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コーカソイドだった黄河文明人が他民族の女をレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/306.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 25 日 18:27:25: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 宮脇淳子 皇帝たちの中国  投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 05 日 14:23:05)


コーカソイドだった黄河文明人が他民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫が漢民族

皇帝たちの中国 第1回 「中国人はどこから来たのか」宮脇淳子 田沼隆志【チャンネルくらら】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=3aMilIlLcgQ&list=PLIL3IzoDnZkg6QBLzdm8ajRllsfHlK-PX


黄河文明人 Y-DNA「O2」(旧「O3」) は元々はメソポタミアに居た麦作牧畜が生業のコーカソイド。

黄河周辺のモンゴロイド民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫がモンゴロイド化した漢民族。


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日本人のガラパゴス的民族性の起源

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。

同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。


  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。

明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2.htm


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秦始皇帝の皇子と皇妃か=肖像を復元、きさきには東アジア系と異なる特徴も
配信日時:2018年7月18日
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html

秦始皇帝の皇子ときさきか=肖像を復元、きさきには非アジア系の特徴


秦・始皇帝(在位:紀元前259年〜同210年)の皇子と皇妃との可能性が高い男女の肖像が復元された。


中国メディアの参考消息などによると、陝西省西安市にキャンパスを置く西北大学信息科学与技術学院が開発したソフトウェアを用いて、秦・始皇帝(在位:紀元前259年〜同210年)の皇子と妃(きさき)と見られる男女の肖像が復元された。

始皇帝陵から出土した人骨に基づき、生前の肖像を復元した。女性の骨格は複数人分があったが、身分が高いと思われる女性の肖像を復元した。研究者らは始皇帝の妃の一人である可能性が高いと考えている。女性は20歳前後で、殺害されたと分かった。始皇帝の死に伴い、殉死させられたと見られている。

復元された女性は、目が大きく鼻筋もくっきりとしている。そのため、東アジア人ではない中央アジアまたはコーカソイド系(欧州人)の血が流れている可能性があるとの見方が出ている。

中央アジアでは古くから、コーカソイド系の人々が多く暮らしてきた。現在のウイグルなど多くの民族にもコーカソイド系の血が入っているとされる。また、新疆ウイグル自治区の楼蘭で発見された、紀元前19世紀ごろのものとされる女性のミイラもコーカソイド系の血が入っていたことが分かっている。始皇帝の妃の一人が、コーカソイド系だったとすれば、紀元前に中国の中心部にさらに近い地点にも、コーカソイド系の人々が存在していたことになる。

また、始皇帝の妃だったとすれば、同女性が当時「美女」と評価されていたことは、まず間違いないだろう。とすれば、コーカソイド系をほうふつさせる女性の容貌は、当時の人々の女性に対する審美眼を知る参考にもなりうるはずだ。

肖像が復元されたもう一人の男性は死亡当時30歳前後で、陶器、玉器、絹、青銅の剣、銀器、金など副葬品が大量に発見されたことから、身分が極めて高かったと見られている。しかし男性の上腕骨には矢じりが食い込んでおり、頭部や四肢が切断されていたことが分かった。そのため、男性は始皇帝の皇子など宮室の一員であり、始皇帝の死の直後に発生した大規模な粛清の中で殺害されたと考える研究者もいる。

用いられたソフトウェアは、ディープラーニングの手法を用いて解剖学上のデータを大量に学習して能力を蓄積し、骨格から肖像を復元する。頭髪や目の色などは推測するしかないが、西北大学信息科学与技術学院の李康准教授によると、肖像の復元について厳格な確認を繰り返しており信頼性は高い。すでに警察が犯罪捜査のために広く利用しているという。
https://www.recordchina.co.jp/b625867-s0-c30-d0142.html

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西周の滅亡と秦の正体 2012年4月30日 (月)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html

 戎は通常西方の異民族を意味します。西周は魯や斉に命じて東夷・淮夷(日本人やベトナム人の祖先)を征伐して東方に領土を広げ、晋に命じて北方の遊牧民(匈奴・モンゴル人の祖先)を征伐して北方に領土を広げ、鄭に命じて南方のジャングルを開発させていました。


 西方侵略には周王が直接あたっていたらしいことが詩経の小雅からは窺われます。ここで周が対峙していたのは、西域のオアシス都市で、民族はトルコ系、もしくはインダス文明から流れてきたインド・ヨーロッパ語族でしょう。戎車とはペルシャやメソポタミアの珍しい馬車のことではないでしょうか。今で言えばロールスロイスやランボルギーに乗るような感覚だったのだと思います。

 西周の強さは、西方との貿易にあったのではないでしょうか。

 西周は犬戎に滅ぼされたことになっています。そして犬戎は北方の異民族とされています。しかし晋は西周が滅んだ後も北方の遊牧民に対して攻勢を維持しており、西周が滅びたのは北方の守りが崩れたのが原因ではないと私は思います。

 西周の首都鎬京が陥落したのは、幽王が寵姫の褒姒を喜ばせるために狼煙を上げすぎて、肝心なときに助けが来てくれなかったためと説話ではなっています。幽王は無表情な褒姒を何とか笑わせたいと思っていました。ある日敵襲来の狼煙を上げると、首都周辺の諸侯が慌てふためきながら王宮に集まりました。しかし後から誤報とわかり、諸侯はがっかりして領地に戻りました、この有様を見て褒姒が笑ったので、味をしめた幽王は虚報の狼煙を上げるようになったというのです。狼少年と同じです。

 狼煙というのは天気が良くて見通しがよい地域で発達した通信手段で、砂漠でよく使われていましたので、西周に直属していたのは砂漠のオアシス都市なのではないでしょうか。

 西周が滅びた跡地には秦が進出します。秦は最終的に中国を統一しました。秦という国も起源が不明で、春秋時代の中期から突如として登場します。登場したときには西方に広大な領土を既に持った大国でした。

 私が考えるに、西周を滅ぼしたのは秦であり、秦は西周の直轄地を丸々継承したのではないでしょうか。

 秦は西周が滅びたときに、逃亡した平王を助けたことで諸侯に任じられるのですが、幽王と平王は対立していましたので、おそらく平王は秦をそそのかして幽王を滅ぼさせたのでしょう。誰も幽王を助けなかったのは別に幽王が狼少年だからではなく、鎬京に攻めてきたのが他ならぬ幽王の臣下だったからでしょう。

 しかも秦の始皇帝は金髪碧眼だったという伝説があります。そして始皇帝は側近以外には絶対に自分の姿を見せませんでした。従来は、始皇帝が金髪碧眼だったのは、実の父親呂不韋が胡人だったから、そして始皇帝が人前に姿を現さなかったのは幼少期に人質としていじめられて人間不信に陥っていたからと言うことになっています。

 しかし、秦が元々タクラマカン砂漠のオアシス都市に住むコーカソイド出身であり、秦の王族と側近は砂漠からの移住以降も白人の血が色濃く残っていたとすれば、始皇帝が金髪碧眼だったのも理解ができます。

 そして、歴代の秦王が何故か本拠地に籠もっていて、中原の会盟に姿を現さず付き合いが悪かったことや、始皇帝が人に見られることを極度に嫌がったのは、自分たちが異民族であることを自覚しており、それを知られたら、領民から排斥されて国が崩壊するする可能性があったからではないでしょうか。

 宮殿奥に隠れて、極端に人目にさらされることを嫌う中国の皇帝の伝統は始皇帝に始まっているのですが、その理由は秦王朝が胡人(コーカソイド・白人)だったことにあるのではないでしょうか。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-1134.html


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遺伝子系統と文化は必ずしも一致しないという話(1)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-aee4.html


このページの地図を参照しながら読んでください。

https://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml

ミトコンドリア遺伝子やY染色体を使って、民族移動の歴史をたどることができるという話は聞いたことがあると思います。遺伝子の痕跡が「人間」の移動を説明していることは間違いありません。しかし、ある集団の中で遺伝子に変異が生じた時期とその集団が新しい文化を獲得した時期は必ずしも一致しません。


その一例をY染色体のRハブロタイプの分布に見つけました。R1bとR1aというハプロタイプは中央アジア・欧州・イラン・インドに広く分布し、印欧語族の分布範囲とも重なるため、印欧語族の遺伝子ではないかとも言われています。

R1bは1万年くらい前にカフカス山脈付近で原形が生まれ、6千年前にバルカン半島に進入し、3千年前にはアイルランドやイベリア半島西端にまで到達したと考えられています。

現在R1bが人口の50%を超えているのはアイルランド、英国、フランス、スペインでこれはローマ帝国とゲルマン人の侵入以前にケルト人の文明が広がっていた地域です。できたばかりのころのローマ共和国はケルト人に圧迫されていました。ローマ人の方が臣従していたという説もあります。ケルト人は牧畜と簡単な農耕をし、馬車を持っていました。

しかし面白いことにR1bが一番多く住むのはスペインのバスク地方で、バスク人の母語はバスク語なのです。バスク語は系統不明の言語で、印欧語とは全然関係がありません。

同じくR1bの比率が高いのはアイルランドとスコットランドとフランスのブルターニュ半島です。そこにはブリトン人やピクト人などが住んでいたといわれています。彼等が話す言語は非常に原始的なケルト語、もしくは系統不明の言語だったとも推測されています。ローマがこれらの地域に進入してきた際、彼等は車輪を持たず、牧畜もしていませんでした。

つまりケルト人は生粋の印欧語族なのですが、R1bが非常に多い地域の人たちは必ずしも印欧語族ではないのです。そして移動を始めた頃のR1bは車輪を持たず、農耕も知らない狩猟採集民でした。かといって彼等が野蛮だったかというとそうではなく、ミトコンドリア遺伝子から、彼等はアルプスで見つかったミイラのアイスマンと同系統と推測できるのですが、アイスマンは高純度の銅器を持ち、縫合された衣類を着て、医療を受けた形跡もあり、成熟した狩猟採集民でした。

R1bは東にも進んでいて、、3〜4千年前のタクラマカン砂漠(中国西部)の遺跡で金髪でコーカソイドの特徴を持った骨のミイラが発見されています。オアシス都市に残る文書から、彼等がケルト語に近い言語を使っていたことがわかっています。

現在でも中国の羌族、チベット族、満州族の一部にR1bを持つ人がいます。古代中国で羌、西戎、玁狁、狐とされた遊牧民はR1bを持つ人々であった可能性があります。

タクラマカン砂漠にオアシス都市を作った人たちは、農耕をし、都市をつくり、ケルト語に近い言語を話す人たちでした。そこよりもさらに東に進んだ羌、西戎、玁狁、狐はバスク人、ブリトン人、ピクト人に近かった可能性があり、必ずしも農耕はせず、印欧語も話していなかったかもしれません。

口語としての漢語は文法が英語と異常に似ています。英語というのはラテン語やゲルマン語と比較して語順に混乱があり、副詞と前置詞を多用する特徴があります。この英語の副詞と前置詞は、古代には動詞だった可能性があるのですが、英語と漢語は中央アジアを出発したばかりのR1bが使っていた言語ではないかと私は推測しています。

まあ、さすがに英語と漢語を同一系統と結びつけるのは話が飛躍しすぎかもしれませんが、R1bと印欧語と農耕は必ずしも一致しないのです。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-aee4.html


遺伝子系統と文化は必ずしも一致しないという話(2)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-873c.html

このページの地図を参照しながら読んでください。

https://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml


欧州西端と中国北部まで到達したR1aを仮にR1a第1陣、英仏西中心部とタクラマカンで繁栄したR1aを仮にR1a第2陣とします。彼等が持っていた技術を並べると次のようになります。

R1b第1陣・・・遊牧、原始的な印欧語、銅の精練、鍼灸?

R1b第2陣・・・遊牧、畑作、印欧語(ケントゥム派)、乗馬、車輪

民族が次のようになります。

R1b第1陣・・・バスク人、ピクト人、ブリトン人、羌、玁狁、狐

R1b第2陣・・・ケルト人、トカラ人、月氏


ケントゥム派は印欧語の分類です。印欧語は印欧祖語におけるkをkで発音するかs(ts)で発音するかによってケントゥム派とサテム派に分類できます。

サテム派印欧語を使うのははスラブ人とイラン人とインド人(ヒンドゥー語)です。東側のイラン人とインド人は自らをアーリア人と自称しました。19世紀と20世紀前半のドイツの国粋主義者は自らをアーリア人と規定しました。これはインドを圧倒的な武力で制圧した(と当時は信じられていた)アーリア人とゲルマン人を同一視したいという願望から生まれた説ですが、言語と遺伝子からは、イランとインドのアーリア人に最も近いのはゲルマン人ではなくてスラブ人です。

このサテム派印欧語族の分布とよく一致するY染色体がR1aです。R1aはポーランド、ベラルーシ、ロシア、イランに多く分布し、インドではバラモン階級に多く出現します。カスピ海を中心としてC字を倒したように分布しているので、元々カスピ海を中心とした地域に居住していて、何らかの理由で東西に広がっていって、故地からは出て行ったことが容易に推測できます。

アーリア人とスラブ人がインドと欧州に現れた時期は遅いため、歴史の記録に残っています。アーリア人がインド西北部に現れたのは3,500年前です。アーリア人と推測されるメディア人とペルシャ人がバビロニアに現れたのは3,000年前です。

しかしです。私たちはここで再び印欧語族とハブロタイプRを結びつける説の反証を見つけます。現在カスピ海周辺に多く分布するハブロタイプはJ2です。J2は現在のアルメニア、アナトリア半島(トルコ)、ギリシャ、南イタリアに多く分布します。


これらに地域に住む人たちが使う言語はアナトリア半島以外は印欧語です。アナトリア半島に住む人がトルコ語を話すのは、千年前に中央アジアからトルコ人が侵入してきて、トルコ語を強制したからです。それまではアナトリア半島に住む人たちはギリシャ語を話していました。

J2系はバビロニア文明を作った人達ということになっています。そしてJ2aはR1aの故地であるカスピ海沿岸を占領しています。だとするとおかしなことになります。東側(カスピ海周辺)と西側(バルカン半島)で辻褄が合わないのです。

東側のシナリオはこうなります。5千年前にはカスピ海周辺にアーリア人 (R1a)が住んでいました、そこに南からバビロニア人(J2)がやってきて、アーリア人を追い出しました。アーリア人は2千年かけて時計回りにカスピ海を一周して、3千年前にイラン側からバビロニアに侵入しました。

西側のシナリオはこうなります。まずバルカン半島に東側からバビロニア人と同じ遺伝子をもつJ系が侵入。次に南側から古代エジプト人と同じ遺伝子をもつと推定されるE系が侵入。R1bはギリシャには入って来れなかったと推測されています。最後に1,500年前になってスラブ人(R1a)がギリシャ車に侵入しました。

ギリシャ語はケントゥム派印欧語族なのに、だれがバルカン半島にギリシャ語を持ち込んだのか不明なのです。

この矛盾はハブロタイプRとインド・ヨーロッパ語の発明者を同一視することによって生じています。最初に言ったように遺伝子の発生と文化の発生は必ずしも一致しないのです。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-873c.html

遺伝子の系統と文化は必ずしも一致しないという話(3)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-a902.html


このページの地図を参照しながら読んでください。

https://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml


欧州の学者はR系はインド・ヨーロッパ語を生み出した人達と考えています。けれども、ギリシャ・アナトリア半島にはR系の侵入を受けなかったのにインド・ヨーロッパ語を話すギリシャ人がいます。

この矛盾を解く鍵はヒッタイト人にあります。ヒッタイトは3,000年ほど前にアナトリア半島に現れた遊牧民で、強力な戦車軍団をもち、世界で初めて製鉄に成功した人達です。ヒッタイト語はケントゥム系印欧語族ではないかとされています。


現在J2が30%以上分布するのは、東からアルメニア・トルコの首都アンカラ周辺・シリア沿海部・アナトリア半島西部・ボスポラス海峡・中央イタリア・カラブリア・シチリア東部です。

アンカラ周辺はかつてヒッタイトの首都ハットシャがあった地域です。ボスポラス海峡とアナトリア半島西部にはギリシャと似た文明を持つ都市群がありました。有名なトロアはその代表的な都市です。中央イタリアはローマに先行する文明であるエトルリア文明があった地域で、カラブリアとシチリア東部は古くからギリシャの植民地がありました。

エトルリア人と古代ローマ人は自分たちはアナトリア半島西部にかつてあった都市トロイの末裔であるという始祖伝説をもっていました。古代ローマ人がJ系であるとこの始祖伝説には信憑性があることになります。

アナトリアより西に分布するJ系はインド・ヨーロッパ語を話す人達であり、さらにJ系ではないかと推測されるヒッタイト人が使ったというヒッタイト語はかなり古くにラテン語やギリシャ語から分離したと推測されています。

そしてJ2系はフランス、スペイン、英国南部に10〜20%分布しています。これはケルト人の地域です。

整理してみましょう。

1.R1b第1陣が話していた言葉は非常に原始的なインド・ヨーロッパ語、あるいはインド・ヨーロッパ語を話していなかった可能性がある

2.南回りで広まったインドヨーロッパ語(ヒッタイト語・ラテン語・ギリシャ語)を伝えたのはR系ではなくJ2系の可能性が高い

3.R1a(アーリア人・スラブ人)の故地であるカスピ海沿岸にはJ2系が住んでいる


これらの事実から導きだされるのは、インド・ヨーロッパ語を生み出したのはR系ではなくJ2系であるということです。J2系はメソポタミア文明の中心になった人達です。メソポタミア文明を担った人達の言語はインド・ヨーロッパ語ではありません。

しかし、遺伝的には近くても全く違う言語を話すことはそうおかしなことではありません。

•約1万年前にJ2系がカフカス山脈付近でインド・ヨーロッパ語を発明。
•そのとき既にR1bは西と東に広がりつつあった。最初に出発したR1b系はインド・ヨーロッパ語を知らなかった。
•J2とRは8千年くらい前にカフカス山脈で合体。この合体部族は遊牧・簡単な畑作・都市が融合した文明を作る。彼等は畑作と都市をメソポタミアから学んだのかもしれないし、あるいは独自に編み出したのかもしれない。
•J2+Rが南回りに進んだのがヒッタイト人・エリトリア人・ローマ人
•J2+Rにエジプトからの入植者(E系)が合体してできたのがギリシャ人。
•J2+Rが北回りに進んだのがケルト人とトカラ人。
•やがて6千年くらい前にJ2+Rの集団の中からR1a遺伝子が登場これがスラブ人とインド・イラン・アーリア人の祖先となる。彼等の間でサテム派の発音が流行して、サテム派のインド・ヨーロッパ語が生まれる。


というように整理できるのではないでしょうか。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-a902.html


遺伝子の系統と文化は必ずしも一致しないという話(4)
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9ad4.html


このページの地図を参照しながら読んでください。

https://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml


R1b+J2が出発した後にもカスピ海周辺にはR+J2が住んでいたと考えられますが、5千年前に彼等は故地を出て行き東と西に拡散します。西に進んだのがスラブ人で、カスピ海を時計回りに進んだのがインド・イラン・アーリア人です。両者はR1aの遺伝子をもっていました。


しかし「アーリア人」とR1aを同一視するのは早計で、高度な乗馬技術を持つアーリア人は3千年前から1,500年前にかけて、中央アジアから何度もメソポタミア・イラン高原・タクラマカン砂漠に侵入するのですが、遺伝子の分布からはアーリア人とされた人達には様々な組み合わせがありそうなのです。

1.スラブ人・・・R1a
2.インド・アーリア人・・・R1a+R2+J2
3.パクトリア人・スラブ人・スキタイ人・・・R1a+J2
4.ソグド人・ホラズム人・・・R1a+J+Q
5.月氏人・トカラ人・・・R2b+J

このことから、サテム派インド・ヨーロッパ語を発明したR1a+J2が中央アジアに住む様々な民族と融合したのがアーリア人るといえます。

スキタイ人・月氏人・トカラ人は研究者によってアーリア人に含めたり含めなかったりします。スキタイ人が話していた言語は不明です。月氏人とトカラ人が話していたのはケントゥム派インド・ヨーロッパ語です。アーリア人の要素をサテム派インド・ヨーロッパ語であるとすると、彼等はアーリア人には含まれなくなります。

また、ホラズム地方やドナウ川下流域や黒海北岸では4〜5千年前の都市と農耕の痕跡が見つかっています。今ではインドと東アジアでメソポタミアの影響を受けずに独自に農耕が始まったことはほぼ確実ですが、これらの地域でも、独自に農耕が始まっていた可能性があります。

ホラズム地方に多いのはR1aとQの合体部族で、Qはシベリアの狩猟採集民とネイティブアメリカンに多いハプロタイプです。ホラズム人は定住性が高かったと言われています。また、彼等はインダス文明に鉱物を供給していた人達かも知れません。


ドナウ川下流域や黒海北岸に多いのはI2aで、この遺伝子は1〜2万年前にヨーロッパで独自に発生したと言われています。欧州の学者は聖書の影響が強すぎるのか、欧州の農耕は全て中東起源と考えるのが主流らしいですが、I2aによる欧州独自の農耕都市文明を想定しても良いのかもしれません。

I2aは欧州全域に広がっているので、氷河期が終わった後に最初に欧州全域に広がったのは彼等で、独自の言語を使用していた可能性があります。R1b

はI2aの中心部(ドナウ川流域)を避けるように分布し、しかし融合もしています。

I2aとR1bの関係は日本の縄文系と弥生系の関係に近いのかもしれません。


1.1〜2万年前・・・I2aは成熟した狩猟採集民で、ドナウ川流域から黒い森にかけての森林地帯で狩猟採集生活をしていました。一部は簡単な畑作をしていました。

2.8千年前・・・そこにまず狩猟採集民のR1b第一陣がやってきた。彼等は寒冷でやや暮らしにくく、I2aがあまり分布していなかったアルプス・バスク・ブルターニュ半島・アイルランド・ブリテン島に住むようになった

3.6〜8千年前・・・次に牧畜と灌漑農業の技術を持つR1b(ケルト人)がやってきた。彼等は狩猟採集には適していない草原や低地を開拓して住んだ

4.黒海沿岸からカスピ海にかけてスラブ人(R1a)が分布

5.I2a,R1b,R1aがヨーロッパ全体で混血し合う

6.3〜4千年前・・・騎馬技術を持つJ2+R1bが黒海沿岸に侵入、スキタイ人(I2a+J2+R1b)が生まれる

7.3,500年前・・・スキタイ人がカスピ海沿岸からスラブ人を追い払う

8.スキタイ人から逃れたスラブ人に押されて、インド・イラン・アーリア人が南下


R系ハプロタイプの分布とインド・ヨーロッパ語族の分布の間の矛盾から、私なりに西洋の民族移動を推測してみました。ヨーロッパの縄文人とも言えるI2aがどのような文明を持っていたのか。5千年前には中央アジアで高度な都市文明を作っていたと考えられるQ系とネイティブアメリカンとの関係など西洋の古代も未解明で興味深い話題がたくさんあります。
http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-9ad4.html

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黄河文明人 Y-DNA「O2」(旧「O3」) は元々はメソポタミアに居た麦作牧畜が生業のコーカソイド。

黄河周辺のモンゴロイド民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫がモンゴロイド化した漢民族。


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中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html
 

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コメント
1. 中川隆[-11195] koaQ7Jey 2019年3月25日 18:33:27 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[817] 報告

兵馬俑はなぜ一重まぶた? 三つの説
2018年7月7日 10:48 発信地:中国 中新社
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512

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兵馬俑(2016年5月6日撮影、資料写真)。(c)CNS/ケイ利宇
始皇帝の兵馬俑(2015年6月27日撮影、資料写真)。(c)CNS/彭華


【7月7日 CNS】中国・陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)の文化的な観光資源は実に豊かだ。周、秦、漢、唐などの王朝が、この地に無数の文化遺跡を残した。

 大雁塔(Big Wild Goose Pagoda)、鐘鼓楼(Bell Tower of Xi'an)、西安城壁(Fortifications of Xi'an)などがある。だが、最も世界を揺るがした遺跡は、「世界八番目の不思議」と呼ばれる秦の始皇帝の兵馬俑(Terracotta Army)だ。

 兵馬俑を見たことがある人は、その膨大さ、緻密さに感服させられただろう。

 千年もの間、黙々と始皇帝を守護してきた者たちが、全員一重まぶたであることに注目している人はそう多くない。

 兵馬俑の兵士が、なぜ一重まぶたなのか。実は考古学界でも、この問題は大きな論争になってきた。幾度もの議論を経て、諸説がある。

■その1・顔料の色落ち説

 兵馬俑の兵士は人間を模して製造されたため、表情は実に生き生きとしており、二重まぶたも一重まぶたの兵士も存在していたと考えられていた。しかし、二重まぶたは顔料を使用して描かれていたため、発掘された際に空気に触れ、酸化したことで顔料が色あせ、一重まぶたになったという説だ。

■その2・職人の手抜き説

 二重まぶたがないのは、仕事に手抜きがあり、わざと二重まぶたを描かなかったという説だ。

 ただ、この説にはあまり信ぴょう性がないように思われる。人に模して製造された大小の陶器製の兵士に、手抜きをするためだけにまぶたを描かないことがあろうか。秦の始皇帝が、職人に適当な仕事をさせたとも考えにくい。

■その3・一重まぶたが漢民族のシンボル説

 ある専門家は、兵馬俑は芸術品であり、人を模してありのままの姿で製造されたと考えている。そのため、兵士が一重まぶたであった原因は、当時のモデルとなった人間が一重まぶただったことに由来している。

 2200年前、秦を統治していたのは、西北地域に住んでいた人々で、モンゴル人や東アジアにルーツがある人種で、相対的に単一民族だ。この民族の身体的特徴の一つが一重まぶたであり、蒙古ひだ(目頭を覆う部分にある皮膚のひだ)があることだ。

 医学用語では、「内眼角贅皮(ないがんかくぜいひ)」と呼ばれ、東アジアや東南アジアの民族に多くみられる。

 晋の時代、漢民族は各地の民族と同化し、秦や漢時代のように単一民族ではなくなった。特に、魏晋南北朝時代には、北方の遊牧民族が南下して来た影響で、漢民族は南方の土着民族と同化した。そのため、唐時代の壁画や彫刻には、鼻が高く目が大きい胡人の姿が見られる。

 一重まぶたとつり目は、漢民族の変わらぬ美意識の主流だ。唐時代の美人画では、細い目のつり目か一重まぶたが多く描かれている。

 千年の月日が流れ、秦の兵馬俑はすでに秦帝国の栄枯盛衰を忘れ、血統に関心を払う者はいない。兵馬俑の形状や表情を通して、当時の文明や社会の様子を理解することができる。今日に至るまで、兵馬俑は人類の歴史と文化の宝庫であり、依然として無数の神秘が眠っている。新たな発見とその継承が待たれる。(c)CNS/JCM/AFPBB News
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※この記事は、CNS(China News Service)のニュースをJCMが日本語訳したものです。CNSは1952年に設立された中華人民共和国の国営通信社です。
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512

2. 中川隆[-11194] koaQ7Jey 2019年3月25日 18:40:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[818] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源

1-2. 日本と関連民族のY-DNAハプロタイプの出現頻度 rev.1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm


韓民族

  北朝鮮のデータは当然ありませんが、中国の朝鮮族のデータで推測することが出来ます。日本と近くて遠い存在であることが はっきりとわかります。

似ている部分は長江文明の流れ汲む呉系の水田稲作農耕民遺伝子の「O2b」を共に30%近く持つことです。これが韓民族に感じる親近感の原因です。 遺伝子の約1/3が共通すると言うことは極めて大きいと思います。

一方似ているようで違うのが「O3」と「C3」の頻度が日本より高いことです。

特に朝鮮半島史上1000回にも上るという中国王朝の侵攻・侵略・支配のせいで朝鮮半島の遺伝子基盤は、 本来の北部の「C3c」や南部の「O2b」から「O3」に変化しています。 「D2」が遺伝子基盤の日本民族との決定的な違いになっています。


  日本人が一般的に感じる一重瞼の韓国人の姿は寒冷地適応・黄砂適応した黄河系「O3」とツングース系「C3c」の特徴です。

しかし釜山や済州島など南になるほど二重瞼が増える理由は「O2b」が南に分布しているからに他なりません。30年以上前に仕事で釜山に入り、 済州島も訪れそのままバスで各地のユーザーを訪問商談しながらソウルに入りましたが、北に向かうほど、 一重瞼一色に変化してゆくことをはっきり覚えていますが、 遺伝子調査は朝鮮半島人の出自の違い、最大の黄河系漢族系、二番目の長江系呉系、三番目がツングース系であることを 見事に解明してくれました。


  Y-DNAハプロタイプがもともと異なるのです。

北部ほど黄河系漢族系「O3」が多いのは楽浪郡など中国の古代帝国の組織が置かれ、 長く中国王朝の一部として占拠されていたところだからです。

南方は水田稲作地帯で長江文明の子孫(恐らく呉系民の)が 住み着いた場所だったのでしょう。 だから韓半島極南部は日本の原風景とかなり似ている感じがするのでしょう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm

