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論語と儒教は無関係である
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/305.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 25 日 18:04:05: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中国人に愛国心や公共心が完全にゼロな理由 _ 中国人は宗族から宗族の利益になる様な悪事をやる事を毎日強要されている 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 05 日 07:22:24)


論語と儒教は無関係である


特別番組「なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか」
石平 倉山満【チャンネルくらら・3月16日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=97lnyaSszUs


特別番組「孔子の教えを最も実践している国は?〜なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか」
石平 倉山満【チャンネルくらら・3月23日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=CjciO6zwxJY


____

なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心 (PHP新書) – 2019/3/16
石平 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%AB%96%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%96%84%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB%E3%80%81%E5%84%92%E6%95%99%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%82%AA%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E4%B8%AD%E9%9F%93%E3%80%8C%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%BF%83-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9F%B3%E5%B9%B3/dp/4569842771


内容紹介

論語はすなわち儒教のことである――日本人の多くにとっての「常識」であろう。ところが、実はそうではない。

子供のころ、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。

実際の孔子は「聖人」であったのか?なぜ『論語』は絶対に読むべきなのか?
御用教学・儒教の成立と悪用される孔子、朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、
なんと「論語は儒教ではない」というものだった。

曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書。


目次:
序章 私の『論語』体験と、私が見た「儒教の残酷さ」
第1章 定説や通念を覆す──孔子とは何者か、『論語』とは何か
第2章 御用教学・儒教の成立と悪用される孔子
第3章 朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇
第4章 朱子学を捨て、『論語』に「愛」を求めた日本
最終章『論語』はこう読もう

論語はすなわち儒教のことである―日本人の多くにとっての「常識」であろう。ところが、実はそうではない。子供のころ、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。実際の孔子は「聖人」であったのか?なぜ『論語』は絶対に読むべきなのか?御用教学・儒教の成立と悪用される孔子、朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、なんと「論語は儒教ではない」というものだった。曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書。


____

waka
論語と儒教は無関係である 2019年3月19日


著者の石平氏は、文化大革命の最中だった幼少時代、祖父から毎日「論語」の言葉を何百回も書き写しさせられた。当時、中国では、孔子の思想は徹底的に糾弾され、発覚したら命すら危ないくらいだったが、漢方医だった祖父は医術伝授の前段階の基礎教育として「仁術」を身に着けさせるために、「論語」の言葉を教えたのだった。これが石平氏と「論語」との出会いだった。

その後、石平氏は北京大学生だった時、「節婦」と「烈婦」の存在を友人から聞かされて激しい衝撃を受ける。礼教(南宋時代以来の新儒教)が支配する明朝や清朝の時代、女性が結婚して夫に先立たれた場合、再婚が許されなかった。跡継ぎの息子がいる場合、嫁ぎ先の家に残って子供を育て上げなければならない。それが「節婦」である。跡継ぎがいない場合、未亡人は殉死を強要される。それが「烈婦」である。そんな残酷なことが、明清時代の500年以上に渡って中国全国のあちこちで起きていたと思うと、憤慨を覚えざるを得なかった。そして「礼教殺人」と言う言葉が戦慄するほどのリアリティーを持つようになったという。

同時に、一つの大きな葛藤を抱えることになった。礼教は儒教の一種であり、「論語」は儒教の始祖だと言われている。だとすれば、「論語」と孔子の思想は、儒教・礼教と当然繋がっており、共通した理想理念があるはずなのに、石氏が教わった「論語」の言葉の数々には、礼教の「殺人思想」と繋がるような要素は何一つなかった。
孔子が「論語」の中で語っているのは「愛」や「恕(思いやりの心)」や、親の気持ちを大事にする意味での「孝」といった人間的暖かみのあるもので、礼教の残酷さはない。「論語」と礼教の間には、何の共通点もないはずである。「論語」が語る「礼」と、後世の礼教が重んじる「礼」とは、本質的に別々のものではないのかと思ったのである。

