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寺島英弥 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1128.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 10 月 25 日 09:37:30: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 近衛上奏文 投稿者 中川隆 日時 2020 年 10 月 24 日 20:24:44)

【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(1)たまさんの絵
執筆者:寺島英弥 2019年8月15日
https://www.fsight.jp/articles/-/45747


ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 内外の街や島を焼き、同胞約300万人以上の犠牲を生んだ日本の敗戦から、75年目の夏が訪れた。

 軍部が反対勢力を一掃して政治をわが物にし、国民の統制と総力戦へ舵を切る転機といわれるのが、1936(昭和11)年に起きた「二・二六事件」。天皇に弓引いた叛乱と陸軍から宣伝され、戦後はファシズムの時代の先兵と目された青年将校らの素顔も、蹶起と刑死の真実も、いまは歴史と忘却のかなたにある。

 その当時を知る生き証人だった遺族の女性が6月末、104歳で他界した。

 長い沈黙を越えて語り部となり、兄である青年将校の言葉を伝え、戦前という時代と現在を重ねて事件の意味を問い続けた。20年の取材の縁をいただいた者として、終生の思いの一端を記していきたい。

鬼気迫る遺品の絵の情景
「母が、絵のようなメモを残したんですよ。亡くなる少し前、1人で何かを一生懸命にかいていて。私は初めて目にするものでした」

 青森県弘前市に住む波多江多美江さん(70)から、こんな電話をもらったのは7月7日だった。

 その前月29日、老衰のため104歳で眠るように他界し、お葬式が4日前に行われたばかりの母親、たまさんの遺品だという。速達で送られてきた「メモ」は掛かり付け医院の領収書の裏にかかれた、子どものような筆致の鉛筆画だった。三角屋根らしいものが5つ並んだその絵を眺めるうち、にわかに鬼気迫るものが込み上げた。筆者がこれまで、たまさんから何度となく語り聞かされた情景だったからだ。

 5つの三角屋根は、5張りのテント。中に長方形の箱が描かれ、その前にたくさん並んだ◯印は人の列らしい。鉛筆を握る力も弱くなっていたのか、少し震えたような字のメモはこう記してあった。

「5つ 遺体」

「まだ暖(か)かった 寝(ねむ)っているようだった」

「安田さんは、デスマスクを取っていた」

「テント 私達は少し待たされた」

「一度に五人ずつ銃殺 午前中に15人」

「暖(か)い遺体 焼場え(へ)急ぐ」


たまさんが残した絵とメモ。83年前の処刑後の遺体引き渡しの場
 読み取れた場面は83年前。1936年の7月12日の朝、現在の東京都渋谷区宇田川町の渋谷税務署や『NHK』の一部に重なる場所で、15人の青年将校らが銃殺された。

 戦前は陸軍衛戍刑務所があり、処刑場はその一角だった。

 彼らは同年2月26日の早朝、武装した約1500人の兵士を率いて首相官邸などを襲撃し、昭和天皇の重臣であった斎藤実内大臣、高橋是清蔵相や同じ陸軍の渡辺錠太郎教育総監らを殺害。永田町、三宅坂、溜池山王、赤坂見附などの一帯を占拠したが、3日後、陸軍部隊に包囲され、叛乱事件として鎮圧された。

 青年将校らと民間人の参加者は、東京陸軍軍法会議の「非公開、弁護士なし、一審のみ」の裁判に掛けられ、7月5日、「首魁」や「謀議参与又は群衆指揮」の罪状に問われた17人に死刑判決が下された。

 処刑はわずか7日後の7月12日。

 衛戍刑務所の北西隅に5列の壕が掘られ、煉瓦塀を背に正座用の十字架が立てられ、約10メートルの距離で銃架が据えられた。小銃がそれぞれ2挺固定され、額への1発目で即死しなければ心臓へ2発目を撃つよう照準されたという。

 その朝に処刑されたのは15人。遺族の河野司さん(故人)が編んだ記録集『二・二六事件』(1957年、日本週報社)に所収された当日の処刑指揮官の1人、山之口甫氏(歩兵大尉)の証言によると、青年将校らはカーキ色の夏外被姿で目隠しをされ、監房から5人ずつ刑場に連行された。

 午前7時に、香田清貞歩兵大尉、安藤輝三歩兵大尉、竹島継夫歩兵中尉、対馬勝雄歩兵中尉、栗原安秀歩兵中尉。「天皇陛下の万歳を三唱しよう」と香田大尉が呼びかけ、「天皇陛下万歳」の三唱が続いた後、射撃指揮官の手の合図で一斉に引き金がひかれた。

 同7時54分には丹生誠忠歩兵中尉、坂井直歩兵中尉、中橋基明歩兵中尉、田中勝砲兵中尉、中島莞爾工兵少尉、最後は同8時30分に安田優砲兵少尉、高橋太郎歩兵少尉、林八郎歩兵少尉、民間活動家の渋川善助、水上源一が銃弾を受けた。外の代々木原から、処刑の音をカムフラージュするような演習部隊の射撃音がひっきりなしに聞こえたという。

 一部始終を実見した刑務所看守、林昌次氏の同書の証言によれば、

〈銃弾の発射後、軍医駆けつけ脈を取り、絶息せば死体収容所に運んで並べ清拭して、更に安置所に運んで遺族に渡す〉

 という手続きが取られた。波多江たまさんは、青年将校の1人、青森県出身の対馬勝雄歩兵中尉=享年28=の妹だ。

 安置所とは、刑務所の外に仮設された5張りの三角屋根のテントのことであろう。

 不思議な絵とも見えるたまさんの遺品は、当時は極秘とされて写真も残されていない場面を焼き付けた「記憶の証言」だった。

(注・2回目の処刑は翌1937年8月19日、村中孝次元陸軍歩兵大尉、磯部浅一元陸軍一等主計、民間人の西田税元陸軍少尉、北輝次郎が銃殺された)

兄「対馬勝雄」中尉
『邦刀遺文』という書物に出会った。「邦刀」(ほうとう)と号した対馬勝雄中尉への、妹のたまさんら遺族の追憶と、旧仙台陸軍幼年学校に入った14歳から死までの日記や手紙を上下巻につづってある。

 1991(平成3)年に世に出たという。

「なぜ、二・二六事件から半世紀以上も過ぎてから……」

 それを問うため、弘前に向かった。1999(平成11)年2月のことだ。

「あの事件の後、対馬の妹であることを隠して生きてきた」

 波多江たまさん(84、当時)は、語り始めた。

「戦前は、天皇に弓を引いた『国賊』、敗戦後は『軍国主義の先兵』と言われ続けて」

 二・二六事件を扱った本だけは出版の度、ひそかに読んだ。が、さまざまな“真相”の誤りを見つけては、「兄の真実を伝えたい」との思いを募らせたという。

〈『私』なく、貧しい人々を思う、優しい兄でした〉

 この一文は、『河北新報』連載『時よ語れ 東北の20世紀』第6回目に載った「リンゴ花 解かれた時の封印 二・二六に散った兄の真実」(1999年8月5日)という記事の冒頭だ。

 筆者の新聞記者時代、たまさんを弘前に訪ねたのが連載開始の半年前だった。世紀の遷(うつ)り目に東北の100年史をたどる取材行で、二・二六事件に参加し処刑された対馬中尉の名と、当時84歳の妹さんのご健在を初めて知った。遠い暗い時代の歴史の本に記された事件を、そして、貧しかった東北から蹶起した兄を、いまも終わらずここにある出来事、いまもここで共に息づく家族として語るたまさんに、人生を懸けて「真実」を伝える使命を背負った人の覚悟を見た。


波多江たまさん。元気に外出した姿の最後の写真=2019年4月8日、青森県弘前市の自宅前(筆者撮影、以下同)
 以来20年、春夏秋冬の岩木山を仰ぐJR奥羽本線の電車で弘前へ何度旅し、会うたびに遠くなる耳に「たまさん」と呼びかけながら兄と事件の話を聴かせてもらったか。

 毎朝の新聞やテレビのニュースを欠かさず確認し、この時代、この社会、この国の政治の有様を見つめる視線の鋭さ、厳しさ、若い世代の行く末を憂うる言葉の重さ、深さは、まさに百余年を生きて、兄が殉じた戦前の昭和という時代を重ねて見ることのできる人ゆえだ、と感じた。

 未来を左右する政治への関心、平和の大切な価値を若い世代に問う長文の新聞投稿コラムを寄せてくれたこともたびたびある。そして、折々にもらった手紙は70通を超える。多美江さんから「母がいよいよ危ない」と伝えられてから、それらの手紙を読み返した。

二・二六事件の真実とは
東日本大震災、東京電力福島第1原子力発電所事故の取材に筆者が明け暮れていた2012年。7月3日の消印で届いた手紙は、たまさんの好物、山形のサクランボを送ったことへの礼状だった。被災地の人々への心配と見舞いの言葉、東北の実りの季節の話題から、手紙は突然、「さて、サクランボを前にして兄の思い出がよみがえりました」と二・二六事件の記憶へ続いていった。

〈今すぐ亦(また)七月十二日が(事件の刑死者の慰霊)法要です。牢(衛戍刑務所)に入っている兄に、弘前の小父がサクランボを沢山カゴに入れて東京に来ました。然(ただ)しそれは間に合いませんでした。お盆にのせられたサクランボを見つめたまま、誰れも手を出さず、口も開かず、只眺めていたのを思い出します〉

〈軍人は国を守る者と、それをのみ願って死にました。私が今、刑死した若者達のあまりの純真さに驚くと共に、言葉がありません。(中略)部下が血を流して得た其の土地(旧満州のこと)を、財閥が引き受けて大もうけをしたのなら、其の何分のいくつかを戦死者の家族に、と云うのが兄達の考えでした。兄は戦地から毎日のように父に便りを送って来ました。それは明日がないと思ってのことでした。従って、功でいただいた物は全部、(部下の兵士の)方々にあげていまして、お金も殆ど其のために使い果たしていました〉

〈残っている(兄や青年将校らの)手紙等を見てびっくりでした。刑死した人の考え方は十人十色でしたでしょうけれど、国を思う心は皆同じだったのです。自己責任を通して亡くなった兄を私は誇りに思います。(中略)そして自分は命以上に国にささげる物はない共、そして、このままでは日本は駄目になる共、戦争の拡大は望まない共云っています。只々 天皇と国しか考えていない。其の国を守るには、兵士と其の家族を大事にしなくてはならない、と〉

〈今の人々はあまりに、あの頃が判っていません。この事件を追及してゆくと、農村(の貧困と苦境)に行きつくのです。お金持ちの子は兵役を逃れていました。戦地に行った兵は農家の子供達が多く、それも一軒から二人も三人も出征しているのです。(中略)農地はどうなりますか。(青森から上京して)二十年近く東京に住んで、戦争で丸裸で故郷に疎開した私は、二十年前と少しも変わっていない青森の農家を見て絶句しました。農家なのにお米が食べられない、カヤもない。シラミとノミで、アメリカの飛行機よりも困ると母が云いました。農家の窮状は目をおおうばかりでした〉

〈兄は何処迄も(天皇)陛下を信じていました。(昭和維新のための蹶起に)お許しが出たら、赤飯をたいて祝ってくださいと云って亡くなりました。(教育勅語の忠孝の道そのままに生きようとした)兄にしてみれば、この赤飯がせめてもの親孝行だったのでした〉

 しかし、対馬中尉が最後に願った赤飯は、ついに一家で炊かれることはなかった。

銃殺刑「執行の朝」に
 古来あるべき天皇親政の理想を妨げ、政治権力と大資本を私し、皇国の行く末を誤らせる元老、重臣、官僚、軍閥などの奸臣を討ち、国家を改造し統帥権の名の下に国防を充実させ、大凶作にあえぐ東北の農村をはじめ国民の窮乏を救う――。

 大化の改新や明治維新にならい「昭和維新」断行を掲げた青年将校らの行動は、しかし、〈朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為〉と昭和天皇の怒りを招いた(『本庄日記』原書房、本庄繁侍従武官長著)。

 青年将校らが敵視した、「統制派」と呼ばれた陸軍主流派からは国家反逆の徒と貶められて発表され、昭和維新の志を同じくした仲間も根こそぎ軍事裁判で罰せられ、軍を追われた。彼らの訴えは銃弾と封殺によって闇に葬られ、沈黙を強いる監視が遺族にも及んだ。

 たまさんの思いは、世の中で起きること、身の回りのささやかな出来事も、兄と二・二六事件、それを生んだ苦難の時代への記憶につながった。そして、蹶起という行動にしか行き着けなかった兄の生きざまと死を、繰り返し手紙につづり、語り続けた。誰よりも兄の純粋さを信じるがゆえの無念と苦痛が、遺体引き渡しの場面を、その象徴のようにたまさんの目と心に焼き付け、104歳になるまでフラッシュバックさせてきたのだろう。

 たまさんが亡くなる2カ月と少し前、今年4月8日に弘前の自宅を訪ねた時も、死に至る病になった喘息のような苦し気な肺の音を漏らしながら、83年前のあの朝の光景を話した。

「7月12日の朝は、誰も気づかないくらい静かに霧雨が降っていた。母(なみさん、故人)が憔悴したようなすごい顔で、2階から寝間着で降りてきた」

 当時、東京で働いていたたまさん、姉たけさん(故人)が住んでいた四谷箪笥町の借家でのことだ。

 死刑判決が発表された7月7日から家族の面会が許され、青森市の生家、対馬中尉の妻の実家の両親らが連日、陸軍衛戍刑務所に通っていた。

 5日目の12日は日曜日に当たり、「面会はお休みです」と看守から告げられていた。しかし、母なみさんはこう話したという。

「けさ早く、軍服を着た勝雄(対馬中尉)が枕元に座り、一言も言わずにじっと私を見ていた。別れのあいさつに来たんだ」

 そして、階段にへたり込んだまま動けなくなった。なみさんは霊感が強かった。東北で昔から「シルマシ」と呼ぶ、死者からの知らせだったかもしれない。

 ほどなく午前8時ごろ、玄関ががらっと開いて憲兵たちが死刑の執行を伝達に現れ、「遺体を引き取りに来るように」と冷たい事務的な口調で通知書を置いていった。

 あまりのことに両親姉妹の誰も口をきけず、炊いたご飯も食べられなかった。

 しばらくして迎えに来た憲兵の車に、霊柩車を用意して付いていくと、広い原っぱに着いた。代々木原練兵場だった。現在の代々木公園から宇田川町までの一円を占めた練兵場に衛戍刑務所は接し、その門外に三角のテント群の遺体安置所は設けられていた。

「前の晩からシトシト、音もなく降っていた雨がからりと上がって、濡れた芝草の野に日が差し、まるでダイヤモンドがまかれたみたいにキラキラと光っていた。霊柩車も並んでお祭りのようだった」

 たまさんは、その情景がいまも忘れられないと言った。

「最初に案内された刑務所の部屋で所長さんが兄の最期の様子を話してくれた。どの将校も取り乱した姿はなく、立派だったと。外の安置所の前には他の遺族たちも並んでおり、順番で私たちが案内されたテントの中に、木のテーブルに載った白木の寝棺があった」

