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縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか
http://www.asyura2.com/18/revival4/msg/131.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 18 日 06:52:21: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本人はネアンデルタール人の生き残り? 投稿者 中川隆 日時 2018 年 9 月 04 日 15:40:49)


縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか

「縄文時代、人は何を考え、何を築いてきたか」第5回〜クリが縄文人を作った、縄文人がクリを作った
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html

クリと縄文社会は密接に繋がっている。

縄文中期の巨大集落、三内丸山ではくりの栽培が盛んに行われていた事は有名な話だ。今回はこのクリをテーマにどのようにクリと縄文人が繋がり相互に繁栄したかを追いかけていきたい。

今回も「縄文探検隊の記録」からの紹介ですが、少し方法を変えて、本文はこちらで書き、それを示す記事を間に入れていきます。>は著書からの抜粋です。

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クリの歴史】
クリは日本列島に1億年くらい前からずっとある植物。白亜紀の地層からクリの化石が出てきている。1億年は恐竜が闊歩していた時期で非常に長い歴史を持つ植物である。最終氷河期の終わりごろから温暖化と時期を重ねて爆発的に増えていく。
クリの利用は1万3800年頃が一番古く、1万2千年前には建物の基礎として杭の代わりに使われた。
材で利用されたのが早いかと言うとそうでもない。食用利用も1万2700年前には福井県鳥浜で確認されており、食と材、ほぼ同時期に利用が始まった事が推察される。

>クリはひょっとして、縄文人の暮らしの中でかなり重要な位置を占めていた植物ではないかと考えられるようになったのは、考古学植物学の有効性がわかりだしてからですね。

栽培に向い始めたのはいつからだろうか?】
一番古いクリの木が出る1万2000年前頃から花粉が増え、9000年前頃にどっと増える。それをどう解釈するか。気候の急激な変化に伴ってクリが一気に増えたのか、それとも定住を始めた人間が意図的に増やしたのかが焦点になる。

>植生というのはきっかけがあると変わっていくものです。最初はシイやブナのような大きな木を中心とする生態系ができて安定した状態にはなりますが、シイやブナはずっと主役ではいられない。何かアクシデントがあれば、たとえば山火事や土砂崩れのようなことが起きると、森という劇場の配役はリセットされてしまうのです。そうしたところにいち早く生える先駆主がアカマツやクリなのです。しかし、シイのような巨木になる木がまた生え始め,陰を作るようになると退場を余儀なくされます。つまり、クリは植生の遷移の中で一時的に登場する木であって、自然の森の中では永遠の主役ではないのです。
>私達の説では地球が急激に温暖化したことでクリの木も勢いづいた。それが鳥浜の縄文人の暮らしを形成した。
>狩猟採採集生活といっても、縄文時代はそこら辺が大きく違います。数世帯が必要なものを周りからかき集め、永続的に活動できるセンターを作っていた。そういう定住生活、センターを縄文の「むら」と呼んでいるのです。
>クリは人間との出会いによって繁栄のチャンスを得たといってもようように思う。
>本来クリは植生の遷移の中で消えていく木なのです。人間が森を壊したら、日当たりを好み、おいしい実のなるクリが偶々増え始めた。管理の第2段階は栽培。もっと実がたくさんほしい、もっとたくさんの木材が欲しい、その為にはクリの生長を妨げる他の木を排除する。或いは実を土に埋めて発芽させ、苗にして植える。問題は栽培はいつの時点から始まったと言えるか。私は縄文草創期から既に始まっていたと考えています。

>徐々にクリの有用性を知っていったのではなく、出合った最初から秘めている価値に気づき、すぐに栽培を試みたと考えます。彼らは定住を選択する前から自然環境の仕組みというものを熟知していた、生まれながらの観察者です。どういうふうにすれば自然は都合よく利用できるかということをわかっていたと思うのです。森を切り拓いてむらを作り始めた段階で、既にクリの有用性に気づいたと考えます。
>クリの栽培は定住の為の開発と同時期に始まった。
>大雑把な例えですが、人類の歴史を400万年とすれば、そのうちの399万年は遊動生活です。最後の1万年前から始まった定住生活は、人類の生き方の枠組そのものを完全に変えた。まさに大革命だったのです。