「論語」と礼教とは、やはり別のものであると石氏が確信するに至ったのは、日本に来てからだった。留学の保証人になってもらった日本人の家を訪問した時、夫人が極めて礼儀正しく丁重に迎え入れてくれ、石氏は思わず感涙をこぼしたほどだった。文化大革命が吹き荒れた時代の中国では、「礼」の具体的な形を見たことは一度もなかったという。
更に数年後、大学院でフランスの近代社会学者デュルケームの「社会儀礼論」を学んでいた時、石氏が「さすがにフランスの社会学者ですね」と言ったところ、指導教官から「何を言っているのか。最初に考えたのは君の祖先だよ」と言って、「論語」の一文を出してきた。石氏はこれにより、「論語」の奥深さと「論語」の語る「礼」の本質について理解ができたという。

中国伝統の礼教と礼教の作り出した社会は、心の暖かい「礼」と「和」とは無縁な世界であり、過酷さと残忍さを基調とする世界だった。「論語」の精神と考えは、後世の中国伝統の礼教とはまったく正反対のものである。

「論語」と儒教は無関係である。このような視点は、学問上の定説および歴史上の一般的な通念とは相反している。石氏はこれまで数十年に渡って、この問題意識を念頭に置き、「論語」関係、儒教関係の学術書や文献を読んで、探求を深めてきた。そして最近やっと自信を持って、「論語」と儒教を同一視するこれまでの学術上の定説と歴史上の通念は間違っていると堂々と言えるようになった。

「論語」の精神と考えには、普遍的な価値のあるものが多く含まれているので、「論語」は大いに読まれるべきである。しかし、儒教とは過去からの負の遺産であり、廃棄物として捨てておくべきものであると、石氏は主張する。

儒教と礼教が支配していた中国と朝鮮でも、いわゆる読書人階層は「論語」を一応は読んでいたはずだが、彼らは「論語」の心を理解しようとせず、「論語」の精神を実践に移すこともなかった。結局、中国と朝鮮が儒教と朱子学によって支配されたのに対し、日本人は昔から自分たちの好みで「論語」を愛読し、「論語」の精神を心得ている。そして、まさにその重要な違いから、日本人と中国人・韓国人との「道徳格差」が生じてきたのだろうと述べている。
 

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コメント
1. 中川隆[-11162] koaQ7Jey 2019年3月27日 07:38:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[853] 報告
つるりん
『論語』・孔子と「儒教・儒学」は全くの別物 2019年3月21日


本書は、毛沢東の文化大革命の嵐が吹き荒れる中での
石平少年の経験談から始まるのだが、これが非常に興味深く
引き込まれるように読んだ

第1章で、孔子と『論語』について解説している

著者である石平氏によると
「孔子は、巷間言われているような「聖人」ではなく
単なる「常識人」で、たまには弟子に嫉妬したり、癇癪を起こしたりするような「普通のオッサン」」であり
「『論語』は、人々が豊かで幸福な人生を送るための助言が綴られた『常識の書』」とのことだ

私は、石平氏の見解に深く首肯すると共に
「孔子というのは、「常識の達人」だ」との感想を持った

さて、第2章以降では、いよいよ「儒教・儒学」に関する考察が始まるのだが
私の恥を晒すと、「儒教・儒学」などに対して興味も無かったことから
「「儒教・儒学」の始祖は孔子で、その根本規範となったのが『論語』という通説を無批判に信じていた

「儒教・儒学」とは、「もともと漢王朝の時代に皇帝の権威を確立するために
知識人によって、でっち上げられたもの」、なのだそうだ

その辺りのことが第2章で詳述されている

第3章では「朱子学・礼教」が詳しく解説されているが
その悪辣さは半端ではない

人民に対する支配を強めるために、「常に理性的であり、欲望を滅することを強要」する
女性に対しては、「自決」という名の下に、殺してしまうことを容認、強制している

最終章では、『論語』の読み方を指南してくれているが
伊藤仁斎が『論語』から見出した「愛」の概念や
「専門馬鹿になってはいけない」など興味深い話が満載で
『論語』を読みたくなってくる

実は『論語』は蔵書の中にあるし、読破済みなのだが
もう一度、読んでみようと思う

本書だけでも、満足感で一杯なのだが
できれば、昨年出版された

『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史 (PHP新書)』
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%8C%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%91%AA%E7%B8%9B%E3%81%8B%E3%82%89%E9%80%83%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%80%8C%E8%84%B1%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9F%B3-%E5%B9%B3/dp/456983745X


と併せて読むことをお勧めしたい

2. 中川隆[-11253] koaQ7Jey 2019年11月03日 11:57:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1641] 報告


