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三島由紀夫の世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/451.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 04 日 22:50:40: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 川端康成の世界 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 27 日 19:27:00)

幻の映画「Mishima」〜三島由紀夫とは何者だったのか?
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/533.html  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
1. 中川隆[-13092] koaQ7Jey 2020年3月04日 22:52:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[441] 報告


幻の映画「Mishima」







ミシマ:ア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ
監督 ポール・シュレイダー
原作 三島由紀夫
出演者 緒形拳、坂東八十助、佐藤浩市、沢田研二、永島敏行
音楽 フィリップ・グラス
2. 2020年8月15日 05:00:56 : XAcXkcJt3k : TjQybE9UVUxDQy4=[1] 報告

三島由紀夫に関する病跡学的試論
https://www.shukugawa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2013/11/bulletin201203_6.pdf

3. 中川隆[-11792] koaQ7Jey 2020年8月18日 06:59:00 : wMNaZtQUxg : d3ZObTZIaS8yN1E=[5] 報告
絶密 三島由紀夫 封印された「割腹自殺」の後日談 恋人に残した「手切れ金」と「愛」出典雑誌「怖い噂」vol.14ミリオン
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/616.html


まず、版ちがいだったら申し訳ありません。
どこまで信用していいものか、コンビニに売っていた雑誌からなのですが、ついつい三島の名前があって購入して読んでしまいました。
三島が自分のことを「あたい」と呼んでいたところが何とも言えないですが、彼なりの露悪主義で悪女風に自分を表現していたのでしょうか。
登場人物のS太郎は言わずもがなのあの人最近知事から新党を結成した人ですな。もう高齢。作家Mは誰か私は分かりません。だれかご存知ならご教示頂きたい。
では本文始まり始まり。

以下転載
命より守らなければならない絶対の秘密を中国語で「絶密」という――
三島由紀夫が割腹自殺を遂げた後、大森の三島邸で起こった「事件」は本誌前号でお伝えした。(残念ながら前号を持っていない)
 そして今度は筆者が三島由紀夫を深く知る人物から聞いた話である。
 この話もまた現在まで封印され続けてきた「絶密」であった。

 この話は作家Mの自宅で聴いた。Mは綿矢りさが十九歳で芥川賞を取るまで史上最年少で芥川賞を受賞した作家だった。またMと同じく二十三歳での重症は石原S太郎・大江健三郎。村上龍と並ぶが、なかでも石原S太郎は「文学新人賞」から「芥川賞」という、Mと同じ小説家の登竜門としては王道中の王道で歩んで来た先輩作家だった。そこで『文学界』編集部が、この二人を対談させた。
 一九六七年(昭和四十二年)春、三島由紀夫が割腹する三年半前のことだ。

対談終了後、S太郎がMを飲みに誘った。まだ若くて文壇のイロハも知らないMは喜ぶも断るもなくS太郎の背中に従った。しかし、Mはアルコールを一滴も口にしない。酒場まで付き合っても、西部劇に出てくるお尋ね者よろしく「ミルク!」と叫ぶ。しかし、ミルクを飲む男が相手では、さすがのS太郎もつまらなかったのだろう。早々とバーを退散して、二人で東京の街をふらふらし始めた。

「ところで、M君。ここにおもしろい男が住んでいるんだ。」

S太郎が目の前の高層マンションを顎でしゃくって両目をぱちくりする。

「えっ、誰です」
Mもメガネの細い目いっそう補足して怪訝そうに訊いた。

「うん、三島さん男だ」
「えっ、男ですか」

Mはびっくりした。右翼的な発言や行動を繰り返す三島と「男を囲っている」という行為がそぐわなかったからだ。S太郎の話によると、三島由紀夫は七人の男を囲っていて、それぞれにマンションの一室を与え、生活費を手渡している。もちろん、合計すれば、生半可な出費ではない。

「小説家って、そんなに儲かるのですか」
「いや、三島さんとかぼくとか、選ばれた数人だけはな」

Mはその数人の中に自分の名が入ることは、、未来永劫にわたってないだろうと直感した。

「会っていくか、三島のこれと会っておくのもいい経験だぞ」

S太郎が右手の親指を突き出した。しかし、Mは即座に断った。

「男には興味がありませんよ。またもし女でも、他人の女に興味はありません」
「そうか」

S太郎は唇だけ笑の格好にすると、右手を挙げてタクシーを停めた。

「新宿へ出ないか」
「いや、もうホテルに帰ります。明日の汽車が早いので」
「そうか」

S太郎は一人でタクシーの後部座席に乗り込むと、窓越しに片手を挙げて走り去っていった。Mはタクシーが見えなくなるまで、頭を下げてS太郎を見送った。

 三島由紀夫が切腹して、半年ほど経ったときだった。Mが上京して、たまたまS太郎と再会した。

「三島さんも無責任だな」

Mは七人の男の話を思い出して、S太郎に呟いてみた。すると、S太郎は多少口ごもりながら、こう反発した。

「でもな、三島さんはあの割腹自殺の直前に、七人の男のうち六人とは別れている。理由も告げずに手切れ金だけ手渡してさ。ところが、あのマンションの男にだけは、手切れ金を一円だってあげなかったし、別れ話も持ち出さなかった」
「ふむ、すると、三島の彼への愛は枯れていたのですかね。それとも過剰だったのですか」

Mの質問にS太郎は答えなかった。

若くて何事にも興味津々だった筆者は。Mからその高層マンションの場所を訊き出して、三島由紀夫が最後に愛した男を捜した。結果、彼はもうその場所に住んでいなかったが、住民票などをこまめにおって、居所を突き止めた。彼の口は重かったが、ある目的のために無職だったので、生活は楽ではなく、謝礼目当てなのかインタビューを受けてくれた。以下はその話をまとめた文章である。


「あんたとは別れない」

三島先生はそう言ってくれました。

「他の六人の男とは、もう縁を切ったの。しかし、あんたとは永遠よ。死んでも別れない。だから、手切れ金なんて渡さないわ」

ぼくは涙が滲んで来ました。三島先生にそんなに思われているなんて、幸せを通り越して、怖い感じすらしました。

「あんたに手切れ金を渡さない理由は、もう一つあるのよ。それはね、あたい(三島先生は彼の前では、ご自分をこう呼んだ)が百パーセントの絶対的な確率で切腹するとは限らないからなの。あたいの呼びかけで。すわっとクーデターが勃発すれば、あたいが自分の命を絶つ必要はなくなるのよ」

――― ちょっと待ってください。すると三島先生は、あなたにはあの憂国行動の計画を事前に話していたのですか?

「そう。ぼくにはなんでも話してくれた」

彼は少し胸を張ってそれから再び三島になりきって話を続けた。

「あたいの計画では。まず東部方面総監を人質に取ってバルコニーに出る。テレビクルーが到着するのを待って。そこでテレビカメラに向かって檄を飛ばす。なに、眼下の自衛隊員にクーデターを呼び掛けるつもりは端からない。全国に散らばっている『青桐の会』の仲間たちの、電波を使って呼びかけるのよ。
“命令系統を破ってちょうだい!”
“起ち上がってよ!”
“クーデターを起こすのよ!”
この呼びかけに呼応する動きが出るならば、あたいは切腹しなくてもいい。」クーデターの実行部隊に加わるだけですもの。こうなれば、生き残る確率だってゼロではないでしょ。でも『青桐の会』は優秀な組織。あたいの激では、きっと命令系統は打ち崩せないわね。そしたら、あたいはあたいの命を差し出すまでよ。“命よりも大事なものがある!”って叫んでさ。『青桐の会』の仲間も、さすがに胸を揺さぶられるでしょう。この言葉は戦後の民主主義教育へのアンチテーゼですものね。でもね、あたいはとっくに文学者じゃないの。言葉での勝負はしない。行動よ。行動で示したいの。切腹。本当に命を投げ出してみせるは。あたいの切腹を知って、『青桐の会』の誰か一人でも起ちあがってくれたら、それで成功よ。誰か一人でも起ち上がれば、会の存在が公になるでしょ。もう『青桐の会』の後には退けない。上から下まで全員がクーデターに加わるわ。どっちに出るかしら。あたいの予想では、九十九パーセントが切腹ね。でもね、一パーセントは、あたいの檄で、あたいの言葉で山が動く。この一パーセントに賭けて、あたいはあんたに別れを言わないのよ」

三島先生はぼくには「愛」を遺して、お金は残さなかったのです。仕方がありません、ぼくは自分で働いて生きて行くしかありません。当たり前のことです。幸いにも先生の親友の某小説家が大手の出版社の校正係を世話してくれました。

「三島先生の愛を独り占めしてぼくは生き抜くのだ!」

しかし、年が改まって、四十九日も過ぎた頃に、ぼくは自分の間違いに気がつきました。三島先生がぼくにお金を遺してくれなかったのは、先生が生還する可能性がゼロではないから、ではないのです。ぼくへの単純な未練の表現ではないのです。お金がなければ、この世では生きられない。心優しい先生は、ぼく以外の六人の男たちには。この世で生きていかれるように手切れ金を手渡しました。しかし、この世で生き抜いていく必要がないぼくには、お金なんて遺さなくてもいいのです。

「死んでもいっしょに暮らそう。永遠にいっしょに暮らそうってば」

 これが、先生からぼくへの、真のメッセージなのです。手切れ金をくれなかった、真の理由なのです。先生はとてつもなく優しい人だったのです。先生のぼくへの愛は、こんなに深かったのです。

「ねえ、早く彼岸に渡ってきてよ」
 先生が毎晩僕の耳元まで降りてきて甘い声で囁くようになりました。後を追うしかありません。あの世で永久に先生を抱き締めていたいのです。


その日から毎日スポーツジムに通い始めました。体中の筋肉を鍛え直したい。男らしく無駄のない、きれいな体を取り戻したい。それから三島先生に逢いにいくのです。死ぬ者が肉体を鍛えるのはへんでしょうか。変だと言うのなら、なぜ三島先生は割腹するのに、筋肉をつけたのでしょうか。これはぼくたちの“美”の問題なのです。
ジムで体脂肪を測ると十七%も、にまで上がっていました。これを十%以下にまで落としたい。これが叶ったら、旨を張って、三島先生を抱き締めにいこう。
先生は笑顔で迎えて下さるでしょう。
自害の方法も選らばなくてはいけません。肉体がぐちゃぐちゃになるのは避けたいのです。だから、先生のような切腹はまずい。同様の理由から、鉄道自殺は最も回避したい。首吊りは体内の糞尿が、みんな流れ出てしまうと聞いています。ガスを吸い込むと、肌がピンクできれいだとは聞いていますが、周りの部屋も吹っ飛んだりしますから、アパートやマンション向きではありません。他人に必要以上の迷惑をかけるのは避けたいのです。水死は水ぶくれして、なんのためのジム通いかわからなくなります。残りは睡眠薬ですか。睡眠薬なら嘔吐は避けられない。嘔吐は糞尿よりかはマシですかね。
 ぼくの体脂肪率は、先生の新盆の頃から、八パーセントを保っています。そこで、「血行の日」の選定に入ったのです。すると。この日しか思い浮かびません。そうです、三島先生の一周忌です。

筆者は彼の話を聴いていて、不思議なことに、自害を止めようと思わなかった。そして、彼は本当に三島由紀夫の一周忌の、三島が割腹したのとほぼ同時刻に「後追い自殺」を遂行したのだった。(文中敬称略)
転載終了

