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「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/568.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 8 月 10 日 20:07:35: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 20 日 09:50:46)

「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」【戦争と日本人(3)】2019年8月10日
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?all=1


ダグウェイ実験場の日本村
アメリカ陸軍がダグウェイ実験場に建設した実験用住居の日本村。1943年(US ARMYhttps://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?photo=1


 この7月、米国人建築家フランク・ロイド・ライト(1867−1959)設計の8件の建築物が、世界文化遺産に登録されることが決定した。今回指定を受けたのはすべて米国にある建造物だが、ライト設計の建造物は日本にもいくつか残っている。中でも有名なのが、東京・日比谷にあった帝国ホテル(愛知・明治村に移築)だろう。そしてちょうど100年前の大正8(1919)年、ライトの弟子として共に来日した人物が、アントニン・レーモンドだった。

 ***


アントニン・レーモンド(出典:(株)新建築社発行、「新建築1956年4月号」1956

 その後18年にわたり日本で暮らしたレーモンドが残した建造物は、ライトと比べてかなり多い。代表的なところでは東京女子大学、聖心女子学院、聖路加国際病院、米国やフランス、ソ連の大使館などがある。モダンな鉄筋コンクリートの自宅を米国大使館の近くに構え、日本の漆工芸家、木版画家、宗匠などと交流し、書や茶など日本の芸事(げいごと)も積極的に学んでいたという。

 レーモンドが米国に戻ったのは1938(昭和13)年だった。友人と組み、ニューヨークで設計事務所を開いていた彼のもとに、「スタンダードオイル」社から仕事の依頼が入ったのは、43年初頭である。同社は「焼夷弾」の製造会社。第2次世界大戦が始まり、すでに1年あまりが経っていた。(以下、〈〉内引用は秋尾沙戸子氏『ワシントンハイツ─GHQが東京に刻んだ戦後─』より)。


正確な「日本家屋」を再現 畳、座布団も配置


砂漠の中のまるでモデルハウスのような家屋。1943年の5月以降、繰り返し焼夷弾を落とし、落下軌道、落下地点、発火範囲、火災の規模、燃焼能力、消火の可能性など、細かいデータをとっていった。日本村とドイツ村の航空写真、1943年(US ARMY[Public https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?photo=3

〈日本の労働者が住む家屋を設計してほしい。3×6の畳と障子を用い、さらに屋根は瓦にしてほしい〉

 何とも奇妙な注文。が、それは空襲で使用する「焼夷弾」の燃焼実験のためだった。実際に日本の家屋を建築した上で焼夷弾を落とし、データを集め分析しようというのである。

 日本に長く滞在していたレーモンドは、当然、日本の建築物について精通していた。依頼を承諾したレーモンドの指示のもと、ユタ州の砂漠にあるダグウェイ試験場において日本の木造長屋の街並みが再現されていった。3カ月後、2階建ての3棟の木造住宅を4列、12棟の長屋が2組完成する。

〈(砂漠の中のまるで)モデルハウスのような家屋に、(1943年の)5月以降、繰り返し焼夷弾が落とされた。そして、落下軌道、落下地点、発火範囲、火災の規模、燃焼能力、消火の可能性など、細かいデータをとっていった〉

 それらの家屋は正確さが重視されていた。家屋の内部には畳が敷かれ、卓袱台(ちゃぶだい)、布団、座布団が配置されていた。箸や炭火鉢、洗い桶といった台所用品、さらには雨戸や物干し台も再現され、庇(ひさし)の下には欄干も取り付けられていた。爆撃実験は雨戸を開けた状態と閉めた状態(すなわち昼と夜の想定)の、その両方で行われた。

〈トタン屋根と瓦屋根の2種類を造り、建材もできるだけ日本のヒノキに近いものが使われた。(レーモンドの)自伝によるとそれは、ロッキー山脈の「シトカ産のスプルース」だという。また、漆喰の代用として壁材は南西アメリカで使われている「アドビ」という土壁を用いた〉

 実験に使用するほど大量の畳を、米国国内で生産するのは不可能だった。そのため、米国海軍が出動し、ハワイに暮らす日系人の家庭から掻き集めている。

 さらには〈日本と同じ装備の“消防団”までが組織され〉、鎮火実験も行っていたという。すぐに鎮火されたのでは、日本を火の海にできない。米国はこうした実験を繰り返すことによって、空襲の精度を上げていったのである。

 レーモンドは後に自伝でこう記している。

〈私と妻にとって、日本を負かす意味をもつ道具をつくることは、容易な課題ではなかった。日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を最も早く終結させる方法は、ドイツと日本を可能な限り早く、しかも効率的に敗北させることだという結論に達した〉


占領期、米軍とその家族たちは日本人とどう接し、何を残していったのか? GHQは焦土と化した日本をどうデザインし、我々の生活に何を埋め込んでいったのか?  日米双方の新資料と貴重な証言から洗いなおした傑作ノンフィクション

レーモンドの「もうひとつ別の顔」

 B29による空襲が本格化したのは、この翌年1944年11月からだった。終戦まで続いたこの無差別爆撃により、250以上の都市が被災。死亡者およそ33万人、負傷者43万人、被災戸数は233万戸と伝えられている。

 さて、そのレーモンドだが、建築家以外にもうひとつ別の顔があったと秋尾氏は指摘している。米国立公文書館別館に保存されている「レーモンドファイル」。それによるとレーモンドは、かつて米陸軍の諜報部に所属していたという。諜報を担う部署G2(参謀2部)から情報調整局大佐に宛てられた報告書には、こうあった。1942年5月の日付である。

〈レーモンドは次のように申告している。そのためなら、戦時中は喜んでいまのビジネスの成功を投げうって軍に戻ると。
 日本で、反国軍勢力軍との間に摩擦を大きくさせて内部崩壊を促すために、日本における彼のリベラルな知人たちとの接触を復活させる〉

 つまりレーモンド自ら、日本で反対分子を煽動して、国家転覆を図ることを軍に提案していたのだ。しかも報告書によれば、レーモンドは来日以前、すでにスイスにおいて、ドイツとオーストリアに米国のスパイ組織を作る活動をしていた。日本に18年滞在していたことについては先に紹介したが、その際には〈軍に対抗する日本人グループに多く接触していた〉と、報告書には記されていた。

 終戦から3年後の1948年、レーモンドは再び日本の地を踏んだ。灰燼に帰した東京で事務所を起こし、リーダーズダイジェスト東京支社のほか、離日までの25年間に教会や学校、個人宅など、ゆうに30を超える建築物の設計を精力的に行なった。
 それらの建築群は、レーモンドにとっての鎮魂の墓標だったのだろうか。

デイリー新潮編集部
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?all=1  

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コメント
1. 中川隆[-13876] koaQ7Jey 2020年2月10日 18:10:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-538] 報告
2020.02.10
カーク・ダグラスが死ぬ前に息絶えていたハリウッド

 俳優のカーク・ダグラスが2月5日に103歳で死亡した。ジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」は軍の好戦派によるクーデターがテーマの作戦だが、その映画で彼は主役を演じている。

 この映画の原作はジャーナリストのフレッチャー・ネベルとチャールズ・ベイリーが1962年に書いた小説。1961年7月にアメリカ空軍の参謀総長に就任したカーティス・ルメイをインタビューしたことが小説を書くひとつの切っ掛けになったとされている。

 言うまでもなく、ルメイは第2次世界大戦の終盤、東京を含む日本の都市を焼夷弾を使った空爆で焼き尽くし、多くの非戦闘員を殺した作戦の責任者であり、広島や長崎へ原子爆弾を投下する上で重要な役割を果たした。

 1948年にはSAC(戦略空軍総司令部)の司令官就任、50年6月に勃発した朝鮮戦争でも日本に対する以上の空爆を実施、朝鮮の人口の20%を殺したと本人も認めているほどだ。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下したのは約16万トンだが、朝鮮戦争で投下された爆弾は約63万5000トンに達する。

 ネベルとベイリーがインタビューした当時、ルメイはライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長と同じようにソ連への先制核攻撃計画に参加、その準備としてキューバへアメリカ軍を侵攻させようとしていた。

 このふたりを含む好戦派の計画を阻止したのが1961年1月に大統領となったジョン・F・ケネディで、1962年9月にはレムニッツァーの再任を拒否している。

 その前にはCIAの長官と副長官が解任されている。1961年11月には長官だったアレン・ダレスを、62年1月には副長官だったチャールズ・キャベルを大統領はCIAから追い出したのだ。ルメイをSACの司令官に留めたことがケネディにとって致命傷になったと考える人もいる。

 ソ連に対する先制核攻撃の準備が進められる中、アメリカ国内ではファシズムに反対する人びとの粛清が始まる。映画界へもその波は押し寄せ、下院の非米活動特別委員会が1947年9月にハリウッドのシナリオ作家、監督、俳優ら19名に対して召喚状を送り、10月23日に出頭するように命じている。

 そのうちのひとりはドイツから亡命していた著名な劇作家のベルトルト・ブレヒト。指定された日に実際、証言させられたのは11名だった。そのうちブレヒトを除く10名が「ハリウッド・テン」と呼ばれている。

