藤紘一氏らと同類の売国奴であるにもかかわらず、彼らを撃つ保守が、一人小和田恒氏のみはスルーしてしまいます。

小和田恒氏が日本を損ねたその「罪」の歴史を箇条書きします。

1 A級戦犯を戦争犯罪人として、土井たか子氏と共に断罪する。

2 女系天皇に向けて動いた形跡もあり。(万世一系皇室の破壊行為)

3 「日本ハンディキャップ論」を唱え、中国韓国へは物申さず、ひたすらお金を貢ぐことを主張。「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と答弁した。⇒東京裁判を全面肯定

4 福田赳夫氏は、小和田雅子さんが子供の頃から「雅子ちゃんは皇太子妃にする」と豪語していた人物。それに乗ったのが小和田恒氏であり、単なるロマンスによる入内ではなく仕組まれたものである。

5 「日韓フォーラム」への参加者である。同席者に売国新聞朝日新聞の当時主筆であった若宮啓文(わかみや よしぶみ)の名がある。加藤紘一の名も。彼らと同類である。「韓日」合同W杯の母体となったフォーラムである。小和田恒氏が半島利権の高円宮とタッグを組んで動く。(高円宮家は韓国の三大企業+と昵懇の関係を結んだが、小和田氏にいかなるメリットがあったのだろうか)

6 創価学会が小和田恒氏に送った「池田大作特別待遇要請書」に応じた。創価学会への便宜供与である。この件は第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号でも追求されている。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html

7 竹島に関連しての韓国寄り発言。

「自国の領土なら、わざわざ国際司法裁判所に持ち込む必要はない」と日本の提訴の動きを牽制。

(その後ハーグの国際司法裁判所所長に上り詰めたことと考えあわせると、胸が悪くなるほどの売国発言です)

8 村山談話に先駆けて、実は小和田恒氏が売国発言をしていた事実。

戦前の日本がアジア諸国への侵略や植民地支配を行ったという見解を公式に認めたのは小和田恒氏が発端。

昭和60年11月8日、衆議院外務委員会での小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁より。

▼社会党土井たか子議員から東京裁判(極東国際軍事裁判)の訴因とされた「平和に対する罪」とサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)第十一条の解釈を問われ、当時の小和田局長の答弁。

「極東軍事裁判の評価については学問的にはいろいろな意見がございますけれども、国と国との関係におきましては日本国政府といたしましては極東軍事裁判を受諾しているわけでございます。 ← 注;ここが事実と相違している。判決は受け入れたが、裁判そのものを認めたわけではない。

その裁判の過程におきまして「平和に対する罪」ということが起訴理由になっておりまして、その訴因の第二十七で、被告が中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び保証に違反する戦争を行ったということが挙げられておりまして、御承知のような判決が出ているわけでございますので、そういうものとして政府は受けとめておるということでございます」

それまでの日本政府とは異なる見解が、小和田恒氏によって提示されそれが
定着することとなりました。中韓ソ各々国交回復で解決済みの賠償問題をことごとく、ゾンビのごとく蘇らせたのが小和田恒氏である。


9 小和田恆氏はそれまでの政府見解をうち捨てて、日本はアジア諸国を侵略した。先の大戦が国際法、条約、協定などに違反する戦争であったという裁判の訴因をも受諾したものと解釈を変更。この国会答弁に食らいついた、政治家、マスコミ、知識人たちがその後の自虐史観へと走り、それに乗った中曽根康弘氏などが「靖国問題」などを作り上げてしまう。

10 日本の自虐史観と、その後の中韓へのヘタレ外交の素を作ったのが小和田恒氏である。

・・・・・・・・・・・・・

実に駆け足の概略でしかないのですが、詳細を述べると記事が煩瑣になるので、個々の箇条については各自お調べください。
容易に資料は拾えます。

何度も言っていますが、東宮問題が単独でそこにあるわけではありません。
日韓日中在日カルトなどと絡まり合いながら、GHQの日本弱体化政策、
皇室弱体化施策とも連動しながら、今現在の姿です。

小和田恒氏と雅子妃が親密な外務省創価学会グループ「大鳳会」の
メンバーは約50名もいます。

池田大作を大臣級扱いで海外に送り出す手配を担当し、対韓・対朝・対中の日本外交を歪めてきた張本人的組織で、そこを仕切っていたのが、小和田恒氏です。

擁護派は問題点を俯瞰で見る視野を欠いているので、あらゆる日本毀損の
勢力が小和田・東宮問題とリンクしていることが見えないでいます。

小和田恒氏は、日本国を損ねた何人かの最大「悪人」のうち、官僚としては
最大級の「極悪人」です。ネジ曲がった政治家をその後生み出す土壌となった
という意味では、それらの政治家よりワルでしょう。

安倍総理のいう「戦後レジウムからの脱却」の意味するところの一つは、
日韓、日中、日ソ間の国交回復条約を通じて、賠償金を含むすべての
請求権の相互排除を決め、全て解決済みであるとの確認事項の
再確認もそこに含まれるでしょう。

それを阻んでいるのが自民党のある政権と、民主党政府の不用意な発言、
談話、不要の謝罪などを繰り返した暗愚の歴史にありますが、
それらの「犯人」を列記すれば、鈴木善幸時代の宮沢喜一官房長官と
並んで、外務省の小和田恒条約局長がいます。

小和田氏の名は、日本新党の細川護煕首相、社会党の村山富市首相、菅直人・鳩山由紀夫の民主党両首相などの最悪な元首相たちや、河野談話
河野洋平官房長官らの名に隠れて目立ちませんが、官僚の中では最大級に
日本を損ねた人物です。本当に・・・・・こんな国家毀損者の娘が、よくまぁ
入内できたことと、当時の入内の経緯に改めて強い疑念を抱かざるを得ません。

日本の国益と名誉を著しく損ねて来たこれらの者たちの、証人喚問をして
ことの経緯を明確にすることが、戦後レジウムからの脱却には必要でしょう。
無理を承知で故意に言っているのですが。

しかし、かの村山談話の基礎を敷いたのが小和田恒氏です。

【備考】 小和田恒氏が「日本は悪者。中韓には跪き、尽くせ」という論を
唱える以前の日本の立ち位置は・・・

衆議院・平和条約特別委員会では小和田氏の大先輩である西村熊雄条約局長(当時)が次のように答弁している。(面倒な人は青字だけ読んでください)

「(平和条約)第十一條は、戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない場合は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。

BB注 A級戦犯呼ばわりは、間もなく上皇后におなりの方です。小和田史観との連動、あるいは共同プロパガンダ。

従つて、十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております」

十一月十四日の衆院法務委員会で、佐瀬昌三議員の、「戦争犯罪というものは、今回の講和條約の調印によつて、全部終了したものであるかどうか、なお逮捕とか或いは裁判とかいうような問題が残されておるかどうか、打切りになつたのであるかどうかという点を、あらかじめ承知いたしておきたい」との質問に対して、

大橋武夫法務総裁(当時)は

「戦争犯罪という問題は、わが国といたしましては、ポツダム宣言の受諾によつて引起つて来た問題である、こう考えておるわけでございます。今回の講和條約の締結によりまして、当然ポツダム宣言というものは、関係国の間で効力を失うものと存じまするので、今後調印国の間におきましては、戦争犯罪という問題は発生の余地がないものと心得ております」と答えている。更に大橋大臣は

「第十一條におきましては、これらの裁判につきまして、日本国政府といたしましては、その裁判の効果というものを受諾する。この裁判がある事実に対してある効果を定め、その法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考えるわけであります」

と答弁している。

以上で明らかなように講和条約に調印、批准したときの日本政府は、本来の国際法では平和條約の効力発生と同時に戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失うのが原則であり、今回の講和條約の締結によって、今後は戦争犯罪という問題は発生の余地がない。

また日本は講和条約の第十一条によって極東裁判を受諾したのではなくて、その裁判の効果(注:判決)というものを受諾するとの解釈でいたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

  下皇后のお父上は、悪党福田父子のご家来

それまでの全てを覆し、世界に向けて日本を全面的な悪者に仕立てあげたのが、小和田恒氏です。動機は解りません。想像は出来ますが、想像範囲内の事なので控えます。ただ、その動機のいかんを問わず、小和田恒氏は日本破壊・弱体化勢力の首領の一人であると言えるでしょう。日本人ですか? と思わず問い詰めたいこれまでの言動です。

画像で表す小和田恒氏を基軸とした日本壊国の円環

第91代内閣総理大臣・福田康夫氏の反日。親中派。台湾から熱愛と言うほどの親日家である李登輝氏が病気治療目的で来日を希望した際、河野洋平氏とともにビザ発給に反対。

福田康夫元首相が「南京大虐殺記念館」を訪問 中国外務省「歴史を正視」と称賛 (産経)


 【北京=西見由章】上海で開かれた学術会議に出席するため訪中した福田康夫元首相は24日、「南京事件」の資料を展示する江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪問した。中国メディアによると、福田氏は「南京大虐殺の犠牲者を深く哀悼する」と書かれた花輪を供え、同行者らとともに黙祷。「過去の事実を正確に理解しなければならない。もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と記者団に語った。

 日本の首相経験者が同館を訪れるのは海部俊樹、村山富市、鳩山由紀夫各氏に続いて4人目。


・・・・・ここまで

南京大虐殺など、中国政府の日本貶めプロパガンダに過ぎません。
そのプロパガンダに加担する連中って、本来の意味での日本人ですか?
悪辣な福田父子の家来であるのが、小和田恒氏と優美子氏です。
ジョウ皇后の下に、シモ皇后として即位なさる雅子妃のご両親です。


福田家と小和田家との密着の関係。小和田雅子入内の発端。

http://seesaawiki.jp/w/dosukono/d/%A5%BD%A5%E9%A5%DE%A5%E1


福田赳夫氏の孫娘と親密だった雅子妃。(スキー写真)


1988年3月20-21日 福田赳夫元首相の孫娘横手香代子さんと北海道スキー旅行、滝川市のホテル三浦華園に小川東洲夫妻が合流
左画像:左から小川東洲夫人、小和田雅子、ホテル女将の三浦夫人、福田元首相孫の横手香代子さん/右画像:ホテルの三浦社長、小和田雅子、横手佳代子さん


福田家に忠誠を表す帯。「福」の字が染め抜かれこれは
福田夫人とお揃い。


」」

婚約の記者会見に皇居に入るときも、大将福田氏への忠誠の福の帯。
娘入内の「感謝」のつもりか。世間が信じこまされているように
無理やり入内させられたということではなく、
以前から周到に仕組まれていた婚姻です。
雅子妃も周囲の仕組みに積極的に応えていらっしゃる。

2006年4月2日、元フジテレビ女子アナのチノパンこと千野志麻氏が福田赳夫の孫・横手真一氏結婚、その挙式披露宴に小和田優美子氏が出席。国賊級元大臣に、忠誠の小和田夫妻。

小和田氏売国の発端

福田赳夫首相の政務秘書官に迎えられて、最初に立ち会ったのが日中平和条約締結。それ以来の外務省人脈が連綿。


小和田恒ssiと福田康夫氏は官邸の秘書官室で机を並べていた。以降家族ぐるみのつきあい。


小和田ssiは東京・代沢の福田邸に雅子さんをたびたび連れて行き、福田赳夫元首相に可愛がられていた。

福田・小和田という水面下の、「もう一つの」結びつきの可能性にも留意!!
小和田・江頭の結びつきと同様に。
鳩山・・・ブリジストン創業者の娘と、その嫁との共通項・・・は。


一官僚の出版記念に、駆けつけた福田赳夫氏と宮沢喜一氏。売国2人組。

マンデラ氏の追悼式で皇太子殿下に付き添ったのは福田赳夫氏の息子の康夫氏。

↑左が韓国首相として始めて竹島に不法上陸した韓昇洙。
右が潘基文。


潘基文夫妻と。


竹島(独島)に碑文を打ち立てた韓 昇洙。
皇太子と親しく食事。


ご成婚に現れた、創価三色。

日付の嘘に準じる「虚言癖」に属することなのか? 小和田恒ssiの論文紛失事件。
外務省からオックスフォードに国費を使って研修に行ったものの、一人だけ修士号を取れずすごすご帰国した娘、雅子妃の過去と何となくかぶる、うろんさ。

何度も検証してみたことですが、雅子妃の英語力でハーバードをまともに受講は出来ません。出たことは出ています。卒論のバックにこちらも仕掛けあり。東大は出てませんので。いまだに盛り学歴の印象操作に惑わされている人たちがいますが。小泉進次郎氏の、ありえない偏差値高校からプリンストンでしたっけ、あれも
笑っちゃいますけどね・・・。要するに庶民の常識の外では「そういうこともあるげな」よ、でしょうか。饒舌な進次郎氏ですが、そう言えば英語を聞いたことがないですねえ・・・・? 雅子妃の、sigunature とautographの区別すらつかない尻尾の出し方はまだしてませんが。

後記 ⇒進次郎氏、関東学院大(1年留年)卒業後に、コロンビア大学大学院に留学。

TOEFLiBTでスコア100以上のレベルが求められるコロンビア大、大学院に?
偏差値44留年の人が?