3. 中川隆[-11193] koaQ7Jey 2019年3月25日 18:53:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[819] 報告

中国文明はコーカソイドによって築かれた
https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n414702


↓以下の通り。


「中国といえば黄色人種の代名詞的存在です。しかし、漢字を発明した古代漢族と現在の漢族は、遺伝的なつながりがほとんどないとみられています。漢王朝が崩壊後、北方の異民族が流入して人口は3分の1〜6分の1に減少したと推定されています。しかも、流入した北方民族を含めて人口が3分の1〜6分の1に減少したのですから、古代漢民族の減少はそれ以上だった推定されます。その後、鮮卑族と呼ばれる北方民族が統一王朝を建設し、隋、唐と長い間支配が続きます。現在の漢民族は唐時代に民族の基礎が形成されており、現在のイタリア人と古代ローマ民族以上に別物といわれています。現在の中国では、古代漢語といえば清王朝時代の満州人の影響下にあった漢語を指すようです。


 古代漢族は、現在の中国と違った文化をもつ謎の多い民族です。そんな漢民族ですが、最近の近代的な考古学的手法の発達により、遺骨やミイラのDNA分析の結果が断片的に報告されるようになってきました。2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表しました。その結果は、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近いという結果になり、現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらなというものでした。


 一方、3000年前〜1500年前の中国西部は、白人が支配する地域であったことがほぼ定説になりつつあるようです。新疆ウイグル自治区の楼蘭の美女と呼ばれるミイラは、白人のミイラとして知られています。中国西部では600体もの白人のミイラが見つかっています。北京から400、500km南東に位置している山西省の大原市からも白人が埋葬された墳墓が見つかっています。このことから1500年前にはすでに白人がかなり移住していたと考えられます。


 漢文は異民族との情報交換のために発達した文章といわれています。つまり、漢文は文章のためのものであり、当時、話された言葉をアルファベットや万葉仮名のように示したものではありません。つまり、当時話されていた言葉を記録した資料が極端に少なく、検討する余地はかなりあるようです。ひょっとすると、漢文は当時のシナ系言語と全く異なる白人の言語をつなげる架け橋だったのかもしれません。


これらの白人はコーカソイドと呼ばれる人達で、いわゆるトルコ系民族と言われる人たちです。トルコ系民族は、少なくとも5世紀ごろにはシベリア地域にも移住していたとみられています。そう考えてみると、中国にもトルコ系民族が移住していても何の不思議もありません。東京大学の植田教授らは山東半島周辺に白人の居住地があったことを指摘しています。現時点では、白人が中国のどの程度の位置を占めていたのか不明ですが、今後DNAの研究が進むにつれ、これまでの歴史の常識が大きく覆されるかもしれません。漢字は白人が発明したもので、山東半島出身の孔子は白人だった可能性が高いです。


テュルク(トルコ系民族とその分布)

http://ja.wikipedia.org/wiki/トルコ系」


「東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。


調査の対象となったのは、


1、約2500年前の春秋時代の人骨

2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨

3 現代の臨シ住民


です。


これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。


どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。


約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。


現代の臨シ住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。


つまり、2500年前の支那大陸で、春秋戦国時代を築いていた集団は、現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団であった、すなわり、いまの支那人たちとは、まるで異なる集団であったということです。


言いかえれば、2500年前から2000年前の500年間に、支那では大きな遺伝的変化が生じた、つまり、支那大陸では、大規模な人類の移動があったということです。


そもそも中国語と英語を含むヨーロッパ系言語では、文法や語順のなどが、非常に似通っています。


たまたま文字が漢字であるため、見た目のイメージはまるで異なる言語にみえるけれど、語族として考えたら、日本語と中国語よりもはるかに支那語は、ヨーロッパ系言語に近い。


しかも、ひとくちに中国語といっても、支那は広大な大陸です。

さまざまな方言があり、外国語並みにたがいに言葉が通じない。

文法や語順、あるいは基本的名詞に至るまで、まったく違うものもあり、もはやその言語は、互いに別な言語というほうが、はるかに正しいです。


たとえば、我々が中国語口座を受けると、「声調」は「四声」と教わるけれど、これは北京語の話であり、広東語は九声、福建語は八声もある。

上海語と客家(ハッカ)語は六から七声です。


また、北京語には濁音がないけれど、南方語には、濁音が存在する(日本語の影響?)。


フランス語と、英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なります。当然、異なる言語とされている。国籍も別です。

支那にある諸方言を考えたら、これらをひとまとめに、同一言語であるとみる方が、むしろ異常です。


中国四千年の歴史なる言葉は、そもそもが、三皇五帝(さんこうごてい)なる支那の神話伝説時代の帝王からきている言葉です。


三皇は神、五帝は聖人で、それらは支那の伝説の時代である「夏」の時代(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)よりも古い時代の皇帝だというのだけれど、これも大載礼記、史記、戦国策、易経、礼記、淮南子、世経、三統経、資治通鑑外記などで、誰が皇帝であり、誰が帝王だったのかすら、全部言い分が異なっています。


炎帝(姜王)などは、礼記と准南子に登場するけれど、体が人間で、顔は牛だったというから、そもそも人類であったかどうかすら疑わしい。

要するに、これらは単なる神話とされ、いまでは、その実在は誰も認めていません。


三皇五帝のあとにくる「夏王朝」にしても、いまからちょうど四千年あたり前から470年続いき、その後「殷」に滅ぼされたとされているけれど、これも、その実在性がかなり疑わしいとされている。


結局支那で考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。


そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されてしまっています。


時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。


遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。


関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイド

の遺伝的特徴そのものである


そしてこの時代の人骨からは、先に述べたとおり、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。

さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。


遺跡からは、彩文土器、竪穴住居、磨製石斧などが出土し、彼らが粟などの栽培や、豚や犬の飼育、鹿などの狩猟を行っていて、竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用していたことは、明らかになっています。


しかし、そこで発見された彩陶土器は、西アジア、中央アジアから伝来したものです。

つまり、どうやら工具的にも、ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。」


つまり、モンゴロイドが「独自の文明」と自惚れている「中華文明」とはコーカソイドと云う人種によって築かれたのだ。
https://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n414702

4. 中川隆[-11192] koaQ7Jey 2019年3月25日 18:56:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[820] 報告

「 見た目はモンゴロイドだが、Y遺伝子はコーカソイド 」 はありうるか? 性染色体と常染色体の動きの違いから解明
 

(315336)から、O系統の言語の語順は初めからSVOであったわけではなさそうだと展開しました。しかし、O系統(中国人、東南アジア人)が、C系統やD系統(モンゴロイド)より、R系統(印欧語族)に近いという問題はいまだ残っています。

O系統は、インドから東南アジア、さらにニュ−ギニア方面へ展開したK系統が、(火山の噴火などが原因か?)大陸側、中国南部方面へ戻った時に生まれた系統か?(他のストーリーも考えられると思う)

その時何が起こったかですが、命からがら逃げてきたK系統の男がモンゴロイドの女と交わって作った集団ということと思われる。(必ずしも強姦ということではなく、モンゴロイド側が受けいれたか?)

その場合、K→O系統の遺伝子が半分残るはずだが、Y遺伝子(性染色体)と違って、常染色体(性染色体以外の一般の染色体)はオスとメスの間を行ったり来たりしながら伝えられていくので、必ず後世に伝えられるというわけではない。(Y遺伝子は、他の部族の男が入らないなら、O系統のY遺伝子が必ず後世に伝わっていく。)

その環境で生きていくのに不適切な遺伝子なら、世代を重ねるごとにどんどん淘汰されていき、Y遺伝子以外は、つまり「常染色体」に乗っていたK系統→O系統(コーカソイド系統)の持ち込んだ遺伝子はほどんど消えてしまうということも十分ありうる。

モンゴロイドの男は集団に入ってくることなく、モンゴロイドの女を集団に組み込んでいけば4世代もすればコーカソイドの血は10分1のにうす
まってしまう。Y遺伝子だけはそのままコーカソイドのものが残る。

今のところ、中国人や東南アジア人は、このように成立した、「Y染色体はコーカソイド、常染色体はほとんどモンゴロイド」の種族と考えます。これが、正しいなら、オスが移動してY遺伝をどれだけ撒き散らしても土地(環境)に根付いたメスが伝える常染色体の形質が、いくらでも巻き返してくるということかと思われます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=315337


▲△▽▼


中国語のみならず東南アジア、太平洋地域も、語順はSVO(or VSO)⇒中国人、東南アジア人(Y遺伝子O系統)とは何者なのか!
 


民族の使う言語の語順とその民族性は、ざっくりと見て連関がありそうです。セム人や印欧語族には、XSOやSVOなど動詞を前に持ってくるものが多いですが、これは闘争性、攻撃体質の強さと恐らくは連関している。(どうする、どうしろ、を前にもってくる。)

ところが、一般に穏やかな性格の平和民族と考えられる東南アジアも、実は圧倒的にSVOが多い。ベトナム、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、太平洋の島々も全て基本的にSVOである。
台湾原住民やフィリピンにいたっては、何と、セム系と同じXSOなのです。これは一体どういうことなのか。語順と民族性の関係と言う視点が根本的に間違っているのか?

中国人、東南アジア人はY遺伝子分類で言うとO系統にあたるのですが、実は少し気になっていたのですが、Oって、P、Qの次がR(印欧語族)で、印欧語族に近く、C(アボリジニやシベリア人など)とかD(縄文人、チベット人)からは遠い。

現生人類のY遺伝子はアフリカ人や上記C系統、D系統を除くと、インドを中心に東へ西へと拡散したF系統からの派生が多く、Y遺伝子で見る限りは、O系統は、われわれのような「純粋な」モンゴロイドよりも、コーカソイド系統に近い。

そして、それは最初に述べた語順の問題とぴたりと符合する。中国人、東南アジア人は、Y遺伝子も、言語の語順も、もともとはコーカソイド系統と言わざるをえなのではないかと思う。(「コーカソイド系統」という言い方が間違っているかもしれないが。)
改めて考えると、ベトナム人が見せた対米戦争での強さとか、また、(社会的な背景があるにせよ)カンボジアのポルポト時代の大虐殺とか、縄文人の体質とは断層があるという気がしないでもない。

もちろん、女性側の血筋がどうかと言う点もあるし、出自がどうであれ、長い時間をかけて、豊かな東南アジア、太平洋地域で生きていくのに適した遺伝子が残ってきたのでしょうから、あらためて新型モンゴロイドとなったとも言えるとは思う。
いずれにしても、言語の語順と民族性の関係は当初の仮説のままで整合すると考えられます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=313616

____

Y遺伝子O系統(中国、東南アジア、太平洋)とそれに近接する系統の言語の語順から、O系統がいつSVOに転じたか推測。
 

●先の(313616)でY遺伝子O系統は、遺伝子も言語の語順も「コーカソイド系統」ではないかと書いた。改めて、O系統周辺のY遺伝子系統樹と、その言語の語順を調べた。

F〜J系統

|┌─────K
└├─────L
 ├─────M
 ├─────N  SOXが一般的(フィンランド語などウラル語族)
 ├─────O  SVO(中国語、東南アジア、太平洋)
 | ┌───P  
 └─┤───Q  抱合語など(アメリカ大陸)母方の言語が残った?
   └───R  SOX→紀元1000年ごろからSVO?(印欧語族)

※印欧語はラテン語(フランス語、イタリア語などの前身)はSOV、英語も中世まではSOV、インド語、イラン語もSOVなので、もともとSOVだったのが、ゲルマン民族大移動→戦争あたり(1000年前くらい?)から、西欧州の言語はみなSVOになったようである。

●上記よりO系統の近くのハプロタイプがすべてSVOと言うわけではない。しかし、F系統(セム族)以下にSXOまたはXSOがしばしば登場している。これは、F系統以下に共通する資質(攻撃性が強いなど)があり、それが環境によって、(例えば厳しい寒冷化→戦闘から、)SXOに転換してくるものが、しばしば登場するということかと思います。

●O系統がSVOに転じたのは5000年前か?

上記よりO系統は、必ずしも誕生したときからSVO型だったのではないと推測できます。では、いつSVOに転じたのか。おそらくは東アジアが戦争に突入し始めるころ、5000年前ごろからではないかと思われます。北方のO3系統と南のO1、O2系統という構図で両者とも同時に、SOXからSVOに転じていったと思われます。(おそらくセム族に比べればはるかに新しいと推測します。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=315336


5. 中川隆[-11191] koaQ7Jey 2019年3月25日 18:58:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[821] 報告

新シルクロード 01 「楼蘭 四千年の眠り」(2005年1月2日) - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%96%B0%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89+++%E6%A5%BC%E8%98%AD+%E5%9B%9B%E5%8D%83%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%9C%A0%E3%82%8A


2014年12月18日 砂漠に消えたロプノール湖畔に3800年前に住んでいたヨーロッパ系住民
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/410834192.html


新疆ウイグル住民の遺伝子は、今でも、60%がヨーロッパ系です。

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/2-thumbnail2.png.html


ニューヨークタイムズの記事(英語)

A Host of Mummies, a Forest of Secrets
ミイラが眠る、柱群の秘密

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/1-thumbnail2.png.html


Liu Yu Sheng

SYMBOLISM Archaeologists believe the hundreds of 13-foot poles at the Small River Cemetery in a desert in Xinjiang Province, China, were mostly phallic symbols.
象徴主義(シンボリズム)− 考古学者は、中国、新疆ウイグル自治区の小河墓遺跡に立つ、長さ4mの柱群は、男根の象徴と考えます。

By NICHOLAS WADE  Published: March 15, 2010
ニコラス・ウェイド  出稿:2010年3月15日

http://www.nytimes.com/2010/03/16/science/16archeo.html?pagewanted=all&_r=1&
In the middle of a terrifying desert north of Tibet, Chinese archaeologists have excavated an extraordinary cemetery.
チベットの北にある不毛の砂漠の真ん中で、中国の考古学者らが、驚くべき墓を発掘しました。

Its inhabitants died almost 4,000 years ago, yet their bodies have been well preserved by the dry air.
約四千年前に埋葬された遺体が、乾燥のため、非常に良い状態で保存されていました。

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/8-thumbnail2.png.html

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/4-thumbnail2.png.html

A 3,800-year-old mummy, the Beauty of Xiaohe, found at the Small River Cemetery.
小河墓で発見された3800年前のミイラ「小河の美女」

The cemetery lies in what is now China’s northwest autonomous region of Xinjiang, yet the people have European features, with brown hair and long noses.
墓場は、新疆ウイグル自治区にあり、中国領ですが、住民はヨーロッパ人に似ていて、茶色の髪と高い鼻です。

Their remains, though lying in one of the world’s largest deserts, are buried in upside-down boats.
遺体は、世界最大級の砂漠に葬られているのに、ひっくり返した舟が、被せられています。

And where tombstones might stand, declaring pious hope for some god’s mercy in the afterlife, their cemetery sports instead a vigorous forest of phallic symbols, signaling an intense interest in the pleasures or utility of procreation.
死後の神の慈悲を願って、墓石の代わりに、この墓に立てられた柱群は、男根の象徴で、快楽と子孫繁栄への強い関心の表れと考えられます。

The long-vanished people have no name, because their origin and identity are still unknown.
大昔に消えた名も無い人々が、どんな民族で、どこから来たかは不明です。

But many clues are now emerging about their ancestry, their way of life and even the language they spoke.
でも、彼らの血統や生活様式や言語についての証拠が、発見されて来ています。

Their graveyard, known as Small River Cemetery No. 5, lies near a dried-up riverbed in the Tarim Basin, a region encircled by forbidding mountain ranges.
その第五小河墓は、踏破困難な山脈で囲まれたタリム盆地の、干上がった河床近くにあります。

Most of the basin is occupied by the Taklimakan Desert, a wilderness so inhospitable that later travelers along the Silk Road would edge along its northern or southern borders.
盆地の大部分を占めるタクラマカン砂漠は、人を寄せ付けぬ不毛の土地で、後のシルクロードの旅人らも、南か北のルートを取りました。

In modern times the region has been occupied by Turkish-speaking Uighurs, joined in the last 50 years by Han settlers from China.
現在、この地域は、トルコ系の言葉を話すウイグル族が住み、50年前からは、漢族の入植者も加わりました。

Ethnic tensions have recently arisen between the two groups, with riots in Urumqi, the capital of Xinjiang.
新疆ウイグル自治区の首都ウルムチでは、最近、民族感情の対立が激化しています。

A large number of ancient mummies, really desiccated corpses, have emerged from the sands, only to become pawns between the Uighurs and the Han.
砂の中から大量に見つかった古代のミイラは、正に乾燥した遺体ですが、ウイグル族と漢族の対立で、火に油を注ぎました。

The 200 or so mummies have a distinctively Western appearance,
およそ二百体のミイラは、はっきりと西洋人の特徴を持っています。


WELL PRESERVED The mummy of an infant was one of about 200 corpses with European features that were excavated from the cemetery.
良い保存状態の嬰児のミイラ。 この墓場から発掘されたヨーロッパ人の風貌を持つ約200の遺体の一つ。

and the Uighurs, even though they did not arrive in the region until the 10th century, have cited them to claim that the autonomous region was always theirs.
そのため、歴史的には十世紀よりも後に、この地に住み着いたウイグル族は、ここが、古来より自分たちの土地だったと主張します。

Some of the mummies, including a well-preserved woman known as the Beauty of Loulan, were analyzed by Li Jin, a well-known geneticist at Fudan University, who said in 2007 that their DNA contained markers indicating an East Asian and even South Asian origin.
保存状態の良い楼蘭の美女を含む、複数のミイラのDNAを分析した、復旦大学の遺伝学者金力(上海、ふくたんだいがく、ジン・リ副学長)は、2007年に、東アジアと南アジアの人種であろうと発表しました。

The mummies in the Small River Cemetery are, so far, the oldest discovered in the Tarim Basin.
小河墓のミイラは、今の所、タリム盆地で見つかった最古です。

Carbon tests done at Beijing University show that the oldest part dates to 3,980 years ago.
北京大学の放射性炭素年代測定によると、一番古い所は、3980年前と分かりました。

A team of Chinese geneticists has analyzed the mummies’ DNA.
中国の遺伝学研究チームが、ミイラのDNAを分析しました。

Despite the political tensions over the mummies’ origin, the Chinese said in a report published last month in the journal BMC Biology that the people were of mixed ancestry, having both European and some Siberian genetic markers, and probably came from outside China.
ミイラの人種について政治的緊張があるにもかかわらず、中国の研究者らは、先月、BMCバイオロジー誌(訳注:BioMed Central, UK 生物医学センター、イギリス)に、論文を発表しました。ヨーロッパとシベリアの遺伝子を持つ、中国以外から来た人々だと。

Evidence that a West-East admixed population lived in the Tarim Basin as early as the early Bronze Age
http://www.biomedcentral.com/1741-7007/8/15

The team was led by Hui Zhou of Jilin University in Changchun, with Dr. Jin as a co-author.
研究チームは、吉林大学(きつりんだいがく)の周慧がリーダーで、金力博士と共著です。

周慧(Hui Zhou)吉林大学(Jilin University)教授
http://life.jlu.edu.cn/?mod=teacher&act=view&id=12

All the men who were analyzed had a Y chromosome that is now mostly found in Eastern Europe, Central Asia and Siberia, but rarely in China.
分析を行った男性のミイラのY染色体は、現在の東ヨーロッパ、中央アジア、シベリアに分布するタイプで、中国のタイプは、ほとんどありませんでした。

The mitochondrial DNA, which passes down the female line, consisted of a lineage from Siberia and two that are common in Europe.
女系に伝わるミトコンドリアDNAは、主にシベリアのタイプで、二例がヨーロッパのタイプでした。

Since both the Y chromosome and the mitochondrial DNA lineages are ancient,
Y染色体とミトコンドリアDNAが、両方、古いタイプなので、

Dr. Zhou and his team conclude the European and Siberian populations probably intermarried before entering the Tarim Basin some 4,000 years ago.
周博士(周慧)の研究チームは、およそ4000年前にタリム盆地に侵入する前に、ヨーロッパ人とシベリア人が、混血していたと結論しました。


(訳注:”Dr. Zhou and his team”「周博士と彼のチーム」とありますが、周博士は女性なので、”his team” 「彼のチーム」ではなく、”her team” 「彼女のチーム」とすべき。周博士の写真は男性のように見えますが、女です!)

The Small River Cemetery was rediscovered in 1934 by the Swedish archaeologist Folke Bergman and then forgotten for 66 years until relocated through GPS navigation by a Chinese expedition.
小河墓は、スウェーデンの考古学者フォルケ・ベリイマンが、1934年に再発見しましたが、忘れられていました。中国の探検隊は、GPSで、その66年後に、位置を突き止めました。

Archaeologists began excavating it from 2003 to 2005.
考古学者らは、2003年から2005年に発掘を行いました。

Their reports have been translated and summarized by Victor H. Mair, a professor of Chinese at the University of Pennsylvania and an expert in the prehistory of the Tarim Basin.
発掘の記録を翻訳・要約したのは、ペンシルベニア大学の中国語教授ヴィクター・H・メーアで、タリム盆地の先史時代の専門家です。

As the Chinese archaeologists dug through the five layers of burials, Dr. Mair recounted, they came across almost 200 poles, each 13 feet tall.
中国の考古学者らが掘り下げた所、墓場は、五層あり、メーア博士が数えた所、高さ13フィート(4メートル)の柱が、約200本のありました。

Many had flat blades, painted black and red, like the oars from some great galley that had foundered beneath the waves of sand.
柱の多くは、平たく加工されていて、黒と赤に塗られ、砂の大海の下に埋れた巨大なガリー船から突き出た櫂(オール)のようです。

At the foot of each pole there were indeed boats, laid upside down and covered with cowhide.
各柱の下には、本当にボートが埋められていて、ひっくり返った状態で、牛革が被せてあります。

The bodies inside the boats were still wearing the clothes they had been buried in.
ボートの中の遺体は、埋葬された時の衣服が、そのまま残っています。

They had felt caps with feathers tucked in the brim, uncannily resembling Tyrolean mountain hats.
被っているフェルト製の帽子は、つばに鳥の羽が縫い付けられていて、不思議なほどチロリアンハットに似ています。

They wore large woolen capes with tassels and leather boots.
飾り房付きの、ゆったりとした毛織物のケープを纏い、革のブーツを履いています。

A Bronze Age salesclerk from Victoria’s Secret seems to have supplied the clothes beneath — barely adequate woolen loin cloths for the men, and skirts made of string strands for the women.
下着は、まるで、青銅器時代のビクトリアズ・シークレット社(訳注:アメリカの下着メーカー)の販売員から調達したようです。ぎりぎりの大きさの男性用ふんどしや、女性用のビーズのスカートです。

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/5-thumbnail2.png.html


Many of the women buried there wore string undergarments like the one in this drawing.
多くの埋葬された女性は、この絵のような、紐の下着をはいていました。

Within each boat coffin were grave goods, including beautifully woven grass baskets, skillfully carved masks and bundles of ephedra, an herb that may have been used in rituals or as a medicine.
舟型の棺には、副葬品があり、草できれいに編んだ籠や、精巧に彫られたお面、麻黄(マオウ)の束などです。麻黄は、儀式や医療で用いられたのでしょう。

In the women’s coffins, the Chinese archaeologists encountered one or more life-size wooden phalluses laid on the body or by its side.
中国の考古学者は、女性の棺に、木製の実物サイズの男根が、一つ以上、体の上か脇に置かれているのを見つけました。

Looking again at the shaping of the 13-foot poles that rise from the prow of each woman’s boat, the archaeologists concluded that the poles were in fact gigantic phallic symbols.
女性の棺の舳先から聳え立つ13フィート(4メートル)の柱の形から、考古学者は、巨大な男根の象徴と考えます。

The men’s boats, on the other hand, all lay beneath the poles with bladelike tops.
一方、男性の棺の上の柱は、先が櫂のように平たくなっています。

These were not the oars they had seemed at first sight, the Chinese archaeologists concluded, but rather symbolic vulvas that matched the opposite sex symbols above the women’s boats.
始め、櫂のように見えた柱は、女性の棺と反対の性、女性器の象徴と、考古学者は結論しました。

“The whole of the cemetery was blanketed with blatant sexual symbolism,” Dr. Mair wrote. In his view, the “obsession with procreation” reflected the importance the community attached to fertility.
「墓全体が露骨な性的象徴である。」と、メーア博士は書いています。子孫繁栄への執着は、集団にとっての生殖重要性を反映していると言えるでしょう。

Arthur Wolf, an anthropologist at Stanford University and an expert on fertility in East Asia, said that the poles perhaps mark social status, a common theme of tombs and grave goods.
スタンフォード大学の人類学者で東アジアの生殖能力専門家のアーサー・ウルフは、柱が、社会的地位を示すと言います。墓や副葬品が示すのと同じです。

“It seems that what most people want to take with them is their status, if it is anything to brag about,” he said.
「たぶん、死後の世界に、社会的地位を持って行ったのです。」

Dr. Mair said the Chinese archaeologists’ interpretation of the poles as phallic symbols was “a believable analysis.”
メーア博士は、中国の考古学者が、柱群を男根の象徴と考えるのは、妥当な分析だと言います。

The buried people’s evident veneration of procreation could mean they were interested in both the pleasure of sex and its utility, given that it is difficult to separate the two.
埋葬された人々の、生殖へのはっきりした崇拝は、性の快楽と有用性を重視していたからでしょう。二つを切り離す事はできません。

But they seem to have had particular respect for fertility, Dr. Mair said, because several women were buried in double-layered coffins with special grave goods.
彼らは、生殖に大きな敬意を払っていたようです。何人かの女性は、二重の棺に特別な副葬品と一緒に、葬られていました。と、メーア博士は言います。

Living in harsh surroundings, “infant mortality must have been high, so the need for procreation, particularly in light of their isolated situation, would have been great,” Dr. Mair said.
厳しい自然環境では、乳幼児死亡率が高かったはずで、生殖が重要だったでしょう。特に、孤立した状態では。

Another possible risk to fertility could have arisen if the population had become in-bred. “Those women who were able to produce and rear children to adulthood would have been particularly revered,” Dr. Mair said.
別の問題の可能性もあります。近親交配では、出生率が下がります。子供を産んで、成年まで育てられる女性は、特に、尊敬を集めたでしょう。

Several items in the Small River Cemetery burials resemble artifacts or customs familiar in Europe, Dr. Mair noted.
小河墓の葬制と埋葬品は、ヨーロッパに似ていると、メーア博士は言います。

Boat burials were common among the Vikings. String skirts and phallic symbols have been found in Bronze Age burials of Northern Europe.
バイキングも舟を一緒に埋めました。北ヨーロッパの青銅器時代の墓からも、紐スカートや男根が見つかっています。

There are no known settlements near the cemetery, so the people probably lived elsewhere and reached the cemetery by boat.
墓の近くからは、住居跡が見つかっていません。人々は、どこかに住んでいて、墓場に舟で来たのでしょう。

No woodworking tools have been found at the site, supporting the idea that the poles were carved off site.
木材加工の道具は、その場所では見つかっていないので、柱は、別の場所で加工された可能性があります。

The Tarim Basin was already quite dry when the Small River people entered it 4,000 years ago.
小河墓地方に人々が入植した4千年前には、タリム盆地は、すでに、かなり乾燥していました。

They probably lived at the edge of survival until the lakes and rivers on which they depended finally dried up around A.D. 400.
彼らは、紀元後400年に、生活の糧だった湖と河が完全に干上がるまで、そこで、ぎりぎりの生活をしていたのでしょう。

Burials with felt hats and woven baskets were common in the region until some 2,000 years ago.
フェルトの帽子と編んだ籠の副葬は、この地域で、約2000年前まで見られました。

The language spoken by the people of the Small River Cemetery is unknown, but Dr. Mair believes it could have been Tokharian, an ancient member of the Indo-European family of languages.