 そのうちのひとりが脚本や小説を書いていたドルトン・トランボで、自分の名前で仕事することができなくなった。トランボが自分の名前を取り戻したのはスタンリー・キューブリックが監督、カーク・ダグラスが主役を演じた1960年公開の「スパルタカス」。映画のクレジットにトランボの名前が明記されたのだ。

 しかし、現在のハリウッドは支配層の利益に反する作品を作ることは不可能な状態になっている。表現の自由は失われた。エル・サルバドへアメリカの軍や情報機関が関与している実態を描いた1986年公開の「サルバドル」、ベトナム戦争を描いた86年公開の「プラトーン」、89年公開の「7月4日に生まれて」、93年公開の「天と地」、あるいは87年公開の「ウォール街」や91年公開の「JFK」を監督した​オリバー・ストーン​によると、冷戦が終わってから情況は悪くなり、今では軍を批判したりイラク戦争を取り上げることが困難になっているという。有力メディアと同じように、単なるプロパガンダ機関になったということだ。

 以前にも書いたことだが、「5月の7日間」を映画化するようフランケンハイマーに頼んだのはケネディ大統領である。1962年にホワイトハウス報道官のピエール・サリンジャーを介して依頼したのだが、その大統領は映画が公開される3カ月前にテキサス州ダラスで暗殺された。当時、ダラスの市長はチャールズ・キャベルの弟だ。

 映画の原作が書かれる切っ掛けになる話をしたルメイに対し、ケネディ大統領が暗殺された翌年に日本政府は「勲一等旭日大綬章」を授与している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002100000/

2. 中川隆[-13873] koaQ7Jey 2020年2月11日 18:26:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-501] 報告
米国の退役軍人が、米軍の犯罪行為を語る(ParsToday)
https://parstoday.com/ja/news/world-i58936
米国の退役軍人が、米軍の犯罪行為を語る
2月 10, 2020 17:29 Asia/Tokyo

アメリカ空軍の元無人機操縦士、ブランドン・ブライアント氏が退役後、同国軍による犯罪行為の数々を認め、これらの犯罪の実例を暴露しました。

英紙インディペンデントによりますと、ブライアント氏はインタビューの中で、アフガニスタンで米兵の犯罪を暴露するとともに、「米軍はナチス・ドイツよりも酷い」と述べました。

また、米軍を辞めた理由について、「アフガニスタンにおいて、ミサイルで建物に狙いを定めていたその時、その建物から子供が出てこようとしていた。自分がそのことを上官に報告したにもかかわらず、上官は作戦続行の命令を出した」としました。

さらに、「自分と自分の家族は、米国の無人機計画を漏洩したとして何度も脅迫された。このため、友人や自分の家族から距離を置かれるようになってしまった」と話しています。

ブライアント氏によれば、彼が米空軍に勤務していた時期に少なくとも13人の殺害に直接かかわり、彼が所属する分隊は女性や子供を含む1626人を標的としたということです。

ブライアント氏は6年間にわたり米空軍に勤務し、同国ラスベガスにある基地から無人機の遠隔操作を担当していました。

2019年11月15日、トランプ米大統領はアフガニスタンで戦争犯罪に関わったとして起訴されていた米兵クリント・ローランス被告とマシュー・ゴルスタイン被告、またシリア駐留兵だったエドワード・ガラガー被告を恩赦の対象としました。

ラジオ日本語のユーチューブなどのソーシャルメディアもご覧ください。

https://www.youtube.com

https://twitter.com/parstodayj

https://www.instagram.com/parstodayjapanese/

https://soundcloud.com/user-614960283

3. 中川隆[-13867] koaQ7Jey 2020年2月11日 18:56:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-495] 報告
020年02月11日
原爆は「日本が降伏した後で」投下された 日本の降伏を拒否したアメリカ軍


アメリカ軍は勝利を自らの手柄にするため終戦を遅らせ、2発の原爆を使用した。

引用:http://blog-imgs-82.fc2.com/h/i/s/history365days/10616593_828729970491689_8779173433003972912_n.jpg


広島・長崎の原子爆弾は、日本が降伏しなかったから投下したとされています。

だが少しずつ公開された資料からは、日本が降伏し、アメリカが拒否して原爆を投下した事実が示されている。


日米和平交渉

1945年、日本と米国の終戦交渉が秘密裏に行われていました。

日本側は1942年のミッドウェー海戦から敗戦を続けていて、戦争を終わらせる必要がありました。

一方のアメリカは強敵のドイツ軍をやっつけて、太平洋方面に主力を移動させようとしていて、余力充分でした。


日本側では特に海軍と外務省、昭和天皇が早期終戦を望んでいて、陸軍は徹底抗戦を望んでいました。

アメリカ側はやる気充分だったが、特に軍は積極的で、日本を廃墟にするまで戦う気でした。

だが既にソ連軍の拡大は懸念材料になっていて、国務省など外交筋は早期終戦を望んでいた。


日本本土を戦場にして戦えば、ソ連が日本の半分を占領する事になり、ソ連を利する事になるからだった。

1945年7月にはまだソ連と日本は戦っていないが、既にルーズベルト大統領はヤルタ会談などでソ連参戦を要請していた。

ソ連は日本と戦う見返りとして日本の東半分、つまり名古屋から右側を要求していたとされている。


日本軍はソ連対日参戦の日を8月もしくは9月と予想し、それまでに対米戦を終了しなければならないと認識していた。

なぜなら米国だけに降伏すれば、国土は分割されず、いつかは再び独立できるが、ソ連と分割されれば永遠に復活出来ないからだった。

日本側は国土を分割しない事と憲法護持、天皇制を維持する事を条件として、米国に接触を試みました。

成功するかに見えた和平交渉

1945年4月、日本政府は最早敗戦は決定的であるとして、米国との終戦交渉に着手するのを決定しました。

このとき大本営の数人だけで極秘の決定がなされたが、ソ連に仲介を依頼する事になっていました。

同時に別案として、スイスやバチカンなど中立国で、米国と直接交渉をする事も決められました。


日本は欧州の中立国スイスに公使館を持っていて、米国など連合国側の大使と接触が可能でした。

真珠湾攻撃以降、連合国側との接触は途絶えていたが、一応こちらの方法も実施されました。

5月から7月に掛けて日本側から働きかけが行われ、応じたのがドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスでした。


7月には仲介者を通じて、日本側とアレンダレスの最初の交渉が行われ、ダレスは日本が提案した条件を呑んだとされている。

条件と言っても日本側が絶対に譲らないとしたのは、天皇制護持だけで、国土と憲法の方は譲歩の余地がかなりあった。

この時既に沖縄は米軍に占領されていたので、最悪沖縄が米国領になっても仕方が無い事だった。


日本側の出席者は政府や軍ではなく、表向き民間人の横浜正金銀行の銀行マンだったとされている。

仲介者は国際決済銀行(BIS)のペール・ヤコブソンで、これはヤコブソンの膨大なメモや資料で裏づけられています。

アレンダレスは7月15日に初めてヤコブソンと会談し、そこで日本の条件を受諾する姿勢を示したとされている。

この時日本側は8月の第一週から第二週、つまり直ぐにでも停戦したい旨を提案したとされています。

日本の降伏を無視したアメリカ軍

だがダレス1人が納得しても、アメリカ政府や大統領、外交筋や軍が了承するかは別で、特に軍は徹底的に日本を叩く気でした。

7月23日には、ダレスとヤコブソンの会談で、このルートで和平交渉を進めることを確認したが、8月に入ると事態が大きく動いた。

8月6日に広島原爆投下、8月8日にソ連が対日宣戦布告、8月9日にシベリアで日本軍とソ連軍が激突、同8月9日に長崎原爆が投下されました。


これには裏があり、米軍はダレスの交渉が成功しそうだと知っており、勝手に合意する前に総攻撃を掛けたのだった。

もし米軍が最後のとどめを刺さないまま戦争が終われば、戦争の最大の功労者は外交官だった事になる。

だがドイツを占領したように日本を壊滅させ、占領する事で戦争が終われば、手柄は軍のものになります。


ダレスの終戦交渉が頓挫したのは、米軍上層部が1945年12月まで戦争を続けるとして、日本の降伏を突っぱねたからとされている。

この時米軍は日本に10発の原子爆弾を投下する予定で、生産した爆弾や爆撃機を「消費」しなければならなくなっていた。

おかしな話だが、兵器というものも一度生産したらどこかで消費しないと余ってしまい、誰かが責任を取らされる。


1945年12月まで時間があれば、予定していた10発の原爆のかなりを使用できると考えた。

ダレスは戦略事務局(CIA)職員としてイタリア軍、ドイツ軍を降伏させ、日本との交渉もしていたから、日本が降伏を申し出たのは本国に伝わっていた。

昭和天皇は4月と5月の東京大空襲の時に、既に降伏の意思を固めていたのが、周囲の人々によって記されていました。


原爆投下後の8月14日に御前会議でポツダム宣言受諾を決定し、玉音放送を録音し、8月15日に放送した。

本来は総理大臣などが発表するべきだが、陸軍が本土決戦を主張した為、末端の兵士にまで直接伝える必要が生じた。

同時に全世界にラジオ放送することで、アメリカ軍が「降伏など受けていない」と絶対に言えないようにしたのでした。


米軍は8月13日には停戦の連絡を受け、日本軍は14日に戦闘をやめているが、15日の夜になっても爆撃を続けている。

このようにアメリカ政府とアメリカ軍は、1945年7月末には日本の降伏申し出を知っていて、なおかつ原爆を使用したのでした。

http://www.thutmosev.com/archives/58195625.html

4. 中川隆[-12861] koaQ7Jey 2020年3月10日 07:10:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[688] 報告