供養続ける「仏心会」の人々
 83年前も、ちょうどこんな梅雨空だったのだろう。細かい霧のような雨が、衛戍刑務所の処刑場があった場所を濡らしていた。

 今年7月12日の午前9時すぎ。渋谷税務署の角の緑の中、右手を天に掲げて観音像が立っていた。


7月12日の二・二六事件慰霊像。83年前の処刑の朝のような細い雨が降った=東京・渋谷
 台座を囲む赤いレンガの壁は、銃声が響き渡った朝そのままに処刑場を生々しくしのばせる。白い木柱には「二・二六事件慰霊碑」の文字。涙雨に包まれたかのようなその場所を、都会の慌ただしい朝は誰にも気づかせてくれない。

 道路向こうの『NHK』の南門へ、通る人の群れが吸い込まれていく。観音像の下に焼香台があり、そこに花束を供え線香を上げる喪服の男女がいた。青年将校らの遺族会「仏心会」有志だった。

〈昭和維新の企画壊えて首謀者中、野中(四郎)、河野(寿)両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により、東京陸軍刑務所に於て刑死した。

 この地はその陸軍刑務所の一隅であったり、刑死した十九名とこれに先立つ永田事件の相沢三郎中佐が刑死した処刑場の一角である。

 この因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく、広く有志の浄財を集め、事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに竣工を見た。

 謹んで諸霊の冥福を祈る。昭和四十年二月二十六日 仏心会代表 河野 司 誌〉

(注・相沢三郎中佐は仙台市出身。昭和維新の運動に深く共鳴し、二・二六事件に先立つ1935=昭和10=年8月12日、運動の敵対者と目された陸軍統制派の中心人物、永田鉄山軍務局長を斬殺。蹶起将校らの処刑の9日前、同じく衛戍刑務所の刑場で銃殺された)

 慰霊の観音像の台座にある碑文の一節である。仏心会は、青年将校ら15人の1回目の処刑から3カ月余り後の1936(昭和11)年秋、栗原安秀中尉の父で陸軍大佐の栗原勇さん(故人)が世話役となって生まれた遺族の会だ。

 往時の代々木原練兵場は敗戦後、米軍に接収されて「ワシントンハイツ」という軍用住宅地とされ、衛戍刑務所跡地は赤レンガの壁を残したまま、米軍車両のモータープールに利用された。1964(昭和39)年にアジア初の東京オリンピックが開催されるのを機に練兵場跡地の日本への返還が決まり、仏心会の人々は念願とした刑場跡への供養碑建立を計画した。

 旧大蔵省、東京都、渋谷区との交渉を重ね、建設資金も募り、建築家川元良一氏(代表作に同潤会アパート、九段会館=旧軍人会館など)、弘前市出身の彫刻家三国慶一氏の協力を得て、二・二六事件から29年後に建立、序幕を迎えた。遺族の先頭になって実現に奔走した2代目の代表が、自決した河野寿大尉の兄、司さん(故人)だった。

 同じ日の午後1時、港区元麻布にある曹洞宗賢崇寺。本堂の須弥壇に「二・二六事件関係物故者諸精霊位」の大きな位牌があり、その隣には、「空」(成仏の意)の字の下に「二十二士」の戒名が刻まれた位牌が並ぶ。

 対馬中尉の戒名は「義忠院心誉清徳勝雄居士」。

 在りし日の軍服姿の遺影がずらりと、須弥壇を挟んだ両側の白壁に飾られた。

 昭和もはるか遠くなった2019年の雨の東京の片隅で、仏心会の遺族たちによる今年の慰霊法要が行われた。

同じ境遇を背負った遺族
〈当山(賢崇寺)は今より三百二年前、鍋島藩三代の主 忠直公の菩提を弔う為に建立し、其のご戒名、興国院殿敬英賢崇大居士に因み 興国山賢崇寺と号される。爾来、江戸に於ける同藩の菩提所として、代々藩主の帰依甚だ厚し。現時の住職は藤田俊訓師とす〉

 栗原勇さんが1936年11月、遺族の参詣のためにガリ版で刷った『興国山賢崇寺累説』の文章である。

 鍋島家代々の墓所がある佐賀ゆかりの寺で、29代の藤田俊訓住職(故人。戦後に駒沢大学学監=副学長)も、檀家だった栗原さんも佐賀人だ。

 蹶起将校の栗原大尉、同じく佐賀出身だった香田大尉、中橋中尉、中島少尉の墓とともに、境内の刑死、自決した全員が合祀された「二十二士之墓」がある。


7月12日、賢崇寺で仏心会が催した二・二六事件の青年将校らの法要。壁際に遺影が並ぶ=東京・麻布十番
 7月12日の命日、そして2月26日に催される事件全関係者の慰霊法要の際も、仏心会の人々はこの墓に手を合わせ、花を手向ける。その長いつながりの機縁は、青森市の対馬家にも届いた1936年8月24日付けの手紙だった。

 母なみさん宛の封筒には、二・二六事件の後、得度し僧籍に入って如山と号した栗原勇さんの手紙と、刑死、自決した22人の法号、その遺族たちの住所を記した名簿が、それぞれガリ版刷りの1枚紙で入っていた。

 生前のたまさんから読ませてもらった手紙にはこうある。

〈今次の事変の為には、お互に甚大なる有形無形の損失を受けまして、何とも彼ともお慰めの言葉はありません。たゞ/\、我子の為に泣き同志達の為に涙にくれるのみであります。

 然しながら、私は安秀の親たる責任から、既に得度しある立場から、在京の便宜から……等何かと好都合かと考えまして、僭越ながら暫くの間、私にお世話させて頂きたい、必ず捨身となって犬馬の労に服します。

●今後は心から睦まじい親類のような懇親を結びませう。而して誠心誠意を以って慰め合ひ、且つは失礼か知れませんが、若しも生活苦のお方がありましたら、互に一飯を分かつことに致しませう。

●故人の諸英霊は、確に佛陀の御慈悲に救はれ給ひ、既に極楽浄土の一座に成佛せられて居ります。これからお互に佛心を深め清浄無垢の心情を以って永代の御回向に勤めませう(後略)〉

 事件から間もないころの遺族の心情、仏心会の命名のいわれも、つづられた言葉からよく伝わる。

 遺族たちは代々木練兵場でのわが息子、兄弟の遺体引き取りの場で、突然の逆境に突き落とされた当事者として初めてあいさつを交わした。その折、栗原さんが世話役になって互いの連絡のことなどの声を掛け、遺族たちは感泣し心を合わせた、と河野司さんは記している。

〈同じ立場の心の苦しさ、第三者にはとうてい理解できないこの深刻な苦悩は、同じ境遇の者同士でないと解ってもらえないことだった〉(『ある遺族の二・二六事件』河出書房新社、河野司著)

 悲嘆と苦しみの輪に、まだ21歳のたまさんもいた。

最後のあいさつの手紙
 賢崇寺での仏心会(現在は一般社団法人。香田忠維代表理事)の慰霊法要に、筆者が初めて出席させてもらったのは今年の2月26日。ずっと以前から長旅ができなくなっていたたまさんの名代を兼ねての参列だった。

 たまさんは2月の法要には欠かさず弘前の親しい農家が収穫した津軽リンゴを送っており(7月にはリンゴジュース)、「波多江たま」と記された大きなリンゴ箱が須弥壇の両側に供えられていた。

 俊訓師の孫の藤田俊英住職の供養の読経と、代替わりした遺族らの焼香の後、仏心会の監事で司会役の今泉章利さん(69)が各地にいる遺族の近況を報告し、「皆さんに伝えてほしい」とたまさんから届いた手紙を読み上げた。

 今泉さんは、父義道さん(故人)が近衛歩兵第三連隊の少尉として二・二六事件に参加し、禁固刑に処せられた。世話人の1人として、たまさんとも懇意にしていた。慰霊法要の日への手紙は、それが仏心会の長年の仲間たちへの最後のあいさつになると予期していたのかもしれない。

 手紙で語られたのは、やはり、遺体引き渡しの朝の情景だった。案内された天幕の下には白木の寝棺。

〈白(い着物)を着て頭部を幾重にも厚くして繃帯して、私の兄は眠るように、おだやかな顔でしたが、見えているところは赤、紫に血走っていましたが…〉

 腫れ上がった顔の包帯で隠された額に血がにじんでおり、そこに銃弾を撃ち込まれたと分かった。

〈母は右手をにぎりしめ、私達は左手をにぎりしめました。まだ暖かく、全く硬直もして居らず、昼寝でもしているような感じでした。私達は涙いってきもなく眺めてるだけでした。父は口をとじたまま眺めていました。涙は、こおりついたのでしょうか〉

 死者と遺族へのさらに酷い扱いは、息を引き取って間もなく体が温かいままなのに、永の別離を惜しむ暇も与えられず埋葬証書を渡され、憲兵から火葬場へと急がされたことだ。

 対馬中尉の骨箱を家族が守って青森に帰る列車の中や、東北線の途中の駅々にも憲兵が張り込んで、誰も接触できないようにした。

 実家の通夜、葬式も憲兵、特高(特別高等警察)が監視し、弔問客を調べたり、追い返したりした。

 悲しみを人に語ることも、戒名を刻んだ墓を建てることも許されず、「天皇に弓引いた逆賊」の扱いが遺族を後々まで苦しめた。

 104歳のたどたどしい、しかし、強い意思に導かれたような手紙は続いた。

〈兄は、あの事件で始めから死を覚悟していたのも判っています。陛下の軍隊を使っての事件は、始めから生きられぬのを覚悟していました。只、自分達の心が何処にあったのか、何故その事件を起したか。次第に乱れてくる政治や軍隊の上層部を見てぢっとして居られなかったのです。それも私は次第に判るようになりました〉

 すでに耳がかなり遠くなり、1人では歩けぬほど体も弱ってきたたまさんは、83年にわたって二・二六事件の真実と意味を求めた模索と葛藤と自問の末、それでも兄の最期を、遺族の無念を語り終えてはいなかった。

二・二六事件はまだ終わっていない
 4月になって喘息のような胸の異変をにわかに強く発して、6月に入ると娘の多美江さんが付き添う自宅のベッドで夜も寝られぬ苦しさに耐えた。そして、筆者の最後の訪問になった同月20日。

 たまさんは前の晩、赤黒い血の塊のようなものを吐き、それからは胸もすっかり楽になって久しぶりに眠れたという。見舞いに持参した山形の真っ赤なサクランボを一粒、口に含むと「甘いね」。

 多美江さんが「1週間、ものを食べられなかったのに」と驚くのをよそに、衛戍刑務所での兄の思い出につながる季節の味をかみしめてくれた。

 もう耳も聞こえない様子なので、ノートを破いて筆談をし、「お兄さんが『妹よ、よくぞ頑張ってくれたね』と、ほめてくれますよ」と大きな字で書くと、たまさんは笑顔を浮かべて手を合わせ、「お世話になりました」「ありがとうございます」。

 ところがにわかに、それまでの弱々しい口調がうそのように、

「びっくりしたのは、(代々木)練兵場にテントが5張り立っていて、芝生がきらきらと光っていて……」

 と語りだした。その情景はついに末期の床まで消えることなく昇華することもなく、104年を生きた女性の心と人生を苦しめ続けた。

「ここ数年は、『いまが人生で一番幸せ』と話していました」

 と多美江さんは話すが、それでも語り尽くせぬまま、冒頭のような絵にまでして残したかったものとは何だったのか。

「兄の真実はまだ世に伝えられていない」「二・二六事件はまだ終わっていない」という憾みなのか、「伝えてほしい」という遺言なのか。

 縁あって立ち会った者が、語り部の思いの一端でも受け継ぐほかはない。(つづく)

https://www.fsight.jp/articles/-/45747  

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コメント
1. 2020年10月25日 09:40:13 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[10] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(2)「デスマスクが語るもの」(前編)
執筆者:寺島英弥 2019年9月6日
https://www.fsight.jp/articles/-/45830

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 本連載の主人公、6月に104歳で他界した青森県弘前市の波多江たまさんの遺品の絵を、第1回目でプロローグとして紹介させてもらった。1936(昭和11)年2月26日に起きた「二・二六事件」で、蹶起した青年将校ら15人が陸軍衛戍刑務所で銃殺刑となった同年7月12日の朝。隣接する代々木原演習場の一角に仮設された遺体引き渡し所の絵だ。絵に書きこまれたメモに、「安田さんは、デスマスクを取っていた」とある。気になった読者もいることだろう。

「安田さん」とは、たまさんの兄、対馬勝雄歩兵中尉=享年28、青森県出身=らと一緒に刑死した安田優(ゆたか)砲兵少尉=同24、熊本県天草出身=の遺族のことだ。

 突然の処刑の通知とともに遺体引き取りに呼ばれた遺族たちは、5つの仮設テントの前に列をつくった。悲痛なすすり泣きと沈黙の時間のさなか、「『少し待ってください。いま安田さんがデスマスクを取っていますから』と刑務所長から言われた」と、たまさんは生前に回想した。対馬中尉の遺族、付き添いの人々の前の順番で遺体と対面したのが、安田家の遺族だった。

生々しい銃弾痕
 デスマスクの存在を筆者が初めて知ったのは、事件の刑死者遺族の会「仏心会」の2代目代表、河野司さん(故人)の著書『二・二六事件』(日本週報社、1957年)をたまさんから読ませてもらい、「叛乱将校の銃殺」というくだりを開いた時だ。〈某騎兵少尉が外套の下に隠した小型カメラで秘かに撮影した〉という処刑前の唯一の刑場写真と並べて、デスマスクの写真がある。

 ふっくらとした頬、眠るように閉じた目からは、

〈人事全く了る。安らかに眠につかむ 昭和十一年七月十一日午后十一時〉

〈我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず 昭和十一年七月十二日刑死前五分〉

 との辞世の心境が伝わる。だが両眉の間には、まるで血が滲んだような弾痕の裂け目が見え、青年将校らがたどった凄惨な運命を生々しく伝える。

 デスマスクを取ろうと決めたのが、3歳上の長兄・薫さん(故人)だった。京都帝国大学に在学中、マルクス主義研究サークルの学生らが治安維持法で一斉摘発された「京都学連事件」(1925年)から続く特高の摘発で、1931年に検挙された。その後、経済誌記者を経て事件当時は内務省で働いていた。その動機は「天皇専制への憎悪」であったという。

〈七月十一日が(処刑前日の)最後の面会日であり、この時彼(安田少尉)の関心事から勅命等により裁判の決定が取り消されるのではないかという、わずかな希望を持っていたのではないかと推測し、悲しい思いに圧倒され(中略)デスマスク作成が唯一の憎悪の表現手段と考え〉

 と、薫さんが末弟善三郎さん(93)に残した1998年4月4日の書簡にある(『二・二六事件青年将校安田優と兄・薫の遺稿』所収、同時代社)。

「なぜかというと、『デスマスクは軍の官僚たちに対する見せしめだ。お前たちが弟をこういう姿にしたんだ、と忘れさせぬためだ』と長兄は言っていた」

 善三郎さんは、薫さんの終生消えなかった怒りをそう語った。

 安田少尉は、二・二六事件犠牲者の1人、渡邊錠太郎陸軍教育総監の邸宅を部隊と襲撃した際、右脚を負傷し、事件が終息した2月29日午後まで、赤坂伝馬町(現在の元赤坂1丁目)の前田外科病院(現・赤坂見附前田病院)に入院した。デスマスクは、薫さんの願いで遺体引き渡しの場に院長が立ち会い、読経の後、石膏の型を取った。同席した陸軍士官学校同期の親友高矢三郎氏(故人)の手記はつづる。

