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日本学術会議の会員任命拒否
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/533.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 10 月 23 日 12:41:39: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 「右翼」の定義 投稿者 中川隆 日時 2020 年 10 月 17 日 15:48:53)

これが大学人のまっとうな見解
内田樹の研究室
 日本学術会議の会員任命拒否に対して多くの学会が一斉に抗議の声を上げた。この事案は、そもそも日本学術会議法違反であること、従来の政府の法解釈と齟齬していること、任命拒否の理由を開示しないこと、誰が任命拒否の責任者であるかを明らかにしないこと、ネットを使って論点ずらしと学術会議への攻撃を始めたことなど、政府対応の知的・倫理的な低劣さは眼を覆わんばかりである。

 たしかに安倍政権は久しく政権との親疎(というより忠誠度)に基づいて政治家、官僚、ジャーナリストを格付けしてきた。権力者におもねる者は累進を遂げ、苦言諫言をなす者は左遷された。国民はもうそれに慣れ切ってしまった。「能力ではなく忠誠度で人を格付けすることができるほどの権力者には服従する他ない」という無力感と諦念のうちに日本国民は浸っていた。だから、官邸は今度は学者を相手に同じことをしようとした。日本学術会議は若干の抵抗はするだろうが、最終的には任命拒否を受け入れる。官邸はそう予測していた。過去に成功体験があったからである。

 2014年の学校教育法の改正で大学教授会はその権限のほとんどを奪われた。「教授会自治」というものはもう日本には存在しない。いま大学は限りなく株式会社に近い組織に改変された。でも、その事実を多くの国民は知らない。大学人たちが組織的に抵抗しなかったからである。法改正に反対して職を賭して戦った大学人のあることを私は知らない。みな黙って権利剥奪を受け入れた。そのとき、官邸は「学者というのは存外腰の弱いものだ」と知った。

 だが、彼らは「大学人」と「学者」は別ものだということを知らなかった。大学人は大過なく定年まで勤めることを切望している「サラリーマン」である。学者は違う。学術共同体という「ギルド」で修業を積んできた「職人」である。どれほどの「腕前」であるかがギルド内の唯一の査定基準である。そのものさしを棄てたらもうギルドは存在理由を失う。政府は「サラリーマン」を支配したのと同じ手で「職人」を支配しようとした。そして思わぬ抵抗に遭遇した。私はそう見立てる。
__________

日本学術会議問題について - 内田樹の研究室
2020-10-22

 日本学術会議の新会員任命拒否に対して、多くの学会が次々と抗議の声を上げ、政府と学術団体の対立は収束する気配がありません。 
 菅政権はなぜ発足早々にこのような政治的緊急性のない事案に手を出したのか。なぜ学術団体からの激しい反発を予測できなかったのか。単に「政治センスが悪い」というのも一つの解ですが、それよりは主観的には合理的な行動のつもりだったと考えたほうが引き出せる知見は多いと思います。
 菅政権が最優先する政治課題は「統治コストの最少化」です。どうやって統治コストを最少化するか。前政権の官房長官として首相が学んだのは、反対派の異論をすべて黙殺して、国民の間に政治に対する諦めと無力感を蔓延させるという手でした。
 安全保障関連法案でも、特定秘密保護法案でも、国民の過半数が「採決を急ぐべきではない」と意思表示する中、前政権は民意を無視して強行採決しました。選挙で勝った以上、全権は与党に託されたという理屈で譲歩を拒み、結果的に政権に批判的な国民の間に無力感と政治に対するあきらめを醸成することに成功した。
 反対派が無気力になり、政治活動をしても無駄だと思うようになれば、統治コストは最少化できます。菅政権は安倍政権で学んだその経験則を適用して、「反政府的な言説をなす者はいかなる公的支援も期待できない」ということを国民に叩き込んでやろうとして、日本学術会議の人事に手を突っ込んできた。すでに与党政治家、官僚、ジャーナリストは官邸に対する忠誠度によって「格付け」されるということに慣れ切っています。次は学者たちに同じルールを適用しようとした。どうせ無抵抗にこのルールを受け入れるだろうと思っていたからです。
 学者を黙らせることについては政府には成功体験の蓄積がありました。90年代以降、日本の大学人は教育行政に押し込まれて譲歩し続け、有効な反撃ができなかった。2014年の学校教育法の改正によって、大学教授会は権限のほとんどを奪われ、大学は学長が全権を掌握する株式会社的な組織に改編されたのですが、このときも大学人たちは組織的な抵抗ができませんでした。政権はこれを見て「学者というのは腰が弱いものだ」と思った。ですから、任命拒否も日本学術会議は無抵抗に受け入れると予測していた。
 しかし、このシナリオは学者たちの予想外にはげしい抵抗に遭遇して破綻ました。そればかりか『ネイチャー』や『サイエンス』のような海外の学術誌に報道され、世界の科学者は日本の新しい指導者は自由な学問研究を弾圧する反知性主義者らしいという印象を抱くに至った。これは国際社会における日本の知的・倫理的地位を一気に引き下げたという点で取返しのつかない失策でした。
 