本当に真実なのだろうか?昭和45年のジムで体脂肪率を測定できるのだろうか?
唯男性同性愛者の純愛的の方向性としてはあまり違和感が無いのでついつい信じてしまうのだが。赤江爆(これで正しかったかな?)の小説みたいだ。
まあ、三島がおぼっちゃんだった上に元官僚でベストセラー作家だったから七人の愛人を囲うこともできたかもしれないけど。美輪さんにでも実際のところお伺いしたいところである。美輪さんがこの話を読むと憤慨しそうだが。

4. 2020年9月12日 04:58:31 : yfVFU2YMo2 : eFFQYXluUmtGaXM=[3] 報告
「からっ風野郎」の映画のときに、オレが作曲料なんかとらなかったわけだ。そしたらお礼に、中華料理ごちそうしてくれて、ツバメの巣を注文した。ツバメの巣さえ食わせりゃ、オレにうまいものを食わせたと思っているんだ。

オレはあんな糸コンニャクみたいなもの好きじゃない。ギョーザのほうがよっぽどうまいよ。あんなもんは、値段ばかり高くって、全然うまくない。それを、ツバメの巣さえ食わしてやれば、うまいもんくわしてやったと思う、その考えがあさはかなんだ。値段とか名前で、ものごとを判断している。(深沢七郎)

5. 2020年9月12日 08:22:02 : yfVFU2YMo2 : eFFQYXluUmtGaXM=[5] 報告
『からっ風野郎』(からっかぜやろう)は、1960年(昭和35年)3月23日公開の日本映画。監督は増村保造。脚本は菊島隆三。製作は大映(大映東京撮影所)。作家の三島由紀夫が映画俳優として初主演した作品である[1][2][3]。傾きかけた落ち目な組の二代目ヤクザが敵対する組の殺し屋に命を狙われる中、惚れた女の一途な純情にうたれ堅気になろうとした矢先に殺されてしまうという異色のヤクザ映画である[4][3]。公開当時は、映画倫理管理委員会より成人映画(映倫番号11655)の指定を受けた[5][6]。

当時、既に高名な作家となっていた三島が、ヤクザの跡取りながらどこか弱さや優しさを持ったしがない男を演じ、相手役の若尾文子は激しく愛に生きるヒロインを好演して不慣れな三島をカバーした[7][3]。大映の専属俳優として正式契約し意気込んで華々しく映画デビューした三島だったが、その大根役者ぶりを酷評され、興行的にはヒット作となったものの俳優演技の難しさを痛感する経験となった[8][3][7]。

しかし三島にとってこの苦い経験は、その後の写真集『薔薇刑』の静止被写体に繋がり、『憂国』の自主製作映画化の成功や、準主役で出演した時代劇映画『人斬り』での好演にも繋がっていくことになった[2][7][3][9]。

公開時の惹句は、「文壇の寵児三島の情熱か! 映画界の増村の才気が若尾文子と組んで放つ最大の話題作!」[10]、「彼奴を殺ろせ! 出獄を待つ殺し屋の群れに挑戦する白いやくざ!」、「殺されるのは俺か! 恋人か! 怖るべき非情を爆発させる殺し屋の世界!」である[3]。併映は、田中重男監督の『東京の女性』(出演:山本富士子)[2][3]。

なお、映画公開から44年後の2004年(平成16年)の明治古典会七夕大入札会において、『からっ風野郎』の未発表写真(撮影:田島正)20枚とそのネガが出品された[11]。

製作の経緯

企画から記者発表

三島主演の企画
大映プロデューサーの藤井浩明は、三島由紀夫の長編小説『鏡子の家』の冒頭部の章が雑誌『聲』に発表されて以来その映画化を企画し、完結した書き下ろしの『鏡子の家』が1959年(昭和34年)9月に刊行されると同時に、市川崑に監督を依頼した[2]。市川崑は以前に『炎上』(1958年8月封切)で三島の『金閣寺』の映画化に成功していた実績があり、市川はすぐに快く承諾した[2]。大映の永田雅一社長も、三島の長編を市川崑でやる企画を報告すると、「乗った!」と会議にもかけずに即決した[2]。

ところがそんな折、三島と付き合いの長い講談社の編集者・榎本昌治が藤井に、「三島の映画をやらないか」と、三島の主演映画を作る話を持ちかけてきた[2]。榎本と藤井は親しい間柄であった[2][注釈 1]。三島はその同年、自作エッセイの翻案映画『不道徳教育講座』(1959年1月封切)でナビゲーター役としてほんの少し特別出演していたが、それ以前から自分が映画に出ることに興味を持っていた[1][2]。

榎本昌治は三島の直接の編集担当者ではなかったが、女性誌の『若い女性』の書籍出版部に在籍していた経歴があり、その渉外能力の高さで「冠婚葬祭係」の異名を持つ名物編集者として知られる豪放磊落なイメージの人物であった[12][3][13]。榎本は最初、この企画を日活に持ちこみ、三島と石原裕次郎の共演にしようとするが実現されなかった[12][3]。そこで榎本は大映に持ちこみ、三島が大好きな永田社長の大歓迎を受けた[2][12][3]。

三島原作映画化と三島主演映画という企画がバッティングしてしまったため、とりあえず『鏡子の家』の映画化の方は後回しにし(結局実現しなかった)、不調ぎみの大映を盛り返すために三島主演映画を製作することが決定となった[2][3]。1959年(昭和34年)秋に永田社長は正式に三島に映画主演を依頼し合意に至った[14][15]。この頃の三島は、渾身で発表した書き下ろし長編『鏡子の家』に対する文壇の不評に失望し意気消沈し始めていた時期で、気分を変えたいという心持ちを秘めていた[16][17][3]。

永田社長が、相手役の女優は誰でも好きなのを自由に選べと、京マチ子、山本富士子、若尾文子などの名前を挙げると、三島はすぐに若尾文子を選んだ[2]。三島は若尾のファンで、その「ポチャポチャとした」顔が好みであった[18][19][13]。

最初、永田社長は「三島由紀夫」という役でどうだと提案した[15]。しかし三島は「小説家」という固定観念を外したらどう見えるか聞き、永田社長は「二枚目の敵役で、崩れた役がよろしい。ヤクザっぽい役の方がいい」と言った[15]。三島は、「限りなく無教養な男」の役を希望し、「インテリの役というのは絶対勘弁してくれ」と依頼した[2]。

藤井は三島の了解を得て、監督を増村保造にすることにした[2]。当時日本映画界の期待の星であった増村は三島主演作の監督をすぐに引き受けた[2]。三島と増村は東京帝国大学法学部時代の同級生の間柄で顔見知りであった[20]。三島は増村に、「自信のあるのは胸毛だから、よろしくお願いします」と挨拶し、脚本を担当することになった白坂依志夫には、濃厚なラヴ・シーンを注文した[15]。

「俳優宣言」
「ラッパの永田」という異名を持つ永田雅一社長は、さっそく芸能記者らを帝国ホテル新館に集め、サプライズ記者会見を1959年(昭和34年)11月14日に開いた[3][21]。記者会見の時間は、ちょうど松竹が『銀嶺の王者』の撮影で招いたトニー・ザイラーが来日する数時間前にぶつけた[7]。社長が「ラッパ」だけに芸能記者らはあまり期待していなかったが、山本富士子の結婚発表かもしれないと集結していた[3]。

ところが、作家の三島由紀夫(34歳)が大映と俳優の専属契約を結んだと発表され、三島本人が「新人の三島でございます」と登場したので、ドッと会場が笑いに包まれた[3][7][21]。永田社長は、「西にコクトー、東に三島、東西軌を一にしてだな…」と語り出した[15][21]。三島主演の俳優デビュー作は、三島のオリジナル作を白坂依志夫が脚色し、増村保造監督で来春公開予定、撮影は2月からと告知された[22][23][3]。この時はまだ相手役は発表されなかった[15]。

記者会見上で三島は、「文士とかインテリゲンチャーということは捨てて、”くずれた”ような役がやりたい。そして内容のあるアクションなどですね」と抱負を語り、瑤子夫人の反対は「亭主の権力で押さえつけました」とジョークを交えながら会場を沸かせた[22][3][7]。瑤子夫人は夫の映画出演に猛反対したが、永田社長が彼女の実父の杉山寧を動かして説得した[21]。

三島の映画主演のニュースは、「俳優宣言をした三島由紀夫」、「不敵に笑うタフガイ文士」などの見出しで大々的に各スポーツ新聞や週刊誌、一般紙で報じられた[23][3][7]。わざわざ三島宛てに、「お前が映画俳優になれる顔かどうか、鏡をのぞいて見るがいい」といった中傷の手紙を出す輩もいた[21]。

犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。ぼくら小説家は、いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだが、たまたま今度の場合、ぼくが俳優になるのは、人間が犬にかみつくやうなものだから、それでニュース・ヴァリューがあつたのかもしれない。
— 三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい――ヒロインの名は言へない」[15]
新聞や週刊誌などでは、三島の主演映画は何になるかに関心が集まり、当初は『カルメン』の翻案映画にするという企画もあった[21][3]。三島は自衛隊くずれのドン・ホセ的な主人公で、エスカミリオにはプロ野球選手役の川口浩を配し、三島は娼婦のカルメンに裏切られて死ぬという筋書きで、脚本担当者の白坂依志夫の談話付きの記事もあった[24][3][21]。しかし、オットー・プレミンジャー監督の映画『カルメン』が日本で公開される話があり、この企画は没となった[21]。

三島の「俳優宣言」のニュースは文壇でも注目された[21][3]。三島は記者会見の数日後にフランキー堺と対談していたが[25]、大岡昇平はそれを読んで、「フランキー堺が、映画俳優三島由紀夫に猛烈なライバル意識を燃やしている。これでお前が三枚目だってことが確認できた」、「性格俳優的なことをやれば、三島君はうまくやるだろう」と談話を寄せた[12][21][3]。

十返肇は、「あんな長い顔でクローズアップしたらどうなるだろう? ドン・ホセじゃなくてドン・キホーテじゃないのか」と皮肉的にコメントし[21]、五味康祐は、「文壇のためには繁栄でまことに結構」と激励した[12][3]。大宅壮一は、「追いつめられた大映の救いの神になるかどうか」、「とにかく作家としても第一人者である三島氏にとっては積極的な経験となるだろう」と応援しながらも、「彼はスターとしてあるいは失敗するかもしれない」とも懸念していた[12][3]。

脚本作り
競馬の騎手役「肉体の旗」
最初、藤井浩明プロデューサーが脚本を白坂依志夫に起用したのは、三島由紀夫原作の映画『永すぎた春』でも脚本を担当していた経験があったからだった[2]。多忙な藤井は白坂と三島の2人で打ち合わせをしてもらった[2][注釈 2]。

案に難航しながらも「インテリをやりたくないんだったら、じゃあ競馬の騎手をやろう」と話が進み、白坂は「凄い名馬に乗る競馬の騎手が、八百長やる話」という『肉体の旗』というタイトルの脚本を作り、三島も乗り気で喜んでいた[2]。三島は乗馬をやっていたことがあり、体型も割と小柄であったため適役と思われた[14][2]。

