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アジア東部集団の形成過程
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/739.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 12 月 01 日 11:30:30: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 「血の川」の記述 古代ルーシへのモンゴル襲来 「誇張」ではない事実を考古学者らが解明 投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 03 日 05:51:33)


2019年12月01日
アジア東部集団の形成過程
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_2.html


 アジア東部も含めてユーラシア東部集団の形成過程の解明は、ユーラシア西部集団と比較して大きく遅れています。これは、ユーラシアにおいては東部よりも西部、とくにヨーロッパの古代DNA研究がはるかに進展しているためです。これは、近代以降にヨーロッパおよびその派生的文化圏である北アメリカから構成される西洋が覇権を掌握していたことに起因します。近代以降、学術も西洋が主導し、20世紀後半になってアジア(東洋)系の台頭が著しいとはいえ、西洋が確立してきた知の構造は依然として堅牢です。そのため、現代人集団の形成過程についても、まず自分たちの起源であるヨーロッパ、さらに範囲を拡大してユーラシア西部に関心が集中するのは仕方のないところでしょう。さらに、近代化で先行した西洋社会では、開発が進んでおり、それに伴う遺跡発掘の機会が多かったことも挙げられます。また、近代化で先行した西洋社会の方が、治安や政治および社会的安定と統合の点でも東洋社会より恵まれていた、という社会・政治環境も一因となったでしょう。

 こうした人為的要因とともに、自然環境の問題もあります。DNAがどれだけ残存しているかは、年代もさることながら(当然、一般的には新しい年代の方がより多く残る傾向にあります)、環境も重要となり、寒冷で乾燥した気候の方がより多く残りやすくなります。逆に、高温多湿環境ではDNAの分解が進みやすくなります。アジア東部では、たとえば北京は北に位置しており、じっさい冬はかなり寒いのですが、これはシベリア寒気団の影響によるもので、北京の緯度はローマよりも低く、夏の気温はローマより北京の方が高くなっています。当然、たとえばパリはローマよりもさらに気温が低くなります。ヨーロッパ、とくに西部はおおむね、北大西洋海流のため冬は北京よりも暖かいのですが、夏は北京よりも涼しく、この点で北京というかもっと広範囲の華北よりも古代DNA研究に適しています。当然、たとえば上海や広州は北京よりもずっと暑いわけで、この点でもアジア東部はヨーロッパよりも古代DNA研究で不利と言えるでしょう。日本列島も例外ではなく、たとえば札幌でさえ、ローマよりも緯度は高いものの、パリよりは低く、さらに日本列島はおおむね酸性土壌なので、そもそも人類遺骸の長期の残存に適していません。日本列島は非西洋社会としてはかなり早い時期に近代化が進展し、開発とそれに伴う遺跡の発掘が進んだ地域ですが、土壌と気候の点から古代DNA研究に適しているとは言い難いでしょう。

 このように、ユーラシア東部、とくにアジア東部は人為的および自然環境的問題のため、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して古代DNA研究が大きく遅れているのですが、それでも着実に進展しつつあり、とくに中国においては、経済発展とともに今後飛躍的な発展が期待されます。じっさい、アジア東部よりもさらに古代DNA研究に適していない自然環境のアジア南東部でも、4100〜1700年前頃(関連記事)や8000〜200年前頃(関連記事)の古代DNAが解析されています。また、アジア東部の古代DNA研究はまだ遅れているとしても、アジア東部系と遺伝的に近縁なアメリカ大陸先住民集団の古代DNA研究はかなり進展しているので、アジア南東部やアメリカ大陸、さらにはユーラシア西部の古代DNA研究を参照していけば、アジア東部集団の形成過程についても、ある程度は見通しが立てられるのではないか、と思います。以下、アジア東部集団の形成過程について、現時点での情報を整理します。

 出アフリカ系現代人の主要な祖先となった現生人類(Homo sapiens)集団は、出アフリカ後に各系統に分岐していきます。まず大きくはユーラシア西部系とユーラシア東部系に分岐し、後者はパプア人などオセアニア系とアジア東部・南東部・南部系に分岐していきます。現代東南アジア人の形成過程を検証した(関連記事)、以下に引用する研究(McColl et al., 2018)の図で示されているコステンキ(Kostenki)個体(関連記事)がユーラシア西部系を表します(図1)。

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https://science.sciencemag.org/content/sci/361/6397/88/F3.large.jpg


 ヨーロッパ人の形成過程については、中期更新世〜青銅器時代までを概観した(関連記事)以下に引用する研究(Lazaridis., 2018)の図にまとめられています(図2)。

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https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0959437X18300583-gr1_lrg.jpg


 アメリカ大陸先住民集団の形成過程とも関連してくる、シベリア北東部における後期更新世〜完新世にかけての現生人類集団の変容を検証した(関連記事)、以下に引用する研究(Sikora et al., 2019)の図も参考になります(図3)。

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https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-019-1279-z/MediaObjects/41586_2019_1279_Fig2_HTML.png


 分岐していった出アフリカ現生人類系統で注目されるのが、古代シベリア北部集団です。図3で示されているように、古代シベリア北部集団はユーラシア東部系統よりも西部系統の方と近縁ですが、アジア東部集団からも一定の遺伝的影響を受けている、と推定されています。古代シベリア北部集団は、シベリア東部北端に位置する31600年前頃となるヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)の31600年前頃の個体に代表されます。古代シベリア北部集団は、ユーラシア東部高緯度地帯に広範に分布していた、と考えられます。

 シベリア東部において30000年前頃以後、アジア東部集団が拡散してきて、古代シベリア北部集団と融合して新たな集団が形成され、24000年前頃には古代旧シベリア集団とベーリンジア(ベーリング陸橋)集団に分岐します。ベーリンジア集団からアメリカ大陸先住民集団が派生します。古代旧シベリア集団もベーリンジア集団も、アジア東部系統の遺伝的影響力の方がずっと強くなっています(63〜75%)。アメリカ大陸先住民集団は、後に漢人など現代アジア東部集団を形成する系統と30000年前頃に分岐したアジア東部系統を基盤に、古代シベリア北部集団の遺伝的影響も一定以上受けて成立したわけです。

 図2で示されているように、古代シベリア北部集団はヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)経由で現代ヨーロッパ人の形成にも一定以上の影響を残しています。つまり、アメリカ大陸先住民集団は、アジア東部集団と遺伝的に強い関連を有しつつも、現代ヨーロッパ集団とも3万年前頃以降となる共通の遺伝的起源を有しているわけです。ユーラシア西部で見られるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)Xが、現代アジア東部集団では基本的に存在せず、アメリカ大陸先住民集団で一定以上確認されていることから、かつては更新世におけるヨーロッパからアメリカ大陸への人類集団の渡来も想定されました。しかし、ヨーロッパ集団にもアメリカ大陸先住民集団にも遺伝的影響を残した古代シベリア北部集団の存在が明らかになり、アメリカ大陸先住民集団のmtHg-Xは古代シベリア北部集団由来と考えると、人類集団の移動を整合的に解釈できると思います。

 アジア東部集団の形成過程に関する議論において問題となるのは、アジア東部集団においては、mtHg-Xが基本的には見られないように、古代シベリア北部集団の遺伝的影響がほとんど見られない、ということです。もちろん、たとえば中国のフェイ人(Hui)が父系(Y染色体DNA)でユーラシア西部系の遺伝的影響を受けていることからも(関連記事)、現代アジア東部集団にも古代シベリア北部集団の遺伝的影響は存在するでしょう。しかし、フェイ人(回族)におけるユーラシア西部系統の遺伝的影響は父系でも30%程度で、母系(mtDNA)でも常染色体でも、フェイ人は基本的にアジア東部集団に位置づけられます。アジア東部集団は近縁なアメリカ大陸先住民集団よりもずっと、古代シベリア北部集団の遺伝的影響が低い、と言えるでしょう。

 では、31600年前頃にはユーラシア東部高緯度地帯に広範に分布していたと考えられる古代シベリア北部集団にたいして、アジア東部集団はどのような経路でいつアジア東部に拡散してきたのかが問題となります。図1で示した研究(関連記事)を参考にすると、アフリカから東進してきた現生人類集団のうち、アジア南部まで拡散してきた集団が、アジア東部集団の起源だった、と考えられます。ここから、アジア南部もしくはさらに東進して南東部から北上した集団(北方系統)と、南方に留まった集団(南方系統)に分岐します。南方系統は、アジア南東部集団の主要な祖先集団の一部です。現時点で北方系統を表していると考えられるのは、北京の南西56kmにある田园洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性です(関連記事)。ただ、田园男性の集団は現代人にほとんど遺伝的影響を残していない、と推測されています。田园集団と近縁な北方系統の集団は、北上してきた一部の南方系統集団と融合して、アジア東部集団の主要な祖先集団(祖型アジア東部集団)を形成した、と推測されます。そのさいに南方系統の方が北方系統よりも大きな遺伝的影響力を有したようです(およそ4:1の比率)。

 ここで問題となるのは、アジア東部には、大きな分類ではユーラシア東部系ではあるものの、祖型アジア東部集団とは遺伝的にかなり異なる集団がかつて存在し、現代の各地域集団の遺伝的相違にも影響を及ぼしている、ということです。まず、4万年前頃の田园男性がその代表格で、上述のようにその近縁集団が祖型アジア東部集団の形成に関わったと推測されますが、図1で示されているように、系統樹ではアジア東部の他集団と大きく異なる位置づけとされています。類似した位置づけなのが「縄文人」で、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した(関連記事)、以下に引用する研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)の図では、船泊遺跡縄文人(F23)は田园男性ほどではないにしても、他のアジア東部集団とは遺伝的にやや遠い関係にあります(図4)。

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https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase/127/2/127_190415/_html/-char/Graphics/127_190415_9.jpg


 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な現代人集団は、日本人をはじめとしてウリチ人(Ulchi)や朝鮮人などアジア東部沿岸圏に分布しています。これは、愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」でも同様なので(関連記事)、少なくとも東日本の「縄文人」の遺伝的特徴だったと考えられます。これと関連して注目されるのは、頭蓋形態の研究から、ユーラシア東部には南方系の「第1層」と北方系の「第2層」が存在し、更新世のアジア東部および南東部には日本列島の「縄文人」も含めて「第1層」が広範に分布していたのに対して、農耕開始以降、「第2層」が拡大していった、とする見解です(関連記事)。

 遺伝学と形態学を安易に結びつけてはなりませんが、アジア東部にまず拡散してきた現代人の主要な祖先集団は、アフリカからアジア南東部までユーラシア南岸沿いに拡散し、そこから北上していった、と考えられます。これが「第1層」とおおむね対応しているのでしょう。「縄文人」もその1系統で、おそらくはこの最初期アジア東部集団のうち複数系統の融合により形成されたのではないか、と思います。アジア東部ではおもに日本列島とチベットでしか見られないY染色体ハプログループ(YHg)Dは、この最初期アジア東部集団に由来するのでしょう。ただ、日本のYHg-Dのうちかなりの割合は、「縄文人」に由来しない可能性もあると思います(関連記事)。農耕拡大に伴い、アジア東部ではおおむね「第2層」と対応する祖型アジア東部集団が拡大して遺伝的影響を高めていき、日本列島でも、本州・四国・九州を中心とする「本土」集団では、遺伝的に「縄文人」の影響が弱くなり、祖型アジア東部集団の影響がずっと強くなっていった、と考えられます。

 では、祖型アジア東部集団の農耕開始前の分布範囲はどこだったのか、という問題が生じるわけですが、これはまだ不明です。おそらく、アジア東部でも北方の内陸部に存在していたのではないか、と思います。祖型アジア東部集団に近い古代集団として、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡の2人が挙げられます(関連記事)。しかし、7700年前頃と推定されている悪魔の門遺跡の2人は現代人ではウリチ人に最も近く、漢人よりも朝鮮人および日本人の方と近縁です。おそら悪魔の門遺跡集団も、最初期アジア東部集団を基盤として、後に拡散してきた祖型アジア東部集団との融合により形成されたのでしょう。祖型アジア東部集団の形成過程と分布範囲については、今後明らかになっていく、と期待されます。


 まとめると、現代アジア東部人の主要な遺伝子源となった集団のうち、アジア東部へ最初に拡散してきたのは、アフリカからアジア南東部へと東進し、そこから4万年前頃以前に北上した最初期アジア東部集団でした。最初期アジア東部集団はアジア東部に広範に存在したと考えられます。「縄文人」は、最初期アジア東部集団のうち複数系統の融合により形成された、と推測されます。一方、最初期アジア東部集団とは別に、アジア南東部もしくは南部から北上してアジア東部内陸部北方に拡散してきた集団(北方系統)が存在し、その集団と、後にアジア南東部から北上してきた集団(南方系統)の融合により、祖型アジア東部集団が形成されました。そのさいに南方系統の方が北方系統よりも大きな遺伝的影響力を有したようです(およそ4:1の比率)。

 祖型アジア東部集団の分布範囲は、アジア東部でも内陸部の比較的北方だったものの北部集団の遺伝的影響をほとんど受けていないと考えられることから、その北限はシベリアよりも南だった可能性が高そうです。祖型アジア東部集団はアジア東部において農耕の拡大にともなって拡散し、遺伝的影響を強めていきました。日本列島もその例外ではなく、弥生時代以降に到来した祖型アジア東部集団系統の遺伝的影響が在来の「縄文人」を上回っていきます。アジア南東部においても、祖型アジア東部集団系統が完新世に2回にわたって南下してきて、一定以上の遺伝的影響を残しました(関連記事)。最初期アジア東部集団の中には、4万年前頃の田园集団のように、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していない集団も少なからずあった、と予想されます。

 私はアジア東部集団の形成過程を現時点ではこのように把握しているのですが、上述のように、アジア東部における古代DNA研究がヨーロッパとの比較で大きく遅れていることは否定できません。アジア東部においては、歴史時代においても、魏晋南北朝時代や五代十国時代〜ダイチン・グルン(大清帝国)拡大期などにおいて、ある程度以上の遺伝的構成の変容があった、と考えられます。現時点では、在来集団も拡大集団もともにアジア東部系としてまとめられるかもしれませんが、将来は、アジア東部系もさらに細分化されていくだろう、と予想しています。現時点でのヨーロッパ人の形成に関する研究のように、アジア東部A系統とアジア東部B系統がどのような割合で混合したのか、というような詳しいモデル化も可能になるのではないか、というわけです。ヨーロッパと比較して古代DNA研究の遅れているアジア東部集団の形成過程について、確実な見解を提示できる段階ではまだありませんが、自分が現時点での見解を整理したかったので、まとめてみた次第です。勉強不足のため、今回は考古学の研究成果と組み合わせてまとめることができなかったので、今後はそれも課題となります。
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_2.html  

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コメント
1. 中川隆[-15208] koaQ7Jey 2019年12月06日 12:33:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2273] 報告

2019年12月06日
アジア人のゲノム
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_9.html


 アジア人のゲノムに関する研究(GenomeAsia100K Consortium., 2019)が公表されました。日本語の解説記事もあります。ヒトの遺伝学的研究ではこれまでのところ、非ヨーロッパ人のデータ不足によってゲノムデータセットにおける個体間多様性が制限されており、そのために全球的なヒト集団の大部分におけるその医学的意義も限定的なものになっています。この問題に取り組むためには、集団特異的な参照ゲノムデータセットに加え、多様な集団におけるゲノム規模関連解析が必要です。

 そこで本論文は、ゲノムアジア10万人計画の試験段階について報告しています。これには、アジア64ヶ国219集団の1739人の全ゲノム参照データセットが含まれています。本論文はこのデータセットを用いて、遺伝的変動・集団構造・疾患との関連・創始者効果についてのカタログを作成しました。また、アジアにはかなり大きな創始者集団が存在し、そうした集団から移住によって新たな集団が複数生じた、と明らかになり、これらの集団についてのさらなる研究が、稀な疾患に関連する遺伝子の特定に役立つ可能性が示唆されました。

 具体的には、検出されたゲノム変異のうち、非同義置換では23%が公的データベースに登録されていない新たな変異で、0.1%以上の頻度で検出された変異はおよそ195000個になりました。これらはアジアの特定の集団では比較的高い頻度で存在すると考えられ、今後はその医学的な意義の解明が期待されます。また、遺伝病の原因となる変異として公的データベースに登録されている変異の中には、ヨーロッパ系集団では稀である一方で、アジア系集団では高頻度である例も見つかり、これらは実際には遺伝病とは無関係である、と考えられました。さらに、各種の薬剤による副作用との関連が報告されている遺伝子変異の分布も調べられ、アジア諸集団の中でも顕著な集団差がある、と明らかになっています。これらのデータを基に、今後より大規模なアジア集団の全ゲノム塩基配列の解析が進み、ゲノム医学研究の推進に貢献する、と期待されます。

 人類進化との関連でも、興味深い知見が得られました。現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)やその近縁系統の種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑は、今ではよく知られています。ネアンデルタール人の遺伝的影響が出アフリカ系現代人の各地域集団においておおむね類似した割合で見られるのに対して、デニソワ人の遺伝的影響は、出アフリカ系現代人の各地域集団において顕著な差があり、ユーラシア西部集団では基本的に見られず、オセアニア系集団で顕著に高く、アジア南部・南東部・東部集団で低いながらも確認される、と報告されています(関連記事)。

 本論文でも、こうした以前からの知見と整合的な結果が得られました。本論文で対象とされた集団のうち、デニソワ人の遺伝的影響は、メラネシア集団とフィリピンのアエタ(Aeta)人で最も高く、中間的なのがフローレス島のアティ(Ati)人で、アジア南部・南東部・東部のほとんどの集団では低くなります(とはいえ、明らかに遺伝的影響を受けています)。アエタ人に関しては、追加のデニソワ人との交雑が推測されています。これは、今年(2019年)公表された研究(関連記事)と整合的です。

 アジア南部集団は、言語ではインド・ヨーロッパ語族と非インド・ヨーロッパ語族に、社会的もしくは文化的には、部族集団・低カースト集団・高カースト集団・パキスタン集団(インド・ヨーロッパ語族のみ)に分類され、デニソワ人の遺伝的影響に明らかな差が見られました。これは、デニソワ人の遺伝的影響を受けていないインド・ヨーロッパ語族がアジア南部に到来し、デニソワ人の遺伝的影響を受けている在来集団とさまざまな割合で混合したことを示唆し、現在の有力説と整合的です。

 インド・マレーシア・フィリピンのネグリート集団については、それぞれ他のネグリート集団よりも近隣集団の方と遺伝的に近縁で、濃い肌の色はおそらく環境適応で、共通祖先からの遺伝的継承ではない、と推測されています。ネグリート集団におけるデニソワ人の遺伝的影響の明らかな違いも、ネグリート集団を単系統群的に把握できないことを示している、と言えるでしょう。表現型から人類集団の系統関係・遺伝的近縁性を推測することには難しさもあり、ゲノム解析によりずっと正確な推測が可能になりました。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


ゲノミクス:ゲノムアジア100Kプロジェクトによりアジアでの遺伝学的発見が可能になる

Cover Story:アジア人のゲノム:ゲノムアジア100Kプロジェクトで得られた最初の参照データセット

 これまで、ヒトの遺伝学研究は主にヨーロッパ人に重点が置かれていて、そうした遺伝学的データセットに含まれる個体間多様性が制限されてきた。ゲノムアジア100Kプロジェクトは、そうしたギャップを埋めるのに大きな役割を果たすことを目的に、10万人のアジア人のゲノムの塩基配列解読と解析を計画している。今回ゲノムアジア100Kコンソーシアムは、このプロジェクトの試験段階で得られたデータ、すなわち、アジア全域の64か国の219のヒト集団に属する1739人から得られた全ゲノム参照データセットを報告している。著者たちは、このデータを用いて、遺伝的変動、集団構造、疾病関連性のカタログを作っている。また、アジアにはかなり大きな創始者集団が存在し、そうした集団から移住によって新たな集団が複数生じたことが明らかになり、これらの集団についてのさらなる研究が、まれな疾患に関連する遺伝子の特定に役立つ可能性が示唆された。


参考文献:
GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z

https://sicambre.at.webry.info/201912/article_9.html

2. 中川隆[-13767] koaQ7Jey 2020年2月15日 14:00:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-384] 報告
2020年02月15日
ニワトリではなく飼育していたキジを消費していた中国北西部の初期農耕民
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_35.html


 中国北西部の初期農耕民によるニワトリではなく飼育していたキジの消費を報告した研究(Barton et al., 2020)が公表されました。現在では、農耕・牧畜(植物の栽培化・動物の家畜化)は、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まり、周辺地域に拡散していった、と考えられており、この問題に関しては2014年の総説的論文が今でも有益だと思います(関連記事)。中国北部も9000〜7000年前頃に農耕が独自に始まった地域で、地域特有の植物の栽培化と動物の家畜化が進行し、それはキビ属とエノコログサ属(アワ)といった穀類やブタやイヌやニワトリといった家畜です。

