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日本に対し「不当の扱い」を繰り返してきたロシア
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投稿者 中川隆 日時 2019 年 6 月 29 日 06:51:21: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


2019年6月29日
日本に対し「不当の扱い」を繰り返してきたロシア
樋泉克夫(愛知県立大学名誉教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/16647


安倍首相がプーチン大統領との“個人的信頼関係”を打ち出しながら鋭意進めてきた北方領土返還交渉は、楽観と悲観の間を揺れ動きながら時を重ねてきた。だが、6月末の大阪におけるG20を前にしてプーチン大統領は唐突に「ニエット」(ロシア語で「いいえ」の意)である。“期待の風船”は一気にしぼんでしまったようだ。

 これまで日本はロシア(ソ連)から何回煮え湯を飲まされてきたことか。その原因は、いったい、どの辺りにあるのか。戸水寛人(文久元=1861年〜昭和10=1935年)の旅を追いながら考えてみようと思う。

 戸水は日露戦争直前の1902(明治35)年9月に東京を出発し、敦賀からウラジオストック、グロデコフ、ハルピン、旅順、ダルニー(大連)、旅順、芝罘、牛荘、錦州、山海関、秦皇島、山海関、天津、北京、張家口、ハノルパ、トウタイ、チャーカントラハイ、張家口、北京、天津、芝罘、仁川、京城、仁川、釜山、長崎、門司、神戸を経て11月に新橋に帰着している。まさに駆け足で「滿州蒙古北清朝鮮を漫遊し」ている。

 旅立ちに当たり「若し日本の政治家が私の議論を用ひずして兵力を用いることを止めて唯言論を以て露西亜と争ふ積りならば或は失敗に終るでせう」と宣言するほどだから、旅程を追うごとに戸水の主張はヒートアップするばかり。だが、日露戦争前夜の旅であることを予め承知しておいてもらいたい。

日本に対し「不当の扱い」を繰り返してきたロシア

「強盗が沢山居る」というウラジオストックに上陸した戸水は、「露西亜上流社会にも余り感服出来ぬ」ようであった。「彼等が賄賂を好むことは支那人と余り違ひませぬ」とした後、「上流社会すら賄賂を好みますから下流は尚更さうで」とあり、税関の役人でも警察官でも賄賂を与えれば、チョットした不法なら大抵は見逃してくれると記す。

 じつは「日本人中には恐露病者も沢山有る様だが露西亞内部の腐敗は甚しいものです」。そんなロシアを恐れることはない、と訴える。

 戸水は自らの調査に基づき、ロシアの政治家の狙いは旅順・ダルニー(大連)の隆盛と満洲の領有にありと見定めた。だが、日本としてはこれを黙視しているわけにはいかない。

 ウラジオストックでは日本からの輸入品に対する扱いが他国に較べて不当に過ぎる。また同地経由で「満州に入らんとするの日本人に対しては時として甚しき侮辱を加へ或は乗車に防害を加へ甚しきに至りては之を監禁して平然たり」。ロシア政府は日本との間で結ばれた条約を「無法の解釈」によって運用し、日本に対し不当の扱いを繰り返す。ロシア政府自らも「無法の解釈」であることを十分に判っているにもかかわらず、である。それというのも「能く日本人民の闘志無きを看破する故」であり、それを甘受する「日本人民の意気地無きと露国の無法無遠慮は是蓋し天下の好一対なり」と憤る。

「能く日本人民の闘志無きを看破する」ゆえにゴリ押しするロシアに対し、結果としてそれを受け入れてしまう日本――「是蓋し天下の好一対なり」とは、戸水の時代から1世紀以上が過ぎた現在の両国の関係にも当てはまるようだ。なぜ、そうなのか。なぜ、1世紀が過ぎても変わらないのか。いや、変われないのか。