〈先ず看護婦が繃帯を取り除く。正に眉間の真ん中に一発(中略)アルコールで顔全体をきれいにしワセリンを塗った後、先生が十五番位の針金で丁度剣道の面の金具のような骨格を作り、全面に厚く盛り上げた。ややあって、固まった石膏を先生が静かに持ち上げる。裏返された先生が、「あゝよく出来ました」と原型に一礼されたのが印象深い〉

 原型からデスマスクは3面作られた。1つは高矢氏の和歌山の自宅に置かれ、1945年の空襲で焼失した。残る2面は戦後、郷里の天草市本渡歴史民俗資料館と、防衛省防衛研究所に寄贈された。蹶起将校の遺品で唯一のデスマスク。天草の資料館では二・二六事件から80周年に当たった2016年、善三郎さんを語り部として大勢の人に公開された。安田少尉は死してなお事件を語り続けている。

事件後を生き抜いた同志
「あの日、安田少尉の弟さんが『何か困りごとがありましたら、いつでも声を掛けてください。後のご供養も自分に任せてください』と親切に話してくれた。以来、安田さんのご遺族を近しく感じてきた」

 たまさんは、104歳の人生に焼き付けられた兄の処刑の朝を回想するたび、「地獄で仏に出会ったよう」という心の救いをこう語った。この弟さんは、安田家の三男、祖龍氏(本名・尚、故人)。事件のころ、駒沢大学で仏教を学んでおり、戦後、天草下島の本渡町(現天草市)にある曹洞宗明徳寺の住職となった人だ。2歳上だった安田少尉の菩提を弔いながら、1972年に他界した。

「祖龍がこんな話をしていた。実家が百姓をしていたから、農繁期に赤ん坊だった私をおんぶして田んぼの作業をしていた。ある日、私が背中にそそう(小便)をしたらしい。兄が小学3年のころだという。もうこんな生活はいやだと言って、自分から坊主を志した」

 六男の善三郎さんは振り返る。


士官学校卒業間もない安田優少尉(前列右端)=1934(昭和9)年7月(安田善三郎さん提供、以下同)
 事件の当時まだ小学3年生で、天草下島の旧宮地村の実家で親と暮らしていた。1945年2月に陸軍士官学校予科に入ったが、半年後に敗戦の日を迎え、戦後、慶應義塾大学法学部を卒業して「武蔵紙業」(現ムサシ)に勤めた後、72歳から13年間、仏心会の代表を務めた。

「たまさんは私より11歳年長だが、遺族も世代交代して、事件のあった日々をじかに知り、処刑された身内の遺骨を抱いた経験を持つ人は、私たちくらいになった」

 筆者が初めて事件の刑死者、殉難者の追悼法要(東京・賢崇寺)を取材した今年2月26日、善三郎さんはそう語り、高齢のため長らく法要で会えなくなっていたたまさんの健康を気遣った。たまさんが仏心会へ「最後の挨拶」となった手紙を送ったことを前回紹介したが、その文中でも遺体引き取りの日の心遣いへの感謝を安田さんに述べ、互いに「事件後」を生き抜いた同志の存在になっていた。

「お兄さん(対馬中尉)のご遺骨を抱いて列車で青森に帰った時、(監視の憲兵が同乗して)一番最後まで降ろされなかったとか、たまさんからご苦労を伺った。そういう経験をした方はもうおられない。私は天草の田舎にいて、(安田少尉の)葬儀が許可されたのが10月だった。遺骨がずっと実家にあり、デスマスクの1つも父の清五郎(故人)が持ち帰った。そのデスマスクをよく見ていましたよ。額の銃痕だけでなく、鼻に出血止めの脱脂綿が詰められたのも分かった。骨箱を開けると、一番上に頭がい骨がそのままあって、火葬のまきの火力が弱かったのだろう、血(の跡)が走っていて、死を生々しく感じ取った」

 2月26日の全殉難者法要に参列し、境内の青年将校ら「二十二士」の分骨の墓に花を捧げた善三郎さんは、筆者にそう語った。

 やはり、二・二六事件と兄の死は善三郎さんの人生に「いまもここにある」ものとして刻印されていた。

 93歳ながら、2月26日の全殉難者法要と、7月12日の青年将校らの慰霊法要には参列を欠かさず、いつも凛とした口調とたたずまいに、たまさんと同じく、生ある限り「語り部」の使命を背負い続ける人の決意を感じた。

 喪服姿の遺族たちとの交流を邪魔してはいけないと、あらためての取材をお願いし、神奈川県葉山町の自宅を訪ねたのが翌3月30日。庭から望む湘南の早春の丘陵は、山桜の淡紅色に染まっていた。

故郷天草への思い抱き
「私の生家は宮地村の約3000人の農村集落にあり、戦前には10軒くらいの大地主、その下に小地主(自作農)、自作兼小作、そして100戸ほどの小作がいる階級社会だった」

 善三郎さんの話は、家族の歴史から始まった。祖父善吉さん(故人)は大地主の家の長男に生まれたが、「“ばか正直”な生き方をしたために曾祖父から廃嫡され、わずか5反の田んぼと多少の畑を耕す自作農になり、父が米穀の仲買人を仕事にして現金を稼いだ」。

 母コヨさん(故人)との間に6人の息子、4人の娘をもうけ、貧乏な暮らしだったというが、「お前たちに財産は残せないが、教育を残してやる」「お前たちは村では本家の子どもの上席に座れないが、村を出て出世し、本家を見返せ」と常々、家訓のように言い聞かせた。

 長男の薫さんは期待通りに旧制福岡高校、京都帝大経済学部に進み、次男の優は陸軍士官学校に入った。兄弟そろって村始まって以来という大出世だった。

 善三郎さんには、13も年長の安田少尉と同じ屋根の下で暮らした歳月はない。

「生まれた時には旧制天草中学に行っていた。私が5つだった昭和5年、優は転校先の熊本の済々黌(旧制中学)を出て士官学校予科に入った。思い出といえば、川にウナギ捕りのワナを仕掛けに行くのに連れていってくれたり、士官学校の夏休みに帰省しての帰り道、船着き場まで私が軍刀を担いで付いていったり。『遅くなるからもう帰れ』と言われた。優しい兄だったのを覚えている」

 創立1879(明治12)年、熊本最古の県立高校である済々黌は、現在も文武両道の名門校として全国に知られる。熊本は西南戦争で勇名をはせた熊本鎮台、後身の第6師団があり、熊本陸軍幼年学校も置かれた軍都。戦前の済々黌は多くの軍人を輩出した。

「優は初め、父の希望もあって大学へ進むのが第1志望だった。弁護士になりたかったが、『法律は金の力で左右されることが多いから、やめた』と考えを変えて士官学校を選んだ」

 と善三郎さんは言う。

「しかし、中学校では『天草から来た』と、ばかにされたようだ」

 美しい島々が連なる天草地方は、苛烈なキリスト教徒迫害と重税取り立てに端を発した1637(寛永14)年の島原・天草の乱で知られる。荒廃の後、天領となって移民政策などで復興されたが、耕地や産業も乏しい離島の貧しさは、大地主支配もあって明治以後も変わらず、人々は出稼ぎに収入を求め、村々を歩く女衒への娘身売りと海外への人身売買が「唐行き(からゆき)さん」の名を生んだ。安田少尉の済々黌時代は、とりわけ昭和恐慌が農村の生業に大打撃を与えていた。

 こうして近代の恩恵から取り残された古里の原風景は、後の二・二六事件で蹶起した青年将校の同志、対馬勝雄中尉を生んだ東北にも重なる。

「天草女という言葉が昔あった。天草出身の女性が貧しさ故に当時の満州とか南方へ連れていかれ身を売っていた、という悲しい現実によるものだった。熊本は細川藩のお膝元ということもあり、天領だった天草の歴史と併せて蔑むようなやつが兄の学校にもいた」

「東北、北海道までそうだったと思う。多くの兵隊さんが農村から戦地に来ていた。大事な働き手を農家は奪われるのだから、生活苦になれば、次は娘を身売りに出すしかない。そうした実情を肌で知って、何とかしなければというのが、兄たちが蹶起した訳だった」

農村窮乏への怒り
 安田少尉は二・二六事件の後、東京陸軍軍法会議で被告人となるが、それに先立つ1936(昭和11)年3月1日、牛込憲兵隊の尋問調書に次のような証言を残した=以下、『安田優資料』(安田善三郎編著、1998年)より引用=。

〈私ハ小サイ時カラ不義ト不正トノ幾多ノ事ヲ見セツケラレ、非常ニ無念ニ感シテ来タ〉

〈中学校ニ入リ一番正シイノハ軍人タロウト思ヒ軍人ヲ志願シタノテアリマス(中略)共産主義ノ説明ヲ父親ニ聞キ大イニ共産主義ヲ憎ム様ニナリマシタ。実ニ軍人ノ社会ハ正シイモノト思ツテ志願シタノテアリマス〉

 ところが、東京・市ケ谷台の士官学校(教育課程は予科2年、隊付き勤務6カ月、本科1年10カ月)に入った途端、生徒間の不正行為やカフェー遊びなどを知って憤慨した。しかし、教官役である村中孝次区隊長に触れて、

〈私情ヲ投ケ君国ニ殉スルノ精神ニ甦ツテ行動シテ居ラルヽコトニ非常ニ感奮〉し、家族同様の親交を結んだ。

〈其ノ親交中ノ無言ノウチニ愛国ノ士テアルコトカワカリ、無言ノ感化共鳴シ全クコノ愛国ノ至情ニハ一ツノ疑念ナク、凡テニ於テ共ニ行動出来ルモノト確信シタノテアリマス〉

 村中区隊長は青年将校たちの国家革新運動の中心人物で、後に二・二六事件の首謀者となる。予科時代の安田少尉は村中との出会いから運動に共鳴し、1932(昭和7)年、旭川野砲兵第七連隊付き士官候補生として赴任した北海道の農村の現実に、自らの生き方を決めるように憂国の情を一気に深める。

〈経済上ニテ、現状ハ一君万民ノ国情ニナツテ居ラヌ事ハ明瞭ナル事テアリマス。同シ陛下ノ赤子ナカラ、農村ノ子女ト都会上層部ノ人々トノ差ノアマリニ烈シイコトハ陛下ニ対シテ申訳ナイト思ヒマス。コレハ現在ノ国家ノ機構カ悪イト思フノテアリマス。殊ニ北海道山奥ノ人民ノ生活ハ満州人等以下ノ生活ヲシテ居リマス〉

 当時、北海道や東北は「昭和の大凶作」のさなか。新聞は〈七萬餘に達した凶作地方児童救済〉(同年4月2日の『北海タイムス』)、〈昭和聖代の痛恨事 婦女子の身賣り 青森で半年間に三百名〉(同年7月15日の『時事新報』青森版)といった悲劇を連日報じた。

「目を転ずれば、飛行機など兵器生産を担う重工業は財閥系大企業に独占され、その金が政党との癒着、政治腐敗の温床となり、農村の救いなき貧困という不正義を正すには実力による国家改造しかない」という確信が、安田少尉に深く育っていった。

〈殊ニ北海道ノ北見ノ方ニ行クト、十一月頃既ニ一月位迄食フ馬鈴薯モ(米、麦ハ勿論ナシ)無イトイフ有様テアリマス。然ルニ農村ノ租税ハ都市ヨリ多ク、金融ハ凡テ集中占拠サレテ居リマス〉

〈北海道ノ兵ノ如キハ、食物ハ軍隊ノ方カヨイカラ地方ニ帰ツテ農ヲヤルコトヲ厭ツテ居ル。ソシテ良兵ハ愚民ヲ作ルコトニナツテ居ル。之皆農村ノ疲弊カラテアル。之ヲ救フニハ、トウシテモ財閥重臣等ヲ排除セネハ実政(現)カ出来ヌト思フノテアリマス〉

 地方の惨状から目を転ずれば、飛行機など兵器生産を担う重工業は財閥系大企業に独占され、その金が政党との癒着、政治腐敗の温床となり、「農村の救いなき貧困という不正義を正すには実力による国家改造しかない」という確信が、安田少尉に深く根を張っていった。

苦界の女性を救おうと
 安田少尉は1934(昭和9)年4月に士官学校本科を卒業し、再び野砲兵第七連隊に見習士官として配属された。旭川は、心酔する村中大尉が同地の旧制中学で学び、少尉時代に旭川歩兵第二十七連隊に勤務したゆかり深い土地だ。2カ月後、同連隊の本隊が出征していた満州(中国東北部)へ派遣されて錦州(現遼寧省)に駐在し、砲兵少尉に任じられた。


1928(昭和3)年の安田家。後列中央が薫さん、その左が済々黌時代の安田少尉。前列の父清五郎さんの左に3歳の善三郎さん
 満州では3年前の9月18日、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した柳条湖事件を戦端に満州事変が勃発。関東軍は独断専行の軍事行動で全土を制圧し、翌1932年3月1日には、傀儡政権の満州国が発足。安田少尉の渡満前年、1933年5月31日に日中両軍が塘沽協定を結び、現地は停戦状態にあった。

 農山村や辺境部に出没する匪賊の討伐を任務とした安田少尉は、ある日、日本人居留民会主催の酒席に連なった。

「親友だった佐賀勝郎氏(故人)が戦後、『砲七会』(戦友会)の機関誌に書いた優の話がある」

 と善三郎さんに聞いた。

 機関誌『山吹』への寄稿文(1972年1月16日)によれば、部隊の歓迎会だった。

 末席の安田少尉は、酌をする芸者の1人が天草出身と知ると、〈こんな場所で働かないで天草に帰れ〉と真剣に説いた。

〈天草の女性が外地で下らぬ男たちに媚を売っているのは見るに忍びない〉

 と嘆き、翌週末に佐賀氏を誘ってまた料亭に行き、〈郷(さと)へ帰れ〉と訴えた。

〈只々同郷の女性が遠い異国で、外地で戦う国軍の威をかりて、我欲をむさぼる邦人たちのおもちゃになっていることに対する憤りからほとばしる口説きである〉

 と佐賀氏は記した。

 給料袋を丸ごと手渡して帰り、その後も給料が出るたびに料亭に通って女性に帰郷を勧め、お金を渡した。満州駐在は短く、赴任からわずか5カ月後の同年12月、旭川の原隊へ復帰が決まると、佐賀氏に、

〈毎月、君宛に金を送るから、彼女の許に届けてくれ、必ず郷に帰る様にすすめてくれ〉

 と頼み、その約束を違うことなく実行し続けた。

 その女性も、家の貧しさ故に身を海外に売られた当時の「天草女」の1人だったのだろう。

 それからの消息は不明だというが、安田少尉にとっては、内外に満ちる「不正義」から救い出したい古里の化身ではなかったか。その女性がせめて、青年将校の心からの勧めを受け入れる結末になっていたら、二・二六事件に参加する運命は変わっていたのか。それとも、個人の力や思いではどうにもならない苦い現実をかみしめただけだったのか。

「古里への切ないほどの愛情、苦界にある人への優しさと誠実は、安田少尉の素顔を伝えるものですね」

 と善三郎さんに問うと、

「優にはたまらなかったのでしょう」

 と満州の逸話に思いを寄せながら、

「ところが、それから同じ兄が、二・二六事件で人の命を奪っていく訳ですからね。これには、私はいまもって耐えられません」

 と深い憂い顔になった。

村中大尉と再会、事件へ
 旭川に戻り初年兵教育を担った安田少尉は、1935(昭和10)年12月20日、陸軍砲工学校(現東京・新宿区)に入校する。砲兵・工兵科将校の専門教育の場だったが、2カ月後には二・二六事件に参加する。偶然のタイミングだったのか。

