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誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/716.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 11 月 13 日 22:07:01: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ベートーベン ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 作品31−3 _ 何故この曲だけこんなに人気が有るのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 10 月 19 日 08:01:40)

誰にも理解されなかった超天才ショスタコーヴィチの人格の歪とは



戦艦ポチョムキン - オデッサの階段(字幕) - YouTube



音楽
Shostakovich: Symphony No. 5 in D Minor, Op. 47
Leningrad Philharmonic & Yevgeny Mravinsky


Symphony No. 4 in C Minor, Op. 43: Symphony No. 4 in C Minor
Gunther Herbig, Saarbrucken Radio Symphony Orchestra


Symphony No. 11 in G Minor, Op. 103, "The Year 1905"
Leningrad Philharmonic, Evgeny Mravinsky




第1章『人々とうじ虫』
 交響曲第5番第1楽章の冒頭から提示部の終わりまで
 交響曲第11番第2楽章冒頭
 交響曲第10番第3楽章中間部


第2章『甲板上のドラマ』
 交響曲第10番第1楽章展開部のクライマックス
 交響曲第4番第1楽章 練習番号90あたりから
 交響曲第11番第1楽章


第3章『死者の呼びかけ』
 交響曲第11番第3楽章


第4章『オデッサの階段』
 交響曲第5番第2楽章
 交響曲第11番第2楽章
 交響曲第5番第3楽章中間部から
 交響曲第4番第1楽章練習番号29から


第5章『艦隊との遭遇』
 交響曲第4番第3楽章後半
 交響曲第8番第3楽章冒頭以降 
 交響曲第5番第4楽章練習番号121から終わりまで


http://blog.livedoor.jp/masatomusik/archives/50033333.html


 

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コメント
1. 中川隆[-14959] koaQ7Jey 2019年11月13日 22:09:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2051] 報告

戦艦ポチョムキン - ニコニコ動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9573925
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574091
https://www.nicovideo.jp/watch/sm9574208


ショスタコーヴィチがどんな時代に生きて、その音楽がどのように利用されたか。そんな背景を知っておくと、彼の音楽をもっと興味深く聴けるようになる…かもしれません。 

ソビエト連邦 セルゲイ・エイゼンシュテイン監督(神父役で出演)。1925年公開。オリジナルのネガは失われたが、1976年に各地のポジフィルムより映像を再構成し、ショスタコーヴィチの音楽を付けて復元された。
___


戦艦ポチョムキン
監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン
音楽:ドミトリー・ショスタコーヴィチ

今年2005年からちょうど100年前の1905年といえば、第1次ロシア革命が勃発した年です。

その1905年6月に、ロシアの黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン・タヴリチェスキー公爵号」で水兵達がストライキを起こしました。

この事件を題材として、モンタージュ技法の創始者で有名な映画監督、セルゲイ・エイゼンシュテインが1925年に発表したのがこの作品です。


発表された当時はサイレントムービーでした。つまり、音声によるセリフがなく、音楽もついていなかったのです。

のちに何人かの作曲家がこの映画に音楽をつけていますが、当時のソ連当局による共産主義のプロパガンダ(政治宣伝)に最も合致したものが、ドミトリー・ショスタコーヴィチが作曲した交響曲の断片をつぎはぎして作られた当版(1976年サウンド完全復元版)です。かつてドイツによる検閲でカットされた部分も復元されているそうです。

映画音楽について書いた某評論家の本の中に、『主として(ショスタコの)交響曲第5番が使用されているほか、第4、7、10、11番からも用いられています』とありました。

静かな図書館の中でこの記述を読んだ私は、「エッ、エ〜!?」と口に出してしまうところでした。

というのも、作品中でショス7なんぞ、どこにも使われていないんです!これは違います!誤植としか考えられません!

7番ではなくて、8番ですよ!‥‥‥いいですか?あとの曲は確かに合っていますよ。私もDVDを再度見直して確認しましたから。

ただし、映像の方につい夢中になって音楽を忘れていなければの話ですが。

まあ、それはともかく、この『戦艦ポチョムキン』、映像と音楽が見事にはまっているんですよ!

中でも特筆すべきは「オデッサの階段」で、逃げ惑う民衆に向かって軍隊が一斉射撃するシーンです。

もちろん、モンタージュの技法が駆使された映像もそれだけで十分すばらしいものなのですが、そこで使われている第11番の第2楽章の危機迫る迫力、まさに映像とピッタリなんです。

犠牲になった子供を抱きかかえた母親が「お願いです、撃つのをやめてください‥‥」と嘆き叫んだときに、それまでの音楽がやむ、この静寂に包まれるこのタイミングが恐ろしいほど一致しているんです。

だって、何を隠そう、この交響曲第11番は、副題に“1905年”とつけられているんですよ!

そしてさらに、演奏の質も最高なんですよ。私が見たDVDには、演奏者についてクレジットされていないようなので断定しかねますけど、ムラヴィンスキー指揮/レニングラードフィルの演奏でほぼ間違いないと思います(第5番4楽章の284小節目の特徴的な音型を聞けば、ムラヴィンスキーの演奏だと判断することができます)。

ただ、ムラヴィンスキーはショスタコの交響曲に関しては第5番より前の交響曲を録音していないので、第4番はコンドラシン指揮(1962年、モスクワフィル)の演奏を使っています。


おまけとして、ショスタコの交響曲第何番の第何楽章が『戦艦ポチョムキン』の、どのあたりで用いられているのかを、以下、順に並べておきます。


第1章『人々とうじ虫』
 交響曲第5番第1楽章の冒頭から提示部の終わりまで
 交響曲第11番第2楽章冒頭
 交響曲第10番第3楽章中間部

第2章『甲板上のドラマ』
 交響曲第10番第1楽章展開部のクライマックス
 交響曲第4番第1楽章 練習番号90あたりから
 交響曲第11番第1楽章

第3章『死者の呼びかけ』
 交響曲第11番第3楽章

第4章『オデッサの階段』
 交響曲第5番第2楽章
 交響曲第11番第2楽章
 交響曲第5番第3楽章中間部から
 交響曲第4番第1楽章練習番号29から

第5章『艦隊との遭遇』
 交響曲第4番第3楽章後半
 交響曲第8番第3楽章冒頭以降 
 交響曲第5番第4楽章練習番号121から終わりまで

と、だいたいこんな感じでした。
http://blog.livedoor.jp/masatomusik/archives/50033333.html

2. 中川隆[-14955] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:42:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2047] 報告

レーニン(1870年4月22日 – 1924年1月21日) の時代のロシア


ソ連末期のグラスノスチ以後に公開された文書により、革命直後から内戦の時期にかけてレーニンが政敵に対して使っていたテロルの実態が明らかになると、レーニンは単なるスターリンの先駆けにすぎないのではなくスターリンと同等の独裁者として評価されることが多くなった。

レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。


<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>


<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」


レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。


<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>


「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。


<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」

内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。


「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」


 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。


「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」


彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」


 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/756.html

3. 中川隆[-14954] koaQ7Jey 2019年11月14日 03:57:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2046] 報告

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作


1、武力行使によるレーニンの二段階クーデター説

 1、レーニンの二段階クーデター

 内戦の基本原因は、ソ連共産党公式の従来説=外国軍事干渉と白衛軍ではなく、1918年1月18日憲法制定議会武力解散と、5月13日食糧独裁令の2つである。ロイ・メドヴェージェフとニコラ・ヴェルトは、ソ連崩壊後の秘密資料やアルヒーフ(公文書)を発掘・研究して、それを論証した。ソ連崩壊後のデータによって、公認ロシア革命史観も大逆転し、崩壊した。それとともに、レーニンの大量殺人データも次々と発掘され、レーニン評価も、180度転換しつつある。その一つがクーデター説である。

 第1段階クーデター説。1917年11月7日は、プロレタリア社会主義大革命などではなく、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターだった。11月7日の直前までに、労兵ソヴィエト・社会主義諸勢力が、ペトログラード・クロンシュタット・モスクワなど大都市における実質的な力関係として、国家権力を掌握しつつあった。

 クーデターについて、広辞苑は「急激な非合法手段に訴えて政権を奪うこと。通常は支配層内部の政権移動をいい、革命と区別する」としている。十月にケレンスキー臨時政府を倒したのは、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエル、左翼エスエル等のソヴィエト内社会主義4政党とアナキストが中心勢力で、その性格は革命である。しかし、単独武装蜂起を敢行したボリシェヴィキによる一党政権が成立した。このレーニンの行為は、革命ではなく、事実上の権力を掌握しつつあった革命諸勢力の中でのクーデターそのものである。ただ、クーデター1カ月後の1917年12月から3カ月間だけ、左翼エスエルとの連立政権が続いた。

 第2段階クーデター説。1918年6月14日全ロシア中央執行委員会からのエスエル、メンシェヴィキ追放と、各級の全ソヴィエトからも追放する決定は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪と党独裁権力樹立クーデターだった。6月14日だけでなく、このクーデターは、4月29日全ロシア中央執行委員会における、穀物徴発による農民への内戦宣言、5月13日食糧独裁令と労働者食糧徴発隊組織と一体のものになっている。レーニンによる内戦仕掛け宣言とソヴィエト権力簒奪という第2段階クーデターこそ、その暴挙にたいして、1920夏から21年の全階層総反乱を引き起こした決定的な原因となった。レーニンによるソヴィエト民主主義破壊・ソヴィエト権力簒奪のクーデター過程については、下記ファイルで、7期に分けて検討した。

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』ソヴィエト権力簒奪の第2段階クーデター

 ここでいう二段階クーデターとは、11月7日実質的に、あるいは、6月14日完全に国家権力を掌握し、支配階級となったソヴィエト・社会主義諸勢力・政党内部において、レーニンが武力で、多くの社会主義党派ならなるソヴィエト権力を、ボリシェヴィキ党独裁政権に強行移動させたことを指す。現在のロシア歴史学会では、クーデター説が基本になっている。資本主義ヨーロッパでも、その見解が主流になってきつつある。日本においてだけは、この説がまだ市民権を得ていない。

 日本では、加藤哲郎一橋大学教授が「クー」としている。coup(クー)は coup D'etat(クーデター)と同じ意味である。中野徹三札幌学院大学教授は、『社会主義像の転回』で、レーニンのこの行為の詳細な研究をしているが、そこではクーデターという用語は使っていない。その問題に関して、中野教授から次の内容の手紙を頂いた。「宮地さんは、制憲議会解散をクーデターと規定するということであるが、私は、十月革命自身を一つの(独自の)クーデターとしてまずとらえております。私は、クーデターの語は用いていないが、十月武装蜂起と呼んで、十月革命の伝統的概念の変更を試みている。そして、十月武装蜂起そのもののうちに、制憲議会の受容そのものを不可能にする論理が内包されていたこと、そしてそれは内戦を不可避的によびおこし、他党派への弾圧、および、一党独裁とスターリン主義への道を大きく開いたことを論証したつもりである。」

 2、「平和=戦争終結」要求への犯罪的な裏切り

 レーニンは、権力奪取前、平和=戦争離脱・終結を力説した。それにより、ドイツとの戦争をまだ続けている臨時政府を批判するボリシェヴィキ支持率が急上昇した。1918年3月3日ブレスト講和条約によって、第一次世界大戦の東部戦線において、ロシアだけが単独離脱した。それは、ロシア国民に「平和」と息継ぎをもたらした。

 ところが、レーニンは、その2カ月後の5月13日に、布告「食糧人民委員部の非常大権について」、いわゆる「食糧独裁令」を発令した。レーニン・政治局の目的は、2つあった。第1は、食糧人民委員部を中央集権化し、食糧の武装徴発隊を十数万人も農村に派遣し、チェーカーと赤軍の暴力手段で、穀物・家畜を収奪して、それによって飢餓状態を克服することだった。第2は、農村において、「貧農委員会」を組織し、「富農」にたいする階級闘争を起すことだった。それは、ボリシェヴィキ側が、農村に内戦の火をつけることによって、80%・9000万農民を社会主義化するという、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開クーデター政策だった。

 レーニン・政治局にとって、プロレタリア独裁国家の権力基盤である軍隊と都市に食糧の供給を確保することが死活問題となっていた。彼らには2つの選択肢があった。1)、崩壊した経済の中で疑似・資本主義市場を再建するか、あるいは、2)、強制を用いるのかである。彼らはツアーリ体制打倒の闘争の中で、さらに前進する必要があるとの論拠から第2の方策を選んだ。この驚くべき無知、かつ犯罪的な思惑が、レーニン・政治局全員の社会主義構想であったことについては、ソ連崩壊後のロシア革命史研究のほとんどの文献が一致している。その証拠をいくつか挙げる。

 (1)、スヴェルドロフの発言。「一九一八年五月にはすでに、スヴェルドロフが、中央執行委員会において、次のように述べている。われわれは、村の問題にとり組まなければならない。農村に、敵対する二つの陣営を作り出し、貧農をクラークに向けて蜂起させる必要がある。もし村を二つの陣営に割り、都市におけると同様に、村に内戦の火をつけることができるならば、その時にはわれわれは、都市と同じ革命に、村において成功することになるであろう」(ダンコース『ソ連邦の歴史1』、新評論、1985年、P.154)。彼の発言趣旨は、個人的なものでなく、レーニンを含め政治局全員が一致していた共同意思だった。

 (2)、レーニンの発言。「一九一八年四月二十九日、全ロシア中央執行委員会の演説でレーニンは単刀直入に言った。我々プロレタリアが地主と資本家を打倒することが問題になった時、小地主と小有産階級はたしかに我々の側にいた。しかしいまや我々の道は違う。小地主は組織を恐れ、規律を恐れている。これら小地主、小有産階級に対する容赦のない、断固たる戦いの時がきたのだ。」(『共産主義黒書』P.74)。レーニンのいう「小地主」とは、土地革命をした80%・9000万土地持ち中農のことである。それは、権力奪取6カ月後に、レーニンが土地持ち中農9000万人に仕掛けた宣戦布告だった。

 (3)、食糧人民委員が同じ集会で言明。「わたしは断言する。ここで問題になっているのは戦争なのだ。我々が穀物を入手できるのは銃によるのみだ」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』P.74)

 (4)、トロツキーの発言。「我々の党は内戦のためにある。内戦とはパンのための戦いなのだ……内戦万歳!」(全ロシア中央執行委員会第4回議事録)(『黒書』P.74)。

 (5)、カール・ラデックが1921年に書いた文。「彼は一九一八年春のボリシェヴィキの政策、すなわちその後二年間にわたって行なわれた赤軍と白軍の戦いへとつながる軍事的対決の発展の数カ月前の政策について、次のように解明している。一九一八年初めの我々の義務は単純だった。我々に必要なことは農民に次の二つの基本的なことを理解させることだった。国家は自らの必要のために穀物の一部に対して権利があるということ、そしてその権利を行使するための武力を持っているということである!」(ラデック『ロシア革命の道』)(『黒書』P.74)

 (6)、食糧人民委員ツュルーパの5月9日の会議言明。「即座に武器を手にしてだけ穀物を受け取ることができる…。われわれは農村ブルジョアジーにたいする戦争を考えている」(梶川伸一『飢餓の革命』P.279)。ツュルーパの5月12日の官報談話。「われわれは農村に武装部隊を派遣するだろうし、それらは武器で富農に穀物を販売させるだろうし、これは、犠牲者と死にもの狂いの抵抗が出る戦争である」(梶川伸一『飢餓の革命』P.277)。

    梶川伸一『飢餓の革命 ロシア十月革命と農民』1918年食糧独裁令

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』農民反乱の分析

 レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、食糧人民委員ツュルーパら政治局全員が、「村に内戦の火をつける」ための食糧独裁令を仕掛けたのは、どういう性質を持つのか。それは、5月時点のボリシェヴィキ党員35万人という「市場経済廃絶・貨幣経済廃絶」軍と、9000万農民・全他党派の「市場経済回復・実現」軍との内戦だった。市場経済廃絶軍は、党員だけでなく、チェーカー28万人、赤軍550万(1920年)という国家暴力装置、300万プロレタリアートを擁し、赤色テロルを行いつつ、余剰穀物収奪の戦争を先に展開した。市場経済回復・実現軍は、土地革命を自力で成し遂げた80%・9000万農民とともに、エスエル・左翼エスエル・メンシェヴィキ・アナキストという全他党派が参加した。それは、労働者と農民との内戦、都市と農村との内戦の性格も帯びた。それは、他党派にとって、レーニンの第4回目クーデターとなった。

 これは、5連続クーデター説に基づく歴史解釈である。第2回クーデターは、カデット機関紙、ブルジョア新聞の閉鎖命令、第3回は、ボリシェヴィキが敗北した憲法制定議会の武力解散をしたクーデターである。第5回クーデターは、下記にのべる6月14日全ロシア中央執行委員会と全ソヴィエトからのエスエル、メンシェヴィキ追放決定である。レーニンによるソヴィエト権力簒奪・党独裁の5連続クーデターにたいして、労働者・農民・兵士と全他党派が猛反対し、総決起した。

 3、内戦発生時期と原因説の大逆転

 しかも、ここには、内戦発生時期と原因に関する重大な問題がある。メドヴェージェフは、ソ連崩壊後の資料に基づいて、内戦の基本原因の一つを、ボリシェヴィキの食糧独裁令にあったとの新説を発表した。いわゆる内戦の勃発期日は、5月25日のチェコ軍団の反乱開始日である。それを導火線として、コルチャークなど白衛軍との内戦、外国干渉軍との戦争が広がった。

 ところが、上記6人の農民との内戦開始演説・発言時期は、4月29日から数日間の第4回全ロシア中央執行委員会、および、5月13日「食糧独裁令」発令前である。それは、チェコ軍団・白衛軍との内戦勃発の26日も前だった。ニコラ・ヴェルトは、『共産主義黒書』において、4月29日議事録を発掘し、メドヴェージェフの新説を追認・証明した。梶川伸一は、膨大なアルヒーフ(公文書)によって論証した。内戦を誰が先に仕掛けたのかは、明白な歴史的事実となった。それこそ、レーニンの、自国民にたいする犯罪的な戦争再開政策となった。レーニン、スヴェルドロフ、トロツキー、食糧人民委員ツュルーパこそが、5月13日、食糧独裁令発令によって、80%・9000万農民にたいする穀物・家畜収奪の内戦を開始したのである。食糧独裁令内容とその後の詳細は、農民ファイルで書いた。

    ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』食糧独裁の誤り

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

 こうして、レーニンは、「すべての権力をソヴィエトへ」「土地・平和・パン」という4つの公約を実行せず、それどころか、公約とは逆の路線・政策を選択したことによって、労兵農ソヴィエトや全国民の期待を裏切った。ボリシェヴィキ支持率が急落したのは、国民の期待が、政権発足後半年間で、幻滅と怒りに転化したからである。

 食糧独裁令とソヴィエト権力簒奪・党独裁権力樹立クーデターは、ボリシェヴィキ支持率を一気に下落させた。しかし、白衛軍がいた。白衛軍とは、外国軍事援助に全面依存した旧帝政復活目標の反革命勢力である。彼らは、農民の土地革命も全面否定していた。土地を手に入れた農民や、社会主義を望んだ労働者・兵士たちは、文字通りの反革命軍に敵対し、たたかった。1918年5月25日チェコ軍団反乱から1920年夏までの白衛軍との戦闘中は、複雑な二重の内戦となった。(1)レーニンが4月29日全ロシア中央執行委員会で宣言し、白衛軍との内戦よりも26日間も前に仕掛けた80%・9000万農民にたいする食糧独裁令強行の内戦と、(2)チェコ軍団、白衛軍との内戦である。

 4、クーデター政権の根本的に誤った路線への全階層総決起・反乱

 白衛軍が鎮圧され、それとの内戦が基本的に終結した1920年夏以後、労働者・農民・兵士と全他党派は、共産党独裁・ソヴィエト権力簒奪クーデター政権にたいして、経済的要求とともに、自由で平等な新選挙を求める要請行動に総決起した。

 食糧独裁令とは、マルクスの根本的に誤った机上の空論である市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論をロシアに具体化した路線だった。1917年5月以降の土地革命の嵐によって、農村共同体内部で土地分配を平等にした農村は、地主・富農(クラーク)・貧農はなくなり、ソ連全農村の構成がほとんど中農に変化していた。1918年6月11日貧農委員会の組織法令は、80%・9000万農民の心理と、土地革命後の農村実態にまったく無知なレーニンらの認識からの空論で、その方針は、半年ももたず、瓦解した。今度は、さらなる無知から、農民が生産した穀物・家畜を「軍事・割当徴発」した。それは、チェーカー、赤軍、共産党員労働者を使った、暴力による穀物・家畜収奪路線だった。それは、全土で土地革命農民の死に物狂いの抵抗・反乱を引き起こしただけでなく、ロシアの農業生産をも破壊した。

 その誤った農民の生産物収奪作戦にたいして、80%・9000万農民全員が抵抗し、そのため、都市部における飢餓がますます深刻化した。全土で、労働者が飢餓解決の経済要求で立ち上がった。その要求は、直ちに、自由で平等なソヴィエト新選挙要求やレーニンによって破壊されたソヴィエト民主主義復活などの政治的要求にエスカレートし、経済要求と結合した。

 この歴史的経過は、梶川伸一『飢餓の革命』『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』の2著書・1210頁が、ソ連崩壊後の膨大なアルヒーフ(公文書)を発掘して、証明した。その結論として、彼は、「労農同盟が成立している」というのは、レーニンのウソであるとし、公認ロシア革命史の根本的見直しを提起している。ただ、レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターから食糧独裁令発令までの6カ月間、80%・9000万農民は、土地革命を事後承認したレーニンの政策を支持していた。その間は、労働者と農民との政治的軍事的同盟としての労農同盟レベルではないが、農民によるボリシェヴィキ政権支持の平和的関係があった。それを意図的に公然と破壊し、農民にたいする食糧独裁令の内戦を仕掛けたのは、レーニンの側だった。

 レーニンは、それらの経済・政治要求と平和的要請行動にたいして、平和的交渉や妥協を全面拒絶した。党独裁政権とその路線に抵抗、批判、反乱する階層にたいし、彼らを白衛軍と同列において、一律に、反革命・人民の敵・富農(クラーク)レッテルを貼りつけた。白衛軍は、まさに反革命勢力である。しかし、労働者・農民・兵士たちや社会主義他党派は、ソヴィエト内の革命勢力であり、ソヴィエトにおける飢餓解決と民主主義復活を要求している国民で、反革命などではない。レーニンは、反革命レッテルを恣意的に拡大し、大量殺人をするという犯罪的誤りを強行した。

 5、レーニンの最高権力者期間の算定問題

 ただ、このファイル・テーマとの関係で、レーニンの最高権力者期間の算定問題がある。彼の脳卒中発作は3回ある。

 第1回発作は、1922年5月26日である。回復すると、彼は、下記の「反ソヴィエト」知識人数万人の追放・強制収容所送りを「作戦」と名付け、直接指揮した。

 第2回発作は、1922年12月16日である。その発作によって、最高権力者としての活動という面では、再起不能となった。そして、党大会への手紙といくつかの短文を口述筆記で残した。その内容レベルの評価はいろいろある。しかし、それらは、はっきりいって、党大会や共産党運営にたいして、何の効果も挙げ得なかった。よって、私(宮地)は、彼の最高権力者期間を、第2回発作までの5年2カ月間と算定する。

 1917年11月7日は、レーニンの第1段階クーデターだった。労働者・農民・兵士ソヴィエトは、レーニンが4つの公約を全面的に実行するものと信じ、6カ月間、クーデター政権を支持し、平和的関係を続けた。しかし、(1)1918年4月29日全ロシア中央執行委員会による農民への内戦開始宣言、(2)5月13日「食糧独裁令」発令と労働者穀物徴発隊・貧農委員会による内戦の具体的戦術開始、(3)6月14日全ロシア中央執行委員会、および、すべての各級ソヴィエトからの社会主義他党派エスエル、メンシェヴィキ追放決定という一連の暴挙は、レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターだった。それ以降、労働者・農民・兵士とクーデター政権は、決定的な対立関係に突入した。レーニンが自国民大量殺人をした最高権力者期間は、1918年5月13日から、1922年12月16日第2回発作までの4年7カ月間となる。

 その間、彼は、下記9つの(表)にあるように、ソヴィエト民主主義を破壊し、ソヴィエト権力簒奪をし、党独裁クーデター権力に執着し、一貫して、ロシア革命勢力内部におけるボリシェヴィキ批判・抵抗・反乱者にたいして、「反革命」という詭弁レッテルを貼りつけ、大量殺人を続けた。クーデターによる権力奪取の6カ月後、ボリシェヴィキは、県庁所在地ソヴィエト19/30で惨敗した。政権崩壊危機に直面したレーニンは、一挙に変質し、絶対的権力者としての絶対的腐敗が始まった。彼は、権力のための権力者に転落した。最高権力者として生き残るには、あらゆる詭弁とウソを使い、共産党秘密政治警察チェーカー28万人によって、大量逮捕・大量殺人を続けるしかなかった。

 1918年4、5月から22年にかけて、レーニンという人物がしたことと、その人間性をどう考えたらいいのか。ボリシェヴィキ党員作家ザミャーチンは、ゴーリキーとともに、ソ連文壇の中心で活動していた。その中で、彼は、モスクワ・ペトログラード労働者の山猫ストライキ、クロンシュタット総決起とレーニンによる皆殺し対応、共産党秘密政治警察チェーカーの手口を全体験した。同時期・同現場で、その直接体験をSF小説化した作家は、ザミャーチンしかいない。ソ連崩壊後、彼のレーニン認識を再確認するとどうなるのか。

 レーニンは、自ら、「鉄の手で社会主義を建設しよう」というスローガンを創って、キャンペーンを展開した。上記全体の誤りと、全分野における民主主義抑圧者に変質した、最高権力者レーニンの一側面は、歴史上でひた隠しにされ、偉大なマルクス主義者レーニンの虚像が作られていった。レーニンは、巨大な鉄の手をセットした絶対的権力者として、反民主主義・赤色テロル型一党独裁システム維持・強化に固執する中で、絶対的に腐敗した。ザミャーチンは、「自分自身を押しつぶし、膝を折って」という言葉で、レーニンの腐敗状態を文学的に表現した。彼は、「その方の巨大な鉄の手」と書いて、レーニンのスローガンを否定しただけでなく、レーニンを殺人者と規定した。

説明: 説明: http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/orwell.files/image004.jpg

『われら』 「恩人は、ソクラテスのように禿げた頭をもった男で、その

禿げた所に小さな汗のしずくがあった」「その方の巨大な鉄の手は、

自分自身を押しつぶし、膝を折ってしまっていた」「明日、彼ら(反逆

者)は、みな恩人の処刑機械に至る階段を昇るであろう」(299頁)

    『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』クロンシュタット反乱

 彼は、一度も、自分の労働で収入を得たことがなかった。スイス長期亡命者だった。行政経験は皆無だった。ドイツ政府・軍部の政治的軍事的思惑と合致したお陰で、ドイツ軍封印列車に乗って、1917年4月フィンランド駅に到着した。亡命からの帰国後、わずか7カ月間で、ボリシェヴィキの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターを強硬に主張し、ロシアの絶対的一党独裁権力を手に入れた。ボリシェヴィキ批判・抵抗・反乱者にたいする詭弁、ウソ、殺人指令文書執筆、殺人督促電報などの行政業務は、その経歴のレーニンの精神を蝕んだ。ヴォルコゴーノフは、『レーニンの秘密』で、彼の精神的そううつ病症状を詳述している。山内昌之は、その解説において、革命家と政治家との矛盾に病んだレーニンの人間性をさらに分析している。

    山内昌之『革命家と政治家との間』−レーニンの死によせて−

 第3回発作は、1923年3月10日だった。以後、口述筆記も不可能になった。死去は1924年1月21日、54歳だった。


2、レーニンの大量殺人総合データ (表1〜9)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm


 3、大量殺人数推計の根拠と殺人指令文書27通

 これは、(表9)の推計に関する根拠である。殺人数については、白衛軍との内戦犠牲者700万人と、レーニンによる大量殺人最低数の数十万人とを区別することが難しい。これらの数字は、諸データや文献を検討し、白衛軍との内戦犠牲者を除いた数字である。殺人根拠の決定的データとして、各階層にたいするレーニンらの大量殺人・追放指令文書27通を載せる。それによって、ファイル全体が長くなる。しかし、その文書を読まなければ、なかなかレーニンの数十万人殺人犯罪事実を理解し、納得することができない。ただ、ソ連崩壊後に発掘され公表された文書だけである。証拠隠滅・焼却文書や現在も隠蔽中の文書は、かなりあると推定される。殺人・追放指令文書は、通し番号を付ける。もちろん、レーニンは、最高権力者・人民委員会議議長として、これらの文書すべてに直接関与している。

 当初の文書は19通だった。その後、8通を加えた。追加した〔殺人指令文書〕No.は、農民7、コサック10、労働者11・12、チェコ軍団14、知識人18・19、他党派24である。


(表10) 殺人指令文書27通

 〔殺人指令文書〕27通は、それぞれ〔小目次〕の文中に載せた。一方で、その通し番号を(表)にしておく。これらの指令を発したレーニンという大量殺人革命家の人間性をどう考えたらいいのか。未発掘の殺人指令文書や殺人指令電報などが、まだ数百通あると言われている。それらを含めれば、『レーニン全集』の裏側として、『レーニン殺人指令選集』が編纂できるほどである。


知識人の数万人は、追放と強制収容所送りである。他党派の百数十万人は、労働者・農民と重複する人数を含む。ここには、1921・22年の餓死500万人、内ウクライナの餓死100万人を入れていない。それが、レーニンによる政策的餓死殺人をどれだけ含むのかについては、関係資料がまだ未発掘である。ランメルは政策的餓死殺人を250万人としている。レーニン、トロツキー、スヴェルドロフ、トハチェフスキーらが、コサックやタンボフ反乱農民にたいして、すべての穀物・家畜を没収して、大規模な餓死殺人政策を行ったことは、ソ連崩壊後のデータによって、証明されている。

 単純総計をすれば、レーニンの大量殺人数は、百数十万人になる。ただ、発掘されたデータから見て、最低数十万人を殺害したことは間違いない。しかも、殺人指令レッテルのすべては、レーニンが意図的にでっち上げた詭弁とウソだったことが、ソ連崩壊後に判明した。レーニンという人間が、マルクス主義革命家であったことは事実である。しかし、27通の〔殺人指令文書〕を克明に検証すれば、レーニンという人物は、「反民主主義者、反人道主義者」という大量殺人型革命家だったことが、浮き彫りになる。この規定は、「反ソヴィエト」知識人として追放された哲学者ベルジャーエフがしたものである。

 1、反乱農民の数十万人殺害

 タンボフ、西シベリア、マフノの3大反乱だけでも、反乱農民の部隊は14万人いる。とくに内戦が基本的に終了した1920年夏から1921年春にかけて、「軍事=割当徴発」制の穀物・家畜の収奪による餓死の恐怖とも合わさって、反乱が激化し、36県が戦争状態になった。118件または数百件を合計すれば、反乱参加者は、百数十万人から数百万人になる。レーニンは、その内、数十万人を裁判なし射殺、革命裁判所による48時間以内の死刑、毒ガス使用による殺戮、人質、強制収容所送りなどの手法によって、農民を殺した。

 反乱農民数十万人殺害の別の根拠を挙げる。メドヴェージェフが公表したデータによるボリシェヴィキ側の死者からの逆算である。農民反乱の武力鎮圧過程において、食糧人民委員部10万人以上が死亡し、赤軍兵士171185人が死亡した。合わせて27万人以上が死んだ。正規の武装をした共産党独裁権力側がそれだけ死んだのである。反乱農民側の殺害・人質・強制収容所送りの人数がそれより少ないことはありえない。この逆算式から見ても、レーニンが、9000万農民のうちで、政権側の死者27万人をはるかに超える数十万人を殺害したことは明白である。これらの細目データは『農民』ファイルで書いた。

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

 〔殺人指令文書1〕、1918年8月11日、「暴動」農民の絞首刑指令

 これは、岩上安見『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年)のデータである。彼の直接取材にたいして、ヴォルコゴーノフが見せた「レーニン秘密資料」である。それは、レーニンの手書きの手紙だった。同一指令内容が、梶川『飢餓の革命』(P.547)にもある。ただ、岩上著の日付は「8月18日」になっているが、梶川著の日付にした。梶川氏から「この日付は、モスクワで1999年に発行された『レーニン・知られざる文書』でも確認できます」というメールをいただいた。

 「ロシア連邦ソヴィエト共和国 人民委員評議会議長 モスクワ・クレムリン

 一九一八年八月十一日

 ペンザ市ヘ クラエフ同志、ボシ同志、ミンキン同志他のペンザ市の共産党員達へ

 同志諸君!

 五つの郷での富農(クラーク)の暴動に対し仮借なき鎮圧を加えなければならない。富農達との最後の決定的戦闘に臨むことは、全革命の利益にかなっている。あなた方は模範を示さなければならない。

 一、正真正銘の富農、金持ち、吸血鬼を最低百人は絞首刑にすること(市民がみんな見られるように、是非とも絞首刑にしなくてはならない)。

 二、彼らの名前をすべて発表すること。

 三、彼らの所有している小麦をすべて奪うこと。

 昨日の電報通りに人質を決める。そして吸血鬼の富農達を絞め殺し、その姿を百マイル四方の市民すべてに見せつけて、彼らが恐怖におののき、叫び声をあげるようにしなければならない。(私の)電報の受取とその内容の実行について、電報を打ちなさい。

          あなたのレーニンより

 追伸 できるだけ、不撓不屈の精神の人を探しなさい。」(P.307)

 〔殺人指令文書2〕、1918年8月20日、「富農の人質」指令

 2つのデータを載せる。まず、梶川『飢餓の革命』の資料である。

 「戦時共産主義期に穀物や革命税の不履行に対して頻繁に人質(заложник)が利用された。八月にレーニンはツュルーパに、サラトフには穀物があるのに、搬送することができないのは最低の不面目であるとし、各郷ですべての穀物余剰の集荷に命を張る、富農から二五〜三〇人の人質を提案した(ГАР.Ф.1235, оп.93.170, л.48об.−49)。それに続く覚え書きで、「「人質」を取ることではなく、郷毎に指名するよう提案している。指名の目的は、彼らがコントリビューツィアに責任を持つように、富農は穀物余剰の速やかな収集と集荷に命を張ることである。そのような指令(「人質」を指名すること)は、a、貧農委、б、すべての食糧部隊に出されている」(Ленинский сборник.xviii.c.145−146.)と述べている。」(P.548)

 この経過について、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』が、さらに詳しく書いている。

 「テロルは反体制的行為で有罪となった者にたいしてのみ適用されたという反論があるかもしれない。だが、そうではなかった。赤色テロルについての命令が立法化される一カ月前、レーニンは食糧生産人民委員のA・D・ツュルーパに、『すべての穀物生産地城で、余剰物資の徴集と積み出しに生命賭けで抵抗する富農から二五〜三〇人の人質をとるべきである』という命令を出すように勧告している。ツュルーパはこの措置のきびしさに仰天し、人質問題については返事をしなかった。

 すると、次の人民委員会議でレーニンは、彼がなぜ人質問題について返事をしなかったのか答えよと詰め寄った。ツュルーパは、人質をとるという発想そのものがあまりにも奇想天外だったため、どういう段取りでそれを行ったらいいかわからなかったのだと弁明した。これはなかなか抜け目のない答えだった。レーニンはさらにもう一通の覚え書を送って、自分の意図を明確にした。『私は人質を実際にとれといっているのではない。各地区で人質に相当する人間を指名してはどうかと提案しているのである。そうした人たちを指名する目的は、彼らが豊かであるなら、政府に貢献する義務があるのだから、余剰物資の即時徴集と積み出しに協力しなければ生命はないものと思わせるためである』。

 そのような措置は差しせまった状況があったからで、特殊なケースにのみ適用されたのだと考えるのはまちがっている。これは内戦中のレーニンの典型的な作戦で、大々的な規模で実施された。一九一八年八月二十日、彼は保健人民委員で、リヴヌイの内戦のリーダーでもあったニコライ・セマシュコにこう書いている。『この地域での富農(クラーク)と自衛軍の積極的弾圧はよくやった。鉄は熱いうちに打たねばならない。一分もむだにするな。この地区の貧乏人を組織し、反抗的な富農たちのすべての穀物、私有財産を没収せよ。富農の首謀者を絞首刑にせよ。わが部隊の信頼できるリーダーのもとに貧乏人を動員して武装させ、金持ちの中から人質をとり、これを軟禁せよ』。」(P.376)

 〔殺人指令文書3〕、1918年8月29日、「クラーク鎮圧・没収措置の報告」督促電報

 梶川『飢餓の革命』に、この「電報」が載っている。

 「手本を示さないペンザ県執行委にレーニンは八月二九日に繰り返し打電した。五郷のクラークの容赦のない鎮圧と穀物の没収の、どのような、深刻な措置がようやく貴殿によって採られたかについて貴殿から何もはっきりしないことにわたしはきわめて怒っている。貴殿の職務怠慢は犯罪的である。一つの郷に全力を注ぎ、そこですべての穀物余剰を一掃する必要がある(Ленинский сборник.xviii.c.209.)」(P.547)

 〔殺人指令文書4〕、1920年10月19日、「タンボフ県の農民反乱への鎮圧」指令

 1920年8月、内戦が基本的に終結すると同時に、タンボフ県の農民反乱始まった。反乱農民は、最大時5万人になり、300組織に広がった。梶川伸一は、『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』において、ソ連崩壊後に公開された膨大なアルヒーフ(公文書)を使って、反乱原因・経過を詳細に分析している。そこでのレーニンの指令を引用する。

 「九月二四日にレーニン宛てに、県執行委議長代理から次の文書が送られた。わが状態は悪化している(わが二個中隊が武装解除され、そのようにして四〇〇丁のライフル銃と四丁の機関銃が奪われ、全体として敵対者は強固)。[……]貴殿に[穀物を]何も出せなかった。集荷は一日必要な二〇〜二二万プードでなく二万〜二万二〇〇〇〜二万五〇〇〇しかない。この恐ろしい現実を知悉したレーニンは、直ちにチェーカー議長ジェルジーンスキィに「超精力的措置」を至急採るよう命じたが、事態はいっこうに改善されなかった。レーニンの関心事は、まず労働者への穀物の確保であった。タムボフの事件もこのことに集約された。

 二七日にブリュハーノフ宛てに次のように書き送った。『タムボフ県について。注意を払うように。一一〇〇万プードの割当徴発は確実だろうか』。これとの関連でさらに一〇月一九日に、国内保安部隊司令とジェルジーンスキィに、反乱は強まり、わが軍は弱いとの県執行委議長シリーフチェルの報告を伝え、反乱撲滅のための必要な措置を採るよう指示した。これとほぼ同時にレーニンはジェルジーンスキィには、叛徒の猖獗を醜悪の極みとして、タムボフ県のぼんくらなチェーカー員と執行委員を裁判にかけ、国内保安部隊司令を厳しく叱責し、厳格な反乱の鎮圧を命じたのは、依然として根絶されない反革命的行為への彼の焦燥感の表現であった。二月になると抑圧的措置が強化され、匪賊的村が焼き討ちされた。」(P.604)

 〔殺人指令文書5〕、1921年6月11日、タンボフ農民への「裁判なし射殺」指令

 以下は、『レーニンの秘密・下』にある「アントーノフの反乱」鎮圧経過である。

 「一九二一年五月、赤軍司令官トゥハチェフスキー元帥には、すぐに出動可能な常備軍五万人、装甲列車三両、装甲部隊三個、機関銃をもった機動隊数隊、野戦砲約七〇門、機関銃数百丁、航空部隊一個があった。抵抗があった場合には、軍隊は村を丸ごと焼き払い、農民の小屋に容赦なく発砲し、捕虜はとらないことになっていた。反乱の指導者アントーノフは、一度は敗北したにもかかわらず、もう一度抵抗を試みようとしており、ボリシェヴィキを数カ月にわたって忙しくさせた。だが、一九二二年五月、彼はチェーカーに密告され、一カ月後、彼の兄弟とともに一軒の小屋に閉じ込められた。彼らは一時間あまりそこにこもっていたが、軍隊が小屋に火を放ったため、森へ脱出し、走っている最中に射殺された。引きつづいて軍隊が、アントーノフを助けたと見られる大勢の人たちを、報復措置として処刑した。」(P.160)

 その鎮圧前に、レーニンは、この農民反乱にたいして、大量の人質政策をとり、モスクワに送らせた。そのデータも、『レーニンの秘密・下』にある。

 「一九二一年九月、モスクワ赤十字委員会会長のヴェーラ・フィグネルは、共和国革命法廷宛てにこう書いている。「現在、モスクワの拘置所には、タンボフ県からの大勢の農民が入れられています。アントーノフの一団が一掃される前に、身内のために人質になっていた人たちです。ノヴォ・ペスコフ収容所には五六人、セミョーノフには一三人、コジュホフには二九五人、この中には六十歳以上の男性が二九人、十七歳以下の若い人が一五八人、十歳以下が四七人、一歳未満が五人います。彼らは全員、ぼろをまとい、身体の半分は裸という惨めな状態でモスクワに到着しました。よほど空腹なのか、幼い子供たちはごみの山をあさって食物を探しています……政治犯救済赤十字は、こうした人質の救済と、彼らの故郷の村への送還を請願いたします。」

 政権側はそのような嘆願にたいしてほとんど耳を貸さなかった。」(P.158)

 6月11日、レーニンは次のような命令を、政治局の承認をえて、発令した。これは、『レーニンの秘密・下』の「レーニン秘密・未公開資料」によるものである。その文をそのまま引用する。

 「反乱の指導者アントーノフの率いる[タンボフ県の]一団は、わが軍の果断な戦闘行為によって撃破され、ちりぢりばらばらにされた上、あちこちで少しずつ逮捕されたりしている。エスエル・ゲリラのみなもとを徹底的に根絶するために……全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会は次のように命令する。(1)自分の名前をいうのを拒否した市民は裁判にかけずにその場で射殺すること。(2)人質をとった場合は処罰すると公示し、武器を手渡さなかった場合は射殺すること。(3)武器を隠しもっていることが発見された時、一家の最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(4)ゲリラをかくまった家族は逮捕して他県へ追放し、所有物は没収の上、一家の最年長の働き手を裁判なしに射殺すること。(5)ゲリラの家族や財産をかくまった家では、最年長の働き手を裁判なしにその場で射殺すること。(6)ゲリラの家族が逃亡している場合には、その所有物はソヴィエト政権に忠実な農民たちに分配し、放棄された家屋は焼き払うか取り壊すこと。(7)この命令は厳重に、容赦なく実行すること。この命令は村の集会で読み上げること。

 政治局は、あちこちの県で大虐殺が行なわれるのを認めていた。」(P.158)

 〔殺人指令文書6〕、1921年6月12日、毒ガス使用によるタンボフ農民の絶滅命令

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次のように認めている。

 「ボリシェヴィキが再びロシアを奪還した一九二一年春は、どことなく一九一八年春と似ている。だが今度は国が土台まで破壊されていた。工場は操業を停止していた。工業労働者の大部分が村へ去っていった。農業生産は半減した。だが農民は、ただぶつぶつ不平を言っていただけではなかった。再び武器を取って立ち上がり始めた。ロシア中央部ではエスエル党員アレクサンドル・アントーノフに率いられたタンボフの反乱、すなわちアントーノフの反乱が荒れ狂った。この時、内戦期において初めて軍は兵器庫から化学兵器を取り出し、使用した。」(P.125)

 ヴォルコゴーノフは、この詳細を『レーニンの秘密・下』で公表した。

 「一九二一年四月二十七日、レーニンの率いる政治局は、トゥハチェフスキーをタンボフ地方の司令官に任命した。彼は一カ月以内に農民の反乱を鎮圧すること、およびその進捗状況を毎週文書で報告するように命じられた。トゥハチェフスキーはその期限を守ることはできなかったが、要求の達成には全力を尽くした。

 六月十二日に、トゥハチェフスキーは次のような命令を出した。

 敗北集団や単独行動の盗賊の生き残り……などが森に集まり、平和に暮らしている住民を襲っている。(1)盗賊が隠れている森に毒ガスを撒き、彼らを一掃すること。窒息ガスを森中全体にたちこめさせ、そこに隠れているすべてのものを確実に絶滅させるように綿密な計画を立てること。

(2)小火器監察官は必要数の毒ガス入り気球と、その取り扱いに必要な専門技術者をただちに現場に派遣すること。

 体制から見て、どういう種類の農民が“本物の階級の敵”とみなされたのかは想像しにくい。だが、似たような措置は他のところでもとられ、政治局はそれを承知し、認めていた。」(P.135)

 〔殺人指令遂行報告7〕、1921年7月10日、タンボフ県匪賊抑圧政策の人質・公開処刑報告

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。

 「タンボフ県匪賊抑圧政策に関する全権五人委員会議長報告 1921年7月10日

 クドリュコフスク郡の掃討作戦は、以前匪賊の一味をかくまったオシノフカ村から、6月27日に開始された。わが抑圧部隊にたいする農民の態度は、ある種の不信感をもって特徴づけられる。農民は森の匪賊どもを通報することなく、質問にたいしては何も知らないと答えた。われわれは40人の人質をとらえ、村に戒厳令をしき、村の住民に匪賊と隠匿武器を引き渡すために2時間の猶予を与えた。村人は集まって相談し、いかになすべきか躊躇していたが、しかし積極的に追い出し作戦に協力するとは決しなかった。

 きっと彼らは、人質を処刑するというわれわれのおどしをまじめにとらなかったのだろう。猶予時間が過ぎたので、われわれは21人の人質を村人の集まる前で処刑した。全権委員、共産主義者の目の前で、慣例にしたがって形式にのっとり、一人ひとりを銃殺によって公開処刑にしたことは、農民に衝撃的な印象を与えた……

 カレーフカ村に関しては、その地理的情況から、匪賊の一味にとって恵まれた場所になっていた……委員会はこれを地図から抹消することに決定した。全住民は赤軍勤務者の家族を除き、移動させられ、その財産は没収された。赤軍勤務者の家族はクルドウーク村に移され、匪賊一味の家族の、没収された家に住まわせた。いくつかの価値ある品−窓枠、ガラス製品、木製品等々−を回収したあと、村の家々に火が付けられた……

 7月3日、われわれはボゴスロフカ村の作戦を開始した。ここの農民ほど頑固で、組織化された者は、前に出会ったことがまずない。これらの農民と言い争っていると、若い者も年取った者も、異口同音に驚いたふうでこう言うのだった。

 「わしらのところに匪賊だって? まさか、そんなことを考えなさるなんて、とんでもない! 一度くらい近くを通るのを見たことはあったかもしれねえが、匪賊だなんて思ってもみませんでした。わたしどもはだれにも悪いことはせず、静かに暮らしとりますだ。なんにも知りません。」

 われわれはオシノフカでも同じ処置をした。人質を58人とった。7月4日にわれわれは第1グループの21人を公開処刑し、翌日には15人処刑した。しかし匪賊ども60家族、約200人を退治することはできない。最終的にわれわれは目的を達し、農民は強制されて匪賊狩りと隠匿武器の探索に出発した……

 上記諸村の掃討は7月6日に終了した。作戦は見事成功し、その影響は近くの2郡を越えて響いている。匪賊どもの降伏が相次いでいる。

                     全権五人委員会議長 ウスコーニン。(注)」(P.128)

 (注)、ダニ一ロフ、シヤーニン『タンボフ県における農民反乱1919〜1921年』218頁

    『「反乱」農民への「裁判なし射殺」「毒ガス使用」指令と「労農同盟」論の虚実』

    梶川伸一『ボリシェヴィキ権力とロシア農民』食糧独裁令の誤りと農民反乱

 2、脱走兵・兵役忌避逃亡者十数万人から数十万人を銃殺・殺害・人質

 1919年の公式統計だけで、脱走兵1761000人と徴兵逃れ917000人がいた。その合計は2668000人である。他年度の統計は出ていない。1918年5月の食糧独裁令以後に、徴兵制と内戦が始まった。1920年11月に内戦は完全に終結した。その3年間を単純計算すれば、266.8×3年=800.4万人になる。赤軍の正規軍化による最大規模は500万人だった。80%農民国家において、徴兵者の80%も農民兵だった。

 レーニン、トロツキーは、赤軍を、(1)内戦地方では白衛軍との戦争に当て、(2)内戦になっていない他地方では、軍事=割当徴発制の穀物・家畜収奪政策と反乱農民鎮圧作戦に使った。1920年夏以降のタンボフ県、西シベリア、ウクライナにおける3大農民反乱や36県での農民との戦争状態にたいする武力鎮圧に、全面的に赤軍を使い、裁判なし射殺や毒ガス使用による反乱農民の殲滅、殺戮作戦に使った。

 徴兵後、働き手を奪われた家族も穀物・家畜を、等しく軍事・割当徴発によって収奪され、餓死の危険が迫った。レーニン・トロツキーは、農民出身の兵士にたいして、反乱農民を殺す任務を負わせた。白衛軍とたたかうのならともかく、同じ農民を殺す軍隊は、彼ら80%を占める農民出身兵士にとって、犯罪的存在でしかない。脱走兵と徴兵逃れが大量に出るのは当然だった。トロツキーは、彼らにたいして、犯罪・腰抜けというレッテルを貼りつけた。1921年の公式統計での赤軍兵士銃殺は4337人である。4337×3年=銃殺した兵士13011人になる。

 レーニンは、徴兵逃れの農民狩りを指令し、チェーカーと赤軍に大々的に行わせた。彼は、それを「捕獲」と名付けて、捕獲数を報告させていた。その捕獲作戦に抵抗する農民を大量に殺し、また、脱走兵と徴兵逃れの家族を人質に捕えた。彼らが出頭しなければ、見せしめに人質を殺害した。その殺人と人質、人質殺害だけでも、800.4万人の脱走兵・徴兵逃れのうちで、最低でも十数万人になる。

 別の算出根拠もある。『飢餓の革命』(P.16)にある1920年8月のチェリャビンスク県だけの報告である。兵役忌避者7340人のうち106人が監獄、194人が矯正収容所、134人が強制労働、1165人が執行猶予、5067人が罰金、18人が銃殺、656人がそのほかの判決。もちろん、捕獲部隊との戦闘で多数が犠牲という公式統計である。

 4項目452人÷7340人=6.15%となる。脱走兵・徴兵逃れ800.4万人×6.15%=約49万人になる。機械的な計算式だが、約49万人を監獄、矯正収容所、強制労働、銃殺にしたことになる。

 〔殺人指令文書8〕、1918年8月30日、トロツキーの脱走兵銃殺命令

 これは、ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』(朝日新聞社、1994年)の文書である。

 「プロレタリアート独裁にたいする確信は、トロツキーをして国内戦時代における軍事テロの主要な推進者のひとりとした。手元に、一九一八年八月三十日にトロツキーが署名した命令がある。

 命令第三一号  赤軍および海軍へ  反逆者および裏切り者が労農赤軍にもぐり込み、人民の敵に勝利をもたらそうとしている。その次が、略奪兵と脱走兵である……。昨日、東部戦線第五軍野戦軍法会議の判決により二〇人の脱走兵が銃殺された。真っ先に銃殺に処せられたのは、その任せられた部署を放棄した指揮官やコミッサールであった。ついで負傷兵のふりをした臆病な嘘つきが銃殺された。最後にこれからの戦闘で自分の犯罪的行為を償うことを拒否した脱走兵が何人か銃殺された。労農赤軍の勇敢なる兵士諸君万歳! 略奪兵に破滅を。裏切り者の脱走兵に死を。  軍事人民委員  トロツキー。(注162)」(P.402)

 (注162)、マルクス・レーニン主義研究所党中央文書保管所、フォンド325、目録1、資料40、ファイル27

 3、コサック身分農民30〜50万人殺戮、強制移住による餓死殺人

 コサック身分農民は、440万人いた。彼らは、帝政時代から軍事的義務とひきかえに、土地利用で一般農民より優遇されていた。内戦中は、「白いコサック(白衛軍側)」と「赤いコサック(赤軍側)」とに分かれ、それぞれが流動的に入れ替わった。コサックたちが内戦にほんろうされる有り様は、ショーロホフが『静かなドン』において、農民兵士グリゴリー・メレホフの流転する生涯を通して、リアルに描いている。

 9000万農民の土地革命後、レーニンは、コサック優遇措置を廃止し、一般農民と同じにした。コサック騎兵集団は、たしかに「白」と「赤」の両面性を持っていた。それにたいして、レーニンと政治局は、コサックにたいしてだけ土地革命農民なみの権利・権限をも剥奪し、『農民』ファイルの極秘指令「赤色テロル」を先制的に仕掛けた。これは、メドヴェージェフの言うように、極めてひどい誤りであるだけでなく、ロシア革命にたいする犯罪行為だった。レーニンとスヴェルドロフは、未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人をしたのである。

 レーニンの一方的なコサック抹殺の先制テロルにたいして、コサック騎兵集団が総反発して、対赤軍の反乱を起したのは当然だった。レーニンとコサック反乱鎮圧司令官オルジョニキッゼは、30〜50万人のコサックを戦闘、虐殺、餓死で殺し、あるいは強制収容所送りにした。トロツキーは、反乱したコサック村の家族をシベリアに徒歩で強制移住させ、その穀物没収した上での死の行進手法により、数千人を餓死させた。

 1920年10月、生き残ったコサック騎兵3万人は亡命した。政治局は、自分の馬と別れ難いので亡命を断ったコサックを、すべて銃殺するか、強制収容所送りにした。これにより、ソ連各地のコサック領地に住むコサック身分440万農民は離散した。亡命者たちの一部は、有名なコサック合唱団を作り、コサックの歌と踊りを世界に広めた。