◆小泉進次郎氏は本当に英語がしゃべれるのか検証してみた!
https://ameblo.jp/don1110/entry-11918266596.html

さて肝心の小和田ssiですが“ 船便で送った学位論文の原稿が入ったトランクが紛失したため ” 、博士号を取る機会を失った・・・・そうな。

小和田恒 | Dosuko Wiki |
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

ぎっくり腰妃の母方ご実家である江頭家の、企業犯罪ともいうべき水俣病への関わりは読者さんご紹介のこのサイトが、まとまっているかも。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/4444/surf18.html

“ 船便で送った学位論文の原稿が入ったトランクが紛失したため ” 、博士号を取る機会を失ったそうで、こちらに載っています。
http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%81%92

替えのきかない大事な論文を手元から離して船便? あり得ないでしょう。カーボン紙しかコピーが出来なかった時代に、しかも提出期限のある論文を時間のかかる船便で、トランクの中に詰めて送る?

・・・・・長過ぎましたね、記事。2つに分けるべきでした。
このところ、いよいよ時間が取れなくなっていて、書ける時間に書いておこうと合間を縫ってバンバン打って構成も考えず、すみません。

余計なこと書きついでに、最近ネットの片隅で流れている皇后陛下の御陵問題・・・・は要するに多摩御陵(武蔵野陵墓地)はお嫌だと。だから、よそにお墓が欲しいと。従来の御陵(みささぎ)忌避は理由不明。神道色をなくべく排したいお考えからか、天皇家への反感なのか・・・? 天皇陛下の御陵のそばの小さな祠でいい、などと・・・・おっしゃっていたのに(口はおきれい、なさることエグい)・・・・開発用の山を某地にお狙い、その取得のお使いにちょこまか動きまわっているのが小和田ssiだ・・・・そうで・・・・・。

バーゼルでの不祥事で顔向けできなくなったことへの挽回なのかもね・・・・ってことで。

この方「法の正義」がどうかって、退任にあたってぶち上げていなかった?
嫁の父も二枚舌、姑も・・・・。あー・・・・・孫はまた遅刻早退、欠席のスパイラルだそうで・・・・ご優秀報道のマスコミも二枚舌(sigh)これだけ学業から遠ざかっていて、ご優秀なら本当にご優秀なんでしょうね。(wry smile):-}

https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1

19. 中川隆[-11866] koaQ7Jey 2019年2月23日 17:49:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[111] 報告

アメリカ留学で洗脳されたアメリカの工作員ー。


84 名無しさん@涙目です。(関東地方) 2011/10/11(火) 10:25:50.06 ID:A+44Bhg60

肩書きと権威に騙されるようじゃまだまだだよ

東大法学部でハーバードMBA持ってるからって、正しいとはかぎらない

むしろこういうアメリカに留学したような奴は必ずアメリカ政府に裏で操られてるからな


209 名無しさん@涙目です。(愛知県) 2011/10/11(火) 11:29:22.40 ID:dtHqt6Bu0
>>44
やっぱりアメリカに洗脳されちゃったんだね

アメリカみたいな人種の坩堝が大好きなようだから
日本を多種多様な人種の多民族国家化させたいんだろうね

214 名無しさん@涙目です。(茨城県) 2011/10/11(火) 11:32:50.55 ID:VicIC/nB0

たぶん留学中にオルグされちゃったんだろうけど、

ムナカタ氏を背後で操っているのはアメリカの誰なんだい?

221 名無しさん@涙目です。(西日本) 2011/10/11(火) 11:35:41.63 ID:Eii4zrtV0

こういう売国官僚って3つのパターンがあるんだよ


1、アメリカ留学などで洗脳されたバカ
2、アメリカ筋とのつながりがあり確信犯
3、マジで工作員


この3つのパターンのどれか


222 名無しさん@涙目です。(西日本) 2011/10/11(火) 11:37:45.77 ID:Eii4zrtV0

4、スキャンダルネタをつかまれて脅されている

225 名無しさん@涙目です。(茨城県) 2011/10/11(火) 11:39:58.21 ID:VicIC/nB0
>>221
アメリカ逝った人は1.のパターンが圧倒的じゃないかなぁ


242 名無しさん@涙目です。(西日本) 2011/10/11(火) 11:46:36.12 ID:Eii4zrtV0
コイツまじの工作員じゃねえかな


580:名無しさん@十一周年:2010/12/26(日) 21:09:22 ID:bYlQ0d9+0

通常、宗主国は属国からの留学を奨励・強制して、卒業後は、宗主国とパ
イプのある属国の支配者層として育成する。

日本も、フルブライト留学生とかで、アメリカの子分が育成されたものだ。

これは、明治日本も似た方策で、清や朝鮮から留学生等を受け入れ、自国
を改革させ、欧米列強に対抗する味方を増やそうとしていた。

尤も、支那人と朝鮮人じゃ、民度が低過ぎるし恩を仇で返す連中だったの
で役には立たなかったがw

現代日本も、アジア・アフリカ諸国の留学生を受け入れ、日本の親派を育
成するのは、それなりに効果のあるもの。
http://2chnull.info/r/newsplus/1293356220/501-600

20. 中川隆[-11822] koaQ7Jey 2019年2月26日 12:22:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[158] 報告
日本人は GHQ に自虐史観・反日思想を持つ様に洗脳されたのか?


アホ右翼の日本の庶民が直接「GHQ に洗脳された」という主張には無理があります。
GHQ はもっと巧妙なやり方っで日本人を洗脳したのです。


つまり、まず皇族とマスコミと日本の官僚を洗脳して、彼らを通して日本の庶民も間接的に洗脳したのです。

日本人は皇族のファンばかりだから、皇族が護憲で何時も平和、平和と唱えていれば日本の庶民も護憲になってしまうのです。

具体的には、GHQ はこういう手口で日本人を洗脳して羊より従順にしたのです:


小和田恒氏、その重大な罪 2018-07-01
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1


以下は、平成26年8月12日の拙ブログ過去記事をベースに、日本という国にとって小和田恒氏がどれほど悪辣なことをやらかしたかのまとめです。

・・・

結局慰安婦問題にもつながる、小和田恒氏は国会喚問に値するのではないか。

河野談話を批判し、河野洋平を喚問せよと主張する保守ブロガーたちが以前は
いて、拙ブログ主もそれには賛同をするものの、しかし小和田恒氏を等閑視するのは、整合性が取れぬ上、怯懦だとも思いますね。同じく東宮問題を避けて、直視する勇気のない保守論客たちも。現実を直視なさい、日本を何とかしたいのなら。

ニューヨークタイムス東京支局(所在地 朝日新聞社内)で、反日記事を発信している 田淵広子氏さえ喚問が言われていたというのに、小和田氏の果たした日本毀損の役割に比べれば、田淵某など蚊ですよ。

◆舛添要一前都知事に見られた日本の中韓へのご機嫌取り土下座外交の始まりは小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁に端を発する。

◆日本を根本的に損ねた村山談話・河野談話の原点が小和田恒氏である。

◆翻訳上の問題点なのだが、小和田氏が国会において、サンフランシスコ講和条約における「東京裁判の判決を受諾」を「裁判を受諾」と言い換えたことが、その後の日本の行方を歪めてしまった。

つまり・・・・

日本は東京裁判の「判決は受け入れたが」「裁判そのもの」を肯定したわけではない。

にもかかわらず、それを「日本は東京裁判を受け入れた」とまやかしをやらかしたのが、小和田恒氏という男です。皇太子妃の実父です。

◆小和田恒氏のこの発言以降、日本の政治家は外務省からこの間違ったレクチャーを繰り返し受けることになり、いないはずの戦犯を蘇らせてしまいました。

◆靖国参拝問題の根っこも実に小和田恒氏が作った張本人であるということでしょう。

日本はサンフランシスコ講和条約において、東京裁判を受諾はしていない。⇒裁判自体を正当なものとして、受け止めたわけではない。

東京裁判の裁判自体ではなく、(敗戦国としてやむを得ず)刑罰の執行を続けること、それに限定して合意したに過ぎない。

ここまでで、小和田恒という男が犯した重大な過ちの内容は理解していただけたでしょうか。小和田氏が故意に誤訳したのか、単に間違えたのかそれは解りませんが、いずれにしてもその後の日本の舵取りを難破の方向へと導いてしまったのです。
誤訳なら後に深甚な謝罪と訂正が、国民にあるべきで、それがないところを見ると確信犯でしょう。

なぜ小和田氏がかくも、粗雑に祖国を扱うのか、いえもし祖国ならこうも貶めは出来ないでしょうに?

日本国にとって、小和田氏は癌細胞の一つでありそのことはすでに識者から指摘、糾弾されていることですが、皇太子妃の父という立場ゆえにでしょうか、明るみに出ません。それどころか、雅子妃の入内以来トントン拍子の出世です。福田康夫氏,山崎拓氏,加藤紘一氏らと同類の売国奴であるにもかかわらず、彼らを撃つ保守が、一人小和田恒氏のみはスルーしてしまいます。

小和田恒氏が日本を損ねたその「罪」の歴史を箇条書きします。

1 A級戦犯を戦争犯罪人として、土井たか子氏と共に断罪する。

2 女系天皇に向けて動いた形跡もあり。(万世一系皇室の破壊行為)

3 「日本ハンディキャップ論」を唱え、中国韓国へは物申さず、ひたすらお金を貢ぐことを主張。「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」と答弁した。⇒東京裁判を全面肯定

4 福田赳夫氏は、小和田雅子さんが子供の頃から「雅子ちゃんは皇太子妃にする」と豪語していた人物。それに乗ったのが小和田恒氏であり、単なるロマンスによる入内ではなく仕組まれたものである。

5 「日韓フォーラム」への参加者である。同席者に売国新聞朝日新聞の当時主筆であった若宮啓文(わかみや よしぶみ)の名がある。加藤紘一の名も。彼らと同類である。「韓日」合同W杯の母体となったフォーラムである。小和田恒氏が半島利権の高円宮とタッグを組んで動く。(高円宮家は韓国の三大企業+と昵懇の関係を結んだが、小和田氏にいかなるメリットがあったのだろうか)

6 創価学会が小和田恒氏に送った「池田大作特別待遇要請書」に応じた。創価学会への便宜供与である。この件は第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号でも追求されている。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/134/1177/13411271177003c.html

7 竹島に関連しての韓国寄り発言。

「自国の領土なら、わざわざ国際司法裁判所に持ち込む必要はない」と日本の提訴の動きを牽制。

(その後ハーグの国際司法裁判所所長に上り詰めたことと考えあわせると、胸が悪くなるほどの売国発言です)

8 村山談話に先駆けて、実は小和田恒氏が売国発言をしていた事実。

戦前の日本がアジア諸国への侵略や植民地支配を行ったという見解を公式に認めたのは小和田恒氏が発端。

昭和60年11月8日、衆議院外務委員会での小和田恆外務省条約局長(当時)の答弁より。

▼社会党土井たか子議員から東京裁判(極東国際軍事裁判)の訴因とされた「平和に対する罪」とサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)第十一条の解釈を問われ、当時の小和田局長の答弁。

「極東軍事裁判の評価については学問的にはいろいろな意見がございますけれども、国と国との関係におきましては日本国政府といたしましては極東軍事裁判を受諾しているわけでございます。 ← 注;ここが事実と相違している。判決は受け入れたが、裁判そのものを認めたわけではない。

その裁判の過程におきまして「平和に対する罪」ということが起訴理由になっておりまして、その訴因の第二十七で、被告が中華民国に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び保証に違反する戦争を行ったということが挙げられておりまして、御承知のような判決が出ているわけでございますので、そういうものとして政府は受けとめておるということでございます」