東京大空襲で10万人の死者、「3・10」を忘れるな
佐藤 けんいち 2020/03/10
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/東京大空襲で10万人の死者、「3・10」を忘れるな/ar-BB10XHm9?ocid=ientp

 自然災害か人災かにかかわらず、大事件を発生した月日の数字で表すことがある。2001年の米国の同時多発テロ事件「9・11」や、2011年の東日本大震災と原発事故の「3・11」がその代表であろう。

 まもなく、また「3・11」を迎えることになる。東日本大震災と福島原発事故からまもなく9年になるのである。月日がたつのは早いものだ。猛威を振るっている新型コロナウイルス関連の記事や番組があふれている現在どうしても隠れがちだが、福島の復興の状況が気になるところだ。

 だが、本日3月10日にも大量に死者がでた大事件があったことにも注目してほしい。ここでは「3・10」と名付けておくが、「3・11」だけでなく、「3・10」についても考えてほしいと思うのである。いや、この2つの出来事は一緒に考えるべきものかもしれない。日本の弱みや問題点が集約的にあらわれているからだ。

狙われた東京下町、2時間の空襲で死者10万人

 3・10とは、東京大空襲のことである。1945年(昭和20年)3月10日、大東亜戦争末期の帝都東京に対して行われた、米軍の大規模空爆による大被害のことである。夜間の超低空から実行された、焼夷弾による都市攻撃である。攻撃を行ったのはマリアナ基地から発進したB29であった。

 死者はなんと10万人超、負傷者は4万〜11万人、被災者全体で100万人超となった。しかも空襲が行われたのは、3月10日の午前0時8分から、空襲警報が解除された午前2時37分までの約2時間たらずのことだった。まったくの深夜のことであった。

 空襲が集中したのは東京の下町である。山の手ではない。米軍は、最初から意図的に東京下町の住宅密集地帯を狙って実行したのである。

 焼夷弾は破壊を目的としていないので爆発はしないが、充填されているナパームなどの焼夷剤が燃焼して攻撃対象を焼き払うことを目的としている。木造建築が圧倒的であった当時の民家に焼夷弾が被弾すると、一気に火が拡がって投下された地帯が焼け野原になってしまったのである。

 逃げ遅れて焼け焦げになって転がる死体、逃げた先の河川で山のように積み重なった死体。大空襲後の東京下町がどんな状態であったかは、自身が12歳の時に大空襲を体験した被災者であり、大空襲の語り部である作家・早乙女勝元氏の編著による『写真版 東京大空襲の記録』(新潮文庫、1987)をみてほしい。あまりにも悲惨な光景に、目を背けたくなるのではないだろうか。モノクロ写真だから耐えられるが、これがカラーだったらどうだろうか。直接体験した人たちにとってトラウマとなったであろうことは、容易に想像できる。

3月10日未明、空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(出所:日本写真公社・深尾晃三 - 早乙女勝元監修『決定版 東京空襲写真集 アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録』勉誠出版)© JBpress 提供 3月10日未明、空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(出所:日本写真公社・深尾晃三 - 早乙女勝元監修『決定版 東京空襲写真集 アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録』勉誠出版)
 東京に対する空襲は130回に及んでいるが、そのうち9割の被害が3月10日の大空襲に集中している。しかも、わすか2時間の空襲で死者10万人の大被害となったのである。

 その理由について、上掲書で早乙女氏は4つ指摘している。第1に、下町が住宅密集地帯であっただけでなく、多数の河川や水路があることが避難の妨げになったのである。橋が焼かれてしまうと移動できなくなるのだ。

 第2に当日の気象状況の影響があるという。風速7.9〜12.7メートルの強風が、火災の被害を大きくしたのである。強風にあおられた大火災が火炎旋風となって町を焼き尽くしたのだ。関東大震災や阪神大震災とおなじような状況となっていたのである。

 第3に住民の防空観念として、逃げずに消火しなくてはいけないという意識があったことが指摘されている。しかも、当時の「防空法」第8条には、自宅から無断で退去することも避難することも禁止されていたのである。違反すると1年以下の懲役または罰金刑が規定されていた。恐るべきことではないか。

 そして第4に防衛当局のミスにより、空襲警報が発令されたのは空襲開始の午前0時8分から7分遅れた0時15分だった。この7分差が多くの人の生死を分けた決定的な時間となった。被災地の生存者で、空襲警報発令を記憶している人は、ほとんど皆無だったという。

 さらに問題なのは、なぜ空襲警報発令をためらったかというと、B29の襲来が真夜中のことであり、防空当局は軍を守ることしか念頭になく、真夜中に天皇陛下を防空壕に避難させることを避けたかったからだという参謀の証言もあるそうだ。

 国民がまったく視野になかったという点に関しては、敗戦による満洲崩壊時の棄民状態とまったく同じである。この期に及んでも、国民の生命を犠牲にしながら戦争を止めようとしなかったのだ。

原爆に匹敵する空襲の被害

 広島や長崎の原爆投下については、日本国内だけでなく国際的に注目されている。昨年2019年11月には、ローマ教皇フランシスコ1世が訪問したばかりだ(参考:「いよいよローマ教皇来日、フランシスコはどんな人?」)。だが、東京大空襲は、そのほか地方都市に対して行われた空襲も含めて、日本国内でもあまり取り上げられることはない。東京大空襲だけについても、被災地となった下町と、おなじ東京であっても山の手では認識に大きな違いがあるようだ。

 5年前のことになるが、英国のThe Economist誌の記事で知った事実は、その意味ではショッキングなものがあった。それは "Japan and the past: Undigested history" (2015年3月7日)という記事だ(日本語タイトル:「日本とその消化されざる過去の歴史」)。

 先にも名前を出した早乙女勝元氏のインタビューから書き起こされたこの記事によれば、東京以外の地方都市の被害も含めると、大東亜戦争での日本の犠牲者は空襲による死者だけで30万人を超える。さらに広島の原爆投下で14万人、長崎の原爆投下で7.4万人が犠牲者となっている。記事に掲載された図表(下記参照)をみると、日本の被った空爆の被害が、群を抜いて異常なまでに大きなものであったことがわかる。

「第2次世界大戦における主要な空爆作戦」(selected bombing campaign of WW2)(「The Economist」より)© JBpress 提供「第2次世界大戦における主要な空爆作戦」(selected bombing campaign of WW2)(「The Economist」より)
 いまだに非人道的であったと反発の声があがるのが、米英連合軍によってドイツに対して実行された「ドレスデン大爆撃」(1945年2月13〜15日)である。だが、それですら死者は1.8万人なのである。「バトル・オブ・ブリテン」(1940年9月〜1941年5月)におけるドイツ空軍による数回にわたるロンドン空爆と同規模である。ロンドン空爆による民間人の死者は約2万人だ。

 東京大空襲は、ドレスデン大爆撃の5倍以上の死者を出しているのだ! にもかかわらず、東京大空襲が日本国内では大きな話題になることはなく、そのための公式の慰霊碑すらないという事実に The Economist誌は注意を喚起している。この事実は日本人としては重く受け止める必要があるのではないか。

 しかも、東京大空襲を含めた空襲による日本人の被害は総計30万人であり、広島と長崎の原爆被害のそれぞれより多いだけでなく、広島と長崎をあわせた原爆死者(約21.4万人)よりも多いのだ。

 もちろん、原子爆弾と焼夷弾とでは被害の性格が異なる。原爆の場合は被爆による後遺症のため、戦後しばらくたってからも亡くなる方も少なくないという大きな違いもある。だが、空襲による犠牲者の圧倒的多数が非戦闘員のシビリアン、すなわち民間人であったことに変わりはない。戦闘員と非戦闘員の区別なく犠牲となったという点において「無差別殺戮」であったといって過言ではない。この事実をしっかりと認識することが重要だ。この認識があってはじめて、現在なおシリアなどで続いている空爆の非人道性を認識することができるのである。

国民のことを考えていた軍人もいた

 バトル・オブ・ブリテンのロンドン空爆から学んだ教訓が、日本の防空に一部なりとも活かされた事実があったことを記しておくべきだろう。

 軍を守ることが防空の中心だったと記したが、例外があったのだ。それは「学童疎開」である。日本の将来を担う若者たちを空襲被害から守るため、学童を都会から地方に疎開させたことは、戦後復興期の日本にとっては不幸中の幸いであった。

 学童疎開の計画立案と実行にあたったのは、辰巳栄一陸軍中将である。新憲法策定にも関与した民間経済人の白洲次郎とともに、吉田茂にとって懐刀であった「影の参謀」だ。『歴史に消えた参謀−吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(湯浅博、産経新聞出版、2011)でその生涯をたどることができる。

