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脳動脈硬化症で晩節を汚した(?)レーニン _ 実際は若い時から…
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/756.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 18 日 10:23:58: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 経済コラムマガジンの荒井彰先生も脳動脈硬化症? 投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 17 日 14:30:58)


牡牛座―レーニンの肖像

Taurus (Telets) Dir. Aleksandr Sokurov, 2000
http://www.youtube.com/watch?v=2vnQvemqnTY

2001年 ロシア・日本
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
出演:レオニード・モズゴヴォイ
   マリヤ・クズネツォーワ
   ナターリヤ・ニクレンコ
   レフ・エリセーエフ
   セルゲイ・ラジューク

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%95-DVD-BOX-3/dp/B0032ABQO4%3FSubscriptionId%3D1PGV4GGGAXZ1AMXAKKG2%26tag%3Da_ci_top-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0032ABQO4

http://www.rosianotomo.com/mostoday/telets.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/tana-masa/kansyoki/oushiza.htm

1922年、かつての革命家は今は健康を害し、静かな村に身をおいていた。
右半身は麻痺し、「17×22」の計算もできない。自分の妹も認識できずにいる。
そんなレーニンの晩年を描いた作品。

『太陽』で日本天皇を、『モレク神』でヒットラーを扱ったソクーロフは、その「時の人たち」を等身大の目線で見つめる。一人のただの男として。普通に愛する者がそばにいる人間として。

ここでも、献身的にレーニンの世話をする妻が登場する。レーニンの妹と牽制し合いながらも、彼の容態を真に心配しているのはこの身内の二人だけだ。

護衛局長のパーコリも、ドイツ人医師も、秘書も、やるべきことはやっていても、その行動にレーニンに対する尊敬の念はもはや見当たらない。新聞を放さない主を、だだっこにするように手をピシリと叩いて没収したり、終始挙動不審にケタケタ笑い転げていたり。だから余計に妻の愛は深く感じられる。

雑草ののびきった草原(とは云え、長くのびた白い花をつけた雑草は可憐で美しい)の中でピクニックをする夫婦。

周囲を銃を持って警戒に当たる従者とは対照的に、二人はゆったり寄り添って語り合う。「ただの人」であり、ボケも入ってきた病人をやさしく包み込む妻の姿が大自然の悠然とした感じと融合する。

けれどレーニンは、その後訪れたスターリンの名前も思い出せず、不意に正気に戻って、人民が苦しんでいるというのに自分だけ瀟洒な邸宅で贅沢な食事にありついていることに猛然と怒りを顕わにする。彼の平穏はなかなか訪れない。

だからラストで、自然の中で一人取り残される(党からの電話に妻が急いで走るのも、もうレーニンが政治的なことから除外されたという象徴的なシーンであるのかもしれない)彼が、風の音を聞き、今にも雨が降りそうな空を見るところでうっすら微笑むのが印象的。

彼は人生の斜陽を見、また瞼にやきつけたい、えもいわれぬ美しさを見た。「ただの人」に対するソクーロフの視線はいつでもひどくやさしい。

http://blog.livedoor.jp/cocoroblue/archives/51148967.html


別荘に一人の男がレーニンを訪問した。

自ら権威を誇示するかのような立ち居振る舞いをするこの男。劇中では名前は出てこないが、その容貌、そして、男が帰った後レーニンが妻に「訪問した男は誰か?」という問いに「あなたも指名した書記長です」と答えていることから、その男がスターリンであることがわかる。


レーニンはこの男に質問をする。道に大木が倒れていて通行が邪魔だった時「大木をどかせるか、あるいは、その大木が朽ちるまで待つか、あなたはどうするか?」

レーニンのこの問いに、その男は「大木を切り刻む」と第3の答をレーニンの耳元で囁く。


レーニンは男が帰った後、男の名を尋ねる。何を思ったのだろう。ロシアの未来に不安を持ったのだろうか。

「彼は誰を脅そうとしているのだろうか?」

ロマノフ王朝による絶対君主支配から、ロシア人民の手に国家を奪還した、そのものが目の前にいるこの男の手で新たな権力となって、自分をこのような状況に閉じ込め、そしてトロツキーを放逐しようとし、ロシアの民を支配しようとしている。レーニンはこの時「権力」という魔物の正体を見たのだろう。レーニンは男が訪ねてきた翌年1923年に、その男スターリンの書記長職の解任を覚え書きで提案している。

そして、レーニンの悲劇は、自らもまた、その権力の手の中で堕落した存在となってしまっているという事実を知る。レーニンが療養している別荘は、革命により貴族から没収した(奪った)ものであるということ。「このスプーンは? この食器は? このピアノは? 人民のものか? 人民が飢え苦しんでいる時に、私は安穏と暮らしている。堕落した私が恥ずかしい!」憤りと自責の念で、持っていた杖でそれらのものを叩き潰す。

「パンと平和」を合言葉に、支配者たちから奪還した「権力」が、新たな支配関係を生み出している。「権力」というものが作り出す支配と抑圧の飽くなき連鎖。

ソクーロフ監督は、本作完成後に語っている。

「どうして権力は、その手中に落ちた人間をあれほど辱めるのでしょうか? 

どうして人間を…知性的な面でも道徳的な面でも…あれほど痛ましく唾棄すべきものに変えてしまうのでしょうか? 

どうして権力は、ほとんど必ずといっていいほど、精神の堕落と結びついてしまうのでしょうか?」

http://yorimichim.exblog.jp/6623935/


レーニンは梅毒だった?英国の医療専門誌


ソ連建国の父、レーニンは不治の病とされた梅毒で死亡したとする説を、イスラエルの医師団が英国の医療専門誌「欧州神経学ジャーナル」で公表した。

レーニンは1924年、脳梗塞(こうそく)による動脈硬化症で死亡したとされているが、医師団がカルテや検視解剖書、主治医らの回想を基に「再診」した結果、梅毒治療薬「サルバルサン」を投与されていたことが判明した。

同誌は、レーニンが晩年苦しんだ頭痛や神経障害、思考力低下は梅毒患者の症状と合致すると述べた。

また、専属の医師団の中に性病専門家が含まれていたことや、血液検査の結果がすべて焼却されていたことも分かったという。

http://2009.itainews.com/archives/cat62/5306

レーニンは暗殺の試み、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。

モスクワ郊外のゴールキ(現在のゴールキ・レーニンスキエ)の別荘でレーニンは静養生活に入った。レーニンを診察するために、海外からオトフリート・フェルスター、ゲオルク・クレンペラーらの著名な脳医学者が高額の報酬で雇われ、鎮静剤として臭化カリウムなどが投与された。レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。クループスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去した。

動脈硬化がかなり進んでいた!?


右手と右半身の麻痺、そして言語障害。レーニンの病気はその症状から見て脳血管障害であったことは確かなようです。脳の血管が破れる脳出血か、脳の動脈が詰まる脳梗塞のどちらかであった可能性が高いでしょう。右半身に麻痺が出たことから、左側の脳に障害が生じたと考えられます。左側の脳は、体の右側の運動機能と言葉の発声や理解を司っているからです。言葉が思うように話せなくなることは、政治家として致命的なダメージで、レーニンの無念さはどれほどだったでしょうか。発作を起こした8ヵ月後に第4回コミンテルン大会で演説したとき、レーニンは口ごもりながらぎこちなく話し、動作も鈍くてロボットのようだったと出席者は伝えています。脳血管障害は動脈硬化が引き金となりますが、それは、塩分の取りすぎ、高血圧、高脂血症、糖尿病、喫煙、心臓疾患などが原因で悪化していきます。レーニンの場合は、父親も脳卒中で55歳の生涯を閉じていますから、この遺伝的要素も原因の一つでしょう。

ロシア人は、質素な食事に、酒、タバコ?


極寒の地で、その日の食べ物にも事欠く貧しい農民があふれていたロシア。レーニンの革命の背景には人々の困窮する姿がありました。彼自身は決して貧困層ではなく、母方の祖父は医者であり、父は小学校の校長にまで上り詰めています。それでもロシアという土地全土が、豊かな農作物を1年中手に入れられる気候ではなく、家畜の飼料さえも乏しく、ごく一部の特権階級をのぞいては本当に質素な食事をしていたようです。

正義感の強かったレーニンも、栄養たっぷりのバランスがいい食事を贅沢に取っていたとは思えません。ロシアには「シチ(キャベツのスープ)のためなら人は結婚する」という諺があるとか。レーニンが生きた1850年〜1930年頃のロシアでは、きのこやジャガイモなどの野菜、わずかな肉、穀類などが中心。一見すると健康的ですが、血管を強くするたんぱく質の量がかなり少なかったようです。
そして寒さをしのぐウォッカ、長い冬を紛らわせるタバコ、重ねて運動不足。レーニンもこの例に漏れなかったとしたら、そして過度な政治的ストレスが加わり続けていたとしたら、動脈硬化への道を突き進んでいたことは間違いないでしょう。

レーニンの治療とリハビリは?


レーニンの最初の発作は51歳ですが、実はその前から目立ったヒステリーのような症状があったとポルシェビキの元幹部で医師でもあった人物が記録しているそうです。それは革命を成し遂げたその翌年、47,8歳の頃。レーニンは議会のあと奇妙なヒステリー状態に陥り、数時間笑い続けていたといいます。また同年の夏にある蜂起を鎮圧し、その直後にもヒステリーを起こして何時間も、ただただ笑い続けていたとか。何かの兆候が、発作の2〜3年前から現れていたのでしょうか。この頃すでにレーニンは頭痛や神経衰弱のつらさを訴え始めていたようです。

最初の脳卒中の発作後、レーニンのために国内外から神経科医、精神分析医、脳外科医などが高額な報酬で招かれ診察を行った記録が残されています。しかし、時すでに遅し。症状は悪化の一途をたどりました。晩年のリハビリには、小学校低学年レベルの二桁掛け算問題を日課にしていたようですが、一問解くのに数時間はかかったといわれています。

もしレーニンが動脈硬化の予防知識をもっていたら、脳血管障害の適切な治療がなされていたら、スターリンによる独裁へは至らなかったのでしょうか。「歴史は動脈硬化によって変わる」なんて、レーニンは夢にも思わなかったでしょう。

http://sageru.jp/lsd/episode/003.html


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ソ連末期のグラスノスチ以後に公開された文書により、革命直後から内戦の時期にかけてレーニンが政敵に対して使っていたテロルの実態が明らかになると、レーニンは単なるスターリンの先駆けにすぎないのではなくスターリンと同等の独裁者として評価されることが多くなった。


レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した27人の内科医のうち検死報告書に署名をしたのは8人だった。この事は梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は1人のみだった。

フェルスターらが立ち会って死の翌日に行われた病理解剖では、椎骨動脈、脳底動脈、内頸動脈、前大脳動脈、頭蓋内左頸動脈、左シルビウス動脈の硬化・閉塞が認められ、左脳の大半は壊死して空洞ができていた。また、心臓などの循環器にも強い動脈硬化が確認されている。

なお、レーニンの父イリヤ、姉アンナ(1864年 - 1935年)、弟ドミートリー(1874年 - 1943年)はいずれも脳出血により死去していることから、レーニンの動脈硬化は遺伝的要素が強いと考えられている(革命家としてのストレスもそれに拍車をかけた)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3


レーニンの実像  


ロシアではグラスノスチによって、神聖不可侵だったレーニンの実像を知る手がかりが次第に明らかにされつつある。共産党中央委員会が管理していたマルクス・レーニン主義研究所所属の古文書館に「秘密」のスタンプが押された3724点におよぶレーニン関連の未公開資料が保存されていたことも判明し、民主派の歴史学者の手によってその公開が進みつつある。

 これらの資料のうちの一部は、ソ連崩壊以前からグラスノスチ政策によって公開されていた。そのうちのひとつが、私が月刊『現代』91年10月号誌上で全文を公表した、1922年3月19日付のレーニンの秘密指令書である。改めてここでその内容を紹介しておこう(翻訳全文は拙著『あらかじめ裏切られた革命』に所収)。