 農耕への移行の原因については今でも議論が続いており、とくに高い関心が寄せられているのは、アジア東部のニワトリ(Gallus gallus domesticus)です。ニワトリは現在地球上で最も広範に存在する家畜ですが、ニワトリが、どこで、いつ、どのように進化したのか、合意は得られていません。中国の早期新石器時代の農耕村落遺跡では、しばしばニワトリとして識別されてきた中型の鳥の骨が含まれており、ニワトリの家畜化の最古の事例と解釈されてきました。しかし、こうした新石器時代の中国においてニワトリが出土した遺跡の中には、ニワトリの野生祖先である熱帯に適応したセキショクヤケイ(Gallus gallus)が現在では繁栄していない、中国北部の乾燥地域に位置しているものもあり、議論となっています。

 本論文は、1978〜1984年に中華人民共和国甘粛省(Gansu Province)秦安県(Qin'an County)の大地湾(Dadiwan)遺跡で発掘された鳥の骨を分析しています。大地湾遺跡におけるヒトの痕跡は8万年前頃までさかのぼり、農耕の最初の痕跡は老官台(Laoguantai)文化期となる7800年前頃(以下、すべて較正年代です)以降となります。6300年前頃までに、大地湾遺跡では農耕が発展して文化は複雑的となり、永続的な建築・貯蔵施設・工芸品生産地区・豪華な埋葬が出現し、ヒエやキビが栽培化され、イヌとブタが一年中穀類で飼育されたという同位体証拠も提示されています。

 以前の研究では、この早期新石器時代農耕共同体の鳥も穀物を与えられた推測されており、それはおそらくC4植物のキビで、夏の間にのみ成長します。大地湾遺跡では、中型の鳥の骨のコラーゲンの安定同位体値は、C4およびC3植物両方の通年植生を示す範囲に収まります。これは、たとえば現代のキジや過去のシチメンチョウ(Meleagris gallopavo)の値とよく一致します。大地湾遺跡の多くのブタや一部のイヌと同様に、同遺跡の鳥の骨の安定同位体値も、自ら探した餌とともに、農耕により生産された穀類も食べていたことを示唆します。

 大地湾遺跡の鳥は当初、ニワトリも含まれるヤケイ属の一種(Gallus sp.,)と識別されていましたが、最初の分析者は、一部の鳥がキジ科のイワシャコ(Alectoris chukar)もしくは単にキジ科かもしれない、と認識していました。本論文は、大地湾遺跡の鳥の分類学的不確実性を解決するため、すでに安定同位体値が評価された、以前はヤケイ属と識別された個体を分析しました。これらの標本はすべて、7900〜7200年前頃となる老官台(Laoguantai)文化期(3点)、もしくは6300〜5900年前頃となる仰韶(Yangshao)文化期(5点)の層で発見されました。ミトコンドリアDNA(mtDNA)分析の結果、本論文で対象とされた大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥はすべてコウライキジ(Phasianus colchicus)に分類されました。これらはさらに亜種に区分できますが、詳細な系統関係の確定にはさらなる遺伝的情報が必要になる、と本論文は指摘します。

 大地湾遺跡は中国で最古の明確な農耕集落で、北西部乾燥地帯に位置します。大地湾遺跡とその周囲のヒト生物群系に生息し、その後にヒトに消費された鳥は、家畜化されたニワトリでも、その野生祖先であるセキショクヤケイでもなく、コウライキジと特定されました。重要なことに、大地湾遺跡の先史時代の鳥と遺伝的に合致する現生3亜種はすべて、砂漠・草原・乾燥高地帯を含む中国北部の混合的環境で現在確認されます。これは、外来の鳥ではなく地元の鳥が消費されたことを示します。

 現在、これらの大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥が囲いで飼育されたとか、その卵をヒトが消費したとかいう証拠はなく、直接的にヒトが管理したという証拠さえありません。本論文の分析から言えるのは、大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥の食性は野生動物に似ておらず、食性のかなりの部分を新石器時代以降のヒトだけが提供できる穀類に依存していたに違いない、ということです。大地湾遺跡の早期新石器時代の鳥は、穀物貯蔵庫の穀類、もしくは栽培化されたキビの収穫と処理で生じる廃棄物を食べ、その鳥をヒトが食べた、というわけです。

 本論文は早期新石器時代の大地湾遺跡における、鳥(コウライキジ)とヒトとのこの単純な共生を「低水準の鳥の生産」と呼び、それが地域的な収穫量を高めるための意図的で低コストとなるヒトの生存戦略だった、と指摘します。農耕共同体の敷地内もしくは隣接する農地内の農業廃棄物を加減するだけで、食用となる鳥の量さを調整できるため、低水準の食料生産においては効果的な手段でした。さらに、この慣行は、農耕共同体が分裂もしくは移住するたびに、籠に入れて輸送したり抱きかかえたりせずとも開始できました。地元の環境に固有の鳥は、単に自分のために農耕共同体の廃棄物を食べ、人々はその鳥を食べた、というわけです。

 鳥の骨のコラーゲンの同位体パターンは、新石器時代の中国北部の他の場所でも見られ、「低水準の鳥の生産」が温帯環境に居住する広範囲の民族言語的集団において適応的だった、と示唆します。このような考古学的な鳥遺骸の時空間的研究は、「低水準の鳥の生産」がキジに限定されていたのかどうか、明らかにできるかもしれません。また、キジあるいはニワトリやその野生祖先を含む他の肉質の地上性の鳥が先史時代にどの程度管理されていたのか、という問題の解明にも役立つのではないか、と期待されます。

 上述のように、農耕と牧畜は世界各地で年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まった、と考えられていますが、その過程は「革命」と呼べるような急激なものではなく、試行錯誤を伴う漸進的なものだった、と今では考えられています。たとえば中央アナトリア高原では、狩猟採集から農耕への移行期間は短くなく、早期新石器時代には農耕民集団と狩猟採集民集団とが混在していた、と指摘されています(関連記事)。中国北部の早期新石器時代村落でも、農耕開始からしばらくは生産性が低く、穀類やその収穫の過程で生じる廃棄物を鳥に食べさせ、ある程度管理することで多様な栄養源を確保していたのでしょう。その鳥が、早期新石器時代の中国北部では在来野生種のコウライキジだった、というわけです。こうした早期新石器時代農耕民の経験が、後に中国北部にはその祖先種(セキショクヤケイ)が存在しないニワトリを導入して飼育するさいにも役立った、と考えられます。


参考文献:
Barton L. et al.(2020): The earliest farmers of northwest China exploited grain-fed pheasants not chickens. Scientific Reports, 10, 2556.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-59316-5

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_35.html

3. 中川隆[-13674] koaQ7Jey 2020年2月19日 10:52:05 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-250] 報告
2020年02月19日
Robin Dennell「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」
https://sicambre.at.webry.info/202002/article_40.html


 朝日選書の一冊として朝日新聞出版より2020年2月に刊行された

西秋良宏『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』
https://www.amazon.co.jp/アフリカからアジアへ-現生人類はどう拡散したか-朝日選書-西秋良宏/dp/4022630949


所収の論文です。本論文は、中国を中心としたアジア東部における現生人類(Homo sapiens)の起源、つまり現生人類がいつアジア東部に到来したのか、という問題を取り上げています。これに関しては、現生人類の拡散は1回だけで、6万年前頃にアフリカから拡散し始め、アジアやオーストラリアへ一気に拡散した、という見解と、主要な拡散は2回あり、最初は10万年前頃、2回目は6万年前頃だった、という見解が提示されています。

 本論文はまず、アジア東部の環境を取り上げます。中国の自然環境は南北に二分されます。北部は旧北区の亜乾燥地域で、南部は降水量が多く、典型的な亜熱帯・熱帯の植生が広がっています。もちろん、これは現代の気候ですが、中国は過去250万年の古気候記録も豊富で、人類拡散の研究に役立っています。本論文では、現生人類のアジア東部への拡散と関わってくる、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5および4の植生復元図が掲載されており、温暖なMIS5では現在とさほど変わらない地形ですが、寒冷なMIS4(MISは奇数が温暖期、偶数が寒冷期)では、砂漠が拡大するとともに、海水面の低下により陸地が増大し、現在とは大きく異なる地形であることが改めて了解されます。温暖で湿潤な時期には中国北部では砂漠が縮小し、西方や北方からの移住が容易となった一方で、中国南部では密集した森林の発達により移住はやや困難となります。逆に寒冷期には、南部への移住は容易になるものの、北部では北方や西方からの移住は拡大した砂漠により困難となります。中国への南方からの移住は、難易度の違いはあれどもどの時期にも可能だったのに対して、北方への移住は温暖な時期にのみ可能だったことになります。こうした人類の移住パターンは過去50万年以上にわたって繰り返されていただろう、と本論文は指摘します。

 黄土高原の気候復元データからは、過去50万年に温暖湿潤な時期は4回あった、と明らかになっています。この時期の中国北部の人類遺骸としては、MIS7における遼寧省営口市の金牛山(Jinniushan)遺跡や陝西省渭南市の大茘(Dali)遺跡の頭蓋骨があります。年代は、大茘人の方がやや新しい20万年前頃と推定されています。本論文は両者をハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)と分類していますが、ハイデルベルゲンシスという分類群には大きな問題があると思うので(関連記事)、とりあえず非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)と考えておきます。

 本論文は、中国北部で確認されているホモ・エレクトス(Homo erectus)は金牛山遺跡や大茘遺跡の古代型ホモ属の祖先ではない、という見解を採用しています。中国北部の河北省張家口市陽原県の許家窯(Xujiayao)遺跡のホモ属遺骸(関連記事)については、33万年前頃、20万〜16万年前頃、16万年前頃よりもずっと新しいなど、年代が確定していませんが、分類も難しい、と本論文は指摘します。エレクトスでもハイデルベルク人でもネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)でもなく、交雑系統かもしれない、と本論文は推測しています。河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された、MIS 5となる125000〜105000年前頃の頭蓋骨(関連記事)について本論文は、在地の古い集団から連続する特徴とネアンデルタール人的特徴とが混在していることから、交雑の可能性を指摘しています。このように、現生人類が中国に拡散してきた時、すでに異なる系統のホモ属が存在しており、交雑が起きた可能性も考えられます。

 早期現生人類の証拠としてアジア南東部で挙げられているのは、ラオスのフアパン(Huà Pan)県にあるタンパリン(Tam Pa Ling)洞窟遺跡(関連記事)、ボルネオ島のニア洞窟群(Niah Caves)遺跡、スマトラ島中部のリダアジャー(Lida Ajer)洞窟遺跡(関連記事)です。このうち、現生人類の痕跡として最古となりそうなのは、73000〜63000年前頃の現生人類の歯が発見されているリダアジャー遺跡ですが、疑問も呈されています(関連記事)。タンパリンの現生人類遺骸の推定年代は63000〜44000年前頃です。ニア洞窟では45000年前頃の現生人類頭蓋骨が発見されており、熱帯雨林における適応の最古級の事例という点で注目されます。なお、ニア洞窟では10万年以上前の人類の痕跡も報告されています(関連記事)。

 中国南部では、広西壮族(チワン族)自治区崇左市の智人洞窟(Zhirendong)で10万年以上前とされる現生人類の下顎骨と歯が発見されています(関連記事)。これは在地の人類集団と外来の現生人類との交雑集団である可能性も指摘されています。また本論文は、これが単に新しいホモ・エレクトス(Homo erectus)である可能性も提示しています。さらに、この智人洞窟の人類遺骸については、年代に疑問が呈されています。年代は洞窟の床面の一部に堆積したフローストーン(流華石)に基づいていますが、数cmの幅に密集して堆積した流華石の最上部が55000年前頃、最下部が10万年前頃と推定されており、どの部分が下顎骨と関連しているのか決定するのは不可能だろう、というわけです。湖南省永州市(Yongzhou)道県(Daoxian)の福岩洞窟(Fuyan Cave)では、10万〜8万年前頃の現生人類の歯が48本発見されています(関連記事)。福岩洞窟では床面全体が8万年前頃の流華石に覆われており、中国南部には8万年前頃に現生人類が到来していたことになります。しかし本論文は、現生人類の歯が出土した層の形成過程について、さらに詳細に調査されるべきである、と慎重な姿勢を示します。

 このように、中国南部には10万〜8万年前頃に現生人類が到来していた可能性もあるものの、その年代についてはまだ議論の余地があるようです。雲南省の馬鹿洞(Maludong)遺跡では、14310±340〜13590±160年前のホモ属遺骸が発見されています(関連記事)。馬鹿洞人には祖先的特徴も見られ、未知のホモ属系統である可能性も指摘されていますが、山間盆地の点在する環境なので、非現生人類種とは言えないまでも孤立した集団ではないか、と本論文は指摘しています。モンゴル国東部に位置するヘンティー(Khentii)県ノロヴリン(Norovlin)郡のサルキット渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の頭蓋に関しては、祖先的特徴が指摘されていますが、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では現生人類の変異内に収まる、と明らかになっています(関連記事)。本論文は、形態から種を決定するのは難しくなってきており、また現生人類とネアンデルタール人との交雑集団をどう区分すべきなのか、といった問題が生じてきている、と指摘します。

 中国北部は、現生人類の到来を検証するうえで重要となる8万〜3万年前頃には、砂漠と草原との間の変化が何回も起きていたように、ひじょうに不安定な気候だった、と明らかになっています。中国北部では、さらに北方からの人類移住の証拠も見られ、防寒性の高い服がすでに使用されていたことを示唆します。チベット北部のチャンタン(Changthang)地域にある、海抜約4600mに位置する尼阿底(Nwya Devu)遺跡では4万〜3万年前頃の現生人類のものと思われる石器群が発見されており(関連記事)、これも当時の人類の寒冷適応を示しています。内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡では47000〜37000年前頃のムステリアン(Mousterian)石器群が発見されており(関連記事)、本論文はその製作者を、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑集団と推測しています。

 中国北部において確実な現生人類の痕跡として最古のものは、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類の下顎と足の骨で、石器の共伴はありませんが、形態学でも遺伝学でも現生人類に分類されています(関連記事)。田园洞窟の現生人類男性は日常的に履物を使用していた、と推測されています(関連記事)。北京市房山区の周口店(Zhoukoudian)遺跡では現生人類の頭蓋骨と、ヨーロッパの上部旧石器時代初頭のものとよく似たビーズが発見されており、年代は36000年前頃と推定されています。

 寧夏回族自治区の水洞溝1遺跡では、4万年前頃の上部旧石器時代初頭の石器群が発見されており、少なくとも2種類の石刃剥離工程を示すものも含まれ、モンゴルやシベリアの同時代石器群と対比されていますが、中国南部の石器群とは大きく異なります。水洞溝2遺跡では、36000〜28000年前頃にかけて断続的にヒトが居住した、と推測されています。水洞溝2遺跡の石器群や装身具はシベリアで発見されたものとよく似ています。中国北部の早期現生人類と関連していると推測される考古学的記録はモンゴルやシベリアのそれとの共通性が高く、中国南部と異なっていますが、これは上述の自然環境の違いを反映しているようです。25000年前頃以降には、中国北部に細石刃石器群が出現し、シベリアやモンゴルや朝鮮半島や日本列島北部でも発見されていることから、北方からの移住は繰り返されていた、と示唆されます。中国北部への現生人類の拡散は、水洞溝1遺跡のような大型石刃石器群を有する集団、次に水洞溝2遺跡のような小型石刃石器群を有する集団、その次に細石刃石刃石器群を有する集団の3回ほどあっただろう、と推測しています。

 本論文は、以上のように中国における人類史は複雑で、それは広大な面積と多様な自然環境に起因する、と指摘します。中国には、現生人類の到来前に他の人類がすでに存在していました。本論文は、上述の金斯太洞窟遺跡の事例から、現生人類が中国北部の環境に適応できた一因として、ネアンデルタール人もしくはネアンデルタール人とデニソワ人の交雑集団から技術を学んだ可能性すら考慮すべきである、と指摘します。中国を含めてアジア東部への現生人類の拡散は、以前の想定よりもずっと複雑だったようで、今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Dennell R. 、西秋良宏翻訳(2020)「現生人類はいつ東アジアへやってきたのか」西秋良宏編『アフリカからアジアへ 現生人類はどう拡散したか』(朝日新聞出版)第3章P95-126

https://sicambre.at.webry.info/202002/article_40.html

4. 中川隆[-13242] koaQ7Jey 2020年4月10日 15:25:24 : sfbpU46eAE : ZG5QWVdwY0dyRG8=[-5] 報告
2020年04月10日
太田博樹「縄文人骨ゲノム解析から見えてきた東ユーラシア大陸へのホモ・サピエンスの拡散」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_14.html


 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B02「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 29)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P25-29)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、ユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散についての概説です。ユーラシア東部集団のゲノム解析では、アフリカからヒマラヤ山脈以南の経路(南方経路)での東方への拡散が推測されています。一方、考古学では北方経路の存在も強く示されており、その痕跡と考えられる遺物は北海道でも発見されています。日本列島で最古となる確実な後期旧石器時代の石器は38000年前頃までさかのぼり、シベリア中央部バイカル湖周辺を起源とすると考えられる細石刃は、北海道では25000年前頃、本州では2万年前頃のものが発見されています。

 しかし、日本列島の後期旧石器時代の遺跡からは、土壌の問題もあってほとんど古人骨が見つかっていません。一方、16000年前頃以降(開始の年代には議論があります)から始まる縄文文化の担い手たる「縄文人」は、後期旧石器時代から日本列島に住んでいた人々の直接の子孫で、最終氷期の終焉とともにユーラシア東部大陸部の人類集団から孤立した、と考えられています。「縄文人」が後期旧石器時代人の直接的子孫とは確証されていませんし、日本列島における旧石器時代の古人骨がほとんど見つかっていないため、今後も検証は困難かもしれません。しかし、「縄文人」遺骸は多数発見されており、「縄文人」ゲノム解析はユーラシア東部における現生人類の移住史に、重要な情報を与えると期待できる、と本論文は指摘します。

 本論文は、愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(IK002)のゲノム解析結果(関連記事)を取り上げ、「縄文人」が後期旧石器時代人の子孫なのか、北方経路でユーラシア東端に到達した人々の遺伝的影響が検出されるのか、検証しています。IK002と現代および過去のユーラシア東部集団のゲノムデータの比較に基づく系統樹では、シベリア南部中央のバイカル湖近くのマリタ(Mal'ta)遺跡(関連記事)とアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団が分岐した後、ホアビン文化集団のすぐ内側で、4万年前頃となる田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)人(関連記事)が分岐し、ネパールの少数民族であるクスンダ(Kusunda)人その後でさらにその後でIK002が分岐します。現代アジア東部集団および北東部(シベリア東部)集団とアメリカ大陸先住民集団は、さらにその内側で分岐します。つまり、IK002のみならず、現代のユーラシア東部集団およびアメリカ大陸先住民集団は南方経路で東進してきた早期現生人類集団のゲノムを主に継承しており、アジア南東部集団と分岐した後に分化していった集団と明らかになりました。

 IK002と現代および過去のユーラシア東部集団との間の遺伝子流動については、マリタ集団からは、現代アジア北東部(シベリア東部)集団への遺伝子流動が有意に示されたものの、現代アジア東部および南東部集団とIK002へは有意に検出されませんでした。つまり、現代アジア東部および南東部集団とIK002には、北方経路の遺伝的影響は検出されなかったわけです。

 これらの知見からまず言えるのは、IK002の祖先は南方経路でユーラシア東部に拡散してきた、ということです。ただ、他の「縄文人」個体については、詳しく調べていかないと不明です。「縄文人」でIK002並かそれ以上に高品質なゲノム配列が得られているのは、他に北海道の礼文島の船泊遺跡で発見された2個体(関連記事)ですが、ともにIK002とひじょうによく似ています。今後は、西日本の「縄文人」のゲノムデータが待ち望まれます。次に、IK002は北方経路集団の遺伝的影響は確認されていないものの、他の個体のゲノム解読では遺伝子流動の痕跡が検出されるかもしれない、と本論文は指摘します。また本論文は、K002の祖先は南方経路でユーラシア東部に拡散してきたものの、日本列島への移住経路については南方からとは限らず(南方経路でユーラシア東部に拡散してきた集団がアジア東部で北上し、日本列島へは北海道から南下してきた可能性など)、今後日本列島内の多様な地域の「縄文人」のゲノム解析の必要がある、と指摘します。


参考文献:
太田博樹(2020)「縄文人骨ゲノム解析から見えてきた東ユーラシア大陸へのホモ・サピエンスの拡散」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 29)』P25-29

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_14.html

5. 中川隆[-13338] koaQ7Jey 2020年4月13日 08:20:58 : fsqm4t39Lc : b0hWUUt3RHJnVDY=[-8] 報告
2020年04月13日
仲田大人「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_20.html