 スターリンも、レーニンのコサック根絶政策を忠実に継承した。それにより、440万人の70%、308万人が、戦死、処刑、流刑死で抹殺された。これらの詳細を、植村樹・元NHKモスクワ特派員が『ロシアのコサック』(中央公論社、2000年)で書いている。

 〔殺人指令文書9〕、1919年1月21日、コサックへの赤色テロル指令

 この日付は、『共産主義黒書』のものである。メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』は、2月となっている。メドヴェージェフの文をそのまま引用する。

 「一九一九年春までに赤軍も著しく力をつけ、その兵員数は二百万に近づきつつあった。中農の気分が急変し、三百万人にまで増員することが決定されていた赤軍の補充が容易になった。一九一九年秋までに内戦を成功裡に終結させることができるだろうとの確信が生まれた。しかしちょうどこの頃から、赤軍にとっては失敗と敗北続きの時期が始まるのである。一九一九年三月十二日ヴェンシェンスカヤ村を先頭とするドン北部のコサック村で新しい反乱の火の手が上がった。それはすでに反赤軍の反乱であった。

 反乱の原因はドン上流地域のコサック村でおこなわれた最も無慈悲な赤色テロルであった。このテロルの直接の実行者は軍後方部隊あるいは前線司令官たちであったが、イニシアチブを取ったのは彼らではなかった。赤軍の側につき、戦闘をつい最近開始したばかりのコサック自身もテロルへの口実を全く与えてはいない。テロルの指令はモスクワから入ってきたのである。それは、ロシア共産党中央委員会組織局指導者にして全ロシア中央執行委員会議長であったヤコフ・スヴェルドローフ署名の同党組織局決定であった。指令は次のようなものであった。

 各地の戦線やコサック地区での最近の諸事件、コサック入植地奥地へのわれわれの前進とコサック部隊に囲まれての崩壊によりわれわれは党活動家に対し、上記地区での仕事の性格について指示を与えねばならない。コサックとの内戦の経験にかんがみ、コサック上層部全員に対する最も仮借なき闘争、彼ら全員を根絶やしにする闘争を唯一正しいものであると認めねばならない。

 一、裕福なコサックに対して大量テロルをおこない、彼らを一人残らず根絶やしにすること。ソヴィエト政権との闘いに直接あるいは間接に、何らかの参加をしたコサック全員に対し仮借なき大量テロルをおこなうこと。中間コサックに対してはソヴィエト政権に反対する新たな行動をとろうとするいかなる試みをも予防するためあらゆる措置を講ずること。

 二、穀物を没収し、余剰すべてを指定の場所へ運び、引き渡させること。これは穀物だけでなく、あらゆる農産物に適用される。

 三、よそから来た貧民移住者を援助するあらゆる措置を講じ、移住可能なところへ移住させること。

 四、土地関係やその他すべての関係において、他都市から来た人々とコサックとを平等に遇すること。

 五、完全武装解除をおこない、武器引渡期限以降に武装の所持が発覚した者は、すべて銃殺すること。

 六、他都市から来た人々のうち信頼のおける人々にのみ武器を渡すこと。

 七、今後完全な秩序が確立されるまでコサック村には武装した部隊を駐留させること。

 八、いずれかのコサック入植地へ任命されたコミッサールは最大限に毅然たる態度を示し、一貫して本命令を遂行すること。農業人民委員部は貧民がコサックの土地へ大量に移住できるように実際的措置を早急に準備すること。

 ロシア共産党中央委員会。(党中央アルヒーフ、ЦПА,Ф.17, оп.4,д.21, л.216)

 二月にドン上流地域のコサック村で実施され始めた恐ろしい、身震いさせるこの指令について私はコメントするつもりはない。これは極めてひどい誤りであるばかりでなく、ロシアと革命に対する犯罪行為であった。政治的あるいは倫理的判断やその結果については言うまでもない。二月のスヴエルドローフ指令が実施されたのはコサックの州なのである。この地域では男性住民はみな武装し、武器の扱いにたけており、大、小の村落で動員を短時間におこない、何十もの歩兵および騎馬連隊を編成することができるのである。この状況で「非コサック化」と大量テロルをおこなえば必然的にコサックの蜂起を招き、南部戦線の安定だけでなく、革命の運命をも脅威にさらすことになるのである。現にドン上流地域で始まった反乱を鎮圧することは出来なかった。ドン上流地域のコサックは連隊と師団を巧みに活用し、対コサックのために投入され、たいていは大急ぎで編成された兵団をことごとく打ち破った。このおかげでデニーキン軍は十分に態勢を整え、一九一九年五月、強力な攻撃を開始することができたのである。六月末までにデニーキン軍はウクライナのほぼ全域と、中央黒土地帯と、ヴオルガ地域のかなりの部分を占領した。六月二十四日、赤軍はハリコフを、六月三十日にはツァーリンを放棄した。」(P.121)

 〔殺人指令文書10〕、1920年10月23日、オルジョニキッゼのコサック解体命令

 これは、ニコラ・ヴェルトの『共産主義黒書』にある。

 もっとも手っ取りばやいコサック解体の方法は、コサックの村を破壊して、すべての生存者を収容所送りにすることだった。ボリシェヴィキ指導者の一人で、当時北カフカス革命委員会の議長だったセルゴ・オルジョニキッゼの文書の中には、一九二〇年十月末から十一月初めにかけて展開された作戦の一つの資料が含まれている。

 十月二十三日、セルゴ・オルジョニキッゼは以下のような命令を下した。

 「一、カリノフスカヤ村を完全焼却すること。

 二、エルモロフスカヤ村、ロマノフスカヤ村、サマシンスカヤ村、およびミハイロフスカヤ村の全住民を立ち退かせ、住民の家と土地は、ソヴィエト権力に常に愛着を示してきた貧農とチェチェン人に分配すること。

 三、上記諸村の十八歳から五〇歳までの全男子を列車に乗せ、見張りを付けて、重度の強制労働を行なわすべく、北方へ強制移住させること。

 四、女・子ども、老人を退去させること。ただし、もっと北の他の村に居住する許可を与えること。

 五、上記諸村の住民の全家畜と全財産を徴発すること。(注1)」

 三週間後、オルジョニキッゼあての報告は、以下のように作戦の展開を述べている。

 「カリノフスカヤ村−全村焼却。全住民(四二二〇人)は強制移住または退去。

 エルモロフスカヤ村−全住民排除(三一二八人)

 ロマノフスカヤ村−一六〇〇人強制移住。一六六一人移住待ち。

 サマシンスカヤ村−一〇一八人強制移住。一九〇〇人移住待ち。

 ミハイロフスカヤ村−六〇〇人強制移住。二二〇〇人移住待ち。

 このほか、一五四両の食糧輸送車がグローズヌイに向けて出発しました。強制移住がまだ完了していない村では、まず初めに白軍と緑軍の家族と、最後に反乱参加者の家族が移住させられました。移住させられなかった者の中には、ソヴィエト体制のシンパ、赤軍兵士・役人・コミュニストの家族がいます。強制移住作戦の遅れは、もっぱら車両の不足からきています。作戦のために送られてくる列車は、一日平均たった1編成でした。強制移住作戦を完了するために、さらに三〇六車両の追加が緊急に要請されます。(注2)」

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、85/11/131/11

 (注2)、ロシア現代史文書保存研究センター、85/11/123/15

 これらの「作戦」は、どのように行なわれたのだろうか? 残念ながらこの点については、我々にはいかなる正確な資料もない。わかっているのは、「作戦」は長引き、最終的に移住者はしばしば極北地方ではなく、その後も相次いだように、近くのドネッ炭田の方へ送られたということである。一九二〇年末の列車の状況からして、数量的に把握するのは難しい……それでも、諸方面から見て、一九二〇年のコサック解体の「作戦」は、十年後のクラーク撲滅の大「作戦」の前ぶれであった。連帯責任といい、列車による強制移住のやり方といい、経理の問題といい、移住者を受け入れる場所が準備されていなかったことといい、移住者を強制労働に使うという考えにおいて、このように言えよう。

 ドンとクバンのコサック地域は、ボリシェヴィキに反抗したために、多大の犠牲を払わされた。最も信頼できる評価によると、三〇〇万足らずの全人口中、一九一九〜一九二〇年に殺されたり、強制移住させられたりしたものは、三〇万から五〇万の間であった。(P.109〜111)

 4、山猫ストライキ労働者の逮捕10000人、即時殺害500人

 ペトログラード・ソヴェト議長ジノヴィエフとペトログラード・チェーカーが、1921年2月、全市を赤軍・共産党員軍・クルサントゥイ軍で包囲し、ストライキ工場をロックアウトした上で、10000人のストライキ労働者とボリシェヴィキ党員を逮捕した。そのうち、ストライキ指導者500人を拷問死、銃殺で即座に殺した。これは、V・セルジュとボリシェヴィキ指導者ダンの証言である。残りの9500人にたいする措置のデータはない。チェーカーは、残りの全員も銃殺する方針だったが、ゴーリキーとセルジュが、銃殺だけは止めた。

 この直前に、モスクワで全市的山猫ストライキがあり、それも鎮圧された。しかし、モスクワ・チェーカーによる12人銃殺、1000人逮捕という『黒書』データ以外は、現時点で分からない。

 モスクワとペトログラードの山猫ストライキ労働者にたいする〔殺人指令文書〕は、あるはずだが、まだ発掘されていない。

 ニコラ・ヴェルトは、『黒書』(P.94)で、その理由を次のようにのべている。『ボリシェヴィキは、労働者の名において政権を獲得したのだが、弾圧のエピソードの中で新体制が最も注意深く隠蔽したのは、まさにその労働者に対して加えた暴力だった』。

〔殺人指令文書11〕、1918年5月31日、ジェルジンスキーのストライキ労働者銃殺指令

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せた。

 政治面では一九一八年春の独裁の強化はすべての非ボリシェヴィキ系新聞の最終的発禁、非ボリシェヴィキ系ソヴィエトの解散、反対派の逮捕、多くのストライキの粗暴な抑圧となって表れた。一九一八年の五〜六月には、二〇五の社会主義的反対派の新聞が完全に発行禁止になった。メンシェヴィキや社会革命党が多数派だったカルーガ、トヴェーリ、ヤロスラーヴリ、リャザン、コストロマ、カザン、サラトフ、ペンザ、タンボフ、ヴォロネジ、オリョール、ヴォログダのソヴィエトは、武力で解散させられた。弾圧はどこでもほとんど同じやり方で行なわれた。反対派が選挙で勝って、新しいソヴィエトがつくられると、その数日後に土地のボリシェヴィキは軍隊の応援を頼むが、それはたいていチェーカーの分遣隊だった。ついで戒厳令を出して、反対派を逮捕したのである。(注1)」

 反対派が勝利した町に自分の信頼する協力者を送ったジェルジンスキーは、一九一八年五月三十一目、トヴェーリへ派遣した全権のエイドゥークに、自分の命令を実行するにあたってなにより有効な武力行使について、次のように単純率直に書いている。

 「メンシェヴィキやエスエルやその他反革命の畜生どもに影響された労働者たちは、ストライキを行い、『社会主義』めいた政府の創設に賛成を表明した。君はすべての市にポスターを張って、ソヴィエト権力に対して陰謀を企てるあらゆる匪賊、盗賊、投機家、反革命家はチェーカーによってただちに銃殺されると声明すべきだ。市のブルジョワに対しては特別の支援を頼むがいい。彼らを調べ上げよ。もし彼らが動きだしたら、このリストが役立つだろう。我々の地方チェーカーがどんな構成員からなっているか、わたしに聞いてくれ。人を黙らせるには一発ぶっぱなすのがいちばん有効だとよく知っている連中を使うことだ。わたしは経験から、少数の断固とした人間で情況を変えることができるということを学んだ。(注2)」

 反対派の掌握したソヴィエトを解散し、一九一八年六月十四日にソヴィエトの全露執行委員会からメンシェヴィキと社会革命党員を排除したことで、多くの工業都市において抗議、デモ、ストライキが起こった。一方、そこでの食料事情はますます悪化していった。ペトログラード近くのコルピノにおいて、あるチェーカーの分遣隊長は労働者の食料要求デモに発砲を命じたが、彼らの配給食糧は一カ月小麦粉二フント〔〇・八キロ〕まで落ち込んでいた! その結果、十人の死者がでた。同日、エカチェリンブルク近郊のべレゾフスキー工場では赤衛軍によって十五人が殺されたが、彼らは「ボリシェヴィキの委員たち」が、町でいちばんよい家々を占拠した上に、土地のブルジョワジーから取り立てた一五〇ルーブルを横領したことに抗議の集会を開いたからだった。翌日には地区当局はこの工業都市に戒厳令を宣言し、モスクワの判断も仰ぐことなしに土地のチェーカーによって十四人が即座に銃殺された!(注3)

 一九一八年の五月後半と六月にはソルモヴォ、ヤロスラーヴリ、トゥーラや、ウラルの工業都市のニジニ‐タギール、ベロレツク、ズラトウスト、エカチェリンブルクなどで多くの労働者のデモが流血の中で鎮圧された。運動の抑圧において土地のチェーカーの役割がますます強くなったことは「コミッサロクラシー〔委員官僚制〕」に奉仕する「新オフラナ(帝政時代の政治警察)」という言葉やスローガンが労働者間で使われる頻度が多くなったことでも証明される。(P.76)

 (注1)、V.Brovkin,op.cit,p220-225(ブロフキン『十月後のメンシェヴィキ』)

 (注2)、RTsKhIDNI(ロシア現代史文書保存研究センター)、17/6/384/97-98

 (注3)、Novaia Jizn,1er juin 1918,p4(『新生活1918年6月1日』)

 〔殺人指令文書12〕、1920年1月29日、レーニンの第5軍軍事革命委員会議長スミルノフへの電報

 レーニンや共産党最高指導部は、ストライキにたいする見せしめの弾圧を呼び掛けた。ウラルの労働運動が高まっていた。それが不安になったレーニンは、スミルノフへの電報を送った。

 「Pの報告によれば、鉄道労働者が大規模なサボタージュをしているという…伝え聞くところでは、イジェフスクの労働者も関係しているとのことだ。わたしは君がそれを放置し、サボタージュを大衆処刑で処置しないことに驚いている」。『黒書』(P.99)

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応

    『「ストライキ」労働者の大量逮捕・殺害とレーニン「プロレタリア独裁」論の虚構(3)』

 5、クロンシュタット水兵・労働者・住民を殺戮、銃殺、収容所送りで殲滅

 クロンシュタット・ソヴェトは、1905年革命、1917年二月革命、10月レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターにおいて、もっとも先進的役割を果した。トロツキーが称賛したように「革命の栄光拠点」だった。そこが、なぜボリシェヴィキ一党独裁政権にたいして、自由で平等な新選挙要求を突きつけ、平和的要請に決起したのか。15項目綱領の要求内容と鎮圧経過については、P・アヴリッチ『クロンシュタット1921』と、イダ・メット『クロンシュタット・コミューン』、および私(宮地)の『ザミャーチン「われら」と1920、21年のレーニン』が分析している。

 コトリン島住民45000人中、水兵10000人と労働者4000人のほとんどが殺された。判明しているのは、『共産主義黒書』にある「四〜六月の間に二一〇三名が死刑の判決を受け、六四五九名が投獄された」ことである。8000人が氷結したフィンランド湾を渡って、フィンランドに逃げた。レーニンは、恩赦すると騙して、彼らを帰国させた。そして、全員を逮捕し、強制収容所送りにした。しかし、彼らは、すでに出来ていた北極海につながるソロヴェツキー島とアルハンゲリスクの収容所に送られ、その大多数は手を縛られ、首に石を付けてドビナ河に投ぜられた。

 生き残ってソロフキ収容所に送られた者も、収容所内の処刑システムで殺された。内田義雄・元NHK特派員は『聖地ソロフキの悲劇』(NHK出版、2001年、P.55)で次の事実を記している。一九二一年春の「クロンシュタットの反乱」の鎮圧後、処刑を免れた水兵およそ二〇〇〇人が送られてきた。その他コルチャーク将軍指揮下の白軍の残党、農民、知識人、聖職者、ドンコサックなどいろいろの人たちがいた。連日のように処刑が行われ、ある時は人々の目の前で囚人たちを川に浮かぶはしけに乗せて流し、そのまま沈めて溺死させた。そのなかには女性や子どもたちも大勢混じっていた。何とか泳いで岸に向かってくる者は、機関銃で容赦なく、撃たれた。それが何回も繰り返された。

 レーニンは、クロンシュタットの平和的要請にたいして、「白衛軍の将軍の役割」と、真っ赤なウソをついた。農民・労働者・兵士の総反乱による一党独裁政権崩壊の恐怖におののいたレーニン・政治局は、それだけでなく、反革命の豚というレッテルを貼りつけ、鎮圧司令官トゥハチェフスキーに皆殺しを指令した。反革命の豚の殺し方が上記(表)のようになるのは必然だった。

 〔殺人指令文書13〕、1921年3月5日、トロツキーの最後通牒、雉子のように撃ち殺す

 この最後通牒は、クロンシュタット反乱関係の全文献に載っている。ヴォーリン『クロンシュタット1921年』から載せる。

 「次の日の三月五日に、トロツキーはクロンシュタットへの最後通牒を発した。それはクロンシュタットヘラジオを通じて伝えられたし、また代表を送ることに関するふたつの電報と同じ号の「イズヴェスチヤ」にも発表された。当然、代表を送る件についての交渉もすぐぶちこわしになった。ここにトロツキーの最後通牒の全文がある。

 労農政府は、クロンシュタットおよび反逆している戦艦に対して、ただちにソヴィエト共和国の権力に服従すべき命令を出した。それに従って私は、社会主義の祖国に対して反旗をひるがえすものすべてに、即刻、武器を放棄するよう命ずる。強情に抵抗しつづける者は武装を解除されて、ソヴィエト当局へひきわたされるであろう。逮捕された執行委員とその政府代表をただちに釈放せよ。無条件に降服するものだけが、ソヴィエト共和国の慈悲にあずかり得るであろう。

 同時に私は武力をもって暴動を鎮圧し、反徒を平定すべき命令を発する。平和な民衆がうけるかもしれない損害の全責任は、反革命反徒にあるであろう。これが最後の警告である。

                   共和国革命軍事委員会議長 トロツキー

                   最高司令官 カーメネフ」

 この最後通牒につづいて『お前たちを雉子のように撃ち殺すつもりだ』というトロツキーの指令が出された。」(P.91)

    『クロンシュタット水兵とペトログラード労働者』レーニンによる皆殺し対応

 6、チェコ軍団帰国途中の武装解除と銃殺命令、軍団の抵抗と反乱

 レーニンは、1917年11月7日、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターに成功した。政府は、1918年3月3日、ドイツとブレスト講和条約を結び、ロシアだけが、第一次世界大戦から単独離脱した。ロシア国内にチェコ人の捕虜・投降兵士からなるチェコ軍団が4.5万人残っていた。政府は、彼らを武装させたままで、シベリア鉄道でウラジオストックから帰国させることにした。その帰国途中で、1918年5月25日、レーニン・トロツキーは、突如方針転換をした。彼らは、白衛軍ではない。武装したチェコ軍団4.5万人の反乱は、白衛軍との内戦勃発・拡大の引金になった。ただ、その26日前の4月29日、レーニンらは、全ロシア中央執行委員会において、自らが80%・9000万農民にたいする内戦を仕掛ける戦争開始宣言をしていた。これ以後、内戦は、(1)レーニンが仕掛けた農民との内戦、(2)チェコ軍団、白衛軍との内戦という2種類の内戦期間に突入した。

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、この命令文書を載せた。この詳細な経過は、彼が分析している。

  〔殺人指令文書14〕、1918年5月25日、トロツキーによる武装解除・銃殺命令

 残念なことに、こうした状況の中でソヴィエト政権は、正当化できないほど残酷な行動をとり始めた。モスクワから軍団の移動路線へ、次のような恐るべき電報が送られた。

 「軍事人民委員命令

 モスクワより五月二十五日二十三時。サマーラ、ペンザからオムスクまでの鉄道沿線のすべてのソヴィエトヘ。

 全ソヴィエトは責任をもって速やかにチェコスロヴァキア人の武装解除をおこなうこと。鉄道路線内で武装が発覚したチェコスロヴアキア人はその場で銃殺すること。一人でも武装している者がいた場合、その輸送列車編隊は下車させ、軍事捕虜ラーゲリへ収容すること。地方軍事コミッサールは本命令を速やかに遂行する義務を負う。いかなる遅滞も恥ずべき裏切り行為と同義であり、違反した者は厳罰に処する。武器を引渡しソヴィエト政権に従う誠実なチェコスロヴァキア人に対しては、兄弟として過し、あらゆる援助を与えること。本命令を全チェコスロヴアキア輸送列車編隊に読み聞かせ、チェコスロヴアキア人と接する全鉄道員に通知すること。……

 軍事人民委員L・トロツキー。(注108)」

 (注108)、B・マクサコフ、A・トルクノフ『シベリアにおける内戦の記録』、国立出版所、1926年、57頁

 この命令の内容は、単に残酷であっただけではない。遂行不可能なものでもあった。ソヴィエト政権には、チェコスロヴアキア人を武装解除する力はまったくなかったからである。軍団の兵士たちが自発的に武器を手渡すと考えることなど、ばかげたことであった。異国にいて、そこで起こっている事件についてあまりよく判らず、様々な「徒党部隊」からの攻撃を懸念していた兵士たちは、武器を、安全を確保しつつ帰国を実現するための保証と見なしていたからである。軍団の一般兵士の気分は一変し、五月二十六日から軍団部隊とソヴィエト部隊との個々の衝突は、反乱へと拡大していった。チェコスロヴアキア軍はほとんど抵抗にあわず、シベリアとウラルの主要都市とヴォルガ地方のかなりの部分を占拠した。この地域全部のソヴィエト権力は打倒され、軍事コミッサールとボリシェヴィキ党の指導者は銃殺された。(P.106)

 7、聖職者数万人銃殺、信徒数万人殺害と教会財産没収

 これは、岩上安身『あらかじめ裏切られた革命』(講談社、1996年)に載った。この経過、内容とデータは、『聖職者』ファイルで分析した。聖職者・信徒らは、精神的にはともかく、具体的な反革命運動に加担していなかった。この大量殺人指令と殺戮は、コサック農民への赤色テロルに次いで、レーニンが、第2回目の未来の反革命因子を排除するための一つの階層まるごとを抹殺する大量予防殺人をしたものだった。

 〔殺人指令文書15〕、レーニンの教会財産没収、聖職者銃殺指令極秘手紙

   1922年3月19日付手紙全文 1990年4月「ソ連共産党中央委員会会報」で公表

 「ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員政治局員のためのX・M・モロトフヘの手紙

 一九二二年三月十九日

 極秘 写しは絶対にとらないこと。政治局員各自(カリーニンも同様)意見は直接、文書に書きこむこと。 レーニン

 シューヤ(訳者注=イワノヴォ州にある市)で起こった事件は、すでに政治局の審議に附されてはいますが、事件が全国的な闘争計画に沿ったものである以上、断固たる処置をとる必要があると思われます。三月二十日の政治局会議に自ら出席できるかどうかわかりませんので、手紙で自分の考えを述べます。シューヤの事件は、最近ロスト通信が各新聞社宛に掲載を目的とせずに流した、例のペトログラードにおいて、極右が教会財宝没収令に対し抵抗の構えをみせているとするニュースと関連づけてとらえるべきです。

 今度の件と、新聞が書いている宗教界の教会財産没収令に対する態度や我々が知っているチーホン総主教の非合法なアピールを比べると、極右聖職者達がこの時期を狙って我々に戦いを挑むことが、きわめてよく練られた計画であることが判明します。極右聖職者の主要メンバーで構成する秘密会議で、この計画が練られ、決定されたに違いありません。シューヤの事件は、この全体計画の単なる一片にすぎません。

 思うに、我々に対し、勝ち目のない徹底抗戦で向かってくるとは、敵の大きな戦略的誤りです。むしろ我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人を喰い、道路には数千でなければ数百もの屍体がころがっているこの時こそ、教会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならない)のです。今こそ、農民のほとんどは我々に味方するか、そうでないとしても、ソヴィエトの法令に力ずくの抵抗を試みるひと握りの極右聖職者と反動小市民を支持できる状況にはないでしょう。

 我々はいかなることがあっても、教会財産を断固、早急に没収しなければなりません。それによって数億ルーブル金貨の資金が確保できるのです(修道院や大寺院の莫大な財産を思い出して下さい)。この資金がなくては経済建設をはじめとする、いかなる国家的事業も、またジェノアで自己の見解を貫き通すこともありえません。ルーブル金貨数億(もしくは数十億)の資金を手に入れることは是が非でも必要なのです。それが首尾よくできるのは今だけです。状況を見てみると、後からでは成功しません。絶望的な飢餓のときを除いては、農民大衆が、たとえ教会財産没収闘争で当方の完全勝利が自明だとしても、我々に好意的態度を示したり、せめて中立でいてくれるという保証はないのです。

 ある賢明な作家が国家的問題に関して、『一定の政治目的を達成するために残酷な手段を必要とする場合は、思いきった方法で、きわめて短時間に行なわなければならない。残酷な手段を長期にわたって用いれば大衆が耐えられないだろう』と述べていますが、まったくそのとおりです。さらにこの考えは、反動宗教界に残酷な手段でのぞむとなると、ロシアの国際的立場が、とりわけジェノア以後、政治的に不合理かつ危険の多いものとなるだろうということで裏づけされます。今、反動宗教界に対する我々の勝利は完全に約束されています。また国外のエスエルやミリュコフ派など主要な敵も、我々が今この時期、飢餓に際して迅速かつ容赦なく反動宗教界を弾圧するなら、もはや我々に抗することはできないでしょう。

 それゆえ、私は、今こそ極右聖職者達に徹底的かつ容赦ない戦闘を挑み、彼らが今後、数十年にわたって忘れることのできないような残忍な手段で抵抗を鎮圧すべきだという、疑う余地のない結論に達しました。この計画を実施に移すための作戦を私は次のように考えています。

 いかなる措置を採るときも公的には同志カリーニンのみが登場し、同志トロツキーは印刷物にしろ公衆の前にしろいかなる形であれ姿を現わしてはならない。政治局の名ですでに出された没収の一時停止に関する電報は変更しない。この電報は、敵にあたかもわれわれが逡巡しており、威嚇に成功したと思わせるので好都合である。

 シューヤには全ロシア中央執行委員会、もしくは他の中央政府機関から最も精力的で、分別のある敏腕な者を一人(数人より一人がよい)、政治局員の一人が口頭で指示を与えて派遣する。そして、この指示は、それによって彼がシューヤで、現地の聖職者、小市民、ブルジョアを全ロシア中央執行委員会の教会財産没収令に反対する実力抵抗に直接または間接にかかわったかどで、できるだけ多く、少なくとも数十人以上逮捕するものとする。

 任務終了後、彼はただちにモスクワに来て、自ら、政治局全体会議か、それを代表する二名の政治局員に報告を行なう。この報告にもとづいて政治局は司法当局に細かい、これも口頭の指令を出す。それは飢餓救援に抵抗するシューヤの暴徒に対する裁判が迅速に行なわれ、シューヤと、できればそれ以外にもモスクワや他の教会都市の最も影響力ある危険な極右を非常に多数、必ず銃殺刑にして終わるようにするためである。

 チーホン総主教自身には、明らかに、この奴隷所有者どもの暴動の頭目ではあるが、手を出さないほうが、賢明だと思う。彼に関してはGPU(ゲーペーウー)に秘密指令を出して、この時の対外関係をすべて、できるだけ正確かつ詳細に洗い出させること。そして、それをジェルジンスキーとウンシュリフト自らが毎週、政治局に報告するようにすること。

 党大会において、この問題にかかわるすべてないしは、ほとんどすべての代議員とGPU、司法人民委員部の主要職員からなる秘密会議を設けること。富豪の大寺院、修道院、教会の財宝没収がどんなことがあっても容赦なく、徹底的かつ最短期間で行なわれるべしとする大会秘密決議はこの会議で行なう。これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョアは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない。

 この措置が迅速かつ滞りなく実行されることを監視するため、当の大会すなわち秘密会議で特別委員会を指名し、そこに同志トロツキーとカリーニンを必ず加えること、そしてこの委員会の存在は絶対公表せず、委員会指導下の作戦はすべて委員会の名によらず、全ソヴィエトと全党の名において行なわれること。富豪の大寺院、修道院、教会でこの措置を実行するときは特に責任感の強い優秀な職員を配すること。

 一九二二年三月十九日  レーニン

 同志モロトフヘの依頼、この手紙を各政治局員から今日中に回覧し(写しはとらず)、読了後、手紙の主旨に同意か反対かを書き込んで、ただちに秘書に戻すよう、とりはからって下さい。

 一九二二年三月十九日  レーニン」(P.289)

    『聖職者全員銃殺型社会主義とレーニンの革命倫理』

 8、「反ソヴェト」知識人の国外追放・強制収容所送り数万人

 これも『知識人』ファイルで書いた。これは、レーニン第1回発作による「12×7」の計算ができなかった直後からの、レーニン直接指令によるボリシェヴィキとその同盟者以外の知識人解体措置だった。それまでのロシア文化の破壊行為だった。これは、レーニンの第3回目の「大量予防殺人=肉体的排除」である。この大量予防殺人を細かく、個々の知識人名までリストアップし、肉体的排除遂行をしている最中の1922年12月に第2回発作が起き、彼の政治活動が終った。

 〔追放指令文書16〕、1922年5月19日、知識人追放指令の秘密手紙

 ソルジェニーツィンは、『収容所群島』第1部・第10章「法は成熟する」(新潮社)の冒頭で、次のレーニン全集に掲載されている「知識人追放に関する準備指令の手紙」を載せた。よって、これは「レーニン秘密資料」ではない。その個所をそのまま引用する。

 「銃殺に代えて国外追放が大量かつ緊急に試みられた。刑法典が編集されていた、あの熱狂の時代、ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)は閃(ひらめ)いた思いつきを、ただちに五月十九日付の手紙の中に結実させた。

 『同志ジェルジンスキー! 反革命を援助している作家や教授たちを国外へ追放する問題について。このことはもっと綿密に準備する必要がある。準備がなければ、われわれは馬鹿をみることになるだろう……これらの《軍事スパイたち》をつかまえ、絶えず一貫してつかまえ、国外へ追放するように処置しなければならない。これのコピーをとらずに、政治局員にこっそり見せてくださるようにお願いする』(「レーニン全集」第45巻、P.721)

 この場合、その秘密性は手段の重要さと教訓的なことから当然である。ソヴィエト・ロシアにおける切り裂いたようにはっきりした階級勢力の布陣は、旧ロシアのブルジョア・インテリゲンチャの輪郭の判然としない、ぼんやりした汚点によってはじめて破られてしまった。これらインテリゲンチャはイデオロギーの面で本当の軍事スパイの役割を演じていたのであり――彼らに対する最善の処置はその腐った思想の滓(かす)を削りとり、彼らを国外へ放り出すこと以外にはなかった。

 同志レーニンその人はもう病床にあったが、政治局員たちが明らかに賛同し、同志ジェルジンスキーが八方手を尽して逮捕を行い、一九二二年末に約三百人の人道主義者が伝馬船に?……いいや、汽船に詰め込まれてヨーロッパのごみ捨て場へ送りだされた。」(P.360)

 〔追放指令文書17〕、1922年6月、レーニンの「反ソヴィエト」知識人追放指令

 ロイ・メドヴェージェフは、『1917年のロシア革命』で、次の「レーニン秘密資料」を公開した。これは、L・コーガン「精神的エリートの追放についての新情報」『哲学の諸問題』(8号、1993年)で最初に掲載された。

 「一九二二年レーニンは多数の人文系学者をソヴィエト・ロシアから追放することを承認した。大勢の傑出した哲学者の一団がペトログラードやモスクワから、汽船(「哲学船」)で送り出された。ペトログラードからは経済学者や歴史家が西側諸国へ向かった。法律家、文学者、協同組合活動家、農学者、医者、財政学者も追放された。これはきわめて大規模な措置であり、モスクワやペトログラードだけでなく、キエフ、カザン、カルーガ、ノヴゴロド、オデッサ、トヴェーリ、ハリコフ、ヤルタ、サラトフ、ゴメリにまで及んだ。ゲー・ペー・ウーの文書ではこの措置は「作戦」というコード名で呼ばれ、その実施指導のために、L・カーメネフを議長とするロシア共産党中央委員会政治局特別委員会が設置された。委員会にはその他ジェルジンスキーの代理ヨシフ・ウンシリフトとゲー・ペー・ウー秘密工作部部長I・レシェトフが加わった。同委員会メンバーとゲー・ペー・ウーの地方機関に対するF・ジェルジンスキーの指令メモの一つにはこう書かれていた。

   ウラジーミル・イリイチ〔レーニン〕の指令。極秘。

 積極的な反ソヴィエト・インテリゲンツィア(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する。入念にリストを作成し、それらをチェックしわれわれの文芸学者たちに批評させる。文献は全部彼らに割り当てる。われわれに敵対的な協同組合活動家のリストを作成する。「思想」と「家族共同体」の論集参加者のチェックをする。草々。

   F・ジェルジンスキー」(P.134)

 この指令の月日をメドヴェージェフは、著書で書いていない。しかし、期日を推測させる文言がある。それは。「(まずはメンシェヴィキ)の国外追放を、たゆまず継続する」である。この文言は、5月26日第1回目発作以後の追放の督促・継続指令である。

 〔追放指令文書18〕、1922年9月5日、ジェルジンスキーの知識人追放督促指令

 これは、ニコラ・ヴェルトが『共産主義黒書』に載せている。

 一九二二年九月五日、ジェルジンスキーは自分の補佐のウンシュリヒトに次のように書いた。

 「同志ウンシュリヒト! インテリゲンツィア追い出しの件に関しては、事態はまだ手工業的だ! アグラーノフが出立してから、もはやこの分野で有能な人間はいない。ザライスキーは少し若すぎる。早く仕事するためには、同志メンジンスキーがこの件を担当しなければならないだろうと思われる……ちゃんと計画をたて、それを定期的に訂正・補足することが不可欠だ。すべてのインテリゲンツィアをグループとサブ・グループに分類すべきだ。

 一、作家。

 二、ジャーナリストと政治家。

 三、経済学者(これはサブ・グループ分けが必要だ)。(a)財政専門家、(b)エネルギーの専門家、(C)運輸の専門家、(d)小売業、(2)協同組合の専門家、等

 四、技術専門家(これもサブ・グループ分けが必要だ)。(a)技師、(b)農学者、(C)医者、その他

 五、大学教授、およびその助手等々。

 これらの紳士方に関する情報はすべて我々の部局の中『インテリゲンツィア』部によって総合されなければならない。知識人一人ひとりの書類が我々のところにあるべきだ……我々の部の目的は単に個人を追放したり逮捕することでなく、専門家に対する全般的政策を念入りに作ることだということをいつも心に止めておかねばならない。すなわち、彼らを身近に監視し、対立させ、彼らを単に言葉のうえだけでなく、行動においてソヴィエト権力を支持するよう仕向けるのである。(注1)」(P.139)

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、76/3/303

 〔追放指令文書19〕、1922年9月5日の数日後、レーニンの知識人掃討・浄化指令メモ

 これも、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書』にある。

 数日後レーニンはスターリンにあてて長いメモを書き、その中でマニアックな詳しさで、すべての社会主義者、知識人、自由主義者その他の「紳士方」をロシアから「決定的に掃討」することを再び論じた。

 「メンシェヴィキ、人民主義的社会主義者、カデット等の追放の問題について。わたしが出立する前に始まっていたこのやり方がまだ必ずしも完了していないので、いくつかの問題を提起したいと思う。すべての人民主義的社会主義者を根こそぎにするよう決定したか? ぺシェホーノフ、ミャコーチン、ゴルンフェリトその他はどうだ? わたしは彼らが皆追放されるべきだと思う。彼らはエスエルより危険だ。なぜならもっとずる賢いからだ。

 それからボトレーソフ、イズゴーエフ、そして『エコノミスト』の連中(オーゼロフその他多くの輩)も。メンシェヴィキのローザノフ(狡猾な医者)、ヴィグドルチク(〔別名〕ミクロまたはその類いの名)、リユボーフィ・ニコラエヴナ・ラドチェンコと、その娘(二人はボリシェヴィズムの最も危険な敵だと言われている)、N・A・ロシコープ(彼は追放されるべきだ。度し難い。)……マンツェフ=メッシング委員会がリストを作成し、これら何百人かの紳士どもは容赦なく追放されるべきだろう。

 我々はロシアを徹底的に浄化しよう……『作家の家』の全作家と、(ペトログラードの)『思想の家』の思想家も。ハリコフはくまなく捜査しなければならない。あそこは外国だから、そこでなにが起こっているのか、我々はなにも知らない。市はエスエルの裁判が終わる前に、素早く徹底的に浄化されなければならない。ベトログラードの著述家と作家を処理してくれたまえ(彼らのアドレスは『新ロシア思想』一九二二年第四号三七ページと個人編集者リストの二九ページに載っている)。これは超重要だ!(注1)」(P.139)

 (注1)、ロシア現代史文書保存研究センター、2/2/1338

    『「反ソヴェト」知識人の大量追放「作戦」とレーニンの党派性』

 9、カデット、エスエル、メンシェヴィキ、左翼エスエルの絶滅

 1917年7月時点で、エスエル党員100万人、メンシェヴィキ党員20万人がいた。(表)において、この粛清人数を(カッコ)つきにしたのは、他の階級、階層の殺人数と重複しており、独自の数値を推計できないからである。ただ、スターリンの粛清により、これら百数十万人の全党員が、亡命した者以外、一人残らず殺された。

 〔殺人指令文書20〕、1917年11月8日、カデット機関紙「レーチ」閉鎖措置

              1917年11月28日、カデット党員逮捕の布告

 革命政府(人民委員会議)が樹立された翌日、軍事革命委員会は、レーニンの強い主張を受け入れて、カデット機関紙「レーチ」、その他のブルジョア新聞を反革命活動の理由で閉鎖した。さらにその翌日、「出版にかんする布告」を発し、敵対的な新聞の封鎖を命じた。

 布告発令前の全ロシア中央執行委員会では、左派エスエルだけでなく、ボリシェヴィキの一部も、それに猛反対した。武装蜂起による死者は、双方合わせて10数人だけだった。レーニンも「テロルなど問題にならなかった」と認めていた。たしかに、臨時政府内のカデット閣僚5人が、コルニーロフの反乱を契機に辞任したのは事実である。しかし、ソ連崩壊後の資料によっても、レーニンのレッテル「コルニーロフの反乱にカデット党が加担したから」という事実はない。それは、レーニンのウソである。それは、レーニンによる権力奪取と同時の先制攻撃としてのブルジョア階級からの言論出版の権利剥奪政策だった。すべての他党派、知識人が、それを言論・出版の自由への弾圧として、強烈に反対、批判した。この問題については、大藪龍介が、詳しい分析をしている。

    大藪龍介『国家と民主主義』カデット機関紙「レーチ」、他新聞閉鎖措置の誤り

 レーニンは、カデットを「ブルジョア自由主義」として、法律の保護外とした。反革命行為がなくても、ブルジョア階級とブルジョア政党のあらゆる人権剥奪を当然とした。その全文をスタインベルグが『左翼社会主義革命党』に載せている。

 「我々左翼社会革命党は、その布告の中に、一般情勢によっては正当化されえない政治的ヒステリー症状の現れを見てとった。略式の大量逮捕令は、革命の日常的な煽動と混乱の中では、特に罪を犯さずともカデットであるという単にそれだけの理由で、国中の誰もがカデット党員を迫害し逮捕し危害を加えることができる、ということを意味していた。次に、この命令の全文を掲げよう。

 革命に対する内乱の指導者たちの逮捕に関する布告

 カデット党の執行機関のメンバーたちは、人民の敵として逮捕され、革命法廷で裁判に付されることになる。カデット党が革命に敵対する内乱と繋りを有していることに鑑み、彼らを特別監視の下に置くべき義務を、地方の各ソヴェトは負う。この布告は、即刻実施に移されるものとする。ペトログラード、一九一七年一一月二八日、午後一〇時三〇分。この布告は、レーニン、トロツキー、アヴィロフ、メンジンスキー、ジュガシヴィリ・スターリン、ドゥイベンコその他により署名された。」(P.54)

 〔殺人指令文書21〕、1918年6月、チェキスト党集会での法令可決とレーニン指示

 これは、ヴォルコゴーノフ『レーニンの秘密・上』にある。これは、9000万農民と全他党派の強烈な反対を押切って、レーニンが1918年5月食糧独裁令による穀物・家畜収奪路線に転換した時期だった。「農村に内戦の火をつける」というレーニン、スヴェルドロフ、トロツキーらの貧農委員会方式にたいして、ロシア全土で農民反乱が勃発し始めた。それがいかに誤った政策だったかの詳細は、『農民反乱』ファイルで書いた。

 「チェーカーのテロルは党の決議と密接に連動していた。一九一八年六月、赤色テロル命令が採択される三カ月前、チェキストたちの党集会でいくつかの法令が可決された。『君主主義者−カデット、右派エスエル、メンシェヴィキの著名で積極的な指導者たちの活躍を阻止すること。将軍、将校たちの名簿をつくり、絶えず監視すること。赤軍、その指揮官……から目を離さないこと。目立った、明らかに有罪の反革命派、山師、略奪者、収賄者を銃殺すること』などである。たとえば、バスマチ運動指導者は決して見逃すことなく、ただちに革命裁判にかけ、死刑の適用を考えることと中央アジア局に命令している。

 チェーカーの問題についてレーニンの肩入れは、『監禁、監視などは徹底的に行なうこと(特設仕切り壁、木の仕切り壁、戸棚、着替えのための仕切り壁にまで)、不意の捜査、犯罪捜査のあらゆる技術を駆使した、二重、三重のチェック・システムなど』、ごく基本的な技術面にまで及んでいる。こうした言葉は、政府の最高責任者というより保安機関の専門家のものである。彼はジェルジンスキーに、『逮捕するなら夜が好都合』とまで書いている。」(P.381)

 〔殺人・追放指令文書22〕、1918年8月9日、レーニンによる銃殺と追放指令

 ヴォルコゴーノフ『トロツキー・上』のデータである。

 「「ニージニ=ノヴゴロド・ソヴィエトヘ  ニージニでは明らかに白衛派が反乱を準備中である。全力をあげて、独裁権を持つ三人委員会をつくり、ただちに大衆的テロを加え、兵士を泥酔させる数百人もの売春婦や、旧帝政将官などを銃殺するか、町から追い出すべきである……。一刻も猶予してはならない……。全力をあげて行動し、大がかりな家宅捜索をせよ。武器保有の罪は銃殺にすべし。メンシェヴィキや動揺分子はどしどし追放せよ……。  一八年八月九日  あなたのレーニン」

 恐ろしい言葉である。民主主義、ヒューマニズム、正義を守るとした革命前の約束はどこへいってしまったのか? こうした電報は沢山ある。」(P.516)

 〔殺人指令文書23〕、1918年9月3日、内務人民委員ペトロフスキーの電報命令

 これは、スタインベルグ『左翼社会主義革命党』にある。

 「九月三日の朝、内務人民委員ペトロフスキーは、次のような電報による命令をすべての地方ソヴェトに発した――。『感傷と逡巡には直ちに終止符が打たれねばならぬ。地方ソヴェトに判明している限りの反革命的社会革命党員は即刻逮捕すること。資本家と将校団から多数の人質を確保せよ。白衛集団に於いて僅かな抵抗もしくは動きが見受けられた際には略式大量銃殺刑で直ちに鎮圧せよ。地方執行委員会は率先して事に当るべし……大衆的テロルの発動に際しては躊躇、懐疑は無用である』。政府の最高機関がこのような言葉で語っているとすれば、その執行機関、その地方機関の行動は推して知るべしであろう。そして事実、中央執行委員会の布告が未だ警告にとどまっているのに、地方では既に復讐が開始されつつあったのである。」(P.133)

 〔殺人指令文書24〕、1921年2月28日、ジェルジンスキーのメンシェヴィキ、エスエル逮捕命令。21年4月、レーニンのメンシェヴィキ、エスエル逮捕・銃殺命令

 これは、ニコラ・ヴェルトが、『共産主義黒書』に載せた。

 すでに一九二一年二月二十八日に、ジェルジンスキーはすべての地方チェーカーに以下のように命じていた。

 「(一)、すべての無政府主義的、メンシェヴィキ的、エスエル的インテリゲンツィア、とりわけ農業と食糧調達部門の人民委員部で働いている役人をただちに逮捕すること。(二)、この活動開始後、工場で働いていて、ストライキやデモを呼び掛ける可能性のあるすべてのメンシェヴィキ、エスエルおよびアナキストを逮捕すること。(注4)」(P.124)

 (注4)、V.Brovkin,op.cit,p400(ブロフキン『十月後のメンシェヴィキ』)

 一九二一年三月からのネップの導入は、抑圧政策の緩和どころか、穏健な社会主義の活動家の一層の抑圧を招いた。この弾圧は彼らが経済的「新政策」に反対する危険からではなく、むしろ長いこと彼らがこの政策を唱えてきて、その分析の正しさと洞察力を示したからであった。「自称であれ、僧称であれ、メンシェヴィキとエスエルの唯一の居場所は――とレーニンは一九二一年四月に書いている――それは牢獄である。」

 数カ月後になっても社会主義者がまだあまりにも「活動的」なのを見たレーニンは、「もしメンシェヴィキとエスエルが、まだちらっとでも顔を見せるようだったら、容赦なく彼らを銃殺してしまえ!」と書いた。一九二一年の三月から六月の問に二〇〇〇人以上の穏健な社会主義の活動家やシンパが逮捕された。メンシェヴィキ党の中央委員会の全委員が投獄された。シベリア流刑で脅迫された彼らは、一九二二年一月にハンストを始めた。ダンとエコラエフスキーを含む十二人の指導者が国外追放になり、一九二二年二月ベルリンに到着した。(P.124)

 〔殺人指令文書25〕、1921年6月、社会革命党とメンシェヴィキ組織を壊滅させる国家的作戦

 ヴォルコゴーノフが『七人の首領』(朝日新聞社、1997年)で、ロシア中央文書保管所から発掘した文書を載せた。

 「同盟者として十分可能性のあったメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)は、たちまちのうちに、容赦なく一掃された。それも政治的にだけでなく、肉体的にも抹殺された。

 昨日の友、同盟者、ほぼ同じ信念の持ち主だった人たちが、僻地へ追いやられたり、強制収容所(ラーゲリ)に放り込まれたり、刑務所に閉じ込められたり、国外に追放されたしりした。レーニンは、こうした迫害や弾圧で中心的な役割を果たした。彼の文書やメモ、決裁、報告書は、ひとの目的だけを追い求めている。すなわち、ボリシェヴィキと異なった世界観をもつロシアの社会主義者たちを、いかに絶滅するか、ということであった。

 一九二一年六月、レーニンの指示にもとづき、ウンシュリフトは政治局にこう報告している。

 『全ロシア非常委員会(ヴェー・チェーカー)は、まず第一に、社会革命党・メンシェヴィキの組織を、個々の非合法活動家たちと同様に、組織の指導者もすべて見つけだし、壊滅させるために徹底的な作業を続行するよう提案する。党の指示にもとづき、国家的規模の大々的な作戦を展開しなければならない……』(225)

 レーニンは同意した。まもなく政治局は、このウンシュリフトの報告にもとづいて、メンシェヴィキを「僻地」に追放する措置を強化することを決めるとともに、国外追放とすることにも反対しなかった(226)。」(P.155)

 (注225)、最新史料研究ロシア中央文書保管所、フォンド二、目録一、資料二四四七二、ファイル一

 (注226)、同文書保管所、フォンド二、目録二、資料六四一、ファイル一

 〔殺人指令文書26〕、1922年5月15日、17日、レーニンによる銃殺刑の範囲拡大とテロル指令

 これは、ソルジェニーツィン『収容所群島1』にあり、15日の指令は『レーニン全集』(第42巻、P.586)に載っている。5月17日手紙は、『レーニン全集』(第33巻、P.371)にある。

 「五月十二日、所定のとおり全露中央執行委員会会議が開かれた。だが、法典草案はまだできあがっていなかった。草案は目を通してもらうためゴルキにいるウラジーミル・イリイッチのもとへ提出されたばかりだった。法典の六カ条がその上限に銃殺刑を規定していた。これは満足すべきものではなかった。五月十五日、イリイッチはその草案の余白に、同じく銃殺を必要とする六力条をさらにつけ加えた(その中には、第六九条による宣伝および煽動…特に、政府に対する消極的反抗、兵役および納税の義務の不履行の呼びかけが含まれる)。イリイッチは主要な結論を司法人民委員にこう説明した。

 『同志クルスキー! 私の考えでは銃殺刑(国外追放でそれに代える場合もあるが)の適用範囲をメンシェヴィキ、社会革命党員等々のあらゆる種類の活動に対してひろげねばならないと思う。これらの活動と国際ブルジョアジーとを結びつける定式を見つけねばならないと思う』(傍点はレーニン)

 銃殺刑適用範囲を拡大する!簡明直截(ちょくせつ)これにすぎるものはない!(国外に追放された者は多かったろうか?) テロとは説得の手段である。このことも明白だろう!

 だが、クルスキーはそれでもなお十分には理解することができなかった。彼にはおそらく、この定式をどう作りあげたらいいか、この結びつきをどのようにとらえたらいいかわからなかったにちがいない。そこで翌日、彼は説明を求めるために人民委員会議議長を訪れた。この会談の内容は私たちには知る由もない。しかし五月十七日、レーニンは追いかけるようにしてゴルキから二通目の手紙を送った。

 『同志クルスキー! われわれの会談を補うものとして、刑法典の補足条項の草案をお手もとへおくる……原案には多々欠陥があるにもかかわらず、基本的な考え方ははっきりわかっていただけるとおもう。すなわち、テロの本質と正当性、その必要性、その限界を理由づける、原則的な、政治的に正しい(狭い法律上の見地からみて正しいだけでなく)命題を公然とかかげるということがそれである。

 法廷はテロを排除してはならない。そういうことを約束するのは自己欺瞞(ぎまん)ないしは欺瞞であろう。これを原則的に、はっきりと、偽りなしに、粉飾なしに基礎づけ、法律化しなければならない。できるだけ広く定式化しなければならない。なぜならば革命的な正義の観念と革命的良心だけがそれを実際により広くあるいはより狭く適用する諸条件を与えるだろうからである。

        共産主義者のあいさつをおくる    レーニン』

 私たちはこの重要文書をあえて注釈しないことにする。この文書に対しては静寂と思索とが似つかわしい。

 この文書はまだ病にとりつかれてないレーニンのこの世での最後の指令の一つであり、彼の政治的遺言の重要部分であるという点で特に貴重である。この手紙を書いてから九日目にレーニンは最初の脳卒中に見舞われ、一九二二年の秋に彼はようやくこの病から一時的に回復するのである。クルスキー宛の手紙は二通とも、二階の隅の明るい白大理石の小さな書斎で書かれたらしいが、そこは間もなく彼の臨終の床となった場所であった。」(P.342)

 10、飢饉死亡者500万人

 これを(カッコ)つきにしたのは、レーニン・政治局の(1)意図的政策による餓死者数と、(2)天災要因が基本の飢饉死亡者数との区別が、現時点での研究では不明確だからである。飢饉死亡者500万人とウクライナの死者100万人は、ほぼ定説になっている。ランメルは、そのうち、(1)意図的政策による餓死者数を250万人としている。

 これらには、天災の要因が当然ある。しかし、レーニンは、1918年5月から1921年3月までの2年10カ月間にわたる過酷な食糧独裁令を強行した。とくに1918年11月からの「軍事=割当徴発」制による一方的な穀物・家畜収奪路線は、全農民と国民を餓死寸前に追い込んだ。一方、それは、ソ連全土で、9000万農民の農業経営意欲を喪失させ、農業経営を縮小・崩壊させた。これは、まさに、レーニンのマルクス社会主義青写真に基づく、根本的に誤った市場経済廃絶路線だった。その誤りを主要な原因とし、餓死寸前の状況に、天災が重なって、500万人が飢え死にした。

 レーニンが、コサックや「存在しない富農=余剰穀物のある農民」にたいして、穀物をのこらず没収せよ! と指令したように、3大農民反乱地方、36県の農民との戦争状態地方、数百件の反乱地域にたいして、その武力鎮圧・殺戮、毒ガス使用だけでなく、それらの鎮圧後、報復として穀物の完全没収をさせて、意図的に餓死させるという飢餓の殺人政策を採ったことが考えられる。しかし、それは、「レーニン秘密資料」6000点の完全公開と飢饉史の研究が進まないと分からない。

 11、総計 最低数十万人を肉体的・政治的殺人

 レーニンが殺した自国民数は、これらのデータを単純合計すれば、百数十万人になる。これは、白衛軍との戦争における死者700万人を除く数である。意図的な飢餓殺人を合わせれば、数百万人を殺した。しかし、最低値として、数十万人を肉体的・政治的な国家テロルの手口で殺したことは間違いない。「レーニン秘密資料」6000点が全面公開されれば、この推計もさらに正確になる。以上のデータは、現時点における公表資料範囲内での近似値である。

 その大量殺人を遂行した社会主義国家暴力装置の中心部隊は、レーニン直属下のチェーカー委員長ジェルジンスキーとチェキスト28万人だった。チェーカー創設目的と実質的な共産党秘密政治警察28万人への異様な拡張目的の一つが、ソ連崩壊後に判明してきた。それは、〔殺人指令文書13〜18〕と〔殺人指令文書19〕にあるように、レーニンが、自由主義政党カデット絶滅だけでなく、ソヴィエト内の社会主義政党エスエル、メンシェヴィキをも殲滅し、ソヴィエト権力簒奪をし、共産党独裁政権を樹立することを、最初から企んでいたということである。何人かの研究者が、それを指摘している。

 〔殺人指令文書27〕、チェーカー創設とその組織、チェキスト

 チェーカーとは、十月革命後の1917年12月20日に設立された(反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会)のことである。それは、最初のソヴィエト政治警察で、1923年にGPUになり、1954年からKGBになった。のち投機取締が加えられるなど、名称には異同がある。革命直後の反革命派の動きや革命に反対する公務員のサボタージュを取締、革命法廷へ引き渡すことなどを任務とし、人民委員会議(内閣)に直属する機関として発足した。議長はジェルジンスキーで、委員会メンバーは8人だった。中央機関の設立に引き続き、18年には地方、運輸部門、軍隊内などにもチェーカーが創設された。当初この委員会は直接懲罰行動をとらず調査活動を主とするものとされたが、内戦と干渉戦争が本格化する中で、裁判所の決定なしに逮捕・投獄・処刑などを行いうるようになった。

 この設立決定の内容は、一度も公表されなかった。ただ、メンバーの一人ラツィスが、1922年2月10日「イズヴェスチヤ紙」で引用し、判明した。その内容は、ジャック・ロッシ『ラーゲリ・強制収容所注解事典』(恵雅堂出版、1996年)にある。

 「同委員会を反革命運動・怠業取締人民委員会議付属全露非常委員会と命名し、ここにそれを承認する。委員会の任務は:

 (1)、誰が引き起こそうとも、全ロシアのすべての反革命運動と怠業の企てと行動を監視し、これを撲滅すること。

 (2)、全ての怠業者と反革命分子を革命裁判にかけ、またその撲滅対策を作成すること。

 (3)、委員会は犯罪阻止に必要な限りの予備審理のみを行う。委員会は以下の三部に分かれる:1)情報部、2)組織部(全ロシアの反革命分子撲滅闘争の組織のため)と支局部、3)取締部。委員会は明日正式に発足する。それまでは軍事革命委員会清算委員会が活動する。委員会は印刷物、怠業(サボタージュ)その他、右翼エスエル、怠業者(サボタージュ参加者)、ストライキ参加者に注意する。必要措置として、押収、強制立ち退き、食糧配給券の支給停止、人民の敵のリスト公表などが講じられる。

 全露非常委員会参与会の議長とメンバーは、人民委員会議により任命される。」(P.41)

 人民委員会議は、議長にジェルジンスキーを任命した。「人民の敵」というレッテルは、スターリンからではなく、レーニンが権力奪取の1カ月半後から、正式に使い始めたのである。

 左翼エスエルの司法人民委員スタインベルグによるジェルジンスキー報告メモ抜粋

 「本委員会は新聞・雑誌、サボタージュ、立憲民主党員、右派社会革命党員、破壊工作者およびストライキ参加者に対しとくに注意を払う。

 本委員会に属する抑圧的措置は以下のごとくである。財産没収、住居からの強制退去、配給券の取り上げ、人民の敵のリストの公表等。

 決議 本案を承認する。本委員会を、反革命、投機およびサボタージュと闘う全ロシア非常委員会と称する。公布」

    『「赤色テロル」型社会主義とレーニンが“殺した”自国民の推計』

 4、ソ連崩壊後の発掘データによるレーニン像の大逆転

 〔小目次〕

   1、大量殺人指令における詭弁とウソの天才

   2、社会主義他党派絶滅を最初から意図していた「革命」家

   3、大量殺人犯罪型社会主義者?