 22年当時、ロシアは革命とそれに続く内戦のために、国中が荒廃し、未曾有の大飢饉に見舞われていた。そんな時期に、イワノヴォ州のシューヤという町で、ボリシェヴィキが協会財産を没収しようとしたところ、聖職者が信徒の農民たちが抵抗するという「事件」が起きた。報告を受けたレーニンは、共産党の独裁を確立する最大の障害の一つだった協会を弾圧する「口実ができた」と喜び、協会財産を力ずくで奪い、見せしめのための処刑を行い、徹底的な弾圧を加えよと厳命を下したのである。以下、その命令書の一部を抜粋する。

<我々にとって願ってもない好都合の、しかも唯一のチャンスで、九分九厘、敵を粉砕し、先ゆき数十年にわたって地盤を確保することができます。まさに今、飢えた地方では人をくい、道路には数千でなければ数百もの死体がころがっているこの時こそ、協会財産をいかなる抵抗にもひるむことなく、力ずくで、容赦なく没収できる(それ故、しなければならないのです>

<これを口実に銃殺できる反動聖職者と反動ブルジョワは多ければ多いほどよい。今こそ奴らに、以後数十年にわたっていかなる抵抗も、それを思うことさえ不可能であると教えてやらねばならない>


おぞましい表現に満ちたこの秘密書簡は、『ソ連共産党中央委員会会報』誌90年4月号に掲載され、一般に公開された。党中央委ですら、90年の時点で、レーニンが直接命じた残忍なテロルの事実の一端を、公式に認める判断を下したわけである。

 アナトリー・ラトゥイシェフという歴史家がいる。未公開のレーニン資料の発掘に携わっている数少ない人物で、同じくレーニン研究に携わっていた軍事史家のヴォルコゴーノフが、95年12月に他界してからは、この分野の第一人者と目されており、研究成果をまとめた『秘密解除されたレーニン』(未邦訳)という著書を96年に上梓したばかりだ。モスクワ在住の友人を通じて、彼にあてて二度にわたって質問を送ったところ、氏から詳細な回答を得るとともに、氏の好意で著書と過去に発表した論文や新聞インタビュー等の資料をいただいた。以下、それらのデータにもとづいて、レーニンの実像の一端に迫ってみる(「 」内は氏の手紙および著書・論文からの引用であり、< >内はレーニン自身の書いた文章から直接の引用である。翻訳は内山紀子、鈴木明、中神美砂、吉野武昭各氏による)。

まずは、ラトゥイシェフからの手紙の一節を紹介しよう。


「残酷さは、レーニンの最も本質をなすものでした。レーニンはことあるごとに感傷とか哀れみといった感情を憎み、攻撃し続けてきましたが、私自身は、彼には哀れみや同情といった感情を感受する器官がそもそも欠けていたのではないか、とすら思っています。残酷さという点ではレーニンは、ヒトラーやスターリンよりもひどい」


「レーニンはヒトラーよりも残酷だった」という主張の根拠として、ラトゥイシェフはまず、彼自身が古文書館で「発掘」し、はじめて公表した、1919年10月22日付のトロツキーあての命令書をあげる。

<もし総攻撃が始まったら、さらに2万人のペテルブルグの労働者に加えて、1万人のブルジョワたちを動員することはできないだろうか。そして彼らの後ろに機関銃を置いて、数百人を射殺して、ユデニッチに本格的な大打撃を与えることは実現できないだろうか>

 ユデニッチとは、白軍の将軍の一人である。白軍との内戦において、「ブルジョワ」市民を「人間の盾」として用いよと、レーニンは赤軍の指導者だったトロツキーに命じているのである。

「ヒトラーは、対ソ戦の際にソ連軍の捕虜を自軍の前に立たせて『生きた人間の盾』として用いました」と、ラトゥイシェフ氏は私宛ての手紙に書いている。

「しかし、ヒトラーですら『背後から機関銃で撃ちながら突進せよ』などとは命令しなかったし、もちろん、自国民を『盾』に使うことはなかった。レーニンは自国民を『人間の盾』に使い、背後から撃つように命じている。ヒトラーもやらなかったことをレーニンがやったというのはこういうことです。しかも、『人間の盾』に用いられ、背後から撃たれる運命となった人たちは犯罪者ではない。あて彼らの『罪』を探すとすれば、それはただひとつ、プロレタリア階級の出身ではなかったということだけです。しかし、そういう人々の生命を虫ケラほどにも思わず、殺すことを命じたレーニン自身は、世襲貴族の息子だったのです」

レーニンが「敵」とみなしていたのは、「ブルジョワ階級」だけではない。聖職者も信徒も、彼にとっては憎むべき「敵」だった。従来の党公認のレーニン伝には、革命から2年後の冬、燃料となる薪を貨車へ積み込む作業が滞っていることにレーニンが腹を立て、部下を叱咤するために書いた手紙が掲載されてきた。

<「ニコライ」に妥協するのは馬鹿げたことだ。――ただちに緊急措置を要する。

 一、出荷量を増やすこと。

 二、復活祭と新年の祝いのために仕事を休むことを防ぐこと。>

「ニコライ」とは、12月19日の「聖ニコライの祭日」のことである。この日、敬虔(けいけん)なロシア正教徒は――ということは当時のロシア国民の大半は――長年の習慣に従って、仕事を休み、祈りを捧げるために教会へ足を運んだに違いない。レーニンはこの日、労働者が仕事を休んだのはけしからんと述べているわけだが、そのために要請した緊急措置は、この文書を読むかぎりとりたてて過激なものではないように思える。しかし実は、この手紙は公開に際して改竄(かいざん)が施されていた。古文書館に保存されていた、19年12月25日付書簡の原文には、先のテクストの「――」部分に以下の一文が入っていたのである。

<チェーカー(反革命・サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会=KGBの前身の機関)をすべて動員し、「ニコライ」で仕事に出なかったものは銃殺すべきだ>

 レーニンの要請した「緊急措置」とは、秘密警察を動員しての、問答無用の銃殺だったのだ――。


 この短い書簡の封印を解き、最初に公表したのは、今は亡きヴォルコゴーノフで、彼の最後の著書『七人の指導者』(未邦訳)に収められている。ラトゥイシェフは、私宛ての手紙で『七人の指導者』のどのページにこの書簡が出ているか示すとともに、こういうコメントを寄せてきている。


「この薪の積み込み作業に動員されたのは、帝政時代の元将校や芸術家、インテリ、実業家などの『ブルジョワ』層でした。財産を奪われた彼らは、着のみ着のままで、この苦役に強制的に従事させられていたのです。彼らにとって『聖ニコライの日』は、つかの間の安息日だったことでしょう。レーニンは無慈悲にも、わずかな安息を求め、伝統の習慣に従っただけの不幸な人々を『聖ニコライの日』から一週間もたってから、その日に休んだのは犯罪であるなどと事後的に言い出し、銃殺に処すように命じたのです」


内部に胚胎していた冷血


 ひょっとすると、このような事実を前にしてもなお、以下のような反論を試みようとする人々が現れるかもしれない。


――レーニンはたしかに「敵」に対しては、容赦なく、残酷な手段を用いて戦ったかもしれない。しかしそれは革命直後の、白軍との内戦時の話だ。戦争という非常時においては、誰でも多かれ少なかれ、残酷になりうる。歴史の進歩のための戦いに勝ち抜くにはこうした手段もやむをえなかったのだ――。

 いかにも最もらしく思える言い分だが、これも事実と異なる。レーニンの残酷さや冷血ぶりは、内戦時のみ発揮されたわけではない。そうした思想(あるいは生理)は、ウラジーミル・イリイッチ・ウリヤーノフが「レーニン」と名乗るはるか以前から、彼の内部に胚胎していたのだ。

 話は血なまぐさい内戦の時代から約30年ほど昔に遡る。1891年、レーニンが21歳を迎えたその年、沿ヴォルガ地方は大規模な飢饉に見舞われた。このとき、地元のインテリ層の間で、飢餓に苦しむ人々に対して社会的援助を行おうとする動きがわきあがったが、その中でただ一人、反対する若者がいた。ウラジーミル・ウリヤーノフである。以下、『秘密解除されたレーニン』から引用する。

「『レーニンの青年時代』と題する、A・ペリャコフの著書を見てみよう(中略)それによれば、彼(レーニン)はこう発言していたのだ。


『あえて公言しよう。飢餓によって産業プロレタリアートが、このブルジョワ体制の墓掘人が、生まれるのであって、これは進歩的な現象である。なぜならそれは工業の発展を促進し、資本主義を通じて我々を最終目的、社会主義に導くからである――飢えは農民経済を破壊し、同時にツァーのみならず神への信仰をも打ち砕くであろう。そして時を経るにしたがってもちろん、農民達を革命への道へと押しやるのだ――』」

 ここの農民の苦しみなど一顧だにせず、革命という目的のためにそれを利用しようとするレーニンの姿勢は、すでに21歳のときには確固たるものとなっていたのだ。

 また、レーニンは『一歩前進、二歩後退』の中で自ら「ジャコバン派」と開き直り、党内の反対派を「日和見主義的なジロンド派」とののしっているが、実際に血のギロチンのジャコバン主義的暴力を、17年の革命に先んじて、1905年の蜂起の時点で実行に移している。再び『秘密解除されたレーニン』から一節を引こう。

「このボリシェヴィキの指導者が、(亡命先の)ジュネーブから、1905年のモスクワでの『12月蜂起』前夜に、何という凶暴な言葉で、ならず者とまったく変わらぬ行動を呼びかけていたことか!(中略)


『全員が手に入れられる何かを持つこと(鉄砲、ピストル、爆弾、ナイフ、メリケンサック、鉄棒、放火用のガソリンを染み込ませたボロ布、縄もしくは縄梯子、バリケードを築くためのシャベル、爆弾、有刺鉄線、対騎兵隊用の釘、等々)』(中略)


『仕事は山とある。しかもその仕事は誰にでもできる。路上の戦闘にまったく不向きな者、女、子供、老人などのごく弱い人間にも可能な、大いに役立つ仕事である』(中略)


『ある者達はスパイの殺害、警察署の爆破にとりかかり、またある者は銀行を襲撃し、蜂起のための資金を没収する』(中略)建物の上部から『軍隊に石を投げつけ、熱湯をかけ』、『警官に酸を浴びせる』のもよかろう」


「目を閉じて、そのありさまを想像してみよう。有刺鉄線や釘を使って何頭かの馬をやっつけたあと、子供達はもっと熟練のいる仕事にとりかかる。用意した容器を使って、硫酸やら塩酸を警官に浴びせかけ、火傷を負わせたり盲人にしたりしはじめるのだ。

(中略)そのときレーニンはこの子供達を真のデモクラットと呼び、見せかけだけのデモクラット、『口先だけのリベラル派』と区別するのだ」

彼の価値観はきわめて「ユニーク」で、「警官に硫酸をかけなさい」という教えだったのだ。

よく知られている話だが、1898年から3年間、シベリアへ流刑に処されたとき、レーニンは狩猟に熱中していた。この狩猟の趣味に関して、レーニンの妻、クループスカヤは『レーニンの思い出』の中で、エニセイ川の中洲に取り残されて、逃げ場を失った哀れなウサギの群れを見つけると、レーニンは片っ端から撃ち殺し、ボートがいっぱいになるまで積み上げたというエピソードを記している。


 何のために、逃げられないウサギを皆殺しにしなくてはならないのか?これはもはや、ゲームとしての狩猟とはいえない。もちろん、生活のために仕方なく行なっている必要最小限度の殺生でもない。ごく小規模ではあるが、まぎれもなくジェノサイドである。レーニンの「動物好き」とは、気まぐれに犬を撫でることもあれば、気まぐれにウサギを皆殺しにすることもある、その程度のものにすぎない。