 ウラジオストックの人口は1901(明治34)年1月1日段階の調査では37,597人。翌年に上陸した「支那人の数ですら四万人以上」。居留民事務所に届け出ている日本人は3000人ほど。これ以外に「何処から来た人か分からぬものも隨分」と居るようだ。驚くことに日本人女性で「支那人の妾となりて居るもの」は、不確かな数だが「三百人位は居るだらうと思ひます」。彼女らの間では「互い連絡が付て居るよう」であり、特に組織化されているわけでもなさそうではあるが、先に立つ者がいて互いに連絡を取りながらイザという時には助け合っているようだ。

 ウラジオストックには「支那の出稼人が頗る多」く、「大抵は山東から来たのです」。加えるに「満州の支那人も山東から来たものが余程多い」。じつは当時の満洲各地には山東省からの出稼ぎが少なくなかったのだ。

日本の政治家の「馬鹿さ」は計り知れない

 先に戸水は日本の「恐露病者」について言及していたが、じつはロシア側にも恐日病者が見られるようになってきたと記す。

「近頃までは格別日本人を恐れて居無かりた様ですが日清戦争に於て日本人は甚しき武勇を著はし」ただけではなく、「北清騒動」、つまり義和団事件(1901~02年)に際して自国の利益と居留民を守るため、日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリアの8カ国が天津から北京一帯に共同出兵し、義和団を制圧しているが、なかでも柴五郎率いる日本部隊は「(8カ国の)聨合軍中無類の武勇を顯はし」た。加えて日本人が持つ地図が極めて正確だと評判であり、満州で日本人に正確な地図作りでもされたら大変だと考える。それというのも「他日、日露戦争の起る時日本人は又此精確の地図を用ひるだらうから今から防禦の策を講す」る必要がある。だから「日本人を満州に入れないのが上策だと」して、「露西亜人は上下挙て日本人の満州に入ることを妨害する」。「特に軍事探偵を恐れ」、「屢ば日本人を捕へる」。

「若しも日本の陸軍が弱小であるならば露西亜人は日本人を恐れない」。だから「日本の方より言はば陸軍を弱小にすることは得策では無い」ということになる。

 じつは「日本の或政治家が露西亜の蔵相に逢つた時」、ロシアの蔵相は頻りに「『満州で日本人を歓迎するから沢山来る様にして下さい』と言つたさうで其で日本の政治家は大いに悦んで「『だから戦争などせなくても善い』と人に吹聽したさうです」。そこで戸水は、「(ロシアの)蔵相のずるさ加減と日本の政治家の馬鹿さ加減はちよつと測量が出来ませぬ」と嘆き呆れる。

「(ロシア)蔵相のずるさ加減」対「日本の政治家の馬鹿さ加減」という図式は、いったい、いつまで続くのだろうか。

「戦争をして善いか悪いかは別問題として日本人が平和的に満州に入り平和的に満州に居住し平和的に商工業又は農業に従事して金を儲けることが出来ると思ふのは頗る迂闊です」と説く戸水に従うなら、「特別な仕組み」を考えたところで、我が固有領土である北方4島の一部で日本国民が平和的な経済活動に従事すること「が出来ると思ふのは頗る迂闊」ということになるわけだ。

 いよいよ戸水の旅は「(人口)八万の内五万が支那人で三万が露西亜人」という人口構成のハルピンへ。そのハルピンで行政の衝に当るロシア人高官は「何ても喰へない古狸」だった。

 当時のハルピン在住日本人は506人(男:269人、女:237人)。職業は商業、写真、ラムネ製造、大工、石工、洗濯、貸席、視察員、語学実習、裁縫業、時計商、理髪業、行商に加え「露清人の雇人」など。「貸席の女が百七十五人」だけがロシア人に歓迎されているが、他は「実に邪魔に思はれています」。