東海アマブログ 儒教国は見栄とメンツだけで成立している。中身は空っぽ、本当に何もない…… 2019年11月01日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-922.html

 世界の儒教国は、創始国である中国を中核に、朝鮮(韓国)・日本・ベトナムであるといわれる。厳密にい言えば、儒教文化の影響は、さらに周辺国であるモンゴルや、インドシナ半島にまで広がっているのだが、それらには、共通した文化と価値観がある。

 これらの国の価値観は、「権力の体裁」を第一義に掲げる。中身なんか、どうでもいいから、まずは格好をつけるので、儒教国では「門」を大切にする。これは、訪問者に対して、国家のコケオドシを示す関門である。

 北京天安門・南京中華門・ソウル南大門・ハノイ東河門、沖縄の守礼門も琉球王国が冊封国家だった時代の名残だ。

 日本でも、たくさんの門文化が残されている。広義の意味では、浅草寺の宝蔵門もそうだし、皇居の大手門、桜田門なんかも同じだ。

 日本全国、少しでも「格式」を重んじる施設や役宅には、必ず立派な門を作ることになっている。

 これは、江戸時代初期に家康によって儒教朱子学が導入され、国家権力への服従を洗脳するために全国に広められたことで、「門の文化」が拡大したのだ。

 外国で、この種の儒教文化に似た門といえば、フランス・イタリアの凱旋門くらいで、他の諸国では、ほとんど見かけない。
 エトアール凱旋門は、ナポレオンがローマ帝国の復活を夢見て、その権威を模倣して作らせたものだ。

 ローマ帝国では、他国を侵略して領土を拡張する戦争に勝利することを権威づけるために、たくさんの凱旋門を建設した。
 侵略と領土拡張が国是だった時代の産物である。これも、儒教国と同じで「国家の威信=コケオドシ」を見物人に思い知らせるための仕掛けにすぎない。

 こうした独裁国家の権力者は、自分にどれくらい権力が集中しているかを見せたがるので、中央集権的な発想が、都市の文化にちりばめられるのだ。

 この種の古代中央集権都市の場合、必ず、王宮から放射状に地方に向かう道が作られ、「すべての道はパリに通ず=ローマに通ず」といった、いわば蜘蛛の巣に似た、都市空間としては、合理性に欠けた使いにくい市街地道路が成立するのが特徴である。

以下はパリ中心部
 
kodaitosi1.jpg

ローマ中心部
 kodaitosi2.jpg


 秦は BC200年代に成立した統一中華王朝だが、全国制覇のための巨大インフラ=馳道も、中央集権国家の特徴としての蜘蛛の巣道路になっている。
 kodaitosi3.jpg


 これは現代のソウル地図だが、古代のパリ・ローマ・秦の都市道路と実に似ている。市街地も統一性がなく、乱雑で分かりにくく、ネットで検索しても、良い古代地図が出てこない。おそらく記録文化も未熟だったのだろう。
 
kodaitosi8.jpg

これに対して、中央集権思想ではなかった古代都市、例えば、京都=平安京はどうか?

 kodaitosi5.jpg

 以下は古代奈良=平城京の地図
 
kodaitosi6.jpg


 実に合理的な、使いやすい道路で、方向さえ間違えず、距離感覚があれば、誰でも間違えずに市街地を自由に通行することができるという点で、パリやローマ、ソウルとはエライ違いだ。

 こんな分かりやすい都市の生産性が、蜘蛛の巣都市に比べて、どれくらい高いか、誰でも容易に想像することができるだろう。

 権力の見栄とメンツを全面に押し出した儒教思想の都市は、実に使いにくそうだが、民衆の幸福を前提に考えられた仏教思想の都市は、まるで正反対に使いやすそうだ。

 平安京・平城京は、1400年くらい前に作られているが、もう、この頃から、「日本の日本らしさ」が成立していて、現代に繋がっていると考えるべきだ。

 このモデルがあったから、日本中の都市も、碁盤型の使いやすい市街地になっている場合が多い。

 以下は、茶人武将、金森長近が建設した高山市の旧市街図
 京都市街地構成の影響を強く受けている。この種の使いやすい古都市は、ほとんど現代に至っても繁栄が継続している。
 
 kodaitosi7.jpg

 だいたい、古代都市の市街地設計思想を見れば、その国家の行く末まで想像がつくのだが、ここでは、儒教を国是に選んだ朝鮮半島では、こうした見栄とメンツしかない中央集権思想の行き着く先として、悲劇的な事態がたくさん生まれている。
 その最大のものが、南北分断で、名曲イムジン河に歌われている通りなのだが、フォークルがこの素晴らしい歌を紹介しようとしたら、在日韓国人が、さんざん儒教的イチャモンをつけて、結局、長い間、お蔵入りになってしまった。
 https://www.youtube.com/watch?v=1-eJDL3zLCQ