三島の主演映画ということもあってか、本読みには永田雅一社長をはじめ重役も参加するという異例の環境で行なわれた[2]。白坂の脚本は、腕の良い競馬騎手が弾みで落馬し、大穴のレースになったために競馬ファンから八百長として吊るしあがられ、愛人の女馬主からも棄てられてしまい、サンドイッチマンとして落ちぶれていくという展開で、目を悪くしたその八百長騎手がカムバックした後、ビッグレースで一旗揚げることを賭け英雄的勝利を目指すがゴールと同時に死んでしまうという結末で、よく出来ていたストーリーだった[2][14][21][11]。

ところがその本読みの時、突然永田社長が、「お前何考えているんだ! 俺を誰だと思ってるんだ、俺は中央競馬会の馬主会会長だ」と怒鳴り始め、「中央競馬が八百長だって、そんなの絶対できない!」と一喝されてしまった[2]。藤井らは社長に平謝りし、その脚本は没となった[2][11]。

新たな脚本「からっ風野郎」
映画出演のために三島由紀夫が2か月もスケジュールを空けていたため、藤井浩明は早く新しい脚本を手配しなければならず思案していたが、ふと菊島隆三が石原裕次郎を想定して書いていた脚本があったことを思い出した[2]。その脚本の結末は石原裕次郎のイメージを崩すとの理由と、日活のスター裕ちゃんを殺すことはできないということでお蔵入りになっていた[3][21]。

藤井はすぐさま菊島に電話を入れ、その脚本をどこにも売っていないことを確認すると、三島と共に菊島の元に飛んで行った[2][3]。その菊島の脚本は、もの凄く強いヤクザの二代目が最後に殺し屋に殺されてしまうというストーリーで、三島はそれを読んだとたんに惚れ込み、「やる! これでいきましょう」と大喜びしてその場で即決となった[2][3][26]。

それが原型の『からっ風野郎』の脚本であった[2]。1月26日付の日刊スポーツに、三島主演映画の脚本が白坂依志夫の『肉体の旗』から、菊島隆三の『からっ風野郎』に変更になったことと、共演者が若尾文子のほか、船越英二、野添ひとみ(のちに水谷良重に変更)になったことが報じられた[27][3][28]。

撮影
脚本手直し
『からっ風野郎』の撮影のため、三島由紀夫は1960年(昭和35年)2月1日に大映多摩川撮影所に入り、増村保造監督やスタッフとの打合せや、記者会見が行なわれた[3][28]。2月4日にはスチール撮影が行なわれ、1週間の準備期間の後の2月8日に映画本編の撮影がクランクインした[3][28]。昼夜逆転の文筆生活と異なり、調布市の撮影所に向うため朝7時に起床し、夜10時に就寝というのが三島の基本生活となった[26]。撮影期間中は禁酒もした[26]。

劇作家でもある三島は、文学座や俳優座で何度も俳優たちの稽古に立ち会い、自身もちょっとした端役で舞台に立ち、文士劇にも何度も出たりしていたため、素人ながらも多少は演技の経験や自信もあった[7][3]。しかし撮影に入ると、勝手が違う映画撮影で上手くいかない三島の演技は何度もテストが繰り返され、OKがなかなか出されず、初日から「三島さん、あんた、まるで猿のようだね!」と増村監督の檄が飛んだ[14][21][7]。

私は何か病気なのではないか? カチンコが鳴つても一向ドキドキしないのである。これは何か心臓に欠陥があるのではないか? もつとも今のところは、演技なんてものではなく、監督さんが「頭をかけ」といふところで頭をかき、「ウィンクをしろ」といふところでウィンクをする人形にすぎない。人形といつてもあんまり可愛い人形ではないが。今自分が誘拐しようといふ子供にウィンクするところでは、内心困つた。私は昔からウィンクができないのである。ウィンクしようと思ふと、両目をつぶつてしまふのだ。これも何かの病気だらう。
— 三島由紀夫「出演の弁」[29]
菊島隆三のオリジナル脚本では、主人公は石原裕次郎のようなタフな人物像であったが、増村監督はその役柄を不器用な三島の演技に合わせ、「二代目だけど、気が弱くて、腕力がなくて、組の存続も危ぶまれる、気がいい男」という性格に変えることにし、脚本を手直しすることになった[2][3][8]。

シナリオではヤクザの二代目朝比奈は剛健で利発な男になつてゐたのだが、間のびしたぼくの仕草やセリフではどうしてもその味が出せないのだ。そこで困り抜いた監督はさつそくぼくを間が抜けて、ケンクヮも気も弱いヤクザに作り変へてしまつた。作り変へてはじめてなんとか見られるやうになつた。これなど監督の前では、完全にオブジェに過ぎないぼくだつたわけだ。
— 三島由紀夫「映画俳優オブジェ論」[8]
芸術家肌で職人気質の増村監督は、一つの作品としての『からっ風野郎』を自分の納得できるものにしたかった[3][2]。三島のキャラクターに合わせた脚本に作り変えたことは、結果的に映画としてそれなりに良いものが出来上がることになっていく[8][2]。それは増村監督だからこそ出来た技であり、「限りなく無教養な男」という三島の希望に沿いつつ、作品と三島の素材を生かした選択であった[2]。

撮影が進むにつれ三島は、「とにかく映画俳優というものは大変な商売で、単なる素材では、やり通せるものではない」ことが分かっていき、「演劇と映画の演出の違ひ」を実感として理解していった[8]。撮影に入る前の三島は、「映画俳優は極度にオブジェである」として、俳優の演技は「いちばん行動から遠いもの」であり、意思を持たない完全な客体だと思っていたが[15]、実際に映画俳優というものを体験してみると、そんな単純なものでもなかった[8]。

しかしながら、主役の三島の素材に合わせて脚本が作り変えられたことなど、自分自身に限って言えば、増村監督の前では「完全にオブジェに過ぎないぼく」を味わった三島だった[8]。

映画スターは単なるオブジェに過ぎないなどと広言してセット入りしたぼくだが、この考へは間違つてゐたやうでもあるし、間違つてゐなかつたやうでもある。間違つてゐたといふことからいへば、とにかく映画俳優といふものは大変な商売で、単なる素材では、やり通せるものではないといふことだ。共演した船越英二さんや若尾文子さんの演技を見てくれれば、それはわかるといふものだ。
そしてぼくの場合に限つていへば、間違つてゐなかつたといふことの方が本当だし重要だ。(中略)ともかく今度の映画出演で、ぼくはぼくのもつてゐる性格とか気質の側面をはしたなくもさらけ出したことになつた。これはふだん私小説を軽視してゐるぼくが、とんでもないところで私小説的なものを露呈した格好になつたわけで、まづは苦笑といつたところだ。
— 三島由紀夫「映画俳優オブジェ論」[8]
撮影は、調布市の多摩川大映撮影所のセットのほか、中野の宝仙寺(雲取大親分が招待した法事のシーン)、渋谷桜丘のリキパレス(力道山が経営)の横の産婦人科医院、多摩川京王遊園地などでロケが行われた[14][30]。

撮影所やロケ現場には三島を激励するために、川端康成や岸田今日子[31][11][13][32]、背広姿の市川雷蔵なども見学に来た[33][34]。川端康成は予告篇の撮影にも参加した(実際には使用されず)[21]。

増村監督のしごき
増村保造は元々俳優に厳しく毒舌家の監督であったが、三島に対するしごきはさらに苛烈で、容赦なくズバズバと下手な演技を貶した[14][2][3]。そのしごき方は全く手加減などなく、三島が有名作家だからといってお客様扱いや旦那芸として見逃すという甘い考えは増村にはなかった[20][2]。監督を引受けたからには、同級生の三島が世間から笑われないような芝居にしなければ駄目だと、増村監督は見かねた藤井浩明にも言っていた[20][2]。

しかしながら、その演技指導のやり方はスタッフの予想をはるかに上回り、「いじめ」や「いびり」にも見えた[14][21][7]。新人として丁寧に挨拶をし、撮影現場でも腰を低くしている三島に対し、演技が下手だからといって、生活能力や身体能力を否定するかのようなパワハラの酷い暴言を増村監督は浴びせていた[14][21][7]。

「俺はあいつと同級生だからあれくらいやったんだ」って言うけど、そうじゃなくても増村はかなりうるさいですからね。「三島さん、何ですか! その芝居は!」って感じで。「三島さん、あなたのその目はなんですか? 魚の腐ったような目をしないでください!」って酷いことを言う。スターに言っちゃいけないようなことを、バンバン言う。皆、ハラハラするんですよ。
— 藤井浩明「映画製作の現場から」[2]
しかし三島は増村監督の口汚い罵倒に耐えながら黙って従い、弱音を吐くことなく1人の俳優に徹していた[14][35]。監督として俳優の自分に真剣勝負を挑んでいることを感じていた三島は、どんな屈辱的な言葉でボロクソに貶されても、途中で投げ出すことはなかった[2][3]。藤井浩明は、「三島さんは偉かった。あれ、普通だったら喧嘩しますよ」と振り返っている[2]。

共演者の水谷良重は三島と古くからの友人でもあったため、「先生、何故いわれっぱなしにしてるのよ。先生がやんなきゃ、私が代わりに喧嘩しようか?」と耳打ちするが、三島は、「いいんだよ、これで。増村はぼくと同級生だったから、威張りたいんだよ」と制して、良重との濡れ場を撮り終えた[36][21]。

相手役の若尾文子は、増村監督から暴言を言われている時の三島が気の毒で、その顔も見られなかった[35][37][13]。自分の出番がない時にはセットの隅で三島さんのシーンが無事にいきますようにと若尾は祈っていた[35][37][14][21]。

増村さんてそういう人ですけど、私の見た範囲ではあんなのはちょっとないですね。私はほんとに、もう嫌でしたね。陰で祈っていたわ。普通の人だったら、並みの俳優だったら、もう辞めてますね。だけど、私はあのときの三島さん、ああえらいなあと思ったわ。
— 若尾文子(中村伸郎・松浦竹夫・藤井浩明・葛井欣二郎・丸山明宏との座談会)「あの人はもういない」 [21][14]
撮影風景を取材した週刊誌の取材記者も、ワンカットに15回も三島にNGを出す増村監督の「罵詈雑言」を具体的に書き連ね、「文壇の寵児として、一段と高い流行作家の地位にあった三島氏には、ついぞ見られなかった光景である」と報じたりした[38][39]。その記者が三島に、「あんなヒドい言い方をされてなんでもないんですか」と訊ねると、「当り前ですよ。だってボクは俳優としてはまったくシロウト」と三島は答えて、監督の言いなりになることを当然と受け止めていた[38][3]。

ベストセラーの『永すぎた春』を担当した講談社の三島担当編集者・川島勝も、『永すぎた春』の映画がヒットしたことから、縁起担ぎのためかエキストラの端役(雲取一家の大親分の三下やくざ役)に駆り出されていて[注釈 3]、三島と若尾が産婦人科のシーンを演じているのを直接見学していた[14]。増村監督から「タイミングが合わない」と何十回もダメ出しされ面罵される三島を見かねたスタッフらが、「いいかげんにしてくれ」と増村を制する一幕を川島は目撃した[14]。だんだんスタッフたちは三島に同情を寄せるようになっていた[14][2]。

三島と同じ文学座にいた俳優の中村伸郎は、その頃の三島が演技を向上させようと一生懸命だったことを、「三島さんは、何とかしなくちゃいけないってんでね。あした撮影という場面をうちへ来て稽古してくれっていうんですよ。果物なんか持ってきてね」と回想している[37][14]。村松英子も、「演技っていうことが得意でないってことを自分でご存知でね。でも敢えてそれに挑んでいらっしゃった」と振り返っている[14]。