それまでの日本政府とは異なる見解が、小和田恒氏によって提示されそれが
定着することとなりました。中韓ソ各々国交回復で解決済みの賠償問題をことごとく、ゾンビのごとく蘇らせたのが小和田恒氏である。

9 小和田恆氏はそれまでの政府見解をうち捨てて、日本はアジア諸国を侵略した。先の大戦が国際法、条約、協定などに違反する戦争であったという裁判の訴因をも受諾したものと解釈を変更。この国会答弁に食らいついた、政治家、マスコミ、知識人たちがその後の自虐史観へと走り、それに乗った中曽根康弘氏などが「靖国問題」などを作り上げてしまう。

10 日本の自虐史観と、その後の中韓へのヘタレ外交の素を作ったのが小和田恒氏である。

・・・・・・・・・・・・・

実に駆け足の概略でしかないのですが、詳細を述べると記事が煩瑣になるので、個々の箇条については各自お調べください。
容易に資料は拾えます。

何度も言っていますが、東宮問題が単独でそこにあるわけではありません。
日韓日中在日カルトなどと絡まり合いながら、GHQの日本弱体化政策、
皇室弱体化施策とも連動しながら、今現在の姿です。

小和田恒氏と雅子妃が親密な外務省創価学会グループ「大鳳会」の
メンバーは約50名もいます。

池田大作を大臣級扱いで海外に送り出す手配を担当し、対韓・対朝・対中の日本外交を歪めてきた張本人的組織で、そこを仕切っていたのが、小和田恒氏です。

擁護派は問題点を俯瞰で見る視野を欠いているので、あらゆる日本毀損の
勢力が小和田・東宮問題とリンクしていることが見えないでいます。

小和田恒氏は、日本国を損ねた何人かの最大「悪人」のうち、官僚としては
最大級の「極悪人」です。ネジ曲がった政治家をその後生み出す土壌となった
という意味では、それらの政治家よりワルでしょう。

安倍総理のいう「戦後レジウムからの脱却」の意味するところの一つは、
日韓、日中、日ソ間の国交回復条約を通じて、賠償金を含むすべての
請求権の相互排除を決め、全て解決済みであるとの確認事項の
再確認もそこに含まれるでしょう。

それを阻んでいるのが自民党のある政権と、民主党政府の不用意な発言、
談話、不要の謝罪などを繰り返した暗愚の歴史にありますが、
それらの「犯人」を列記すれば、鈴木善幸時代の宮沢喜一官房長官と
並んで、外務省の小和田恒条約局長がいます。

小和田氏の名は、日本新党の細川護煕首相、社会党の村山富市首相、菅直人・鳩山由紀夫の民主党両首相などの最悪な元首相たちや、河野談話
河野洋平官房長官らの名に隠れて目立ちませんが、官僚の中では最大級に
日本を損ねた人物です。本当に・・・・・こんな国家毀損者の娘が、よくまぁ
入内できたことと、当時の入内の経緯に改めて強い疑念を抱かざるを得ません。

日本の国益と名誉を著しく損ねて来たこれらの者たちの、証人喚問をして
ことの経緯を明確にすることが、戦後レジウムからの脱却には必要でしょう。
無理を承知で故意に言っているのですが。

しかし、かの村山談話の基礎を敷いたのが小和田恒氏です。

【備考】 小和田恒氏が「日本は悪者。中韓には跪き、尽くせ」という論を
唱える以前の日本の立ち位置は・・・

衆議院・平和条約特別委員会では小和田氏の大先輩である西村熊雄条約局長(当時)が次のように答弁している。(面倒な人は青字だけ読んでください)

「(平和条約)第十一條は、戦犯に関する規定であります。戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない場合は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。

BB注 A級戦犯呼ばわりは、間もなく上皇后におなりの方です。小和田史観との連動、あるいは共同プロパガンダ。

従つて、十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております」

十一月十四日の衆院法務委員会で、佐瀬昌三議員の、「戦争犯罪というものは、今回の講和條約の調印によつて、全部終了したものであるかどうか、なお逮捕とか或いは裁判とかいうような問題が残されておるかどうか、打切りになつたのであるかどうかという点を、あらかじめ承知いたしておきたい」との質問に対して、

大橋武夫法務総裁(当時)は

「戦争犯罪という問題は、わが国といたしましては、ポツダム宣言の受諾によつて引起つて来た問題である、こう考えておるわけでございます。今回の講和條約の締結によりまして、当然ポツダム宣言というものは、関係国の間で効力を失うものと存じまするので、今後調印国の間におきましては、戦争犯罪という問題は発生の余地がないものと心得ております」と答えている。更に大橋大臣は

「第十一條におきましては、これらの裁判につきまして、日本国政府といたしましては、その裁判の効果というものを受諾する。この裁判がある事実に対してある効果を定め、その法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考えるわけであります」

と答弁している。

以上で明らかなように講和条約に調印、批准したときの日本政府は、本来の国際法では平和條約の効力発生と同時に戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失うのが原則であり、今回の講和條約の締結によって、今後は戦争犯罪という問題は発生の余地がない。

また日本は講和条約の第十一条によって極東裁判を受諾したのではなくて、その裁判の効果(注:判決)というものを受諾するとの解釈でいたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

  下皇后のお父上は、悪党福田父子のご家来

それまでの全てを覆し、世界に向けて日本を全面的な悪者に仕立てあげたのが、小和田恒氏です。動機は解りません。想像は出来ますが、想像範囲内の事なので控えます。ただ、その動機のいかんを問わず、小和田恒氏は日本破壊・弱体化勢力の首領の一人であると言えるでしょう。日本人ですか? と思わず問い詰めたいこれまでの言動です。

画像で表す小和田恒氏を基軸とした日本壊国の円環

第91代内閣総理大臣・福田康夫氏の反日。親中派。台湾から熱愛と言うほどの親日家である李登輝氏が病気治療目的で来日を希望した際、河野洋平氏とともにビザ発給に反対。

福田康夫元首相が「南京大虐殺記念館」を訪問 中国外務省「歴史を正視」と称賛 (産経)

 【北京=西見由章】上海で開かれた学術会議に出席するため訪中した福田康夫元首相は24日、「南京事件」の資料を展示する江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」を訪問した。中国メディアによると、福田氏は「南京大虐殺の犠牲者を深く哀悼する」と書かれた花輪を供え、同行者らとともに黙祷。「過去の事実を正確に理解しなければならない。もっと多くの日本人が記念館を参観すべきだ」と記者団に語った。

 日本の首相経験者が同館を訪れるのは海部俊樹、村山富市、鳩山由紀夫各氏に続いて4人目。

・・・・・ここまで

南京大虐殺など、中国政府の日本貶めプロパガンダに過ぎません。
そのプロパガンダに加担する連中って、本来の意味での日本人ですか?
悪辣な福田父子の家来であるのが、小和田恒氏と優美子氏です。
ジョウ皇后の下に、シモ皇后として即位なさる雅子妃のご両親です。

・身代金のキックバックを、福田がうけとり口封じに自民党内に撒いた。

・その弱みを握られていたので、今にいたるまで自民党政治家は、北朝鮮のような犯罪国家に屈している。

あくまで推測ですが。

さらに、この連携は、皇位継承問題にも及んでいます。

・福田家は、群馬の部落の家。

・福田は、「雅子ちゃんを皇太子妃にするよ」と宣言していた。

・雅子が生んだ愛子さんを天皇にするための法案を通そうとしたのが、小泉純一郎。

なんとしても、朝鮮人、部落民の血を引く愛子さまを即位させるのが、部落解放同盟、および朝鮮人たちの宿願なのでしょう。

しかし、神の采配により、秋篠宮紀子妃殿下の第三子ご懐妊、そして悠仁親王ご出産により、その企ては頓挫しました。

まだ油断がなりませんが。愛子さま天皇実現運動は、部落民&朝鮮人のクーデターなのです。

大日本帝国時代の朝鮮

小和田家の祖とおもわれる人物が新潟に住み着き、背乗りしたころといえば、大日本帝国時代でしょう。

併合後のピクニック?の様子。いい雰囲気ですね。

このころは、朝鮮半島は普通に日本領であり、朝鮮人は朝鮮系日本人でした。すべての国民に対して戸籍もできましたし、選挙権もあり、出世して大臣になったり将軍になった人物もいます。スター的存在になり財をなした妓生もいます。戦後までは、半島と日本列島との間の行き来は普通にできていました。にもかかわらず、わざわざ、密入国して背乗りする必要があったとなると、

・半島で犯罪をおかして逃げてきた人物。あるいは一家離散などの憂き目にあった。

・半島でも身分の低い階級(例えば、白丁)に属しており、日本列島の北の果ての新潟に住み着きロンタリングする必要があるくらい、絶望的な階級だった。

・もともと目的があって日本に住み着いた「草」、すなわち工作員である。

・新潟の朝鮮部落にすんでいた朝鮮系の人間が、小和田家に背乗りした。

などが考えられます。

故中川昭一議員が、小和田恒の書斎にレーニン像があったと証言してますね。小和田恒が、ロシア大使だったころ、ロシアのハニトラにかかってダブルスパイをしていたことが、ソ連崩壊後の情報の公開によりわかっています。

小和田家は、不法入国する必要があったくらい社会階級の低い位置にあった朝鮮系であるだけではなく、思想的にも旧東側の人間の立ち位置を置く人物であり、代々、工作員の家系である可能性があります。

母方の江頭家もまた、部落の出身の可能性が高いですね。

雅子の母方の親族であり本家になるタレントが、「自分は部落だ」とカミングアウトしていたそうです。

さらには、祖父の江頭豊は、水俣病を引き起こし放置したばかりではなく、「腐った魚を喰った貧乏人がわるい」等の暴言、被害者の方々へのヤクザを使っての暴行と弾圧、ジャーナリストでカメラマンであったユージンスミスへの暴行などをヤクザとつるんで行った大量殺人犯でした。

つまり、雅子さんは父方、母方、ともに、日本、朝鮮それぞれの社会の、最下層の階級の出身でかつ犯罪性が高い家系ということになります。
https://blog.goo.ne.jp/bb-danwa/e/a672698e97b9e288783b63bf979afce1


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官僚と皇族に自虐史観を植え付ければ、皇族大好きな日本の一般庶民も全員自虐史観を持つ様になるのですね。

アメリカの支配層は賢いです。

21. 中川隆[-11761] koaQ7Jey 2019年3月01日 16:37:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[220] 報告

小和田恒と外務省創価グループは皇族を国際金融資本のエージェントにしようとしていた

戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し

天皇家と国際金融資本との関係

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/


2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした

8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/


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2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派

安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
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76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809130001/


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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
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天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)2007年02月23日 | Weblog

 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。

 皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! 

つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。

 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。

彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://web.archive.org/web/20100212091907/http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


最近、古本屋で購入した

「自伝的戦後史」著者 羽仁五郎
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E4%BC%9D%E7%9A%84%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%BE%BD%E4%BB%81-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4061340913


の帯にも

「日本の天皇は戦前3億円ぐらいだった財産を、戦争が終わってみたら300億円ぐらいにしていた」

とあります。


▲△▽▼


天皇家は戦争中に何をしていたのか
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


先日から、

「歴史の真相と大麻の正体」内海聡 著 三五館 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%A8%E3%80%81%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%86%85%E6%B5%B7-%E8%81%A1/dp/4883206289

という本を読んでいて、その本は私が大麻というものが世界に及ぼしてきた事実を、私が知らない見解で記してあるかもしれない、という期待から読んでいると記してきました。

2そしてこの本は、第一部:歴史の真相 第二部:大麻の正体 に分かれていて、私は第二部の大麻の正体を読むことが一番の目的で読んでいるのですが、その前の第一部の歴史の真相のところで気になることがあったので、先日2回ほどそのことについて書かせて頂きました。ですがまた、その第一部の歴史の真相のところで気になったところがあったのでそのことについて記したいと思います。ではますは「歴史の真相と大麻の正体」からその部分を引用します。

(引用開始)

タイトル:「原爆を落とされてもしょうがない」

商船三井の共同経営者は、天皇家とCIAの日本作戦部長のマクスウェル・クライマンであった。そして天皇家が大東亜戦争時に蓄財した金はナチスのヒトラーの口座に隠されていた。ヒトラーはじつは隠れユダヤ人であることは有名だが、そのヒトラーとともに戦争ビジネスをやっていたのはだれかを考えねばならない。


天皇家の蓄財1

天皇が「原爆を落とされてもしょうがない」と発言したことが知られるが、広島、長崎に原爆が落ちた時も、天皇家はどうやって自分の資産を維持するかに腐心していた。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃がした蓄財は累計で5〜10億ドルにのぼるとしている。天皇家の蓄財に関しては濱田政彦著 「神々の軍隊」(三五館)などが詳しい。

(引用終わり)

これは大東亜戦争時、日本の多くの兵隊が海外に行き、命をかけて戦って死に、東京大空襲など、日本の津々浦々で行われた大空襲で多くの日本国民が命を亡くした最中に、昭和天皇が皇室の資産をいかに守ることに腐心していたかを記した文になります。

この引用文の最後に、

「天皇家の蓄財に関しては

濱田政彦 著 「神々の軍隊」(三五館)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E2%80%95%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%97%87-%E6%B5%9C%E7%94%B0-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4883202119


などが詳しい」とあります。では、その「神々の軍隊」には天皇家の蓄財についてどのように書かれているのか、以下にその部分を引用したいと思います。


(引用開始)


@ 戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産天皇家の蓄財3は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが、宮内省のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外に隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であると言われている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾り取るほどに皇室は豊かになるということになる。


A 2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。


B 財界のトップたちは、2.26事件後の大勢翼賛、国家総動員体制の下、政府の要職に就いて日本を破局へと導いた。一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している。


C 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


D 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


E 価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


F 大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠され天皇家の蓄財4ている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。


(引用終わり)※数字は私の書き込みによる。

ではこの引用文についてまとめ及び気になることを書いていきたいと思います。

まず@段落のところですが、

・戦前に天皇家は天文学的な金額を蓄財していた。

・天皇家は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、多くの銀行、財閥の大株主であり、その利益が莫大であった。

・銀行、財閥は当時、戦争経済で儲けていて戦争を続けさせ、植民地政策のもとで利益を上げていて、それによって株価が上がり結果、天皇家の資産は莫大なものになっていった。


A段落目で、「2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。」とありますが、当時上述したように戦争を遂行すればするほど銀行、財閥などは儲かり結果、天皇家も儲かっていたわけですからその財閥が日本の軍隊に入り込んで、戦争を遂行するように仕向けていたわけです。だから2.26事件で純粋に心から日本の未来を憂いた青年将校が起こした2.26事件が起こったときも昭和天皇は、「天皇家がカネ儲けできなくなる」という理由で2.26事件そして青年将校に対して怒りを覚えたのです。

B段落目

上述したとおりのことが書かれています。「一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している」、ということです。

C段落目

天皇家は資産を海外でモルガン商会(ユダヤ系財閥)を通して蓄財していて、天皇に近い重臣たちもそのおこぼれに預かり、儲けていたということです。そして天皇家とバチカン、‘バーゼルクラブ’などはグルになってカネ儲けしていたことを示唆しています。

D段落目

田布施2ここではまとめというよりは、文中の、「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。」の中の「昭和19年」に焦点を当てたいと思います。というのはこの昭和19年に天皇家の資産の蓄財において大きな変化あったからです。では、昭和19年(1944年)に何があったのか。そのことが先日も引用させて頂いた

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


に書かれていましたので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)シーグレーブ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一節がある。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分も含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊したときに天皇家にもたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。まさしく当時の日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査員が、この審査をパスさせたのであるが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門では問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天皇の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。」

私はこのシーグレーブの本を読み、納得した。それは天皇と男爵住吉門左衛門が特殊な関係にあったがゆえであると思ったのである。天皇家の御料地のほとんどが住友財閥の力で移動し、売却されたのである。1944年、住友林業の所有地が莫大に増加するのである。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった」とシーグレーブが書いているのは事実である。紙幅の都合上、これ以上は書かないが、私は明治から戦前までの御料地獲得に執念を燃やす田布施一族の歴史を追求してきた。そして、この帝国秘密探偵社の資料とシーグレーブの本を読み合わせ、納得した。(後略)

(引用終わり)

昭和天皇の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が天皇家の財産を海外に逃がすよう指示した金額は(当時の貨幣価値で)660億円。だがその660億円もの大金であるにもかかわらずそこには天皇家が所有する御料地すなわち皇居や日本各地にある御用邸の土地や御料林は含まれていない。

そして、「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んで天皇家の蓄財2いなかった」とあるように昭和天皇ヒロヒトは1944年に大もうけをした。しかもそれが、前述したように、天皇家が当時結託していた大財閥の一つである住友財閥の住友林業であったわけです。

この事実は私は日本人として絶対に忘れてはいけない事実であると考えます。なぜか? 1944年といったら日本の兵隊の方々が海外に出て、命をかけて、玉粋覚悟で、時には「天皇陛下バンザーイ」と叫んで、心から日本のため、と思いながら死んでいきました。また、日本国内では、多くの日本人が数千人否、数万人否、数十万人否、数百万人もの日本人が空襲で死にました。そのさなかに天皇家は大財閥と結託して、日本国民のことなど露ほどにも頭になく、蓄財に励んでいたからです。この事実は‘戦争とは何か’、‘天皇家とは何か’という疑問を見事に解き明かしています。

E段落目はそのまま抜粋します。

「価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」

ここで「さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」とあります。この‘南米’というところに注目すべきと考えます。その理由は次の7段落目に記されています。

F段落目

「大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

この段落では大戦末期から戦後に至る南米地域の状況について書かれています。なぜ南米地域にナチスの残党は逃走したのか?なぜ南米なのか?そしてヒットラーも実は戦争末期に自殺したのではなく、アルゼンチンに逃走した、という説があります。そして私がこの段落を読んで気になったのは第2次世界大戦後、この南米地域の各国がハンガリー系ユダヤ人であるミルトン・フリードマンが唱えたシカゴ経済学(大企業ボロ儲け経済学)を信奉したシカゴ・ボーイズといわれる連中に乗り込まれ、その国の政治・経済を乗っ取られ、結果その国の経済市場が欧米系の大企業に乗っ取られた、という事実です。アルゼンチンやチリやホンジュラスなどがそうです。

そしてその事実と引用文の、「そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けている」という記述が関係していると思います。ですがここではこのことについてこれ以上記しません。ただ関係していると思われる、とだけ記させて頂きます。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


天皇家は戦争中に何をしていたのか A
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


先日、太平洋戦争中における天皇家の蓄財に記させて頂きました。戦争中に天皇家が日本の土地を買い占めて戦争で多くの日本人が死んでいくさ中に蓄財に励んでいてそれも莫大に儲けていたことや、そもそも天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていたことなどについて記しました。

今日はその天皇家の蓄財について違った面から考察し、記していきたいと思います。では、まずはそのことについて詳しく記してある、先日も引用した「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭 著 成甲書房 刊  からの引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争田布施2中も秘密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。

これが戦争の本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。

あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で密かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。(後略)

(引用終わり)

前回は戦争時においてその、戦争することによって派生する日本の植民地事業において三井、三菱、住友などの財閥、銀行などが大儲けし、結果天皇家も大儲けする、ということについて記させて頂きました。ですがこの引用文は戦争から派生する要素ではなく、戦争そのものが天皇家を儲けさせていたことを記す内容となっています。

あの、戦前に日本への制裁としてABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が1941年に敷かれてアメリカから石油の輸入が途絶え、日本は窮地に追い込まれた、と我々は学校の歴史の授業で教わってきました。だが、実際には「赤十字」という看板を掲げた船で石油が輸入されていた。その赤十字は実は戦傷者の傷を治したり命を救うために設立されたのではなく、戦争を‘スムーズ’に長引かせるために国際金融同盟の連中がつくり上げたものだった。つまり戦者が簡単に死んでしまっては戦争がすぐに終わってしまい、国際金融同盟の連中やそれに纏わる財閥、銀行そして天皇家もカネ儲けができなくなる。だから赤十字を設立して、兵隊の傷の治療をし、延命させ、再度戦場に送り込む、ために赤十字がつくられたということです。

では次に同著から上の引用文に続く、その石油購入の資金についての記述を以下に引用します。

(引用開始)

では、あの大戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、ア天皇家の蓄財5ジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本へ持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食料等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長引けば長引くほどに天皇一族と、秘密裏に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。

(引用終わり)

日本に石油はなかったが中国侵略などで強奪した金・銀・プラチナを代金の支払いにあてた。その一部が天皇家の資産となった。つまり戦争で金・銀・プラチナなどの貴金属を強奪すればするほど天皇家は儲かるということです。ではさらにこの引用文に続く記述を引用したいと思います。

(引用開始)

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

(引用終わり)

この引用文は世界を支配する、本当の仕組みを示唆する記述となっています。ルーズヴェルト、チャーチルというときのアメリカ大統領とイギリス首相が借金漬けで、ロシアのスターリンは悪行のほぼ全データを握られ、国際金融資本家たちに弱みを握られていた、と非常に興味深いことが書かれています。ではここでこの3人のうちの1人であるチャーチルのそのあたりについて同じ鬼塚氏の「20世紀のファウスト」成甲書房 刊 という著作に詳しく書いてあるので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1938年3月下旬、第2次世界大戦勃発の1年前、チャーチルは借金のために田舎の別荘を売りに出そうとしていた。ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュが借金の肩代わりを申し入れた。チャーチルは受けた。そしてそのとき、一つの条件を受け入れることになる。金のないチャーチルはヴィクトリア地区の汚らわしいモルペス・マンションに住んでいた。その過去をみることにしよう。

1928年当時、チャーチルは第一次世界大戦の回顧録「世界の危機」の続編を執筆していた。アスター卿の「タイムズ」から2000ポンドの前払い印税を支払ってもらった。これとは別に世界各国での連載を含めての5,000ポンド以上が彼の懐に入っていた。しかし、彼は貧乏のどん底にあった。ウォール街での株投資で大損失をしていたからだ。このことはすでに書いた。

ユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルークはチャーチルにアメリカ講演旅行をやらせ、1万ポンドの保証をしてやった。それでも借金は返せず、バルークに特別に用立ててもらった。彼はユダヤ王ロスチャイルドの御用新聞「デイリー・メール」のビーヴァルック卿と特別契約を結び、8,000ポンド近い原稿料を得ていた。だがそれでも彼の経済的困窮は、別荘を売り払う段階までいったのである。

しかしチャーチルは海軍大臣、首相へとなっていく。政治家になれば収入は極端に減る。では誰が、何の目的のためにチャーチルの借金を返してやったのだろうか。ここまで書けば答えは書かなずもがなであろう。1939年3月、チェンバレン首相は海軍大臣にチャーチルを迎えなければならなくなる。チャーチルは1914年8月に海軍省に入っている。

海軍大臣になると、チャーチルはルーズヴェルト大統領に手紙を出した。2人は数多くの手紙をやりとりをする。一海軍大臣がアメリカ大統領と、どうして秘密のルートで手紙の交換が出来るのであろうか。この2人は「黒い犬」で、ユダヤ王ロスチャイルドから長い長い鎖の手綱で引っ張られていることを考えれば納得がいくのである。

チャーチルの人気は上昇していく。なぜか。チェンバレン首相の宥和政策に公然と抗議しだしたからである。ヒトラーがポーランド領ダイツィヒの割譲を要求した。チャーチルはヒトラーと闘えと叫びだした。黒い貴族の新聞は、戦争を煽りだした。1938年9月30日、イギリスとフランスは宥和政策をとり、侵略されたチェコを犠牲にして、ヒトラーと現状維持の協定を結んだ。この宥和政策は後にヒトラーによるポーランド侵攻により破られ、第2次世界大戦へと拡大していく。(後略)

(引用終わり)

チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。本を書いても借金は返せず、別荘まで天皇家の蓄財6売り払わざるをえないとこまで落ちぶれていて、ヴィクトリア地区の汚いマンション暮しをしていた。そこにユダヤ王ロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが大戦が始まる1年前にきて、‘一つの条件’をのまされた。その条件とは・・・・上に書いてあるとおりです。首相になって第二次世界大戦を引き起こす、という条件です。

つまりユダヤ王ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということです。このことは世界中で起こっており、日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つです。‘女を抱かせる’というハニー・トラップも含めて。