クリの有用性】

建材、木材としてのクリのメリット)
・成長が早い事(同じ太さを得る為にクリはスギやヒノキの約倍のスピードで生育する)
・加工のしやすさ。特に生木の時はとても細工がしやすい。石斧でも伐採しやすい、割り加工もしやすい。割裂性が非常によくてまっすぐ切れるのもクリ。
・湿気に強い事。防腐効果のあるタンニンをたくさん含んでおり、シロアリや腐朽菌におかされにくい。三内丸山の6本柱がクリでできている為、土中にあれだけの年月残ることができた。
上記に加えておいしい実もたくさんつける。縄文人にとってのクリはまさにスーパーツリーであった。

クリの木がどれほど使われていたか】

>文化財センターの研究によると、南関東の縄文遺跡では建材の8割がクリで、炉の燃え残りの炭も4割がクリだった。
>三内丸山で得られたデーターを見るとそれこそ「そこら中にクリが生えていた」

クリと縄文人の関係】
縄文人はクリをどのように扱い、この木に対する思いはどうだったのか?
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>三内丸山の巨大な柱(直径1m)から見て、統合のシンボルだったのだと思います。ひょっとするとそれぞれの集落の巨大なクリの木をここに集めたのかもしれない。
>自分達を見守ってくれる存在、クリの木が生きているうちからトーテムと位置付けていた可能性もあります。かなりの共通認識がないとあれだけの巨大なものは作れない。
>クリの木は縄文時代に津軽海峡を渡り、北海道に持ち込まれている。当時の人たちが舟で運んで移植した可能性がある。
>最終氷河期には南日本の海岸部にわずかしかなかったクリが温暖化が始まると爆発的に分布が広がった。縄文人がその分布の拡大を後押しした可能性がある。
>人とクリは出会うべくして出合った。人間活動の広がりに伴いクリの分布も広がった。
>つまり里山の起源ですね
>縄文人との共生的な関係を結んだ事によって、クリが拡散に成功したことは間違いありません。
>クリが神のような位置付けにあった可能性もあります。
>縄文人は家を解体するときに抜いた柱の穴の中に焼いたクリの実を入れています。つまり儀式です。トチの実の場合もありますが、クリが一番多い。今も神せん(供物)にクリは、はいっています。
>正月の栗きんとんもその名残か、日本人とクリの関係は今も神聖な繋がりがあるのです。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/03/3438.html
 

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コメント
1. 中川隆[-11349] koaQ7Jey 2019年3月20日 13:55:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[656] 報告
かつて教科書から消えた縄文時代。その理由とは?
2019年03月15日 関裕二(歴史作家)
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6143?p=1


国指定特別史跡 三内丸山遺跡(青森県青森市)

※本稿は、

関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4569842429/ref=as_li_qf_asin_il_tl?ie=UTF8&tag=php6245-22&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4569842429&linkId=841bd403c715a8e5fb76f972565e5d5e


より、一部を抜粋編集したものです。

一度、教科書から消えた縄文時代

ゆとり教育のせいだろうか。平成10年(1998)の小学校学習指導要領改訂によって、一度旧石器時代と縄文時代(新石器時代)は教科書から消えてしまった。平成20年(2008)に、ようやく復活したが、それでも教科書の記述はわずかで、一般社団法人日本考古学協会は平成26年(2014)5月に「小学校学習指導要領の改訂に対する声明」を発表して、改善を求めている。

なぜ、縄文時代は教科書からはねられてしまったのだろう。その理由の一つに、「日本人の歴史は大陸や半島から稲作が伝えられて、ようやく発展の糸口を摑んだ」という、漠然とした常識が支配していたからではなかろうか。野蛮で未開な縄文時代を学んでも、何も意味を持たないと、信じられていたからにちがいない。

しかし、縄文時代がわからなければ、日本史や日本人の正体は、わからないままだ。大袈裟に言っているのではない。縄文人が1万年の歳月をかけて作り上げてきた文化と習俗と文明が、「民族の三つ子の魂」となって現代まで継承されている。日本人がなぜ「世界でも稀な文化を形成したのか」といえば、日本列島が東海の孤島で、縄文人が他の世界にはない独自の文化を編み出したからにほかならない。

その後、大陸と半島の混乱によって、多くの人びとがボートピープルとなって海を渡ってきて、渡来系の血が混じり、水田稲作をはじめて人口爆発を起こしていったが、それでも、1万年の縄文の文化と習俗を消し去ることはできなかったのだ。

たとえば日本料理は、「煮る作業」が基本だが、これは縄文文化の名残だ。縄文人は、世界最古級の縄文土器(1万6000年前か?)を利用して、ひたすら食品を煮て食していたのである。