 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究A01「アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P84-91)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 ユーラシアにおける現生人類(Homo sapiens)の拡散については、ヨーロッパやアフリカでの研究がモデルとして引用されてきました。「現代人的行動」モデルはその代表例です。ユーラシア東部でもこのモデルから現生人類の拡散を論じられるとしても、ユーラシア西部と比較して考古学的記録の偏りもあり、推測が難しくなっています。現生人類がユーラシアに拡散したさい、西部には先住のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が存在しましたが、東部には種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)もおり、アジア南東部島嶼部にはホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)などその他の人類もまだ存在していたかもしれません。現生人類拡散期のユーラシアに東部においては、西部とは異なった複雑な人類進化史が想定できるようです。本論文は、現生人類のユーラシアへの拡散と、日本列島への到来について、近年における遺伝学・形態学・考古学の研究成果を整理しています。

 現生人類の起源については近年、アフリカにおける複雑な進化が提案されるようになりました(関連記事)。アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散時期については、早期説と後期説があります。早期説では6万年以上前からの小規模な拡散と、6万〜5万年前頃の本格的な拡散が想定され、前者の拡散ではレヴァントを越えるさいに失敗した可能性も指摘されています。後期説では、ユーラシアへの現生人類の拡散は爆発的な1回の事象で生じたとされます。アフリカからユーラシアへの現生人類の拡散経路については、早期説ではアフリカ東部からアラビア半島を経てのユーラシア南岸沿いとの見解(南方経路)が、後期説ではそれに加えてレヴァント経由での拡散(北方経路)も想定されています。

 ユーラシア東部に関しては、頭蓋形態の分析・比較から現生人類がどのように拡散してきたのか、推測されています(関連記事)。その研究では、ユーラシア東部には南方系の第1層と北方系の第2層が存在し、更新世のアジア東部および南東部には日本列島の「縄文人」も含めて第1層が広範に分布していたのに対して、農耕開始以降、第2層が拡大していった、と推測されています。第1層がオーストラリア先住民集団やメラネシア集団やアンダマン諸島集団との類似性が指摘されている南方系なのに対して、第2層は漢人や日本人などを含む北方系とされます。中国で発見されている更新世の現生人類も「縄文人」も第1層に分類され、第1層に分類される最北端の人類遺骸は周口店上洞(Upper Cave at Zhoukoudian)遺跡で発見されています。アジア東部には、まずアフリカからユーラシア南方を経てアジア南東部に達し、そこから北上してきた集団が拡散したようです。

 遺伝学では、アジア南東部に拡散してきた現生人類が、さらにオセアニアへと東進した集団と、北上してアジア東部に拡散した集団とに分岐した、と推測されています(関連記事)。その北上した一部集団の1個体が、北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性ですが、この集団は現代人にほとんど遺伝的影響をのこしていない、と推測されています(関連記事)。また、更新世アジア南東部狩猟採集民集団と「縄文人」の遺伝的近縁性が指摘されていますが、「縄文人」は現代アジア東部集団系統の「北方系」のより強い遺伝的影響が見られる、と推測されています。

 考古学的には、ヨーロッパやアジア北部における石刃技術の出現が、北方経路での現生人類拡散の指標とされています。初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)石刃群はレヴァントを起点として、ヨーロッパ東部・アジア中央部・アルタイ地域・中国北部に点在します。IUP石刃群は一般的に、ルヴァロワ(Levallois)式とプリズム式という二つの技法を有します。IUP石刃群と人類遺骸との共伴事例はまだありませんが、地理的情報システム(GIS)や古気候データも使用した研究では、「乾燥期」には現生人類が天山山脈やアルタイ山地西部から北上し、アルタイ山地を経由してバイカル湖東南端を南下する経路が、湿潤期にアルタイ経路や天山山脈西部を通る経路や天山山脈の南方を通るタリム経路が想定されています(関連記事)。北方経路とはいっても、様々だったかもしれない、というわけです。

 中国におけるIUP石器群については、華北とチベット高原では石刃技術が見られるものの、華南では報告されていません。華北とチベット高原に関しては、(1)IUP石刃石器群の遺跡、(2)石刃を伴う細石刃遺跡、(3)石刃の疑いのある遺跡に3区分されています。(1)は新疆から黒龍江までの中国北部・北西部で見られ、石核・剥片石器群と分布が相接します。華北では4万年以上前から石核・剥片石器群が継続しており、その分布密度から人口密度もまた相当高かったと推測されています。それに対して、北西部は4万年以上前から続く石器群は少ないので人口密度も低かったと推測されており、そこに(1)がアルタイ地域・シベリア方面から拡散してきた、と考えられています。しかし、より南あるいは東へは、石核・剥片石器群やルヴァロワ式石器群の分布と重なるために分布を広げられなかった、と推測されています。(1)と(3)に関しては、異なる集団が担い手と考えられています。(1)は西方から拡散してきた現生人類集団、(3)は在地で継続的に進化してきた非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)集団だったかもしれない、というわけです。

 アジア各地の中部旧石器時代から上部旧石器時代への移行について、(1)ルヴァロワ技術と初期の石刃技術をもつIUP石器群が残される地域、(2)礫石器と剥片・石核を有し、そこに石刃インダストリーやその他の石器インダストリーが融合する地域、(3)中国南部のような礫石器インダストリーが継続する保守的な地域、という3パターンが指摘されています。(1)はアルタイ地域の事例が典型で、華北のIUP石器群や韓国のスヤンゲ遺跡第6地点などは(2)となります。ただ、(2)においても華北では IUPは一過的な流行であったの対して、韓国スヤンゲ遺跡第6地点で見られるように大型石刃技術がなくなったあとも石刃・細石刃石器群が展開する、というような違いもあります。日本列島も(2)に含まれ、韓国の石器群と似た上部旧石器時代(後期旧石器時代)前半の石器技術のパターンを示す、と指摘されています。

 中国における石核・剥片石器群の動態については、まず、石核・剥片技術が華北の泥河湾地域に出現し、河北省張家口(Zhangjiakou)市陽原(Yangyuan)県の許家窯(Xujiayao)など海洋酸素同位体ステージ(MIS)5の遺跡では多様な剥片石核法が用いられ、鋸歯縁石器や大型削器が作られる、と指摘されています。MIS3には、華北の太行山脈東側では石核・剥片石器群が続きます。周口店上層や仙人洞など骨角器や象徴遺物をもった技術複合体も出現します。一方、アジア北東部との境界になる太行山脈西側では、45000〜40000年前頃にIUP石刃石器群とルヴァロワ石器群や「中部旧石器的な」鋸歯縁石器群などが移動してきます。水洞溝や内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟などの遺跡が相当します。しかし、4万年前頃以降には太行山脈西側一帯にも石核・剥片石器群が展開し、水洞溝遺跡第2地点がその典型で、その他にも峙峪や塔水河のように縦長剥片の石器群も見られます。

 MIS3後半になると、石核・剥片石器群は華南地域にも出現します。白蓮洞や貴州省(Guizhou Province)の観音洞洞窟(Guanyindong Cave)遺跡において小型剥片石器群が作られるようになりますが、MIS2には礫石器群に置換されます。中国北部においては、人類の拡散方向はユーラシア草原地帯に沿っていました。アルタイ地域からモンゴルにかけてのIUP石刃石器群やルヴァロワ石器群も、その流れで登場します。MIS3後半の 縦長剥片をともなう石核・剥片石器群も、外部集団との接触により生じた可能性があります。こうした状況は、MIS3においては環境変化が居住者たちにさほど影響を与えておらず、従来の生活様式には圧力となっていなかったことを示します。しかし、MIS2の最終氷期極大期(LGM)には、集団の南北移動という大きな変化が見られます。

 油房遺跡においては、最下層(MIS3)で剥片技術、MIS2上層では精巧な石刃技術とアジア北東部との関連の強い細石刃技術が見られるようになります。泥河湾盆地周辺においては、MIS2の環境に対応するため、アルタイ地域やアジア中央部から高緯度草原地帯を移動してきた集団との接触を通じて、技術を得たかもしれません。暖期には高緯度に分布していた動植物群は、MIS2の乾燥期には次第に南下し始めます。それと共に人類集団も北から南へ移動したと考えられ、その過程で石刃や細石刃技術が華北から中原にかけて拡大していったようです。柿子灘遺跡第7層のように細石刃技術とダチョウの卵殻ビーズという、それまでの在地にはない遺物も見つかっており、細石刃技術の展開には新規の文化集団が参入している場合もあった、と推測されます。

 モンスーンがぶつかり合うアジア東部は、夏には華北において、冬には内陸部でその影響を受けます。この2地域がアジア東部の石器技術伝統とアジア北東部やユーラシア西部の石器技術伝統との境界に相当します。華北は外部から移動してくる集団との窓口にあたり、さまざまな地域の技術伝統の交差点でした。環境変化の対応と各地の文化に対面するフロントとして機能していたことがMIS3ステージ以降の旧石器文化を形成してきた背景にある、と考えられます。

 華南でも定型性の高い骨角器が報告されています。貴州省の馬鞍山遺跡では8層のうち第6層から第3層で骨角器が確認されており、年代は35000〜18000年前頃と推定されています。いずれの文化層からも研磨成形された骨角器が見つかっています。35100〜34800年前頃となる第6層の骨角器は小型哺乳類の長骨を用いた錐とされ、使用痕判定から、柔らかな獣皮を穿孔する道具として利用されたと考えられています。華南地域の旧石器群は礫石器・剥片石器群で、石製の狩猟具を伴いません。第5層以降では狩猟活動に用いられた骨角器も含まれており、石器技術とは別の狩猟具製作を有機技術で行っていた、と考えられます。35000年前頃という年代の骨角器は、南方経路ではタイのランロンリン岩陰、マレーシアのニア洞窟、スリランカのバタトンバ・レナ、ティモールのマジャ・クルなどで発見されている骨角器資料と同じかそれ以上の古さとなりそうです。

 かつては、有機技術が10万〜6万年前頃頃にアフリカ中期石器文化で発明された革新的技術で、その現生人類集団が移動により拡散した、と考えられてきました。しかし、近年、南方経路上で相次いで見つかる骨角器の年代は45000年前頃以降で、ヨーロッパやアフリカでは研磨技術による骨角器整形が稀であることなどから、こうした文化革新はアフリカとは不連続に発生したかもしれない、と指摘されています。中国では4万年前頃以降、華北において骨角器技術ないしは貝製装飾品が作られるようになります。以前より周口店上層や仙人洞におけるそうした有機質資料は「現代人的行動」の特徴をよく表している、と注目されており、最近では水洞溝遺跡群で淡水性貝類ビーズやダチョウの卵殻ビーズも見つかっています。骨角器の研磨技術も華北の小狐山において観察されており、とくに華南に特有というわけでもありません。日本列島日本における研磨技術の出現を考える場合には、アジア東部でどのようにこの技術が出現するのかが、重要となります。

 石器型式において中国や韓国の旧石器と類似する資料は日本にも多く見られます。これに関して、既存の研究が特定型式に注目するあまり、石器群の発達を単線的な枠組みで考えきたことが指摘されています。そこで、層位に基づいて石器群伝統が4区分されています。それは、(1)ハンドアックス(握斧)と多面体石器を有する石器群の伝統、(2)石英製小型石器群の伝統、(3)石刃と剥片尖頭器を有する石器群伝統、(4)細石器を中心とする石器群伝統です。これらは時間的な変遷を示していますが、断絶的な変化ではなく、いくつかの技術システムが共存して持続するなかで、より効率的な技術がほかに取って代わる、進化論的な変化だった、との見解も提示されています。また、後期旧石器(上部旧石器)群を、中期旧石器(中部旧石器)以来続く剥片石器を含む礫石器伝統、在地の剥片石器伝統、石刃石器伝統、細石刃文化伝統の4つと認識し、それぞれの文化伝統は分岐のさいに共存する様相を示す、との指摘もあります。この点で注目されるのは、スヤンゲ遺跡第6地点に代表される石刃石器群の出現です。韓国の場合、礫石器伝統が広がっているところに、石刃をベースとした石器群伝統が共存し始めます。それにより、縦長タイプの剥片石器の製作や礫石器の多様化を招くなど、技術的な融合が進み、後期には石器群に多様性が現われてきます。

 モザイク・モデルでは、旧石器群の年代を精査することで、石器群の変化にはテンポの違いが見られること(漸進的か飛躍的)、石器群のモードは単線的に変化するものではなく、モザイク状に残される状況であることから、文化伝統が必ずしも年代的指標になり得るわけではない、と指摘されています。韓国の葛山里遺跡では、較正年代で34500年前30700年前という値が示されています。すでに石刃石器群が展開している時期ではあるものの、石器組成は礫石器群に剥片石器群が伴う遺跡であり、後期旧石器群の多様性が指摘されているに注意を促している。韓国では中期・後期の移行期、後期旧石器の変遷を論じる場合、示準マーカーによる単線的な変化の見方は採用されていないようです。

 この視点を踏まえて、年代の精査と石器群のグループ化を詳細に行ない、日本列島への人類移動を論じたモデルも提示されています。そのモデルでは、MIS6とMIS3とLGMという3回の画期が想定されています。このうちMIS6とMIS3については、(1)最初はMIS6〜MIS5eの頃で、鈍角剥離法を用いて石英・石英脈岩を叩き、小型石器や握斧、石球(多面体石器)を作るもので、日本列島西南部に断続的に到来してきました。(2)遅れてMIS3中盤に円盤型石核や石球、嘴状石器、錐、礫器を有する「朝鮮系の鋸歯縁石器石器群」が入ってきます。この背景として、(1)ではMIS7〜MIS5の温暖期にかけての人口増に伴うレフュジア(待避所)探索の可能性が指摘され、(2)においてもMIS4 から MIS3の寒冷期をしのぐための南下策としての移動が想定されています。

 日本列島における旧石器時代遺跡の人類遺骸は、ほぼ琉球諸島でしか見つかっていません。縄文時代になると人類遺骸が豊富に見つかるようになり、上述のように、遺伝学では「縄文人」の起源として南方経路からの少なくとも一定以上の影響が指摘されています。IUP石刃石器群と在地石器群の関係から、MIS3となる4万〜3万年前頃における人類集団の動きも少しずつ解明されつつあります。IUP石刃石器群は点在的な分布のように見えますが、核地域(core area)を形成しながら展開していったと考える方が実態に近い、と本論文は指摘します。それはおそらく、石材原料が安定的に確保できる一帯が石器群の形成に好適な場として選ばれたからでしょう。

 拡散の状況から推測すると、この石器群は、(1)集団規模は小型であった可能性が高く、(2)在地の技術伝統との融合も柔軟だった、と考えられます。その理由は、アジア中央部・アルタイ地域・華北・韓国など、核地域ごとに石器群の様相が少しずつ異なることです。その異なる部分が在地の石器技術との融合をよく示している、というわけです。ただ、中国北部や東北部や中原などでは、性格の異なる石器伝統が根づいている地域へは、在地集団の人口規模や生態環境の違いもあってか、進出しません。さらに、水洞溝のようにIUP石刃石器群が分布していた遺跡でも、その後は継起せず石核・剥片石器群に取って代わられることもあります。これらの状況も集団規模を反映するものとして理解されます。日本列島の初期石刃石器群が九州で見つからず、本州中央部以東に最初に残される理由も、そうした背景で考えられるかもしれません。この問題の検証には、在地の石器群の解明が必要です。

 日本列島の旧石器については、示準となる石器型式や石器技術を層位に基づいて配列する編年研究がさかんに行なわれてきました。一方で、石器群の構成をグループ化する方法が顧みられることは少ない、と本論文は指摘します。中国や韓国の旧石器では文化モデルとも言えるような、文化(技術)伝統やインダストリーあるいは相(facie)を単位に据えて議論されることが多いようです。日本の編年研究は石器群変化の目盛りとみるには都合がよいものの、その変異を目盛りに沿って時間軸に置き換え、それを文化シークエンスと把握しがちになります。文化モデルでは、識別された文化伝統やインダストリーの背後に何らかの文化集団を想定しまうことも多く、石器群とヒト集団を対に把握できるのか、という古くからの問題が改めて提起されます。ただ、韓国旧石器の共存モデルやモザイク・モデルの考え方は石器群、ひいては文化の多様性を理解するという点においては有効な方策だろう、と本論文は指摘します。色々な想定や解釈を差し引いて、日本列島の旧石器でも、インダストリーや相のような概念を再考してみよう、というわけです。そこから相互の関係性、すなわち融合・分岐・断絶などを観察することが必要になります。

 本論文ではここまで、日本列島の後期旧石器の特徴の一つである、刃部磨製石斧の出現については言及していません。磨製技術については骨角器製作との関連が、礫石器については韓国の礫石器・剥片石器伝統、とくに鋸歯縁石器群との関連がそれぞれ想起できる、と本論文は指摘します。また本論文は、岩手県金取遺跡の考古資料にも注目しています。韓国の葛山里遺跡の磨製石器(礫)は、地理的には近いものの、刃部磨製石斧の出現を比較するには年代的な開きもあることから、今後も色々な証拠を集め、日本列島への人類到来問題と合わせて総合的に考えていく必要がある、と本論文は指摘します。


参考文献:
仲田大人(2020)「日本列島への人類移動を考えるための覚え書き」『パレオアジア文化史学:アジアにおけるホモ・サピエンス定着プロセスの地理的編年的枠組みの構築2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 25)』P84-91


https://sicambre.at.webry.info/202004/article_20.html

6. 中川隆[-12936] koaQ7Jey 2020年4月26日 15:20:04 : YvLw5HeiWD : aXpvOTQ3M1hieWM=[1] 報告
2020年04月26日
古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html


 古代ゲノムデータに基づくアジア東部における現生人類(Homo sapiens)集団の形成史に関する研究(Wang et al., 2020)が公表されました。本論文は査読前なので、あるいは今後かなり修正されるかもしれませんが、ひじょうに興味深い内容なので取り上げます。世界でも農耕・牧畜が早期に始まった地域であるアジア東部には、現在世界の1/5以上の人口が居住しており、主要な言語は、シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、ミャオ・ヤオ語族、インド・ヨーロッパ語族、アルタイ語族(モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族)、朝鮮語族、日本語族、ユカギール語族、チュクチ・カムチャツカ語族の11語族に分類されます。過去1万年に、アジア東部では大きな経済および文化の変化がありましたが、採集から農耕への移行期における遺伝的多様性と主要な交雑事象や集団移動と遺伝的構成の変化に関しては、チベット高原と中国南部の現代人の多様性の標本抽出が少ないため、現在でも理解は貧弱です。また、ユーラシア西部および中央部では人口史の解明に貢献してきた古代DNAデータが、アジア東部では不足していることも、人口史理解の妨げとなっています。

 本論文は、中国とネパールの46集団から、383人(中国は337人、ネパールは46人)の現代人の遺伝子型を特定し、191人のアジア東部古代人のゲノム規模データを報告します。その多くは、まだ古代DNAデータが公開されていない文化集団からのものです。モンゴルからは、紀元前6000〜紀元後1000年頃の52遺跡の89人のゲノムデータが報告されます。中国からは、紀元前3000年頃となる新石器時代の陝西省楡林市靖辺県の五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡の20人です。日本からは、紀元前3500〜紀元前1500年頃となる縄文時代の狩猟採集民7人です。ロシア極東からは23人が報告されています。18人は紀元前5000年頃となる新石器時代のボイスマン2(Boisman-2)共同墓地から、1人は紀元前1000年頃となる鉄器時代のヤンコフスキー(Yankovsky)文化から、3人は中世となる紀元後1000年頃の黒水靺鞨(Heishui Mohe)および渤海靺鞨(Bohai Mohe)文化から、1人はサハリン島の歴史時代の狩猟採集民です。台湾東部では、漢本(Hanben)のビルハン(Bilhun)遺跡と緑島の公館(Gongguan)遺跡から、紀元前1400〜紀元後600年頃となる後期新石器時代〜鉄器時代の52人です。このうち、ボイスマン2遺跡の両親と4人の子供の核家族を含む、近親関係が検出されました。これら新たなデータは、縄文時代の4人、「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡からのアムール川流域の新石器時代の8人(関連記事)、アジア南東部の新石器時代から鉄器時代の72人、ネパールの8人という、以前報告されたデータと併せて分析されました。