ラストシーンでの事故
大詰めを迎えたラストシーンの撮影では、数寄屋橋の西銀座デパートの三愛洋品店前でロケが行われた[3][30]。3月1日の深夜ロケでは、エスカレーターの上で殺し屋に撃たれる朝比奈役の三島が、仰向けに倒れたまま逆様の状態で死体となってエスカレーターで運ばれていくというクライマックスのシーンの撮影だった[3][2]。

三島はいつものように20回以上もテストを繰り返しやらされていた[14]。増村監督と三島の両者とも「鬼気迫る」ほどの熱心ぶりで、三島は疲労困憊の状態でもあった[40][14]。しかし、当時としては斬新なこのシーンの脚本を三島はとても気に入っていた[41][3]。

殺し屋役の神山繁は、「三島さんね、もっとパーンと派手に倒れなきゃ駄目だよ」とアドバイスした[2][3][注釈 4]。三島はそれを素直に聞き入れ、本当に思いっきり倒れて足を踏み外してしまい、もろに右後頭部をエスカレーターの段の角に強打し大怪我をした[2][3]。脳震盪を起こした三島はすぐさま虎の門病院に救急搬送されていった[3]。びっくりした若尾文子は、「何かあったらどうしよう」と震えてしまった[35]。

ゴツンも何も、とにかく仰向けに、ほんとに倒れちゃったんですから。三島さんは、それまでセットでどんなことがあろうと、さすがやっぱり大作家、笑ってらしたのね。けっして嫌な顔をしたり、増村さんと口論したり、なんてことはなかった。(中略)だけど、その倒れた瞬間、やっぱりご自分でしまったと思ったんでしょうね。顔色が変わったんですよ。それで初めてご自分のいままでの積もり積もったものが、パーッと出て。
— 若尾文子(白井佳夫との対談)「わが非凡なる監督たち」[35]
事故の知らせを聞いて病院に駆けつけた三島の父・梓は、「君たち、息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒して怒鳴っていた[14]。藤井浩明が「三島さんすみませんでした」と謝ると、三島は脳に支障が出るか不安だったのか「ムスッと」黙ったままだったという[2]。以前、三島にボクシング練習をやめた理由を聞いた時、「頭殴られたらね、頭がおかしくなっちゃうから。本業が出来なくなるから」と答えていたことを藤井は思い出した[2]。翌日3月2日には増村監督も三島を見舞った[28]。

三島はレントゲンで精密検査を受け、10日間ほど入院することになった[2]。検査結果が出るまで不安だったが、不幸中の幸いで特に問題はなかった[2]。事故を見ていた藤井は、「よくあれで済んだものです」と回想している[2]。一般見舞いの面会禁止が解かれた3月8日には、以前からファンだったという女優の宮川和子が見舞にやって来た[3]。その様子を取材した報知新聞に、「頭を打ったとたんに“映画的腫瘍”みたいなものがとれちゃったんだな。もう映画はコリゴリ」と三島は談話を寄せた[3]。

友人のロイ・ジェームスが見舞に来ると三島は、「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と駄々っ子のように喚いたという[42][2]。そんな陽気な冗談半分の軽口も飛ばせるほど、三島は元気に回復していた[2]。怪我が落ちつき3月10日に退院すると、三島は早速11日に撮影所に戻ってアフレコをし、12日から残りのシーンの撮影に再び入った[43][3][28]。

3月14日の午後9時半から行われた夜間ロケのラストシーンの撮り直しの際には、永田雅一社長や脚本の菊島隆三も監視役で立ち会い、万全体制であった[44][3][2]。2度と事故を起こしてはならないというピリピリした雰囲気がスタッフの間に漂い、神山繁ももう三島に何も言わなかった[2]。三島が演技をする前には、増村監督や助監督が危なくないか試してみるほど慎重に行われた[44][3]。

この夜間ロケは午前0時過ぎまでかかり、無事にラストシーン撮影が終わった。これで『からっ風野郎』の撮影がクランクアップとなった[44][3][28]。35日間にわたる全ての演技を終えた三島は、「“やくざぼんち”みたいな役柄」が自分の個性に合っていたのは幸いだったが、ラッシュを見ると自分のみじめさが目立ち、もう映画出演はもうコリゴリで「ブルブルですよ」とコメントした[44][3][45]。

それが、ぜんぜん新しい三島由紀夫がないんだ。やはり、これもオレなんだなと思う。ただフィルムの上の三島由紀夫は実にかわいいな。一生懸命やってやがるな、せまいワクの中でムキになってやがるな。……ちょうど、息を切らして走っているマラソン走者を見る感じて、かわいそうになったくらいだ。
— 三島由紀夫「俳優はもうゴメン?“三島由紀夫の演技”自己批判」[45]
幻の予告篇
『からっ風野郎』の予告篇の撮影には、三島の敬愛する川端康成までもが駆り出されていた[21]。この出来上がったフィルムは三島の申し入れによりお蔵入りになったが、以下のような台詞のやり取りであった[21]。

川端康成:お前さんは、永田社長の「網にかかった魚」だよ。
三島由紀夫:魚は魚でも、「腐っても鯛」になりたいですね。今の私は、「まな板の上の鯉」に似ています。
川端康成:「まな板の上」でも、若尾さんみたいに綺麗な魚と一緒に料理されるんなら、幸福じゃないか。
— 「『からっ風野郎』予告篇」[21]
なお、1960年(昭和35年)2月19日には、ラジオ東京の放送番組「ラジオ・スケッチ」で『からっ風野郎』の撮影の模様が放送された[28]。

スチール写真
三島由紀夫の「俳優宣言」の記者会見の後、その会見の模様を写真入りでまとめた『大映グラフ 新春特大号』(1960年1月号)と、映画パンフレットなどに使用されたスチール写真やロビーカード、撮影現場に来た川端康成の写真などが多数掲載された『大映グラフ 陽春特大号』(1960年4月号)が刊行された[11]。他にも『毎日グラフ』2月号には、撮影風景の写真が収められた[11]。

三島のブロマイド写真も3種類、東京浅草のマルベル堂で販売された[11][注釈 5]。三島は当時このブロマイド写真を絵葉書として知人の西久保三夫に送り、撮影が終わったことの報告と共に「ぜひ御覧の上御批評賜はり度」と記している[46][11][注釈 6]。他には、ロケ現場で女子高生たちに囲まれてサインをしている自然体の三島を捉えたプライベート写真(撮影:講談社の川島勝)などもある[11][48][注釈 7]。

新聞広告には、素肌に黒革ジャンを着て右手に拳銃を持ち、銃弾に撃たれた脇腹を左手で押さえながら前を睨んでいる三島の決めポーズの写真が掲載され[3]、街には、若尾文子を抱擁する黒革ジャンの三島の映画ポスターが張り出された[13]。

なお、雑誌『講談倶楽部』4月号では、三島が主人公の朝比奈武夫になりきって「オレ」という一人称で映画のストーリーを語っていく「『からっ風野郎』の情婦論」という文章も掲載され、「オレはなんだか、このメチャクチャな女のバカバカしい純情の中で、流行歌や純愛小説の主人公のやうな最後を遂げさうな気がする」と武夫の末路を綴っている[4][3]。映画上演記念として、蓋が赤で本体が黒のライターも宣伝用に配られたという[14]。

映画公開から44年後の2004年(平成16年)には、未発表写真20枚分とそのネガ20枚(全モノクロ・35ミリ)が明治古典会七夕大入札会において出品され、コレクターの犬塚潔が手に入れた[11][49]。

その箱には「三島由紀夫」と書かれ、撮影者の田島正の経歴書や連絡先が添えられてあった[11]。田島の話では、撮影日は1960年(昭和35年)2月の快晴の日で、雑誌『映画と演劇』(時事世界社、1960年4月号)に載せるため撮影されたものであった[11]。三島がピストルを持っているシーン、ビールを飲むシーン、椅子に座っているシーン、階段を下りてくるところ、春の日射しを受けて笑顔の写真である[11]。

発売された雑誌『映画と演劇』には8枚の写真が掲載されているが、その中の3枚が未発表写真の内のものと同じため、厳密にいえば17枚分が未発表写真となる[11]。田島は当時、時事世界社に頼んで使用されたネガフィルムを返却してもらい、保存していた[11]。黒革ジャン姿の三島は、田島のカメラの注文に素直に応じて、自らポーズをとることはなかったという[11]。

主題歌
主役の三島由紀夫が歌唱した主題歌「からっ風野郎」のレコードは、1960年(昭和35年)3月20日にキングレコードから発売された[50][51]。文学者の歌唱レコードが前代未聞だったため、新聞や週刊誌などで話題となった[7]。三島は、「毒を喰わば皿までもでネ、まア皆さんに悪口をいってもらうネタを一つ多く提供しようという私の親心です」とコメントしている[11]。しかし主題歌は、映画の中では使用されておらず、いくつかのシーンでかすかに流れるのみとなっている[3]。

作詞も三島で、作曲とギター演奏は深沢七郎が担当した[50][52][53]。深沢の方から作曲したいと三島に頼み込んだ経緯があった[54][注釈 8]。曲が完成したのはクランクインの2月8日で、16日に文京区音羽のキングレコードで吹き込まれた[28]。そのレコードを三島は知人にサイン入りで配っていた[14]。

あらすじ
昭和30年代の東京。

東京刑務所内の庭で111番の出所祝いのバレーボール大会が行われている最中、試合に熱中している111番囚人・朝比奈武夫に面会の知らせが来たため、同じチームの112番囚人が代わりに武夫の上着を着て面会に行った。面会の男は、「111番の朝比奈だね」と名札を確かめると同時に拳銃を発砲した。殺し屋は朝比奈武夫ではなく全くの別人を殺したのだった。

命を狙われた朝比奈一家の二代目の武夫は、なんとかその日に予定どおり出所した。殺し屋を仕向けたのは朝比奈一家と反目する新興ヤクザ「相良商事」の社長・相良雄作であった。そもそも武夫が2年7か月間も服役したのも、父の復讐で相良の足を刺したためだった。大怪我し後遺症を負った相良は武夫のことを個人的に恨んでいた。

出所した武夫は先ず、情婦のキャバレー歌手・香取昌子と映画館の2階にある部屋で落ち合った。昌子を抱き終わると武夫は非情にも、手切れ金代わりだと昌子のネックレスを奪い取り、さっさと彼女と手を切った。命を狙われている武夫に女はお荷物だったからだった。この映画館「コンパル」は朝比奈一家が支配人となっていて、2階は武夫の隠れ家だった。

映画館「コンパル」には武夫が初めて見るもぎり(切符係)の女・小泉芳江が働いていた。武夫は芳江から、「親分なのにちっとも怖くないもん」と言われた。ある日、芳江は町工場に勤める兄・正一に弁当を届けにいき、ストライキにまきこまれ、そのまま留置所に拘束された。

武夫の叔父・吾平は、相良を殺して来いとハジキ(拳銃)を武夫に渡した。そして相良との対決の機会が訪れた。大親分雲取大三郎からの法事の招待状が両者に届いたのだ。ところが当日、寺には相良はいなかった。それを知り武夫が帰ろうとしたところを、跡をつけた殺し屋・ゼンソクの政の銃弾が襲った。しかし、政がゼンソクの発作を起し弾丸が外れたため、武夫はなんとか左腕を射たれただけで済んだ。