「レーニンは疑いなく脳を病んでいた人でした。特に十月革命の直後からは、その傾向が顕著にあらわれるようになります。1918年1月19日に、憲法を制定するという公約を反古にして、憲法制定会議を解散させたあと、レーニンはヒステリー状態に陥り、数時間も笑い続けました。また、18年の7月、エス・エルの蜂起を鎮圧したあとでも、ヒステリーを起こして何時間も笑い続けたそうです。こうした話は、ボリシェヴィキの元幹部で、作家であり、医師でもあったボグダーノフが、レーニンの症状を診察し、記録に残しています」


 レーニンの灰色の脳は病んでいた。彼は「狂気」にとりつかれていたのだ。ここでいう「狂気」とはもちろん、陳腐な「文字的」レトリックとしての「狂気」でも、中沢氏のいう「聖なる狂気」のことでもない。いかなる神秘ともロマンティシズムとも無縁の、文字通りの病いである。

 頭痛や神経衰弱を訴え続けていたレーニンは、1922年になると、脳溢血の発作を起こし、静養を余儀なくされるようになった。ソ連国内だけでなく、ドイツをはじめとする外国から、神経科医、精神分析医、脳外科医などが招かれ、高額な報酬を受け取ってレーニンの診察を行った。そうした診察費用の支払い明細や領収書、カルテなどが、古文書館で発見されている。


 懸命な治療にもかかわらず、レーニンの病状は悪化の一途をたどり、知的能力は甚だしく衰えた。晩年はリハビリのため、小学校低学年レベルの二ケタの掛け算の問題に取り組んだが、一問解くのに数時間を要した。にもかかわらず、その間も決して休むことなく、彼は誕生したばかりの人類史上最初の社会主義国家の建設と発展のために、毎日、誰を国外追放にせよ、誰を銃殺しろといった「重要課題」を決定し続けた。二ケタの掛け算のできない病人のサイン一つで、途方もない数の人間の運命が決定されていったのである。

そしてこの時期、もう一つの重大事が決定されようとしていた。レーニンの後継者問題である。1922年12月13日に、脳血栓症の二度目の発作で倒れたあと、レーニンは数回に分けて「遺書」を口述した。とりわけ、22年1月4日に「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間や彼らの相互の交際では充分我慢できるが、書記長の職務にあっては我慢できないものとなる」として、スターリンを党書記長のポストから解任するよう求めた追記の一節が、のちに政治的にきわめて重要な意味をもつこととなった。

 ラトゥイシェフはレーニンとスターリンの関係についてこう述べる。


「よく知られている通り、レーニンは『遺書』の中でスターリンを批判しました。そのため、レーニンは、スターリンの粗暴で残酷な資質を見抜いており、もともと後継者として認めていなかったのだという解釈が生まれ、それがスターリン主義体制は、レーニン主義からの逸脱であるとみなす論拠に用いられるようになりました。しかしこれは『神話』なのです。レーニンの『神話』の中で最も根強いものの一つです。

 レーニンがスターリンを死の間際に手紙で批判したのは、スターリンがクループスカヤに対して粗暴な態度をとったという個人的な怒りからです。スターリンがそのような態度をとったのは、衰弱の一途をたどるレーニンを見て、回復の見込みはないと判断して見切りをつけたからでした。しかしそれまではグルジア問題などで対立することはあっても、スターリンこそレーニンの最も信頼する”友人”であり、忠実で従順な”弟子”でした。レーニンが静養していたゴーリキーに最も足繁く通っていたのはスターリンであり、彼はレーニンのメッセージを他の幹部に伝えることで、彼自身の権力基盤を固めていったのです」

たしかに「遺書」では、レーニンはスターリンを「粗暴」と評しているが、別の場面では、まったく正反対に「スターリンは軟弱だ」と腹を立てていたという証言もある。元政治局員のモロトフは、詩人のフェリックス・チュエフの「レーニンとスターリンのどちらが厳格だったか?」という質問に対して、「もちろん、レーニンです」と答えている。このモロトフの言葉を『秘密解除されたレーニン』から引用しよう。


「『彼(レーニン)は、必要とあらば、極端な手段に走ることがまれではなかった。タンボフ県の暴動の際には、すべてを焼き払って鎮圧することを命じました。(中略)

彼がスターリンを弱腰だ、寛大すぎる、と言って責めていたのを覚えています。『あなたの独裁とはなんです? あなたのは軟弱な政権であって、独裁ではない!』と」

 あのスターリンを「軟弱だ」と叱責したレーニンの考えていた「独裁」とは、ではどういうものであったか? この定義は、何も秘密ではない。レーニン全集にはっきりとこう書かれている。


「独裁の科学的概念とは、いかなる法にも、いかなる絶対的支配にも拘束されることのない、そして直接に武力によって自らを保持している、無制限的政府のことにほかならない。これこそまさしく、『独裁』という概念の意味である」

 こんな明快な定義が他にあるだろうか。
 法の制約を受けない暴力によって維持される無制限の権力。これがレーニンが定式化し、実践した「独裁」である。スターリンは、レーニン主義のすべてを学び、我がものとしたにすぎないのだ。


 ラトゥイシェフはこう述べている。

「独裁もテロルも、レーニンが始めたことです。強制収容所も秘密警察もレーニンの命令によって作られました。スターリンはその遺産を引き継いだにすぎません。もっとも、テロルの用い方には、二人の間に相違もみられます。スターリンは、粗野で、知的には平凡な人物でしたが、精神的には安定しており、ある意味では『人間的』でした。彼は政敵を粛清する際には、遺族に復讐されないように、一族すべて殺したり、収容所送りにするという手段を多用しました。もちろん残酷きわまりないのですが、少なくとも彼には人間を殺しているという自覚がありました。しかし、レーニンは違う。彼は知的には優れた人物ですが、精神的にはきわめて不安定であり、テロルの対象となる相手を人間とはみなしていなかったと思われます。

彼の命令書には


『誰でもいいから、100人殺せ』とか

『千人殺せ』とか

『一万人を「人間の盾」にしろ』


といった表現が頻出します。彼は誰が殺されるか、殺される人物に罪があるかどうかということにまるで関心を払わず、しかも『100人』『千人』という区切りのいい『数』で指示しました。彼にとって殺すべき相手は匿名の数量でしかなかったのです。

人間としての感情が、ここには決定的に欠落しています。私が知る限り、こうした非人間的な残酷さという点では、レーニンと肩を並べるのはポル・ポトぐらいしか存在しません」

 ラトゥイシェフの言葉を細くすれば、レーニンとポル・ポトだけでなく、ここにもうひとり麻原彰晃をつけ加えることができる。麻原が指示したテロルには、個人を狙った「人点的」なものもあったが、最終的には彼は日本人の大半を殺害する「予定」でいたわけであり、これは「人間的」なテロルの次元をはるかに超えている。

暴力革命を志向するセクトやカルト教団の党員や信徒達は厳しい禁欲を強いられるものの、そうした組織に君臨する独裁者や幹部達が、狂信的なエクステリミストであると同時に、世俗の欲望まみれの俗物であることは少しも意外なことではない。サリンによる狂気のジェノサイドを命じた麻原は、周知の通り、教団内ではメロンをたらふく食う俗物そのものの日々を送っていたのであるが、この点もレーニンはまったく変わりはなかった。

 レーニンが麻原同様の俗物? そんな馬鹿な、と驚く人は少なくあるまい。レーニンにはストイックなイメージがあり、彼に対しては、まったく正反対の思想の持ち主でさえも、畏敬の念を抱いてしまうところがある。彼は己の信じる大義のために生命をかけて戦い抜いたのであり、私利私欲を満たそうとしたのではない、生涯を通じて彼は潔癖で清貧を貫いた、誰もがそう信じて今の今まで疑わなかった。そしてその点こそが、レーニンとそれ以外の私腹を肥やすことに血道をあげた腐った党指導者・幹部を分かつ分断線だった

 ところが、発掘された資料は、それが虚構にすぎなかったことを証明しているのである。1922年5月にスターリンにあてたレーニンのメッセージを公開しよう。


<同志スターリン。ところでそろそろモスクワから600ヴェルスト(約640キロメートル)以内に、一、二ヶ所、模範的な保養所を作ってもよいのではないか? 

そのためには金を使うこと。また、やむをえないドイツ行きにも、今後ずっとそれを使うこと。

しかし模範的と認めるのは、おきまりのソビエトの粗忽者やぐうたらではなく、几帳面で厳格な医者と管理者を擁することが可能と証明されたところだけにすべきです。

 5月19日     レーニン>


この書簡には、さらに続きがある。


<追伸 マル秘。貴殿やカーメネフ、ジェルジンスキーの別荘を設けたズバローヴォに、私の別荘が秋頃にできあがるが、汽車が完璧に定期運行できるようにしなければならない。それによって、お互いの間の安上がりのつきあいが年中可能となる。私の話を書きとめ、検討して下さい。また、隣接してソフホーズ(集団農場)を育成すること>

 


自分達、一握りの幹部のために別荘を建て、交通の便をはかるために鉄道を敷き、専用の食糧を供給する特別なソフホーズまでつくる。

こうした特権の習慣は、後進たちに受け継がれた。その結果、汚職と腐敗のために、国家の背骨が歪み、ついには亡国に至ったのである。その原因は、誰よりもレーニンにあった。禁欲的で清貧な指導者という、レーニン神話の中で最後まで残った最大の神話はついえた。レーニンは、メロンをむさぼり食らう麻原と何も変わりはなかったのである。


http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/nakazawa.htm

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コメント
 
1. 中川隆[3037] koaQ7Jey 2016年6月22日 20:24:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3371]
2016-06-22
永田洋子と重信房子のふたりの呪いと日本人の共産主義嫌悪

日本共産党と言えば、1946年に「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という「51年綱領」で次々と暴力的破壊行為を繰り広げた狂気の政党であるのを知らない人は減った。

さらに日本共産党と言えば、すぐに「連合赤軍」を想い出す人もいる。高齢者の中には、1971年の「あさま山荘事件」の衝撃を今も鮮明に覚えている人が多い。

あさま山荘事件の凄絶な暴力が映像として残っているが、その後、次々と明らかになった「総括」と称する凄絶な殺戮に世間は息を飲んだ。

この連合赤軍は、日本共産党と共産主義者同盟赤軍派が合体したテロ組織だった。最高幹部のは永田洋子(ながた・ひろこ)という気味が悪い女で、後にこの女が凄惨なリンチ事件の首謀者だったことが分かる。

殺されたのは12人で、全員が20代だった。遺体は激しい暴行を受けた痕があって、男か女かも見分けがつかないほどだった。永田洋子はこの連合赤軍の幹部であり、「総括」を主導したひとりだった。


意見の違う仲間を「総括」と称してリンチしていた

永田洋子は、大学に入った頃から共産主義の思想にかぶれていき、その後は日本共産党の神奈川県委員会のメンバーとなった人物である。

1970年に最高指導者となって、1971年に共産主義者同盟赤軍派と連携して「連合赤軍」を結成した。

もっとも、この連合赤軍は何かの活動をしていたわけではなく、警察に追われて逃げ回って意見の違う仲間を「総括」と称して、次々とリンチにかけて殺していただけの呆れた共産主義的殺人集団である。

「総括」というのは、共産主義ではよく使われる言葉だ。今でも使われている。

「総括」し、「自己批判」するというのは、革命において自分のやった行為を分析し、それに対して自分のミスや失敗があった場合、それを公の場で自分自身を批判するということだ。

中国共産党でもカンボジア・ポルポト政権の内部でも、体制批判者には「自己批判せよ」という激しい言葉が飛び交う世界であったことは歴史に残っている。

やがて「総括」や「自己批判」という言葉は、それぞれの国で、誰かを吊るし上げる道具となって先鋭化していくものになった。

これが共産主義というグループの特徴だ。異論を認めず、異論を出した人間は仲間であれ何であれ、徹底的に弾圧する。

中国の文化革命の中では四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)ら文革派が、批判者を片っ端から自己批判させて公衆の前に引き回していた。

カンボジアでも、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)内部でイエン・サリとポル・ポトと対立する幹部が片っ端から自己批判を強制されて殺されていった。いや、殺されたという表現は違う。