 辰巳中将は、駐在武官としてロンドンに3回滞在している異例のキャリアの持ち主であった。3度目のロンドン駐在で体験した「バトル・オブ・ブリテン」の経験が、日英開戦にともなう交換船で1942年7月に日本帰国後、東部軍参謀長として本土空襲防衛と学童疎開を推進する役割を演じることになったのであった。先見の明の持ち主であったといえよう。陸軍にもこんな人物がいたことは、記憶しておかねばならない。

非情なまでに組織的かつ徹底的だった米国

 攻撃される側から見た「空襲」は、攻撃する側から見たら「空爆」となる。空爆した米国側から見た「東京大空襲」について考えてみることも必要だろう。

 米国は、組織的かつ徹底的に空爆を計画し、実行したのである。この事実を抑えておく必要がある。日本の戦意をくじくため、民間人に対する違法な爆撃作戦を遂行したのである。原爆だけではなく、空爆においても徹底的に研究を行っていた。

米軍が上空から撮影した「東京大空襲」直後の東京(出所:Wikipedia)© JBpress 提供米軍が上空から撮影した「東京大空襲」直後の東京(出所:Wikipedia)
 効果的かつ効率的な成果をあげるために採用したのが焼夷弾であった。これは当時の日本家屋の特性を踏まえたものである。民間人の一般住宅は、火がつけば、あっという間に炎上してしまう木造平屋建てが大半を占めていたのである。東京下町の住宅密集地帯を狙ったのは意図的で、米軍はそのためのシミュレーションと訓練を念入りに行っていた。

米軍の戦略爆撃の成果を示した報告書より。濃い部分が東京下町(出所:Wikipedia)© JBpress 提供米軍の戦略爆撃の成果を示した報告書より。濃い部分が東京下町(出所:Wikipedia)
 焼夷弾攻撃の実験が行われたのは、アリゾナ州の砂漠にある米軍の実験場においてであった。木造で燃えやすい日本家屋の実物大の模型を作製し、焼夷弾実験を繰り返して、詳細なデータを収集し解析を行っていたという。その成果を踏まえて実行されたのがB29による東京空襲作戦なのである。ちなみに原爆実験が行われていたのはニューメキシコ州である。

 そしてその日本家屋の模型建設にかかわっていたのが、戦前と戦後の日本で洋風建築普及に大きな貢献をしたアントニン・レーモンドという、チェコ出身で米国に帰化した建築家であった。

 帝国ホテルを設計した建築家フランク・ロイド・ライトの弟子として初来日したレーモンドは、米国の軍籍をもつインテリジェンス・エージェントでもあったのだ。この事実は、『ワシントン・ハイツ−GHQが東京に刻んだ戦後−』(秋尾沙戸子、新潮文庫、2011)で明らかにされている。

 米国は総力をあげて戦争に取り組んでいたのである。モノ・カネといった物量だけが日本に勝っていたのではない。ヒトもまた総動員されて徹底的に活用され、もてる知力の限りを尽くして戦争遂行に貢献していたのである。ベトナム戦争を指導したマクナマラ国防長官は、第2次世界大戦では陸軍航空部隊の統計管理局に所属し、戦略爆撃を効果的かつ効率的に行うための解析作業を行い、B29の大量投入を実現させている。

 非情なまでに組織的かつ徹底的な米国に対して、やることなすことすべてが場当たり的な日本。第2次世界大戦で顕在化したこの対比は、現在またふたたび繰り返されている。中国の武漢で発生した新型コロナウイルスの対応にも、まったくおなじ構図を見いだしてしまうのは、私だけではないと思う。

 敗戦国に生まれた日本人として、私もまた米国に対しては複雑な感情を抱く者であるが、有事の際に顕在化する日米の大きな違いについては、ため息をつきながらも認めざるを得ないのである。

3・10について知らなかった大学生

 3・10については、意外と知られていないのが実情だろう。何を隠そう、いまこのコラムを書いている私も、恥ずかしながら大学3年生になるまで知らなかったのだ。現在の大学生を無知だといって、責める気にはならないのである。

 個人的な回想を語らせていただくことにしよう。いまからもう35年前のことになる。当時は体育会合気道部で主将を務めていたのだが、昇段試験も兼ねた春合宿でのことだ。夕食の席で、合気道九段の師範先生から話題が振られたのである。「きょうは3月10日だが、何の日か知っているか?」、と。

 私は答えられなかった。単純に知らなかったからだ。東京大空襲については、なんとなくは知っていた。小学校5年生の始めまで東京都にいたので、担任の先生(女性)から、東京大空襲についていろいろ話は聞いていた。担任の先生は子ども時代に空襲を体験している世代だったので、防空壕などの話はリアリティがあった。だが、それが頭の中で3月10日という具体的な日付とは結びついていなかったのだ。

 ついでに書いておけば、私の父親は神戸生まれの神戸育ちであり、神戸大空襲を体験している世代なので、空襲の話は子ども時代に何度も聞かされてきた。隣の家に焼夷弾が落ちて全焼、その残り火でコメを炊いたこともあるという、妙にシュールなエピソードを聞いたこともある。電気炊飯器などなかった時代の話である。

 神戸の空襲に関しては、神戸出身の著名人が回想をもとにした小説を執筆していることで、比較的よく知られていると思う。野坂昭如の短編小説『火垂るの墓』はジブリでアニメ映画化されているし、妹尾河童の自伝小説『少年H』は、私の父親の同世代の神戸人のあいだでは大評判になっていたようだ。

 東京や神戸だけでなく、日本各地の地方都市の空襲については、直接体験した人から話を聞く機会はもうないかもしれない。だが、文学作品や映像作品などをつうじて、ぜひ追体験してほしいと思う。

語り伝えが不可能なら学校で教えるべき

 東京大空襲は1945年3月10日のことであり、すでに75年もたっている。いくら「人生100年時代」といっても、実際に100歳まで生きる人はそう多くはない。空襲にまつわる話を、体験した人から直接聞くような機会は、もうなくなってしまうのだろう。

 とはいっても、教育現場で取り上げられることも、あまりないようだ。日本の歴史教育では現代史が軽視されているからだ。歴史の授業が時間切れで現代に入る前に終わってしまうことは、多くの人が経験していることだろう。

 現代史に関しては、政治上の左右対立が激しくて、冷静な立場での歴史記述が難しいという状況もある。歴史的事実は事実としても、解釈が異なると、まるで違う歴史となってしまうためだ。拙著『ビジネスパーソンのための近現代史』(ディスカヴァー・トエンティワン、2017)を執筆する際に苦労したのはその点だ。バランスのとれた記述は難しい課題である。

 参考のために、比較対象としてドイツを中心とした欧州の歴史教育について記しておこう。長年にわたってドイツで日本語学校の校長を務めてきた岡裕人氏の著書『忘却に抵抗するドイツ−歴史教育から「記憶の文化」へ』(大月書店、2012)によれば、日本と違ってドイツでは、歴史教育の現場では現代史のウェイトがきわめて大きいようだ。

 背景には1990年代以降の欧州では、「記憶の文化」がメインストリームとなっていることがある。「記憶」が歴史をつくり、「記憶」はつねに更新され、活性化されねばならないという姿勢である。個人をベースにした欧州社会ならではの智恵なのかもしれない。語り部が消えていく時代には、ドイツなど欧州を参考にして、学校の授業で積極的に教えるべきだろう。

 東京大空襲に関しては、少なくとも当事者である東京都がもっとチカラをいれて取り組むべきだろう。そのためには、先に紹介したThe Economist誌が指摘しているように、記憶を形にした公式の慰霊碑など、なんらかの形のモニュメントが必要ではないか。広島も長崎も原爆ドームや原爆資料館があるからこそ、世界中から訪問者が絶えないのである。

「記憶」は文字として固定化されることによって「記録」となる。そしてまた建造物や博物館の展示もまた、「記憶」を想起するための「記録」となる。こうした取り組みが必要不可欠なのは、記憶はきわめて曖昧であり、容易に変容されやすく、また捏造されやすいからだ。

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/東京大空襲で10万人の死者、「3・10」を忘れるな/ar-BB10XHm9?ocid=ientp

5. 中川隆[-12830] koaQ7Jey 2020年3月11日 21:04:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[727] 報告
2020.03.11
東京大空襲、原爆投下、朝鮮戦争、ケネディ大統領暗殺、勲一等旭日大綬章

 ドイツのドレスデンを空爆した翌月、アメリカ軍は1945年3月9日から10日にかけて、東京の下町、深川、城東、浅草などを焼夷弾で焼き尽くした。この爆撃で7万5000人から20万人の非戦闘員が殺されたと言われている。

 投下された焼夷弾の中には38個の小爆弾が収納されていて、高度610メートル付近で子爆弾はバラバラに飛び散り、建造物や地面に到達すると数秒後に焼夷剤のゲル化ガソリンが燃え上がる仕組みになっている。