そして天皇家にも、スキャンダルは多々あり、そのことが国際金融同盟の天皇家支配に繋がっているということです。ゆえに「近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある」と著者の鬼塚氏は書いているのです。

そして先の引用文にさらに続く文章ではその戦争時におけるマネー・ゲームの様相が記されていました。以下に引用します。

(引用開始)

この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。天皇の代理人の役員が金儲けに奔走する場面がハイアムの「国際金融同盟」の中に書かれている。

「1942年夏、フランス政府の閣僚であり、ナチス占領下のパリにある民間銀行のヴォルムス銀行の役員であるピエール・プシューは、イブ・ブレアール・ド・ボアサンジューとBISで会合を持った。プシューはボアサンジューにドワイト・D・アイゼンハワー大将が北アフリカに侵攻する作戦を計画中であると語った。彼はこの情報を友人であるヴィシー駐在のアメリカ国務省代表のロバート・マーフィーから手に入れたのである。ボアサンジューはクルト・フォン・シュレーダーにこの情報を伝えた。シュレーダーと他のドイツ人の銀行家たちは直ちに、フランスの取引銀行と同調して、九〇億フランの金貨をBIS経由でアルジェに搬送した。ドイツの敗北を予測して、ドルの為替差損でボロ儲けを狙ったのである。ナチスの協力者たちはほとんど一晩で、自分たちの持ち金を三億五千万ドルから五億二五百万ドルまで増やしたのだった。この取引に関しては、BISのトーマス・H・マッキトリック、ヘルマン・シュミッツ、ミエル・プール、そして日本人役員たちも共謀に加担していた。この取引の別の協力者でナチス最高司令部にいる他の幹部たちに、この秘密を漏らしたものがいた。この男はバチカンの諜報活動グループに所属する工作員だった。この情報は1946年6月21日にオットー・アーベッツがアメリカ政府担当者に宣誓供述したことで明らかになった。」

この一文は、「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

(引用終わり)

このように‘戦争’とは国と国の間で行われる利益の収奪、憎悪だけでなく、国際金融同盟の連中がカネ儲けするために引き起こされるということです。否、その方が多いのです。

ところで前回記した私の文で引用させて頂いた「神々の軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 の文の最後に、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない」と記してありましたが、私はこの一文に強く違和感を覚えました。本当にそうか? と。

ではここで上に引用させていただいた本の著者である鬼塚氏の他の著作の一つである、

「天皇のロザリオ」成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%BD%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%AD%96%E8%AC%80-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862002


からこの一文についての鬼塚氏の見解が書いてある部分を抜粋してこの文を終わりたいと思います。

(引用開始)

(前略)日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の「神々の軍隊」が出た。この本の中で濱田は天皇の秘密資金について触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

天皇家の蓄財3「 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして天皇家の蓄財7南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。」には全く賛成できない。私は、昭和天皇が戦後も、マニングの書いているように蓄財作戦に熱中したと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人びとを悩ませたのである。

マーク・ゲインの「ニッポン日記」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E6%97%A5%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4480084282


には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本で書かれていることが再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

大麻3「天皇はただ一人で正食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女らははずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」 ---- 最低就労年齢 ---- で、1日9時間半働き、一日三円乃至五円支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主をみようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は1日9時間半働いて1日3三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので
、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的金額がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。

木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」
https://www.amazon.co.jp/%E5%81%B4%E8%BF%91%E6%97%A5%E8%AA%8C-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4163442103


が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

(引用終わり)

ということです。戦前も戦後も天皇家は全く貧乏なんかではないのです。そしてこの天皇を安倍晋三は今の象徴から戦前の元首にしようとしています。明治維新後、伊藤博文が大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げ、元首にしたように。その狙いは....... 皆さんもう、お分かりですよね?
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html

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戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し _ 2

天皇家は国際金融資本のエージェント

宮内庁のホームページに、天皇皇后両陛下がロックフェラーの自宅でロックフェラー家との晩餐会を行っていることが記載されている


(平成6年)天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問について

6月16日(木)ロックフェラー家との晩餐会(ロックフェラー邸)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h06america/eev-h06-america.html


天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜


天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。


引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。


◆属国・日本の指導者を管理する要員


日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。


ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。


「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)


では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。


アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。


アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。


ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。


こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。


一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。


◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇


昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。


そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。


昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。


ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。


4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)


昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。


おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。


その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)


天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html

22. 中川隆[-11760] koaQ7Jey 2019年3月01日 16:42:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[221] 報告

小和田恒と外務省創価グループは皇族を国際金融資本のエージェントにしようとしていた _ 2

知恵遅れの皇太子をハニートラップにかけた(?)小和田雅子の正体


雅子様C@学歴 日本語も英語も話せない釣書詐欺
http://hiromihiromi.sakura.ne.jp/01/?p=4764

雅子様の学歴ロンダリング
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0

雅子様の子弟枠を使ったインチキ外交官試験
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E5%A4%96%E4%BA%A4%E5%AE%98%E8%A9%A6%E9%A8%93

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柏原芳恵「空港バイブ事件」 Dosuko Wiki FANDOM powered by Wikia

昭和後期の女性アイドルタレント。1986年10月19日浩宮(当時26歳)が薔薇「プリンセス・サヤコ」を一輪携えコンサート会場に訪れ鑑賞したことは非常に大きく報じられ、後々になっても語り継がれている皇太子浩宮徳仁最大のエピソードといっても過言ではない。徳仁の非常にミーハーな性格がよく分かる事件であった。

この柏原芳恵氏コンサート前日である18日、スペイン王女レセプションパーティに飛び込み参加した小和田雅子と浩宮が「運命の出会い」を果たしているのであるが、雅子の存在は当時全く世に取り上げられず、とにかく芳恵ちゃんコンサート鑑賞事件が世間に大きなインパクトを与えていた。

後に柏原芳恵氏については「空港バイブ事件」なる都市伝説が日本全国にいきなり広まることになるのだが、

まだネットも未発達な時代にそんな情報を全国規模で流すことができたのは創価学会ぐらいじゃないか、

そして小和田家と創価学会の関わりあれこれがあることから、張り切って浩宮と小和田雅子の「運命の出会い」を演出したのに完全スルーされた小和田サイドがせんべいを使ってしかいししたんじゃないかとも囁かれている。
https://dosuko.fandom.com/ja/wiki/%E6%9F%8F%E5%8E%9F%E8%8A%B3%E6%81%B5


2018年02月17日
「皇室の婚約破棄」 皇太子さんが雅子さんを選ぶ前
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


最も下賤な相手と婚約内定発表してしまった眞子さま。


この婚約が破談に向かっていると期待したいが、眞子さま次第ではどうなりますか。
この婚約騒動は日本でもっとも高貴なご家庭が下賤な家庭と縁をもってしまったこと。

思い起こせば、皇室がもっとも高貴なお妃さま候補を美智子さんが侮辱し、断ってしまった過去があります。そして来たのが今日本で一番軽蔑されている次期皇后候補の小和田雅子さん。おかげで美智子さんの過去も暴かれてきてしまったという功績もありましたけど。


下記の候補のお嬢様方をご覧ください。
どなたもご立派なお家柄のお嬢様方です。

しかし、3:40からゲラゲラ笑う雅子さんが登場、なにがおかしいのか妹とゲラゲラ笑う下品さ。


コメントにも

"I cannot understand why crown princeNaruhito chose Masako bitch among these 9 candidates."


「9人の候補者の中でなぜ徳仁皇太子は雅子のような“bitch”を選んだのか理解できない。」


“bitch”とは尻軽女,あばずれ女,意地悪女という意味。


くにさんは写されていないが、その他の皇太子妃候補とされる瀧直子さん、柳原留美子さん、古河純子さん、島津彩子さん、渋沢肇子さん、草刈智子さん、二荒美香子さん、波多野真理さん、そして3分40秒〜自宅コンクリ御殿から妹と登場した小和田雅子。ただ一人だけ取材クルーに対し道路上でケラケラ笑い続ける小和田雅子と妹の行儀の悪さに注目されたい。


では当時の動画をどうぞ: 


Masako and the Other 8 Candidates of Chrysanthemum Fiance - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1z57AT288yM


下記はドス子さんサイト情報から:

"くにさん"と呼ばれた方は久邇晃子さん。

http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%93

浩宮徳仁親王妃の最有力候補だった旧皇族の女性、久邇晃子さんのこと。邦昭王(伊勢神宮大宮司・神社本庁統理)のご令嬢、すなわち香淳皇后実家である久邇宮家末裔であり、徳仁とは“またいとこ”の関係に当たる。

ご本人は乗り気でなかったらしいが、学習院女子高等部の同窓会である常磐会も推薦し、特に母方祖父である日本生命元会長・弘世現氏が積極的で皇室に働きかけをしていたと言われている。お妃候補といわれた女性たちが次々と結婚していく中、彼女が独身を続けたのは元華族勢力からの強い要請により、最後の切り札として温存されていたためと信じる人も多い。


お妃候補といわれた女性たち
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20080130182023.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/7/a/7ab00e6e.jpg


三井智子さん、徳川冬子さん、三井史子さん、久邇晃子さん、古河美佐子さん、古河純子さん、徳川恵子さん、服部聡子さん、小林詔子さん、伏見宣子さん、伏見雅子さん、以上11名を取り上げている。


『FOCUS』1993年1月22日号<「皇太子妃内定」7年の大逆転>


pp.13・15より引用
 宮内庁の“最後の候補”久邇晃子さんとも、'91年秋、数回お見合いしたが最終的に、皇太子のOKが出なかった。


http://livedoor.blogimg.jp/remmikki/imgs/2/9/29f4afaf.jpg

現在も独身であるため、もし徳仁親王が彼女と結婚していれば……という声が時々ある。学習院大学文学部哲学科卒業、国連英検特A級所持で英語は堪能。

徳仁が小和田雅子と結婚した後、なんと久邇さんは東京大学理科二類に入学しただけでなく、日本最難関の理科三類入学よりもさらに難関とされる医学部進学(理IIの定員560名中上位10名だけが医学部へ進学可能)を果たし卒業。現在は精神科医としてご活躍中である(医師としては略字体の“久迩”を使用)。

このように、久邇さんは文系理系ともにパーフェクトな上、ピアノだって当然のように弾けてしまう女性であり、三代以上家系図が遡れず、学歴ロンダリングに加えプラチナフルート放り出しの小和田雅子とは比べ物にならない、本物の才媛である。


このような女性を選ばなかった徳仁の目は、まことに節穴であったとしか言いようがない。

『文藝春秋』2011年12月号に久邇晃子さんが唐突に日本原発政策について寄稿掲載。皇室とは関係ないトピックながらも、副題に「旧皇族」と添えるなど今までなかった動きを見せており、同年11月3日悠仁親王殿下着袴の儀を境にいろいろ動き出したかと、スレ住民の注目を集めている。


なお、久邇家からは邦昭王の弟:朝建王の娘である久邇桂子さん(くにさんの従姉妹)が、三笠宮家の血を引く近衞忠大氏とご結婚。2男1女がおありとのことである。(2006三笠宮家集合写真、赤ちゃんを抱いているのが近衛桂子夫人)

今回の眞子さまの相手とは比べ物にならないくらいの立派なお嬢様を美智子さんが断り、お輿入れの準備をされていた久邇家を断ったというおバカなことをやらかした。昭和天皇でさえ小和田の娘に反対していたというのに逆らって雅子さんを選び、平成皇室のこの体たらく。考えてみれば、美智子さんと同じレベルを選んでしまった。

今回もし裏で美智子さんが糸を引いていたとすれば、またまた同じような下賤な家から眞子様お相手に選んでしまったということ。二度とこんな過ちを犯してほしくない。
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5331908.html


柏原芳恵のバイブ事件と植草一秀の痴漢事件は外務省創価グループの犯行だというのが定説になっているみたいですね。

23. 中川隆[-11275] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:21:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[731] 報告
比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20

2019年度の寺子屋ゼミは「比較敗戦論」を通年テーマにすることにした。

どうしてこのようなテーマを選ぶことになったのか。それについて姜尚中さんとのトークセッションで語ったことがある。
そのときの講演録を再録しておく。講演があったのは2016年

敗戦国は日独だけではない

 今回の「比較敗戦論」というタイトルは、問題提起という意味でつけました。特に僕の方で用意した結論があるわけではありません。ただ、歴史を見るときに、こういう切り取り方もあるのだというアイディアをお示ししたいと思います。