 実は、私が今日、どうしても書きたかったことは、以下の問題である。

 韓国古里原発1号機、廃炉は決まったけれど解体技術・設備・廃棄物処理場はなかった (朝鮮日報)
 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/10/31/2019103180083.html

 まあ、簡単にいえば、儒教国らしく、「国家の見栄とメンツ」に執着するあまり、「トイレなきマンション」を建設してしまい、ウンコを処理する場所がなくて困っているという問題を、とうとう、これまで隠し続けてきた朝鮮日報が記事にするようになった。

 「解体技術・廃棄物処理施設や技術がない」どころの騒ぎではない。韓国の原発は、我々の想像を超えた恐ろしい欠陥に満ちていて、崩落したソウル聖水大橋や三豊デパートと、まるで同じ、手抜きと、技術不足、劣化のカタマリであって、いつフクイチのような巨大放射能事故を起こすか分からない。
 むしろ時間の問題というべきである。

 韓国、古里原発の現状
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-712.html

 5月10日、メルトダウン寸前だった韓国・霊光原発
 http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-date-20190522.html

 http://tokaiama.blog69.fc2.com/?mode=m&no=582&photo=true

 おまけに、韓国の原発群は、大半が日本海沿岸に設置されていて、事故を起こして放射能が放出されると、韓半島ではなく、日本列島を放射能が直撃するように配置されているのである。

 これは、おそらく原発立地時の政治判断として、韓半島東岸に設置すれば、季節風の風向きから、韓半島は被害を免れて、日本が汚染されることを前提に計画されたのだろう。韓国の凄まじい反日洗脳ぶりを見れば、そうした思考回路が容易に分かる。

 上のブログに書いたように、ハンビッ原発の加圧式原子炉建屋の凄まじい欠陥ぶりをみる限り、韓国原子力産業には、まともなコンクリート施工能力が元々存在しなかったのである。

 ただ「自分たちは優れている」と見栄を張りたくて、無知と未熟に満ちたデタラメ原発を建設してしまったのだ。

 その結果として、パラオのKBブリッジ崩落事件や、ラオスのダム崩壊災害を引き起こしている。
 https://matome.naver.jp/odai/2142750855049583301

 https://news.yahoo.co.jp/byline/dandoyasuharu/20190601-00128245/

 これらは、いずれも、国際入札で、鹿島建設の半額の工事費と期間を提示しながら、まともな建設能力がなかったために、崩壊を引き起こしたが、建設主体の韓国企業=SOCIO社は、聖水大橋工事と同系列だったが、事故後は故意に倒産させて賠償責任を逃げてしまっている。

 後に、日本がODA友好資金から橋を架け直したのだが、鹿島建設は、残された基礎コンクリートの粗悪さに驚き、まず、これを撤去し、基礎杭から作り直さねばならなかったと語っている。

 こうした、韓国企業の一連の事故を総括してみれば、その根幹に、儒教思想による「見栄とメンツ」だけの価値観が存在していて、物事を真面目に貫徹することなどに関心はなく、自尊心を満足させることだけが価値観の第一義になっている思想が明らかである。

 儒教というのは、ウソで固めた権力の装飾なのだが、実は、日本国自体が儒教の強い影響にあり、やはり国家権力のコケオドシばかり大切にする思想に満ちている。

 このために、日本自体が、原発を運営する実力もなく、廃棄物を処理できる技術もなく、安全に運営する設備も作らないまま、2011年の凄まじい原発巨大事故を引き起こしてしまった。

 韓国を嗤いたくとも嗤えないどころか、日本の儒教思想が、安倍晋三や竹中平蔵によって愚かな消費増税を行うことで日本国民を困窮させ、国家の滅亡さえ引き起こそうとしている現実に、我々は気づくべきである。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-922.html

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