 主成分分析では、アジア東部の人口構造は、重要な例外があるものの、地理および言語分類と相関しています。中国北西部とネパールとシベリアの集団は主成分分析ではユーラシア西部集団に寄っており、70〜5世代前に起きたと推定されるユーラシア西部関連集団との複数回の混合事象を反映しています。ユーラシア西部関連系統が最小の割合のアジア東部集団は3クラスタです。そのうち、まず「アムール川流域クラスタ」は、古代および現代のアムール川流域に住む集団と地理的に、また言語的にはツングース語とニヴフ語を話す現在の先住民と相関します。次に「チベット高原クラスタ」は、ネパールのチョクホパニ(Chokhopani)とメブラク(Mebrak)とサムヅォング(Samdzong)の古代人と、シナ・チベット語族話者でチベット高原に居住する現代人において最も強く表れます。最後に「アジア南東部クラスタ」は、古代台湾集団およびオーストロアジア語族とタイ・カダイ語族とオーストロアジア語族話者であるアジア南東部と中国南部の現代人で最大となります。漢人はこれらのクラスタの中間にあり、北部漢人は中国北部に位置する新石器時代の五庄果墚遺跡個体群の近くに位置します。モンゴル内では2クラスタが観察されます。一方は地理的にはモンゴルの東方に位置するアムール川流域クラスタとより近く、もう一方は後期銅石器時代〜前期青銅器時代にかけてアジア中央部で栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の個体群とより近く、こちらはモンゴルの西方となります。一方、何人かの個体はこれら2クラスタの中間に位置します。

 モンゴル「東部」クラスタの最古級の2人はモンゴル東部のヘルレン川(Kherlen River)地域で発見され、推定年代は紀元前6000〜紀元前4300年で、アジア北東部では早期新石器時代に相当します。この3人は、遺伝的にバイカル湖周辺地域の新石器時代個体群と類似しており、ユーラシア西部関連集団との混合の最小限の証拠が見られます。モンゴル北部の他の7人の新石器時代狩猟採集民は、シベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連した系統から5.4±1.1%の影響を受けている、とモデル化されます。これはユーラシア東西の混合の勾配の一部で、西に行くほどユーラシア西部系統と近縁になります。モンゴルの「西部」クラスタの最古の2人は、ひじょうに異なる系統を示します。この2人はアファナシェヴォ文化と関連したシャタールチュルー(Shatar Chuluu)墳墓遺跡で発見され、年代は紀元前3316〜紀元前2918年頃です。この2人は現在のロシアのアルタイ地域のアファナシェヴォ文化個体群と区別できず、同様にヤムナヤ(Yamnaya)文化個体群とも類似しているので、ヤムナヤ文化集団の東方への移住がアファナシェヴォ文化の人々に大きな影響を与えた、との見解が支持されます。本論文で分析されたこの時代より後のモンゴルの全個体群は、モンゴル新石器時代集団とより西方の草原地帯関連系統との混合です。

 本論文は、この後のモンゴル人の混合史を定量化しました。モンゴル古代人の単純な混合モデル化は、モンゴル東部系統(65〜100%)とWSHG系統(0〜35%)になります。ヤムナヤ関連系統は無視できる程度で、ロシアのアファナシェヴォおよびシンタシュタ(Sintashta)文化集団関連系統によりもたらされました。このモデルに当てはまるモンゴルの集団は、新石器時代の2集団(WSHG系統が0〜5%)のみではなく、青銅器時代〜鉄器時代にも存在します。アファナシェヴォ文化との強い関連で発見された個体のうち、紀元前3316〜紀元前2918年頃の個体ではアファナシェヴォ関連系統がほぼ100%でモデル化され、ヤムナヤ関連系統の強い影響が見られますが、それよりも後の紀元前2858〜紀元前2505年頃の男児には、ヤムナヤ関連系統の証拠が見られませんでした。この男児は、アファナシェヴォ文化との強い関連で埋葬されながら、ヤムナヤ関連系統が見られない最初の個体となります。アファナシェヴォ文化は、ヤムナヤ関連系統を有さない個体群により採用された可能性がありますこれは、人々の移動というよりはむしろ、アイデアの伝播を通じて文化が拡大した事例もある、と示唆します。その後になる紀元前2571〜紀元前2464年頃となるチェムルチェク(Chemurchek)文化の2個体は、アファナシェヴォ文化関連系統の強い影響でモデル化されます(49.0±2.6%)。

 モンゴルの中期青銅器時代以降、アファナシェヴォ文化地域に拡大したヤムナヤ関連系統が存続した確たる証拠はありません。代わりに後期青銅器時代と鉄器時代以後には、ヤムナヤ関連系統はアファナシェヴォ文化移民ではなく、その後の中期〜後期青銅器時代に西方からモンゴルに到来した、2/3はヤムナヤ関連系統で1/3はヨーロッパ農耕民関連系統のシンタシュタおよびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団によりもたらされた、と推測されます。シンタシュタ関連系統は、モンゴルの後期青銅器時代個体群で5〜57%程度見られ、西方からの到来が確認されます。早期鉄器時代以降、モンゴルでは漢人系統からの遺伝子流動の証拠が検出されます。漢人を外集団に含めると、新石器時代と青銅器時代の全集団はモンゴル東部系統・アファナシェヴォ関連系統・シンタシュタ関連系統・WSHG系統の混合でモデル化できますが、早期鉄器時代の個体や匈奴とその後のモンゴル集団ではモデル化できません。匈奴とその後のモンゴル集団における漢人系統の割合は20〜40%と推定されます。

 アファナシェヴォ関連系統は、後期青銅器時代までにモンゴルではほぼ消滅しましたが、中国西部では紀元前410〜紀元前190年頃となる鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)遺跡では持続していた、と推測されます。この集団は、モンゴル東部系統とアファナシェヴォ関連系統とWSHG系統の混合としてモデル化できます。アファナシェヴォ文化とモンゴル新石器時代の典型的系統は石人子溝個体群に寄与し、タリム盆地のトカラ語が、ヤムナヤ草原地帯牧畜民の東方への移住を通じて拡大し、アファナシェヴォ文化の外見でアルタイ山脈やモンゴルに拡大し、そこからさらに新疆へと拡大した、とする見解が支持されます。これらの結果は、インド・ヨーロッパ語族の多様化に関する議論にとって重要となります。インド・ヨーロッパ語族の既知で二番目に古い分枝であるトカラ語系統が、紀元前四千年紀末には分岐していたことになるからです。

 ロシア極東では、紀元前5000年頃となる新石器時代のボイスマン文化と、鉄器時代となる紀元前1000年頃のヤンコフスキー文化と、紀元前6000年頃となる「悪魔の門(Devil’s Gate)」の個体群が遺伝的にひじょうに類似しており、この系統がアムール川流域では少なくとも8000年前頃までさかのぼることを示します。この遺伝的継続性は、Y染色体ハプログループ(YHg)とミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)でも明らかです。ボイスマン遺跡個体群では、YHg-C2a(F1396)とmtHg-D4・C5が優勢ですが、これは現在のツングース語族やモンゴル語族や一部のテュルク語族でも同様です。新石器時代のボイスマン遺跡個体群は、縄文人との類似性を共有しています。また、アメリカ大陸先住民集団は、ボイスマン個体群やモンゴル東部系統と、他のアジア東部集団よりも多くのアレル(対立遺伝子)を有しています。ボイスマン個体群と他のアジア東部集団では、アメリカ大陸先住民集団のゲノムに1/3程度寄与したとされる、24000年前頃の古代ユーラシア北部系統個体(関連記事)と共有アレルの割合が同じなので、アメリカ大陸先住民集団からの遺伝子の「逆流」の可能性は低そうです。なお、古代ユーラシア北部系統は、より広範に拡散していた、さらに古い年代の古代シベリア北部集団の子孫と推測されています(関連記事)。この遺伝的知見は、ボイスマン個体群とモンゴル新石器時代系統が、アメリカ大陸先住民集団にアジア東部関連系統をもたらした集団と深く関連していた、という想定で説明できそうです。また、バイカル湖周辺の新石器時代および前期青銅器時代個体群は、モンゴル東部系統とのかなりの(77〜94%)共有でモデル化され、この系統がバイカル湖とモンゴル東部とアムール川流域という広範な地域に拡大していた、と明らかになります。アムール川流域の現代人の中には、もっと南方の漢人と関連するアジア東部集団に由来する系統を13〜50%有する集団もいます。紀元後1050〜1220年頃となる黒水靺鞨の1個体では、漢人もしくはその関連集団からの系統が50%以上見られるので、少なくとも中世初期にはアムール川流域集団と漢人関連集団との混合が起きていたようです。

 標高4000m以上のチベット高原は、人類にとって最も過酷な生活環境の一つです。チベット高原における人類の拡散は更新世までさかのぼりますが、永続的な居住の証拠は3600年前頃以降と推測されています(関連記事)。本論文は、チベット高原の現代人を遺伝的に17集団に分類しています。「中核チベット人」は、チョコパニ(Chokopani)のような古代ネパール人個体群(関連記事)と密接に関連しており、ユーラシア西部系統や低地アジア東部系統とは過去数十世代にわたって最小限の混合(交雑)しかしていない、と推測されます。「北部チベット人」は中核チベット人とユーラシア西部系統との混合で、高地と低地をつなぐチベット高原東端の「チベット・イー回廊」集団は、チベット語話者だけではなく、チャン語やロロ・ビルマ語話者を含み、この系統はアジア南東部クラスタ関連系統を30〜70%ほど有します。チベット人と遺伝的に近い集団として、新石器時代五庄果墚集団・漢人・チアン人(Qiang)があり、チベット人は、他の現代アジア東部集団よりもチアン人と漢人の方に遺伝的影響を残した新石器時代五庄果墚集団と密接に関連する集団系統を有する、と示唆されます。この混合は80〜60世代前(1世代28年として2240〜1680年前頃)に起きた、と推定されます。これは2集団の混合の下限年代なので、じっさいの混合は、チベット高原で農耕の始まった3600年前頃に始まっていた、と本論文は推測します。黄河上流〜中流域の農耕民が新石器時代から青銅器時代に中原と同様にチベット高原に拡散してきて、5800年前頃以降となるYHg-Oの分枝をチベット高原にもたらした、と推測されます。チベット人のYHg-Dは、在来の狩猟採集民集団に由来する可能性が高いように思われます。

 南方では、少なくとも紀元前1400〜紀元後600年頃となる台湾の漢本(Hanben)および公館(Gongguan)文化の個体群が、遺伝的には現代オーストロネシア語族話者およびバヌアツの古代ラピタ(Lapita)文化集団と最も類似しています。これは、漢本および公館文化の鉄器時代個体群において支配的なYHg-O2a2b2(N6)とmtHg-E1a・B4a1a・F3b1・F4bが、オーストロネシア語族話者の間で広く見られることでも明らかです。本論文は、現代のオーストロアジア語族話者である台湾のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)を、多様なアジ集団と比較しました。古代台湾集団とオーストロネシア語族集団は、他のアジア東部集団よりも、中国本土南部および海南省のタイ・カダイ語族話者と顕著にアレルを共有しています。これは、現代タイ・カダイ語族話者と関連した古代集団が、台湾に5000年前頃に農耕をもたらした、との仮説と一致します。「縄文人」は、他のアジア東部集団と比較して、古代台湾個体群と顕著に多くアレルを共有していますが、例外はアムール川流域クラスタです。

 漢人は世界で最多の人口の民族とされます。考古学と言語学に基づき、漢人の祖先集団は中国北部の黄河上流および中流域の早期農耕民で構成され、その子孫の中には、チベット高原に拡散し、現在のチベット・ビルマ語派の祖先集団の一部になった、と推測されています。考古学と歴史学では、過去2000年に漢人(の主要な祖先集団)がすでに農耕の確立していた南方に拡大した、と考えられています。現代人のゲノム規模多様性分析では、漢人は北部から南部への遺伝的勾配で特徴づけられ、本論文の分析でも改めて確認されました。新石器時代の五庄果墚集団と現代のチベット人およびアムール川流域集団は、アジア南東部クラスタと比較して、漢人と顕著に多くのアレルを共有しています。一方、アジア南東部クラスタは、五庄果墚集団と比較して、漢人の大半と顕著により多くのアレルを共有しています。これらの知見から、漢人は、五庄果墚集団と関連した集団と、アジア南東部クラスタと関連した集団との間で、さまざまな混合割合を有している、と示唆されます。現代漢人はほぼ全員、黄河流域の新石器時代五庄果墚集団と関連した系統(77〜93%)と、長江流域の稲作農耕民と密接に関連した古代台湾集団と関連した集団の混合としてモデル化できます。これは、長江流域農耕民関連系統が、オーストロネシア語族およびタイ・カダイ語族話者のほぼ全系統と、オーストロアジア語族話者の約2/3の系統と関連している、という本論文の推定と一致します。五庄果墚集団のゲノムが現代人に汚染されている可能性はありますが、そうだとしても、混合の推定値に3〜4%以上の誤差はもたらさないだろう、と本論文は推測しています。北部漢人集団におけるユーラシア西部関連系統との交雑の年代は45〜32世代前で、紀元後618〜907年の唐王朝と、紀元後960〜1279(もしくは1276)年の宋王朝の時期に相当します。歴史的記録からも、この時期の漢人(の主要な祖先集団)と西方集団との混合が確認されますが、これは混合の下限年代で、もっと早かった可能性があります。

 現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団は、漢人系統(84.3%)と「縄文人」系統(15.7%)の混合、もしくは朝鮮人系統(87.6%)と縄文人系統(12.4%)の混合としてモデル化され、両者を統計的に区別できません。この分析が示唆するのは、日本の「本土」系統が直接的に漢人もしくは朝鮮人によりもたらされた、ということではなく、まだ古代DNAデータの得られていない、漢人と朝鮮人の系統に大きな割合を残した集団と関連した祖先的集団からもたらされた、ということです。7人の「縄文人」は、紀元前1500〜紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1人と、紀元前3500〜紀元前2000年頃となる千葉市の六通貝塚の6人です。船泊遺跡の方は、高品質なゲノム配列が得られている女性個体ではなく、男性個体が分析対象となっており、この男性個体はmtHg-N9b1で、YHgは以前D1a2a2b(旧D1b2b)と報告されていましたが(関連記事)、今回はDとのみ報告されています。六通貝塚の6人のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に分類されている3人のうち2人がN9b1、1人がN9b2aです。六通貝塚の6人のうち3人が男性で、YHgはD1a2a1c1(旧D1b1c1)です。現代日本人のYHg-Dのうち多数派はYHg-D1a2a1(旧D1b1)ですが、これまで「縄文人」で詳細に確認されていたのは現代日本人では少数派のYHg- D1a2a2(旧D1b2)のみでした。本論文はまだ査読前ですが、これは「縄文人」としては初めて確認されたYHg-D1a2a1の事例になると思います。これまで、「縄文人」ではYHg-D1a2a1が確認されておらず、YHg- D1a2a2のみだったので、YHg-D1a2a1が弥生時代以降に日本列島に到来した可能性も想定していたのですが(関連記事)、これでYHg-D1a2aが「縄文人」由来である可能性はやはり高い、と言えそうです。

 本論文は、以上の知見をまとめて、アジア東部における集団形成史を図示しています。アジア東部集団は、古代の2集団から派生したとモデル化できます。一方は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類(Homo sapiens)個体(関連記事)と同系統のユーラシア東部北方集団(以下、北方集団)で、もう一方はアンダマン諸島のオンゲ(Onge)集団と密接に関連したユーラシア東部南方集団(以下、南方集団)です。アジア東部集団の系統はこの祖先的2集団に由来し、それぞれの割合はさまざまです。

 このモデルでは、モンゴル東部系統とアムール川流域のボイスマン関連系統は、北方集団関連系統からの割合が最大で、他のアジア東部集団と比較して、南方集団関連系統からの割合は最小限に留まっています。モンゴル東部系統の近縁系統は、チベット高原に拡大し、南方集団関連系統の在来狩猟採集民と混合しました。台湾の古代漢本集団は、南方集団関連系統(14%)と北方集団関連系統(86%)の混合としてモデル化されます。縄文人は南方集団関連系統で早期に分岐した系統(45%)と北方集団関連系統(55%)との混合としてモデル化されます。これらの知見は、後期更新世にアジア南東部から日本列島を経てロシア極東まで、沿岸経路での移住があった、との仮説と一致します。上部旧石器時代(後期旧石器時代)のアジア東部の古代ゲノムデータが少ないので、アジア東部の祖先的集団の深い分岐の復元は限定的になってしまいます。そのため、この混合を示した図は角に単純化されており、より詳細な関係は将来の研究に委ねられます。以下、本論文の図5です。

https://www.biorxiv.org/content/biorxiv/early/2020/03/25/2020.03.25.004606/F5.large.jpg

 最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していきました。ユーラシア西部では、ヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団、新石器時代黄河流域農耕民、台湾鉄器時代集団の間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01〜0.02)。今後の課題として優先されるのは、まだ仮定的存在で、現代人集団のアジア南東部クラスタの主要な系統になったと推測される、長江流域集団の古代DNAデータを得ることです。これにより、アジア南東部の人々の拡散が、古代人の移動と相関しているのか否か、理解できます。

 以上、ざっと本論文の内容について見てきました。もちろん、これまでにもアジア東部の古代DNA研究は進められていましたが、本論文は初の包括的な研究結果を示した画期的成果と言えそうです。ただ、本論文でも指摘されているように、アジア東部に限らず、アジア南東部、さらにはオセアニアの古代DNA研究に不可欠と言えそうな長江流域集団の古代DNAデータが得られておらず、ヨーロッパをはじめとしてユーラシア西部の水準にはまだ遠く及ばないように思います。上述の図からは、(ユーラシア東部)北方集団からアジア東部北方および南方系統が分岐し、長江流域早期農耕民集団はおもに南方系統、五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡集団に代表される黄河流域早期農耕民集団はおもに北方系統に由来すると考えられますが、アジア東部の南北両系統、さらにはその祖先となった(ユーラシア東部)北方集団がいつどのような経路でアジア東部に到来したのか、まだ不明です。ヤムナヤ関連系統、さらにはその祖先の一部である古代シベリア北部集団の遺伝的影響が漢人など華北以南のアジア東部集団ではひじょうに小さいことを考えると、北方集団はヒマラヤ山脈の北方(北回り)ではなく南方(南回り)経由でアジア東部に到来し、年代と場所は不明ながら、南北両系統に分岐したのではないか、とも考えられます。ともかく、アジア東部を含めてユーラシア東部の古代DNAデータがユーラシア西部と比較して明らかに少ない現状では、ユーラシア西部のような精度での集団形成史はまだ無理なので、アジア東部圏の日本人である私としては、大いに今後の研究の進展に期待しています。


参考文献:
Wang CC. et al.(2020): The Genomic Formation of Human Populations in East Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.03.25.004606

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_41.html

7. 中川隆[-12672] koaQ7Jey 2020年5月17日 14:51:46 : Hfn9yD9zt6 : VTY1ZUg4SC5IUEE=[2] 報告
2020年05月17日
中国南北沿岸部の新石器時代個体群のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_26.html


 中国南北沿岸部の新石器時代個体群のゲノムデータに関する研究(Yang et al., 2020)が報道されました。『ネイチャー』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。中国・モンゴル・朝鮮半島および日本列島など近隣の島々で構成されるアジア東部には、世界の人口のほぼ1/4が住んでおり、多様な民族・言語集団が存在します。しかし、アジア東部、とくに中国の遺伝的歴史はよく分かっていません。現代アジア東部人の遺伝的関連性パターンは、北から南への勾配で、アジア東部における遺伝的浮動の高水準から、アジア東部集団が完新世の前にヨーロッパ人よりも強い集団ボトルネック(瓶首効果)を経験した、と示唆されます。これまでの研究により、オセアニアの太平洋南西部諸島の人々が、アジア東部本土人と密接な関係を有する台湾の現代オーストロネシア語集団と遺伝的に密接な関係を有している、と明らかになりました。

 しかし、これまでほとんどの研究では、たとえば漢人や傣(Dai)人のような現代アジア東部人がアジア東部系統を表している、との仮定が採用されてきました。しかし、考古学的記録からは、アジア東部人が過去には現在よりも多様だった、と強調されます。この遺伝的多様性の研究は充分ではなく、おもに標本抽出の欠如に起因します。そのため、アジア東部南北における過去の集団構造の特徴づけは難しく、過去の集団がどのように現代アジア東部人に影響を及ぼしたのか、推測を制約しています。頭蓋研究では、アジアの人類史は2層の系統で特徴づけられる、と指摘されています(関連記事)。その研究では、新石器時代前の狩猟採集民が「第1層」で、アジア東部北方関連系統の「第2層」が新石器時代から現代にかけてアジア東部に拡大し、多くの現代アジア東部人系に寄与した、と想定されます。本論文は、新石器時代アジア東部人の遺伝的データをとくに中国から得て、現代アジア東部人の遺伝的パターンの形成に果たした役割を解明します。


●現代と新石器時代のアジア東部人の遺伝的関係

 アジア東部における人口史の解明のため、本論文は較正年代で9500〜300年前頃のアジア東部の個体群のDNAを解析しました。アジア東部北方(秦嶺・淮河線以北)では中華人民共和国の内モンゴル自治区と山東省、アジア東部南方では中国福建省と台湾の個体群が対象となりました。26人のDNAが解析され、そのうち11遺跡の24人が分析フィルターを通過しました。内訳は、アジア東部南方が16人、アジア東部北方が8人です。標的とした一塩基多型での網羅率は0.01〜7.60倍です。ほとんどの個体の年代は新石器時代で、福建省の1個体のみ300年前頃です。