小河墓の人々の言語は分かりませんが、メーア博士は、古いインド・ヨーロッパ語派のトカラ語の可能性があると考えます。

Manuscripts written in Tokharian have been discovered in the Tarim Basin, where the language was spoken from about A.D. 500 to 900.
タリム盆地では、トカラ語の文書が見つかっています。紀元後500年から900年に、当地で、話されていました。

Despite its presence in the east, Tokharian seems more closely related to the “centum” languages of Europe than to the “satem” languages of India and Iran.
トカラ語は、東方に分布していましたが、インド・イラン系の「サテム語」ではなく、ヨーロッパの「セントゥム語」に近いです。

The division is based on the words for hundred in Latin (centum) and in Sanskrit (satam).
この分類は、単語の「百」が、ラテン語で「セントゥム」、サンスクリット語で「サタム」と成る事から来ています。

The Small River Cemetery people lived more than 2,000 years before the earliest evidence for Tokharian, but there is “a clear continuity of culture,” Dr. Mair said, in the form of people being buried with felt hats, a tradition that continued until the first few centuries A.D.
小河墓の人々は、トカラ人の2千年以上も前に住んでいましたが、メーア博士は、文化の明確な継続性があると言います。フェルト帽子を副葬する習慣は、紀元後数世紀まで続きました。
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/410834192.html


2016年02月21日 小河墓遺跡の古環境を花粉分析で復元 中国新疆
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/434094909.html


小河墓遺跡の古環境を花粉分析で復元(英語)
Buried in Sands: Environmental Analysis at the Archaeological Site of Xiaohe Cemetery, Xinjiang, China

http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE6A798E5AD90-thumbnail2.jpg.html

Jin-Feng Li, Idelisi Abuduresule, Francis M. Hueber, Wen-Ying Li, Xin-Jun Hu, Yue-Zhuo Li, Cheng-Sen Li mail

http://www.plosone.org/article/info%3Adoi%2F10.1371%2Fjournal.pone.0068957

小河の王女
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Abstract
要約

Palynomorphs extracted from the mud coffins and plant remains preserved at the archaeological site of Xiaohe Cemetery (Cal. 3980 to 3540 years BP) in Lop Nur Desert of Xinjiang, China were investigated for the reconstruction of the ancient environments at the site.
中国、新疆のロプノール砂漠にある小河墓遺跡(3980年〜3540年前)の植物化石と泥の棺に含まれていた花粉化石を研究し、付近の古環境を再現しました。

The results demonstrate that the Xiaohe People lived at a well-developed oasis, which was surrounded by extensive desert.
研究の結果、小河人は、広大な砂漠の中の良く発達したオアシスに住んでいました。

The vegetation in the oasis consisted of Populus, Phragmites, Typha and probably of Gramineae,
オアシスの植生は、ポプラ属(Populus)、ヨシ属(Phragmites)、ガマ属(Typha)と、おそらく、イネ科植物(Gramineae)で

コトカケヤナギ.jpg

ヨシ属.jpg

ガマ属.jpg

while the desert surrounding the oasis had some common drought-resistant plants dominated by Ephedra, Tamarix, Artemisia and Chenopodiaceae.
オアシス周辺の砂漠には、マオウ属 (Ephedra)、 ギョリュウ属(Tamarix / 御柳)、 ヨモギ属(Artemisia)、アカザ科(Chenopodiaceae)などの耐乾燥植物が主でした。

マオウ(Ephedra).jpg

御柳.jpg

ヨモギ属(Artemisia).jpg

梭梭 アカザ科(Chenopodiaceae).jpg

This present work provides the first data of the environmental background at this site for further archaeological investigation.
今後の考古学研究で参考にすべき、遺跡周辺の最初の生態学的データを提供します。


Introduction
序説

In the past Xinjiang formed an important bridge connecting the Eastern and Western races of Eurasian continents
かつて、新疆は、東洋人と西洋人を繋ぐ、重要な架け橋でした。

and became famous for the ancient Silk Road going to Central Asia and Eastern Europe from China.
ここは、中国から中央アジア、東ヨーロッパに至る古代のシルクロードで、有名です。

Consequently, the archaeological discoveries in this area are always of great interest (e.g. Loulan City).
従って、この地域での考古学的発見は、常に大きな興味を惹きます。(楼蘭など)

Signs of human activities can be traced in Xinjiang for 10,000 years [1].
新疆では、人類活動の痕跡は、一万年前からあります。

Stone tools discovered at the site of Astana are nearly 5000 years old [2].
アスタナ遺跡では、発見された石器の年代は、およそ五千年前です。

Many cemeteries were discovered since the 1970s, such as the Gumugou Cemetery (around 3800 B.P.) [3], Wufu Cemetery in the Hami District with an age of nearly 3300-3000 years old [4].
1970年代以来、多くの墓場が発見されました。グムゴウ墓場(約3800年前)や、ハミ(哈密)地区にある、およそ3300年から3000年前のウフ墓場です。

During the period from 3000 to 2000 B.P., a group of people lived in the Turpan Basin and adjacent area,
3000年から2000年前には、トルファン盆地や周辺に、人々が住み着いていました。

and their different cemeteries, such as the Yanghai Tombs (ca. 2800 B.P.) [5], Yuergou Site (2400-2300 B.P.) [1], as well as many much younger sites,
彼らの墓地は、他にも、ヤンガイ墓地(2800年前)、ユエルゴウ遺跡(2300〜2400年前)があり、さらに、もっと後の時代の墓地も多数あります。

reveal much about the lives and beliefs of these peoples.
それらは、彼らの生活や宗教について、多くの事を教えてくれます。

Many mummies were found well-preserved in this area, owing to the dryness of the desert and the desiccation of the corpses [6].
乾燥した砂漠の気候が、遺体を干からびさせたため、多数の保存状態の良いミイラが発見されています。

The fantastic mummies and the delicate relics from the archaeological sites in Xinjiang, including the artifacts and crops,
新疆の考古学的遺跡の素晴らしいミイラや、工芸品や穀物を含む繊細な遺物は、

can tell us amazing stories: what the world looked like at any given point in time and space [7].
時空を越えた過去の世界の様子を、的確に語りかけてくれます。

The plant remains found at these sites provided an opportunity to study the ancient plants and their utilization by local people, as well as their bearing on environmental changes in the past.
これらの遺跡で見つかる植物の遺物は、古代の植物について、住民がその植物をどのように利用したか、過去にどのような環境変化があったかの研究を可能にします。

Some archaeobotanical researches have been done in Xinjiang in the past few years, mainly focusing on the relationship between plants and people [5,8–10] and also on the environmental data extracted from artifacts [11,12].
過去数年間に新疆で、いくつか考古学的研究がなされましたが、研究の焦点は、植物と人間の関係や、さらに、工芸品から得られた環境に関するデータです。

In the present contribution, the palynomorphs extracted from the mud coffins and plant remains found at Xiaohe Cemetery are investigated comprehensively for the reconstruction of the historical environments in Xiaohe.
本研究では、小河墓の古代の環境を再現するために、泥の棺に含まれる花粉と小河墓の植物遺骸を研究しました。

Site description
遺跡についての説明

The Xiaohe (“Small River”) Cemetery was first discovered in 1911 by an aboriginal hunter named Ördek who played a part in Dr. Sven Hedin’s discovery of the Loulan ruins around 1910-1911 [13].
小河墓の発見者は、オルデクと言う名の現地の猟師で、彼は、1910年から1911年頃のスヴェン・ヘディン博士による楼蘭遺跡の発見にも貢献しました。

Two decades later, a Swedish archaeologist Folke Bergman, coined the name for this graveyard, and excavated 12 burials guided by Ördek in 1934 [13].
約二十年後、スウェーデンの考古学者フォルケ・ベルグマンは、この墓所を命名し、オルデクの案内で1934年に12体の被埋葬者を発掘しました。

After that, the cemetery was forgotten for more than sixty years until the Relics and Archaeology Institute of Xinjiang Uygur Autonomous Region excavated this graveyard in detail in 2002 [14].
その後、この墓地の存在は、2002年にレリクスと新疆ウイグル自治区考古学研究所が詳しく発掘調査するまで、六十年間以上忘れられていました。

The rediscovery of Xiaohe Cemetery was considered to be one of the top ten archaeological discoveries in 2004 in China.
小河墓の再発見は、2004年の中国の考古学的発見のトップテンの一つでした。

About 170 tombs have been excavated since then, but unfortunately many of them were destroyed by treasure hunters.
その後、約170個の墓が発掘されましたが、残念なことに、その多くは墓泥棒に壊されていました。

The Xiaohe Cemetery, with an area of about 2500 m2, is some 4 km away from the Small River (Xiaohe, in Chinese), a downstream branch of Kongque River in Lop Desert (Figure 1) [15], and also about 175 km east of the Loulan ancient city in Xinjiang [14].
小河墓の面積は約2500pで、位置は、ロプ砂漠を流れるコング川の下流部の支流からおよそ4kmであり、新疆の古代都市楼蘭の約175km東です。

With its hillock shape the Xiaohe Cemetery forms a well-defined landmark on the flat desert.
小河墓は丘なので、起伏のない平らな砂漠では目立ちます。

The top of the cemetery possesses many upright wild poplar poles and more fallen ones [13] (Figure 2).
墓地の頂上には、ポプラの木の柱が林立していますが、それ以上の数の倒れた柱もあります。

These poles were thought to be the remains of a house which had lost its roof a long time ago [13].
これらの柱は、ずっと昔に屋根が無くなってしまった建物の名残りと考えられます。

Two main kinds of trunks stood in the cemetery, i.e. the multi-prismatic shaped poles (= pole monuments in Bergman, 1939 [13]) are all placed in front of females’ tombs and the oar-shaped ones (= oar-like monuments in Bergman, 1939 [13]) in front of those of males.
墓地に立てられている柱には、二種類あります。多角形の柱は、全てが女性の墓の前に立てられています。そして、オールの形の柱は、全てが男性の墓の前にあります。

Some archaeologists inferred that these poles were the symbols of fertility worship of Xiaohe People [13].

これらの柱を、小河墓に住んでいた人々の多産信仰の象徴と考える考古学者もいます。
The multi-prismatic shaped poles represent the phallus and the oar-shaped ones represent a vulva.
多角形の柱が、ペニスを表し、オール型の柱が、外陰部を表すと考えるのです。


小河墓の地図
http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE59CB0E59BB3-thumbnail2.jpg.html

Figure 1. Map showing the Lop Region and the location of Xiaohe Cemetery (modified from [13]).
図1.ロプ地区と小河墓の位置

小河墓の見取り図
http://eurasianhistory.seesaa.net/upload/detail/image/E5B08FE6B2B3E5A293E381AEE8A68BE58F96E3828AE59BB3-thumbnail2.jpg.html

Figure 2. Plan diagram of the Xiaohe Cemetery.
図2.小河墓の見取り図

(a) mud coffin BM28; (b) mud coffin BM 1; (c) mud coffin M100; (d) mud coffin M75
(a)泥棺BM28  (b)泥棺BM1 (c)泥棺BM100 (d)泥棺BM75
(plan in top left corner revised from [14]).

Most of the coffins, which are made from the wood of Populus euphratica Oliv., have an elliptical shape.
コトカケヤナギ(Populus euphratica)の材木で作られた棺の多くは、楕円形です。

コトカケヤナギ.jpg

However, some coffins are rectangular in shape and covered by a layer of mud.
しかし、長方形で表面を泥で固めた棺もあります。

These are called “mud coffins” (Figure 3a).
これらを「泥棺」と言います。

The result of 14C dating revealed that the age of the lowest layer of Xiaohe Cemetery is 3980 ± 40 yr BP [16], which is the oldest archaeological dating record in Xinjiang.
炭素14年代測定で、小河墓の最下層は、3980年前(±40年)と分かりました。これは、新疆の考古学的年代測定の最古のケースです。

Desiccated wheat grains from the cemetery were dated to approximately 3760–3540 yr BP [17].
墓地で見つかった乾燥した小麦の種子の年代は、およそ3760年から3540年前です。

パンコムギ(Triticum aestivum).jpg

Hence, the currently known age of Xiaohe Cemetery is about 3980 to 3540 yr BP, which was between early Xia (2070–1600 BC) to early Shang Dynasty (1600–1046 BC) in China, i.e. early Bronze Age.
現在分かっている小河墓の年代は、およそ3980年から3540年前で、中国史では、夏王朝(紀元前2070年から紀元前1600年)の初期から、殷商時代(紀元前1600年から紀元前1046年)の初期に当たります。これは、青銅器時代の初めです。

Many well-preserved mummies were found in this cemetery. Bergman described a lady with very strong European characters (e.g. brown hair, fine aquiline nose).
墓地では、多くの保存状態の良いミイラが見つかりました。ベルグマンは、はっきりしたヨーロッパ人の特徴を持つ女性のミイラについて記述しています。(茶髪、はっきりした鷲鼻)

小河の王女
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DNA analysis from 30 mummies found here also demonstrated that the Xiaohe People were a West-East admixed population, which constitutes the earliest genetic evidence for an admixed population settled in the Tarim Basin [16].
ミイラ30体のDNAを分析した所、小河墓の人々は、東西の混血集団と分かりました。タリム盆地に居住した混血集団の最古の遺伝子的証拠です。

図3泥棺と柳の葉.jpg

Figure 3. The mud coffin M75 (a); sample collected from the coffin (b); and the leaves of Populus euphratica found in the grave (c to f).
図3. (a) 泥棺M75 (b) 泥棺から採取したサンプル (c ~ f) 墓の中にあったコトカケヤナギの葉


Materials and Methods
材料と方法

In 2003, we completed our archaeological research at the site of the Xiaohe Cemetery and collected four mud samples from each of the mud coffins (BM-1, BM-28, BM-75 and M-100) (Figure 2, 3 b) for laboratory study.
2003年に小河墓での現地調査を終了し、研究室で分析するために四つの泥棺(BM-1、BM-28、BM-75、M-100 )から各一つずつ泥のサンプルを採取しました。

Meanwhile, we also collected many leaves of P. euphratica in one of the tombs with poplar remains (Figure 3 c–f).
さらに、墓の一つからコトカケヤナギの葉を多数採取しました。

In the laboratory, we first weighed 30 grams of each sample and put them into beakers with distilled water containing 1 milliliter of a suspension of Lycopodium spores (ca. 83,500 grains per milliliter).
研究室で、各サンプルから30gを測り取り、1㎖のヒカゲノカズラ胞子(1㎖に83,500粒)を加えた蒸留水に入れてミキサーにかけました。

After immersion for 48 hours, the samples were sieved using a mesh with the pore size of 1 mm2.
48時間水に浸した後、穴のサイズが1㎟のメッシュで、漉しとりました。

The residue was mainly composed of macrobotanical remains and livestock hairs (Figure 4 c).
メッシュに引っかかったのは、主に大きな植物破片と家畜の体毛です。

The screenings were prepared for a palynological study using the heavy liquid method [18].
分析用の花粉を取り出すために、重液法を用いました。

We counted the contents of three slides from each specimen to obtain a representative sample of the palynomorphs (Table 1).
各サンプルから三枚のスライドの花粉化石をカウントしました。

図4.サンプルから得られた花粉以外の物 (a) 藁 (b) 羊の糞 (c) 家畜の毛.jpg

Figure 4. Other materials found from the samples. (a) straws; (b) piece of sheep manure; (c) livestock hairs.
図4.サンプルから得られた花粉以外の物 (a) 藁 (b) 羊の糞 (c) 家畜の毛

花粉計数.jpg

Table 1. Pollen counting data of the samples.
表1. 各サンプルの花粉を計数


Results and Discussion
結果と検討

Palynological analysis
花粉分析

Totally, 96 pollen grains, belonging to nine types of palynomorphs, were found in the four palynological samples (Table 1) and all taxa were identified applying single-grain technique [19] (Figure 5, Figure 6; the only pollen grain of Alnus was lost during the preparation for the scanning electronic microscope).
4つのサンプルから、9種類の花粉化石が96粒得られました。そして、単粒法を用いて、すべての分類群を同定しました。一粒だけ見つかったハンノキ属の花粉化石は、走査電子顕微鏡のプレパラート作成時に紛失しました。

Most of the taxa are common in arid areas (e.g. Chenopodiaceae, Artemisia, Ephedra, Tamarix and Gramineae).
分類群のほとんどは、乾燥地帯に見られる植物です。
(アカザ科、ヨモギ属、マオウ属、ギョリュウ属、イネ科)

Chenopodiaceae is well-adapted to dry and saline environments.
アカザ科は、乾燥した塩分の多い環境に良く適応しています。

Artemisia normally grows in arid or semi-arid habitats.
ヨモギ属は、通常、乾燥地帯や半乾燥地帯に生育します。

Ephedra is a common shrub of dry, open sites and is predominantly a warm desert-steppe plant restricted to both meteorologically and physiologically dry areas [20].
マオウ属は、乾燥した開けた土地の低木で、主に、気象的・物理的に乾燥した温暖なステップ砂漠に見られます。

Tamarix is one of the most common woody plants in Xinjiang [21].
ギョリュウは、新疆で最も普遍的な樹木の一つです。

Gramineae pollen grains are often used as an indicator of openness.
イネ科の花粉は、しばしば、土地が開けている度合いの尺度に用いられます。

However, these grass pollen are one of the most ubiquitous and readily recognized pollen types found in terrestrial sediments.
もっとも、イネ科草本の花粉は、陸上の土壌には、どこでも普遍的に含まれています。

Although these monoporate grains differ in size, surface texture and annular width, these features do not permit reliable recognition at the subfamily level [22].

これらの単孔粒は、大きさ、表面の形状、ランド幅が異なっていても、これらの特徴で、亜科まで分類する事はできません。

Moreover, the pollen wall of Gramineae is thin, and is low in sporopollenin, hence has a poor preservational potential [23].
さらに、イネ科の花粉壁は薄く、スポロポレニンも少ないので、保存されにくいです。

These factors suggest that the pollen cannot be transported far and are easily damaged when buried in soil.
これらの要因から、花粉は遠くから持ち込まれたものではなく、また、土中で壊れやすい事が分かります。

However, based on the number of reeds (Phragmites sp.) found in the graves, it seems reasonable to believe that most of the Gramineae pollen in our samples belong to Phragmites.
ところで、墓地内で多くの葦(ヨシ属)が見つかった事から、イネ科の花粉の多くが、ヨシ属だと推定できます。

Corylus and Alnus, as wind-pollinated taxa very readily overproduce airborne pollen grains, and are the normal elements found in lake sediments and soil.
ハシバミ属とハンノキ属は、大量に花粉をまき散らす風媒花植物であり、それらの花粉は、湖沼土壌や堆積物中に普通に含まれます。

ハシバミ.jpg

Alnus ハンノキ属.jpg

The grains of these two taxa may come from the forests on the mountains surrounding the study areas.
これらの二つの分類群の花粉は、研究対象地の周辺の山地林から飛来した可能性があります。

図5 花粉写真1.jpg

Figure 5. Palynomorphs found from the samples collected from the mud coffin.
図5.泥棺から採取したサンプル中の花粉化石

The first column shows pollen grains under light microscope;
左の写真は、光学顕微鏡で見た花粉粒

the middle column shows the previous grains under the scanning electronic microscope;
真ん中の写真は、同じ花粉粒を、走査電子顕微鏡で見たもの

and the last column shows the surface details under scanning electronic microscope.
右の写真は、走査電子顕微鏡による詳細な表面形状

(a) Ephedra; (b) Typha; (c) Artemisia; (d) Chenopodiaceae.
(a) マオウ属 (b) ガマ属 (c) ヨモギ属 (d) アカザ科

図6 花粉2.jpg

Figure 6. Palynomorphs found in the samples collected from the mud coffin.
図6.泥棺から採取したサンプル中の花粉化石

The first column shows pollen grains under light microscope;
左の写真は、光学顕微鏡で見た花粉粒

the middle column shows the previous grains under the scanning electronic microscope;
真ん中の写真は、同じ花粉粒を、走査電子顕微鏡で見たもの

and the last column shows the surface details under scanning electronic microscope.
右の写真は、走査電子顕微鏡による詳細な表面形状

(a) Gramineae; (b) Corylus; (c) Tamarix.
(a) イネ科 (b) ハシバミ属 (c) ギョリュウ属

Compared with the taxa mentioned above, the presence of Typha pollen in the assemblage is more interesting.
以上の分類群に加えて見つかったガマ属の花粉は、非常に興味深いです。

As an aquatic, Typha can normally live in a variety of wetland habitats, and their pollen grains can be frequently found in peat and lignite beds [24].
水生植物であるガマ属は、通常、様々な湿地に生育し、その花粉粒は、泥炭や亜炭の湖沼底土壌中で普通に見られます。

Hence the occurrence of Typha pollen illustrates that there was surface water close to the Xiaohe People’s residence.
つまり、ガマ属の花粉の存在は、小河墓の人々の住居のそばに湖沼があった事を示します。

The mud which covered the coffins may have been obtained from the habitat of the Typha.
棺を覆う泥は、ガマが生育する場所で得られた可能性があります。

Plant remains
植物の遺骸

At a traditional funeral in China, people always put something precious into the coffin and/or grave, in the hope that the dead person can live better with these objects in another world.
中国の伝統的な埋葬では、常に棺の中や墓穴の中に、貴重品が副葬されました。死者が、あの世で、これらの品物を使って生活できる様にです。

Those relics found in tombs provide us with an opportunity to learn about the culture of the ancient people and the environment in which they lived.
墓地で見られるこれらの慣習は、古代人がどのような環境や文化の中で生活していたかを教えてくれます。

Several kinds of plant remains were found during the first excavation of the cemetery by Bergman,
ベルグマンによる墓地の最初の発掘で、数種類の植物遺骸が見つかりました。

i.e. the poles made of Populus euphratica, Ephedra twigs, Tamarix twigs, grains of bread wheat (Triticum aestivum) [17], Jiji grass (Achnatherum splendens), reed (Phragmites sp.) and grains of broomcorn millet (Panicum miliaceum) [13,14,17].
コトカケヤナギ(Populus euphratica )で作られた柱、マオウ(Ephedra)の枝、ギョリュウ(Tamarix)の枝、パンコムギ(Triticum aestivum)の種子、芨芨草 (ジジソウ:Achnatherum splendens)、ヨシ属(Phragmites sp.)、キビ(Panicum miliaceum)の種子です。

ジジソウ.jpg

キビ(Panicum miliaceum).jpg

パンコムギ(Triticum aestivum).jpg

DNA analysis of the wheat grains confirms that the grains found here are similar to hexaploid bread wheat [17].
小麦の種子のDNA分析で、それが、六倍体のパンコムギに近い事が分かりました。
(訳注:二倍体のタルホコムギと四倍体のデュラムコムギを交配して栽培種の六倍体パンコムギができたと考えられます。)

As broomcorn millet grains always show up together with wheat grains in the graves [14,17], we can presume that broomcorn millet was also cultivated by then.
キビの種子とコムギの種子が両方ある事から、当時、コムギとキビが栽培されていたと推測できます。

Populus euphratica is the characteristic element of the common desert riparian forest in Northwest China [25].
コトカケヤナギは、中国北西部の河畔林に特徴的で普遍的に見られる樹木です。

As a common shrub with medicinal function, Ephedra was considered as a magic plant by the Lop people.
普通に見られる薬効のある低木であるマオウを、ロプ住民は、魔法の植物と考えました。

Also, it is very common to find Ephedra branches in most of the graves of the ancient Lop people in the Lop Nur area, such as LF, LS and LD graveyards [26], Cemetery 36 [26], Gumugou cemetery [27] and graveyards around Loulan ancient city [28].
マオウの枝は、ロプヌール地区の古代ロプ住民の墓所内で、しばしば見つかります。LF墓所、LS墓所、LD墓所、第36共同墓地、グムゴウ共同墓地、楼蘭古代都市周辺の墓場などです。

Some Chinese archaeologists suggest that this phenomenon is a kind of plant worship and call it ephedra worship [27,28].
これを、信仰の一つと考えて、マオウ信仰と名付ける中国の考古学者もいます。

マオウ(Ephedra).jpg

The medical use of Ephedra has been known for several thousand years in China.
中国では、数千年来、マオウの薬効が知られていました。

As a central nervous excitant, ephedra was also used in ceremonies to produce feelings of exhilaration by various religious groups including Hindus [29].
中枢神経刺激性のマオウは、高揚感を喚起する目的で、ヒンドゥー教を含む、様々な宗教の儀式で用いられました。

As an ingredient of Haoma or Soma, ephedra has been used for millennia in both Iran and India [30] as a beverage to achieve longevity and immortality [31].
マオウは、ハオマやソーマの成分の一つであり、イランとインドで数千年間、長寿や不死の飲み物として用いられました。
(訳注:ソーマは、ヴェーダの祭祀で用いられる一種の興奮飲料で、 ハオマは、ゾロアスター教において重視される神酒)

The intention of putting tamarisk twigs in the burials has never been studied yet.
ギョリュウの枝を副葬する目的については、未研究です。

御柳.jpg

The grains of wheat (Triticum aestivum) were normally found together with the ephedra twigs (or fragments) in graves [28].
パンコムギ(Triticum aestivum)の種子は、通常、マオウの枝(または破片)と一緒に、墓の中で見つかります。

Moreover, some dried porridge of millet was also preserved in some graves [13].
さらに、干からびたキビのお粥が、いくつかの墓で見つかりました。

These plant remains indicate that wheat and millet were also very precious for the ancient people.
これらの植物遺骸は、ここの古代人にとって、小麦とキビが大変な貴重品だった事を示唆します。

Other plant and animal matter
他の植物と動物由来の物

The straws (Figure 4 a) found in the mud samples were used to reinforce the mud for construction purposes.
泥のサンプル中で見つかった藁は、泥の構造物を強化するために使われました。

This technique is still widely used in the countryside of China.
この工法は、現在でも中国の田舎で、広く使われています。

These straws may have originated from wheat and/or millet.
これらの藁は、小麦やキビの茎だと思われます。

The appearance of the livestock hairs (Figure 4 b) and the sheep manure (Figure 4 c) in the samples illustrates that the earth used to make the covering layer of the coffins must have been obtained from a place frequented by the animals.
サンプル泥中への家畜の毛や羊の糞の混入は、棺を覆う泥が、動物が頻繁に通る場所から採取された事を示します。

The occurrence of many/numerous bones and furs in the Xiaohe Cemetery [13,14], suggests that some of the Xiaohe People were living as herdsmen.
小河墓にある大量の骨や動物の毛は、小河墓の人々が牧畜を営んでいた事を示唆します。

Environmental analysis
環境分析

Based on the plant analyses presented above, the presence of both xerophytic and hydrophytic plants (e.g. Typha) demonstrate that there was enough water in the Small River at that time though it lies in the expansive Lop Desert.
上記の植物分析で、乾生植物と水生植物(ガマ属:Typha )の両方が見られる事から、当時は、広大なロプ砂漠を流れていた小河(Small River)に十分な水量があった事が分かります。

ガマ属.jpg

In the surrounding desert, there were many Ephedra, Tamarix, Artemisia and some members of the Chenopodiaceae plants.
周辺の砂漠には、多くのマオウ属(Ephedra )、ギョリュウ属(Tamarix )、ヨモギ属(Artemisia )と、いくらかのアカザ科(Chenopodiaceae )植物がありました。

マオウ(Ephedra).jpg

御柳.jpg

梭梭 アカザ科(Chenopodiaceae).jpg

ヨモギ属(Artemisia).jpg

The people apparently collected the ephedra and Tamarix for medicinal or religious use from the neighboring arid terrains.
明らかに人々は、医学的、または、宗教的目的で、マオウとギョリュウを、周辺の乾燥地帯から採取しました。

However when the people lived there the site was a well-watered wetland along the Small River.
しかしながら、この人々が住んでいた頃は、この場所が、小河(Small River)沿いの水量豊富な湿原でした。

There the rich alluvial soils of the flooded areas served to support the growth of their crops, and provide areas where livestock could be sustained/raised.
その氾濫原の肥沃な沖積土壌が、穀物の栽培と家畜の飼育を可能にしていました。

Moreover, this location was the habitat of the common Populus euphratica which served in the construction of their houses and coffins.

