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犠牲者100万?!ナチ傀儡『クロアチア独立国』のセルビア・ユダヤ・ロマ人大量虐殺の全貌
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/345.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 14 日 08:55:26: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 平和よりも、もっと大切なものがある 投稿者 中川隆 日時 2019 年 4 月 10 日 07:09:14)


犠牲者100万?!
ナチ傀儡『クロアチア独立国』のセルビア・ユダヤ・ロマ人大量虐殺の全貌
【バルカンのアウシュビッツ】  2017/5/12
http://3rdkz.net/?p=498

あまり表に出てこないナチ傀儡国「クロアチア独立国」の、主に強制収容所のシステムの概要を説明します。

《対独協力》

大戦中にナチスドイツの手足となって協力した国々を対独協力国と呼びます。ソ連崩壊後、《対独協力》がこれまで考えられてきた以上に大きな規模で行われていたことがわかってきました。それまで《対独協力》はいわば影の歴史でした。ナチスが崩壊したあと、対独協力国は戦争やユダヤ人大虐殺の責任をすべてナチスやヒトラーやその親衛隊にかぶせようとしてきました。「自分たちも被害者だった」というテーゼを用いて国際社会の目をそらそうとしました。しかも、ほとんどの対独協力国は戦後、ソ連邦の鉄のカーテンの内側へと姿を暗ませます。新しい人民政府は当然自らの罪を認めず、「あれはドイツ人に強要されたことであった」と言い続けました。西側の調査はソ連崩壊後まで立ち入ることができず、《対独協力》は歴史の闇に埋もれて行くのです。

そんな対独協力国の中でも、ひと際異質だったのが、ナチ傀儡『クロアチア独立国(Nezavisna Država Hrvatska=以下NDH)』です。
1941年4月、ドイツ軍をはじめとした枢軸軍によって反独政府が打倒されると、その後釜として据えられたのがNDHです。指導者は弁護士のアンテ・パヴェリッチ博士で、この人物はもともとユーゴスラヴィア連合王国の政権を打倒し、クロアチアを独立させることを目指す政治家でした。彼は危険人物とみなされて国外追放され、イタリアなどに亡命します。いつしか、現状を打開するための手段として選んだのはテロでした。『ウスタシャ(=蜂起する者)』というテロ組織を率い、ハンガリーやイタリアのファシスト政権から支援を受けていました。1920年代には既にセルビア人を絶滅させるための計画を練っていたといわれています。

多様な民族を持つユーゴ


大戦期間中のユーゴスラヴィア全体の地図。ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニアなどに解体され、残った領土をNDHやセルビア救国政府などの傀儡政権が支配しました。

そんなテロ組織の代表者が、いまやもともとのクロアチアの領土に加え、ボスニア全土、セルビアの一部という広大な領土を統治する権限を得ました。国民はクロアチア人ばかりではなく、イスラム教を崇拝するボシュニャク人、セルビア正教会を崇拝するセルビア人、ユダヤ人やロマ人、その他多くの少数民族も混ざっていました。クロアチア人は国民の3分の2に過ぎなかったのです。

クロアチア人とセルビア人は長年の因縁がありました。クロアチア人は、セルビア人主導のユーゴ王国の中で冷遇されている、と長年感じていました。ユーゴ連合王国の中でクロアチア人が限定的ながら自治権をようやく得たのは1939年のことで、これはクロアチア人による怒りが最高潮に高まっていたからです。

とはいえ、クロアチア人とセルビア人には、人種的な違いはほとんどありません。どちらも南方スラヴ人に分類され、ほとんど同じ言語を話します。クロアチア語とセルビア語は、双方ともにラテン文字でもキリル文字でも表記することができます。違いがあるとすれば、それは宗教でした。クロアチア人は伝統的にカトリック教徒が多く、セルビア人はセルビア正教会の信者が多かったのです。よって、両民族の争いは自然と宗教戦争的色合いを強めました。

ウスタシャは棚ボタで転がってきた政権運営を単独ではうまくやれませんでした。党員は数百名にすぎず、主義主張もテロに頼る性格を除けばてんでバラバラでした。そんな中、思想的統一と新たな党員を大量に提供したのが、ユーゴ全土に存在していたカトリック教会です。ウスタシャの思想はカトリック教会の影響を強く受けています。そして真っ先に取りかかった仕事は異教徒の粛清でした。特にターゲットとされたのはセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、共産主義者でした。ちなみに、ムスリムは第三帝国の方針に影響されたのか、クロアチアの絶滅政策に巻き込まれることはありませんでした。(イスラム教と第三帝国の黒い関係は、語りだすと膨大になる興味深いトピックスで、ここでは触れません)