神道は稲作民族の信仰と思われがちだが、縄文時代はおろか、旧石器時代までつながる、長い伝統に根ざしている。

さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。

似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。

かつて、「現代人が使っている日本語は、弥生時代に渡来人が縄文語を駆逐して、弥生時代に完成した」と考えられていた。縄文時代と弥生時代に、大きな文化の断絶が起きていたという発想だ。「縄文人は大量に海を渡ってきた渡来人に圧倒された」と信じられてきたのである。

しかし、すでに縄文時代に日本語は完成していたのではあるまいか。一度に大量の渡来人がやってこなければ、言語の入れ替わりは起こりえない。少数の渡来が長い年月続き、その都度、渡来人は「日本語を習得していった」と考えざるをえない。

奈良県南部の十津川村とその周辺は、近畿地方に属しながら、なぜか、関東の言語によく似ている(乙種アクセント)。それはなぜかといえば、小泉保は『縄文語の発見』(青土社)の中で、柳田國男が提唱した「方言周圏論」(『蝸牛考』)が有力な武器になると考えた。「カタツムリ」を、近畿では「デデムシ」と呼び、外側の関東や北九州では「マイマイ」、東北や四国西部では「カタツムリ」と呼ぶ。柳田國男は、デデムシ⇒マイマイ⇒カタツムリという順に近畿地方から言葉が広がっていった結果、遠くに行くほど古い言葉が残っていると推理したのだ。つまり、弥生化していく近畿地方の中で、十津川周辺は取り残され、古い言葉が残ったと考えた。また、日本語はすでに縄文時代に完成していて、琉球縄文語は、縄文中期に本土縄文語と分離したと指摘したのである。

ちなみに、出雲の方言が東北地方とよく似ているのも、「方言周圏論」で説明がつくとする説もあるが、岡山県の人びとの口調も、関西弁とはかけ離れ、むしろ関東弁に近い。

次のような指摘もある。

縄文の海人たちは、難所として名高い津軽海峡を普通に往き来して文化圏を形成していた。また、縄文の海人は沖縄から南西諸島を経由して、日本列島との間を行き来していたが、対馬から朝鮮半島へは、交流の頻度が落ちる。それはなぜかというと、航海術が未熟だったからではなく、その当時は、言葉が通じなかったのではないかといい、すでに縄文時代、日本列島では日本語の原型が誕生していたのではないかと推理している(小林達雄『縄文の思考』ちくま新書)。

この発想はおもしろい。その通りかもしれない。その後、次第に朝鮮半島南部と北部九州は、交流を重ねていくのだが、縄文時代の往き来は、比較的少なかった。

戦後史学界を席巻していた唯物史観の弊害

農耕をする以前の狩猟採集の時代が縄文時代とする定義は、すでに戦前になされていた(1930年代)。縄文人は先住民のアイヌ族と考えられてもいた。

すでに大正時代の1910年代ごろから、科学的な研究が進み、土器の編年作業が始まっていたが、縄文は未開社会というイメージは、つきまとった。

この考えから先に進んだのが、山内清男だった。大陸との交渉がほとんどなく、農業を行った痕跡がない時代と、大陸と交渉を持ち農業が一般化した時代に区切り、紀元前2500年に始まる縄文土器の時代(当時はそう考えられていた)とそのあとに続く弥生時代の概念を明確にしたのだ。

ちなみに、新石器時代に入っても農耕を行わなかった縄文人を「高級狩猟民」と、山内は位置づけたのだった。

戦後になると、今度は唯物史観が、史学界を席巻してしまった。物質や経済、生産力という視点で歴史を捉え、「人間社会は段階的に発展し、最後は共産主義に行き着く」という考えで、農耕を行っていなかった縄文時代に対し、負の歴史的評価を下している。生産力は低く、無階級で、無私財であり、停滞の時代とみなした。採集生活には限界があり、呪術と因習も、弥生時代に大陸から新技術が導入されることによって、払拭されたと考える。歴史的発展は余剰と階級の差が生まれる農耕社会によってもたらされると、考えられていたのだ。

もし仮に、縄文時代を通じて、徐々に社会が発展し、成熟していったとしても、自然の再生産まかせで、これを越えることができないのだから、縄文社会には限界があり、後期から晩期にかけて呪術や祭祀が盛んになるのは、限界と矛盾の現れと、みなされた。入れ墨や抜歯の風習も、縄文社会停滞のシンボルと判断されてしまったのだ。そして、稲作技術が伝わり、ようやく、発展のチャンスを得たというわけである。