「比較敗戦論」という言葉は『永続敗戦論』(太田出版 二〇一三年)の白井聡さんと対談をしまたときにふと思いついたのです(この対談はその後、『日本戦後史論』(徳間書店、二〇一五年)という本にまとまりました)。

『永続敗戦論』での白井さんの重要な主張は「日本人は敗戦を否認しており、それが戦後日本のシステムの不調の原因である」というものでした。「敗戦の否認」というキーワードを使って、戦後七〇年の日本政治をきわめて明晰に分析した労作です。

ただ、僕が思ったのは、白井さんと話をしていて、日本人が戦後七〇年間にわたって敗戦経験を否認してきたということは全くご指摘の通りなんだけれども、日本以外の敗戦国ではどうなのか、ということが気になりました。日本以外の他の敗戦国はそれぞれ適切なやり方で敗戦の「総括」を行ったのか。その中で日本だけが例外的に敗戦を否認したのだとすれば、それはなぜなのか。そういった一連の問いがありうるのではないかと思いました。

白井さんの言う通り「敗戦の否認」ゆえに戦後日本はさまざまな制度上のゆがみを抱え込み、日本人のものの考え方にも無意識的なバイアスがかかっていて、ある種の思考不能状態に陥っていること、これは紛れもない事実です。でも、それは日本人だけに起きていることなのか。他の敗戦国はどうなっているのか。多の敗戦国では、敗戦を適切に受け容れて、それによって制度上のゆがみや無意識的な思考停止を病むというようなことは起きていないのか。よく「ドイツは敗戦経験に適切に向き合ったけれど、日本はそれに失敗した」という言い方がされます。けれども、それはほんとうに歴史的事実を踏まえての発言なのか。

まず僕たちが誤解しやすいことですけれど、第二次世界大戦の敗戦国は日独伊だけではありません。フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ、これらは連合国が敵国として認定した国です。それ以外にも、連合国がそもそも国として認定していない交戦団体として、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア自由国、満州国、中華民国南京政府があります。これだけの「国」が敗戦を経験した。でも、僕たちはこれらの敗戦国で、人々が敗戦経験をどう受け容れたのか、どうやって敗戦後の七〇年間を過ごしてきたのかについて、ほとんど何も知りません。例えば、「フィンランド国民は敗戦をどう総括したか」というような研究は、フィンランド国内にはしている人がいるのでしょうけれど、僕はそれについての日本語文献のあることを知らない。でも、「敗戦の否認」という心理的な痼疾を手がかりにして現代日本社会を分析するためには、やはり他の敗戦国民は自国の敗戦をどう受け止めたのか、否認したのか、受容したのかが知りたい。敗戦の総括をうまく実行できた国はあるのか。あるとしたら、なぜ成功したのか。敗戦を否認した国は日本の他にもあるのか。あるとしたら、その国における敗戦の否認は、今その国でどのような現実を帰結したのか、それを知りたい。「敗戦の否認」が一種の病であるとするなら、治療のためには、まず症例研究をする必要がある。僕はそんなふうに考えました。


フランスは果たして戦勝国なのか

 このアイデアには実はいささか前段があります。枢軸国の敗戦国というと、ふつうは日独伊と言われます。けれども、フランスだって実は敗戦国ではないのか。僕は以前からその疑いを払拭することができずにいました。

ご承知の方もいると思いますが、僕の専門はフランス現代思想です。特にエマニュエル・レヴィナスというユダヤ人哲学者を研究してきました。その関連で、近代フランスにおけるユダヤ人社会と彼らが苦しんだ反ユダヤ主義のことをかなり長期にわたって集中的に研究してきました。そして、そのつながりで、19世紀から20世紀はじめにかけてのフランスの極右思想の文献もずいぶん読み漁りました。

 僕がフランスにおける反ユダヤ主義の研究を始めたのは1980年代のはじめ頃ですが、その頃フランスの対独協力政権、ペタン元帥の率いたヴィシー政府についての研究が続々と刊行され始めました。ですから、その頃出たヴィシーについての研究書も手に入る限り買い入れて読みました。そして、その中でも出色のものであったベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』(国文社、一九八九年)という本を翻訳することになりました。これはフランスが実はファシズムと反ユダヤ主義というふたつの思想の「母国」であったという非常に挑発的な内容で、発売当時はフランスでは大変な物議を醸したものでした。

 歴史的事実をおさらいすると、一九三九年九月にドイツのポーランド侵攻に対して、英仏両国はドイツに宣戦布告します。フランスはマジノ線を破られて半年後の六月にフランスは独仏休戦協定が結ばれます。フランスの北半分はドイツの直接統治領に、南半分がペタンを首班とするヴィシー政府の統治下に入ります。第三共和政の最後の国民議会が、ペタン元帥に憲法制定権を委任することを圧倒的多数で可決し、フランスは独裁制の国になりました。そして、フランス革命以来の「自由、平等、友愛」というスローガンが廃されて、「労働、家族、祖国」という新しいファシズム的スローガンが掲げた対独協力政府ができます。

フランスは連合国に対して宣戦布告こそしていませんけれども、大量の労働者をドイツ国内に送ってドイツの生産活動を支援し、兵站を担い、国内ではユダヤ人やレジスタンスを行いました。フランス国内で捕らえられたユダヤ人たちはフランス国内から鉄道でアウシュヴィッツへ送られました。

 対独レジスタンスが始まるのは1942年くらいからです。地下活動という性質上、レジスタンスの内実について詳細は知られていませんが、初期の活動家は全土で数千人規模だったと言われています。連合国軍がノルマンディーに上陸して、戦局がドイツ軍劣勢となってから、堰を切ったように、多くのフランス人がドイツ軍追撃に参加して、レジスタンスは数十万規模にまで膨れあがった。この時、ヴィシー政府の周辺にいた旧王党派の準軍事団体などもレジスタンスに流れ込んでいます。昨日まで対独協力政権の中枢近くに人たちが、一夜明けるとレジスタンスになっているというようなこともあった。そして、このドイツ潰走の時に、対独協力者の大量粛清が行われています。ヴィシー政権に協力したという名目で、裁判なしで殺された犠牲者は数千人と言われていますが、これについても信頼できる史料はありません。調書もないし、裁判記録もない。どういう容疑で、何をした人なのか判然としないまま、「対独協力者だ」と名指されて殺された。真実はわからない。

アルベール・カミュは最初期からのほんもののレジスタンス闘士でしたけれど、戦後その時代を回想して、「ほんとうに戦ったレジスタンスの活動家はみな死んだ」と書いて、今生き残って「レジスタンス顔」をしている人間に対する不信を隠そうとしませんでした。このあたりの消息は外国人にはなかなかわかりません。

シャルル・ド・ゴールもその回想録の中で、ヴィシー政府壊滅後のフランス各地の混乱に言及して、「無数の場所で民衆の怒りは暴力的な反動として溢れ出した。もちろん、政治的な目論見や、職業上の競争や、個人的な復讐がこの機会を見逃すはずもなかった」と証言しています。(Charles De Gaulle, Mémoire de guerre, Plon, 1959, p.18)

 国防次官だったシャルル・ド・ゴールはペタン元帥が休戦協定を結んだときにロンドンに亡命して亡命政府を名乗りますけれど、もちろん彼の「自由フランス」には国としての実体などありません。国際法上はあくまでヴィシー政府がフランスの正統な政府であって、自由フランスは任意団体に過ぎません。そもそもド・ゴール自身、フランスの法廷で欠席裁判のまま死刑宣告されているのです。

ド・ゴール以外にも、フランソワ・ダルラン将軍、アンリ・ジロー将軍といった軍の実力者がいて、フランスの正統な代表者の地位を争っていました。最終的にド・ゴールが競争相手を排除して、自由フランス軍のトップに立ちますけれど、それでも一交戦団体に過ぎません。44年にド・ゴールが「フランス共和国臨時政府」を名乗ったときも、アメリカもイギリスもこれを承認するのを渋りました。ド・ゴールが一交戦団体に過ぎなかった自由フランスを「戦勝国」にカテゴリー変更させたのは、彼の発揮した軍事的・外交的実力によってです。44年、ノルマンディー上陸後西部戦線でのドイツ軍との戦闘が膠着状態にあったとき、ド・ゴールはこの機会にフランスを連合国に「高く売る」ことに腐心しています。回想録にはそのことが率直に書いてあります。

「戦争がまだ長引くということは、われわれフランス人が耐え忍ばなければならない損失、被害、出費を考えれば、たしかに痛ましいことである。しかし、フランスの最優先の利害を勘案するならば、フランス人の当面の利益を犠牲にしても、戦争の継続は悪い話ではなかった。なぜなら、戦争がさらに長びくならば、アフリカやイタリアでそうだったように、われわれの協力がライン河・ドナウ河での戦闘にも不可欠のものとなるからである。われわれの世界内における地位、さらにはフランス人がこれから何世代にもわたって自分自身に対して抱く評価がそこにかかっている。」(Ibid., p.44、強調は内田)

 ド・ゴールは、パリ解放からドイツ降伏までのわずかの時間内に、フランス軍の軍事的有用を米英に誇示できるかどうかに戦後フランスの、国際社会における立場がかかっているということを理解していました。ほんとうにこのときのフランスは綱渡りだったのです。ノルマンディー上陸作戦の時点ではド・ゴールの自由フランスの支持基盤は国内のレジスタンスだけでした。それが戦局の推移に伴ってそれ以外のフランス人たちも自由フランスを自分たちの代表として承認する気分になり、最後に米英はじめ世界の政府がド・ゴールの権威を承認せざるを得なくなった。ですから、ド・ゴールが「国を救った」というのはほんとうなのです。対独協力国、事実上の枢軸国がいつのまにか連合国の一員になり、さらに国際社会の重鎮になりおおせていたわけですから、これはド・ゴールの力業という他ありません。

でも、このド・ゴールが力業でフランスの体面を救ったことによって、フランス人は戦争経験の適切な総括を行う機会を奪われてしまった。ほんとうを言えば、ドイツの犯したさまざまな戦争犯罪に加担してきたフランス人たちはもっと「疚しさ」を感じてよかったのです。でも、フランス人は戦勝国民として終戦を迎えてしまった。フランス人は「敗戦を総括する義務」を免除された代わりにもっと始末におえないトラウマを抱え込むことになりました。

イタリアは戦勝国ではないのか

 僕たち日本人はイタリアがどんなふうに終戦を迎えたかについてはほとんど知るところがありません。世界史の授業でもイタリアの敗戦については詳しく教えてもらった記憶がない。教科書で教えてもらえないことは、映画や小説を通じて学ぶわけですけれども、イタリアの終戦時の混乱については、それを主題にした映画や文学も日本ではあまり知られておりません。『無防備都市』(ロベルト・ロッセリーニ監督、一九四五年)にはイタリアのレジスタンスの様子がリアルに描かれていますが、僕が知っているのはそれくらいです。ですから、ナチスと命がけで戦ったイタリア人がいたことや、イタリア人同士で激しい内戦が行われていたという歴史的事実も日本人はあまり知らない。

一九四三年七月に、反ファシスト勢力が結集して、国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ三世が主導して、ムッソリーニを20年にわたる独裁者の地位から引きずり下ろしました。そして、首相に指名されたピエトロ・バドリオ将軍は水面下で連合国と休戦交渉を進めます。その後、監禁されていたムッソリーニをドイツの武装親衛隊が救い出して、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を建て、内戦状態になります。最終的にドイツ軍はイタリア領土内から追い出され、ムッソリーニはパルチザンに捕らえられて、裁判抜きで処刑され、その死体はミラノの広場に逆さ吊りにされました。イタリア王国軍とパルチザンがムッソリーニのファシスト政権に引導を渡し、ドイツ軍を敗走させた。ですから、イタリアは法理的には戦勝国なんです。でも、たぶん「イタリアは戦勝国だ」と思っている日本人はほとんどいない。自分たちと同じ敗戦国だと思っている。

たしかに、戦後イタリアを描いた『自転車泥棒』(ヴィットリオ・デ・シーカ監督、1948年)のような映画を観ると、街は爆撃でひどいことになっているし、人々は食べるものも仕事もなくて、痩せこけている。「ああ、イタリアも日本と同じだ」と思っても不思議はない。でも、違います。イタリアは戦勝国なんです。だいたい、イタリアは一九四五年七月には日本に宣戦布告しているんです。