クロアチアに存在した絶滅収容所


http://3rdkz.net/?p=498


ユーゴに存在した強制収容所。約70のうち、いくつかは絶滅収容所と呼ばれました。ウスタシャはナチスドイツよりも早く絶滅収容所を欧州に設置しました。※アウシュビッツのほうが建設は早いですが、アウシュビッツ=ビルケナウが絶滅収容所として使用されはじめたきっかけは、独ソ戦の戦況の後退によるといわれビルケナウをはじめとしたドイツの絶滅収容所の多くは1941年10月以降に建設されています。
http://3rdkz.net/?p=498


1941年4月にはクロアチア各地でユダヤ人、セルビア人狩りが行われ、各地の収容所へと拘禁されました。そして彼らは下記の処刑場=絶滅収容所へと送られてゆくのです。

ヤドヴノ絶滅収容所(KZ Jadovno)

(41年5~8月)


犠牲者が投げ落とされた自然の穴。

1941年5月、ウスタシャ政権は欧州最初の絶滅収容所を作り上げました。それはヤドヴノ絶滅収容所と呼ばれました。クロアチアの西方、アドリア海に近いこの場所は、ゴスピッチ県警の管轄下の刑務所、『ゴスピッチ収容所』と隣接していました。ゴスピッチ収容所は中継地点としての役割を果たし、収監された者はほとんど確実にヤドヴノ絶滅収容所へと送られ、ほとんど確実に死亡しました。殺し方は、収容所周辺に存在したカルスト地形の洞穴に落とすという方法です。ヤドウノにはゴスピッチ経由で連日千人前後のセルビア人、ユダヤ人が連行されていたといいます。ヤドヴノで殺された人々の数は35000〜72000と言われています。

パグ島絶滅収容所(KZ Pag=KZ Slana,Metajna)

(41年6~8月)

ゴスピッチを経由して人々が連行された収容所はヤドヴノだけでなく、アドリア海に浮かぶパグ島も同様でした。41年6月にパグ島にはスラナ・メタイナという二つの収容所が設置され、これらはやはり人を殺すために作られた絶滅収容所でした(スラナは男性収容所、メタイナは女性収容所)。主な殺し方は重りを巻きつけて運河に蹴り落とすという方法が採用され、ほとんどの犠牲者は溺死でした。

8月20日にここは閉鎖され、その後島を占領したイタリア軍が、伝染病蔓延を恐れ死体を焼却しました。生き残った囚人はヤドヴノかヤセノヴァツに送られ、ほとんど死亡したと言われています。


パグ島のパノラマ写真。二つの絶滅収容所があった。

ヤセノヴァツ収容所群(KZ Jasenovac)

(41年8月〜)


ヤセノヴァツ収容所跡地に建立された「石の花」のモニュメント

クロアチアで最も有名な絶滅収容所で、1〜6の広大な収容所を傘下に収めていました。ヤセノヴァツは首都ザグレブとベオグラードを結ぶ鉄道の沿線のすぐそばにあり、インフラが存在していました。


ヤセノヴァツ収容所跡地にて。当時使われていた貨車。

http://3rdkz.net/?p=498&page=2

また、周囲を川に囲まれて敵からの防衛に有利であることに加え、囚人の脱出が困難でありました。またこの地域の湿原の灌漑は19世紀から行われており、囚人を使役してこれを継続するという方針を内外に宣伝することができました。


収容所の周囲は川で囲まれており、湿地帯となっていて地面はぬかるんでいます。

しかし、実際は上記に示したごとく、ヤセノヴァツとその周辺の下部収容所は一大処刑場であり、ここで死んだ人は7~150万と推定、かなりムラがあります。現クロアチア共和政府はヤセノヴァツの死者を7万人程度と主張し、セルビアは100万人以上を主張。歴史的な決着はついていませんが、こういう場合、中間付近に真実があるものです。

ヤセノヴァツはとても広大な施設で、単独の収容所を表す言葉ではありません。
この地方一帯に様々な施設や下部収容所が存在しています。
子供収容所のシサク。
一大処刑地点であったドーニャ・グラディナ。
女子収容所のスタラ・グラディシュカ。
ジプシー収容所のUštica。
といった具合です。
一番大きな収容所は、『レンガ工場』と呼ばれた第三収容所です。
ここでは様々な敵性人種、思想犯が集められて惨たらしく殺されました。高度なテクノロジーは一切使われませんでした。