たしかに、縄文人は都市に暮らしていたわけではないし、国を形成していたわけでもない。のちの時代のような、階級社会が生まれていたわけでもない。文字もなかった。

そして、狩猟採集をして、獲物を獲得する生活では、歴史発展が進まなかったと信じられていたし、本格的に農業をはじめる「生産経済」になって、ようやく歴史は動き始めたと信じられていたのだ。教科書から縄文時代が消えてしまった理由も、ここにある。

「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける

縄文時代に対する見方が変わってきた

つい二十数年前のこと。縄文時代を礼讃し、縄文文化は日本固有だと称えれば、「夜郎自大なヤツ」とけなされ、へたすれば、「縄文右翼」と揶揄されたものだ(事実、そう言われたことがある)。

「何もかもが渡来人の仕業」と考えることが最先端、という風潮があったのだ。渡来系の人びとから、先進の文物をもらい受け、海外の文化を猿まねすることで、日本は成り立っていたという。

縄文時代の野蛮で未開な日本列島に、朝鮮半島から新たな文物がもたらされたことで、発展のチャンスがやってきた……。これが、常識のようになっていた。

しかし、ようやく人類は直線的、段階的に進歩していくという唯物史観の呪縛から解き放たれようとしている。

たとえば谷口康浩は、次のように述べている。

狩猟採集社会と農耕社会という段階区分が絶対的な指標になりすぎているために、時代区分や通史が膠着し、過去との自由な対話が閉ざされてしまったような閉塞感がある(『縄文時代の考古学1 縄文文化の輪郭』小杉康・谷口康浩・西田泰民・水ノ江和同・矢野健一編 同成社)

縄文時代を見直すという作業は、歴史の連続性を再確認することでもあると思う。狩猟社会が農耕社会に移行し発展していったというこれまでの常識を、疑ってかかる必要があるということだ。

物質と経済に重きを置いた唯物史観は、縄文人を「原始的な社会」と指摘し、これが大きな影響力を持ってしまったのだ。

しかし、イデオロギーや理屈に歴史を当てはめていくという発想そのものが間違っていたのだ。幸い、考古学の物証の積み重ねによって、新たな発想や仮説が次々と飛び出すようになった。そしていよいよ、事実が思想(思い込み)を凌駕するに至ったのである。

1980年ごろからあと、縄文時代に対する見方が変わってきた。縄文人の「高度な資源利用技術や管理技術(特に、植物の利用法)」が判明してきて、彼らがただの狩猟民族ではなかったことが次第に明らかになってきたのだ。

たとえばクリなどの植物の栽培やイノシシの飼育を行っていたことがわかってきた。建築材に使われる木材は耐久性に優れたクリの木が多く、しかもその使用量が「自然に生えている木を切ってきた」レベルではなく、またクリの成長が、自然木よりも速かった。

縄文時代前期後葉に縄文人は集落を構成するようになったが、花粉分析によって、ちょうどこのころから、ナラ類やブナなどの落葉広葉樹が減り、クリが急速に増えていったこともわかっている。クリの自生する北限の北海道でも、縄文前期後葉にクリが増えていく。人が手を加えて、クリを増やしていったと推理されていた。この仮説はのちに、三内丸山遺跡(青森県青森市)が発見されて、証明されていくのだが……。

ちなみに、鉄道の防風林にクリが多く用いられたが、クリの木は固く丈夫なので、鉄道の枕木に使われ、一石二鳥の働きをしていた(それはともかく)。

縄文時代後期から晩期にかけて、すでにイネ(陸稲)や雑穀が栽培されていたことがわかってきた。イネや雑穀の原生種は存在しない(イヌビエは例外)から、朝鮮半島や大陸から、タネがもたらされたのだろう(当然だ)。

近代日本人が縄文人を野蛮視した

あらかじめお断りしておくが、日本列島にかつて、「縄文人」という単独の民族が存在したわけではない。すでに述べたように、旧石器時代に多くの人びとが色々な場所から日本列島に流れ込み、縄文時代にも、さまざまな人びとが日本列島にやってきた。そしてその後1万年以上の間、日本列島の中で融合し、地域ごとに異なる面も合わせ持ちながらも、ほぼ共通する文化を熟成させていった。われわれはその日本列島内で、おそらく共通の言語を語り(方言もあっただろう)、よく似た土器を使っていた。この1万年の歴史を積み重ねていた人たちを、暫定的に「縄文人」と呼んでいるに過ぎない。