薄気味悪い左翼用語では、これを「粛清」と表現する。

連合赤軍でも同様だった。左翼闘争の中であちこちの組織が集合して1971年に最終的に連合赤軍という組織になると、そこでいくつもの暴力事件が起こされて、それについて「総括」がなされ「粛清」がなされた。

永田洋子。連合赤軍幹部で、あさま山荘事件でリンチを主導した女。2011年2月5日に刑務所で死亡。


「腹を引き裂いて子供を引きずり出そうかどうか」

「総括」も「粛清」も共産主義の伝統だ。

自分に敵対する人間は決して許さない。共産党には民主的な空気はない。指導者は自分の政敵となる人間は物理的に始末する。それが共産主義の文化なのだ。

たとえば、ソビエト社会主義共和国連邦のヨシフ・スターリンは少しでも自分に敵対する人間を片っ端から「粛清」と称して殺していった殺人鬼だった。

1953年にスターリンが死ぬまで、高級幹部はことごとく銃殺されていった。

このヨシフ・スターリンの行った「大粛清」は100万人以上にも及んだと言われている。そのため「ヨシフ」という名前は、世界では愚鈍な殺人狂か、馬鹿の象徴でもある。

共産主義の総本山だったソビエト連邦でこれだから、日本の共産主義者が仲間を粛清したとしても何ら驚きはない。

連合赤軍でも、指導者である永田洋子や森恒夫を批判したり敵対したり逃亡したりした人間は、次々とリンチにかけられて殺されていった。

それは自己批判した人間を縛りつけ、集団で殴りつけ、裸にして外に放り出すというものであった。凍死したら穴を掘って埋め、逃げたら捕まえて「総括」する。

「総括」して「自己批判」して「内ゲバ」して「粛清」する。

妊娠8ヶ月の女性の仲間もめちゃめちゃに殴りつけ、永田洋子は腫れ上がって変形した顔をわざわざ鏡で本人に見せたという。

彼女が死んだ時に議論になったのは、「腹を引き裂いて子供を引きずり出そうかどうか」ということだった。

それに何の意味があって、なぜ議論になるのか一般人には分からないが、共産主義者には大切なことだったのだろう。

内ゲバを主導していた森恒夫は刑務所で正気になったのか、これを「狂気」と表現し、1973年1月1日に東京拘置所で自殺している。

「あの時、ああいう行動をとったのは一種の狂気であり自分が狂気の世界にいたことは事実だ。 私は亡き同志、他のメンバーに対し、死をもって償わなければならない」

連合赤軍の元最高幹部だった永田洋子が死んだのは2011年2月5日だった。この女は最期まで死ぬのを怖がって、頭がおかしくなって肺炎で死んだ。

日本人の誰もが左翼にも革命にも嫌悪

1960年後半の新聞を拾い読みしていくと、このような左翼革命派の極端な事件は連日のように報道されていて、それが何年も続いているのに気がつく。

永田洋子は国内に残った赤軍だが、「日本赤軍」の重信房子(しげのぶ・ふさこ)は海外に出ている。拠点はパレスチナである。

偽装結婚した奥平剛士は1972年5月に計100人を無差別殺戮した「ロッド空港乱射事件(テルアビブ空港乱射事件)」の犯人であるのはよく知られている。

この空港乱射事件は国際的にも激しい批判にさらされることになったが、日本人の衝撃もまた激しかった。

何しろ、日本人が世界からテロリスト扱いされることになったのである。

当時の日本は高度成長を享受して、もうほとんどの国民が馬鹿げた共産主義革命よりも物質的満足の追求に走っていた。いい迷惑だったことだろう。

日本において共産主義が決定的に嫌悪されるようになっていったのは、この永田洋子と重信房子という二人の女性が関わった事件が原因だと言える。

1970年前半には、もう日本人の誰もが共産主義にも共産党にも革命にも嫌悪していたはずだ。

政府批判のデモ、暴力デモ、民衆暴力による政権打倒、といういわゆる「政治闘争」は、年配者になればなるほど拒絶感も嫌悪感も強く持っている。


リンチだとか、ヨシフだとか、共産党だとか、そんな世界を聞いたら、そこからは離れた方がいい。ろくな結果にならないからである。

重信房子。日本赤軍幹部。日本において共産主義が決定的に嫌悪されるようになっていったのは、この永田洋子と重信房子という二人の女性が関わった事件が原因だと言える。
http://www.bllackz.com/?m=c&c=20110210T2051000900


2. 中川隆[-7805] koaQ7Jey 2017年5月05日 10:07:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

朝鮮半島の危機 2017-05-05

 フランス大統領選挙(決選投票)が二日後に迫ってきていますが、実はその後、つまりは5月9日、フランス大統領選挙以上に我が国に影響を与える「選挙」が行われます。


 すなわち、韓国大統領選挙です。


 韓国大統領選挙は、一時は安哲秀が文在寅に迫ったのですが、急速に失速。冗談でも何でもなく、このタイミングで「親北朝鮮」というか、北朝鮮のスパイにしか思えない候補が、韓国大統領の座に王手をかけています。


『韓国大統領選 最大野党の文候補大幅リード
http://www.news24.jp/articles/2017/05/03/10360527.html

 韓国の朴槿恵前大統領が罷免されたことに伴う大統領選挙を今月9日に控え、3日に発表された投票前最後の世論調査で、最大野党の文在寅候補が支持率42.2%と大きくリード。安哲秀候補は18.6%と失速、北朝鮮により厳しい姿勢の候補に支持が流れたか。(後略)』


 安哲秀の失速は、皮肉な話ですが、北朝鮮危機が深刻化するに連れ、彼よりも対北政策が厳しい洪準杓に、保守派の支持が流れてしまっているためです。


 安哲秀と洪準杓の支持率を合わせると、文在寅に迫ります。保守派が候補を統一することができたならば、勝負になるかも知れませんが、既に手遅れです。


 文在寅が韓国大統領の座を射止める可能性は、現時点では極めて濃厚になっています。


 文在寅は、朝鮮戦争の際に北から逃げてきた両親の下で、韓国に生まれました。


 チェ・スンシル事件の関連で、朴槿恵大統領の弾劾手続きが進んでいたとき、文在寅は、
「(憲法裁判所が弾劾訴追案を棄却すれば)革命しかない」
 と、発言しました。


 それ以外にも、
「似非保守を火で焼き払え」
「国の大掃除が必要だ」
「(大統領に当選した場合)米国よりも北朝鮮に先に行く」
 などなど、文在寅は親北発言、あるいは「革命」的な発言を連発しています。


 さらに、文在寅は「戦時作戦統制権」について、韓国が持つこととする。THAAD(終末高高度防衛ミサイル)の配備は、先送りする。


 と、明らかに北朝鮮を利する公約を堂々と掲げているのです。それで、現時点で支持率トップ・・・。


 文在寅の支持層を見ると、20代、30代、40代が50%超と高く、50代以降はガクッと減ります。つまり、文在寅を支持している中心層は、韓国の若い世代なのです。


 「恋愛」「結婚」「出産」「マイホーム」「人間関係」「夢」「就職」の7つを諦めざるを得ない、韓国の若い世代。いわゆる「七放世代」という言葉で総称される韓国の若者たちが、文在寅を支持しているわけです。


 そして、なぜ韓国の若年層失業率が高く、七放世代といった言葉が生まれるほどに困窮してしまったのかといえば、もちろん「グローバリズム」の影響です。韓国は、97年のアジア通貨危機の際にIMF管理に陥り、グローバリズムの優等生として生まれ変わりました。


 結果的に、日本以上にグローバル化が進み、国内が少数の勝ち組(財閥オーナー、オーナー家族、役員など)と大多数の負け組に分断されていきました。


 グローバリズムが国内の格差を拡大し、「革命家」と呼んでも過言ではないような人物が、政権の頂点に立とうとしている。


 カール・マルクスは、自由競争が「古い経済生活と古い半家父長制的諸関係」の破砕を促進すると指摘し、
「ただこの意味でのみ、諸君、私は自由貿易に賛成するものなのである。」
 と、語ったと、レーニンが書き残しています。


 要するに、自由貿易が保守的な社会を壊し、革命の下地ができるという話なのでしょうが、そのままの光景を、我々は玄界灘の向こう側に見ているのです。


 北朝鮮危機に加え、日本は韓国で文在寅大統領が誕生し、廬武鉉を超える親北政策を推進するという、「朝鮮半島の危機」に備える必要があると考えるべきです。
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12271785222.html


3. 中川隆[-7693] koaQ7Jey 2017年5月14日 13:12:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

レーニンの大量殺人総合データと殺人指令27通
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/leninsatujin.htm

4年7カ月間で最高権力者がしたこと
1918年5月13日食糧独裁令〜1922年12月16日第2回発作


4. 中川隆[-6052] koaQ7Jey 2017年11月05日 13:34:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


ロシア革命の始まり 皇帝は自ら災厄を招いた


市民運動に皇帝が同調したため勢いづき、革命に発展した
引用:http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22976000195.jpg

優柔不断な皇帝と革命農民

最後のロシア皇帝ニコライ2世は一言でいえば、優柔不断なうえに騙されやすかったと言われている。

例えば自分で決めた事でも前日に母親が意見を言うと変更し、当日に妻が苦情を言うとまた変更してしまった。

こうした突然の変更は、抗議を聞きたくないので他の人に無断で行われ、その度に皇帝は信用を失った。


優柔不断なのに騙されやすく、信じてはいけない相手ほど簡単に信じる傾向があった。

事実を告げるものは遠ざけられ、嘘の報告をする大臣とか、怪しげな助言者などの話を良く聞いた。

ロシア帝国は外部からの力というよりは、皇帝や周囲の人々の間違った行いによって、内部崩壊していた。


ニコライの祖父アレクサンドル2世の時代に、既にロシアは混乱していて、皇帝は何度も襲撃されていました。

アレクサンドル2世は市民運動家の爆弾によって1881年に逝去し、このころ既に社会主義思想が蔓延していました。

社会主義思想の始まりは皮肉にもアレクサンドル2世が行った農奴解放によって、それまでの農奴が市民になったからだった。


ロシア農民は欧州と同様に、領主の所有物でしかなく、土地についてくる付属品だった。

農民の生活は過酷で脱走や反乱が頻発したが、力で制圧していたので、農民と支配層の関係は欧州より敵対的だった。

農奴解放によってこうした不満をもつ農民は市民に昇格し、過激な革命運動を起こした。

皇帝が市民運動を奨励した

アレクサンドル2世の息子であるアレクサンドル3世は強権的な治世で秩序を保ち、用心深かったので爆弾でなくなる事もなかった。

だが1894年には病没し、「性格が弱く女々しい」と評判のニコライ2世が即位し、滅亡の道を歩き始める。

ニコライ2世は父親が決めた結婚を拒否し、ドイツ生まれのユダヤ人と、父親の死を待ち望んだかのように結婚している。


妻のアレクサンドラはユダヤ教は改宗したものの、ロシア語をほとんど話せず、ロシア人を嫌い、生涯にわたってニコライ2世の足を引っ張った。

またアレクサンドラには狂信的なところがあり、煽動者ラスプーチンをを招き入れたのも彼女だった。

ニコライ2世の戴冠式の後、市民に「ふるまい」が行われたが、市民が祝賀会場に行く道を作らず、将棋倒しで2000人がなくなった。


ニコライ2世は責任者を処罰せず、何事も起きなかったように振る舞ったが、このパターンはニコライの一生涯に渡って繰り返される。

ニコライ2世は性格が弱かったため、市民活動が活発になると簡単に同調してしまい、市民代表に権力を与えていった。

こうした経緯はフランス革命を引き起こしたルイ14世と同じであり、政治に参加するようになった活動家はますます凶暴化していきました。


ロシアの貴族や右派権力者達は新皇帝の威厳を高め、市民運動を押さえ込むため、「危険の無いちょっとした遊び」を考え出した。

それがロシアの極東進出で、清国や朝鮮や小さな島々を手に入れて領土を増やせば、不満を押さえ込めると考えていた。

ニコライ2世は皇太子時代に日本を訪問していたが、戦争にリスクがあるとは考えなかった。


革命の前年、革命が始まるとわずか2週間で部下全員が皇帝を裏切った
1898827
引用:https://www.syl.ru/misc/i/ai/329459/1898827.jpg