「『ハルピン』に留まる日本人の半数位は探偵と見て宜いなどと勝手な事を言つて居」るロシアの要人もいる。そこで日本人に対し「どしどし圧制を加へ居る」。「唯日本人が支那人と喧嘩をすると云ふと巡査などは日本人の贔負をすると云ふ」。だが、別に日本人の肩を持っているわけではない。「日本人の贔負をす」れば、「些少はカネになると云ふこと」だからだ。

 戸水はハルピンにおける土地所有問題を一例にして、ロシアでは如何に日本人が不当な扱いを受けているかを縷々説いた後、どうやらロシアと清国の間では秘密条約が結ばれているゆえに清国人は優遇されていると推測する。

「事情既に此に至りたものとすれば日本の役人が(ロシア官憲に)向て何と理窟を言つても其理窟は糠に釘です」。だから「日本人の主張を通ほす積ならば日本の中央政府が戦争するの覚悟でうんと露西亜の中央政府に交渉せねばならぬ」。だが交渉によって「日本人の主張を通ほす」ことは困難だから、これまで戸水が説いてきたように「満州を取る考へで戦争する方が善いでせう」と、なんとも勇ましい。

 当時も当然のように我が国には反戦・非戦論者はいたわけで、であればこそ戸水は「私が戦争論を主張しますと直く新聞などであの陳腐な戦争論などと言つて冷かされます」が、ならば「あの連中の平和論は新奇ですか」と反論してみせた。


支那のために尽くしても「徒労」に終わるワケ

 現地を歩いた戸水は、土地の取得・賃貸、商売など当時の東シベリアでロシア人、清国人に較べて日本人は不当に差別されていると痛感した。

 要するに「日本人は営業の自由を失なつています」。「『ダルニー』に於ても露西亜人は决して日本人を他の外国人と同等の地位に置いて無い」。ロシア官憲のなかには「日本人の贔負をしたいなどと旨い事を言つて居ますがそんな言は当になりませぬ」。だから「日本の中央政府の手腕を煩はさねば」ならない。事が起った後で「外交談判など遣りて居ては遅蒔です」。「幾度言つても同じ事」ではあるが、「日本の中央政府は今日でもうんと強く腰をすゑて雄腕を奮ふて善からう」と力説する。とはいえ、猪突猛進したところで悲惨な結果が待っているだけ。「うんと強く腰をすゑて雄腕を奮」う体制を支えるのは、やはり透徹した大局観だろう。やはり一時の勇ましさは、禍根を末代まで残しかねない。

 ある時、戸水は「露西亜騎兵の訓練を見」る。そこに参加していた「支那の巡査の背を見ると云ふと奉天懐徳県馬隊と書いて有る」。この事実から、「露西亜人は満州の騎兵を頤で使つて鉄道の番をさせ支那人の取締をさせているのです」と結論づけた。当時の満州はロシア人の天下と化していたわけだ。

 戸水は、その満州を「平地と天と連なりて茫々漠々たる原野か沢山有」ると形容し、「満州を占領するものは宝の庫を掌握するものであります」と力説する。「私が始めて満州を占領す可しの議論を吐いた時に日本の政治家中冷笑して私の議論を駁擊したものがありて『あんな荒漠なる土地を取りても益に立たない』と言つて駁擊しました」。だが、こういう議論こそ「『のんせんす』でありました」。「満州の大半特に東部は至て豊饒です政治家にして之を知ら無なかりたのは迂闊です」と切り捨てた。当時はともあれ、現在でもなお多くの、いや大部分の国会議員センセイ(敢えて政治家とはいうまい)が「迂闊」なままに振る舞っていることか。

 戸水の旅は次いで満州王朝の古都である奉天(現在の瀋陽)へ。

「奉天には支那の将軍もあり副将軍もありて支那兵が数万ある様に聞いて居ましたが」、実際に目にしてみると、「支那人は沢山ありても其武器は概して益に立た」ない。「満州西部に於ける露西亜兵の重なる根据地は奉天に在るものと見え」、それゆえに奉天においてはロシア人が許可する以外の武器の携行は不可である。だから「支那兵の武器は馬賊の武器に劣ると云ふことです」。ここからも戸水は「満州は矢張り露西亜の権力の下に在ります」と念を押す。