 1、大量殺人指令における詭弁とウソの天才

 私(宮地)の判断では、ソ連崩壊後に公開された「レーニン秘密資料」、アルヒーフ(公文書)を見るかぎり、『農民』『労働者』『クロンシュタット水兵』『聖職者』『知識人』『赤色テロル』ファイルで分析したように、大量の赤色テロルにおいて、レーニンの側に正当性がまったくない。

 大量殺人指令において、レーニンが貼りつけたレッテルは、すべてレーニンの詭弁・ウソであったことが、ソ連崩壊後に判明した。とりわけ、「反革命」「富農(クラーク)」「反ソヴィエト」というレッテルの意図的な拡大解釈と、それをソヴィエト革命勢力である労働者・農民・兵士や社会主義他党派に貼りつけた手口は、まさにレーニンの思想犯罪といえる。革命勢力内部における大量殺人犯罪を、共産党秘密政治警察チェーカーとチェキスト28万人に遂行させる前提として、レーニンはその詭弁によって、チェーカーを殺人集団に変質させる思想教育犯罪を行った。レーニンは、権力奪取・権力簒奪クーデターの天才であるが、同時に、詭弁とウソの天才でもあったことが、ソ連崩壊後のデータによって証明されてきた。

 白衛軍と旧帝政勢力は、たしかに「反革命」である。しかし、労働者・農民・兵士によるレーニン路線への抵抗・反乱・異論は、レーニンの食糧独裁令による収奪と、その根底にあるマルクスの根本的に誤った社会主義青写真の市場経済廃絶・貨幣経済廃絶理論にたいする正当なものだった。レーニンによるソヴィエト権力簒奪クーデターと食糧独裁令に反対・反乱した勢力は、二月革命以来のソヴィエト革命勢力であり、「反革命」などではない。レーニンは、意図的にその2つの勢力にたいする規定を混同させた。そして、恣意的に、「反革命」という概念を拡大解釈し、革命勢力内部の批判・反対者や他党派を「反革命」勢力とでっち上げるという詭弁を使って、大量殺人犯罪を続けた。

 個々の具体的な指令・命令・布告を見ても、それらがいかに誤りであったのかは、上記や他ファイルで論証した。ましてや、上記3件の予防的大量殺人にいたっては、完全な犯罪である。よって、(表)の数字の性格は、「レーニンの大量殺人」「レーニンが殺した」という日本語以外に適切な言葉がない。

 2、社会主義他党派絶滅を最初から意図していた「革命」家

 レーニンの思想・理論とレーニン像にたいして、さらに鋭い痛烈な、突っ込んだ見方も成り立つ。以下のレーニン評価は、ヴォルコゴーノフ、ニコラ・ヴェルト、マーティン・メイリアや、ソ連崩壊後の多くの研究者たちが、共有しつつある。ロシア国内では、モスクワ国立歴史古文書大学学長アファナーシェフを初め、これが基本的になってきた。もっとも、ザミャーチンは『われら』において、先駆的で、もっとも痛烈な「レーニン=恩人=殺人者」規定を、1921年当時に行った。日本では、ここまで辛口のレーニン評価をする研究者はまだ出ていない。

    アファナーシェフ『ソ連型社会主義の再検討』レーニンがしたことへの根源的批判

 レーニンは、ボリシェヴィキ一党独裁政権樹立とその路線・政策を、マルクス主義社会主義青写真に基づく絶対的真理と信じていた。むしろ、それを絶対的真理として狂信するレベルの人間になって、1917年4月にドイツ軍封印列車に乗って帰国した。彼が創作した前衛党=共産党こそ、マルクス主義型社会主義の真理を体現し、実現できる唯一の政党である。それだけでなく、共産党とは、暴力革命・武装蜂起による権力奪取をなしうる軍事的政治的な鉄の規律によって鍛えられた軍事組織でもある。党中央決定の無条件実践を遂行する軍事的中央集権制の前衛党でなければ、真の「革命」を成し遂げ、科学的社会主義国家を確立することは不可能である。さらに、スイス亡命中、パリ・コミューンの敗北経験を徹底的に研究し、胸に刻み込んだ。それは、暴力革命で権力奪取をしたら、反革命勢力にたいするプロレタリア独裁=その生存権も奪う赤色テロルなしには、プロレタリア革命は挫折するという一面的な歪曲した狂信だった。

 ロシアにおいて社会主義を名乗る政党は多い。しかし、それらの政党との連立政権によっては、マルクス主義型社会主義を実現することは絶対にできない。なぜなら、メンシェヴィキは、ヨーロッパ型の改良主義政党であり、エスエル・左翼エスエルは、ロシア農民を土台とした社会主義構想の政党だからである。アナキストも、社会主義を名乗るが、中央集権国家を否定するので問題外である。いずれも、マルクス主義政党ではない。一国には一前衛党しか存在できない。いくら、社会主義を名乗っていても、それらの政党は、マルクス主義の真理を認識し、体現することができない。もちろん、ボリシェヴィキ支持率が低い時期には、臨時連立政府を倒すために、一時的に連立政権構想も語った。しかし、その秘めた本心は、最初から、共産党一党独裁権力だった。

 11月7日、ついに、単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターのチャンスが到来した。そして、一党独裁権力奪取に成功した。真の社会主義国家・経済体制を確立するために、共産党以外の社会主義他党派を、全ロシア中央執行委員会や各級の全ソヴィエトから追放するだけでなく、その政党組織と全党員を逮捕・銃殺・強制収容所送り・国外追放という手段によって、ロシアの政治社会から絶滅しなければならない。すべての社会主義他党派・党員の絶滅と、党独裁型社会主義実現とは、完全に一体の「革命」事業である。

    ダンコース『奪われた権力』レーニンによる社会主義他党派絶滅思想

 絶対的真理を体現している世界観政党・共産党だけが、唯一の「革命」勢力である。よって、共産党とその路線にたいして、批判・抵抗・反乱をする労働者・農民・兵士は、「反革命」勢力に転落した人民の敵となる。なぜなら、彼ら反対者は、異論・批判というレベルではなく、科学的真理にたいして、非科学的思想を社会に撒き散らすという駆除すべき害虫だからである。害虫や反革命者を肉体的政治的に抹殺するのは、全共産党員の正当な任務である。他党派と同じく、11月7日レーニンの単独武装蜂起・単独権力奪取クーデターに参加・協力した者といえども、共産党に背を向けて、批判・抵抗・反乱を始めた者たちにたいして、皆殺し対応をするのは、当然の「革命」防衛という崇高・神聖な義務である。レーニンは、このような狂気の信念に基づいて、上記27通の〔殺人指令文書〕を発令した。未発掘指令文書や電報を合わせれば、百数十通になるはずである。

 これらが、ソ連崩壊後に発掘されたデータに基づくレーニン評価となってきている。

 3、大量殺人犯罪型社会主義者?

 このレーニン像が事実となると、別の疑問が生まれる。

 数十万人を殺したレーニンとは、一体何者であったのか。彼の人間性をどう考えたらいいのか。このような大量殺人を指令した人間は、はたして社会主義者を自称できるのかという根源的な疑問である。それとも、20世紀ロシアという特殊環境が、レーニンという大量殺人犯罪型社会主義者を産み出しえたのか。もちろん、レーニンだけでなく、共産党政治局全員が同一の思想・理論で武装していた。日本共産党を含めコミンテルン型共産党は、そのマルクス・レーニン主義思想で、世界中に生まれ、社会主義世界体制を作った。

 19世紀資本主義の実態は、マルクス・エンゲルスら多数の社会主義者を育んだ。しかし、それらは、思想・理論の段階で、実験段階に至らなかった。レーニンらボリシェヴィキだけが、マルクス主義社会主義青写真を世界で最初に実験する革命家になった。74年間に及ぶ実験の惨憺たる結果は、ユートピア思想の逆変種として、マルクス主義が、大量殺人犯罪型社会主義者という逆ユートピア革命家を生産したことを証明した。

 実験の結果、マルクス・エンゲルスも、『空想から科学へ』ではなく、空想的社会主義者だったことが判明した。レーニンは、その空想的社会主義理論を、2段階クーデターとチェーカー28万人という国家暴力装置を駆使して、数十万人の自国民を殺害しつつ、実験をするチャンスを手にした。彼にとって社会主義一党独裁権力こそすべてとなった。

 マルクスは、史的唯物論によって、資本主義から社会主義への発展が歴史的法則と断言した。その社会主義経済体制は、市場経済廃絶・貨幣経済廃絶になるとした。その政治体制は、プロレタリア独裁となるべきとした。それは、旧支配階級の権利を生存権を含めて剥奪するとし、大量逮捕・大量殺人システムを示唆・是認した。世界中の「マルクス主義革命」家たちが、それが、真理であり、法則であると信じて、熱狂した。

 レーニンは、ソヴィエト民主主義を破壊し、ソヴィエト権力簒奪クーデターを成功させた。彼とボリシェヴィキにとって、2段階クーデター政権が、絶対的真理の実験であるからには、支持率がいかに低下し、総反乱が勃発しようとも、政権交代という選択肢はありえなかった。根本的に誤った経済・政治路線にたいする総反乱の中で、党独裁権力を維持するには、社会主義他党派や批判・反対の労働者・農民・兵士の大量殺人を続けるしかなかった。そして、最初からの秘めた計画通り、ロシアにおける社会主義他党派殲滅の「革命」事業を、共産党秘密政治警察チェーカー体制によって遂行した。4年7カ月間の過程で、彼は、権力のための権力者に変質していった。絶対的権力者としてのレーニンは、歴史の法則どおり、絶対的に腐敗した。

 5、おわりに―レーニン批判の理由と視点

 一体、なぜ、私(宮地)は、このような人間を、無批判的に信奉したのか。その上、25歳から40歳まで、15年間も、彼の神話の伝導に専従しえたのか。その間、私は、彼の論文や公式の業績、多数のロシア革命史、ほとんどのソ連文学作品をむさぼり読むだけでなかった。民青地区委員長をやり、愛知県党の半分の党勢力を占める名古屋中北地区常任委員・5つの全ブロック責任者=現在の5つの地区委員長を歴任し、組織内の民青同盟員や共産党員に、彼の神話の伝導を行った。その面で、著作・論文によって、レーニン讃美を行ってきた学者・研究者のしたこととは、やや性質が異なる。

 それは、社会主義革命の理想に燃えた世界的時流に乗っただけなのか。1960年安保の入党世代なので、スターリンの犯罪は知っていた。しかし、レーニンの大量殺人犯罪をまるで知らなかった、あるいは、彼とスターリンの犯罪封印の策謀によって知らされなかった、ということですませられるのか。レーニン批判のHP他8ファイルと同じく、このファイルも、私自身の自己総括、自己批判の書でもある。今回で、レーニン批判ファイルは、(関連ファイル)にあるように、9つになった。

 なぜ、そんなにレーニン批判にこだわるのかと、友人知人からもよく聞かれる。もはや、『Good Bye Lenin』の時代になったから、そんな作業は無意味ではないかとも言われる。また、メールなどでも、何通も、すごい執念ですねと感心される。執念と見なされると、やや抵抗も感じるが、その通りかもしれない。そこで、長々と、いくつものレーニン批判を書く「執念」の根拠をのべる。

    ドイツ映画紹介HP『Good Bye Lenin』

 9つのレーニン批判ファイルを書いた理由は、2つある。

 第一、私の日本共産党体験とそこからくるレーニン批判である。

 私は、専従時代に、「21日間の監禁査問」を受けた。これは、1961年綱領が決まって以来、公表された中で、最長の不法監禁・共産党による精神的拷問事件だった。さらに、党中央批判にたいする不当な専従解任をされた。「日本共産党との裁判」という国際共産主義運動史上で前代未聞の民事本人訴訟によって、共産党一専従が共産党中央委員会を訴えた。共産党は、私が憲法の裁判請求権を正規に行使したことを理由として除名した。さらに、反党分子であるとして、さまざまな政治的社会的排除活動を仕掛けた。

 これらについて、私は、それが、日本共産党の党内犯罪であり、かつ、驚くべき反憲法犯罪であると規定している。それは、私にたいする共産党の政治的社会的殺人だった。その殺人犯罪者は、宮本顕治・不破哲三・上田耕一郎・戎谷春松の4人である。そこから、私は、共産党という組織は、なにか根本的におかしいという疑惑を深めた。党中央批判をしたことを本質的理由として、将棋の駒のように使い棄てられた共産党専従は、様々な証言による推定で数百人いる。彼らは、ほぼ全員が泣き寝入りした。1989年から91年の東欧・ソ連10カ国崩壊が、その疑惑の真相を、レーニンにまで遡って、とことん追究する必要があるという執念を成長させた。私は60年安保入党なので、スターリン崇拝時期を経ていない。日本共産党批判は、そのままストレートに、その根源であるレーニンへの批判と直結した。私への宮本・不破・上田らによる政治的殺人体験は、レーニンらによるロシア革命勢力数十万人への肉体的政治的殺人データと直接つながった。

    『日本共産党との裁判第1部〜8部』共産党の党内犯罪と反憲法犯罪

 第二、レーニンの大量殺人犯罪事例にたいする強烈な怒りである。

 9つのファイルに書いたレーニンの大量殺人犯罪データは、真実だと確信している。それにたいする怒りは、同時に、大量殺人事実とその〔殺人指令文書〕を、ソ連が崩壊するまで、完璧なまでに隠蔽してきたレーニンへの怒りと二重になっている。その犯罪を隠蔽・封印してきた者は誰なのか。スターリンは、『レーニン全集』を編纂したとき、都合の悪い文書を「レーニン秘密資料」6000点として、分離・封印した。しかし、〔殺人指令文書〕にあるように、レーニン自身が、「極秘」「複写をとるな」「(聖職者全員銃殺はトロツキーの任務だが)トロツキーの名前を出すな」などと、隠蔽を指令している。

 ただし、ソ連崩壊後、日本において、レーニンにたいする対応は、3種類ある。

 (1)、私のレーニンにたいする怒りの度合いは、彼の思想・理論を絶対的真理と信仰し、専従として15年間も、その宗教的伝導をしたという彼とロシア革命史に私がのめり込んだレベルに反比例しているともいえる。ただ、ここまで、レーニンの大量殺人犯罪を告発しているのは、現在のロシアとヨーロッパに比べて、日本においてまだ少数派である。なぜなのか。

 (2)、『Good Bye Lenin』と悟りきって、彼と絶縁した方が、あんたの精神衛生上いいのではないか、という人もいる。しかし、それを言う人は、ロシア革命史やレーニンと、ほどほどに付き合ったレベルではないかとも思う。

 (3)、一方、私のレーニン批判を聞くと、レーニン崇拝の立場から、逆の強烈な拒否反応を露骨に示す人もいる。日本には、日本共産党批判・スターリン批判では一致しても、レーニン批判となると、感覚的にまるで受け付けないレベルのレーニン信奉者はかなりいる。その人たちは、ソ連崩壊後に発掘されたレーニンの大量殺人犯罪データを知らないのか、それとも、それらを反共宣伝として一蹴する姿勢を堅持する「革命」家なのか。

 レーニン批判の視点は、逆説のロシア革命史である。

 ただ、その時期を、レーニンの最高権力者期間5年2カ月間に限定している。その内容は、公式のソ連共産党史、公認のレーニン讃美伝の否定だけではない。ソ連崩壊後に出版されたロシア革命史・レーニン評価において、発掘されたレーニンの大量殺人犯罪データをほとんど無視する著作・論文への否定でもある。

 また、逆説のロシア革命史といっても、その視点は特殊である。今回を含め、9つのファイルは、多くの歴史書にあるような客観性・総合性を目的としていない。それは、二月革命以来のロシア革命勢力でありながら、レーニンに「反革命」とでっち上げられ、無実の罪で殺害・銃殺・強制収容所送りをされた数十万人の労働者・農民・兵士と社会主義他党派党員の側に立って、ロシア革命史を逆説的に分析するという視点である。殺された数十万人のロシア革命勢力の立場から、ソヴィエト民主主義破壊・ソヴィエト権力簒奪クーデターによって、ソヴィエト権力を共産党独裁権力に変質させたレーニンの犯罪を検証するものである。

4. 中川隆[-14953] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:00:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2045] 報告


ロシア革命|100年後の真実



5. 中川隆[-14952] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:08:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2044] 報告
2018.12.08
戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(1/3)

 ウクライナ軍のガンボート(砲艦)2隻とタグボート1隻が手続きを無視、無断でロシアが領海と定めているケルチ海峡へ入ったのは11月25日のことだった。その前日にウクライナ軍はウクライナ東部、ドネツクにある中立地帯の一部を占領している。事実関係をチェックすると、ウクライナ政府のロシアに対する挑発だったことは間違いない。


 ウクライナでは来年(2019年)3月に大統領選挙が予定されているが、現職のペトロ・ポロシェンコは人気がなく、このままでは再選が難しい。そこでケルチ海峡の事件を利用して大統領選挙を延期させるつもりだと推測する人もいた。


 こうした挑発行為はアメリカ政府の許可がなければ不可能だという考えから、ドナルド・トランプ政権がロシアに対して軍事的な揺さぶりをかけていると見る人もいる。2016年の大統領選挙の際、トランプはロシアとの関係修復を訴えていたのだが、大統領に就任した直後にマイケル・フリン国家安全保障補佐官が解任に追い込まれて以来、政権は好戦派に引きずられている。


 そのトランプはINF(中距離核戦力全廃条約)からの離脱を口にしているが、この流れは2002年から始まっている。ジョージ・W・ブッシュ政権が一方的にABM(弾道弾迎撃ミサイル)から離脱したのだ。この頃、ロシアが再独立への道を歩み始めたことと無縁ではないだろう。


 アメリカ/NATO軍がソ連との国境に向かって進軍を開始したのは1990年の東西ドイツの統一が切っ掛け。その際、ジェームズ・ベイカー米国務長官はソ連の外務大臣だったエドゥアルド・シェワルナゼに対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へNATOを拡大することはないと約束したとされている。


 ベイカー自身はこの約束を否定していたが、ドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに対し、そのように約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックは語っている。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)


 また、ドイツの外務大臣だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーによると、1990年2月にシェワルナゼと会った際、彼は「NATOを東へ拡大させない」と約束、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(2/3)


 アメリカ支配層は軍事力でソ連/ロシアを恫喝、服従させて世界の覇者になろうとしている。その戦略が遅くとも1904年までさかのぼれることは本ブログでも繰り返し書いてきた。


 その当時、ポーランドをロシアから独立させようという運動が存在した。プロメテウス計画と呼ばれているが、その指導者はユゼフ・ピウスツキ。


 その後継者ともいうべき人物がブワディスラフ・シコルスキーである。第2次世界大戦中はロンドンへ逃れ、イギリス政府の庇護下、亡命政府を名乗っていた。1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が執務室で休止、その翌月にドイツが降伏すると、ウィンストン・チャーチルの命令でJPS(合同作戦本部)は米英数十師団とドイツの10師団がソ連を奇襲攻撃するという内容のアンシンカブ作戦を作成した。


 シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと考えていた人物で、ビルダーバーグ・グループの生みの親としても知られている。


 ドイツ軍の主力がソ連へ攻め込んだ時、イギリス政府は手薄になったドイツの西部戦線を攻撃せず、傍観している。チャーチルは父親の代からロスチャイルド資本に従属していたが、そうしたイギリスの支配層はソ連を制圧、あるいは破壊するためにナチスを使ったとも言える。この戦争でソ連は疲弊、アメリカの支配力は増した。


 ピウスツキが活動を始めたころに第1次世界大戦があり、ドイツが破壊される。ドイツはフランスとロシアに挟まれ、不利な状況にあった。イギリスもドイツに宣戦布告していたが、そのイギリスはロシア制圧を長期戦略にし、反ロシアのポーランド人を助ける。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(3/3)


 当時、ロシアは農業を収入源にする大土地所有者と戦争をビジネス・チャンスと考える新興の産業資本家が2本柱だった。皇帝は軍人の意見もあり、戦争に傾いていくが、農民の意見を聞くということで皇帝がそばに置いていたグリゴリー・ラスプーチンは戦争に反対。皇后もやはり戦争を嫌っていた。


 軍事的な緊張が高まる中、1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され、開戦の危機が高まる。そこで7月13日に皇后はラスプーチンに電報を打っているが、その日に彼は腹を刺されて重傷を負う。8月中旬にラスプーチンは退院するが、7月28日に大戦は始まっていた。


 その後も皇后やラスプーチンは国が滅びるとして戦争に反対するが、1916年12月30日に拉致のうえ、射殺された。ロシア皇太子らが暗殺したと言われているが、黒幕はイギリスの情報機関SIS(通称MI6)だとする説がある。


 1916年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を始めとする情報機関のチームをペトログラードへ派遣したが、その中に含まれていたオズワルド・レイナーはオックスフォード大学で皇太子の「友人」。このチームが暗殺の実行部隊だと推測する人がいるのだ。


 当時の状況を考えると、ラスプーチンが重傷を負わず、暗殺もされなかったなら、皇后と手を組んで参戦に反対していたはず。大土地所有者や農民も戦争に反対だ。参戦しても早い段階でロシアが戦争から離脱したならドイツは兵力を西部戦線に集中、アメリカが参戦する前に勝利していた可能性がある。


 ラスプーチンが暗殺された直後、産業資本家を中心とする勢力が3月に革命で王政を倒す。いわゆる「二月革命」だ。そこにはメンシェビキやエス・エルが参加していた。この当時、レフ・トロツキーはメンシェビキのメンバーで、ニューヨークにいた。


 二月革命の際、ウラジミール・レーニンをはじめとするするボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、革命に参加していない。そうした亡命中のボルシェビキの幹部をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。ボルシェビキが即時停戦を主張していたからである。


 結果としてボルシェビキ政権が誕生、ロシアは戦争から離脱するのだが、アメリカの参戦で帳消しになる。イギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはそのボルシェビキ体制を倒すため、1918年に軍隊を派遣して干渉戦争を始める。


 ロシア革命とはふたつの全く違う革命の総称であり、ボルシェビキは最初の革命には事実上、参加していない。第2次世界大戦でドイツ軍を倒したのはソ連軍で、アメリカ軍やイギリス軍は勝負がついた後、ウォール街とナチス幹部が話し合いを進めるのと並行してヨーロッパで戦っただけだ。しかも、ドイツが降伏するとイギリスはロシアを奇襲攻撃しようとした。


 結局、ふたつの大戦でソ連/ロシアやヨーロッパは破壊され、その一方で戦場にならず、軍需で大儲け、ドイツや日本が略奪した財宝を手に入れたアメリカは世界で大きな力を持つことになった。


 しかし、アメリカはその地位から陥落しそうだ。アメリカは中東やアフリカなど資源の豊かな地域だけでなく、東アジアやヨーロッパで軍事的な緊張を高めている。これは1992年に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンに沿うもの。東アジアやヨーロッパを戦争で破壊するつもりかもしれない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080002/

6. 中川隆[-14951] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:09:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2043] 報告

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05


石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html

7. 中川隆[-14950] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:12:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2042] 報告
右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた


2007年12月10日
ウォール街金融資本が作り出す歴史構造 アントニー サットン 〜左翼右翼の対立、戦争etc〜

大きな対立・戦争を起こしながら動いてきた現代史。その背後にある共通した動きについて詳しく調べた人がいるので紹介したい。

アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)、彼は事実を追求し、徹底した調査に基づいた注目すべき数々の本を出している。特に注目すべきは以下。


1.America’s Secret Establishment –

2. Wall Street and the Rise of Hitler –
(ウォール街がナチスヒトラーを勃興させた。)

3. Wall Street & the Bolshevik Revolution –
(ウォール街がレーニン、トロツキーなどに資金供与してロシア革命を成功させた。)

4 The Federal Reserve Conspiracy
(連邦準備銀行の陰謀)


アントニー サットンについて、 阿修羅 より(一部略)

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英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。

本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。


徹底した調査によって以下のことが判明した。


1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。


4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。

(分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。)

彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

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(引用以上) 


サットンの業績は、秘密のベールに包まれていた金融資本家のネットワークを徹底的に調査し、あぶりだしてくれたことだと思う。従来“陰謀論”として、よく検証されずに葬られていた分野を科学的に検証した。

彼の業績によってロシア革命やナチス、そしてベトナム戦争の背後にある真実が見えてきた。おおよそ、現代史(戦争や革命恐慌、バブル)の背後には彼らウォール街金融資本の触手があり、彼らが何らかの狙いをもって特定の集団に資金提供して、育て上げる。それらの集団は、主義思想や愛国心に沿って動き、対立や戦争を起こしていく。その過程で莫大な投資や消費が行われ、金融資本は莫大な利益を手に入れることになる。


背後からこれらの対立を操縦することで、金融資本家は世界秩序を維持してきた。サットンは、金融資本家の支配方法について以下のように言っている。


>世界秩序は、分断して攻略するという単純なテクニックによる支配で成り立っている。

>・・・世界秩序は、世界を実体とみなすヘーゲル弁証法を採用した。これはそのほかのあらゆる力と実体を否定している。テーゼ(正)−アンチテーゼー(反)−ジンテーゼ(合)の原則に基いて機能し、前もって決められた結論(合)に向けてテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)が対立して終わる。

>世界秩序はユダヤ人グループを組織して資金を提供する。次に、反ユダヤグループを組織して資金を提供する。また、共産主義グループを組織してこれに資金提供し、反共産主義グループを組織して資金を提供する。必ずしも世界秩序がこういうグループ同士の対立を煽る必要はない。彼らは赤外線追跡ミサイルのように相手を見つけ出し、確実に破壊しようとする。それぞれのグループの規模と資源を調節することで、世界秩序は常に前もって結果を決めておけるのだ・・・・  サットン 『連邦準備銀行の陰謀』より

※ここで世界秩序とは、金融資本による世界秩序のことをさす。

★このように見てくると、主義や主張をかざし、あるいは小さな国益をかざして、対立している人間・勢力というのは、支配者(コントローラー)である金融資本にとっては、非常に都合がよく操作しやすい。


日本でも、

・戦前スターリンとアメリカの圧迫→危機感高まった国内で右翼が台頭、陸軍と結んで戦争への道を突っ走った。

・戦後自民党に結党資金を与えたのはCIAであり、自民党の結党により左右社会党が合同し、二大政党という対立構造が生まれた。


そして現在的にも

アメリカ財閥が中国を急成長させている
アメリカの撤退が始まり中国が台頭する

中国の台頭により日本の(特に右の)危機感が高まっている。しかし、中国を急速に台頭させているのはウォール街金融資本である。僕も危機感には共感する。しかしいたずらに敵対し相手を挑発するより、真の意図を探り可能性を探る必要があると思う。

“日本を守るのに右も左もない”では、見えにくい敵、対立を煽り、歴史を操作している連中=国際金融資本(金貸し)も、徹底的に事実追求の立場から解明していきたい。サットンができなかったより深い分析(人々の意識潮流や可能性)まで含めて。

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2007/12/000553.html

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60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。_ 2

アントニー・C・サットン

アントニー・C・サットン(Antony Cyril Sutton、1925年2月14日 - 2002年6月17日)は、イギリス生まれのアメリカの経済学者、歴史学者、作家。


サットンはロンドン大学、ゲッティンゲン大学とカリフォルニア州立大学で学びし、英国サウサンプトン大学にてD.Sc.を取得した。

米国ロサンゼルスにあるカリフォルニア州立大学で経済学部教授として働き、1968年から1973年までスタンフォード大学フーヴァー研究所の研究員であった。

当機関に所属している間、欧米技術とソ連経済発展の関連について "Western Technology and Soviet Economic Development"(全3巻)を出版し、ソ連発足初期から欧米諸国もその発展に深く関与したことを証明した。

またサットンはソ連が持つ技術的能力や製造能力も多数の米企業の支援と、米国民が納める税から融資を受けたことも指摘した。

鉄鋼業やフォードの子会社であったGAZ自動車工場など, 複数のソ連企業は米からの技術によって作られたことや、さらにはソ連がMIRVミサイル技術を手に入れたのも、高性能ベアリング製造に必要な(米からの)工作機械によって可能となったとしている。

1973年に3冊目の原稿から軍事技術関連部分を別編として "Military Aid to the Soviet Union" のタイトルで出版し、その結果フーヴァー研究員の仕事を辞任することになった[1]。 上記問題の研究成果として、

冷戦が生んだ様々な対立が「共産主義を制覇するため」続けられたのではなく、数十億ドル規模の軍事需要を意図的に維持するためだったと強調した。

少なくとも朝鮮戦争とベトナム戦争の場合、対立の両側も直接的・間接的に米国によって武装されていた[2]。

続編として、軍事技術転写の役割について論じた"The Best Enemy Money Can Buy" を書いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3

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ソ連成立とその成長、ナチスヒトラー勃興、ベトナム戦争、左翼運動の背後に同一一貫した組織(秘密結社)が画策し資金と技術をグループワークで提供していた。私たちが教えられ、表でみているのは、彼らの情報操作のたまものだった。
http://www.asyura.com/2003/dispute8/msg/819.html


アンソニー=サットン(Antony C. Sutton)博士が昨年6月になくなった。77才だった。英国生まれ、ロンドン大学出身。米国でスタンフォード大学など第一級の大学の経済学部の教授だったが、彼がスタンフォード大のフ−バー研究所に在籍中の68年、インパクトのある研究書(3巻からなる)を刊行した。もともと経済と技術の関連を専門とする経済学者だったようだが、これらの書物で、米国の銀行がソ連(成立以来)に融資と技術の提供を一貫して行ってきたこと。ベトナム戦争時、ソ連の東欧での武器工場などは米国の融資と技術が提供され、そこで作られたソ連製武器がハノイに持ち込まれ、それにより、米国兵が殺されていたこと。これらの一見敵対する国々に米国が融資と技術提供している実態をこの書で明らかにした。その後、同じことがナチスドイツに対してもおこいていたこと等を明らかにしていった。本来折り紙付きの第一級の学者,将来を託され嘱望されていた学者だったが、これら一連の執筆業により、過激分子とみなされ、彼は学会、大学組織から追い出され、2度と学問と教育の場に戻れなくなった。その後彼は、米国の権力機構の機微・実態を徹底した資料分析で解析し総計26冊の著書を出して昨年この世を去ったのだ。

68年の刊行物で、融資と技術の流れを突き止めたものの、彼は、なぜ敵対する国に、あるいは自国のカネと技術で自国の戦士たちがしななければならないのか、一体どうなっているのか、全く理解できなかったという。ところが80年代の初頭、彼に一通の手紙が届いた。もしあなたが興味があるなら、スカル&ボーンズという秘密結社のメンバーリストを24時間だけ供与するがどうか、と記されていた。この組織のメンバーの家族が、身内が入会していてうんざりで、実態を知って欲しいと思ってのことだったという。送付して欲しい、と了承。黒革製の2巻からなる本は一冊は故人リスト、もう一冊は現在のリストだった。この時点までかれはこの秘密結社のことなど聞いたことも思ったこともなかったという。しかし、これらのリストの人物を綿密に調査したところ、この組織はただ者ではない、と驚愕。68年刊行物で疑問に思っていたことが氷解したという。つまり、この組織の連中のネットワークが米国政策決定過程を導き、このような売国的なことが行われていることを突き止めるに及んだという。

 彼は、スカル&ボンズは、ドイツを発祥とする秘密結社イル皆ティーの連動組織である、という。徹底した調査によって以下のことが判明したという。

1ソ連は国際金融資本によって創設され維持された。

2ナチスドイツは国際金融資本に資本と技術供与を受けていた。

3ベトナム戦争は国際金融資本のやらせだった。つまり米国ソ連の背後にいるのは同一組織だった。

4 60年代アメリカの左翼運動マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた。


Divide&Conquer (分割統治)方式により、一国一社会を相反する2項対立の相克状態に持っていく基本戦略が使われた。右翼左翼という対立項は実は彼らが戦略的に作ったものであるという。言い換えれば、この視点からものを見ては彼らの思うツボであるという。大事なのは、超金持ちvs一般人この枠組みで物事を見るべきだ、という。

超権力は左翼右翼という見方を推進することで、一握りの超富裕者と一般人との拮抗関係という見方を弱めようとしているわけである。(日本の60年代70年代の左右対立も実はこの仕掛けにはまった側面が強いことが推測される。いわゆる現今のポチ保守はこの左右対立の見方を徹底して利用し、自分たちの富裕的支配性の隠れみのにしてきた可能性がある。多くの一般日本人が、あるいは貧乏な日本人同士がやれ、お前は右だろ左だろどうせ土井支持者だろなどと滑稽にののしりあっている図が見える。これが彼らの思うツボなのだ。実際馬鹿げている。)


彼は、スカボンのような秘密結社は確たる存在であり、彼らの活動の実態を理解することによって19世紀と20世紀の正確な歴史理解が初めて可能になるという認識に至った。つまり、われわれが学校で教わってきている歴史理解と、実際に進行していた事態とはおよそまったく異なるということなのである。

彼は外との関係を一切絶ち、孤独に隠遁隠棲しながら調査と執筆に専念した。尋ねてくる人間はすべて政府関係者ばかりで、かれらは何をどうしても居場所を突き止めてくるのだという。当初米国内から出版はできず(出版拒否、大手取り次ぎ会社から拒否)オーストラリアで出版していたが、米国のパパま2人でやっている小さな出版社が見るにみかねて、彼の本を出版するに至り、彼の本はほとんどここからでている。現在はアマゾンドットコム等を通じほとんど彼の本は時間がかかるが入手できるようになっている。1999年のインタビューで74才の彼は自分はキャリア的には不遇を託ったが、このような本質的な問題に挑戦でき26冊の本を世に送りだすことができた。執筆内容に一切妥協はなく真実のみを書いた、これは私の誇りとするところである、という主旨のことを語っている。

スカボンは現在約600名がアクティブであるという。エール大学内で毎年25名が組織に入るしきたり。生涯を通じて、支配層中心メンバーとして機能するようだ。エール大学で、この組織の余りの無気味さに、排斥運動が起きた経緯もあるという。

"My senior year, I jointed Skull& Bones, a secret society, so secret I can't say anything more."

「わたしは大学4年のときスカボンに入ったんです。それは秘密結社でして、秘密であるが故に、わたしはこれ以上この組織について何もお話はできないんです。」

現大統領が最近の記者の質問にこのように答えている(これはサットンのホームページにも掲載されている。オリジナルはUSAToday紙の記事(非常に勇気ある女性ライターで当時大学生か学校出たてだったと思う。)この発言から分かることは、彼は、スカボンが1 秘密結社であり、2それが現時点で存在しており、3しかも自分がメンバーであり、4 内部情報を明かさないことがその組織の掟であること。この4点までを認めているのである。彼の、エール出身の父もこの組織のメンバーであることはよく知られており、すくなくとも父はメンバーとしては非常にアクティブだったという。ちなみにエール大学というような大学は、基本的にはアメリカの中産階層の子弟がはいれるところではまったくない。富裕層のための大学である。米国中央情報局の上層部は露骨にエール大学閥であることが知られている。

サットンのホームページ:

http://www.antonysutton.com/

彼が受けた最後のインタビュー:

http://www.antonysutton.com/suttoninterview.html

彼の代表作の一つ(スカボン本”America's Secret Establishment)

http://www.cia-drugs.com/Merchant2/merchant.mv?Screen=SFNT&Store_Code=CS&Affiliate=ctrl


1.America's Secret Establishment --

2. Wall Street and the Rise of Hitler --

ウォールストリートがナチスヒトラーを勃興させたことを証明した本。
3. Wall Street & the Bolshevik Revolution --

ウォールストリートがトロツキーなどいもふくめ資金を与え、ソ連を成立させた経緯がかかれている。


上記1についてのアマゾン書店で寄せられる読者評は以下のように最高度の星を獲得している。
http://www.amazon.com/exec/obidos/search-handle-form/002-3984047-1859263

読者のコメントをいちいち読むと非常に支持されていることがわかる。

彼の本は日本で一冊も翻訳されていないが、少なくとも
上記の3冊、最悪でも上記1について、翻訳出版されることが非常に望ましい。アメリカ理解、近現代史理解にこれらの報告書は絶対不可欠なのだ。

最高度の頭脳と調査能力を持つ彼は20世紀の知的巨人の一人であり、彼のすべての著書は近現代史を真に理解したいすべての人々、あるいは新しい歴史形成を担いたいすべての人々への贈り物であり、21世紀の知的遺産だといえる。

彼の真摯な知的営為、屈せず戦い抜いた態度に真の知識人の模範をみるものであり、最高度の敬意を払いたい。最近朝日新聞論壇で投稿されていたpublic intellectuals 公的知識人=一般人のための知識人という概念は米国由来のものであり、最近某大学でこの名前を冠する博士号Ph.D.を授与するところがでてきた。それほど、米国のいわゆる知識人は権力の走狗であることの批判からおきている現象だ。サットンこそこの敬称にふさわしい人物はいないだろう。

自分が知らない、聞いたこともない説であるゆえトンデモ本だ、などと決めつけるタイプの人々にはこれらは高踏すぎて無縁な著作郡であることは確かである。学問的訓練を経た読者に最も向くものといえる。

近現代史を専門とする人々は必読であることを強調していきたい。

http://www.asyura2.com/2003/dispute8/msg/819.html

8. 中川隆[-14949] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:20:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2041] 報告

ソ連の歴史



















9. 中川隆[-14948] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:22:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2040] 報告
ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


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【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405

筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。

「ブラッドランド」には、ルーマニア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ナチ西部占領地域は含まれていない。ルーマニアではファシスト政権の反ユダヤ政策により、強制収容所や移送中の列車の中で30万人が死亡したが、これはナチやソ連政府とは無関係な殺害政策である。ハンガリーでは戦争末期に40万人のユダヤ人がアウシュビッツに送られて死亡したが、ソ連は関与していない。ユーゴではナチ傀儡「クロアチア独立国」により数十万人のユダヤ人やセルビア人が殺害されたが、ユーゴがソ連に支配されたことはない。フランスでも反ユダヤ政策によりユダヤ人が絶滅収容所に送られたが、「ブラッドランド」からは外れる、とのこと。

その理由は、あくまで上記のようにポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域のみに的を絞っているからだ。これらは戦前にはソ連に、戦間期にはナチスの大量殺人政策に痛めつけられた地域である。双方の無慈悲なテロに晒され夥しい数の人が死んだ”流血地帯”である。

筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人

http://3rdkz.net/?p=405


1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。

1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。

年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。
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ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。


雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。

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ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。

大粛清ー犠牲者70万人以上

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ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。

同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。

また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。

1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。

1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。

ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。

粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。

殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。

大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。

ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

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1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。

ドイツ国防軍の末端兵士に至るまで、ポーランド人は支配民族(=ドイツ人)に尽くすための奴隷民族であると教えられた。ドイツ将兵はポーランド人を気まぐれに虐待し、ドイツ兵一人が傷つけば身近なポーランド人を報復として数百人規模で銃殺した。また、ドイツ兵は平然とポーランド女性やユダヤ人女性を強姦した。銃声が聞こえれば付近の村人をフェンスの前に並ばせて皆殺しにした。またポーランド軍捕虜から軍服を奪い去り、ゲリラと決めつけて問答無用に銃殺にした。ポーランドにはユダヤ人が数多くいたが、ドイツ兵は彼らも気まぐれに虐待を加え、婦女子を強姦し、村人を銃殺し村を焼き払った。また、ドイツ空軍は開戦以来都市に無差別の爆撃を加え続け、戦闘の混乱により東に逃げる人々の列に機銃掃射を加えて楽しんだ。

1939年末までにドイツ兵に殺されたポーランド民間人は45000人に上った。
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戦後はドイツ軍政と、諜報機関のトップであるラインハルト・ハイドリヒによって編成されたナチス親衛隊の移動抹殺部隊により、ポーランドのエリート階層は根絶やしにされ、銃やガスや人為的飢餓でのきなみ絶滅の憂き目にあった。これは「AB行動」と呼ばれる。

ヒトラーの目的はポーランドをドイツの人種差別主義者の理想通りの世界とすること、社会からドイツの支配に抵抗する力を奪うことだった。とはいえ、当時のドイツの殺戮班はこの手のテロにまだ不慣れで、NKVDほど効率的に敵を排除することができず、総督府領内で徐々にレジスタンス活動が活発化して行く。

ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がもっとうまくやった。

ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。

ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。

同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。

独ソ開戦ー犠牲者?

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ドイツは第一次大戦で英軍の海上封鎖により76万人が餓死した苦い記憶を持つ。その歴史を熟知していたヒトラーは、食糧不安を解消するためになんとしてもウクライナが欲しかった。ウクライナはソ連の穀物生産の90%をしめるヨーロッパ有数のカロリー源であった。ヒトラーは東方総合計画を策定した。これは端的にいえばウクライナを占領し、農民を全て餓死させ、空白になった土地にドイツ人を入植させる。こういうものだった。

ドイツの計画立案者たちは、33年のウクライナ大飢饉に倣い、集団農場を使って農民を餓死させる計画を立てた。また、戦争によって拡大した領土に住まうドイツ人や前線に送るドイツ兵に食糧を効率的に供給するために、スラブ人やユダヤ人から食べ物を取り上げ、餓死させる計画を立てた。これはつまり、ソ連地域の大都市を破壊し、森に帰すことで冬の寒さに晒し、1942年の春までに3000万人を餓死させるというものだった。

しかし、戦況が思ったよりも長引き、ドイツ国防軍は苦戦し、進軍が遅れたために計画通りにはいかなかった。都市や集団農場の住民を殺して食糧源がなくなれば戦況は壊滅的に悪化するだろう。このような事情に加え、ナチス親衛隊やドイツ国防軍にソ連NKVDほどの実力はなかった。実際には飢餓計画は実行不可能だったのである。しかし、ドイツ国防軍に捕らえられた300万のソビエト兵捕虜は、冬の荒野に鉄条網を張り巡らせただけの収容所ともいえぬような場所に拘禁され、食べ物を与えられずほとんど全員が餓死した。またドイツ国防軍やナチス親衛隊は、50万人の捕虜を銃殺し、260万人の捕虜を餓死させるか、移送中に死に至らしめた。初めから殺すつもりだったのだ。犠牲者は310万人ともいわれる。

また、ドイツ兵はポーランド人よりもさらに劣等な人種としてロシア人を見ていた。ドイツ兵は彼らをためらうことなく銃殺したが、このような民間人に対する犯罪行為は、バルバロッサ命令という形で合法とされた。

また、コミッサール命令という政治将校、共産党員、赤軍将兵、または市民のふりをしたゲリラは問答無用に処刑して良いことになっていた。この定義にユダヤ人が含まれるようになると殺戮は拡大した。犠牲者はあまりにも膨大で、はっきりとした数字は未解明である。

1941年の9月までにドイツ軍が包囲した、ソビエト北の要衝レニングラードでは本格的な兵糧攻めが行われた。900日間にわたる包囲戦により、100万人の市民が餓死した。ヒトラーは東方総合計画により、レニングラードを完全に破壊して更地にしたうえでフィンランドに引き渡すつもりだった。はじめから住民を全て殺すつもりだったのである。包囲下のレニングラードでもNKVDは微塵も揺らぐことなく健在で、裏切り者を探し回っては銃殺していた。レニングラード市民は独ソ双方から過酷なテロを受けたのである。

また、1944年のワルシャワ蜂起では、20万人の市民が戦闘の巻き添えになって死亡し、70万人の市民が市内から追放された。

ホロコーストー犠牲者540万人

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ホロコーストはバルト諸国のリトアニアから開始された。ナチス親衛隊はリトアニアやラトヴィアで現地民を扇動してポグロムを引き起こし、ユダヤ人やNKVD、共産党員を殺害。ドイツ軍や警察はユダヤ人の成人男性をスパイやゲリラと見なして銃殺した。

1941年の8月ごろになると、ヒトラーは既にソ連への奇襲作戦が失敗し、戦争終了を予定していた9月中旬までにモスクワを占領することは不可能そうであると悟った。総統はせめてユダヤ人を皆殺しにすることを考えた。こうしてユダヤ人の女性や子供・老人がゲリラの定義の中に含まれた。

ポーランドの時と同じように、ソ連の指導者たちを排除するため、保安諜報部(SD)と警察の特殊部隊が編成されていたが、彼らの任務はいつしかユダヤ人を全て殺すことへと変化して行った。SDと警察の移動抹殺作戦により、リトアニアのユダヤ人20万人のうち19万5千人が銃殺された。その他の地域でも気の狂ったような大量銃殺が繰り広げられ、その凶行をとめることができる者はいなかった。全ては総統命令として正当化されたのである。

ウクライナ、ベラルーシ、西部ソ連地区でも状況は似たようなものだった。ドイツ軍が版図を広げるたびに移動抹殺隊が影のように現れ、現地徴集兵を雇ってユダヤ人や共産党員、精神障害者や同性愛者を手当たり次第に銃殺した。ウクライナのキエフではたった2日で3万人以上のユダヤ人婦女子が銃殺され、ベラルーシでは過酷なパルチザン戦が繰り広げられ、国民の4分の1が巻き添えになって殺された。移動抹殺作戦の犠牲者は100万人以上と推計される。
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ポーランドには6つの絶滅収容所が設置され、ヨーロッパ各地からユダヤ人や政治犯、思想犯、同性愛者や障害者がかき集められて、飢餓や強制労働や銃やガスによって命を絶たれた。犠牲者は250万人を超える。

ホロコーストの結果、ヨーロッパの全ユダヤ人のうち3分の2が殺害され、なかでもポーランドの被害が最も深刻で、90%以上、300万人のユダヤ人が絶滅された。

抵抗の果てに

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戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。

戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。

1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。

1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。

同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。

このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ!

おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。

アウシュビッツはホロコーストの象徴だが、アウシュビッツで死亡したユダヤ人は死亡したユダヤ人の6分の1に過ぎない。アウシュビッツが本格的に稼働するころには、既にユダヤ人の多くは命を落としていた。

ベルゲン・ベルゼンやダッハウ解放後の悲惨な写真は人々の記憶に刻みつけられたが、それらはどちらも絶滅収容所ではなく、西側の連合軍が解放した絶滅収容所は一つもなく、カティンの森もバビ・ヤールも、西側の目に触れたことは一度もない。

ナチス崩壊後も、スターリンの赤い帝国が厳重に引いた鉄のカーテンによって、ロシアばかりでなく、ドイツの犯罪行為も闇に葬られてしまった。ナチスドイツの東部捕虜収容所は、絶滅収容所以上の絶滅施設であった。そこでは310万人が飢餓や銃によって殺害され、ソ連兵捕虜の死亡率は60%近くに上った。ヒトラーの東方総合計画の検証もほとんど進まなかった。”ブラッドランド”は、全て戦後スターリンの帝国に覆い隠されてしまったからである。

激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4

10. 中川隆[-14947] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:40:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2039] 報告

ドイツやソ連に占領されるとこうなる:

ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)

監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 アンジェイ・ワイダ ヴワディスワフ・パシコフスキ プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
原作 アンジェイ・ムラルチク
音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ
撮影 パヴェウ・エデルマン
公開 2007年9月17日
製作国 ポーランド
言語 ポーランド語 ドイツ語 ロシア語


動画
https://www.nicovideo.jp/search/KATY%C5%83%20%20%2F7%20?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


キャスト

マヤ・オスタシェフスカ (Maja Ostaszewska):アンナ
アルトゥル・ジミイェフスキ (Artur Żmijewski):アンジェイ大尉 - アンナの夫、カティンで殺害される
ヴィクトリア・ゴンシェフスカ (Wiktoria Gąsiewska) : ヴェロニカ(通称ニカ) - アンジェイとアンナの娘
マヤ・コモロフスカ (Maja Komorowska):アンジェイの母
ヴワディスワフ・コヴァルスキ (Władysław Kowalski):アンジェイの父・ヤン教授 - ヤギェウォ大学教授、講演会を名目に大学に招集され、同僚とともに収容所に送られ、病死
アンジェイ・ヒラ (Andrzej Chyra):イェジ中尉 - アンジェイの戦友 - カティンで殺害されず帰還、のちに「カティンの森事件」について、ソ連側の証人となったことを恥じて自殺
ダヌタ・ステンカ (Danuta Stenka):大将夫人ルジャ
ヤン・エングレルト (Jan Englert):大将 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・グリンスカ (Agnieszka Glińska):イレナ - ピョトル中尉の妹
マグダレナ・チェレツカ (Magdalena Cielecka):アグニェシュカ - ピョトル中尉、イレナの妹
パヴェウ・マワシンスキ (Paweł Małaszyński):ピョトル中尉 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・カヴョルスカ (Agnieszka Kawiorska):エヴァ - 大将とルジャの娘
アントニ・パヴリツキ (Antoni Pawlicki):タデウシュ(トゥル) - アンナの甥、父カジミエシュはカティンで殺害される
アンナ・ラドヴァン (Anna Radwan) : エルジュビェタ - タデウシュの母
クルィスティナ・ザフファトヴィチ (Krystyna Zachwatowicz):グレタ - ドイツ総督府の法医学研究所関係者。イェジ中尉の依頼により、アンナにアンジェイ大佐の手帳をわたす
セルゲイ・ガルマッシュ (Sergei Garmash) : ポポフ大尉 - 同情的でアンナを秘密警察から匿った赤軍将校
スタニスワヴァ・チェリンスカ (Stanisława Celińska) : スタシア - 大将の使用人
クシシュトフ・グロビシュ (Krzysztof Globisz) : 医師 ドイツ総督府の法医学研究所で、カティンの森の事件の調査をしている。ポーランドがソ連により解放されることになり、自分の身の危険を感じている。


▲△▽▼


『カティンの森』(ポーランド語: Katyń)は、2007年(平成19年)製作・公開のポーランドの映画(en:Cinema of Poland)である。第二次大戦下に実際に起きた「カティンの森事件」を題材とした映画である。


自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である[1]。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。

撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された[2]。

翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された[2]。

ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した[3]。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった[4][5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE


1939年9月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。1945年1月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人から“カティンの嘘”を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=40518


▲△▽▼


カティンの森事件(ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。

「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。


経緯

1939年4月にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結された。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻した。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領を行ったのである。


ポーランド人捕虜問題

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。

ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[3]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答している。


捕虜の取扱い

ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク(英語版)、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。


事件の発覚

スモレンスクの近郊にある村・グニェズドヴォ(Gnyozdovo)では1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。

1943年2月27日、ドイツ軍中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ将軍は「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォよりも「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団からベルリンのドイツ国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。


発見当初の動静

1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このため、ドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられて殺害されたと主張した。しかし、捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランド赤十字社とドイツ赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これを受けてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団の派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、また、ドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコスロバキア(ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア)など各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。


第一次調査

調査はソ連軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。

1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。


西側連合国の対応

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチス・ドイツが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。また当時ロンドンに移っていたポーランド亡命政府に対するイギリス大使であるオーウェン・オマレーが「事件がソ連によるものである」と結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[4]。

1944年、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務から外され、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった[4]。また、事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ(英語版)は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[4]。


ソ連による「真相究明」

1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかし、この調査委員会は委員長のニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初から「ナチス・ドイツの犯行」であることを立証するためのものであった[5]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまり、ドイツ軍の占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったことを根拠として、ナチス・ドイツの犯行であったと結論付けた[5]。

さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[5]。


冷戦期のカティンの森事件問題

冷戦が激化し始めた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[6]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[5]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務人民委員部が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[5]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[6]。

1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)のアレクサンドル・シェレーピン議長は、ニキータ・フルシチョフ第一書記に対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[7]。戦後ポーランドを支配していたPZPR(ポーランド統一労働者党)の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[8]。亡命ポーランド人たちは事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[9]。

また、1970年代後半のイギリスでは事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑を作る計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[4]。


冷戦後の調査

ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。

1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[7]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。


1992年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府は最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4421人、ミエドノイエで6311人、ハルキエで3820人、ビコブニアで3435人であり、残りの3870人は依然として消息不明のままである[10]。

2004年、ロシア検察当局の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[11]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドにはあたらない」という声明を行った[12]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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January 1, 2010
こんな映画を観た〜アンジェイ・ワイダ「カティンの森」

シアター・キノ代表の中島洋が正月映画に選んだ作品に間違いはないだろう。

こう考えて観た「カティンの森」(原題はカティン)、ソ連秘密警察によるポーランド将校の処刑シーンが延々と続いて終わるワイダ監督渾身の力作は、元日に観るべき映画として最良の選択だった。

カティンの森<事件>についてはウィキペディアが詳しい。カティンの森事件

しかしこの映画は「カティンの森事件」を伝えるためだけのものではない。実父をカティンで殺された経歴を持つワイダ監督の眼差しは、たとえば「存在の耐えられない軽さ」のような映画と同じ、犠牲者の側に立つのか、それとも生き延びるために加害者の欺瞞に迎合するのか、という非常に困難な問いに向けられている。そして、映画全体としてはソ連の犯罪の告発というより、夫の生還を信じて何十年も待ち続けたポーランドの女性たちへの痛切なグランプリになっている。

映画にはいくつかの役割がある。その中でも最も重要なものの一つは、歴史と人間の欺瞞を暴くことであり、もしかしたらすべてが欺瞞かもしれない歴史の中での人間の生き方を問うことである。

将校の妻たちは潔癖とも言える「拒否」の精神を発揮し、はた目には無意味に見える抵抗を続けていく。同じ状況におかれたとき、自分ならどうしただろうかと考えずにはいられないが、たぶん、現実に彼女たちはこういう生き方を貫いたのだ。処世術として迎合したふりをして時を待ち、組織化して反撃に転じるという発想はない。政治的にあまりにナイーブなのだ。すべては個人的な出来事に還元されてしまうようで、それを歯がゆくも感じる。

将校アンジェイの妻は、彼女とその娘の安全を心配する良心的な秘密警察幹部からの形式的な結婚話を断るが、思わず、なんて愚かなと思ってしまったほどだ。

しかし、これこそが女性特有の偉大さなのだ。極私的な「愛」しか信じるに値するものはない。一見、非歴史的で小市民的にみえるこの愚かといえば愚かな信念こそが、実はジェノサイドを不可避的に結果するあらゆる「政治」を解体する唯一の契機なのかもしれない。

大量の死体がブルドーザーで埋められていくシーンは圧巻で、自分が死体の一つとなって埋められていくかのような圧迫感がある。しかしそれは単に残酷なシーンというだけでなく、人間が本質的に持つ残酷さを感じさせて映像そのもの以上に恐ろしい。

バビ・ヤールでナチス・ドイツが行った大量処刑は機関銃によるものだったが、「カティンの森」ではソ連赤軍は一人ずつ確実にピストルで処刑したようだ。ほとんど証言が残されていないが、生涯最後となるかもかもしれない作品で、ワイダ監督はどんな細部にも細心の注意を払い、できるだけ事実に忠実に再現するように心がけたことだろうから、これがほぼ事実なのだろう。こうした「手工業的」な処刑方法には、いかにもスターリン型共産主義者らしい陰険さと小心さがうかがえる。

この大量虐殺の首謀者はスターリンとその片腕ベリヤであることが歴史的に明らかになっている。しかしこの「事件」は彼らの個人的な資質によって起きたものではなく、権力の集中によっていつでも起こりうることであり、現に起きていて、これからも起きていくことだろう。

最も軽蔑すべき人間たちによって最も優れた人間たちが粛清されてきたのが人類の歴史にほかならない。

その歴史を反転させる革命こそが待たれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/rzanpaku/diary/201001010000/


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「カティンの森」アンジェイ・ワイダ監督 虐殺を今に問う 2009年12月19日
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

 祖国の悲劇と抵抗の歴史を描き続けるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が東京・神保町の岩波ホールで公開中だ。冒頭、「両親に捧(ささ)げる」という字幕が出る。父の命を奪い、母を苦しめた第2次大戦中の虐殺を、改めて「今」に問う。

 ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻した1939年。アンナは、ポーランド軍大尉の夫がソ連軍捕虜として連行される姿を目撃する。3年半後、ドイツは「虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見」と発表。アンナは夫の死を伝えられるが、事実を受け入れられない……。

 この虐殺は「カティンの森事件」と呼ばれる。ポーランド東部を占領したソ連が40年、捕虜にした1万5千人ともいわれるポーランド人将校を殺害した。監督が映画化を構想し始めたのは、それから半世紀後だった。戦後、ポーランドはソ連の強い影響下にあった。「冷戦期、この事件はドイツの犯罪とされていた」と監督。89年に共産主義政権が次々倒れた東欧革命が起きるまで、真相はほぼ闇に葬られていたという。

 以後、すぐ製作に取りかかろうと試みるが、事件自体が長くタブー視され、全容を示す資料も、事件を扱った小説も見つからなかった。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の「抵抗3部作」をはじめ、抑圧された人間像を切り出す原作を重厚に映してきた社会派の巨匠は、撮影までに長期をかけた。「見つかった将校の日記を参考にしたり、当時を知っている人にインタビューしたりした。映画は登場人物を含め、ほとんど実話だ」

 監督がつむぐ物語は、残された人たちを軸につづられていく。「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と話す。監督自身、夫の生還を信じ続けた母親を見て育ったからだ。待つ側を物語ることで、残されて生きる者をも苦しませ続ける戦いの現実を強調したかった。犠牲になった兄のためにソ連の犯罪を意味する墓碑を建てようとする女性も登場する。

 手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める――。終盤の虐殺場面は、まるで流れ作業のように残酷に映される。「この事件は戦争というより、スターリンの指示による官僚的、組織的な虐殺だろう」。独ソ双方が、相手側の犯罪としてプロパガンダ映画に利用するさまも象徴的に映される。

 劇中、アンナの夫の父にあたる大学教授はドイツの収容所で亡くなる。「言いたいことは一つ。独ソ両国ともポーランドを事実上、『消滅』させることで、同国を思うままに動かしたかった」と述べた。
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

11. 中川隆[-14946] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:51:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2038] 報告

そして、超天才ショスタコーヴィチの人生はこうなった


宇野功芳

クラシック作曲家の三大ネクラは、ブラームス、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチではあるまいか。それでもチャイコフスキーの場合は、泣き節が大げさな上、メロディーが甘美なので深刻さが減じているが、救われないのはショスタコーヴィチだ。後期の弦楽四重奏曲を聴いてごらんなさい。もう、生きていくのがいやになる。


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ショスタコーヴィチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81

ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(1906年9月25日 - 1975年8月9日)は、ソビエト連邦時代の作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲が有名である。

シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価がほぼ確立され、世界的にも特に交響曲の大家と認知されている。また、弦楽四重奏曲においても秀逸な曲を残し、芸術音楽における20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重苦しい雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。

当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言』[1]が出版されて以後、ショスタコーヴィチには皮肉や反体制、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した、悲劇の作曲家」というイメージも加わった。

略歴

1906年 9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれる。
1915年 春、両親に連れられて初めて劇場を訪れ、オペラ(リムスキー=コルサコフの《サルタン王の物語》)を観る。夏には母親から初めてのピアノのレッスンを受ける。秋、シドルフスカヤ商業学校に入学。作曲も始める。
1916年 グリャッセール音楽学校に入学。
1917年 2月、街路上で同年配の少年が警官に殺害されるのを眼前で見る。同月、グリャッセールのところへ通う興味を失ってしまう。
1918年 秋、ローザノヴァにピアノを師事。(1917年とも)
1919年 第108労働学校が閉鎖。ユストニナ校に転校。秋、ペテルブルク音楽院に入学。グラズノフに師事する。
1921年 ユストニナ校を中退。
1922年 父が死去。
1923年 音楽院のピアノ科を修了。夏休みを利用した結核療養のために訪れたクリミアで、初のピアノ・リサイタルを開く。
1924年 11月、映画館「スヴェトラーヤ・フィリム」でピアノ伴奏のアルバイトを始める
1925年 作曲科の修了にともない、音楽院を卒業。修了制作として交響曲第1番を作曲。
1926年 5月16日、交響曲第1番初演。秋、音楽院の大学院課程に進学。
1927年 1月、第1回ショパン国際ピアノコンクールに出場。
1928年 メイエルホリド劇場の音楽部長として1月から3月まで務める。
1930年 バレエ音楽「黄金時代」完成し、レニングラードで初演。失敗する。
1931年 バレエ音楽「ボルト」完成し、レニングラードで初演。同じく失敗する。
1932年 科学者ニーナ・ヴァルザルと結婚。婚約記念として書き始められた歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を彼女に献呈。8月、作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出。
1933年 軽音楽に関するレニングラード市の委員会の委員になる。ピアノ協奏曲第1番初演。
1934年 レニングラード市アクチャーブリ区の区議会議員に選出される。
1936年 歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(1月)とバレエ「明るい小川」(2月)に対するプラウダ批判。5月30日、長女ガリーナ生誕。
1937年 春(一説には1月)、レニングラード音楽院に講師として勤務(後に教授)。交響曲第5番初演(11月21日)。この成功により名誉を回復。
1938年 5月10日、長男マクシム生誕。
1939年 ムソルグスキー生誕100周年記念祭の準備委員会の委員長となる。音楽院で教授に就任。
1940年 5月、労働赤旗勲章受章。ピアノ五重奏曲がスターリン賞を受賞。
1941年 交響曲第7番を作曲。翌年の初演は成功を収め、同年アメリカでも演奏された。レニングラード音楽院教授を辞任。
1942年 1月、交響曲第7番がスターリン賞第1席受賞。ロシア共和国功労芸術家の称号を授与。
1943年 3月、モスクワ音楽院教授に就任。国歌コンクールに参加。
1946年 ピアノ三重奏曲第2番がスターリン賞第2席を受賞。12月、レーニン勲章受章。
1947年 2月、レニングラード音楽院教授に復職。同月、作曲家同盟レニングラード支部の支部長に選出。10月、ロシア共和国人民芸術家の称号を授与。ロシア共和国最高議会代議員に選出。
1948年 ジダーノフ批判。9月、レニングラード音楽院、モスクワ音楽院ともに教授の職を解任。
1948年 3月、世界平和文化科学会議出席のため渡米(ニューヨーク)。
1949年 オラトリオ「森の歌」作曲・初演。
1950年 「森の歌」がスターリン賞第1席を受賞。10月、ソヴィエト平和擁護委員会の委員となる。11月、世界平和会議出席のためワルシャワ入り。
1952年 「革命詩人の詩による10の詩曲」がスターリン賞第2席を受賞。12月、世界平和会議出席のためウィーンへ。
1953年 交響曲第10番作曲、初演(12月17日)。6月、文化代表団の一員としてオーストリアに派遣される。
1954年 交響曲第10番に関する討議会(いわゆる第10論争)が作曲家同盟で開かれる。8月、ソ連人民芸術家の称号を授与。9月、国際平和賞受賞。12月、妻ニーナ死去。同月、スウェーデン王立音楽アカデミーの名誉会員に選出される。
1955年 東ドイツ芸術アカデミーの準会員に選出される。11月、母ソーフィヤ死去。
1956年 1月、サンタ・チェチーリア芸術アカデミーの名誉会員に選出される。9月、レーニン勲章受章。
1957年 春に開かれた第2回作曲家同盟大会において作曲家同盟初委員長となる。交響曲第11番がレーニン賞受賞。
1958年 オックスフォード大学より名誉博士の学位を授与、イギリス王立音楽アカデミー会員に選出。国際シベリウス記念賞受賞。9月、右手の麻痺(後に脊椎性小児麻痺であることが判明)で入院。
1959年 9月、米国務省主催による文化交流プログラムでワシントンで開催されたソヴィエト祭に、ソヴィエト代表団の一員として派遣される。メキシコ音楽院名誉教授の称号を受ける。
1960年 2月、再び右手の治療のため入院。10月、息子マクシムの結婚式で転倒、右足を骨折、入院。作曲家同盟第1書記に任命。
1961年 9月、ソビエト共産党員となる。12月、入党と引き替えにレニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰する。交響曲第4番初演(12月30日)。
1962年 交響曲第13番作曲、初演。ソヴィエト連邦最高会議代議員に選出される。第2回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。6月、右手の治療のため三度入院。 月、イリーナ・スピーンスカヤと再婚。11月、ゴーリキー市で行われたコンサートで「祝典序曲」を指揮。
1963年 ユネスコ国際音楽評議会名誉会員に選出。
1964年 バシキール自治共和国人民芸術家の称号を受ける。
1965年 心臓病の悪化で入院。ソヴィエト芸術学名誉博士の学位を授与。
1966年 5月、生誕60周年記念演奏会出演後、心筋梗塞を起こし入院。第3回チャイコフスキー国際コンクールの組織委員会委員長に任命される。8月、イギリス・ロイヤル・フィルハーモニック協会金賞受賞。10月、レーニン勲章受章。社会主義労働英雄の称号を授与。
1967年 3月、オーストリア共和国名誉銀記章授与。9月、右足骨折で入院。
1968年 5月、シャルル・クロ記念フランス・レコード協会1等賞受賞。ロシア共和国作曲家同盟理事に選出。《ステパン・ラージンの処刑》がグリンカ賞受賞。世界平和擁護委員会の委員に選出。
1969年 交響曲第14番作曲、初演。ウィーン・モーツァルト協会がモーツァルト記念メダルを授与。
1970年 クルガンのサナトリウムで8月まで療養生活を送る。ベートーヴェン生誕200年祭のソヴィエト連邦実行委員会委員長に就任。8月、治療のため再入院。11月、《ソヴィエト民警の行進》がソヴィエト文学・芸術コンクール1等賞受賞。フィンランド作曲家協会名誉会員に任命。
1971年 3月、第24回共産党大会代議員を務める。9月、2回目の心筋梗塞で入院。10月革命勲章受章。
1972年 5月、東ドイツ友好の星金賞受賞。7月、聖トリニティー大学より名誉音楽博士の学位を授与される。スクリャービン生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
1973年 デンマーク・ゾンニング基金名誉賞受賞。6月、ノース・ウェスタン大学より芸術名誉博士の学位を授与。8月、サハロフ非難書簡に署名。姉マリア死去。ラフマニノフ生誕100周年祭実行委員会委員長に選出。
1974年 男声合唱曲《忠誠》、弦楽四重奏曲第14番がグリンカ賞受賞。ソ連邦最高会議民族ソヴィエト〈国民教育・科学・文化委員会〉委員長を務める。
1975年 4月、フランス芸術アカデミーの名誉会員となる。最後の作品「ヴィオラソナタ作品147」完成。7月、体の不調を訴え入院。8月4日に再入院の後、8月9日、ソ連の首都モスクワの病院にて肺がんで逝去。8月14日、ノヴォジェヴィチ墓地に埋葬される。

詳細

1919年ペテルブルク音楽院(後にペトログラード音楽院、レニングラード音楽院)に入学。専攻は作曲とピアノ。1925年に、同音楽院作曲科の卒業作品として作曲した交響曲第1番において国際的に注目された。

1920年代後半から1930年代前半にかけては、アルバン・ベルクやダリウス・ミヨーなど西欧の革新的な音楽技法を吸収し、舞台音楽を中心に多くの楽曲を作曲。特にピアノ協奏曲第1番ではジャズに、歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』ではベルクの歌劇『ヴォツェック』などに触発された内容となっている。

しかし、1936年に歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、ソヴィエト共産党機関紙『プラウダ』で批判(プラウダ批判)を受け、自己批判を余儀なくされる。そのような状況下、批判前に作曲し、オーケストラでリハーサルまでしていた交響曲第4番の初演を撤回。批判後、新たに作曲された交響曲第5番以降は、それまでの作風から一転し、政府が自国の音楽に求めた「社会主義リアリズム」-「形式において民族的、内容において社会主義的」 - の路線に沿う作風の作品を発表し続けることとなる。

1930年代後半から1940年代前半にかけては、交響曲や室内楽曲を多く作曲。

中でも、スターリン賞を受賞したピアノ五重奏曲や、友人の突然の死を悼んだピアノ三重奏曲第2番、独ソ開戦直後から書き始められた交響曲第7番「レニングラード」が有名である。

1948年、ソビエトの作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党により批判(「ジダーノフ批判」と呼ばれる。)されると、オラトリオ『森の歌』や映画音楽『ベルリン陥落』、カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、あからさまに当局に迎合した共産党賛美の作品を多数作り、名誉の回復を勝ち得た。

一方、ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)や『ユダヤの民族詩から』(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)など、この頃書かれた作品のうち、何曲かは公表が控えられ、多くはスターリンの死後に発表された。

1953年にスターリンが死ぬと、第9番以降、ジダーノフ批判以後は書かれていなかった交響曲(第10番)を約8年ぶりに発表。曲の内容の暗さと「社会主義リアリズム」との関係において、大論争(いわゆる第10論争)を巻き起こし、国外でも大きく報道された。

1950年代後半から晩年にかけては、交響曲、協奏曲、室内楽曲、さらには声楽曲で傑作を多数残した。特に、当局の締め付けが和らいだスターリン死後から1960年代前半までのいわゆる「雪解け」の時期には、演奏が禁止されていた作品の名誉回復(『ムツェンスク郡のマクベス夫人』でさえ、中規模程度の改訂の後、1963年に復活上演された)、交響曲第4番やヴァイオリン協奏曲第1番といった公表が控えられていた作品の発表、「社会主義リアリズム」の概念にとらわれない近代的で斬新な作風の作品(弦楽四重奏曲第7番や『サーシャ・チョールヌィの5つの詩』、映画音楽『ハムレット』など)の発表が相次いだ。

特にこの時期を代表する作品が弦楽四重奏曲第8番と交響曲第13番の2曲である。

弦楽四重奏曲第8番(1960年)では、曲の大半で自作の引用を大々的に行うほか、ドイツ音名の自分のイニシャル「DSCH」の音列を中心主題の素材として用い、自身へのレクイエムとした。また、交響曲第13番(1963年)は、ナチによるユダヤ人の大虐殺を、ウクライナの谷底バビ・ヤールで起こった実際の事件を取り上げて告発。共産党によりテクストとして用いた詩の書き換えを要求されるなどの事件もあったが、1930年代、1940年代のような厳しい批判にはほとんど晒されることもなく、音楽には一切手が加えられず現在でもショスタコーヴィチの代表作として聴かれている。また、60代を過ぎた1960年代半ば以降は、透明で熟達した技法の深化がみられる『ミケランジェロ組曲』やヴァイオリンソナタ、ヴィオラソナタなどのほか、十二音技法やトーン・クラスターを導入した『A・ブロークの詩による7つの歌曲』や交響曲第14番などで前衛的な作風へのアプローチを再び試みるなど、死の直前まで意欲的に作曲を続けた。ショスタコーヴィチの最晩年を代表する作品には、ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲や、ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』の運命の動機など他作曲家の作品の引用を大胆に行い(自作の交響曲第4番の引用もある)、自身の音楽的回想とした交響曲第15番(1972年)、すべての楽章をアダージョとし、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番『月光』からの引用もみられる弦楽四重奏曲第15番(1974年)、死の1か月前に完成し、ショスタコーヴィチの「白鳥の歌」とも呼ばれる、作曲者自身聴くことの出来なかった遺作ヴィオラソナタ(1975年)などがある。

ショスタコーヴィチはピアニストとしても活躍した。卓越したテクニックを有し、音楽院を卒業してからは作曲家になるかピアニストになるか真剣に悩んでいたほどである。第1回ショパン国際ピアノコンクールにソヴィエト代表の一人として選出され出場・入選したほか、2曲のピアノ協奏曲や『24の前奏曲とフーガ』など、自作の初演・録音も多数行なった。しかし、後年は脊椎性小児麻痺の影響で右手が不自由となり、ピアノを弾くことが出来なくなった。また大のサッカー好きで、地元のサッカークラブのスコアをメモ帳に書き記すなどの熱狂的サッカーファンだった。サッカーの審判の資格も持っていた。

作風

ショスタコーヴィチの作品には、J.S.バッハのフーガ、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、マーラーの交響曲、ベルクの和声語法や引用法などの影響が見られ、オーケストレーションはあまり楽器の音色を混ぜない原色配置である。原則としてショスタコーヴィチの音楽は調性音楽の範囲内にあるが、無調的な主題を用いることも多く、最晩年には十二音技法を自分なりに消化した独自の音列技法やトーンクラスター等の前衛技法を用いたりしている。戦争や生死などをテーマとした重い作品が多い一方、交響曲第9番やジャズ組曲のような軽妙な作品も多く作曲している。

一般に作風の変化の境界点は、以下の項目に分けられる。

初期・前衛的な作品群


作品1 - 作品46(1919年 - 1936年) 少年期から音楽院入学以前の極初期は除き、ショスタコーヴィチの作風は、前衛的な音楽から出発したといってよい。例えば、交響曲第1番の冒頭では、グラズノフに和声の変更を指摘されていた。「前衛的」と最もはっきりとわかる初期の作品としては、『弦楽八重奏のための2つの小品』(作品11)、ピアノソナタ第1番(作品12)、格言集(作品13)、そして交響曲第2番(作品14)がある。しかし、『タヒチ・トロット』(作品16)や映画音楽『新バビロン』(作品18)以降は、ジャズやボードビル、キャバレー・ソングなど、軽音楽の影響も受けることとなる。この分野の傑作としてはバレエ『黄金時代』(作品22)、劇音楽『条件付の死者』(作品31)、ピアノ協奏曲第1番(作品35)などがあるが、枚挙に暇がない。交響曲第4番(作品43)の第3楽章の中間部は、明らかに軽音楽の影響が濃厚である。ショスタコーヴィチの、新ウィーン楽派に影響を受けたという意味での「前衛音楽」としての最後の作品は、管弦楽のための『5つの断章』(作品42)である。この作品は、交響曲第4番同様発表が控えられ、初演が行われたのは1965年になってからである。ゴーゴリの短編に取材したオペラ『鼻』(作品15)は、彼自身交流のあったメイエルホリドの斬新な舞台演出の影響を受け、古典形式を基本としながらも、ベルク、クルシェネクら同時期の作品を参考にしたきわめて前衛的な作風で発表当時から賛否両論を巻き起こす問題作となり、次作のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(作品29)とともに彼の初期作品のピークとなる。初期はロシア音楽の伝統を受け継ぎながら最新の音楽を取り上げるなど機智と独創性に富んだ作風であったが、ムツェンスク郡のマクベス夫人』がスターリンの怒りを買い、折からの粛清が絶頂期にあることも鑑み、前衛色は失われていった。

社会主義リアリズム

作品47 - 作品92(1936年 - 1953年) 第4番のような前衛性を控えた交響曲第5番(作品47)は初演後に「社会主義リアリズムのもっとも高尚な理想を示す好例」と評価された[2]。この時期のショスタコーヴィチが音楽を担当した映画は「社会主義リアリズム」に基づいたテーマのものばかりで、ロシア革命を主題としたものが多い。例えば、ノンポリの学生が革命の理念に目覚め、社会主義的に成長する姿を描いた『マクシム三部作』(『マクシムの青春時代』作品41、『マクシムの帰還』作品45、『ヴィヴォルグ地区』作品50)、ロシア革命の英雄チャパーエフの活躍を描いた『ヴォロチャーエフ砦の日々』、暗殺されたキーロフを髣髴とさせる人物が主人公の『偉大な市民』2部作(作品52、55)、ロシア革命におけるレーニンとスターリンの活躍を描いた『銃を取る人』(作品55)、ロシア革命後の赤軍と白軍との内戦を描いた『忘れがたき1919年』(1952年、作品89)である。第二次世界大戦の勃発後はピアノ五重奏曲(作品57)や交響曲第8番(作品65)、ピアノ三重奏曲第2番(作品67)などこの路線から離れた作品もいくつか残している。しかし、1948年に「ジダーノフ批判」が出てからは、オラトリオ『森の歌』(作品81)や映画音楽『ベルリン陥落』(作品82)、『革命詩人の詩による10の詩曲』そしてカンタータ『我が祖国に太陽は輝く』など、再び意識したように「社会主義リアリズム」色濃い作風の作品を残している。この時期の作品としては交響曲第8番などの他に、歌劇『賭博師』や、ヴァイオリン協奏曲第1番なども、社会主義リアリズムの路線からは離れた作風であると評価されることが多い。


ユダヤ音楽への傾倒

ショスタコーヴィチの作曲家としての「ユダヤの音楽」への関心が明らかな最初の作品は ピアノ三重奏曲第2番 (1944年)といわれていた[3][4]。もちろんショスタコーヴィチはユダヤ人ではなかったが、マーラーへの興味をはじめとし、1936年には、プラウダ批判によって、自分の悲運をユダヤ人のそれに沿って象徴するものと考えるようになった[5]。1937年の交響曲第5番第3楽章にはユダヤ音楽の要素が表れそれは交響曲第3番(1929年)からのユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律の引用でもある[6] また交響曲第7番(1941年)第1楽章のクライマックスなどにはクレズマー旋律が使われている[7]。音楽院の愛弟子でレニングラード攻防戦で戦死したユダヤ人、ヴェニアミーン・フレーイシュマンの未完のオペラ『ロスチャイルドのヴァイオリン』の補作(1944)を行ったこともある。作品にユダヤ音楽の主題が使われているのは歌曲集『ユダヤの民俗詩から』(1948年)、 ヴァイオリン協奏曲第1番(1948年)、弦楽四重奏曲第4番(1949年)、24の前奏曲とフーガ(1951年)、 プーシキンの詩による4つのモノローグ(1952年)である[8]。 ピアノ協奏曲第2番(1957年)第2楽章 交響曲第9番(1945年)フィナーレの後半には、ユダヤ人には「それ」としてハッキリ分かる形でユダヤ音楽が引用されているという。弦楽四重奏曲第8番(1960年)には、ピアノ三重奏曲第2番最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されている。その他の作品では交響曲第13番 (1962年)、また 交響曲第15番 (1971年)最終楽章での交響曲第7番の引用にユダヤ音楽のテーマを見出せる[9]。 ショスタコーヴィチの周りには、例えば親しい友人に作曲家のミェチスワフ・ヴァインベルク、俳優ソロモン・ミホエルスなどユダヤ人は多かったし、このほかオーケストラの団員にもユダヤ系は多かった。


スターリン死後

作品93 - (1953年 - ) 1953年3月5日、スターリンが死んだ。独裁者の死は、ソヴィエトの社会に一時の混乱をもたらした。1956年、フルシチョフによって行われた「スターリン批判」により、スターリンの独裁体制は名実ともに崩れ去った。スターリンの死に合わせたように、ショスタコーヴィチは、第9番を最後に中断していた交響曲を書き始め、すぐに発表する。前衛的な作風ではないものの、終始音楽に悲劇的な重さが付きまとう音楽で、自身のイニシャルをドイツ音名にした「DSCH」の音列も頻出する、自伝的な作品である。この作品以降、ショスタコーヴィチの曲には「DSCH」の音列が頻繁に使われるようになる。1950年代も終わり近くになると、ソヴィエトの社会主義体制も次第に軟化しはじめ、アメリカとも協調姿勢をとるようになってゆく。「雪どけ」といわれるこの時期、ショスタコーヴィチが発表を控えていた交響曲第4番などの作品が数十年ぶりに「初演」されたのもこの頃だ。戦前、ショスタコーヴィチが個人批判される元凶となった歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はそのままの形での上演は絶望的だったものの、ある程度改訂された『カテリーナ・イズマイロヴァ』(作品114)は再上演が許される状態にまでなった。しかし、交響曲第13番の歌詞問題が表面化した頃、キューバへのミサイル配備計画がアメリカに非難されたのをきっかけに「雪どけ」体制は解体され、冷戦の時代に突入する。

「雪どけ」後

ブレジネフ時代になり、国内では締め付けが強まるが、ショスタコーヴィチ自身の生活は安定し数々の栄誉に包まれるなど、音楽活動を続ける環境はスターリン時代と比べ格段と恵まれていた。相変わらず体制に迎合した作品もあるが、作風は芸術性が高まり、七楽章の弦楽四重奏曲第11番(1966年)・マーラーの『大地の歌』の影響を受けた声楽つきの交響曲第14番(1969年)。豊かな響きと緊張感漂う映画音楽『リア王』(1970年)などの意欲作を相次いで発表した。とくに『ブロークの詩による七つの歌曲』(1967年)と弦楽四重奏曲第12番(1968年)においては十二音技法に挑戦するなど、その研究心は衰えなかった。

最晩年になると、作風も哲学風で研ぎ澄まされた独特の透明感が支配的となる。交響曲第15番(1971年)、弦楽四重奏曲第14番(1973年)・弦楽四重奏曲第15番(1974年)では過去の作品からの引用が顕著になるが、そこにはすでに健康の衰えを感じ、死を意識した作曲者の思いが見え隠れする。それは政治に翻弄された波瀾万丈の人生を振り返り、達観したかのような感を受ける。また「ミケランジェロの詩による組曲」(1974年)では、自身の芸術の総括をルネサンスの芸術家に譬えたものとして評価されている。


作品

「ショスタコーヴィチの楽曲一覧」も参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E6%A5%BD%E6%9B%B2%E4%B8%80%E8%A6%A7

ショスタコーヴィチの創作の中心は、交響曲と弦楽四重奏曲にあった。これらのなかでも特に有名なのが、交響曲第5番、第7番、第10番と弦楽四重奏曲第8番である。また歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』 は古今のオペラの傑作の一つとされる。


交響曲

交響曲第1番 ヘ短調 作品10(1925年)
交響曲第2番 ロ長調 作品14「十月革命に捧ぐ」(1927年)
交響曲第3番 変ホ長調 作品20「メーデー」(1929年)
交響曲第4番 ハ短調 作品43(1936年)
交響曲第5番 ニ短調 作品47(1937年)
交響曲第6番 ロ短調 作品54(1939年)
交響曲第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」(1941年)
交響曲第8番 ハ短調 作品65(1943年)
交響曲第9番 変ホ長調 作品70(1945年)
交響曲第10番 ホ短調 作品93(1953年)
交響曲第11番 ト短調 作品103「1905年」(1957年)
交響曲第12番 ニ短調 作品112「1917年」(1961年)
交響曲第13番 変ロ短調 作品113(1962年)
交響曲第14番 ト短調 作品135(1969年)
交響曲第15番 イ長調 作品141(1971年)


弦楽四重奏曲

弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 作品49(1938年)
弦楽四重奏曲第2番 イ長調 作品68(1944年)
弦楽四重奏曲第3番 ヘ長調 作品73(1946年)
弦楽四重奏曲第4番 ニ長調 作品83(1949年)
弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調 作品92(1952年)
弦楽四重奏曲第6番 ト長調 作品101(1956年)
弦楽四重奏曲第7番 嬰ヘ短調 作品108(1960年)
弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110(1960年)
弦楽四重奏曲第9番 変ホ長調 作品117(1964年)
弦楽四重奏曲第10番 変イ長調 作品118(1964年)
弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品122(1966年)
弦楽四重奏曲第12番 変ニ長調 作品133(1968年)
弦楽四重奏曲第13番 変ロ短調 作品138(1970年)
弦楽四重奏曲第14番 嬰ヘ長調 作品142(1973年)
弦楽四重奏曲第15番 変ホ短調 作品144(1974年)

弦楽のためのレクィエム 作品144bis(原曲は第15番)


管弦楽曲・吹奏楽曲

スケルツォ第1番 嬰ヘ短調 作品1(1919年)
主題と変奏 変ロ長調(1922年)
スケルツォ第2番 変ホ長調(1924年)
タヒチ・トロット(1928年)
E・ドレッセルの歌劇『コロンブス』のための2つの小品(1929年)
ジャズ・オーケストラのための第1組曲(1934年)
5つの断章(1935年)
ジャズ・オーケストラのための第2組曲(1938年)
荘厳な行進曲(1941年)
バレエ組曲第1 - 4番(1950年 - 53年)
祝典序曲(1954年)
ノヴォロシースクの鐘(1960年)
ロシアとキルギスの主題による序曲(1963年)
交響詩「十月革命」(1967年)
交響的哀悼前奏曲(1967年)
ソヴィエト民警の行進曲(1970年)
インターヴィジョン(1971年)
「緑の工場」のための序曲
2つの前奏曲(アルフレート・シュニトケ編曲)


協奏曲

ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35(1933年)
ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102(1957年)
ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77(99)(1948年)
ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129(1967年)
チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107(1959年)
チェロ協奏曲第2番 ト短調 作品126(1966年)

室内楽曲

弦楽八重奏のための2つの小品 作品11(1927年)
チェロ・ソナタ ニ短調 作品40(1934年)
ピアノ五重奏曲 ト短調 作品57(1940年)
ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品8(1923年)
ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 作品67(1944年)
ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品134(1968年)
ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147(1975年)
弦楽四重奏のための2つの小品(1931年)
ヴァイオリン・ソナタ(1945年に着手したが未完)
チェロとピアノのためのモデラート
3つのヴァイオリン二重奏曲
ハープ二重奏のためのポルカ 嬰ヘ長調
3つの小品


オペラ

鼻(1928年)
ムツェンスク郡のマクベス夫人(1934年)Op.29
カテリーナ・イズマイロヴァ(1963年) - 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の改訂版。Op.114
賭博師(1941年)
大きな稲妻
オランゴ(1932年)


オペレッタ
モスクワ・チェリョームシキ(1958年)Op.105

合唱曲

オラトリオ「森の歌」(1949年)
カンタータ「わが祖国に太陽は輝く」(1952年)
混声合唱のための無伴奏合唱曲十の詩曲(1951年)
バラード「ステパン・ラージンの処刑」(1964年)
反形式主義的ラヨーク

声楽曲

日本の詩人の詞による6つの歌 作品21(1928年) オーケストラ伴奏版あり
プーシキンの詩による4つのロマンス 作品46 オーケストラ伴奏版あり
歌曲集「ユダヤの民族詩より」 作品79 オーケストラ伴奏版あり
レールモントフの詩による2つのロマンス 作品84
エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による4つの歌曲 作品86
プーシキンの詩による4つのモノローグ 作品91
エフゲニー・ドルマトーフスキーの詩による5つのロマンス 作品98
スペインの歌 作品100(1956年)
風刺 作品109(1960年)
自作全集への序文とその序文についての短い考察 作品123
アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌曲 作品127
マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲 作品143 オーケストラ伴奏版あり
ミケランジェロの詩による組曲 作品145 オーケストラ伴奏版あり


バレエ音楽

黄金時代(1930年)
ボルト(1931年)
明るい小川(1935年)
お嬢さんとならず者(1962年)

映画音楽

新バビロン 作品18(1929年)
女一人 作品26(1931年)
黄金の丘 作品30(1931年)
呼応計画 作品33(1932年)
司祭とその下男バルダの物語 作品36(1935年)
愛と憎しみ 作品38(1934年)
マクシムの青年時代 作品41(1935年)
女友達(1935年)
マクシムの帰還(1937年)
ヴォロチャーエフの日々(1937年)
ヴィボルグ地区(1938年)
友人たち(1938年)
偉大なる市民第1部(1937年)
銃を取る人 作品50(1938年)
偉大なる市民第2部 作品55(1939年)
おろかな子ねずみ 作品56(1939年)
コルジンキナの冒険 作品59(1940年)
ゾーヤ 作品64(1944年)
素朴な人々(1945年)
若き親衛隊 作品75(1948年)
ピロゴーフ(1947年)
ミチューリン 作品78(1948年)
エルベ河の邂逅 作品80(1948年)
ベルリン陥落 作品82(1949年)
ベリンスキー(1950年)
忘れがたき1919年(1951年)
偉大な川の歌・ユニティ 作品95(1954年)
馬あぶ 作品97(1955年)
第1軍用列車(1956年)
5昼夜 作品111(1960年)
ハムレット 作品116(1964年)
生涯のような1年(1965年)
ソフィア・ペロフスカヤ 作品132(1967年)
リア王 作品137(1970年)
永遠の使者
戦艦ポチョムキン(この映画のために曲が作られたわけではなく、1976年の復刻時に既存の交響曲が使用された)
チェリョームシキ


劇付随音楽 全10作品

南京虫 作品19(1929年)
射撃 作品24(1929年)
ルーレ・ブリタニア 作品28(1931年)
ハムレット 作品32(1932年)
スペインにサリュー 作品44(1936年)
人間喜劇 作品37(1933年 - 1934年)
リア王 作品58a(1941年)
母国 作品63(1942年)
ロシアの川 作品66(1944年)
勝利の春 作品72(1946年)

ピアノ曲

5つの前奏曲(1921年)
3つの幻想的な舞曲(1925年)
2台のピアノのための組曲嬰ヘ短調(1925年)
ピアノ・ソナタ第1番(1926年)
10の格言集(1927年)
ピアノ・ソナタ第2番(1943年)
24の前奏曲(1933年)
子供のノート(1944年)
陽気な行進曲(1949年)
24の前奏曲とフーガ(1952年)
2台のピアノのための小協奏曲(1954年)
グリンカの主題による変奏曲(1957年)

編曲作品

ドメニコ・スカルラッティの2つの小品 作品17
ムソルグスキー 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」の管弦楽編曲 作品58
ムソルグスキー 歌劇「ホヴァーンシチナ」の管弦楽編曲 作品106
ムソルグスキー 歌曲集「死の歌と踊り」の管弦楽編曲
A.ダヴィデンゴの2つの合唱曲の管弦楽編曲 作品124
ロベルト・シューマン チェロ協奏曲 イ短調の編曲 作品125
ストラヴィンスキー 詩篇交響曲の4手ピアノ用編曲
リムスキー・コルサコフ 私はほら穴で君を待っていたの管弦楽編曲
チシチェンコ チェロ協奏曲第1番の再オーケストレーション
ヨハン・シュトラウス2世 「ウィーン気質」の編曲
ヨハン・シュトラウス2世 「観光列車」の編曲
オネゲル 交響曲第3番 典礼風の4手ピアノ用編曲
ベートーヴェン 蚤の歌の管弦楽伴奏用編曲
ベートーヴェン ピアノソナタ第8番 悲愴の第2楽章の管弦楽編曲
ベートーヴェン ピアノソナタ第32番の第1楽章の管弦楽編曲
マーラー 交響曲第10番の4手ピアノ用編曲
シューベルト 軍隊行進曲の管弦楽編曲
ロシア民謡「ヴォルガの舟歌」のオーケストレーション

自作の編曲

歌劇「鼻」のピアノ編曲
交響曲第3番のピアノと声楽用編曲
バレエ「明るい小川」よりモデラート
主題と変奏 作品3のピアノ用編曲
交響曲第4番の2台ピアノ用編曲
交響曲第10番の2台ピアノ用編曲

その他の作品

兵士(1917年頃)
森の中にて
自由の讃歌
ソヴィエト讃歌
国歌(ソヴィエト連邦)
赤軍の歌(アラム・ハチャトゥリアンとの共作)
ポルカ
4つのワルツ
平和の鳥
儀式用行進曲
2つのマズルカ
我が祖国の栄光を歌う

創作ジャンルは宗教音楽以外のほぼ全てにわたる。労働歌で1917年から1944年の間ソヴィエト連邦国歌でもあった『インターナショナル』の管弦楽編曲もある。

著作

本人の著書と称されているものが、日本では2冊出版されている。ソロモン・ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言』(水野忠夫訳 中央公論社、1980年)と、レフ・グリゴーリエフとヤーコフ・プラデークの手による『ショスタコーヴィチ自伝――時代と自身を語る』(ラドガ出版社訳 ラドガ出版社〔発売:ナウカ〕、1983年)である。前者は、はじめは1979年にアメリカ、ドイツで出版されたもので、ショスタコーヴィチの評価をめぐって論議を巻き起こした。発表された当初からソビエト作曲家同盟などのほかローレル・フェイのような西側の音楽学者からも偽書である疑いが投げかけられ真贋については議論があった[1]。詳細は「ショスタコーヴィチの証言」を参照。

後者は1980年にソ連で刊行された。「自伝」とあるが、正確には、ショスタコーヴィチが生前にさまざまな媒体に発表した文章などを年代順にまとめたものである。ヴォルコフやマクシム・ショスタコーヴィチは、「実際には、別人が書いていたのだ」と主張している。すべての記事はソビエト体制下では公式見解として発表されたものである。

ショスタコーヴィチはさまざまな人物と頻繁に手紙をやりとりしており、数冊が出版されている。邦訳書は2006年現在、存在しない。とりわけ有名なのは、音楽学者イサーク・グリークマンと行われた書簡集である。1993年にロシアで出版されたもので、英訳されている (Story of a Friendship, trans. by Anthony Phillips, London: Faver/Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 2001.)。

2006年9月25日、ショスタコーヴィチ生誕100周年を記念し、ショスタコーヴィチと公私共に親友だったイワン・ソレルチンスキーとの往復書簡が出版されている。これは、イワンの息子であり音楽学者のドミトリーが編纂した書籍。ショスタコーヴィチとソレルチンスキーが知り合った1927年から、ソレルチンスキーが急逝した1942年までにやりとりされた、現存するほぼすべての書簡が掲載されている。

なお子息2人(ガリーナとマクシム)による、多くの写真を交えた回想証言『わが父ショスタコーヴィチ』(田中泰子訳、音楽之友社、2003年)が出版されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81


12. 中川隆[-14945] koaQ7Jey 2019年11月14日 04:55:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2037] 報告

宇野功芳

「ここ何年かで日本はもとより、世界のオーケストラが格段にうまくなった。
複雑に音が入り組んだマーラー、ショスタコーヴィチの交響曲には以前にも名盤が存在したが、指揮者の解釈はともかく、オーケストラの性能は十分とはいえなかった。
今ようやく、作曲者の意図した音が細大漏らさず、出てくるようになった気がする」
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO92976910Z11C15A0000000/

13. 中川隆[-14944] koaQ7Jey 2019年11月14日 05:31:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2036] 報告

平林遼(指揮者)

ショスタコーヴィチ 解説 交響曲第1〜15番 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ECi1eJLgNeQ


ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 解説 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XzF8q6q_sMA
https://www.youtube.com/watch?v=AZC-HUVnpv0
https://www.youtube.com/watch?v=MzGKkKgJWTs
https://www.youtube.com/watch?v=WTzqSDPKXTc


ショスタコーヴィチ ロシアとキルギスの主題による序曲 解説 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=6naFbMeh008


ショスタコーヴィチの交響詩《十月》詳細解説/Symphonic poem October by D.Shostakovich - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RrlviGz2Z-w

平林遼(指揮) @ryo_hirabayashi

広上淳一、ロリン・マゼール等各氏に師事 。
2019年第4回ニノ・ロータ国際指揮者コンクール「聴衆賞」・ファイナリスト(最高位次点) 。第1回イタリア国際指揮者コンクール「第3位」。2015-2017 ベルリン。第1回リッカルド・ムーティ・イタリアン・オペラ・アカデミー最終選考招聘。
東京音大指揮科卒。
https://twitter.com/ryo_hirabayashi?lang=ja


平林 遼 指揮者 未来の音楽研究所 音楽哲学・音楽思想
https://www.ryohirabayashi.com/

14. 中川隆[-14943] koaQ7Jey 2019年11月14日 06:23:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2035] 報告
2006.08.19 明るい!?ショスタコーヴィチ
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060819/1156002386

クラシック作曲家の三大ネクラは、ブラームス、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチではあるまいか。
それでもチャイコフスキーの場合は、泣き節が大げさな上、メロディーが甘美なので深刻さが減じているが、救われないのはショスタコーヴィチだ。
後期の弦楽四重奏曲を聴いてごらんなさい。もう、生きていくのがいやになる。
(講談社現代新書『新版・クラシックの名曲・名盤』宇野功芳著より引用)

ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906年9月25日-1975年8月9日)は、「社会主義」ソヴィエト連邦を象徴する作曲家だ。

体制と理想との間で悶え苦しんだ作曲家ショスタコーヴィチ。

「社会主義」という理想と裏腹に、ソヴィエト社会は密告社会だった。

ショスタコーヴィチの作品は、「社会主義」リアリズムの路線に沿った作品であると国家よりお墨付きを与えられたり、反対に、作品によっては、ブルジョア的、退廃的であると批判された。

史上最悪の独裁者の一人であるスターリンの指導の下、生命の安全すら危惧された境遇で、その恐怖は計り知れない。

体制と理想の間で悩み苦しみながら、社会的な制限の中で、最大の理想を追い求めた音楽家がショスタコーヴィチだ。


私はショスタコーヴィチという作曲家にとても興味がある。

彼の人生は、国家と体制が個人の内面にまで入り込んできた時代を象徴するように思え、その作品は、特殊な状況下における人間の孤独な内面の戦いを暗示しているように思えてならないからだ。

彼の作品がネクラであるのは当然のことで、逆に明るかったりしたら、現在、彼の膨大な作品を私たちが楽しむこともできないはずだ。


◇  ◇  ◇


ショスタコーヴィチ:ジャズ音楽集
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000EMH7VY/ushinabesquar-22/

アーティスト: シャイー(リッカルド),ショスタコーヴィチ,ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団,ブラウティハム(ロナウド),マスーズ(ペーター)

1. ジャズ組曲 第1番 第1曲 : ワルツ
2. ジャズ組曲 第1番 第2曲 : ポルカ
3. ジャズ組曲 第1番 第3曲 : フォックストロット
4. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第1楽章 : Allegretto
5. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第2楽章 : Lento
6. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第3楽章 : Moderato
7. ピアノ協奏曲 第1番 ハ短調 作品35 第4楽章 : Allegro con brio
8. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第1曲 : 行進曲
9. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第2曲 : リリック・ワルツ
10. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第3曲 : 第1ダンス
11. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第4曲 : 第1ワルツ
12. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第5曲 : 小さなポルカ
13. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第6曲 : 第2ワルツ
14. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第7曲 : 第2ダンス
15. ジャズ組曲 第2番 プロムナード・オーケストラのための 第8曲 : フィナーレ
16. タヒチ・トロット(二人でお茶を) 作品16

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ジャズ組曲第2番 第3曲 第1ダンス - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=71nw5r3n9iQ
リッカルド・シャイー指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

Shostakovich Jazz Suite Riccardo Chailly - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Jazz+Suite++Riccardo+Chailly

Royal Concertgebouw Orchestra · Riccardo Chailly

___

ショスタコーヴィチ: ジャズ組曲 ヤンソンス 1996 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VxpPokL863U
https://www.youtube.com/watch?v=EhUqLuoy4zs

マリス・ヤンソンス指揮 Mariss Jansons 8, 9, 11 March.1996
フィラデルフィア管弦楽団 The Philadelphia Orchestra
Shostakovich : Jazz Suite No.1

______


そんなネクラなショスタコーヴィチが、明るい作品を残している。

それが、ジャズ組曲だ。

このCDには、第1番と第2番が収録されているどちらも名曲だ。

中でも「プロムナードオーケストラのためのジャズ組曲第2番」のワルツ。

この曲は、スタンリー・キューブリックの遺作・映画『アイズ・ワイド・シャット』のテーマとして使われた。

優雅な旋律。まるで舞踏だ。

禁欲的な曲に収まりきらない、そこから溢れ出る退廃の香り。

ソヴィエト体制の下で、交響曲第5番を作曲した同じ作曲家とは思えないほど、この曲にはロマンティシズムが溢れている。

ショスタコーヴィチという人物、その音楽性には興味が尽きない。

その世界はどこまでいっても深淵だ。


◇  ◇  ◇


トルストイ『戦争と平和』の冒頭。

19世紀のナポレオンのロシア侵攻という歴史的事件をむかえる貴族社会の様子が描かれている。

来るべき戦争に対してもどこか他人事な社交界の空気。

トルストイの描写はとても精緻で、優雅な社交界の姿が目に浮かぶ。

この曲を聴いて連想されるのはそんな空気だ。

時代はだいぶ違うが、一言で言うと、「ロシア的」という言葉に尽きると思う。


「ソヴィエト連邦」を象徴する作曲家、ショスタコーヴィチの音楽に「ロシア」の残り香が感じられる。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060819/1156002386

15. 中川隆[-14942] koaQ7Jey 2019年11月14日 06:40:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2034] 報告



ショスタコーヴィチ「タヒチ・トロット(二人でお茶を)」作品16
2015 MAR 3 1:01:01 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/03/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e3%80%80%e3%80%8c%e3%82%bf%e3%83%92%e3%83%81%e3%83%bb%e3%83%88%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%88%e3%80%8d%e4%bd%9c%e5%93%81/


「タヒチ・トロット」(Tea for Two、二人でお茶を)は懐かしい。この原曲はブロードウェイ・ミュージカルの作曲家ヴィンセント・ユーマンスがNo, No, Nanette(ノウ、ノウ、ナネット)という作品の挿入歌として作って大ヒットした。

このコメディーの筋はなかなか面白い。金持ちの娘ナネットはブロードウェイの舞台に立ちたい。そこに2万5千ドル出せば恋人のトニーが曲を書いてキミを主演女優にするよという話が来る。そこでナネットは遺産管財人の弁護士に2万5千ドルを出すようかけ合うが、遺産は伯父さんが1929年の大恐慌ですってしまっていて実はもうない。弁護士はそこで「48時間キミがYesを言わなかったら出そう」という賭けにでる。何をきかれても No, No といい続けたナネットはそれで誤解を招いて大騒動になりトニーを取るか芝居を取るかになってあきらめ、めでたしめでたしというあらすじだ。

しかし作曲されたのは1925年だから大恐慌のくだりはあとづけなんだろう。Tea for Twoは曲が先にできていて、それにとりあえず作詞家が歌詞を即興でつけて、後で直そうと言っていたら結局そのままになってしまったそうだし、上演しながら作っていくというスタイルだった。ちなみに19世紀ヴィクトリア朝の英国で紳士が淑女を午後のお茶に誘い”Tea for two“と注文 するのがプロポーズするサインだったそうで、和訳の「二人でお茶を」はちょっと変だ。「紅茶ふたつ!」だ。

「48時間、Noを言い続ける」というのをぱくったのだろうか、ショスタコーヴィチの交響曲第1番を初演した指揮者のニコライ・マルコが自宅で彼にこれを聞かせ、「キミが1時間以内に記憶だけでこの曲を編曲することはできない(つまりNo)に100ルーブル賭けよう」と勝負を挑んだ。そうしたら22才のショスタコーヴィチはそれを45分(40分説もあり)で管弦楽スコアにしてしまい、賭けに勝ったとされる(作り話という説もあるが)。1927年のことだ。

これをどこで覚えたのか、僕は記憶がないが、ショスタコーヴィチのを聴く前に知っていたことは間違いない。ジャズ、ポップシンガーなど数えきれないほどの人がフィーチャーしているから確証はないが、このドリス・デイの歌がそうだったかな?という感じだ。




変ニ長調が長3度上のヘ長調に転調するのも斬新だが、いきなりサブドミナントで入るのがとてもおしゃれだ。こういうのはおかたいドイツ音楽じゃない、フランスのシャンソンの家系という感じで大好きだ。

ショスタコーヴィチがこれをちょいちょいと編曲したのがこれだ。こっちは変イ長調だ。気に入ったのか「タヒチ・トロット」という別名にして堂々と作品番号までつけている。今だったらコンプライアンス問題になってるな、大らかな時代だったんだ。




https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/03/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e3%80%80%e3%80%8c%e3%82%bf%e3%83%92%e3%83%81%e3%83%bb%e3%83%88%e3%83%ad%e3%83%83%e3%83%88%e3%80%8d%e4%bd%9c%e5%93%81/
16. 中川隆[-14941] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:05:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2033] 報告

2013.05.20 ショスタコーヴィチ再入門
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20130520/1369061625


井上道義さんとサンクトペテルブルク響のショスタコーヴィチの演奏会を聴いて以来、ショスタコーヴィチの音楽が頭から離れない。


私は昔、クラシック音楽を聴きはじめたすぐ後にショスタコーヴィチに夢中になったが、その後、ベートーヴェンやブルックナーなどの、ドイツ・オーストリアのクラシック音楽を聴くようになって、ショスタコーヴィチから離れてしまっていた。井上道義さんはショスタコーヴィチの魅力について「複雑なところ」とインタビュー記事で明快に答えていた。先日の演奏会後のスピーチでは、「昔は嫌だなあと思っていたが、なぜか夢中になった」とマイクを握りしめた。その後、全曲演奏会という破天荒なプロジェクトを成功させるまで至り、いまでは彼のプログラムの中心にある。