 本論文は、これらの個体群が現代アジア東部人から深く分岐した系統を有するのか決定するため、アジア東部人の共通祖先から早期に分離した、すでにDNA解析された古代アジア人の標本群と、これら個体群がどの程度系統を共有するのか、検証しました。アジア東部人の共通祖先は本論文では「早期アジア人」とされ、たとえば8000〜4000年前頃のアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)個体群(関連記事)や、3000年前頃の愛知県の縄文時代の伊川津遺跡個体(関連記事)や、4万年前頃となる北京の南西56kmにある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)の男性個体(関連記事)です。

 古代および現代のアジア東部人を含む主成分分析では、すべての新石器時代アジア東部人は、現代アジア東部人・新石器時代シベリアのアジア人・チベット人・アジア南東部人・太平洋南西部人を含む、アジア東部系統集団とクラスタ(集団、まとまり)を形成します。これには、上述の頭蓋分析で「第1層」に分類された前期新石器時代アジア東部南方個体も含まれます。具体的には、福建省連江県亮島の粮道(Liangdao)遺跡と福建省の斎河(Qihe)遺跡の個体です。したがって、本論文の分析結果は、上述の頭蓋形態に基づくアジア東部・南東部の「2層」モデルを支持しません。外群f3分析でも、新石器時代アジア東部人は「早期アジア人」よりも新石器時代のシベリア人・チベット人・太平洋南西部諸島人の方と遺伝的類似性をより多く共有します。

 対称性テストでの新石器時代アジア東部人と現代アジア東部人および「早期アジア人」との直接的比較の結果、新石器時代アジア東部人はどの「早期アジア人」よりも現代アジア東部人の方と密接に関連する傾向にある、と明らかになりました。したがって、前期新石器時代アジア東部南方人を含む新たに標本抽出された個体群は、遺伝的にはアジア東部系統の現代集団と遺伝的に最も密接です。

 新石器時代アジア東部人の非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との混合パターンは、現代アジア東部人と類似していました。新石器時代アジア東部人は、35000年前頃のベルギーの個体とも南アメリカ大陸人とも一貫したつながりを示さず、4万年前頃の田园洞窟個体とはパターンが異なり、現代アジア東部人と類似しています。以前の研究では、新石器時代前のアジアで深く分岐した系統はアジア東部集団の「第1層」と関連している、と主張されました。しかし、中国の南北両方の前期新石器時代集団は異なるパターンを示し、「第1層」には分類されず、現代アジア東部人とおもに関連する系統を有する、と示唆されます。


●前期新石器時代におけるアジア東部南北間の集団区分

 主成分分析では、新たに標本抽出された個体群は地理的分離を示します。沿岸部新石器時代アジア東部南方人は現代アジア東部南方人と集団化(クラスタ化)して密接ですが、沿岸部新石器時代アジア東部北方人は、現代アジア東部北方人と集団化して密接です。これらの結果は、新石器時代以降のアジア東部南北両方の間の集団構造を示唆します。

 本論文は、新石器時代アジア東部における遺伝的関係の決定のため、まず外群f3値のペアワイズ比較を用いて、他の新石器時代集団とアジア東部関連系統との関係を評価します。新石器時代アジア東部南方人は、新石器時代アジア南東部人・オーストロネシア関連の太平洋南西部諸島人とそれぞれ高い遺伝的類似性を示し、これは主成分分析でも観察されたパターンです。f4分析では、新石器時代アジア東部南方人と3000年前頃となる太平洋南西部のオーストロネシア関連諸島人とが一貫して、他の沿岸部および内陸部新石器時代アジア東部北方人とシベリア人とチベット人よりも、相互に遺伝的に密接な関係を共有していますが、後期新石器時代アジア東部南方人個体の中には、アジア東部北方人との遺伝的つながりを共有している個体もあり、混合が示唆されます。

 最尤法系統樹では、新石器時代アジア東部南方人集団は、新石器時代アジア東部北方人・シベリア人・チベット人と比較して、集団化しています。したがって、アジア東部南方本土と台湾では、共有されたアジア東部南方系統が見られます。この系統は、新石器時代アジア東部北方人で観察された系統とは異なり、南北のアジア東部人の混合後も持続するパターンです。

 前期新石器時代のアジア東部北方人では、新石器時代アジア東部南方人では見られないものの、新石器時代シベリア人とチベット人には存在する系統が見られます。たとえば最尤法系統樹では、新石器時代アジア東部北方人とシベリア人とチベット人集団は、新石器時代アジア東部南方人およびオーストロネシア関連諸島人との比較で集団化し、外群f3分析でも相互に高い遺伝的類似性を共有します。とくに、沿岸部新石器時代アジア東部北方人が集団化する一方で、内陸部アジア東部北方人を表す内モンゴル自治区の裕民(Yumin)遺跡個体は、ユーラシア東部草原地帯および極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の新石器時代シベリア人と集団化します。ほとんどの新石器時代アジア東部北方人とシベリア人は、新石器時代アジア東部南方人とよりも相互に密接な遺伝的関係を共有します。f2・f3・f4統計すべてを用いて開発されたモデルでは、南北のアジア東部関連系統が2系統に区分する、と観察されます。

 新石器時代は明確な南北のアジア東部関連系統で強調されますが、この時期に遺伝子流動も集団に影響を与えました。主成分分析では、内陸部新石器時代アジア東部北方人である裕民遺跡個体は、新石器時代シベリア人や沿岸部アジア東部北方人と同様に他のアジア東部北方人と集団化せず、むしろ現代のチベットとアジア東部北方人との間に位置します。さらに、最尤法系統樹ではまず、上部旧石器時代シベリア北部人が、おそらくはアメリカ大陸先住民と密接に関連したシベリア集団経由で新石器時代シベリア人系統に影響を与え(関連記事)、これはf4分析でも確認されました。次に、シベリアやチベットのようなアジアのより内陸の集団と比較すると、沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人の中には、沿岸部後期新石器時代アジア東部南方人との類似性を示す個体がいる、と明らかになりました。沿岸部前期新石器時代アジア東部北方人は、同様に前期新石器時代アジア東部南方人とのつながりを示します。これらの関連は、沿岸部アジア東部南北間の集団関係が、混合(交雑)なしでは容易に解明できないことを示します。


●アジア東部南方におけるアジア東部北方人系統の増加

 時空間分析では、新石器時代と現代の間のアジア東部系統の違いが評価されました。新石器時代アジア東部系統のおもな特徴は、新石器時代アジア東部北方人とシベリア人とチベット人により表される北方系統と、新石器時代アジア東部南方人およびオーストロネシア関連太平洋南西部諸島人により表される南方系統です。遺伝的差異の検証では、沿岸部新石器時代アジア東部北方および南方人が相互に、現代のアジア東部北方および南方人との間よりもずっと異なる、と示されます。新石器時代の遺伝的違い(FST=0.042)に対して、現代ではずっと小さくなります(FST=0.023)です。この違いは、現代アジア東部人が新石器時代アジア東部人よりも遺伝的に均質であることを示します。

 新石器時代から現代にかけて遺伝的差異が減少した要因の特定のため、f4分析が用いられ、対称性テストが行なわれました。前期および後期新石器時代では、明確な地理的区分があり、北方集団は9500年前頃となる山東省の變變(Bianbian)遺跡個体と、南方集団は福建省の斎河遺跡個体とより密接関係を共有しています(図3A・B)。このパターンは、斎河個体を他の前期新石器時代アジア東部南方人、變變個体を他のアジア東部北方人に置き換えても変わりませんでした。qpAdmを用いての混合モデルでは、新石器時代集団における系統の割合が推定され、新石器時代アジア東部の北方人および南方人はそれぞれ、その地理(アジア東部北方もしくは南方)と関連した異なる系統に属します(図3D・E)。

 対称的に、現代アジア東部人のパターンは、その内部の遺伝的差異を減少させる主因が、アジア東部南方におけるアジア東部北方関連系統の増加であることを示します。現代アジア東部人では、地理に関わらず、全アジア東部人が新石器時代アジア東部北方人と類似性を共有するという、劇的な変化が観察されます。本論文の混合モデルにおける系統の割合の推定は、アジア東部南方本土におけるアジア東部北方系統の21〜55%の増加です。一方、アジア東部南方系統の北方への拡大も見られ、中国北部の漢人集団では36〜41%、朝鮮人集団では35〜36%と推定されます。古代シベリア人関連系統は、300年前頃となる沿岸部アジア東部南方本土個体や台湾集団やチベット人や日本人を除いて、最近のアジア東部人にも大きく影響を与えています。アジア東部周縁部における古代シベリア人関連系統の欠如は、北から南への遺伝子流動の異なるタイプがアジア東部で起きたことを示唆します。

 遺伝子流動事象の年代は推定できませんが、上述のf4分析で後期新石器時代アジア東部南方人個体の中にアジア東部北方人との遺伝的つながりを共有している個体が示されることから、後期新石器時代までにはアジア東部人に影響を与え始めたかもしれない、と示唆されます。後期新石器時代アジア東部南方人は、前期新石器時代アジア東部南方人が共有していない沿岸部アジア東部北方人の變變個体とつながりを共有しています。他の混合検定もこの知見を支持し、後期新石器時代アジア東部南方人におけるアジア東部北方系統を推定します。

 また、アジア東部北方人が内陸部の裕民遺跡個体と沿岸部の變變遺跡個体のどちらに近いのか、検証されました。対称性のf4検定では、全ての新石器時代アジア東部人と沿岸部新石器時代シベリア人は、内陸部の裕民遺跡個体よりも沿岸部の變變遺跡個体の方と密接な関係を共有していましたが、全ての内陸部シベリア人とチベット人はそうではありませんでした。これは、全ての現代アジア東部本土人で見られるアジア東部北方系統が、おもに黄河下流沿いの集団と関連していることを示唆します。これらの観察結果は、漢人という民族集団の起源が黄河流域の中国北部にある、と推測する考古学的および歴史学的研究と一致します。


●中国南部と沿岸部のつながりにおける先オーストロネシア人の起源

 オーストロネシア語集団は台湾から太平洋南西部とマダガスカル島にまで及びます。中国南部本土は、地理的近さと遺物から、台湾に拡散した先オーストロネシア語集団の起源地と考えられてきました。さらに、現代アジア南東部人のミトコンドリアDNA(mtDNA)ゲノム分析でも、中国南部起源が示唆されています。8320〜8060年前頃となる福建省の粮道遺跡個体のmtDNAハプログループ(mtHg)はE1で、台湾やフィリピンやインドネシアの現代オーストロネシア語集団において一般的で、台湾先住民のmtHgと最も類似しています。

 本論文のデータは、祖型オーストロネシア語集団の中国南部起源を支持します。主成分分析では、新石器時代アジア東部南方人は一貫して、他の現代アジア東部南方集団よりも、現代オーストロネシア人の勾配に収まり、他の現代アジア東部南方人と比較して、現代オーストロネシア人である台湾先住民のアミ人(Ami)とつながりを共有します。中国南部本土と台湾の全新石器時代個体で見られる現代オーストロネシア人とのこのつながりは、祖型オーストロネシア人の中国南部起源を支持します。

 さらに、本論文で分析された古代の個体群と、現代オーストロネシア人と密接な関係を共有する太平洋南西部のバヌアツ諸島の3000年前頃の個体群(関連記事)との間のつながりが分析されました。中国南部本土と台湾の新石器時代個体群は、最尤法系統樹では集団を形成し、外群f3分析では3000年前頃のバヌアツ諸島個体群との高い遺伝的類似性を共有します。さらに、直接的なf4比較では、後期新石器時代アジア東部南方人はオーストロネシア関連太平洋南西部諸島人と密接な遺伝的関係を共有し、新石器時代アジア東部北方人のどの集団とも過剰なつながりを有しません。これらの結果は、新石器時代アジア東部南方人と祖型オーストロネシア人との間の提案されてきたつながりをさらに支持します。

 沿岸部集団間の遺伝的孤立の欠如は、アジア東部および南東部の沿岸すべてで観察できます。ほとんどの新石器時代アジア南東部人は、ホアビン文化関連系統とアジア東部南方関連系統の混合ですが、ベトナムの4000年前頃の集団はとくに、沿岸部後期新石器時代アジア東部南方人と密接な関係を共有しています。さらに、この沿岸部のつながりはさらに北方まで拡大します。2700年前頃の愛知県の伊川津遺跡の縄文時代の個体は現代アジア東部人とは早期に分岐した系統で、ホアビン文化集団と遺伝的類似性を共有していますが(関連記事)、新石器時代アジア東部人を含む比較はこのパターンを示しません。代わりに伊川津個体は、アジア東部南方人と同様にいくつかのシベリア沿岸部新石器時代集団との類似性を示します。このパターンは、沿岸部が孤立よりも相互のつながりと遺伝子流動の地域だったことを示します。アジア東岸および東岸から離れた島嶼部の集団間の類似性は内陸部のアジア東部集団には共有されておらず、海洋関連環境に沿った相互作用が沿岸部アジア東部の先史時代に重要な役割を果たした、と示唆します。以下、本論文の図1および図2および図3です。


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●まとめ

 アジア東部南北の遺伝的調査は、アジア東部では現代よりも前期新石器時代において集団間の差異が大きかったことを示します。上述のように、頭蓋分析では、アジア東部北方関連集団の「第2層」が前期新石器時代にアジア東部全域に拡大し、新石器時代より前の狩猟採集民である「第1層」を少なくとも部分的に置換した、と想定されていました。本論文の遺伝的分析では、8400年前頃までの沿岸部アジア東部南方における「第1層」の証拠は見つかりませんでしたが、前期新石器時代と現代との間のアジア東部南方における北方系統の影響増加は観察されました。したがって、アジア東部北方系統と関連する「第2層」の拡大についての議論は依然として、アジア東部先史時代の文脈で調査すべき重要なモデルです。

 しかし、アジア東部北方系統の拡大は、両方向での混合の増加に至りました。現代アジア東部人のほとんどは、アジア東部の南北両系統の混合です。したがって、アジア東部南方へのアジア東部北方系統の拡大だけではなく、現代アジア東部北方人の一部におけるアジア東部南方系統も見られます。新石器時代において現代の水準ほどのこうした混合は観察されず、現代アジア東部人の遺伝的パターンに寄与した人類の移動は新石器時代後に起きただろう、と示唆されます。

 アジア東部本土南岸と台湾と太平洋南西部バヌアツ諸島の古代の個体群間の共有された系統が示唆するのは、オーストロネシア人が中国南部から到来した集団に由来し、そのパターンは、mtDNA研究と共に、中国南東部沿岸とオーストロネシアの物質文化の類似性で支持される、ということです。さらに、アジア東部沿岸部集団間の遺伝子流動は一般的傾向で、異なる沿岸部のつながりが、シベリア沿岸部から日本列島を経てベトナム沿岸部まで、南北の広大な距離の新石器時代集団で観察できます。

 中国南北の9500〜300年前頃の個体群では、新石器時代の集団移動と混合を示唆する系統の変化はあるものの、アジア東部人の間の密接な遺伝的関係が観察されます。アジア東部新石器時代個体群は明確に南北に区分されるものの、他地域集団との比較では近縁になる、というわけです。本論文は、旧石器時代の個体の遺伝的解析数が増加していけば、中国中央部のさらに内陸の集団と同様に、旧石器時代狩猟採集民と新石器時代農耕民と現代アジア東部人の間の関係をさらに明確にできるでしょう、と今後の展望を述べています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。アジア東部では、新石器時代には現代よりも人類集団の遺伝的差異がずっと大きく、遺伝的には現代よりも多様な集団が存在していたことになります。これは、日本列島の「縄文人」など「早期アジア人」系統の影響の強い集団が存在していたからでもあります。しかし新石器時代の中国では、現代アジア東部人と遺伝的に比較的類似していた系統が南北に存在していました。この2系統は他系統との比較でアジア東部系統を形成します。しかし、この2系統が明確に区分されることも確かで、文化的交流はあっただろうとはいえ、新石器時代にはまだ中国の広範な地域が一体的とは言えなかったことを示唆します。

 このアジア東部の南北両系統のうち、現代アジア東部人に強い影響を残しているのは北方系統で、南方系統はオーストロネシア語集団との強い類似性を示します。これは上述のように、祖型オーストロネシア語集団が中国南部から台湾に移動し、そこからさらにアジア南東部を経てオセアニアやマダガスカル島まで拡散した、という以前からの有力説を改めて確認しました。アジア東部北方系統の拡大は、華北の勢力に江南が政治的に取り込まれていった中国史の大きな動向を反映している、と考えられます。上述のように、中国南北の混合は後期新石器時代には始まっていたものの、それが大きな動向となったのは新石器時代後なのでしょう。

 このアジア東部北方系統の拡大は、南方だけではなく西方でも見られ、まだ査読前ですが、最近公表されたアジア東部の古代ゲノムデータを報告した研究で指摘されています(関連記事)。現代日本人の多くは、「早期アジア人」とされる先住の「縄文人」と、弥生時代もしくは縄文時代後期〜晩期以降に到来したアジア東部北方系統を主体とする集団との混合で成立し、アジア東部北方系統の影響が圧倒的に強い、と推測されます。一方、日本列島でもアイヌ集団では「縄文人」の遺伝的影響が他の日本人よりも強く残っている、と推測されます(関連記事)。

 ただ、考古学者の秦嶺(Ling Qin)氏は、本論文が取り上げた中国南部の人々は孤立集団で、広範な地域を代表していない可能性があり、稲作の起源的な中心地である長江流域の早期農耕民のDNA解析が優先されるべきと指摘します。確かにこの指摘は妥当で、福建省の新石器時代個体群は特異な集団で、長江流域とは遺伝的構成が異なっていた可能性も考えられます。あるいは、中国南北の一体化は後期新石器時代の時点でそれなりに進展していたかもしれません。この問題は、長江流域の新石器時代個体群のゲノムデータでより詳しく解明されるでしょう。

 本論文は、アジア東部の古代DNA研究がヨーロッパと比較してずっと遅れていたことを考えると、たいへん意義深いと思います。とはいえ、本論文も認めるように、旧石器時代(更新世)のゲノムデータの増加など、まだ課題は多くあり、とてもヨーロッパの水準には及びません。そのため、アジア東部における現代人の形成史については、まだ確定的には発言できない状況と考えるべきでしょう。本論文の図3も、あくまでも現時点での知見に基づいてソース集団を設定しモデル化したもので、より妥当な集団形成史の提示には、さらなる古代ゲノムデータの蓄積が必要となります。

 本論文ではとくに言及されていませんでしたが、私が注目しているのは、沿岸部新石器時代アジア東部個体群では見られない古代シベリア人関連系統が、現代アジア東部では台湾や日本のような島嶼部とチベットを除いて、一定以上の影響を残していることです。これは、漢文史料に見える匈奴や鮮卑や女真など華北よりも北方の集団が華北、さらには華南や朝鮮半島へと到来したことを反映しているのではないか、とも思うのですが、現時点では私の妄想にすぎません。今後、匈奴や鮮卑や女真など歴史時代の華北よりも北方の集団の古代ゲノムデータが蓄積されていけば、たとえば北京住民の数千年にわたる遺伝的構成の詳細な推移(変容と継続の度合)も解明されるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909


https://sicambre.at.webry.info/202005/article_26.html

8. 中川隆[-12668] koaQ7Jey 2020年5月18日 16:09:26 : oYVKmkmuLc : Ny5oa1R5b09WR2M=[1] 報告
2020年05月18日
チベット高原の古代人のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/202005/article_27.html


 チベット高原の古代人のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Ding et al., 2020)が公表されました。チベット高原は平均海抜4000mと、世界でも最高かつ最大の高原です。アジア東部高地における人類集団の継続性は少なくとも3000年続いている、と推測されています(関連記事)。しかし、比較のためのチベット高原における3000年前頃の古代DNAがなかったので、置換されたかもしれない頃にチベットにいた集団は不明です。

 3000年前頃は、チベットの先史時代に重要な時期でした。それは、チベット高原の低地北東部境界からの耐寒性オオムギの導入が3600年前頃で、それにより人類が海抜2500m以上で継続的に生活できるようになった、と考えられているからです(関連記事)。問題は、それが農耕技術革新の伝播なのか、おそらくは現代チベット人に子孫を残した低地からの農耕民の移住なのか、ということです。これまで、チベット高原の中核地域もしくはチベット高原北東端の古代DNAデータが得られていなかったので、その遺伝的交換の詳細の調査は困難でした。