 事件後の翌1936年5月19日、前述した東京陸軍軍法会議の第15回公判で、安田少尉は経緯をこう答えた。

〈本年二月二十三日頃ト思ヒマスガ、私ト同ジク砲工学校入校中の鉄道第二聯隊ノ中島莞爾少尉ノ下宿ニ行ッタトキ村中孝次ガ来テ居ッテ、近ク同志ガ蹶起スルコトニナッタト告ゲラレマシタカラ、私ハ同人ヲ信用シテ居ルノデ、一身ヲ賭シテモ決行ニ参加スルト決意ヲ示シマシタ〉

 直接の契機は、心酔する村中との東京での再会であった。安田少尉は同じく士官学校時代に村中を師と仰いだ同期生、文中の中島工兵少尉(佐賀県出身)と一緒に、目前に決行が迫っていた蹶起に迷わず勇んで身を投じることになった。

 村中大尉は1925(大正14)年、士官学校卒業間近のころ、思想家北一輝(輝次郎、二・二六事件に連座し死刑)の著書『日本改造法案大綱』(1923年)を読み、

〈天皇ニ指揮セラレタル全日本國民ノ超法律的運動ヲ以テ先ズ今ノ政治的經濟的特權階級ヲ捨ツルヲ急トスル〉

 と説く天皇・国民国家への日本改造(天皇大権発動による戒厳令、華族廃止、私有財産の制限、財閥解体と生産・資本の国家的統一、労働者の権利、国民の生活権利などを含む)に共鳴したという。

 その後、旭川の歩兵第二十七連隊で初年兵教育を担う中で、兵隊たちの出自たる庶民の貧しい暮らし、農村漁村の窮乏、地方の中小企業の惨状を知り、その体験が運動の実践を志させたという。革新派青年将校たちの先駆けを成す精神的支柱だった。大尉まで昇進しながら、国家改造の運動を統制や策動で抑えようとする陸軍中央を批判し続けた。

 士官学校区隊長を務めた後、軍エリート幹部コースの陸軍大学に進んだが、1934(昭和9)年11月、陸軍内で起きた「十一月事件(陸軍士官学校事件)」のため憲兵隊に検挙され、放校される。この事件は、村中大尉ら「皇道派」と呼ばれた青年将校グループと、「統制派」と色分けされた中央幕僚らの対立が激しくなる中、士官学校の教官となっていた統制派の辻正信大尉が士官候補生を使って青年将校グループの情報を集め、元老、重臣を殺害するクーデター計画を密告させたとされる。が、そのような事実があったのか否か、いまだ定かではない。

 村中大尉らは1935(昭和10)年7月、

〈軍内攪乱の本源は実に中央部内軍当局の間に伏在する〉

 などと事件の背景、軍の内幕を暴露する「粛軍の意見書」を、共に検挙された磯部浅一陸軍一等主計と連名で執筆。青年将校の内情を探ろうとして、〈叛乱陰謀ともいふべき事実内容を虚構捏造〉したと辻大尉らを非難し、誣告罪で告訴した書面と併せて全国の同志に拡散し、ついに免官された。対立抗争も頂点に達していた。

〈内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮して、稜威(聖なる威光)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(刈り除く)するに非ずんば、皇謨(天皇の描く国政)を一空せん〉

〈君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし〉

〈君子たり股肱たるの絶対道を今にして尽さざれば破滅沈論(零落の意)をひるがえすに由なし〉(注・カッコ内はいずれも筆者)

青年将校たちが積年の訴えと決意を込め、村中大尉も筆を入れた二・二六事件の「蹶起趣意書」の一節。1936(昭和11)年2月26日の直前、安田少尉を蹶起に引き入れたのも村中大尉だった。


7月12日、「二十二士の墓」にお参りした安田善三郎さんと仏心会の今泉章利さん=東京・麻布十番の賢崇寺(筆者撮影)
「『村中さえいなければ、村中とさえ出会わなければ』と事件の後、天草の父は言っていましたね。是非もないことだが、優のあのような行動と死が、親としては悔やまれてならなかったのだろう」

 と、善三郎さんは振り返る。

「戦後になって、兄の士官学校同期生の方が 私に『あの時、村中さんがこう言った、ああ言った、ということを口癖のように言っていた』と語ってくれたことがある。それほど傾倒していたんです」

 安田家の人々と同じ問いと憾み、苦悩を、どれだけの家族が背負って生きることになったのか。(この稿つづく)
https://www.fsight.jp/articles/-/45830


【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(3)「デスマスクが語るもの」(後編)
執筆者:寺島英弥 2019年9月29日
https://www.fsight.jp/articles/-/45918


ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 安田優少尉が蹶起と襲撃の計画を突然、村中孝次元大尉から指示されたのは「二・二六事件」前日の 1936(昭和11)年2月25日の午後3〜4時ごろ。場所は砲工学校に近い中島莞爾少尉の下宿だった。

 殺害目標は、昭和天皇の重臣、斎藤実内大臣と、陸軍首脳の渡邊錠太郎教育総監(大将)。事件の震源地となった歩兵第三連隊(現在の港区六本木)でその夜、同じ襲撃班とされた同連隊の坂井直歩兵中尉(三重県出身、事件後に刑死)、士官学校同期の高橋太郎歩兵少尉(石川県出身、同)、麦屋清済歩兵少尉(埼玉県出身、無期懲役)と顔を合わせ、襲撃計画の詳細を練った。それからの行動を、事件後の5月19日、安田少尉が被告席に立った東京陸軍軍法会議の尋問調書から再現してみたい。

斎藤内大臣、渡辺総監の襲撃計画
「只今から昭和維新に向かって邁進する。合言葉は尊皇討奸、目標は斎藤内府」

 坂井中尉は26日午前2時ごろ、同志以外の下士官たちを起こして蹶起の理由を告げ、兵を招集して全員整列させて号令をかけた。

 午前4時20分ごろ、坂井中尉を先頭に約200名が営門を出発し、5時ごろ、当時の四谷区仲町にあった斎藤邸に到着。部隊は表門から侵入し、こじ開けられた雨戸から安田少尉は屋内へ駆け上がった。

 逃げる女中を追って階段を上ると、部屋から夫人が顔を出し、「待ってください、待ってください」と立ち塞がると、その向こうから斎藤内大臣が「何だ」と言って向かってきた。

「天誅」と、安田少尉は夫人の肩越しに拳銃を1発、相手は倒れた。「殺すなら私を殺してください」と覆いかぶさる夫人を避け、頭部胸部へさらに数発。「襲撃目的を達せり」と確信した。

部隊は午前5時40分ごろ、赤坂離宮前に移動。坂井中尉ら主力は陸軍省(現在の憲政記念館付近)に向かい、安田少尉ら次の襲撃班約30名は、軍用貨物自動車に乗って杉並区荻窪の渡邊教育総監邸に急行した。

 6時ごろ、表門から乱入して、閉ざされた玄関の扉に軽機関銃を発射。その銃床で窓硝子や壁を打ち壊して中に入り、内扉を身体で押し開けようとした安田少尉は、 突然、拳銃で狙撃され、横によろめきながら玄関に這い出た。足がしびれたがやっと歩いて、裏手に回った兵の後から縁側を上がった。


 すると、寿々夫人が隣室の仕切り襖の前に立ち塞がり、「それが日本の軍隊ですか」と叫ぶ。「閣下の軍人ではない、陛下の軍隊である」と安田少尉は反駁して夫人を押し退け、襖を開けた。その瞬間、総監が布団を盾に輻射の姿で拳銃を発射。その弾が軍刀の柄頭に当たり左肘を掠めた。安田少尉は「撃て」と言いながら縁側に倒れ、軽機関銃手が応射した。倒れた総監の背中に、さらに安田少尉の拳銃の弾が2発撃ち込まれた。

 26日早朝の蹶起部隊は、青年将校たちに率いられた下士官・兵1483人。襲撃した先は首相官邸から新聞社まで16カ所に上り、斎藤内大臣、渡邊教育総監のほか、高橋是清蔵相、岡田啓介首相の義弟・松尾伝蔵陸軍大佐や、警備の巡査らも殺害した。

 蹶起趣意書は〈所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元凶なり〉と討伐理由を掲げ、青年将校らは天皇親政による昭和維新を成し遂げようとした。その目標を妨げる「奸賊」を誅滅すれば、妖雲を払うように、天皇の親政、統帥の下で国内の不平等、不正義、貧困を解決し、農村の窮乏も救う昭和維新、国家改造を一挙に実現できる、と信じた。

 安田少尉もまた尋問調書で、

〈一、軍上層部の政治的野心を除いて真の皇軍の姿に復せしめ度きこと。二、中間介在の勢力を除き以て挙軍一致の実を揚げんが為であり〉

 とし、最後に、

〈一つは村中、中島に殉じたのであります〉

 と同志への疑いなき忠誠を吐露した。

天草に届いた事件の報

「二・二六事件が起きたのを天草で知ったのは、26日の朝だった」

 と、安田善三郎さん(93)=神奈川県葉山町=は回想する。安田少尉の13歳下の弟で、当時は郷里の天草下島、宮地村(現天草市)の小学校に通う10歳。いつものように学校へ行ったら、「東京でなにか大変なことがあったみたい」と女の子から聞かされた。


山桜を背に二・二六事件と兄を語る安田善三郎さん=3月31日、神奈川県葉山町の自宅(筆者撮影)

 陸軍省は26日午後8時15分に事件の概要を報道機関に発表したが、翌27日の九州の地方紙は、『福岡日日新聞』、『九州日報』で1面トップが前代未聞の「空白」になり(2015年8月26日の『西日本新聞』)、『長崎新聞』でも1面がほぼ白紙で、印刷用鉛板の活字が削られた跡が紙面に生々しかった(2016年2月16日の同紙)。

 それでも、東京の中枢部を占拠した多数の兵の姿は市民の目にさらされ、情報は電話などの口コミで早く伝わったのだろう。

(筆者注:東京、大阪などの大手紙は号外や27日朝刊で陸軍省発表を報じ、『河北新報』をはじめ多くの地方紙も通信社電を1面で伝えた)

 東京には、安田家の10人きょうだいで一番年長の長女ホシノさん(故人)が、渡邊教育総監邸から遠くない杉並区荻窪で義兄冨田義雄さん(同)と暮らしており、内務省に勤めていた長男薫さん(同)と、陸軍砲工学校への入校で前年暮れに上京した次男の安田少尉が寄宿していた。その姉から26日午後、父清五郎さんあてに電報が届いた。

〈ミナブジ アンシンシロ〉

 との文面だった。

「読んだ父は『無事ならばなぜ、わざわざこんな電報を? 何かあったのか』と不吉なものを感じたようだ」

 と善三郎さんは言う。

 東京で起きた遠くの大事件が安田家の運命を変えたのは、3月1日の夕方、やはり船が届けた半日遅れの『九州日日新聞』の朝刊だった。

「事件に参加した将校が免官になった、という見出しに5人の名前が並び、その中に『安田優』があった。突然、わが家は悲嘆のどん底に落ち、母は半狂乱になった。父は塞ぎ込んで涙をこらえていた。私は子ども心にもただただ悲しかった。村人の目も、その日から180度変わった」

(筆者注:陸軍省は事件を鎮定した2月29日、参加した青年将校15人の免官発令を報道機関に発表。同日さらに5人の免官を追加発表し、安田少尉の名前があった)

悲嘆に暮れた家族

 村始まって以来の栄誉という士官学校合格の息子を育てた両親は、「安田の家は『教育、教育』と言っていながら、何にもならんかったじゃないか」という陰口にさらされた。村出身で初めて旧制高校に入った長男薫さんも、京都帝大経済学部時代、蜷川虎三教授(戦後、京都府知事)に共鳴する左翼学生として「京都学連事件」から続く特高の弾圧で検挙された経歴を持つ。村人の安田家へのそれまでの屈折した感情は、「兄弟の1人はアカで、1人は人殺しだ」という非難と差別の言葉に変わった。善三郎さんはいまも生々しく語る。

「薫の実家だということで、うちにはよく特高が来た。父が『ご苦労さん』とビールを注ぎ、連中はうまそうに飲んでいた。特高という言葉も知った」

「二・二六事件の当初の状況は鮮明に記憶している。兄が誰かを『殺した』ということは分かった。小学生だったが、まわりもそんな反応をしてきた。けんかをすれば、『お前の兄は人殺し』と言われた。いまだに引っかかっていることもある」

 授業が終わると、子どもたちはみんな校庭を走らされた。先生から「よし!」と言われた子は一団から外れていく。善三郎さんも一生懸命に走った。しかし、先生からはいつまでも名前は呼ばれず、なぜか分からぬまま最後まで走らされた。まるで、見せしめの懲罰でもあったかのように。

 逆境の中でも安田家の暮らしは続いた。善三郎さんは小学校から帰ると百姓仕事を手伝い、1944(昭和19)年、天草中学5年生の時に熊本の旧制五高を受験して落ちた。次に受けたのが陸軍士官学校。

「蹶起将校だった安田優の弟だから、受かるかどうか分からない」

 と思いながら、太平洋戦争の戦局が悪化を たどる折、

「どうせ死ぬんだ、いちかばちかだ、という気持ちがあった」

 と語る。

 士官学校に合格、入校したのは1945(昭和20)年2月。予科を埼玉県朝霞で過ごしたが、

「その間、事件絡みの理不尽な出来事はなかった」

 という。むしろ、東園猛中隊長から部屋に 呼ばれ、

「お前の兄は国士ではなかったし、国賊でもない。兄貴のことは忘れて勉強をしろ」

 と、気遣いの言葉を掛けてもらった。

「ありがたかった。それでも私は、事件のことを忘れることはできなかった」

上陸してくる米軍戦車の下に、爆弾を抱えて身を投じ、自爆する――。軍部の「一億総玉砕」の掛け声の下、本土決戦を想定した訓練に明け暮れていた夏、終戦を告げる昭和天皇の玉音放送を聴いた。ついに士官となって戦場の兵を指揮することなく、それでも「死ぬことだけを考えていた」という善三郎さんは、予科の仲間たちと一緒に泣いた。

 天草への帰還から「戦後」は始まる。

 父清五郎さんは還暦を過ぎ、善三郎さんは妹の久枝さんと百姓仕事を手伝った。そして1年半。息子の行く末を案じた父が、

「お前はいつまでこんなことをしているんだ。大学を受けろ」

 と言った。深い心の傷を負った両親を残して上京することに申し訳なさはあったが、善三郎さんは慶應義塾大学法学部に合格。勉学の傍ら、田植えの季節には帰郷し、夏休み前も早く帰って農作業を手伝った。

 東京では、賢崇寺の慰霊法要に初めて参列した。二・二六事件の青年将校らが刑死して間もない1936(昭和11)年秋、栗原勇さん(故人)が呼び掛けた仏心会は、陸軍の監視も解けた終戦後、未亡人や遺児を支える活動など、遺族が心を寄せ合う場になっていた。

「初めて出会う遺族はごく普通の人たちで、それぞれにご苦労を重ねていた。でも、皆さんとは年が離れた一番の若造で、膝を交えて話をするほどにはまだ打ち解けなかった」

先人に導かれ仏心会代表に
 慶大を卒業した善三郎さんは、元職業軍人が創業者だった武蔵紙業株式会社(現ムサシ)に入社し、年月を経て仏心会の人々に関わるようになった。仏心会の2代目代表、河野司さん(故人)が先頭に立って二・二六事件殉難者の慰霊像(東京・渋谷)を建立した話を連載1回目で紹介したが、その清掃に通っている人がいることを知った(2019年8月15日『(1)たまさんの絵』)。