 東京空襲を指揮したのはアメリカ空軍のカーチス・ルメイ。この軍人は原爆を投下する都市の選定にも加わっていた。朝鮮戦争における空爆の責任者でもある。

 ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官を務め、50年6月に始められた朝鮮戦争で朝鮮半島北部の78都市と数千の村を破壊して多くの市民を殺害。ルメイ自身、3年間に朝鮮半島の人口の20%にあたる人を殺したと認めている。

 朝鮮戦争が休戦になった翌年の1954年にルメイを含むアメリカ軍の好戦派はソ連を核攻撃する作戦を立てた。アメリカに存在した核爆弾の数は無視したもので、600から750発の核爆弾をソ連へ投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっていた。

 その2年後にSACは​核攻撃計画に関する報告書​をまとめている。それによると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下するとされている。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだ。この当時もSACの司令官はルメイ。

 この計画ではソ連の主要都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。

 日本列島が中国に対する攻撃の拠点として想定されていた可能性は高い。1953年4月に沖縄では布令109号「土地収用令」が公布/施行されて基地化が強引に進められた。土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。沖縄の基地化はアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついていたと考えるべきだろう。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。

 ドイツ軍は1941年6月にソ連に向かって進撃を開始した。バルバロッサ作戦だ。このソ連侵略でアドルフ・ヒトラーは西の守りを無視して約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)

 ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。東部戦線での敗北は戦争自体の敗北も意味していた。

 ドイツ軍がソ連侵略に失敗したのを見てイギリスやアメリカは慌てて動き始める。その年の5月に両国はワシントンDCで会談、ドイツに対する軍事作戦を作成した。7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸している。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。

 ドイツ軍がソ連軍との戦いに敗れると、ナチス親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、実業家のマックス・エゴン・フォン・ホヘンローヘをスイスにいたアレン・ダレスの下へ派遣している。ダレスは当時、戦時情報機関OSSの幹部だったが、ドイツの巨大資本と連携していたウォール街の弁護士という側面も持っていた。

 1944年になるとダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領に無断でドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触しはじめたが、その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。大戦後に極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる人物だ。

 その後、ウォール街の住人たちがナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。フランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月に急死すると、こうしたウォール街の住人がホワイトハウスで主導権を握ることになる。

 1945年5月にドイツが降伏すると、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われて成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下された。

 トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の幕開けを宣言、その翌年に​アメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている​。

 ルメイたち好戦派が目論む計画の障害になる人物が1961年に登場する。ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任したのだ。ケネディは1963年6月、アメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴えている。ケネディ大統領が暗殺されたのはその5カ月後のことだった。日本政府がルメイに「勲一等旭日大綬章」を授与したのは暗殺の翌年のことである。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003100000/

6. 中川隆[-13384] koaQ7Jey 2020年3月24日 18:35:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1520] 報告
2020年03月24日
1945年 日本とアメリカの内部抗争 終戦を望まなかった人たち


原爆を投下した理由は官僚が出世したかったからだが、誰もその事は言わない。

引用:http://www.teaparty.org/wp-content/uploads/2015/03/Atomic_cloud_over_Nagasaki_from_Koyagi-jima-1940x1500.jpeg


1945年の戦い

1945年の太平洋では日米で数多くの戦いが展開されていました。

戦闘機や軍艦同士が戦うのではなく、政治的な思惑が対立して戦争終結を巡って争っていた。

山本五十六を失った日本海軍は一刻も早く戦争を辞めたがっていて、外務省と天皇は同調していた。


日本陸軍は敗北を認めず、徹底抗戦によって既得権益を確保しようとした。

早期に負けを認めることで国力を温存しようとする終戦派と、本土決戦で米国を退けようとする抗戦派は互いに譲らなかった。

アメリカでは早期に戦争を終結させて、米ソ冷戦に備えようとする国務省と、戦果を誇示したい国防省が戦っていた。


国務省は日本の外務省と図って、独自の停戦交渉をまとめようとしたが、国防省の妨害などで原爆投下に間に合わなかった。

国防省はもし、国務省の交渉で終戦に至ったら、最大功労者が国務省になり、軍隊の役割りが正当に評価されないと考えていた。

軍隊のおかげで戦争に勝ったのだと証明するためには、日本を焦土にして完全に屈服させなければならないと考えていた。


1945年7月にはもはや戦争そのものは目的ではなくなり、誰が手柄を上げるか、日本では誰に責任を取らせるかの話になった。

日本海軍は沖縄が米軍に占領された6月には降伏を決めていて、外務省も同調していた。

結局責任を押し付けられたのが日本陸軍で、手柄を手にしたのは原爆使用に成功した米国防省だった。

降伏を拒否したアメリカ軍

海軍内でも徹底抗戦派は存在したが、意図的に軍艦を全滅させる特攻作戦で、反対派を封じ込めたとも言われている。

軍艦が無くなれば海軍は戦争を継続出来ないので、米国との講和条約へ向けて動き出す事ができる。

昭和天皇は東京大空襲があった3月から5月に、降伏を決めていたと言われている。


4月に大本営上層部は沖縄戦が絶望的な状況と判断し、米国との停戦交渉に向けて動き出しました。

このとき日本が期待したのは、対日参戦していないソ連が、米国との仲介役になってくれるのではないかという事だった。

同時に大本営はソ連の対日参戦を8月か9月と予想し、それまでの短期間に交渉をまとめる必要があると判断した。


だがソ連は日本と米国の仲介役を拒否し、8月8日に参戦し、日本の領土を分捕りにきました。

計画ではソ連は日本の東半分、つまり名古屋から東を占領する事になっていました。

もう一つの米国との交渉ルートは、中立国のスイスやバチカンの大使館を通すものだったが、絶縁状態だったので期待されていなかった。


大使館ルートの交渉は意外にも手応えがあったが、米国内では国務省と国防省が対立していた。

国務省は既にソ連との対決を予想し、日本との早期停戦を望んだが、国防省は徹底抗戦を主張していた。

停戦交渉にも妨害が入り8月6日と8月9日に、戦争が終わる前に駆け込みで原爆を使用した。

戦後の始まり

原爆が投下される前の7月には、ドイツ・イタリア軍との交渉も行ったアレン・ダレスを通じて降伏の意思は伝えられていた。

日本側は8月の第一週から第二週に停戦したい旨を提案し、実際には8月15日に天皇が停戦命令を出した。

アレン・ダレスは後のCIA長官になった大物で、アメリカ側が本気だったのは分かる。


米国防省はこれを察知し、日本の降伏前に、可能な限りの爆弾と原爆を投下しようと考えた。

国務省は戦争が終わっても活躍できるが、軍人は戦争が終わったら「ごくつぶし」でしか在りません。

国務省への嫌がらせのように日本全土に絨毯爆撃を実施し、あと1週間で日本が降伏するのを知りながら2発の原爆を使用した。


それだけではなく米軍は日本が降伏した後も絨毯爆撃を続け、10発の原子爆弾を使用するつもりでした。

これらの目的は戦争に勝つためではなく、国防省の官僚が出世するために行われました。

そしてダグラス・マッカーサーは1945年8月30日に、解放者のような振りをして降り立ち、GHQという軍事政権を樹立しました。


その軍事政権がおしつけたのが日本国憲法で、日本人が日本という国を憎むように、NHKや朝日新聞などのメディアを通じて、日本の戦争犯罪を流布しました。

これが戦後の始まりで、国防省や米軍人の「正しさ」や「手柄」を強調するために、多くの戦争犯罪が捏造され、無実の日本軍人が処刑されました。
http://www.thutmosev.com/archives/65832220.html

7. 中川隆[-4242] koaQ7Jey 2021年6月15日 07:34:34 : BsjI37zTPI : c2ZHUHFuMmFlQTY=[5] 報告
下関空襲の記憶を後世に伝える 爆撃のために緻密な計画練っていた米軍
2021年6月13日
https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/21157


 第二次大戦の敗戦から今年で76年目を迎える。下関も1945年6月29日と7月2日の二度にわたって米軍による空襲を受け、中心市街地は焼け野原となり、多数の市民が死傷、家族や家を失った。中国地方では原爆を投下された広島に次ぐ甚大な被害を受けたが、犠牲者数など被害の全容は今も明らかになっていない。当時を知る市民が減少するなか、下関空襲の経験を現在・未来を生きる世代が知り、語り伝えていくことを体験世代は切実に願っている。下関空襲から76年目の記念日を迎えるにあたり、本紙が聞きとりをしてきた下関空襲経験者の体験と、下関歴史探究倶楽部の大濱博之氏が30年にわたる調査をへて出版した『記録写真と資料による太平洋戦争の記録 下関空襲の全貌』をもとにふり返ってみたい(掲載している一部の写真や資料は大濱博之氏より提供)。


焼け野原となった入江・丸山町(下関市)

大濱博之氏

 敗戦の前年(1944年)、「確固不抜の要塞」とされたサイパンと、近接するグアム・テニアンが陥落。米軍は太平洋の制空権・制海権を掌握し、マリアナ基地から日本への本土空襲を本格化させた。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市合わせて六七の市街地を焼き払う無差別殺戮・焦土作戦をおこない、わずか半年のあいだに女性や子ども、高齢者など罪もない多くの国民が焼き殺され、家を焼かれた。全国の本土空襲による犠牲者数は25万人から100万人まで諸説あり、いまだに確定していない。下関空襲もその一環だったが、大濱博之氏が収集した米公文書館などに残された機密資料などから、米軍は関門地区を交通の要衝とみなして重視し、緻密な計画のもとに一般市民を狙って空襲を実行していたことが浮き彫りになっている。