囚人の処刑道具は50通りにも及び、リボルバー、カービン銃、機関銃、爆弾、ナイフ、斧、まさかり、木槌、鉄の棒、ハンマー、つるはし、ベルトや革の鞭と多岐にわたり、殺害方法も、絞殺、火炙り、火葬、凍死、窒息、餓死など様々でした。


ヤセノヴァツミュージアムにて。当時使われていた処刑道具。

サイミシュテ絶滅収容所(KZ Sajmište)

(42年〜)


サイミシュテで使用されたガス有蓋車と同系統のタイプ。写真はポーランドにて撮られたもの。この殺害方法はナチス親衛隊の手口である。
http://3rdkz.net/?p=498&page=3

旧セルビア領でNDHの最東部に位置する収容所です。クロアチア領内にありましたが、実質ドイツのゲシュタポの影響下にあったといわれます。旧ユーゴ首都ベオグラードやその周囲に古くから住まうユダヤ人やロマ人やセルビア人が多数連行され、サイミシュテからヤセノヴァツやスタラ・グラディシュカへ送られることも珍しくなかったといわれています。つまり、ここではドイツとクロアチア双方に殺戮の責任があるといって良い筈です。
ここでは10万人もの人々が殺戮されたといわれ、セルビアのユダヤ人の80〜90%が殺されたと言われており、死者数が多いことでも有名です。

殺戮と移送

このような、独自の絶滅センターを持ちつつ、ドイツの絶滅作業班と協働してアウシュビッツへの道を開きつつ、クロアチアの大量殺人政策は戦争が終わるまで執拗に続けられました。

また子供を再教育する場として、専用の強制収容所システム(シサク、ヤストレバルスコ、スタラ・グラディシュカなど)が構築され、子供たちは様々な場所へ連行されて行き、多くは二度と帰りませんでした。クロアチア人としての新しい名をもらったり、出生日を変更させられたりして、殺されなかった子供も多くは親もとへ帰れませんでしたし、多くの場合、親は既に殺されていました。また、43年以降はたくさんの子供たちがアウシュビッツへ送られました。


子供の収容と処刑地を兼ねたスタラ・グラディシュカ絶滅収容所。ヤセノヴァツ第V収容所の南東30キロに位置し、収容者のほとんどは女性と子供で、殺害方法は人工飢餓・疫病、毒ガス、銃刑、拷問…乳幼児をサヴァ川に投げ込むという方法もあった。死者数は第V収容所に匹敵するといわれる。

他の対独協力国が日和見的態度で、ソ連が近づくと態度を改める様子が見られたのに対し、クロアチアはあまりそういった態度が見られませんでした。もちろん、クロアチアにも日和見主義者はいたのでしょうが、ホロコーストやセルビア人抹殺政策は、全体としては終戦まで続けられました。これはNDHに実質の主権がなく、ドイツの操り人形であったことを意味します。アンテ・パヴェリッチはヴァチカンの手引きで逃亡に成功。のちにスペインで暗殺されます。

歴史教育

戦後、チトーの社会主義政権時代にはNDHのことを論ずることは禁じられました。このような血塗られた歴史は民族融和を阻害するものと考えられたのです。

この民族浄化の怨念や憎悪や復讐心は連綿受け継がれ、90年代のユーゴ内戦において噴出し、再び血みどろの殺戮が繰り返されました。

現在、クロアチアはナチス時代の罪を矮小化しようと努め、セルビアは逆に誇大に宣伝しようとしており、歴史観が一致した解決を見たとは言えません。うやむやのまま、ウスタシャの蛮行は闇に葬り去られようとしています。恐らく、解決を見ぬまま時代は移り変わって行くのでしょう。
http://3rdkz.net/?p=498&page=4


 

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コメント
1. 2023年10月08日 00:15:36 : 7WHxSpyjox : dGd5a3Y4UFMzWDI=[1] 報告
<■131行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2023年10月07日
水谷驍『ジプシー史再考』
https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_7.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC%E5%8F%B2%E5%86%8D%E8%80%83-%E6%B0%B4%E8%B0%B7-%E9%A9%8D/dp/4806807044