今泉義道少尉(今泉章利さん提供)
 今泉義道さん(故人)。事件に将校と兵62名が参加し、高橋是清蔵相の襲撃部隊などを赴援した近衛歩兵第三連隊(東京・赤坂)第七中隊の少尉だった。慰霊の観音像建立後、毎月「2」と「6」が付く日に欠かさず慰霊像を清掃していたという。善三郎さんは仏心会の法要の席でそんな話を聞き、

「今泉さんがやっているのだ、と私は恐縮し、清掃に通い始めた。遺族で当番も決めた。偉い方だと思った」

『懐かしき初年兵教育と私にとっての二・二六事件』という今泉義道さんの追想記(『草萌え 同台経済人の記録』所収)を、今泉さんの次男で仏心会の監事、世話役の今泉章利さん(69)からいただいた。それによると、事件前年の1935(昭和10)年に士官学校を卒業し、近衛歩兵三連隊の少尉に任官したばかりだった。

「父は、青年将校の国家改造運動の洗礼など受けていない“ノンポリ”で、初年兵教育の教官役に情熱を燃やしていた」

 と章利さんは言う。それからの顛末は、まさしく運命というほかない。

  翌1936年2月25日夜。今泉少尉は夜間演習を終えて帰営し、翌日の代休を鎌倉の実家で過ごそうと連隊近くの山王下で市電、タクシーを待ったが、全く来なかった。余りの寒さにやむなく連隊に引き返し、寝台に入ったのが26 日午前零時ごろ。だが、2時間ほどで眠りは破られた。中隊長代理の中橋基明中尉(佐賀県出身、事件後に刑死)に起こされ、

「おい、今泉、いよいよやるぞ。昭和維新の断行だ」

 と高橋蔵相の襲撃を告げられた。

〈寝耳に水、体中の血が一時に止まった〉

 と今泉少尉は追想記につづっている。

「無理にとは言わん。襲撃の間、貴公は(実行に加わらず)待機部隊を引率してくれ。行く、行かぬは貴公の判断に委す」

 と言われ、

「あまりに突然で私には決心いたしかねます。兵隊を連れて行動することも不同意です。先ず、私を斬ってから出掛けてください」

 と喘ぎ喘ぎ答えたという。

 1人部屋に残され苦悩していると、突然、部下の特務総長が完全武装で入ってきた。聞けば、中橋中尉の命令で、同じく蹶起部隊となった歩兵第一連隊(東京・六本木)から大量の小銃実包を運び込み、軍律違反の自責から「私は死にます」と言った。今泉少尉は、

「命じられるまま軍律を犯して実弾を準備し、何も知らず蹶起に参加させられる部下をかばい、救うのが俺の務め」

 と決意し、遺書をしたためて机の引き出しに納め、行動を共にした。


 今泉少尉は事件後、高橋蔵相襲撃援護の罪で禁錮4年の刑を受け、免官された。


慰霊の観音像の下で、献花を準備する今泉章利さん奄逡ァ心会の人々=7月12日、東京・渋谷(筆者撮影)
 善三郎さんが「偉い方だ」と思ったのには理由がある。

「事件に関わり免官となった人には陸軍の満州に渡ったり、蒙古軍の将校になったりした人も少なくない。今泉さんは軍ときっぱり縁を切り、上海の汽船会社に入って民間人として生き直した。ただ部下を思い、事件に巻き込まれたことに一切の恨みも悔いも語らず、戦後は仏心会に尽くし、人知れず慰霊の観音像の清掃に通っていた。私は心から感銘を受けた」


 そして、孤立した遺族をつないだ栗原勇さん、慰霊像建立の悲願に奔走した河野司さんら先人の思いにも導かれ、善三郎さんは72歳から13年間、仏心会代表を務めた。

目前で惨殺される父を見た9歳の少女
 1986(昭和61)年7月12日、二・二六事件の50周年の慰霊法要で、思いもよらぬ出来事があった。善三郎さんの人生を変えた日にもなった。

 取材のマスコミも含め大勢の参会者があった賢崇寺に、カトリックのシスター姿の女性が訪れた。渡邊和子さん。兄の安田少尉が襲撃、殺害した渡邊錠太郎陸軍教育総監の次女だった。


在りし日の渡邊和子さん(安田さん提供)
「その時の気持ちは表現しようがない」

 と善三郎さんは振り返る。安田と名乗れぬまま本堂に案内し、法要の後、境内の「二十二士の墓」に向かった渡邊さんの後を無言で歩いた。同じく襲撃した高橋太郎少尉の弟さんも一緒だった。

 静かに手を合わせて祈る渡邊さんの後ろ姿に、涙がこみ上げた。

「私が安田の弟です」

 とようやく言えただけで、ほとんど会話ができなかった。

 渡邊さんは、

「場違いな所へ来たのかと思ったのでした」

 と語ったが、その表情は穏やかだった。

「私たちに渡邊大将のお墓を教えてください。お参りさせていただきます」

 と伝えると、和子さんは、

「父も喜びます」

 と応えてくれた。

 安田さんは日ならずして高橋さんと、多磨霊園の渡邊総監の墓に詣でた。

 渡邊総監が襲われた背景には、青年将校らと同じ皇道派の眞崎甚三郎前総監が、対立する統制派との抗争で罷免された事件や、中庸な考えを持つ軍人だった渡邊総監の発言が当時、皇道派が問題視した「天皇機関説」擁護と激しく喧伝された経緯があった。

 襲撃時、9歳だった和子さんは父から物陰に隠されたという。

〈自分の目の前で父の身体が機関銃でうたれて蜂の巣のようになり、やがて数人の兵に銃剣で切りつけられ息絶えた光景は、今日でもあざやかに脳裏にやきつけられています〉

 と、自著『美しい人に』(PHP研究所)につづられている。

「安田優の弟が渡邊総監のご遺族に会って良いのか、という葛藤があった」

 と善三郎さんは、半生の苦しみを語った。それゆえ、

「自分の父を手に掛けた者の墓に、どうして手を合わせることができるのか」

 という衝撃と、自我を揺さぶる問いが生まれたという。答えを求めて渡邊さんの著書を読み、思い余って「お目にかかりたいのですが」と手紙をつづった。

 和子さんは当時、岡山市のノートルダム清心女子大学の学長(後にノートルダム清心学園理事長)。快諾の返信をもらって訪ね、神奈川県葉山町の自宅にも招き、2016年に和子さんが89歳で亡くなるまで心の交流を重ねた。

「『ゆるす』とはどういうことか」

 と善三郎さんは自問し続け、聖書の教えにも答えを模索し、和子さんとの出会いから5年後に洗礼を受けて教会に通ってきた。

 渡邊総監の命日の墓参りも、戦後に亡くなった寿々夫人の命日と合わせて現在まで続く。

「兄の優が蹶起に加わった動機は純粋だったと思うが、その行動でどれほど多くの人に悲しい、つらい思いを残したか。罪は決して消えない。なぜ、あそこまでやったのか。訴えるべきを訴えて宮城前で自決を選ぶべきではなかったか、そうすれば誰も殺すことはなかったのではないか――と憾(うら)んだこともあった。その純粋さを翻弄し、葬った政治のシナリオもあったのだろう。ただ、やっぱり血を分けた家族として、不憫に思う気持ちも消えないのです」

 処刑直後の兄のデスマスクが語る苦悶と悲しみもまた、善三郎さんから消えることはない。

 

 蹶起将校の遺族として事件後を生き抜いた「戦友」と善三郎さんが語る、青森県弘前市の波多江たまさん(6月に104歳で他界、連載第1回参照)の思いはどうだったのか。

同じ蹶起将校で、連載の主人公となる対馬勝雄中尉の生と死の軌跡、その意味を問い続けたたまさんの人生を追って、物語は東北に飛ぶ。

https://www.fsight.jp/articles/-/45918

2. 中川隆[-10617] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:41:46 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[11] 報告

【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(4)青森・相馬町の浜から
執筆者:寺島英弥 2019年10月12日
https://www.fsight.jp/articles/-/45985

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

 本州最果ての海、陸奥湾には冬と春の境の鉛色の雲が垂れ込めていた。

 今年4月上旬、JR青森駅から東に2キロ余りの堤川を越えた海べりを歩いた。青森市港町地区。魚介の缶詰、焼き竹輪などの水産加工場、問屋、造船所、町工場、倉庫が並び、住宅街と同居する一角だ。古い町名を相馬町という。海岸は青森漁港のコンクリートの岸壁で埋められ、東端は地元の海水浴場、合浦公園の長い砂浜と緑の松林に続く。啄木の歌碑も立つ、この景色だけは昔から変わらない。

 相馬町の面影を探し歩くうち、殺風景な道路沿いに残る大きな石碑と、古い観音堂を見つけた。石碑は1921(大正10)年12月、開町30周年を記念して建立されたとあり、碑文にこんな記録が刻まれる(原文は漢字)。

https://www.fsight.jp/articles/-/45985

3. 中川隆[-10616] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:42:50 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[12] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(5)勝雄、陸軍幼年学校へ
執筆者:寺島英弥 2019年10月19日
https://www.fsight.jp/articles/-/46019

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供、以下同)

〈或る冬の寒い日、私が雪に足をとられ乍ら小学校から帰ると、家の入り口に立派な一頭の馬がつながれていました。

 私は馬がこわくて家に入れず、まごまごしていると、何に驚いたのか、いきなり馬が飛び上がり、結んでいた綱が外れて走り出しました。

 私は驚いて大声を上げました。すると家の中から軍人が出てきて、あわてて逃げる馬を追いかけていきました〉

 この連載の主人公、波多江たまさん(青森県弘前市で今年6月、104歳で死去)は、7歳になって間もない1920(大正10)年の暮れか、翌21年初めの出来事だった――と、自らの記憶を掘り起こしたノートにつづった(勝雄の遺文や書簡、家族の手記などをまとめた自費出版本『邦刀遺文』=1991年=の下書きとしたノート類)。

https://www.fsight.jp/articles/-/46019

4. 中川隆[-10615] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:43:55 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[13] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(6)「廃校の憾み、少年の胸に宿り」
執筆者:寺島英弥 2019年12月18日
https://www.fsight.jp/articles/-/46275

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 仙台市の名所、榴岡公園。旧仙台藩で文人藩主と謳われた4代伊達綱村が、「四民遊楽」の場として枝垂れ桜などを植えさせて庶民に開放し、いまも市民たちの花見でにぎわう。

 広い公園には瀟洒な白亜の洋館が立つ。1874(明治7)年に建てられた旧陸軍歩兵第四連隊兵舎で、現在は市歴史民俗資料館。戦前、東北の軍都と呼ばれた仙台には第二師団司令部(現東北大学川内キャンパス)をはじめ、いくつもの旧陸軍施設が広大な面積を占めていた。

仙台陸軍幼年学校
 歴史民俗資料館と道路を挟んで、古今の歌枕・宮城野の名をよすがとする宮城野中学校がある。かつて、日清戦争後の1897(明治30)年に開校した仙台陸軍地方幼年学校の一角だった。中学校の歩道に面した隅に、幼年学校跡の記念碑と並んで、長年の風雪で黒ずんだ大きな石碑が残され、漢文調の碑文がこう刻まれている。

https://www.fsight.jp/articles/-/46275

5. 中川隆[-10614] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:44:59 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[14] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(7)「津軽義民」への道
執筆者:寺島英弥 2020年1月12日
https://www.fsight.jp/articles/-/46366

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)

〈祖母ガ病気ナリト聞キタレバ早速弘前ニ向フ。晝(ひる)頃浦町駅(注・青森市、現在は廃駅)ヲタチ、二時間許ニテ叔父ノ家ニツク。直チニ祖母ヲ見舞フ。スツカリ痩セ給ヘルニ驚ク、祖母ハ今年七十五才余命少キヲ悲シムベシ 叔父ノ家ニ泊ル〉

 二・二六事件=1936(昭和11)年=で蹶起し銃殺刑とされた青年将校の1人、青森出身の対馬勝雄中尉(享年28)。

 まだ16歳だった1924(大正13)年3月20日の日記の一節である。

 皇国軍人の志と精神をはぐくんだ仙台陸軍幼年学校がその2日前、「山梨軍縮」の一環で廃校となり(2019年12月18日『(6)廃校の憾み、少年の胸に宿り』参照)、2学年を修了したばかりの勝雄が理不尽な思い、傷ついた心を抱えて帰省した春休みの出来事だ。

https://www.fsight.jp/articles/-/46366

6. 中川隆[-10613] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:45:53 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[15] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(8)昭和4年 運命の出会い
執筆者:寺島英弥 2020年2月18日
https://www.fsight.jp/articles/-/46537


ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供、以下同)
 1929(昭和4)年の正月。連載の主人公、対馬勝雄は18歳になり、仙台、東京の陸軍幼年学校を経て、将校養成の教育機関である陸軍士官学校(東京・市ケ谷台、現防衛省の所在地)の予科、本科で学び、卒業を半年後に控えていた。

 帰省した青森市相馬町(現港町)の対馬家の家族には、小さな変化があった。3人の妹たちで長女のタケ(当時16歳)は3年前の春に上京したのだ。

 もう1人の主人公で、タケさんの3歳下の次女だった波多江たまさん(弘前市で昨年6月、104歳で他界)が筆者に託したノートによれば、次のような思わぬ出来事があった。(注・勝雄の日記や記録、家族と友人らの証言を集めて1991年、自費出版された『邦刀遺文 二・二六事件 対馬勝雄勝雄記録集』の下書きとなったノート類の1冊)
https://www.fsight.jp/articles/-/46537

7. 中川隆[-10612] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:46:48 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[16] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(9)満州事変前夜
執筆者:寺島英弥 2020年4月25日
https://www.fsight.jp/articles/-/46845

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 山形県酒田市から国道7号を日本海沿いに北上すると、東北の名峰・鳥海山のふもとの遊佐町に至る。道を脇に折れて少し急な坂道を上ったところに、うっそうとしたクロマツの林に囲まれた広場があった。

 遠い海鳴りのほかは時が止まったような薄暗い一隅に、直径10メートルもある円形のこんもりした塚が築かれ、見上げるような石柱が立っている。刻まれた文字はただ「南無妙法蓮華経」のみ。塚の隣には墓碑銘のように、

「私はただ仏さまの予言と日蓮聖人の霊を信じているのです」

https://www.fsight.jp/articles/-/46845

8. 中川隆[-10611] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:47:38 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[17] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(10)分かれ道の兄妹
執筆者:寺島英弥 2020年5月31日
https://www.fsight.jp/articles/-/46968

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供、以下同)
〈昭和六年、東北一帯はひどい冷害だった。夏、八月というのに、毎日毎日、冷たい雨がしぶいて、日のさした日といっては、ほんの二、三日しかなかった。

 秋になって、田圃の色だけは、黄金色にかわったが、毎朝、田を回っては心配そうに、稲の穂をしごいて見る百姓の掌に、穂はさらさらと軽く、噛んでみると、むなしいしいなだけが舌に残った。〉

 1897(明治30)年に青森市に生まれ、弾圧と闘った農民運動の活動家、戦後は社会党代議士として昭和を生きた淡谷悠蔵は、1931(昭和6)年の記憶を著書『野の記録』(春陽堂書店)にこうつづった。
https://www.fsight.jp/articles/-/46968