留置所から出てきた芳江が、武夫がいる隠れ家「コンパル」の2階にやって来た。もぎり職を解雇されていた芳江は、再び映画館で雇ってくれと頼みこんだ。武夫がダメだと断り退職金を渡そうとすると、雇ってくれないと居場所をバラすと脅した。怒った武夫は無理やり芳江を手籠めにし、事の後「こうなったのもお前が好きだったからさ」と言い、それを機に2人は付き合うようになった。

ある日、2人が遊園地から出たとき、武夫は相良の幼い娘・みゆきを偶然見つけて誘拐した。そして相良一家が薬品会社から金をゆすろうとして手に入れたブツ(治験で死人が出て問題のある新薬)をよこせと相良に要求した。しかしその取引の待ち合わせ場所の東京駅八重洲口の構内には、朝比奈一家と相良と繋がりのある大親分雲取が仲介で登場し、薬の儲けは折半して両者手打ちにしろと命令した。武夫と相良はそれで一旦収めた。しかし相良は半分になった儲けのさらに半分を、雲取に仲介料として取られるはめになった。

芳江が妊娠した。武夫は、命を狙われている自分に子供ができると面倒なことになるから堕ろせと命じるが芳江はきかなかった。産婦人科に連れて行ったが抵抗され、帰り際、2人は昌子と鉢合わせした。自分と芳江との仲を昌子が相良に密告することを察知した武夫は、芳江を安全なところへ匿った。どうしても産むと言って聞かない芳江に根負けした武夫は、彼女と世帯を持つ決意をする。

そんな折、相良が芳江の兄を監禁して、朝比奈一家が取引で儲けた金で経営を始めたトルコ風呂の権利をよこせと脅してきた。芳江の身にも危険を感じた武夫は、九州の芳江の田舎へ身をかくすように命じた。武夫は舎弟で親友の愛川に、トルコ風呂の権利をくれと相談するが揉め、相良一家にピストル一丁で単身乗り込もうとする。愛川は無謀な武夫を諌め、トルコ風呂の権利書を相良に渡し、芳江の兄を救った。

一件落着し、愛川の勧めで彼と一緒に大阪で堅気になることに決めた武夫は、出産のため里帰りする芳江を東京駅まで送りに来た。発車まで30分しかなかったが、武夫は「オレのガキに野暮なものは着せられねえ」と、生まれてくる赤ん坊の産着を買いに、構内のデパートに走った。

しかし、売り場で待ち伏せしていたゼンソクの政に武夫は捕まり、その場で後ろから撃たれた。武夫はデパートのエスカレーターの上に転げ倒れた。武夫は必死にもがいて上りエスカレーターを下りようとするが絶命し、人垣の中、エスカレーターは武夫の死体を乗せ静かに上昇していった。

キャスト
出典は[56][57]

朝比奈武夫:三島由紀夫
主人公。つぶれかけているヤクザの朝比奈一家の二代目。
小泉芳江:若尾文子
武夫の隠れ家の映画館「コンパル」で働いていた娘。武夫を一途に愛し、妊娠する。
愛川進:船越英二
朝比奈一家の舎弟。武夫の兄弟分で親友。先代の親方に大学まで出させてもらい恩義を感じ、武夫の面倒を何かと見ている。実は堅気になろうとしている。
平山吾平:志村喬
武夫の叔父貴。先代の武夫の父亡き後、朝比奈一家を取り仕切っていた。相良を殺してこいと武夫に発破をかけハジキ(ピストル)を渡す。その武夫の身代わりには自分が刑務所に入ると意気込んでいたが、病身のため間もなく死去。
小泉正一:川崎敬三
芳江の兄。町工場で働いている。赤旗を振り労働争議の活動している。
高津綾子:小野道子
愛川進の恋人。朝比奈一家の向かいで高津薬局を営む薬剤師。親戚の誘いで大阪に転地しようとしているが、そこで愛川と世帯を持ちたいと考えている。
香取昌子:水谷良重
武夫の情婦だったナイトクラブ「カナリア」の歌手。バナナの歌を歌う。
相良雄作:根上淳
新興ヤクザ相良商事の社長。朝比奈一家と反目している。武夫に足を刺され後遺症が残り、それを根に持っている。
雲取大三郎:山本禮三郎
雲取一家の大親分。朝比奈一家とも相良とも繋がりがある。2人の間の取引仲介で漁夫の利を得る。
川瀬:三津田健
刑務所の所長。武夫から出所の延期を頼まれ断るが、隠密に出所させる計らいをしてやる。
ゼンソクの政:神山繁
相良に雇われた殺し屋。喘息の持病がある。
金沢:潮万太郎
朝比奈一家に出入りしている酔っ払いおやじ。
淀川:浜村純
もぐりの医者(闇医者)。薬物中毒。怪我をした武夫の治療をする。
錦貫:杉田康
相良の舎弟。
赤間:高村栄一
相良の舎弟(年長者)。ゼンソクの政とは網走刑務所で知り合った。
相良みゆき:矢萩ふく子
相良の娘。小学1年生。武夫に誘拐される。
村田:倉田マユミ
産婦人科・村田医院の医者。
半田三郎:小山内淳
殺す相手の顔も知らない殺し屋。武夫と間違えて別の囚人112番を射殺し逮捕される。
「カナリヤ」のマスター:守田学
武夫が刑務所にいる間にできた昌子の新しい情夫。
益子:伊東光一
岩崎:花布辰男
健次:飛田喜佐夫
稲宮:杉森麟
野沢:此木透
五郎:土方孝哉
山下:小杉光史
法事の受付A:山口健
法事の受付B:大塚弘
相良のばあや:須藤恒子
相良の運転手:津田駿二
商店街の肉屋のおやじ:佐々木正時
ほか、三角八郎、南方伸夫、原田詃、中田勉、湊秀一、谷健一、大川修、黒川清司

スタッフ
出典は[56][57]

監督:増村保造
脚本:菊島隆三、安藤日出男
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
美術:渡辺竹三郎
色彩技術:西田充
助監督:石田潔
照明:米山勇
録音:渡辺利一
編集:中静達治
装置:岡田角太郎
スチール:薫森良民、野上透
現像:東京現像所
製作主任:大橋俊雄
企画:藤井浩明、榎本昌治
製作:永田雅一
評価
『からっ風野郎』は娯楽映画としてヒットし興行的には成功したが、三島由紀夫の素人演技が浮き立っていたために、その演技力に対する酷評が集中し、増村保造監督の演出の腕の高さや他の共演者たちの好演が、三島の下手さをカバーしていたと評価された[7][3]。初主演発表の記者会見から撮影風景、事故の入院騒ぎなど、お祭り騒ぎのように三島に好意的だった芸能マスコミだったが、映画が公開されると、期待とは裏腹な主人公役の演技には厳しかった[7][3]。

日刊スポーツは、「やっぱりシロウト」と評し[58]、内外タイムスでは「俳優三島は台詞は堅いし目も死んでいる」[59]、東京中日新聞では、「作家三島のやくざぶりをたのしむほうがよい」とされ[60]、デイリースポーツでは、「セリフが遅く、ヤクザらしい気迫の裏付けがない」[61]、神戸新聞では、「まあ三島だからという点で、愛敬でみておれる程度」と評され[62]、総じて冷めた反応であった[7][3]。

三島本人も、九段会館で行われた試写会において、「映画は不思議な芸術で、私の場合、文学の中では決して人前に出すことのない、私の中にある滑稽さ、哀れさ、臆病さなどの秘密を白日の下に曝らしてしまいました」と自身の「弱み」を見せてしまったことを自嘲しながら、「この映画が、いわばフィルムによって書かれた私自身の私小説」だと自評している[63][3]。

小倉真美は、三島が自身と正反対の役と世界を醸し出すことを望んだにもかかわらず失敗したことについて、「映画の本質に対する三島の誤解と誤算にもとづく結果」だと解説し、三島の「不敵なマスクの面白さ」と、その「マスクの魅力が動く映画では更に発揮されるかと予想」していたが、映画の進むにつれて期待が裏切られていったとしている[63][3]。

そして、劇作家として直観力もあり、脚本を書き演出もする三島が、俳優となると、アクションと台詞の間に「なにか一ポイントの誤差が伴う」演技をし、「画面を支えられないほどのカンの悪さ」を見せてしまうことは皮肉だと小倉は評して、若尾文子の演技力の高さと三島の大根役者ぶりを比較し、「りきんで崩れる三島の稚技はまことに対照的で、玄人と素人の差を図式的に解説される思い」がしたとしている[63][3]。

しかし好意的な評価もいくつかあり、三島が知的な作家とは正反対の思慮のないヤクザを、ある意味では好演し、意外な優しさを合わせ持つ乱暴者という複雑なキャラクターが醸し出されているという意見もあり[7][64]、草壁久四郎は、そんな三島の演技力を「三島文学流の演技」と褒めた[64][11][21]。

いわゆる名士の特別出演とちがって、これは作家という肩書をとりさって、三島のもつキャラクターを生かそうというねらい。三島が演ずるのは朝比奈武夫というヤクザ一家の若い二代目、お人好しで気が弱い、およそこの世界には不向きな男だが、ヤクザの家に生れたばかりに足がぬけないし、またそうしたことに疑問さえもたない。そんな男を三島がわりとうまく演じている。セリフもまずくしろうとっぽいが三島の文体をおもわせる演技だ。
— 草壁久四郎「三島文学流の演技」[64]
山内由紀人は、作品全体の映画評として、「シャープでテンポのいい演出で最後までだれることなく一気にみせた」ストーリー展開を褒め、「パワフルで緊迫感のある映像によって、やくざの二代目親分になった男の悲喜劇を、シニカルに、時にユーモアをまじえて描いた」と、増村の手腕を高評している[3]。そして、映画の中で動く「オブジェ」になるのを望みながらも、なりきれなかった三島が最も輝いていたシーンが、ラストの死体だったのは皮肉なことだとし、そこがまさに三島が「静止した〈オブジェ〉になった瞬間だった」と解説している[3]。

井上隆史は、三島が俳優になってみたい根拠として「自分の意志を他人にとられてしまつたやうな、ニセモノの行動」に非常に魅力を感じると語っていたにもかかわらず[15]、実際の俳優体験では考えていたようにはスムーズに演技が出来ずに様々な誤算を実感していたことに触れながら、それでもその三島の苦闘ぶりと増村監督の演出が不思議に融合的な味を醸し出していることを、ある意味で評価している[17]。

実際、「からっ風野郎」を鑑賞する人は、「自分の意志を他人にとられてしまつたやうな、ニセモノの行動」[15]をする者としてのオブジェを見るわけではないのであって、下手ながら監督の命ずるままに必死で演技をしようとする三島、あるいは必死で演技をしてもやはり下手な三島の仕草や振る舞いが、否応なく眼に飛び込んでくるのである。
面白いのは、そういう三島の姿によって、弱気で知恵も足りないヤクザの生き様が思いがけなくリアルに表現されているようにも見えることだ。実のところそれは増村監督の計算の内だったかもしれず、この意味では「からっ風野郎」は増村映画の中でも異色の傑作と言いうるが、たとえ観客の何割かがそのように考えたとしても、三島本人にとって映画初主演の体験が深い傷になったことは拭い去りがたい。
— 井上隆史「『三島映画』の世界」[17]
増村保造と三島由紀夫
増村保造と三島由紀夫は、東京帝国大学法学部の同期生で、1944年(昭和19年)に法学部25番教室で初めて出会った[20][7]。特に親しい交友関係はないが、顔見知りであった[20][3]。増村と三島が初めて言葉を交わしたのは、戦争末期の1945年(昭和20年)5月から勤労動員された神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠の寮においてだった[20][3]。