さらに、この場所には、コトカケヤナギ(Populus euphratica)が普遍的に生育していて、家屋や棺の材料になりました。

コトカケヤナギ.jpg

So although the regional natural environment was very dry, the hydrological living conditions were good enough along the small river for the Xiaohe People to survive.
地域の自然環境はとても乾燥していましたが、小河(Small River)沿いの水利的生活環境は、小河墓人にとって良好でした。

Conclusions
結論

Much research has shown that the climate in the Lop Nur region has been very dry since the Early Holocene [32–34].
多くの研究者が、ロプヌール地域の気候が、完新世の初期以降、とても乾燥している事を示しました。
(訳注:完新世は、約1万年前から現在まで)

However, the so-called dry climate is actually a kind of meteorological myth.
しかし、その乾燥気候は、実際には、気象学的神話に過ぎません。

Fed by melt-water from the Tianshan Mountain, the runoffs of the rivers into the Tarim Basin are actually quite considerable, especially in summer time.
天山山脈の雪解け水が流れ込む川は、タリム盆地に、特に夏季に、かなりの水量を注ぎ込みます。

Many oases depend on such seasonal rivers.
多くのオアシスは、この様な季節的河川に依存しています。

During 3600-3000 a BP, the lake of Lop Nur was very large and there were many deltas around it.
3600年から3000年前までは、ロプヌール湖はとても大きく、周辺には、多くの三角州がありました。

Fishing and hunting were very common at that time [35].
当時は、漁労と狩猟が、活発に行われていました。

According to historical documents, the water area of Lop Nur was still very large during the Jin Dynasty (AD 226-420) [36].
歴史的文書によると、ロプヌール地方の水量は、晋時代(紀元226年から420年)には、まだ豊富でした。

Based on this work, the living environment of the Xiaohe People was a very well developed oasis of deltas, which was surrounded by extensive desert.
本研究で、小河墓人の生活環境は、広大な砂漠で囲まれた、よく発達したオアシスと三角州だったと分かりました。

The main taxa of the vegetation in the oasis were Populus euphratica, Phragmites, Typha and maybe other weedy Gramineae.
オアシスの植物の主な分類群は、コトカケヤナギ(Populus euphratica)、ヨシ属(Phragmites)、ガマ属(Typha)と、おそらく、イネ科(Gramineae)の草本でした。

However, outside the oasis, drought-resistant taxa dominated the vegetation, e.g. Ephedra, Tamarix, Artemisia and members of the Chenopodiaceae.
ところで、オアシスの外には、耐乾燥性の植物分類群が主流でした。マオウ属(Ephedra)、ギョリュウ属(Tamarix)、ヨモギ属(Artemisia)、アカザ科(Chenopodiaceae)です。

The Xiaohe People mainly lived on animal husbandry.
小河墓人は、主に、牧畜で生計を立てていました。

However, they also attempted to cultivate cereals such as bread wheat and broomcorn millet.
しかし、パンコムギやキビなどの穀物の栽培も試みていました。

キビ(Panicum miliaceum).jpg

パンコムギ(Triticum aestivum).jpg

Most of the coffins in the cemetery are canoe-shaped, which may suggest that the Xiaohe People spent some of their lives on water.
墓地の棺の多くは、舟形です。これは、小河墓人が水上生活もしていた事を示唆します。

Bergman [13] inferred that because there are no known settlements near the cemetery, the people probably lived somewhere else along the river and reached the cemetery by boats.
ベルグマンは、墓地の近くには住居跡が見つかっていないので、人々が川沿いの別の場所で暮らし、舟で墓地を訪れたと考えました。
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/434094909.html


タクラマカン砂漠から大量に出土中国最古のミイラ群
横堀克己=文  新疆文物考古研究所=写真提供
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107.htm


木棺の中から姿を現した女性ミイラ【M11】

中国の西部、新疆ウイグル自治区の中央部に、中国最大の砂漠、タクラマカン砂漠が広がっている。ここは太古からシルクロードが走り、東西の文化が出会ってきた舞台である。

有名な楼蘭(ローラン)や「さまよえる湖」のロプノールから西に約百キロの砂漠の中に、「小河墓地」があることは70年以上前から知られていた。しかし、長くその存在は砂漠の砂に埋もれて分からなくなっていた。

今世紀になって、小河墓地は再び発見された。そして全面的な発掘調査が行われた。その結果、墓地からは164体ものミイラが発見され、しかもその最下層から発見されたミイラは、科学的鑑定の結果、紀元前2000年にまでさかのぼることが判明した。

さらに、DNA鑑定によって、最下層のミイラは、モンゴロイド(東洋系)とコーカソイド(白人)の混血であることが分かった。

この発見によってタクラマカン砂漠は、東と西の人種が初めて出会い、融合して、独自の文化を発展させた可能性が出てきた。

詳しい学術的報告は近く発表されるが、本誌は新疆文物考古研究所の全面的協力を得て、小河墓地の発掘調査の全容を紹介する。

mirra1 半世紀後に甦った墓地


【砂漠に消えた遺跡】

小河墓地の全景

1934年、中国政府から調査の依頼を受けたスウェーデンの考古学者、ベルグマン博士は、地元の猟師オルドックの案内で、タクラマカン砂漠の中を流れる孔雀河から南に分かれた支流の小河をさかのぼっていた。そして小河から4キロ入った砂漠の砂丘の上に、高い枯れた木の柱が無数に立っているのを発見した。

近寄って見ると、枯れた木は死んだ樹木ではなく、人工的に立てられ、長く強風に晒されて白くなり、亀裂が入っていることが分かった。足元には人骨や毛織物の破片が落ちており、黒い長髪の残るミイラの顔面も見つかった。

この場所は、地元では「有上千口棺材(千を超す棺がある)」と伝承されている墓地だった。ベルグマンはここを「小河5号墓地」と命名し、12基の墓を発掘し、ミイラや木屍(遺体の一部または全部を木でつくったもの)を持ち帰った。

そして1939年、ベルグマンは『新疆考古研究』を発表した。この中でベルグマンは小河墓地の規模の大きさや特異な墓葬形式を紹介し、ロプノール早期の文明ではないかとして世界の考古学界で大きな反響を呼んだ。

ところが長い戦乱や混乱の中で、小河墓地の存在はいつしか忘れ去られ、その場所さえ分からなくなってしまった。

小河墓地が砂漠の中で再び発見されたのは、半世紀以上経った2000年12月11日である。新疆文物考古研究所の王炳華研究員(現在、中国人民大学国学院の特別招聘教授)が深圳のテレビ映画撮影クルーに同行し、GPSなどを用いてついに小河墓地を探し当てたのだった。

【砂丘を越えて発掘現場へ】


砂漠の中を行くには、専用の車両を使わなければならない
2002年12月、国家文物局の許可を得て新疆文物考古研究所は小河墓地考古隊を編成し、1カ月間の小規模な試掘を行うことになった。

タクラマカン砂漠は新疆ウイグル自治区南部にある中国最大の砂漠。北は天山山脈、南は崑崙山脈に囲まれたタリム盆地の中央部にある。東西約千キロ、南北約400キロ、面積33万7600平方キロ。流動砂丘が85%を占め、砂丘の高さは普通80〜150メートル、中には200〜300メートルに達するものもある。

小河墓地は、そのタクラマカン砂漠の東部、有名な楼蘭古城遺跡から175キロ西にあり、もっとも近い集落であるアラカン鎮からも36キロ離れた砂漠のど真ん中に位置している。

12月26日、考古隊は二両の砂漠用トラックに発掘機材や物資を満載し、ロプノールの西側の農墾兵団34団のティエカンリク鎮を出発し、水のないタリム河を越え、小河墓地に向かった。まる二日走っても、直線距離で十数キロしか走れず、27日夜、トラックはとうとう砂に車輪を取られ、動けなくなった。

GPSで観測した結果、小河墓地までまだ15キロ余りあった。考古隊はここで三つの班に分かれ、一班はそこに荷物とともにとどまって野営し、イディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長ら5人の班は1人30キロの荷物を背負って小河墓地に向かい、もう一班は来た道を戻って住民からラクダを借りに行った。イディリス所長らは十数時間後、小河墓地に到着、その他の班はラクダで荷物を運び、2003年1月3日までに発掘現場に勢ぞろいした。

【林立する木は生殖崇拝】


発掘作業に従事する考古研究者たち

小河墓地は高さ約7メートルの砂丘の上にあり、長さ74メートル、幅35メートル、約2500平方メートルの範囲に、周囲を木製の杭で作られた木柵に囲まれていた。そして砂丘の表面には、さまざまな形をした太い胡楊木(ポプラの一種)の立木が全部で140本立てられていた。

胡楊木の立木は、ベルグマン博士が小河古墓を発見したときのまま、数千年の強風と烈日に晒されて立っていた。調査の結果、立木はその下に埋められた棺の前方に立てられており、男性の棺の前に立てられた立木は舟の櫂の形をしている。女性の棺の前に立てられた立木は柱状であった。

櫂は、大きなものは高さが約2メートル、幅約70センチもあり、小さなものは高さ1メートル30センチ、幅10センチほどであった。櫂の表面は黒い塗料が塗られ、櫂の柄は赤く塗られていて、柄の底は七重の旋回文様が彫りこまれているものが多い。

女性の棺の前に立てられた柱状の立木は、高さが1メートル50センチから1メートル80センチで、形状はさまざまである。先端はどれも赤く塗られ、毛糸がぐるぐると巻きつけられている。この櫂状と柱状の立木はいったい何を意味しているのか。学者たちは櫂状の立木は女性性器を、柱状の立木は男性性器をそれぞれ象徴していると考えている。小河墓地がつくられた時代、人々は生殖崇拝の観念を持ち、多産を願っていた、と考えられる。

また一部の立木の先端に小さな銅片がはめ込まれているものも発見された。楼蘭の遺跡からすでに青銅器が見つかっており、この時代すでに、シルクロードを通じて青銅器の交易が行われていたことを示している。

考古隊は砂丘の下にテントを張り、小河墓地の実測調査や表面に露出している棺やミイラの整理、収集を行った。砂丘の上には棺材やミイラの残骸、毛織物などが散乱しており、自然破壊だけでなく人による盗掘も行われ、140基以上の墓葬がすでに破壊されたと推定された。

また考古隊は、砂丘の東の平坦な場所で3メートル近い八角形の木柱を発見、その付近から厚い木板や横梁、白い粘土などを見つけた。これはベルグマンが小河墓地を発見した当時、あったという「立木」と「木造の小屋」の跡ではないかと推定されたが、中にあったという「木棺」と「女性のミイラ」は跡形もなく消えていた。

考古隊は3週間をかけた試掘調査で、地表に露出した四基の木棺を発掘・整理したが、その棺の一つを開けて見ると、驚いたことに中からミイラではなく、木でつくられた135センチの「木屍」が出てきた。「木屍」は木で顔や四肢がつくられていた。
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107.htm

mirra2 ミイラはこうして発掘された
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_2.htm


【砂嵐で中断された発掘】

南区のもっとも下の第5層と一部の第4層がついに姿を現した

試掘調査の結果を踏まえて2003年10月からは、イディリス新疆文物考古研究所長を隊長に、全面発掘が行われることになった。10月は砂漠の気候が比較的安定し、条件が良い。数十トンの発掘機材や生活物資を小河墓地の下まで運びこまなければならない。そのルート探しのため、イディリス隊長ら二人が道路のあるアラカンから徒歩で砂漠を進み、発掘現場までの200キロ以上を往復した。

 ルート探しに時間がかかり、12月末になってタリム河が結氷したので考古隊は3日をかけて砂漠を越え、2003年の元日に現場に到達した。そこにテント村をつくって、農民工を雇って本格的な発掘調査が始まった。

 12月の砂漠は零下34度にまで冷え込む。日中、太陽が出れば暑くなり、昼夜の温度の差が激しい。砂嵐もたびたび襲ってくる。しかし、水は貴重品なので、頭を洗うのはもったいない。そこで男性の隊員たちは髪の毛をきれいに剃ってしまった。

 しかし発掘は3カ月でいったん中止された。春から夏にかけて猛烈な砂嵐に襲われたからである。考古隊は、発掘現場に看守のガードマンを残して引き揚げた。後にガードマンはあまりの孤独に、精神に異常をきたしたという。2004年9月から、今度は新疆文物考古研究所と吉林大学辺疆考古研究センターが合同で発掘が再開され、2005年3月に発掘は終了した。

 その発掘の『簡報』は2007年10期の雑誌『文物』に掲載されたが、それは、発掘調査の一部であり、全面的な報告書の作成は現在も進められている。発掘の全容を知るために、5月、新疆ウイグル自治区のウルムチに飛び、新疆文物考古研究所でイディリス所長を訪ねた。また、小河墓地発掘の全過程に参加した李文瑛・同研究所副研究員から詳しく話を聞いた。

【中国最古のミイラと判明】

発掘現場近くに建てられたテント村

発掘調査の結果、小河墓地は南区と北区に分かれており、北区からは28基の墓葬が、南区からは139基の墓葬がそれぞれ発掘された。これに、すでに破壊された190基を加えると357基の墓葬があったことになる。

 出土したミイラは、全部で145体。いずれも「干屍」であり、エジプトのミイラのように、人為的処理をくわえてつくられたものではなく、自然に乾燥したものである。内訳は男性54体、女性79体、性別不明12体。その中に子どものミイラは19体あった。

 このほかに「木屍」が10体(男性8体、女性2体)、体の一部が「木屍」で一部がミイラのもの二体(いずれも男性)が発掘された。「木屍」が何の目的で埋葬されたのかははっきりしない。研究者たちは、行方不明になり、遺体のない人の代わりに埋葬された、あるいは遺体の一部がなんらかの理由で損壊され、その部分を木で補った、または他の墓地から改葬された、などの仮説を立てている。

 いずれにせよ、145体の「干屍」と10体の「木屍」が一カ所の墓地から一度に出土したことは、世界的に例がない。

 南区の墓葬は、時代順に5層に分かれていることが判明した。一番表層の第1層からは13基、その下の第2層から27基、第3層から23基が発見された。炭素14の崩壊による年代測定の結果、1〜3層の絶対年代は紀元前1450〜1700年と分かった。

 第3層の下は約1メートルの砂が堆積し、その下に第4層があり、38基の墓葬が発見された。さらにその下には最下層の第5層があり、やはり38基の墓葬が確認された。これを炭素14により年代測定すると、紀元前1700年から2000年であることが判明した。

 これまで中国で発見された最古のミイラとされる有名なミイラ「ローランの美女」は紀元前1800年といわれるので、小河墓地の最下層から出土したミイラは中国最古のミイラと言える。


【続々発掘されたミイラ】


マントを取り除いた女性ミイラ【M11】

第1層、第2層から発掘されたミイラは、一般に頭を東、あるいは東北に向け、まっすぐ体を伸ばして上向きに寝ている。一部の死者の顔には、赤い線条が描かれ、体全体に乳白色の糊状の物質が塗られている。

 死者は頭にフェルトの帽子を戴き、足には革靴を履き、腰に腰当を着け、身に毛織物のマントを巻きつけている。副葬品は、身につけた衣服や首飾り、腕輪のほか、どの墓にも必ず、マントの外の右側に、草で編んだカゴが置かれている。死者の体の上には、大量のマオウ(麻黄)の小枝や動物の耳、動物の筋をよって作られた短い縄が置かれている場合が多く、体の下には小麦やトウモロコシの粒がばらばらに置かれている。そのほか、細長いタマリスク(紅柳)の棒や鳥の羽でつくられた羽飾りなどがよく見られる。

 墓の主人の性別の違いによって、着ている服装や副葬品は明らかな違いがある。例えば、男性のマントの穂(垂れ下がり)はスカートにあることが多く、女性のマントの穂は首から肩に多い。男性の腰当は帯のようで、女性のは短いスカートのようだ。男性の棺の前にある櫂の立木の両側には、死者が使う弓と木製の矢が別々に立てられ、体の上には羽のついた矢が置かれている。女性は、体の上に「木祖(木制の男根)」や革袋、木の櫛が置かれている。さらに特別な一部の副葬品、例えば牛の頭、人面をはめ込んだ木製の杖などは、墓主の身分と関係があるかもしれない。 

 出土した多くのミイラの中で、保存が比較的良く、小河古墓の典型的なミイラを紹介しよう。

【M11】

第1層、南区の東端の中央部にあり、墓地の砂丘の頂部から発掘された。ミイラは、保存がよく、美しい顔立ちが印象的である。


発掘された女性ミイラ【M11】

木製の棺は長さ2.2メートル。棺の上は3枚の牛の皮で覆われ、棺頭は黄色、棺尾は白、中央部は斑の牛皮。その上に白いマント、マントの上に12本のタマリスクの枝が置かれていた。

墓の主は成年女性で、頭を東に向け、仰向きに手足をまっすぐ伸ばし、頭と脛と足先以外は全身を大きな白い毛織のマントで包まれている。

女屍の身長は152センチ、全身に乳白色の糊状のものが塗られている。体はやや豊満で、胸部、腹部が著しく肥満している。眼窩は深く落ち窪み、亜麻色の長い睫毛、高くまっすぐな鼻、少し開けた口、薄い唇。髪は亜麻色で多く、自然に頭の真ん中でわかれて胸にまで達する。

棺内には白色の羊のフェルトでつくられた円い帽子、白色の羊毛で編まれた毛織のマント、短いスカート式の腰当、革靴、首飾り(玉珠、白色石珠、黒色石珠を連ねたもの)、ブレスレット(淡青色の蛇紋石玉を連ねたもの)、木製の留め針(マントをとめる)、櫛、草で編んだカゴ、小動物の皮でつくった皮袋、羽飾り、木祖などがあった。

【M13】

南区の北側の砂丘の第一層から出土したミイラも保存状態がよい。蓋の板は11枚で、板の上に黒色の直線が描かれている。棺の上は3枚の牛皮で覆われている。

墓主は成年の女性。頭を東に向けている。頭と足、脛のほかはすっぽりと白地に大きな赤い縦じま文様の毛織のマントで包まれている。

マントの外の腹部の上方には、大きな牛の角が置かれていた。屍体の右腰骨に立てかけるように、フェルトで蓋をした草篭が置かれていた。

そのほか、円形の銅片7枚がついた毛織物の腰当、乳白色の糊状の物質が塗られた革靴、珠を連ねた首飾り、腕飾りを持っていた。左乳房には木彫の人面像が置かれ、右腹部には大きな皮袋と3本の羽飾りがあった。左腕の外側には木祖が一つ、右手の下に二個の小さな石があった。また、タマリスクの枝、木製の櫛、黍の粒、麻黄の小枝、動物の耳などが出土した。

女屍の身長は150センチ。死者の顔とマントから出ている大腿部は乳白色の糊状の物質が塗られていた。顔はやや痩せ、両方の頬の下は深く落ち込み、頬骨は高く、眼窩は深く落ち窪んでいる。口をしっかりと閉ざし、明らかに扁平で長い。亜麻色の頭の髪は短く、顎よりも長くない。髪の毛にも糊状の物質が塗られていた。顔面部の糊状物質をとり除くと、額から鼻にかけて赤い横線が描かれていることが分かった。

木彫人面像は、長さ9.1センチ、幅6.7センチ、鼻の高さ2センチ。平面は楕円形で、正面は誇張された目、耳、鼻、口、眉が浮き彫りにされ、背面は内側に凹型になっている。人面の表面にはきわめて薄い皮状の物質が糊付けされており、その上に赤い色が塗られている。人面は眉が発達し、眼窩は落ち窪み、二つの小さな珠をはめ込んで眼球とし、鼻は高くそびえ、鼻梁は7本の細い紐が横に載せられている。口の形は長方形で、白い羽の管を切断してつくった八個の「歯」がはめ込まれている。額の頂上部に小さな孔があり、おそらく紐を通したものであろう。  

【M24】

矢や棒を持った男性のミイラ【M24】

南区の中部の地表から1.7メートル下の第2層から発掘された。第1層の3つの墓と第2層の2つの墓の下にあった。棺は4枚の牛皮で覆われ、墓主は成人の男性で、身長164センチ。毛織物のマントで体をすっぽりと覆われ、腹部の上には赤や黒に塗られた大きな牛の頭が置かれていた。体の右側には、矢や先の尖った棒などが多数置かれていた。

棺内から発見された人面像を象嵌した木仗は長さ66セン。これは墓主の身分を象徴していると思われる。

【M100】

南区の第4層と第5層と北区からは、特徴のある棺が発見された。それは棺の蓋の上が泥で固められている「泥棺」である。南区の第4層の【M75】、第5層の【M100】、北区の【BM1】【BM2】は「泥棺」であった。

【M100】の蓋を開けると、中から長さ134センチ、幅40センチの12枚の板からつくられた木製の板室があり、その中から墓主である成人女性とともに、木製の人形や木罐などの副葬品が出ていた。【BM1】【BM2】も墓主は女性で、木製の人形が出土した。

李文瑛・副研究員は、この「泥棺」を女性の占い師(巫女)の墓ではないかと見ている。これがもっとも深い層から出てきたことや、上層部からは出土しないことなどから見て、巫女を中心とする社会から男性の族長を中心とする社会に移行していったのではないか、と言っている。

【M19】

第2層からは嬰児のミイラが発掘された。毛織物に包まれていて目鼻立ちがはっきりしている。子どものミイラには嬰児も幼児もあったが、全体的にみて子どもの死亡率がとくに高いということはなかった。

ミイラとともに動物の耳や小麦などが出土した。発掘当初は男の子か女の子か分からなかったが、棺の近くに櫂が立てられていたことから、男の子と推定された。
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_2.htm

mirra3 4000年前に存在した社会は
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_3.htm


イディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長

小河墓地の発掘によって、いまから4000年前に、タクラマカン砂漠には、かなり文明の発達した社会が存在していたことが明らかとなった。そのころ中国では、最古の王朝である夏王朝が起こり、エジプトでは古王朝が終わり、12王朝が始まったころである。東西の文明を結ぶシルクロード上にあったと思われる小河古墓を築いたのは、どんな人たちであったのか、どんな社会を形成していたのか。発掘の総責任者であるイディリス・アブドゥラスト新疆文物考古研究所長に話を聞いた。

――小河墓地の最下層から出土したミイラの人種は?

■イディリス所長 これまで楼蘭など新疆ウイグル自治区の遺跡から出土した非常に古いミイラは、コーカソイド(白人)と考えられてきました。小河墓地の遺跡から発掘されたミイラも、外見的には眼窩が落ち窪み、鼻は高く、コーカソイドのようでした。しかし、最下層のミイラの一部を北京大学加速器実験室で鑑定してもらったところ、この5月、驚くべき報告を受けました。それはDNA鑑定の結果、モンゴロイド(東洋系)のDNAも発見されたというのです。つまり彼らはコーカソイドとモンゴロイドの混血の可能性が出てきたのです。

これは、4000年前かそれ以前に、シルクロードで、西から来たコーカソイドと東から来たモンゴロイドがタクラマカン砂漠で初めて出会い、混血したことを想像させます。壮大な人種の移動と融合が考えられるのです。

――彼らの「村」の規模はどのくらいでしょうか。

■イディリス所長 500年から600年の間に約350基の墓をつくったのですから、「村」の規模はそれほど大きなものではなかったでしょう。墓地と集落とはそう遠くは離れていないと思われますが、墓地を中心に10キロ四方からはいまのところ住居址は見つかっていません。

――彼らはどんな社会をつくっていたのでしょうか。

■イディリス所長 男女の性器を象徴する木柱や木櫂が大量に出土したことや、女性ミイラが男根を象徴する「木祖」を持っていたことなどから考えて、彼らは、生殖崇拝の信仰を持っていたと考えられます。これは「万物の豊産」の願いを反映しています。死後に顔面を白く塗ったり、赤い線を描いたり、人面像や木製人形を副葬したりしていることから見て、この時代にすでに宗教が存在していたことは明らかです。

――どのようなものを生産し、どのように暮らしていたのでしょうか。

■イディリス所長 棺の中から大量の小麦やトウモロコシが出てきました。小麦は鑑定の結果、人為的に改良された種類であることが分かりました。この小麦には大量の水が必要であり、当時は灌漑が行われ、小麦の畑が一面に広がっていたと思われます。

また、棺は3枚の牛皮で覆われているのが普通で、棺の中や木柱に大きな牛の頭蓋骨がいっしょに葬られていることから考えると、牧畜が盛んに行われていたと思われます。一つの棺を作成するのに、少なくとも3本の胡楊木が伐られたので、当時は胡楊木がかなり生い茂っていたと考えられます。

しかしこの一帯の自然は脆弱で、いったん破壊されると回復することができないため、ついに砂漠化してしまったと推定されます。

――外部の他の部族との戦争や争いがあったのでしょうか。 

■イディリス所長 男性の棺から矢が見つかっているうえ、鳥や小動物の羽や毛皮が見つかっているので、狩猟が行われていたことは確かです。武士のようなミイラも発見されていますが、ただ、多くのミイラの中で刀傷のあるのは一体だけで、矢傷など大規模な戦争を示す証拠はありません。おそらく平和な生活だったのでしょう。

人民中国インターネット版 2009年2月5日
http://www.peoplechina.com.cn/wenhua/2009-02/05/content_177107_3.htm

6. 中川隆[-11190] koaQ7Jey 2019年3月25日 18:59:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[822] 報告

ドキュメンタリー 文明の道「第05集 シルクロードの謎 隊商の民ソグド」 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=FdBYI5F36To&index=24&list=PL68Eg7O2Flae_s6n1BfiPUGgs6t80-qrA

ソグド人は、色黒の肌、深目、高鼻、多鬚などのコーカソイドとしての身体的特徴が挙げられる。


ソグド人の言語はソグド語である。ソグド語は印欧語族イラン語派に属する中世イラン語の東方言のひとつであり、同じ仲間としてはホラズム語、バクトリア語、コータン語がある。

紀元前6世紀にソグディアナがアケメネス朝の支配下に入ると、アケメネス朝からアラム文字が流入し、初めはアラム文字でアラム語を記していたが、次第にアラム文字でソグド語を記すようになり、最終的にアラム文字を草書化してソグド文字を開発し、ソグド文字でソグド語を記すようになった。やがてソグド人が商人として各地に散らばったため、ソグド語・ソグド文字は中央アジアのシルクロードにおいて国際共通語となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B0%E3%83%89%E4%BA%BA

7. 中川隆[-11189] koaQ7Jey 2019年3月25日 19:01:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[823] 報告

中国・トルファン2012・・・(10)ウルムチ 旅の終わりに“楼蘭の美女”と会う
http://4travel.jp/travelogue/10668846

旅行時期 2012/04/14 - 2012/04/22 (2012/05/10投稿)


トルファンからウルムチ経由で上海へ。
途中、ウルムチの博物館で、約3,800年前に埋葬されたと言われている“楼蘭の美女”に対面します。

http://4travel.jp/travelogue/10668846

表紙写真は、その“楼蘭の美女”を復元したものです。


お昼頃ウルムチのバスセンターに到着。なんとかタクシーをゲットして博物館へ向かいます。


1階には、新疆に暮らす12民族の衣装・装身具・住居などが展示されています。

先ずはウイグル族の男女が迎えてくれます。
2000年調査で、新疆ウイグル自治区人口の45%がウイグル族、40%が漢族です。


http://4travel.jp/travelogue/10668846


こちらはタジク族ではないでしょうか。

なお、展示文物については、「地下博物館」アスターナ古墳出土品が中心になりますが、主だったものはEの「アスターナ古墳」編で紹介しましたので、こちらでは省略します。

http://4travel.jp/travelogue/10668846


各民族の風俗、出土文物の展示と並んで、ウルムチ博物館で充実しているのが、ミイラなどのタクラマカン砂漠に埋もれていた古墳に関する展示・紹介です。

先ずは「小河墓」(しょうがぼ)遺跡

“有名な楼蘭(ローラン)や「さまよえる湖」のロプノールから西に約百キロの砂漠の中に、「小河墓地」があることは70年以上前から知られていた。
しかし、長くその存在は砂漠の砂に埋もれて分からなくなっていた。

今世紀になって、小河墓地は再び発見された。そして全面的な発掘調査が行われた。その結果、墓地からは164体ものミイラが発見され、しかもその最下層から発見されたミイラは、科学的鑑定の結果、紀元前2000年にまでさかのぼることが判明した。

さらに、DNA鑑定によって、最下層のミイラは、モンゴロイド(東洋系)とコーカソイド(白人)の混血であることが分かった。

この発見によってタクラマカン砂漠は、東と西の人種が初めて出会い、融合して、独自の文化を発展させた可能性が出てきた”【人民中国】

http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/25/32/40/src_25324026.jpg?1336633079


「小河墓」(しょうがぼ)遺跡の模型ですが、男根を象徴する先端の尖った墓標の下には女性の棺が、軍配のような女性性器を象徴する墓標の下には男性の棺が埋まっているそうです。

船のようなものは舟形棺です。「小河墓」の名が示すように、かつてはこの地には河が流れていました。船は冥界へ旅立つ死者の乗物ということでしょう。

この遺跡からは、約4000年前の小麦も発券されており、小麦、ひいては文明の伝播を考えるうえで重要視されています。


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「小河墓」遺跡には数百体のミイラが埋葬されているそうですが、その中でも印象的なのが「小河美女」とも呼ばれるこのミイラです。
後ほど紹介する「楼蘭の美女」よりは、はるかに“美女”の名にふさわしい美しいミイラです。

長いまつ毛まで残っており、推定年齢は20歳、身長160cm。コーカソイド(白色人種)系と見られています。フェルトの帽子には鷹の羽飾りとお洒落でもあります。

顔には白いクリーム状のものが塗られているそうですが、腐敗防止のためなのか、死化粧なのかはわかりません。

ウルムチ博物館では、この「小河美女」に関するものは目にしませんでしたので、「新シルクロードの旅(講談社)」からの転載写真です。


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こちらは且末(しょまつ チャルチャン)遺跡に埋葬されていた女性のミイラで、約2600年前のものと推定されています。

コーカソイドとモンゴロイド両方の特徴を兼ね備えているそうです。

且末は、楼蘭から400〜500kmはなれた、タクラマカン砂漠の南縁、
かつての西域南道に位置するオアシスです。


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こちらが、有名な「楼蘭の美女」
約3800年前に埋葬されたと推定されており、年齢は45歳、身長は152cmで、「小河美女」とほぼ同時期です。

楼蘭王国が歴史に登場するのは紀元前176年ですから、「楼蘭の美女」は楼蘭王国より千数百年古い時代のものになります。

人種的にはコーカソイド(白色人種系)です。


復元された容貌
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在りし日の「楼蘭の美女」
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8. 中川隆[-11187] koaQ7Jey 2019年3月25日 20:45:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[825] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源

0-0. 日本人の源流考 rev.1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。


・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたる
 まで狩猟採集の原始生活から前進せず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったの
 か?