ロシア帝国の崩壊

日露戦争では序盤で一進一退が続いたものの、日本海海戦で海軍が全滅し、ロシア軍は大きな打撃を受けて敗戦してしまった。

戦前の計算では日本軍数人でやっとロシア軍1人と同等と考えられていたので、負けると想定したロシア人は一人も居なかった。

敗戦は社会主義運動を勢いづかせ、皇帝側は権威を失墜させてしまった。


ここでニコライは致命的な間違いを侵し、社会主義に同調して政治参加の道を開いてしまいました。

ニコライは市民とは直接話し合えば理解し合えるという考えに取り付かれ、市民らを宮廷に招いて話し合おうとしました。

ニコライ2世を危険視したロシア貴族達は、秘密警察を使って活動家を攻撃したり、逆に皇帝側を攻撃したりしました。


1905年1月9日、社会主義指導者のガポン神父は市民数千人を引き連れ、ニコライ2世の宮殿に行進したが、実はガボン神父は秘密警察のスパイであり、ロシア貴族の回し者だった。

市民らは待ち伏せていた秘密警察の攻撃で1000人以上が無くなったが、貴族と右派はこれでニコライの「市民寄り」姿勢を正すつもりだったとされている。

だがこの事件はロシア革命への引き金を引いてしまい、ニコライ2世とその家族は1917年頃までに全員がなくなっている。


側近達はニコライに事実を知らせず、「少数の暴徒が攻撃してきたので、止むを得ず反撃した」というフィクションを信じ込まされた。

ニコライは戴冠式の事故の時と同様に、何事もなかったように振る舞い、これには社会主義者だけでなく、皇帝側の軍人らも疑問を抱いた。

抗議運動が活発化すると、正規軍から次々に寝返りが出て、最後は自分の部下にまで裏切られて拘束されてしまいました。


1917年2月23日の2月革命で最初の小規模のデモから、暴動が拡大しニコライの部下全員が裏切るまで、たった2週間しかかからなかった。

優柔不断で無能な皇帝と新興宗教の教祖に入れあげた皇妃、嘘の報告ばかりする大臣、陰謀をめぐらす貴族、皇帝を憎む農奴出身テロリスト、煽動されやすい愚かな民衆。

こうした人々の相互作用によって、ロシア帝国は滅んだのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/73310030.html


5. 中川隆[-5804] koaQ7Jey 2017年11月23日 18:09:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ニコライ2世の最後 亡命を拒否して帝政復古に期待していた


いつも姉に抱かれている息子のアレクセイは病弱で動かせないため、一家は脱出できなかった。
引用:https://learnodo-newtonic.com/wp-content/uploads/2015/03/Nicholas-II-Family-from-left-to-right-Olga-Maria-Nicholas-II-Alexandra-Anastasia-Alexei-and-Tatiana.jpg

ロシア脱出を拒否した皇帝

ニコライ2世はロシア革命が起きた1917年2月の後、3月7日に革命政府に拘束されたが、その前後に何度も逃げ出すチャンスがあった。

革命発生時にニコライ2世は第一次大戦を指揮するため前線に居り、妻と子供たちの皇帝一家は首都ペトログラード近郊の邸宅に居た。

軍司令官でもあるニコライ2世は、ひとまず不利な条件でも戦争を停止し、軍主力を首都に戻すべきだった。


だがニコライ2世は家族に会う事を最優先し、少数の側近を連れただけで、列車(当時最も早かった)で首都に向かった。

だが革命は鉄道沿線にも及んでおり、列車は途中で停止させられ、退位の文章に署名させられたうえに拘束されてしまった。

2月革命を起こしたのはニコライ2世が作った議会で、この時にはまだ皇帝が復活できる可能性もあった。


また軍や旧政府の人々には皇帝に忠実な人も居て、ロシアを脱出するのも不可能ではなかった。

だがニコライ2世は「ロシアを捨てる事はできない」と言い、また生来病弱な長男アレクセイが脱出に耐えられないのもあって脱出しなかった。

議会の臨時政府はニコライ一家を首都からトボリスクに移したのだが、これは皇帝一家を逃がそうとした可能性が高いと言われている。


というのは臨時政府はニコライ2世が作った議会であり、皇帝を退位させた後は国外に脱出してくれた方が、好都合だった。

トボリスクの守備隊は何度か交代しているが、ニコライ2世には好意的であり、脱出が可能な状態に置かれた。

この時もニコライはロシアを脱出する事に消極的で、まだ帝政復活や地位の回復に期待を持っていた。


トボリスクで臨時政府に軟禁されていた頃、まだのどかで脱出可能だった。
PY
引用:https://i.pinimg.com/736x/5e/4f/56/5e4f5604cafac0e8d922281d871c6394--russian-revolution-nicholas-dagosto.jpg

ソヴェトが権力を握る

トボリスクの警備は緩く、守備隊は皇帝に好意的であり、1917年8月から11月までの3ヶ月間、臨時政府はニコライ一家に逃げて欲しいと考えていた。

国民の皇帝一家への怒りは凄まじく、処刑するよう圧力が掛けられていたが、臨時政府はあくまで法に基づいて新政府を作ろうとし板ばさみになっていた。

最も望ましい解決法は、皇帝一家がみっともなく国外逃亡する事で、もう臨時政府は皇帝に配慮する必要がなくなる。


革命の前半には皇帝と政府には話し合いが持たれ、臨時政府は皇帝を葬るつもりは持っていなかった。

ニコライ2世はロシア脱出というプランにはついに同意せず、10月革命によって臨時政府は倒され、レーニンのソヴィエトが権力を握った。

臨時政府は強硬なレーニンらが主導するソヴェト評議会に代わり、レーニンは皇帝を葬り去ることで、自分が皇帝になろうとした。


ロシア革命後にすぐソヴェト連邦ができたのではなく、ロシアの中にいくつもの政府があり、いくつものソヴェトが主導権争いをしていた。

社会主義革命を目指す赤軍に対して、非社会主義を目指す白軍が一時期、赤軍を倒すかのような勢いを示した。

ニコライ2世家族は白軍が自分たちを救出して、再び皇帝に返り咲くというような期待も抱いていた。


だが実際には白軍は共産主義には反対していたが、ニコライ2世を助けたり、皇帝に復帰させようとは考えていなかった。

白軍が目指したのは皇帝の居ない民主国家であり、圧制で国民の恨みを買っていた皇帝に、生きていてもらっては困るのでした。

白軍は公式には皇帝に近い立場であり、多くは旧帝国軍の将校や兵士だったので、皇帝を保護したら再び帝位に就けざるを得なくなる。


最後の数ヶ月を過ごしたエカテリンブルクのイパチェフ館、カメラを没収されたので一家の写真はない。
Ipatiev_House_in_1918
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a4/Ipatiev_House_in_1918.jpg

レーニン皇帝の野望

そこで白軍はわざと皇帝一家が閉じ込められていたエカテリンブルクには進軍せず、ニコライが追放されるか葬られるのを待っていた。

レーニンのペトログラード・ソヴェトは自分が手を汚す危険を恐れ、監禁しているウラル・ソヴェトに勝手にやらせようとした。

というのは内戦で頻繁に支配者が交代している状況では、皇帝に手を下した者は白軍によって標的にされる恐れがあった。


1918年4月にエカテリンブルクに移された一家は「囚人」として扱われ、外出や散歩も禁止され、脱出は完全に不可能になった。

警備兵もかつての皇帝守備隊から旧農奴崩れのソヴェト軍に代わり、農奴たちは皇帝を心底憎んでいた。

臨時政府時代には兵士が邸宅に入ってくることはなかったが、1918年になると農奴兵が1階部分を占拠し、皇帝一家は2階に押し込められた。


扱いはどんどん酷くなり、皇女たちは部屋のドアを閉めるのを禁止されたり、兵士と共同トイレを使ったりした。

トイレに行くには兵士らの詰め所前を通らねばならず、兵士らが使ったトイレは汚れ切っているという具合だった。

最後には窓を開ける事が禁止され、外の景色が見えないように高い塀を作り、窓には板を打ち付けた。

囚人として最後の日々を送る

洗濯や風呂やシャワーを浴びるのも全て禁止、家の中や各自の部屋にも兵士らが歩き回るという状況だった。

ニコライ一家は避難するに当たって持てるだけの宝石を持ち込んだが、兵士らは荷物をあさっては盗んでいった。

ここに至ってニコライ2世はやっとロシアを脱出するべきだったと後悔するが、今はドアを開けるにも農奴兵の許可が必要であった。


最後の日である1918年7月17日、深夜の2時すぎに家族を起こし、「暴動で危険だから避難しろ」と言って全員を地下室に連れて行った。

小さな窓がある半地下室なのだが、周囲に音を聞かれないために、1階や2階ではなく地下室を選んだ。

刑を執行したボルシェビキたちは、白軍の報復をおそれて痕跡を隠し、残った宝石類も盗んでいった。


ニコライ2世を葬ったレーニンは自身が新たな皇帝になり、強権国家のソビエト連邦を作った。

皇帝を退位させた2月革命は、民主主義的な国家を作る目的だったが、世界最悪の恐怖国家になった。

ニコライ2世のロシアは皇帝の優柔不断さゆえに、世界で最も自由だったのだが、10年後には世界で最も自由がない国になっていた。
http://www.thutmosev.com/archives/73745071.html


6. 中川隆[-5468] koaQ7Jey 2018年3月20日 13:29:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ロシア革命、100年後の真実 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=a354-Tyfqfc

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7. 中川隆[-5689] koaQ7Jey 2018年3月25日 09:24:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8863]
ネオコンと呼ばれる集団の中には「元トロツキスト」が多いとも指摘されている。レオン・トロツキーの信奉者だったということだが、このトロツキーは謎の多い人物である。

 1917年3月にロマノフ朝が倒されているが、その「二月革命」(帝政ロシアで使われていたユリウス暦では2月)に参加した政党は立憲民主党(通称カデット)、社会革命党(エス・エル)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)だが、主導したのは資本家。革命の目的は資本主義体制の確立にあった。一気に社会主義を目指そうとしたボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)は幹部が亡命していたり、刑務所に入っていたことから事実上、参加していない。ウラジミール・レーニンはスイス、二月革命当時はまだメンシェビキのメンバーだったトロツキーはニューヨークにいた。

 この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。

 革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。

 トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/

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8. 中川隆[-13584] koaQ7Jey 2018年11月12日 19:48:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20587] 報告
1918年11月11日に第1次世界大戦は休戦するが、その前からロシア侵略開始


 1918年、つまり今から100年前の11月11日に第1次世界大戦は休戦になった。その2日前にドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位している。この戦争ではドイツを中心とする同盟国とフランス、イギリス、ロシアを中心とする連合国が戦った。日本は連合国側についている。

 途中、1917年11月にロシアではボルシェビキが資本家主導で戦争を継続する方針だった臨時革命政府を倒し(十月革命)、ボルシェビキを率いていたウラジミル・I・レーニンは即時停戦を指示している。臨時革命政府にはメンシェビキや社会革命党(エス・エル)が参加していた。ロマノフ朝を支えていたのは地主貴族と産業資本家で、そのうち戦争をカネ儲けのチャンスと考える資本家がロシアを乗っ取ったようにも見える。

 臨時革命政府で法務大臣に就任したのはエス・エルのアレクサンドル・ケレンスキーだが、この人物を通じてイギリス政府やシオニストは新政府に影響を及ぼしていたと見られている。ケレンスキーは後に首相となる。(Alan Hart, “Zionism Volume One”, World Focus Publishing, 2005)