 前政権で、国民が政治に無関心になると政権は安定するという教訓を学んだ新首相は、新政権では積極的に日本を「元気のない国」にする道を選びました。政界にも、官界にも、メディアにも、学界にも、どこにも権力に逆らうものがいない社会を作ろうとした。けれども、そのような社会は国力の衰微を代償にしてしか得られません。そして、日本学術会議への攻撃は「国力の向上よりも政権の安定を優先する」という判断が導いた結論でした。
「組織管理コストの最少化は《絶対善》であり、あらゆる目標に優先する」というのは現代日本を覆い尽くしている一種のカルトです。営利企業だけでなく、行政でも、医療でも、学校でも、その組織がいかなる「よきもの」を生み出すために創り出されたのかが忘れられ、代わりにその組織の管理コストをどうやって最少化するかが組織目的にすり替えられている。
「組織が当初の目的を見失って、組織防衛が自己目的化する」という倒錯はこれまでも官僚制ではよく観察されましたけれど、「組織が目的を見失って、管理コストの最少化が自己目的化する」という倒錯は私が知る限り歴史上はじめてのものです。バブル崩壊以後、新しい価値を生み出す力がなくなった組織はどこも「どうやって管理コストを削減するか」を考える部門が中枢を占めて、あらゆる政策決定を仕切るようになった。
 本来は話が反対なんです。どういう「よきもの」をこの世にもたらし来すためにこの組織は作られたのか、それが組織について考えるときの原点です。その次に、メンバーが路頭に迷わないようにどうやって組織を守るかを考える。そこからさまざまな創意工夫や冒険的なイノベーションが生まれる。でも、いまの日本の組織はどこも「管理コスト削減原理主義」という病に罹患しています。その結果、組織が負託された使命を果たせないほどに痩せ細ってしまった。あらゆる組織が上意下達の「効率的な」組織に改変され、メンバーはイエスマンであることを優先的に求められ、そうやって「暴君とイエスマン」だけで構成される組織ばかりになった。もちろん、そんな組織からは新しいものはもう何も生まれないし、そもそも存続することさえおぼつかない。
「日本学術会議のことなんか象牙の塔の問題だ」とメディアも市民も「対岸の火事」として眺めているようですが、いまの学者たちの抵抗は日本社会が「イエスマン以外には居場所がない」ものになってゆく流れに対するぎりぎりの防衛線です。これを座視していれば、遠からず日本は、上位者に対する忠誠度だけを「ものさし」にして全員が格付けされる「おべんちゃら社会」になり果てるでしょう。
 学者がエビデンスや論理を軽んじて、ときの政権におもねるような研究結果を出し始めたら、もう日本の学術は終わりです。それは単に象牙の塔の威信が失われるというだけでなく、日本発のあらゆる情報に対する国際的な信頼性が損なわれるということです。  