私が三島さんと初めて会ったのは昭和十九年十月、東大法学部二十五番教室の中であった。太平洋戦争が終る前の年で、二人とも一年生だったが、三島さんはいつも教室の最前列に坐り、熱心に講義のノートを取る勤勉で明るい大学生だった。彼と初めて話したのは、勤労動員で陸軍のために毎日土堀りをやらされた翌年の五月、神奈川の堀立ての丸太小屋の中だった。既に小説家として知られていた三島さんは、明るく熱心に英国の詩人キーツなどを話題にして私たちと快活に真剣に話し合った。その丸太小屋から出征した私は、終戦後再び大学に戻ったが、選んだ課目やコースが違ったためか、三島さんと会うことも話すこともなかった。
— 増村保造「三島由紀夫さんのこと」[20]
三島と疎遠になってしまった戦後は、増村は大学卒業後に大映に助監督として入社し、再び東大の哲学科に入学した[3][21]。また、イタリア国立映画実験センターに留学するなど、勉強熱心で、理論派系、芸術家肌、職人気質でもあり、溝口健二や市川崑に師事した後、1957年(昭和32年)に監督に昇進となった[7][3][21]。

増村と三島は約15年ぶりに『からっ風野郎』の撮影前に大映多摩川撮影所で再会した[3]。顔見知りの2人が映画の打合せをし、三島がスチールの撮影に応じている時は、増村の三島への厳しいしごきが始まるとはスタッフも予想できなかった[2][3]。撮影現場での過剰な三島へのしごきは、会社の企画に対する不満の表れか、あるいは三島への対抗意識か、等々という噂が流れた[65][21][7]。

増村監督があんまりきびしくビシビシやるので、三島さんとの間にいろいろまずい感情の衝突やトラブルがあったのではないか、というような噂だが、私をして言わしめれば、増村が、どこか無意識のうちに自分は監督だぞ、という意識をもってエキサイトしておったのではなかろうか。普通の単なる学生とか、どこかのサラリーマンを引っぱってきたということなら、彼もエキサイトしないのだが、相手が大学の同級の三島由紀夫、しかも今をときめく文壇の鬼才だということが、彼自身の頭から抜けなかったのだろう。それが言動の上にも現われた。
— 永田雅一「俳優三島由紀夫論」[65]
市川崑は、「ワキ役に使うならともかく、三島さんの主役作品を引き受けるなんて、ずいぶんソソっかしい」と増村に言ったが、「ほかの人がやるよりは、僕の方が三島さんを生かせると思った。その意味で僕がいちばん三島さんを大切にしているといえるんじゃないか」と増村は自負していた[3]。

映画が完成し、増村が大田区の馬込東(現・南馬込)の三島邸に招待された際、三島の父・梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われた[2]。三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われた増村は、藤井浩明との帰り道で、「明治生まれの男は偉い」と、梓を褒めていたという[2]。

三島の死後、増村は『からっ風野郎』での三島の奮闘ぶりを振り返り、「どんなにしごかれても、半日テストを繰り返されても、三島さんは不平一つ言わず、何の反抗も示さず、黙々と羊のように従順にテストをやりつづけた」と敬服し、「大部屋の端役俳優ならともかく、一流の流行作家が私に何度も怒鳴られながら、一心になって一月間芝居をやり抜いたのである」と三島の根性を讃えた[20][3][14]。

その三島さんを見ていて、私は何と誠実で、真剣で、明るい人だろうと思った。『からっ風野郎』を撮り終って、三島さんの家に招かれて話したときも、バアに飲みに行ったときも、この三島さんの態度は全く変わらなかった。若い大学生のように快活で、素直で、真面目だった。
— 増村保造「三島由紀夫さんのこと」[20]
増村は三島の死の2年後に、『音楽』を映画化し、三島の描いた難しいテーマを映像化することに挑んだ[66]。

若尾文子と三島由紀夫
若尾文子と三島由紀夫の初めての接点は、三島原作の映画『永すぎた春』で若尾がヒロインの百子役になった時であった[13]。三島は個人的に若尾のような「可愛いポチャポチャとした顔」の愛くるしいタイプが好みであった[19][13]。1957年(昭和32年)4月に初めて『永すぎた春』の撮影が行われている大映多摩川撮影所を訪れ[67]、若尾らの演技を見学した三島は、脚本担当の白坂依志夫に、「何だかドキドキして、昨夜は眠れなかったよ」と言っていたという[68][13]。百子を演じた若尾について三島は、「正に小説の要求するヒロインの姿そのものズパリだつた」と喜んだ[19][13]。

『永すぎた春』の撮影がクランクアップした後、三島と若尾を中心にした座談会が開かれた[69][13]。三島は当時まだ独身で、正田美智子とお見合いをしていたという噂もあり、花嫁を探していた時期であった[70]。座談会の中で三島はなにげなく若尾に、「若尾さんはどうだい、ぜんぜん生活のかけはなれた人が好きになるということはないだろうね」と訊ねて探りを入れていた[13]。

『からっ風野郎』の主演をすることになった三島は、永田雅一社長の提示した大映の看板女優らから、迷うことなくすぐさま若尾文子を選んだ[2][13]。三島にとっては、「好きな女優と恋人同士になるのだから、こんな有難いことはない」ことであった[19][13]。

撮影に入り、増村監督にいびられながらも三島は水谷良重との濡れ場を撮り終えると、翌日には若尾を襲うシーンが待っていた[71][13]。「明日は若尾とベッドシーンだぞ!」と三島は妙にテンション高く興奮していたという[71][13]。

そんなミーハー的なファン意識や、自分の演技で手一杯だった三島も、少し余裕ができると共演者の演技を鑑賞するようになり、「氷いちごみたいな味覚」のような甘い居心地よさの可愛らしい若尾が見せる思わぬ演技力の本領を目の当たりにして、女優としての若尾の技量に感服した[18][19]。

私はこの撮影中、はじめて、(まことに遅い発見だが)「若尾文子といふ女優はタダモノではない」といふ発見をしたのである。(中略)今でも忘れられないのは、この映画のクライマックスで、強がりの弱虫ヤクザの私に、さんざん打擲されたあとの彼女が、それでもお腹の子はおろさないと頑張り、女の一念を見せるところの演技であつた。(中略)役柄の要求するすべての感情を投げ込み充実させて、しかも、その間の三段階の様式的変化を、リアルに融け込ませて、ちやんとした山場を盛り上げてゆく演技の、カンのよさ、自然さ、力強さは全く見事なもので、私はこれを見てゐるうちに、私の役柄において、百パーセント、彼女に惚れ込むのを感じたのである。
— 三島由紀夫「若尾文子讃」[19]
撮影の合間、三島は若尾に自分の次の小説『お嬢さん』の構想を話した[72][13]。『お嬢さん』は『永すぎた春』と同様にヒロインの結婚をテーマにしたエンタメ作品で、『永すぎた春』の後日譚的な様相もあった[13]。若尾が、「私、かすみの役をやりたいわ」と言うと、「それでは、若尾ちゃんに映画化権をあげましょう」と三島は決めた[72][13][注釈 9]。

『からっ風野郎』が公開されてヒットした後、若尾は三島から「共演の記念に」として、高価なロココ調の椅子とテーブル、銀の燭台を贈られた[75][13]。その年1960年(昭和35年)の11月から三島は瑤子夫人と共に、アメリカやヨーロッパ、中東や香港を巡る周遊旅行に旅立ったが、その出発の直前に若尾に電話をかけ、「アメリカに行くんだけど、その前に若尾ちゃんと御飯が食べたい」と誘った[75][13]。

若尾は三島と一緒に港区芝公園の増上寺の前にあるフランス料理レストラン「ラ・クレッセント」で夕食を食べ、赤坂のナイトクラブでダンスを踊った[37][13]。三島のダンスはあまり上手ではなく強引にリードし、若尾も固くなっていたせいか、少し踊りにくかったと若尾は回想している[37][13]。

そして三島は、「若尾ちゃんとダンス踊って、御飯食べたから、これでぼくも心おきなくアメリカへ行けるよ」と、じっと若尾を見つめながら言った後に、例のごとく「わっはっは」と、いつもの哄笑をした[37][13]。若尾はその後1964年(昭和39年)に三島原作の映画『獣の戯れ』でヒロインを演じたものの、直に三島と顔を合わせる機会はなく、赤坂のナイトクラブでの三島の哄笑が若尾にとっての三島と会った最後の姿であった[37]。

1970年(昭和45年)11月25日の三島事件での三島自決のニュースを知った若尾は、昼食どころでなくなり、ショックで寝込んでしまった[37]。そして若尾は、三島がかつて自分に捧げたオマージュの文章を読み返した[37][13]。

人はどうしても、その氷いちごみたいな味覚に勝てないのである。このために彼女の人気は継続したが、同時に演技をみとめられるためには、ずいぶんマイナスになつたと思ふ。(中略)俳優は自分の顔と戦はなければならない。その顔が世間から愛されば愛されるほど、その顔と戦はなければならない。若尾文子はそれと戦つて、立派に勝つた。(中略)映画界といふきびしい世界で、雑草のやうな生活力をもつことは、生きるための最初の条件だが、これからの彼女には、豊かな、潤ひのある、おほらかな世界がひらけて来なければならぬ。人間同士の醜い競争などに心を煩はされない世界が。
— 三島由紀夫「若尾文子讃」[19]
三島の死後、若尾は1988年(昭和63年)10月に日生劇場の舞台で、三島の戯曲『鹿鳴館』のヒロイン朝子を演じた[13]。三島没後35年の2005年(平成17年)には映画『春の雪』で月修寺門跡を演じた[13]。若尾にとって18年ぶりの映画出演だった[13]。この映画を企画した藤井浩明は、この役は若尾しかないと決めていた[76][13]。

エピソードなど
映画が公開されると、三島は浅草の映画館に出向き、もぎり係の女の子に愛想を言ってさりげなく客の反応を聞き出したり[14]、新宿の映画館では、メーター(観客数のカウント)をやっていたが、三島はそれを信用できず自分でやらないと気が済まなくなり、入口で自から客の入りを勘定したりしていた[14]。

さらに五反田の映画館には、家族一党をぞろぞろと引き連れて行ったため、三島に気づいた支配人が特別待遇で招き入れようとしたが、自前で人数分の切符をわざわざ買って入場していた[14]。周囲の友人らはしまいには「何回見れば気が済むのだろう」と呆れていた[14]。

評論家たちから下手な演技だと酷評される嵐の中、三島は草壁久四郎の高評価をとても喜び、それ以来、「映画評論家のなかでは、草壁が最高だ」と、友人の講談社の編集者・川島勝など周囲にふれ回り、大変な気の入れようだったという[14][21][11]。

草壁久四郎と三島はそれまで一面識もなかったが、とある会でその後三島と出会って紹介された時、「いやあなたには感謝してますよ。なにしろぼくの演技を評価してくださったのはあなた一人でしたからね」と言われて恐縮し、照れてしまったという[77][11]。それをきっかけに草壁は三島と親しくなり、草壁がプロデュースした映画の上映会を三島は知人の石川六郎邸で私的に開いている[78][79][11][注釈 10]。