 柘植書房新社より2018年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本でも名称自体はよく知られている「ジプシー」の概説です。著者の執筆動機は、日本社会における「ジプシー」理解が、1970年頃以降の研究の進展を踏まえていない、「インド起源の放浪民族」という古い研究段階に留まっていることです。「ジプシー」の名称は差別的だとして、現代日本社会では代わりに「ロマ」の使用が多くなっているように思います。しかし本書はこの問題について、「ジプシー」という呼称への視線が賤視・蔑視のみだったわけではなく、「ロマ」以外にもシンティやマヌーシュなど自称が多数あり、そうした人々は自らを「ジプシー」と峻別するので、総称としては「ジプシー」が妥当になる、と指摘します。

 ジプシー研究の問題点は、ジプシー社会に文字による伝承という伝統がないことで、ジプシーの歴史を書くのはほぼヨーロッパ主流社会に委ねられてきました。ヨーロッパ主流社会は、15世紀初頭にジプシーらしき遊動民集団がヨーロッパに初めて出現した時以降、ヨーロッパでは珍しいその集団の起源地に高い関心を寄せてきました。ジプシーの正体と原郷をめぐっては、18世紀後半に啓蒙主義ドイツの歴史学者であるハインリッヒ・M・G・グレルマンが「インド起源の放浪民族」説を提唱するまで、さまざまな議論がありました。当初ヨーロッパでは、ジプシーは広くエジプト人と呼ばれ、そこからエジプシャン→ジプシャン→ジプシーと呼ばれるようになりました。それは、15世紀初頭にヨーロッパ中央部各地で記録され、主流社会により最初の「ジプシー」とされた集団が、「小エジプト(または低地エジプト)から来た巡礼」と称した、と伝えられたからです。フランスでは、ボヘミア方面から来たとされ、ボエミアンと呼ばれることが多く、現在でもフランスにおけるジプシーの一般的な呼称の一つです。またジプシーは、当時東方もしくは南方から侵入してくる「野蛮人」の総称的代名詞だったタタール(モンゴル人)やサラセン(ムスリム)と呼ばれることもあり、東方起源ということでグレカ(ギリシア人)とも呼ばれました。ともかく、ジプシーは当初ヨーロッパにおいて、ヨーロッパ東方の辺境もしくは異境から来た異邦人の集団と考えられました。当時のヨーロッパの知識人は、ジプシーの起源について、シリアの古代神官の子孫とか古代ペルシアとかアナトリア半島とか、さまざまな見解を提唱しました。

 16世紀には、ジプシーが「外国」起源ではなく、ヨーロッパ起源との学説も提示されました。たとえば、ジプシーとは信仰を持たずに毎日「犬のように」生きる「諸民族の人間の屑」で、「一緒になりたいと望む男女を仲間として受け入れる」無節操な混成集団であり、多様な出身地域の浮浪者や泥棒や乞食などが加わっていた、というものです。17世紀にはジプシーの起源をユダヤ人とする説が提唱され、14世紀半ばに迫害を逃れて森に隠れ住んだユダヤ人が、フス派が迫害されるようになった15世紀に、もはや厳しく追及されることはなくなったと判断して町に戻ってきたものの、ユダヤ人と見破られないようにし、一方でキリスト教徒とも称せずに、エジプト人と自称した、というわけです。こうした確たる学説とまではいかずとも、ジプシーの「インド起源」を示唆する「証拠」は15世紀からありました。

 ジプシーの起源について一定水準以上の科学的探究が始まったのは18世紀半ば以降で、その最初の試みがグレルマンの著書(1783年)でした。グレルマンは、ヨーロッパ各地に住み、さまざまな名称で呼ばれるジプシーは同じ民族で、その共通する身体的特徴として、暗褐色の肌や長い黒髪や黒い瞳や均整のとれた四肢を挙げました。ジプシーの大半は集団で移動する放浪生活を送っており、鍛治や博労や楽師や占いや砂金採取やバイシュンなど独特の生業に従事し、怠惰で勤勉を嫌い、実際には乞食と泥棒で暮らしており、独特な踊りは卑猥で、飲酒と喫煙をとくに好み、人肉食が疑われ、独自の宗教はなく、内婚制で、若くして結婚して多産である、といった特徴をグレルマンは上げました。ジプシーは「ヒンドスタン」起源の独自の言葉を用いており、その原郷はインドと考えられ、インドにはジプシーとよく似た、「シュードラ」と呼ばれる最下層カーストが存在する、とグレルマンは指摘しました。シュードラ」の一部が1408〜1409年にティムールの侵略により故郷を追われ、西方へと放浪の末にヨーロッパに到来し、その子孫がジプシーである、とグレルマンは考えました。ジプシーの起源を青銅器時代のヨーロッパに求める説や、オーストラリア方面から到来したとする説も提唱されましたが、グレルマンの主張が国際的にも広く受け入れられ、最近まで「科学的ジプシー論」の「定説」として確立し、日本に置おけるジプシー論も基本的にグレルマンの主張に依拠しています。