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コメント
1. 中川隆[-10674] koaQ7Jey 2020年10月23日 12:53:40 : BRDLYly4u6 : eHhGNHZRMlFLc3M=[17] 報告
本物の大学の研究者とコネで三流大学に就職した橋洋一の知性と教養を比較してみただけさ
2. 中川隆[-10671] koaQ7Jey 2020年10月23日 20:13:23 : BRDLYly4u6 : eHhGNHZRMlFLc3M=[25] 報告
これが大学人のまっとうな見解 、高橋洋一の話が詭弁だとわかります
内田樹の研究室
 日本学術会議の会員任命拒否に対して多くの学会が一斉に抗議の声を上げた。この事案は、そもそも日本学術会議法違反であること、従来の政府の法解釈と齟齬していること、任命拒否の理由を開示しないこと、誰が任命拒否の責任者であるかを明らかにしないこと、ネットを使って論点ずらしと学術会議への攻撃を始めたことなど、政府対応の知的・倫理的な低劣さは眼を覆わんばかりである。

 たしかに安倍政権は久しく政権との親疎(というより忠誠度)に基づいて政治家、官僚、ジャーナリストを格付けしてきた。権力者におもねる者は累進を遂げ、苦言諫言をなす者は左遷された。国民はもうそれに慣れ切ってしまった。「能力ではなく忠誠度で人を格付けすることができるほどの権力者には服従する他ない」という無力感と諦念のうちに日本国民は浸っていた。だから、官邸は今度は学者を相手に同じことをしようとした。日本学術会議は若干の抵抗はするだろうが、最終的には任命拒否を受け入れる。官邸はそう予測していた。過去に成功体験があったからである。

 2014年の学校教育法の改正で大学教授会はその権限のほとんどを奪われた。「教授会自治」というものはもう日本には存在しない。いま大学は限りなく株式会社に近い組織に改変された。でも、その事実を多くの国民は知らない。大学人たちが組織的に抵抗しなかったからである。法改正に反対して職を賭して戦った大学人のあることを私は知らない。みな黙って権利剥奪を受け入れた。そのとき、官邸は「学者というのは存外腰の弱いものだ」と知った。

 だが、彼らは「大学人」と「学者」は別ものだということを知らなかった。大学人は大過なく定年まで勤めることを切望している「サラリーマン」である。学者は違う。学術共同体という「ギルド」で修業を積んできた「職人」である。どれほどの「腕前」であるかがギルド内の唯一の査定基準である。そのものさしを棄てたらもうギルドは存在理由を失う。政府は「サラリーマン」を支配したのと同じ手で「職人」を支配しようとした。そして思わぬ抵抗に遭遇した。私はそう見立てる。
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日本学術会議問題について - 内田樹の研究室
2020-10-22

 日本学術会議の新会員任命拒否に対して、多くの学会が次々と抗議の声を上げ、政府と学術団体の対立は収束する気配がありません。 
 菅政権はなぜ発足早々にこのような政治的緊急性のない事案に手を出したのか。なぜ学術団体からの激しい反発を予測できなかったのか。単に「政治センスが悪い」というのも一つの解ですが、それよりは主観的には合理的な行動のつもりだったと考えたほうが引き出せる知見は多いと思います。
 菅政権が最優先する政治課題は「統治コストの最少化」です。どうやって統治コストを最少化するか。前政権の官房長官として首相が学んだのは、反対派の異論をすべて黙殺して、国民の間に政治に対する諦めと無力感を蔓延させるという手でした。
 安全保障関連法案でも、特定秘密保護法案でも、国民の過半数が「採決を急ぐべきではない」と意思表示する中、前政権は民意を無視して強行採決しました。選挙で勝った以上、全権は与党に託されたという理屈で譲歩を拒み、結果的に政権に批判的な国民の間に無力感と政治に対するあきらめを醸成することに成功した。
 反対派が無気力になり、政治活動をしても無駄だと思うようになれば、統治コストは最少化できます。菅政権は安倍政権で学んだその経験則を適用して、「反政府的な言説をなす者はいかなる公的支援も期待できない」ということを国民に叩き込んでやろうとして、日本学術会議の人事に手を突っ込んできた。すでに与党政治家、官僚、ジャーナリストは官邸に対する忠誠度によって「格付け」されるということに慣れ切っています。次は学者たちに同じルールを適用しようとした。どうせ無抵抗にこのルールを受け入れるだろうと思っていたからです。
 学者を黙らせることについては政府には成功体験の蓄積がありました。90年代以降、日本の大学人は教育行政に押し込まれて譲歩し続け、有効な反撃ができなかった。2014年の学校教育法の改正によって、大学教授会は権限のほとんどを奪われ、大学は学長が全権を掌握する株式会社的な組織に改編されたのですが、このときも大学人たちは組織的な抵抗ができませんでした。政権はこれを見て「学者というのは腰が弱いものだ」と思った。ですから、任命拒否も日本学術会議は無抵抗に受け入れると予測していた。
 しかし、このシナリオは学者たちの予想外にはげしい抵抗に遭遇して破綻ました。そればかりか『ネイチャー』や『サイエンス』のような海外の学術誌に報道され、世界の科学者は日本の新しい指導者は自由な学問研究を弾圧する反知性主義者らしいという印象を抱くに至った。これは国際社会における日本の知的・倫理的地位を一気に引き下げたという点で取返しのつかない失策でした。
 