 この問題の解明のため、本論文はチベット高原全域の27遺跡で発掘された5200〜300年前の人類遺骸からを骨と歯を収集しました。チベット高原の5200〜300年前頃の73人の完全なミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析され、汚染率の高い6人が除外されました。残りの67人のミトコンドリアゲノムは、各ハプログループ(mtHg)に分類されました。この中には、母子関係かもしれない個体も含まれます。

 この67人は、高地でも比較的高い地域(HTP)と低い地域(LTP)に区分されました。HTP集団 は海抜平均4000m(3249〜4629m)の7遺跡で発見された12人で構成されます。このうち9人の放射性炭素年代測定法による較正年代は2322年前(3061〜511年前)です。LTP集団は海抜平均2000m(1566〜2953m)の20遺跡で発見された55人で構成されます。このうち33人の放射性炭素年代測定法による較正年代は3729年前(5213〜300年前)です。HTP集団には、3150〜1250年前頃となる海抜2800〜4000mのネパールのアンナプルナ・ヒマラヤ山脈で発見された8人が追加されました。

 全体として、チベット高原の75人の古代人(新たに解析された67人と既知の文献からの8人)のmtDNAデータが得られ、そのうち50人に関しては年代情報が得られています。この75人のデータが、アジア北部(アルタイ地域とロシア)・アジア中央部(タジキスタン)・アジア東部(中国)・アジア南部(ネパール・インド・パキスタン)・アジア南東部本土(ミャンマーとメコン川流域のラオス・タイ・ベトナム・カンボジア)の137集団4656人の現代人と比較されました。中国の新疆ウイグル自治区とネパールとインド北東部とミャンマーのチベット高原に隣接する集団は別にまとめられました。

 一般的に、古代チベット高原集団は現代チベット人と密接です。現代チベット人に残っている古代集団のmtHgは、その近縁関係と年代を根拠に推定されました。まず、mtHg-D4j1bネットワークによりLTPからHTPへの拡大が見つかりました。このネットワークでは、LTPの4750年前頃のハプロタイプが拡大の中心でした。それは2775年前頃のHTP と現代チベットに拡散します。チベット高原外と比較して、mtHg-D4j1b はHTP では低頻度です。mtHg-D4j1b の合着年代は10508年前頃で、mtHg-D4j1b が1万年前頃に形成され、4750〜2775年前頃の間にチベット高原境界地域からHTPへと拡散した、と推測されます。

 HTP内の拡大も見つかりました。mtHg-M9a1a1c1b1aネットワークは2125年前頃と1500年前頃のネパールと1100年前頃および現代のチベットへと至り、HTP集団でほぼ排他的に存在します。その合着年代は6048年前頃で、6000年前頃にHTPのどこかで形成された可能性が高く、ネパールの古代人で発生した証拠があります。その後、2125〜1100年前頃の間にネパールからチベットへと拡大しました。

 これらを踏まえて、二つの仮説が検証されました。一方は、チベット人が多様な第三の集団の子孫で、HTPおよびLTP関連集団から部分的に母方系統を継承した、というものです。もう一方は、チベット人はHTPおよびLTP関連集団の最近の混合集団というものです。本論文は100万回のシミュレーションを実行しました。その結果、最初の仮説の可能性が高いと推測され、現代チベット人は、過去5200年の古代チベット高原集団からの継続性では完全に説明されない他の母方系統を有している、と示唆されました。

 現代チベット人では5200年前頃から部分的な母系継続性がある、と本論文は推測します。この継続性において、4750〜2755年前頃にLTPからHTPへと拡大した人々もいれば、HTP内で2125年前頃に拡大した人々もいました。その時期はオオムギにより変わった高地農耕の頃で、チベット高原北東部近くでは5200年前頃、HTPでは3600年前頃までに出現しました。もし農耕技術革新が急速な人類の居住を促進したならば、その時期の古代個体群の無作為標本抽出は、現代チベット人と合致する可能性がひじょうに高いはずです。より多くの人々が非居住地域へ移動するにつれて、多くの拡大するmtHgネットワークが見つかる、と予想されます。しかし、チベット人で高頻度の16のmtHgに基づくと、mtHg-D4j1bとmtHg-M9a1a1c1b1aは13%で、HTPへのLTP農耕民のかなりの移住は支持されません。

 起源不明の母方系統の可能な説明は、HTPへ定着して孤立を経た集団のより早期の波があった、というものです。より早期の移民は遺骸を残さず、おそらくは石器群もしくは手形や足跡と関連した狩猟採集民でした。その年代は、4万〜3万年前頃(関連記事)もしくは13000〜7000年前頃(関連記事)です。チベット高原では、こうした古層狩猟採集民と継続的な集団と、最近の拡散が想定されます。現代チベット人のゲノム分析でも同様の見解が提示されています。本論文は最後に、母系遺伝のみに基づく調査結果なので、チベット人の包括的な形成史の提示には、古代の核ゲノムとY染色体データが必要と指摘します。現代日本人やチベット人に多く、その他ではごく一部の地域を除いて稀なY染色体ハプログループ(YHg)Dは、早期に拡散してきた狩猟採集民に由来するのかもしれません。


参考文献:
Ding M.. et al.(2019): Ancient mitogenomes show plateau populations from last 5200 years partially contributed to present-day Tibetans. Proceedings of the Royal Society B, 287, 1923, 20192968.
https://doi.org/10.1098/rspb.2019.2968

https://sicambre.at.webry.info/202005/article_27.html

9. 中川隆[-11799] koaQ7Jey 2020年8月17日 10:45:24 : UukSvsLRRY : UC9xWVR5VDVyMkU=[22] 報告
雑記帳 2020年08月17日
分断・孤立と交雑・融合の人類史
https://sicambre.at.webry.info/202008/article_23.html

 人類史に限らず広く生物史において、地理的障壁の形成などにより分類群が分断され、生殖隔離が生じた後に地理的障壁が消滅もしくは緩和し、比較的近い世代で祖先を同じくする異なる分類群同士が交雑する、ということは一般的であるように思います。2007年の時点で現生人類(Homo sapiens)と非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)との交雑を指摘した研究は、これを「孤立・交雑モデル」と把握しています(関連記事)。人類以外の具体例としてはヒヒ属があり、分岐と交雑と融合を含むその複雑な進化史が推測されており、その中には分岐した2系統が遺伝的にほぼ同じ影響を残して形成された新たな系統も含まれます(関連記事)。

 こうした分断・孤立による生殖隔離は、もちろん地理的障壁のみが原因で生じるわけではないものの、地理的障壁が大きな要因になっていることも間違いないでしょう。人類史に即して言えば、概して穏やかな間氷期には人類の居住範囲は拡大したようで、サハラ砂漠やアラビア砂漠のような居住に適さない地域も、海洋酸素同位体ステージ(MIS)5・3の頃には、モンスーン活動の増加により植物が繁茂したこともありました(関連記事)。このような場合、他地域との「回廊」が開き、分断・孤立した分類群同士の再会の機会が訪れます。

 詳しくデータを提示できるほど勉強は進んでいませんが、人類史においては、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とが交互に訪れたのではないか、と思います。これは他の生物も同様ですが、生物としては生息域がかなり広範な部類に入るだろう人類にとっては、重要な意味を有する、と私は考えています。すでにホモ属出現前に人類はアフリカ東部と南部に拡散しており、古代型ホモ属はアフリカからユーラシアへと拡散し、西はイベリア半島、東はアジア東部および南東部にまで分布していました。それだけに、気候変動による環境変化に伴う地理的障壁の形成の結果として、分断されて孤立していき生殖隔離が生じるとともに、その後の気候変動による地理的障壁の消滅・緩和により、再会して交雑・融合することも起きやすかったというか、その影響を受けやすかったように思います。もちろん、各地域が一様に変化していくわけではなく、分断・孤立が大勢の時代にも交雑・融合が進んだ地域はあったでしょうし、逆に交雑・融合が大勢の時代にも孤立した集団が存在したことはあったでしょうが、大きな傾向として、孤立・分断による分岐を促進する時代と、交雑・融合を促進する時代とに区分できるでしょう。


●人類進化のモデル

 こうした孤立・分断と交雑・融合の時代が相互に訪れていたことを前提とすると、人類進化のモデルとして注目されるのは、現生人類の起源に関する複雑な仮説です(関連記事)。この仮説では、メタ個体群(対立遺伝子の交換といった、あるレベルで相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群のグループ)モデルにおける、分裂・融合・遺伝子流動・地域的絶滅の継続的過程としての、進化的系統内の構造と接続性の重要性が強調されます。これは構造化メタ個体群モデルと呼ばれます。気候変動による地理的障壁の形成・強化などに伴う分裂・分断と、地理的障壁の消滅・緩和によるメタ個体群間の融合により、現生人類は形成されていった、というわけです。また、メタ個体群はある地域にずっと存続し続けるのではなく、環境変化を招来する気候変動や他のメタ個体群からの圧力などにより、移動することも珍しくない、という視点も重要になるでしょう。

 構造化メタ個体群モデルは、現生人類を特徴づける派生的な身体的形質が1地域で漸進的に現れたわけではない、という化石記録と整合的です。もちろん、メタ個体群の中には、現代人に大きな影響を残しているものも、ほぼ絶滅と言ってよいくらい現代に遺伝的影響が残っていないものもあるでしょう。その意味で、ひじょうに複雑な仮説であり、その確証は容易ではないでしょうが、今後の人類進化研究において重視されるべきモデルである、と私は考えています。

 分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しとは、異質化と均質化の繰り返しとも言えます。異質化とは、多様性の増加でもあります。ここで重要なのは、川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』が指摘するように、多様性は分断・孤立に起因するところが多分にある、ということです(関連記事)。同書はアジア南東部を対象としており、中期〜後期更新世における人類の多様化を指摘しますが、アフリカでも、中期更新世後期でもなお、現生人類とは大きく異なる系統だろうホモ・ナレディ(Homo naledi)が存在していました(関連記事)。

 また同書が指摘するように、現在では多様性が善と考えられています。しかし、それが多分に分断や孤立に起因するとなると、手放しで賞賛することはできません。一方で、現在では交流もまた善と考えられていますが、これが均質化・多様性の喪失を招来している側面も否定できません。現生人類のこれまでの行動から、もはや均質化の流れは止められないだろう、と同書は予測しています。深刻な矛盾をもたらしかねない「崇高な」諸々の価値観をどう共存させていくのか、現代社会の重要な問題になると思います。


●初期ホモ属の進化

 上記の構造化メタ個体群モデルは現生人類の起源を対象としていますが、ホモ属の起源にも当てはまるかもしれません。首から下がほとんど現代人と変わらないような「真の」ホモ属が出現したのは200万〜180万年前頃のアフリカだと思われますが、それ以前、さらにはそれ以降も、ホモ属的な特徴とアウストラロピテクス属的な特徴の混在する人類遺骸が発見されています。これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。

 これらの人類遺骸は、アウストラロピテクス属ともホモ属とも分類されています。南アフリカ共和国では、ホモ属的な特徴を有する200万年前頃の人類遺骸群が発見されていますが、これはアウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)に分類されています(関連記事)。一方、分類に関して議論が続いているものの(関連記事)、アウストラロピテクス属的特徴も有するホモ属として、ハビリス(Homo habilis)という種区分が設定されています。

 ホモ・ハビリスは240万年前頃から存在していたとされていますが、ホモ・エレクトス(Homo erectus)が出現してからずっと後の144万年前頃までケニアで存在していた可能性も指摘されています(関連記事)。233万年前頃のハビリスと分類されている人類遺骸からは、ホモ属が当初より多様化していった可能性も指摘されています(関連記事)。またエチオピアでは、ホモ属的特徴を有する280万〜275万年前頃の人類遺骸も発見されています(関連記事)。

 300万〜200万年前頃の人類遺骸は少ないので、ホモ属の初期の進化状況は判然としませんが、ホモ属的な派生的特徴が300万〜200万年前頃のアフリカ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により「真の」ホモ属が形成されていった、との構造化メタ個体群モデルの想定には、少なくとも一定以上の説得力があるように思います。ホモ属の出現に関して、現時点ではアフリカ東部の化石記録が多いと言えるでしょうが、最古のホモ・エレクトスとも主張されている204万〜195万年前頃の化石が南アフリカ共和国で発見されており(関連記事)、アフリカ北部では240万年前頃(関連記事)、レヴァントでは248万年前頃(関連記事)の石器が発見されているので、あるいはアフリカ全域とレヴァントまで含めて、ホモ属の形成を検証する必要があるかもしれません。


●ネアンデルタール人の進化

 ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の進化に関しても、当然現生人類とは異なる側面が多分にあるとしても、構造化メタ個体群モデルが一定以上有効かもしれません。中期更新世のヨーロッパには、異なる系統のホモ属が共存していた可能性が高そうです。ポルトガルの40万年前頃のホモ属遺骸にはネアンデルタール人的特徴が見られない一方で(関連記事)、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸には、頭蓋でも(関連記事)頭蓋以外でも(関連記事)ネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが混在しており、フランスの24万〜19万年前頃のホモ属遺骸でもネアンデルタール人的な派生的特徴と祖先的特徴とが確認され(関連記事)、イタリアの45万年前頃のホモ属の歯にもネアンデルタール人的特徴が見られます(関連記事)。

 こうした形態学からの中期更新世のヨーロッパにおける異なる系統のホモ属の共存の可能性は、考古学的記録とも整合的と言えそうです(関連記事)。遺伝学でも、43万年前頃のスペイン北部のホモ属遺骸とネアンデルタール人との類似性が指摘されており、さらには、中期更新世にアフリカから新技術を有して新たに拡散してきた人類集団が、ネアンデルタール人の形成に影響を及ぼした可能性も指摘されています(関連記事)。形態学・考古学・遺伝学の観点からは、ネアンデルタール人的な派生的特徴が中期更新世のヨーロッパ各地で異なる年代・場所・集団(メタ個体群)に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流によりネアンデルタール人が形成された、と考えるのが現時点では節約的なように思います。

 じっさい、ネアンデルタール人が気候変動などにより移動していた証拠も得られています。おそらく、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返しており、寒冷期に人口が減少し、温暖期に人口が増加したのでしょう。ドイツの中部旧石器時代の遺跡の検証から、ネアンデルタール人は移住・撤退・再移住といった過程を繰り返していたのではないか、と推測されています(関連記事)。当然この過程で、時には集団(メタ個体群)が絶滅することもあったでしょう。じっさい、西方の後期ネアンデルタール人集団の間では、相互に移動・置換があったのではないか、と推測されています(関連記事)。


●ネアンデルタール人とデニソワ人の関係

 ネアンデルタール人とその近縁系統となる種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との関係でも、孤立・分断と交雑・融合の繰り返しが示唆されます。ネアンデルタール人とデニソワ人の推定分岐年代には幅がありますが、現時点では70万〜50万年前頃の間と想定しておくのが無難でしょうか(関連記事)。この分岐は孤立・分断の結果なのでしょうが、ネアンデルタール人遺骸の主要な発見地がヨーロッパとアジア南西部および中央部で、デニソワ人遺骸の発見地が現時点では南シベリアのアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)遺跡とチベットに限定されていることから、両者の主要な生息域は一部重なりつつも大きく異なっていた可能性が高く、地理的障壁の結果と考えるのが妥当でしょう。

 デニソワ人の現代人への遺伝的影響はアジア東部でも見られますが、パプア人やオーストラリア先住民にはそれよりもずっと強い影響が残っており(関連記事)、アジア東部から南東部にかけて分布していた、と考えられます。デニソワ洞窟における人類の痕跡は断続的なので(関連記事)、デニソワ人の主要な生息域はアジア東部および南部で、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。ネアンデルタール人はヨーロッパからユーラシア草原地帯を西進してアルタイ地域に到達し、異なる遺伝的系統のネアンデルタール人個体がアルタイ地域で確認されていることから(関連記事)、デニソワ人と同じく、シベリアには時に拡散して気候変動などにより絶滅・撤退していた、と推測されます。

 大まかには、ネアンデルタール人はユーラシア西部、デニソワ人はユーラシア東部を主要な生息域として、時に両者の生息域の端(辺境)である南シベリア(ネアンデルタール人にとっては東端、デニソワ人にとっては西端)で遭遇していた、と言えそうです。気候変動による環境変化により、両者が接触しなかった期間は短くなかったと考えられ、それ故に分岐していったのでしょうが、おそらく気候が温暖な時期には、ネアンデルタール人による(何世代を要したのか不明ですが)ユーラシア草原地帯の長距離移動もあったのでしょう。

 アルタイ地域では、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑は一般的と推測されており、交雑による遺伝的不適合の強い証拠が見られない、と指摘されています(関連記事)。ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先系統が現生人類系統と分岐した後にネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が分岐したため、ネアンデルタール人とデニソワ人との交雑では、現生人類との交雑の場合よりも遺伝的不適合が生じない可能性は高いだろう、と思います。

 上述のヒヒ属の事例からは、遺伝的不適合度の低そうなネアンデルタール人系統とデニソワ人系統が同じくらいの遺伝的影響を有する融合集団の存在も想定されます。じっさい、そうした融合系統(ネアンデルタール人よりもややデニソワ人の方の影響が大きい、と推定されます)が、アジア東部および南部・パプア・オーストラリア先住民の共通祖先集団と交雑した、との見解も提示されています(関連記事)。それでもネアンデルタール人とデニソワ人が完全に融合せず、別系統として存続し続けてきたのは、両者の遭遇自体が一般的ではなく(遭遇した場合の交雑は一般的ですが)、基本的には地理的障壁によりそれぞれ分断・孤立していたからなのでしょう。


●ユーラシアの現生人類における分断と融合

 出アフリカ後のユーラシアにおける現生人類の動向も、分断・孤立と交雑・融合の複雑な繰り返しにより解釈することが必要なように思います。最終氷期の終わりには、ユーラシア東西で複数のひじょうに分化した集団が存在しており、これらの集団は他集団を置換したのではなく、混合していった、と指摘されています(関連記事)。ユーラシア西部では、現代のヨーロッパ集団とアジア東部集団との遺伝的違い(平均FST=0.10)と同じくらいの、遺伝的に異なる少なくとも4集団が存在し、新石器時代に混合して異質性は低下していき(平均FST=0.03)、青銅器時代と鉄器時代には現代のような低水準の分化(平均FST=0.01)に至りました。ユーラシア東部では、アムール川流域集団と新石器時代黄河流域農耕民と台湾鉄器時代集団との間で、比較的高い遺伝的違い(平均FST=0.06)が存在したものの、現在では低くなっています(平均FST=0.01〜0.02)。こうした完新世における遺伝的均質化の動因としては、農耕の採用やウマの家畜化や車輪つき乗り物の開発などといった生業面での優位性が大きかったように思います、

 これらユーラシア現生人類集団は、元々単一の(7万〜5万年前頃の)出アフリカ集団に主要な遺伝的起源があると推測されますが(関連記事)、末期更新世には多様化していたのでしょう。しかし末期更新世と比較すると、現代ユーラシアでは東西ともに遺伝的には均質化が進んでおり、完新世を交雑・融合傾向の強い時代と把握できそうです。5万年前頃には比較的均質だった出アフリカ現生人類集団が、末期更新世の頃までには多様化していき、完新世において遺伝的均質化が進展した、という大まかな見通しを提示できるでしょう。ただ、完新世の人類集団は更新世と比較して一般的に大規模なので、これは均質化への抵抗要因として作用する、とも考えられます。

 こうしたユーラシア現生人類集団における末期更新世までの遺伝的多様化は、拡大により相互の接触が困難になった、という事情もあるものの、その後でユーラシア東西ともに遺伝的均質化が進展したことを考えると、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)によりユーラシア各地域の現生人類集団は分断・孤立していき、遺伝的違いが大きくなった、と考えられます。LGMをやや幅広く設定すると(関連記事)、33000〜15000年前頃です。これは、遺伝的にだけではなく、文化的にも違いをもたらすのに充分な時間です。語彙を基本に系統証明を試みる比較言語学的手法が有効なのは過去8000年、もしくはせいぜい1万年にすぎない、と指摘されています(関連記事)。

 LGMを含む前後の15000〜20000年間ほどが分断・孤立傾向の強い時代だとしたら、5万〜4万年前頃には類似した言語を有していた集団間で、異なる語族が形成されても不思議ではありません。おそらく、末期更新世にはユーラシアにおいて多様な言語が存在しており、それらが消滅・吸収されていった結果、現代ユーラシアのような言語状況が形成されたのでしょう。それでも、ヨーロッパのバスク語やアジア東部の日本語・アイヌ語・朝鮮語のように、孤立的な言語が今でも存続しています。この問題に関しては、アメリカ大陸の事例も考えねばならないのですが、私の知見があまりにも不足しているので、今回は取り上げません。