 グレルマンのジプシー論を前提として、19世紀以降にジプシーの歴史を探る試みが本格化します。その主要な担い手は、19世紀末にイギリスで結成された民間の研究団体「ジプシー民俗協会」に結集することになる、欧米の熱心なアマチュア研究者でした。それとは別に、ジプシーの起源や移動経路を精力的に探究したのが、比較言語学でした。こうして、ジプシーの歴史について一定の共通認識が形成されました。それによると、ジプシーの原郷はインドですが、さらに詳しい起源地は議論百出で、紀元後1000年前後にインドを出た、と考える論者が多いものの、異論も多数あります。ジプシーはペルシアとトルコを経由して11世紀にはバルカン半島に到達し、15世紀初頭にヨーロッパ中央部に出現しました。ジプシーは当初、自称通りに巡礼として厚遇されたものの、やがて不気味な存在として畏怖されつつも、泥棒や乞食や浮浪者やスパイなどとして嫌われるようになり、迫害は18世紀に最初の頂点に達します。19世紀には、啓蒙主義の精神に従ってジプシーを「開花」しようとする試みが広がる一方で、ロマン主義的観点から「高貴なる野蛮人」との羨望もジプシーに向けられました。19世紀後半から20世紀初頭にかけてバルカン方面から「ジプシー」が大量に流入し、各国において人種主義思想の高まりの中で遊動民集団の規制と排斥が強化され、これがナチ体制のドイツによるジプシー絶滅策につながりました。

 欧米では、こうしたグレルマン説に基づくジプシー認識が1970年代以降に大きく変わります。この変化を促進したのは、第一に、「参与観察」の手法による世界各地のジプシー集団の実証的研究の大きな進展です。その結果、ジプシーが居住する国や地域の歴史と文化に深く規定されており、多様な人々が主流社会により「ジプシー」と扱われてきた、と明らかになりました。一方で、「ジプシー」とは全く無関係と自他ともに認めるにも関わらず、多くの点でジプシーと共通する要素を有する集団が世界各地に存在することも証明されました。第二に、ヨーロッパの社会史研究の飛躍的発展により、ジプシーの問題も中世以降のヨーロッパ史の具体的展開に位置づけて考察されるようになりました。とくに重要なのは、中世から近世への移行期である15〜16世紀のヨーロッパ社会では、崩壊しつつある旧体制から放出された膨大な人数の流民層/貧民層が大きな社会問題となっており、その研究が本格的に始まることで、その実態や歴史および社会的意味が明らかにされていき、「ジプシー」もこうした社会層の一部を構成している、と認識されるようになりました。第三に、「民族」の理解が深まり、民族を固有の本質を備えたきわめて実体的で普遍的な人間集団と考える見解が見直されていきました。

 こうして、ジプシーの起源について、封建制の崩壊から資本主義体制への移行過程でヨーロッパ各地に広く発生した雑多な出自の貧民・流民層にあり、こうした人々が定住民の主流社会と時空間的にさまざまな形で特殊な関係を締結する中で、「ジプシー」という特異な社会的存在形態が形成され、この過程で時の政治権力や教会権力による「烙印押捺」という過程が決定的役割を果たした、と考えられるようになりました。時の政治権力や教会権力にとって好ましくないと考えられた人間集団の分類が設定され、異端者もしくは犯罪者として社会から排除・排斥されていった、というわけです。排除・排斥の基準となったのは、近代ヨーロッパ国民国家に相応しい、善良なキリスト教徒で定住地があり、雇用されて賃金労働に従事していることでした。こうした条件を満たさない貧民・流民が排除・排斥の対象となったわけです。その結果、排除・排斥された側は、独特な生活様式や文化を形成していき、主流社会の「隙間」を埋めることで、主流社会から許容されてきました。

https://sicambre.seesaa.net/article/202310article_7.html

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