 この大戦でドイツは東のロシア、西のフランス、ふたつの戦線を抱えていた。そこで目をつけたのが即時停戦を主張していたボルシェビキ。この党の幹部は1917年3月にロマノフ朝が倒された際(二月革命)、国外に亡命しているか、刑務所に入れられていた。そこでドイツ政府はボルシェビキの幹部を「封印列車」でロシアへ運ぶ。レーニンは1917年4月にスイスから帰国した。

 十月革命で軍事的に重要な役割を演じるレフ・トロツキーが二月革命当時にいたのはニューヨーク。そのころはメンシェビキのメンバーだった。トロツキーは1917年3月にニューヨークを離れ、途中で彼の乗った船がイギリス海軍に拿捕されてしまうが、4月には釈放された。ロシアへ着いたのは5月に入ってからだ。その後、トロツキーはボルシェビキに加わる。

 ロシアで実権を握ったボルシェビキはドイツと1918年3月に講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結ぶ。交渉の過程でドイツは領土などで過大な要求をしてくるが、レーニンは党内の反対派を抑えて講和を成立させた。

 これに対し、イギリス、フランス、アメリカ、日本などは1918年8月にロシアへ軍隊を派遣し、ボルシェビキ政権を潰す目的で干渉戦争を開始する。日本は1万2000名をウラジオストックへ駐留させるだけだとして軍隊を派遣した。干渉戦争に参加した国々にとって十月革命は想定外の出来事だったのだろう。

 この年の11月に事実上、大戦は終了するが、日本は増派で7万人を上回る兵員を送り込み、1922年までシベリアにとどまった。この際、日本軍は金塊を持ち帰っている。この問題は憲政会の中野正剛による質問で表面化した。

 持ち帰られた金塊は1万2000キログラムに達すると現在では考えられているが、そのうち8割ほどは朝鮮銀行の下関支店へ運ばれ、そこから大阪造幣局へ移されたと信じられている。またルーブル金貨は朝鮮銀行か横浜正金銀行で日本の通貨に換金されたと推測されている。(金原左門著『昭和の歴史 1 昭和への胎動』小学館、1988年)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811120001/


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9. 中川隆[-13752] koaQ7Jey 2018年12月08日 15:25:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21850] 報告

2018.12.08
戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(1/3)

 ウクライナ軍のガンボート(砲艦)2隻とタグボート1隻が手続きを無視、無断でロシアが領海と定めているケルチ海峡へ入ったのは11月25日のことだった。その前日にウクライナ軍はウクライナ東部、ドネツクにある中立地帯の一部を占領している。事実関係をチェックすると、ウクライナ政府のロシアに対する挑発だったことは間違いない。


 ウクライナでは来年(2019年)3月に大統領選挙が予定されているが、現職のペトロ・ポロシェンコは人気がなく、このままでは再選が難しい。そこでケルチ海峡の事件を利用して大統領選挙を延期させるつもりだと推測する人もいた。


 こうした挑発行為はアメリカ政府の許可がなければ不可能だという考えから、ドナルド・トランプ政権がロシアに対して軍事的な揺さぶりをかけていると見る人もいる。2016年の大統領選挙の際、トランプはロシアとの関係修復を訴えていたのだが、大統領に就任した直後にマイケル・フリン国家安全保障補佐官が解任に追い込まれて以来、政権は好戦派に引きずられている。


 そのトランプはINF(中距離核戦力全廃条約)からの離脱を口にしているが、この流れは2002年から始まっている。ジョージ・W・ブッシュ政権が一方的にABM(弾道弾迎撃ミサイル)から離脱したのだ。この頃、ロシアが再独立への道を歩み始めたことと無縁ではないだろう。


 アメリカ/NATO軍がソ連との国境に向かって進軍を開始したのは1990年の東西ドイツの統一が切っ掛け。その際、ジェームズ・ベイカー米国務長官はソ連の外務大臣だったエドゥアルド・シェワルナゼに対し、統一後もドイツはNATOにとどまるものの、東へNATOを拡大することはないと約束したとされている。


 ベイカー自身はこの約束を否定していたが、ドイツのシュピーゲル誌によると、アメリカはロシアに対し、そのように約束したとロシア駐在アメリカ大使だったジャック・マトロックは語っている。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)


 また、ドイツの外務大臣だったハンス-ディートリヒ・ゲンシャーによると、1990年2月にシェワルナゼと会った際、彼は「NATOを東へ拡大させない」と約束、シェワルナゼはゲンシャーの話を全て信じると応じたという。(“NATO’s Eastward Expansion,” Spiegel, November 26, 2009)(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/

戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(2/3)


 アメリカ支配層は軍事力でソ連/ロシアを恫喝、服従させて世界の覇者になろうとしている。その戦略が遅くとも1904年までさかのぼれることは本ブログでも繰り返し書いてきた。


 その当時、ポーランドをロシアから独立させようという運動が存在した。プロメテウス計画と呼ばれているが、その指導者はユゼフ・ピウスツキ。


 その後継者ともいうべき人物がブワディスラフ・シコルスキーである。第2次世界大戦中はロンドンへ逃れ、イギリス政府の庇護下、亡命政府を名乗っていた。1945年4月にアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が執務室で休止、その翌月にドイツが降伏すると、ウィンストン・チャーチルの命令でJPS(合同作戦本部)は米英数十師団とドイツの10師団がソ連を奇襲攻撃するという内容のアンシンカブ作戦を作成した。


 シコルスキーの側近だったユセフ・レッティンゲルはヨーロッパをイエズス会の指導の下で統一しようと考えていた人物で、ビルダーバーグ・グループの生みの親としても知られている。


 ドイツ軍の主力がソ連へ攻め込んだ時、イギリス政府は手薄になったドイツの西部戦線を攻撃せず、傍観している。チャーチルは父親の代からロスチャイルド資本に従属していたが、そうしたイギリスの支配層はソ連を制圧、あるいは破壊するためにナチスを使ったとも言える。この戦争でソ連は疲弊、アメリカの支配力は増した。


 ピウスツキが活動を始めたころに第1次世界大戦があり、ドイツが破壊される。ドイツはフランスとロシアに挟まれ、不利な状況にあった。イギリスもドイツに宣戦布告していたが、そのイギリスはロシア制圧を長期戦略にし、反ロシアのポーランド人を助ける。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080000/


戦争でライバルを破壊し、富を蓄積した米英(3/3)


 当時、ロシアは農業を収入源にする大土地所有者と戦争をビジネス・チャンスと考える新興の産業資本家が2本柱だった。皇帝は軍人の意見もあり、戦争に傾いていくが、農民の意見を聞くということで皇帝がそばに置いていたグリゴリー・ラスプーチンは戦争に反対。皇后もやはり戦争を嫌っていた。


 軍事的な緊張が高まる中、1914年6月28日にオーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺され、開戦の危機が高まる。そこで7月13日に皇后はラスプーチンに電報を打っているが、その日に彼は腹を刺されて重傷を負う。8月中旬にラスプーチンは退院するが、7月28日に大戦は始まっていた。


 その後も皇后やラスプーチンは国が滅びるとして戦争に反対するが、1916年12月30日に拉致のうえ、射殺された。ロシア皇太子らが暗殺したと言われているが、黒幕はイギリスの情報機関SIS(通称MI6)だとする説がある。


 1916年にイギリス外務省はサミュエル・ホーアー中佐を始めとする情報機関のチームをペトログラードへ派遣したが、その中に含まれていたオズワルド・レイナーはオックスフォード大学で皇太子の「友人」。このチームが暗殺の実行部隊だと推測する人がいるのだ。


 当時の状況を考えると、ラスプーチンが重傷を負わず、暗殺もされなかったなら、皇后と手を組んで参戦に反対していたはず。大土地所有者や農民も戦争に反対だ。参戦しても早い段階でロシアが戦争から離脱したならドイツは兵力を西部戦線に集中、アメリカが参戦する前に勝利していた可能性がある。


 ラスプーチンが暗殺された直後、産業資本家を中心とする勢力が3月に革命で王政を倒す。いわゆる「二月革命」だ。そこにはメンシェビキやエス・エルが参加していた。この当時、レフ・トロツキーはメンシェビキのメンバーで、ニューヨークにいた。


 二月革命の際、ウラジミール・レーニンをはじめとするするボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか、刑務所に入れられていて、革命に参加していない。そうした亡命中のボルシェビキの幹部をドイツは「封印列車」でロシアへ運んだ。ボルシェビキが即時停戦を主張していたからである。


 結果としてボルシェビキ政権が誕生、ロシアは戦争から離脱するのだが、アメリカの参戦で帳消しになる。イギリス、フランス、アメリカ、そして日本などはそのボルシェビキ体制を倒すため、1918年に軍隊を派遣して干渉戦争を始める。


 ロシア革命とはふたつの全く違う革命の総称であり、ボルシェビキは最初の革命には事実上、参加していない。第2次世界大戦でドイツ軍を倒したのはソ連軍で、アメリカ軍やイギリス軍は勝負がついた後、ウォール街とナチス幹部が話し合いを進めるのと並行してヨーロッパで戦っただけだ。しかも、ドイツが降伏するとイギリスはロシアを奇襲攻撃しようとした。


 結局、ふたつの大戦でソ連/ロシアやヨーロッパは破壊され、その一方で戦場にならず、軍需で大儲け、ドイツや日本が略奪した財宝を手に入れたアメリカは世界で大きな力を持つことになった。


 しかし、アメリカはその地位から陥落しそうだ。アメリカは中東やアフリカなど資源の豊かな地域だけでなく、東アジアやヨーロッパで軍事的な緊張を高めている。これは1992年に作成されたウォルフォウィッツ・ドクトリンに沿うもの。東アジアやヨーロッパを戦争で破壊するつもりかもしれない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201812080002/


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10. 中川隆[-11553] koaQ7Jey 2019年3月09日 20:07:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[440] 報告

パリ・コミューンについて - 内田樹の研究室 2019-03-05

石川康宏さんとの『若者よマルクスを読もう』の三巻目は「フランスにおける内乱」をめぐっての往復書簡だった。

『反抗的人間』を読んでいたら、ぜひ引用したいカミュの言葉が出て来たので、それを数行加筆することにした。

それを含む、パリ・コミューン論を採録する。


『フランスの内乱』、読み返してみました。この本を読むのは、学生時代以来50年ぶりくらいです。同じテクストでも、さすがに半世紀をおいて読み返すと、印象がずいぶん違うものですね。

パリ・コミューンの歴史的な意義や、このテクストの重要性については、もう石川先生がきちんと書いてくださっていますので、僕は例によって、個人的にこだわりのあるところについて感想を語ってゆきたいと思います。
 
「コミューン」というのは、そもそもどういう意味なんでしょう。「コミューン」という言葉を学生だった僕はこの本で最初に知りました。そして、たぶん半世紀前も次の箇所に赤線を引いたはずです。

「コミューンは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働者階級の経済的解放を実現するために、ついに発見された政治形態である。」(『フランスの内乱』、辰巳伸知訳、マルクスコレクションVI, 筑摩書房、2005年、36頁、強調は内田)

「ついに発見された政治形態」であると断定された以上、それは前代未聞のものであるはずです。僕は素直にそう読みました。なるほど、パリ・コミューンは歴史上はじめて登場した政治形態だったのか。すごいな。それなのに反動的なブルジョワたちから暴力的な弾圧を受けて、徹底的に殲滅されて、多くのコミューン戦士は英雄的な死を遂げた。気の毒なことをしたなあ・・・。そう思いました。それくらいしか思いませんでした。でも、さすがにそれから半世紀経つと感想もずいぶん違うものになります。

 僕が気になったのは、パリ・コミューンがマルクスの時代において「ついに発見された」前代未聞のものであったことはわかるのですが、それに続くものがなかったということです。

 パリ・コミューンからすでに150年を閲しましたけれど、パリ・コミューンのような政治形態はそれを最後に二度と再び地上に現れることはありませんでした。それはなぜなのでしょう。

 もし、パリ・コミューンがマルクスの言うように、1870年時点での革命的実践の頂点であったのだとしたら、その後も、パリ・コミューンを範とした革命的実践が(かりに失敗したとしても)世界各地で、次々と試みられてよかったはずです。でも、管見の及ぶ限りで「この政治形態はパリ・コミューンの甦りである」とか「この政治形態はパリ・コミューンが別の歴史的条件の下でいささか相貌を変えて実現したものである」というふうに名乗る事例を僕は一つも知りません。「われわれの戦いはパリ・コミューンを理想としてしている」と綱領的文書に掲げた政治運動や政治組織も僕は見たことがありません。

 変な話だと思いませんか?