・出アフリカを決行した結果、分化したシ−ラカンス古代4亜型の中でY-DNA「D」、
 Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸
 島、アフリカなどの僻地に残った集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩
 猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸
 でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると
 出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。


2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens=解剖学的現生人類)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」は かなり遅れて進化したと考えられていた様だが、最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、 8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、 原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。

Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化したが、

  この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化した。

  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

  この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデル
  タール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではない プロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、 ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)
  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。


4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。


5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。


6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。


8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)


9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。
  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

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空想談

  このコラムの項目2で「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、 布団に入ってウトウトし始めた時に、突然、”空想の語り部”が降臨してきて グチュグチュと御託言を言い残していったので、忘れないうちに書き留めます。

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

  とにかく解剖学的現代ヒト族は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

9. 中川隆[-11186] koaQ7Jey 2019年3月25日 21:02:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[826] 報告

2010年11月13日「中国人」とは誰か
http://blog.livedoor.jp/ahonokouji/archives/51879281.html

1.緒言 歴史とは何か

 歴史とは単なる事実の羅列ではないし、またそれは不可能な作業である。歴史はある目的を持った物語である。問題はその目的が何であるかにある。「統治の指針」「人生の指針」という目的もあれば、地位や権力の正当性の証明のためであることも多い。昔の日本人が日本史ではなく中国史を学んだのは、政治や人の生き方に資するものを求めてであったと思う。今、国際問題になっている「歴史認識」は、自国の政治的立場や対外的行動の正当性、名誉や尊厳の由来、領土主張の正当性等々を目的にした論争である。特に民族のアイデンティティーをその歴史に求めることは殆どの国に共通である。この時、特に様々な「歴史的事実の恣意的選択や歪曲」がなされることが多いと思われる。今まで「日本人」とは何者かについて、従前の歴史学や考古学の恣意的な歴史上の事実の取捨選択と解釈について論じてきた。そこで、今回は「中国人」とは何者であるのかを論じてみたい。


2.中国語

 以前にも書いたが、漢民族が西方から渡来したとする説がある。体型、埋葬法、文法、発語法、古代文字の比較、考古学的発掘調査などによる、漢族の西来説である。

 中国語と英語の文法が、その語順の類似など、少なくとも日本語と中国語より遙かに似通っていると感じる人は多いと思う。もちろんこの二つの言葉は互いに異なる「語族」に属す別系統の言語とされているのであるが、アンダーソン(1874〜1960)は、漢民族は人種的にもメソポタミアの古代民族に起源すると説いた。

外国語と同じくらい違う中国語の方言

 しかし、一口に中国語と言っても、広大な中国にはさまざまな方言があって、何と外国語並みにたがいに話が通じないという。方言というより別の言語といってもよいと言われている。大別して北方語と南方語に分けられるがそれぞれにさらに細かな方言があり、文法まで異なるらしい。さらに、中国語の「声調」といえば四声とばかり思っていたら、何と、北京語は四声でいいのだが、広東語は九声、福建語は八声もあるといい、上海語及び客家(ハッカ)語は六から七声である。北京語には濁音がないのに南方の諸方言には存在するのだそうである。これで本当に同一言語と言えるのであろうか。さらに「民族」という概念のいい加減さをはっきりと見る気がする。

3.黄河文明と長江文明

 20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)文化が発見された。以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかった。中国の文明の発祥は黄河流域であり、しだいに長江流域などの周辺地域に広がっていったと見られていた。

 黄河文明は、黄河の中・下流域の黄土地帯に、前5000年〜前4000年頃おこった。1921年、スウェーデンの地質学者・考古学者のアンダーソンは河南省の仰韶村で彩文土器を発掘した。翌年の発掘によって竪穴住居跡が発見され、また多くの磨製石斧・彩陶などの土器が出土した。この最初に発見された遺跡にちなんでこの農耕文化を仰韶文化と呼んでいる。

 仰韶文化を担った人々は粟・黍の栽培、豚・犬の飼育、鹿などの狩猟を行った。竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用した。彩陶は西アジア、中央アジアから伝来したものであると言うオリエント伝来説がアンダーソン以来唱えられている。

 1930・31年に山東省の城子崖遺跡が発掘され、黒陶文化の存在が明らかになった。この文化は、代表的な遺跡の竜山にちなんで竜山文化とも呼ばれる。黒陶は黒色の薄手の土器でロクロも使用され、鬲(れき)・鼎(てい)などの三足土器が特徴的だという。竜山文化期(前2000〜前1500頃)になると農具・農業技術はさらに進歩し、その結果、仰韶文化期よりもはるかに大きな集落(邑)が形成されるようになった。仰韶文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、都市国家を形成した殷・周の青銅器文化に発展していったとされている。

 一方、長江文明は、紀元前14000年ごろから紀元前1000年ごろ中国長江流域で起こったと考えられている。1973年・1978年の発掘調査で浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡が発見された。河姆渡遺跡は紀元前6000年〜紀元前5000年ごろのものと推定されている。大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見され、その住居は高床式であった。河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されている。

 河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものといわれている。稲作が中心の長江文明は、畑作中心の黄河文明とは全く別の発展を遂げた。また、稲(ジャポニカ種)の原産が長江中流域とほぼ確定され、日本の稲作の起源と見られている。

 中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年?)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年?)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。これは、黄河流域の人々により征服された結果と考えられている。後述する、黄帝による三苗の征服などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いが背景にあると考えられ、三苗はミャオ族の祖と言われる。

4.史書の伝える中華民族の始祖伝説

炎帝

 唐の司馬貞による補『史記』三皇本紀によると、姜水のほとりに生まれたことから姓は姜、火徳の王であったので炎帝と称したという。人身牛首の姿であった。

 神農氏は、百草を嘗めて毒か薬か、食べた時に体が冷えるか熱をもつか、またどんな香りや味をつけるのに適するかなどを調べ上げた。そのため医薬の祖とされる。また、鋤を使って農耕することを人間に教えたことから神農と呼ばれる。史記は、神農氏の子孫として州・甫・甘・許・戯・露・斉・紀・怡・向・呂という、姜姓の各諸侯の名をあげている。斉侯・許侯は春秋時代まで有力な諸侯として生き残っていた。


黄帝

 土徳を有するため黄帝と呼ばれる。『史記』によると、姓は公孫、軒轅の丘で生まれたので軒轅とも呼ばれる。史記は、春秋時代の中国の範囲を統治した開国の帝王として描いている。

 三皇五帝のうちの五帝の第一。礼楽婚姻・文字など多くを民に伝えた。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。黄帝から中国五千年の歴史が始まる。五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫である。漢民族はすべてこの黄帝の子孫であるとされる。

 黄帝は中国医学の始祖とされ、漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けられた。 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も、黄帝の著作とされている。

5.伝説の中華民族の敵 蚩尤(しゆう)

 蚩尤は、四目六臂で人の身体に牛の蹄を持つといわれる。砂や石を喰い、同じ姿をした兄弟が81人いたという。また、優れた武器を発明したという。

 黄帝と琢鹿の野に戦った。濃霧を起こして黄帝を迷わしたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、遂に蚩尤を捕殺した。この時、蚩尤に味方したのは九黎族(苗族の祖先)と夸父族だった。戦いが終わると九黎族は逃れて三苗族となった。黄帝は三苗を皆殺しにしようとしたが、この南方の民を根絶やしにできず、その後、苗族は歴代の王を悩ます手強い敵となった。蚩尤は中国の苗族の英雄神であり戦神である。

史記卷一:五帝本紀第一の註釈より

正義龍魚河圖云:「黄帝攝政、有蚩尤兄弟八十一人、並獸身人語、銅頭鐵額、食沙石子、造立兵仗刀戟大弩、威振天下、誅殺無道、不慈仁。萬民欲令黄帝行天子事、黄帝以仁義不能禁止蚩尤、乃仰天而歎。天遣玄女下授黄帝兵信神符、制伏蚩尤、帝因使之主兵、以制八方。蚩尤沒後、天下復擾亂、黄帝遂畫蚩尤形像以威天下、天下咸謂蚩尤、不死、八方萬邦皆為弭服。」山海經云:「黄帝令應龍攻蚩尤。蚩尤請風伯、雨師以從、大風雨。黄帝乃下天女曰『魃』、以止雨。雨止、遂殺蚩尤。」孔安國曰「九黎君號蚩尤」是也。


6.臨シLinziの住民の遺伝学的研究

 2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表した。それによると、三つの時代の臨シ人類集団が異なる遺伝的構成を持つことが明らかになった。約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。
 この研究により、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。また、2500年前から2000年前の500年間に臨シ集団に大きな遺伝的変化が生じたことから、過去に人類集団の大規模な移動があったことを示唆している。

7.結論

 現在の中国語には、互いに外国語であるかのような種々の方言が存在し、北方方言と南方方言に二大別される。この南方方言の分布域が、黄河文明と対峙する長江文明の栄えた領域と大まかに重なり合っている。しかも、伝説上の南方の支配者蚩尤の統治領域ともほぼ重なる。そして歴史時代における中国文化は黄河文明を源流とするものであり、史書もまたはっきりとそのように記している。一方、ミトコンドリアDNAの研究が示しているのはユーラシア西部に起源を持つ人々が黄河文明の南端付近にいたがその後現代のような「黄色人種」である漢民族に徐々に置き換わっていったという事実である。これらの諸事実を統一的に説明する仮説は以下のようになろう。

「長江流域にモンゴロイドが稲作を基礎とする文明を築いていた。一方、西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイドが黄河流域に定住した。武力に勝る北方黄河文明の支配者は、人口においては優勢な長江文明の人々と戦い勝利した。人口に勝るモンゴロイドは政治的軍事的文化的には敗者であったが、遺伝子的には黄河文明の人々をしのいで現代漢民族は『黄色』になった。」

 さらに追加するならば、戦士である長江文明の男たちの多くは殺されたが、残った女たちのミトコンドリア遺伝子が引き継がれていったことも大いに寄与したと思われる。また、中国の南方では長江文明を担った人々の言語の影響を未だに受けているのである。

参考文献

『黄土地帯』J.G.アンダーソン 、松崎 寿和  訳 、学生社
『DNAから見た日本人』斉藤成也、ちくま新書
http://blog.livedoor.jp/ahonokouji/archives/51879281.html

10. 中川隆[-11185] koaQ7Jey 2019年3月25日 21:25:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[827] 報告

漢民族が他民族を浄化してきた手口


黄河文明人 Y-DNA「O2」(旧「O3」) は元々はメソポタミアに居た麦作牧畜が生業のコーカソイド。

黄河周辺のモンゴロイド民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫がモンゴロイド化した漢民族。


____

中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html

 

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移民は「侵略」に活用されてきました。この種の「侵略」が歴史的に得意なのは、中国です。中国は「洗国」という侵略手法を得意とします。

 洗国とは、支那大陸において中華帝国が「他国」を乗っ取る際に多用される伝統的な侵略手法です。まずは、国内の流民を数十万人規模で「対象国」に移住させる。当初は「外国人労働者」として、いずれは「移民」として、膨大な人民を送り込み、現地に同化させていく。やがて、支那本国から官僚が送り込まれ、その国・地域を中華帝国の支配下に置く。


 洗国とは、人口を利用した外国侵略なのです。


 今この瞬間も、チベットやウイグル(東トルキスタン)で行われているのが、まさにこの洗国です。


 チベット人男性やウイグル人男性を中国国内に散らばらせ、現地に同化させる。さらに漢人をチベットやウイグルに送り込み、現地の女性と結婚させ、これまた同化させてしまう。やがては、現在の満州(旧:女真族の国)同様に、国境線が実質的に消滅し、中国の一部として支配が始まる。


 今風に言えば、民族浄化(エスニック・クレンジング)で、明らかに国際犯罪です。とはいえ、現実に中国共産党はチベット人やウイグル人に対する洗国をほぼ完成させ、台湾にもじわじわと浸透していっています。


 そして、我が国にも。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12415662357.html

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【閲覧注意】中国政府によるウイグル人虐殺 2016-05-29
https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12165204118.html


皆さんは『東トルキスタン共和国』をご存じですか?


現在は「中国ウイグル自治区」と呼ばれています!!


ウイグル族と、さも少数民族のように言われていますが、元々、れっきとした国家でした。


では、なんでそうなってしまったのか?


詳細を明らかにします。


https://ameblo.jp/2013kanyon17/image-12165204118-13658407155.html


1946年、東トルキスタン共和国は、

政府要人閣僚たちがシナ共産党との会議のために北京に向かう途中、搭乗した飛行機が中共軍に撃墜され、政府がなくなった混乱に乗じで侵略を開始したシナ共産党軍により、

滅ぼされた。


シナ共産党軍は、侵略し併合した東トルキスタン共和国を、 「新疆ウイグル自治区」と、さもシナの一地域のごとくの名前に変えさせた。


侵略当初、シナ共産党軍は、識者や高い教育を受けたもの、そのほか指導的立場にあった人間たちを次々と 「反乱分子もしくはその疑いがある」 として拘束。 100万人以上が、司法手続きを経ずに拷問にかけられ虐殺された。


豊富な石油や天然ガスなどの天然資源が発見された後は、資源の簒奪(さんだつ)をすべく、漢民族支配を実現し、ウイグル人の存在自体を消し去るため、各国のマスコミは一切入れず、学校ではウイグルの言葉を話すことは厳しく禁止され、漢民族を1,500万人も入植させ ( 現在、ウイグル人はおよそ900万人まで激減 ) 同化政策を強化。

ウイグル人は漢民族により暴力 (武装警察や軍事力) を背景に仕事を取り上げられ、成人男性で就職できる割合は、わずか5%。

15歳から22歳までの女性は強制的に中国国内に移住させられ、中国人ですら嫌う低賃金の重労働を課されながら、夜は強姦される若い女性が後を絶たず、「民族浄化」「漢民族化」を推し進める中国共産党政権のもと漢民族の男と強制的に結婚させられ、純粋なウイグル人は絶滅の危機を迎えている。


https://ameblo.jp/2013kanyon17/image-12165204118-13658407195.html


※ 漢民族は、一人っ子政策で男子ばかりが出産され(女児は堕胎)男女比率が大きくゆがみ結婚が出来なくなってしまったため、若いウイグル女性を強制移住させることは、一石二鳥。 (おまけに、大変に美人が多い) 

※日本人とは思考回路が見事に異なる漢民族にとって、ほかの民族の女性を強姦したり虐殺することに罪の意識は無い。

 白人国家が有色人種国家を軍事力を背景に侵略し植民地にした時、当たり前のように強姦し大虐殺を繰り広げていた意識とまったく同じ思考回路である 。

結婚相手と職を失ったウイグル人の男たちは、子孫を残すことができないだけでなく、次々とあらぬ罪で連行され、投獄され、拷問を受け、殺害され、民族根絶やしの犠牲となっている。

ウイグルの女性たちには、ウイグルの男性との間に授かった赤ちゃんの、「 計画生育 」の名目で、少なく見積もって850万件もの強制中絶が行われた。 (ウイグルの人口は、950万人!)

それだけでなく、重武装の軍隊および武装した司法・警察権を持つ漢民族による、一切の武器を持たないウイグル人に対しての徹底した弾圧、放火、リンチ、拷問、強姦、輪姦、そして幼い子供に対してまでの大量虐殺が、今もなお続いているのです。


 この漢民族と結婚させ漢民族化させる手法は、今に始まったことではなく3,000年以上の昔から漢民族が取ってきた漢民族の拡領土大手法で、かつては時間をかけゆっくりと浸透させ漢民族に同化させてきたものが、共産党が国家を支配するようになって以降、急速な領土拡大政策をとるようになり、軍事力 (暴力) を背景とする、他民族を根絶やしにする残虐な同化政策を、性急に推し進めるようになった。


今、狙われているのは、沖縄である。

中國武装警察による「恐怖の人間狩り」

いわれの無い罪でその場で殺されたり、連行されたら二度と生きて帰って来ることはない。


少女でも、その場で処刑する


「10代前半の女の子が、『 私は無実です! 私の言うことを聞いて! 』 と叫んだんです。 それでも構わず、(中国当局は) この子を処刑したんですよ、公衆の面前で! 多くの人々がこの光景を見ていました。 それでも、国際社会は沈黙したままだった…… 」

こう一気に言うと、ほんの少しの間、ラビア総裁の言葉が途切れた。


マスコミが一切報道しない真実 が、ここにある。


ウイグル自治区(旧東トルキスタン共和国)では、幼子までが強姦され無差別に虐殺されている

( ※ この幼子も強姦されてから殺されたのだろう。 ズボンが破かれ、陰部が露出している)

この写真は、60年 ・ 70年安保の度重なる失敗で活動の場を失った ヤマトンチュウ左翼 と シナ の 甘言によって 「親シナ ・ 反米」 に洗脳されつつある 【沖縄県民】 の未来を見ているようである。


沖縄では、シナ共産党により主要な土地が買い進められ、地元のマスコミはシナを礼賛し反日論調を騙(かた)り、学校では子供たちに「反日」教育を行いシナ親派を増やし、漢民族の企業誘致を進めた結果、シナの実効支配が進行しつつある。


原爆実験でまき散らかされた高濃度放射能


シナ武装警察による虐殺だけでなく、かつてシルクロードの交易で栄えた楼蘭では、昭和39年から平成8年まで、近くに人々が生活しているにもかかわらず、地上での核実験を 「事前通告なし」 で46回も繰り返し、広島型原爆の1250発分を爆発させ、最低でも即死20万人以上、被害者130万人以上の被害 (約半数の60万人が死亡したと推計されている) が報告され、今も数百万を超えるウイグルの人々は、まき散らされた放射能汚染に悩まされ、甲状腺異常は当たり前すぎて言うに及ばず奇形の子が次々と生まれ、ガンや白血病が多発し、何の医療手当もされず、放射能汚染の被害に苦しんでいるのです。


この広大な原爆実験エリアから発生した 放射能汚染は 「福島第1原発の数百万倍に達した」 (※ 環境に放出された放射能の総量は実に4,000万エクサベクレル ) にもかかわらず、朝日新聞やNHKはその事実を隠ぺい、日本の原発反対だけを叫び、だんまりを決め込んだ。

日本のすべてのマスコミも 「左へ倣(なら)った」。

日本の弱腰を見て、調子に乗ったシナ政府は、福島原発事故の際、「日本は、放射能汚染を世界にばらまいた」と公言した。


どの口が、そのような発言をしたのか、一度見てみたい。

※ 原爆実験の最中、昭和53年、西遊記のロケでウイグルの砂漠に入った女優の夏目雅子さんは、昭和60年、急性骨髄性白血病で逝去した。 27歳の若さであった。※

夏目雅子さんは、昭和53年・54年と、2年続けてウイグルでロケをした。
その後、病気が続いた、昭和56年には、甲状腺が腫れるバセドー病になり、…
甲状腺を手術した。バセドー病なので、瞼が腫れ目が大きくなってた。
次に掛かった病気は、昭和57年くらいに腎盂炎になり、次が、子宮内膜症。
そして、昭和60年2ったのでしょうか月に白血病で倒れ、同年9月に亡くなりました。


高い放射能がある、ウイグルに、なぜ、ロケに行った?


NHKは、シルクロードに取材に行きながら、核実験をしている事実を隠蔽(いんぺい)し、日本国民に知らしめなかった罪は、誠に大きい。 大罪である!
夏目雅子さんも、NHKが告知しなかった、被害者である。

それだけでなく、

NHKの番組を見た多くの日本人が、核実験真っ最中のシルクロード(ウイグル)へ旅行に出かけ被ばくした。

日本のNHKは楼蘭周辺での 「大規模な核実験」 を知りながら、1980年代に大型企画番組シルクロードの現地取材を行い放送を続け、さらにビデオの販売を続けました。 そのため、番組に誘導された日本人、推定27万人が、まだ核爆発が繰り返されていた期間に、現地を観光しています。

当時、実際に現地で核爆発を目撃した青年もいます。 

中国西域の観光から帰国した後に「白血病」、「肺がん」、「悪性リンパ腫」を発症したという方や、そのご家族から情報が寄せられています。

( 高田 純 札幌医科大学教授のコメントより )

ホルマリンで保存されているウイグル・セミパラチンスク州 ( ※ 核実験場のある州) で発生した奇形児


ウイグル人の悲劇


子供でも平気で虐殺

この後、このウイグル男性は頭部を撃たれて死んだ。

漢民族の男たちは何度も強姦した後に、

時間をたっぷりかけてなぶり殺す。

そして、下半身を露出させたまま放置

※ あまりの惨たらしさに、マスキングが掛けられている。

確認すべき、インターネット情報

Stop Chinese Torture

http://www.youtube.com/watch?v=3fIAzl4-Jq8


ウイグルの男たちは連行され、生き地獄の拷問を受けたのち、虐殺される

残った女たちが、命を懸けた、まさに必死の抗議活動を行っている

彼女たちに、命の保証は無い

「甘い言葉」につられてつい心を許し

軍事力をもって

シナに侵略された民族は、皆こうなるのである。

「僕たちは、平和憲法を持っています!」


「憲法9条って、スゴイんだぞぉ!」


では、何の役にも立たないことに、

そろそろ日本人も気づくべきである

「 日本の 人権活動家 たちは、ウイグル の惨状を知っていても、何も言わない… 」


日本のマスメディアも一切、報道しない


忠告しておこう

「 沖縄に入り込んでいる内地の 『 親シナ 』 左翼 の活動家たち、そして
地元新聞社に踊らされ、迷走を始めた 『琉球民族』 も、他人ごとでは無い 」

世間に知られたくない真実をバラされると共産党による監視と嫌がらせが起きる!!


日本共産党→×

中国共産党日本支部→〇

大丈夫か俺!?

でも、負けない


日本ウイグル協会 に援助の手を!

http://uyghur-j.org/japan/about/%E6%94%AF%E6%8F%B4%E8%80%85%E3%81%AE%E7%9A%86%E6%A7%98%E3%81%B8/

https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12165204118.html

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中国が、ウイグルで民族浄化作戦を展開している。

民族浄化には、一定の民族を「絶滅させる」ために直接、市民を大量虐殺する方法と、その民族独自の宗教・習慣・文化・言語を「取り上げ」、一定の文化そのものを破壊し、存在させなくさせる方法がある。

後者は日本人に対し、日本語の使用を全面的に禁止し、寿司・刺身・和食を食べる事を違法行為・犯罪とし、コメの生産を犯罪行為として禁止する等の事態に該当する。

 現在、中国政府は7歳〜14歳までのウイグル人の子供をウイグル地域から「強制連行」し、漢民族の居住地域で生活させ、教育を受けさせている。つまり中国語を使う教育を強制し、ウイグル語を地球上から消滅させようとしている。そして中国文化の中で育て、ウイグル文化に「一切触れさせない」ようにし、ウイグルの文化の継承者が居ない状況を作り、その文化を破壊している。

これは民族虐殺に等しく、文字通り、民族浄化である。

中国政府の政策は、ナチスの行ったユダヤ人虐殺と同等であり、本来、多様な文化・言語が地球上に多数、存在する事によって、相互に影響を与え合い、新しい別の文化・文明が次々と作り出されてきた人類の歴史に対する「虐殺行為」である。中国政府の政策は全人類への「冒涜」「犯罪」である。

 また中国政府は、若いウイグル人女性を40万人、漢民族の済む天津、青島へ「強制移住」させ、ウイグル人同士の結婚を「事実上」禁止し、ウイグル人と漢民族の結婚・混血を強制している。これはウイグル人を「地球上から絶滅させる」ウイグル人絶滅政策であり、ナチスのユダヤ人虐殺と同一の政策である。

これは仮に、日本政府が、日本人同士の結婚を禁止するため、若い日本人女性を全員アメリカへ強制移住させ、事実上、日本人女性にアメリカ人との結婚しか「認めない」政策を取る事と同じである。

 しかも、強制移住させられたウイグル人女性は、安い賃金で一日12時間も労働を強制され、宿泊施設は衛生環境の悪い汚れきった部屋に閉じ込められ、刑務所での生活のような人生で「若い時代を浪費」させられている。

これは中国人によるウイグル人の事実上の奴隷化である。

 またウイグルの宗教はイスラムであるが、中国政府は18歳以下のウイグルの若者達にイスラムのモスク(寺院)への出入りを法律で禁止している。そして、イスラムの習慣である「ラマダン=断食」の時期に、ウイグルで食糧の配布を意図的に行っている。これ等は明らかなウイグルの宗教・文化に対する破壊工作であり、極めて悪質な「民族浄化・虐殺」である。

これが中国を「表に立てて行う、ロスチャイルドの世界帝国の支配原理」である。

ウイグルは、明日の日本の姿である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/123821982.html


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ウィグル自治区はまるで“ナチスの収容所”日本メディアが報じない中国の白色テロ
  孫向文  2018/7/10
https://vpoint.jp/column/116063.html


こんにちは、マンガ家の孫向文です。

●中国の「白色テロ」の実態

 国家権力が行う“テロ行為”は「白色テロ」と呼ばれています。例えば、かつて毛沢東が発動した文化大革命のような大虐殺や、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人への大虐殺(ホロコースト)がそれに当たります。

 現在、白色テロは、中国の新疆ウィグル自治区で進行中です。
 米紙ワシントン・ポストの報道によると、中国政府は2016年から現在に至るまで、10万人超のウィグル人を労働再教育センターに強制収容してます。また、アメリカのRFA(ラジオ・フリー・アジア)の報道によると、その労働再教育センターとは、刑務所より劣悪な場所とされ、狭い部屋に50人くらいのウィグル人をすし詰めで収容して、1人当たりのスペースは僅か2平方メートル。全員同時に寝ることは無理なので、囚人たちは順番で寝るというのだから驚きです。また、長時間日差しに当たらないため、悪臭、皮膚病が蔓延していると言われています。

●エイズ感染者を牢屋に同居!?

 さらに深刻な状況は、わざとエイズ感染者を監獄に入れ、ウィルスを蔓延させて死なせるというのです! 重症のエイズ患者の口から蛆(うじ)が湧いてくるような、まさしくグロテスクな映画そのものの状況です。

 ここで、一番問題なのは、収容されてるウィグル人達には、具体的に罪はなく、中国政府は「テロ対策のため」という大雑把な理由で収容を正当化しているのです。つまり単なる中国共産党による“民族浄化”策の一環であり、これはまさしく「現代版のナチス収容所」と言えるでしょう。その現代版のヒトラーこそ、習近平国家主席です。まさにこの状況はナチス収容所より非人道的で残虐な状況です。

 新疆ウィグル自治区で起きている強制収容の事件には、まだまだたくさんの関連報道があります。

●米政府は本気で人権問題を理由に経済制裁を実施

 6月28日のワシントン・ポストの報道によると、アメリカで“国際宗教自由”担当特別大使に任命されたサム・ブラウンバック(Sam Brownback)カンザス州知事によれば、新疆ウィグル自治区でウィグル人を強制収容する任務を執行する中国共産党幹部たちのアメリカで開設した銀行口座と不動産、証券などの資産をすべて凍結するような議案を議会に提出しました。もし可決されれば、アメリカ史上初の、中国の人権問題で中国共産党幹部に経済的制裁を実施するという快挙になります。

 以前の民主党オバマ政権は当時、劉暁波氏の釈放を求め、中国共産党による人権弾圧を非難したが、口ばかりの外交辞令で、実現することは一度もありませんでした。これに対して、トランプ大統領がリードする共和党政権は美辞麗句ばかりを並べるリベラルな民主党政権より、強い実行力のある政権だということです。

●「フェイクニュース」作ってまでで善人面をする中国政府

 この強制収容の問題に関して、私のウィグル人の友人が、中国の「フェイクニュース」を見つけ出し暴いたのです。

 4月21日、ウィグル自治区の機関メディア『新疆日報』は、「中国政府は貧困のウィグル人家庭に、米などの食材を送り込んで、また壊れた家具や家電の修繕に無料サービスをしました」と報じたのですが、実はこのニュース、当局がそのウィグル人一家の大黒柱である夫を強制収容したことで、家庭が経済的破綻状態に追い込まれたもので、追い込んだ張本人である中国政府が「善人面」をしてウィグル人家庭を助けたという“美談”に仕立て上げた“マッチポンプ”式のプロパガンダに過ぎないのです。

 しかも、米などの食材はウィグル族ではなく、漢族の食文化です。これは「ウィグル人が我ら漢族の偉大なる食文化を取り入れて、幸せになった」という同化政策のプロパガンダの意味を含んでおり、以前からずっとやっているというのです。

●鳥型ドローンで人民の生活を監視!?