 フランスとイタリアを比べれば、フランスよりイタリアの方がずっと戦勝国条件が整っている。フランスは先ほど述べたように紙一重で戦勝国陣営に潜り込み、国連の常任理事国になり、核保有国になり、今も世界の大国としてふるまっています。それは一にシャルル・ド・ゴールという卓越した政治的能力を持つ人物が国家存亡のときに登場したからです。ド・ゴールがいて、ルーズベルトやチャーチルと一歩も引かずに交渉したから、フランスは戦勝国「のようなもの」として戦後世界に滑り込むことができた。でも、イタリアにはそんなカリスマ的な人物がいませんでした。戦争指導者であったヴィットリオ・エマヌエーレ三世とバドリオ将軍は、ドイツ軍がローマに侵攻してきたとき、市民を「無防備都市」に残したまま自分たちだけ逃亡してしまった。そのせいでイタリア軍の指揮系統は壊滅しました。戦後の国民投票で国民たちの判断で王政が廃止されたのは、このときの戦争指導部の国民に対する裏切りを国民が許さなかったからです。

フランスとイタリアのどちらも「勝ったんだか負けたんだかよくわからない仕方で戦争が終わった」わけですけれど、フランスにはド・ゴールがいて、イタリアにはいなかった。それが戦後の両国の立ち位置を決めてしまった。

でも、僕はこれを必ずしもフランスにとって幸運なことだったとも、イタリアにとって不幸なことだったとも思わないのです。イタリアは「敗戦国みたいにぼろぼろになった戦勝国」として終戦を迎えました。戦争の現実をありのままに、剥き出しに経験した。戦勝を誇ることもできなかったし、敗戦を否認する必要もなかった。だから、彼らの戦争経験の総括には変なバイアスがかかっていない。

先日、イタリアの合気道家が僕の道場に出稽古に来たことがありました。稽古のあとの歓談のとき、「そういえば君たち、昔、日本に宣戦布告したことがあるでしょう」と訊いてみました。たぶん、そんなこと知らないと思ったんです。意外なことに、彼はすぐに苦笑して、「どうもすみませんでした」と謝るんです。「イタリアって、どさくさまぎれにああいうことをやるんです。フランスが降伏したときにも仏伊国境の土地を併合したし。そういう国なんです。申し訳ない」と。僕は彼のこの対応にびっくりしました。自国の近代史のどちらかというと「汚点」を若いイタリア人が常識として知っているということにまず驚き、それについて下手な言い訳をしないで、さらっと「ごめんね」と謝るところにさらに驚きました。事実は事実としてまっすぐみつめる。非は非として受け容れ、歴史修正主義的な無駄な自己弁護をしない。そのとき僕は「敗戦の否認をしなかった国民」というものがあるとしたら、「こういうふう」になるのかなと思いました。

イタリアは「ほとんど敗戦」という他ないほどの被害を蒙った。内戦と爆撃で都市は傷ついた。行政も軍もがたがたになった。戦死者は30万人に及んだ。でも、その経験を美化もしなかったし、否認もしなかった。「まったくひどい目に遭った。でも、自業自得だ」と受け止めた。だから、戦争経験について否認も抑圧もない。

フランスの場合は、ヴィシーについてはひさしく歴史的研究そのものが抑圧されていました。先ほど名前が出ましたベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』はヴィシーに流れ込む十九世紀二○世紀の極右思想史研究ですが、この本が出るまで戦後四四年の歳月が必要でした。刊行されたときも、保守系メディアはこれに集中攻撃を加えました。「なぜせっかくふさがった『かさぶた』を剥がして、塩を塗り込むようなことをするのか」というのです。それからさらに30年近くが経ちますが、ヴィシー政府の時代にフランスが何をしたのかについての歴史的な研究は進んでいません。

ナチスが占領していた時代のフランス人は何を考え、何を求めて、どうふるまったのか。いろいろな人がおり、いろいろな生き方があったと思います。それについての平明な事実を知ることが現代のフランス人には必要だと僕は思います。ド・ゴールが言うように「自分自身に対して抱く評価」を基礎づけるために。でも、それが十分に出来ているように僕には思えません。フランスの場合は「敗戦の否認」ではなく、対独協力国だったという歴史的事実そのものが否認されている。その意味では、あるいは日本より病が深いかもしれない。


 現在の政治状況と敗戦の総括との関係

 本来なら、ヴィシー政府の政治家や官僚やイデオローグたちの事績を吟味して、「一体、ヴィシーとは何だったのか、なぜフランス人は民主的な手続きを経てこのような独裁制を選択したのか」という問いを徹底的に究明すべきだったと思います。でも、フランス人はこの仕事をネグレクトしました。ヴィシー政府の要人たちに対する裁判もごく短期間のうちに終えてしまった。東京裁判やニュルンベルク裁判のように、戦争犯罪の全貌を明らかにするということを抑制した。ペタン元帥や首相だったピエール・ラヴァルの裁判はわずか一ヶ月で結審して、死刑が宣告されました。裁判は陪審員席からも被告に罵声が飛ぶというヒステリックなもので、真相の解明というにはほど遠かった。この二人に全責任を押しつけることで、それ以外の政治家や官僚たちは事実上免責されました。そして、この「エリートたち」はほぼそのまま第四共和政の官僚層に移行する。

 レヴィによれば、フランスにおいて、ヴィシーについての歴史学的な検証が進まなかった最大の理由は、ヴィシー政府の官僚層が戦後の第四共和政の官僚層を形成しており、彼らの非を細かく咎めてゆくと、第四共和政の行政組織そのものが空洞化するリスクがあったからだということでした。事情を勘案すれば、フランス政府が、国家的選択として対独協力していたわけですから、それをサボタージュした官僚はうっかりするとゲシュタポに捕まって、収容所に送られるリスクがあったわけです。組織ぐるみの対独協力をせざるを得なかった。だから、一罰百戒的に、トップだけに象徴的に死刑宣告を下して、あとは免罪して、戦後の政府機構に取り込むことにした。それは当座の統治システムの維持のためには、しかたなかったのかも知れません。

ですから、ヴィシーについての歴史学的な実証研究が始まるのは、この官僚たちが現役を引退した後になります。一九八〇年代に入って、戦後四〇年が経って、ヴィシー政府の高級官僚たちが退職したり、死んだりして、社会的な影響がなくなった時点ではじめて、最初は海外の研究者たちが海外に流出していたヴィシー政府の行政文書を持ち出して、ヴィシー研究に手を着け始めた。フランス人自身によるヴィシー研究は『フランス・イデオロギー』が最初のものです。戦争が終わって四五年後です。「ヴィシーの否認」は政治的に、意識的に、主体的に遂行された。でも、そのトラウマは別の病態をとって繰り返し回帰してきます。僕はフランスにおける「イスラモフォビア」(イスラーム嫌悪症)はそのような病態の一つではないかと考えています。

 フランスは全人口の一〇%がムスリムです。先日のテロで露呈したように、フランス社会には排外主義的な傾向が歴然と存在します。大戦後も、フランスは一九五〇年代にアルジェリアとベトナムで旧植民地の民族解放運動に直面した時、暴力的な弾圧を以って応じました。結果的には植民地の独立を容認せざるを得なかったのですが、独立運動への弾圧の激しさは、「自由・平等・友愛」という人権と民主主義の「祖国」のふるまいとは思えぬものでした。そんなことを指摘する人はいませんが、これは「ヴィシーの否認」が引き起こしたものではないかと僕は考えています。「対独協力政治を選んだフランス」、「ゲシュタポと協働したフランス」についての十分な総括をしなかったことの帰結ではないか。

もしフランスで終戦時点で自国の近過去の「逸脱」についての痛切な反省がなされていたら、五〇年代におけるフランスのアルジェリアとベトナムでの暴力的な対応はある程度抑止されたのではないかと僕は想像します。フランスはナチス・ドイツの暴力に積極的に加担した国なのだ、少なくともそれに加担しながら反省もせず、処罰も免れた多数の国民を今も抱え込んでいる国なのだということを公式に認めていたら、アルジェリアやベトナムでの事態はもう少し違うかたちのものになっていたのではないか。あれほど多くの人が殺されたり、傷ついたりしないで済んだのではないか。僕はそう考えてしまいます。

 自分の手は「汚れている」という自覚があれば、暴力的な政策を選択するときに、幾分かの「ためらい」があるでしょう。けれども、自分の手は「白い」、自分たちがこれまでふるってきた暴力は全て「正義の暴力」であり、それについて反省や悔悟を全く感じる必要はない、ということが公式の歴史になった国の国民には、そのような「ためらい」が生まれない。フランスにおけるムスリム市民への迫害も、そのような「おのれの暴力性についての無自覚」のせいで抑制が効きにくくなっているのではないでしょうか。

 他の敗戦国はどうでしょう。ハンガリーは最近、急激に右傾化して、排外主義的な傾向が出てきています。タイも久しく穏やかな君主制でいましたけれども、近年はタクシン派と反タクシン派が戦い続けて、国内はしばしば内戦に近い状態を呈しています。スロバキアとかクロアチアとかにもやはり政治的にある種の不安定さを常に感じます。

戦争後は、どの国も「この話はなかったことに」という国民的合意に基づいて「臭いものに蓋」をした。当座はそれでよかったかも知れません。でも、蓋の下では、抑圧された国民的な「恥辱」や「怨嗟」がいつまでも血を流し、腐臭を発している。だから、ハンガリーの現在の政治状況や、タイの現在の政治状況が、それぞれの国の敗戦経験の総括と全く無関係かどうかということは、かなり精密な検証をしてみないとわからない。そこには何らかの「関連がある」という仮説を立てて検証をしてみてよいのではないか。してみるだけの甲斐はあると僕は思います。


 ドイツ統合は敗戦の否認か

 戦争の記憶を改竄することによって、敗戦国民は当座の心の安らぎは手に入れることができるかも知れません。でも、そこで手に入れた「不当利得」はどこかで返済しなければならない。いずれ必ず後でしっぺ返しが来る。世界の敗戦国を一瞥すると、どこも七〇年かけて、ゆっくりと、でも確実に「記憶の改竄」のツケを支払わされている。『永続敗戦論』が明らかにしたように、日本も敗戦の否認のツケを払わされている。そして、この返済はエンドレスなんです。「負債がある」という事実を認めない限り、その負債を割賦でいいから返して行かない限り、この「負債」は全く別の様態をとって、日本人を責め続ける。

 「ドイツは敗戦経験の総括に成功した」と多くの人が言います。でも、本当にそうなんでしょうか。僕は簡単には諾うことができません。東ドイツのことを勘定に入れ忘れているような気がするからです。

東ドイツは「戦勝国」なんです。東ドイツはナチスと戦い続けたコミュニストが戦争に勝利して建国した国だという話になっている。だから、東ドイツ国民はナチスの戦争犯罪に何の責任も感じていない。感じることを国策的に禁止されていた。責任なんか感じてるはずがない。自分たちこそナチスの被害者であり、敵対者だということになっているんですから。悪虐非道なるナチスと戦って、それを破り、ドイツ国民をナチスの軛から解放した人々が、何が悲しくて、ナチスの戦争犯罪について他国民に謝罪しなければならないのか。

 一九九〇年に合併した当時、西ドイツと東ドイツとは人口比でいうと四対一でした。ということは、その時点では、全ドイツ人口の二〇%、一六○○万人は「自分たちはナチスドイツの戦争犯罪に何の責任もない」と子供のころからずっと教えられてきた人たちだったということです。それが合併後のドイツの国民的自意識にどういう影響を与えたのか。僕は寡聞にして知りません。

 日本国内に「日本軍国主義者の戦争犯罪について、われわれには何の責任もない。われわれは彼らと戦って、日本を解放したのである」と教えられて来た人が二四○○万人いる状況を想定してください。そう信じている「同胞」を受け容れ、戦争経験について国民的規模での総括を行い、合意を形成するという作業がどれほど困難であるか、想像がつくと思います。さて、果たして、ドイツでは東西ドイツが合併した時に、戦争経験の総括について、国民的合意を形成し得たのか。僕は「ドイツはこんな風に合意形成を成し遂げました」と納得のゆく説明をしたものをこれまで読んだことがありません。いや、それは僕がただ知らないでだけで、そういう「全く相容れない戦争経験総括を一つにまとめあげたドイツの素晴らしい政治的達成」については既に色々な報告や研究が出ているのかも知れません。でも、そうだとしたら、それこそ「国民的和解」の最良のモデルケースであるわけですから、国内的な対立を抱える様々な国について、何かあるごとに、「ここでも『和解のためのドイツ・モデル』を適用すべきではないか」ということが言及されてよいはずです。でも、僕はそのような「和解モデル」について聞いたことがない。