クラシック音楽を聴き始めたころ、私は、ショスタコーヴィチの作品に特有の独特で謎めいたメロディが好きだった。


そこで今夜のブログは、これからショスタコーヴィチを聴いてみたいという人のことも意識しながら、過去に夢中になった楽曲を紹介し、これから聴いてみたい曲を挙げることで、再びショスタコーヴィチに接近していく自分の記録としたい。


■舞台管弦楽のための組曲(ジャズ音楽集)

私が最初に夢中になったように、ショスタコーヴィチの入門にはまずこの音楽が良いと思う。 理由は「聴きやすい」点。ジャズ 音楽集としてCDが発売されている。舞台管弦楽のための組曲の第2ワルツは映画『アイズ・ワイド・シャット』でもテーマ曲として使用されたポピュラーな楽曲で、哀愁漂う名曲である。哀愁の漂う曲でありながら、この曲を際立たせているのは、知的で謎めいている点だ。ショスタコーヴィチの作曲家としてのポテンシャルの異様な高さを物語る名曲である。

ショスタコーヴィチ:ジャズ音楽集
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000EMH7VY/ushinabesquar-22/

Shostakovich Jazz Suite Riccardo Chailly - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Jazz+Suite++Riccardo+Chailly

アーティスト: シャイー(リッカルド),ショスタコーヴィチ,ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団,ブラウティハム(ロナウド),マスーズ(ペーター)



■交響曲第7番

2番目に聴くなら、交響曲が良い。ショスタコーヴィチの交響曲を初めて聴くなら、もっともポピュラーな5番ではなくて、7番が良いと思う。圧倒的な音の洪水に溺れる。今回、7番をもう一度聴いてみて、改めて、凄まじい曲だと思った。この密度の音楽。普通ではない。芸術にとって当り前なことが保障されない体制、自由に作品を書くことが許されないソ連という特殊な環境で、こんな巨大な作品を書いたショスタコーヴィチは異才という他ない。


Shostakovich Symphony No.7 in C major - Gergiev - Mariinsky Theatre Orchestra - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fXmxFTLT0j0

I. Allegretto (00:00)
II. Moderato (poco allegretto) (28:23)
III. Adagio (43:25)
IV. Allegro non troppo (1:03:19)

Mariinsky Theatre Orchestra
Valery Gergiev, conductor

August 21, 2006
Berwaldhallen, Stockholm





■交響曲第5番

もちろん5番も素晴らしい。日本では時に『革命』という標題で呼ばれるが、この「革命」というのはまったく根拠のない標題で、この名前を聴くと、違和感がすごい。そんな標題で呼ばないでほしいと個人的に思っているが、そんな私の違和感に配慮することなく、かなり頻繁に使用されている。

Evgeny Mravinsky conducts Shostakovich Symphony no. 5 - video 1973 - YouTube


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Shostakovich Symphony No 5 Yevgeny Mravinsky Tokyo 1973 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dDil02N31uI

Leningrad Philharmonic Orchestra
Tokyo, 26.VI.1973
__________

Shostakovich - Symphony n°5 - Leningrad - Mravinsky Vienna 1978 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZSJKq2zvsEM

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Vienna, 13.VI.1978

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Mravinsky - Shostakovich Symphony No.5 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sh936XImR_o

Mravinsky - Shostakovich Symphony No. 5 in D minor, Op. 47
Leningrad Philharmonic Orchestra
1983.11.20, Minsk Philharmonic Hall



■弦楽四重奏曲

かなりディープである。音楽史的にはベートーヴェンの同ジャンルと並ぶ傑作とされている。はっきり言ってとっつき辛い。難解であるがテンションは異常に高い。私も挑戦したが、作品群の輪郭すらつかめていない。しかし無人島にひとつ持っていくなら、案外こういうCDなのかもしれない。これから末永く付き合っていきたい。

Shostakovich Emerson String Quartet - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich+Emerson+String+Quartet

Borodin Shostakovich String Quartet - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Borodin++Shostakovich++String+Quartet




■ヴァイオリン協奏曲第1番

ヴァイオリン協奏曲の傑作のうちの一つ。ベートーヴェンやブラームスのヴァイオリン協奏曲とは全く違った匂いを放つ傑作。超絶技巧を要する難曲だが、それが癖になる。例えば、ヒラリー・ハーンのような優れたヴァイオリニストが弾くと、一流アスリートの人間離れした身体能力を目にするような感じがする。


Hilary Hahn - Shostakovich Concerto for Violin and Orchestra No. 1 in A minor - YouTube


Hilary Hahn, violin - Berliner Philarmoniker
Mariss Jansons, Conductor
Shostakovich: Concerto for Violin and Orchestra No. 1 in A minor
Recorded live at the Suntory Hall, Tokyo, 26 November 2000

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shostakovich Violin Concerto No.1 in A minor - Hahn - Chailly - Royal Concertgebouw Orchestra - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=4J_kyHTbQcM

Hilary Hahn, violin

Royal Concertgebouw Orchestra
Riccardo Chailly, conductor

January 11, 2002
Grote Zaal, Concertgebouw, Amsterdam



■交響曲4番

7番や5番に次いでポピュラーなのは10番だが、4番がすごい。音的には7番のような感じだが、メッセージはもっと不可解で、マーラー的にドロドロした魑魅魍魎の世界。4番がマーラー的で、5番がベートーヴェン的。6番は「田園」的。7番は音の洪水で、8番は深刻。まっすぐ進化していないところがショスタコーヴィチの魅力の一つであると最近思っている。

shostakovich Symphony No.4 In C Minor, Op.43 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Symphony+No.4+In+C+Minor%2C+Op.43++++Myung+Whun+Chung



■交響曲全集

ショスタコーヴィチの交響曲は、5番のようにポピュラーな曲がある一方で、とっつき難いものが多い。15番などは最後の交響曲にふさわしく凄い曲だが、聴きやすい曲とは言えない。また、声楽入りの1113〜14番などもそうで、メッセージ性が強く、そのメッセージというのもソ連体制下で書かれたものなので、21世紀に生きる私はこの辺りは、いままで敬遠してきた。しかし聴かずに済ますのは勿体ない。現時点での私のショスタコーヴィチ再入門はこのあたりである。全集は様々な指揮者が取り組んでいる。きっと聴き飽きることはない。一生ものだ。


ショスタコーヴィチ:交響曲

Mravinsky Shostakovich Symphony - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Mravinsky++Shostakovich++Symphony++

Gergiev Shostakovich Symphony - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Gergiev++Shostakovich++Symphony


■その他の名曲について

あとは、ピアノ協奏曲第1番、チェロ協奏曲(2曲)、オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が著名だが、私はほとんど知らない。弦楽四重奏、交響曲全集を聴き終えたら、そのあたりに取り組んでみたいと考えている。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20130520/1369061625
17. 中川隆[-14940] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:47:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2032] 報告

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47
2014 NOV 4 0:00:38 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/



交響曲第5番についてまずお断りしておく必要があります。僕はこの曲の第4楽章が嫌いであり、第3楽章までしか聴かない者だということです。

ではどうしてここに登場させるのかというと、第1楽章の後半と第3楽章ラルゴがショスタコーヴィチの書いた最も美しく上質の音楽に属するものだからです。特に後者はベートーベンの9番とブルックナー7番以降のそれとともに交響曲の緩徐楽章の最高傑作と思います。それゆえに5番は捨て去ることができないのです。

この曲との付き合いは自分としては古く、72年ですから高2のときに新宿のアカネヤで買ったLP(後述)がなれ初めです。どうしてこの曲を選んだかは忘れましたが、帯に記されていた「革命」というニックネームから何となくというところだったでしょうか。聴いてみてよくわからず、第1楽章がえらい暗いなという印象ぐらいでした。

それが我慢して何度か聴いているうちに、さっき大嫌いと書いた第4楽章が好きになり(!)全曲を閑があればかけるほど気に入ってしまったのです。そうやって入門したショスタコーヴィチをあれこれ知るうちに、だんだんそれが安っぽく思えてきた。彼の音楽にそういう性質は潜んでいるのですが、あの楽章は特に作曲家に嘲笑され踊らされている気になってきてしまいました。

彼の音楽は楽想、楽器法にマーラーの影響を強く感じます。この5番でいえば第2楽章がそれですし、4番の第3楽章ラルゴの出だしはマーラー節そのものです。マーラーはシニカルな人で音楽で自分の人生の軋轢や不幸をあぶりだして、いたぶるみたいなところがある。自虐的な私小説を思わせます。何か苦味のあるものが無数の矢のように飛んでいる(そこが苦手なのです)。

マーラーでは自分という内側に向いていたその矢が、ショスタコーヴィチの場合は外に向いている。そう感じます。私小説ではなく、もっとパブリックなものとして。それが「ヴォルコフの証言」なる書物に示唆されている体制への反抗のようなものかどうかはともかく、マーラーと同様にシニカルであり、場合によってはもっと攻撃的なものだったり、聴き手の予想をふっとはぐらかす後退だったりもします。

ヴォルコフの真偽不明の本の出現によって第4楽章コーダのテンポがどうあるべきかという議論が出ましたが、それはたいして意味がないように思います。僕はコーダ云々など以前に、この大言壮語の楽章の存在自体が本音とは遠い気がするのです。作曲者が本気で書いてスターリン体制への反抗と睨まれ発表が頓挫した交響曲第4番を思い起こして下さい。こんな安物の音楽をまじめに書くような男が書く音楽ではないことはあまり異論が出ないのではないでしょうか。



ということで僕は家では第3楽章ラルゴまでしか聴きません。終楽章がブルックナー9番のように未完成であったと思えばいいのです。4番も静かに消える第3楽章ラルゴで終わりです。それならば5番の印象は大きく変わり、掛け値なしの名交響曲になります。



petrucciに楽譜がないのでお示しできませんが、第1楽章の第2主題、ハープの和音と弦の葬送風リズムの部分のこの世のものと思えぬ妖しげな和声変化、ブルックナーの7番にそっくりなフルートに続いて不気味に轟くピアノの低音が導き出す展開部の有機的な主題の複合、コーダに入るあたりから漂う言葉にならない神秘感、最後のチェレスタ!ここはベートーベン第九の第1楽章コーダの高みに至っているとさえ思います。天才とは恐ろしいものです。

第3楽章の神々しさは筆舌に尽くしがたく、血の出るような弦の不協和音の軋み、2番目のヴァイオリン主題の凍てつく大気に虹がかかるような和音の素晴らしさ、ハープの部分に続く主題の和音変化!神品です。弦のトレモロに乗ってオーボエ、クラリネットが吹く主題は冷たく濁った黄泉の水に咲く蓮の花のようです。バルトークの「管弦楽のための協奏曲」の第3楽章の神秘世界は5番の蓮の花あたりとそっくり。7番をおちょくったバルトークもこの第3楽章は認めたと考えて不思議ではないでしょう。最後はハープのハーモニクスで悲歌となります。なんて凄まじい音楽だろう。

この後にあの粗野で音楽的にも不出来な第4楽章が来るという神経は許容しがたく、作曲者の音楽的良心も許容していなかったと固く信じます。だからここでおしまいです。体制側はこの曲を称賛し、ショスタコーヴィチは満場の大喝采だった初演後に「フィナーレを長調のフォルテシモにしたからよかった。もし、短調のピアニッシモだったらどうなっていたか。考えただけでも面白いね」と語ったそうです。

終楽章冒頭の4度のティンパニはR・シュトラウスのツァラトストゥラ、上に跳ね上がる主題は英雄の生涯を連想します。バカ殿を喜ばす「英雄の鼓舞」として格好の小道具です。安っぽい弦のマーチ主題にけばけばしいトランペットの伴奏がつく所は殿の顔をうかがっての嘲笑、その先の騒がしくもあほらしい太鼓連打、コーダのから騒ぎでとどめのヨイショ。要するに将軍様むけのフィナーレだったと僕は信じております。



キリル・コンドラシン / モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団


Shostakovich Symphony no 5 in D minor op 47 (Kirill Kondrashin) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=bDzLRiU7wc4&feature=emb_title

Conductor : Kirill Kondrashin
Moscow Philarmonics Symphony Orchestra




前述のとおり僕はこれのLPを高2の時に買い、いたく気に入って暗記するほど聴きました。そのバイアスがあるかもしれませんが、音楽の核心をがっちりとつかまえてテンポと強弱を伸縮させた非常に説得力のある快演と思います。ちなみにコンドラシンが初演した4番はさらに大変な名演であります。腕達者なオケが剛柔とりまぜた敏感な反応を見せ、ffのトゥッティのカロリーはとても高く音が濁らない。しかも肝心の第1,3楽章の神経にふれてくるような繊細さと神秘感はこれが最高のもののひとつです。第4楽章まで聴く前提で書きますと、主部が素晴らしいテンポでコーダは古典的に大きめの減速となり、聴き慣れたせいもあるでしょうが僕には唯一耐えられるものです。




ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

Shostakovich Symphony No. 5 (Haitink) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YS4dcZ90fN0





もうひとつ、この指揮者とオケのものは何を聴いても品格が高い。85年にロンドンで購入。初めてCDというものを買った物の一つ で、やはり懐かしい演奏ですが、久々に聴きなおしてみて感服です。ロシア風のけばけばしさや初演時のすさんだ空気とは無縁。第2楽章にすら漂う気品、第3楽章のppの弦の和声の室内楽のような美しさなど、純音楽的アプローチの最高峰であります。では迫力不足?とんでもない。とにかくオーケストラが抜群にうまく重量感も力感も満点、ハイティンクがいつもながらで余計なことは何せず必要なことに足しも引きもしない。何かとんがったことを有難がる方には物足りないでしょうが、名曲とは音楽自体が立派なのですからそんなものは何もいらない。そういう事を教えてくれる録音です。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/
18. 中川隆[-14939] koaQ7Jey 2019年11月14日 10:53:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2031] 報告

「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る
2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/

「スターリン弾圧を生き延びた名画」という副題の番組。革命後のロシアで行われた暴挙は人間の残虐さと無知蒙昧をさらけだしたが、テロリズムのニュースのさなか、100年たった今も人は変わっていないことに暗澹たる思いがある。

イオセブ・ジュガシヴィリ(通称ヨシフ・スターリン)の所業は今のロシア人はどう評価しているのか。ウラジーミル・ウリヤノフ(通称ウラジーミル・レーニン)なる物理学者の子がひいたレールの上をグルジアの靴職人の子スターリンが爆走した。シベリアに抑留され銀行強盗と殺戮を重ね、ロシア革命という天下取りのプロセスはどこか三国志の曹操を思わせる。

しかし100年前はまがりなりにも政権の正統性に神でも民衆でもなくイデオロギーが関与する余地があったことは注目に値する。神と暴力とメディアによる大衆扇動よりはずっと知性の裏付けがある。しかし知性も殺戮の道具になれば同じことだ。チャーチルは「ロシア人にとって最大の不幸はレーニンが生まれたことだった。そして二番目の不幸は彼が死んだことだった」といった。


Uz_Tansykbayev_CrimsonAutumn
https://sonarmc.com/wordpress/site01/files/2015/01/Uz_Tansykbayev_CrimsonAutumn.jpg


面白かった。中央アジア・ウズベキスタンのオアシスの町ヌクスの美術館にあるイーゴリー・サヴィツキー(1915〜1984)が集めた数千点のロシア・アバンギャルドの絵画の話である。スターリンによる芸術へのテロリズム。僕は音楽の側面しか見ておらず絵は無知だが、暴挙で消されかけサヴィツキーの情熱によってヌクスで命脈を保った1910−30年頃の絵のパワーは素人目にも圧倒的だ。


Uz_Kurzin_Capital
https://sonarmc.com/wordpress/site01/files/2015/01/Uz_Kurzin_Capital.jpg

このクルジンの「資本家」のインパクトは今も強烈だ。資本主義に生きる自分を描かれたような気がする。クルジンはクレムリンを爆破しろと酔って叫んだかどで逮捕され、シベリアの強制収容所送りとなった。


ルイセンコの「雄牛」。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/uz_lysenko_bull-2/


凄い絵だ。痛烈な体制批判のメタファーと考えられている。一目見たら一生忘れない、ムンクの「叫び」(1893年)のパンチ力である。この画家の生涯についてはつまびらかになっていないというのが時代の暴虐だ。


ストラヴィンスキー、シャガール、カンディンスキーら革命でロシアを出た人たちの芸術を僕らはよく知っているが、彼らの革新性にはこうした「巣」があったことは知られていない。ストラヴィンスキーの何にも拘束されず何にも似ていない三大バレエは、このアヴァンギャルド精神とパリのベルエポックが交わった子供だったのではないか。プロコフィエフの乾いたモダニズムは「西側の資本主義支配層の堕落した前衛主義」に聞こえないぎりぎりの選択だったのではないか。


Uz_Korovay_Dyers
https://sonarmc.com/wordpress/site01/files/2015/01/R_Smirnov_Buddha.jpg


この「巣」を総じて「ロシア・アバンギャルド」と呼ぶ。アバンギャルドはフランス軍の前衛部隊のこと(英語だとヴァンガード)だが、転じて先進的な芸術運動をさすようになった言葉だ。

「何物にも屈せず、何物も模倣せず」をテーゼとする。

これらの画家たちはカンバスの表の面に体制を欺く当たり障りない風景画や労働讃美の絵などを描き、裏面に自分のステートメントを吐露した真実の絵を描いて「何物にも屈せず」の精神を守っR_Smirnov_Buddhaたそうで、それを「二枚舌」と呼んでいる。


これはショスタコーヴィチを思い出して面白い。

「ヴォルコフの証言」なる真偽不詳の本が出版され第5交響曲の終楽章コーダをどう演奏するかの論争があった。ハイティンクやロストロポーヴィチがその意を汲んだテンポでやったが、あれは偽書だからムラヴィンスキーのテンポが正しいのだという風な議論だったように記憶する。

僕の立場は違う。「証言」が偽書であろうとなかろうと、皮相的な終楽章はあの4番を書いた作曲家の「二枚舌」にしか聞こえない。スコアの裏面に真実のステートメントをこめた楽譜が書いてない以上、コーダのテンポなど解決策でもなんでもなく、あの楽章は演奏しないという手段しかないと思う。同じ意味で僕は7番はあまり聴く気がしない。


「何物にも屈せず、何物も模倣せず」。このテーゼはなんて心に響くのだろう。別にアバンギャルドという言葉を知って生きてきたわけではないが、このテーゼはささやかながら僕個人が子供時代から常にそうありたいと願ってきた生き方そのものを鉄骨のような堅牢さで解き明かしたもののような気がしてならない。若い頃のピエール・ブーレーズがそうだったし、彼の録音が自分の精神の奥深いところで共鳴したのはそういうことだったのかもしれないと思う。

僕は芸術家ではないが、ビジネスをゼロから構築していくのはアートに通じるものがある。その過程がなにより好きであって、うまくいくかいかないかは結果だ。これから何年そんな楽しいことが許されるのかなと思うと心もとないが、心身健康である限り思い切りアバンギャルドでいこうと、ロシアの無名画家たちの絵に勇気をもらった。

有名であったり無名であったりすることの真相はこんなに不条理なものだし、そういうことをひきおこす人生という劇だって、いくら頑張った所でどうにもつかみどころのないものだ。だったらアバンギャルドするのが痛快で面白い。屈して、模倣して、大過がない、そんな人生ならやらないほうがましだ、改めてそう思う。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/

19. 中川隆[-14938] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:02:37 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2030] 報告

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)
2017 SEP 8 1:01:27 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/08/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac4%e7%95%aa-%e3%83%8f%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8143/

2017年9月 6日(水) 19:00 東京芸術劇場
指揮=ヤツェク・カスプシク
ヴァイオリン=ギドン・クレーメル

ヴァインベルク:ヴァイオリン協奏曲 ト短調 作品67 (日本初演)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第4番 ハ短調 作品43

紀尾井町のオフィスで火急の案件が電話で飛びこんできて、没頭していたら19:00の開演に間に合いそうもないことに気がついた。焦ってタクシーに飛び乗って電話の続きだ。「10分前あたりに着きそうです」なんて言われてやれやれと思ったら間抜けなことに「サントリーホール」と運転手さんに指示しており、完全にそう思い込んでいたのを降りてから気がついた。まいったぞ、またタクシーで池袋へ急行だ。しかしよかった、4番は間に合った。

4番は134人の大編成の難曲でなかなか聴けない。家の装置で大音量で再生してもピンとこない箇所が数々あり、そこがどう鳴るべきかずっと気になっていた意中の音楽である。東京芸術劇場のアコースティックはこの大管弦楽には好適で、前から6列目だったがほぼマストーンと分厚い管楽器の混濁がなく、第1楽章の弦のプレストによるフガートの明晰さも圧倒的だった。総じて、非常に素晴らしい演奏で指揮のカスプシク、読響に心から敬意を表したい。

4番をショスタコーヴィチは1番と考えていたふしがある(1−3は習作だと)。マーラー1番の引用が各所にあるのはそのためだろうか。第1楽章のカッコーはすぐわかるが第3楽章冒頭は巨人・第3楽章であり、コントラバスが執拗に繰り返すドシドソラシドは巨人・第2楽章でありどきっとする。木管の原色的な裸の音や金管・打楽器のソリステッィックな剥き出しの用法など全曲にわたって管弦楽法は大いにマーラー的だ。

1936年1月から2月にかけてオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が「プラウダ批判」にあいショスタコーヴィチは4番の初演を見合わせた。プラウダ批判とはソ連共産党 中央委員会機関紙『プラウダ』による、プレスの体裁を纏った「将軍様」スターリンの検閲機関である。いまの北朝鮮を想像すればいい。ということはこの曲には将軍様のご機嫌を損ねて自身や家族の命を危うくする何物かがこめられていたはずだ。その何物かは隠喩であって賢明な聴衆には伝わるが愚鈍な政府はわからないと思慮したのが、情勢が変化して意外にそうではないという危惧が作曲家の心に警鐘を鳴らし始めたと考えるのが筋だろう。

ではそれは何か?私見だが、巨人は自己の作曲の第1幕の、そして第3楽章の終結はスターリン圧政による「死」の暗示ではないだろうか。虐殺の死臭漂う中での皮肉な門出。運命への怒り、哄笑とシニカルな抗議。プラウダ批判の後、政府関係者が懺悔して罪を償えとしつこく説得したが拒絶した結末がこのスコアになっていると僕は思う。引用されるカルメンの闘牛士も魔笛のパパゲーノも、お考えいただきたい、女の死であり道化の首つり自殺の暗示なのではないか。将軍様を「死神の道化」にしたものだ。彼は忖度して作品を曲げることはしなかったが、そのかわり、演奏を撤回した。芸術家としての矜持を僕は称賛したい。それはあたかもフィガロの結婚を書いたモーツァルトに重なるものとして。

何よりの死の暗示は第3楽章の終結、全曲のコーダとなるチェレスタの部分である。カスプシクの含蓄ある指揮によって、僕はここのコントラバスとティンパニの心臓が脈動するような音型がチャイコフスキーの悲愴交響曲の終楽章コーダから来ていることを確信した。その直前、金管のファンファーレが強烈な打楽器の炸裂で飛散する部分で死を象徴する楽器であるタムタム(銅鑼)の一撃があることも悲愴と同じである。それはチャイコフスキーの死を飾る音楽であった。自身のデビュー交響曲を死で飾る境遇を彼は音楽の常識ある人だけにわかる隠喩でこう表現したのではないか。

そして、さらに4番の終結部ではマーラー9番の悲痛なヴァイオリンの高域による終結が模倣される。マーラーは悲愴の低音域による死を高音に置換しているが、ショスタコーヴィチはここで両者を複合してメッセージをより強固とし、より天国的で透明だが死体のように冷たくもあるチェレスタによる昇天で自己を開放している。この終結を導く主調のハ短調に交差するシ・ラ・ド(バスクラ)、ソ・ド・ファ#(トランペット)の陰にレがひっそりと響き、悲愴の「ロ短調」が半音下の複調で亡霊のように浮かび上がるのを聴くと僕はいつもぞっとする。トランペットはツァラトゥストラを模しており、そのハ長調対ロ長調の隠喩である凝りようはおそるべしだ。最後のチェレスタの、雲の上に浮上する、ハ短調とは不協和なラ、レが魂の天界への望まざる飛翔のように感じられる。

どこといって悲しい短調の旋律やストーリーがあるわけでもないのに、演奏が終わると心は何処からかやってきた重たい悲嘆に満ちていて、涙がこぼれ、僕は拍手は控えてただただこうべをたれて合掌していた。何という素晴らしい音楽だろう。4番はショスタコーヴィチの最高傑作である。1−3番を習作と見れば、仮面をつけていない彼の唯一の交響曲でもある。僕が5番は聴くが、第3楽章までしか聴かない理由を分かってくださる方はおられるだろうか?終楽章はモランボン楽団の行進曲なのである。スターリンは死んだが、彼はもう4番の世界に戻ることはできなかった。そして、最後と悟った15番に、4番の精神を受け継いだあの不可思議な終結を持つ引用に満ちた謎の交響曲を書いたのである。

この曲の真実を抉り出した演奏はこれをおいてない。ショスタコーヴィチは親友だった(と思っていた)ムラヴィンスキーに初演を依頼したが断られる。理由は不明だが危険を察して逃げたとしたら親友は策士でもあったのだろう。コンドラシンが初演を引き受けたことに隠された思想的共鳴があったかどうかも不明であるが、後に西側に出たことからもその可能性があると思料する。初演したモスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の楽想の咀嚼と共感は深く、未聴のかたはまずこれで全曲を覚えることをおすすめする。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/08/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac4%e7%95%aa-%e3%83%8f%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8143/

20. 中川隆[-14937] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:10:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2029] 報告

ショスタコーヴィチの4番×チョン・ミュンフン
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20080517/1211029757

ショスタコーヴィチの交響曲の魅力は何かというと、屈折したものとか、鬱屈したものとか、「芸術的な感性を率直に爆発させていない部分」を噛み砕いていく楽しみがある点。暗号を解読するようでもあり、スルメを噛むようでもある。


これはショスタコーヴィチ全盛期がソ連という、自由がない特殊な時代・特殊な体制下にあったからだが、ごく普通の人間だったら、危険な作品を書かずに、簡単に政治体制に迎合してその中に組み込まれてしまったと思う。ヘタレでなかったというか、精神的に強靭な人だったのだ。


そんな、決してとっつきやすいとはいえないショスタコーヴィチの交響曲の中で、私は4番などはよく聴く方で、何も考えずにドライブする時などにCDをかけている。


爆発するオーケストラ(第1楽章冒頭と第3楽章冒頭はともに凄い迫力だ)。咽ぶような弱さ。アイロニー。パロディ。晦渋。雑音。不協和音。「声なき声の集合のような」傑作で、こうした音楽の圧倒的な存在感を耳にすると、気持ちが静かになってくるというか、不思議に心が澄んでくるのだ。


曲は長大な第1楽章と第3楽章が短い第2楽章を挟む、全3楽章構成になっており、マーラーからの影響も言われるなど、様々な工夫を凝らしたモダンな作品となっている。続く交響曲第5番が「暗」から「明」へと至り、勝利でフィナーレを迎える古典的な交響曲であるのと対照的である。

Shostakovich Symphony No.4 In C Minor, Op.43 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=Shostakovich%3A+Symphony+No.4+In+C+Minor%2C+Op.43++++Myung+Whun+Chung

Philadelphia Orchestra · Myung Whun Chung
Released on: 2002-01-01


このCDは、第4番のみの収録で全3曲しか入っていないが、密度は濃い。情報量がものすごい。チョン・ミュンフンが生み出す、凄まじい音の洪水。音量は大体これくらいだろうなという予測のリミットをどんどん超えて、更新していく。オーケストラのあおり方、扇情的な音楽作りという点で、この人の右に出る指揮者はいないだろう。名人集団のフィラデルフィア管が、ヒステリックなまでに叫び、啼く。それでも崩れない。巧さも聴かせる。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20080517/1211029757

21. 中川隆[-14936] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:16:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2028] 報告


2006.08.20 「深刻」ショスタコーヴィチ・交響曲第5番
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060820/1156096568


今日もショスタコーヴィチ。

なんだか、このブログはまったく世の中の流れを無視して書いていますね。

読んでいただいてる方々、お付き合いいただきありがとうございます。


さて、今日は交響曲。

ショスタコーヴィチの代表作にして、交響曲史上の傑作のひとつでもある交響曲第5番について。

5番。

クラシックファンにはよく知られていることですが、5番目の交響曲には傑作が多いのです。


例えば、

ベートーヴェンの第5は、日本では『運命』として知られているし、

チャイコフスキーの5番、

ブルックナーの5番、

マーラーの5番、

プロコフィエフの5番、

シベリウスの5番、

など、傑作揃いです。

5番を代表作とする作曲家はとても多いのです。

このように重なると、偶然として片付けられず、数の魔力とも呼びたくなります。


◇  ◇  ◇


さて、ショスタコーヴィチの交響曲第5番です。

「深刻」としかいいようのない曲ですが、彼の作品のなかでは比較的聴きやすい曲です。


ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品シリーズ)
作者: 千葉潤
出版社/メーカー: 音楽之友社
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音楽之友社の『ショスタコーヴィチ』にも書いてありましたが、

ショスタコーヴィチと、ソ連共産党との関係は極めて難しいものだったようです。

作曲家の芸術的な理想と創造力。

きちんと「社会主義」的な作品を書いているか監視する国家。

昨日も書いたように、彼は厳しい制限の中での理想を追い求めました。

こうした「鬱屈」、「屈折」こそ、ショスタコーヴィチの特色だと思いますし、作品の魅力だと思います。


◇  ◇  ◇


この曲は形式は古典的な四楽章形式です。

最終的に、ベートーヴェンの第5番交響曲のように、勝利で終わる曲なのですが、そこに至る道筋が何とも非常にグロテスクです。

また、フィナーレの最後の勝利にしても、唐突に訪れる感が否めません。

このフィナーレを、「強制された歓喜」ととるか、「勝利」ととるか、作曲家自身の言葉を見てもはっきりせず、現在でも解釈が分かれているそうです。


私はこのフィナーレは、「パロディ」に見えます。

マスコミを通じて見えてくる「他国の政治」は、当然、大真面目でまた深刻なのが理解できるのですが、「パロディ」としか言いようがないときがあります。

しかし、音楽は大変に素晴らしく、そんなことを考えさせる余裕もなく進行していきます。

バーンスタイン指揮のものなど他にも名演揃いですが、この曲を初演したムラヴィンスキーの指揮のものが一番、私は厳しくて好きです。

ムラヴィンスキーのタクトは団員にはとても恐ろしく、まるで鞭を連想させたかもしれません。第四楽章の圧倒的なスピード感には悪魔が乗り移っているのではと思います。

でも、こんな厳しい演奏を日常的に聴いていたんでは体が持ちません。だいたいは、ハイティンク指揮か、ゲルギエフ指揮のものを、i-podに入れて持ち歩いています。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20060820/1156096568

22. 中川隆[-14935] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:31:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2027] 報告


Dmitry Shostakovich - Symphony No. 5 in D minor, Op. 47
Orchestre de Paris, Paavo Järvi
January 2015



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N響 パーヴォ・ヤルヴィを聴く
2015 FEB 15 1:01:27 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/15/%ef%bd%8e%e9%9f%bf%e3%80%80%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a9%e3%83%bb%e3%83%a4%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f/


9月からN響主席になるパーヴォ・ヤルヴィの指揮でシベリウスVn協(庄司紗矢香)とショスタコーヴィチ交響曲 第5番であった。

庄司紗矢香は僕自身こんなにほめていて

( 庄司紗矢香のヴァイオリン)、
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/02/18/%e5%ba%84%e5%8f%b8%e7%b4%97%e7%9f%a2%e9%a6%99%e3%81%ae%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3/

ライブで聞くのは初めてで期待があった。一方シベリウスは僕にとってこういう曲であって

( シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47)、
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/03/22/%e3%82%b7%e3%83%99%e3%83%aa%e3%82%a6%e3%82%b9-%e3%83%b4%e3%82%a1%e3%82%a4%e3%82%aa%e3%83%aa%e3%83%b3%e5%8d%94%e5%a5%8f%e6%9b%b2%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/


さてどうなるかというところだった。そこに書いた通り「女性がG線のヴィヴラート豊かにぐいぐい迫ってくるみたいなタイプの演奏はまったく苦手」であるのだが、意外にもそうでないのはほっとした。

結論を言うとちょっと残念。そこに書いた欠点の方は健在であったが美質の方が消えている。あのブラームスを弾いていた彼女にしてはぜんぜん音楽に入れておらずどこかかみ合わない。ヤルヴィの指揮はオケのパースペクティブが明確で風通しが良いのが長所だが、この曲では木管が裸で聴こえたり急な起伏が分裂症気味に聞こえ、第1楽章はただでさえ分裂気味なスコアがそのまま鳴っている感じで庄司の音楽性とマッチしてない。それが原因だったのだろうか。

第2楽章はまだ若いのだろう、あのワーグナー和音の前のモノローグは何なのか彼女は知らないかもしれない。これは良い演奏を聴きすぎている。美点を書いておくとG線までエッジのはっきりした大きな音で鳴っており、ツボにさえハマれば聴衆を圧倒する力のあるヴァイオリニストということはわかった。

ショスタコーヴィチは良かった。僕は5番とはこういうスタンスで付きあってきた

( ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47)
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2014/11/04/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%95%e7%95%aa%e3%83%8b%e7%9f%ad%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%81%ef%bc%94%ef%bc%97/


解説を読むとベンディツキーという人による作曲家が熱愛したエレーナにまつわる「愛と死」のテーマ、カルメンからの引用について触れられている。注意して耳を傾けたがどこがハバネラなのか全く不明であった。15番の例もあるからそうなのかもしれないが僕はこの曲に女の影など聞かない。あるのは重く湿って不気味にリズミックな軍靴の響きへの絶望的な恐怖だ。

プラウダ批判の恐怖がなければ彼は4番を発表してこのような平明な調性音楽を書くことはなかっただろう。その恐怖の対象がいかに凶暴で理性を逸脱した野獣のものだったか、それは平民はおろかロマノフ王家全員惨殺のむごたらしさを見ればわかる。この5番に隠された自我の屈折はそれに目をつぶってはわからないと思う。

今日の第3楽章は最高のもののひとつ。(第1楽章も好演だったがコーダの最も大事なppのところで大きな咳やセロファンのシャラシャラが入ってしまった)。第2楽章のチェロの激しいアタックはマーラー演奏の影響を感じる。終楽章はスネアドラムが軍靴の響きを告げて冒頭主題が回帰してからあんまりテンポが変わらない。これは非常に納得である。

コーダはムラヴィンスキーに似るがやや速く、彼が微妙に減速するところもそのまま行く。大太鼓が入ってからはほとんどの人が減速するがそれもしないのはスヴェトラーノフに近い。このやり方は葬列を思わせるが戦車の行軍でもあり、作曲家の意図だったかどうかはともかく重量級のインパクトがある。バーンスタインやショルティのように快速で入って2回も大減速をする安芝居は勘弁してほしい。

N響をこういう風に鳴らす指揮者は少ない。だいたいが功成り名を遂げたおじいちゃんを呼んでくるわけで、あと何年生きてますかという老人の棒に憧れの欧州への畏敬をこめてついていけば首にならないという公務員みたいなオケだ。一人の音楽監督が強大な人事権でばっさりということがない。あらゆる業界、そんなので世界一流になれるほど世界は甘くない。悪く言えば名曲アルバムのオケみたいになりかねない。ヤルヴィは全権を渡してリードさせればいい仕事をしそうな面構えだ。

ところでN響はコンマスも替わるらしい。誰であってもいいが客としてはただひとつ、ヴァイオリンセクションがいい音を出せる人にしていただきたい。なお今春から読響定期も聴いてみることにした
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/15/%ef%bd%8e%e9%9f%bf%e3%80%80%e3%83%91%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a9%e3%83%bb%e3%83%a4%e3%83%ab%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f/
23. 中川隆[-14934] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:47:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2026] 報告

Shostakovich Symphony No.7 'Leningrad' - Paavo Järvi




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N響定期を聴く(ショスタコーヴィチ 交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」)
2017 SEP 18 13:13:52 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/18/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2-%e7%ac%ac7%e7%95%aa-%e3%83%8f%e9%95%b7%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8160%e3%80%8c%e3%83%ac/


パーヴォ・ヤルヴィ / N響のこれが土曜日の18時にあって、14時試合開始の広島カープが優勝しそうなものだからそのままTVにかじりつくか迷った。結局ショスタコーヴィチに操を尽くして出かけたら楽勝と思ったカープは最下位ヤクルトに逆転負けを喫していて、逆の選択をしていたら痛恨になるところだった。

7番レニングラードはベートーベンにおける7番の位置づけだと思う。彼はマーラーに習って番号を意識していて、死にたくないので9番は軽めに書いて15番まで生き延びた。ベートーベン7番はどうも苦手でライブで心から良いと思ったのはヨッフムとサヴァリッシュと山田一雄ぐらいだが、レニングラードも同様路線の音楽で生まれ故郷の市民を鼓舞しようと書いた。このブログに書いた部分は繰り返さない。


読響定期を聴く(モーツァルトとショスタコーヴィチ)
2015 MAY 14 7:07:48 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/




ショスタコーヴィチはスターリン政権に反抗したり忖度(ソンタク)したり面従腹背したりの複雑な人で、レニングラード市民戦では従軍志願までしているから親祖国(亡命しない)、反ナチ(もちろん)、反スターリン(言えない)の3つの座標軸上でいつも最適解を模索した(余儀なくされた)作曲家だった。プロとして目指す道は4番が示唆していて、しかしスコアが散逸してしまったことが象徴するほどその路線は約束されていないものだったのだ。気の毒でならない。

4番の発表を断念して書いた5番は1−3楽章が面従腹背、終楽章がソンタクという分裂症気味な作品になってしまったが、全曲のコンセプトごと見事にソンタクというまとまりのある作品が7番である。軍人の低脳ぶりを馬鹿にしまくった「戦争の主題」、それをナチに向けたと偽装してスターリンにも向けていたという解釈が出てきているがそれは不明だ。もしそうだったなら上出来だ、なんといってもスターリン賞1席を受賞してしまうのだから。彼は作曲中にその候補に挙がっていることを意識もしていた。

バルトークはプリミティブにわざと書いたその主題にいったんは驚きライバルでもあったから皮肉って自作に引用したが、だんだん高潮して弦合奏になるとルール違反の並行和音の伴奏が付いてくる。戦争にルールはないわけで、こういう含意がプリミティブな頭脳から出るはずがないこれは偽装だと確信しんだろう。息子ペーテルは同じ戦争の被害者として反ナチについて共感もあったと著書に記しているが反スターリンだったかもしれない。ショスタコーヴィチがメリー・ウィドウを引用した可能性は否定できないが、バルトークがそうしたとする説は誤りと彼は書いている。

この日のN響はヤルヴィが連れてきたミュンヘン・フィルのコンマス、ヘルシュコヴィチが非常にうまく、合奏でも彼の音が際立って聴こえたほどで(これはおかしなこと、他がそろってないか楽器なのか音量なのか)、とにかくもう格が違う。なぜヤルヴィがわざわざ呼んできたかわかる。それでも第1ヴァイオリン群としては普段よりもずっと良い音を奏でたのであって、弱音のユニゾンの美しさは絶品であった。ヤルヴィの意図は遂げられたと納得すると同時に、コンマスがいかに影響力が絶大かを確信した。

ということで聴かせどころは弦が多い、というより、弦が弱いとブラバンの曲のようになってしまう7番を存分に賞味させていただいた。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/18/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2-%e7%ac%ac7%e7%95%aa-%e3%83%8f%e9%95%b7%e8%aa%bf-%e4%bd%9c%e5%93%8160%e3%80%8c%e3%83%ac/
24. 中川隆[-14933] koaQ7Jey 2019年11月14日 11:51:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2025] 報告

読響定期を聴く(モーツァルトとショスタコーヴィチ)
2015 MAY 14 7:07:48 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/

指揮=エイヴィン・グルベルグ・イェンセン
ピアノ=アンドレアス・シュタイアー

モーツァルト:ピアノ協奏曲 第17番 ト長調 K.453
ショスタコーヴィチ:交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」

読響は芸劇のマチネに何年か通ったが7,8年ご無沙汰だった。だいぶメンバーが変わっているようだ。

モーツァルトの17番は第3楽章の主題が飼っていた「ムクドリ」の歌ったメロディだったことで有名だが、きくたびにムクドリはどこまで歌ったのだろうと気になって困る。ミファソッソッソードーぐらいか?そのあとのシシドドレレの装飾音がピヨピヨ聞こえるからこっちもかな?

普段はハープシコードを弾くシュタイアーはモダン・ピアノを弾いた。でも、もしモーツァルトが生きてたら間違いなくそれを選んだろうしオケも現代のサイズにしただろう。もし彼が自演したらどんな風に17番をやるんだろう?そんなことを思ってしまう演奏であった。

1784年に書いた6曲のピアノコンチェルトのうち14番と17番は弟子のバルバラ・フォン・プロイヤーにあげているが彼女の父はザルツブルグ宮廷のウィーンでの代理人だったのが意味深長だ。その父の家とカントリーハウスで両曲はバルバラ嬢のピアノで演奏されたという記録がある。

ある文献によると演奏した部屋の推定サイズは14番が50u(15坪)、17番が100u(30坪)とある。僕のオフィスが21坪だからイメージできるが、これはかなり小さい。特に14番でオーボエ2、ホルン2、ファゴットはその程度の空間では相当な音量で響いたはずだ。

17番はそれにフルート、ファゴット(もう1本)が加わっているのでやはり木管の音量的プレゼンスは変わらないだろう。しかも第2楽章はそれらが活躍するようスコアリングされている。その傾向は24番でさらに顕著になるが、弦5部の人数がカルテットに近かったとみるとオケ全体の音量バランス、そしてオケとフォルテピアノのバランスは現代のイメージとかなり違うということは重要だ。

そのことは作曲時点で「私自身これまでの作品の中で、この曲を最高のものだと思います」と評したピアノと管楽のための五重奏曲K.452の存在を想起させる。私見では声楽アンサンブルを思わせ、フルートを欠きクラリネットが入っている(この時点で!)ことがモーツァルトの音響趣味をうかがう手がかりとして見のがせない。

そういう関心はサントリーホールでは無縁のことだ。シュタイアーの演奏は多少の即興をまじえながらも遊び過ぎのない硬派なものでまずは楽しめた。アンコールはソナタかな思ったらk.330の第2楽章だった。うまい人が弾くとモーツァルトはいい音を置いてるなあとつくづく感じ入る。

偏見ではないつもりだが僕はショパン弾き、リスト弾き、バッハ弾きのモーツァルトはそれだけで聞く気にもならない。それらは畢竟テンペラメントの問題だ。彼の曲は「モーツァルトみたいな四大元素の組合せの人」しかうまく弾けない何かをどうしようもなく秘めていて、聴く方だって、それに合う合わないはある。モーツァルトは名曲だが、ベートーベンがそうであるような意味での天下の名曲というとやや違和感があるように思う。

ショスタコ7番は家であまり聞かない。第1楽章の小太鼓に乗ったテーマが好きでないからだ。しかしこれは侵攻してくるナチス・ドイツを「おちょくった」カリカチュアで、11番の終楽章の野卑なテーマに通じる精神で書かれたものというのが僕の理解だ。インテリ左翼が右翼の稚気を見下す感じを内包するイノセントな主題だ。

これが好きな方には無礼をお許しいただきたいが、この部分を延々と聞いていると、人生の大事な時間をこんなものにつき合わされているわびしい無益さこそが戦争の無益さ及びそれに蹂躙された祖国の運命の悲哀を辛辣にアピールする巧妙な設計と聞こえる。ショスタコーヴィチの抑圧されたシュプレヒコールが屈折した重層的なユーモアと風刺感覚によってやむなくこの形を取って噴出したものでもあると思料する。

そうだとすれば、この曲は彼の精神史における政治闘争が生み出した芸術ということであり、政治はパブリックなものだがその衝動はすぐれてプライベートなものだ。つまり私小説であるという点で、非常にマーラーに接近したものである。彼がマーラーを好んで引用したり、ある部分はマーラー的ですらあるのは、決して故なきことではない。

11番の稿に書いたが、バルトークが管弦楽のための協奏曲でこれをおちょくったという説には組しない。むしろ7番がナチスをカリカチュア化した精神を、揶揄を強調する方向での若干のデフォルメを加えて輸入したものと解する。敬意はないが同調はあると見る。証拠はない。ただバルトークもナチスに祖国を追われ、そういう性向のある人でもあったと僕は解しているからだ。

読響のヴァイオリンセクションは気に入った。高音のユニゾンのピッチの整合もハイレベル。ヴィオラ、チェロも中音域が良く、総じて弦は満足度が高い。管はまちまちだが好演であった。

43才のノルウェー人指揮者エイヴィン・グルベルグ・イェンセンについては何の知識もないが、曲を大局的に適確につかみ骨太にまとめあげる才能を感じる。細かい部分の造り方の巧拙はこの曲ではわからないが、小さくまとまってないのがいい。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/05/14/%e8%aa%ad%e9%9f%bf%e5%ae%9a%e6%9c%9f%e3%82%92%e8%81%b4%e3%81%8f%ef%bc%88%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%a8%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4/

25. 中川隆[-14932] koaQ7Jey 2019年11月14日 12:05:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2024] 報告

2006.12.01 ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20061201/1164985242

」ショスタコーヴィチの交響曲第7番は、第二次世界大戦の真っ只中、ナチスドイツに包囲されたレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)で作曲された。


「レニングラード包囲戦」をモチーフとしているこの作品は「レニングラード」と呼ばれている。


ショスタコーヴィチは、ソヴィエト社会主義を代表する作曲家だ。


ソヴィエトの「社会主義」が理想化されて語られていた時代もあったが、現実にはその「社会主義」は「理想社会」とは程遠かった。

実際は密告社会で、国家が個人の内面にまで踏み込んでくる社会だ。


国家による監視の目をかいくぐって、自由を制限された特殊な状況下で理想を描いたのがショスタコーヴィチだった。


交響曲第7番「レニングラード」は、東西冷戦期には、「ファシズムVS社会主義」、「資本主義VS社会主義」という闘争(と勝利)を描いたものとして理解されていたが、現在ではより広い意味で、「戦争を描いた作品」として聴かれている。


◇  ◇  ◇


以前に第5番をこのブログで書いたことがあったが、


「深刻」ショスタコーヴィチ・交響曲第5番
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entries/2006/08/20

第7番もとにかくすごい迫力の曲だ。


第一楽章の「戦争の主題」がすごい。


ラヴェルのボレロのように、曲の進行とともに参加する楽器が増えていく。

控えめだった音量も次第に増大していって大音量となる。


この中で小太鼓の音が、まるで銃声のように響き渡る。


ダダダダダッダダダダダッ。


これは銃撃戦だ。


侵攻する部隊。銃撃。報復。応酬。


荒廃する都市。避難・逃亡する市民。


そんな光景が浮かんできて驚く。


戦慄。

恐怖が戦争映画のBGMのように迫ってくる。


全曲を通して聴きどころ満載のこの曲だが、私はこの「戦争の主題」の小太鼓が凄いと思う。

悲劇的で破滅的な人間の争いをこれほど鮮明にイメージできる曲を私は他に知らない。


◇  ◇  ◇


こういう曲を自宅で聴きたい時ってどんな時だろう?と考えると唸ってしまう。

大植英次 大阪フィル ショスタコーヴィチ:交響曲第7番

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Shostakovich Symphony No.7 in C major - Gergiev - Mariinsky Theatre Orchestra - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=fXmxFTLT0j0

I. Allegretto (00:00)
II. Moderato (poco allegretto) (28:23)
III. Adagio (43:25)
IV. Allegro non troppo (1:03:19)

Mariinsky Theatre Orchestra
Valery Gergiev, conductor

August 21, 2006
Berwaldhallen, Stockholm

___


大植英次氏の指揮・大阪フィル演奏のCDはライブ盤であることが信じられないほどのクオリティ。ドイツ風の重々しい演奏。大フィルの演奏能力はこんなに高かったのか!と唸る。ゲルギエフ盤は音のレンジが広く、華麗さも感じられる。どちらもこの曲の凄さを十分に感じさせてくれるCDだ。


私は、この第7番「レニングラード」に、現代の戦争をイメージする。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20061201/1164985242

26. 中川隆[-14931] koaQ7Jey 2019年11月14日 12:16:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2023] 報告


2009.01.21 ヤンソンス&コンセルトヘボウのショスタコ 7
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20090121/1232532016

マリス・ヤンソンスがロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ(RCO、以下コンセルトヘボウ)を振ったショスタコーヴィチの7番を時々聴いている。


Symphony No. 7 in C Major, Op. 60, Leningrad - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=zU4KjoF_X74
https://www.youtube.com/watch?v=HQRE6lOTMp4
https://www.youtube.com/watch?v=LkLBdxD5nKE
https://www.youtube.com/watch?v=WRu2U6W5feQ

最近、通勤時間が長くなったのに加え、地下鉄に乗らなくなり騒音が少なくなって、それほどボリュームを上げなくても音が聞こえやすくなったので、常にiPodを携えてクラシックを満喫しながら通勤している。


その時その時の気分によって聴く音楽は変わり、心身疲労困憊した時にはモーツァルトを聴きたくなり、焦りがあるときにはなんとなくバッハが合う。年末に第九を聴きたくなるのも心理だし、真夏にブラームスやシベリウスは似合わないような気がする。


聴く音楽の選択は、気候、天候、あるいは気分によるところが多い。


ショスタコーヴィチの多くの交響曲は、晦渋なところや難解なところ、ギスギスしたところなどがある反面、古典的な調和の中に音楽が収まっているという、複雑な旨みを持っていて、聴いた後には、この作曲家の交響曲でなかったら得られないような独特の満足感がある。


あまり共感が得られないかもしれないが、7番や8番などの悲劇的な交響曲は、満員電車に揺られるときなど、殺伐とした気持ちの時になぜかぴったりと気持ちにフィットする。


◇  ◇  ◇


マリス・ヤンソンスという指揮者は多彩なレパートリーを誇り、ベートーヴェンだってブラームスだってマーラーだって、かなり高いレベルでこなす非常に器用な指揮者だが、もっとも相性が良いのはシャスタコーヴィチではないかと私は勝手に思っている。


ヤンソンスによるショスタコーヴィチというと、5番はウィーンフィルと、8番はピッツバーグ響とというふうに、曲ごとにオーケストラを変えて、十数年がかりで完成させた交響曲全集が評判になった。


全集の中の、レニングラードフィルとの7番はこれまた凄まじい熱演だったが、本盤、2006年録音の、コンセルトヘボウとのコンビでの演奏はまた違った良さを持っている。全集を完成させて肩の荷が下りたのか、より客観的に、空中から戦場を俯瞰するようなスタンスで、7番のテーマである「戦争の悲劇」が語られている。


触れれば火傷するようなバチバチ火花が散るような部分はなくなって、大らかでスケールが大きくて、日常的にはこちらの方が親しめるのではないだろうか。さらに、録音の質もすばらしくて、現在のコンセルトヘボウの音の良さを満喫できる。弦はうっとりするくらいに豊潤な音色で、しっかり揃っている。管楽器も抜群に巧い。金管も打楽器も決して騒がずに、節度のある熱演を見せる。


ヤンソンスの円熟した音楽作りとコンセルトヘボウの余裕が感じられる一枚である。
https://ushinabe1980.hatenadiary.jp/entry/20090121/1232532016

27. 中川隆[-14929] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:17:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2021] 報告

ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103
2015 FEB 17 1:01:23 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/

ヒットラーにしてもスターリンにしても国威発揚に音楽を使った。ムッソリーニにそういう話はないのはオペラでは戦闘モードが萎えてしまうからか。その点、ドイツ、ロシアの音楽はその適性があったのだろう。

スターリンはショスタコーヴィチ(1906−75)にベートーベンのような交響曲第9番を期待していた。1945年、おりしも第2次大戦は有利な戦局であり、その「第9」は5月の戦争終結記念式典に演奏されるかのタイミングで作曲が進み政府の期待も盛り上がった。しかしなぜか完成は遅れて8月となり、さらに困ったことに、壮大な交響曲ではなく軽妙洒脱な軽いタッチの曲だったのである。

肩すかしを食らい、自身を揶揄されたと解したスターリンは激怒し、ジダーノフ批判(中央委員会による前衛芸術の検閲統制)によってショスタコーヴィチは窮地に追いやられたとどこにも書いてある。窮地?そんな甘いものじゃない。ボスの怒りがバックにあるのだからジダーノフは何の言いがかりをつけてでも簡単に彼を殺すことができたということである。

僕がショスタコーヴィチの音楽の論評にいつも違和感を覚えるのはこの殺される恐怖にフォーカスの甘いものばかりだからだ。音楽をやったり愛したり研究したりする人々が権力闘争に疎いのかどうか僕は知らないが、会社の昇進、ポスト争い程度の話であれ大組織の中は血みどろの戦いなのである。他人に生殺与奪権を握られると怖い。まして生命の危険となれば、ソクラテスのような人間でもない限り泰然とできるほうがよほど不思議である。ピアノばかり弾いて育った彼がそんな生き地獄に耐性を持ち合わせていたとはとても思い難い。