●日本人とチベット人の遺伝的構造の類似性と言語の違い

 集団の遺伝的構造と言語は相関していることも多いものの、違うこともあります。日本人とチベット人はその典型かもしれません。ここでは、「日本人」でもおもに本州・四国・九州を中心とする「本土」集団が対象です。上述のように、ユーラシア東部の人類集団は末期更新世には遺伝的に多様でしたが、完新世には均質化していき、アジア東部に限定しても同様です。アジア東部の広範な地域を対象とした古代DNA研究(関連記事)では、アジア東部現代人集団は複雑な分岐と融合を経て形成された、と示されます。まず、出アフリカ現生人類はユーラシア東西系統に分岐します。ユーラシア東部系統は南北に分岐し、ユーラシア東部北方系からアジア東部北方系とアジア東部南方系が分岐します。現時点のデータでは、ユーラシア東部南方系と、ユーラシア東部北方系に由来するアジア東部北方系およびアジア東部南方系の複雑な融合により、アジア東部現代人の各地域集団が形成された、とモデル化されます。アジア東部北方系とアジア東部南方系の分岐は、おそらくLGMによる分断・孤立を反映しているのでしょう。

 この見解を前提とすると、日本人とチベット人は、類似した遺伝的構造の形成過程を示します(関連記事)。それは、おもに狩猟採集に依拠していた古層としての在来集団と、後に到来したアジア東部北方新石器時代集団との混合により形成され、遺伝的には後者の影響の方がずっと高い、ということです。古層としての在来集団は、チベット人の場合はユーラシア東部南方系で、アンダマン諸島現代人集団や後期更新世〜完新世にかけてのアジア南東部狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団が含まれます。古層としての在来集団は、日本人の場合は「縄文人」で、ユーラシア東部南方系統とユーラシア東部北方系から派生したアジア東部南方系統との混合だった、と推測されます。現代日本人と現代チベット人において高頻度で見られる、現代世界では珍しいY染色体ハプログループ(YHg)Dは、おそらくユーラシア東部南方系に由来するのでしょう。

 アジア東部北方系は、仰韶(Yangshao)文化や龍山(Longshan)文化といった黄河中流および下流域農耕集団に代表されます。言語学では、チベット・ビルマ語族が含まれるシナ・チベット語族の起源は7200年前頃で(関連記事)、シナ・チベット語族の拡散・多様化は5900年前頃に始まった(関連記事)、との見解が提示されています。チベット人に関しては、集団の遺伝構造と言語との間に強い相関がある、と言えそうです。もちろん、新石器時代においてすでにアジア東部北方系とアジア東部南方系との混合が推測されているように(関連記事)、集団の遺伝的構造と言語とをあまりにも単純に相関させることは危険で、現代の中国語(漢語)にしても、アジア東部北方系のシナ・チベット語族と、おそらくはアジア東部南方系の先オーストロネシア語族などとの混合により形成されていったのでしょう。

 一方、日本人に関しては、アジア東部北方系の言語をシナ・チベット語族系統と想定すると、集団の遺伝的構造と言語とが相関しません。これは朝鮮人に関しても同様と言えるでしょう。日本語も朝鮮語も、おそらくはLGMによる分断・孤立でユーラシア東部において形成された多様な言語群の一つだったのでしょうが、完新世において同系統の言語群が消滅・吸収され、現在は孤立言語のようになったのでしょう。日本語の形成に関しては、アイヌ語との関係も含めて以前短くまとめましたが(関連記事)、その後も勉強が進んでおらず、確たることはとても言えません。

 単純化すると、集団の遺伝的構造と言語とは相関しないこともある、と言って終えられます。まあ、これでは何も言っていないのに等しいので、もう少し考えると、アジア東部北方系の言語が基本的にはシナ・チベット語族系統のみだったとすると、バヌアツの事例(関連記事)が参考になるかもしれません。これは以前に、日本語の形成過程で参考になるかもしれない事例として取り上げました(関連記事)。遺伝的には、バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人はパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなくオーストロネシア諸語のままです。

 日本語の形成過程にたとえると、オーストロネシア系集団が「縄文人」、パプア系集団がアジア東部北方系の影響のひじょうに強い、おそらくは弥生時代以降に日本列島に到来した集団に相当します。アジア東部北方系集団の日本列島への到来が短期間に多数の人々によりなされたのではなく、長期にわたる緩やかなもので、その後の人口増加率の違いにより現代日本人のような遺伝的構成が形成されたとすると、交易などの必要性から先住民集団である「縄文人」の言語が大きな影響力を維持した、とも考えられます。

 一方、アイヌ語と日本語とが大きく違うことを考えると、「縄文人」の言語は地域的な違いがあれども基本的にはアイヌ語系統で、上記のような日本語が選択された過程は日本列島ではなく遼河地域から朝鮮半島のどこかで起き、そこから日本列島にもたらされた、とも考えられます。しかし、現時点では東日本に限定されているものの、「縄文人」は時空間的にかなり異なる集団でも遺伝的に均質ですから(関連記事)、更新世に日本列島に到来した(4万年前頃以降)集団が、外部とはさほど遺伝的交流なしに進化した、とも考えられます。

 北海道「縄文人」の祖先集団と他地域の「縄文人」の祖先集団とが、LGMによる分断・孤立で分岐していったとすると、日本語とアイヌ語がとても同系統と確認できないくらいに分化していっても不思議ではありません。「縄文人」の言語は、北海道もしくは東北地方か関東か東日本までと、西日本とで大きく異なっており、日本語は西日本の「縄文人」の(一部集団の)言語に起源がある、というわけです。ただこの場合、「縄文人」の遺伝的多様性がもっと高くてもよさそうにも思いますが、あるいは、今後西日本の「縄文人」のゲノムが解析されれば、東日本「縄文人」との一定以上の違いが明らかになるのでしょうか。

 もう一つ想定されるのは、アジア東部北方系の言語は、後にはシナ・チベット語族に一元化されたものの、新石器時代のある時点までは多様だった、というものです。集団の遺伝的構造と言語が相関しているとは限りませんから、LGMによる分断・孤立で言語が多様化していき、その後の融合過程で遺伝的にはアジア東部北方系が成立したものの、その言語は均質ではなく、日本語祖語も朝鮮語祖語も含まれていた、という想定です。チベットに拡散したアジア東部北方系集団の言語はシナ・チベット語族で、朝鮮半島やさらに日本列島に向かった集団の言語は大きく異なっていた、というわけです。

 結局のところ、自分の勉強不足のため日本語の形成過程はよく分からず、単に複数の想定を列挙しただけで、しかもこれらの想定以外に「正解」がある可能性も低くないので、何ともまとまりのない文章になってしまいました。日本語の起源はたいへん難しい問題ですが、おそらくはアイヌ語とともに、LGMによる分断・孤立で多様化した言語が、現代では孤立した言語として生き残っている事例で、バスク語と同様なのでしょう。現代世界でも言語の喪失は大きな問題となっていますが、LGMの後から現代までに、現代人がもう永久に知ることのできない、少なからぬ喪失言語があったのでしょう。

https://sicambre.at.webry.info/202008/article_23.html

10. 中川隆[-6572] koaQ7Jey 2021年3月14日 21:53:16 : FkYaVG3LgQ : LkJjWkNxOWJTRmc=[22] 報告
雑記帳 2021年03月14日
古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/202103/article_15.html


 古代ゲノムデータに基づくアジア東部各地域集団の形成史に関する研究(Wang et al., 2021)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。本論文はすでに昨年(2020年)3月、査読前に公開されていましたが(関連記事)、その後に公表された複数の重要な研究を取り入れ、データと図がかなり修正されているようなので、改めて取り上げます。本論文は、この研究がアジア東部の人口史の理解における重要な進歩を示しており、氷河期以前のアジア東部個体と中国南部の完新世個体の古代DNAデータがより多く分析されれば、さらなる洞察が得られるだろう、と指摘しています。本論文はアジア東部の包括的な古代DNA研究成果を提示しており、この問題を調べるならば、現時点でまず読むべき重要な文献と言えるでしょう。

 アジア東部は動物の家畜化と植物の栽培化の最初期の中心地の一つで(関連記事)、シナ・チベット語族、タイ・カダイ語族、オーストロネシア語族、オーストロアジア語族、ミャオ・ヤオ語族、インド・ヨーロッパ語族、モンゴル語族、テュルク語族、ツングース語族、朝鮮語族、日本語族、ユカギール語族、チュクチ・カムチャツカ語族など、ひじょうに多様な語族を有しています。しかし、チベット高原と中国南部の現代人の遺伝的多様性の標本抽出が最小限であるため(関連記事)、アジア東部における人口史の理解は不充分なままです。

 この研究は、人口史の広範な研究への使用に同意した中国(337人)とネパール(46人)の46人口集団から383人のDNAを収集し、約60万ヶ所の一塩基多型の遺伝子型が決定されました。古代DNA分析に関しても、現代の共同体とのつながりの可能性が高い時には、共同体からの許可が得られました。本論文は、新たに166個体のデータを報告します(図1)。その内訳は、紀元前5700〜紀元後1400年頃となるモンゴルの82個体、中国の黄河流域の紀元前3000年頃となる1ヶ所の遺跡の11個体、紀元前2500〜紀元前800年頃となる日本の縄文時代の狩猟採集民7個体、ロシア極東では紀元前5400〜紀元前3600年頃となるボイスマン2(Boisman-2)共同墓地の18個体および紀元後900年頃の1個体と紀元後1100年頃の1個体、紀元前1300〜紀元後800年頃となる台湾の2ヶ所の遺跡の46個体です。集団析では、汚染の証拠がある16個体、5000〜15000ヶ所の一塩基多型データしか得られなかった10個体、データセットで他のより高い網羅率の個体の密接な親族となる11個体を除外して、130個体に焦点が当てられました。これらのデータは、公開されている古代人1079個体、および16人口集団の現代人3265個体のデータと統合されました。地理と年代と考古学的文脈と遺伝的クラスタにより、これらの個体群はまとめられました。

 主成分分析が実行され、古代の個体群は現代人を用いて計算された軸に投影されました。人口構造は地理および言語と相関していますが、例外もあります。中国北西部とネパールとシベリアの集団はユーラシア西部人に向かってそれており、平均して5〜70世代前の混合を反映しています。初期完新世のアジア東部人では、現代(FST=0.013)と比較して遺伝的分化がずっと高く(FST=0.067)、深いアジア東部系統間の混合を反映しています。現在、最小限のユーラシア西部関連祖先系統を有するアジア東部人は、これらの極の間でじょじょに変化します。「アムール川流域クラスタ」は、アムール川流域の古代人および現代人と相関し、言語ではツングース語族話者およびニヴフ人と相関します。「チベット高原クラスタ」は古代ネパール人と在来チベット人で最も強く表されます。「アジア南東部クラスタ」は、古代台湾人および、タイ・カダイ語族とオーストロアジア語族とオーストロネシア語族を話すアジア東部人で最大化されます。自動クラスタ化でも類似の結果が得られます。

 本論文は、主題に沿って調査結果を整理します。第一に、深い時間を考慮します。アジア東部人に寄与する初期に分岐した系統は何か、という問題です。第二〜第四は、言語の拡大とその農耕拡大とのあり得るつながりについて、3通りの仮説を検証することにより、人口構造がどのようにして現在のものになったのか、明らかにします。第五に、ユーラシア西部人とユーラシア東部人とが地理的な接触地帯に沿ってどのように混合したのか、説明します。以下、本論文の図1です。
画像


●後期更新世の沿岸部拡大

 アジア東部で利用可能な氷河期前のゲノムは2個体だけです。一方は、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の現生人類(Homo sapiens)1個体(関連記事)で、もう一方はモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された35000年前頃の現生人類1個体(関連記事)です。それにも関わらず、重要な洞察は氷河期後のゲノム分析から収集できます。一つの問題は、アジア東部の現生人類の移住が沿岸と内陸部のどちらの経路だったのか、ということです。チベット人が深く分岐したY染色体ハプログループ(YHg)D1(M174)を高頻度(50%)で有しているように、示唆的な遺伝的証拠はY染色体に由来します。YHg-D1は、現代日本人(および日本列島の縄文時代の狩猟採集民)およびベンガル湾のアンダマン諸島先住民と共有されています。

 qpGraphを用いて、データと一致する人口集団分岐および遺伝子流動が調べられ、本論文の主成分分析で祖先系統の両極端に寄与する主要系統の深い歴史に関して、節約的な作業モデルが特定されました。本論文の適合からは、アジア東部人祖先系統の大半は2つの古代人口集団の異なる割合の混合に由来する可能性がある、と示唆されます。一方は4万年前頃の田园個体と同じ系統、もう一方はアンダマン諸島先住民(オンゲ人)と同じ系統です。

 北方に分布する田园個体関連系統は、モンゴルの新石器時代の人々の祖先系統の98%、(現代チベット人を形成するチベット狩猟採集民から推測されるオンゲ関連系統と混合した)黄河上流域農耕民の90%に寄与した、と推測されます。より南方に分布する別の田园関連系統は、中国南東部沿岸の紀元前6300〜紀元前5600年頃の前期新石器時代となる福建省の粮道(Liangdao)遺跡の狩猟採集民の祖先系統の73%と、日本の縄文時代狩猟採集民の56%に寄与しました(関連記事)。日本列島には氷河期の前後に人類が居住するようになり、南北の「縄文人」は形態学的に異なっているので、本論文で検出された混合と関連しているかもしれません。北部の田园個体関連系統は、西遼河農耕民(67%)と台湾農耕民(25%)の両方にも寄与し、その祖先系統の残りは、粮道遺跡の南部狩猟採集民と関連しています。北部の田园個体関連系統は、黄河上流域農耕民に寄与した系統とは関連しているにも関わらず異なる、という事実から、黄河流域農耕民の拡大とは関係していない、台湾への北部農耕民の拡大の可能性が高い、と示唆されます。

 オンゲ関連系統の寄与は、沿岸部集団に集中しています。この系統は、アンダマン諸島人で100%、「縄文人」で44%、古代台湾農耕民で20%と推定され、アンダマン諸島人と日本人に見られるYHg-D1に基づいて仮定された沿岸経路拡大と一致します。当然チベットは沿岸部に位置していませんが、古代チベット人へのこの系統の比較的高い推定される寄与(24%)と、現代チベット人におけるYHg-D1の50%の割合は、YHg-D1とオンゲ関連系統との間のつながりを強固にします。チベットの狩猟採集民は、内陸部に拡大してチベット高原に居住したこの後期更新世沿岸拡大の早期に分岐した枝を表す、と本論文では仮定されます。


●トランスユーラシア仮説の精緻化

 農耕・言語拡散仮説では、栽培化・家畜化の中心およびその周辺における人口密度増加が、言語を拡大させる人々の移動の推進に重要だった、と提案されますが、アジア東部では、この仮説を検証する利用可能なデータが限られていました。まず、共有された農耕用語を含む再構築された特徴に基づいて、モンゴル語族とテュルク語族とツングース語族と朝鮮語族と日本語族などの大語族を提案している、「トランスユーラシア仮説」の遺伝的相関関係が調べられました。トランスユーラシア仮説では、これらの語族は、モンゴルへと西方に、シベリアへと北方に、朝鮮半島と日本列島へと東方に拡大した、中国北東部の西遼河周辺の初期雑穀農耕民の拡大と関連する祖型言語に由来する、と提案されます。

 この言語拡大のあり得る遺伝的相関への洞察を得るため、まずアムール川流域の年代区分調査が行われました(関連記事)。紀元前5500年頃の初期新石器時代個体群と紀元前5000年頃のボイスマン(Boisman)遺跡個体群から、紀元前900年頃となる鉄器時代のヤンコフスキー(Yankovsky)文化、および紀元後50〜250年頃となる鮮卑(Xianbei)文化まで、アムール川流域個体群は一貫して、qpWaveではクレード(単系統群)であることと一致します。この局所的に継続した人口集団も、後の人口集団に寄与しました。それは、ボイスマン遺跡個体群のYHg-C2a(F1396)とミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)D4・C5に反映されています。これらのハプログループは現代のツングース語族やモンゴル語族や一部のテュルク語族話者において優勢で、紀元後1100年頃の黒水靺鞨(Heishui Mohe)文化と関連する1個体でも確認されます。この黒水靺鞨文化関連1個体は、43±15%のアムール川流域新石器時代祖先系統を有する、と推定されています(歴史時代に南方からの移民があった場合に予想されるように、残りの祖先系統は漢人によりよくモデル化されます)。

 この古くに確立されたアムール川流域系統は、東方のより多くの縄文人関連性と、西方のほとんどのモンゴル新石器時代関連祖先系統との勾配の一部でした。バイカル湖狩猟採集民(関連記事)における77〜94%のモンゴル新石器時代関連祖先系統が推定され、残りは、氷河期にバイカル湖地域に居住していた、ユーラシア西部関連系統と深く分岐した、古代北ユーラシア人に由来します(関連記事)。ボイスマン遺跡のようなアムール川流域狩猟採集民では、モンゴル新石器時代関連祖先系統が87%(残りは縄文人関連祖先系統)と推定されます。アメリカ大陸先住民は、ボイスマン遺跡やモンゴルの新石器時代個体群の方と、他のアジア東部人よりも多くのアレル(対立遺伝子)を共有し、この系統の初期の分枝は図2の田园関連分枝の北部の分布を反映しており、アメリカ大陸先住民におけるアジア東部関連祖先系統の起源です。

 トランスユーラシア仮説は、モンゴル語族とテュルク語族とツングース語族と朝鮮語族と日本語族の祖型言語が西遼河地域の農耕民により広がった、というものです。西遼河地域の農耕民は、本論文の分析(図2)では、黄河上流域関連祖先系統(67%)と粮道関連祖先系統(33%)の混合を示します。祖先系統のこの特徴的な混合は、本論文の対象ではモンゴルとアムール川流域の時代区分で欠如している、と観察されます(図3)。これは、西遼河農耕民の拡大がモンゴル語族とツングース語族を広めた、とする仮説の予測でありません。対照的に、西遼河農耕民祖先系統は、おそらくさらに東方に影響を及ぼしました。たとえば、現代日本人は青銅器時代西遼河人口集団(92%)と縄文人(8%)の2方向混合としてモデル化でき、黄河流域農耕民集団が本論文のqpAdm分析での外群として含まれ、そのモデルが適合されるので確認されるように、黄河流域農耕民関連集団からの無視できる程度の寄与を伴います。この祖先系統は、朝鮮半島を経由して伝わったことと一致します。それは、日本人が朝鮮人(91%)と縄文人(9%)の混合としてモデル化できるからです。

 本論文で取り上げられた縄文人6個体は、毛髪の太さや直毛度、エクリン汗腺密度、耳たぶや下顎の形態にも影響を与えているエクトジスプラシンA受容体(EDAR)遺伝子の370V/A多様体の派生的アレル(関連記事)を有していません。EDAR遺伝子の370V/A多様体の派生的アレルは中国本土で3万年前頃に出現したと推定されており、アジア東部本土とアメリカ大陸の完新世の人口集団で高頻度に達しました。この派生的アレルが縄文人にはほぼ欠如しているという事実は、アジア東部本土集団と比較しての縄文時代の人口集団の遺伝的相違を強調します。以下、本論文の図2です。
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●シナ・チベット語族の北部起源

 チベット高原には現生人類が4万〜3万年前頃以来居住してきましたが(関連記事)、恒久的居住の証拠があるのは、農耕到来の紀元前1600年頃以降です(関連記事)。先住チベット人も、中国沿岸部平原の言語とつながるシナ・チベット語を話します。これらの密接に関連する言語の起源に関する「北部起源仮説」では、黄河上流および中流域でアワを栽培していた農耕民がチベット高原へと南西に拡大し、現在のチベット・ビルマ語族を広げ、中原および東岸へと東方と南方に拡大して、祖型的中国語を広めた、と提案されています(関連記事)。「南部起源仮説」では、祖型シナ・チベット語は高地を低地とつなぐチベットのイー(Yi)回廊で出現し、早期完新世に拡大した、と想定されます。

 チベット人の祖先系統と、中国語話者の祖先系統との関係を明らかにするため、現代の17の人口集団が3つの遺伝的クラスタにまとめられました。それは、「中核チベット人」、中核チベット人およびユーラシア西部人と関連する系統間の混合である「北部チベット人」、qpAdmでは30〜70%のアジア南東部人と関連する系統を有し、チベット語話者だけではなく、チアン人(Qiang)やロロ・ビルマ語話者も含む「チベット・イー回廊」人口集団です。古代黄河流域農耕民と現代漢人とチアン人は、中核チベット人と最も多くの遺伝的浮動を共有しており、チベット人と漢人とチアン人は全て、新石器時代黄河流域農耕民と関連する人口集団からの祖先系統を有する、との仮説と一致します。混合連鎖不平衡の崩壊を通じて、中核チベット人における大規模な混合(最小で22%ですが、おそらくはるかに高く、図2の推定値84%と一致します)が確認されました。これは、中核チベット人とその遺伝的にほぼ区別できない古代ネパールの近縁集団が、チベットの狩猟採集民の継続的な子孫を表している可能性は低い、という独立した証拠を提供します。単一混合モデルでは、混合は平均して紀元前290〜紀元後270年頃に起きた、と推定されますが、混合の始まりは、チベット高原への農耕拡大の紀元前1600年頃までさかのぼるかもしれません。