 収容所以外でも、中国政府はハイテク機器を使って、ウィグル人の暮らしをすべて監視しています。香港メディアの『南華早報』の報道によると、新疆ウィグル自治区に「監視カメラを搭載してる、鳥を模倣したドローン」を沢山飛ばしたり、市民の日常生活監視の実験を行っています。そのハイテクな鳥型ドローンは鳥のように鳴いたり、羽ばたきをしたり、さらに本物の鳥と一緒に飛ばせて、鳥自身も隣に一緒に飛んでるヤツは「ドローン」であることを気づかないくらい本物そっくりの「鳥ロボット」だということです。

 さらに、このドローンを開発する会社の社名も判明しました。「海康威視」(HIKVISION)という監視カメラなどの設備を生産する中国の民間企業でした。同社は2017年に新疆ウィグル自治区の監視のために、中国政府と5件の契約を取りかわし、さらに18億5000万人民元(約307億円)もの資金を獲得しました。内容は全部「国家安全」という名目です。もし、この鳥型監視ロボットが普及したら、中国全土に飛ばして、電信柱に固定された監視カメラでは映らない、「死角」なしで、中国国民の生活を徹底的に監視することになります。

 僕が調べたところ、日本の京都大学にも「海康威視」(HIKVISION)の監視カメラを導入しました。もしかして、中国政府はこの企業を通じて、京都大学の人々を監視してるかもしれません。

■HikvisionがIHS Markit*の2017年報告で首位を維持
https://www.sankeibiz.jp/business/news/170622/prl1706221641119-n1.htm
(SankeiBizホームページ2018/6/22)


 公式ホームページを見てみると、すでに世界中に触手を伸ばしてるようです。

※IHK Markitとは
 2016年6月、米大手調査会社IHSと英金融情報会社マークイットが合併してできた巨大情報調査会社

●中国による日本の土地浸透を日本国民に周知徹底を

 欧米メディアはこの数カ月の間に新疆ウィグル自治区で行われている強制収容について、数多く報道してきましたが、日本のマスメディアはほとんど報道しません、また同時にチベットで起きている焼身自殺など、人権弾圧の事件をほとんど報道しません。

 まるで日本のマスメディアは、中国共産党を「忖度」してるように思えてなりません。現実、尖閣諸島や沖縄、北海道への中国政府による静かな政治浸透が進行しています。これら日本の土地が、将来はチベットやウィグルのような惨状になる可能性だって無きにしも非ずです。今こそ、日本国民に中国共産党の脅威を周知徹底して知らせなければなりません。
https://vpoint.jp/column/116063.html


▲△▽▼

【中国の民族浄化】ウイグル人男性は収監、残った女性は漢族と強制婚姻…”尖閣上陸”で起こりうる生き地獄 2018/8/28
https://this.kiji.is/407098240993477729


こんにちは、中国人漫画家の孫向文です。

先日、中国共産党による、罪のないウィグル人の強制収容について報道がありました。詳しくは以下の記事に書きました。


今日は、この事態がさらに深刻化していることをお知らせします。

8月14日、ロイター通信の報道よると、中国全土の警察は2016年から、携帯電話をスキャンして、通信記録と個人情報を全部ハードディスクに保存するような検閲機器を大量に購入しました。実際にその機器は、新疆ウィグル自治区に使用されています。ウィグル自治区に住む外国人を含む、すべての人間が自宅から出たら、街角にたくさんの警察が厳戒し、通行人に対して上記の機器で携帯電話のスキャンを義務化しています。

https://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/renquanfazhi/hj-08172018103739.html

また、アメリカのWSJの報道より、ウィグル人を収容するような建造物(収容所)をさらに建設していることを、米国の人工衛星が捉えました。


WSJが釈放されたウィグル人の親族を取材したところ、釈放された人はまもなく死亡、もしくは監獄の中で死亡したケースも多く、監獄内では非人道的な拷問を行っていたことが想像できます。監獄の中では、ウィグル人を改宗させるように「この世に神様がいない」と思い込ませたり、酒と豚を入った料理を無理やり食べさせる拷問がされているようです。

中国共産党の目的は、ウィグル人をいわば”中国共産党教”に改宗させること。失敗したら闇で処刑がなされるのです。この事態は1950年のウィグル大虐殺以来の、最大規模の「民族浄化」とみられます。

■ウイグル男性は収監、女性は漢族と婚姻!? 背後にはあの政策の弊害が…

この映像は「東トルキスタンを語ろう」(Talk East Turkestan)というウィグル人の人権を守る反共産党のグループのフェイスブックの公式アカウントが発布したものです。中国共産党はウィグル人の女性を漢族の男性と無理やり結婚させ、その結婚式でウィグル人の親族に中華人民共和国の国歌を無理やり歌わせる動画です。

https://www.facebook.com/TalkEastTurkestan/videos/2059752307619210/

また、台湾英語新聞では、「家族を助けるために漢族の男性と結婚したウィグル人の女性」の報道もありました。

https://www.taiwannews.com.tw/en/news/3442256

動画は短いですが、簡単に会話を訳すると

司会「出会ってから、どれくらい付き合いましたか?」
新郎「2ヶ月です」
(新婦は終始、悲しい顔つき)

要はウィグル人女性の家族が収容所に監禁されており、彼女は家族を釈放する条件として、漢族の男性と結婚するように中国政府に婚姻を迫られたと考えられます。

ウィグル自治区に強制収容される人の大多数は若い男性と報道されていましたが、これは若いウィグル人の未婚男性を監禁し、残った若いウィグル人の未婚女性を漢族の未婚男性と強制結婚させる、中国共産党による実質的な民族浄化なのです。

このような事態の背景には、漢族の一方的な事情があります。かつて、中国の一人っ子政策(※現在は廃止されている)により、男尊女卑の思想から男児を望む家庭が多く存在しました。中国政府は胎児の性別を診断する医療行為が違法であっても、密かに胎児の性別を診断して、女児と分かったら人工中絶する病院が絶えませんでした。

結果として男児ばかりが出生し、中国全土の男女性別比例のバランスが崩れました。そして、未婚の漢族男性がたくさんいるため、中国の少子高齢化を懸念し、その惨状を打開するために、ウィグル自治区の民族浄化を解決する一石二鳥の国策を図ったというわけです。

■尖閣上陸の向こう側で起こる生き地獄、通州事件が教える中国人の恐るべき気質

日本人にとっては、決して対岸の火事ではないでしょう。中国の反日デモのプラカードや、反日掲示板の書き込みによく見られる、身の毛もよだつ言葉が有ります。

「我々は日本に復讐するのだ、釣魚島(尖閣諸島)を奪還して、人民解放軍が日本に上陸したら、日本人の男と三十路以上の女性を全員殺す。若い女とヤらせるか、結婚させろ」、「我々が狙うのは日本の土地だ、日本人はいらない」と捲し立てる輩が多いのです。

また、「我々は台湾統一を目指す、狙うのは台湾の土地だ。台湾人はいらない」と書き込みもあり、こちらも日本への主張とスタンスはほぼ同じです。

これは空論やフィクションのようにみえますが、歴史的な実例があります。通州事件や満州開拓団が引き揚げる時に日本人男性は中国人に殺され、若い女性は強姦される地獄がありました。そのため、当時の若い日本人女性はあえてスカートではなくズボンを穿き、男装をしました。現在は、チベット民族、ウィグル民族に対して現在進行形の民族浄化です。

(なお、満州引き揚げ時に日本人を襲ったのは中国人だけではなく、ソ連の人たちや朝鮮人などがいたことも追記しておきます)

中国共産党だけではなく、同じく漢族政権の国民党の蒋介石政権も台湾に上陸時に、原住民の民族を浄化して、漢族の移民を送り込む手段を取りました。このような歴史を常に繰り返す中国に、周辺国は危機感を持たないといけません。

現在の日本はチベットとウィグルに関する報道では、中国政府の「忖度」をするような自主規制をしています。日本人にとって、決して対岸の火事ではないこの事態に備えるために、移民政策に対して様々なリスクを想定することや、外国人の受け入れの拡大によるデメリットに関しても、おざなりにすることなく真剣に考えなければなりません。

中国共産党にとって、先進国や敵の弱みにつけ込んで侵略しようとすることは、当たり前の常套手段なのです。

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Uighurs living in Turkey shout slogans as they hold a poster of Chinese Vice President Xi Jinping as they stage a demonstration outside a hotel where Jinping is staying in Ankara, Turkey, Tuesday, Feb. 21, 2012 . Xi, who is expected to become president of the world's most populous nation next year, is scheduled to hold talks with Turkish leaders Tuesday and oversee the signing of cooperation agreements with Turkey. (AP Photo/Burhan Ozbilici)

https://this.kiji.is/407098240993477729

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「若い女性のレイプは毎日」新疆ウイグル収容施設からの出所者明かす
2018年10月19日 12時05分
https://www.epochtimes.jp/2018/10/37153.html

中国新疆ウイグル自治区には超法規的収容施設があり、100万人以上が強制収容されていると、米国務省や国連が懸念を示してきた。大紀元の取材に応じた、ウイグル族の出所者や家族は、施設内では拷問や撲殺、若い女性たちに対するレイプが繰り返されていると語った。

動物のように鎖で繋がれる


「拷問はとてつもなく非人道的で、とても耐えられるものではない」とオミール・べクリさん(42)は大紀元に語った。収容されているウイグル人たちは「動物のように鎖でつながれ」、身体が「うっ血して腫れ上がるほど叩かれる」という。

新疆ウイグル生まれのベクリさんは2017年3月、新疆の首都ウルムチから180キロ離れた両親の住む山村にいたところ、押しかけた警官に黒い袋をかぶせられ、強制連行された。

中国籍だったべクリさんは、12年前にカザフスタン国籍を取得したカザフ在住者。当時、観光についての国際会議に参加するため、ウルムチを訪れていた。

べクリさんは中国警察に7カ月間拘留され、その後20日間、再教育施設に入所した。拘束は「共産党と習近平主席への賛歌を歌うことを拒否した」ためだという。

拷問について、「恐怖を与え心身を虚弱にさせる。屈服させて従わせるようにする」とべクリさんは述べた。また、ベクリさんは収容所で、ウイグル人が拘禁されている部屋から遺体が引きずられて運ばれていくのを目撃したという。「おそらく撲殺されたのだろう」とべクリさんは述べた。


「若い女性のレイプは毎日」

15カ月間の収監ののち、9月に出所したばかりのカザフスタン国籍ウイグル族の女性(54)は、収容所では若いウイグル族の女性が毎日のようにレイプされており、もし拒絶したら殺すと脅されていたと、大紀元に語った。

「若い女の子たちが一晩中むさぼられていました。もし抵抗すれば、何か(薬物)注射して殺すぞ、と脅されていました」。この匿名の女性は、実際に2人の女性が注射されて死亡したのを見たという。さらに、収監中の女性たちには避妊薬が与えられていた。

女性によると、収容所には小部屋があり、最初は40〜50人収容されるが、5〜10人ずついなくなり、やがて部屋は空っぽになるという。「いなくなった人は戻ってきません。いつも数十人は殺されているはず…」。

11. 中川隆[-11184] koaQ7Jey 2019年3月25日 21:44:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[828] 報告

漢民族が他民族を浄化してきた手口 _ 2

黄河文明人 Y-DNA「O2」(旧「O3」) は元々はメソポタミアに居た麦作牧畜が生業のコーカソイド。

黄河周辺のモンゴロイド民族を征服して、男は皆殺し、女は性奴隷にしてレイプしまくって生まれた子供の子孫がモンゴロイド化した漢民族。

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ノンフィクション作家・河添恵子#11-2
★中国臓器狩りの真実 人道を超えた臓器売買&移植手術の実態 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=-oec2aeCPWk

ウイグルへの弾圧は何度か書いてきましたが、いま中国が行っているのは民族浄化で、ただ浄化するのではなく、ウイグル人を殺して臓器売買のドル箱としているのです。

参考ページのURL
http://uyghur-j.org/japan/
http://uyghur-j.org/20180908/uyghur_japan_report_20180908.pdf

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中国:イスラムは治療不能の腫瘍で毒薬と宣言! 2018年09月11日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12403994348.html

当たり前のように欧州でジハードが頻発していますがテロではないでそうで、殺されて抗議するナショナリストのデモや主張がナチスと呼ばれ弾圧されるのに、ムスリム移民による犯罪はよく精神疾患と呼ばれているようです。


ということは、中国政府の言うことは正しいということになりますね。びっくり


イスラムは治療不能の腫瘍で毒薬である

China declares Islam an ‘incurable tumour’ and a ‘poisonous medicine’

By VOICE OF EUROPE 5 September 2018

中国はイスラムを大きくなる問題と捉え国内のウイグルムスリムへの行動を強めています。

国連やアメリカの職員によるとこれまでに約100万人が収容キャンプに入れられたと見ています。


収容者によると、キャンプではムスリムはイスラムを拒絶するように強要され毎日共産党の歌を習わされているとのことです。キャンプでは豚肉とアルコールを強要されるとの報告もあります。

キャンプは当初ウイグルムスリムの過激派と戦うために作られましたが、今では長いひげも再教育キャンプ送りとなる場合があります。


共産党の公共ラジオはこう言っています。


再教育のために選ばれた公民はイデオロギー的な病気に感染している。彼らは宗教的過激主義と暴力テロイデオロギーに感染しているので、患者として病院に入院して治療を受けなければいけない。


宗教的過激主義イデオロギーは毒薬の一種で人々の心を混乱させる。宗教的過激主義を根絶しなければ、暴力テロ事件が不治の悪性腫瘍のように成長し広がってしまう。

このようにWeChatを通してウイグルに昨年伝えられました。


国連の委員会で中国代表はそのような再教育センターは無いと言っています。


ジョージタウン大学の中国史教授James Millward氏によると、「宗教的信仰は病状と見られる」とのことです。

中国政府は今思想を治療する再教育キャンプを“病院”と呼んでいます。

過激主義の病原菌を殺す殲滅医療処置をすべてのウイグル人に対して行いたいのです。

ラジオはこう言っています。


いかなる犯罪も行っていないが過激思想を吹き込まれた一定の人たちがいる。彼らは既に病気に感染している。病気の症状がはっきりと表れる危険が常にあり、それは公共に深刻な危害を与えるだろう。

だから、彼らは脳内からウイルスを取り除き正常な精神にするために、再教育病院に入院しなければならない。

※中国政府は当局の監督下にないものはキリスト教でも締め付けを強化していますが、テロと密接な関係がある対イスラムの方が厳しいようです。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12403994348.html

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中国共産党によって強制収容されたウイグル人などからの強制的な臓器摘出、法輪功から他の民族、宗教へと対象拡大=報道(かいけつ ニュース&記事 速報)
https://gansokaiketu-jp.com/kaiketukeijiban/chuugokutoukyokuga-jyakyoushitei-shita-hourinkou-shinjyaheno------itaino-jintaihyouhonka-nadono-jittai/light.cgi?


強制的な臓器摘出、法輪功から他の民族、宗教へと対象拡大=報道
https://www.epochtimes.jp/2019/03/41332.html

中国における信仰弾圧を報じる多言語メディア「寒冬(Bitter Winter)」のディレクターは3月12日、中国共産党政権が組織的に、国内外の臓器移植希望者のために、需要に応じて収容者から臓器を強制摘出する問題はいまだに続いていると述べた。被害は、法輪功学習者以外、他の少数民族や宗教グループにまで対象が拡大しているという。

寒冬の創業者でイタリアの宗教社会学者マッシモ・イントロヴィーネ(Massimo Introvigne)氏は3月11、12日、台湾の台北で開催された第15回「インド太平洋地域における市民社会の自由擁護のための対話」に同メディアのディレクター、マルコ・レスピンチ(Marco Pespinti)氏と共に出席した。

衛星放送新唐人テレビ(NTDTV、大紀元メディアグループ)の取材に応じたレスピンチ氏は、中国共産党による臓器強制摘出問題は継続していると述べた。被害は「チベット人のような他の民族や宗教にも拡大している。現在は特に、ウイグル人だ」と語った。

2017年、米国の調査ジャーナリストであるイーサン・ガットマン氏によると、新疆地域と近隣に住む1500万人以上のウイグル人の9割以上は採血を受けていたという。

「人々のDNAを採集し、100万人以上の罪のない人々を拘束することは、何を意味しているのか? この2つの事情は、臓器奪取は止んでいないことをうかがわせる」と、レスピンチ氏はNTDTVに述べた。

米国のサム・ブラウンバック(Sam Brownback)宗教の自由特別大使は3月8日、香港の外国人記者クラブで、中国共産党による法輪功学習者とウイグル人からの臓器強制摘出は引き続き報告されているとし、この非人道的犯罪に改めて危惧を示した。

レスピンチ氏は、共産圏以外の自由主義社会は、臓器収奪問題を停止させるためにもっと積極的な行動を取るべきだと主張する。「止んでいないということは、行動が足りないと言うことだ。このむごい問題はすぐさま止めさせなければならない」

ウイグル族の元外科医アニワル・トフティ氏は3月15日までに、ラジオ・フリー・アジアの取材に対して、アラブ系、とくにサウジアラビア人が新疆で「ハラール・オーガン(豚肉を食べなかった人の臓器)」を調達していることを明らかにした。

寒冬は、中国本土からの情報協力者による寄稿文を掲載している。同メディアが2018年5月に設立して以後、中国本土で少なくとも45人の協力者が「国家転覆罪」または「外国勢力との共謀罪」で拘束されたという。

レスピンチ氏は、中国共産党政府の主張は偽りだと述べた。「(寒冬の協力者は)専門家、ジャーナリスト、罪を犯していない人々だ。彼らは、中国共産党政権が人々の宗教の自由と人権を侵害していると報告しただけだ」

国際的な圧力により45人のうち半数は釈放されたが、のこり22人は依然として連絡が取れない状態だという。

「彼らがまだ生きていることを願っている。しかし私たちには全く情報が入ってこない。彼らの所有する連絡手段はすべて断ち切られたようだ」とレスピンチ氏は述べた。同氏はまた、中国本土で拘束され、釈放されたある記者は翌日、取材活動を継続すると申し出たことを明らかにした。

「共産党は、記者を逮捕してメディア活動を阻止し、情報封鎖したいのだろうが、人々の勇敢さは阻止できない」「信条のある人は、共産党の弾圧を報告することで、困難を抱える他の人々を助けることができると信じている」

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「麻酔掛けずに直接摘出」 中国の臓器奪取、凄惨な実態が明らかに 

 
李荘弁護士の書き込み。中国の臓器奪取の実態をさらした(スクリーンショット)

【大紀元日本10月24日】重慶市元トップの薄煕来氏の暴力団一掃運動に立ち向かったことで1年半の懲役刑に服した北京の弁護士・李荘氏がこのほど、ミニブログ(微博)で、中国の臓器奪取の実態をさらした。

「ある著名な病院の著名な心臓外科の著名な医師らが僕ににこやかに教えたんだ。『重要患者に臓器移植を行う場合、臓器の鮮度を保つために、われわれは麻酔を掛けずに直接摘出するのだ』。僕は、死刑囚に対しても人道的でなければと忠告した」

この書き込みに多くの注目が集まった。ユーザー「虎甲胡威」は、「死刑執行の前に、死刑囚から臓器を摘出し死亡させることは、もはや人道のうんぬんではなく、計画殺人だ」と指摘。また、「中国で臓器売買のピークが法輪功を弾圧した時期だ。アメリカが証拠を持っているようだ」「李弁護士はもっと情報を提供すべきだ」などとさらなる真相の解明を望む声が飛び交った。

中国の臓器移植問題について、米国務省は5月24日に発表した2011年度人権状況報告書の中国関連部分で、メディアや人権団体から法輪功学習者の臓器が奪取され売買された報告が絶えないことに初めて言及した。また、9月12日に米議会で中国の臓器狩りについて公聴会が行われ、中国の囚人から生体臓器奪取の状況が証言された。

さらに、中国国内では9月、これまで最大規模の不法臓器売買事件の訴訟が始まっている。解放軍病院が仲介者を通じて闇の臓器売買を行ったことが明らかになり、死刑囚の臓器提供意思書、親族臓器提供意思書など、すべて偽造されていたことも浮き彫りになった。

闇から少しずつ、その凄惨な実態が浮かび上がっている中国の臓器狩り問題。2006年にすでにこの問題に注目し、調査報告書『戦慄の臓器狩り』を発表した著者の一人、カナダ元外務省アジア太平洋外務担当大臣のデービッド・キルガー氏は10月25日から27日の日程で来日し、会見やシンポジウムを開く予定だ。(翻訳編集・余靜、張凛音)
http://www.epochtimes.jp/jp/2012/10/html/d68771.html

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生きた法輪功学習者の臓器狩り、中国の警察から新たな証言 2009年12月15日
https://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d72072.html


中国の監禁施設で生きた法輪功学習者を対象に臓器摘出・売買をしているという2006年に告発された事件に関して、最近、目撃者の新たな証言が、国際的な人権擁護組織である「法輪功迫害追跡調査国際組織」(WOIPFG、米国本部)から発表された。

 証言は、同組織の調査員が中国遼寧省の元警察(匿名)を取材して得たもの。遼寧省公安庁に勤めていた2002年に、瀋陽市軍部病院で一人の女性法輪功学習者から生きたままで臓器を摘出したのを目撃したという内容である。証人の同意に基づき、同組織は最近、30分ほどの取材録音の一部を公開した。

証言によると、2002年、証人は遼寧省警察に務めており、法輪功学習者を捕まえ、拷問するなどの特別行為に関わっていた。ある30代の女性法輪功学習者は、一週間ほど凄まじい拷問を受け、そして無理やり食べ物を注ぎ入まれたりして、体が傷だらけになっていたという。

 同年4月9日、遼寧省警察庁のある部門から2人の軍医が派遣された。1人は中国解放軍瀋陽軍区総医院の軍医で、もう1人は解放軍第二軍医大学を卒業した軍医だった。警察庁はこの法輪功学習者をある場所(※1)に移し、二人は、この学習者が意識を完全に保っている状態で、麻酔を一切かけずに、彼女の心臓、腎臓などの臓器を摘出した。

 証人は当時、銃を手にして警備に当たっていたため、臓器狩りの全過程を目撃したという。

 証人の証言によると、彼が遼寧省錦州市警察局に勤めていた際、錦州市警察局長の王立軍は法輪功学習者を「殺し尽くさなければならない」と命令したという。証人はかつて何度も、法輪功学習者の拉致、凄まじい拷問に関わっていたと認めた。

 遼寧省は、法輪功学習者に対する迫害が最も深刻な地区の一つであり、法輪功情報サイト・明慧ネットが明らかにした情報だけでも、迫害を受けて死亡した法輪功学習者は406名に上っている。王立軍は現在、重慶市警察局長を務めており、当時遼寧省省長で、現在重慶市党書記の薄煕来の下で、マフィア組織取り締まりという名目で、法輪功学習者への迫害を強めている。(※2) 

 カナダの国際人権派弁護士デビッド・マタス氏とカナダ外務省前アジア大平洋州局長デビッド・キルガー氏は、法輪功学習者が「臓器狩り」の対象になっているとの告発を受け、2006年から独立調査を行い、調査報告書を発表している。同報告書によると、中国国内における2001年から2005年までの臓器移植件数のうち、4万1千5百件の臓器の出所が不明としている。2000年以降、中国では臓器移植件数が急激に伸びているが、これは法輪功学習者への弾圧が始まった時期とほぼ一致しているという。同報告書は、監禁された法輪功学習者たちの証言から、彼らが臓器売買の犠牲になっていることを主張している。

 法輪功とは、佛家と道家の思想を根底に併せ持つ先史文化に根ざした気功で、「真・善・忍」という宇宙の特性に基づいて心性を修め、人間の身体を健康にするとともに根本から改善、向上させる修煉を行う功法であるといわれている。1992年より中国で公開され、その教えによる内面の向上や病気治療に顕著な効果があり、口伝えに急速に広まったことで、中国をはじめ全世界で1億人以上に学習者が増え、現在も増え続けている。日本では2004年、日本法輪大法学会が東京都においてNPO法人格を取得している。

 法輪功の人気と、その修煉者の数が激増していることに中国共産党が恐れ、1999年7月22日に中国共産党が法輪功およびその学習者に対して弾圧を始めた。2009年12月現在で中国共産党の迫害により死亡した人数が、正式的に確認され、裏付けが取れたものだけでも3336人いるという。

(※1) 臓器摘出を行った場所について、最初の証言では、証人は自分の身元が明らかになることを避けるために、言及しなかった。2回目の証言で、瀋陽軍区医院15階にある手術室内であったと明言した。実地調査の結果、瀋陽軍区総医院ビルの15階から17階が外科であることが判明した。

(※2)北京大学法学院刑法研究所の研究員、国際法医顔面鑑定協会の副主席を兼任しており、発表した論文も法医顔面鑑定分野のものである。しかし、該当する学歴がなかった。中国側が公開している王立軍の履歴には法医の経歴は全くなく、中国初の『麻酔後の臓器移植についての試験研究』など、臓器移植と関係を持った記述がある。

以下は今回発表された証言の取材録音の一部分

証人:手術ナイフで、彼女の胸のところを切り開いたらすぐ、血が噴き出してしまい、血が噴き出したのであって…

調査員:男性でしたか、それとも女性でしたか。

証人:女性、女性でした。

調査員:若い女性ですか。

証人:30代だったでしょう。


調査員:胸が切り開かれた時にも、彼女はなお「法輪大法は素晴らしい」と叫んでいたのですか。

証人:叫んでいました。

調査員:彼女は当時どのように叫んでいたのですか。

証人:当時、彼女は、1週間ほど尋問と凄まじい拷問を受けていたので、体には数え切れないほどの傷がありました。しかも電気ショックを受けていて、意識朦朧となっていました。物を食べるのを断ったため、私たちは強引に牛乳を彼女の胃に注ぎ入れました。非常につらい体験でした。彼女の鼻を摘まんで注入しました。こうして生命を維持させていました。1週間経って、彼女の体重は約7キロ減りました。当時、あのようなことが発生するなど、予想もしませんでした。

 それで、遼寧省警察庁のどの部署からかは分かりませんが、いずれにしても特殊な極秘部門から2人の軍医が派遣されてきました。1人は、解放軍瀋陽陸軍総医院の軍医で、もう1人は解放軍第二軍医大学を卒業した軍医でした。具体的には、1人がやや年配で、もう1人は若者でした。彼女をある場所、すなわち精神病院の手術室に入れ、それからあることを一通りやりました。麻酔など一切使わずに、手術ナイフで胸のところを切り開いていく。彼らの手はまったく震えることはありませんでした。わたしなら、きっと震えてたまらなかったでしょうが。わたしは武装警察を務め、銃を持って実弾で演習したこともあるし、多くの死体を見たこともありましたが、私なら震えるはずです。しかし、軍医の彼らを見て、私は本当に驚きました。彼らの手はちっとも震えず、マスクをしたままで胸のところを切り開いて行きました。当時、私たちはみな銃を手にして、傍で警備を担っていました。切り開かれた瞬間、彼女は突如凄まじい声で叫びました。「法輪大法は素晴らしい!!!」と。

調査員:胸が切り開かれた時に、彼女が「法輪大法は素晴らしい」と叫んだのですか。

証人:突然凄まじい声で、「法輪大法は素晴らしい」と叫びました。彼女は大体、次のようなことを言いました。あなた達はわたし1人を殺すことができても、信仰のためにあなた達の迫害を受けている何億の人々をみな殺すことができますか?、と。この言葉を聞いて、その軍医は一瞬、躊躇し、目を私と私の上司の方にちらりと向けました。私の上司が頷いたので、彼は続けて血管を…まずは心臓、それから腎臓を摘出し出しました。心臓の血管を切断した際に、彼女は痙攣しはじめました。非常に恐かったです。うまくいかないと思いますが、彼女の声をちょっと真似てみます。それは引き裂かれたようもので、アー、アーと口をずっと大きく開いて、目も大きく見開いていました。まあ、私はこのような光景を語りたくありませんが…

 …

証人:当時、彼女は教員でした。先生、中学校の先生でした。彼女の息子は約12歳でした。彼女の旦那さんは、権力のない人で一般の労働者のようです。それまで、彼女が受けてきた侮辱のほうが、より酷かったと思います。

 われわれ警察の中に変態者は少なくありません。彼女を、カンシや内視鏡などの器具でやっていました。彼らは一体どこからこのような器具を持ってきたのかは分かりませんが、いずれにして、やったことは全部目撃しました。悔しいことに、彼女に対する猥褻な行為を写真に撮ることができませんでした。彼女は美人の方なので、乱暴されることなどが、実に多かったのです…

調査員:この事は、あなたが勤務していた警察局で目撃したのですか。

証人:いや、当時は警察局内ではなく、私たちはある教育センターでやりました。それはあるホテルの裏にあり、10数の部屋を賃貸して使っていました。つまり、一軒の別荘の上の方でやったのです。

調査員:そこは、闇の監獄というようなところでしたね。

証人:まあ、そんなものでした。

調査員:そこに監禁されたのは、法輪功学習者だけでしたか。

証人:そうです。

調査員:つまり、判決を言い渡されない前からそこに入れられたというわけですね。

証人:いずれにしても、われわれは随時に場所を移動することができました。

 …

調査員:事件発生の具体的な時間を教えていただけますか。

証人:2002年4月9日でした。

調査員:4月9日でしたね。

証人:そうです。4月9日午後5時から摘出しはじめ、3時間かかりました。

 その後、1ヶ月ほど続きました。

調査員:「1ヶ月ほど続いた」というのは?