フルシチョフのスターリン批判にこういう記述がある。

「1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち98名が処刑された。党大会の代議員全体1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた反革命の罪状は、その大半が濡れ衣であった」

スターリンに「NO」を言うことは、すなわち「死」を意味したのである。34年にこれを目の当たりにした彼が翌年書いたのが問題作となった交響曲第4番であり、その初演は差し止めとなって2年後の37年に書かれたのがあの第5番なのである。濡れ衣であろうが何であろうが血の雨は簡単に降ったという彼の恐怖と正面から向き合わずに5番をどうのこうのと論評しても仕方ない。


「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る
2015 JAN 31 2:02:02 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/01/31/%e3%80%8c%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%82%8c%e3%81%96%e3%82%8b%e3%83%ad%e3%82%b7%e3%82%a2%e3%83%bb%e3%82%a2%e3%83%90%e3%83%b3%e3%82%ae%e3%83%a3%e3%83%ab%e3%83%89%e3%81%ae%e9%81%ba%e7%94%a3%e3%80%8d%e3%83%bc/


ここに書いた先輩世代の非業の画家たちに比べ、同世代のムラヴィンスキー(1903−88)や息子世代のロストロポーヴィチ(1927−2007)らは世渡りをうまくやってポスト・スターリン世代の英雄になった。しかし彼ら演奏家は他人の作品を音にして聴く者を喜ばすエンターテイナーである。自分を喜ばそうとする者を普通は処刑などしない。しかしその作品のほう、つまり真実のステートメントを発しないと芸術家として生きていけない、畢竟、自分自身をさらけ出す運命にある画家や作曲家の「恐怖」は度合いが違ったと考える方が自然な視点と思う。

そのふたりだけでなく多くの演奏家たちが後世になって「ショスタコーヴィチの真実」を語ったり弁護したり主張したりしている。彼らの演奏がスタンダードとされ、その言葉が現代の論評のテキストの一角をになっている。しかし命をかけて自画像を公表している本人からすれば、安全な所にいた人たちがエールを送ってくれたところでスタンドの応援団みたいなものだったろう。外野席か内野席かの違いぐらいはあったかもしれないが、グラウンドで戦っている人にとっては同じことだ。同時代人のムラヴィンスキーは問題含みの4、9、13、14番だけは巧みに逃げて振らなかった。非難するのではない、彼だって殺されないために必死だったということだ。

だからそれから8年間もショスタコーヴィチは交響曲を書かなかった。そして1953年、ついにスターリンが死んだ。その年に満を持して発表した交響曲第10番はそれなりの大交響曲となり自信作でもあった。ところがこれまた賛否両論を巻き起こしてしまうのである。作曲中に宿敵は死んだ。自身の名を暗号化した「DSCH音形」が前半は現れず後半になって頻出する。それが隠蔽された彼なりの喜びであったかどうかはともかく、それがばれてそう解釈されてしまったかもしれない。ポスト・スターリン政権はそれを口実に自分を殺すかもしれない。

暗号化。これはシューマンが愛妻の名を織り込んだのとやっている行為は同じだが、そんなメルヘン世界とはほど遠い。メルヘンに見えるものがあったとすれば推理小説作家が犯人を見抜かれないようにちりばめるひっかけ(ミスディレクション)の類だと解釈してそう人が悪いと思われる道理もないだろう。なにせ本音を見抜かれたら待っているのは「粛清」なのである。

しかし必ず後世が本音を発見してくれる。その時は自分も安全な所、つまりお墓のなかだ。ヴォルコフの証言にある「交響曲は私の墓碑銘である」という彼の言葉なるものは交響曲はダイイング・メッセージだよということであって、ヴォルコフの嘘であったとしてもそれなりに迫真性を感ずるものだ。

彼がその10番騒動の4年後に書いた第11番ト短調「1905年」作品103はソビエト連邦の最高栄誉である「レーニン賞」を与えられているのは注目されるべき事実である。その4年後にやはりロシア革命を題材として作曲された第12番はなんと「レーニン交響曲」とタイトルを付す計画であった。これは56年になされたニキータ・フルシチョフによる前掲のスターリン批判に呼応したものであることは疑いないだろう。そこで西欧は体制プロパガンダに堕落したとして作曲家の評価を下げてしまうのである。

第11番はロシアの共産主義運動の発端をなし、1917年のロシア革命のルーツともなった1905年の血の日曜日事件を描いた曲である。首都サンクトペテルブルグで行われた労働者によるロマノフ朝皇宮への平和的な請願行進に対して政府軍が発砲、数千人といわれる死傷者を出した惨事である。

余談だがこの事件は1月9日で、同年9月5日にロシアは日本との戦争に負ける。そして1917年のロシア革命でロマノフ朝は崩壊、第1次大戦に参戦はしたがドイツにこっぴどくやられる。それはそうだ、このとおり本丸がそれどころではなかったのだ。これはやはり日本に負けた清国が1911年に辛亥革命で崩壊したのとほぼ軌を一にする。日本は2つの共産主義大国を生む誘因となったといえる。

さらに余談になるが、先週ベラルーシでウクライナ停戦調停に出てきたロシア、ドイツ、フランスこそ、日清戦争の戦後処理で遼東半島の日本への割譲にいちゃもんをつけてきた(三国干渉)連中なのである。我々にはウクライナは遠いが、彼らにとって極東は近いのだ。我々はロシア史をもっと知る必要があるだろう。

交響曲第11番に戻る。この曲は無抵抗のまま殺された労働者への鎮魂とも、革命讃美の政権プロパガンダともいわれる。正反対の解釈であり両立はしない。ショスタコーヴィチの政治的立ち位置は当然ながら隠蔽されているのでどっちかという判断は誰もできない。

この曲のアトモスフェアを喚起する力は非常に大きい。第1楽章がハープと弦でそっと始まった刹那、冬のペテルブルク王宮前が忽然と眼前に現れる。こんなめざましい効果のある開始はなかなか思い当たらない。マーラーの1番の高いa音がピンと張った空気を漂わせるのが近いがあちらは清澄な森だ。こちらは血の匂いがする。

バルトークのピアノ協奏曲第2番第2楽章を思わせる静寂な神秘感があたりを覆うが、それは無慈悲で非人間的なもののメルクマールとして背景を支配しており、そこに低音のフルート重奏による聖歌のような虚ろな長調の旋律がぽっかり浮き出る。ふと人間的なものに出会った効果は絶大だが、深い悲しみをたたえているのが心に刺さる。

ミュートしたトランペット・ソロが遠くから響く。これは軍楽隊の合図のトランペットを即座に想起するが、吹いているメロディーは高音で半音階で徘徊する。これに僕はいつもチャイコフスキー4番の第1楽章で第1主題の現れる直前の所を思い出す。やがてやって来る凄惨な運命を暗示しているのも4番と似る。

第2楽章には1951年作曲の自作、無伴奏混声合唱曲「革命詩人による10の詩」作品88の第6曲「1月9日」が使われる。これだ。


Shostakovich - Ten Poems, op. 66, no. 6 The Ninth of January - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=c5ji8-6Z9cM&feature=emb_title


この女声にまたカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」(1936年)の一節が聞こえてしまう。とんでもない、あれは「生」の、はたまた「性」の音楽だろう?でも聞こえるのだ。もっといえば第3楽章の最後に連打される最後の審判のようなトランペットとティンパニ、あれはホルストの惑星の「火星」(1916年)そのものだ。どちらもこの11番(1957年)よりはずっと前の曲だ。

この曲の第2楽章ほど群衆を銃撃で殺戮するシーンをリアルに描いた音楽はないだろう。銃撃が止んで急にあたりを支配する静寂はまことに残虐であり、映画音楽にすれば客を圧倒するリアリティに満ちている。セミョン・ビシュコフがBPOを振った素晴らしい演奏でこの楽章(15分23秒〜)の銃撃部分をお聴きいただきたい。

Shostakovich Symphony No.11 in G minor op.103 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=xgCjw714IYE&feature=emb_title


Shostakovich Symphony No.11 in G minor op.103

1. Palace Square. Adagio 00:00
2. Ninth of January. Allegro -- Adagio 15:23
3. Eternal Memory. Adagio 33:45
4. Alarm. Allegro non troppo - Adagio -- Allegro 46:00

Semyon Bychkov
Berliner Philharmoniker

あまりに生々しくて放送禁止になるかというレベルであり、撃っている方が「官軍」かというとロマノフ朝の軍なのだから微妙である。軍を含む政治体制をボルシェビキが乗っ取ったと見れば官軍ではある。レーニン賞が出ているのだから政権はそう解釈したに違いない。しかしこの残忍な楽章をはさみこんでいる静謐な第1,3楽章は、革命歌の引用というミスディレクションの迷彩の中で深い祈りの響きをたたえている。

私見では第4楽章は存在そのものが迷彩であり、この交響曲は第4番で犯したミスの補修であった第5番のレプリースであろう。

ロシア革命を賛美する。それはレーニンの肯定であり、レーニンが切ろうとして果たせなかったスターリンの否定であり、尊い革命への契機を提供した労働者たちへの鎮魂にもなるのである。そして何より、それが彼の身の安全を永年保証する護符になったことは言うまでもない。

ところがまだ裏がある。第4楽章の冒頭主題は革命歌「圧政者らよ、激怒せよ」である。交響曲の主題でこれほど無教養で野蛮であり、よって共産党独裁政権のテーマソングとして好適なものは類例がない。あえて同格をひとつあげよといわれれば5番終楽章の主題ということに相成ろう。それを意図して使っているショスタコーヴィチの計略を感じる。政府を嘲弄し、「体制翼賛になりすます偽計」の裏に入れ子構造の偽計を凝らしている。この手口は5番と同じだ。

では果たして、真実が体制翼賛でないなら「無抵抗のまま殺された労働者への鎮魂」なのだろうか。僕はどうもそんな単純なものではないような気がしてならない。

この曲に一貫して感じる作曲家の視線は「血の日曜日事件」を過ぎ去った歴史として眺めるものだ。血のにおいの残る広場に立って慟哭するという姿とは遠い。これを映画音楽と見下す人がいるが、それは言い過ぎだが大きく的外れではない。あえていうなら「ローマ三部作」でのレスピーギの視線が近いだろう。

第4楽章はひとしきりの銃撃と大暴れが続くと、粗暴なドラの一発で静かになりイングリッシュホルンが切々と慕情を歌う。この楽章のチープな戦場劇画風の雰囲気は三部作のうちで最も品格を欠く「ローマの祭り」そのものだ。彼は半世紀前の虐殺事件をコロッセウムでライオンと死闘した剣闘士を見るような目で眺めている。

この11番と、同じく表面は体制翼賛にきこえる12番は、10番騒動の始末と同時に本当に書きたかった13番「バビヤール」へつなぐための2本立ての間奏曲でもあった。13番は今話題のウクライナにいたユダヤ人をナチスが虐殺した事件を主題にし、ソ連にもある反ユダヤ主義を浮き彫りにする問題作である。12番の翌年に書かれたが、彼が2年連続で交響曲を発表したことはこれを除いて一度もない。そして案の定、13番は初演にかけてまたまた大問題を発生させるのである。

ちなみにやはり切れ者であったバルトークが管弦楽のための協奏曲で7番の第1楽章主題をパロディーにしている。対抗心とされ僕もそう信じていたが、米国に亡命して自由の身にはなったがアメリカンに囲まれ決して幸せではなかったバルトークは、7番の愚鈍な主題をあそこに挿入したショスタコーヴィチに何らかの共感もあったかもしれないと最近は思うようになっている。交響曲第13番第2楽章にはバルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」第3楽章の旋律が引用返しされている。

ではそういう窮地にいなければ彼は何を書いたんだろう?

思い出すのは佐村河内のゴーストライター 新垣隆氏の言葉だ。調性音楽なんて書いたら業界から締め出されてもう生きていけません、だから実をいうと楽しんで書きましたと彼は言った。ショスタコーヴィチは「体制翼賛派である自分」という別人のゴーストライターとして、自分の墓碑銘である交響曲を最後はそれなりに楽しんで書いたのではないだろうか?死ぬまで嘘をばれずにつけば、あなたはそういう人として埋葬されるのだ。

ああいうことでもなければ書かなかった調性のある交響曲を作曲した新垣隆氏。同じくそういうことでもなければ書かれなかったショスタコーヴィチの5番や11番。彼が最後に書いた15番などは他人の作品の引用とパロディーだらけで、いまもってどういう曲なのかつかみかねる。その謎の仮面こそ彼が終生仕方なくつきとおした嘘の象徴ではないか。墓碑銘としてこんなに格好のものはないだろう?彼にそう問いかけられているような気がする。

録音については僕は10種類ぐらいしか知らない。この作曲家に関しては楽譜までひもといて探究してみようという微細な関心はあまりおきないからだ。そう思ってネットを見たら大勢のショスタコファンのかたが多くの演奏を語り、熱いメッセージを書き込んでおられる。日本のクラシックの聴き手は懐が深い。僕はコンドラシン、ハイティンク、バルシャイを好んでいるが色々な意見と聴き方がある。ぜひそちらをご覧いただきたい。

キリル・コンドラシン/ モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団

Shostakovich Symphony 11 (complete) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kBEwf_zdrnw&feature=emb_title


Moscou Philarmonic
condoctor :Kirill Kondrashine

I. The Palace Square (Adagio) 0:00
II. January The Ninth (Allegro) 12:32
III. Eternal Memory (Adagio) 30:00
IV. Tocsin (Allegro Non Troppo) 40:32

すべてを見抜いているような深みのある第1,3楽章、震撼するほど鮮烈な虐殺シーンを描ききる第2楽章、一度聴いたら忘れない演奏でコンドラシン(1914−81)は墓碑銘を読み取っていたのだろうと思う。「プラウダ」批判で発表できなかった交響曲第4番を25年後に、そして2大問題作のもうひとつ13番を62年に初演し(ムラヴィンスキーは逃げた)、結局西側に亡命したがその3年後にアムステルダムで客死した。すぐにKGBに暗殺されたのではないかと噂がたった。そんな曲を書いた方が殺されなかったのが不思議である。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/

28. 中川隆[-14928] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:21:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2020] 報告

ラザレフのショスタコーヴィチ交響曲第11番を聴く
2015 MAR 21 13:13:51 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/21/%e3%83%a9%e3%82%b6%e3%83%ac%e3%83%95%e3%81%ae%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%82%92/

ショスタコーヴィチ

ピアノ協奏曲第2番ヘ長調作品102                               交響曲第11番ト短調作品103

ピアノ イワン・ルージン                                      指揮  アレクサンドル・ラザレフ指揮                              日本フィルハーモニー交響楽団

2015年3月20日 サントリーホール

交響曲第11番が僕の最も好きなショスタコーヴィチのひとつであることはブログに書いた。


ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103
2015 FEB 17 1:01:23 am by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/02/17/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%83%88%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%ef%bc%91%ef%bc%99/


そこに「第1楽章がハープと弦でそっと始まった刹那、冬のペテルブルク王宮前が忽然と眼前に現れる」と書いた。ライブだとそこの冷たい大気まで感じるリアルさで、やがて始まる皇帝軍の一斉射撃の凄まじさはこれが虐殺シーン以外の何ものでもないことを思い知らされる。

ラザレフはだいぶ前にチャイコフスキー5番などを読響で聴いただけだったが、もう長いこといろんなものを聴いたが演奏の良し悪しは初めの1音でほぼわかる。この日は日フィルの弦楽器群から素晴らしい音を引出しておりヴィオラ、コントラバスが好演、ヴァイオリンもこのホールでの最高の質感を保ったことは称賛に値する。

ソロ・トランペットも好演。管楽器は総じてレベルが高かったがイングリッシュホルンの高い方がほんのちょっと上がりきらなかったかな。打楽器も好演だったが特にバスドラの効かせ方が良かった。この音とコンバスが重層的な基調低音を作ることでオケ全体に見事な立体感が出ていた。こういうことは指揮者のセンスの賜物だ。

協奏曲は息子の19歳の誕生日に書いたこの曲は第2楽章などショスタコーヴィチと思えぬ優しい曲想だが聴きごたえがあった。軽め薄めに彩られた管弦楽法が楽しく、イワン・ルージンのピアノも軽め強めのタッチの弾き分けとグラデーションがみごとで、アンコールのプロコフィエフの第7ソナタ第3楽章も聴きごたえがあった。

大変に素晴らしいショスタコーヴィチを聴かせていただき大満足である。どちらもベルリンやロンドンにそのまま持っていって何の遜色もない名演だ。日フィルはほとんど聴いていなかったが、実力を認識した。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2015/03/21/%e3%83%a9%e3%82%b6%e3%83%ac%e3%83%95%e3%81%ae%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%91%e7%95%aa%e3%82%92/

29. 中川隆[-14927] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:23:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2019] 報告

ショスタコーヴィチ 交響曲第13番 変ロ短調「バビ・ヤール」
2019 OCT 10 13:13:12 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/10/10/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac13%e7%95%aa-%e5%a4%89%e3%83%ad%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%e3%83%90%e3%83%93/

屋久島で助けた若いイスラエル人にもらったペンダントを自室の壁に掛けている。あれはもう5年前になるのか。羊に見えるが、ヘブライ語の “H” をかたどったユダヤのお守りだそうで、どうして H なのかは思い出せないが、「これはあなたを幸福にします」と真剣なまなざしでいった彼女の顔と言葉は忘れない。

キエフを占領したナチス・ドイツ親衛隊が、2日間で33,771人の女子供を問わないユダヤ人と、ウクライナ人・共産党員・ジプシー・ロマらを虐殺したのが、ウクライナ(キエフ)にあるバビ・ヤール峡谷であった。どういうきっかけだったか、だいぶ前にこの写真を見たときの衝撃は失せようがない。人間が犯したあらゆる罪でも最も悪魔に近い、鬼畜でも済まない、鬼だって畜生だってこんな卑劣、残酷なことはしない、呪って地獄に落とすべき所業だ。

1992年にドイツに赴任した。正直のところあまりうれしくなかった。フランクフルトの街のそこかしこでドイツ語を聞いた時に、まず心に浮かんだのは、これがモーツァルトのしゃべっていた言葉かということでもあったが、ナチスもそうかという暗澹たる気持ちのほうが多めだったのを思い出す。家を借りることに決めたケーニヒシュタインは、たまたまユダヤ人の街だった。ドイツ人には申し訳ないが、その文化、音楽は言うに及ばず哲学、思想、自然科学、法学において最も尊敬に値する国ではあるのだけれど、2年半住んで良い思い出をたくさんいただいたのだけれども、それでもどうしても「それ」だけは意識から消せないまま現在に至っていることを告白しなくてはならない。これだけドイツ音楽を愛し、それなしには人生成り立たないほどなのに、このアンビヴァレント(ambivalent)な相克は僕を内面で引き裂いている。

ナチスのホロコースト犠牲者は600万人とされるが、スターリン時代のソビエト共産党による国民、党員の粛清者は少なく見積もっても2000万人といわれる。ユートピアは死体の上に築かれるものらしい。その体制下に作曲家として生きたショスタコーヴィチがそのひとりにならなかったのは作品を見る限り奇跡としか思えないが、彼には音楽を書くと同等以上のインテリジェンスがあった。交響曲でいえば5番から本音を巧妙に封じ込める作法に転じ、時に大衆にもわかるほど明快に共産党への社会主義礼賛を装って、しかしアイロニーとシニシズムの煙幕の裏で鋭い批判と反逆の目を光らせる。表向きの迎合はスターリン死後の11,12番で犬にもわかる域まで振れ、その反動がいよいよまごうことなき “言葉” を伴った音楽で、本音の暴露と思われて仕方ない体裁で世に問われたのが第13番である。

13番は1962年、僕が小2の時の作品だ。まさにコンテンポラリーだが、最も舞台にかかることの少ないひとつだ。当然のこととして政府が監視、干渉し、Mov1の歌詞書き直しを命じ、初演を委嘱されたムラヴィンスキーが理由は定かではないが逃げ、コンドラシンが振った。劇場の聴衆は熱狂をもって支持した。海外初演はオーマンディーが振った(歌詞はオリジナルで)。フィラデルフィアの楽屋で「日本が大好き」と言ってくれた彼もユダヤ系米国人だ。まず彼の録音を聴いたが、よくわからなかった。僕はまだ若かった。今になって悟ったことだが、「バビ・ヤールに記念碑はない」と始まるこの曲は、世界の聴衆の脳裏にそれを建立して刻み付ける試みであり、エフゲニー・エフトゥシェンコの詩に託して語った作曲家自身の墓碑銘であると思う。

バス独唱とバス合唱は暗く重い。Mov1の曲想も沈鬱である。Mov2は一転、悪魔のブルレスケだ。Mov3「商店で」女たちは耐える、Mov4「恐怖」恐怖は死んでも偽善や虚偽がはびこる新たな恐怖がやってくる、Mov5「出世」私は出世しないのを、自分の出世とするのだ!音楽は旋律があり無調ではないが、鼻歌になるものでもない。4番でモダニズムに向かおうとしていたショスタコーヴィチがもし違う国で活躍できたなら13番目の交響曲はどうなったか、誰も知る由はないが、彼がどんなに不本意であったとしてもこれはあるべきひとつの帰結であり、彼の生きる意志と精神の戦いのドラマとして聴き手の心を痛烈に揺さぶる。Mov4まで、聴衆は尋常でない重みの暗黒と悲痛と諧謔と嘲笑を潜り抜け、Mov5に至って初めて運命の重力から解放される。Vn、Vaソロの天国の花園と鳥のさえずりがなんと救いに聞こえることか。チェレスタとベルが黄泉の国の扉を開け、全曲は静かに幕を閉じる。くどいほどの隠喩に満ちた怒りのメッセージと、田園交響曲から連綿と続く救済のメッセージの交差は現代の眼で見れば何ら新奇ではないが、彼ほどの人間がこんな手法に閉じ込めねばならなかった「なにものか」の重さは痛切だということが、それをもってわかる。ぜひ、上掲の写真をもういちど御覧いただければと思う。

昨日は初めてライブを聴いて、この交響曲は「理解」しようと思っても難しいのだと気づいた。エフトゥシェンコの詩は平明で、そこで起こっていたことを推察させるには充分だ。それをショスタコーヴィチが題材としてなぜ選び取ったかもである。「なにものか」を「時代の空気」と書くのはあまりに軽薄で情けないが、それを彼はこういう音楽に託したという意味での空気(アトモスフィア)ではあリ、彼の境遇ではそれを呼吸せずに生きることは能わなかった。アートは芸術家の心の奥底にある何らかの五感、感覚を通した衝動が生むものだとすれば、ここでの衝動は特異だ。しかし、それは、モーツァルトが危険を冒して書いた「フィガロの結婚」に比定できないでもなく、聴くものに「何かを読み取ってくれ!」という強いメッセージを包含しているように思う。ただ、ショスタコーヴィチのほうは、読み取るも何もあまりにあっけらかんとあからさまであって、彼ほどの頭脳を持った男にして何がそんなことをさせたのかの方を読み取りたくなってしまうという点で、13番は特異な音楽であると思う。

娑婆に戻ろう。きのうはCSファイナル初戦の巨人・阪神と迷った自分がいた。クラシック音楽と野球とどっちが大事なんだという問いに答えるのが僕ほど難儀だという人はほとんど存在しないのではないかというのが長年日本国に暮らして経験的に得た結論だ。犬好きと猫好きは違うが、両立することもある。しかし、こっちは、平明な水準ならともかく、そういう人は見たことがない。所詮は道楽の話だ、どうでもいいとも思うが、僕はそういうことを仔細に観察する手の人間であって、もはやリトマス試験紙になるかと思うほどに両者の人種までが違うと結論するしかないし、酸性でもアルカリ性でもある自分というものがわからなくなる。

これが5番や7番だったら確実に東京ドームに現れていたからけっこう微妙な裁定になるが、13番はなかなか機会がなく抗し難かった。まずハイドンを前菜にしたのは正解で、結果として、13番の重さを中和してくれたように思う。94番、何度聴いても良い曲だなあ、最近はますますハイドンに惹かれている。Mov1の提示部でVaに現れる、まさにハイドン様にひれ伏す瞬間である対旋律をテミルカーノフは2度とも指示して浮きだたせた。もうこれだけで先生わかってるね、さすがだねだ。

彼は13番初稿を作曲家の前で振っているが、コンテンポラリーをオリジナルな形で聴いておくのは大事だ。こうして何度も上演を重ねて、解釈は固まっていくから、千年の単位で物を見るなら我々はそのきわめて初期の過程をwitnessしたことになる。音楽が表すものが美ではなく、怒りである。音楽はそういうものをも伝えることができるという稀なる体験だった。

指揮=ユーリ・テミルカーノフ
バス=ピョートル・ミグノフ
男声合唱=新国立劇場合唱団(合唱指揮=冨平恭平)

ハイドン:交響曲第94番 ト長調「驚愕」
ショスタコーヴィチ:交響曲第13番 変ロ短調「バビ・ヤール」

(サントリーホール)

https://sonarmc.com/wordpress/site01/2019/10/10/%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%82%b9%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%b4%e3%82%a3%e3%83%81-%e4%ba%a4%e9%9f%bf%e6%9b%b2%e7%ac%ac13%e7%95%aa-%e5%a4%89%e3%83%ad%e7%9f%ad%e8%aa%bf%e3%80%8c%e3%83%90%e3%83%93/

30. 中川隆[-14926] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:29:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2018] 報告

マーラーの墓碑銘
2017 SEP 10 12:12:03 pm by 東 賢太郎
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/

「私の墓を訪ねてくれる人なら私が何者だったか知っているし、そうでない人に知ってもらう必要はない」と語ったグスタフ・マーラーの墓石(右)には名前しか刻まれていない。作品が語っているし、わからない者は必要ないということだ。去る者追わずの姿勢でも「やがて私の時代が来る」と宣言した堂々たる自信は畏敬に値する。

冒頭の言葉の墓をブログに置き換えて死にたいものだと思う。昨今、一日にのべ 2,000人ものご訪問をいただくようになってきてしまい、普通はなにか気の利いたサービス精神でも働かせるのだろうが僕にエンターテイナーの才能はない。何者か知っている方々だけが楽しんでくださればそれ以上は不要だ。

マーラーがスコアに「足音をたてるな」と書いたぐらい、僕は部下への指示が細かくてしつこかったと思う。理由は信用してないからだから言わない。しないと何をすべきかわからない人にはなぜかを説明するが、そういう人は得てしてそうしてもわからない。より平易にと親切心で比喩を使うと、主題転換の方に気を取られてますますわからなくなる。よって面倒なので、自分でやることになる。

マーラーを聴くと、そこまで僕を信用しませんか?それって、そこまでするほど重要なことでしたっけとなる。そして部下も僕をそう嫌ってるんだろうなと自省の念すら押し付けられて辟易し、音楽会が楽しくもなんともなくなってしまうのだ。ボヘミアンを自称したコンプレックスを断ち切ってウィーンの楽長まで昇りつめたエネルギーの放射と自信はすさまじいが、灰汁(あく)を伴う。

ショスタコーヴィチはマーラーの灰汁を彼自身のシニシズムと混ぜ合わせてスターリン将軍様に見せる仮面に仕立ててしまった賢人である。革命後の1920年代より一貫して第一線に立ち続けることができた芸術家は彼以外にほとんどいない。招かれざる個性だったがその陰に隠れた怒りのくどさも格段で、仮面がだんだん主題にすらなる。交響曲第13番は「バビヤールには墓碑銘がない」と始まるが、「私の交響曲は墓碑銘である」と語ったショスタコーヴィチの墓には「DSCH音型」(自分の名の音名)の墓碑銘がある。


https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/mahler2/
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/shostako/


僕は自分の音楽史の起源にある下のブログを書いていて、ネルソン・リドルのスコアに偶然かどうかDSCH音型があるのに気づいた(hが半音低いが)。


こういう、人生になんら影響のないことに気が行って、気になって眠れなくなるのをこだわり性格という。こだわりには人それぞれの勘所があって万事にこだわる人はまずない。芸術家はすべからくそれであって、そうでない人の作品にこだわりの人を吸引する力などあるはずがない。

例えば僕は猫好きだが子猫はつまらないし毛長の洋ものは犬ほど嫌いだから猫好きクラブなど論外である。生来の鉄道好きだが、勘所は線路と車輪のみでそれ以外なんら関心がないから今流の鉄オタとは遠い。原鉄道模型博物館に感動してこのブログを書いたのはわけがある。


車輪のフランジへのこだわりは書いた通りだが、書いてないのは「音」だ。線路と車輪は普通は安価で錆びず持ちがいいステンレスで済ますが継ぎ目を車輪が通過するカタンカタンの音が軽い。原信太郎氏は原音にこだわって鉄を使っているのである。そんなことは普通の客は気にしないし気づきもしないだろうが、僕のような客は気にするのだ。

バルトークの息子ペーテルが書いた「父・バルトーク」(右)に「なぜレールの継ぎ目で音がするの?」とカタンカタンのわけを質問したくだりがあって、父は線路と車輪を横から見た絵を描いて(これが実に精密だ!)、音の鳴る原理を克明に息子に説明しているのである。原信太郎氏はこれを見たかどうか、もし見たなら同胞の絆と膝を打ったに違いない。僕はバルトーク氏も原氏も直接存じ上げないが、心の奥底のこだわりの共振によってそれを確信できる。上掲ブログはあえてそう書かなかったが、それが2014年、3年半前の僕だ。いま書くとしたらぜんぜん違うものができていただろう。

原氏のこだわりの類のものを見ると、大方の日本人はこれぞ匠の技だ、我が国のモノづくりの原点だとなりがちだ。そうは思わない。ヨーロッパに11年半住んでいて、精巧な建築物、構造物、彫刻、絵画、天文時計などジャンルに数限りないこだわりの物凄さをたくさん見たからだ。クラシックと呼ばれる音楽もその最たるもののひとつだ。僕は洋物好きではない、精巧好きであって、それは地球上で実にヨーロッパに遍在しているにすぎないのである。

さて、マーラーの墓から始まって僕のブログはレールの継ぎ目の話にまで飛んでしまう。計画はなく、書きながらその時の思いつきを打ち込んでいるだけだ。アンタッチャブルは出るわ猫は出るわで常人の作文とも思われないが、こういう部分、つまり主題の脈絡なさ唐突さ、遠くに旅立つ転調のようなものがマーラーにはある。そして僕は、それが嫌だからショスタコーヴィチは好きでもマーラーは嫌いなのである。
https://sonarmc.com/wordpress/site01/2017/09/10/%e3%83%9e%e3%83%bc%e3%83%a9%e3%83%bc%e3%81%ae%e5%a2%93%e7%a2%91%e9%8a%98/

31. 中川隆[-14925] koaQ7Jey 2019年11月14日 13:37:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2017] 報告
「どれを聴く?」迷ったら→井上道義・ショスタコーヴィチ交響曲 コメント 2007.11.01
https://www.michiyoshi-inoue.com/2007/11/_6.html


僕は今回の全曲演奏会で、できれば解説とか予備知識なしに、または
あってもそれを一回捨てて、彼の作品そのものに触れていただきたいのです。
                 ――「月刊ぶらあぼ」2007.11月号より

*「音楽はアートだ!真実をえぐる響き 井上道義的ショスタコーヴィチ世界 《井上道義の目》」 より*

(1)アヴァンギャルドの時代 交響曲第1番〜第3番

【交響曲第1番ヘ短調作品10】  2007.11.3.sat 17:00~
[ショスタコーヴィチの全ての爆発を確認する]
 19歳の、すでにそれまで4年間家族の経済を支えてきたしっかりした少年の
模範的卒業作品。しかし、ここそこに彼の才能の爆発、以後の彼自身の心の支えになる
独自の響き、形、性格が隠れている。彼は天才だが遅咲きのほう、ピアノを始めたのは
9歳なのだ。あなたの息子も、今からでも遅くないかも。

【交響曲第2番 ロ短調 作品14 「十月革命に捧ぐ」】  2007.11.3.sat 17:00~
[集団の中で住む場所を探す]
曲の後半サイレンが鳴るまでは、まるでフォービズム、ある時代のピカソのよう。
午後の授業のベルを聞くまでに遊ぶ奔放な少年の心の中を見るようだ。人は、集団に入れば
その中で自分の住む場所を見つけねばならない、どちらも人間の存在の表裏を形づくる世界だ。
強制とか自由とかの問題ではない。

【交響曲第3番 変ホ長調 作品20 「メーデー」】  2007.11.3.sat 17:00~
[ハプニングアートの時代を30年先取り]
 音の抽象画を狙ったと思える形式のはっきりしない作曲法、見方によってはオノ・ヨーコなどの
ハプニングアートの時代を30年先取りか。言語が音楽に突然社会的実用品として割り込み、
「レーニン」と叫ぶ。聴くほうも演奏するほうもプライバシー侵害を感じるような違和感。
今で言えばテレビコマーシャルの割り込みといえそうな終結部。


(2)批判との闘い 交響曲第4番〜第6番

【交響曲第4番 ハ短調 作品43】  2007.12.1.sat 17:00~
[正真正銘大傑作!]
 正真正銘大傑作。これを書いた後ショスタコーヴィチが粛清されても彼は永遠に名を残しただろう。
しかし上手く生きてくれてよかった。 ここに彼の全てがあり、誰もなしえなかった交響曲の巨大な
20世紀のモニュメントだ。男の音世界はこれだ。誰だ! クラシックは、女子供のすることだと
言ったり、私はクラシック音楽がわかりませんとか言う腰抜けは?

【交響曲第5番 ニ短調 作品47】  2007.11.4.sun 15:00~
[抽象画家の描いた肖像画]
 私事ですが長年、振りたくなかった作品です。10代のころ日比谷公会堂でひどい演奏を
聴いてしまったからか、或いはほとんどの指揮者が、終楽章で乱痴気騒ぎをするばかり
だったからかもしれない。でもあるとき楽譜を真面目に見てから考えが変わった。誰にでも
判りやすい形式で、繰り返しの多い古典的方法で、自分の音楽を型にはめてみたのだ。
すでに売れている抽象画家なのに街角で町の人々の肖像画を書いたようなもの。そしたら
黒山の人だかりになったのだった。

【交響曲第6番 ロ短調 作品54】  2007.11.4.sun 15:00~
[ショスタコーヴィチの「田園交響曲」]
 「大袈裟」が嫌いな人はまずショスタコは6番から聴けば良い。ベートーベンの田園とは
違うが、平和な曲だ。日比谷で聴いて公園散歩…ソヴィエト時代のロシアに生まれなくて
良かったとか思って…ふふふ、幸福ですか?


(3)戦争の時代 交響曲第7番〜第9番

【交響曲第7番 ハ長調 作品60 「レニングラード」】  2007.11.10.sat 17:00~
[オフザケと狂気は全く逆を向いている]
 私がショスタコに真に「はまった」のはこの第1楽章を「フザケタボレロ…」と
思った20年前。一昨日の感じです。オフザケと狂気は全く逆を向いていることを知った。
父や母が戦争の話をしたがらないわけもわかり始めた頃だ。
 人間は弱く、知らないうちに少しずつ狂気=戦争というに蝕まれるのだろう。心せよ!!
 7番が初演された頃、レニングラードでは都市封鎖で毎日3000人が死に、飲む水も
十分になかった。日比谷公会堂では大本営発表を信じていた人々が、クラシック
コンサートに通い2日に1回は行われていた。アメリカ生まれの私の育ての父は英語に
堪能であるというだけで日本ではスパイ扱い。耐えられずフィリピンに移住、母も
(いわく、「あこがれの軍艦!」に守られ)船で彼の後を追った頃だ。数年後、日比谷公会堂は
米軍による空襲での遺体置き場となる。

【交響曲第8番 ハ短調 作品65】  2007.12.9.sun 15:00~
[本当の芸術は材料なぞ何でも良い]
 戦争交響曲とも言われる。本当の芸術は材料なぞ何でも良いのだ,材料そのものを
表現したって芸術とはいえないのだから。その逆も真なりだがね。どんな戦いの中にも
素晴らしい興奮と生きる現実の喜びが人に与えられているではないか。ふふふ。

【交響曲第9番 変ホ長調 作品70】  2007.11.18.sun 15:00~
[人民の期待?を軽くうっちゃる喜び]
 楽しい、面白い、ユーモアがある、やさしい、でも崩れない品位があり、交響曲1番の
ようでもあり、まるでハイドンのシンフォニーのようで、演奏者も楽しめる。
サッカーの好きなショスタコ、意外と恋愛も多かったショスタコの、確信犯的な
おもちゃの兵隊のような凱旋フィナーレ、人民の期待?を軽くうっちゃる喜び=ショスタコの
真骨頂。ははは。


(4)体制の中から 交響曲第10番〜第13番

【交響曲第10番 ホ短調 作品93】  2007.11.11.sun 15:00~
[誰が自分を完全に説明できますか?]
 彼は作曲界の長嶋、イチロー、松井。人は彼を材料に色々書き、言う。しかし彼は
彼の心と頭から出る音形を楽譜に書きとめようとしているだけで、彼自身にだって
その出所がわからない事だってあるのだから。
誰が自分を完全に説明できますか?

【交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」】  2007.12.5.wed 19:00~
[凍るようなロシアの長編小説]
 良い演奏ならばこの曲はまるで時間を越えて凍るようなロシアの長編小説、
長編歴史映画を見るような音絵巻だ。交響曲の世界は素晴らしい。殺されることなく
2つの革命(第12番とともに)を経験できるのだから…。平和の時代に生きる事への
罪の感覚が芽生えさえするのが恐ろしい。

【交響曲第12番 ニ短調 作品112 「1917年」】  2007.12.5.wed 19:00~
[何が起こっても何も変わらない「世界」]
 この曲の中に音楽の流れをせき止める音が数回出てくるが、何の関係もない音形
なのでロシア語の堪能な一柳さんに聞いてみた。数日して「スターリン」と読めると
聞いた。なるほど! 彼が出てくればすべては止まる。息の根が止められる。
最終楽章は革命の後の「何も変わらない黄昏のような朝焼け」さ。それは我々も
知っている。政権が変わっても首相が代わっても何も変わらない「世界」を。
でも誰にでも希望は与えられている。この曲が15曲の中で一番出来が悪いと
いう人が多いらしい。本当か?まあ聴いてください。

【交響曲第13番 変ロ短調 作品113 「バビ・ヤール」】  2007.11.11.sun 15:00~
[イソップ的世界からの鉄槌]
 名曲! ロシア語の詩は字幕で出します。飛んで跳ねるイソップの世界に身を隠し、
ユダヤ人差別を、身近なこととして偽善的な庶民へも突きつける内容。
日本にも差別はあるがそれをここまで赤裸々に音楽化しようとした勇気ある作曲家は
いない。彼はそれをあのソヴィエトの中でやった真の命知らず。
その上ムラヴィンスキー独裁の頃のレニングラードフィルハーモニーの団員は
その事実を公に出来なかったがユダヤ人がとても多かったのだから・・・・・
暴走族や町の落ガキ達に聞かせたい。


(5)終の境地 交響曲第14番、第15番

【交響曲第14番 ト短調 作品135】  2007.11.18.sun 15:00~
[死とは生きること]
 宗教、神による癒しも拒否し、安心も捨てて、死と対峙するとは自信に満ちた
ショスタコも行き着くところまで極まっている。死とは生きること。死がなければ
生はないのだから。ローレライの魔女は自分に魅入られて死んだ。人は何によって
生かされ何によって死ぬか? それを見つければその人の一生は完全だ。
人にとって当の自分の人生以外に価値あるものは何だろうか? 答えは? 愛とか言うのですか?

【交響曲第15番 イ長調 作品141】  2007.12.9.sun 15:00~
[名曲は、いかようにも変貌するもの]
 この曲は指揮者によってどのようにも変貌する。名曲とはそんなもの。怖い。
愛する?新日フィルと心中。

https://www.michiyoshi-inoue.com/2007/11/_6.html

32. 中川隆[-14922] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:48:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2014] 報告

トリオ・ワンダラーのベートーヴェンとパシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ 2016年6月11日
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-846f.html


 2016年6月9日、三鷹芸術文化センターでトリオ・ワンダラーによるベートーヴェンのピアノ三重奏曲全曲演奏の二日目、第1・3、変ホ長調WoO38、「仕立て屋カカドゥの主題の夜変奏曲とロンド」、第7番「大公」を聴いた。トリオ・ワンダラーはこれまでナントと日本のラ・フォル・ジュルネで何度も聴いてきたが、実は私はどうもよさがわからない。雑な気がしてしまう。が、強く薦める人がいたので、再び聴いてみた。だが、やはり印象は変わらなかった。

 もう少しじっくりと演奏してほしい気がしてしまう。意味なく速く、せわしげに演奏しているような気がしてならない。第三番の作品1−3のハ短調の曲も、あの若きベートーヴェンの人生に対する鬱積が伝わらない。「大公」も凛とした気品が伝わらない。私がこれらの曲に求めるものとは違うものをこのトリオは表現しているのだろう。「やはり、私にはよくわからない団体だ」ということを再認識した。

 翌6月10日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲連続演奏の初日、第1・2・7・3番の演奏を聴いた。これは素晴らしかった。ショスタコーヴィチの醍醐味を味わった。

 サルビアホールで聴いたのは初めてだった。鶴見駅からすぐのところにある100名を少し超すくらいの規模のホールだが、音響面に優れているように思った。このホールで室内楽を聴くのはとても贅沢だ。

 パシフィカ・クァルテットは1994年結成の弦楽四重奏団。もっと若いのかと思っていたら、今や中堅といえそう。アンサンブルがびしりとあって実に見事。時々テンポを動かすが、テンポの揺れが指揮者なしで完璧に行われるのは小気味いいほど。しかも、それが音楽の流れに沿っているので、まったく不自然ではない。音楽の表情も豊かで、完璧なアンサンブルによってショスタコーヴィチ特有のヒステリックといえるような激しい高揚が展開される。人生のやるせなさ、激しい焦燥、怒り、生そのものの激しい衝動。そのようなものが目の前で繰り広げられる。この団体の凄さだけでなく、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の素晴らしさも改めて知ることができた。第3番は素晴らしい名曲だと思った。

 実は、とても忙しい。たまたまいくつかの仕事の締め切りが重なってしまった。しかも、コンサートや芝居、オペラなどに立て続けに行く予定。そんなわけで、今日はこれ以上文章を書く時間的余裕がない。このくらいにしておく。
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-846f.html


パシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ第2夜・第3夜 圧倒的演奏!
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ea0f.html


 2016年6月13日・14日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏の第2夜と第3夜を聴いた。本当に素晴らしい。パシフィカ・クァルテットの名前はこのたび初めて知った。こんなすごい弦楽四重奏団がいたなんて!

 完璧なアンサンブル。リリックな部分、ロマンティックな部分、絶望的な部分、うつうつとした部分、躁の部分がとても自然に、しかもメリハリが付けて演奏される。その多くの部分に心を奪われ、時に胸を締め付けられる気持ちになり、時に叫びだしたい気分になる。音楽の中に音楽そのもののドラマがあり、それが余すところなく表現される。しかも、余計なものは含まれていないのを感じる。だからこそ、いっそう魂を揺さぶる。

 私は特にショスタコーヴィチ好きというわけではない。交響曲に関していうと、どちらかというとやや苦手な曲が多い。20年近く前、ボロディン弦楽四重奏団の全集CDを見つけて購入し、その凄まじい演奏に圧倒されて以来、室内楽曲には魅力を感じてきたが、本当のことを言うと、ボロディン四重奏団の全集も通して聴いたのは2、3回だと思う。ショスタコーヴィチの曲を聴くと、胸がいっぱいになって続けて聴きたい気持ちが起こらない。そんなわけで、今回も、初めて聴いたに等しい曲も何曲かあった。

 しかし、そうであったとしても、今回のパシフィカ・クァルテットの演奏には驚嘆する。ぐさりぐさりと心に突き刺さってくる。私はとりわけ第2日(6月13日)の第8番と第3日(6月14日)の第9番と第12番に感動した。音によって作りだされる複雑な人間の魂の世界に揺り動かされた。

 100人くらいしか客の入らないサルビアホールで独り占めするのがあまりにもったいない。世界最高レベルのクァルテットだと思う。最終日が楽しみだ。
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-ea0f.html

ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全曲演奏最終日 そして宇野功芳氏の訃報
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html


 2016年6月16日、横浜市鶴見区のサルビアホールでパシフィカ・クァルテットによるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏最終日を聴いた。最後まで緊張感あふれる素晴らしい演奏だった。

 曲目は、前半に11番と13番、後半に14番と15番。親しい人が死に、自分の死が近づいていることを意識する時期のショスタコーヴィチの陰鬱で複雑な感情が描かれる曲。ショスタコーヴィチが信頼し、彼の弦楽四重奏曲を初演してきたベートーヴェン・クァルテットのメンバーの死を追悼する意味の含まれる曲が多く、それぞれの楽器の使い方が曲により異なる。

パシフィカ・クァルテットはそれらの曲の複雑な表情を実に鮮烈に、しかも緊張感にあふれて再現した。強い音の表現がみごと。四人の息もぴったり。やはり、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏を連想する。独特の境地とでもいうか。ただ、とりわけ第1番に関しては、私にはまだまだ理解できないと思った。中学生だったか高校生だったかのころ、初めてベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いて途方に暮れた時のことを思い出した。まだまだショスタコーヴィチに関して、私の修行が足りないということだろう。

いずれにせよ、私はショスタコーヴィチについては交響曲よりも室内楽のほうにずっとひかれることを改めて感じた。交響曲は大衆を意識し、ソ連当局を意識するので、内面そのものでなく、あれこれと政治的な言い訳を加えたり、韜晦を加えたりといった余計なものがたくさんある。が、室内楽にはショスタコーヴィチの屈折した内面がそのまま表れる。そこが最高におもしろい。とりわけ、弦楽四重奏曲を最初からずっと聞いていくとその人生の軌跡が見えてくる。しかも、このパシフィカ・クァルテットはそれを最高の生々しさで描いてくれる。

このような最高の企画をしてくれている横浜楽友会に感謝。

といいつつ、鶴見に通って4日間ショスタコーヴィチを聴くというのはなかなかつらい。このところ食欲がなく気が晴れない(といいつつ、一昨日は銀座三越のレ・ロジェ・エギュスキロールで実においしいフランス料理を食べたが)のはショスタコーヴィチの気分を引きずっているからのような気がしてならない。

なお、数日前、ショスタコーヴィチ連続演奏に通っている間に音楽評論家の宇野功芳氏死去の報道に接した。私は高校生、大学生のころ、氏に非常に大きな影響を受けた。その後、氏のあまりに断定的な表現、芸術に順位をつけるような考え方に反発し、私にとって最も嫌いな評論家になっていた。しばしば氏の批評に腹の立つことがあった。だが、CDを聴き、自分なりに感想を抱いた後、宇野氏の評を読むと、私の感想とそっくり同じであることに驚くことも多かった。

5、6年前、一度、出版関係者の紹介で話をする機会(ベストセラー作家であり、クラシック音楽好きで、音楽関係の著書も数冊あると私は紹介された)があり、率直に私の思いをお話しすると、「宇野功芳と対決するという本でも出しませんか。いつでも受けて立ちますよ」といわれた。ちょっと考えたが、音楽に対する知識でとうてい氏に及ぶわけはないと思ってあきらめた。今となってはよい思い出だ。合掌。


コメント


宇野さんはここ数年過去に自分の言った言葉の数々に囚われてしまったようにかんじられました。音楽を聴くときに言葉に囚われることの悲劇というのを、自分は過去ある演奏者の方から直接聞いたことがあります。それをふと思い出してしまいました。
投稿: かきのたね | 2016年6月19日 (日) 03時24分

幻に終わった宇野功芳氏との対決本、もしできていたら、面白い本になったかもしれませんね。読者も参加できたら(投稿か何かの方法で)、私も一言くらいは参加したかも‥と思ってしまいました。
投稿: Eno | 2016年6月19日 (日) 18時12分

かきのたね 様
おっしゃる通りですね。確かに、あのように断定的な言い方をすると、のちに考えが変わったり、別の視点で聴き返してみたりしたとき、前言を翻すのが難しくなってしまいますね。ある意味で自分の成長を自分でとどめてしまうことになるかもしれません。しかも、氏の場合、以前と矛盾したことを書くと鬼の首を取ったようにあげつらうアンチも多かったようですし。あのような文体も一つの芸だったとは思いますが、ご自分へのマイナス面のあったのでしょう。
投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 21時58分

Eno様
宇野氏の追悼本として、そのような本の企画をどなたか考えてくれませんかねえ。それがもっとも宇野氏にふさわしい本になるように思います。多くの投稿者が一つのオマージュとして宇野氏への批判をするような本です。私も一人の投稿者として加わりたいですね。

投稿: 樋口裕一 | 2016年6月19日 (日) 22時07分
http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-171c.html

33. 中川隆[-14921] koaQ7Jey 2019年11月14日 17:59:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2013] 報告
パシフィカ・クァルテットのショスタコーヴィチ

String Quartet No. 8 in C Minor, Op. 110 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ql0JzzflED0
https://www.youtube.com/watch?v=zS-eJ6_WWa4
https://www.youtube.com/watch?v=ZJLTyzl-fVo
https://www.youtube.com/watch?v=_4kPd3nW0Fk
https://www.youtube.com/watch?v=ryDeqqUvs44

Ensemble: Pacifica Quartet
Composer: Dmitry Shostakovich
Released on: 2011-09-06

34. 中川隆[-14920] koaQ7Jey 2019年11月14日 18:44:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2012] 報告

ショスタコーヴィチ(1906-1975) プロフィール
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%881906-1975%EF%BC%89_000000000021314/biography/


「わたしの交響曲は墓碑である」という例の『証言』の中の言葉に色々な意味で象徴されるショスタコーヴィチの音楽と生涯への価値観の変質は、今もって盛んな議論や推論、研究、演奏解釈によって再認識過程の最中にあるとも言えますが、作品によってはすでに演奏年数も75年に及び、伝統と新たな解釈の対照がごく自然におこなわれてきているとも言えそうです。

 圧政と戦争の象徴でもあったソビエト共産主義社会の中に生き、そして逝ったショスタコーヴィチの音楽は、最も20世紀的な音楽のひとつとして位置付けられており、没後四半世紀以上を経た現在では録音点数も増えて、音による鑑賞&検証も比較的容易になりました。以下、彼の生涯を簡単にご紹介しておきます。

 作曲家、ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日午後5時、ペテルブルグに誕生します。父親はポーランド系で度量衡検査院主任、母親はペテルブルグ音楽院を卒業したピアニストで、ドミトリーは9歳から母親にピアノを習い始めて異常なほどの上達ぶりをみせ、さらに作曲にも大きな関心を示し、『自由の賛歌』(ピアノ曲)を書きあげます。同年、私立の学校とグリャッセルの音楽学校という二つの学校に通い出したショスタコーヴィチは、1917年、二月革命で警官が子供を殺害するのを衝撃を受け『革命の犠牲者の行進曲(葬送行進曲)』(ピアノ曲)を作曲。

 1919年、ペトログラード音楽院に入学し、母の師でもあったロザノヴァにピアノを、シテインベルグに作曲を師事します。画家、クストーディエフとも交流を持ち、有名な肖像画が書かれているのもこの頃のこと。作曲活動も活発になり、ピアノ曲のほか、未完に終わったオペラ『ジプシー』や、オーケストラ伴奏歌曲、R=コルサコフ作品のオーケストラ編曲もおこなっています。1922年、父親が亡くなり、ショスタコーヴィチ家の経済状態は貧窮に陥りますが、グラズーノフが手をさしのべてくれたおかげで学業を続けることができました。

 翌1923年にはピアノ科を修了、映画館で解説ピアニストとして働き始めます。この頃、ショスタコーヴィチの結核の症状が悪化し、クリミヤ半島に転地療養することになりますが、同地ではタティアナ・グリヴェンコという同年齢の少女と恋に落ち、5年間に150通の恋文が書かれたほか、ピアノ三重奏曲第1番が献呈されています。1925年には作曲科を修了。卒業作品、交響曲第1番作品10のニコライ・マリコによる初演は大成功を収め、ソヴィエトだけでなく西欧でも演奏されてショスタコーヴィチの名を一躍世界に広め、これが作曲家としての本格的なデビューになったといえるでしょう。

 1926年春、新設された大学院に入学したショスタコーヴィチは交響曲第1番の成功にも関わらず、ピアニストとしての実力の高さからも進路を決めあぐねていました。翌1927年1月には第1回ショパン・コンクールに参加しますが、急性盲腸炎のためいつも通りには弾けず、結局、第1位にはレフ・オボーリンが選ばれてショスタコーヴィチは特別賞を受賞することになります。

 受賞後、新作のピアノ・ソナタ第1番作品12を各地で演奏する一方、同年3月末には国立出版所音楽部門から、その年の秋に控えた十月革命10周年記念式典で演奏される交響曲の作曲を委嘱されたことは、当時の不安定な立場を物語るかのようです。同年にはさらに前年に出会ったソレルティンスキーの影響でピアノ組曲『アフォリズム』作品13を書き上げ、大胆なオペラ『鼻』作品15にも着手。この時期の作風がショスタコーヴィチ自身の変化に伴ってさまざまに変貌していることを伝えてくれますが、これには当時のモダニズムにあふれかえっていた社会情勢の影響も見逃すわけには行きません。

 同じ1927年の8月から9月、ショスタコーヴィチはレニングラード近郊のデッツコエ・セロのサナトリウムで盲腸炎手術後の休養をとっていましたが、同地で工業大学の物理の学生、ニーナ・ヴァルザルと出会い、のちの結婚へと繋がって行きます。この年の暮れにはスターリンによる独裁体制も始まりました。