9. 中川隆[-10610] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:48:34 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[18] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(11)「昭和維新」胎動の中へ
執筆者:寺島英弥 2020年8月3日
https://www.fsight.jp/articles/-/47163

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 1931(昭和6)年9月18日の満州事変勃発から2カ月後。陸軍第八師団(司令部・弘前)の弘前、青森、秋田、山形の各一大隊など500余人からなる混成第四旅団が編成され、内地からの最初の出動部隊として11月18日に朝鮮・釜山に上陸。20日には満州・奉天に到着し守備に就いた。弘前の第三十一連隊が基幹となった同旅団の第二大隊約500名の中に、本連載の主人公・対馬勝雄少尉(当時23歳)がいた。

血気滲む挨拶状
 第七中隊の小隊長を任じられて、自らが教育してきた兵士らとの初めての出征に奮い立った勝雄は、国家改造運動の国内での進展を念願し後事を託する内容の挨拶状をしたためた。宛名リストはないが、律儀な勝雄の性格から、同志の青年将校らだけでなく軍内外の理解者と頼む人々に出されたか。

https://www.fsight.jp/articles/-/47163

10. 中川隆[-10609] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:49:25 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[19] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(12)凶作の郷里、慟哭の戦場
執筆者:寺島英弥 2020年9月1日
https://www.fsight.jp/articles/-/47268

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
 東北新幹線の二戸駅(岩手県二戸市)から北上山地に分け入った「荷軽部」(にかるべ、久慈市山形町)という集落に、「バッタリー村」の看板がある。

 地元の木藤古(きとうご)徳一郎さん(89)が、昔ながらの山村の暮らしを伝える活動の場として、沢水で動く唐臼「バッタリー」の小屋や、わら細工、木工品の作業場などを開放し、遠来の来訪者たちと語り合う。筆者が山村文化の取材で知った木藤古さんは、1930(昭和5)年生まれ。1931〜34年にわたる東北大凶作を記憶していた。

https://www.fsight.jp/articles/-/47268

11. 中川隆[-10608] koaQ7Jey 2020年10月25日 09:50:43 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[20] 報告
【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(13)戦塵のかなた見果てぬ夢
執筆者:寺島英弥 2020年10月24日
https://www.fsight.jp/articles/-/47456

ありし日の対馬勝雄中尉(波多江さん提供)
「幻想交響曲」(エクトル・ベルリオーズ作曲)に「野の風景」(第3楽章)という不思議な楽章がある。追い求めても手の届かぬ女への恋情に翻弄され、断頭台への道を生き急ぐ男に訪れる束の間の静寂の夢。

 読むたびに連想を誘う記述が、本連載の主人公、青森出身の対馬勝雄少尉(陸軍歩兵第三十一連隊)の日記にある。

 満州での戦闘が激しさを増していたさなかの1932(昭和7)年4月1日、奉天で書かれた日記の「余ノ個人生活ノ理想」という一節だ(『二・二六事件 對馬勝雄記録集「邦刀遺文」』所収)。

農の暮らしへの憧憬
〈余ハ故郷ノ平和ナル一部落ノ百姓トシテ暮シ得ンハ甚ダ満足デアル。余ハ敢ヘテ村長タルヲ希望シタイ。自ラ人生ヲ楽シミツゝソノ部落ノ自治助長、共存扶助ニツクシ且ツ文化ニ貢献スルニ力(つと)ムルノミデアル。シカモ日常国家的問題ニ注意ヲ怠ラズ推移ヲナガムルデアラウ〉

〈余ハ自作農トシテ最小限二町歩乃至五段部ノ土地ヲ有スレバ満足デアル。其内概ネ半分ヲ田トシ残リヲ畑地及宅地ニスルデアラウ。別ニ私有又ハ共有ノ山林等ガアレバ多々益ヲ弁ズルノミデアル〉

〈余ハ馬ヲ一頭鶏ヲ数十羽飼ヒタイト思フ。コレニヨッテ肥料ヲ自給スルノデアル。余ハ村オ共同製酒所ヨリ自給セラルゝ濁酒ヲ飲ンデ陶然トセンコトヲ願フ。菓子ヲ購ウコトナク甘藷、南瓜、菓物ヲ代用センコトヲ思フ。又乾柿ヲ以テ糖分トシ蜂蜜ニヨリ菓子ヲ自製センコトヲ思フ。下駄ヲハカズ草履ヲ用ヒ懐中電灯ヲ用ヒズ提灯ヲ用フ(然シ燈火ハ電燈ニヨラント欲ス)燃料ハ山ノ柴ヲ用フ〉

〈莨(たばこ)ハ畑ニ栽培ス。蓋シ莨ノ栽培ハマタ畑ノ害虫ヲ去ルノ効果アルナリ。家ノ北側ノ軒下ニハ「ミジ」(注・山菜のミズ)ヲ栽培スルデアラウ〉

 駐屯先だった関東州荘河の兵営の夜更けにつづったのだろうか。東北の同時代人であった宮沢賢治(1896〜1933年)の『雨ニモマケズ』の響きにも通じる静謐な決意や、農の暮らしへの憧憬が、殺伐たる戦地の砲煙、銃声、阿鼻叫喚とは別の世界から伝わる。最後の一節はこうだ。

〈余ハ村ニ少年団ヲ建設シタイト思フ。ソハ質素作業洋服ヲ着テ相当軍規的訓練ヲ施スノデアル。又鳩ト犬等ニ稍々重点ヲオキ一面我軍事界ニ資スルノデアル〉

 このくだりだけ軍国的に聞こえるかもしれないが、筆者には、勝雄が古里・青森市相馬町での貧しい少年時代、近所の男の子たちを集めて軍旗や基地を作り、教練ごっこをし、イソップ話を聞かせた「少年団」(本連載4回『青森・相馬町の浜から』参照)を瞼によみがえらせているように思える。

 果たして、故郷の現実はどうだったのか。1930(昭和5)年の農村恐慌、翌31年に始まる東北大凶作で、東北の村々には寒々とした枯れ田や娘身売りの光景があり、困窮した小作農民たちと地主とのさらに激しい争議が広がっていた。

先鋭化する小作争議
「小作人から田畑をとりあげるな」「小作人を人間扱いにせよ」「小作人の生き血を吸う鬼畜地主を倒せ」――。

 1926(大正15)年、本州北辺の冷害常襲地にこんなスローガンを筵旗に掲げ、地主に対峙した青森県車力村(現・つがる市)の農民組合の話を本連載7回『津軽義民への道』で紹介した。大凶作でも収穫の4割もの小作料を頑として譲らぬ地主との闘いは、さらに先鋭化した政治闘争になっていた。


昭和初めの村の暮らしを絵にした秋田義信さん=2019年5月、青森市
 戦前・戦後の青森の農民譚を記録してきた著述家、秋田義信さん(94)=青森市=は、昭和初めの騒然たる古里・車力村を多感な子どもの目で見つめた。

「小学生でランドセルやズック靴は地主の子ども1人。あとは風呂敷包みを腰に結わえ付け、男子は夏に裸足、冬も足袋だった。女の子は田んぼに出る親の手伝いで休んだり、弟や妹を学校の廊下で子守りしたりした。

 集落では農民組合が開く街頭演説会が盛んで、淡谷悠蔵(全国農民組合青森県連合委員長・戦後は衆議院議員)や青森の共産党の大沢久明らが我が家の前で熱弁をふるった。私が夕方の食卓で『われわれ労働者は……』と弁士を真似て、父親から怒られたものだった」

「地主は小作料を払えない農家の土地を取り上げようとし、農民組合がそれを阻止した。小作米不納で団結し、地主の手先が農家に催促に歩くと仲間で包囲し、地主の家に押し掛けた。ある尋常小学校では農民組合の人たちが子どもを学校にやらず、国定教科書の授業を受けさせない運動を始めた。

『アカ』といわれて首になった教師を連れてきて、お堂を教室に臨時学校を開いた。その読本の初めに『地主の子どもはゲンダカ(方言で毛虫)の子』とあったそうだ。小学校の朝礼には誰も来ないので、校長が烈火のように怒った。警察からは弾圧されたが」

 当時の労働人口の半分を占めた全国の農民の負債は、1931年7月の農林省の推計で約60億円(現在の約10兆800億円)、1戸当たり約1060円(同約190万円)で平均年収を上回り、1912(明治45)年の推計との比較で8倍余に急増した。革命前夜のような車力村の様相は、もはや起つしか手段のない農民の絶望の現れだった。暴力で潰そうとする地主との衝突も各地で頻発した。

〈厖大化する農民負債の相當部分は高利貸しあるいは寄生的地主からの法外な高利率をもっておこなわれ、このことがさらに農民經濟を壓迫し負債を累揩ケしめた〉

〈農業恐慌の激化は、農業危機を一層具體化し、國家權力をかつてない動揺にみちびき、なんらかの補強工作を必要とするまでに、半封建的な農村社會機構を震駭せしめた〉(白川清「昭和恐慌下の農村財政」=『農業総合研究』1951年第2号所収=)。 

 海軍将校や茨城県の農民らが「農村救済」を掲げて起こした五・一五事件(1932年5月15日)の後、殺害された犬養毅首相の後任の斎藤實首相(退役海軍大将)は、全国から殺到した農村救済請願の運動を受けて開いた第63回議会で、

「諸君、不況困憊の難局に直面して、農山漁村及中小工業の窮状に對し、之が匡救(きょうきゅう)策を講ずることは、今期議会の使命であります」

 と演説する。 

 農村匡救事業は3カ年で国費約5億円(現在の約9000億円)に上るが、満州事変を背景に、

〈「時局匡救に名を借りた軍事費」の支出を含んでおり、さらには匡救事業費中首位を占める内務省匡救豫算には「軍事國道費」あるいは軍港湾費が含まれていたのであった〉(前掲白川清論文)。

 この年、国家歳出の35%を占めた軍事費は翌々年43.5%に拡大。匡救事業を圧迫し、3年で打ち切りとなる矛盾を生む。

 最も優先すべき地主制の改革は避けられ、最後は「農村部落ニ於ケル固有ノ美風タル隣保共助ノ精神」で農民の奮起を促す「自力更生」運動が推し進められる。

家族に満州移民を勧め

1931(昭和6)年刊行の農民運動の機関紙『農村新聞』。勝雄の遺品にあった
 勝雄も満州にあって、部下の岩手出身の兵士たちの声や日々の新聞を通して、東北の農村の窮状を我が身のことと憂えていた。

 では、〈余ハ故郷ノ平和ナル一部落ノ百姓トシテ暮シ……〉という日記は、戦火のさなかの一夜の郷愁、あるいは幻想に過ぎなかったのか。

 筆者には、それは満州という新天地に勝雄が見出そうとした「新しい故郷」への夢ではないか、と思われるのだ。

 その日記と同じ4月1日、勝雄は父嘉七さん宛に手紙を書いている。

〈豊年は豊年飢饉、凶年は凶年飢饉で百姓もどうにもならないでせう……〉

 という絶望的な記述の後に、その思いはつづられる。

〈次に満洲は絶対によい処であります。心配無用、たゞし従来の営利一点張りの金儲主義はだめであります。先ず自給自足経済の観念にて着々と進むべきであります。百姓でも嫩江(のんこう・満州北部、黒竜江省の町)の湿地はそのままゝ水田でモミをまいたきりで草も生えず秋とり入れるのみであるそうです。また馬鈴薯も可、羊の飼育も有望、気候は悪くありません。悪いのは景色だけです。(勝雄の所属する)第八師団が駐屯になる様なら是非移民して下さい〉


乗馬小隊と警ら中の勝雄(左上)
 ひと月前の3月1日、関東軍は清朝最後の皇帝だった溥儀を執政に据え、満州国を独立させた。独立宣言では、
〈凡そ新国家の領土内に居住するものは皆種族の岐視尊卑の分別なし原有の漢族満族蒙族及日本、朝鮮の民族を除く外即ちその他の外人と雖も長久に居住を願うものは又平等の待遇を受くる事を得〉

 と、「五族協和」が謳われた。傀儡国家の建国にも、満州事変を戦った現場の軍人には安堵と楽観があったのだろう。勝雄は、東京で洋裁の修業をしていた妹たまさんに「ミシンを買ってやる」と約束していたが、同じ日記でやはり満州での開業を勧めた。

〈又商売ではたま子のやっている仕立屋などよいと思います。ハルピン辺りでは着物をぬふだけでも大多忙です。何故かといふと(内地から)当地にくる女は水商売やそんなものでハリをとることをしらず、また知っていてもとらぬといふ位です。

 薬屋は相当あります。チゝハルだけでも日本薬屋三軒あり、これからは平和にさえなれば日本人の薬屋のゐない処にて薬屋も有望であります。とにかく日本人のゐない処には商売がよい。集団でゆくなら農業が確実、又チゝハルの奥なら内地と連絡して気のきいた食料品店も(選択として)よくあります〉

 嘉七さんへの満州への移民の勧めは、以後の手紙でも熱心に説かれる。


「楽土 安民の營み」と題された満州の絵葉書
〈第八師団は満洲に来る様に候がいづれ官舎が出来たならばそこに入る様にして家族としては将来、渡満せられては如何に候哉。その前に家督を私に譲り官吏の家族として将来全然内職もなにもせず 或いは集団移民と一緒に来るか。又は単独移民と一緒に長春付近にて暮らすか如何に候哉〉(4月8日)

〈錦州は仲々暑く相成候 然し凌げない訳でなく出来れば家の方も移住する様にいたしたく考え居り候……(文末の追伸)満洲国承認、農村救済は議会で決議せるも実行力うたがはれ候〉(6月28日)

〈満洲は非常によい処と存じます。匪賊のおかげで適当に緊張して暮しよくあります。何れ将来出来るならば一家全部吉林方面へでも移住すれば甚だ結構に存じます。今に満洲の農業が一番さかえる時が来るでせう〉(9月24日)

 満州国は、勝雄だけではなく当時の多くの日本人の目に、建国のもう1つのスローガン「王道楽土」のごとく、昭和の初めを重く覆った困窮と閉塞から解き放たれて未来を生き直せる土地と映ったのだろうか。

 後に東北などの貧しい村々を分村させてまで約30万人もの農民家族や若者を送り出し、悲劇的な破局と犠牲をもたらす「満州開拓移民」の国策が芽生える前夜のことだ。                 

「生産権奉還」に共鳴
 この時期、勝雄が読んで感化された本がある。日記や手紙に記し、国家改造運動を志す青年将校の同志や親しい人々に自腹で寄贈したと思われる。

〈長沢九一郎氏著「生産権奉還」をヨミテ感深シ、酒肴料ヲ以テ本ヲ買ヒ各方面ニ送ラントス〉(5月7日の日記)

〈農村の自覚はこの際喜ぶべきことであります。吾々は凡て自力更生で進むべく国内にては農村と在郷軍人さへしっかり手を取って奮起すれば大丈夫であります。最近この感特に深く上級者はたのむに足らぬ気がします。先日お送りした生産権奉還の書は私のチゝハルにていたゞいた御下賜の酒肴料を以って購ったものであります。最も意義ある様に使用したのであります。内容或ひはむつかしいかもしれぬのですが我々は熾烈なる皇民の情操を以て光輝と躍進の跡とを有する昭和維新に到達したいと希ふのであります〉(8月28日、岩手県の元部下への手紙)

 1932(昭和7)年刊行の同書(先進社)の著者長沢九一郎は社会主義から国家主義者に転向し、盟友の遠藤友四郎と共に「尊王急進党」を結成。「昭和維新」を唱える活動家の1人として内務省警保局からマークされていた。