6月29日と7月2日 焼夷弾で中心部焼払う

 1945年6月29日午前1時10分ごろ、B29の大編隊が壇ノ浦上空にあらわれ、阿弥陀寺町から赤間町までのあいだ、宮田、唐戸、貴船、園田、田中、東南部方面に焼夷弾攻撃を加え、旧市東部地区は焼け野原となった。

 その余煙がまだおさまらない7月2日午前零時10分ごろ、再び来襲したB29の編隊は、さらに広範囲に焼夷弾攻撃をおこなった。明け方の4時まで続いたこの空襲は3日前を上回る規模で、豊前田から西細江、観音崎の倉庫群と入江、丸山、東大坪、高尾、南部、西之端、田中、園田、宮田各町など、彦島・新地を除く旧市内中心部が焼き尽くされた。

 米軍はつねに四国から侵入し、豊後水道の上空をへて関門に襲来していたため、空襲警報はいつも「足摺岬上空から西北方に進んだ」と知らせ、警報発令後わずか15〜20分ほどで関門上空に飛来していたという。多くの市民が、最初にB29の編隊が頭上を通過したさい、ザーザーという夕立にそっくりな音が聞こえたと証言している。しかし、やがて空襲警報が解除され、ほっとした市民が防空壕から出て一息ついたとき、再び空襲警報が鳴ると同時にB29があらわれ、火の玉を投下し始めた。前段の夕立のような音はガソリンをまいた音だった。ガソリンをまかれた木造家屋はあっという間に燃え上がり、火の雨のなかを市民は逃げまどった。

 当時14歳で丸山町に住んでいた女性は、「最初のうちはみんなで火を消そうとしていたが、どんどん火が強くなり消火どころではなくなったので、母とともに王江小学校に逃げた。近所の高齢者は警防団の人たちが背負い、私は幼い子の手を引いて逃げ、小学校の一階に身を寄せ合って空襲が終わるのを待った」と話す。ケガした人たちの手当をしようにも赤チンしかなく、包帯もなかった。女性は家がすべて焼かれ、着の身着のまま疎開することになった。

 市内でもっとも被害の大きかった地域として語り継がれてきたのが幸町の清和園の惨劇だ。炎から逃れようと清和園の高台に逃げた約80人の老若男女が両側から炎に包まれ、高台から下りることもできずにそのまま蒸し焼きにされた。

 すぐ下に住んでいた女性は清和園で同じ組の7人の子どもや主人と甥っ子も犠牲になった。市内が燃え始めたため、女性も清和園を通って宮田町の方に抜けようとしたが、通り道の角の家が燃えていてひき返したため助かった。周囲から火が迫り、近所の人はみな空地の畑に集まったが、持ってきた行李の中の衣類に火がつき、すぐそばが燃え始めた。逃げる場所もなく、この世の見納めと思って法福寺が燃え上がるのを見ていたという。突風が起こり、竜巻のようになって炎がなめるように迫ってきた。髪の毛もなにもかもカラカラで、ぼーっとしてわけがわからなくなった。しばらくして火が収まり、ぼーっとしたまま助かったのだと思ったという。

 「清和園の上に兵隊さんがいて、気が狂ったように日本刀を持って火の中に飛びこんでいく姿を見た」と証言する体験者もいた。この地に市立幸町保育園が設立されたさいに犠牲者の遺骨が発掘され、保育園と地元有志が相談して犠牲者の慰霊のため「幸せ地蔵」を建立し、毎年地蔵祭りが催されている。

 この2回の空襲でB29が下関に投下した焼夷弾は420d(7月2日は360d)にのぼった。市街地108万9000平方bが焼け野原となり、上水道は給水戸数の約44%(8674戸)、ガスは需要戸数の約78%(3500戸)、電話は加入者数の約40%(1539口)、電車電線は2300bなど、すべてが破壊され、都市機能が停止する壊滅的な打撃を受けた。

 官庁の公式資料では、二度の空襲で市民324人が死亡、1100人が重軽傷を負い、焼け出された市民は4万6000人をこえたと記録されているが、被災者は「その程度のものではなかった」と共通して語っている。「戦災直前の人口21万2000人は、その直後15万5000人に激減してしまった」(野村忠司編『カンナ炎える夏』)ともいわれ、被害の全貌はいまだ明らかにされていない。

 市民が暮らす市街地が焼き尽くされる一方で、貴船にあった要塞司令部や三菱、神戸製鋼所などは無傷で残った。大濱博之氏の調査によると、米軍は事前に関門海峡や下関の偵察写真をもとに立体模型を作成するなどし、周到な計画のもとに下関に対する空襲を実施していた。爆撃地の指定カ所を指示した偵察写真には、市の中心部であった唐戸地区に黄色い円が描かれ、この一帯への焼夷弾投下を指示しており、海風の変化があることも赤線で指示している。白枠で囲まれているのは三菱などの工場や下関駅などで、「1846」の三菱、「772」の下関駅(写真にはないが「143」の神戸製鋼)は、爆撃してはならない箇所として指示していた。


関門海峡の偵察写真から爆撃地の指定箇所を示している。上部の円の中が唐戸地区で焼夷弾攻撃を指示。「1846」三菱、「772」下関駅などは攻撃しないよう指示していた。


下関の立体模型(彦島からみもすそ川付近まで)。関門トンネル下関側の出口の部分や彦島と下関駅を結ぶ橋(江の浦橋)の部分がきわめて精巧につくられている(米国立公文書館)


関門トンネルの探索命令書。トップシークレット扱いになっている(米国立公文書館)。B29が撮影した写真から関門トンネルの位置を推定していた


米軍が正確に把握していた関門トンネルの位置(米国立公文書館)

 このことは、多くの下関空襲経験者が「市街地は無辜(こ)の市民が焼夷弾の絨毯爆撃で多大な犠牲を受け、命だけでなく家財もすべて失ったが、三井、三菱の工場も長府の神戸製鋼所も要塞司令部も下関重砲連隊も、憲兵隊本部(旧市立中央図書館の辺り)も爆撃を受けず無傷で残った」「下関は要塞があるからやられたといわれたが不可解だった。アメリカは日本を占領しやすくするために、民衆を徹底してたたき、殺した」と指摘していることと一致している。

 大濱氏は「唐戸は焼き尽くされたが、英国領事館だけはピンポイントで残していて、いかに爆撃精度が高いかもわかる。三菱造船所や神戸製鋼所を残したのも、下関が大陸に近い重要な軍事的要衝として扱われ、朝鮮戦争などを見据えて重要な駅や工場は残している。アメリカはそこまで考えていた」と指摘している。戦後、下関に来た進駐軍が駐屯地としたのは、攻撃しなかった神戸製鋼所だった。

 また、米国立公文書館に残されていた資料のなかに、7月2日の空襲当日、まだ煙が上がっている市街地を上空から撮影した航空写真も残されていた。


空襲後の下関市街地。写真は明け方4時まで続いた7月2日の空襲後、被害調査で飛来した偵察機が撮影したもの。

関門海峡の機雷投下 日本全国の半数が集中

 市民が焼夷弾攻撃に虚を突かれた要因の一つに、同年3月以来、B29による関門海峡への機雷投下がくり返され、毎日のように空襲警報が発令されていたことがある。毎夜毎夜襲来するのに一向に地上攻撃をしなかったため、市民は緊張しつつも気を緩めていたところに焼夷弾攻撃がおこなわれたのだ。

 機雷によって日本を海上封鎖するアメリカの作戦は、「スターベーション」(飢餓作戦)と呼ばれた。米海軍提督ニミッツが米第二一爆撃軍団に提案したその狙いは@日本への原材料および食料の輸入の阻止、A日本軍隊への補給および移動の阻止、B日本内海の海運の崩壊の三点にあった。このなかで、もっとも重視されたのは交通の要衝だった関門海峡だ。米軍が全国に投下した約1万1000発(日本側調査)の機雷のうち、半数にのぼる約5000発が関門海峡に投下された。


関門海峡に投下された機雷

 関門地域では3月27日夜、99機のB29が来襲し、機雷1000個を投下して以後、敗戦前日の8月14日まで、ほぼ連日、昼夜の別なく機雷を投下した。このため、この期間内だけで下関での警戒警報発令は102回におよんだ。同海域では毎日のように航行する船舶が機雷に触れ、水柱を上げて沈没する光景が目撃され、船舶のマストが林立する「船の墓場」と化した。市民のなかでは、彦島には数多くの船員や兵隊などの遺体が流れ着いたこと、沈没した船から流れ出たコメやコーリャン、大豆、麦など、海水を含んだ食料をすくい上げて食べていたことが語られている。日明地点(北九州市)で病院船「ばいかる丸」が触雷して撃沈し、200体もの少年航空兵の無残な遺体が六連島に漂着し、荼毘(だび)にふされたことも語り伝えられている。