ただし、強調しておきたいのは、日本列島が東海の孤島だったこと、大挙してこの島国を席巻するような勢力が到来することはなかっただろうこと、縄文人(列島人)が1万年という年月をかけて、他の世界にはなかった独自の文化と信仰を育んでいったことなのだ。そして、だからこそ、縄文時代の生活や習慣が継承され、縄文の精神が日本人の三つ子の魂になったのであって、1万年という時間こそ、日本人の揺籃期になったと思うのである。

そこでいよいよ、縄文人を、掘り下げていこう。

縄文時代が始まった時期に関して、長い間紀元前4〜5000年と考えられてきたが、炭素14年代法(放射性炭素C14の半減期が約5700年という性格を利用して遺物の実年代を測る方法)の出現で、一気に1万3000年前にさかのぼるようになった。さらに、炭素14年代法も、放射性炭素が、一定に減っていくわけではなく、微妙に誤差を修正する必要がある。そこで、修正してみると、縄文時代の始まりの「較正年代」は、1万6000年前ではないかと、考えられるようになった(青森県の大平山元T遺跡から出土した無文土器片から割り出された)。氷河時代が終わって、温暖な気候がめぐってきて、縄文文化も花開いたのだ。そして、縄文土器も、世界的にみて、最古級の土器と考えられるようになった。世界最古の可能性もある。ただし、やはり最古級の土器がみつかるシベリアや沿海州の発掘が遅れているために、さらに古い土器が出土する可能性がある。

また、縄文時代の終焉(弥生時代のはじまり)の時期に関しても、大きく見方が変わってきた。紀元前300年と考えられていた時代もあったが、次第に古くなり、やはり炭素14年代法によって、今では、紀元前10世紀後半の可能性が高くなってきた。この結果、「北部九州に渡来人が稲作をもたらし、一気に日本列島を稲作文化が席巻した」というかつての常識は、通用しなくなった。北部九州から、徐々に東に稲作文化は伝えられていったと修正されているのだ。

縄文の年代観だけでなく、縄文文化に関しても、見方は変わってきている。かつて縄文人といえば、狩猟採集に明け暮れ、移動生活をしていた野蛮人とみなされていた。縄文時代は、原始時代と同意語だったのだから、隔世の感がある。

平成6年(1994)に青森県青森市で三内丸山遺跡が発見されたころから、縄文見直し論が徐々に高まってきたが、それ以前、地方の「実際に遺跡を発掘している考古学者」たちは、縄文の実力を、すでに高く評価していた。資料館などでお話を伺うと、「すべて渡来人の仕業と考えることはできない」と、しきりに訴えられ、また、「縄文の習俗は消えたわけではない」と、口々におっしゃっていた。特に、渡来系の影響を強く受けたと思われる日本海側の北部九州や山陰地方の考古学者たちは、古い史学者や歴史愛好家が、「なんでもかんでも渡来人の影響」と信じる傾向にあったことを嘆かれていた。その苦々しい表情を、よく覚えている。


2. 中川隆[-11268] koaQ7Jey 2019年3月23日 12:19:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[741] 報告

この続きは


遥かなる縄文の記憶〜科学の目で見た縄文〜
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/223.html

3. 中川隆[-9383] koaQ7Jey 2019年6月22日 10:52:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3102] 報告

【我那覇真子「おおきなわ」#74】
長浜浩明〜韓国人とは遠縁だった!遺伝子から探る日本人のルーツ[桜R1-6-21] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CPxmCGtjR0
4. 中川隆[-9354] koaQ7Jey 2019年6月22日 19:35:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3132] 報告

「最新の縄文分析で今明かされる、沖縄のルーツと日本の建国」古代史研究家・長浜浩明氏 2018.02.11 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8q-ZXmoPa-Y


2018/02/11 に公開

沖縄の大本は、縄文時代から九州の人々と同じ先祖を持ち、それは遺伝子、言語から明らかです。また、皇室の大本は沖縄方面からやってきたのであり、神武東征は史実なのです。(長浜浩明氏)

皇紀2678年(平成30年)2月11日(日・祝)
『日本の建国を記念する沖縄県民の集い』記念講演


______


因みに、日本人の核DNAの 90% は渡来系で、縄文系は僅か10% です

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