初めての映画主演の経験により、三島は同年の11月に短編小説「スタア」を雑誌『群像』に発表している[80][14]。この小説は現場で感じた「映画撮影の逆説的技術の面白さ」から着想されたもので、実際の映画現場を具体的に描いたものではなく、映画スターという存在についての「一種の観念小説」となっている[81][80]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%A3%E9%A2%A8%E9%87%8E%E9%83%8E

6. 2020年9月12日 08:34:52 : yfVFU2YMo2 : eFFQYXluUmtGaXM=[6] 報告

映画「からっ風野郎」 三島由紀夫&若尾文子
2015-09-27

映画「からっ風野郎」は三島由紀夫主演で東大の同窓増村保造がメガホンを取った昭和35年(1960年)の大映映画だ。


三島由紀夫はこの当時すでに流行作家となっていた。その三島を主演にして、増村が監督する映画が企画された。三島はインテリ役だけは勘弁ということで、自らヤクザの役を買って出る。出所間もないヤクザの跡とりが抗争相手の組と争うという話に、若尾文子、水谷良重という女優陣をからませる。

正直映画自体は三島由紀夫の大根役者ぶりが目立ち、増村保造がメガホンを取ったとはいえ普通の作品だ。でも映像から昭和35年当時の世相がよく見え、三島の暴れん坊ぶりがハチャメチャで興味深く見れる。実際客の入りはよかったという。


朝比奈一家の二代目武夫(三島由紀夫)は傷害事件を起こし、2年7カ月刑務所に入っている。出所というその日に面会者が来たが、所内のバレーボール大会の途中だったので、朝比奈の番号をつけた服を着た代理の人間に出てもらった。面会者はいきなり「朝比奈だね」と拳銃の引き金を引く。まったくの人違いでかろうじて難を逃れる。
朝比奈一家の大親分(志村喬)と舎弟(船越英二)が出所祝いに車で刑務所へ向かう後を、殺し屋を向けたヤクザ相良商事の社長相良(根上淳)が追う。相良を刺したために朝比奈は刑務所に入っていたのだ。襲撃を恐れた朝比奈は護送の警察車で身内をもだましながら出所して逃げていく。


朝比奈はすぐさま情婦のクラブ歌手昌子(水谷良重)に会った。すぐさま朝比奈は昌子を抱くが、男にもらったと思われる高価なネックレスを見て、それをもぎ取り、彼女と手を切る。朝比奈は逢引きした映画館を根城にしようとするが、そこでもぎりの芳江(若尾文子)に出会う。

芳江は町工場でストライキをおこしている兄(川崎敬三)に弁当を届けにいったが、スト鎮圧に来ていた警察に誤ってブタ箱に入れられる。そうしているうちにも相良一派は殺し屋ゼンソクの政(神山繁)を使い朝比奈を狙っていた。政は銃弾を放ったが、かろうじて急所からはずれ朝比奈は逃げ切る。ブタ箱からでてきた芳江はもう一度雇ってくれと頼みこんで来たので、朝比奈は思わず抱いてしまい自分の女にする。そしてデート中に相良の娘を偶然見つけ誘拐し相良をおどす。大親分の南雲(山本礼三郎)が仲介に入って、痛み分けになるが、相良も黙ってはいない。朝比奈といい仲になった芳江の兄を人質にするのであるが。。。

1.三島由紀夫
昭和32年姦通小説「美徳のよろめき」が大ベストセラーになったあと、昭和33年に結婚している。昭和34年に長編小説「鏡子の家」が出版されたあとでの映画出演である。昭和30年から始めたボディビルで身体を鍛えているので、この映画ではすでにワイルドな風貌にはなっている。それだけにあえてインテリでなく、アウトローの役をやりたがったのであろう。DV丸出しで何回も若尾文子を殴っているんだけど、いかにもウソっぽい動きだ。キスまで疑似である。そういうのを見ていると非常に物足りなくなってくる。


でも最後に銀座三愛で暴漢に襲われるときに昇るエスカレーターに倒れるシーンがある。これだけは妙にリアルだなと見ていたら、なんとこのシーンで大けがをしたという。増村保造の過激な演技指導にそそのかされ、ちょっと無理をしたんだろうなあ。再度撮影するときは永田ラッパ社長も立ち会ったそうな。

2.若尾文子&水谷良重(現水谷八重子)
若尾文子が普通に見える。昭和35年といえば、前後に「浮草」「ぼんち」なんて作品を撮っている。いずれも好きな映画だ。そこで見るスタイリッシュな着物姿は色のセンスもよく引きたってみえる。普通に見えるのは単にアカぬけない洋装だからのせいだろう。


水谷良重は当時21歳でクラブ歌手の役である。「バナナの歌」をうたっている。体格がよくグラマラスな感じが素敵だけど、歌は音痴で、ルックスもまだ今一つだ。山本富士子主演「夜はいじわる」にも出ていたけど、大映に縁があったのかな。母親のあとをついで今も新派の女王だ。本拠地新橋演舞場をはじめとして、幅広く現役で舞台勤めをしているのは両親守田勘弥、水谷八重子からの強いDNAを感じる。

3.山本礼三郎
黒澤明の名作「酔いどれ天使」で三船敏郎とともに強烈な印象を残すのが山本礼三郎である。あの凄味のある表情は明治生まれがもつ迫力だ。刑務所から戻ってきて、三船演じるヤクザの縄張りも木暮三千代演じる情婦も奪っていく。最後の2人の格闘は映画史に残る悲愴なシーンだ。この映画では枯れ切ったヤクザの親分だ。これはこれですごい。現代映画界にこの手の顔が少なくなっている気がする。


4.ヤクザと企業
若尾文子演じる芳江が組合でストライキ活動をしている川崎敬三演じる兄を訪ねていくと、運送業者のトラックに乗ったヤクザが一斉に押し掛け、ストライキの妨害をする。そこへ警察が来てストライキに関連する人を検挙する。こういうぶち壊し屋の存在は今では考えられないことだ。60年安保の時は安保反対派の鎮圧のために、右翼と暴力団がぶち壊しに雇われたという話は聞いたことがある。裏社会なしでは物事が解決しなかったわけだ。

暴対法が成立したために、逆に準暴力団的チンピラ組織がのさばるようになったなんて記述はよく見る。たしかに一般の会社では、反社会組織に対する意識が非常に強い。少しでもクロとなると、弁護士名で取引をしない旨の書面を送ったりすることもあるようだ。今は暴力団の脅迫も少なく良くなったと思うが、このころの映画を見ると、反社会的な人がうまく立ち回るものも多い。うーん、戦後のどさくさを引きずるすごい時代だ。

5.五反田の原風景
映画を見はじめてすぐに、五反田駅すぐそばの目黒川にかかるガード下の映像が出てきて驚く。カメラ位置がガード下で、目黒川を大崎橋に向かって映す。自分が持つこのころの写真は白黒なので、カラーの映像でなくなった飲み屋「赤のれん」を映しだすと背筋がゾクッとする。京浜ベーカリーは残念ながら見えない。実はこのカメラ位置のあたりにある産婦人科で私は生まれた。今はラブホに代わっているけど。

どうでもいい話だけど、佐藤俊樹「不平等社会日本」という社会学系の新書で、著者が「自分は生まれた病院を知らない」むしろ「本人は知らないのは当たり前だ」といっている。これって変じゃないかな?自分の生まれた場所って知るべきだし、知らないあんたの方がおかしいんじゃないのと思った。今や別の人に売られて姿を変えているけど、自分にとっては重要な場所だ。
(昭和36年の五反田東急方向からの写真、富士銀行の手前が大崎橋)


1 コメント

元は裕次郎のための脚本だそうです (さすらい日乗)
2016-06-20 10:36:00
この脚本は、三島由紀夫の小柄に合わせ競馬の騎手の話で、八百長のことだったそうです。ところが当時馬主協会の会長だった永田雅一の反対でだめになり、再度脚本を探した。
すると菊島隆三が裕次郎用に書いたのがオクラになっていることを思い出し、急きょ書き直したそうです。

三島由紀夫のコンプレックスのことを良く描いていると思う。
孤独で船越英二だけが唯一の友人というのは、非常によく三島由紀夫の孤独さを表現していると思います。

https://blog.goo.ne.jp/wangchai/e/47279bc82a94a1bfd5c1fca1ff09a7bb

7. 中川隆[-10618] koaQ7Jey 2020年10月25日 08:36:12 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[9] 報告
モーリス・ベジャール『M』解説:三島由紀夫という「起源」
2020-10-25
http://blog.tatsuru.com/2020/10/25_0808.html


東京バレエ団が三島由紀夫没後50年を記念して、モーリス・ベジャール振付、黛敏郎作曲の『M』を上演した。公式パンフレットに寄稿を依頼されたのでDVDで最初の公演の映像を見て、次のような文章を寄せた。

 三島由紀夫は「三島由紀夫」というヴァーチャル・キャラクターをきわめて精密に彫琢したことで作家として奇跡的な成功を収めた。

 もちろん、どんな作家も、程度の差はあれ、謎めいた「虚像」を読者の前に掲げることでその作品の魅力を上積みしている。別に作家自身が仕掛けなくても、読者や批評家たちが進んで「虚像」を作り込んでくれる。それは作家が凡庸で世俗的な人物であるよりミステリアスな存在である方が読者の快楽が強化されるからである。作家にいくつもの相貌があり、いくつもの地層があることを私たちは読者として素朴に願う。だから批評家たちの主務は「この作家は諸君の知らない一面を隠し持ち、諸君が気づかぬ屈託や欲望を抱え込み、諸君が見落としているメッセージをひそかに発信している」という仮説を提示することになるのである。それは「謎解き」というよりはむしろ「謎をふやす」ことに等しい。批評家の仕事は実はそれなのである。それが作品の魅力を増し、読者を引き寄せ、出版社の売り上げに結びつく限り、作家と批評家はある種の「共犯」関係にあると言ってよい。

 三島由紀夫の独自性はそのような共犯関係を峻拒したことにある。三島由紀夫は批評家や読者によって「謎解き」をされることも、作家の許可なしに勝手に「謎を加算されること」も、どちらも拒絶した。その拒絶の仕方はまったく独特のものだった。

 彼は自分にまつわるすべての「謎」を最初から自作したのである。これから先、彼の死後も、自分に関して「解かれたり、付加されたりする」であろうすべての「謎」を批評家に先立って網羅的にカタログ化し、それを「決定版」として残そうとしたのである。

よくこんな不思議なことを思いつくものである。それは三島の作家的矜持のなせるわざであったと同時に彼の超絶的な知性が切望したものだったと思う。「そのようなことをなしうる作家は文学史上私以外にいない」という圧倒的な自負が三島由紀夫を「三島由紀夫を造形する作業」に駆り立てたのだ。

『仮面の告白』について三島自身はこう書いて、自らのテクスト戦略を明かしてみせた。

「多くの作家が、それぞれ彼自身の『若き日の藝術家の自畫像』を書いた。私がこの小説を書かうとしたのは、その反對の欲求からである。この小説では、『書く人』としての私が完全に捨象される。作家は作品に登場しない。しかしここに書かれたやうな生活は、藝術の支柱がなかったら、またたくひまに崩壊する性質のものである。従ってこの小説の中の凡てが事實に基づいてゐるとしても、藝術家としての生活が書かれてゐない以上、すべては完全な仮構であり、存在しえないものである。私は完全な告白のフィクションを創らうと考へた。」(「『仮面の告白』ノート」)