 1928年、オペラ『鼻』完成。上演をめぐって知り合った著名な前衛演劇人メイエルホーリドの家に住み込み、彼の劇場の音楽を担当。翌1929年には、高名な詩人マヤコフスキーの知己を得『南京虫』の音楽を作曲。また、交響曲第3番『メーデー』作品20も書き上げ、さらにバレエ『黄金時代』作品22に着手。ほかに劇音楽『射撃』作品24、ドレッセルのオペラ『コロンブス』のための間奏曲と終曲作品23も書かかれています。

 秋には演奏会形式で『鼻』の初演がおこなわれ、モダニズム派の形勢が不利だった時代ということもあり、ロシア・プロレタリア音楽協会から酷評を受けることに。ちなみに、『射撃』はプロレタリア側組織、労働青年劇場との関わりから生まれた作品。この頃からすでにショスタコーヴィチの音楽と政治の関係は複雑だったようです。同年末、レニングラード音楽院大学院を卒業。

 1930年1月、マールイ劇場で『鼻』初演。さらに同月、交響曲第3番『メーデー』が初演され、3月にはバレエ組曲『黄金時代』が初演。5月には労働青年劇場との共同作業で音楽を担当した演劇『処女地』の上演が開始され、10月には『黄金時代』がバレエとして上演されます。同じ年、ショスタコーヴィチは、労働青年劇場の機関誌『プロレタリア音楽家』にプロレタリア音楽を熱烈に支持する発言を寄せています。

 なお、前年(1929年)の初めから翌1931年の暮れにかけては、のちのショスタコーヴィチの言葉によれば「『実用』作曲家として過ごした時期」であり、1930年には『処女地』のほか、映画音楽『女ひとり』を書いています。とはいえ、この年はもっぱら、前半の初演の多さと、傑作『ボルト』、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の作曲に着手したことで知られており、現在の認識ではむしろ充実した年という判断が主流です。

 1931年、バレエ『ボルト』作品27完成。その他、劇音楽『ハムレット』、『支配せよ、ブリタニア!』、『条件付きの死者』、映画音楽『黄金の丘』(組曲版も)、弦楽四重奏のための2つの小品、『緑の工場』のための序曲を作曲。

 1932年、ニーナ・ヴァルザルと結婚。組曲『ハムレット』(前年の劇音楽から)、映画音楽『呼応計画』、声楽付き交響詩『カール・マルクスから我々の時代へ』、『チェロのためのモデラート』、『大きな稲妻』作曲のほか、ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』を4手ピアノに編曲。また、24の前奏曲の作曲にも着手し翌1933年に完成しています。

 1933年、レニングラード市オクチャーブリ区議会議員に選出。ピアノ協奏曲第1番作品35、劇音楽『人間喜劇』作曲。

 1934年、歌劇『ムツェンスク群のマクベス夫人』初演。大成功を収め、翌年1月にはロジンスキーによってアメリカ初演もおこなわれています。ジャズ・オーケストラのための第1組曲、チェロ・ソナタ、バレエ『明るい小川』、映画音楽『司祭とその下男バルダの物語』、『愛と悲しみ』、『マクシムの青年時代』、『女友達』作曲。妻・母とともにドミトリエフ小路のアパートに転居。嫁姑の確執からか、妻ニーナが病気がちになり保養所で過ごす時間が増加。

 1935年、管弦楽のための5つの断章作品42を作曲したほか、交響曲第4番に着手。バレエ『明るい小川』初演。その他、黄金時代からのポルカをピアノ独奏用に編曲。前年に入居したアパートを母親名義にし、妻とキーロフ大通りのアパートに転居。妻妊娠。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%881906-1975%EF%BC%89_000000000021314/biography/

35. 中川隆[-14907] koaQ7Jey 2019年11月15日 09:41:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1999] 報告

ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第8番


Borodin Quartet play Shostakovich String Quartet no. 8 - video 1984






弦楽四重奏曲第8番ハ短調 作品110は、旧ソ連の作曲家ショスタコーヴィチによって1960年に作曲された弦楽四重奏曲である。作曲者によって「ファシズムと戦争の犠牲者の想い出に」捧げるとしてあるが、ショスタコーヴィチ自身のイニシャルが音名「D-S(Es)-C-H」で織り込まれ、自身の書いた曲の引用が多用されることにより、密かに作曲者自身をテーマにしていることを暗示させている。15曲あるショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の中で、最も重要な作品である。



曲の背景

弦楽四重奏曲第8番が作曲された1960年は、ショスタコーヴィチにとって大きな精神的危機に見舞われた年であった。この曲を書く直前の6月、不本意ながらも共産党に入党することを決意したのである。その1ヶ月後、戦争映画『五日五夜』の、ソビエト軍によるドレスデンのナチスからの解放の場面のための音楽を書くためにドレスデンに行ったショスタコーヴィチは、戦争の惨禍を目の当たりにし、自身の精神的荒廃と重ね合わることになる。そこで表向きには「ファシズムと戦争の犠牲者」に献呈するようにみせつつ、圧政により精神的荒廃に追い込まれた自身への献呈として、1960年7月12日から14日のわずか3日間でこの曲を作曲したのである。

1960年7月19日にショスタコーヴィチ自身が友人グリークマンにあてた手紙には、映画音楽の仕事が全く手に付かずに、ひたすら弦楽四重奏曲の作曲に向かったと述べ、「この曲を書きながら、半ダースのビールを飲んだ後の小便と同じほどの涙を流しました。帰宅後もこの曲を二度弾こうとしましたが、やはり泣いてしまいました」と苦しい気持ちを訴えている。

このようにして書かれたこの曲は、すべての弦楽四重奏曲の中で最も、皮肉とは無縁の直接的表現力を持ち、聴衆に訴えかける力を持っている。また、映画音楽にも通じていたショスタコーヴィチは、バルトークやウェーベルンのような特殊奏法を弦楽四重奏に用いずとも、標題音楽的手法により劇的な表現を実現している。



引用されている主題


音形「D-S(Es)-C-H」
ショスタコーヴィチのドイツ語のイニシャル「Dmitri Schostakovich」より、D-S(Es)-C-Hの音形が全曲のテーマとして現れる。

また、彼が親友に送った手紙によると、自身の作曲、さらに他人の曲から以下のものが引用されている。

交響曲第1番ヘ短調
交響曲第8番ハ短調
交響曲第10番ホ短調
ピアノ三重奏曲第2番ホ短調
チェロ協奏曲第1番変ホ長調
オペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》よりアリア「セリョージャ、愛しい人よ」
ワーグナー:楽劇『神々の黄昏』より「ジークフリートの葬送行進曲」
チャイコフスキー:交響曲第6番『悲愴』


なお、この手紙には「私が死んだときには誰かが弦楽四重奏曲を私に捧げてくれるとは思えないので、私は自分自身のために書くことにしました」とあり、この曲を書いたあと自殺するつもりであるということを示唆している。


 第4楽章には、革命歌「過酷な徒刑に苦しめられて」"Замучен тяжелой неволей"の引用も現れる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%9B%E9%87%8D%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
36. 中川隆[-14906] koaQ7Jey 2019年11月15日 09:55:18 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1998] 報告

ショスタコーヴィチ 交響曲第8番


Shostakovich Symphony No 8 Yevgeny Mravinsky - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4GK2NPgHzK0

I. Adagio - Allegro non troppo - Adagio
II. Allegretto
III. Allegro non troppo
IV. Largo
V. Allegretto

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky, conductor
Live recording, London, 23.IX.1960

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Shostakovich - Symphony n°8 - Leningrad - Mravinsky 1961 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=OQlJjQvmn5M

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording, Leningrad, 25.II.1961

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Shostakovich - Symphony No.8 (Yevgeny Mravinsky)
https://www.youtube.com/watch?v=7C3SJoJepyw




Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky
Live recording in 1982, at Leningrad

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交響曲第7番『レニングラード』に続いて、交響曲で戦争を描くべく作曲されたが、第7番と比べるとあまりにも暗いため、当初の評判は非常に悪かった。スターリン賞受賞もされず、1948年にはジダーノフ批判の対象となり、1960年まで演奏が禁止された。

しかし、戦争の悲惨さを描き、かつての音楽技法を駆使したレベルの高さゆえに最近ではショスタコーヴィチの最も注目すべき作品のひとつとされており、録音の数も増えてきている。

スターリングラード攻防戦の犠牲者への墓碑として、1943年の7月2日から9月9日にかけて、モスクワの「創作の家」で一気呵成に書き上げられた。彼自身戦争に対する思索と戦後への希望を描こうとしたが、悲惨な戦場の報道やニュース映画に触れていたこともあり作品自体が悲劇的な性格となった。

戦局が好転していたこともあって、発表当時評価をめぐって賛否両論となった。作曲家同盟の総会では、チモフェーエフが

「前作の勝利の主題が踏襲されず、辛い体験や悪による苦痛とが乗り越えたり打ち勝つこともなく、代わりにパッサカリアとパストラーレに置きかえられている。」

との非難を決議する事態となった。ショスタコーヴィチ自身もこのような非難に対する懸念があったのか、発表当時には

「赤軍の勝利に関わる喜ばしいニュースの影響がない筈はない。多くの内的な、また悲劇的、ドラマティックな葛藤があるが、全体としては楽観主義的な人生肯定的な作品である」

と述べていたり、一方では自作には一切触れることなくペシミズムと偉大な悲劇の相違を力説し、チャイコフスキー、チェーホフ等を例にとって、ソ連で誤解されていることを問題に挙げたりしていた。

(この2つの発言は、13年後の1956年にスターリンの死の年に内容的に関係づけられ、作品の意図は訂正された。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC8%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
37. 中川隆[-14905] koaQ7Jey 2019年11月15日 10:32:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1997] 報告
ショスタコーヴィチ 交響曲第14番


宇野功芳 この曲のベスト演奏か 
ショスタコーヴィチ:交響曲第14番 クルレンツィス&アンサンブル・ムジカエテルナ
「録音も最優秀,オーケストラもソリストも最上,この演奏を凌ぐのは不可能かもしれない」


Symphonie No. 14, Op. 135 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=N5TmVed2euU&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT
https://www.youtube.com/watch?v=iKhke5x7PG4&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=2
https://www.youtube.com/watch?v=yEj7Xtc1NK0&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=3
https://www.youtube.com/watch?v=IKGRn9jvX50&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=4
https://www.youtube.com/watch?v=65GR91RISy8&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=5
https://www.youtube.com/watch?v=rlq25xOUEtQ&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=6
https://www.youtube.com/watch?v=eu6TbVe8RcE&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=7
https://www.youtube.com/watch?v=iLF47H816yI&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=8
https://www.youtube.com/watch?v=9IdYyOnaINQ&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=9
https://www.youtube.com/watch?v=CrfqpiPFUh8&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=10
https://www.youtube.com/watch?v=zgx0Q2SqFaA&list=PLwnzah6MIVaEaLLLaNgFDWTD-DoXX1xvT&index=11

MusicAeterna · Teodor Currentzis · Petr Migunov · Julia Korpacheva


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11の楽章から構成される。ソプラノとバスの独唱がついており、マーラーの交響曲「大地の歌」との類似性が指摘されている。この曲において、調性はあまり機能していないが、前半ではト短調が認められる。

歌詞は、ガルシア・ロルカ(スペイン)、ギヨーム・アポリネール (フランス)、ヴィルヘルム・キュッヘルベケル(ロシア語版)(ロシア)、ライナー・マリア・リルケ(ドイツ)の詩によるもので、いずれも死をテーマとしている。

無調、十二音技法、トーンクラスターなどの当時のソビエトでは敬遠されていた前衛技法が、ショスタコーヴィチなりに消化した手法で用いられていることが特筆され、前述のマーラー、ムソルグスキー、ブリテンなどショスタコーヴィチ自身が好んだ作曲家の影響がみられる。なお、この曲はベンジャミン・ブリテンに献呈され、ブリテンによって1970年のオールドバラ音楽祭にて英国での初演がなされている。


この曲の作曲のきっかけは、ショスタコーヴィチが1962年に「死の歌と踊り」の管弦楽向けの編曲を行ったことに由来する。ショスタコーヴィチは体調の悪化から死を意識するようになり、この作品を一つの集大成とみなし、入院加療中にもかかわらず、4週間でスケッチを完成させた。作曲家は「この作品は画期的なもので、数年間にわたって書きためていた作品はこのための下準備です。」と知人への手紙に書いている。初演前の1969年6月21日には、作曲家自身の強い希望により、モスクワ音楽院小ホールにおいてリハーサルが行われている。

ショスタコーヴィチは、このときのスピーチで

「人生は一度しかない。だから私たちは、人生において誠実に、胸を張り恥じることなく生きるべきなのです。」

と述べている。

リハーサル中、同席していた共産党幹部パーヴェル・アポストロフが心臓発作で倒れ病院に担ぎ込まれた(1ヵ月後に死亡)。アポストロフがジダーノフ批判でショスタコーヴィチを批判し窮地に追い込んだ事実を知る人々は、ショスタコーヴィチの作品の祟りと噂した。

曲の構成

11の楽章から成る。演奏時間は約50分。

第1楽章

「深いところから」 Adagio

バス独唱と弦楽合奏。歌詞はロルカによる(露語訳はインナ・トゥイニャーノヴァ)。主題の冒頭はディエス・イレを模したものとされる。更にこの主題は第10楽章で回想される。

第2楽章

「マラゲーニャ」 Allegretto

ソプラノ独唱とヴァイオリン独奏、カスタネット、弦楽合奏。歌詞はロルカによる(露語訳はアナトリー・ゲレースクル(1934年-2011年))。

第3楽章

「ローレライ」 Allegro molto - Adagio

二重唱と鞭、ベル、ヴァイブラフォン、シロフォン、チェレスタ、弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる(露語訳はミハイル・クディノフ―以下同様)。

第4楽章

「自殺者」 Adagio

ソプラノ独唱とチェロ独奏と弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる。

第5楽章

「心して」 Allegretto

ソプラノ独唱とトムトム、鞭、シロフォン、弦楽合奏。歌詞はアポリネールによるもので、兵士とその姉妹の近親相姦をテーマとしたもの。

冒頭のシロフォンは12音からなる音列を奏でる。晩年のショスタコーヴィチが時折用いた十二音技法のショスタコーヴィチ流解釈である。古今東西の12音音列の中で最もメロディに富んだ音列のひとつと言える。

第6楽章

「マダム、御覧なさい」 Adagio

二重唱とシロフォン、弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる。

第7楽章

「ラ・サンテ監獄にて」 Adagio

バス独唱と弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる。

第8楽章

「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」 Allegro

バス独唱と弦楽合奏。歌詞はアポリネールによる。

第9楽章

「おお、デルウィーク、デルウィーク」 Andante

バス独唱と弦楽合奏。歌詞はキュッヘルベケルによる。

第10楽章

「詩人の死」 Largo

ソプラノ独唱とヴァイブラフォン、弦楽合奏。歌詞はリルケによる(露語訳はタマラ・シルマン―以下同様)。

第11楽章

「結び」 Moderato

二重唱とカスタネット、トムトム、弦楽合奏。歌詞はリルケによるもので、人生の結びである死の賛美をテーマとしている。曲の最後ではヴァイオリンが10パートに分かれ、激しい不協和音を奏でる。これはリゲティやペンデレツキ等の用いたトーン・クラスターを模したものとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC14%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)

38. 中川隆[-14904] koaQ7Jey 2019年11月15日 10:52:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1996] 報告

ショスタコーヴィチ:交響曲第14番
クルレンツィス&アンサンブル・ムジカエテルナ
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%EF%BC%881906-1975%EF%BC%89_000000000021314/item_%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC%EF%BC%91%EF%BC%94%E7%95%AA-%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%B9%EF%BC%86%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%82%A8%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%80%81%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%80%81%E3%83%9F%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%95%EF%BC%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E4%BB%98%EF%BC%89_3835458

驚くなかれ。ショスタコーヴィチ後期作品に「古楽器使用」!

全15作品中最も地味で深淵な交響曲が、その根底に秘められていた姿を現した。

スターリニズムは終焉すれど、ソビエト体制は不動だった69年、名声に溺れることなく内省とその創作活動の継続に精進していた62歳の作曲家の心の叫びに、ロシアの俊英音楽家たちの新鮮な感性が息吹を与えた。

フランス随一のユニークな小規模レーベルとして、秀逸にしてユニークな古楽盤を次々と生み出し、ル・サージュのシューマン体系録音シリーズに代表されるような現代楽器での注目企画、知られざるフランス近代の名匠デュロゾワールの再発見など、新しい時代の音楽でも他の追従を許さない充実企画を続々世に問うてきたAlphaが、なんとショスタコーヴィチの交響曲をリリースするとなれば、明敏なファンならずとも誰しも注目せずにはおれないはず! そしてさすがはAlpha、ありきたりの内容で攻めてくるわけがないのです。

曲目はショスタコーヴィチ晩期の異色作のひとつ、弦楽合奏と打楽器、という異例のオーケストラ編成に独唱が続く、全12楽章という型破りの楽章構成をとる交響曲第14番。さらに驚かされずにおれないのが、作曲年代が1969年というこの作品を、なんと一部古楽器(!)で演奏してしまったという点。原文解説書には、録音現場でチェロのピンを使わず、両脚で挟んで演奏するプレイヤーの写真が。

本盤の指揮者テオドール・クルレンツィスはショスタコーヴィチがこの曲に込めたメッセージをじっくり読み解いた末、作曲家の意図どおりの弦楽編成で、適宜ガット弦を使用し、ひたすらヴィブラートを排した弦楽サウンドで弾くことこそが、憂鬱と無力感にさいなまれた作曲家が「死」を見すえて作曲した交響曲第14番の本質を最もよく表現できる手段である、という結論に達したのだそうです。

録音会場であるノヴォシビルスク歌劇場の音響空間も、この解釈に大きく関わっているとのこと。祖国ギリシャとロシアの世界的歌劇場や一流オーケストラで経歴を積んだのち、古楽バンド「ムジカエテルナ」を結成、自ら古楽器演奏にも通じてきた人だけに、体験型の現場主義的意識から、このような柔軟な考え方が導き出されたのかもしれません。しかしこういった独特の意見も、演奏のクオリティあればこそ通用するもの。本盤は(曲をよく知る人にも、知らない人にも...

ユーザーレビュー


投稿日:2014/02/04
ショスタコーヴィッチの交響曲14番、1973年に、ロストロポーヴィッチがソ連で秘密裏に発表した曲を、ピリオドアプローチで演奏する? 

そんなあり得ない事をやってしまったギリシャ生まれ、ソ連、ロシアで学び、ピリオドオケも組織したクルレンツィス。

時代を経、変化は当然とは言え、反則じゃねえかとの杞憂は、すぐ晴れた。
ショスタコーヴィッチの怒り、諦めも斬新、そして適確、徹底されたサウンドで、その精神、披露している。見事、感心、恐れ入った。SONY移籍のモーツァルトも楽しみ。又も、才の登場。只、その変化に、私達、付いていけるか。私は、聴いて驚かされ、感心。支持する。

投稿日:2011/02/12
---ショスタコーヴィチはようやく亡くなった。--- この曲の革新的な演奏が生まれた。

この作品は全ての交響曲の中で最も難解なものであるがゆえ、これまでの演奏はバルシャイ・ロストロポーヴィチに代表される過激なソビエト流解釈と、オーマンディやキタエンコのような淡々と楽譜に書かれたことを描く解釈の二つしかなかった。

しかし今回のような、「楽譜や文献から」作曲家の心境をくみ取り、「表情付けをしっかりとつけた」演奏というのはこれが初ではないだろうか。特に第6楽章と第8楽章の声楽陣のテキストに対する感情移入っぷりはさながら演劇のようである。

ここに私はこの曲に対して非常に客観的な立場から本質をえぐり出そうとするエネルギーを感じる。それは過去の演奏におけるひどく主観的(作曲家に近い存在による視点)な演奏や、ひどく客観的(交響曲という純音楽の再現という視点)な演奏とも違う、新たなこの曲の基軸となる解釈である。

もちろん前二つの解釈そのものを否定しているわけではない。当時は作曲家本人がご存命であったり、資料が少なかったりとするわけで、解釈が限られるのは当然である。しかし、この演奏の登場により、ようやくショスタコーヴィチは現世の呪縛から逃れられ、真に亡くなったのではないか、と感じざるを得ない。そうした意味あいでこの演奏は歴史的大名演だと私は考える。


39. 中川隆[-14903] koaQ7Jey 2019年11月15日 11:38:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1995] 報告

ショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》がバルトークを激怒させた理由

Bartók Concerto For Orchestra, Sz. 116 - 4.
Intermezzo interrotto (Allegretto) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=kUZ83BzCQNM
https://www.youtube.com/watch?v=9uwpuyc7nS4

Chicago Symphony Orchestra · Pierre Boulez

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Shostakovich Symphony No 7 Yevgeny Mravinsky - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=V3fSSjfQiLo

1. Allegretto
2. Moderato (poco allegretto)
3. Adagio
4. Allegro non troppo

Leningrad Philharmonic Orchestra
Yevgeny Mravinsky, Conductor


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バルトーク (1881〜1945) 《管弦楽のための協奏曲》
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/bartok-concerto-for-orchestra/page-3


幸福な時代の記憶として

5楽章形式。それまでのバルトークの音楽と同じく極めて抽象的なもので、直接的には他の何かをイメージさせるものはない。それでも、アメリカ合衆国の聴衆に配慮したのか、それともバルトーク自身の作風自体が変わったのか、聞く者に対して極度の緊張を強いるようなヨーロッパ時代の音楽と比べると、音楽は明るく親しみやすいものとなっている。特に5楽章にはハンガリーの農村でバルトークが耳にした豚飼いの笛の音が再現されており、それはバルトークの幸せだった時代の追憶なのではという指摘がある。

この《管弦楽のための協奏曲》は依頼を受けて一から作曲したものではなく、他の曲の為に準備していた構想などを転用したものも少なくないことが明らかになっている。

また第4楽章の「中断された間奏曲」では、悲しげな歌をショスタコーヴィチの交響曲第7番《レニングラード》の第1楽章で聞こえるメロディがわざとらしく妨害し、歌を中断させている。

バルトークが指揮者ドラティに語ったところによると、これは明確にショスタコーヴィチを引用したものであり、しかも当時、あまりにも盛んに演奏された《レニングラード》を揶揄する意図が込められたものであったという。
(以上、バルトークや東欧の音楽に詳しい音楽学者の伊東信宏氏による。)

ドイツ軍に包囲されたレニングラード市に捧げられたショスタコーヴィチの交響曲第7番は、反ドイツを象徴し連合国の結束を高める為のものとしてアメリカ合衆国でも盛んに演奏されたのだが、自分がここまで周到に避けてきた交響曲という形式をあっさりと使用するショスタコーヴィチに対して、バルトークは相当な苛立ちを持っていたようである。

これは、ショスタコーヴィチにはショスタコーヴィチの事情があったのだが、バルトークにもそんなことを忖度する必要は無かったということか。

そんな背景を持ったちょっとおかしな間奏曲を経ての第5楽章。バルトークにしては珍しく明るい、光の満ちた音楽である。不思議な疾走感と勢いのまま曲は終わる。この終結部は当初はもっと短いあっさりとしたものだったのだが、あまりにも聞き映えがしない為か、初演の後にバルトークによって改訂されている。(この初稿の終結部はクーゼヴィツキーの初演ライブの録音などで聞くことが出来る。)こういったサービス精神溢れる?改訂もバルトークにしては珍しい。

しかしこの音楽に、バルトークの音楽は堕落したとかバルトークが聴衆が媚びたのだとかという声がある。果たしてそうか?難しいものを難しい形のまま提供することと、難しいものを分かりやすく親しみやすい形で提供することのどちらがより高度な技を必要とするか。

無論、後者である。バルトークの創作は人生の最後において、さらにより高い次元に突入したのだと筆者には感じられるのだ。音楽はやはり極めて抽象的であるが、そこにバルトークの見た景色や聞いた音を重ね合わせる想像も、また可能であろう。その向こうにうっすらと見えてくるバルトーク。その顔は和らいだ表情を見せているかもしれない。バルトークの独特な個性と親しみやすさが幸せな一致点をみることが出来た幸せな作品が、この《管弦楽のための協奏曲》である。
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/bartok-concerto-for-orchestra/page-3



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2006.08.09
ショスタコ第7交響曲を語る——「涼宮ハルヒの憂鬱:射手座の日」上級編
http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2006/08/7_2344.html


脳内宇宙艦隊戦シーンに使われているショスタコービッチ「交響曲第7番」第1楽章に存在する宇宙的恐怖にして深淵のような因縁について以下つらつらと述べていこうというわけ。


 ショスタコーヴィチのマニアの間では有名な話であるし、色々突っ込みを入れたいところもあるだろう。そのあたりはコメント欄で指摘してもらえるとうれしい。


 「射手座の日」に使われた第7交響曲(1941〜1942)は通称「レニングラード」とも呼ばれる。作曲年代で分かるように、この曲は第二次世界大戦最大級の激戦地であったレニングラード、現在のサンクトペテルブルグと密接な関連を持っている。

 独ソ戦開始時、作曲者ショスタコーヴィチは、レニングラード音楽院で作曲を教えていた。第7交響曲はドイツ軍が迫るレニングラードで、1941年7月から作曲が始まった。ドイツ軍がレニングラードを完全に包囲する前に、ショスタコーヴィチは、当時モスクワの首都機能が移転していたクイビシェフに避難し、そこで全曲は完成した。作曲者によるスケッチのメモによると、最後の第4楽章が完成したのは1941年12月27日。

 レニングラードは1941年8月末からドイツ軍に完全に包囲されており、作曲が終了したこの時、冬将軍が到来した市内は、物資の不足によりまさに阿鼻叫喚の地獄と化していた。

 作曲者は、この曲を「レニングラード市」に捧げた。

 初演は1942年3月5日、クイビシェフで行われた。ソ連政府は、世界的に有名な作曲家であるショスタコーヴィチが完成させたこの一見壮大な交響曲を戦意高揚に利用する。複製された楽譜は空輸によってレニングラードに運ばれ、1942年8月9日、包囲下のレニングラードにおいて、レニングラード放送管弦楽団により演奏された。

 オケのメンバーはほとんどが、徴兵され最前線で戦っていた。皆、演奏のために市内に戻ることが許され、1日だけ銃を楽器を持ち替えて、演奏に参加し、そしてまた戦場へと戻っていった。
 彼らのほとんどが、そのまま帰ってこなかった。

 ソ連政府の手により、楽譜はマイクロフィルム化され連合国各国へと渡った。アメリカでは、1942年7月19日、トスカニーニの指揮、NBC交響楽団によって初演が行われた。アメリカはその演奏を、全世界にラジオ中継した。戦意高揚と連合国各国の連帯の強化のために、この曲を利用したのである。


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 と、いうような曲の来歴を頭に入れて、一度ハルヒの「射手座の日」に戻ろう。
 「射手座の日」で使用されるのは第1楽章。まず、コンピ研との戦闘開始にあたってハルヒが演説するシーンで、楽章冒頭の弦とファゴットのユニゾンによる雄大な印象の第一主題が使用される。

 この第1楽章は、非常に変則的なソナタ形式をしている。通常のソナタ形式では中間部は、2つの主題の展開部になる。ところがこの楽章では、展開部の代わりに、そこに全く別のメロディによる「ボレロまがい」が挟まっているのだ。

 この変ホ長調の主題は「戦争の主題」と呼ばれている。

 このメロディが14回ほど繰り返され、繰り返すたびに盛り上がり、最終的に暴力的なまでの音量ですべてを圧倒する。レニングラード市が戦争に巻き込まれる過程というわけだ。

 「射手座の日」では、この繰り返しの部分が使用される
「1600開戦」の部分では、弦楽器が並行和音でメロディを演奏する7回目と8回目の繰り返しが使われる。

 キョンの「どうにもならないんだ」からはオーケストラの全楽器が咆哮する12回目、続いてメロディが大きく変形されて短調で出現する13回目の部分が使われる。いきなり曲調が悲壮な雰囲気に変わる部分に、みくるの「みなさんどこにいっちゃったんですか〜」という悲鳴が重なるあたり、演出効果満点だ。


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 と、まあここまでは、ショスタコーヴィチが生きていた頃の解釈である。

 ところでここで、メロディを覚えている人は、「戦争の主題」を口ずさんでみて欲しい。

 なんだか間抜けな気はしないだろうか。メロディだけ取り出すと、およそ戦争とは思えないぐらいのどかで間抜けで、しかもどこか茶番じみてもいる。これならば、ジョン・ウィリアムズが「スターウォーズ」で書いた戦闘の音楽のほうが、ずっと戦争と言うには似つかわしい。

 そういえば、このメロディ、かつてCMでシュワルツネッガーが、「ちちんぷいぷい」という歌詞を付けて歌っていたではないか。それぐらい、メロディとしては間抜けなのだ。

 この間抜けなメロディが「戦争の主題」とはどういうことなのだろうか。

 実は間抜けなのは主題だけではない。この「ボレロまがい」は、ボレロのように厳格にオーケストレーションだけを変化させるのではなく、繰り返しごとに異なる装飾的な対旋律を伴っている。早い話が「合いの手」が付いているわけ。その合いの手もまた、どこかサーカスじみた茶番っぽい雰囲気を持っているのである。

 はて?


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閑話休題

 1942年に全米にラジオ放送された、第7交響曲の演奏を、アメリカに亡命した一人のハンガリー人の作曲家が聴いていた。

 その名は、バルトーク・ベーラ。ハンガリー人は、「姓・名」の順番で書くので、バルトークが姓である。

 彼は母国ではハンガリー民謡の研究で名前を上げ、民謡と近代的作曲技法とを統合した独自の作風を確立した作曲家として尊敬されていた。
 ところが彼の音楽は、アメリカが受け入れるには晦渋に過ぎた。そしてまた彼の性格もまた、アメリカでうまく立ち回るには実直に過ぎた。ナチスから逃れたアメリカに渡ったものの、ハリウッドを手玉に取ったストラヴィンスキーや、カリフォルニアに作曲の教師の職を見つけたシェーンベルグのようにうまくやることができず、この時期彼は貧乏のどん底にいた。

 しかも彼は、亡命による環境の激変によってか体調を崩しており、あまつさえ精神的には作曲すらできなくなっていた。

 何人かの音楽関係者が、彼を援助しようとしたが、援助を受けるにはバルトークは誇りが高すぎた。難儀な人である。

 そのバルトークは、このショスタコーヴィチの第7交響曲を聴いて怒り狂った。「なんという不真面目な曲だ」と。このことは、彼の息子のピーターが記録している。

 さあ、バルトークはこの曲の何を「不真面目だ」と怒ったのだろうか?


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 この時、指揮者のセルゲイ・クーセヴィツキーが、なんとかしてバルトークに生活費を渡そうとしていた。裕福な女性と結婚していた彼は、妻の財産を使ってクーセヴィツキー財団を設立し、様々な作曲家に新作を依頼し、自ら初演していた。

 誇り高いバルトークが生活費を受け取らないであろうことを知ったクーセヴィツキーは、代わってバルトークに「自分のためにオーケストラのための曲を書いて欲しい」と依頼した。それが、渡米以来萎えていたバルトークの創作意欲に火を付けた。

 かくしてバルトーク晩年の傑作、オーケストラの各楽器が縦横無尽に活躍する「管弦楽のための協奏曲」が生まれた。

 全5楽章からなる「管弦楽のための協奏曲」の第4楽章は「中断された間奏曲」という題名を持つ。ここで、ショスタコーヴィチの第7交響曲第1楽章の、あの「戦争の主題」後半が引用される。上から下へと音符が下がってくる部分だ。

 引用されたメロディの繰り返しが、木管楽器による人間の笑いを模擬したようなフレーズで3回中断される。「中断された間奏曲」という題名の由来だ。

 同時にバルトークのショスタコーヴィチに対する「不真面目だ!」という意思表示でもあるのだろう。


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 では、ショスタコーヴィチは、何が不真面目だったのか。私の記憶ではこれを指摘したのは日本の作曲家、柴田南雄だった。

 実は、「戦争の主題」の後半には元ネタがあった。ウィーンのオペレッタ作曲家フランツ・レハールの代表作「メリー・ウィドウ」(1905)だ。

 「メリー・ウィドウ」は、「会議は踊れど進まず」で有名な1814年のウィーン会議を舞台にした恋のさやあての物語だ。ご存知、ナポレオン後のヨーロッパの勢力図を確定しようと各国が角突き合いをしたあげく、ナポレオンのエルバ島脱出でお流れになった会議である。

 ショスタコーヴィチが引用したのは、登場人物の一人、ダニロ・ダニロヴィッチ伯爵が酒場に繰り出すところで歌う歌。そして、ショスタコーヴィチが引用したまさにその部分の歌詞は「彼女ら(松浦注:酒場の女達)は祖国を忘れさせてくれるのさ」というものだったのである!

 おいおい、これはどういうことか。レニングラード市に捧げられた交響曲の「戦争の主題」が、「女で祖国を忘れよう」というのは一体何なのだろうか。バルトークが不真面目と怒った理由も分かろうというものだ。

 皮肉なことに、ショスタコーヴィチが第7交響曲を書き、バルトークがそれに怒って「管弦楽のための協奏曲」を書いたその時期、老いたレハールはナチスの庇護を受けていた。しかもユダヤ人の妻と共に。
 ヒトラーが「メリー・ウィドウ」が大好きだったという理由からだった。それ故、戦争終結後、レハール自体は一切政治的な動きをしていなかったにもかかわらず「戦争協力者」と非難されることになる。


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 ここで最大の問題は、なぜショスタコーヴィチは、本当に「メリー・ウィドウ」を引用したのか。そして、引用するとしたらその意図は何だったのかということだろう。

 実はショスタコーヴィチには、そのような引用を行う動機が十分にあった。彼は向かうところ敵なしの天才児としてスタートしたが、芸術をも統制しようとするソ連共産党によって1936年、プラウダ紙面で非難されたことがあった。

 スターリンが密告を奨励し、派手に粛正を繰り広げた時期、彼はこともあろうに共産党の機関紙の紙面で批判されたのだ。その恐怖はいかばかりだったろうか。彼は、彼の庇護者でもあった陸軍のトハチェフスキイ元帥に相談したのだが、翌1937年には、そのトハチェフスキイが、スターリンによって粛正されてしまうのである。

 プラウダによる批判以降、ショスタコーヴィチの音楽は変化した。生き延びるために「明るく健全で分かりやすい」という社会主義リアリズム方針に従った。
 彼の巨大な才能を持ってすれば、その路線ですら傑作を書くことが可能だった。そうして有名な第5交響曲が生み出された。
 彼は第二次世界大戦後、もう一度批判されるが、そのときはスターリンへのおべんちゃらに満ちたカンタータ「森の歌」を書いて生き延びた。歌詞はどうしようもないが、音楽は間違いなく傑作だった。

 その一方で、自由に作曲できない環境の中、彼は鬱屈し、屈折していった。彼は自分の音楽に謎めいた仕掛けをするようになる。奇妙に音楽の流れを断ち切るような音名象徴、それとは分からないような引用など。
 音楽は言葉と異なり、それ自身で確定した意味を持たない。いかようにでも解釈できる。有名なロッシーニの「ウィリアムテル」序曲は、アメリカ西部の騎兵隊の映像にもマッチするし、蒸気機関車の疾走にも、あるいは「スターウォーズ」のクライマックスで共和国軍を助けに駆けつけるハン・ソロとミレニアム・ファルコン号の映像にもぴったりだろう。
 その音楽の特質を生かし、ショスタコーヴィチは音楽の中に自分の真意をひそかに埋め込むようになっていった。


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 そう、ショスタコーヴィチが「戦争の主題」に込めたのは、反祖国的なもの、即ちスターリンによる粛正ではなかったのか。そう考えるとすべてが符合する。どこかおちゃらけた旋律が、サーカスのような対旋律を伴ってどんどん威圧的になっていく過程は、まさにスターリンの治世そのものでないか。
 すなわち、ショスタコーヴィチは、ナチスと戦う祖国の英雄を称える交響曲を書くと見せかけて、実はスターリンに対してあかんべえをかませていたということになるのだ!


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 ショスタコーヴィチの「音楽の暗号」は、彼の死後の1982年、西側で出版された衝撃的な「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編)で一躍表に飛び出た。回想録にはそれまで公式発言で形成されたいた西側のショスタコーヴィチ像とは全く異なる、彼があった。公式発言とは異なる、人間的に納得できるショスタコーヴィチがそこにいた。


 これで、めでたしめでたし。謎は解けたぜ、で終わればいいのだが…

 音楽の暗号は、数理的な暗号と異なり読み手がある意図を持っていなければ読み出せない。その意味では、ノストラダムスの予言とよく似ている。
 ということは、常に「それはショスタコーヴィチの真意か。深読みしすぎじゃないか」という問題がつきまとうことになる。戦争の主題が「メリー・ウィドウ」の引用って本当か?他人のそら似で、深読みしすぎじゃないか、というように。

 実際、現在では「証言」は「編者」ヴォルコフが、ショスタコーヴィチ周辺でプライベートに話されていたことや、ショスタコーヴィチが書いた文章を適当につなぎ合わせたものじゃないかという意見が優勢になっている。その証拠に、「証言」には、ショスタコーヴィチが死後に残した最大の爆弾が記載されていない。

 彼はスターリン時代に、スターリンをはじめとしたソ連政治を思い切り皮肉ったカンタータ「反形式主義的ラヨーク」を密かに書いていた。「証言」にはこの曲についての記述が一切ない。「反形式主義的ラヨーク」の存在を、本当に親しい人は皆知っていたが決して口には出さなかった。これが出てこないということは、「証言」は大して親しいわけでもないヴォルコフのでっちあげということだ、というわけである。


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 だが、私には、そういった混乱すら、実はショスタコーヴィチが意図したものじゃないかという気がする。

 ヴォルコフが西側の出版社に持ち込んだタイプ原稿にはショスタコーヴィチ自身のサインがしてあったという。

 私は想像してしまう。ソ連からの亡命を企てた若きヴォルコフが、西側へのみやげとして、ショスタコーヴィチの回想録をでっちあげるべく取材を開始する。それに気が付いたショスタコーヴィチは、ヴォルコフを呼びつける。おびえるヴォルコフに対して、老いたショスタコーヴィチは何も言わずに、彼の原稿にサインをいれる、というような鬼気迫る光景を。


 さて、長々とした話はこれでおしまい。「涼宮ハルヒの憂鬱」から始まって、ずいぶんと遠いところまで来てしまった。

 まあ、「射手座の日」でなにげなく使われた、そして、かつてシュワルツネッガーがCMで「ちちんぷいぷい」と歌ったメロディには、これだけの因縁がまとわりついていて、暗い暗い深淵が口をぽっかりと開けているのだ、ということで。


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 バルトークの「管弦楽のための協奏曲」は、色々な録音を聴いたけれど、このライナー指揮シカゴフィルの古い演奏が、やはり一番いい。歴史的名演だ。

 オーケストラの各楽器が、あたかもソリストのように縦横無尽に活躍する、エネルギッシュかつスタイリッシュな曲だ。第1楽章の途中、3本のトランペットと3本のトロンボーンがいきなり6声のカノンを演奏するあたりなど、背筋にぞくっと来るぐらい格好良い。

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 酸鼻を極めたレニングラード攻防戦の概要を知るには、このソールズベリーによるノンフィクションをお薦めする。長らく入手不可能だったが、最近再刊された。高いとかいわずに、買うべし。

 レニングラードの指導者だったジダーノフは、スターリンにとって目の上のタンコブ的存在だった。スターリンは、ジダーノフを消すために半ば意図的にレニングラードを見捨てたのである。その結果、市民は地獄を見ることになった。

 スターリンの意図に反し、ジダーノフは包囲戦を生き抜き、ナチス・ドイツを打ち破って、ソ連共産党における地位を固める。そして、戦後ジダーノフは、ショスタコーヴィチに対してさらなる個人攻撃を仕掛けることになるのだ。


 偽書だという説が優勢になっているものの、この「証言」が西側に出てきたときのショックは巨大だった。今後ともショスタコーヴィチの受容史を語るには欠かせない文献といえるのではないだろうか。

 最近はかなりショスタコーヴィチの研究も進んでいるようだが、私がフォローできていない。なにか良い本が出ているようならば、是非とも教えてほしい。


 ショスタコーヴィチ趣味の行き着く果て、ということで遺作の「ヴィオラソナタ」をリンクしておく。間違っても素人はこれを買ってはいけない。

 晩年に向かうにつれ、ショスタコーヴィチの音楽は鬱屈し、内省的で暗いものになっていった。その到達点が、死の直前に完成したこのヴィオラソナタだ。

 マーラーの後期交響曲を暗いと感じる人は多いだろうが、これはそれどころじゃない。おそらく、人類が手にした最も暗い、ブラックホールのような音楽である。

 にもかかわらず、この曲は、あたかもホーキング輻射のように光を放っている。恐ろしいまでに高貴で、気高く、そして真っ黒な絶望に彩られている。この曲と比べることができるのは、ゴヤが晩年に描いた一連の「黒の絵画」だけだろう。

 ショスタコ19歳のはつらつとした第1交響曲を考え合わせると、社会主義というのはいったい何だったんだろうかと考えざるを得ない。


Comments

ハルヒでかかってた曲はショスタコビッチだったんですね。ショスタコビッチについてはいろいろいわれていたのは知っていましたが改めて彼が生きていた1984年的世界に思いをはせてしまいました。

Posted by: winter_mute | 2006.08.10 06:10 PM

どうも、松浦さんには申し訳ないですが、ショスタコは、20世紀音楽全体から眺めたとき、大きく視界に入るような作曲家ではないです。この人の音楽、確かに面白い曲もいくつかありますが、音楽の発想が「24のプレリュードとフーガ」のように一見いろいろやってるように見えて、実は内容が貧しかったり、構成より技術に頼っていたり。
バルトークは、ひょっとしてそう言った音楽の本質的な部分から、まず許せなかったのではないか、と思っております。
「ちちんぷいぷい」藤家がアレンジしてたですね。あの子はあれで茶目っ気あるからなぁ(あの子、なんて言っちゃいけないですな)。

Posted by: 大澤徹訓 | 2006.08.11 10:41 PM

 ああ、やっぱり、大澤さんはきびしいなあ。

 あえて書かなかったのですが、「レニングラード」交響曲は、ショスタコーヴィチとしてはあまり良い曲ではないですね。「24のプレリュードとフーガ」もそうです。

 傑作とされる交響曲5番も、どこか「お前、全力を出していないだろ」という部分があります。難しいのはそれがショスタコーヴィチ自身の問題なのか、彼が巻き込まれた政治状況の問題なのか、なかなか判然としないところです。

 交響曲9番とか10番も、曲そのものだけではすべてを語り切っていない。当時のソビエトの状況を考えないと曲が完結しないというところがありますよね。

 逆に言うと異常な状況の中で、作曲家がどう生き延びたかという興味はありますね。音楽を楽しむという点では不純な興味ですけれど。

 私の体験を振り返るなら、まず、交響曲8番があります。指揮活動に乗り出したばかりのロストロポーヴィチが振った演奏を、高校の頃ラジオで聞いたのが始まりでした。
 深い深い1楽章と、続く2つのスケルツォの軽薄さ、そして陰鬱なアダージョと、ちょっと鬱から回復したかという印象の第5楽章、という奇妙さが深く心に残りました。

 それと弦楽四重奏曲、特に7番と12番です。7番ラストの破滅に向けて疾走するような感覚と、悪夢から覚めたという風情のコーダは、夢に見るほど魅せられました。

 そして最後の交響曲15番ですね。もう向こう側に行ってしまったとしか言いようのない曲です。その後に弦楽四重奏曲の15番があって、ヴィオラソナタがあって、このあたりはもう人類が書いた曲とは思えない部分があります。

 若い時に力任せで書いた曲も好きなんですけどね。交響曲2番のポリフォニーとか。あれは多分、教科書的にはやっちゃいけないことのオンパレードじゃないかと思うのですが。

 ああ、多分私は、ショスタコーヴィチの、音楽だけでは語りきれない、絶対音楽として捉えると不完全に見える部分が好きなのかも知れません。


Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.12 12:20 AM

 訂正、弦楽四重奏曲は12番ではなく13番です。確かヴィオラのものすごく広い音程にアーチを描く旋律で始まる奴。
 途中で出てくる狭い音程をいったり来たりするフレーズが印象的な曲でした。

 12番は冒頭12音列が出たと思ったら、ドレドレレミレミという単純な全音階のフレーズで受けるという人を食ったやりかたで始まる曲でしたね。

 こんなことを書いていたら、あらためて交響曲と弦楽四重奏曲をひとつずつ聴き直したくなってきました(いやまあ、個人的記憶と色々結びついていたり)。

 それが愛かと問われれば、私はショスタコーヴィチの音楽を愛しているのでしょう。正当なる愛かと言われれば、多分違うのでしょうけれど。

Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.12 10:46 PM

ときどきコメントさせていただいている、いしどう です。
えーと、オーケストラ・ダスビダーニャなる、ショスタキスト…じゃなくって(笑)ショスタコーヴィチの音楽が大好きなプレーヤが寄り集まって作ったアマオケでヴィオラを弾かせていただいたりしてます。
「レニングラード」交響曲(というより、単に「7番」といったほうがわたしにはしっくりくるんですが(^^;;)は3年ほど前に演奏しました(去年が1番で今年が8番。次は来年3月4日に池袋の芸術劇場で15番とバイオリン協奏曲第1番を演奏します。もしよろしければお越しください(^^))。とても楽しかったです。

『チチンプイプイ』ですが(笑)、あれはソビエト侵攻したナチスドイツ軍を表現しているもので、それをおちゃらかしているのですから、別段体制にたいしてあっかんべぇをしているわけでもないと考えています。また、「メリー・ウィドウ」が流行った時期のウィーンはナチスドイツ支配下にあったわけで、それも示しているんだということも聞きました。

いずれにしても、われわれにとってはソビエト連邦の存在はまだ近すぎます。どうしても、その社会体制とあわせてショスタコーヴィチの音楽を考えてしまいがちです。
ショスタコービィチの音楽が、20世紀を代表する音楽のひとつになるかどうかは、あと2〜3世紀たって、ソ連の存在が本当に歴史になったときにわかるのかもしれません(まぁ、そのときにまだ人類が存在していて、西洋古典音楽という音楽ジャンルが残っていれば、の話ですが(笑))

…えーと、なんか素人がえらそうなことを書いてしまいました。すみません。


Posted by: いしどう | 2006.08.14 02:13 AM

 あ、15番やりますか。あれは凄い曲ですよねえ。彼岸に渡り切っちゃって、向こう側で石を積んで遊んでいるような印象です。

>別段体制にたいしてあっかんべぇをしているわけでもない

 そういう、あいまいさを残しているところがショスタコーヴィチの立ち位置を象徴しているんだろうと思っています。

 誰が聞いたって第5のフィナーレは空疎です。まして直前の第4ではピアニッシモの主和音引き延ばしをやっていますしね(こっちの演奏効果は素晴らしい)。しかも、同じことを15番のフィナーレでもやっています。

 となると、一体5番のラストに込められたものはなにか、と考えたくなってくる。多分、それこそがショスタコーヴィチが仕組んだことなんでしょう。

Posted by: 松浦晋也 | 2006.08.17 07:42 PM


ハルヒと同じスタッフが、違うアニメで今度はブルックナーを使ったことで、只今話題を呼んでおります。
是非この件についてもそのうち取り上げてみてください。どういうご感想をお持ちになるか、興味があります。
「かんなぎ」という作品の第11話ですが、ブルックナーの交響曲第7番の第一楽章の冒頭を使用しています。
かんなぎはヒロインが神を自称すると言う設定の作品です。
そのヒロインが自らの自己分析を行うシーンで神性を確認するかのように曲は使われいます。そして途中でノイズによって意図的にかき消されると言う演出を行っています。

Posted by: すみのやきとり | 2008.12.15 02:25 AM

http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2006/08/7_2344.html

40. 中川隆[-14902] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:03:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1994] 報告
石川清隆コラム

Testimony −ショスタコーヴィチの証言−
https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/10.html


『ショスタコーヴィチの証言』(注1)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E8%A8%BC%E8%A8%80-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AD%E3%83%A2%E3%83%B3-%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%95/dp/4122038529


という本があります。

刊行後、33年が経過しますが、スターリンやその取り巻き、その全体主義、プロコフィエフなどの音楽関係者、演出家のメイエルホリドなど様々な有名人に対する率直なコメントが書かれているばかりか、彼自身の曲についてそれまで聞いたこともないような面白い記述に溢れています。それはショスタコーヴィチの曲の解釈に多大な影響を与えただけでなく、その後のショスタコーヴィチ論の隠れたネタ本となってきました。

あまり程度がよいとは思えない"偽書論"については後日述べるとして・・。

本書にある、「ユダヤの民族音楽…それは非常に多様性を帯びていて、一見陽気だが実際は悲劇的なものである。それは殆ど常に泣き笑いにほかならない。ユダヤの民族音楽のこの特性は、音楽がいかにあるべきかという私の観念に近い。音楽には常に2つの層がなければならない。」という記述は、ショスタコーヴィチの曲の中で"勝利"だ"歓喜"だと言われていた楽章の中にある外声部,内声部の不可解な音の響きや基底部にあるリズムの意味を初めて説明していたものです(注2)。

例えば、ソ連体制下での"公式"な見解による「勝利の行進」とされていた有名な交響曲第5番の最終楽章について、「あそこにどんな歓喜があるのだ」「あれはボリスゴドノフの場面同様、強制された歓喜なのだ」と書かれています。

更に、公式には、「第7交響曲を我々のファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」と作曲者によって表明されたとされる「レニングラード」という通称を持つ交響曲第7番については、この「証言」では「私はダビデの詩篇に深い感銘を受けてあの曲を書き始めた」、「神は血のために報復し、犠牲者の号泣を忘れない、など」とあります。他にも引用したらきりがないほど面白い本です。

この本は、編者ヴォルコフが言うように、「ショスタコ-ヴィチと聴衆を隔てる最後の扉が彼の背後で閉められたら、誰が彼の音楽を聞こうとしただろうか。」(注3)という危惧感の元、「表向きの仮面が彼の顔にぴったり貼り付けられていた。それ故仮面の下から、用心深く、疑り深そうに彼の素顔が覗いた時、私は非常に驚いた」という、そのとおりの構成になっています。

ショスタコーヴィチは、音楽はそれ自体を聴いてその意味を感じるものであるが、ソビエト体制の下で、作品への批判を避けるため「公式」に表明したり、させられたり、勝手に代筆された言葉が、聴衆に彼の作品を理解してもらう為の妨げになっているということを強く感じて、こういう構成になったのでしょう。

その衝撃的な内容はショスタコーヴィチの時代背景や、彼の作品について、何度読んでも飽きない不思議な含蓄ある言葉に満ちたものです。一つの例としてダビデの詩篇との関係で語られた第7交響曲を挙げてみましょう。


交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」

この曲は、それまで第二次大戦中にナチスドイツがレニングラードを包囲したその最中に作曲され、その後ソ連は反撃に出てその包囲を解きソ連を勝利に導いた様子を曲にした"戦争交響曲"というような解釈がなされてきました。

実際にこの"公式見解"に沿った、第1主題提示 「この曲の主人公であるソヴェト国民の持つ勇気と自信」(「ボレロ的」展開)、「ファシスト侵略の醜鼻の印象を描き出す」「戦争の主題」 第1主題の短縮再現 「われわれの英雄たちのための(中略)この鎮魂曲をきいて我々は泣かない。こぶしを固めるのだ」…というような解説が、真顔で書かれていました(注4)。

『証言』では、「この曲は戦争の始まる前に構想されていた為、ヒトラーの攻撃に対する反応としてみるのは完全に不可能であり、冒頭の楽章で執拗に繰返される「侵略の主題」は実際の侵略とは全く関係がない」とし、「ヒトラーによって殺された人々に対して、私は果てしない心の痛みを覚えるが、スターリンの命令で非業の死を遂げた人々に対しては、それにも増して心の痛みを覚えずにはいられない。」

この交響曲などが、ナチスドイツとの攻防をテーマとする"戦争交響曲"と捉えられていることについて、「(戦後30年もたって彼らは)何故自分の頭で考えようとしないのだろうか…」「私の多くの交響曲は墓碑である」「(これは)第4番に始まり第7番第8番を含む私の全ての交響曲の主題であった…」と記されています。

戦争前には、スターリンは国内では人民の敵だとして粛清で多数の無辜の人々を殺していました。ヒトラーと独ソ不可侵条約を結び、他方では赤軍の機械化近代化を推し進めていたトゥハチェフスキー元帥(注5)を拷問にかけナチスのスパイだとして銃殺し、これに関係していたとして数百人の将校を処刑しています。他にも粛清で殺された人は多数いました。これらの人々に対しても捧げられた曲だというのです。

これでは、「あれは"戦争交響曲"だ」「侵略者の醜鼻を描きソビエト人民の勝利を輝かしく描いているのだ」などと、上から目線で言っていた人たちはナチスと戦ったのだから社会主義は正義だと思っていたのですから、「同類だ」と言われて立場がなくなりますね。

この曲に関し、初演当時からハンガリーの作曲家べラ・バルトークがショスタコーヴィチに対して「不真面目である」と怒りを表し、「管弦楽のための協奏曲」の中にショスタコーヴィチを皮肉っている部分があるという話がありました。

しかし、何にバルトークが怒っていたのかはよく分からないままでした。

これについては、「管弦楽のための協奏曲」の中だけでなく、ショスタコーヴィチの交響曲第一楽章にもまた、レハールの喜歌劇「メリー・ウィドウ」のパロディが含まれていたという事実から、バルトークの意図が分かります。