 かのマルクスが、「ついに発見された政治形態である」と絶賛した究極の事例について、それを継承しようとした人たちも、未完・未済のものであったがゆえにその完成をこそ自らの歴史的召命として引き受けようとした人たちも、1871年から後いなかった。どうして、パリ・コミューンという政治的理想をそれからのちも全力で追求しようとした人たちは出てこなかったのか? 

 少なくともそれ以後フランスには「パリ・コミューン的なもの」は二度と登場しません。フランスでは、1789年、1830年、1848年、1871年と、比較的短いインターバルで革命的争乱が継起しました。いずれも、その前に行われた革命的な企てを引き継ぐものとして、あるいは先行した革命の不徹底性を乗り越えるものとしてなされました。でも、1871年のパリ・コミューンから後、パリ・コミューンを引き継ぎ、その不徹底性を批判的に乗り越える革命的な企てを構想した人は一人もいなかった。

 1944年8月25日のパリ解放の時、進軍してきた自由フランス軍に中にも、レジスタンスの闘士たちの中にも、誰も「抑圧者が去った今こそ市民たちの自治政府を」と叫ぶ人はいませんでした。1968年には「パリ五月革命」と呼ばれたラディカルな政治闘争がありましたが、その時に街頭を埋め尽くしたデモの隊列からも「今こそ第五共和政を倒して、パリ・コミューンを」と訴える声は聴こえませんでした。少しはいたかも知れませんが(どんなことでも口走る人はいますから)、誰も取り合わなかった。

 今も「パリ・コミューン派」を名乗っていて、少なからぬ力量を誇っている政治組織が世界のどこかにはあるかも知れませんけれど、寡聞にして僕は知りません(知っている人がいたらぜひご教示ください)。

 これはどういうことなのでしょう。なぜ「ついに発見された政治形態」は後継者を持ちえなかったのか?

 以下はそれについての僕の暴走的思弁です。

「マルクスとアメリカ」でも同じ考え方をご披露しましたけれど、僕が歴史について考える時にしばしば採用するアプローチは「どうして、ある出来事は起きたのに、それとは別の『起きてもよかった出来事』は起きなかったのか?」という問いを立てることです。

 このやり方を僕はシャーロック・ホームズから学びました。「起きたこと」からではなくて、「起きてもよかったはずのことが起きなかった」という事実に基づいて事件の真相に迫るのです。「白銀号事件」でホームズは「なぜあの夜、犬は吠えなかったのか?」というところからその推理を開始します。なぜ起きてもよいことが起きなかったのか?

 (...)

 なぜパリ・コミューンはマルクスによって理想的な政治形態と高く評価されたにもかかわらず、それから後、当のマルクス主義者たちによってさえ企てられなかったのか?

 それに対する僕の仮説的回答はこうです。

 パリ・コミューンはまさに「ついに発見された政治形態」であったにもかかわらずではなく、そうであったがゆえに血なまぐさい弾圧を呼び寄せ、破壊し尽くされ、二度と「あんなこと」は試みない方がよいという歴史的教訓を残したというものです。

 パリ・コミューン以後の革命家たち(レーニンもその一人です)がこの歴史的事実から引き出したのは次のような教訓でした。

 パリ・コミューンのような政治形態は不可能だ。やるならもっと違うやり方でやるしかない。

 パリ・コミューンは理想的に過ぎたのでした。

 それは『フランスの内乱』の中でマルクスが引いているいくつもの事例から知ることができます。マルクスが引いている事実はすべてがヴェルサイユ側の忌まわしいほどの不道徳性と暴力的非寛容と薄汚れた現実主義とコミューン側の道徳的清廉さ、寛大さ、感動的なまでの政治的無垢をありありと対比させています。どちらが「グッドガイ」で、どちらが「バッドガイ」か、これほど善悪の対比がはっきりした歴史的出来事は例外的です。少なくともマルクスは 読者たちにそういう印象を与えようとしていました。

 ティエールは国民軍の寄付で調達されたパリの大砲を「国家の財産である」と嘘をついてパリに対して戦争をしかけ、寄せ集めのヴェルサイユ兵を「世界の称賛の的、フランスがこれまで持った最もすばらしい軍隊」と持ち上げ、パリを砲撃した後も「自分たちは砲撃していない、それは叛徒たちの仕業である」と言い抜け、ヴェルサイユ軍の犯した処刑や報復を「すべて戯言である」と言い切りました。一方、「コミューンは、自らの言動を公表し、自らの欠陥をすべて公衆に知らせた」(同書、44頁)のです。

 マルクスの言葉を信じるならまさに「パリではすべてが真実であり、ヴェルサイユではすべてが嘘だった」(同書、46頁)のでした。パリ・コミューンは政治的にも道徳的にも正しい革命だった。マルクスはそれを讃えた。

 でも、マルクス以後の革命家たちはそうしなかった。彼らはパリ・コミューンはまさにそのせいで敗北したと考えた。確かに、レーニンがパリ・コミューンから教訓として引き出したのは、パリ・コミューンはもっと暴力的で、強権的であってもよかった、政治的にも道徳的にも、あれほど「正しい」ものである必要はなかった、ということだったからです。レーニンはこう書いています。

 「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧することは、依然として必要である。そして、コンミューンにとっては、このことはとくに必要であった。そして、コンミューンの敗因の一つは、コンミューンがこのことを十分に断固として行わなかった点にある。」(レーニン、『国家と革命』、大崎平八郎訳、角川文庫、1966年、67頁)

 レーニンが「十分に、断固として行うべき」としたのは「ブルジョワジーと彼らの反抗を抑圧すること」です。ヴェルサイユ軍がコミューン派の市民に加えたのと同質の暴力をコミューン派市民はブルジョワ共和主義者や王党派や帝政派に加えるべきだった、レーニンはそう考えました。コミューン派の暴力が正義であるのは、コミューン派が「住民の多数派」だからです。

「ひとたび人民の多数者自身が自分の抑圧者を抑圧する段になると、抑圧のための『特殊な権力』は、もはや必要ではなくなる!国家は死滅し始める。特権的な少数者の特殊な制度(特権官僚、常備軍主脳部)に代わって、多数者自身がこれを直接に遂行することができる。」(同書、67−8頁、強調はレーニン)

 少数派がコントロールしている「特殊な権力」がふるう暴力は悪だけれど、国家権力を媒介とせずに人民が抑圧者に向けて直接ふるう暴力は善である。マルクスは『フランスの内乱』のどこにもそんなことは書いていません。でも、レーニンはそのことをパリ・コミューンの「敗因」から学んだ。

 レーニンがパリ・コミューンの敗北から引き出したもう一つの教訓は、石川先生もご指摘されていた「国家機構」の問題です。これについて、石川先生は、レーニンは「国家機構の粉砕」を主張し、マルクスはそれとは違って、革命の平和的・非強力的な展開の可能性にもチャンスを認めていたという指摘をされています。でも、僕はちょっとそれとは違う解釈も可能なのではないかと思います。レーニンの方がむしろ「できあいの国家機構」を効率的に用いることを認めていたのではないでしょうか。レーニンはこう書いています。

「コンミューンは、ブルジョワ社会の賄賂のきく、腐敗しきった議会制度を、意見と討論の自由が欺瞞に堕することのないような制度とおき替える。なぜなら、コンミューンの代議員たちは、みずから活動し、自分がつくった法律をみずから執行し、執行にあたって生じた結果をみずから点検し、自分の選挙人にたいしてみずから直接責任を負わなければならないからである。代議制度はのこるが、しかし、特殊な制度としての、立法活動と執行活動の分業としての、代議員のための特権的地位を保障するものとしての、議会制度は、ここにはない。(...)議会制度なしの民主主義を考えることができるし、また考えなければならない。」(同書、74−75頁、強調はレーニン)
 
 法の制定者と法の執行者を分業させた政体のことを共和制と呼び、法の制定者と執行者が同一機関である政体のことを独裁制と呼びます。パリ・コミューンは「議会制度なしの民主主義」、独裁的な民主主義の達成だったとして、その点をレーニンは評価します。

 この文章を読むときに、代議制度は「のこる」という方を重く見るか、立法と行政の分業としての共和的な制度は「ない」という方を重く見るかで、解釈にずれが生じます。僕はレーニンは制度そのものの継続性をむしろ強調したかったのではないかという気がします。レーニンは何か新しい、人道的で、理想的な統治形態を夢見ていたのではなく、今ある統治システムを換骨奪胎することを目指していた。そして、マルクスもまた既存の制度との継続を目指したしたるのだと主張します。

「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない。そうではなくて、彼は、古い社会からの新しい社会の誕生、前者から後者への過渡的諸形態を、自然史的過程として研究しているのだ。」(同書、75頁、強調はレーニン)
 
 ここで目立つのは「からの」を強調していることです。旧体制と新体制の間には連続性がある。だから、「過渡的諸形態」においては「ありもの」の統治システムを使い回す必要がある。レーニンはそう言いたかったようです。そのためにマルクスも「そう言っている」という無理な読解を行った。

「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない。プロレタリアートの独裁の任務についての無理解にもとづくこうした無政府主義的夢想は、マルクス主義とは根本的に無縁なものであり、実際には、人間が今とは違ったものになるときまで社会主義革命を引き延ばすことに役だつだけである。ところがそうではなくて、われわれは、社会主義革命をば現在のままの人間で、つまり服従なしには、統制なしには、『監督、簿記係』なしにはやってゆけない、そのような人間によって遂行しようと望んでいるのだ。」(同書、76―77頁、強調はレーニン)

 レーニンが「監督、簿記係」と嘲弄的に呼んでいるのは官僚機構のことです。プロレタリアート独裁は「服従」と「統制」と「官僚機構」を通じて行われることになるだろうとレーニンはここで言っているのです。「すべての被搾取勤労者の武装した前衛であるプロレタリアートには、服従しなければならない。」(77頁)という命題には「誰が」という主語が言い落とされていますが、これは「プロレタリアート以外の全員」のことです。

 これはどう贔屓目に読んでも、マルクスの『フランスの内乱』の解釈としては受け入れがたいものです。

 マルクスがパリ・コミューンにおいて最も高く評価したのは、そこでは「服従」や「統制」や「官僚機構」が効率的に働いていたことではなく、逆に、労働者たちが「できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」と考えたからです。新しいものを手作りしなければならないというコミューンの未決性、開放性をマルクスは評価した。誰も服従しない、誰も統制しない、誰もが進んで公的使命を果たすという点がパリ・コミューンの最大の美点だとマルクスは考えていたからです。

「コミューンが多種多様に解釈されてきたこと、自分たちの都合のいいように多種多様な党派がコミューンを解釈したこと、このことは、過去のあらゆる統治形態がまさに抑圧的であり続けてきたのに対して、コミューンが徹頭徹尾開放的な政府形態であったということを示している。」(マルクス、前掲書、36頁)

 マルクスの見るところ、パリ・コミューンの最大の美点はその道徳的なインテグリティーにありました。自らの無謬性を誇らず、「自らの言動を公表し、自らの欠陥のすべてを公衆に知らせた」ことです。それがもたらした劇的な変化についてマルクスは感動的な筆致でこう書いています。

「実際すばらしかったのは、コミューンがパリにもたらした変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはやあとかたもなかった。パリはもはや、イギリスの地主やアイルランドの不在地主、アメリカのもと奴隷所有者や成金、ロシアのもと農奴所有者やワラキアの大貴族のたまり場ではなくなった。死体公示所にはもはや身元不明の死体はなく、夜盗もなくなり、強盗もほとんどなくなった。1848年二月期以来、はじめてパリの街路は安全になった。しかも、いかなる類の警察もなしに。(・・・)労働し、考え、闘い、血を流しているパリは、―新たな社会を生み出そうとするなかで、(・・・)自らが歴史を創始することの熱情に輝いていたのである。」(同書、45―46頁、強調は内田)