証人:続けて(他の学習者に対して)1ヶ月ほど拷問などを行っていました。

 …

調査員:法輪功学習者たちへの拷問は、一度だけやったのですか、それとも数回やったのですか。

証人:多くやりました。当時、王立軍、現在重慶市公安庁長は、「殺し尽くさなければならない」と厳令を下しましたから。


(翻訳編集・小林)
https://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d72072.html

12. 中川隆[-11164] koaQ7Jey 2019年3月27日 07:23:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[851] 報告
中国国歌斉唱に豚のみの食事、イスラム教徒が語るウイグル強制収容所
3/26(火) 20:01配信 AFP=時事
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190326-00000040-jij_afp-int&p=1


中国の再教育施設に収容されていたオムル・ベカリさんが再現した拘束の様子。トルコ・イスタンブールにて(2019年3月6日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190326-00000040-jij_afp-int.view-000


【AFP=時事】中国・新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)の再教育施設での1日は早朝の国歌斉唱と自己批判から始まり、そして多くの場合、豚のみの食事で終わる──施設で行われている洗脳について、かつて収容されていたイスラム教徒が詳細に証言した。

【関連写真】拘束の様子を再現するオムル・ベカリさん
https://www.afpbb.com/articles/-/3217648?pid=21099952&tmpl_skin=gallery&utm_source=yahoo&utm_medium=news&cx_from=yahoo&cx_position=p1&cx_rss=afp&cx_id=3217648

 国連(UN)の専門家によると、中国国内で最大のイスラム少数民族であるウイグル人の大半が暮らす新疆ウイグル自治区では現在、厳重な警備が敷かれる中、イスラム教徒およそ100万人が再教育施設に収容されている。
.

 中国政府はさまざまな疑惑に反論し、イスラム過激思想対策として施設を運営していると一貫して主張している。
.

 少数民族カザフ人のオムル・ベカリ(Omir Bekali)さんはカラマイ(Karamay)の施設に数週間収容され、昨年トルコに逃れた。ベカリさんは施設での生活について、教育などではなくトラウマだったと振り返る。
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 イスタンブールの自宅で取材に応じたベカリさんによると、収容所の目的はただ一つで、被収容者の信仰を剥ぎ取ることだったという。
.

「毎朝7時から30分間、被収容者たちは中国国家を歌わされた。40人か50人で壁に向かい、一緒に歌った」
.

 カザフ人男性が身に着ける帽子をかぶったベカリさんは、「私は全くもって歌いたくなかった、しかし毎日繰り返され、今でも体に染みついている。1年がたつというのに、あの歌がまだ頭の中で鳴り響いている」と語った。
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■豚を食べ、中国語を話せ

 ベカリさんは新疆ウイグル自治区でウイグル人とカザフ人の両親の下に生まれ、中国出身の多くの少数民族同様、仕事を求めて2006年にカザフスタンに渡り、そこでカザフ国籍を取得した。
.

 だが2017年に出張で新疆ウイグル自治区に戻った際、ベカリさんは逮捕され、「テロリズム」を支援した罪で7か月間収監された後、再教育施設に送られた。
.

 ベカリさんによると、収容所ではイスラム教徒にとって聖なる日である金曜日に豚肉を食べることが義務付けられていた。イスラム教では豚肉を口にすることは禁じられている。


また被収容者は当局から「生徒」と呼ばれ、中国語以外の言語を話すことを禁じられていたほか、礼拝やひげを伸ばすことも、当局が宗教的な過激化の兆候とみなしていたため許されなかったという。
.

 ベカリさんは2か月ほどで施設を出られたが、カザフ当局の介入があったからだとベカリさんはみている。
.

 中国にいる家族たちが危険にさらされるのを恐れ、多くの人が沈黙を貫いている一方、ベカリさんは収容所の状況を語ることができる数少ない生存者の一人として、海外で行われる国際会議などに出席して自らの経験を証言し続けている。
.

 ベカリさんには今も中国にいる両親ときょうだいがいるが、連絡は一切ないという。施設から釈放された後、ベカリさんは妻や子どもたちと共にカザフスタンを離れ、トルコに移住した。中国とは「もっと距離を置く」つもりだと、ベカリさんは語った。【翻訳編集】 AFPBB News





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中国・ウイグル強制収容所の内側─催涙ガス、テーザー銃、教本
2018年12月30日 16:48 発信地:北京/中国
https://www.afpbb.com/articles/-/3204613?utm_source=yahoo&utm_medium=news&cx_from=yahoo&cx_position=r1&cx_rss=afp&cx_id=3217648

中国の新疆ウイグル自治区で、ウイグル人ら少数民族のイスラム教徒を強制収容しているとみられる施設の地域別設置数をまとめた図。(c)AFP

https://www.afpbb.com/articles/-/3204613?pid=20834252&page=1

【12月30日 AFP】(編集部付記)中国の新疆ウイグル自治区でウイグル人、カザフ人、キルギス人ら少数民族のイスラム教徒が大量に拘束され、過酷な環境の下で思想改造を強制されているとみられる問題に、国際的な批判と懸念が高まっている。現地での取材が厳しく制限される中、AFPは2018年10月24日、中国政府の公開文書を基に収容施設の運営実態に迫ったベン・ドゥーリー記者の記事を北京発で配信した。以下、当ウェブサイトで同25日に掲載した抄訳にカット部分の訳を追加した全訳版を、図解とともに公開する。


■楽しげに学ぶ研修生?

 研修生たちが楽しそうに標準中国語を学び、職業技能を磨き、スポーツや民族舞踊といった課外活動に熱心に取り組んでいる──。国営の中国中央テレビ(CCTV)が10月中旬に放送した映像を見ると、中国の最西部・新疆ウイグル自治区(Xinjiang Uighur Autonomous Region)にある「職業訓練センター」は、あたかも近代的な学校であるかのようだ。

 ところが、自治区南西部ホータン(Hotan)地区のある地方政府でこうした施設を管轄する部署は、今年、数度にわたって次のような物品を調達していた。警棒2768本、電気棒550本、手錠1367個、それに催涙スプレー2792缶。いずれも、教育と関係があるようにはとても思えない品目だ。

 これらは、2017年初め以降、自治区内の地方政府が「職業技能教育訓練センター」の建設や運営に関連して発注した物品の、ほんの一例にすぎない。自治区全体では、センター向けの調達要求が計1000回以上行われている。

 こうした施設に対して、今、国際社会から厳しい目が向けられている。国際人権団体は、施設の実態は政治的な「再教育キャンプ」だと批判し、ウイグル人やほかの少数民族のイスラム教徒が最大100万人収容されているとみている。

 中国政府は、以前はこうした施設の存在自体を否定していた。しかし、国連(UN)や米国をはじめとする国際社会からの批判を受けて、施設が存在することは認めた上で、批判に反論する宣伝戦に転じている。

 中国政府の主張はこうだ。センターは「自由な」教育と職業訓練を通じて、分離主義、テロリズム、宗教的な過激主義の拡散を防ぐためのものである──。

 だが、AFPが入札や予算関係の文書、業務報告書など、公に入手できる中国の政府文書1500点以上を検証したところ、施設は学校どころか刑務所のように運営されていることが分かった。


■「つながりを壊せ、出自を壊せ」

 政府文書が示すところによれば、こうした「職業訓練センター」の周囲には有刺鉄線が張り巡らされ、赤外線カメラも設置されている。内部では、催涙ガスや、テーザー銃などのスタンガン、「狼牙棒(ろうげぼう)」と呼ばれる、とげの付いたこん棒などを与えられた大勢の警備員が、「研修生」を厳しく管理している。

 ある文書には、自治区トップの陳全国(Chen Quanguo)共産党委員会書記の次のような発言が引用されていた。いわく、センターは「学校のように教育し、軍隊のように管理され、刑務所のように警備され」るべきだ。

 また、別の文書にはこう記されている。より優れた中国公民を生み出すために、センターではまず、入所者の「血筋を打ち壊し、基盤を打ち壊し、つながりを打ち壊し、出自を打ち壊さ」なければならない──。

■収容所数は180カ所超

 AFPのまとめによると、新疆ウイグル自治区内にはこうした施設が少なくとも181か所存在する。

 中国中央テレビの報道では、センターへの参加は自由意志に基づくものと紹介され、そこでは、そろいの制服を着た「研修生」たちが、標準中国語を学習したり、編み物や織物、パン焼きといった職業技術の研修を受けたりしていた。

 ウイグル自治区にセンターが登場するのは2014年にさかのぼる。自治区内で死者を出す暴動が起きたことを受けて、地元当局が「テロリズム」に対する「厳打」と呼ぶ厳しい取り締まりに乗り出した年だ。

 ただ、施設の建設に拍車がかかったのは2017年初めになってからだ。この時期に、ウイグル人が住民の大多数を占める自治区南部で、複数の地方政府が「焦点集団を対象とした集中教化センター」の建設加速を命じている。「焦点集団」とは、信仰を持つ人、貧しい人、教育を受けていない人、軍隊に入るのに適した年齢の男性ほぼ全員などを含められるあいまいな表現だ。

 ほどなくして、新疆ウイグル自治区政府は「宗教的な過激思想」の管理に関する条例を公布した。

 当局は、過激派はどこにでも潜んでいる可能性があると警告し、幹部らに対し、25の違法な宗教活動のほか、禁煙やテントの購入といった無害と思える行動を含め、75の過激主義の兆候に目を光らせるよう指示した。

 「拘束すべき人物はできる限り拘束せよ」。幹部らはそうも命じられている。


■党中央から資金

 その結果、拘束者が急増し、各地方政府は大急ぎで対応に追われたようだ。

 センターの建設や運営には多大な費用がかかることから、2017年には自治区全体で司法当局の支出が爆発的に増えている。AFPの試算によれば、当初予算の少なくとも577%増に相当する30億元(約480億円)近くが投じられたもようだ。

 自治区南部の複数の地方政府は、財源不足を、センター向けの特別な資金で補った。予算関係の文書によれば、資金の少なくとも一部は、中国の公安部門を取り仕切る党中央政法委員会から直接支出されている。

■「虎椅子」も発注

 2017年4月ごろには、各地方政府が施設関係のさまざまな入札の公告を始めている。調達品目を見ると、確かに、机や椅子、エアコン、2段ベッド、食器といった、中国の一般的な大学の備品として違和感がないものもある。

 だが、それだけではない。高度な監視システム、「研修生」の室内の様子を記録するためのカメラ、有刺鉄線、電話盗聴器、赤外線監視装置など、刑務所で使われるような機材も含まれているのだ。

 センターはほかにも、警察の制服、暴動対応用の盾やヘルメット、催涙スプレー、催涙ガス、網を発射するネットガン、スタンガン、電気棒、警棒、やり、手錠、狼牙棒などを購入している。

 さらに、少なくとも1カ所のセンターは、中国の警察が尋問対象者の身体拘束に用いる器具、通称「虎椅子」も注文していた。

 自治区の区都ウルムチ(Urumqi)の党機関は、センター向けにテーザー銃の調達を緊急に要望する文書の中で、これらの機材は「職員個人の安全を確保する」ために必要だと訴えている。非殺傷武器については「通常の火器を使わなくてもよい状況で、偶発的な事故が起こる可能性を減らす」上で重要だとも指摘している。

■中国外務省「強い疑問」

 AFPは自治区の地方当局に繰り返し取材を試みたが、本記事を公開するまでにコメントを得ることはできなかった。中国外務省の華春瑩(Hua Chunying)報道官は10月24日の定例記者会見で、本記事が明らかにした事実に疑問を呈する一方、内容を特に否定もしなかった。華報道官はAFP記者に次のように語った。

「あなたが(記事に)書いている状況が真実なのかどうかについては、強い疑問を呈しておきたい」「あなたには、中国当局がどう説明しているか、中国メディアがどう伝えているかを調べてもらいたい」

 ウイグル人らの大量拘束をめぐり、中国に対する制裁を呼び掛けているマルコ・ルビオ(Marco Rubio)米上院議員(共和党、フロリダ州選出)は同日、AFPの報道を受けて、ツイッター(Twitter)で施設に関する中国側の説明に改めて疑念を示した。

「中国は世界に対して、新疆の強制収容所を職業訓練センターだと信じ込ませようとしている。しかし、警棒を2768本、電気棒を550本、手錠を1367個、催涙スプレー2792缶購入する職業訓練センターとは、いったいどんな職業訓練センターなのか?」


■定期的に「自己批判」

 2017年末には、自治区で「上位の当局」から、各施設の運営を画一化するよう指示が出されている。複数の地方政府のウェブサイトによれば、新たに「職業教育訓練サービス管理局」が設立され、そのトップは刑務所や拘束施設の運営経験のある当局者が務めている。

 ある地方政府の職業教育訓練サービス管理局の文書によれば、センターの入所者は標準中国語や党の主張に関する知識を週、月、「季節」単位で試験されるほか、定期的に「自己批判」を書くことになるとされている。

 また、入所者はセンターで「スローガンを叫び、紅歌を歌い、三字経を暗記する」とも言及されている。紅歌とは中国共産党をたたえるものなど愛国的な歌、三字経とは儒教の基本的な徳目を説いた中国の伝統的な教育書のことだ。

 入所者のファイルは集中管理されたデータベースに登録され、入所者は違反行為や成績によって分類されていた。

 犯罪で服役していた人は、「信用できない者は信用できる場所に置く」という原則に従うとして、刑務所を出所後、直接センターに送り込まれていた。

 一方、センターで良い成績を修めた人には、家族に電話することや、センター内の特別な部屋で家族と面会することが認められていた。

■各世帯から「最低1人」収容か

 当局者には、入所者の家族の自宅を定期的に訪れ、家族に「反過激主義」について教示し、共産党への反発に硬化しかねない怒りの兆候が彼らにみられないかかどうか、チェックすることが命じられている。

 ある地方政府の職業教育訓練サービス管理局が自局の義務について記した文書によれば、職業教育訓練サービス管理局はセンターに関して、「脱走」を防ぐなど、施設内で「面倒なこと」が起こらないように「絶対的な安全」を確保するものとされている。

 各地方政府は、元服役囚や宗教的な過激主義の罪に問われた人に加え、各世帯の少なくとも1人に対して、最低でも1〜3か月間、「職業訓練」を受けさせるよう指示されていた。人口約2400万人の新疆ウイグル自治区で、貧困を軽減するというのが表向きの理由だ。

 中国政府はこれまで、同自治区内で施設に拘束されている人の数を最大で100万人とする見方を否定している。だが、入札関係の書類には、その数が膨大であることをうかがわせる記述も見つかった。

 ホータン地区のホータン県で少なくとも1か所のセンターを管轄する地元当局は、2018年初めの1か月だけで次のような物品を発注している。

 中国語の教本19万4000冊。靴1万1310足。(c)AFP/Ben Dooley

13. 中川隆[-11163] koaQ7Jey 2019年3月27日 07:35:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[852] 報告

つるりん
『論語』・孔子と「儒教・儒学」は全くの別物 2019年3月21日


本書は、毛沢東の文化大革命の嵐が吹き荒れる中での
石平少年の経験談から始まるのだが、これが非常に興味深く
引き込まれるように読んだ

第1章で、孔子と『論語』について解説している

著者である石平氏によると
「孔子は、巷間言われているような「聖人」ではなく
単なる「常識人」で、たまには弟子に嫉妬したり、癇癪を起こしたりするような「普通のオッサン」」であり
「『論語』は、人々が豊かで幸福な人生を送るための助言が綴られた『常識の書』」とのことだ

私は、石平氏の見解に深く首肯すると共に
「孔子というのは、「常識の達人」だ」との感想を持った

さて、第2章以降では、いよいよ「儒教・儒学」に関する考察が始まるのだが
私の恥を晒すと、「儒教・儒学」などに対して興味も無かったことから
「「儒教・儒学」の始祖は孔子で、その根本規範となったのが『論語』という通説を無批判に信じていた

「儒教・儒学」とは、「もともと漢王朝の時代に皇帝の権威を確立するために
知識人によって、でっち上げられたもの」、なのだそうだ

その辺りのことが第2章で詳述されている

第3章では「朱子学・礼教」が詳しく解説されているが
その悪辣さは半端ではない

人民に対する支配を強めるために、「常に理性的であり、欲望を滅することを強要」する
女性に対しては、「自決」という名の下に、殺してしまうことを容認、強制している

最終章では、『論語』の読み方を指南してくれているが
伊藤仁斎が『論語』から見出した「愛」の概念や
「専門馬鹿になってはいけない」など興味深い話が満載で
『論語』を読みたくなってくる

実は『論語』は蔵書の中にあるし、読破済みなのだが
もう一度、読んでみようと思う

本書だけでも、満足感で一杯なのだが
できれば、昨年出版された

『なぜ日本だけが中国の呪縛から逃れられたのか 「脱中華」の日本思想史 (PHP新書)』
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%8C%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%91%AA%E7%B8%9B%E3%81%8B%E3%82%89%E9%80%83%E3%82%8C%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%80%8C%E8%84%B1%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%B2-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9F%B3-%E5%B9%B3/dp/456983745X


と併せて読むことをお勧めしたい


14. 中川隆[-11161] koaQ7Jey 2019年3月27日 07:39:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[854] 報告

論語と儒教は無関係である


特別番組「なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか」
石平 倉山満【チャンネルくらら・3月16日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=97lnyaSszUs


特別番組「孔子の教えを最も実践している国は?〜なぜ論語は「善」なのに儒教は「悪」なのか」
石平 倉山満【チャンネルくらら・3月23日配信】 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=CjciO6zwxJY


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なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心 (PHP新書) – 2019/3/16
石平 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%AA%E3%81%9C%E8%AB%96%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%96%84%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AB%E3%80%81%E5%84%92%E6%95%99%E3%81%AF%E3%80%8C%E6%82%AA%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E4%B8%AD%E9%9F%93%E3%80%8C%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%A0%BC%E5%B7%AE%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%BF%83-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%9F%B3%E5%B9%B3/dp/4569842771


内容紹介

論語はすなわち儒教のことである――日本人の多くにとっての「常識」であろう。ところが、実はそうではない。

子供のころ、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。

実際の孔子は「聖人」であったのか?なぜ『論語』は絶対に読むべきなのか?
御用教学・儒教の成立と悪用される孔子、朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、
なんと「論語は儒教ではない」というものだった。

曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書。


目次:
序章 私の『論語』体験と、私が見た「儒教の残酷さ」
第1章 定説や通念を覆す──孔子とは何者か、『論語』とは何か
第2章 御用教学・儒教の成立と悪用される孔子
第3章 朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇
第4章 朱子学を捨て、『論語』に「愛」を求めた日本
最終章『論語』はこう読もう

論語はすなわち儒教のことである―日本人の多くにとっての「常識」であろう。ところが、実はそうではない。子供のころ、祖父の摩訶不思議な「教え」から『論語』に接した著者は、のちに儒教の持つ残酷な側面を知り、強い葛藤を抱く。実際の孔子は「聖人」であったのか?なぜ『論語』は絶対に読むべきなのか?御用教学・儒教の成立と悪用される孔子、朱子学の誕生と儒教原理主義の悲劇など、中国思想史の分析を重ねた果てに著者がたどり着いた答えは、なんと「論語は儒教ではない」というものだった。曇りのない目で孔子の言葉に触れ、『論語』を人生に生かすための画期的な書。


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waka
論語と儒教は無関係である 2019年3月19日


著者の石平氏は、文化大革命の最中だった幼少時代、祖父から毎日「論語」の言葉を何百回も書き写しさせられた。当時、中国では、孔子の思想は徹底的に糾弾され、発覚したら命すら危ないくらいだったが、漢方医だった祖父は医術伝授の前段階の基礎教育として「仁術」を身に着けさせるために、「論語」の言葉を教えたのだった。これが石平氏と「論語」との出会いだった。

その後、石平氏は北京大学生だった時、「節婦」と「烈婦」の存在を友人から聞かされて激しい衝撃を受ける。礼教(南宋時代以来の新儒教)が支配する明朝や清朝の時代、女性が結婚して夫に先立たれた場合、再婚が許されなかった。跡継ぎの息子がいる場合、嫁ぎ先の家に残って子供を育て上げなければならない。それが「節婦」である。跡継ぎがいない場合、未亡人は殉死を強要される。それが「烈婦」である。そんな残酷なことが、明清時代の500年以上に渡って中国全国のあちこちで起きていたと思うと、憤慨を覚えざるを得なかった。そして「礼教殺人」と言う言葉が戦慄するほどのリアリティーを持つようになったという。

同時に、一つの大きな葛藤を抱えることになった。礼教は儒教の一種であり、「論語」は儒教の始祖だと言われている。だとすれば、「論語」と孔子の思想は、儒教・礼教と当然繋がっており、共通した理想理念があるはずなのに、石氏が教わった「論語」の言葉の数々には、礼教の「殺人思想」と繋がるような要素は何一つなかった。
孔子が「論語」の中で語っているのは「愛」や「恕(思いやりの心)」や、親の気持ちを大事にする意味での「孝」といった人間的暖かみのあるもので、礼教の残酷さはない。「論語」と礼教の間には、何の共通点もないはずである。「論語」が語る「礼」と、後世の礼教が重んじる「礼」とは、本質的に別々のものではないのかと思ったのである。

「論語」と礼教とは、やはり別のものであると石氏が確信するに至ったのは、日本に来てからだった。留学の保証人になってもらった日本人の家を訪問した時、夫人が極めて礼儀正しく丁重に迎え入れてくれ、石氏は思わず感涙をこぼしたほどだった。文化大革命が吹き荒れた時代の中国では、「礼」の具体的な形を見たことは一度もなかったという。
更に数年後、大学院でフランスの近代社会学者デュルケームの「社会儀礼論」を学んでいた時、石氏が「さすがにフランスの社会学者ですね」と言ったところ、指導教官から「何を言っているのか。最初に考えたのは君の祖先だよ」と言って、「論語」の一文を出してきた。石氏はこれにより、「論語」の奥深さと「論語」の語る「礼」の本質について理解ができたという。

中国伝統の礼教と礼教の作り出した社会は、心の暖かい「礼」と「和」とは無縁な世界であり、過酷さと残忍さを基調とする世界だった。「論語」の精神と考えは、後世の中国伝統の礼教とはまったく正反対のものである。

「論語」と儒教は無関係である。このような視点は、学問上の定説および歴史上の一般的な通念とは相反している。石氏はこれまで数十年に渡って、この問題意識を念頭に置き、「論語」関係、儒教関係の学術書や文献を読んで、探求を深めてきた。そして最近やっと自信を持って、「論語」と儒教を同一視するこれまでの学術上の定説と歴史上の通念は間違っていると堂々と言えるようになった。

「論語」の精神と考えには、普遍的な価値のあるものが多く含まれているので、「論語」は大いに読まれるべきである。しかし、儒教とは過去からの負の遺産であり、廃棄物として捨てておくべきものであると、石氏は主張する。

儒教と礼教が支配していた中国と朝鮮でも、いわゆる読書人階層は「論語」を一応は読んでいたはずだが、彼らは「論語」の心を理解しようとせず、「論語」の精神を実践に移すこともなかった。結局、中国と朝鮮が儒教と朱子学によって支配されたのに対し、日本人は昔から自分たちの好みで「論語」を愛読し、「論語」の精神を心得ている。そして、まさにその重要な違いから、日本人と中国人・韓国人との「道徳格差」が生じてきたのだろうと述べている。

15. 中川隆[-11160] koaQ7Jey 2019年3月27日 07:55:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[855] 報告
孔子はコーカソイドだった可能性が高い


2010年12月03日 古代漢族


中国といえば黄色人種の代名詞的存在です。

しかし、漢字を発明した古代漢族と現在の漢族は、遺伝的なつながりがほとんどないとみられています。

漢王朝が崩壊後、北方の異民族が流入して人口は3分の1〜6分の1に減少したと推定されています。

しかも、流入した北方民族を含めて人口が3分の1〜6分の1に減少したのですから、古代漢民族の減少はそれ以上だった推定されます。

その後、鮮卑族と呼ばれる北方民族が統一王朝を建設し、隋、唐と長い間支配が続きます。

現在の漢民族は唐時代に民族の基礎が形成されており、
現在のイタリア人と古代ローマ民族以上に別物といわれています。
現在の中国では、古代漢語といえば清王朝時代の満州人の影響下にあった漢語を指すようです。

古代漢族は、現在の中国と違った文化をもつ謎の多い民族です。
そんな漢民族ですが、最近の近代的な考古学的手法の発達により、
遺骨やミイラのDNA分析の結果が断片的に報告されるようになってきました。

2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝らは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、
及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表しました。

その結果は、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、
約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近いという結果になり、
現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらなというものでした。

一方、3000年前〜1500年前の中国西部は、白人が支配する地域であったことがほぼ定説になりつつあるようです。
新疆ウイグル自治区の楼蘭の美女と呼ばれるミイラは、白人のミイラとして知られています。
中国西部では600体もの白人のミイラが見つかっています。
北京から400、500km南東に位置している山西省の大原市からも白人が埋葬された墳墓が見つかっています。
このことから1500年前にはすでに白人がかなり移住していたと考えられます。

漢文は異民族との情報交換のために発達した文章といわれています。
つまり、漢文は文章のためのものであり、当時、話された言葉をアルファベットや万葉仮名のように示したものではありません。
つまり、当時話されていた言葉を記録した資料が極端に少なく、検討する余地はかなりあるようです。

ひょっとすると、漢文は当時のシナ系言語と全く異なる白人の言語をつなげる架け橋だったのかもしれません。

これらの白人はコーカソイドと呼ばれる人達で、いわゆるトルコ系民族と言われる人たちです。
トルコ系民族は、少なくとも5世紀ごろにはシベリア地域にも移住していたとみられています。
そう考えてみると、中国にもトルコ系民族が移住していても何の不思議もありません。

東京大学の植田教授らは山東半島周辺に白人の居住地があったことを指摘しています。

現時点では、白人が中国のどの程度の位置を占めていたのか不明ですが、
今後DNAの研究が進むにつれ、これまでの歴史の常識が大きく覆されるかもしれません。
漢字は白人が発明したとまではいえませんが、山東半島出身の孔子は白人だった可能性があるといえそうです。

◆孔子は白人だった?