 ドイツの戦争総括の適切さを語るときに、よくヴァイツゼッカー元大統領の演説が引かれます。この人はヨーロッパの諸国を訪れては、そのつどきちんとナチス・ドイツ時代の戦争犯罪について謝罪しています。その倫理性的な潔さは疑うべくもありません。けれども、やはり日本とは話の運びが微妙に違う。ヴァイツゼッカーは五月四日、ドイツが連合国に無条件降伏した日を「ドイツ国民解放の日」と言っているからです。われわれはナチスの暴虐からその日に解放されたのである、それをことほぐという立場を取る。悪いのはあくまでナチスとその軍事組織や官僚組織や秘密警察組織であって、ドイツ国民はその犠牲者であったという立場は譲らない。ドイツ国民の罪はナチスのような政党を支持し、全権を委ねてしまったことにある。そのような過ちを犯したことは認めるけれども、基本的にはドイツ国民もまたナチスの被害者であり、敗戦によってナチスの軛から解放されたという物語になっている。

 日本人にも敗戦が一種の解放感をもたらしたということは事実だったでしょう。けれども、八月一五日を「解放の日」だと言う人はほとんどいません。表だってそう発言するのは、かなり勇気が要る。けれども、実感としては、それに近いことを思っていた日本人は少なくなかったと思います。

 小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(松竹、一九六二年)の中で、笠智衆の演じる今はサラリーマンをしている駆逐艦の元艦長平山と、加東大介の演じるかつての駆逐艦の乗組員坂本が、町なかでばったり出会うという場面があります。坂本が平山を誘って、トリスバーのカウンターに座ってウィスキーを飲む。この時に坂本が「ねえ、艦長、もしあの戦争に勝っていたらどうなったんでしょうね」と問う。平山は静かに笑いながら、「負けてよかったじゃないか」と答える。そうすると、坂本は「え?」と一瞬怪訝な顔をするのですが、ふと得心したらしく、「そうかもしれねえな。ばかなやつが威張らなくなっただけでもね」と呟く。これは敗戦がもたらした解放感についての、あの世代の偽らざる実感だったんじゃないかなと思います。

 僕は一九五〇年生まれで、父はもちろん戦中派なのですが、僕が小さい頃に、父が会社の同僚を家に連れてきて飲んでいるときに誰かが「負けてよかったじゃないか」と呟くのを僕は二三度聞いたことがあります。特に力んで主張するというのではなく、何かの弾みにぽろりと口にされる。そして、その言葉が口にされると、男たちは皆黙り込む。それで怒り出す人もいないし、泣き出す人もいない。それは思想とは言えないものでした。敗戦の総括としてはあまりに言葉が足りない。けれども、おそらくこれが戦中派の実感だったと思います。それが世代的な実感として、言挙げしないでも共有されている限り、そのような敗戦の総括もそれなりのリアリティーを持ち得た。けれども、そういう片言隻句だけでは、彼らの思いが輪郭のしっかりした思想として次の世代に継承されることはありません。


 恥ずべき過去も含んだタフな物語

 白井さんの本を読んでいると、日本は異常な仕方で敗戦を否認してきたことがわかる。これは全くその通りなんですけれども、それだけでなく、多くの敗戦国はそれぞれ固有の仕方で自国の敗戦を否認している。僕にはそう思われます。

それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


 歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

 カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

ノモンハンを書こうとした作家がもう一人います。村上春樹です。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 一九九四〜九五年)で村上春樹はノモンハンについて書いています。でも、なぜノモンハンなのか。その問いに村上は答えていない。何だか分からないけれども、急に書きたくなったという感じです。でも、ノモンハンのことを書かないと日本人の作家の仕事は終わらないと直感したというところに、この人が世界作家になる理由があると僕は思います。日本人にとっての「タフな物語」の必要性を村上春樹も感じている。それが今の日本に緊急に必要なものであるということをよくわかっている。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。日本の左翼知識人には、あまりアメリカに学ぶ人はいません。親米派の学者たちも、よく見ると、まったくアメリカに学ぶ気はない。アメリカに存在する実定的な制度を模倣することには熱心ですけれど、なぜアメリカは強国たりえたのかについて根源的に考えるということには全く興味を示さない。アメリカの諸制度の導入にあれほど熱心な政治家も官僚も、アメリカにあって日本に欠けているものとしてまずカウンターカルチャーを挙げる人はいません。連邦制を挙げる人もいない。でも、アメリカの歴史的成功の理由はまさに「一枚岩になれないように制度を作り込んだ」という点にあるのです。でも、日本のアメリカ模倣者たちは、それだけは決して真似しようとしない。

 ほかにもいろいろ言いたいことはありますけれど、すでに時間を大分超えてしまったので、この辺で終わります。ご静聴ありがとうございました。

【Q&A】


ナラティブの力

姜 今日のお話を聞いていて、どういう「物語」をつくるかということが最大のポリティクスになっている気がします。内田さんの比較敗戦論は、我々のパースペクティブを広げてくれました。韓国や中国では日本例外論、単純にドイツと日本を比較して日本はだめなんだ、だから我々は日本を半永久に批判していい、そういう理屈立てになりがちです。そのときに内田さんの比較敗戦論をもちいてみると、我々のブラインドスポットになっている部分がよく見えてくる。解放の物語の自己欺瞞みたいなところも見えてくる。ところが、安倍さんのような人が出てくると、逆に、かつて自分たちが植民地であった、侵略をされた国は、ますます解放の物語を検証することをやらなくて済んでしまいますね。

内田 イージーな物語に対してイージーな物語で対抗すれば、どちらもどんどんシンプルでイージーな話に落ち込んでしまう。実際の歴史的な事件は「善玉と悪玉が戦っている」というようなシンプルな話ではないんです。さまざまな人たちが複雑な利害関係の中でわかりにく行動を取っている。うっかりすると、本人たち自身、自分たちがどういう動機で行動しているのか、いかなる歴史的な役割を果しているのか、わかっていないということだってある。それが歴史の実相だろうと思います。ですから、それをありのままに淡々と記述していく。軽々には評価を下さない。わかりやすいストーリーラインに落とし込むという誘惑にできる限り抵抗する。そういう歴史に対する自制心が非常に大事になると思います。

 こういう仕事においては、歴史を叙述するときの語り口、ナラティブの力というのが大きいと思うんです。最近、読んだ本の中でフィリップ・ロスの小説『プロット・アゲンスト・アメリカ──もしもアメリカが...』(柴田元幸・訳、集英社、二〇一四年)がとても面白かった。これは一九四〇年の米大統領選挙でルーズベルトではなく、共和党から出馬した大西洋単独飛行の英雄チャールズ・リンドバーグ大佐がヨーロッパでの戦争への不干渉を掲げて勝利してしまうという近過去SFなんです。現実でも、リンドバーグは親独的立場で知られていて、ゲーリングから勲章を授与されてもいます。ロスの小説では、アメリカに親独派政権が誕生して、ドイツと米独不可侵条約を、日本とは日米不可侵条約を結ぶ。そして、アメリカ国内では激しいユダヤ人弾圧が起きる・・・という話です。

 僕はナラティブというのは、こういうSF的想像力の使い方も含むと思います。もし、あのときにこうなっていたらというのは、ほんとうに大事な想像力の使い方だと思う。

フィリップ・K・ディックの『高い城の男』(浅倉久志・新訳 早川書房、原著一九六二年)というSFがあります。これは枢軸国が連合国に勝った世界の話です。日独がアメリカを占領している。東海岸がドイツ占領地で、ロッキー山脈から西側が日本の占領地。そういう場合に、日本人はアメリカをどういうふうに植民地的に統治するのか、それを考えるのは実は非常に大事な思考訓練なんです。実際に日本がアメリカ西部を安定的に統治しようとしたら、日本の価値観とか美意識とか規範意識を「よいものだ」と思って、自発的に「対日協力」をしようと思うアメリカ人を集団的に創り出すしかない。ドイツがフランスでやったのはそういうことでした。でも、日本の戦争指導部にそのようなアイディアがあったと僕は思いません。

アメリカの方は、日本に勝った後にどうやって占領するかの計画を早々と立案していた。日本人のものの考え方とか組織の作り方とかを戦時中に民族学者に委託して研究しています。卓越した日本人論として今も読み継がれている『菊と刀』はルーズベルトが設置した戦争情報局の日本班のチーフだったルース・ベネディクトが出した調査報告書です。日本社会を科学的に研究して、どういう占領政策が適切かを戦争が終わる前にもう策定していた。

果たして日本の大本営にアメリカに勝った後、どうやってアメリカを統治するか、何らかのプランがあったでしょうか。どうやって対日協力者のネットワークを政治家や学者やジャーナリストやビジネスマンの中に組織するかというようなことをまじめに研究していた部門なんか日本の軍部のどこにも存在しなかったと思います。戦争に勝ったらどうするのかについて何の計画もないままに戦争を始めたんです。そんな戦争に勝てるはずがない。

 僕のSF的妄想は、一九四二年のミッドウェー海戦の敗北で、これはもう勝てないなと思い切って、停戦交渉を始めたらどうなったかというものです。史実でも、実際に、当時の木戸幸一内大臣と吉田茂たちは、すでに講和のための活動を始めています。近衛文麿をヨーロッパの中立国に送って、連合国との講和条件を話し合わせようという計画があった。もし、この工作が奏功して、四二年か四三年の段階で日本が連合国との休戦交渉に入っていれば、それからあとの日本の国のかたちはずいぶん違ったものになっただろうと思います。

ミッドウェー海戦で、帝国海軍は主力を失って、あとはもう組織的抵抗ができない状態でした。戦い続ければ、ただ死傷者を増やすだけしか選択肢がなかったのに、「攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち」というような、まったく非科学的な軍事思想に駆動されていたせいで、停戦交渉という発想そのものが抑圧された。

この時点で戦争を止めていれば、本土空襲もなかったし、沖縄戦もなかったし、原爆投下もなかった。300万人の死者のうち、95%は死なずに済んだ。民間人の死傷者はほぼゼロで済んだはずです。ミッドウェーは日本軍の歴史的敗北でしたけれど、死者は3000人に過ぎません。ほとんどの戦死者(実際には戦病死者と餓死者でしたが)はその後の絶望的、自滅的な戦闘の中で死んだのです。

空襲が始まる前に停戦していれば、日本の古い街並みは、江戸時代からのものも、そのまま手つかずで今も残っていたでしょう。満州と朝鮮半島と台湾と南方諸島の植民地は失ったでしょうけれど、沖縄も北方四島も日本領土に残され、外国軍に占領されることもなかった。四二年時点で、日本国内に停戦を主導できる勢力が育っていれば、戦争には負けたでしょうけれど、日本人は自分の手で敗戦経験の総括を行うことができた。なぜこのような勝ち目のない戦争に突っ込んで行ったのか、どこに組織的瑕疵があったのか、どのような情報を入力し忘れていたのか、どのような状況判断ミスがあったのか、それを自力で検証することができた。戦争責任の徹底追及を占領軍によってではなく、日本人自身の手で行えた可能性はあった。日本人が自分たちの手で戦争責任を追及し、戦争責任の追及を行い、憲法を改定して、戦後の日本の統治システムを日本人が知恵を絞って作り上げることは可能だった。

「もしミッドウェーのあとに戦争が終わっていたら、その後の戦後日本はどんな国になったのか」というようなSF的想像はとてもたいせつなものだと僕は思います。これはフィクションの仕事です。小説や映画やマンガが担う仕事です。政治学者や歴史学者はそういう想像はしません。でも、「そうなったかもしれない日本」を想像することは、自分たちがどんな失敗を犯したのかを知るためには実はきわめて有用な手立てではないかと僕は思っています。「アメリカの属国になっていなかった日本」、それが僕たちがこれからあるべき日本の社会システムを構想するときに参照すべき最も有用なモデルだと思います。

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