 やはり「宝の庫」であるゆえに、満州は将来の日本にとってこそ「宝の庫」。ならば、このままロシアの振る舞いを拱手傍観しているわけにはいかない。だが「之を治むるには小心翼々ではいけない」。「是迄の日本流」を脱し、「矢張り大胆で豪放で露西亜流で遣らなけれはなりませぬ」。とは言え肝心の「大胆で豪放で露西亜流」が、日本人は不得手なのだ。

「今後日本に於て何事を為すにしても世界の大勢」に合わせなければならないし、「特に東洋の事情に通するのが必要だと思います」と、国際情勢を無視しての軽挙妄動は厳に慎むべしと釘を刺すことを忘れてはいない。やはりカラ元気の無手勝流は日本国内でしか通用しない、ということだろう。

 戸水の旅は、やがて北京へ。

 第一声は、「支那に居りて感じたのは政治改革の困難です」との断言だった。

 北京では先ず「北京大学堂の服部博士、巌谷博士(中略)に逢」った後、日本人教師による教育は「前途に余り多くの望みを属して居ませぬ」と考えた。それというのも日本語を解さない「支那の学生に向て日本語で講義」するから、通訳を介さなければならい。当然のことだが「そんな事では支那の学生をして深遠なる学理を解せしむることは六ヶ敷でせう」。

 服部らは当時の最高学府の北京大学堂に乗り込んで日本式教育を施し教育改革を試みているものの、それはむずかしい。これまた当然というべきだ。

 また戸水は「真に支那の政治を改革したいと思つて居る人は沢山は居無い」と見做すから、「支那に居りて感じたのは政治改革の困難です」と結論づける。

 戸水によれば、清朝中枢は「大抵は日本人が強いか露西亜人が強いか分らぬ」。だから「断乎として日本人を採用して支那内治の改革を企図する如きことは為」すわけがない。「支那人に対して親切を尽」したところで、「支那人は日本人を近けて内政の改革を為し得無い」。ならば「支那人に対して親切を尽」しても徒労以外の何物でもないことになる。

 やはり「支那人が実際日本人の価値が分ら無ければ是亦致方の無い話です」。だから「今日の処では躍起となりて口舌を以て日本風の文明を支那に輸入せうとしても功を奏しませぬ」。たとえば先に示した北京学堂にしても「今日の處では告朔の餼羊たるに過ぎ無いと思います」。いわば服部らの努力は「告朔の餼羊」、つまり形だけ、徒労、ムダということだ。

日本の政治家の「小ささ」を嘆く

 ここから戸水は一気に積極論に転じた。

「若し真に日本風の文明を以て支那を靡かし日本の勢力を支那に樹立せうと欲するならば」、とどのつまり戦争しかない。だが「支那に対して戦争を為すに非ず」。やはり「露西亜に対して戦争を為すのです」。

「露西亜に対して戦争をすれば無論日本が勝つ」。「日本が勝てば支那も朝鮮も必ず日本に寄せて日本の為すところを学ばうとします」。「其時に於て日本風の文明を以て此両国を靡かすのは」難しいことではない。かくして戦争に勝利すれば「日本の勢力を此両国に樹立するのは」、やはり難しくはない。「今日必要なのは唯一の戦争です」。だから「此の事を解し得無い人は共に支那現今の事情を語るに足らない」ということになる。