「新しい社会を生み出そうとするなかで」とマルクスは書いています。この文言と「マルクスには『新しい』社会を考えついたり夢想したりするという意味でのユートピア主義など、ひとかけらもない」というレーニンの断定の間には、埋めることのできないほどの断絶があると僕は思います。

 でも、パリ・コミューンの総括において「パリ・コミューンは理想主義的過ぎた」という印象を抱いたのはレーニン一人ではありません。ほとんどすべての革命家たちがそう思った。だからこそ、パリ・コミューンはひとり孤絶した歴史的経験にとどまり、以後150年、その「アヴァター」は再び地上に顕現することがなかった。そういうことではないかと思います。

 勘違いして欲しくないのですが、僕はレーニンの革命論が「間違っている」と言っているのではありません。現にロシア革命を「成功」させたくらいですから、実践によってみごとに裏書きされたすぐれた革命論だと思います。でも、マルクスの『フランスの内乱』の祖述としては不正確です。

 ただし、レーニンのこの「不正確な祖述」は彼の知性が不調なせいでも悪意のせいでもありません。レーニンは彼なりにパリ・コミューンの悲劇的な結末から学ぶべきことを学んだのです。そして、パリ・コミューンはすばらしい歴史的実験だったし、めざしたものは崇高だったかも知れないけれど、あのような「新しい社会」を志向する、開放的な革命運動は政治的には無効だと考えたのです。革命闘争に勝利するためには、それとはまったく正反対の、服従と統制と官僚機構を最大限に活用した運動と組織が必要だと考えた。

 レーニンのこのパリ・コミューン解釈がそれ以後のパリ・コミューンについて支配的な解釈として定着しました。ですから、仮にそれから後、「パリ・コミューンのような政治形態」をめざす政治運動が試みられたことがあったとしても、それは「われわれは空想家ではない。われわれは、どうやって一挙に、いっさいの統治なしに、いっさいの服従なしに、やっていくかなどと『夢想』はしない」と断定する鉄のレーニン主義者たちから「空想家」「夢想家」と決めつけられて、舞台から荒っぽく引きずりおろされただろうと思います。

 アルベール・カミュは『国家と革命』におけるレーニンのパリ・コミューン評価をこんなふうに要言しています。僕はカミュのこの評言に対して同意の一票を投じたいと思います。

「レーニンは、生産手段の社会化が達成されるとともに、搾取階級は廃滅され、国家は死滅するという明確で断固たる原則から出発する。しかし、同じ文書の中で、彼は生産手段の社会化の後も、革命的フラクションによる自余の人民に対する独裁が、期限をあらかじめ区切られることなしに継続されることは正当化されるという結論に達している。コミューンの経験を繰り返し参照していながら、このパンフレットは、コミューンを生み出した連邦主義的、反権威主義的な思潮と絶対的に対立するのである。マルクスとエンゲルスのコミュ―ンについての楽観的な記述にさえ反対する。理由は明らかである。レーニンはコミューンが失敗したことを忘れなかったのである。」(Albert Camus, L'homme révolté, in Essais, Gallimard, 1965, p.633)

 僕はできたら読者の皆さんには『フランスの内乱』と『国家と革命』を併せて読んでくれることをお願いしたいと思います。そして、そこに石川先生がこの間言われたような「マルクス」と「マルクス主義」の違いを感じてくれたらいいなと思います。マルクスを読むこととマルクス主義を勉強することは別の営みです。まったく別の営みだと申し上げてもよいと思います。そして、僕は「マルクス主義を勉強すること」にはもうあまり興味がありませんけれど、「マルクスを読む楽しみ」はこれからもずっと手離さないだろうと思います
http://blog.tatsuru.com/2019/03/05_1542.html

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11. 中川隆[-15132] koaQ7Jey 2019年12月15日 15:09:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2183] 報告

「○○狂レーニンの武器チェカー」柏原竜一 秋吉聡子【チャンネルくらら】



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12. 中川隆[-14360] koaQ7Jey 2020年1月18日 19:55:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1272] 報告
2020年01月18日
ソ連と酷似してきた中国 急激な成長と衰退


レーニン像の周囲に集まり、倒そうとするソ連の人々
1992F1 (15)
引用:http://web.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/Lenin/1992F1%20(15).jpg


中国の急激な成長期が終わり、衰退期に入ると予測されているが、共産国家は衰退期を上手く乗り切れない。

崩壊したソ連は発足から急成長を続けたが、たった一度の衰退期を乗り切れずに崩壊した。


ソ連化する中国


最近の中国は何から何まで過去のソ連にそっくりで、双子の兄弟のようです。

かつて共産国家ソ連はユーラシア大陸のほとんどを勢力下に置いて、世界を支配するかに思えました。


ベトナム戦争でアメリカが敗れ、ソ連側が勝った頃に拡大は頂点に達し、ソ連が新たなリーダーになるように見えた。

中国もリーマンショック頃まで急拡大し、、世界のリーダーになるのは時間の問題と思われました。

不思議な事にアメリカに挑む新興勢力は必ず、米国の7割程度の国力をピークに、衰退期に入る。

ソ連と戦後日本がそうだったし、中国も同じくらいのGDPで頭打ちになり、衰退期に入りました。


「7割の法則」が在るのかどうか知りませんが、アメリカの衰退時期と新興国家の成長期が重なるとこうなっている。

ソ連は1917年のロシア革命で誕生したが、伝説のように市民が蜂起した訳ではなく、ドイツの悪巧みで発生した。

当時第一次大戦で負けそうだったドイツは、対戦相手のロシアで革命を起こさせて有利にするため、レーニンを送り込んだ。


レーニンはロシア人だがドイツに亡命して国家崩壊を企む人物で、日本で言えば麻原彰晃レベルの人間でした。

普通は誰も相手にしませんが、ロシアは大戦や財政危機で国民生活が破綻しており、飢えた人々はレーニンに従った。

ロシア革命とは麻原彰晃が敗戦を利用して日本の皇帝になったようなもので、当然ながらソ連は帝政時代より凶悪な国家になった。

世界共産革命が使命


一方中華人民共和国が生まれた経緯はソ連以上に奇怪で、当時日本帝国と中華民国(今の台湾)が戦争をしていました。

中華民国は日本との戦争で疲弊してボロボロになり、そのせいで国内の対抗勢力の共産軍(毛沢東)に敗れました。

大戦終了後に、余力があった共産軍は大陸全土を支配し、中華民国は台湾島に追い払われて現在の中国ができた。


ソ連、ロシアともに成立過程を嘘で塗り固めていて、ソ連は民衆蜂起、中国は日本軍を追い払った事にしている。

両国とも本当の歴史を隠すためか、盛大な戦勝式を行って国民の結束を高めるのに利用しています。

ソ連・中国ともに共産国家であり、「全世界で共産主義革命を起こし世界統一国家を樹立する」のを国是としている。


因みに「ソビエト連邦」は実は国家ではなく、全世界共産化の勢力範囲に過ぎませんでした。

中国もまた地球を統一し共産化する事を大義としていて、だから際限なく勢力を拡大しようとします。

資本主義を倒して地球を統一する市民団体が中国やソ連で、相手が従わなければ暴力と軍事力で共産化します。


だから共産国家は必ず軍事国家で破壊的であり、平和的な共産国家は存在しません。

世界革命に賛同した国(軍事力で服従させた国)は衛星国家として従わせ、東ドイツや北朝鮮のようになります。

共産国家は勝ち続ける事が使命であり、負けることは絶対に許されず、負けは神から与えられた使命の挫折を意味します。


理念で結束した人々は成長期には強いが、上手く行かなくなると脆い
201203171516178521-2379290
引用:http://image.hnol.net/c/2012-03/17/15/201203171516178521-2379290.jpg


負けたら国家消滅する共産国


ソ連は1978年に軍事的空白地のアフガニスタンに侵攻したが、10年間武装勢力と戦った末に撤退しました。

無敵国家ソ連はタリバンとの戦争に敗れ、僅か2年後にソ連は崩壊してしまいました。

ソ連崩壊の原因は様々な説があるが謎に包まれていて、外貨不足、インフレ、マイナス成長、食糧不足などが挙げられている。


しかしそれで国家が滅ぶのなら、もっと滅んで良い国は山ほどあるし、苦境から立ち直った国もあります。

ソ連が崩壊した本当の理由は『世界革命が挫折してしまい、共産主義の大義が無くなった』からだとも解釈されている。

日本のような民族国家なら、負けても同じ民族が再び協力して立ち直りますが、理念で集まった国は一度の負けで崩壊します。


ソ連は理念を失ったために崩壊し、革命前の民族国家ロシアに戻る事にしました。

共産主義の特徴は理念で集まって急激に成長するが、一度理念が失われるとバラバラになってしまう。

ソ連と中国の共通点として、急激な成長と急激な衰退、外貨不足、民族弾圧や無数の収容所、報道規制、経済指標偽造などが挙げられる。


軍事力を強化してやたら虚勢を張るのも共産国家の共通点で、北朝鮮でさえ「アメリカを火の海にできる」と主張している。

ソ連もあらゆる兵器全てで「アメリカを超えている」と主張したが、崩壊後に全て嘘なのが判明した。

中国も次々と新兵器を登場させ「全て日米を凌駕している」と宣伝するが、実際はブリキのオモチャに過ぎません。


兵器の性能では共産国家は資本主義国家に絶対に勝てないので、正面から戦おうとしないのも共通点です。

「いつでも日本を倒せる」「アメリカなどいつでも倒せる」と言いながら現実には逃げ回るのが、彼らの戦略です。

逃げながらスパイ活動やサイバー攻撃で相手国に侵入しようとし、多くのスパイや工作員を養成する。


ソ連を最終的に破滅に追い込んだのは、最後の書記長であるゴルバチョフの改革政策でした。

ボロボロの共産国家に市場原理主義を導入した結果、国家のシステムが破綻して生産活動ができなくなりました。

昨日まで国家公務員だった農民が、今日から市場経済だから自力で生きろと言われても、できる筈がありませんでした。


中国は習近平主席の元、大胆な国家改革を行おうとしたが、失敗して元の共産主義土木経済に逆戻りした。


中国のGDPの半分は公共事業つまり土木工事で、鉄道や空港や高速道路などを毎年「日本ひとつ分」建設している。


土木工事をやめると急激な経済縮小が起きるので、誰も住まない年を建設し、誰も乗らない高速鉄道を走らせている。


ソ連末期には経済がマイナス成長を隠して、プラス成長と発表していましたが、中国もそうしています。
http://www.thutmosev.com/archives/41996082.html


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13. 中川隆[-13572] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:43:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1332] 報告



ロシア革命|100年後の真実





【ロシア革命】@ 10月革命は 首都ペテルグラードソビエト議長 トロツキーの演説から始まった



【ロシア革命】 A 内戦とトロツキーの赤軍創設



【ロシア革命】 B レーニンの死去 ソビエトはトロツキーではなくスターリンを後継者に選んだ



【ロシア革命】 C スターリンの時代



【ロシア革命】 D 党内派閥争いから粛清



【ロシア革命】 E 強制収容所



【ロシア革命】 F スパイ ゾルゲ



【ロシア革命】 G 祖国防衛戦争



【ロシア革命】 H ソビエト軍の満州国侵攻



【ロシア革命】 I ソビエトの崩壊



【ロシア革命】 J スターリン主義の亡霊




【ロシア革命】 K 【フランス映画】THE ASSASSINATION OF TROTSKY トロツキーの暗殺)




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14. 中川隆[-12682] koaQ7Jey 2020年5月08日 21:58:37 : EIjh7CCywc : RFRGdXFIdUF6OEU=[25] 報告


ロシア革命|100年後の真実




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