 生産権奉還とは次のような主張だ。

 明治維新は、天皇の下に全ての臣民が一体で奉仕する国体に還る時だったのに、大名の版籍奉還だけの不徹底に終わり、元勲らが欧米に幻惑されて採った資本主義が今日の財閥などの搾取と社会格差、貧困を生んだ。企業や工場、農業などすべての経済分野の生産権も天皇に奉還し、真に平等公平な皇民の道義国家を目指すべきだ――。

 こうした思想に勝雄ら青年将校たちは共鳴し、その目標を阻む財閥や、癒着する政党政治を打倒し天皇親政を実現することが明治維新の完成、すなわち昭和維新の断行であると考えた。

 勝雄は満州で3年目を迎えた1933(昭和8)年の元旦、「新年ニ當リ東天ヲ拝シ昭和維新ノ断行ヲ期ス」と題した長文のメッセージを書いて謄写版で印刷し、同志たちに送った。

〈鉄、石炭、交通、肥料、移民等モトヨリ國民ハ滿蒙開發ニツイテ功利的思想ヲ抱イテハナラヌカ當局者トシテハ 滿州開發ニヨッテ現下ノ國内不況ヲ打開シ以テ國民一般ニ希望ノ光明ト元気トヲ抱カシメネバナラヌ〉

〈個人的榮利資本主義ヲ滿州ニ奔放ニ跳梁セシメタナラハ利ヲ追ッテ止マヌ資本ノ本質上現地住民ハ其搾取ニ苦悩スルニ至ルテアラウ。コレニ反シ農業的工業的集團移民ハ日鮮滿蒙ノ民族互ニ其部落ヲ形成シ自立自活而シテ協和ノ平和郷ヲナシウルモノト信スル〉


満洲を勝雄と転戦した第三十一連隊乗馬小隊
 勝雄にとっては、昭和維新の断行も、満州での理想郷の実現も、困窮する国民に希望の光明を灯すことも1つにつながり、そのために満州で戦っていると信じた。

 それが成った時、自らは軍服を脱ぎ、貧乏暮らしの苦労を重ねた青森の両親ら家族を満州に呼んで、新しい故郷をつくり、〈余ハ敢ヘテ村長タルヲ希望シタイ。自ラ人生ヲ楽シミツゝソノ部落ノ自治助長、共存扶助ニツクシ且ツ文化ニ貢献スルニ力(つと)ムルノミデアル〉と、戦塵のかなたに見果てぬ夢を描いたのではないか。4年後には二・二六事件の蹶起に加わることになるが、勝雄は革命家ではなかった。

大凶作に続いた三陸津波
「津波・火災の襲来 死傷者行方不明者 家屋の流出燒失夥し」

 1933年3月3日の『河北新報』夕刊トップの大見出しだ。その日午前2時半ごろ、岩手県釜石沖約200キロを震源とする大地震が、岩手、宮城を中心とする太平洋岸に巨大津波をもたらした。翌日の朝刊には、被災した海岸集落の悲惨な運命を詳報する記事と写真が満載された。

「正視し得ざる釜石 全町にもの凄き阿鼻叫喚!」

「漁船は木っ葉微塵」

「波に押し上げられ 路上に轉がる傳馬船」

「着の身の儘さ迷ふ老若男女」

「十五濱村荒部落 殆ど全滅の悲況」……。

 いまに伝承される「昭和三陸大津波」が、勝雄の属する満州の第八師団(弘前)の兵士たちに伝えられたのは、発生からおよそ1カ月後。関東州の要衝、山海関での激戦(本連載第12回『凶作の郷里、慟哭の戦場』参照)に続いて、国境を越えた中国・熱河省への侵攻作戦に動員されていたさなかだった。同月27日に日本は国際連盟脱退を通告する。

 勝雄が乗馬小隊長を務めた第三十一連隊(弘前)のある兵士は、戦後、同連隊第二中隊の戦友会(アカシア会)の「中隊出身者想い出記」にこう記憶をつづった。

〈幹部が「今から一カ月前の三月三日、三陸津波があったという。直ぐにみんなに知らせたかったが、戦斗中であったので、志気に影響があったらいかんと考え、今日の報告になった」という。「津波」と言えば、他人事ではない。私の家も作業小屋も、八木港(岩手県洋野町)の海岸近くにある。私には漁船もあり、其処には兄弟も住んでいる。常に私の念頭から「津波」のことは離したことのない重大事なので、もっと詳しい被害状況を知りたいと思った。だが、津波の詳細を知っている人は一人もいなかった〉

 その37年前、1896(明治29)年6月15日には明治三陸大津波があり、三陸の住民は死者行方不明者が約2万2000人という痛ましい体験を家族史に刻んでいた。

 大船渡市(旧岩手県三陸町)の津波研究家、山下文男さん(故人)の『昭和東北大凶作』(無明舎出版)によると、昭和の大津波があった当時、岩手から出征兵士を送り出していた家の被災戸数は420戸に上り、うち386戸が熱河作戦に出動中の兵士の家だった。その郷里の人々は大凶作に続いて、さらなる辛酸をなめた。


昭和三陸大津波の後、集落を高台に移転した白浜のいま。東日本大震災では1人の犠牲者も出さなかった=大船渡市綾里
 当時の被災地の1つ、大船渡市三陸町綾里(旧綾里村)の白浜を筆者は昨年訪ね、当時9歳だった熊谷正吾さん(94)の体験を聴いた。明治の大津波では波高38.2メートルを記録し、100人以上が犠牲になった場所だ。

「あの寒い夜、2度の大きな地震の後、ものすごい大砲のような音が海から響き、明治の津波を生き延びた祖父の声で家族全員、真っ暗な中を裏山の畑に逃げた」


戦地への出征者、昭和三陸大津波など、白浜の記憶を伝えている熊谷正吾さん=大船渡市綾里
 雪が降った真っ白な朝、42軒の集落はほとんど崩壊、流失していた。死者・行方不明者は66人を数え、熊谷さんと同じ小学生も23人が犠牲に。残った住民が潰れた家を起こして避難所にし、無事な布団を敷いてけが人を救援した。

 壊れた部材を縄でしばったような小屋で仮住まいをし、青年団の支援などで暮らしをつなぎ、3カ月ほどして「助け合って『復興地』を造ろう」という話が出た。高台移転である。地主に交渉して土地を借り、自力更生事業の土方作業や出稼ぎで働き、山や畑を売り、国の金を借り、1軒40円(現在の約7万円)の建築費を懸命に蓄えた。 

「自力更生という言葉を覚えている。海と山に挟まれた白浜は田んぼが乏しく、魚とワカメだけで稼げず、麦やヒエ、アワばかり食い、なければよその家から借りてしのいだ。うちは狭い田んぼもあって10人家族が何とか食えたが、大津波の翌年の昭和9年はまたも大凶作。コメが全く実らず、畑の大根やサツマイモくらいしか取れず、盗みも出た。支那事変(1937年)の前あたりから、皆で材料の木を山から運んだり、製板所に出したりして、やっと家を建てた」

 満州事変はそんな集落からも男手を奪ったが、

「軍隊に行けばやっと飯が食える、と聞かされた」

 と熊谷さん(自身は横浜の造船所に徴用後、大湊海兵団に入隊)。それから太平洋戦争まで白浜からは407人が出征し、112人が戦死したという。

死ぬことを当然と願う

勝雄の母なみさん
 新しい郷里をつくる夢を、結局、勝雄は胸にしまい断念することになる。満州事変での中国軍との戦闘がひとまず止む1933(昭和8)年5月31日の塘沽停戦協定まで、勝雄は多くの部下に戦死され、実家近くの観音堂に息子の無事を日々祈願していた母なみさんに自らも、

〈戦死でもしたら喜んで皇国のため目出度し/\とやって貰わねばならんと存じ候 これは今後に於ても同じことにて平時戦時をとはずいつ死なれてもかくあらんことをお願い申し候〉

 と、死ぬことを当然と願う手紙(同年6月26日)を書き送った。古里への「後顧ノ憂」を抱きつつ逝った部下たちへの責任を、二・二六事件での蹶起の理由にさえした(本連載12回参照)。

 そして、最期まで軍人たれ、と勝雄を引き戻したであろう1本の新聞記事がある。父嘉七さんの遺品に『報知新聞』青森岩手版(1932年7月2日付)の切り抜きがあり、勝雄も満州で同じ記事を読んで、

〈御両親の御言葉に私は満足至極に存じます〉

 と手紙(1932年7月13日)に書いた。


満洲出征中の勝雄の両親を取材し、軍国美談にして伝えた『報知新聞』青森岩手版の記事=1932(昭和7)年7月2日

https://www.fsight.jp/articles/-/47456

12. 中川隆[-6972] koaQ7Jey 2021年3月02日 10:32:29 : FnXfRqdhm6 : NHdEMUozR20zbHc=[12] 報告
昭和恐慌と子殺し 2021年03月01日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

 大恐慌といえば1929年のニューデール恐慌だが、これが日本に波及した「昭和大恐慌」について語り継がれたものは少ない。我々の世代ですら、何が起きたのか知らない者が多い。

 昭和恐慌とは何か?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C

 1930年〜1932年くらいまで続いた昭和最大の不況だが、満州事変による中国侵攻の軍事特需が生まれて事実上収束した。
 しかし、この不況の本質は、台湾・朝鮮を領土化した日本政府が、1930年(昭和5年)の大豊作時に、植民地である台湾・朝鮮から米を大量に輸入したことにより、日本本土の農業が壊滅状態に陥り、農村地方の民衆生活を激しく崩壊させたことにある。

 いったい、何が起きたのか?

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 ニューデール大恐慌は、生糸市場を直撃したので、日本の農村で生糸に依存した生活を行っていた土地では、ほとんど収入が失われ、維新以来最悪の貧苦に見舞われた。

 語り継ぐ戦争 貧しい漁村、子殺しの悲劇 エッセイストの川口祐二さん 2018/08/16
 https://www.youtube.com/watch?v=cH5SMjcYqLo&ab_channel=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE 

 「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た子供を間引した廉(かど)で、1小隊ほども法廷に立たされた」
 この村のことと違うかな。ピンときました。

 尋常小学生のころ、母に尋ねたんです。学校で学年別に整列すると、僕らは90人いるのに、1年上の31(昭和6)年生まれだけが、半分くらいしかいない。「なんでかな」。すると、母が「実はな……」と教えてくれた。

 貧しい母親たちは、産んだばかりの赤ん坊を殺して油紙に包んで海に流した。それが波で押し返され、見つかった。産婆も関係しており、姉の同級生の母親も摘発された、と姉からも聴いた。

 その前からあったが、31年が不景気のどん底でひどかったらしい。満州事変の年ですね。当時、今と違って魚はとれたが、値段が安く、輸送手段が乏しかった。人力で荷車を引き、半日がかりで伊勢まで運んだそうだ。

 僕は何とも言えない気持ちになった。事件のころ、僕も母のおなかに入っていたわけで、もう半年早く宿っていたら、同じ運命をたどったんだろうか。何しろ僕は7人きょうだいの一番下でしたから。

 農地もわずかしかなく、都会へ働きにいくほか、海外への出稼ぎも多かった。志摩郡に仕事を紹介する会社があり、うちも姉2人と兄の3人がフィリピンへ渡った。看護師になったり、ビール会社で働いたりした。

 一番上の姉は開戦直前、2人の子どもを連れて帰国した。現地では「アメリカと戦争になるらしい」といううわさが流れていたそうだ。大戦末期、残ったその夫や兄は現地召集、2番目の姉も米軍に追われて逃げ惑った。タガログ語ができたので、イモを分けてもらい、生き延びた。

 《嬰児(えいじ)殺し事件》 1933(昭和8)年10月24日付の伊勢新聞などによると、三重県南勢地方の村で摘発され、後に18人に執行猶予付きの有罪判決があった。
 三重県警察史(66年)も「生活上の苦悩から惨忍(ざんにん)な犯行を犯す者も増加した」としてこの事件に触れ、「被疑者三十余名、三十数件の嬰児殺事件を検挙」とある。
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私が、昭和恐慌における娘の身売りや嬰児殺しの事実を知ったのは、もう半世紀以上前に夢中になって読んだ民俗学者、宮本常一のルポであった。
 宮本は全国の貧しい農漁村を歩いて、直接取材した膨大な民俗学ルポルタージュを遺した。未来社から全集が出ているが、高価なので買えず、私は図書館に通って貪り読んだ。

 今は、その内容を具体的に示すことができないが、鮮明に記憶しているのは、東北地方の農家では、戦後、1960年代くらいまで、子供を育てる見通しが立たないとき、母親が産んだ後の嬰児を川に沈めて死なせるというルポがあったことだ。
 上に挙げた伊勢地方では、戦前の1933年に30余名の嬰児殺しが摘発されているが、東北地方の奥地では、昭和30年代でも、育てられないための子殺しは普通に起きていた。

 昭和恐慌では、生糸だけが唯一の現金手段という地方の村が無数にあって、それが大恐慌で突然ゼロになり、多くの人々が途方に暮れ、子殺しをするしかなかった。
 だから1931年(昭和6年)生まれは、特別に人数が少ないということになった。

 上の説明を補完する出生数推移情報を探したが、昭和恐慌による「子殺し」を示す統計データで分かりやすいものは見つからなかった。全国の大数データに埋もれて、極度に貧しい農村の特異性を示すデータが出てこない。
 しかし、昭和恐慌を題材にした人間ドラマは少なくない。「おしん」は、とりわけ説得力をもって当時の凄惨な現実を教えてくれた。

 現在、「子殺し」は、殺人と同等の扱いとして、事情があっても情け容赦なく犯罪として扱うようになっている。
 
  https://news.yahoo.co.jp/articles/7f4707e3443e4428041c17003ea6837c4a22c775

  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50695

 私は、これもおかしな話だと思う。子殺しをするには、必ず生活が追い詰められたという事情を前提にしている。好き好んで趣味で子殺しをする者は滅多にいないだろう。
 日本政府は、生活に追い詰められた彼らを一切支援せず、新自由主義の「自助努力」だけを押しつけて、子殺しや一家心中に向かう人々に対して、非人情で冷酷極まりない対応を行い、処罰だけ熱心だ。
 こういう思想の連中には、いつか天罰が下ることを望む。

 昭和恐慌で、冷害凶作も重なって、もっとも残酷な被害を受けたのは東北地方だが、秋田県・岩手県などで、その凄惨な状況が記録されている。
 http://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

 昭和恐慌とあいつぐ凶作で被害を受けた村の実態を「凶作地帯をゆく」(昭和9(1934)年10月26日付け秋田魁新聞)と題する現地レポートには次のように記されている。

 「秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。
 しかし、山裾にある町村は、未曾有の凶作に悩み、木の実・草の根、人間の食べられるものは全部刈り取り掘り尽くし、米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ飢餓地獄にのたうつ惨状、秋田県由利郡直根村百宅部落のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、天に号泣し地に哀訴の術も空しく飢え迫る日を待つのみの状態である。(アマ註・由利本荘市直根を調べたが見つからないので集落が消えたようだ)

 同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。

 これは家人の働きに出た後の留守居や、でなければ山に入って栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を集めるために欠席する。糧食なくして何の教育ぞやの感を深くさせられる。

 垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、授業を受ける児童の多いこと、一人泣き出せば又一人、背の赤児はまだしも自分でもママ末に負えなくなって泣き叫ぶ子守りもいる。