「『書く人』としての私」とは実在の平岡公威のことである。彼はそれが「完全に捨象される」ような私小説を書くことで、その小説の作家として作品のあとに登場してくる三島由紀夫という、「完全な仮構」「存在しえないもの」を虚空のうちに造形したのである。

 わかりにくい話で申し訳がないが、そんな変なことを考えて実践した作家は三島以前にも以後にもいないのだから、話がわかりにくくなるのは仕方がない。
 作家は作品の前にいるのではなく、作品の後に、事後的に、仮構された起源としてはじめて登場してくるという知見自体は三島の創見ではない。モーリス・ブランショはこう書いている。「作家はその作品によってはじめて自己を見出し、自己を実現する。作品以前に作家は自分が誰であるかを知らないばかり、存在しさえしないのだ。彼は作品に基づいてしか存在しない。」(『文学と死ぬ権利』)

 三島由紀夫はその作品が書かれる前には存在しなかった。平岡公威は三島由紀夫に命を吹き込み、三島由紀夫という作家に「作品の起源」の座を譲るという仕方で姿を消した。後に残されたのは三島由紀夫という「あたかも全作品の創造主であるかのように仮構された被造物」である。三島由紀夫についてのすべての「謎」もまた「三島由紀夫の謎」として計画的に製作されたものなのである。作品だけでなく、彼が造型した肉体にも、写真や映像にも、政治的行動にも、三島由紀夫の日常生活の挙措のすべてに、目を凝らして見れば「製造元・三島由紀夫 不許複製」という刻印が押されている。それはもはや「書く人」のいない完全な虚構であり、それゆえ完全な芸術だったのである。

 だから、三島由紀夫の全生涯をいくつかの特権的な図像的主題に凝集させてバレエ作品に仕上げるというモーリス・ベジャールの仕事も、三島の生涯をいくつかの特徴的な音楽的主題にとりまとめるという黛敏郎の仕事も、二人のクリエイターに「これは三島という巨大な存在を切り縮めることにはならないだろうか?」という不安をもたらすことはなかったと思う。むしろ、これは二人にとって心楽しい作業だったはずである。それは「三島由紀夫という主題」を選定して、いくつかの特権的な主題や言葉や図像にとりまとめ、「これが三島由紀夫だ 決定版」カタログをあらかじめ作り置きしておいたのは作家自身だったからである。

 ベジャールも黛も、「三島が作り置きした三島由紀夫についての物語」に忠実に準拠してそれぞれの作品を創り上げた。この仕事は「死せる三島と共同作業をしている」という高揚感を彼らにもたらしたはずである。そして、それこそが三島由紀夫からの後世への気前の良い贈り物に他ならなかったのである。

 モーリス・ベジャールはみずから解題して、「M」は「謎(mystère)のM」だと語った。「Mが何を意味するかは誰も知りません。ですから、ひとりひとりの観客は物語の意味を、自分にとっての神話(mythologie)を自分自身で見出さなければなりません。」

 ベジャールはにこやかにこう語った。このような言葉は「『M』を見た観客たちは物語の意味を、自分にとっての神話を必ず見出し得るであろう」という自信なしには出てこない。ベジャールが自信を持っているのは、自分が独特の三島解釈を下したわけではなく、三島自身が手ずから創り上げた「三島解釈」に忠実に従って振り付けたことに確信があるからである。そうである以上、仮に三島由紀夫が冥界から甦ってこの舞台を見ても、きっと深く満足して破顔一笑するに違いないという自信がベジャールにはあった。

 死んだあとでさえ、三島由紀夫については、誰にも謎解きすることも、謎を付加することも許さない。その死せる作家の強烈な意志がこの舞台をすみずみまで貫いている。そのような法外な意志を死後半世紀のちにまで貫きとおすことのできた作家を私は文学史上三島由紀夫の他に知らない。

http://blog.tatsuru.com/2020/10/25_0808.html

8. 中川隆[-9615] koaQ7Jey 2020年11月25日 09:05:16 : Hcybxt2cKE : T3FMVEYuT2xielU=[4] 報告
三島由紀夫事件、警察は事前に「計画」を知っていたか 三島氏の友人が語った真実
2020年11月25日掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/11250556/?all=1


前代未聞の事件

 大きな事件が起きた時に、一定の割合で出てくるのが「実は事件には裏があって……」という解説である。オウム真理教の起こした事件では「実は公安はある程度察知していた」という説が唱えられていた。また近年では薬物事件で芸能人が逮捕されると「政権の目くらましだ」という説がネット上で流布された。多くの場合、これらは「陰謀論」と片付けられるのであまり相手にされない。

速報眞子さま「お気持ち」から消された「年内に入籍」の文字

 ではこの事件の場合はどうだろうか。

 誰もが知る有名作家が突如、自衛隊の本丸で人質を取って立てこもり、自衛隊員にクーデターを呼び掛けた末に割腹自殺を遂げた――半世紀前、1970年の11月25日に起きた三島由紀夫事件は今なおさまざまな形で語り継がれている。小説や映画をはるかに超える展開に、当時の人々が強い衝撃を受けたことは想像に難くない。

 世界的な評価をすでに得ていた三島氏だけに、事件は海外でも大きく報じられたという。現在でも有名人の犯罪はさまざまあるが、多くの場合、薬物事犯や傷害、婦女暴行といったもので、国家転覆まで視野に入れたものは前代未聞かつ空前絶後だろう。そのため当時から現在に至るまでこの事件を扱った書籍や番組などは数多くある。

 事件から50年目となる今年、刊行されたのが『三島由紀夫事件 50年目の証言』(西法太郎・著)。同書のサブタイトルは「警察と自衛隊は何を知っていたか」。つまり「何かを知っていたのではないか」が著者の問題意識ということになる。冒頭に触れたように、この種の説は陰謀論扱いされがちである。

 しかし、著者の西氏は決して想像や妄想、あるいは単なる推理を開陳しているわけではない。膨大な三島事件裁判資料を精査し、さらに関係者から貴重な証言を得たうえで、「何かを知っていたのではないか」と問いかけているのだ。以下、同書をもとにこの点を見てみよう(引用はすべて『三島由紀夫事件 50年目の証言』より)。

「極左に天下を取られる」
 同書で引用、紹介されている証言は数多いが、中でも注目すべきは佐々淳行氏への独自インタビューだろう。あさま山荘事件などの警備担当者として、また初代内閣安全保障室長として知られる佐々氏は当時、警視庁人事課長。生前の三島氏と深い親交があった。にもかかわらず、佐々氏の数多くの著書では三島氏についての言及はほとんど見当たらない。

 その理由を西氏に問われた佐々氏はこう語っている。

「武士の情けです。書けばいろいろさしさわりがある。こうやって訊かれれば答えます(略)。そろそろ話してもいいかなと思ったのです」

 もともと三島氏と知り合ったのは、佐々氏の姉が三島氏の妹と同級生だったことがきっかけだったという。それが縁で三島氏の家に出入りするようになったのだ。佐々氏はまだ大学生、三島氏はまだ大蔵官僚だった。若き日の恋愛に関する話題も出てくるこの頃のエピソードも佐々氏は語っているがここでは割愛しよう。

 その後、佐々氏は警察庁の前身組織に入る。三島氏のほうは作家として人気を博していく。両者にはさほどの接点はないようだが、実は親交は続いていた。

 三島氏が1964年に発表した作品『喜びの琴』の主人公は公安刑事である。この作品に佐々氏は密かに協力していたという。

「ずっと秘密にしていたのですが、私はあの作品の取材に全面的に協力して職場のことを話した。三島さんは夜電話をかけてきて、1時間でも2時間でも切らない。脚本原稿を送ってきて、それも見てあげた」

 それ以外にも作品に協力をしたことがある、と佐々氏は打ち明けている。その関係性から、三島氏の思想が徐々に過激な方向に進むのを目の当たりにしていた。1967年にはこんなふうに言われたという。

「このままでは日本はダメになる。ソ連にやられる。極左に天下を取られる。自衛隊ではダメだ。警察もダメだ。闘う愛国グループをつくらなければいけない。自分は国軍をつくりたい。日本に戻ったら一緒に手を組んでやろう」

 これに対して、佐々氏は「私兵創設よりも、オピニオン・リーダーとして警備体制強化に協力してほしい」と諫(いさ)めたという。


「玩具の兵隊ですね」
 が、その後も三島氏の危機感は高まるばかりだった。

「楯の会の打ち合わせに呼ばれて、制服のデザインや生地を見せられたことがあった。私兵づくりに協力するわけにはいかないから、大したアドバイスはしなかった。機動隊を管轄する警備課長の時期、2回、三島邸に招かれた。都内で毎日ドンパチやっているのに、三島邸で優雅にお茶をするのもはばかられたんだがね(略)。

 2回目の訪問時、『立派ないいデザインの制服ですけど、玩具(おもちゃ)の兵隊ですね』と言ったら、三島さんはかなり怒ってしまった」(佐々氏)

 三島氏の過激な思想、発言は多くの人の知るところだった。当然ながら「楯の会」は公安のマーク対象ともなる。そのことは佐々氏も認めているが、一方で「警察は三島さんが直接行動に出るとは予想だにしていなかった」という。「楯の会はマークしていたが、三島氏個人のマークはしていなかった」とも証言している。

 これはいささか矛盾した話である。楯の会の幹部らをマークすれば必然的に三島氏をマークすることにもなる。それで本当に事件を察知できなかったのか。

上層部の計算
 さらに西氏が着目したのは事件直前の人事異動だ。佐々氏は事件2カ月前に機動隊をつかさどる警備課長から、人事課長に異動になっていた。三島氏が決起したら、佐々氏は友人を逮捕する立場になってしまう。もちろん、実際には「直接行動」には出ないかもしれない。しかし万が一、何らかの事件を起こしたら……そんな事態を避けるための人事だったのではないか。

 この問いに佐々氏はこう答える。

「それは穿(うが)ちすぎです。人事課長への異動は栄転です。それまでの功績への評価です。前任者は4、5年上だった。もし私が警備課長だったら、機動隊を出動させていません。自衛隊に自分で処理させた」

 しかし、いくつもの傍証を挙げつつ、やはり警察の一部はある程度三島氏らの計画を知っていたのではないか、と西氏は述べている。

「佐々は『穿ちすぎです』と私の疑念を一蹴した。しかし警察上層部は本人に知らせずそう計ったのかもしれない」

 佐々氏は事件翌日から、三島氏の遺族らと頻繁に連絡を取っていたという。警察官僚としてではなく、友人として、だ。どこまで現実の行動に移すかは別として、事件が起きた際に、そういう近い人間が捜査の現場にいるのはまずい、という計算を上層部がしても不思議ではない。

 佐々氏の証言は同書のごく一部であり、西氏は埋もれていた裁判資料などから事件の全貌に迫っている。そこには陰謀論とは一線を画した説得力がある。

 むろん、「何かを知っていた」というのは一つの仮説にすぎない。しかしながら、数多くの関係者の証言は、少なくとも三島事件が突発的、衝動的な行動の産物ではないことを示している。

9. 2021年5月20日 16:57:50 : CRvOLi4Tn2 : RU8zRi8vbTJzMmc=[21] 報告
三島由紀夫の強烈な影響と、『日本国民党』鈴木信行と『国体文化』金子宗徳
ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=9245

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