宮崎正弘(作家、評論家)先生の話を聞いて耳を疑うほどに驚いた。

「孔子の生きた時代の、山東省の遺骨を全部集めてDNA解析をしたところ、
 その時代の山東省には白人が住んでいたことが分かった。
 もしかしたら、孔子は白人だったのかも知れない」

そういえば、

「世界史のなかの満洲帝国」(宮脇淳子著、PHP新書)
https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE%E6%BA%80%E6%B4%B2%E5%B8%9D%E5%9B%BD-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%AE%E8%84%87-%E6%B7%B3%E5%AD%90/dp/4569648800


の中の「中国人とはだれか」についての記述が面白い。

一部引用します。

『つぎに、黄河文明を担った中国人は、どこから来たのか、という話をしよう。
 中国の古い文献では、洛陽盆地を中心とする「中華」をとりまいて、
 「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」がいたと伝えている。(中略)

 これらの異なった生活形態をもつ人々が接触したのが、洛陽盆地の付近であった。

 表意文字である漢字は、違う言語を話していた人びとの交易のための共通語として発展した。

 漢字の古典には、文法上の名詞や動詞の区別はなく、接頭語や接尾語もなく、時称もない。

 どんな順番で並べてもいい。
 発音は二の次で、目でみて理解するための通信手段である。
 これはマーケットランゲージの特徴である。

 漢字を使えば交易のネットワークに参加することができ、遠隔地とも通信ができる。 
 そういうわけで出身に関係なく、漢字を使う集団が洛陽盆地のあちこちに生まれた。(中略)
 漢字のこの特徴が中国文明の本質の一つとなった。
 つまり、日常の話し言葉とどんなにかけ離れていても、漢字を学べば中国人と見做される』

いやもうびっくり。漢字を学べば中国人(笑)。

ま、今も中国は多民族(50種類以上)国家だし、
過去に遡って一度でも勢力範囲としたところは「本当は中国」であるという認識を持っているらしい。

もちろん、そのときの主力民族には全くこだわらない。
つい最近の「清国」も実際は満州人の王朝なのに、
大東亜戦争後は侵略された側である漢民族が当然の顔をして、満洲帝国までぶん取ってしまった。

そして、チベットや東トルキスタン(ウイグル)モンゴル南部までも。
(因みに北朝鮮はすでに属国状態であり、韓国、日本をも当然狙っていることだろう)

(また、秦は白人の始皇帝が興した国であるし、隋も唐も本当はアーリア系のソグド人が築いた王朝で、
 元は蒙古人による国、清にしてもも満州人〈大興嶺山脈を越えて東方進出した蒙古人で
 モンゴル文字と満州・女真文字がソックリである事からルーツが明らかである〉による国である)


そんなこんなを考えると、孔子が白人であっても何の不思議もないですね。

もともと征服王朝の歴史であるし、目に余る虐殺文化を持つのだから、消えた民族も数知れないことだろう。
実際、旧満州に満人はほとんど残っていないらしいから泣けてくる。

しかし、もし孔子が本当に白人だったとしたら、最近現れた孔子の子孫だという人物のDNAを鑑定すれば、ホンモノかどうかがはっきりするかも。
ま、どっちでもいいですけどね(笑)。
https://plaza.rakuten.co.jp/yumoto/diary/201011270000/

16. 中川隆[-10342] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:12:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1766] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源
15-31. 新石器時代後期の中国北部がシナ‐チベット語族の起源らしい!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm


  Natureの2019年4月25日付けの論文で、シナ−チベット語族の起源が中国北部との「中国北部起源説」を支持する旨の系統発生学的な証拠がそろったとの 内容が発表されました。シナーチベット語族の分岐は5900年前頃で黄河域で生じた、と説明している。

しかもシナ語族とチベット−ビルマ語族の分離は西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、 東方と南方に移動して漢民族となった集団に分岐した時だったと考えられるらしい。 これは縄文系の兄Y-DNA遺伝子集団であるチベット民族の起源にも触れるため、記事にしました。

  これとY-DNA調査によるガラパゴス史観を当てはめると、
1.揚子江流域で発展した稲作農耕の長江文明集団(Y-DNA「O1」)が、陸稲文化だった
  黄河文明系集団(Y-DNA「O2」)に敗れ、中原から追い出され、北方と南方に逃げた
  ことと一致する。南方に逃げた集団(オーストロアジア語系/越系:Y-DNA「O1b1」
  となった)は現代のベトナムからインドに分布し、稲作農耕民として生活している。
  一方北方に逃げた集団(オーストロアジア語系/呉系:Y-DNA「O1b2」となった)は
  満州あたりまで逃げそこから稲作適地を求め南下し朝鮮半島を経由し日本列島に入り
  弥生系文化集団となり、現代に続く日本人と朝鮮人の稲作農耕民の祖先となっている。
  東方に逃げ台湾に入った集団(オーストロネシア語系/楚系:Y-DNA「O1a」になっ
  た)も存在するが、同時代かどうかはまだわかっていません。


2.この時、西方のチベットに逃げ込んだ集団がチベット語族となったようですが、
  そうすると縄文系日本人Y-DNA「D1b」の兄遺伝子Y-DNA「D1a」を持つチベット人
  (後代に移住してきた漢族は除く)はその当時まで中原付近に居住していたことになり
  ます。
  ところが人類学の最新の研究では現代チベット人やシェルパ族の高地適応はデニソワ人
  から受け継いだと説明しています。そうするとその当時までデニソワ人はチベット
  高原に生き延びていたことになりますが.......?
  もしくは、四川文明は蜀の先祖/古蜀の古代文化と考えられますが、チベット系は中国
  大陸の中部から西部チベット高原に古代から既に広く拡大していたのかもしれません。
  日本語とチベット語の関係はまだ解明されていませんが、民話は、姑娘民話とかぐや
  姫民話など、一部共通するものがありますので、言語学者が古代チベット語を系統発生
  学で研究すると縄文語との近縁性が解明されるかもしれません。
  過去に学習院大学の大野教授が日本語の祖先はドラヴィダ人のタミール語であると発表
  し、今は死説となりましたが、Y-DNA「O1b1」のモンゴロイド系稲作農耕民が現代
  でも70%以上を占める部族がドライダ人集団内にいるため、この死説は弥生人が使っ
  ていた長江系稲作農耕関連の語彙が、遠くドラヴィダ人内に今でも残っていることを
  証明した事になるため、結果として極めて貴重な学説となりました。

3.この時に東方と南方に拡大したのが後の漢民族の母体となるY-DNA「O2」遺伝子集団
  と考えられます。この遺伝子集団は周辺の他の遺伝子集団と積極的に混じり合ったらし
  く、極東アジアのみならず、インドネシアなどのスンダ列島やニューギニアまで、
  東南アジアからオセアニアまで広く分布しています。これぞ極めつけの極東アジア人
  遺伝子のY-DNA「O」は、古代ではかなり活動的な集団だったのではないかと推測でき
  ます。


=======================
それでは、Nature論文のabstructを転記します。興味のある方は原著を是非お読みください。

Nature Letter | Published: 24 April 2019

Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic

 The study of language origin and divergence is important for understanding the history of human populations and their cultures.
 The Sino-Tibetan language family is the second largest in the world after Indo-European, and there is a long-running debate about its phylogeny and the time depth of its original divergence.
 Here we perform a Bayesian phylogenetic analysis to examine two competing hypotheses of the origin of the Sino-Tibetan language family: the ‘northern-origin hypothesis’ and the ‘southwestern-origin hypothesis’.
 The northern-origin hypothesis states that the initial expansion of Sino-Tibetan languages occurred approximately 4,000?6,000?years before present(bp; taken as ad 1950) in the Yellow River basin of northern China and that this expansion is associated with the development of the Yangshao and/or Majiayao Neolithic cultures.
 The southwestern-origin hypothesis states that an early expansion of Sino-Tibetan languages occurred before 9,000?years bp from a region in southwest Sichuan province in China or in northeast India, where a high diversity of Tibeto-Burman languages exists today.
 Consistent with the northern-origin hypothesis, our Bayesian phylogenetic analysis of 109 languages with 949 lexical root-meanings produced an estimated time depth for the divergence of Sino-Tibetan languages of approximately 4,200?7,800?years bp, with an average value of approximately 5,900?years bp.
 In addition, the phylogeny supported a dichotomy between Sinitic and Tibeto-Burman languages.
 Our results are compatible with the archaeological records, and with the farming and language dispersal hypothesis of agricultural expansion in China.
 Our findings provide a linguistic foothold for further interdisciplinary studies of prehistoric human activity in East Asia.
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和訳です。

新石器時代後期の中国北部にシナ‐チベット語族の起源があることの系統発生の証拠。

 "言語起源と相違の研究は、人間の集団と彼らの文化の歴史を理解することにとって重要です。
"
 シナ‐チベット語族の言語族はインド‐ヨーロッパ語族の後で世界で2番目に大きいです、そして、 その系統発生とその最初の拡散の時期についての長い年月にわたる議論があります。

 "ここでは、シナ‐チベット語族の言語族の起源の2つの拮抗している仮説、すなわち『北部起源仮説』と『南西部起源仮説』、 を調べるために、我々はベイズ的な系統発生の分析を行います。 "

 北部起源説は、シナ‐チベット語族の最初の拡大が中国北部の黄河流域で、4000〜6000年前に生じ、 そしてこの拡散は新石器時代文化の仰韶(ヤンシャオ)文化 and/or 馬家窯(マジャヤオ)文化の開発と関連している、と説明しています。

 南西部起源説は、シナ‐チベット語族の初期の拡大は、今日でも高い多様性のチベット-ビルマ語族が居住している 中国四川省の南西部もしくはインド北東部で9000年前頃に生じたと説明しています。

 949の語彙の根源的な意味の統計解析による109の言語に対する我々のベイズ的な系統発生の分析は、 シナ‐チベット語族の分岐はおよそほぼ4,200〜7,800年前で平均は、北部起源仮説と一致しておよそ5900年前であった。

 "これに加えて系統発生は、シナ-チベット語族が、シナ語とチベット-ビルマ語族に二分されることを支持しました。
"
 我々の結果は、考古学的な記録と、そして、中国における農業と言語による農業の分散仮説と一致しています。

 我々の調査結果は、東アジアでの有史以前の人間の活動のより学際的な研究に、言語学的な足掛かりを提供します。
 http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm

17. 中川隆[-11135] koaQ7Jey 2019年9月28日 18:39:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1680] 報告
2019年09月28日
香港が独立すると中国が崩壊する理由 全土で反乱が起きるおそれ

中国の歴史はアリとキリギリスそのもので、南方のアリは働くだけ

北京のキリギリスは働かず食べるだけ


香港独立が中国崩壊につながる理由

香港では2019年4月に犯罪者を中国に引き渡す「逃亡犯条例」が発表され6月から香港デモが始まりました。

デモは香港全土で百万人を集めて暴徒化したため香港政庁は7月に逃亡犯条例を立法化延期を表明した。

9月になって逃亡犯条例を正式に撤回したが、デモは収束せず香港独立や中国からの離脱を求める声が高まっている。


この本質は香港が中国の領土ではないことで、さらに言えばモンゴル・チベット・ウイグル・キルギス・長江以南もすべて中国の領土ではない。

中国という概念を作ったのは秦の始皇帝だが実態は北方の少数の騎馬民族が、南方の農耕民族を植民地支配した。

以来2千年以上に渡って北京周辺の騎馬民族は働きもせず王朝を作っては、南方民族に労働をさせていました。


中国の発明とか伝統と呼ばれるものはすべて長江文明発祥で、北京周辺の黄河文明はただ侵略して奪ってきただけです。

それを伝統や文化というならば、ソ連やナチスも「文化」だったでしょう。

中国の歴史を1%の騎馬民族が99%の農耕民族を支配した歴史と捉えると、複雑に見えた中国史が一気に簡単になります。


香港の他、モンゴル・チベット・ウイグル・キルギス・長江以南の土地も全て中国の領土ではなく、殖民地にすぎません。

清王朝が滅んでから中国は漢民族という人種を創作し、中国が一つの人種であるかのようなまやかしを多民族に強要している。

全てが漢民族だからチベット人やウイグル人に配慮する必要がなく、少数民族は存在しないことになっている。


こういう架空の国で香港の民主化や独立などを認めると、チベットやウイグルやモンゴルも民主化や独立を求める。


中国史で強いのは必ず北方国家で南方国家は弱い


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画像引用:東アジアと日本 | 世界の歴史まっぷhttps://sekainorekisi.com/era_name/

中国とは北方王朝が農耕民族を支配した歴史

中国だの漢民族だの中国王朝だのは存在せず、草原を馬で駆け回っていた騎馬民族が、南方の農耕民族を働かせて収穫物を奪っていただけでした。

王朝を築いた騎馬民族は2千年間一度も働かず、権力闘争に明け暮れて「中国が発展しないように」国を治めてきました。

国が発展すると南方の農耕民族が豊かになり、力を持って北方の皇帝と支配人種に逆らってくるからです。


中国はチベットを奪い取ったように香港をイギリスから奪ったが、香港の方が豊かであり中国は貧しい。

香港はイギリス時代に既に民主主義を体験しており、選挙権以外は先進国と同じような社会制度の下で暮らしていた。

一度民主主義の下で発展した国が共産主義や独裁主義に戻るのは、21世紀から原始時代に戻るようなものでしょう。


香港人は最初「同じ中国人だ」とか「中国は発展するから金持ちになる」などと考えたが、まったくの幻想に過ぎなかった。

中国の本性は北方の騎馬民族による南方支配であり、2000年前の秦の始皇帝時代と何も変わっていない。

北京周辺の皇帝や支配人種は働きもせず政争に明け暮れて、南方の人々に働かせては搾取しています。


香港が本土に統一されたらたちまちチベットやウイグルのようになるのは火を見るよりも明らかです。

中国の歴史を眺めて不思議で仕方がないのは、長江周辺や南方の人々はなぜ独立した国を作らないかという事です。

中国には宋など南方王朝もあったのだが、とにかく戦争に弱いので戦うと必ず北方民族の国に負けていました。


国を作るという作業は要するに戦争に勝って不満を抑え込む事なので、戦争に弱い民族は国を作れない。

香港人もやはり国を作るのが苦手なようで、騒いではいるがどうすれば良いのか分かっていない。

東欧のウクライナやポーランドだったら、さっさと独立政府を作って正規軍にゲリラ戦を挑み、国際社会を巻き込んで独立してしまうでしょう。


2千年間支配される側だった南方の中国人は、果たして北方から独立できるでしょうか。
http://www.thutmosev.com/archives/81082509.html

18. 中川隆[-10656] koaQ7Jey 2019年10月21日 19:44:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2203] 報告

恨むなら「気候」を恨め。鼻が低いのは高温多湿な土地で育ったから 2016/09/04
https://tabi-labo.com/277304/humannoses

クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていた──。とは、フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの有名な言葉。けれど、実際のところ彼女の鼻の高さで歴史が変わることは、どのみちなかったようだ。

というのも鼻の形状(高い低い)は、暮らしている地域の気候ごとに進化したものなんだとか。

鼻の形状は、
緯度によって変化する


欧米人の鼻の高さに比べてアフリカ系の人々、さらには我々日本人も含むアジア人の鼻が低い。ほとんど万人が抱いている共通認識。これには、ちゃんとした裏付けがあった。

人間の鼻の形は、それぞれの地域で自然環境に順応するために、最適な形状へと進化したもの。

2016年6月「American Journal of Physical Anthropology」に掲載された、ノーステキサス大学ヘルスセンターの研究者らによる論文によると、北欧など高緯度の地域に暮らす人ほど、高くすらっと細い鼻の持ち主。これに対し、赤道に近い場所で生活している人の鼻は平たく幅が広いことが結論付けられた。

この鼻の形状を定義するのが、地域ごとの温度や湿度、つまりは自然環境が大きく影響を与えているということだ。


温度、湿度に適応する

重要な役割が鼻腔にあり


ではなぜ、地域によって鼻の高低差がついたのだろうか?この研究の詳細を報じた「Mental Floss」は、寒冷の北欧に暮らすヨーロッパ人の細い鼻は、低温で乾燥した空気を加熱、加湿する役割があるとする専門家の意見を紹介している。

曰く、吸い込んだ冷たい空気が鼻腔(鼻の穴)を通るとき、鼻粘膜によって湿気が加えられ、粘膜へ流れてくる血液により温められているそう。これは、冷たい空気が直接肺に入ることを避けるための機能。鼻腔が狭くなれば、その分鼻も大きくなることから、緯度の高い(寒冷地)の人の鼻ほど細く高くなるというロジック。

いっぽう、熱帯地域の人々は高温多湿なため、すでに周りの空気が十分に湿気を含んでいる。暖かく湿った空気は、直接鼻腔の奥へととどくため、鼻の果たす役割も少なくて済む訳だ。


113年分の気候データから検証

幅広の鼻は体温を下げる役割


ところが、今回の研究において指揮をとった人類学者のスコット・マダックス博士は、低く幅広な鼻も北欧ヨーロッパの人々と同じように、「多湿に耐えうる進化だ」と主張する。

同博士らは、1901年から2013年までの世界の年間平均気温、相対湿度、絶対湿度をベースに、膨大な気候データを分析しビッグデータを再構築。その後、世界147カ国、15,000人以上の鼻を計測した1923年のデータと比較することで、熱帯地域に暮らす人々の鼻も、高温多湿に合わせて進化を続けてきたことを証明してみせた。


高温多湿になればなるほど

日本人の鼻は低くなる!?


「2016年7月は観測史上最も暑かった」とNASAが発表したように、世界の平均気温は20世紀より1.57℃上昇しているという。それは日本でも。長期的には100年あたり1.16℃の割合で上昇しており、1990年以降、高温の年が頻発している、ことが気象庁のデータからも見てとれる。

このまま高温多湿が襲うようだと、未来の日本人の鼻は必然的に低く幅広になるということか。これはもう、気候を恨むほかない。

温度、湿度と鼻の進化の関係性。クレオパトラが仮に北欧生まれでもない限り、彼女の鼻の高さも、歴史も、やっぱり変わることはなかったのでは。

https://tabi-labo.com/277304/humannoses

19. 中川隆[-10406] koaQ7Jey 2019年10月31日 15:06:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2473] 報告

653名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/30(水) 19:27:07.33ID:9lw7qJtj

東アジア最大のYDNAハプロOはコーカソイド最大のハプロRとかなり近縁
O,P,Q,Nは元々コーカソイドだったんだろうが、東アジア土着の新モンゴロイド女をレイプしまくった結果担い手が新モンゴロイド化した
mtDNAハプロでは東アジアに新モンゴロイドにD4というコーカソイドと程遠い系統が多数なのがそれを示している

Y染色体ハプログループK(O,R,N,Qの直近共通祖先)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97K_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)

698名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/31(木) 14:36:00.70ID:xNUJfapv

顔の形質で重要なのはY染色体ではなく常染色体だからな

mtDNAハプロD4という東アジア最大の母系集団がモンゴロイドの不細工の根源

本来コーカソイドだったYDNAハプロOの集団も、東アジアにてD4女をレイプしまくったため常染色体の形質では完全にモンゴロイド化してしまった

699名無しさん@お腹いっぱい。2019/10/31(木) 14:45:19.00ID:xNUJfapv

P,O,N,Qは明らかにRのコーカソイドとルーツが同じで南アジア起源の若い集団だが
対応するmtDNAハプロではコーカソイド集団から程遠いというのは大昔に不細工モンゴロイドをレイプしまくったからだろう

ポリネシア人がコーカソイドと形質が似ているのはD4との混血が少ない原始的なO集団に近いからだと思われる
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1570068875/l50

20. 中川隆[-13194] koaQ7Jey 2020年4月18日 10:34:34 : rg4H6flUlY : TXlYZGwuUFM0Wms=[9] 報告

2020年04月18日
渡辺信一郎『シリーズ中国の歴史1 中華の成立 唐代まで』第2刷
https://www.amazon.co.jp/中華の成立-唐代まで-岩波新書-渡辺-信一郎/dp/4004318041

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_26.html


 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2019年11月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年11月です。『シリーズ中国の歴史』の特色は、単純な時代区分による通史になっていないことです。本書は新石器時代から安史の乱までを扱っていますが、主要な対象は中原で、江南への言及は少なくなっています。江南は第2巻で扱われるそうですが、こちらも新石器時代からが対象となっています。『シリーズ中国の歴史』は、中国を地理的に草原・中原・興南・海域に区分し、各巻で時代を重複させつつ、現代中国へと至る歴史を総合的に浮き彫りする、という意図で編纂されているようです。今後の中国通史の一つの在り様を示すことになるかもしれません。

 本書は、社会の基層構造の変容と、それに対応していった政治・国家制度の変遷、さらには両者の相互関係を叙述しており、通俗的な中国史本のような英雄物語はほぼ皆無です。新石器時代には、仰韶文化期の単独聚落構造が、龍山文化期には2層〜3層の階層構造へと変わります。この社会構造は長く続き、これを前提として、まず殷(商)王朝までの貢献制と、それよりも複合化した西周王朝期の封建制が成立します。春秋時代を経て戦国時代になると、郡県制へと移行していき、秦・漢の大帝国が出現します。長期にわたった漢帝国のもとで階層分化が進んでいき、華北では魏晋南北朝期に大農法が成立するに至ります。本書は、漢王朝、とくに後漢期に成立した国制が後世には模範とされたという意味で、これを古典国制と呼んでいますが、その成立にさいしては、単なる時代錯誤の短命政権と通俗的に言われてきた王莽の役割が大きかったことも指摘します。

 本書は情報量が多く、近いうちに再読しなければなりませんが、問題点もあります。すでにTwitterで以前から情報を得ていましたが、本書はミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく臨淄住民の遺伝的近縁性について、2500年前頃にはヨーロッパ集団に近く、2000年前頃にはアジア中央部集団に近い、という(本書刊行時点で)20年近く前(2000年)の研究を肯定的に引用しています。私も以前この情報を肯定的に引用してしまったのですが、その後の研究により、2500年前頃の臨淄住民が遺伝的にはヨーロッパ集団に近い、という研究は否定されています(関連記事)。古代臨淄住民は、mtDNAではヨーロッパ集団よりも現代中国南部集団に近い、と明らかになっています。

 また本書は、このすでに否定された研究に基づく、2500年前頃にユーラシア大陸全域に広がる人類集団(パン・ユーラシアン)が存在した、との見解を肯定的に引用していますが、もちろん間違いです。ユーラシアにおいて東西系統が分岐したのは43100年前頃で(関連記事)、その後もユーラシア東部やオセアニアとの遺伝的類似性を示す個体はヨーロッパに存在していましたが、最終氷期極大期(LGM)後の末期更新世には消滅していました(関連記事)。古代DNA研究の進展は目覚ましく、今後は歴史学においても古代DNA研究を活用することが多くなり、その成果は新書など一般向けの本でも引用されるでしょうが、その信憑性については、執筆者である研究者以上に、編集者がしっかり調べないとならないだろう、と思います。


参考文献:
渡辺信一郎(2019)『シリーズ中国の歴史1 中華の成立 唐代まで』(岩波書店)

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_26.html

21. 中川隆[-13193] koaQ7Jey 2020年4月18日 10:40:17 : rg4H6flUlY : TXlYZGwuUFM0Wms=[10] 報告
2008年04月17日
中国大陸における人類の遺伝的構成の変化(追記有)
追記(2010年9月12日)
https://sicambre.at.webry.info/200804/article_19.html


 この研究(Wang et al.,2000)を否定する研究があることは、確か昨年知ったのですが、それほど関心の高い問題ではなかったので、とくに調べずにきました。今日になって、ヤフー掲示板の“unadon_applepie”さんの投稿により、Wang et al.,2000を否定する研究(Yao et al.,2003)を具体的に知りました。古代臨淄の住民のミトコンドリアDNAは、ヨーロッパよりも現代の中国南部の住民のほうに近い、とのことです。以下の記事は、元ネタとなった研究に大いに問題があるので、基本的には間違ったものとしてお考えくださるよう、お読みになった方にお願い申し上げます。

ここは過疎ブログなのですが、この記事は、このブログにしては閲覧数の多い記事なので、念のために申し上げておきます。Wang et al.,2000のHTML版には、引用された論文としてYao et al.,2003が掲載されているのですが(どの論文に引用されたか容易に知ることができるという点では、紙媒体よりもオンライン版の論文のほうがずっと優れている、と言えるでしょう)、あまり関心が高くないということもあり、見過ごしてしまいました。なんとも恥ずかしい限りで、今後は注意を怠らないようにしなければいけない、と反省しております。

 ちくま新書の『DNAから見た日本人』を(斎藤.,2005)を読み直していて思い出したのが、中国の臨淄における人類の遺伝的構成の変化を調べた研究(Wang et al.,2000)です。この研究では、2500年前・2000年前・現代という三つの異なる時代の臨淄住民(現代については漢民族が分析対象とされました)のミトコンドリアDNAが検査され、東アジア・中央アジア・欧州の現代人のそれと比較されています。

 現代の東アジア・中央アジア・欧州集団の遺伝的関係は、東アジア集団と欧州集団がもっとも疎遠で、中央アジア集団はその中間に位置するという、おおむね地理的分布と一致するものになりました。しかし、2500年にわたる臨淄住民の遺伝的構成は、そうした地理的分布と矛盾するものになりました。

 現代の臨淄住民は東アジア集団との遺伝的類似性を示しており、これは予想通りでした。しかし、2000年前の臨淄住民は現代の中央アジア集団と、2500年前の臨淄住民にいたっては、現代の東アジア・中央アジア集団よりも現代の欧州集団に類似している、との結果が得られました。これには、研究者たちも率直に驚きを表明しています。もっとも、これはあくまでも集団の遺伝的構成であり、2500年前の臨淄住民のなかに、現代の臨淄住民と似たミトコンドリアDNAを有する人もいます。

 この研究では、こうした遺伝子構成の変化は移住によるものだろうと示唆されています。春秋戦国・魏晋南北朝・五代十国などといった中国大陸での争乱により、とくに華北に、外部からの移住が多くあっただろうと推測することは、妥当な判断と言ってよいと思います。

 現代の欧州集団と2500年前の臨淄住民との遺伝的類似性については、欧州の現生人類の故地の一つとして、中央アジアが想定されていることが参考になりそうです(Oppenheimer.,2007,3章)。現代欧州人の源流の一つ(もしくは幾つか)だった集団が中央アジアにいて、その一部が欧州方向とは逆にユーラシア大陸を東へ進み、中国大陸にまで到達したと考えることもできるでしょう。


参考文献:
Oppenheimer S.著(2007)、仲村明子訳『人類の足跡10万年全史』(草思社、原書の刊行は2003年)、関連記事

Yao YG. et al.(2003): Reconstructing the Evolutionary History of China: A Caveat About Inferences Drawn from Ancient DNA. Molecular Biology and Evolution, 20, 2, 214-219.
http://dx.doi.org/10.1093/molbev/msg026

Wang L. et al.(2000): Genetic Structure of a 2,500-Year-Old Human Population in China and Its Spatiotemporal Changes. Molecular Biology and Evolution, 17, 9, 1396-1400.
http://mbe.oxfordjournals.org/cgi/content/full/17/9/1396

斎藤成也(2005) 『DNAから見た日本人』(筑摩書房)

https://sicambre.at.webry.info/200804/article_19.html

22. 中川隆[-5620] koaQ7Jey 2021年4月17日 09:02:33 : RSLdzPRb1s : Y0wwMFV6MDlreDI=[8] 報告
雑記帳 2021年04月17日
宮脇淳子『どの教科書にも書かれていない 日本人のための世界史』
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_18.html

 KADOKAWAより2020年11月に刊行されました。著者は岡田英弘氏の弟子にして妻で、「岡田史学」の継承者と言えるでしょう。著者や岡田氏の著書は、現代日本社会において、保守派や「愛国者」を自任している人々や、「左翼」を嫌っている人々に好んで読まれているように思います。ただ、碩学の岡田氏には、そうした人々が自分の著書を好んで読んでいることに対して、冷笑するようなところがあったようにも思います。まあ、これは私の偏見にすぎないかもしれませんが。岡田氏の著書は著者との共著も含めて随分前に何冊か読みましたが、著者の単独著書を読むのは本書が初めてです。

 著者が現代日本社会の言論においてどのように見られているのか、そうした問題を熱心に調べているわけではない私にもある程度分かるので、著者の本を読むこと自体に否定的な人も少なくないとは思います。ただ、私自身「保守的」・「愛国的」・「反左翼的」なところが多分にあるのに、そうした傾向の人々が読む歴史関連本をあまり読んでこなかったので、電子書籍で読み放題に入っていたこともあり、読んでみました。私の思想的傾向から、本書の諸見解をつい肯定的に受け入れてしまう危険性があると考えて、他の歴史関連本よりは慎重にというか、警戒しつつ読み進めました。その分、かなり偏った読み方になり、本書を誤読しているところが多分にあるかもしれません。

 本書は、現代日本社会における世界史認識の問題点を、その成立過程にさかのぼって指摘します。西洋史と東洋史が戦前日本の社会的要請もあって成立し、戦後は両者がまとめられて世界史とされた、という事情はわりとよく知られているように思います。したがって、戦後日本社会の世界史は体系的ではなく問題がある、という本書の指摘は妥当だとは思います。また本書は、西洋と東洋では歴史哲学が異なり、それに起因する偏りもある、と指摘します。そこで本書は、「中央ユーラシア草原史観」により歴史を見直し、日本の歴史を客観的に位置づけようとします。

 本書の具体的な内容ですが、「世界史」を対象としているだけに、各分野の専門家や詳しい人々にとっては、突っ込みどころが多いかもしれません。とくに、著者や夫の岡田氏の著書がどのような思想傾向の人々に好んで読まれているのか考えると、「左翼」や「リベラル」と自認する人々は本書をほぼ全面的に批判するかもしれません。私も、本書で納得できる見解は、世界史におけるモンゴルの影響力の大きさなど少なくないものの、気になるところは多々ありました。ただ、現在の私の知見と気力では細かく突っ込むことはとてもできないので、私の関心の強い分野に限定して、とくに気になったところを述べていきます。

 総説では、皇帝や封建制や革命といった用語で西洋史を語る問題点など、同意できるところは少なくありません。ただ、「中国」の史書が変化を無視するとの見解は、誇張されすぎているようにも思います。儒教に代表される「中国」の尚古的思想は、世界で広く見られるものだと思います。それは、神や賢者などによりすでに太古において真理は説かれており、後は人間がそれにどれだけ近づけるか、あるいは実践できるのか、というような世界観です。これを大きく変えたのが、近世から近代のヨーロッパで起きた科学革命です(関連記事)。

 本書の見解でやはり問題となるのは、「漢族」が後漢末から『三国志』の時代にかけて事実上絶滅した、との認識でしょう。その根拠は史書に見える人口(戸口)の激減ですが、これは基本的に「(中央)政権」の人口把握力を示しているにすぎない、とは多くの人が指摘するところでしょう。著者も岡田氏もそれを理解したうえで、このような見解を喜んで受け入れている「愛国的な」人々を内心では嘲笑しているのではないか、と邪推したくなります。そもそも、後漢の支配領域に存在した人々を「漢族」とまとめるのがどれだけ妥当なのか、という問題もありますが。

 これと関連して、隋および唐の「漢人」と秦および漢の「漢人」とは「人種」が違う、という本書の見解には、かなり疑問が残ります。「人種」というからには、生物学的特徴を基準にしているのでしょうが、「中原」の住民に関しては、後期新石器時代と現代とでかなりの遺伝的類似性が指摘されています(関連記事)。これは、アジア東部北方の歴史的な諸集団の微妙な遺伝的違いがよく区別されていないことを反映しているかもしれない、と以前には考えていました。ただ、「中原」以南とその北方地域との人口差を考えると、「中原」における後期新石器時代から現代までの住民の遺伝的安定性との見解は、素直に解釈する方がよいのではないか、と最近では考えています。もちろん、「中原」を含めて華北の現代人の主要な遺伝的祖先集団が、「中原」の後期新石器時代集団だとしても、支配層が北方から到来した影響は、政治はもちろん、言語を初めとして文化でも小さくはなかったでしょう。ただ、そうだとしても、それが「民族」の絶滅あるいは置換と評価できるのか、かなり疑問は残ります。そもそも、前近代の歴史に「民族」という概念を適用するのがどこまで妥当なのか、という問題がありますが。
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_18.html

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