 現代漢人は南北の遺伝的勾配が特徴です。黄河上流および中流域の新石器時代農耕民とチベット人は、アジア南東部クラスタと比較して、現代漢人とより多くのアレルを共有していますが、アジア南東部クラスタ集団は、黄河流域農耕民と比較すると、ほとんどの漢人の方とより多くのアレルを共有しています。qpWaveを用いると、2つの起源集団がほとんどの漢人の全ての祖先系統への寄与と一致し、例外は本論文で2〜4%のユーラシア西部関連系統との混合が推定される北部漢人である、と決定されました。このユーラシア東西の混合は32〜45世代前に起きた、と推定されます。これは、紀元後618〜907年の唐王朝および紀元後960〜1279年の宋王朝の時期と重なります。唐代と宋代には、漢人(の主要な祖先集団)と西方民族集団との統合の歴史的記録があります。他の漢人全員に関しては、黄河上流および中流域の農耕民と関連する祖先系統が59〜84%、残りは古代粮道遺跡狩猟採集民と関連する人口集団に由来する、と推定されました。粮道遺跡狩猟採集民集団は、長江流域の稲作農耕民と遺伝的構成が一致すると推測されます。この推論は、粮道遺跡狩猟採集民祖先系統が、おもに多くのオーストロネシア語族話者、海南島(Hainan Island)のタイ・カダイ語族話者のリー(Li)人(66%以下)、青銅器時代アジア南東部人の主要な系統で、一部のオーストロアジア語族話者の祖先系統の2/3である、という事実(図3)により裏づけられます(関連記事1および関連記事2)。

 現在のシナ・チベット語族話者と黄河上流および中流域の新石器時代農耕民との間の特有のつながりが検出されたので、本論文の結果はシナ・チベット語族の「北部起源仮説」を裏づけます。考古学的に証明されているこの地域からの農耕の拡大と同じ時期であることは、紀元前3800年頃の単一の男性祖先に由来する、漢人とチベット人との間で共有されているYHg-O2a2b1a1(M117)の証拠でも裏づけられます。現在の南部漢人における増加する粮道遺跡狩猟採集民関連祖先系統の勾配はおそらく、漢人(の主要な祖先集団)が中国南部に拡大したと歴史的文献で記録されているように、拡大する漢人と南部集団との混合に起因します。しかし、これは最初の南方への移住ではありませんでした。それは、中国南部の漢人が遺伝的に、中期新石器時代の中国南部農耕民よりも、後期新石器時代黄河流域農耕民の方と遺伝的に近く(関連記事)、古代台湾農耕民では約25%の北方系統も観察されるからです(図2)。


●稲作農耕の拡大が言語を広めます

 アジア南東部の以前の古代DNA分析では、アジア南東部最初の農耕民は、おそらく中国南部農耕民に関連するアジア東部人からの2/3の祖先系統と、深く分岐した狩猟採集民系統から1/3の祖先系統を有していると示され、これはオーストロアジア語族話者において最も強く明らかで、言語の拡大との関連が示唆されるパターンです(関連記事1および関連記事2)。古代台湾農耕民からの約2000年にわたる時系列の利用により、これがより広範なパターンだと確証されました。古代台湾の個体群は、現代のオーストロアジア語族話者と強い遺伝的つながりを示します。これは、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)によりさらに裏づけられます。古代台湾の個体群では、YHgはO2a2b2(N6)が、mtHgはE1a・B4a1a・F3b1・F4bが優勢です。これらのハプログループは現代の台湾先住民に共有されており、おそらくは太平洋南西部に最初のオーストロネシア語族をもたらした(関連記事)、バヌアツのラピタ(Lapita)文化個体群(関連記事)にも存在しています。

 古代台湾集団とオーストロアジア語を話す現代台湾先住民は、中国南部本土のタイ・カダイ語族話者の方と、他のアジア東部人よりも有意に多くのアレルを共有しています。これは、現代のタイ・カダイ語族話者と関連し、長江流域農耕民(まだ古代DNAでは標本抽出されていません)からそれ以前に派生した古代の人口集団が、紀元前3000年頃に台湾へと農耕を広めた、との仮説と一致します。意外な発見は、古代中国北部個体群が、台湾海峡の本土側の初期完新世狩猟採集民よりも、本論文における台湾の時代区分の古代個体群の方とより密接に関連している、との観察です。これは、新石器時代中国北部から台湾への遺伝子流動を示唆し、黄河流域農耕民の2集団系統の一方に派生するとモデル化する場合、25%の遺伝的影響が推定されます。この祖先系統は、黄河流域農耕民自体から由来すると仮定するならば適合せず、南北の移住はこれらの農耕民の拡大とは関連しない、と示唆されます。推測できる可能性としては、この祖先系統が紀元前8000年頃までに中国北部で栽培化されたアワの耕作者により伝えられ、中国南部では紀元前3000〜紀元前2500年頃となる台湾新石器時代の大坌坑(Tapenkeng)文化で比較的早期に出現した、というものです。


●ユーラシア東西の混合

 モンゴルはユーラシア草原地帯の東端近くに位置し、考古学的証拠では、完新世を通じてユーラシア東西の文化的交換の水路だった、と示されています。たとえば、ヤムナヤ(Yamnaya)草原地帯牧畜民文化の東方への拡大である紀元前3100年頃のアファナシェヴォ(Afanasievo)文化は、モンゴルに最初の酪農をもたらし、紀元前2750〜紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化のようなその後の現象に文化的影響をもたらしました。

 本論文におけるモンゴルの時代区分では、紀元前6000〜紀元前600年頃の4起源集団に祖先系統が由来します。最初に確立し、おもにアジア東部人と関連する唯一の起源集団は、紀元前6000〜紀元前5000年頃となるモンゴル東部の新石器時代狩猟採集民2個体において基本的にほぼ100%で表され、本論文のデータセットでは最初期の個体群となります(図3)。第二の起源集団は、紀元前5700〜紀元前5400年頃のモンゴル北部の新石器時代狩猟採集民7個体で最初に現れ、以前に報告されたシベリア西部狩猟採集民(WSHG)と関連する祖先系統(関連記事)を5%程度有するとモデル化できます。第三の起源集団はアファナシェヴォ文化個体群で最初に現れ、遺伝的にはヤムナヤ草原地帯牧畜民とひじょうに類似しており、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群のパターンと一致します。第四の起源集団は紀元前1400年頃までに現れ、シンタシュタ(Sintashta)文化の牧畜民のような祖先系統を有する人々に由来するとモデル化されます。シンタシュタ文化牧畜民は、ヤムナヤ関連祖先系統(約2/3)とヨーロッパ農耕民関連祖先系統(約1/3)の混合に由来します。

 モンゴルにおける混合史を定量化するため、qpAdmが用いられました。多くのモンゴル東部人は、新石器時代のモンゴル東部人(65〜100%)とシベリア西部狩猟採集民の単純な2方向混合としてモデル化できます。このモデルに適合する個体群は、新石器時代集団(0〜5%のWSHG)だけではなく、アファナシェヴォ・クルガク・ゴビ(Afanasievo Kurgak govi)遺跡の前期青銅器時代の子供(15%)、ウルギー(Ulgii)集団(21〜26%)、中期青銅器時代のムンクカイルカーン(Munkhkhairkhan)文化の主要な集団(31〜36%)、モンゴル中央部・西部地域の後期青銅器時代結合集団(24〜31%)、モングンタイガ(Mongun Taiga)の個体群(35%)です。クルガク・ゴビの子供はアファナシェヴォ文化との関連および年代にも関わらずヤムナヤ関連系統祖先系統を有しておらず、ヤムナヤ関連祖先系統を有さないアファナシェヴォ伝統で埋葬された個体の最初の事例となります。モンゴルに拡大したヤムナヤ期の遺産は、紀元前2750〜紀元前1900年頃のチェムルチェク(Chemurchek)文化の2個体で継続し、その祖先系統は、ヤムナヤ・アファナシェヴォを一方の起源集団として用いてのみモデル化できます(33〜51%)。これは、古代ヨーロッパ農耕民を外群で含める場合でも適合し、人々の長距離の移動はヨーロッパ西部の巨石文化伝統をチェムルチェク文化の人々に広めた、という仮説の証拠を提供しません。

 紀元前600年頃より前の4起源集団モデルが適合しない1事例は、チェムルチェク文化の1個体ですが、ずっと南方のトゥーラン(現在のイランとトルクメニスタンとウズベキスタンとアフガニスタン)地域と関連する人口集団からの15%の追加の祖先系統でモデル化できます。最近の研究では、トゥーラン集団とボタイ(Botai)遺跡の初期カザフスタン牧畜民の混合としてチェムルチェク文化関連個体群がモデル化され、本論文において全てのチェムルチェク文化関連個体で検出された他の3祖先系統はいずれも確認されませんでした(関連記事)。本論文の最適モデルは、ボタイ文化関連個体群が参照セットにある時に合格するので、本論文と他の研究の知見は、どちらも正しいならば、ボタイ文化集団関連祖先系統を有する一方の移住の波と、それを有さないもう一方の移住の波を伴うような、チェムルチェク文化関連個体群のひじょうに複雑な起源を示唆します。

 中期青銅器時代以降、モンゴルの時代区分データでは、アファナシェヴォ文化とともに拡大したヤムナヤ派生系統の持続に関する説得力のある証拠はありません。代わりに、ヤムナヤ関連祖先系統は、中期〜後期青銅器時代のシンタシュタ文化およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化の人々と関連する後の拡大に由来するものとしてのみモデル化できます。シンタシュタ文化およびアンドロノヴォ文化の人々は、2/3のヤムナヤ関連祖先系統と1/3のヨーロッパ農耕民関連祖先系統の混合です。シンタシュタ文化関連祖先系統は、中期〜後期青銅器時代の集団で0〜57%の割合で検出され、モンゴル西部でのみかなりの割合となります。これら全集団に関して、qpAdm祖先系統モデルは、外群にアファナシェヴォ文化関連個体群を用いて合格しますが、起源集団としてのアファナシェヴォ文化関連個体群と外群にシンタシュタ文化関連個体群を用いるモデルは全て却下されます(図3)。

 新たな祖先系統は後期青銅器時代から大きな割合で到達し始め、qpAdmでは、新石器時代モンゴル東部個体群を、フブスグル(Khövsgöl)やウラーンズク(Ulaanzukh)やモンゴル中央部・西部地域の一部後期青銅器時代個体群、石板墓(Slab Grave)文化と関連した前期鉄器時代2個体、匈奴や鮮卑やモンゴル時代の個体群において、単一のアジア東部人起源集団としてモデル化すると失敗します。しかし、漢人を起源集団として含めると、これらの個体群の9〜80%の祖先系統の割合が推定されます。トゥーラン派生祖先系統は、紀元前6世紀〜紀元前4世紀までに、鉄器時代のサグリ(Sagly)文化の複数個体において再度モンゴルに拡大しました。明るい肌の色素沈着と関連する2ヶ所の遺伝子多型(rs1426654とrs16891982)、およびヨーロッパ人で青い目と関連する1ヶ所の多型(rs12913832)のアレルは、サグリ文化個体群で高頻度ですが、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)と関連する多型(rs4988235)のアレルは、本論文で分析されたアジア東部人全員でほぼ欠如しています。

 ヤムナヤ・アファナシェヴォ関連系統が中期〜後期青銅器時代までにモンゴルでほぼ消滅したことで一致している一方、ヤムナヤ・アファナシェヴォ関連系統拡大の遺産が中国西部で紀元前410〜紀元前190年頃となる鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)文化の時期に存続したことを示唆する、以前の古代DNA分析が確認・補強されました。石人子溝文化個体群の多くと5つの遺伝的に均質な下位クラスタのうち3クラスタを別々に考慮すると、唯一の節約的なモデルは、アファナシェヴォ文化個体群と関連する集団からのユーラシア西部関連祖先系統に全てが由来し、後にアジア中央部とモンゴルで出現した特徴的なヨーロッパ農耕民関連混合のないアファナシェヴォ文化個体群関連祖先系統は現在の新疆ウイグル自治区で持続した、と確認されます。

 たとえば、最もユーラシア西部関連祖先系統を有する2個体(石人子溝文化)にとって、3方向モデルに適合する全モデルは、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群関連祖先系統を71〜77%含みます(図3)。さらに、そのようなモデルにおいて小さな割合で適合できる他のユーラシア西部関連2集団からの祖先系統の合計は、常に9%未満です。国家以前の社会では、言語はおもに人々の移動を通じて拡大すると考えられているので、これらの結果は、タリム盆地のトカラ語がヤムナヤ文化の子孫のアルタイ山脈およびモンゴルへの移住を通じて(アファナシェヴォ文化の外観で)拡大し、そこからさらに新疆ウイグル自治区へと拡大した、との仮説に重要な意味を追加します。これらの結果は、インド・ヨーロッパ語族の多様化の仮説にとって重要です。なぜならば、インド・ヨーロッパ語族系統樹における二番目に古い分枝の分岐は紀元前四千年紀末に起きた、という仮説を支持する証拠が増加しているからです。以下、本論文の図3です。
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 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文で取り上げられていない最近の研究では、まだ査読前ですが、チベット人の形成過程と地域差を詳細に分析した論文(関連記事)や、上部旧石器時代後期から中世までのアジア北東部の複雑な人口史を分析した論文(関連記事)や、前期新石器時代〜漢代の山東省の人類の母系の遺伝的構造を分析した論文(関連記事)があります。本論文が指摘するように、アジア東部の更新世人類遺骸と、新石器時代長江流域個体群の古代DNAデータが得られれば、アジア東部、さらにはアジア南東部における現在の人口集団の形成史の理解は大きく進むと期待されます。

 上述のように、本論文は昨年3月に査読前に公開された時からかなり修正されており、それは昨年の公開時以降に公表された研究を取り入れているからでもあります。まず、査読前論文では、アジア東部における主要な祖先系統の大きな区分はユーラシア東部で、それが南北に分岐し、さらにユーラシア東部北方祖先系統から分岐したアジア東部祖先系統が南北に分岐した、とされていました。この大きな祖先系統間の関係は本論文でも変わっていませんが、ユーラシア東部系統の南北の分岐が、南方は沿岸部祖先系統、北方は内陸部祖先系統と名称が変わっています。4万年前頃の田园個体はユーラシア東部内陸部祖先系統に位置づけられるものの、アジア東部現代人の直接的な祖先集団とは早期に分岐し、現代人には殆どあるいは全く遺伝的影響を残していない、と推測されています。

 ユーラシア東部内陸部祖先系統(以下、内陸部祖先系統)は南北に分岐し、これが査読前論文のアジア東部南方祖先系統とアジア東部北方祖先系統に相当します。黄河流域新石器時代集団では内陸部北方祖先系統の割合が、前期新石器時代となる福建省の粮道遺跡2個体では内陸部南方祖先系統の割合がひじょうに高くなっていますが、それぞれユーラシア東部沿岸部祖先系統(以下、沿岸部祖先系統)の遺伝的影響も多少受けています。長江流域新石器時代集団は、粮道遺跡狩猟採集民と類似の遺伝的構成と予想されていますが、現時点ではまだゲノムデータが公表されていないと思います。上述のように、アジア東部の古代DNA研究における今後の注目点の一つが、長江流域新石器時代集団の遺伝的構成でしょう。

 黄河流域で新石器時代に成立した遺伝的構成をアジア東部北方祖先系統、中国南部新石器時代集団の遺伝的構成をアジア東部南方祖先系統とすると、現代中国における各人口集団の南北それぞれの割合は図3aで示されています。査読前論文と比較すると、漢人では全体的にアジア東部北方祖先系統の割合の方が高いものの、以前よりもアジア東部南方祖先系統の割合が高くなっています。これは、アジア東部北方祖先系統を表すのが、紀元前3000年頃となる後期新石器時代の陝西省楡林市靖辺県の五庄果墚(Wuzhuangguoliang)遺跡個体群から後期新石器時代黄河上流域個体群に、アジア東部南方祖先系統を表すのが、台湾の紀元後1〜4世紀の漢本(Hanben)遺跡個体群から前期新石器時代となる福建省の粮道遺跡2個体に変わったことが大きいようです。後期新石器時代黄河上流域個体群は、新石器時代から鉄器時代の中国北部の人口史に関する研究(関連記事)で取り上げられた、ともに青海省に位置する、紀元前2461〜紀元前2208年頃の金蝉口(Jinchankou)遺跡と紀元前2866〜紀元前2237年頃の喇家(Lajia)遺跡の個体群で表されます。

 モンゴルでは改めてユーラシア西部関連祖先系統の流入が確認されましたが、最初に到来した祖先系統が消滅し、後に別の祖先系統が流入するなど、ユーラシア草原地帯における完新世の複雑な人口史が示唆されます。ユーラシア西部関連祖先系統の流入は、上述のようにトカラ語との関連でも注目されます。現代チベット人は内陸部北方祖先系統の圧倒的な割合と、沿岸部祖先系統の比較的低い割合とで構成され、内陸部南方祖先系統の影響はほとんどないようですが、上述のチベット人形成史に関する詳細な研究では、現代チベット人内部では明確な遺伝的地域差があり、地域によってはユーラシア西部関連祖先系統や内陸部南方祖先系統が明確に示されています。

 日本人の私は、やはり自分が属する現代日本の「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団の形成過程に注目してしまいます(まあ、自分のゲノムを解析してもらったことはないので、じっさいに「本土」集団の遺伝的構成の範囲内に収まるのか、確定したわけではありませんが)。本論文では、縄文時代の7個体が分析されました。内訳は、紀元前2500〜紀元前800年頃の千葉市の六通貝塚の6個体と、紀元前1500〜紀元前1000年頃となる北海道の礼文島の船泊遺跡の1個体です。六通貝塚の6個体では1親等の関係にある2個体が確認されたので、そのうち網羅率のより低い1個体は集団遺伝分析から除外されています。

 縄文人は、内陸部南方祖先系統56%と沿岸部祖先系統44%の混合としてモデル化されます。この混合がいつどこで起きたのか、縄文人の年代・地域での遺伝的違いはどの程度だったのか、今後の研究の進展が期待されます。また、現代日本の「本土」集団の形成に関しては、縄文人とアジア東部大陸部から到来した集団との混合との見解が最近の研究でも改めて確認されており、アジア東部大陸部からの縄文時代以降のおそらくは2回(あるいはそれ以上)の移住が想定されています(関連記事)。本論文は、現代日本の「本土」集団は、縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と指摘します。縄文時代以降に日本列島に到来し、圧倒的な遺伝的影響(90%程度)を現代「本土」集団に残した集団は、考古学で強く示唆されているように、朝鮮半島経由で到来した可能性が高そうで、今後この推測が大きく変わることはなさそうです。もちろん、本論文の祖先系統モデル化は、あくまでも現時点でのデータに基づいており、今後の古代DNA研究の進展により、さらに精緻化されると期待されます。

 本論文で分析された縄文人7個体のmtHgはいずれもN9bで、さらに詳細に区分できた4個体のうち3個体がN9b1、1個体がN9b2aです。礼文島の1個体と六通貝塚の6個体のうち3個体は男性です。YHgは、礼文島の1個体がD1(F1344)、六通貝塚の3個体がD1a2a1c1(Z1570)とD1a2a1c1(Z1575)とD1a2a1c1a(CTS11032)です。アジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった、較正年代で4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)のYHgもD1(M174)です(関連記事)。ホアビン文化狩猟採集民は遺伝的には本論文の沿岸部祖先系統の影響が圧倒的に強く、沿岸部祖先系統を有さないアジア東部の古代人ではまだYHg-D1は確認されていないと思いますので、アジア東部の個体群のYHg-D1は沿岸部祖先系統にのみ由来する可能性が高そうです。日本列島やチベットでは、内陸部祖先系統の遺伝的影響が圧倒的に強くなってもYHg-D1が残ったのに対して、農耕到来とともに内陸部祖先系統の遺伝的影響が強くなったアジア南東部では、YHg-D1がほとんど消えた理由に関しては、拡散の経緯や外来集団と在来集団との力関係や社会構造などの影響が大きいかもしれませんが、今後の研究の進展により解明されていくのではないか、と期待されます。


参考文献:
Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2


https://sicambre.at.webry.info/202103/article_15.html

11. 2022年7月14日 03:58:39 : EkLZD15jVs : TW11R2FxYmtrdUE=[2000] 報告
2022/07/13(水) 22:31:56.54ID:OEaBaA150
 
 
朝鮮カルト統一教会の目的は日韓併合


日本を韓国の植民地にする為の工作部隊


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http:
//youtube.com/watch?v=qtzkP2Pi9tY


h ttps://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1657718984/62

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