 こうした名目ばかりの義務教育を終えて、やっと15,6になると、雀の涙ほどの前借金で丁稚とか酌婦に売り出される。
 生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、食うや食わずにやっと6年を終えたら、知らぬ他国に涙の生活、彼ら山間奥地の住民は、永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。」

売られゆく娘たち
 凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。
 身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。
 娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。
 しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。
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 引用以上

 私は、この記事を見て憤った。当時、満州事変を境にして、日本軍部は軍備増強に突き進み、太平洋戦争敗戦までの間、現在価値にして、実に4000兆円を超える資金を投じた。その多くが、アヘンやヘロインを諸外国に売りさばいた密売資金だったが。
 東北の悲惨な子殺しや身売りは、そのうち、わずか0.1%でも救援に回せば、瞬時に解決したものだ。

 だが、日本政府・軍部は、日本国民の窮状に背を向けて、戦争への道を突っ走っていた。だから、すでに、この段階で、第二次世界大戦の敗北は必至だったのだ。

 今、コロナ禍で、昨年1月当時の予想からすれば、ちょっと信じられないほど深刻な事態に突き進んでいる。みんな、まだ事態の深刻さを見ていても、それがどれほど恐ろしい、残酷・苛酷な事態を招くのか、ピンときている人が、ほとんどいないのに驚かされる。
 もう、数ヶ月先にも、ワクチンが普及し、事態が収まって元通りに社会が動き始めると勘違いしている人が大半なのだ。

 事実は違う。コロナ禍は、まだ始まったばかりだ。多重感染者が増えれば、ウイルスの突然変異による毒性、感染力が上がり、これまでとは桁違いの被害が出る。
 百年前のスペイン風邪のときがそうだ。
 1918年から始まったといわれるが、最初はたいした症状ではなかったが、二年目の多重感染者が著しい毒性の変異株を生み出し、集落を絨毯爆撃するほどの死者が出始めた。
 当時20億人だった地球人口の全員が感染し、うち一割が死亡した。

 RNAウイルスは、もの凄い変異を繰り返すうちに、毒性を弱めて、一種の「自家中毒」を起こして軽い病気に変わってゆくが、スペイン風邪は4年目にそうなった。
 もっとも激しい毒性の暴風は2〜3年目だ。そのときは健全な免疫を持った屈強な若者や、地の果てのエスキモーまで感染死亡させられた。
 新型コロナ禍は、まだその段階に至っておらず、これから、それがやってくる可能性が大いにある。
 日本政府・厚労省の対応が、あまりに非科学的で、愚かすぎるからだ。

 このままでは、私は昭和恐慌なみの、恐ろしい経済崩壊が避けられないと思う。金が動くには人が動かなければならない。その人が動けないのだから、金が回るはずがない。
 もう、新自由主義などという馬鹿げた迷妄思想の出番ではない。金儲けだけが人間最高の価値と決めつけたフリードマンは、もはや法王とともに地獄に墜ちている。

 変わって、この社会に登場してくる思想は、「共同体」だとくり返し書いている。「金儲け」という利己主義などに何の価値も見いださず、「人の笑顔を食べて生きる」利他主義の価値観の人々が社会の中核を占めるようになる。
 そうでなければ、日本社会は滅亡するしかない。共同体思想だけが、日本の未来を拓いてゆく。

 もしも、人が「共同」を失ったなら、昭和恐慌と同じことが起きると私は思う。もう子供たちを育ててゆけない。かといって新自由主義の政府は、自助だけを要求して、絶対に民衆を助けない。
 すると最期に犠牲になるのは、生まれてくる子供であり、「未来」そのものなのだ。
 昭和恐慌が何をもたらしたのか?
 それは太平洋戦争なのだ。日本人450万人が死亡させられたといわれる、あの戦争だ。
 
 もしも、今のまま未来への適切なビジョンが示せなければ、再び世界戦争に翻弄されるだけだろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

13. 中川隆[-6892] koaQ7Jey 2021年3月06日 15:39:20 : aEPWmwZz6g : ZGV2Z1VubE9GcFE=[9] 報告

戦前の”経済格差”エリート会社員は高収入でモテモテだった
http://www.thutmosev.com/archives/73769851.html


戦前のサラリーマンはこんな恰好で銀座を闊歩していたが、10年後に防空壕で逃げ回る破目になった

引用:http://nakaco.sakura.ne.jp/sblo_files/nakaco/image/kankan5_04.jpg

戦前のサラリーマン社会

戦前というと何もかも暗く陰気で、閉鎖的で人々は困窮していた、と「知識人」たちは言いたがります。

そうしておいた方が自分たちが立派に見えるからそう言うのだが、事実ではないし戦前の人を貶めている。

昭和6年(1931年)頃までの日本では、消費経済や自由主義や平和主義が盛んで、大正デモクラシーと呼ばれています。


昭和5年ごろの世帯平均収入は年800円程で、日本郵船や一流企業の課長クラスは1万円を超えていました。

現在の世帯平均所得は540万円なので、当時の大企業の課長は現在の価値で6,750万円の高所得者でした。

一流企業の中でも三井や三菱はさらに別格で、ある重役の年収は100万円以上、現在の価値で70億円以上だったと記録されています。


するとこうした財閥企業の創業者一族ともなると、一族の収入は年間数百億円にも達していたと推測されます。

当時のアンケートでは女性にもっとも人気がある職業は一流企業のサラリーマンで、次が公務員、医師や弁護士はそれより下でした。

戦前には「サラリーマン」はホワイトカラーの事務職、手が汚れない仕事をしている人を指し、工場作業員は正社員でもサラリーマンではなかった。


油まみれ、泥まみれの作業員に対して、事務職のサラリーマンは女性から見てカッコ良く、おしゃれに映っていたようです。

労働者が日の丸弁当を食べていた時代に、東京のサラリーマンはランチは外で、女子社員を誘って洋食を食べていました。

丸の内のビル街には寿司屋、洋食屋、和食に定食など外食店が所狭しと並び、大変賑わっていたそうです。

儚かった戦前の自由経済

当時のメニューは寿司、カレーライス、丼物、パスタ、パンとコーヒーなどが、現在の価値で1,000円以下でした。

コーヒーと軽食のモーニングのようなのも既に有り、食事の半額の、現在の500円以下程度の値段でした。

都会ではこうした欧米風の暮らしをしていた一方で、9割以上の農村では江戸時代とあまり変わらず、人力と牛馬が日の出から日没後まで重労働していました。


この格差が戦前の日本経済を破綻させた原因であり、東京のおしゃれなサラリーマンはバブルの浮き草のような存在でした。

戦前は凄まじい格差社会で、人件費は安かったがそれ故に経済は脆弱で、米大恐慌が起きると一たまりもありませんでした。

1929年(昭和4年)にNYで大恐慌が起き、1931年(昭和6年)に満州事変が起きてから、日本人の生活は急速に悪化した。


兵士の家族が借金のカタに売られたりしたため動揺し、1936年(昭和11年)には軍部がクーデターを起こし(226事件)日本は軍事独裁に移行しました。

おおまかに言って昭和10年(1935年)から軍事態勢に移行したが、昭和一桁は戦争と無縁の、平和な時代でした。

大正時代から昭和1桁までは自由競争や自由経済、平和主義や共産主義がブームで、現代と似た時代でした。


父親がサラリーマンの家庭は裕福で、子女らもおしゃれな恰好をしていた
o0500050013004042213
引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20140715/18/biz-suitstyle/d1/67/j/o0500050013004042213.jpg

軍事経済はなぜ失敗したか

好景気の時には自由主義はうまく行っていたのだが、米大恐慌で不況になると、軍人の姉妹が人買いに売られる状況になりました。

行き過ぎた自由主義経済の負の部分が表面化し、日本陸軍の若手将校らが決起してクーデターを起こし、民主主義時代は終了しました。

昭和の軍国主義の原点は、大正時代の行き過ぎた自由主義にあり、破綻した経済を軍部が主導して再建しようとしました。


軍部主導の経済は最初はうまく行っていたのだが、大陸への領土拡大と入植によって成長するプランは、上手く行きませんでした。

例えば朝鮮では急速に人口が増えたため、食料や予算が不足して日本から送る有様で、利益どころか日本の負担になりました。

満州国も同様で開発に膨大な投資をしたが、終戦まで何の利益も上げませんでした。


日本軍は「領土さえ増やせば経済は発展する」と考えていたが、現実には増えた領土の人を養うために、国力を浪費しました。

満州を開拓すれば日本の食糧危機は解決すると言っていましたが、逆に満州を開拓し維持するために、日本の資産が使われました。

これが軍人が考えた経済の限界で、最初は上手く行っていたとしても、早期に軍事体制を終わらせるべきでした。

http://www.thutmosev.com/archives/73769851.html

14. 中川隆[-4538] koaQ7Jey 2021年5月29日 10:59:16 : GnRMpOkTQU : R25CMktuWjhaeFE=[26] 報告
2021年05月29日
岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_31.html

 小学館より2020年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。

https://www.amazon.co.jp/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E9%8C%A0%E5%A4%AA%E9%83%8E%E4%BC%9D-%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A7%E6%9A%97%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%AD%A6%E8%80%85%E5%B0%86%E8%BB%8D%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%9D%9E%E6%88%A6%E6%80%9D%E6%83%B3-%E5%B2%A9%E4%BA%95-%E7%A7%80%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4093887470

本書は、二・二六事件で殺害された渡辺錠太郎の伝記です。渡辺については、学者肌の軍人だったことと、二・二六事件で殺害されたことくらいしか知らず、愛知県出身であることも、子供の頃に母親の実家に養子に入ったことも知りませんでした。厳父と賢母に育てられて鍛えられた渡辺は、養子に入って養父には愛されたものの、養母は渡辺を歓迎しなかったようです。

 渡辺は家業の手伝いのため小学校には満足に通えなかったものの、読書には熱心だったようです。というか、渡辺は子供の頃から向学心が強く、貧しく中学に通えないなか、1894年、優秀な成績で士官学校に合格します。渡辺を見下す役人もいましたが、渡辺を支える身近な人もおり、渡辺は努力家であるだけではなく、子供の頃から人格も優れていたようです。渡辺の士官学校の同期には、林銑十郎がいました。士官学校卒業時の渡辺の成績は206人中4番で、林は15番でした。士官学校8期生ではこの2人が大将まで昇進します。

 渡辺は士官学校卒業後、鯖江に4年間赴任し、その間に陸大に入学し、主席で卒業します。日清戦争が始まった年に士官学校に入学した渡辺は、日露戦争時には大尉に昇進しており、乃木希典司令官の第三軍に属する中隊長として出征します。第三軍は旅順攻防戦で多数の戦死者を出し、渡辺は1904年8月の第一回旅順要塞総攻撃で負傷し、野戦病院へ搬送されます。渡辺の部隊は第9師団に属しており、第9師団は旅順攻防戦で全滅に近い損害を受けたので、渡辺も負傷しなければその後の運命はどうなったか分からない、と本書は指摘します。渡辺は後に日本に送還され、傷が完治した後、大本営陸軍幕僚附、参謀となり、終戦を迎えます。

 日露戦争後、渡辺は山県有朋の副官となります。渡辺は山県に気に入られ、渡辺は山県を尊敬していたようです。細かい山県により、渡辺は終世勉強する習慣を身に着けたのかもしれない、と本書は評価します。軍人として渡辺にとって大きな転機となったのは第一次世界大戦でした。渡辺の最初のヨーロッパ留学先はドイツでした。日本の軍人(の一部)にも大きな衝撃を与えた第一次世界大戦の視察のため、渡辺は1917年にオランダ国公使館付後武官として派遣されます。ドイツではなくオランダなのは、日本とドイツが交戦関係にあったからです。ドイツ降伏後、渡辺は講和条約履行委員としてドイツに入国します。渡辺は1919年4月から約1年ドイツに滞在しました。

 渡辺は第一次世界大戦に大きな衝撃を受け、総力戦となった以上、負けた場合はもちろん勝っても国民は悲惨な目に遭うと考え、非(避)戦のための軍備を主張するようになります。第一次世界大戦を踏まえた渡辺の教訓は、安易な戦線拡大や精神論偏重の不可、情報通信の重視など、多岐にわたっていました。中将昇進後に陸大校長に任命された渡辺は、自身の軍事思想に基づいた教育を進めようとしますが、軍上層部には容れられず、1年も経たずに旭川の師団長に転任となります。渡辺はこの時、退役が近いと覚悟していたようです。

 航空機の重要性に早くから着目していた渡辺は、1929年3月に航空本部長に就任します。渡辺は、空襲の脅威とそれによる国民の動揺を強く懸念していました。国民の動揺は合理的な軍事および政治外交判断を制約し、戦況に悪影響を及ぼしかねない、というわけです。こうした懸念の根底にあるのが、第一次世界大戦により総力戦の時代に突入した、との認識で、それ故に渡辺は、防空には軍民一致が必要と主張します。その後、台湾軍司令官に就任した渡辺は、霧社事件の鎮圧で批判も受けましたが、昭和天皇からは労われたことにたいへん感激したそうです。

 渡辺は台湾から本土に戻った後、再度航空本部長に就任し、1931年8月、大将に昇進します。渡辺が大将に昇進した頃の陸軍には、「革新」を主張して政治的野心を隠さない軍人がおり、この後から二・二六事件にかけて、派閥争いが激化しました。渡辺は政治活動には関わろうとせず、三月事件後に橋本欣五郎からクーデタへの参加を誘われたさいにも、これを一蹴しました。このように陸軍の派閥争いから距離を置いていた渡辺ですが、皇道派の荒木貞夫と真崎甚三郎の専横を苦々しく思っていたようで、同期の林に協力する形で皇道派を陸軍中枢から追いやり、1935年7月、真崎は教育総監の座を追われます。真崎の後任は渡辺でした。こうして林を支えて粛軍に乗り出した渡辺ですが、翌月に林が頼りにしていた永田鉄山は殺害されてしまいます。これは渡辺にとっても大打撃となりましたが、渡辺は永田殺害に怯むことなく、真崎を追及し続けます。これにより、渡辺は「反皇道派」の中心的人物の一人として攻撃対象となります。

 この時期、渡辺に対する批判をさらに強めた原因になったのが、天皇機関説問題でした。渡辺の将校への訓示が、天皇機関説養護として大問題になりました。しかし、渡辺は天皇機関説についての議論を整理し、軍人は山県有朋のように慎重な態度をとるべきで、本来の職務に専念すべきというものだった、と本書は指摘します。またこの時期、林陸軍大臣の後継として渡辺を推す動きもあり、渡辺は陸軍における権力闘争に関わっていくことになります。渡辺に身の危険を知らせる人は少なくなかったものの、渡辺はすでに死も覚悟していたようです。

 こうして皇道派の主要な標的の一人とされた渡辺は二・二六事件で殺害されましたが、殺されなければ、その後の日本の動向は変わっていた、と評価する人もいます。本書は最後に、渡辺の遺族と渡辺を殺害した遺族との間の交流も取り上げており、考えさせられるところがありました。本書は、さまざまな史料から渡辺の人物像を描写するとともに、渡辺を時代の大きな流れ・構造の中に位置づけており、たいへん興味深く読み進めることができました。本書を読み、渡辺の勤勉さと自律には倣うべきところが多々あるとは思うものの、率直に言って、怠惰な性分の私にはとてもできない、とも思います。情けない話ではありますが。

https://sicambre.at.webry.info/202105/article_31.html

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