<■56行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> >>2 ご紹介のURL の文章から。 ■https://indeep.jp/human-cannot-survive-outside-the-earth-magnetosphere/ ・抜粋コピペ 宇宙での健康の問題が報告されなかったのは、アメリカだけではありません。1968年からのソ連の有人飛行でも、地球の軌道にだけ行った宇宙飛行士の健康上の 問題は、ソビエトの報道では決して報告されなかったことを思い出してください。 宇宙飛行士アンドリアン・ニコラエフとヴィタリー・セバスチャノフが、 当時として最長の宇宙滞在記録を作った後(※ 1970年にソユーズ9号が18日間、 宇宙空間に滞在した)、ニコラエフは、その後、2度の心臓発作を起こし、 合計 5回の心臓発作を起こして死亡しました。 ------------------------------------抜粋コピペ終了 上記説明文の「1970年にソユーズ9号が18日間、宇宙空間に滞在した」の ソユーズ9号のウィキより二人の宇宙飛行士のリンク。 ●アンドリアン・ニコラエフ(2度目)(1929年9月5日 - 2004年7月3日) ニコラエフはボストーク3号とソユーズ9号で2度の宇宙飛行を行った。これらの飛行での彼のコールサインはファルコン(ロシア語: Со́кол)だった。両方の飛行で、軌道上への滞在時間の最高記録を更新した。また、ボストーク2号とソユーズ8号ではバックアップを務めた。1969年1月22日、ニコラエフはソビエト連邦軍の大尉ヴィクトル・イリーインがレオニード・ブレジネフを狙った暗殺事件から生き延びた。 ニコラエフは、1962年8月に宇宙から初めてテレビ放送を行った人物でもある。ボストーク3号では、ボストーク4号のパベル・ポポビッチとともに初めてデュアルフライトを行った。 宇宙飛行の初期には、養成中の宇宙飛行士を独房に入れて、どれだけ長い間孤独に耐えられるかを見ることが普通に行われた。多くの者が精神に異常をきたしたが、ニコラエフだけは最長の4日間を耐え抜き、鉄人として知られるようになった。 1963年11月3日、ボストーク6号で女性として初めて宇宙を訪れたワレンチナ・テレシコワと結婚し、一人娘エレナを儲けたが、1982年に離婚した。なお、エレナは長じて医学博士となった。 ニコラエフは2度のソ連邦英雄やレーニン勲章のほか、様々なメダルや外国の勲章を受章している。月のクレーターニコラエフには、彼の名前が付けられている。 2004年、ニコラエフはチュヴァシ共和国の首都チェボクサルで心筋梗塞のために死去 (略) ●ヴィタリー・セバスチャノフ(1度目)(1935年7月8日 - 2010年4月5日) (略)またガガーリン宇宙飛行士訓練センターで講義を行い、宇宙飛行の物理学を教えた。1967年に宇宙飛行士の訓練を自身で始める。 サリュート4号宇宙ステーションでの2ヶ月の滞在を含め、2つのミッションを成功させた後、サリュート6号ステーションのために地上管制室で働き、1980年代はブラン計画の設計に従事した[1]。1980年代はMan, Earth, Universeという宇宙探査のテレビ番組にホストとして出演していた。 1993年に宇宙開発から離れ、1994年に国家院議員に選任された。 またソ連のチェス協会の会長を2度(1977年から86年、88年から89年)務めた。 =========================================ウィキ終了 >>2 の2番目のリンクの https://indeep.jp/magnetic-field-collapse-is-approaching/ ↑↑ これは宇宙飛行士に関して、ロシアの著名な科学者の下記の発言とは 無関係の記事です。 「人間は地球の磁場圏の外へ出る事はできない」 「アメリカは月に行っていないし、今後、火星に行くことも不可能」 科学者は健康的な面で不可能だと言っただけです。 それでも二人の飛行士のウィキを見ると、そこまで酷い状態だったとは 思えませんが。
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