 北京を後に戸水は張家口に向う。

 中国における旅の困難さについては既に多くの先人が記しているので省くが、通貨の不便さについて戸水は、「支那は不便の国で到る処通用する銭の違ふのには閉口です」。「何故支那の政府は紙幣を発行」しないのかと言えば、紙幣発行のための「正貨準備に困難を感ずる」からだ。「正貨は沢山あるけれとも之を保管するのが六ヶ敷」。なぜかというと役人に保管させたら、「何時の間には其正貨が役人の懐に入り政府の正貨が減するの恐が有る」からだ。紙幣発行の条件はあるものの、その紙幣の価値を保障する本位貨幣(銀本位制の中国の場合は銀貨)を役人が私腹してしまうのである。これでは紙幣発行は不可能だ。

 ここで頭に浮かぶのは、林語堂が『中国=文化と思想』(講談社学術文庫 1999年)に示した「収賄汚職は人民にとっては罪悪であるが、家族にとっては美徳である」との見解である。人民にとっては「罪悪」であっても、家族にとっては「美徳」。いわば家族が人民よりも国家よりも優先するのである。そのうえ役人の世界は「官官相護(役人同士の庇い合い)」という、もう一つの「美徳」で鞏固に守られている。かくて「支那は困りた国です何処までも亡国の兆を帯びて居ます」と結論づける。 

「張家口は蒙古と支那の貿易の中心であり且つ茶を露西亞に送る関門です」。そして張家口郊外は、どうやらロシアの影響下に置かれていた。だから、そこでは「露西亞の言葉が通ずる」。「張家口に於て露西亞人が専管居留地を設けたい」と言っているが、この点からも「露西亞人の意思は察せられる」。

「張家口に至る迄鉄道を敷いて張家口に於て専管居留地を設けて露西亞の勢力を其辺りに扶植してそうして北京を圧伏する積りである」から、このままロシアの行動を拱手傍観することがあったなら、「北京は露西亞人の圧伏を蒙るに至るのである」。だから「吾日本国民は如何なる事を為してそれに応じて良からうか大いに考究を要す」と問題提起をし、最後に持論の披瀝に及ぶこととなった。

「成る可く速に露西亜と戦争をなし露西亜の勢力を挫いて仕舞つたならば北京は露西亞人の圧伏を蒙ることはなからうと思ふ」。それというのも、「出来得るならば日本の勢力を少なくとも張家口迄速に伸ばしたいのである」からだ。とは言うもののロシア勢力を駆逐し、北京から張家口を結ぶ一帯を日本の影響下に置くなどという事が簡単にできるわけがない。

 だが戸水は断固として突き進む。

「露西亜は既に満州を席巻した上にまた是の如き雄図を企てて居る」。ここでいう「是の如き雄図」とは「『ゴビ』の沙漠を横断して張家口まで鉄道を敷設せうとして居る」ことを指すが、「露西亜と東洋の覇権を争ふところの日本は默して之を見て居るのは得策で無い」。だから「寧ろ露西亜と一戦して日本人の方が優者であることを支那人に示し然る後日本の勢力を支那に展はすことか必要である」。だから「何卒日本の志士は海外の事情に注目して国威を宣揚するの術を講じて欲しい」。だが、「翻て日本の事情を観るに日本の政治家は小忿争に従事して居る」のみで、情けなくも口惜しいことに、何らの有効策を打ち出せない。

 戸水は「日本の政治家のする仕事の規模の小なるを実に憫んで居る」と嘆いた後、「ちつとはさう云ふ政治家は大陸に行て大規模の仕事を見て来るが良からうと思ふ」。「壮大なる心を懐いて世界に雄飛するの計画を立てて欲しいものです」と呼び掛け、旅を終えた。

 戸水寛人は「バイカル博士」とも呼ばれ、東京帝国大学法科大学教授当時の明治37(1904)年の日露戦争開戦に当り、富井政章らと共に時の桂太郎首相・小村壽太郎外相に向けて「七博士意見書」を発表し、ロシア帝国に武力進攻してバイカル湖以東の東シベリアの占領を強く主張している。引用は戸水寛人『東亞旅行談』(有斐閣書房・東京堂 明治36年)に従った。
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