 前政権で、国民が政治に無関心になると政権は安定するという教訓を学んだ新首相は、新政権では積極的に日本を「元気のない国」にする道を選びました。政界にも、官界にも、メディアにも、学界にも、どこにも権力に逆らうものがいない社会を作ろうとした。けれども、そのような社会は国力の衰微を代償にしてしか得られません。そして、日本学術会議への攻撃は「国力の向上よりも政権の安定を優先する」という判断が導いた結論でした。
「組織管理コストの最少化は《絶対善》であり、あらゆる目標に優先する」というのは現代日本を覆い尽くしている一種のカルトです。営利企業だけでなく、行政でも、医療でも、学校でも、その組織がいかなる「よきもの」を生み出すために創り出されたのかが忘れられ、代わりにその組織の管理コストをどうやって最少化するかが組織目的にすり替えられている。
「組織が当初の目的を見失って、組織防衛が自己目的化する」という倒錯はこれまでも官僚制ではよく観察されましたけれど、「組織が目的を見失って、管理コストの最少化が自己目的化する」という倒錯は私が知る限り歴史上はじめてのものです。バブル崩壊以後、新しい価値を生み出す力がなくなった組織はどこも「どうやって管理コストを削減するか」を考える部門が中枢を占めて、あらゆる政策決定を仕切るようになった。
 本来は話が反対なんです。どういう「よきもの」をこの世にもたらし来すためにこの組織は作られたのか、それが組織について考えるときの原点です。その次に、メンバーが路頭に迷わないようにどうやって組織を守るかを考える。そこからさまざまな創意工夫や冒険的なイノベーションが生まれる。でも、いまの日本の組織はどこも「管理コスト削減原理主義」という病に罹患しています。その結果、組織が負託された使命を果たせないほどに痩せ細ってしまった。あらゆる組織が上意下達の「効率的な」組織に改変され、メンバーはイエスマンであることを優先的に求められ、そうやって「暴君とイエスマン」だけで構成される組織ばかりになった。もちろん、そんな組織からは新しいものはもう何も生まれないし、そもそも存続することさえおぼつかない。

「日本学術会議のことなんか象牙の塔の問題だ」とメディアも市民も「対岸の火事」として眺めているようですが、いまの学者たちの抵抗は日本社会が「イエスマン以外には居場所がない」ものになってゆく流れに対するぎりぎりの防衛線です。これを座視していれば、遠からず日本は、上位者に対する忠誠度だけを「ものさし」にして全員が格付けされる「おべんちゃら社会」になり果てるでしょう。

 学者がエビデンスや論理を軽んじて、ときの政権におもねるような研究結果を出し始めたら、もう日本の学術は終わりです。それは単に象牙の塔の威信が失われるというだけでなく、日本発のあらゆる情報に対する国際的な信頼性が損なわれるということです。

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