この第1楽章の「戦争の主題」とレハールの旋律との関係は、『証言』の編者のヴォルコフが、1979年の英語版『概説(未邦訳)』の注釈ではじめて説明しました。それによると「戦争の主題」の後半はウィーンのオペレッタ作曲家フランツ・レハールの有名な「メリー・ウィドウ」の引用であり、その部分の歌詞は「(キャバレー)マキシムへ行こう〜」だったというのです。(注6)

続く歌詞は「そこの女達は祖国を忘れさせてくれるのさ・・」というものです。
指揮者ムラヴィンスキーは、この初演をラジオで聴いて、このマーチはナチスの侵略ではなく「作曲者が既に創作しておいた愚劣さや、甚だしい下品さの普遍的イメージだ」と思ったと追想していたそうです。(注7)

また、上から目線の人たちは、この曲の最終楽章(第4楽章)については、「(「人間の主題」)が全楽器の絶叫によって打ち立てられ、序奏の同音連打が勝利の宣言となる。」とか言っていました。終わりのコーダ部分が何かしら敵に鉄槌をくらわせているように聞こえるのでしょう。

そのように聞こえなくもありません。『証言』が述べているのはこの「敵」はナチスだけでなくスターリンの殺戮マシーンのような体制でもあるということでしょう。するとここでは「勝利」でなく「鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする」(注8)という「裁き」ないし、「報復」を表現しているのかもしれません。

あえてイメージで語るとすれば・・・、全楽器の絶叫によってそそりたつように打ち立てられるのは、「雷を伴った大きな雲の柱、火の柱」(注9)のようです。

旧約聖書では、「民のため敵に復讐する神は雲の柱の中にいます」、

詩篇では、「雷鳴は車の轟きのよう。・・稲妻は世界を照らし出し地は慄き、震えた。」(注10)

「(主は)、悪者の上に網を張る。火と硫黄。燃える風が彼らへの「裁き」(の杯への分け前)となろう」(注11)

という記述があります。

『証言』で「神は血の為に報復し、犠牲者の号泣を忘れない、などとある」と言及しているのは、言葉で解説するとしたらこのようなことかもしれません。そしてこの「人間性に対する敵」に鉄槌を下すのが、神ではなく、戦争や暴政の中で虐殺されていった人々の無念、かなしみ、慟哭の果ての激しい怒りなのでしょう。

なお、第4楽章の後半は、フレイシュマンのオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」の終曲の旋律、展開が基調にあるように聴こえるのですが・・・(注12)。

「反形式主義的ラヨーク」(作品番号なし)の登場

『証言』の中で、ジダーノフ批判に触れて「私にはこの主題を描いた作品があり、全てはそこで語られている」と言う記述があります(注13)。

この本の出版後10年たった1989年には、これに符合する、誰も知らない謎の作品が「反形式主義的ラヨーク」として、初演されました。

これは、戦後のジダーノフ批判の時の、スターリンや取り巻きを茶化した声楽曲(世俗カンタータ)で、ヴォルコフの初版『概説』にもこの部分について触れた記述があり、『証言』本文の中でも、この作品の存在を示唆した辺りの記述内容と視点、取り上げ方は一致していました。作風はゴーゴリの原作に基づくオペラ「鼻」を思い出します。

ある偽書説論者は、このソビエト当局を揶揄した「ラヨーク」 が見つかった時に「なぜ『証言』にはラヨークの存在が書かれていないのだろう」 と得意満面に発言したそうです。その後『証言』の翻訳者が、『証言』中にラヨークの存在についての記述があることを指摘しましたが、前言を訂正することはなかったようです(きっとこの論者は邦訳も英語版も読んだことがなかったのでしょうね)。

未だにこの『証言』の内容の中には偽書であることを疑わせる「事実誤認」は確認されていないどころか、この『証言』の内容を裏付ける事実がどんどん出てきました。ソビエト崩壊後、埋葬された場所すらわからない演出家メイエルホリドが拷問され銃殺されたことは、判決文や、取り調べ過程の資料が出てきました(注14)。

まだまだ、おもしろい発見や埋もれている事実があるように思われます。
(つづく)


(注1):『ショスタコーヴィチの証言』(原書:Testimony : The Memorries of Dmitori Shostakovich)1979年10月ソロモーン・ヴォルコフ(ロシア人音楽学者)の編。N.Yにて出版。英訳はAntonia W. Bouisによる。英訳では編者序(Preface)、編者の概説(Introduction)、本文からなる。
邦訳「ショスタコーヴィチの証言」(水野忠夫訳, 中央公論社, 1980)はロシア語タイプ原稿によっているが、編者序、本文のみで編者ヴォルコフの概説(Introduction)は未訳。

(注2):『証言』、出版後25年たって、この「証言」に「ユダヤ音楽の二層」「泣き笑い」というあたりにかかれていたことを、たとえば「二重言語・・ショスタコーヴィチの音楽に含まれた両義性」などと著者の新見解のように書かれている本まで出てきました。総じて、「証言」の結論見方に極めて近い、ないし事実上引用している箇所がかなりあるに出典を明らかにしていません。おもしろいことです。

(注3):邦訳編者(ヴォルコフ)序P.5

(注4):井上頼豊「ショスタコーヴィッチ」(音楽之友社)(P.117以降)
なお、これとは別に、清透な深い悲しみに満ちた第3楽章 Adagioについて「(「祖国の大地」)」とか表題をつけて、「比較的叙情的で明るい内容を持つ。」「陽気で息の長い旋律が現れる。」「祖国愛を表現している。」とか真顔で書いてあるのをどこかで読みましが、これも同類の方なのかもしれません。

(注5):ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー ソ連邦元帥。赤軍の機械化,ロケット兵器開発などを推進。数々の戦術理論を編みだした。スターリンの赤軍大粛清の犠牲者の1人。1937年5月逮捕され、トハチェフスキーは拷問にかけられ、自白を強要させられた。トゥハチェフスキーの調書にはその時の血痕が残されているという。『証言』第三章の後半は、トゥハチェフスキーに関する記述である。

(注6):1979年英語版 概説[Introduction] xxxiv脚注 に明記されている。
この点について我が国では、柴田南雄氏がはじめて指摘したという理解がなされている。しかし、同氏の指摘は、1980年刊の「海」所収のエッセイの中で述べられているので『証言』の邦訳の発刊前であるが、ヴォルコフの指摘はその前年である。
同氏の指摘のみを前提で議論している人は、きっと『証言』の英語版は読んだことがなかったのでしょう。
このマーチとはTVのCMで「シュワちゃん、リエちゃん、チチンプイプイ〜♪」とやっていたあの旋律です。

(注7):概説[Introduction] xxxiii〜xxxiv 原文は"the composer had created universalized image of stupidity and crass tastelessness"

(注8):旧約聖書詩篇第章9節

(注9):同出エジプト記13章

(注10):同詩篇第11章6節

(注11):同77章19節 なお、筆者は特定の宗教への信仰はありません。

(注12):ヴェニアミン・フレイシュマンはソ連邦の夭折したユダヤ系の作曲家。『証言』において、弟子であったフレイシュマンを高く評価する記述がある。チェーホフの短編によるオペラ「ロスチャイルドのヴァイオリン」に着手したが、最前線に志願し、28歳で戦死した。ショスタコーヴィチはフレイシュマンの自筆譜にオーケストレーションを施し、1944年2月完成させた。1968年初演されたが、ソ連体制下では二度と演奏されなかった。

(注13):邦訳初版P.215、上段、英語版初版本文P.147,7〜9行目、同ページ脚注
英語版 概説[Introduction] xxxiv脚注、 に明記されている。

(注14):『証言』第三章の前半は、メイエルホリドに関する記述である。
名越健郎『クレムリン秘密文書は語る』中公新書、1994年などがある。

https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/10.html

41. 中川隆[-14897] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:34:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1989] 報告
石川清隆コラム
俗物根性(Пошлость)と芸術に対する「冷笑」
https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/27.html

1.注解のほうが交響曲そのものよりも重要だと考えている人々 (注1)

最近話題の佐村河内という被爆2世で聴覚障害がある人物の作とされていた曲には、実はゴースト・ライターがいたという。

何曲か聞いたことがあるが「広島」と題された曲はマーラーの交響曲第2番第5楽章をベースにした習作的作品かと思っていた。「佐村河内の作品」群は、新垣という人の作品だという。音楽まがいの「音楽」というのは数あるが、これらの作品群は音楽的に優れたものと思う。なんでこのように作者をたがえて「お出まし」にならなければいけなかったのだろうか…。

世の中にはアイドル歌手やタレントが自伝や本を出すとき、ゴースト・ライターに書いてもらうことは良くあるといわれ、ゴースト・ライター「専門家」もいる。

今回のは、質的によいものであっても、被爆二世が作曲した「HIROSHIMA」とか「耳が聞こえないハンディを乗り越えて努力の末に作品を完成させた」、東日本大震災をテーマにした「レクイエム」とかいうふれこみで売ろうとしたのだろう。
音楽作品の内容、完成度でなく、何か話題性、逸話を造り上げて、良い物でも、まがい物でも「売らんかな」の音楽業界の商業主義的体質、話題性を『付加価値』とする芸術とその鑑賞者に対する「冷笑的」な傾向が見え隠れします。

作曲家ショスタコーヴィチが「生活の為なのだとそっと言われるところに、すべての悲劇が発生する。」として知人から聞いた面白い話を紹介している。

「それこそドストエフスキーの小説に出てくるような素晴らしい光景であった。二人の「共作者」が便所で落ち会う。一人は相手に金をつかませ、もう一人は相手に高潔さを主題としたいつもの歌を手渡す。そして陰謀を隠すために、便器に勢いよく水を流す。このように崇高で詩的な状況のもとでいわば国民の道徳水準の向上を訴える価値のある新しい作品が生まれるのである。」

それを咎めると「わたしの相棒はきちんとかなりの金を支払ってくれている。ほかの人たちからの注文も受けなければならないのだ。だがそのおかげで生きてゆけるのだから、彼に感謝している。だからきみを中傷好きな人だと吹聴してやる。」 (注2)

と言われたそうです。

2.「革命」という"勇ましい"副題(交響曲第5番)

このショスタコーヴィチの作品で有名な交響曲第5番 (注3) がありますが、これに「革命」とかいう副題をレコード会社が勝手につけて売り出していたのは我が国だけ。

この曲は、現在では、感情的な諸相がかなり複雑な内容を含んでいる曲であることは広く理解されていますが、初演当時「フィナーレでショスタコーヴィッチは新しい創造的手段を見つけ出し、音の壮大さ、雄大さを生み出している。満場が立ちあがる。満場は喜びと幸福感にとらわれる」 (注4) とか褒められて、社会主義リアリズムを代表する交響曲とされて世界中に喧伝されていました。

この曲の最終部分、速度指定はかなりゆったりとしているのですが、アメリカの指揮者バーンスタインは1959年、ソ連に演奏旅行に行った時、この交響曲第5番の演奏で第4楽章のコーダのテンポ(開始部も早い)を倍以上の4分音符=200ほどの超快速で演奏しました。するとかなり軽い諧謔的なおちょくった演奏になるのですが、当時のソ連共産党関係者は、よく分からずにこれを明るい"勝利の凱歌"のように感じてひどく喜んでいたそうです。またバーンスタインが1979年に来日した時の演奏も第4楽章のコーダのテンポも同じくらい速く (注4) 、この曲LPレコードに「革命」とかいう副題が勝手につけられたのはこの前後でしょうか。

当時、ショスタコーヴィチの曲のレコードを買う人の多くは、この曲の最後に「「勝利の行進」を聴くのだ」とか確信を持った人が多かったのかもしれません。このような人たちを満足させるために「革命」とかいう副題をレコードジャケットの帯に付けて売ろうとしたのだと思います。

まあ聞く方も、今ではどう聞いても軽薄で諧謔的な演奏に対し、「気迫溢れる、逞しく勇ましい「革命」を聴かせてくれた」とか「光り輝く圧倒的な勝利を告げるフィナーレまで熱く激しく聴かせてくれた」とか感激しちゃったり。 一部の音楽評論家などが、「うわっすべり的なから騒ぎ」とか書かないまでも速度指定の問題などを書くと、「これだけ演奏が燃えているのに、この批評からはこの凄い演奏に対する熱が感じられない!」とか非難される始末でした…。 (注5)

どうしてこのような「冷笑的態度」で「革命」とかいう副題 (注6) をつけて付加価値を付けられるのでしょうか。

亡命ロシア人の作家ウラジミール・ナボコフは「俗物は感動させること感動させられることを好み、その結果として欺瞞の世界、騙し合いの世界が彼によって彼の周囲に形成されるのである。」 (注7) という。

ショスタコーヴィチは革命後、困窮して「食うためならどんないまわしい行為でも、わたしはしてみせる」と書いたチニャコフという詩人を例に挙げ、「重要なのは食べることであり生きている間はできるだけ甘い生活を送りたいというのである。これは冷笑的な心理と呼ぶだけでは不十分で刑事犯の心理である。わたしの周囲には無数のチニャコフたちがいた。才能のある者もいればさほど才能のない者もいたが。しかし彼らは協力して仕事に励んでいた。彼らはわが国の芸術を冷笑的なものに変えようと努めその仕事を上首尾に成しとげたのであった。」 (注8) と述べています。
チニャコフは、街に立ち「詩人」と書いたボール箱を首から胸に吊るし、通行人から金を恵んでもらいその金で、高級レストランで飲食し、翌日はまた街角に立っていたという。

3.ゴーゴリ『外套』、冷笑的なまなざしでない「不条理」なもの

「貧しい下級官吏がなんとか外套を新調する。外套は生涯の夢になる。ところが、その外套を最初に着た夜に、暗い街区で外套を剥ぎとられて、悲嘆のあまりに死んでしまう。

夜な夜な街区をうろつく外套を着た幽霊が出る。そして幽霊が高慢ちきな上司の外套を剥ぎとってしまう…。」

この作品を、ゴーゴリが単に精神異常をきたして「冷笑して」いるとか、いや、「虐げられる弱者との主題を設定し、ゴーゴリが読者に「人道的な同情を求めている」と読むべきとかいろいろな議論があります。

ナボコフは「ロシアには気取った俗物根性を指す特殊な名詞ポーシュロスチというのがある。屑であることが誰の目にも明らかな対象を指すだけではなく、むしろ偽りの重要性、偽りの美、偽りの知恵、偽りの魅力を指す。何かにポーシュロスチというのは、美学的判断であるばかりか、道徳的弾劾でもある。真なるもの、善なるものは、決してポーシュロスチにはなり得ない。ポーシュロスチは文明の虚飾を前提とするからである。」という (注9) 。

ナボコフはこの主人公の下級役人は「不条理」な現実の精神を体現している「亡霊」だと指摘し、「何かがひどく間違っていて、すべての人間は軽度の狂人であり、自分たちの目には非常に重要と見える仕事に従事している一方、不条理なほど論理的な一つの力が人間たちを空しい仕事に縛り付けている――これがこの物語の本当の"メッセージ"である」 (注10) と結論付けている。

 このように『外套』の主題をとらえて、「身にそぐわない衣」といえば、ゴーゴリは、シェイクスピアの一節を読んでいたのかもしれませんね。王位を奪い暴君と化したマクベスに対し、シェイクスピアは貴族ケイスネスにこう語らしている。 「いまこそ彼はその王という称号がだぶだぶで身体(み)にそぐわくことを感じているのだ。あたかも巨人の衣を盗んだ侏儒(小人)のこそ泥のように…」 (注11)

4.ゴーゴリの『鼻』は?

では、『鼻』は…。

「正気の沙汰とは思えない奇妙きてれつな出来事、グロテスクな人物、爆発する哄笑、瑣末な細部への執拗なこだわりと幻想的ヴィジョンのごったまぜ」 (注12) という解釈もあるのはゴーゴリの『鼻』です。

ナブコフは小説『鼻』について多くを語りませんが、「ゴーゴリにとってのローマは北国に拒まれた良好な健康状態を暫のあいだは保っていられた場所だった。イタリアの花々(それについて彼は言った「墓の上におのずと咲き出る花々をわたしは尊敬する」)は 一個の「鼻」に変身したいという激しい欲望で彼を満たした。目や腕や足など他のものは一切要らない。ただ一個の巨大な鼻「ありとあらゆる春の香りを吸いこめるような二つの手桶ほどの大きさの鼻孔をもつ」鼻になりたい。イタリアにいた間ゴーゴリは特に鼻意識が強かった。」 (注13) という。しかしそれ以前にロシアでゴーゴリの書いた『鼻』の不条理は怖いほどです。


ショスタコーヴィチは言う。

「『鼻』は滑稽ではなく恐ろしい物語である。」「鼻のイメージにもなんら滑稽なものはない。鼻がなければその人は人間ではないが鼻のほうはその人がいなくとも人間になれるし、権力者にもなれる。これはけっして誇張ではなくて歴史の証明する真実である。もしもゴーゴリが今日まで生き続けていたならそれ以上のものを目撃したことだろう。今日では、このような鼻が幽霊のように徘徊していて、たとえばわが国の共和国で起こっていることもその意味ではまったく滑稽ではないのである。」 (注14) ショスタコーヴィチは、ゴーゴリのこの小説をヒントに弱冠20歳でオペラ『鼻』作品15を作曲しました。この作品は、このオペラの中で『鼻』が大衆に囲まれてボコボコにされるように批判され40年余、1974年までロシアでは上演されませんでした。

この作品への批判は、まさに"気取った下司"によるものです。
ナブコフはいう。

「俗物は順応主義者つまり自分の仲間に順応する人物であり、そのほかにもう一つの特徴をもつ。すなわち、ニセ理想主義者であり、ニセ慈善家であり、ニセ学者である。欺瞞は真の俗物の最も親しい友人なのだ。「美」「愛」「自然」「真実」といった偉大な言葉は気取った下司に用いられるときすべて仮面になり"囮おとり"になる。」 (注15)

どんな批判であったのか、は当時の批評家 (注16) の批評をそのまま引用したロシア・ソヴィエト音楽研究に従事した井上頼豊の『古典的名著』 (注17) があります。どんなことを言っているかというと…。

この研究者は、「彼は…歌劇『鼻』で形式主義的傾向の頂点に達した」と結論付け、「『鼻』の抽象的な奇抜さはソヴェトの音楽劇になんの足跡も残さなかった。同様の原理に基づいた他の諸作品も同時期にあらわれたが、ショスタコーヴィッチの歌劇のような自然主義の極端まではいっていなかった。」と評しています。"形式主義的傾向"か"自然主義の極端"とかどういう意味か未だに分かりません。書いているご本人もわかっていたのでしょうかね。

そして、「西欧音楽の革新の影響は…彼らは…知らず知らずのうちにロシア楽派の健康な基礎から次第に遠く迷い出て行った。」とプロレタリア音楽の理想を踏み外したんだそうですが、その理由として「新しい作品が現代音楽界を喜ばせたいという事実が、ショスタコーヴィッチの発展を形式主義の方向へ押しやったことは疑いない。」という。

そしてこの偉大な作品を「歌劇はエヌ・ゴーゴリの同名の名高い物語によっているが、そのユーモラスなリアリズムを失って小話の領分におちている。」とまで断言してしまうのです。

もう一つ面白いことは、井上頼豊はこの「ショスタコーヴィッチ」(1957年)でこの作品をこのように、ケチョンケチョンに批判しているのですが、この批評がこのオペラの録音を聴いたり、楽譜、台本を見て書かれた形跡が全くないのです。 楽譜がウイーンで出版されたのが1962年(戦前に海外での演奏の権利を譲渡していた)、ロジェストヴェンスキーがボリショイ劇場地下壕で筆耕本スコアを発見したのが1950年代終わり(ショスタコーヴィチの手元にはスコアは全くなかった)、1970年に演出家がボリショイ劇場で学生たちと試演したときは録音すらなかった…。井上頼豊センセは台本も楽譜も録音も聞かないで「形式主義!」とか書いていたようですね。

そしてその分析がまたブラックジョークのように面白いのです。

ア 台本について

「こんなきちがいじみた寄せ集めの台本が'作曲家に本当の劇的な基礎を与えないのは明らかであろう」と断じています。

「性格の異なった様々の作品を結びあわせることを原則とした台本の構成そのものにもあらわれていた。古典を"編集する"という破壊的な方法」で「台本の構成…そのものが形式主義的でテキストはゴーゴリのいろいろな物語から編集され 『鼻』の話の他に『昔気質の地主たち』『死せる魂』『狂人日記』『タラス・ブリーバ』および『結婚』の抜粋を含み、おまけにドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』からとったスメルシャコフの小歌まで入っている。古典文学のこのような扱い方は論外である。」そうです。

『オペラ鼻』のコワリョーフ(注;鼻のなくなる八等官)の下男の歌は、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフ(注:カラマーゾフ家の使用人(コック)。私生児で無神論者)の歌「不屈の強さで、・・・私は愛に至った。神は彼女と私を祝福している」から引用したもので原作にはない下男イワンがバラライカを持って歌うシーンのことですね。これをゴーゴリの作品の中にあるドストエフスキー的要素の抽出・演繹で素晴らしいと思うか、つぎはぎと思うかですが…。

イ 音楽については

井上は、「『鼻』を書いているとき、作曲者が歌劇の設計をまるで忘れていたことは明らかである」とし、「彼の注意は、明らかに新しいポリフォニー効果の追求に奪われていたのである。急速な歌と踊りの形は、もっぱら"仮面" だけで仕上げられ、どれもが誇張されて馬鹿らしいものになっている。」

「これは第一にアリアの配列で証明できる。ふつうの意味での旋律の原則はここにはない」「レシタティーフは、時には縮まってふつうの会話になっている。その上ショスタコーヴィッチのレシタティーフは奇妙な、言葉を摸した誇張した抑揚で書かれている。」

「声楽の配置(したがってまた全歌劇の様式)は故意の不自然さと露骨なおどけとがめだっている。」…とか。

ダニール・ジトミルスキーは「不条理な効果は登場人物のまさにイントネーションで表現されている。しかしながら、それらはゴーゴリの実際の音声の原型を風刺的に解釈したものではありません。」「それらはゴーゴリの小説に存在した主要な風刺を排除している。」という。

「ゴーゴリの皮肉を構成するものは、まさに異様な状況とこれに対する普通の対応を並置していることです。小説の語彙は、日常生活で使用される語彙に極めて近い。オペラの語彙については、それがほぼ完全にパロディです。このパロディは特徴として、ゴーゴリが使用したかなり正確な本来の標準(の語彙の意味)とのすべての関係を失うほどラジカルである。不条理な効果は登場人物のまさにイントネーションで表現されている。しかし、それらはゴーゴリの実際の音声の原型を風刺的に解釈したものではありません。多くの場合、これらは作曲家自身によって発明された音楽的「知的障害」だったのではなく、彼の思考の中で、最良の方法で、登場人物の不条理を表現することを意図したものだ。」

「音楽を通じて愚かさ、不条理と下品を表現しようとして、彼はパロディ化した元となる主要な情報源との接続を失うことなく、彼はこれらの心理的な形象の音楽的に同等な表現を発見した…。」 (注18)

というが、こちらの方がゴーゴリの「小説」とオペラ「鼻」との関係を的確に分析しているように思います。

井上の評論は、まさにナブコフの言う「俗物性」そのものです。

「俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくていわゆるクリシェすなわち決り文句、色褪せたせた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の1つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない」 (注19)

そして、「科学的社会主義的唯物論」と称する「疑似科学的全体主義的俗物論」から芸術とその鑑賞者を冷笑していたと思います。


(注1):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.282

(注2):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.253

(注3):交響曲第5番 ニ短調 作品47は、ショスタコーヴィチの作品の中でも、特に著名なものの一つ、コーダの楽譜の指定テンポは4分音符=92なのにバーシュタインは4分音符=188〜200ほどのスピードで演奏している。

(注4):アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ1883年- 1945年)など。有名なレフ・トルストイとは別人。この交響曲第5番は当時ソ連作家同盟議長アレクセイ・トルストイの論文(ショスタコーヴィチの第5交響曲、1937年、イズべスチァ紙)で絶賛されました。

(注5):日本における西洋音楽受容に関する社会学的分析のための一試論
−− D.Shostakovichの場合−−由谷 裕哉"例えば、『証言』以前の第5交響曲の解説で、典型的な一つに、「プラウダ」に批判(=教育?)されたことによってはじめて、ショスタコーヴィチは第5交響曲のような「真の名作」−−この表現には、もちろん、人民大衆のための、という含意が含まれている−−を作りえた、というレトリックによって、ショスタコーヴィチの創作環境を外的に制約(あるいは抑圧)した党による文化政策が、臆面もなく正統化されていた

(注19)※ちなみに、この頃<1970年代初頭頃>の筆者は、時代的な潮流もあって、新左翼的な運動にある程度のシンパシーを抱いていたが、この議論だけは、その頃からとうてい納得出来ないものであった。

この(注19)はバーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニックによる一度目のレコード(1959年録音)の日本版ライナーノーツ(CBSソニー)で、執筆者は門馬直美。

(注6):フェイ、邦訳「ある生涯」p.136
「彼は自らの交響曲第五番に'何ら副題をつけたり裏書きしたこともないし'出版された楽譜に副題が記されていたこともない」
「私の創造的回答」(掲載誌不祥)には'作曲家の署名付きで発表され「最終楽章で、最初の3楽章までの悲劇的なまでに緊張した瞬間を人生肯定的で楽観的な構想に溶かし込んでいます」と書かれたりしたが…。

(注7):ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフ(Владимир Владимирович Набоков Vladimir Vladimirovich Nabokov,(1899年- 1977年)は、帝政ロシアで生まれ、ケンブリッジ大学へ入学、ロシア革命のために帰国を断念フランスやドイツで亡命者として転々とした生活を送り、1940年にアメリカへ渡ります。アメリカではコーネル大学で教職に就き、ロシア文学を教えました。 『ロシア文学講義』"Lectures on Russian Literature" (1981年)
小笠原豊樹訳、TBSブリタニカ 1982年、「俗物と俗物根性」("Philistines and Philistinism"p.376)

(注8):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.257

(注9):ナボコフ『ロシア文学講義』p.376

(注10):ナボコフ『ロシア文学講義』p.72〜73

(注11):マクベス 第5幕第2場  スコットランドの貴族ケイネスが暴君「マクベス」を指して言う言葉、(訳は拙訳)

(注12): 光文社新訳文庫: 解説

(注13):ナボコフ『ロシア文学講義』p.57

(注14):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.300

(注15):「ショスタコーヴィチの証言」 邦訳初版p.257

(注16):マルトゥィノフ「ショスタコーヴィチ・人と作品」 (注17):井上頼豊「ショスタコーヴィチ」1957年 音楽之友社p.30〜

(注18):ジトミルスキー「Shostakovich Reconsidered, ed. Ho&Feofanov1998」(p.438〜439) (注19):ナボコフ『ロシア文学講義』p.376

https://kiyotaka-ishikawa-law.com/column/27.html

42. 中川隆[-14000] koaQ7Jey 2020年2月06日 13:35:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-669] 報告

クラシック音楽 一口感想メモ
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ( Dmitrii Dmitrievich Shostakovich, 1906 - 1975)
https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81

20世紀生まれの唯一のメジャーな大作曲家。

戦中戦後のロシアの悲劇を連想させる現代的な社会性を音楽芸術として昇華させつつ、古典的な形式であり、和声も歪んではいるがとっつき易いのが人気の所以か。

スケールが大きく深刻でシリアスな本格的なところが魅力である。一方で軽妙でシニカルさが魅力の曲も多い。

ただ個人的には、頭の中だけで書いたような機械的な書法に感じたり、わざとらしい作り物の盛り上げ方が気になる時がある。


交響曲

•交響曲第1番 ヘ短調 作品10 (1925年)◦3.5点


19歳の作品で、音に純朴さはあるがセンス抜群で非常によい。後年のひねくれたセンスや国家的なものとの戦いの要素がまだなく、精神的深さは無いものの彼の音感が原石として現れており、それが素晴らしい。

•交響曲第2番 ロ長調 作品14 「十月革命に捧ぐ」 (1927年)◦3.5点


前衛的な一楽章もの。短くて聴きやすい。ウルトラ対位法の部分はもの凄く面白い。だが最後の暑苦しい合唱はいやになる。1番ほどの感動は無いが、音楽としての充実と楽しさは上である。

•交響曲第3番 変ホ長調 作品20 「メーデー」 (1929年)◦3.5点


後年のショスタコらしさがかなり現れている。後年に見られる同じ音型を一定時間繰り返すことをせず、きびきびと次に展開していくのが非常に好印象でかなり良い。内容が濃い。

•交響曲第4番 ハ短調 作品43 (1936年)◦3.5点


1楽章はマーラー的なスケールの巨大な音楽。展開部の超高速のフーガは狂気にも程がある。マーラーのようなオーケストラの酷使と、ゴツゴツした荒さと、素材の乱暴な扱いによる取っつきにくさが魅力。2楽章もスケルツォも3楽章も同様の印象である。5番以降のように器用に整理されておらず、生々しい、未整理の"音のるつぼ"であるのが大きな魅力であると同時に、聞きにくく分かりにくい欠点にもなっている。

•交響曲第5番 ニ短調 作品47 (1937年)◦5.5点


純音楽的に優れているという点ではショスタコーヴィチの最高傑作だと思う。特に1楽章と3楽章は非常に出来がよい。他の交響曲の深い精神世界を知ってしまったファンは、この曲を浅く感じるので最高傑作と呼ばないかもしれないが、初心者にはやはり真っ先にお勧めしたい。

•交響曲第6番 ロ短調 作品54 (1939年)◦4.0点


1楽章はマーラーのようなゆったりした時間の流れで、大河的な巨大なスケールで叙情的に沈鬱な表情で世界の悲劇を嘆くような、非常に秀逸な楽章。2楽章は1楽章を受けた軽くて気分転換できる良い曲。3楽章は表面的な音楽でいまいちなように感じられるが、裏に皮肉や偽善を隠しているのに着目すると天才的と感じる曲。

•交響曲第7番 ハ長調 作品60 (1941年)◦4.5点


派手にドンチャン騒ぎする曲。確かに浅いから「壮大な愚作」という評価はしっくりくるものであるが、とはいえ大河的、国家的な壮大さを表現できており、やはりよい曲といえると思う。特に1楽章の中間の部分や3楽章は優れていると思う。

•交響曲第8番 ハ短調 作品65 (1943年)◦4.0点


純音楽的にはすこし冗長さが感じられたり響きの多様性や発想力が5番より劣る気がするが、精神的な深さとドラマ性では上回る。

•交響曲第9番 変ホ長調 作品70 (1945年)◦3.0点


この曲は第九なのにスケールが小さく肩すかしを食わせた曲として有名だ。自分は率直に言ってどう聴いたら良いのかよく判らない。いつもの精神的重さが無いが、それを代替する何かがあるかというと、センスが特別に良いとは思わないし、思い当たらない。交響曲と呼ぶのに必要なものが足りない気がする。交響的な組曲を聴く位の気分で気軽に接するのが正解だろうか。一応後半は何故かいつもの交響曲らしさを少しみせたりするが。

•交響曲第10番 ホ短調 作品93 (1953年)◦4.0点


古典的な均整の取れた4楽章制であり、内容も正統派の力作。古典性を備えた交響曲としては最後の作品集。8年経ち久しぶりの交響曲として気分一新で書いた事が伺える。スターリン時代の人々の苦悩や暴力が国家的なスケール感をもって見事に描かれているし、表面的な表情の裏では別のことを考えていそうな多義性もある。ただ、ショスタコーヴィチが狙っているその通りに音楽が進みすぎるような、作り物っぽさをどこかに感じる。

•交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」 (1957年)◦3.5点


キリキリと音楽のテンションを高めたり沈鬱な音を鳴らして精神的なものを表現する感じが薄い、描写的な音楽。映画に使えそう。描写的なので音楽として楽しく聴ける。異常なテンションの高さが現れないので長い曲だが聴いていて疲れずまったり楽しめてよい。

•交響曲第12番 ニ短調 作品112 「1917年」 (1961年)◦2.5点


13番と共通するエグい音が散見される。あまり精神的な深い世界を描いていない描写的な交響曲だが、同じように扱われる11番ほど音の密度が濃くなく説得力がない。音だけではよく分からず曲の世界にのめり込めない。

•交響曲第13番 変ロ短調 作品113 (1962年)◦3.8点


全5楽章。バスの独唱と合唱のみであり、特に読経しているかのような単一声部の男声が暑苦しくも凄い迫力で印象的。大河的で圧倒的に巨大で骨太な音楽であり、歴史の闇を生々しく描き真正面から告発するような内容である。オーケストラは低音を使いドーンとかグワーンと鳴らされるのが、読経のような合唱とあいまって東洋的に感じる。異様な迫力と生々しさと巨大さは4番と並ぶ。最大限に深刻な1時間の音楽を緩みなく作りきった精神力は感服するが、純粋に音楽として評価すると、曲の雰囲気があまり変わらず、楽想のバラエティーの豊さはショスタコービチの交響曲の中で一番少ないと思うため、力作だが名曲というには少し足りない。

•交響曲第14番 ト短調 作品135 (1969年)◦3.5点


全11楽章の歌曲の交響曲。晩年の不思議な美しさが顔を見せている。13番同様に力作である。マーラーの大地の歌同様に体裁は交響曲ではないが内容の充実と有機的なテーマの関連性とつながりがあるので交響曲と呼ばれることに違和感は無い。久しぶりに歴史や国家から離れて個人の世界がテーマになった曲。バラエティーと変化に富むので聴きやすい。

•交響曲第15番 イ長調 作品141 (1971年)◦3.0点


様々な楽曲の引用で彩られたショスタコ流の人生回顧曲。ここでも歴史や国家のテーマは感じられない。曲の不思議な明るさと無邪気さには童心回帰を感じる。後半は音が薄く虚無感がある。謎めいた夢の中に帰るような終わり方は素晴らしい。しかし全体としては名曲とかの類ではないと思う。


弦楽四重奏曲

•弦楽四重奏曲第1番 ハ長調 作品49 (1938年)◦3.0点


明朗で爽やかな印象が強く分かりやすい。とはいえ諧謔などショスタコらしい要素は詰まっている。ちゃんとした音楽を充実した内容で書くという自信を感じる。

•弦楽四重奏曲第2番 イ長調 作品68 (1944年)◦2.5点


2次大戦中の曲で、大作。一楽章は少し変わった雰囲気でショスタコじゃないみたい。二楽章以降はなかなか本格的で重い。精神的にもなかなか深いものを表現している。ただ音楽の素材は彼の中の一級品は使ってないと思う。

•弦楽四重奏曲第3番 ヘ長調 作品73 (1946年)◦3.5点


交響曲8番と共通する悲劇的で深い世界を表現している。中期の交響曲群に匹敵する重さと響きの質の高さを持った作品。

•弦楽四重奏曲第4番 ニ長調 作品83 (1949年)◦2.5点


悪くはなく所々いい場面があるのだが強い印象は無く地味。曲の素材が一級品でなく二軍を使ってる。

•弦楽四重奏曲第5番 変ロ長調 作品92 (1952年)◦3.0点


アダージヨが美しい名作で心惹かれた。その流れで三楽章も楽しめた。最後の場面はショスタコ得意のパターンとはいえ美しい。

•弦楽四重奏曲第6番 ト長調 作品101 (1956年)◦2.5点


ショスタコの四重奏にしては全体が快活な雰囲気でまとめられており聴きやすい。

•弦楽四重奏曲第7番 嬰ヘ短調 作品108 (1960年)◦2.5点


短い作品で、ショスタコ節を鳴らして終わる普通の曲。

•弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110 (1960年)◦3.5点


激情にかられて一気に書いたという逸話に納得の内容。彼の熱い思いがみなぎるテンションに圧倒される。

•弦楽四重奏曲第9番 変ホ長調 作品117 (1964年)◦3.0点


ショシタコらしい音がして、バラエティー豊かで内容は豊富でバランスが取れているという点で聴きやすい。

•弦楽四重奏曲第10番 変イ長調 作品118 (1964年)◦3.0点


交響曲のような発想が所々あり、力強い楽章などそれなりに聞き応えがある。

•弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品122 (1966年)◦3.0点


ダークで殺伐とした静かな後期の世界が展開される。複雑怪奇なフレーズは少ない。夜の闇の静けさの中で事象が発生しはるか遠くに消えていくかのようである。

•弦楽四重奏曲第12番 変ニ長調 作品133 (1968年)◦3.5点


歯止めの利かないクレイジーさはベートーベン後期のようだ。二楽章はしつこく繰り返される動機が妙に印象に残り、その間を自由で即興的で異様な内容の音楽がつないでいく。やけに即物的な音楽であるが、それがいい。後期四重奏の魅力を強く感じられる。

•弦楽四重奏曲第13番 変ロ短調 作品138 (1970年)◦3点


リズムがなく、もはや観客の視点も無い。暗闇の中で何かが唸っているような、自然の中の何かの現象が発生しているような曲。構成感も希薄で現代音楽のよう。雅楽のような虚無の使い方。ショスタコにしてはやり過ぎではないかとも思うが、割り切って聴けば悪くない気もする。
•弦楽四重奏曲第14番 嬰ヘ長調 作品142 (1973年)◦3点


1楽章はヘンテコで正直どう感じればいいのか分からない。二楽章はやたら分かりやすい、そして分かり易いと自然と感情移入できるというのを実感する。三楽章も自由だが割と音楽になっており理解は可能。

•弦楽四重奏曲第15番 変ホ短調 作品144 (1974年)◦3点


全編アダージョの長い曲だが、音楽的に充実していて飽きることなく最後まで聴ける。後期の四重奏の中で一番聴きやすい。ヴィオラソナタのように最晩年らしい特別な感情や世界が展開されてる感じではなく、ただただ叙情の世界である。

•弦楽のためのレクィエム 作品144bis(原曲は第15番)

管弦楽曲・吹奏楽曲

•タヒチ・トロット (1928年)◦3.5点


ヒットソングの編曲で、45分でオーケストレーションしたらしい。なかなか洒落ていて色彩的で愉しい編曲で面白い。何しろ原曲が秀逸である。

•ジャズ・オーケストラのための第1組曲 (1934年)◦3.5点


いわゆるジャズに分類される音楽ではないが、今でも耳にする事があるようか古いバンド向けお洒落音楽ではある。線を繋げて構成するショスタコーヴィチの柔軟さが生かされている。洗練度は微妙だが、クラシック専門作曲家にしてはセンスがよい。奔放な発想力が凄い。

•ジャズ・オーケストラのための第2組曲 (1938年)◦2.5点


ブラスバンド用もしくはディズニーランドで流れているような音楽のよう。ごくありきたりの音楽であり、悪い曲ではないがショスタコーヴィチ作曲である附加価値は何も無い。なお、いわゆるジャズ的な音楽ではない。この曲の本来の題名は舞台管弦楽のための組曲であり、誤って「第2番」として知られてしまっているのだそうだ。

•荘厳な行進曲 (1941年)

•バレエ組曲第1番 (1949)◦3.5点


非常に軽妙な舞台音楽の再編集による組曲。よくある音楽にショスタコーヴィチらしい味付けがされており、作曲者の個性がちゃんと発揮されている。センスがかなり良いし表情豊かで1曲ごとにちゃんと個性があるので、心底楽しい気分で聴ける。いつもの深刻なショスタコーヴィチとは全然違う一面がみれる。この曲集は1曲が非常に短いので聴きやすい。

•バレエ組曲第2番 (1951)◦3.8点


2曲目に独奏チェロを使用した7分程度のアダージョがあるのが特徴。アダージョといっても軽くて楽しい気分で聴けるものである。そのような楽しい曲を書けたショスタコーヴィチのセンスに驚く。その他の曲は1番と基本的に似ていて、同様に楽しめる。4曲目のトランペットの独奏によるロマンスは昭和の歌謡曲のようで面白い。そして非常にいい曲。

•バレエ組曲第3番 (1952)◦3.0点


この曲集もやはり個性豊かで聴いていて楽しい曲の集合である。しかしながら、曲にありきたりな感が増している印象をうけた。はっとするような感動や感心してしまうような場面が少なくて、よくある音楽にわずかな一捻りを入れただけの曲ばかりと思ってしまった。

•バレエ組曲第4番 (1953)◦2.8点


3曲しかなくて1曲が3から5分程度と長いのが特徴。どれも普通の曲であり、あまり特徴が無いので面白いと感じなかった。他のバレエ組曲同様に軽快ではあるが、軽やかさが少ない。

•祝典序曲 (1954年)◦2.5点


ファンファーレ吹きまくりのノリノリの曲である。生で聴いたら楽しそうだが、CDで鑑賞する場合にはそれほどいい曲ではない。

•交響詩「十月革命」 (1967年)◦2.0点


耳に残るものがなくつまらない。交響曲の中の一つの楽章だと評価が変わるかもしれないが、単品の曲としては評価できない。

•交響的哀悼前奏曲 (1967年)

•「緑の工場」のための序曲

•ソヴィエト民警の行進曲(1970年)◦2.0


吹奏楽曲。普通のマーチ。少しだけショスタコ風ひねりがある程度。

•ロマンス『春よ、春よ』Op128◦2.0


断片的な歌曲。歌詞も分からないのにわざわざ聞くほどのものでない。


協奏曲

•ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 作品35 (1933年)◦3.5点


弦楽合奏のピアノ協奏曲だけでなく、所々にトランペットの効果的な彩りが入っているのが楽しい。重音が少なく軽快に駆け巡るピアノ書法と伴奏が良くマッチしている。軽くて楽しい曲だが適度にシニカルさが混入して表情豊かになり、聴き映えのある仕上がりになっている。

•ピアノ協奏曲第2番 ヘ長調 作品102 (1957年)◦3.0点


1番以上に軽快な曲であまり深い内容はありそうにない。聴く側も気楽に娯楽音楽を聴く気分で接すると良さそう。駆け巡るようなピアノ書法や2楽章の叙情性は楽しい。

•ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77(99) (1948年)◦3点


交響曲以上に暗くて分厚くずっしりと重たい感じのする曲。本格派だが、暗すぎて気分が乗らないと聞いていて滅入ってしまう。しかも一楽章と三楽章が両方そう。カデンツァ長すぎ。アップテンポの楽章も耳に心地よくない。

•ヴァイオリン協奏曲第2番 嬰ハ短調 作品129 (1967年)◦2.0点


どの楽章も魅力や光るものが無いと思う。美しさや感動もなく、耳に痛いギシギシとしたヴァイオリンが続く。

•チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107 (1959年)◦3.0点


1楽章は同じ音型を繰り返すだけの行進曲で前奏曲のようなイメージ。二楽章は長くて叙情的でなかなか美しい音楽。三楽章は二楽章の続きでまるまる楽章全部がカデンツァ。四楽章はコンパクトな締めの楽章で悪くない。早い楽章は小品で、緩徐楽章がメインの曲。

•チェロ協奏曲第2番 ト短調 作品126 (1966年)◦3.0点


アダージョで始まる。長大で内省的にせつなく歌い続けるのはチェロの魅力を生かしてる。二楽章は短く活動的で、三楽章は長大で中庸なスピードや内容だが、重くないサウンドで飽きずに楽しめる。最後が交響曲15番と似たような終わり方なのが面白い。

室内楽曲

•弦楽八重奏のための2つの小品 作品11 (1927年)◦3.5点


二曲とも豊富な声部を面白く活用して興味深い音楽を作っている。聞き応えあり。

•チェロ・ソナタ ニ短調 作品40 (1934年)◦2.5点


静かで叙情的な1楽章と3楽章が長大で曲の中心になっている。分かりやすい歌うような部分は多いが、すぐに皮肉な捻りが入り落ち着かない。暗いような明るいようなはっきりしない場面が続く。2楽章と4楽章は割とはっきりしており聞きやすい。全体に心への響きが弱い。

•ピアノ五重奏曲 ト短調 作品57 (1940年)◦4.5点


交響曲5番と同様に、観念的な精神性にも娯楽性にも偏らず、正統的で純粋な音楽的内容の豊富さとレベルの高さと密度の濃さが特徴。交響曲以上の内容の豊富さであり、大変に聴き応えがある。しかも真実味に溢れ、交響曲のように余計なエンターテイメント性に気を使う必要も無く内容に注力出来ている。ショスタコーヴィチの最高傑作候補の一つ。

•ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品8 (1923年)

•ピアノ三重奏曲第2番 ホ短調 作品67 (1944年)◦3.0点


1楽章と3楽章の追悼音楽の雰囲気が印象的。全体にとっつきにくく、心地よさを拒絶しているような内容で、メロディーがはっきりせず耳に残らない。4楽章は夜の墓場のようなおどろおどろしい雰囲気は悪くないが、曲が長すぎる。

•ヴァイオリン・ソナタ ト長調 作品134 (1968年)◦3.0点


1楽章は4度を主体にした虚無的な音楽がひたすら続きよく分からない。2楽章はかなり激しいピアノとヴァイオリンの絡み合いで、分かりやすさはある。3楽章は無調に近い響きでバルトーク的な狂気の世界の変奏曲。この曲はいろいろとやり過ぎで、力作ではあるが聴くのがしんどい。

•ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147 (1975年)◦4点


最後の作品。静謐さと絶望をたたえている。世界が凍っていくような不思議な感覚は胸に迫るものがある

•弦楽四重奏のための2つの小品 (1931年)◦3.0点


1曲目はなかなかいいけど2曲目はいまいち。

•ヴァイオリン・ソナタ(1945年に着手したが未完)◦4.5点


最後の作品。静謐さと絶望をたたえている。世界が凍っていくような不思議な感覚は胸に迫るものがある。催眠にかけられて深遠の暗闇に引き込まれるような不思議な感覚を覚える。そんな両端楽章にあって、2楽章のスケルツォも骸骨の踊りのようであり、刺激の点で効果的に機能している。3楽章の月光ソナタのオマージュ部分はあまりにも儚く美しく、最後はベートーヴェンを使ったという事実に想いを馳せると胸を打たれる。

•3つのヴァイオリン二重奏曲◦2.5点


自分で演奏したら楽しそうなオーソドックスで分かりやすい小品。

合唱曲

•オラトリオ「森の歌」 (1949年)◦3.0点


ショスタコーヴィチにしては単純で分かりやすすぎると共に、演出が豪華で派手な合唱曲である。骨太で大地のような巨大なスケールであり聴き映えはする。本人の意図に反した保身目的の曲という歴史的興味を引く曲であるが、内容が表面的でありいつものエグさがないので物足りない。

•カンタータ『我が祖国に太陽は輝く』◦3.5点


少年合唱は使い方をはじめ、いかにもという感じのコテコテのプロパガンダ曲で、そういう音楽としては楽しめる。

•バラード「ステパン・ラージンの処刑」(1964年)◦3.5点


迫力満点。目の前で歴史的な事件が起きているかのような臨場感である。ショスタコがこのような政治や国家の関係する劇的な叙事曲を書かせたら圧倒的に凄いと再認識。交響曲に匹敵する重量感。


バレエ音楽

•黄金時代 (1930年)◦3.5点


黄金時代の組曲で聴いた。ショスタコ節がすでに確立しかかっている。

•ボルト (1931年)

•明るい小川 (1935年)

•お嬢さんとならず者 (1962年)


ピアノ曲

•5つの前奏曲(1921年)

•3つの幻想的な舞曲(1925年)◦3.0点


1分程度の小曲が3曲。すぐにサティーを思い出すような、フワフワしてアンニュイで幻想的な曲。

•2台のピアノのための組曲嬰ヘ短調(1925年)◦3.0点


初期の曲であり、まだロシア的なロマン派の香りが漂い和声に歪みが少ないが、新しい20世紀らしい音楽へと踏み出してもいる。輝かしい神秘的な響きが多いのが目新しく感じる。スケール感があり音が分厚く発想は豊かであり、2台のピアノ用組曲としては聴き応えのあるものである。

◦箴言
◦3.0点


古代からの不思議な伝承物を連想させるような謎めいた音楽。何かの暗号のようだ。即物的に聞こえる瞬間も多い。嫌いではないが、どちらかというと実験音楽のたぐいだろう。

•ピアノ・ソナタ第1番(1926年)◦3点


前衛的であり2番とは大きく異なる世界の曲である。

•ピアノ・ソナタ第2番(1943年)◦3点


多楽章のピアノ・ソナタとしては唯一の作品である。ソナタ形式の得意なショスタコーヴィチにしては残念である。この曲はショスタコーヴィチならばこれ位書けそうという予想の範囲を超えるものが無く、曲としてはまとまっていて規模も大きいのだが、形式にはまりすぎであり驚きの無い作品である。

•24の前奏曲(1933年)◦2.0点


1曲の長さは短い。24の前奏曲とフーガと同様の24曲の曲集ではあるが、こちらはかなり地味で各々の曲の特徴も薄く、聴いているとどんな曲か把握出来ないままに次の曲に移ってしまう感じである。よく聴くとショスタコーヴィチらしい風味がある音楽ではあるのが分かるものの、地味すぎて楽しめないというのが率直な感想である。

•24の前奏曲とフーガ(1952年)◦4.5点


1曲目が大変素晴らしくて、一般化された精神の深みをバッハのように音楽で体現し、心をノックアウトする音楽。

2曲目はパラパラとしたバッハの影響が強い雰囲気

3曲目はフーガがかなりバッハっぽく、前奏曲はショスタコーヴィチによくある雰囲気。

4曲目は悲しくエモーショナルで心を動かされる。

5曲目は前奏曲はエモーショナルでフーガは個性的な主題と、どちらも面白くて良い曲。

6曲目は暗い情熱が素敵。フーガはやや長すぎる。

7曲目は分散和音をテーマにしているのが面白い。

8曲目は虚空をさ迷うような前奏曲はいいが、長すぎるテーマのフーガはアイデア倒れ。

9曲目はユニゾンの曲でショスタコーヴィチ節全開すぎるし、フーガの押せ押せは面白いが刹那的すぎる。

10曲目は前奏曲も悪くないし、ロマンチック的情緒のフーガが割と良い。

11曲目は間奏的な軽いスケルツォの前奏曲と、軽くてあまり印象に残らないフーガ。

12曲目は、オクターブの重厚な低音が悲劇的な前奏曲も、耳を突き刺すようなフーガもともに力作。

13曲目は前の曲の流れをうけて静寂と平和を静かに望むような雰囲気が良い。

14曲目は前奏曲はムソルグスキーを彷彿とさせるグロテスクさ。フーガは普通。

15曲目はシニカルな前奏曲も良いが、前衛的で複雑な押しのフーガが圧倒的。

16曲目は黙示録のようなフーガがすごい。捕らえ所のないテーマが延々と薄い音とボソボソとした独白で続けられる。

17曲目は様々な色の絵の具を混ぜたような、複雑で何にも帰属できない雰囲気が面白い。

18曲目は普通だが、フーガのテーマに泣きが少し入ってる。

19曲目は謎めいたフーガが印象に残る。前奏曲も捉えにくさがある。

20曲目は静謐な曲で特にフーガの途中からは印象が弱い。

21曲目は軽快で気分転換できるが、だんだんひねくれてしまう。

22曲目は曙光のような薄暗さの中にいるような曲で雰囲気は好き。

23曲目は曲集の終わりに近付いた清々しさを表現した曲で心地よい。

24曲目は壮大に曲集を締めていて、十分な出来になっている。


全体にショスタコーヴィチにマッチした形式であり、ピアノ作品の代表作である。彼の音楽の類い希な普遍性が非常に良い形で現れている良作。24曲の表情は様々であり、多様な表現を見せている。

•2台のピアノのための小協奏曲(1954年)◦3.3点


多くの部分が伴奏とソロに別れており、協奏曲として楽しめる。ピアノ協奏曲としては他の曲と同様に軽い駆け巡るピアノが楽しめる曲になっている。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81

43. 中川隆[-12988] koaQ7Jey 2020年3月06日 11:53:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[546] 報告

ショスタコーヴィチ論

自分は、この人はやはり交響曲を高く評価できる人だと思う。

室内楽は、いい曲が少しあるが、メインとなる弦楽四重奏が交響曲と比較すると高く評価していない。


交響曲において、ショスタコーヴィチは社会性、大河性という新しいものを音楽に持ち込んだ。

20世紀の歴史書としての音楽という点では非常に高く評価したい。

20世紀の交響曲作曲家はいろいろいるが、テーマの分かりやすさ、深刻さと壮大さ、投入された精神力の強靭さの総体において、やはり最大の交響曲作曲家であろう。

歴史書的な音楽としての素晴らしさは見事だ。

ロシアが実践した共産主義社会という人類史的な実験の時代に生きたことや、狂気の独裁者スターリンによる悲劇と恐怖の時代に生きたことが、ものの見事に音楽化されている。

狂騒、錯乱や根暗さ、闇黒、悲劇、国家、群像を、これほどまでに表象している音楽というのは、ショスタコーヴィチ以前には思い当たらない。


ショスタコーヴィチの音楽は諧謔、皮肉、深刻さとユーモアなど、音楽の中に強烈な対比を内包している。構成上もそうだし、内容的に幅広い強烈さを対比させて、お互いを強調している。

その振幅の広さや、幅広さを表現できること自体が人気の秘密であろう。


しかし一方で、自分はショスタコーヴィチの音楽は機械的な書法が気になる。わざとらしく、印象を残そうとして作ったように聞こえてしまうオスティナートや、不自然なほどの鋭い対比などはその例である。

楽譜上の音の列を組み合わせただけであり、音楽におけるちょっとしたフレージングや、楽器が出す音以外のノイズや倍音、演奏しにくいことによるゆがみなどの、楽譜には現れない音楽演奏の生々しい音への配慮が感じられない時があるのも気になる。

https://classic.wiki.fc2.com/wiki/%E4%BD%9C%E6%9B%B2%E5%AE%B6%E8%AB%96

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