 この時期、すでに海軍はおもな戦艦を失った段階であり、大半の犠牲は関釜連絡船や戦時輸送を担う商船、貨物船、機帆船、漁船やはしけなど民間船に強いられた。だが、記録に残っているのは350隻ほど(うち5000〜1万d級の大型船が157隻)で、犠牲者の数や身元、埋葬先など多くは不明のままだ。

 この機雷投下についても、『下関空襲の全貌』に掲載している1945年3月27日の機雷投下作戦の響灘側の計画図(米国立公文書館)から、海中のどの位置にどれほどの機雷を投下するかを細かく計画していたことがわかる。

 米軍はこのほか、関門トンネルを「日本における最も重要な輸送目標」と位置づけ、綿密な調査をおこなっていた。機雷によって海上輸送が困難になるなか、九州と本州とのあいだの軍隊の移動や物資輸送の手段として関門トンネルの役割がますます重要になっていると分析。偵察写真に写った下関側の出口の位置や施設の配置などから関門トンネルの位置をほぼ正確に推定していた。1945年4月7日に発せられた「関門トンネルの構造を探索せよ」という命令書は「トップシークレット」の印鑑が押されている。写真だけではわからないコンクリート部分の厚さなどの情報を捕虜やスパイなどを通じて収集したのだろうという。同年7月31日に関門トンネルを爆撃する計画があったが、実際には投弾せず、関門トンネルも無被害で残った。

 下関は九州と本土、大陸を結ぶ交通の要衝であり、日清・日露戦争のときから「国防の拠点」として位置づけられ、西日本で最大の軍事的要塞地帯となってきた。貴船町(元済生会病院の辺り)に要塞司令部が置かれ、その周辺には下関重砲兵連隊、大畑練兵場、倉庫や火薬庫、兵舎など軍事施設が密集していたほか、各地に砲台を備えた要塞が置かれていた。

 しかし、日本の支配層が降伏するのは時間の問題だと知っているアメリカは、これら軍事施設や軍需工場は無被害のまま残し、一般市民を無差別に殺戮したのである。これは東京大空襲をはじめ全国の本土空襲で共通するものでもある。体験者が語る経験と米軍が残した資料は、戦争で犠牲になるのは一般市民・国民であることを明確に示している。


空襲で焼き払われた田中町界隈

空襲体験の記憶(2005年本紙聞き取りより)

新町3丁目 三好寿和子

 昭和20年6月と7月の下関空襲のときは28歳だった。新町3丁目、今の山口銀行新町支店の田中川を挟んだ斜め前あたりで、菓子の製造販売をしていた。大通りに面して店があり、裏側が工場になっていた。2回目の7月2日の焼夷弾爆撃で新町3丁目は、時計や宝石、蓄音機などを売っていた新田宝寿堂のところまで焼け野原となった。

 焼夷弾の炎が木造の壁にぺたっと付くと、あっという間に家が燃え上がる。うちは菓子の材料の砂糖や蜜があったのでよく燃えた。

 私は幼児だった長女を連れて必死に逃げた。子どもの夏布団を濡らし、火の粉をよけるためにかぶって走るのだが、これが乾くほどのすさまじい火力だった。うちの町内では、私が一番あとに逃げることになった。みんな下関重砲連隊(今の済生会病院跡、公共職業安定所、県総合庁舎のところ)の東駅側から椋野に逃げた。

 夜が明けて戻ってみると新町3丁目から田中町、西之端、唐戸にかけて焼け野原で、遠く離れた宇部が米軍の空襲で燃えるのが見えた。新町にあった記念病院(今のひろさき眼科医院)は、火傷をはじめ負傷者が次々に運び込まれ、病院に入りきれずにあふれる惨状だった。

 ところが、下関重砲連隊も、今の図書館のところにあった憲兵本部も燃えなかった。強制疎開させられていた田中川を挟んだ貴船側は燃えなかった。「下関は要塞があるから、やられた」といわれたが、不可解だった。あとでわかったが彦島の三井や三菱の工場も燃えなかった。アメリカはみんなわかっていた。

 主人に赤紙(召集令状)がきて、台湾に派遣されることとなり、部隊は鹿児島に行ったが、米軍の攻撃で鹿児島から出港できず、引き返してきて門司港から出港した。私は壇之浦にあった神社に何回も行って、台湾に無事に着くことを祈った。11隻の船が台湾に着いたことを聞き安心した。このように、もう日本の敗戦は決まっていた。なのに、なぜ民家の密集地にこれほどの焼夷弾爆撃をしなければならないのか。心の中で引っかかっていた。下関には重砲連隊があり、要塞もあったが、あっただけで役に立たなかった。アメリカは日本を占領しやすくするために、日本の民衆を徹底してたたき、殺した。

 主人は敗戦後すぐに引き揚げてきた。まだ焼け野原だった唐戸に店をつくった。戦争ほど人の命を犠牲にするものはない。命は、本当に必死で守らなければならない。またきな臭い世の中にしてきているが、戦争は二度と起こしてはならない。

入江町 78歳女性(2005年当時)

 7月2日の空襲を経験した。入江町で花火のようにきれいだと思いながら見ていると火が迫ってきていた。家を飛び出して逃げた。その後に焼夷弾のものすごく大きいのが家を直撃していて、もし家にいたら死んでいたと思う。

 江戸金(亀の甲せんべいのお店)のご主人さんが「家が焼ける」と叫んでいたのを覚えている。また真っ暗ななかを逃げる人の腕に焼夷弾が直撃し、腕がぽーんと飛んできて、まわりの人でその人を防空壕の中に担ぎこんだが、防空壕も煙が入ってきてなにもできないままその方は亡くなられた。日和山も火が下から上がってくるから逃げられない。みな海の方へ、水上署の方へ逃げた。でも水上署の人が軍刀をかざして「来るな!」と気が狂ったようになっていてそれからも逃げる状態だった。真っ暗な空に焼夷弾が落ちてくるので、早く夜が明けて飛行機がどこかへ行ってくれないかなと思い、やっとうっすらと夜が明けてくると飛行機の音も聞こえなくなり、やっと終わったとホッとした。

 下関商業にけが人がたくさん連れて行かれ、夜が明けると全部が焼け野原になっていた。そこらに死体が転がっているのも見た。家は焼夷弾が落ちて生活できないので、防空壕の中で生活した。その後も関門海峡に落とされた機雷で船が爆発し、「また海軍さんがあがったよ」と近くの人が見に行き、水ぶくれした遺体が海の上をぷかぷかと浮いているのを何度も見た。

 今警察署になっているあたりが山陽百貨店で下関でも一番にぎわいのある場所で、近くに映画館もあったが、空襲で焼け落ちた。

 焼夷弾の攻撃は夜中だから防空壕にいても窒息するし、外に逃げても直撃を受けるので大変だった。防空壕で窒息する人が多かったように思う。自分の家の床下に防空壕を掘っていても家が焼けてしまえば防空壕も意味がないので、一緒に焼け死ぬという状態だった。

 南部町の海の所には三井の倉庫があったが、そこも焼かれ、焼け跡に飴が溶け出して明くる日はものすごい数の人がとりに来ていた。焦げ臭くても、踏んでいる足下が溶けた飴なのだが、人が踏んだ飴でも汚いとか関係なしにいっぱいすくって持って帰る状態だった。食糧難でそんなことはいっておれなかったと思う。

 空襲でも戦争だから殺さないと殺されるという感じでやるのだろうが、やっぱり戦争はいけません。

金比羅町・消防署員 奥藤久馬

 私の勤務していた下関消防署が、下関警察署の指揮下に開設されたのが昭和18年1月15日。空襲が近づいてきたので防備をしないといけないということだった。当時、焼夷弾対策といって、竹の棒の先に縄をくくりつけた火消しの道具の作り方を、隣組に出向いて指導していたが、いまから考えるとなんの用もなさないものだった。

 下関は昭和20年の6月29日と7月2日の2回、空襲にあった。あの夜は、B29が超低空で飛んできて、焼夷弾をバラバラバラバラと落とし、上空で火がついて、それはまるで長い提灯行列のように見えた。見るとB29は、街中に焼夷弾を落とすばかりでなく、関門海峡の上空をグルグルと旋回して、関門海峡に機雷を落としていった。またB29は焼夷弾とともに50`爆弾も落とした(金比羅にあった自宅のそばの大きな農家の屋根を突き抜けて落ちたのでわかった)から、消火作業といっても命がけだった。当時下関消防署には消防車が3台と、うちトヨタのポンプ車と、あとはフォードとダッチの車で、消防士も20〜30人しかいなかった。

 私は昭和19年から彦島出張所に勤務していた。軍需工場である三菱重工を重点的に守れということだった。7月2日の空襲のときも三菱を守るために待機していたが、そこには焼夷弾はまったく落ちてこなかった。数十分待機するうち、見ると対岸の豊前田の盛り場あたりから火の手が上がり大火事になっている。「豊前田の谷を消火してくれ」と連絡が入り、本村から旧橋を渡った。

 しかし焼夷弾がどんどん落ちてくるし炎がものすごい。そのままでは前へ進めないので、上条から長崎町を通って回り込み、貯水槽にポンプ車をつけて消火作業を始めた。遊郭のイロハ楼から上は絶対に燃やすなということで必死だった。細江から豊前田はみな焼けたが、茶山の方への類焼はわれわれの力で止めた。しかし逃げ遅れた女郎さんたちが焼夷弾の直撃を受けて、道路上に死骸がゴロゴロと転がり、それはひどいものだった。

 また、南部町の倉庫地帯の道路の下に防空壕が掘ってあり、そこに逃げようとして、南部の住民が列をなして何十人とおりていたところを焼夷弾が直撃し、バタバタと亡くなったが、それをまのあたりにしてもどうしようもなかった。当時救急車はなく、ひどい火傷の人は多かったが、それを消防車で運んでいた。

 一番ひどかったのは幸町の清和園で、70人以上の人が亡くなった。紅石山に避難していて、火が上がってきて焼け死んだ人もいた。私は空襲のあとも一週間ぐらいは不眠不休で働いた。なかなか火が消えなかったからだ。

 思うに米軍の目的は、兵站や食糧輸送の重要拠点である関門海峡に機雷を落として船舶運航を阻止することが第一で、それと同時に民間に焼夷弾を落として焼き払うということではなかったか。金比羅や火の山にあった高射砲台や、砲兵隊のいた六連島にはまったく焼夷弾は落ちていない。高射砲が発射する弾(実際にはあたらなかったが)の流れはキャッチできるはずなのに、それを狙えばいいのにそうしなかった。米軍は事前にそうとうな偵察をして、用意周到に攻撃したのだと思う。それにしても民間があれほど焼き払われるとは夢にも思わなかった。

 当時は情報が入り乱れ、警察は警察で、軍は軍でそれぞれの持ち場で必死で、一元的な統率はとれていなかった。死者数など正確な数字はわからないのではないか。

 私が消防に勤めはじめたのは、世のため人のためになにかすることはないかと考えたからだ。しかしあれから60年たった日本を見ると、まるで植民地のようになり、道義は地に落ち、教師が体罰をしたといって親が学校を訴えるような時代になった。日本の将来のためにも、歴史を語り継ぐために頑張ってほしい。

長崎新町 上原浩

 下関空襲のあったころは、昭和18年に工業学校を卒業して長府の神戸製鋼所で働いていた。毎日配属将校がうろうろするなかで、戦闘機の翼や各種部品になるジュラルミンの板、パイプ、骨組みとなる材料を生産していた。軍需工場だったが、二度の空襲で一発の爆弾も焼夷弾も落とされることなく、まったく無傷だった。敗戦の日まで、毎日「増産、増産」の連続だった。ただ毎日のように警戒警報が鳴るたびに、学徒動員で来ていた野田女学校や阿部女学校の生徒を連れて、豊浦中学校の裏山に避難させていた。

 直接の空襲の体験といえば、たしか7月2日の空襲だったと思うが、当時東大坪住宅密集地に自宅があり、火の手が入江、丸山から迫ってきたので、延焼を食い止めるために街の角にあった商店を近所の男衆と一緒に打ち壊した記憶がある。とにかくすごい火勢だったので、必死になってやった。空襲になって焼夷弾が天井に止まると火災になるからといわれて、おふくろが顔を真っ黒にして、泣きながら天井をはがしたけれども、なんの役にも立たなかった。

 この朝、丸山を下って出勤したが、関門海峡沿いは一面焼け野原でまだ火がくすぶっていた。電車も止まっていたから、歩いて長府まで行った。入江から唐戸、壇之浦の先まで、焼け落ちた電線や瓦、焼け焦げた家屋の柱などをよけながら歩いた。空襲があっても飛行機の材料生産は止めなかった。

 空襲のあと、高台から見たり歩いてみてわかったことだが、山の口から東駅一帯にあった軍事施設や兵舎などはみなやられていなかった。要塞司令部、重砲兵連隊、今の中央病院裏の練兵場でよく通信訓練をやっていた部隊の兵営など、みんな無傷でもとのままだった。かなり正確に住宅街や商店街などが狙い撃ちされたわけだ。

 8月15日の天皇の放送は意外な気がした。なにせ歴代天皇の名前や教育勅語などを暗記させられ、神国日本は負けることはないと、徹底的にたたきこまれていたから…。それに「聖戦だ」といわれ、なんの疑いも持っていなかった。

 とにかく戦争をやってはならない。死んだり傷ついたりするのは民間人であって、えらいさんではない。首相の靖国参拝にしても、自分の意地をとおさないでもっと他人のことを考えなければならない。世界各国が平和になるようにしなければならない。私たちは食べ物もない、家もない焼け跡からここまで復興させてきた。もっと年寄りを尊敬して、いうことに耳を貸すようにしてほしい。年金は下げる、医療負担は増える、何一ついいことはない。最近人殺しがあたりまえのようになっているが、それもなんの苦労も知らずにアメリカの個人主義の影響を受け、いいたい放題、勝手気ままになっているからだと思う。

彦島南風泊 柴ア照夫

 昭和19(1944)年春、関中(現、山口県立下関西高校)を卒業し、江浦小学校の代用教員となった。昭和20年春先から下関は毎日のように空襲警報が鳴り、米軍が関門海峡に磁気機雷、音波機雷を投下した。

 南風泊の自宅から江浦小学校に通う途中、荒田の海岸で門司港を出港したばかりの病院船ばいかる丸が機雷に触れ、轟音とともに大きな水柱が上がり、水柱がおさまったときには、すでに船影はないというすさまじい戦場を目撃した。その後、荒田の砂浜に少年兵の多くの死体が流れ着いた。若い命が無残に奪われたことに近所の人々は悲しんでいたが、すぐに軍部が来て一般の者の目に触れないようにした。 

 今の荒田の岸壁は戦後埋め立てたもので、当時は砂浜で、私は江浦小学校の教え子たちと海水浴をした。この砂浜が少年たちの死体が浮く惨状となった。当時、小学校(国民学校といった)には軍隊が駐屯していた。江浦小学校には機雷処理班が駐屯していた。あれだけの機雷を投下されて、手も足も出なかった。敗戦はすでに決定的であった。

 その後、私は師範学校へ進んだ。私は、学徒動員で大竹海兵団に送られ、勤労奉仕で帝国海軍航空隊岩国基地(現、米海兵隊岩国基地)の整備をしていた。ここで、米軍艦載機グラマンの来襲を受けた。米軍は占領後、接収するつもりだったのだろう。爆弾は投下せず、グラマンの機銃掃射をやった。軍人は、機銃掃射の逃げ方を知っていたが、われわれ動員学徒は逃げまどうばかりで、多くの学友が犠牲となった。グラマンの攻撃はきわめて執拗だった。

 私は結核性の病気となり、広島に原爆を投下される前には下関に帰っていた。米軍が投下した機雷は陸上にも落ちた。海に落ちたら海軍、陸に落ちたら陸軍と、処理の担当が決まっていた。私が大竹海兵団に行っているあいだに南風泊と竹の子島を結ぶ昭和橋(昭和4年、架橋)の下に機雷が流れてきて橋桁にはさまった。海軍と陸軍で意見が異なったということだったが、爆破処理することとなり、私の家族を含め、近所のものはみな避難した。

 級友の話によると、この機雷爆破で、昭和橋はこっぱみじんとなり、近所の民家40〜50軒は海水をかぶり、ガラス窓はこなごなに飛び散り、傾いた家も少なくなかった。一発の機雷であるが、その破壊力はすさまじいものだった。昭和橋は戦後復旧したが老朽化し、いまの鉄筋コンクリートの橋は近年につくりかえた三代目だ。

 機雷は、磁気機雷だけでなく、音波機雷も多数投下したので、木造の機帆船もやられた。戦争末期は大型鉄船はごく少なくなり、大陸や台湾から食糧の穀物を運ぶのに木造機帆船が動員された。昼間走ると米軍機にやられるので、夜、灯を消して島づたいに走った。これが関門海峡の機雷で沈没させられた。

 食糧は配給で、「ほしがりません勝つまでは」と、みんなひもじい思いをした。だから、アワやコーリャンを積んだ船が浅いところに沈むと、みんなそれをとりに行って、水で洗ってむしろに広げて乾かし、分けあい、助けあって食べた。コメやモチゴメは軍が先に押さえ、これが敗戦前から敗戦直後に配給となり、臭いモチを食べたことを覚えている。

 戦後も食糧難はたいへんなもので、サツマイモしか食べられないというのが庶民の生活だった。私の家が畑で少し野菜をつくっていたので、友人が「イモしか食えない」とうちに来て、その他の野菜を一緒に食べた。

 政府はまた戦争をやろうとしている。絶対に阻止しなければならない。定率減税を廃止し、公的年金控除をはじめとする各種控除を縮小・廃止し、在日米軍再編につぎ込む。冗談ではない。有権者の四分の一しか支持がない者が、国会で大勢を占める。戦中・戦後と苦労したわれわれの世代もそうだが、アメリカいいなりで国民を犠牲にする政治を変えなければ、戦争で犠牲になった者が浮かばれない。

https://www.chosyu-journal.jp/heiwa/21157

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